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バロン吉元『柔侠伝』シリーズ

2009年12月18日 03時36分30秒 | 自選 文学篇




       バロン吉元『柔侠伝』シリーズ

 
 昔、
 バロン吉元、
 という名の漫画家が、いた。

 他にはたいした作品を描かなかったが、
 たった一つ、
 『柔侠伝』、『昭和柔侠伝』、『現代柔侠伝』というシリーズを残し、
 やがて、
 僕たちの視界から、消えた。

 ネットで見ると、
 今、
 どっかの私大の教員らしいが、
 そんな今の姿には、僕は、興味もない。


 九州の小島の、不遇な武闘家の子、柳勘九郎、
 その息子柳勘太郎、
 そして孫柳勘一、
 天才的柔道家三代の生きざまを描いて見せた。

 やくざの男三代の生きざまを描いて若者から受けた、
 本宮ひろ志の『男樹』などとは、
 同じ男三代記であっても、
 本宮ひろ志には、悪いが、
 天と地ほどに違った。

 本宮ひろ志の作品群には、
 処女作の『男一匹ガキ大将』から、
 大評判の『サラリーマン金太郎』まで、
 必ず、
 オーバーアクションとでも言えばいいのか、
 ある種の「はったり性」が散りばめられていて、
 僕は、
 どうしても、高く評価する気になれない。
 本宮の作品には、「清涼剤」以上の意味は与えられない、
 と思う。


 世の文進歩派化人たちは、
 あの時期、
 つまり、
 1970年前後の漫画(当時は、もったいぶって、劇画、と呼んだ)というと、
 白土三平の『カムイ伝』を、ことさらに絶賛するが、
 僕は、
 『柔侠伝』シリーズは、
 それに負けない質を保持した作品である、
 と評価してきた。

 白土三平の登場人物たちが、
 理念が人の姿を借りたよう、
 であったのに対して、
 バロン吉元の登場人物たちは、
 理念が人の肉体に溶け込んだよう、
 に描かれていて、
 その点では、
 白土三平よりも、バラン吉本の方が、上質であった、
 と思っている。

 それと、
 『現代柔侠伝』での安保闘争期の世相の描き方は、秀逸だった。
 気取らず、気張らず、気後れせず、
 ただ淡々と、
 <反体制>を生きる人々の、
 情熱と、韜晦と、無念を、
 描き尽くしていた、
 ように、
 僕は思う。


 祖父の柳勘一が、文盲の柔術家、
 息子の勘太郎が、馬賊崩れの飛行士、
 孫の勘一が、三流私立大学の学生、
 といった風に、
 主人公は、
 その時代時代の、市井に生きる、体制への反逆児、
 と、設定されていて、
 バロン吉元の、生活姿勢と、
 庶民への、「山田洋次的ではない愛情」を感じさせられた。


 このシリーズを耽読していた頃の僕は、
 反体制気運衰退期の、
 地方大学の不良学生で、
 学校には行かず、
 先輩の下宿の本棚に並んでいるこの単行本を、
 何度も、何度も、読み返し、
 <自由>を生きる人生を夢想していた。

 いま、
 こんな放浪生活に身を任せていて、
 あの多情多感な主人公たちに、
 立場だけは似てきたかな、
 と、
 苦笑することがある。


 主人公の男も良かったが、
 出てくるヒロインたちが、
 これがまた、
 実に、魅力的だった。

 最初の女(柳勘九郎の女)の名は、忘れたが、
 その後は、
 麻子、
 茜、
 と続く。

 最初のヒロイン二人は、
 東北弁丸出しの女で、
 タバコは吸うし、大酒も飲む、
 といった描かれ方をしていて、
 ユニークだった。

 後の話だが、
 孫の勘一が、ヒロイン茜を、
「茜ちゃん」
 としか呼べないように設定されていて、
 別れた細君を、呼び捨てで呼んだことのない僕は、
 勘一に、一層の親近感を覚えたのであった。

 うん。
 どうせ別れるのだったら、
 一度くらい、妻を呼び捨てで呼んでおけばよかったな。
 僕も、
「ねえ、XXちゃん」
 だったもんな。


 最初二人のヒロインのような女性像は、
 理念的漫画家白土三平には、
 生涯、描きようもなかった。


 昭和50年代当初、
 『赤色エレジー』をうたったあがた森魚が、
 このシリーズのイメージソングを作って、
 緑魔子という女優と、デュオをやった。
 『昭和柔侠伝 最后のダンスステップ』
 という歌だった。


