治安維持法 特高の拷問による獄死者は194人、獄中病死者が1503人、逮捕者は数十万人



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治安維持法





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治安維持法

日本国政府国章(準)
日本の法令

通称・略称
治維法

法令番号
昭和16年3月10日法律第54号

効力
廃止

種類
公法、刑事法

主な内容
国体変革・私有財産制否定を目的とする結社・運動の取締

関連法令
刑法、(旧)刑事訴訟法、破壊活動防止法

条文リンク
constitutional law
ウィキソース原文
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治安維持法(ちあんいじほう、昭和16年(1941年)3月10日法律第54号)は、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。当初は、1925年に大正14年4月22日法律第46号として制定され、1941年に全部改正された。

とくに共産主義革命運動の激化を懸念したものといわれているが、やがて宗教団体や、右翼活動、自由主義等、政府批判はすべて弾圧・粛清の対象となっていった。



目次 [非表示]
1 経緯 1.1 前身
1.2 法律制定
1.3 廃止

2 その歴史的役割
3 その後
4 その他
5 脚注 5.1 注釈
5.2 出典

6 関連項目
7 外部リンク


経緯[編集]

前身[編集]

1920年(大正9年)より、政府は治安警察法に代わる治安立法の制定に着手した。1917年(大正6年)のロシア革命による共産主義思想の拡大を脅威と見て企図されたといわれる。また、1921年(大正10年)4月、近藤栄蔵がコミンテルンから受け取った運動資金6500円(現在の価値で約1300万円)で芸者と豪遊し、怪しまれて捕まった事件があった。資金受領は合法であり、近藤は釈放されたが、政府は国際的な資金受領が行われていることを脅威とみて、これを取り締まろうとした。また、米騒動など、従来の共産主義・社会主義者とは無関係の暴動が起き、社会運動の大衆化が進んでいた。特定の「危険人物」を「特別要視察人」として監視すれば事足りるというこれまでの手法を見直そうとしたのである。

1921年(大正10年)8月、司法省は三宅正太郎らが中心となり、「治安維持ニ関スル件」の法案を完成し、緊急勅令での成立を企図した。しかし内容に緊急性が欠けていると内務省側の反論があり、1922年(大正11年)2月、過激社会運動取締法案として帝国議会に提出された。「無政府主義共産主義其ノ他ニ関シ朝憲ヲ紊乱」する結社や、その宣伝・勧誘を禁止しようというものだった。また、結社の集会に参加することも罪とされ、最高刑は懲役10年とされた。これらの内容は、平沼騏一郎などの司法官僚の意向が強く反映されていた。しかし、具体的な犯罪行為が無くては処罰できないのは「刑法の缺陥」(司法省政府委員・宮城長五郎の答弁)といった政府側の趣旨説明は、結社の自由そのものの否定であり、かえって反発を招いた。また、無政府主義や共産主義者の法的定義について、司法省は答弁することができなかった。さらに、「宣伝」の該当する範囲が広いため、濫用が懸念された。その結果、貴族院では法案の対象を「外国人又ハ本法施行区域外ニ在ル者ト連絡」する者に限定し、最高刑を3年にする修正案が可決したが、衆議院で廃案になった。

また、1923年(大正12年)に関東大震災後の混乱を受けて公布された緊急勅令 治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)も前身の一つである。これは、治安維持法成立と引き替えに緊急勅令を廃止したことで、政府はその連続性を示している。

法律制定[編集]

1925年(大正14年)1月のソビエト連邦との国交樹立(日ソ基本条約)により、共産主義革命運動の激化が懸念されて、1925年(大正14年)4月22日に公布され、同年5月12日に施行[注釈 1]。

