MMAの源流はブラジルのVTでありVTの源流はオールインである

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日本のMMAの源流はUWFのプロレスラーでしょうが(修斗 掣圏真陰流=佐山聡 藤原組 パンクラス=船木誠勝 リングス アウトサイダー=前田日明 プライド キングダム UWFインター=高田延彦)

実際にはグレイシー一族がUFCを成功させたのが実質的なMMAの技術体系の始まりでしょうからブラジルのバーリトゥードこそがMMAの源流だと断言していいでしょうね

日本のMMAがUFCなど欧米のMMAに影響を与えたのなんて打倒極といったオールラウンダー思想 オープンフィンガーグローブでしょうが

MMAの技術体系 マウント ガード パス パウンド ポジションなどはVTの技術体系ばかりですので
VTこそが現代MMAのルーツだと見ていいでしょう
テイクダウンの有効性もVT上陸以降重要視されましたしね
それまではレスラーのタックルなんて全く総合格闘技では評価なんてされてませんでしたし

ちなみにブラジルにもオールラウンダーの選手は昔からいました
ヴァデマ―サンタナ エウクレジスぺレイラ マルコファス イワンゴメスなどが実はそうです

ですがVTの源流は何かというと前田光世 佐竹宗弘 ジオ大森 矢野武雄ら日本人移民の柔道家柔術家たちが当時の欧米や日本で行われていたオールイン という名のなんでもありのリアルファイト 異種格闘技戦
をブラジルで行ったこと

欧米や日本では衰退し滅亡したオールイン 柔拳がブラジルでは発達し滅亡せずに独自の進化を遂げアメリカでUFCとして華々しくオープンし現在はボクシングと並ぶメジャープロスポーツにまでなったということでしょう

ちなみに20世紀初頭
柔術家とレスラーが戦った時は柔術ルールかグレコのルール フリースタイルレスリングのルールで行われ

柔術家 もしくはレスラーがボクサーたちと戦った時はこのオールインのルール(何でもあり)のルールで戦ったんだとか

ただしどっちもグラウンド状態の時にはマウントでパンチなど振るわなかったそうですし
頭突きなども無かったそうですから

厳密には下に貼った動画のように純粋なレスリングノウハウのみボクシングノウハウのみ柔術ノウハウのみで戦ったようです
そういった意味では喧嘩屋などもたくさん出てバイオレンスの衝撃を与えたブラジルのVTとは一線を画すべきでしょうね

以上詳細





http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW110206/

http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW100331/



  「NZトゥルース」より・1911 オール・イン=柔拳試合?




 NATIONAL LIBRARY OF NEW ZEALAND(ニュージーランド国立図書館)のPAPERSPAST(過去の新聞)というウェブ・サイト
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=p&p=home&e=-------10--1----0-all
(ちなみに表記を英語とマオリ語とで切り替えられます)で見つけた、NZ Truth(NZ トゥルース)という古い新聞の記事をご紹介します。


AMATEUR'S TROUBLES.  NZ Truth , 22 July 1911
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&d=NZTR19110722.2.62&e=-------10--1----0-all

 The “all-in” game in Australia isn’t likely to become popular. The display the other day between the Japanese wrestler and the pug. was a frost, and the pug. was beaten. The latest in the line is a challenge from one Franisch, a wrestler, to Bill Lang, but as Bill asked for a £500 side bet, no business resulted.

 「オール・イン」競技は豪州においては人気が出そうにもない。先日公開された日本人レスラーと、ボクサーとの試合はお寒い内容で、ボクサーが敗れた。最終試合はフラニッチなるレスラーが、ビル・ラングに挑戦したが、ビルが双方五百ポンドずつの賭けを要求すると、交渉は成らなかった。



アメリカーナ・ドットコム「プロレス世界史年表」には、次のようにあります。
http://members.jcom.home.ne.jp/americana/page/history/page07.html
1930年…

同11月
 プロモーター、アーソー・オークリーAtholl Oakeleyとジェフ・ディクソンJeff Dicksonがアメリカン・スタイルのプロレスをイギリス・ロンドンに導入。“オール・イン・レスリングall-in”と呼称された。


 しかし「NZ トゥルース」の記事では、オール・インは柔拳試合のような異種格闘技戦です。
(柔拳試合についてはこちらのページ「柔道家の他流試合興行は明治時代から」に書きました。



Page 3  NZ Truth , 1 January 1910
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&d=NZTR19100101.1.3&e=-------10--1----0-all


 ビル・ラングはオーストラリア人ボクサーで豪州ヘビー級王者。
 1907年には、黒人初の世界王者となるジャック・ジョンソンとも闘っています。

Jack Johnson (boxer)
 From Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Jack_Johnson_(boxer)



追記2010.4.11
 “all-in”ないし“all-in wrestling”という言葉の使われ方を少し調べてみました。
 下記はいずれも大英博物館のウェブ・サイトより。

http://www.britishmuseum.org/explore/highlights/highlight_objects/gr/r/red-figured_cup_athletes.aspx

… The most famous games were held at Olympia, and the pankration, illustrated here, was an Olympic sport. It was a type of all-in wrestling in which practically anything, including kicking or trying to strangle your opponent, was allowed. The only activities that were banned were biting and trying to gouge out your opponent's eyes. …

J. Boardman, Athenian red figure vases: the (London, Thames and Hudson, 1975)

J. Swaddling, The ancient Olympic Games, 3rd edition (London, The British Museum Press, 2004)

 もっとも有名な競技はオリンピアで行なわれた。ここに図示されたパンクラチオンは、五輪スポーツの一つであった。それはオール・イン・レスリングの一種で、蹴りや相手の首を絞める行為を含むほぼ全てが、許された。禁じられた動きは噛み付くことと相手の目をくり抜こうとすることだけであった。


http://www.britishmuseum.org/explore/highlights/highlight_objects/gr/p/panathenaic_prize_amphora.aspx

… These two contestants are probably taking part in a pankration, a vicious all-in fighting event which combined boxing, wrestling and kicking - though the rules forbade biting and gouging. …

M. Robertson, The art of vase-painting in Cl (Cambridge, 1992)

 これら二人の競技者達はおそらくパンクラチオンの出場者である。不道徳な何でもありの格闘競技で、ボクシング、レスリングとキックの融合だが、噛み付きと目潰しは禁じるルールだった。


 古代ギリシャのオリンピックを紹介するページで、“ Pankration (all-in wrestling) ”という見出しの表記が見られます。

HOME
http://www.britishmuseum.org/
 ↓
Leaning
 ↓
Schools and teachers
 ↓
Web resources
 ↓
Ancient Greece
http://www.ancientgreece.co.uk/
 ↓
Festivals & Games
 ↓
Story
http://www.ancientgreece.co.uk/festivals/story/sto_set.html
 ↓
Click…
 ↓
day2…
 ↓
day3…
 ↓
day4…

と進んでいただくとあります。


更に追記2010.4.18

PUG. PARS.  NZ Truth ,  29 April 1911
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&d=NZTR19110429.2.10.3&e=-------10--1----0-all

 Australia has produced another “hope.” This time it is the champion wrestler Clarence Weber, who wants to fight Jack Johnson under the “all in” rules. Incidentally, Lenauze, the New Zealand wrestler, wants to try his skill with Clarence.

 豪州がもう一人の「ホープ」を輩出した。この度レスリング王者クラレンス・ウェーバーが、ジャック・ジョンソンと「オール・イン」ルールで闘いたいと望んでいる。ついでながら、ニュージーランドのレスラー、リナウズは、クラレンスと腕試しをしたいと望んでいる。


 ウェーバーについてはグーグルの下記ウェブ・ページで死亡記事が読めます。
The Sydney Morning Herald - Nov 22, 1930
http://news.google.com/newspapers?nid=1301&dat=19301122&id=hvoQAAAAIBAJ&sjid=4JEDAAAAIBAJ&pg=3317,133960

 ジャック・ジョンソンが君臨した時代、白人ボクシング・ファンは彼を倒す「ホワイト・ホープ」の出現を待望していましたが、カム・バックした不敗の元世界王者、ジェームス・J・ジェフリーズまでもが、敗れてしまっていました(「世紀の決戦」1910.7.4)。


BOXING.  Evening Post,  25 June 1912
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&d=EP19120625.2.49&e=-------10--1----0-a

BOXING.
ボクシング

MIDDLE‐WEIGHT CAMPIONS
ミドル級王座戦

FRANK KLAUS BEATS
CARPENTIER.

WAS A FOUL BLOW STRUCK?

フランク・クラウスがカルパンティエを倒す
反則の一撃があったか?


By Telegraph.―Press Association.―Copyright.
(Received June 25, 10.49 a.m.)
            LONDON, 24th June.

外電より――新聞協会-版権所有
(受電 6月25日午前10時49分)
            ロンドン、6月24日

 Frank Klaus (America) defeated George Carpentier (France) in the eighteenth round of a middle-weight bout at Dieppe.
 Carpentier’s manager, thinking Klaus had struck a foul blow, threw in the sponge, and refused to proceed, though Carpentier, desired to go on.
 