   あなたなんだかおセンチね もうすぐ外地におでましね
   私も最后のパーマネント この髪乱して踊りたい

   踊ろうか
   踊りましょ
   せめて今宵限りでも


 といった乙女チックな歌詞で、
 曲はレトロ、
 悪女の似合う緑魔子が、柄にもなくかわいい声を出していて、
 なかなか、よかったが、
 全然、流行らなかった。

 それが、
 僕には、
 とても、
 残念だった。


 この漫画の単行本は、全巻揃えていたが、
 米屋をやって、
 ある時期、貧乏になった時、
 蒲田の古本屋に、
 全巻5000円でたたき売り、
 まだ中学生の息子と、食事に行った。

 僕の息子の食事代にかわるなら、
 バロン吉元も、
 柳勘九郎、勘太郎、勘一も、
 きっと、笑って許してくれるだろう、

 と思った。

http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_441d.html

その後の柔侠伝




 バロン吉元「柔侠伝」シリーズは、明治から現代まで続く、柔道家・柳家四代の男たちの物語。1970年週刊漫画アクションに連載開始。「柔侠伝」「昭和柔侠伝」「現代柔侠伝」「男柔侠伝」「日本柔侠伝」と描き続けられ、1980年に連載終了。まさに1970年代を代表する名作でありました。現実の歴史と離れてからの末期の展開はちょっとアレでしたけど。

 歴史に翻弄されつつ歴史にあらがい、権力に立ち向かう、主人公たち。あがた森魚/緑魔子「昭和柔侠伝の唄」なんてのもありました。覚えてます?

 どんだけ人気があったかというと、わたしの友人(←べつにオタクじゃないです)は、自分の子どもに柔侠伝の登場人物の名前をつけちゃったくらい。

 今年になってオンデマンドで出版されるとアナウンスされましたが、「柔侠伝」と「昭和柔侠伝」は昨年発売されたコンビニ本がまだ手にはいるためか(アマゾンにもあります)、今はオンデマンド版は販売休止になってるみたいですね。

 さて、連載終了から20年。2000年になって、リイドコミックに「新柔侠伝」が連載されました。これにはもう、おおっと瞠目かつ刮目したわけですが、残念ながら、単行本二巻で終了。これがどういうお話だったかといいますと。

 主人公は大学三年生の柔道世界チャンピオン、日向遙です。宿敵は幼なじみでもある真武会空手の鳴神紫苑。鳴神のバックには日本の政財界を牛耳る暁光グループがいます。国家権力と結託し、暴力行為で業績を伸ばしてきた世界的コングロマリット。男柔侠伝、日本柔侠伝でもこいつらが悪役でした。男柔侠伝のラストで勘一に倒された斬心流空手の黛環、の息子なんてのも登場します。

 日向遙に接触したのが、「世界じゅうに散らばって地下組織として国際的破壊活動を行っている」と敵からは言われちゃってる梁山泊グループであります。柳勘一が組織した梁山泊の生き残りですね。その総裁は、ビッグエックスと名のる総髪でサングラスの男。車イスで脚が不自由。額の傷を見ると、正体は柳勘平らしい。日本柔侠伝のラストではまだ子どもだったのに、ずいぶん年とっちゃったなあ。

 日向遙は梁山泊に協力して、暁光グループやその手先の暴力と戦うことになります。ところが、さあこれからというところで、オシマイ。ライバルとの戦いにも決着はつきませんでした。

 「新柔侠伝」の連載終了は2001年の春です。その後9.11が起こりましたから、反権力を標榜する梁山泊みたいな連中を主人公にするのは、なかなかむずかしい時代になってしまいました。

http://kunyon.com/shucho/110829.html

「楯の会」も連合赤軍も夢中になった「柔侠伝」!