普通選挙法とほぼ同時に制定されたことから、飴と鞭の関係にもなぞらえられ、成人男性の普通選挙実施による政治運動の活発化を抑制する意図など、治安維持を理由として制定されたものと見られている。治安維持法は即時に効力を持ったが、普通選挙実施は1928年まで延期された。 法案は過激社会運動取締法案の実質的な修正案であったが、過激社会運動取締法案が廃案となったのに治安維持法は可決した。奥平康弘は、治安立法自体への反対は議会では少なく、法案の出来具合への批判が主流であり、その結果修正案として出された治安維持法への批判がしにくくなったからではないかとしている[3]。

ウィキソースに治安維持法中改正ノ件の緊急勅令の法文があります。

1928年(昭和3年)に緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)により、また太平洋戦争を目前にした1941年3月10日にはこれまでの全7条のものを全65条とする全部改正(昭和16年3月10日法律第54号)が行われた。

1925年(大正14年)法の規定では「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」を主な内容とした。過激社会運動取締法案にあった「宣伝」への罰則は削除された。

1928年(昭和3年)改正の主な特徴としては
「国体変革」への厳罰化1925年(大正14年)法の構成要件を「国体変革」と「私有財産制度の否認」に分離し、前者に対して「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」として最高刑を死刑としたこと。「為ニスル行為」の禁止「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」として、「結社の目的遂行の為にする行為」を結社に実際に加入した者と同等の処罰をもって罰するとしたこと。改正手続面改正案が議会において審議未了となったものを、緊急勅令のかたちで強行改正したこと[4][5]。
があげられる。

1941年(昭和16年)法は同年5月15日に施行されたが、
「国体ノ変革」結社を支援する結社、「組織ヲ準備スルコトヲ目的」とする結社(準備結社)などを禁ずる規定を創設したこと。官憲により「準備行為」を行ったと判断されれば検挙されるため、事実上誰でも犯罪者にできるようになった。また、「宣伝」への罰則も復活した。刑事手続面従来法においては刑事訴訟法によるとされた刑事手続について、特別な(=官憲側にすれば簡便な)手続を導入したこと、例えば、本来判事の行うべき召喚拘引等を検事の権限としたこと、二審制としたこと、弁護人は「司法大臣ノ予メ定メタル弁護士ノ中ヨリ選任スベシ」として私選弁護人を禁じたこと等。予防拘禁制度刑の執行を終えて釈放すべきときに「更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著」と判断された場合、新たに開設された予防拘禁所にその者を拘禁できる(期間2年、ただし更新可能)としたこと。
を主な特徴とする。
検挙対象の拡大
 1935年から1936年にかけて、思想検事に関する予算減・人員減があった。 1937年6月の思想実務者会同で、東京地裁検事局の栗谷四郎が、検挙すべき対象がほとんど払底するという状況になっている状況を指摘し、特高警察と思想検察の存在意義が希薄化させるおそれが生じている事に危機感を表明した[6]。 そのため、あらたな取締対象の開拓がめざされていった。治安維持法は適用対象を拡大し、宗教団体、学術研究会(唯物論研究会)、芸術団体なども摘発されていった。

廃止[編集]

1945年(昭和20年)の敗戦後も同法の運用は継続され、むしろ迫り来る「共産革命」の危機に対処するため、断固適用する方針を取り続けた。同年9月26日に同法違反で服役していた哲学者の三木清が獄死している。10月3日には東久邇内閣の山崎巌内務大臣は、イギリス人記者のインタビューに答えて、「思想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けてをり、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する」方針を明らかにした。

1945年8月下旬から9月上旬において、司法省では岸本義広検事正を中心に、今後の検察のあり方について話し合いを行い、天皇制が残る以上は治安維持法第一条を残すべきとの意見が出ていた[7]。ほか、岩田宙造司法大臣が政治犯の釈放を否定している。

1945年10月4日、GHQによる人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により廃止と山崎の罷免を要求された。東久邇内閣は両者を拒絶し総辞職、後継の幣原内閣によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止された。また、特別高等警察も廃止を命じられた。