 フランク・クラウス(米国)がジョルジュ・カルパンティエ(仏国)を18ラウンドで破る。ディエップにおけるミドル級戦。
 カルパンティエのマネージャーは、クラウスが反則ブローを当てたと考え、スポンジを投げ入れ、続行を拒否したが、カルパンティエは続けたいと望んでいた。

 The winner is a fierce rugged fighter known as the “Pittsburg Bear Cat.” He is a fine example of the American “all-in” pugilist, who relies on a wonderful capacity to absorb punishment and abnormal endurance to wear his man down.
 “Battling” Nelson and Ad. Wolgast are also true to this type. Klaus has been looked upon for some time as one of the best men in the Stares in his class. (以下略)

 勝者は獰猛な荒くれファイターで「ピッツバーグの熊猫」として知られる。彼は米国式「オール・イン」拳闘家のよい実例であり、痛みに対する驚くべき耐久力と敵を弱らせ倒すまでの異常な辛抱強さとを頼みにしている。
 「バトリング」ネルソンやアド・ウォルガストもまた正真正銘の同類である。クラウスはここしばらく合衆国のその階級において最強の一人とみなされて来ていた。(以下略)


 プライズ・ファイト時代のボクシングは、むしろパンクラチオンに近いものだったと聞きますが、さすがに20世紀ともなればクインズベリー・ルールが浸透しているはずです。
 ここでの「オール・イン」はタフな、というぐらいの意味でしょうか?

 フランク・クラウスの経歴はこちらのサイトに詳しく載っています。
Cyber Boxing Zone
http://www.cyberboxingzone.com/boxing/klaus-f.htm

 こちらのサイトにはネルソン対ウォルガストの血戦についての詳しい記事があります。
The Boxing Bulletin History Corner: February 22, 1910 - Battling Nelson vs Ad Wolgast
http://www.theboxingbulletin.com/2010/2/22/1321008/the-boxing-bulletin-history-corner



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http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW110207/


  「ワンガヌイ・クロニクル」より・1911 オール・イン=パンクラチオン?




 NATIONAL LIBRARY OF NEW ZEALAND(ニュージーランド国立図書館)のPAPERSPAST(過去の新聞)というウェブ・サイト
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=p&p=home&e=-------10--1----0-all
(ちなみに表記を英語とマオリ語とで切り替えられます)で見つけた、古い新聞の記事をご紹介します。


"ALL IN."  Wanganui Chronicle, 21 April 1911
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&d=WC19110421.2.42&e=-------10--1----0--

“ALL IN.”
「何でもあり。」

WEBER’S CHALLENGE TO
JOHNSON
WILL FIGHT UNDER THE GREEK
    PANCRATIUM RULES.
MIXTURE OF BOXING AND
WRESTLING
      MELBOURNE, Saturday.

ウェーバーのジョンソンへの挑戦は
ギリシャ式パンクラチオン規定に基づく闘い。
ボクシングとレスリングの混合
              メルボルン、土曜日。

 Clarance Weber, our champion wrestler, weight-lifter, and physical culturist, has thrown a bombshell into the athletic world by his challenge to fight Jack Johnson “all in,” and thus prove the physical supremacy of the white race.

 クラレンス・ウェーバー、我らがレスリング王者にして、重量挙げ選手、かつ身体文化人が、運動競技界に投げ掛けた爆弾発言は、ジャック・ジョンソンに挑戦して「何でもあり」で闘い、以って白人種の身体的優越を証明せんというものである。

 The system under which Weber suggests the contest should take place is not new. It is as old―or older―than boxing itself, and was one of the recognised sports of the first Olympic Sports which the Greeks held in 776 B.C. In it nothing is barred except biting, eye-gouging, and attacks on certain vital spots. Everything else is admissible. The kidney punch, the strangle hold, the double Nelson, and other methods of offence ruled out under different codes, may all be brought into action.

 ウェーバーがその下に競技を行うべしと提案する所の方式は新しいものではない。それはボクシングそれ自体と同じ程―あるいはより以上に―古く、紀元前776年にギリシャで行われた最初の五輪競技で認められた競技の一つである。そこに禁じ手はなく例外は噛み付くこと、目をえぐること、急所攻撃。他の全ては許容される。腎臓打ち、絞め技、ダブル・ネルソン、その他別の規則の下では認められない攻撃法が、全て実行可能である。

 At the annual demonstration of Mr. Weber’s Health and Strength College at the Athenaeum last week the item that secured the closest attention was a bout between a boxer and a wrestler, Mr. W. Meeske and Mr. Warrington, given so that those present might form some idea of which was the better method of self-defence. The boxer, who was only allowed to hit, and not to hold, got all the worst of the bout. Once only did he make much impression on the wrestler, who succeeded in getting hold and throwing him heavily several times.

 学術協会で先週行われたウェーバー氏による健康体力大学の年次実演教授において最も注目を集めた題目はボクサーとレスラー、W・ミースク氏とウォリントン氏との間の勝負で、どちらがよりよい護身術かについて出席者が考えられるように行われた。ボクサーは、殴るのみで、掴むことは許されず、負けてばかりであった。一度だけ彼はレスラーに強い印象を与えたが、レスラーが技を掛けて彼を激しく投げ付けるのに成功したことは何度もあった。
 


 ジャック・ジョンソンは黒人初のボクシング世界王者(ヘビー級)。彼の存在は当時の西洋社会に大きな影響を与えたようです。
(「アリキックの元祖?52歳のバーンズ、ボクサーと闘う」こちらもお読みいただけると幸いです。)
 ウェーバー戦は実現しなかったようですが、ジョンソンは亡命中のパリほかで何度かレスラーと闘っています(1913~1914)。

Cyber Boxing Zone.
http://www.cyberboxingzone.com/boxing/jjohn.htm

 レスリング・マッチでジョンソンを激闘の末に下したジミー・エッソンは、前田光世にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンで勝ったレスラー。自身ボクサーでもあったそうです。


追記2011.2.11
 オーストラリアの新聞記事が見つかりました。
 それによれば試合は決まり掛けたようでもあります。

Australia Trove
http://trove.nla.gov.au/newspaper

ALL - IN CONTESTS.  Kalgoorlie Western Argus, 2 May 1911
http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/33390278
WRESTLING AND BOXING.  Barrier Miner,  15 May 1911
http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/45132067



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  1911.7.12 しまりゅうごろう 対 J・ハワード




 NATIONAL LIBRARY OF NEW ZEALAND(ニュージーランド国立図書館)のPAPERSPAST(過去の新聞)というウェブ・サイト
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=p&p=home&e=-------10--1----0-all
(ちなみに表記を英語とマオリ語とで切り替えられます)で見つけた、古い新聞の記事をご紹介します。


THE "SCISSORS" GRIP.  Poverty Bay Herald, 26 July 1911
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&d=PBH19110726.2.100&e=-------10--1----0--
(原文は段落変えがありませんが、ここでは適宜分割して訳文を挿入しています。)

THE“SCISSORS”GRIP.
「蟹挟み」固め。

 Details of the match between Shima, the Japanese wrestler, and the Sydney boxer, Howard, show that while it was not edifying, it was exciting, and highly interesting as showing how the skill of a jiu-jitsu expert can defeat the strength of a bigger man. The conditions were that Howard was to be allowed to hit at all times and under all circumstances, while Shima was to follow the rules of jiu-jitsu. Howard was to wear 8oz glozes, Shima was not to hit with clenched hands, and there was to be no kicking.

 しま、日本人レスラーと、シドニーのボクサー、ハワード、との間の試合の詳細が示す所はそれが啓発的ではなかったけれども、刺激的であり、いかに柔術の達人の技能がより大きい男の力をくじき得るかを示して大いに興味深かったことである。条件ではハワードはあらゆる時あらゆる状況において殴ることが許され、一方しまは柔術の規定に従うことになっていた。ハワードは8オンスのグローブを着用、しまは拳を固めて殴ることはできず、そして蹴りは認められなかった。

Howard had an advantage of two stone in weight over the Japanese. At first it went very hard with Shima, to the consternation of the Chinese in the audience, who were strong partisans for the Japanese. Shima tried unavailingly to get a hold of his opponent’s leg, and suffered severe body-blows in doing so. The manoeuvre ended in the Japanese going down heavily to a blow on the head, and some thought he would not come up for the second bout.

ハワードには体重において二ストーン(※約13kg)日本人より重い有利があった。一本目それでしまがはなはだひどい目にあい、日本人の強力な応援団であった、観衆中の中国人は肝をつぶした。しまが無駄に相手の脚を取ろうとし、その際に激しく腹を打たれた。演習は日本人が頭への一撃に激しく倒れて終わり、彼が二本目に出て来られないだろうと考える者もいた。

He did so, however, and took more heavy punishment nonchalantly. Then he threw himself, feet foremost, into the air at Howard’s legs, and caught one of them between two of his toes. The other leg was put on, and he had the “scissors hold” on the boxer.

彼は、しかしながら、出て来て、より重い罰を冷淡に科した。その時彼は我が身を捨て、両足を先に、空中ハワードの両脚に向けて投げて、その片脚を両のつま先の間に挟んだ。別の脚に及び、彼はボクサーに「蟹挟み」を掛けた。

The Argus thus describes what happened afterwards :―“The little man lay upon his back at the boxer’s feet, the legs crept up the boxer’s legs, like the tentacles of a small octopus dragging down a very large crab. A twist of the body, and Howard, too, was on the mat. The legs of the Japanese writhed and twisted into the ‘ankle-break’ grip, and beads of perspiration came out on the boxer’s face as the cruel pressure was applied. He hammered at the thigh muscles of the Japanese, but Shima put on a little more pressure, and the boxer, gave in limping to his corner, and wondering how it all had happened.”