①初めにマンガありき、だよ。革命運動は

小林よしのりさんと(8/23) 小林よしのりさんと(8/23)

だから、何度も言ってるように、あの時代の学生運動は「マンガ」だったんです。マンガが一番、影響を与えていた。

別に馬鹿にしてるわけではない。だって、1970年3月の「よど号」ハイジャックを見たらいい。赤軍派の9人は、「我々は“あしたのジョー”である!」と言い残して、北朝鮮へ行った。又、白土三平や赤塚不二夫や手塚治虫のマンガにモロに影響を受けていた。

白土三平の『カムイ伝』『忍者武芸帳』から唯物史観を学んだ学生は多かった。さいとうたかをの『ゴルゴ13』で国際情勢を学んだ、という人も多い。「人生に必要なことは全て『ゴルゴ13』に学んだ」と言う人もいた。

又、新左翼の人達は本名を名乗らない。権力から身を守るために組織名を名乗る。コードネームというと、スパイ映画のようだからと、「ペンネーム」と言った。そのペンネームは、ほとんどがマンガの主人公だった。

高田延彦さんと(8/23) 高田延彦さんと(8/23)

乱闘も、国際情勢も、仲間のつくり方も、異性との付き合い方も、全て、マンガから学んだ。マルクスやレーニン、トロツキー、毛沢東からではない。マンガから学んだのだ。

ハイジャックの意味も知らないでハイジャックをして、人質の日野原さんに教えられたり…。

東京戦争・大阪戦争などと名前だけは日本の内戦だし、革命だが、実際はチャチなものだった。「日本のレーニン」と言われた人もいたが、今はただのお爺さんだ。マンガだ。全てはマンガだ。

勿論、右翼もマンガは読んでいた。でも、左翼と比べると、右翼の方が真面目というか、融通が利かない。ユーモア精神がない。

でも、バロン吉元の『柔侠伝』は右翼学生に人気だった。又、左翼学生にも人気だった。これは週刊『漫画アクション』に、1970年(昭和45)6月11日号から連載が始まる。

そうか。「よど号」があって、その3ヶ月後だ。僕は産経新聞に勤めていた頃だ。元「楯の会」の阿部勉氏のアパートに居候していた頃だ。右派学生運動の内ゲバがあり、私は追放され、実家の仙台で鬱屈していたが、1970年4月に産経新聞に入社し、久しぶりに上京した。

前田日明さんと(8/15) 前田日明さんと(8/15)

その時、渋谷で偶然に、阿部勉氏に会った。「これからアパートを探さなくてはならん」と言ったら、「見つかるまで僕のアパートにいて下さいよ」と言う。

高田馬場で六畳二間に、もう1人、福田俊作(やはり、「楯の会」)と住んでいた。「楯の会」の溜まり場のようになっていた。結構居心地がよくて、半年以上いた。

そしたら、1970年11月25日に三島事件が起きた。部屋には祭壇が出来、「楯の会」の人間は、連日集まって、秘密の会議をしている。マスコミも押しかける。警察は張り込んでいる。これ以上、ここにいては迷惑をかけると思い、落合にアパートを借りて、引っ越した。それ以来、ずっと落合だ。

その三島事件から、私の周りの世界も激変する。阿部勉氏や、やはり学生運動の仲間の犬塚氏、四宮氏、田原氏、田村氏…などと共に、「一水会」をつくることになるからだ。

②あの「空白時代」に衝撃を受けたマンガだ!

サスケさんと(8/15) サスケさんと(8/15)

つまり、1970年(昭和45)の5月から11月の半年間は、不思議な半年間だった。活動家にとってのエアポケットのような時代だ。もう運動に戻ることはないと思っていた。多分、一生、サラリーマンだろうと思い、新しい環境に慣れなくてはと思っていた。

そんな時代に出会った、「運命のマンガ」が、バロン吉元の「柔侠伝」だ。

居候させてくれた阿部勉氏が薦めてくれた。「これはいい!」「面白いですよ」と見せてくれた。「漫画アクション」(双葉社)の70年6月11日号から始まっている。それ以来、欠かさず読んでいた。後に、単行本になった時も、全て読んだ。

「楯の会」の人達も皆、読んでいた。かなり後で分かったが、左翼の人達も読んでいたという。連合赤軍事件の植垣康博さんは、特に好きで、後に、出所してから、静岡に「バロン」と名付けたスナックを開店したほどだ。作者のバロン吉元からとったのだ。

だだちゃ豆を食べる だだちゃ豆を食べる

今、ここに、1冊の本がある。文藝春秋編『大アンケートによる 少年少女マンガ100』(文春文庫ビジュアル版)だ。1992年発行で、580円だ。これは、歴史的な本だ。「各界有名人が選び出した史上最も面白いマンガはこれだ!」と表紙に出ている。