GHQから指示された人権指令には、10いくつかの法律が「廃止すべき法令」として列挙されていたが、実際には戦前の治安法規は85もあった。そのため日本政府は、すでに列挙されている10いくつかの法律は廃止せざるをえないが、そこに列挙されていない法律は意図的に見逃すことによって人権指令を無内容化し、最低限の実施で切り抜けようとした。そのため、たまたま見つかった治安警察法は廃止されたが、それ以外の法律は廃止リストに無かったため、その後も残されることになった[8]。

人権指令の実施にあたっては、GHQと内務省、司法省との間で折衝が行われている。治安維持法の廃止直後に「大衆運動ノ取締ニ関スル件」が閣議決定されて、GHQとの折衝の結果、治安維持法廃止の4日後に「大衆運動ノ取締ニ関スル件」が、新たな治安法規として登場している。この件について、GHQと日本政府はあうんの呼吸を持っていたとされる[9]。

治安維持法廃止から10日後の1945年10月26日に、内務省と司法省は共同の新聞発表を行い、朝鮮人や中国人などの「多衆運動に伴う各種犯罪」に対しては、「もっぱら既存法規をもって取締処分せんとするにすぎない」と発表し、社会不安が濃厚な社会状況に対しては、旧来の法令によって厳重な取締りを行うと宣言している。旧来の法令とは、人権指令で廃止を免れた暴力行為等処罰ニ関スル法律や、行政執行法、行政警察規則、警察犯処罰令、爆発物取締罰則などを指しており、戦前の治安法規の本体である治安維持法や治安警察法が廃止されたことを受けて、その周辺にあった治安法規が前面に出てくることになった。予防検束を可能にしていた行政執行法の適用は、1945年には27万人だったが、1946年には64万人に倍増している[10]。

戦前には法律として冬眠状態にあった爆発物取締罰則の活用が期待されるようになり、爆発物取締罰則の第一条が、GHQや日本政府に対する批判的な社会運動の取締りや、新たな「国体護持」の役割を、治安維持法などに代わる治安法規として担うことになった[11]。

その歴史的役割[編集]

当初、治安維持法制定の背景には、ロシア革命後に国際的に高まりつつあった共産主義活動を牽制する政府の意図があった。

そもそも当時の日本では、結社の自由には法律による制限があり、日本共産党は存在自体が非合法であった。また、普通選挙法とほぼセットの形で成立したのは、たとえ合法政党であっても無産政党の議会進出は脅威だと政府は見ていたからである。

後年、治安維持法が強化される過程で多くの活動家、運動家が弾圧・粛清され、小林多喜二などは取調べ中の拷問によって死亡した。ちなみに朝鮮共産党弾圧が適用第一号とされている(内地においては、京都学連事件が最初の適用例である)。

1930年代前半に、左翼運動が潰滅したため標的を失ったかにみえたが、以降は1935年(昭和10年)の大本教への適用(大本事件)など新宗教(政府の用語では「類似宗教」。似非宗教という意味)や極右組織、果ては民主主義者や自由主義者の取締りにも用いられ、必ずしも「国体変革」とは結びつかない反政府的言論への弾圧・粛清の根拠としても機能した。もっとも、奥平は右翼への適用は大本教の右翼活動を別にすれば無かったとしている[12]。

奥平康弘は1928年(昭和3年)改正で追加された「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」の禁止規定が政権や公安警察にとって不都合なあらゆる現象・行動において「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」の名目で同法を適用する根拠になったと指摘している[13]。不都合な相手ならば、ただ生きて呼吸していることでさえ「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」と見なされ逮捕された。こうした弾圧は公安警察という組織の維持のために新しい取り締まり対象を用意することに迫られた結果という一面もあったといわれる。