百眼巨人紙はその後何が起きたかをこのように述べている。―「その小さな男はボクサーの足元に仰向けに横たわり、その両脚がボクサーの両脚に絡み付き始めた。それはまるで小蛸の足が巨大蟹を引きずり倒すかのようであった。身をひねらせて、ハワードも、また、マットに倒れた。日本人の両脚がねじり絡まって『くるぶし砕き』固めに至り、残酷な圧力が加えられるにつれてボクサーの顔に汗のしずくが現れた。彼は日本人の太ももの筋肉を叩いたが、しまがもう少し圧力を加えると、ボクサーは、降参して自分のコーナーへびっこを引いて歩き、全てがどうして起きたのかを不思議がっていた。」

The Chinese spectators were greatly excited. They vociferously proclaimed victory for the wrestler, one of them exhorting him to “pull them, Engleeshman’s leg out.” In the third bout Howard hit Shima again and again with staggering blows, but the man’s capacity for punishment was extraordinary. Once again he tried the “scissors hold,” and got it. Despite the pounding of the boxer’s fists, the deadly pressure was increased, and Howard had to give in to prevent his leg being broken. Howard was handicapped by his 8oz gloves, or “pillows,'” as boxers call them, and is willing to meet Shima again if the use of standard gloves is permitted.

中国人の観客は大いに興奮した。彼らは騒々しくそのレスラーの勝利をたたえ、彼らの内の一人は彼に「引っこ抜け、エゲレス人の脚を」と強く勧めた。三本目においてハワードは何度も何度も相手をよろめかせる打撃を放ったが、その男の痛みへの耐久力は並外れていた。もう一度彼は「蟹挟み」を試み、成功した。ボクサーの拳の連打にもかかわらず、必殺の圧力は強まって、ハワードは脚が折られるのを防ぐために降参しなければならなかった。ハワードには8オンスのグローブ、ボクサー達が呼ぶ所の、「枕」による不利があって、もし標準グローブの使用が許されるならもう一度しまと立ち合いたいと望んでいる。



 当時のボクシング・グローブはかなり薄いものが標準だったようで、8オンスのグローブは、枕のようにふわふわ、と言われたようです。
 1911年7月22日付の“NZ Truth”にある、日本人レスラー対ボクサーの「オール・イン」試合は、これであろうかと思います。両選手のフルネームは「しまりゅうごろう」(島龍五郎?)と「ジャック・ハワード」です。
 かめだきよ(亀田清?)という日本人柔術家も、豪州で活動していたようです。下記記事をご覧下さい。


STIRRING JIU-JITSU CONTEST.  Colonist, 29 June 1909
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&d=TC19090629.2.6&e=-------10--1----0--

JIU JITSU EXPERT.  Evening Post, 17 April 1912
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&d=EP19120417.2.125&e=-------10--1----0--

JU JITSU CONTEST.  Grey River Argus, 29 July 1913
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&d=GRA19130729.2.49&e=-------10--1----0--


 ジャック・ハワードのボクシング戦績はこちらのサイトに載っています。
BoxRec
http://boxrec.com/list_bouts.php?human_id=61265&cat=boxer


追記2011.2.11
 オーストラリアの新聞記事が見つかりました。

Australia Trove
http://trove.nla.gov.au/newspaper

BOXER V. WRESTLER.  The West Australian, 13 July 1911
http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/26345342
JIU JITSU V BOXING.  The Sydney Morning Herald, 13 July 1911
http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/15259742

 これらによれば試合は7月12日、メルボルンのギルド・ホールで行われ、体重は、しまが10ストーン(約64kg)、ハワードが12ストーン(約76kg)とのことです。



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  1909. 4.24 アデレード・チボリ劇場にて柔術演武




 NATIONAL LIBRARY OF AUSTRALIA(オーストラリア国立図書館)のAustralia Trove(豪州の宝庫)というウェブ・サイト
http://trove.nla.gov.au/newspaper
で見つけた、古い新聞の記事をご紹介します。

The Advertiser (Adelaide, SA)  Monday 26 April 1909
http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/5197722?searchTerm=grainger
(真っ直ぐ底まで下りて、赤い下線のついた“Grainger”の文字を探して下さい。)


TIVOLI THEATRE.
チボリ劇場。

 A welcome change of programme was submitted at the Tivoli Theatre on Saturday evening, and from the rise of the curtain to its fall the interest of the audience was fully maintained. Two clever Japanese exponents of the ju-jitsu were introduced by Mr. H. Allerdale Grainger. He said that in his travels he had seen small women master the strongest and largest of men by the aid of ju-jitsu. The performers―Ryugoro Shima, a professor from the Hagawari College. Japan; Kiyo Kameda, a graduate of the North Japanese Yagure Dojo ― gave an illuminating display of the potentialities of ju-jitsu for self-defence. The artists performed on a closely-woven Japanese mat, neither speaking a word. An explanation of their movements was given by one of the theatre employes. The first part was devoted to an attack from every conceivable quarter by Shima upon Kameda, and resulted in the former, with incredible swiftness, being thrown on his head or back with a thump which made one wonder if any bones were broken. An exposition with Shima as the attacker was then given of holds, in which in the twinkling of an eye it was possible to break limbs, unless the opponent capitulated. An illustration of how students of ju-jitsu are taught to break the force of a fall followed. The display was an interesting one especially to athletes and students of physical culture. …

 歓迎すべき番組の変更が提示されたのはチボリ劇場にて土曜日の晩の事で、幕が上がってから下りるまで観衆の興味は丸々持続したのであった。二人の器用な日本人柔術専門家がH・アラーデイル・グレインジャー氏によって採用された。彼曰く旅行中に彼は小柄な御婦人方が男達の内で最強最大の者を柔術の助けによって制するのを見たと。演者達―島りゅうごろう、日本の、萩原学校出身の師範。亀田きよ、北日本のやぐれ道場の皆伝 ― は護身のための柔術の可能性について啓蒙的な公開を行った。術者達は目が細かく織られた日本製マットの上で演じ、両者とも一言も発しなかった。彼等の動きの説明は一人の劇場従業員によって提供された。初めの部は全て島による亀田へのあらゆる想像し得る方向からの攻撃に充てられ、その結果は前者が、信じ難い速さで、頭ないし背中を下にしてどしんどしんと投げられて人をして骨が折れても不思議はないと思わしめた。攻撃者としての島による披露はその後惜しみなく技が示され、そこに於いてもし相手が降参しなければ、瞬きの内に手足を折る事が可能であった。如何にして柔術の学徒が転倒の勢いを削ぐべく教わるかの例示が続いた。その公開は特に運動家と身体文化の学徒にとって興味深いものであった。 (後略)
 


The Register (Adelaide, SA)  Monday 26 April 1909
http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/57517423?searchTerm=grainger
(1列右を天辺まで上がって、赤い下線のついた“Grainger”の文字を探して下さい。)

 … The turn of the Japanese, who rejoiced in the names of Kyugoro Shima and Kiyo Kameda, was followed with considerable interest. In behalf of the management Mr. H. A. Grainger gave a preliminary explanation of their wonderful art, spoke of similar exhibitions he had witnessed in London, and expressed the opinion that it should be taught to both sexes in Australia. …
 
 (前略) 島きゅうごろうと亀田きよという変わった名前を持った、日本人達の出番が、次に来て少なからぬ興味を加えた。その管理のためにH・A・グレインジャー氏が彼等の驚くべき技芸の予備的な説明をし、彼がロンドンに於いて立ち会った類似の公開について述べ、それが豪州に於いて男女両性に教えられるべきとの意見を表明した。 (後略)



 同日のこちらもアデレードの新聞です。ごく一部のみをご紹介しました。
 ヘンリー・アラーデイル・グレインジャーは、サウス・オーストラリア州代表としてロンドンに駐在中、息子のマーティン(作家として有名)と共に、谷幸雄や三宅太郎らの柔術演武に協力しました。



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  1909. 4.29 しまりゅうごろう 対 W・コプシュ




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The Advertiser (Adelaide, SA)  Friday 30 April 1909
http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/5199228
(少し下がって次の段落です。)


WRESTLER VERSUS JU-JITSU EXPERT.
レスラー対柔術の達人。

 A wrestling match between Ryugoro Shima, a cleaver Japanese exponent of ju-itsu, and Kopsch, a prominent Adelaide wrestler, caused considerable excitement at the Tivoli Theatre on Thursday evening. Shima had offered £5 to any man whom he could not throw in 15 minutes and the challenge was accepted by Kopsch. Mr. H. A. Grainger acted as referee. From the first it was seen that the Adelaide man was in good form. The clever mariner in which he handled his wary opponent quickly won for him the sympathy of a large section of the audience. Kopsch also had an advantage of more than a stone in weight over the Japanese. Several times in the first 10 minutes he forced his opponent down on to the boards, the large audience showing their approval by loud applause. Within three minutes of time, however, Shima secured a fall by the “strangle” hold. Kopsch protested that this hold was not legitimate, but the referee ruled that though it was not usually allowed in English wrestling, in straight out ju-jitsu it was perfectly legitimate. The audience appeared dissatisfied with the verdict. Another local wrestler stepped on the stage and challenged the Japanese to wrestle, saying that he would bar no holds whatever. The contest will take place to-night.