まずは、10位までを紹介します。
1位「あしたのジョー」 高森朝雄原作・ちばてつや漫画2位「鉄腕アトム」 手塚治虫3位「サザエさん」 長谷川町子4位「火の鳥」 手塚治虫5位「少年王者」 山川惣治6位「忍者武芸帳」 白土三平7位「猿飛佐助」 杉浦茂8位「天才バカボン」 赤塚不二夫9位「少年ケニア」 山川惣治10位「巨人の星」 梶原一騎作・川崎のぼる作画
「各界有名人」というから、平均年齢が高いのだろう。だから、昔懐かしいマンガが勢揃いしている。今の10代、20代、にアンケートを求めたら、ガラリと変わるだろう。

でも、これが、学生運動世代に影響を与えたマンガだ。山川惣治は私も小学生の時、夢中になって読んだ。「猿飛佐助」もそうだ。でも、今の若者は多分、誰も知らないだろう。

③私の人生もマンガだった

「南京!南京!」上映とトーク(8/21) 「南京!南京!」上映とトーク(8/21)

さて、バロン吉元の「柔侠伝」だ。これは全体のアンケートでは30位になっている。でも私は、これを1位に選んだ。「各人のマイベスト」も載っている。

それがこの文春文庫の楽しいところだ。「鈴木邦男(一水会代表・48歳)」の「マイベスト5」がこう紹介されている。
1位柔侠伝 バロン吉元2位少年王者 山川惣治3位矢車剣之助 堀江卓4位沈黙の艦隊 かわぐちかいじ5位へび少女 楳図かずお
「少年王者」は日本版ターザンだ。アフリカ旅行中、子供が行方不明になり、ゴリラに育てられる。たくましく育ち、ジャングルの王者になり、大冒険をする。

これは、私の人生の原点になった、学生運動、右翼運動という「ジャングル」に生き、悪い猛獣たちに襲われながら、闘ってきた。私も「少年王者」だ。

「南京!南京!」の陸川監督と 「南京!南京!」の陸川監督と

「矢車剣之助」は時代劇なのに、とびっきり、奇抜なマンガだった。こんなの、ありえない!と思われるシーンの連続だった。

地面からいきなり城が出てくる。そして、武装集団が何万と現れる。二丁拳銃で主人公は大活躍する。拳銃を撃って、壁に絵を描いたりする。そんなに弾が続くのだろうか。時代劇なのに、気球は出てくる。飛行船は出てくる。城だって、飛ぶ。

こんな奇想天外な発想は、「バカな!」「バカな!」と思いながら、大人になってから、ヒントになっているのかもしれない。「少年王者」の志と、「矢車剣之助」の発想。それが私だ!それに「柔侠伝」のロマンと武闘だよね。

『少年少女マンガ 100』には、私のコメントも出ている。「わがマンガ人生」の総括だ。

宇賀神寿一さんと 宇賀神寿一さんと

〈子供の頃から一貫してマンガは読み続けてきた。それも、かなり真面目に読み続けてきた。ほのぼのとしたマンガやナンセンスマンガは、あまり印象に残っていない。マンガによって自分の生き方を考えてきたからかもしれない。勇気、優しさ、決断…すべてマンガから学んだようだ。
 学生時代からずっと民族派の学生運動を続けてきたのも、潜在意識の中にマンガの影響があったからだと思う。だから、僕の人生そのものも、かなりマンガ的だと(いい意味でも悪い意味でも)思う。学校で学んだことはすべて忘れても、マンガから学んだことは覚えている。マンガこそが僕の教科書だったかもしれない〉

④反逆の政治マンガだ!

9月2日(金)午後7時、ネイキッドロフトでやります 9月2日(金)午後7時、ネイキッドロフトでやります

そうか。だったら、学校の教科書も全てマンガにしたらいい。そうなったら、「愛国マンガ」と「反日マンガ」の闘いになるのかな。

さて、「柔侠伝」だ。これは、長い長いマンガだ。大河マンガだ。それに、主人公は柔道家だが、正義感が強い。時の権力者とも闘う。

柔道だから体制的だろうと思うかもしれないが、それはない。時には反体制であり、左翼的だ。誰かに似ている。だから、左翼学生も熱狂的に読んだんだ。何人かが、この「柔侠伝」へのコメントを語っている。私は…。