また、治安維持法の被疑者への弁護にも弾圧・粛清の手が及んだ。三・一五事件の弁護人のリーダー格となった布施辰治は、大阪地方裁判所での弁護活動が「弁護士の体面を汚したもの」とされ、弁護士資格を剥奪された(当時は弁護士会ではなく、大審院の懲戒裁判所が剥奪の権限を持っていた)。さらに、1933年(昭和8年)9月13日、布施や上村進などの三・一五事件、四・一六事件の弁護士が逮捕され、前後して他の弁護士も逮捕された(日本労農弁護士団事件)。その結果、治安維持法被疑者への弁護は思想的に無縁とされた弁護人しか認められなくなり、1941年の法改正では、司法大臣の指定した官選弁護人しか認められなくなった。

治安維持法の下、1925年(大正14年)から1945年(昭和20年)の間に70,000人以上が逮捕され、その10パーセントだけが起訴された。日本本土での検挙者は約7万人(『文化評論』1976年臨時増刊号)、当時の植民地の朝鮮半島では民族の独立運動の弾圧に用い、2万3千人以上が検挙された。

日本内地では純粋な治安維持法違反で死刑判決を受けた人物はいない。ゾルゲ事件で起訴されたリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実は死刑となったが、罪状は国防保安法違反と治安維持法違反の観念的競合とされ、治安維持法より犯情の重い国防保安法違反の罪により処断、その所定刑中死刑が選択された。そこには、死刑よりも『転向』させることで実際の運動から離脱させるほうが効果的に運動全体を弱体化できるという当局の判断があったともされている。ゾルゲ事件では他にも多くの者が逮捕されたにもかかわらず死刑判決を受けたのはゾルゲと尾崎だけだった。戦後ゾルゲ事件を調査したチャールズ・ウィロビーはそれまで持っていた日本に対する認識からするとゾルゲ事件の多くの被告人に対する量刑があまりにも軽かったことに驚いている[14]。

とはいえ、小林多喜二や横浜事件被疑者4名の獄死に見られるように、量刑としては軽くても、拷問や虐待で命を落とした者が多数存在する。日本共産党発行の文化評論1976年臨時増刊号では、194人が取調べ中の拷問・私刑によって死亡し、更に1503人が獄中で病死したと記述されている。

さらに、外地ではこの限りではなく、朝鮮では45人が死刑執行されている[15]。それ以外の刑罰も、外地での方が重い傾向にあったとされる[16]。

その後[編集]

治安維持法を運用した特別高等警察を始めとして、警察関係者は多くが公職追放されたが、司法省関係者の追放は25名に留まった。池田克や正木亮など、思想検事として治安維持法を駆使した人物も、ほどなく司法界に復帰した。池田は追放解除後、最高裁判事にまでなっている。

1952年(昭和27年)公布の破壊活動防止法は「団体のためにする行為」禁止規定などが治安維持法に酷似していると反対派に指摘され、治安維持法の復活という批判を受けた。その後も、治安立法への批判に対して治安維持法の復活という論法は頻繁に使われている(通信傍受法(盗聴法)、共謀罪法案など)。

第二次世界大戦後は治安維持法については否定的な意見が主流といわれる。しかし、保守派の一部では、治安維持法擁護論もあり、また現在における必要性を主張する論者もいる。

1976年(昭和51年)1月27日、民社党の春日一幸が衆議院本会議で宮本顕治のリンチ殺人疑惑を取り上げた際、宮本の罪状の一つとして治安維持法違反をそのまま取り上げた。そこで、宮本の疑惑の真偽とは別に、春日は治安維持法を肯定しているのかと批判を受けた。

藤岡信勝は『諸君!』1996年4月号の「自由主義史観とはなにか」で「治安維持法などの治安立法は日本がソ連の破壊活動から自国を防衛する手段」と全面的に評価し、ソ連の手先と名指しされた日本共産党などから強い反発を受けた。中西輝政も『諸君!』『正論』などで、同様の主張を行っている(『諸君!』2007年9月号「国家情報論 21」。『正論』2006年9月号など)。

いずれも、反共主義の立場から「絶対悪としての共産主義」を滅ぼすためには当然の法律であったという肯定論である。

その他[編集]