 しまりゅうごろう、器用な日本人柔術専門家と、コプシュ、卓越したアデレードのレスラーとの間のレスリング試合が、少なからぬ興奮を引き起こしたのはチボリ劇場にて木曜の晩にであった。しまは己が15分の内に倒し得ぬ者に誰でも5ポンドをと提示するとその挑戦を受諾したのがコプシュであった。H・A・グレインジャー氏が行司を務めた。初めからアデレード人の調子がいい様に見えた。賢い船乗りはその油断のない敵を迅速に扱うに於いて観衆の大きな部分の共感を己が為に得た。コプシュはまた日本人より一ストーン以上重いという利を持っていた。初めの10分の内に幾度か彼はその敵を床板上に押し倒し、大観衆は騒々しい喝采によって彼等の賛意を示した。三分の時の内に、しかしながら、しまは「絞め」技によって一本を決めた。コプシュはこの技が正当でないと主張したが、行司の判定はそれが英国式レスリングに於いて通常は許されないけれど、妥協なき柔術に於いては完全に合法であるという事であった。観衆はその判断に不満のようだった。別の地元レスラーが舞台に上がり日本人にレスリングすべく挑戦し、曰く如何なる技も禁ぜざるべしと。その競技は今夜行なわれよう。



  19世紀から20世紀初めにかけて、プロレスやボクシングの大きな試合におけるレフェリーは、職業的な専門家ではなく、名士が務めることがよくあったようです。試合の公正さを担保するためであろうと思います。賭け金保管人(ステイクホルダー)についても同様であったろうと思います。
 
 

Barrier Miner (Broken Hill, NSW)  Tuesday 10 August 1909
http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/45078165


WRESTLING.
レスリング。
 
AN ADELAIDE CONTEST.
アデレードの競技。

Adelaide, Monday.
アデレード、月曜日。

 Next Friday night in Adelaide Wilhelm Kopsch will wrestle Horace Prime for the catch-as-catch-can championship of South Australia.

 来たる金曜の夜アデレードに於いてヴィルヘルム・コプシュがホレイス・プリムと掴める様に掴め式南豪選手権を賭けてレスリングするであろう。



 コプシュのフル・ネームがわかります。ドイツ系でしょうか。 



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  1909.5.8 目潰しか首絞めか




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“GOUGE OR STRANGLE.”  Barrier Miner, 15 May 1909
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“GOUGE OR STRANGLE.”
「えぐるか絞めるか。」

JU-JITSU AT WIRTH’S CIRCUS.
AN EXCITING BOUT.

ワースのサーカスで柔術。
血沸き肉躍る勝負。


 At the conclusion of the programme at Wirth Bros.’ Circus on Saturday night, Professor Stevenson, of Sydney, and Mr. Albert Monier, who performs at the circus as a strong man, engaged (says the “Telegraph” of May 10) in a ju-jitsu contest for a purse of £75. The struggle was intensely exciting, and at one moment the feelings of the audience were so worked up that a serious disturbance was only averted by the timely appearance of the police.

 ワース兄弟サーカスの土曜の晩の番組の大取りにて、シドニー在の、スティーヴンソン師範と、サーカスに怪力男として出演中の、アルベルト・モニエ氏とが、闘ったのは(「テレグラフ」紙5月10日付によれば)賞金75ポンドを賭けた柔術競技であった。闘いは激しく血沸き肉躍るもので、一時は観衆の感情が余りに高揚しすぎて容易ならない騒動が時を得た警官隊の登場によってやっと防がれた程であった。

 The ringmaster announced the conditions of the contest. Each man was allowed to hit, scratch, bite, pull by the hair, kick sideways, gouge, or strangle. Practically the only forbidden action was a straight kick. Mr. M. P. Adams, of Melbourne, acted as referee, and Mr. Clancy was timekeeper. The duration of actual wrestling was to be 15 minutes.

 舞台監督が競技の条件を告げた。両者は打撃、引っ掻き、噛み付き、髪を引っ張ること、横蹴り、目をえぐること、ないし首絞めが許された。実際上唯一の禁止行為は前蹴りだけであった。メルボルン在の、M・P・アダムス氏が、行司を務め、クランシー氏が計時係りであった。実際のレスリングの制限時間は15分となっていた。

 Before starting Professor Stevenson complained that he had contracted to meet Arthur Franz, whereas Albert Monier was appearing in his place. He claimed that another £10 should be added to the stakes in consequence. After a consultation, Messrs. Wirth Bros. offered to make the addition to the prize.

 開始前スティーヴンソン師範は彼が立ち合うべく契約したのはアーサー・フランツであったのに、アルベルト・モニエが代わりに出て来たことに不満を訴えた。彼はその結果更に10ポンドを賭け金に加えるべく要求した。協議の後、ワース兄弟各氏が賞金の追加をなすべく申し出た。

 At the word “go” both men began to circle much in the fashion of ordinary wrestlers, but the similarity to familiar methods ceased when Stevenson dealt Monier a smack on the face, on attack which the latter returned by trying to kick Stevenson’s legs from under him with his heel. A clinch followed and they went to the ground. After some active work, in which each alternately gained the advantage, they came to their feet again, and almost immediately Stevenson caught his opponent by the arm, and flung him bodily over his left shoulder, Monier turning in the air like a cat, landed on his fleet, and was ready to meet Stevenson by the time the latter turned round.

 「始め」の声に両者は通常のレスラーのやり方でぐるぐる回り始めたが、なじみ深い方式との相似はスティーヴンソンがモニエの顔に一撃を加え、後者がスティーヴンソンの両脚を下からかかとで蹴ろうとして反撃に転じた時に終わった。次いで揉み合いとなり寝技に至った。互いが代わる代わる有利を得る、活発な闘いが続いた後、彼らが再び立ち上がるや、ほぼ即時にスティーヴンソンが敵の腕を捉え、彼の全身を左肩越しに投げ付けたが、モニエは空中で猫のようにひるがえり、両足で着地して、スティーヴンソンが向き直る時までに彼に立ち向かう用意ができた。

 Both men now recognised that they were practically evenly matched, and thence onward put every ounce of effort into their work. Several times in quick succession each threw his opponent over his head or shoulder to the ground, a movement which was warmly applauded by the audience, but when Monier started feeling for Stevenson’s eyes with his thumb for the purpose of dissuading that gentleman from trying to break his (Monier’s) neck between his knees, or when Stevenson hit Monier vigorously across the loins, to alter Monier’s intention of dislocating his thumb, the ideas of fair-play of the more conservative of the audience were shocked, and the cheering was equally balanced with hoots.

 両者は今や自分達が実際互角に競っていることを認め、そこから先は全力を闘いに注入した。幾度か矢継ぎ早に互いに敵を頭ないし肩越しに地面に投げ付け、観客に熱烈な拍手喝采を受ける攻防もあったが、モニエがスティーヴンソンの目を、その紳士が両膝に挟んだ彼の(モニエの)首を折ろうとするのを思いとどまらせるために親指で探り始めた時、あるいはスティーヴンソンが親指を動かそうとするモニエの意志を変えるべく、モニエの腰の裏を力強く打った時、より保守的な観衆のフェア・プレイの概念は衝撃を与えられ、しかして歓声は野次と等しく拮抗したのであった。

 Five minutes from the start Stevenson secured a master-hold and Monier yielded. A few minutes were allowed to rest, then the second round commenced. A good deal of footwork was used, and the men gradually edged towards the side of the ring. A clinch followed, and resulted in both tripping over the edge of the wooden ring-bank. Monier was uppermost, and lifting Stevenson in the air, proceeded to thump his body on the wood. By an adroit movement the latter contrived to free himself, and clutching Monier by the shoulders threw him outside the ring. The referee at once proceeded to separate them, but meanwhile a section of the audience began to hoot, and about a dozen ring-assistants rushed across the ring and forcibly tore the men apart. Stevenson protested vigorously against the treatment he was submitted to, and in the excitement which ensued it seemed inevitable that the crowd would rush the ring, when a couple of policemen appeared, and after some difficulty restored order.

 試合開始から五分スティーヴンソンが妙技を決めモニエは降参した。数分の休憩が許され、その後二本目が始まった。かなり足捌きが使われ、男達はじりじりとリングの端の方に近付いて行った。次いで揉み合いとなり、結果として両者ともつまずいて木製のリングの囲いの縁を越えた。モニエが上になり、スティーヴンソンを空中に持ち上げて、続いてその体を板の上にどしんと叩き付けた。機敏な動きによって後者は何とかうまく自由の身となり、モニエの両肩を掴んで彼をリングの外へ投げた。行司は続いて直ちに彼らを引き分けたが、その間に観衆の一部が野次り始め、一ダースほどの舞台助手がリングの向こう側に突進して力ずくで男達を引き離した。スティーヴンソンは彼が受けた扱いに対して猛抗議し、そして結果として生じた興奮のあまり群集がリングに殺到するのは必至と見えた時、数人の警官が現れて、多少の苦労の末に秩序を回復させた。

 The contest was resumed in the ring, and soon after Monier secured an armlock, which made him the winner of the round. The result was greeted with tremendous cheering.