〈この後の「昭和柔侠伝」「現代柔侠伝」を含めて、これは大河ドラマならぬ大河マンガです。柳勘九郎、勘太郎、勘三郎の三代にわたる柔道家の目を通して見た日本の激動の歴史がビシビシと伝わってきます。胸を熱くして読みました〉

鈴木、植垣さん、バロン吉元さん 鈴木、植垣さん、バロン吉元さん

明治の末から大正、昭和と続く大河マンガだ。戦争もある。敗戦の混乱もある。砂川闘争、安保闘争もある。その中で、柔道家の主人公はどう考え、どう悩み、闘ってきたか。

「『柔侠伝』の主人公は人間本来のリアルな生活臭とさまざまな煩悩をもったマンガ史上初めての“柔”のヒーローなのです」とは作者の言葉。そんな主人公の行動ひとつひとつが好ましい、と文春文庫には書かれている。

私は「親子三代」だと思ったら、今、文春文庫を見たら、何と「五代」にわたる柔道家の物語だ。

初めは明治35年(1905)だ。100年以上も続く話だ。ともかく、明治38年、柳勘九郎は柔術家だった父・秋水の志を受け継いで、講道館柔道と対決するために九州から上京する。

しかし、柔術はすでに過去のものとなり、柔道の時代になっていた。そんな時、知り合いの女性を助けようとヤクザの大親分を殺害、監獄に入る。

TBS CSの「ニュースの視点」に針谷氏と出た TBS CSの「ニュースの視点」に針谷氏と出た

大正3年、出所後、天覧試合に出場。さらに満州(現・中国東北部)に渡り馬賊となる。その後、舞台は一気に昭和11年(’36)に飛び、勘九郎の子・勘太郎を主人公にして「昭和柔侠伝」、さらにその子の勘一、勘平の「現代柔侠伝」へと続く大河マンガだ。

何と五代にわたる柔道家の物語だ。それに彼らは均(ひと)しく反逆児であり、反体制的であり、左翼の運動を助け、権力者や右翼の悪い柔道家とも闘う。柔道家が主人公だが、「政治マンガ」だ。歴史マンガだ。敵である右翼柔道家だって格好いいし、格好いい言葉を吐く。それを読んで僕らも勉強した。

⑤左右に影響を与えたマンガですよ!

バロン吉元『柔侠伝』 バロン吉元『柔侠伝』

もう随分前になるが、1976年に、前野光保という青年が右翼の児玉誉士夫邸にセスナ機で突っ込み自殺した。ロッキード事件に抗議した死だった。

この時、阿部勉氏は一水会の「レコンキスタ」に「追悼前野光保君」を書いた。その時、前野氏の写真の下に、「大義は尊皇、道は忠」と大きく書かれていた。格好いい言葉だ。

前野氏の言葉なのか、あとで阿部氏に聞いたら、「いや、『柔侠伝』に出ていた言葉だ」という。敵役の右翼柔道家が言うのだ。敵役だが、やたら格好いいし、〈思想〉がある。こんな右翼になりたいものだと思った。

私は学生時代は合気道をやり、3段だった。しかし、『柔侠伝』を読んで、やはり柔道をやらなくてはと思った。そして、かなり後になって、講道館に入門した。今、3段だ。格闘技によって教えられたことは多い。そのスタートになったのが、「柔侠伝」だと思う。

さて、9月2日(金)は、その「柔侠伝」について語ります。最も影響を受けた左右の2人。連合赤軍の植垣さんと、元右翼暴力学生の私だ。そして、「柔侠伝」の作者・バロン吉元さんを迎えて、戦後昭和史を語ります。さらにこの日は、他にもスペシャルゲストが登場いたします。お楽しみに。

〈あの全共闘時代、右も左も「柔侠伝」を読んでいた!柔侠伝で描かれる時代背景は一体何だったのか?〉

と、ロフトの案内には出ています。今週の金曜日(9月2日)夜7時からです。私も楽しみです。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%AC%E5%8B%9D%E5%89%87

秋本勝則





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獲得メダル


日本の旗 日本


男子柔道


世界柔道選手権大会

銅 1975 ウィーン 軽中量級

秋本 勝則(あきもと かつのり)は熊本県牛深市出身、元日本代表の柔道選手である。1975年世界柔道選手権大会の軽中量級で銅メダル、1978年の嘉納治五郎杯東京国際柔道大会で優勝している。