1948年(昭和23年)に、韓国の刑法が制定される前に、左翼勢力と反対勢力を除去するために制定された韓国の国家保安法は、日本の治安維持法を母体としている[17]。

脚注[編集]

注釈[編集]

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1.^ 勅令により当時は日本の植民地であった朝鮮、台湾、樺太にも施行され[1][2]、独立運動も含めて内地同様の取り締まりを行った。

出典[編集]

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1.^ 治安維持法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行ス (勅令案)
2.^ 治安維持法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件・御署名原本 (大正十四年・勅令第一七五号)
3.^ 奥平康弘『治安維持法小史』 岩波書店〈岩波現代文庫〉、2006年6月。ISBN 9784006001612 pp.55-56
4.^ これには、当時から憲法違反との指摘が根強かった。『安保法制の何が問題か』参照
5.^ 荻野富士夫 「解説:治安維持法成立「改正」史 Ⅲ 治安維持法の改悪―第二次治安維持法」『治安維持法関係資料集 第4巻』 新日本出版社、1996年3月25日、584-596頁。hdl:10252/4433。
6.^ 荻野富士夫 『思想検事』 岩波書店〈岩波新書〉、2000年9月。ISBN 9784004306894
7.^ 向江璋悦 『鬼検事』 法学書院 p.89~90
8.^ 荻野富士夫 『横浜事件と治安維持法』 樹花舎 p.211-213
9.^ 荻野富士夫 『横浜事件と治安維持法』 樹花舎 p.213
10.^ 荻野富士夫 『横浜事件と治安維持法』 樹花舎 p.213-214
11.^ 荻野富士夫 『横浜事件と治安維持法』 樹花舎 p.214-215
12.^ 前掲、奥平 pp.229-230
13.^ 前掲、奥平 pp.115-120
14.^ 『赤色スパイ団の全貌 : ゾルゲ事件』福田太郎訳、東西南北社刊、1953年
15.^ 水野直樹 「日本の朝鮮支配と治安維持法」
16.^ しんぶん赤旗 2006年9月20日号 「治安維持法で多くの朝鮮の人が死刑 本当ですか?」
17.^ 閔炳老「論説 韓国の国家保安法の過去、現在、そして未来-憲法裁判所の判決に対する批判的考察- (PDF) 」 、『比較法学』第33巻第1号、早稲田大学比較法研究所、1999年7月1日、 105-163頁、2015年3月22日閲覧。

関連項目[編集]

治安警察法
破壊活動防止法
憲兵
大政翼賛会
特別高等警察
テロリズム
反共主義
白色テロ
横浜事件
京都学連事件
予防拘禁
思想犯保護観察法
人民戦線事件
第二次大本事件
三宅正太郎
尼港事件
母べえ
蟹工船
新興俳句弾圧事件
小林多喜二
粛清
大粛清
反革命罪
モスクワ裁判


外部リンク[編集]

ウィキソースに治安維持法 (大正十四年法律第四十六号)の原文があります。
治安維持法 - アジア歴史資料センター
治安維持法閣議決定書 史料にみる日本の近代 国立国会図書館


http://www.designroomrune.com/magome/daypage/02/0220.html
































馬橋(東京杉並区)の家に帰ってきた小林多喜二の遺体を囲む人たち ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用しました 出典:『小林多喜二(新潮日本文学アルバム)』



小林多喜二

小林多喜二


昭和8年2月20日(1933年。 84年前の2月20日)、 小林多喜二(29歳)が、特高警察に捕らえられ東京築地警察署(map→)に連行された後、同日19時45分に死亡しました。

警察は死因を心臓麻痺とし、「(警察には)何の手落ちもなかった」 と説明しました。 しかし、翌日遺族にもどされた多喜二の体は無惨に腫上がり、下半身は内出血でどす黒くなっていたのです。 明らかに警察で拷問を受けた痕ですが、警察を恐れて解剖を引き受ける病院がなかったといいます。彼の死を悼んで通夜、告別式を訪れた人たちもことごとく検束されました。