 競技がリングで再開され、間もなくモニエがアームロックを決めて二本目の勝者となった。その結果はものすごい歓声で迎えられた。

 The third round lasted out the remainder of the fifteen minutes, neither one gaining a decisive position. When time was up the referee awarded the match to Stevenson on points.

 三本目は十五分の残りが尽きるまで続き、どちらの者も決め手を得なかった。時間が切れた時行司はスティーヴンソンに判定勝ちを与えた。

 Another tumult seemed imminent. The audience swarmed down to the ringside, hooting and cheering, but the police and attendants kept it clear, and when the principals left for their dressing-rooms the crowd gradually melted away.

 またもや騒動が起りそうに見えた。観衆は群れをなしてリング脇に下り、野次ったり歓声を上げたりしたが、警官隊と案内係達が彼らを寄せ付けず、主役達が控室へと去って行くと群衆は次第に散って行った。

 When seen afterwards, Mr. Adams said it was the most exciting contest he had ever refereed. He had had some ten years’ experience, and recently at Ballarat had given 70 decisions in one tournament, but on no occasion had he seen a harder struggle than this one had been. Explaining the rules governing the contest, he said that the object was not to try for a fall as in ordinary wrestling, but to obtain a hold which would compel the other man to yield. The kidney hit, which Stevenson used, was quite permissible. It was dealt with the edge of open hand, in the same way that the “kidney punch” was given in boxing, and was used to make an opponent relax his grip.

 後に面会の際、アダムス氏は彼がかつて行司をした内でこれが最も刺激的な競技であったと語った。彼はおよそ十年に渡る経験を持ち、最近ではバララットにおいて一大会に70試合を裁いたが、今回より激しい闘いを見る機会はなかった。その競技を統制する規定について説明すれば、彼曰くその目的は通常のレスリングにおけるが如き一本を求めることにあらずして、他者に降参を強いる技を得ることであると。スティーヴンソンが用いた、腎臓打ちは、全く許されていた。それは開いた手の縁で、ボクシングにおいて「腎臓パンチ」を食らわすのと同じやり方で打たれ、敵の握りを緩めさせるために用いられた。

 Professor Stevenson said that he had had a difficult man to beat. “Soon after we started I got a double wrist and shoulder-joint lock on his arm, which would have resulted in any ordinary man having his shoulder dislocated had he struggled. But Monier avoided it by turning what I would have thought to be an impossible somersault. I should be glad to meet him again.”

 スティーヴンソンは倒し難い相手であったと語った。「我々が闘い始めて間もなく我は彼の腕を取って手首と肩関節を二重に決めた。それは通常いかなる者ももがけば肩を脱臼させられる結果となる技だった。しかしモニエは我にはあり得ない宙返りと思えた反転によってそれを避けた。彼とは喜んで再戦したい。」

 Monier stated that he was properly a Cumberland and Greco-Roman wrestler, but had a knowledge of ju-jitsu. He admitted that Stevenson had greater experience and knowledge about ju-jitsu than he, but he thought himself stronger and quicker in his movements. He was prepared to have another bout with Stevenson.

 モニエ曰く彼は本来カンバーランドとグレコ・ローマンのレスラーであるが、柔術の知識もあったと。彼はスティーヴンソンが彼よりも経験豊富で柔術について知識があったと認めるが、動きにおいては彼自身がより強くより速いと考える。彼はスティーヴンソンともう一勝負する用意がある。



 「リング」はプロレスやボクシング用の四角いものでなく、サーカスの円形競技場かもしれません。

 次の新聞にも、ほぼ同文の記事があります。紙面イメージはこちらが見やすいです。ただし試合後間もないので、後日談がありません。

FIERCE JU-JITSU CONTEST.  The Advertiser, 10 May 1909
http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/5725141



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  1911.8  「オール・イン」とボクシング




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Barrier Miner   Wednesday 30 August 1911
http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/45162757


BOXING.

拳闘。


 Professor Hill, who will be remembered at the Hill as “Panther Dick,” has lately been hurling challenges out in Adelaide to take on any boxer who fancies he can beat jiu-jitsu. That good “trial horse,” Bungardy, has accepted the challenge, provided Hill consents to the “all in” game. There was some talk of Gus. Devitt taking the professor on, but so far nothing definite has been arranged. Personally I don’t think the “joo-jitsooer” will consent to the “all in” invitation. If he does, there should be “razors a-flying through the air” when the pair got to it, and those who have been complaining that recent boxing matches in the Holy City have been a bit slow, would alter their tune after seeing an “all in” wrestling-boxing mix-up.
 …

 ヒル師範、ヒルの「豹男」として記憶される人物は、近頃アデレードにおいて我こそは柔術を打ち負かし得ると思ういずれのボクサーとも闘うべく挑戦状を投げ付けた。良き「練習台」、バンガーディが、その挑戦を受け、ヒルに「オール・イン」競技の承諾を与えた。ガス・デヴィットが師範を相手に話し合いをしたが、今までのところ明確に取り決められたことは何もない。わたし個人としてはその「柔術屋」が「オール・イン」の招待に応じるとは思わない。もし彼が応じれば、両者が闘い始めた時「宙を飛ぶ剃刀」が出て、聖都における最近のボクシング試合が少々緩慢だと不満を述べていた人達も、「オール・イン」レスリング・ボクシング混合戦を見た後は気を変えるであろう。
(以下略)



 “Professor Hill”はもちろん人名ですが、“the Hill”は地名であろうと思います。豪州には“Broken Hill”という鉱山町があります。

 バンガーディのボクシング戦績を下記サイトで見られます。ガス・デヴィットとも闘っています。

BoxRec  Frank Bungardy
http://boxrec.com/list_bouts.php?human_id=86909&cat=boxer



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  1910、1926 柔術におけるチョップ技




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Chronicle (Adelaide, SA)   Saturday 24 December 1910
http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/89744660


A JIU-JITSU MATCH.
柔術試合。

Broken Hill, December 16.
ブロークン・ヒル、12月6日。

 The Crystal Theatre was crowded tonight on the occasion of a jiu-jitsu wrestling match between Professor Stevenson and “Panther Dick” for the Sedna Cup and a side wager of £65. The match was a strenuous one, both men giving and taking a great deal of punishment. Stevenson appeared much cleverer than his opponent at the “all-in” game, his chopping with the open hand telling with unmistakable effect. The first fall was recorded to Stevenson, and then “Panther” scored, after which it was three all and one draw. In the final bout Stevenson gouged both eyes after rendering “Panther” dizzy by a chop on the back of the neck. “Panther” threw in the towel. This was the eighth bout.

 水晶劇場が込み合ったのは今宵柔術レスリング試合がスティーヴンソン師範と「パンサー・ディック」との間でセドナ杯と双方65ポンドずつの金を賭けて行われた時であった。試合は激戦で、両者は互いに大いに痛め付け合った。スティーヴンソンが彼の敵よりも「何でもあり」勝負に於いては上手らしく見え、彼の開いた手によるチョップは紛れもなく効果的であった。最初の一本はスティーヴンソンの方に記録され、その次に「パンサー」が得点、その後三対三に一引き分けとなった。最終戦に於いてスティーヴンソンが両目をえぐったのは首の後ろへのチョップを以って「パンサー」に目まいを起こさせた後であった。「パンサー」はタオルを投げた。これは第八回戦であった。

 
 スティーヴンソンは日本人柔術家とも闘っています。顎へチョップやパンチを受けて破れたかめだきよ(Kiyo Kameda)が「こんなのは柔術じゃない」とクレームを付けているのが面白い所です。彼の流派に当て身はなかったのでしょうか。しまりゅうごろう(Ryugoro Shima)戦は打撃なしで行われましたが、スティーヴンソンがチョップを使って最後は反則負けになっています。





Northern Star (Lismore, NSW)  Saturday 25 December 1926
http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/93579809


STRANGE BOUT
奇戦

WRESTLING AND JIU-JITSU.
レスリングと柔術。

 Wrestling and jiu-jitsu were combined with somewhat unfortunate results in the match between “Billy” Meeske (13.3), champion of Australia, and the crafty Wyoming (U.S.A.) cruiser-weight “Mike” Yokel (12.9). The introduction of the Japanese art caused the roughest exhibition of mauling ever witnessed in Australia (says the Melbourne ”Argus”). Meeske revelled in the license allowed under the special rules (or absence of rules) of an “all in” contest, and, if points were awarded for initiative and attack, won the honours of six out of eight rounds. But he lost the match by falling a victim to another of Yokel’s extraordinary tricks, by which, while Meeske’s attention was diverted, he was pinned cleanly and neatly in the sixth round.
 