目次 [非表示]
1 経歴・人物
2 人物
3 戦績
4 家族
5 脚注
6 外部リンク


経歴・人物[編集]

牛深市立牛深中学校卒業後、柔道の名門である鎮西高等学校、拓殖大学に進学。現役時代の階級は軽中量級(65kg級)。現在は熊本県宇城市(旧松橋町)で秋本整骨院を経営している。

人物[編集]

バロン吉元作「現代柔侠伝」の主人公柳勘一のモデルといわれており[1]、柔道の強さに反して人情味溢れる物腰の柔らかい人柄で、慕う大学の後輩も多い。

戦績[編集]
1972年 - 全国高等学校柔道大会 中量級2位
1973年 - 全日本ジュニア柔道体重別選手権大会 軽量級(65kg)優勝
1974年 - 全日本選抜柔道体重別選手権大会 軽中量級2位
1975年 - 全日本選抜柔道体重別選手権大会 軽中量級2位
1975年 - 世界柔道選手権大会(オーストリア・ウィーン) 軽中量級 3位
1978年 - 全日本選抜柔道体重別選手権大会 65kg級 3位
1978年 - 嘉納治五郎杯東京国際柔道大会 65kg級 優勝
1979年 - フランス国際柔道大会 65kg級 優勝
1980年 - 講道館杯全日本柔道体重別選手権大会 65kg級 優勝
1980年 - 全日本選抜柔道体重別選手権大会 65kg級 3位

家族[編集]

長男の秋本修平(鎮西高校・中央大学出身、元了徳寺学園職)は1999年インターハイ73kg級2位・全日本ジュニア柔道体重別選手権大会1999年73kg級優勝・2000年66kg級2位、次男の秋本啓之(桐蔭学園高等学校/筑波大学出身、了徳寺学園職)は共に柔道家で[2]、啓之は2010年世界柔道選手権大会で金メダルを獲得[3]、史上初の親子メダリストとなった[4]。

脚注[編集]

[ヘルプ]

1.^ 加藤育朗 (2006年1月17日). “親子2代で嘉納杯制覇”. 2010年9月11日閲覧。
2.^ フランス国際柔道 テレビ東京 2007年
3.^ “男子73キロ級秋本啓之、階級上げて父超え”. 産経ニュース (2010年9月11日). 2010年9月11日閲覧。
4.^ “大会3日目!秋本啓之は史上初の親子でメダル獲得を目指す!”. 新潟総合テレビ (2010年9月9日). 2010年9月11日閲覧。

外部リンク[編集]

秋本勝則 - JudoInside.comのプロフィール (英語)

執筆の途中です この項目は、柔道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P柔道/PJ柔道)。




カテゴリ: 日本の柔道家
熊本県出身の人物
1950年代生
存命人物

http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2004/10/post_9.html

マンガに描かれた水俣病「現代柔侠伝」




 原爆をテーマにしたマンガから、わたしの連想は、最近判決があった水俣病に向かいます。マンガに描かれた水俣病。バロン吉元「現代柔侠伝」の話。

 「柔侠伝」シリーズは、明治から現代までを、四代にわたる柔道家である柳勘九郎、勘太郎、勘一、勘平の人生を描いた大河マンガ。1970年から10年にわたって週刊漫画アクションに連載。特に柳勘一を主人公にした「現代柔侠伝」は、戦後日本現代史をマンガで描く試みでもありました。

 「現代柔侠伝」青春期(14)〜(40)では、柳勘一は熊本の鎮西高校1年生で柔道部員。昭和31(1956)年の5月から10月までが描かれます。「夕凪の街」の翌年であるこの年は、長崎で第2回原水禁世界大会が開かれ、10月には砂川闘争で多数の負傷者が出ました。マンガはこれらの事件を背景に進みます。

 勘一と知り合う色っぽい遊子は17歳。勘一の初エッチの相手だったりします。彼女は万引きや美人局をしており、彼女の3人の兄弟も札付きのワルばかり。勘一が尋ねていくと、彼ら4人はバラックにいっしょに住んでいるのですが、そこに寝たきりの父もいる。兄弟はいやいやながら父親のシモの世話などを交代でしている。