佐多稲子(29歳)は多喜二の遺体が戻された21日に駆けつけた一人で、その時のことを『二月二十日のあと』に書き、翌3月に発表。多喜二の亡骸にすがりついて慟哭する母セキの姿を描き出しました。 多喜二は苦労に苦労を重ねている母を「人力車へ乗せてやることばかりを考えていた」という親思いの子どもだったのです。

多喜二の死を知って、志賀直哉(50歳)が日記に書いています。

小林多喜二、二月二十日(世の誕生日)に捕へられ死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会はぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持ちになる

多喜二は志賀を慕っており、高校在学中から手紙を書き続けました。昭和5年、5年半勤めた北海道拓殖銀行を依願退職という形で解雇された多喜二は、東京に出てきますが、同年、日本共産党に献金したという理由だけで逮捕されます。「治安維持法」があるとこういうことができてしまうのでしょう。翌昭和6年、保釈されて、奈良の志賀の家を訪ねています。多喜二は志賀の子どもの相手を良くし、志賀に対しても理屈っぽいことを言わないで終始和やかに過ごしたようです。多喜二には悲壮なイメージがつきまといますが、じつは、チャップリンや藤原義江(当時の人気歌手)のマネをして周りを笑わせるヒョウキンな一面がありました。志賀は、保釈中の多喜二を一晩家に泊めています。多喜二の死を知った後には、多喜二の母セキに慰めの手紙も書いています。

当時の警視庁特高部長は安倍 源基 げんき (のちに全国警友会連合会会長)で、その配下の、特高課長の毛利 基 もとい (のちに埼玉県警幹部)、特高係長の中川成夫(のちに滝野川区長<滝野川区は現在の東京都北区南部にあたる>、東映取締役)、警部の山県為三(のちにスエヒロを経営)の3人らが取り調べにあたったとのこと。安倍が特高部長だった昭和8年には、多喜二の他にも18名、取調べで死亡しています。

多喜二がどういった拷問を受けたかは、受けた本人が死んでしまったのではっきりしませんが(多喜二と一緒に捕まった詩人・今村恒夫からの聞き取りはある)、昭和3年3月15日からの共産主義者の大検挙(三・一五事件)のおりに警察が検束者に加えた拷問の様子を、多喜二自身が取材をもとにして、小説『一九二八年三月十五日』に書いています。似たような拷問があったのではないでしょうか。

・・・渡は×にされると、いきなりものも云はないで、後から(以下十行削除)手と足を硬直さして、空へのばした。ブルブルつとけいれんした。そして、次に彼は××失つてゐた。 ・・・(中略)・・・水をかけると、××ふきかへした。・・(中略)・・・「この野郎!」一人が渡の後から腕をまはしてよこして、×を×かゝつた。「この野郎一人ゐる為めに、小樽がうるさくて仕方がねエんだ。」
 それで渡はもう一度×を失つた。
 渡は××に来る度に、かういふものを「お×はりさん」と云つて、町では人達の、「安寧」と「幸福」と「正義」を守つて下さる偉い人のやうに思はれてゐることを考へて、何時でも苦笑した。・・・(中略)・・・彼は強烈な電気に触れたやうに(以下六十六字削除)大声で叫んだ。
「××、××──え、××──え!!」
それは竹刀、平手、鉄棒、細引でなぐられるよりひどく堪えた。・・・(中略)・・・××××毎に、渡の身体は跳ね上つた。
「えツ、何んだつて神経なんてありやがるんだ。」
渡は歯を食ひしばつたまま、ガクリと自分の頭が前へ折れたことを、××の何処かで××したと思つた・・・(小林多喜二『一九二八年三月十五日』より)