 レスリングと柔術が結合されていささか不幸な結果を伴ったのは「ビリー」ミースク(13.3ストーン)、豪州王者と、老獪なワイオミング州(米合衆国)のクルーザー級「マイク」ヨーケル(12.9ストーン)との間の試合に於いてであった。その日本の技芸の導入が引き起こしたのはこれまで豪州に於いて目撃された内で最も荒っぽい暴行の公開であった(記すはメルボルン「百眼巨人」紙)。ミースクは「何でもあり」競技の特別規定(或いは規定の欠如)の下で許された認可を享受し、そして、もしも得点が主導権と攻撃とに与えられたら、八回戦中六回は栄誉を勝ち得たろう。しかし彼が試合を落としたのはもう一つのヨーケルの突飛な策略の犠牲となった為で、それによって、ミースクの注意がそらされ、彼が綺麗にうまく押さえ込まれたのは六回戦に於いてであった。
 
 The wrestling season opened this year with a painfully rough exhibition between these two splendid athletes. That match was by Meeske, Yokel being disqualified for using the “rabbit-killer” blow, a jiu jitsu chop with the edge of the open palm on the neck. The second match two months ago was lost by Meeske, who retired hurt. In this third bout, the last of the season, by pre-arrangement practically everything was allowed save hitting, kicking, and gouging. The “rabbit-killer” was permitted, except when an opponent was on the mat. Otherwise the men were free to twist fingers and wrists; to knuckle anywhere; or to drive the thumb under the floating rib, on the jugular vein, and into the sciatic and temporal nerves. All these tricks were resorted to, together with such pleasantries as tossing an opponent out of the ring, slapping him in the face, chopping him on the nape of the neck with the forearm, jolting and mauling in the referee hold, and on occasions screwing his ear and nose or swivelling a finger into his earhole.
 
 レスリング開催期は今年これら二人の立派な運動家達の間の痛々しく荒っぽい公開を以って始まった。その試合はミースクによって、ヨーケルが「兎殺し」打ち、開いた手の平の縁による首への柔術チョップ、を用いた理由で失格とされた。第二試合は二ヶ月前ミースクが負け、怪我をして棄権した。開催期の最後、この三度目の勝負に於いては、事前の取り決めによって殴打、蹴り、そして目潰しを除くほぼ全てが認められた。「兎殺し」は、敵がマット上にある時を除いて許された。その他の点では両者は自由に指や手首をひねり、何処も指関節で突き、或いは浮遊肋の下、頚静脈の上、そして坐骨並びに側頭神経に当てて親指を打ち込み得た。これら全ての技が当てにされ、敵をリングから放り出すが如きおふざけと共に、顔を平手打ちし、うなじを前腕でチョップし、行司の支配の内で揺すぶって叩きのめし、そして時には耳や鼻をねじり或いは指を耳穴に入れて回した。
 
 The result of all this mixture at times proved extraordinarily exciting. But the most obvious fact was that jiu-jitsu completely spoiled the interludes of clean wrestling. Neither contestant could hold a wrestling grip for any length of time when jiu-jitsu counters proved so effective. And, wrist-twisting and knuckling are not edifying, though the sight of two of the finest physical specimens ever produced by their respective countries reduced to primeval savagery had an atavistic attraction for the spectators, who numbered about 6500.
 
 全てのこの混合の結果は時に非常に興奮させられるものとなった。しかし最も明白な事実は柔術が純粋なレスリングの間をすっかり台無しにした事であった。柔術の反撃がそれ程に効果的と判明した時何れの選手も如何なる長さの時間もレスリングの掴みを保ち得なかった。そして、手首ひねりと指関節突きは啓発的ではなかったものの、太古の蛮性に復した彼等銘々の祖国により生み出された内で最も素晴らしい身体標本の二つを見る事は観客にとって先祖返りの魅力を持った。観客数はおよそ6500人に達した。
 
 Whatever Yokel did to Meeske was repaid with interest. The Australian outclassed the American in the ingenuity and roughness of his attacks. When towards the close the two indulged in furious exchanges of “rabbit-killers,” Meeske’s boxing skill made Yokel look foolish when he missed with chopping strokes by a foot or more. Headlocks rarely lasted for more than a few seconds, because the pressure of a knuckle or a thumb under the floating rib caused a convulsive jump forward in which the lock was released. Yet in the seventh round Meeske deserves credit for a particularly neat move of clean wrestling in which he held Yokel trapped in the short scissors on the arm for 5 min. 50 sec. This wrestling grip has never better been demonstrated. Yokel straining towards the edge of the mat for freedom got his head up to the ropes when the gong relieved him. His arm was cramped and numb through the leverage.
 
 ヨーケルがミースクにした事は何でも利息を付けて返された。豪州人は攻撃の巧妙さと荒っぽさとに於いて米国人に優った。終盤その両人が「兎殺し」の猛烈な応酬にふけった際、ミースクのボクシング技術がヨーケルをして間抜けに見せしめたのは彼が一足かそこらでチョップ打ちを避けた時であった。頭蓋骨締めが滅多に数秒以上続かなかったのは、浮遊肋の下への指関節ないし親指の圧迫が前方への発作的な跳躍を引き起こしそれに於いて締めが放されるが故であった。しかるに第七回戦に於いてミースクが称賛に値するのは純粋なレスリングの著しく巧みな動きのためでそれに於いて彼はヨーケルを腕鋏み(※ショート・アーム・シザース、キー・ロック)の罠に5分50秒間捕え続けたのであった。このレスリングの掴みがこれ程よく示された事はかつてなかった。ヨーケルは自由を求めて懸命にマットの端の方へ向かい頭がロープに届いた時ゴングが彼を救った。彼の腕は梃子の作用によって締め付けられ痺れていた。

YOKEL’S AMAZING TRICK
ヨーケルの奇策

 Buffeted about the ring, forced more into the defensive than by any other wrestler (Clapham not excepted), and almost literally fighting a losing fight, Yokel had recourse to another of those quaint coups by which he had outwitted better men. Meeske had opened the sixth round with a gruelling headlock on Yokel, in which the agony of a swivelling application of the knuckle forced Yokel to fight desperately for clearance. He slipped out and dropped on the mat, with Meske dancing eagerly in front of him ready to resume the attack. Yokel, in the act of rising, suddenly pointed innocently forward, and said to Meeske, quite casually, “Your trunks are slipping.” Naturally and instinctively, Meeske glanced down at his crimson-slashed blue woollen trunks, and as his attention was diverted, Yokel sprang at him from the mat like a tiger, locked his legs, dumped him heavily backwards on the broad of his back, and pinned him cleanly, having overwhelmed him by surprise. Meeske was furious at the trick played on him. But it was an “all-in” match, and Meeske knows that Yokel characteristically resorts to such dubious methods when hard pressed.
 
 リングで打ちのめされ、他のどのレスラー(クラップハムを除かず)よりも守勢を強いられ、そしてほとんど文字通りの負け戦を戦って、ヨーケルは彼がそれによってより良き者達を出し抜いて来た所のもう一つの奇手を頼った。ミースクは第六回戦をヨーケルへの厳しい頭蓋骨締めを以って開始し、それに於いて指関節の回し当ての苦痛がヨーケルをして死に物狂いで清算の為に闘わしめた。彼は滑ってマットに落ち、ミースクは攻撃を再開しようとして彼の前ではやる思いで身を揺らした。ヨーケルは、立ち上がる動作の内に、突然無邪気に前方を指差して、全く何気なしに、ミースクに対して曰く、「トランクスがずり落ちてるぞ」と。自然にかつ本能的に、ミースクは彼の深紅色の切れ目入りの青い毛織のトランクスを見下ろし、彼の注意がそらされたので、ヨーケルはマットから彼に虎のように跳び掛かり、彼の両脚を抱えて、彼を後方にひどく投げ付けて仰向けにさせ、彼を完全に押さえ込んだ、彼を奇襲で圧倒しつつ。ミースクは彼に行われたその策略に激怒した。しかしそれは「何でもあり」の試合であり、ミースクはヨーケルが特徴として斯様ないかがわしい方法を追い詰められた時には当てにする事を知っているのである。

 That fall was the deciding factor in the match, for thereafter Yokel, who showed the strain of battle, retired more or less into the defensive, and Meeske was unable to win a levelling fall. Three times in the closing rounds Meeske deliberately rolled Yokel out of the ring over the top ropes and on to the press seats, and twice earlier, having fallen over the edge of the ring, the men continued to wrestle out of sight in the accumulated dust under the ring. Apparently while scrambling underneath the ring Meeske carelessly rubbed his hands on Yokel’s faces because the American came up, amid roars of laughter, as black in the face as any negro. Twice thereafter Yokel suffered from a terrible reverse double-wristlock armlock which bent his forearm over like the wing of a trussed chicken. On the second occasion he thrust a thumb into Meeske’s throat and cleared.
 
 その一本がその試合に於ける決定的な要素となったのは、その後ヨーケルが、闘いの疲れを見せて、多かれ少なかれ守勢に回り、そしてミースクが同点となる一本を勝ち取り得なかったが為であった。後の回に於いて三度ミースクは故意にヨーケルを最上のロープ越しにリングから記者席上に転落させ、そしてより早い回には二度、リングの端から落ち、両者はリング下の溜まった塵の中見えない所で闘い続けた。リングの真下から這い上がる際米国人が近付いた為ミースクが不注意にもヨーケルの顔の上で両手をこすってしまい、怒声と笑い声の中、その顔は黒人の様に黒くなった。その後二度ヨーケルは縛られた鶏の羽の様に前腕を曲げ上げる恐ろしい逆腕絡み(※ダブル・リスト・ロック、チキン・ウィング・アームロック)に苦しんだ。二度目には彼はミースクの喉に親指を突き刺して逃れた。

 Had this match been arranged earlier in the season it would have spoiled much good wrestling. The Stadium management would be well advised to keep the game clean, and wrestling free of jiu-jitsu tricks for the future. Meeske has issued a challenge to Yokel to meet him once again in a ”fight to-a-finish” contest of an unlimited number of rounds for £100 a side.
 