 勘一が興奮しながら観戦している第1回世界柔道選手権大会が開催された昭和31年5月は、水俣病が「公式発見」されたときでもありました。実は3年前には遊子の一家は水俣市に住んでいました。父親はまだまだ頑健だった。しかし体調を崩して中央病院へ行ってもなんでもないと追い返される。その1年後には父親は完全に寝たきりに。近所からは、あいつらに近づいたら骨がまがる病気がうつる、とううわさされるようになります。

 熊本市に引っ越した一家ですが、母親は赤松土建の社長(ヤクザですな)の妾になって家を出て行ってしまう。兄弟4人は復讐を誓い、赤松が県会議員に出馬した選挙の当日、ダイナマイトや銃で殴りこみます。兄弟3人は死に、遊子は裁判で実刑に。

 バロン吉元の筆は寝たきりの父親を容赦なく悲惨に表現します。排便した父親を前に兄弟たちはケンカをし、遊子は泣きながら下着を洗う。描写に救いはありません。彼らのエピソードは勘一の全国大会優勝と交互に描かれ、その対比が読者をよりやりきれなくさせます。日本のマンガは娯楽作品の枠の中で、このようなものも描いてきたのです。

http://gyoyu.hamazo.tv/e13886.html

親子2代で嘉納杯制覇

 嘉納治五郎杯国際柔道大会が日本武道館で行われ、66kg級では、アテネ五輪金メダリストの内芝を破って、新鋭秋本が優勝。
第1回大会で65kg級を制した、秋本勝則さんの次男で、親子2代の優勝は素晴らしい快挙だ。
拓大で私の3年先輩の秋本さんが戦った、昭和53年秋の第1回大会で、当時拓大柔道部3年の私が、試合を終えて試合場から下りてくる先輩に、タオルを差し出した時のことを、昨日のことのように思い出す。
 怪我や不運に泣いた天才柔道家。バロン吉元作「現代柔侠伝」の主人公、柳勘一のモデルと言われた人。稽古にも生活にも厳しい人だったが、よく飲みに誘ってくれた。
 「先輩、息子さんおめでとうございます」電話の向こうの声は、嬉しさ一杯で、昔酒を飲んで酔った時の声そのものだった。「おう、優勝したよぉ。お前も元気か?また会いたいねぇ。」

http://www.shinsei8oku.com/itamadenshin0410.html

バロン吉元という漫画作家がいます。<柔侠伝>という漫画のシリーズがあるので すが私はこれがあまたある漫画の中で最高傑作だと信じています。ちばてつやの<あ したのジョー>も良くまた人気もあるので社長室に愛蔵版を全巻飾ってありますが、 手許に置いて繰り返し読みたいのは柔侠伝です。講道館柔道・嘉納治五郎と戦い敗れ た柔術起倒流・柳秋水は、九州に下り一人息子の柳勘九郎を講道館を倒すためだけに 柔術家として育てます。技、成り。父秋水を倒した勘九郎は、講道館に挑むべく明治 38年小倉を発(た)ち、おりしも日露戦争の勝利祝賀に沸き立つ東京駅に降り立つ ところから長い物語が始まります。その息子勘太郎さらにその子供勘一。三代に亘っ て講道館の頂点を極めるも、明治の終盤から大正・昭和の戦争と敗戦という時代の中 で、三代の息子たちが主人公となって波乱万丈の人生を生き抜きます。勘九郎は馬賊 になり満州の地に果て、勘太郎は陸軍航空隊。そして勘一は拓大柔道部のエースとな り初代のオリンピック候補と目されていましたが、無頼の血いかんともしがたく九州 の炭鉱の労働争議や安保闘争のような社会運動に身を投じてゆきます。漫画といえど も侮れない秀作です。柔道ファンが高じて漫画まで柔道物が良いのだと信じ込んでい る程です。

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definition - 岩釣兼生

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岩釣兼生update

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


岩釣 兼生(いわつり かねお、1944年3月25日 - )は、日本の柔道家。七段。全盛期182センチ105キロ。ベンチプレスのマックスは195キロ。

最近、雑誌などでは岩釣兼旺を名乗ることが多いが、本名は兼生である。



目次
1 「鬼の木村」最強の弟子
2 指導者歴
3 全日本プロレス殴り込み事件
4 エピソード
5 著書など
6 関連項目


「鬼の木村」最強の弟子

熊本県出身。熊本県立鹿本高等学校時代、柔道史上最強をうたわれる「鬼の木村政彦」にスカウトされ拓殖大学に入学。当時の木村の指導方法は、気が向いたら真夜中だろうと部員を叩き起こすというもので、1日のうち24時間が練習時間と言っても過言ではないくらい厳しいものであったとされる。