 この試合が開催期のより早くに取り決められていたらそれは多くの良きレスリングを台無しにしていたであろう。競技場の経営陣は勝負を立派なものに保つべく、そしてこの先レスリングを柔術技なしに保つべくよく忠告されたであろう。ミースクは双方100ポンドを賭けた無制限回の「完全決着戦」に於いてヨーケルと今一度立ち合うべく彼に対する挑戦を表明した。



※浮遊肋とは - 骨の用語 Weblio辞書
http://www.weblio.jp/content/%E6%B5%AE%E9%81%8A%E8%82%8B

 13.3ストーンは約84kg、12.9ストーンは約82kgです。
 ヨーケルは米国ではレスラーとしての活動しか見つけられません。しかし日本人柔術家と闘ったことはあるようです。
 よってこれは、レスラー対柔術家の異種格闘技戦、ではなくて、レスリングに柔術ルールを取り入れたレスラー同士のオール・イン試合、という所でしょうか。
 1920年代も後半になると、現代のプロレスに大分近付いている感があります。





 格闘技の記事ではありませんが、柔術における「チョップ」という表現の使用例をもう一つ、ご紹介します。なお、ボクシングにおいてはもっと古くから使われています。
 

NATIONAL LIBRARY OF NEW ZEALAND(ニュージーランド国立図書館)
PAPERSPAST(過去の新聞)
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=p&p=home&e=-------10--1----0-all

FOOTBALL.  Otago Witness, 9 December 1908
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&d=OW19081209.2.186&e=-------10--1----0--
(中程、上から19番目の段落。)
 

 I remember reading years ago in a colonial newspaper the following delightful football yarn (says a writer in the Athletic News):― ‘The bright Australian boy is always a quick study. Little in the shape of useful knowledge passes him. On the way to the Carlton football match last Saturday, two gentlemen, in a Brunswick tram, were discussing the prospects of the game. ‘I am sorry to see,’ one of them said, ‘that some of the players are bringing Japanese Jiu Jitsu tricks into the game. I have noticed more than once a quick chop with the edge of the hand on the side of a man’s neck, which seems to paralyse him for a moment.’ The other man expressed concern at such brutality being possible, but his son, of about 14 years, who sat beside him, smiled significantly, and said, ‘Why, father, we’ve got that trick in our school team.’ ” The story was brought to my memory by some recent happenings in Rugby football. …

 思い起こすは数年前植民地の新聞に読んだ次なる愉快な蹴球譚(語るは運動報知の一記者)…「快活なる豪州の少年は常に飲み込みの速き者である。有用な知識という形に於いて彼を素通りするものはほとんどない。先土曜日のカールトン蹴球試合への途上、二人の紳士が、ブランズウィック市街鉄道の中、勝負の予想を談じ合っていた。『残念ながら』彼等の一人が曰く、『幾人かの選手が日本の柔術技を勝負に持ち込みそうだね。わたしは一度ならず手の縁による素早いチョップが人の首の側面に加えられるのに気付いたよ。それは人を一瞬痺れさせるらしい』と。別の男は斯様な蛮行の可能性に懸念を表明したが、しかるに彼の息子、14歳程は、彼の隣に座っていたが、意味ありげに微笑み、そして曰く、『だって、お父さん、僕等もその策略は僕等の学校のチームで取り入れているよ』と。」話は最近のラグビー・フットボールに於ける出来事によって我が記憶に呼び戻されたのであった。 (後略)



 最後に、米国におけるもう少しだけ古い例をご紹介します。


The National Police Gazette  Saturday, November 19, 1904
http://fultonhistory.com/Newspaper%209/New%20York%20NY%20National%20Police%20Gazette%201844-1906/New%20York%20NY%20National%20Police%20Gazette%201904-1905%20Grayscale/New%20York%20NY%20National%20Police%20Gazette%201904-1905%20Grayscale%20-%200340.pdf

What There is in Jiu-Jitsu
The Science Which Enables a Little Man to Successfully Cope With a Big Athlete.
LESSONS IN THE GAZETTE EVERY WEEK
 …
SERIES NO. 97.

 … Certain muscles which had never been previously thought of were developed and put into commission, and there are men in Japan to-day who have so hardened the outside edges of their hands that with a short, chopping blow they can break a piece of marble two inches thick.
 …

 (前略) 以前には決して思いもよらなかった確かな筋肉が発達して就役させられ、そして今日の日本には短い、チョップ打ちを以って二インチの厚さの一片の大理石を砕き得る程に手の外側の縁を堅く鍛えた男達がいる。
 (後略)
 

 
 もっとも柔術家が手刀打ちを紹介しても、必ずしも“chop”とは表現していませんでした。


The Independent   February 9, 1905
http://archive.org/stream/independent58newy#page/319/mode/1up/

Wonderful Jiu-Jitsu
驚くべき柔術       

BY KATSUKUMA HIGASHI
東勝熊著

(321ページ)

 … Other jiu-jitsu blow are given with the little finger edge of the hand, which is hardened for the purpose by use in such blows or by beating it against wood. The advantage which this edge of the hand blow has over the blow with the fist is that it can be delivered without bending the arm―therefore, more swiftly. It is also more effective, because it strikes a smaller surface.
 …

 (前略) 別の柔術の打撃は手の小指の縁を以って行われ、それはその目的の為にこのような打撃に於ける使用によって或いはそれで木を叩く事によって堅く鍛えられる。この手の縁の打撃が拳による打撃に対して持つ有利はそれが腕を曲げる事なしに放たれ得る事である…それ故に、より敏速に。それがまたより効果的であるのは、それがより小さな表面に当たるからである。
 (後略)


追記2015.3.21

 英国での紹介例です。

The Bartitsu Club of New York City
http://www.nycsteampunk.com/bartitsu/club.html
http://www.nycsteampunk.com/bartitsu/curriculum.html

Jiu-Jitsu and Other Methods of Self-Defence By Percy Longhurst 1906
柔術と他の護身法 パーシー・ロングハ-スト著
http://www.nycsteampunk.com/bartitsu/manuals/JuiJitsuAndOtherMethodsOfSelfDefence1906.pdf

P92(このファイルでは114ページ中98ページ目)

 … In this connection it is interesting to note that the Jiu-Jitsuan will sometimes strike thus, but with the toughened little finger edge of his open hand, to bring about a like result.

 (前略)これに関連して記すべき興味深い事は柔術家がしばしば斯くの如く、ただ堅く鍛えられたその開いた手の小指の縁を以って、似た結果を成し遂げるべく、打つであろう事である。



追記2013.9.8

 別ページ「1790-1919 ボクシングにおけるチョップ打ち」もお読みいただけると幸いです。



メニューページ「1911 オール・イン=パンクラチオン=柔拳試合?」へ戻る

http://blog.livedoor.jp/paraestra_weekly/archives/29697206.html








元祖MMA 知られざる「柔拳」の歴史

July 19, 2013 11:56



 明治末期から昭和30年代頃まで、時代のあだ花のように存在した“柔拳”という異種格闘競技があった。“柔拳”は読んで字のごとく、柔道vs拳闘を意味する。柔道家は道衣を着用した柔道スタイルで、ボクサーはグローブを着用したボクサー・スタイルで闘った。まさにアルティメット大会が提唱するミックスド・マーシャル・アーツそのものである。

 しかし現在では柔拳なる競技があったという歴史は、柔道、ボクシングというメジャー格闘技の陰に隠され、ほとんど語られることもなく、残された資料も非常に少ない。そんな歴史の闇へと葬り去られようとしている、柔拳の歴史と技術にスポットライトを当ててみた。


嘉納治五郎の甥が生み出した“柔拳”


 初めて“柔拳”の名称を使用したのは柔道の創始者・嘉納治五郎の甥にあたる嘉納健治である。若くして講道館を飛び出した健治は神戸にあった自分の屋敷で、港に入港してきたマドロスを先生にボクシングを習っていた。グローブもなく、替わりに剣道の籠手を使うような環境だったが、健治はどんどんボクシングに魅入られていく。

 明治42(1909)年、日本でのボクシング普及を目指して、健治はついに地元神戸に道場を開設。この道場の名前が「国際柔拳倶楽部」であった。

 当時の日本人にはまだ馴染みが薄いボクシングを普及させるには、柔道と組み合わせて興行を行うことが一番と賢治は考えたのである。柔道がその海外普及の黎明期に、レスリングやボクシングとの他流試合で名を上げたのの逆パターンである。

 いつの世でも異種格闘技試合というのは、世間の興味を集めるもの。健治が行った柔拳興行も大成功を治め、関西圏はもとより東京でも満員の観客を集めるほどの大きな人気を呼んだ。この時のボクサーはイギリス、ロシア、ドイツなどの外国人が主で、柔道家には吉野秀雄4段などの高段者も柔拳興行に参加していたという。

 現在より段の希少価値が格段に高かった明治時代に、4段という高段者が柔拳に参加しているのは驚きだが、それだけ経済的な成功が大きかったのだろう。イメージ的には、今のK-1人気のような感じだったのだろうか。