岩釣は師匠ゆずりの独特の大外刈りや腕緘(キムラロック)を身につけて、1965年の大学4年時、キャプテンとして部を率い、全日本学生柔道優勝大会決勝でそれまで4連覇していた明治大学を破って拓殖大学を戦後団体戦初優勝に導く。そのレギュラーメンバーの中には東京五輪重量級銀メダリストのロジャースらがいた。

大学卒業後は兵庫県警に入り、下宿の庭に電柱を立てて毎晩1000本の打ち込みをするなど「鬼の木村」を受け継ぐ猛練習を重ね、各種警察大会で何度も優勝、1971年には悲願の全日本選手権制覇を果たした。世界選手権チャンピオンの佐藤宣践や後のオリンピック金メダリスト二宮和弘らを退けての優勝であった。この優勝は拓大としては木村政彦以来の快挙で、その後も拓大から全日本チャンピオンは出ていない。

指導者歴

現役引退後は母校の拓殖大学でコーチや監督を歴任。1988年のソウルオリンピックではその指導力を買われ、エジプト代表チームの監督を務める。ロス五輪決勝で山下泰裕と戦ったあのラシュワンは岩釣の愛弟子にあたる。その後、講道館での指導員を経て、現在は坂口征二の主宰する坂口道場にて後進の指導に当たっている。

なお柔道修行の一環としてサンボも経験しており、1969年にモスクワで開催されたサンボ国際トーナメントでは優勝を果たしているほか、第20回世界サンボ選手権大会(女子68キロ)で優勝した武田美智子は岩釣の教え子にあたる。

全日本プロレス殴り込み事件

1976年、全日本プロレス入りが決まっていたが、契約書にサインする段階になって社長のジャイアント馬場と拓大側の要求にずれがあり決裂、全日本プロレス入りは幻に終わった。

このとき、岩釣は師匠木村政彦とともに裸でのスパーリング、空手、ボクシング、脚関節などを含めた真剣勝負(いわゆるバーリトゥード)を前提にした一日7時間に及ぶ秘密特訓を続けていた。1954年の木村政彦vs力道山の復讐をしようとしていたのだ。この木村vs力道山は、通常のプロレスルールだったが、途中、力道山が本気で殴りかかって木村が流血、失神KO負けを喫した謎の試合だ。

拓大側は「力道山にだまし討ちにあった木村政彦先生の敵を討ちたい」という考えで、馬場社長に「デビュー戦はジャイアント馬場とやり、プロレスのアングルとして岩釣を勝たせる。その要求を呑めないならばリング上で真剣勝負に持ち込み馬場を潰す」という過激な条件を突きつけた。

馬場はこの拓大側の要求に怒り、「もしそういうことになったらウチの若いレスラーたちが岩釣君をリングから降ろさないが、そういう覚悟があるのか」と応じた。それに対して岩釣に付き添っていた拓大の先輩が「この野郎っ! 拓大をなめるんじゃねえ! 貴様こそリングから降ろさんぞ!」と激怒、契約は白紙に戻された。

後に岩釣は「命をかけて木村先生の敵討ちをするつもりでした」と語っている。

この事件は「昭和の忠臣蔵」として柔道界の伝説となっている。

エピソード

「鬼の牛島辰熊」「鬼の木村政彦」の直系の弟子だけあって、その豪気なエピソードにはことかかない。

大学1年の頃、寮の前で相撲部が鍋を囲んでいた。そこに柔道部の1年生も呼ばれて「食べろ」と言われ、みんなで食べた。しかし、ひしゃくで鍋をかきまわしていると中から毛むくじゃらの犬の首が出てきた。相撲部の先輩たちのイタズラだった。他の柔道部の1年生がそれを見て吐き出したが、岩釣はその犬の首を食べ、相撲部の先輩たちを驚かせたという。

バロン吉元の「柔侠伝」は、拓殖大学柔道部での取材をもとに描かれたものである。

著書など
•「木村政彦伝 鬼の柔道」(技術解説DVD、クエスト)

関連項目
•柔道家一覧



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