 大正11年、後に日本ボクシング界の父と呼ばれる渡辺勇次郎が、“純拳闘”の名で初めてボクシング興行を行った時も、柔拳の人気に押されてか失敗。(オーガナイズ自体にも様々な問題があったようだが)「柔拳のほうがよっぽどおもしろい」というのが世間の反応であったというから凄い。

 しかしこの頃をピークに、本格的なボクシング興行が行われ出すようになるとともに、柔拳は徐々に衰退していく。健治の道場も日本拳闘協会、大日本拳闘会と名を変え、ボクシング専門となった。元々ボクシング普及が主眼だった健治にとって、これは願ったりかなったりだったのだろう。昭和に入ると、柔拳はお祭りなどの見せ物程度に行われるだけになっていた。


第2次大戦後に復活した柔拳


 消滅したも同然だった柔拳が復活したのは、第2次大戦後のこと。東京の萬年藤一氏が中村守恵、木島幸一らを使って旗揚げした「日本柔術連盟」がそれである。沼津で行われたという旗揚げ興行の正確な日付は分からないが、GHQの武道禁止政策が弛められた後の昭和24年から25年頃のことと思われる。

 この日本柔術連盟の黎明期に、ボクサー側のエース、ダイナマイト・ジョージとして活躍したユセフ・トルコの自伝『俺は日本人だ!!』には、彼とそのトルコ人仲間5人の柔拳デビューは、昭和25(1950)年11月に熊本市公会堂で行われた興行であったと書かれている。この日のメインは同年秋に崩壊したプロ柔道のエース・木村政彦のプロレスマッチであった。ちなみにこの翌年、木村は、リオでエリオ・グレイシーを下している。

 旗揚げ後、順調に軌道にのった戦後版柔拳は、北は北海道から南は鹿児島まで年間で100カ所近くを巡業して回ったという。しかし昭和28年にエースだったユセフ・トルコが、力道山との知遇を得て28年プロレスに転向した頃から、人気が下降線に。

 29年にプロレス人気が爆発すると、木島らは柔拳を一時中断し、全日本女子プロレス協会を設立し、こちらを興行の核とした。これが日本の女子プロレスの勃興である。

 しかし目新しさが売り物の女子プロレスにも飽きがくる。昭和30年代に入ると木島らは再び柔拳を復活させ、女子プロレスとの混合興行で全国を巡業するようになる。この時、柔拳の選手としてリングに上がっていたのが、現・全日本女子プロレスの松永高司会長とそのご兄弟である。

 松永兄弟は幼少より柔道を学び、ボクシングはファイティング原田を生んだ名門笹崎ジムで練習を積んだという。特に3男の松永国松氏はA級トーナメントの決勝にまで進出する実力者だったという。

 松永会長によれば、柔拳のルールは1ラウンド3分の3〜6ラウンド制で行われたという。ボクサーはいいパンチが入れば1点、ダウンさせれば2点。柔道家は投げが2点、抑え込みや関節技などで参ったを奪うと1点。一本勝ちも当初はあったが、会長が現役の頃は必ずフルラウンドやらされたという。

「ボクサーはね、怪我したくないから関節が入ったら、我慢しないですぐ参ったするんですよ。それで1ポイントでしょ。柔道は割に合わないよね。こっちは殴れるわけじゃないし、殴られるのしんどいから。だから僕も最初は柔道家でやってたんだけど、途中からボクサーの方に回ったんですよ。色が黒かったから、フィリピン人ボクサー、チャン・マメルトというキャラクターでね。」

 会長は20代中盤の5年ほどを、柔拳の選手として過ごしたという。その後期には6分3ラウンドのタッグマッチが行われたり、バケツを使った凶器攻撃なども行われたというから、格闘技色からプロレス色へ、その性格をシフトさせていったのだろう。

「やはりプロ興行ですからね。毎日同じ相手とやってると、型とかはできてきちゃうんですよ。でも初期の頃はよく飛び入りもさせましたよ。会場で挑戦者を募って。外国人たちはボクシング的には素人だったけど、力はあったからね。ケンカも強かったし。ちょっと柔道をやったぐらいじゃ勝てなかったね。柔道家は目をつぶっちゃうから、メッタ打ちされたちゃうんです。僕らはボクシングやってたから、パンチが見えたんですよ。それに柔拳には柔拳の型があってね…」と、言いながら立ち上がった会長は弟の健司氏とともに、様々な型を見せてくれた。

 それらは唯一、柔拳の記述がある「ザ・格闘技」(小島貞二著)という書籍に描かれたものと全く同じであった。

 『左半身に構える。左ヒジを垂直に曲げ、拳を顔面の前に置き、右足はやや幅広く引く。正面からのパンチは左拳とヒジでかわす。もし右のストレートが、その左腕の壁を破ってグーンと伸びて来たときは、顔面を思いきり引いて外す。さらに相手の左が来るときは、左右の手でグローブをはさむ。上下からたたきつけるようなはさみ方がいい。抜こうとするその体勢の乱れが、柔道家の思うつぼとなる。足を払ってもいいし、巻き投げに行ってもいい。あとの料理はさほど難しいことではない。』(「ザ・格闘技」より抜粋)

 やはりこの試合スタイルでは、パンチを捕らえられるかどうかが、攻防の焦点であり一番の面白みであったという。


柔道家がボクサーに対するときの技術

 

 現在の柔道家に対して、「ボクサーと闘ったらどうなるか?」というような、総合格闘技的な質問をすることは無意味だと思うし、タブーだろう。しかしまだ柔道が武道だった時代の柔道家たちは、対ボクサー対策を現実問題として真剣に考えていたようだ。

 昭和16年に発行された講道館七段・星崎治名氏の技術書『新柔道』は、「拳闘に對する柔道家の心得」と題して、ボクサーとの対戦法に丸々一項目を費やしている。非常に興味深い内容なので、少し長いが引用してみる。

『Boxerに對する柔道家の心得も知悉しておく必要がある。否其必要に現在迫られては居ないか。(中略)Boxerとの試合には柔道家も必ず二・三ケ月、拳闘を練習することが第一必要だ。必勝を期する為めに。現在の日本の軽量選手に對しては割合に楽な試合が出来ても重量選手が出現して来た場合に具える必要がある。

 或る人は柔道の當て身を使ふたらと云っている。勿論これも結構だが観衆に好感を持たして綺麗に勝利を得る方法とすれば矢張りBoxingの練習を第一條件とする。』

 続けてフットワーク習得の重要性と練習法を詳しく解説している。

『これが出来れば相手のboxerがpunchをしやうとする時、片足をあげて蹴り乍らこれを防御する練習をspeedyに出来る丈耐久的に精進をつづける。(中略)次が飛び込で投げる技の練習だ。(中略)一瞬敵勢に応じて自由自在にかけられる練習を行ふ。片手丈つかんだ場合、両腕をつかんだ場合と夫々相當な研究と試練を経ることが第一だ。これが出来あがれば逆絞を簡単に変化してとれるspeedyの練習を最後として準備工作は全く出来上がるのである。これ丈の練習には少なくとも六・七ヶ月要する。』

 そしてこの項目の最後は次のように結ばれている。『Wrestlingに對するよりBoxingに對する方が柔道家としては一層慎重な用意と自身が必要なことは極言する迄もない。日本傳武士道の精華のためにこれ丈の気持と用意を以て雌雄を決して欲しいものだ。要は準備工作如何に存する。勝負の数は天に在り。』

 

●参考文献

「ボクシング百年」郡司信夫 時事通信社 1966

「ザ・格闘技」小島貞二 朝日ソノラマ 1976

「力道山以前の力道山たち」小島貞二 三一書房 1983

「俺は日本人だ!!」ユセフ・トルコ ジャパン・プロレスリング・ユニオン 1982

「日本プロレス全史」ベースボールマガジン社 1995

「Lady's 週刊ゴング Vol,29 1998年7月14日増刊号」日本スポーツ出版社 1998

「新柔道(全)」星崎治名 秋豊園出版部 1941

[出典]不明(2003年)

    若林太郎 記名原稿



■解説 / 若林太郎(2013.7.19.筆)


 依頼を受けて2003年7月に執筆した原稿です。何の雑誌に掲載されたかは忘れてしまいました。掲載時は別のタイトルをつけていたはずですが、残っていたデータになかったので今回改めてつけました。

 柔拳に関する資料は極めて少なく、数少ない資料をひねくりまわしてなんとか原稿の形したものです。丹念に昔の資料を探してわけではなく、少ない時間をやりくりして書いた原稿だけに誤記なども多々あると思われます。また参考文献の内容に関しても、ひとつひとつ検証を行うことはできませんでした。

 幸甚だったのは、当時全盛を誇っていた全日本女子プロレスの松永高司会長に、柔拳に関するインタビューができたことです。何しろ戦後の柔拳に関しては生き証人でしたから、これだけでも貴重です。この頃私は、VTJ96に堀田祐美子選手の試合をマッチメイクしたことから縁が出来て、全女のバーリ・トゥード路線の選手ブッキングなども担当しており、お話を伺うことができたわけです。

 時間をかけて資料を探せば、まだまだいろいろな事実が出てきそうな柔拳ですが、それは今後の研究者やライターの方にお任せしたいと思います。
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