伏字や削除箇所があっても、警察官による拷問の凄まじさが伝わってきます。「三・一五事件」当日から、多喜二のいた北海道小樽でも200~300名が逮捕・検束され拷問を受けました。『一九二八年三月十五日』は事実にもとづいて書かれたもので、上の文の「渡」という人物は当時小樽合同労組組織部長の渡辺利右衛門がモデルになっています。当時は上のような伏字や削除がある形でしか世に出せませんでしたが、今は、岩波書店が出している版などで、多喜二が書いたままの形で『一九二八年三月十五日』を読むことができます。※上の引用箇所の伏字・削除箇所の復元→



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多喜二に限らず、戦前・戦中、当局の思想弾圧を受けた人はたくさんいます。

高見順

高見順


馬込作家に限っても、日本プロレタリア作家同盟の城南地区のキャップだった高見順(25歳)は、多喜二が死亡したのと同じ月に大森警察(map→)に拘留され、 「お前も小林のようになりたいのか」 と脅されながら拷問を受けました。 多喜二の死は、格好の見せしめになったのです。

間宮茂輔

間宮茂輔


やはり同年(昭和8年)、全協の中央部にいた間宮茂輔(34歳)も投獄され、拷問を受けました。 3年後に出獄した時は歩けないほど衰弱していたといいます。

この頃から非戦論者(共産主義者の中にも「革命的戦争」は肯定する人がいたと思われるが・・・)の弾圧が苛烈になるのは、十五年戦争の発端ともいわれる昭和6年9月18日勃発の満州事変が無関係でないでしょう。

社会運動だけでなく宗教運動も弾圧されました。当地(大田区糀谷)に拠点があった「日蓮会殉教衆青年党」は、法華経の中の「不惜身命ふしゃくしんみょう 」(命を顧みないで一心に打ちこむこと)を「死のう」と現代的に言い換えて、「死のう」と唱えながら行脚していたところ、神奈川県警の特高に拘束され、テロ団体と疑われて、棒で殴る、蹴る、煙草の火を押し付けるなどの拷問を受けました。女性党員には性的な拷問もあったといいます。 新聞は警察発表をうのみにして、「死のう団」(マスコミが「日蓮会殉教衆青年党」につけた蔑称)が政治家や他派宗教家の暗殺を計画しているとデタラメを報道してしまったようです。やはり昭和8年のことです。

創価学会も、昭和18年6月、牧口常三郎(初代会長。72歳)、戸田城聖じょうせい (2代会長。43歳)を含む幹部たちが、治安維持法と不敬罪で逮捕されて、牧口は昭和19年11月18日、獄死しています。創価学会会員は“治安維持法”の恐さが身に染みていることと思います。

市川正一

市川正一


多喜二の死の4年前(昭和4年)、日本共産党の大幹部・市川正一(当時37歳)が、当地(馬込)で大捕り物の末、逮捕されています。市川は、下獄して16年経った昭和20年3月、宮城刑務所で亡くなりますが、 身長168センチだった彼が死亡時は体重が31キロになっていたといいます。まだ53歳でしたが、刑務所は彼の死因を「老衰」としました。

戦前・戦中に思想犯としておよそ7万人が検挙され、その内拷問死した人は194名。 獄死した人は1,503人に上るといいます。



『小林多喜二(新潮日本文学アルバム)』 小林多喜二 『蟹工船 一九二八・三・一五 (岩波文庫) 』。発表当初、伏字・削除処理された箇所が復元されている*
『小林多喜二 (新潮日本文学アルバム)』 小林多喜二 『蟹工船 一九二八・三・一五 (岩波文庫) 』。発表当初、伏字・削除処理された箇所が復元されている

三浦綾子『母 (角川文庫) 』。多喜二の母セキの生涯 荻野富士夫『特高警察 (岩波新書) 』
三浦綾子『母 (角川文庫) 』。多喜二の母セキの生涯 荻野富士夫『特高警察 (岩波新書) 』

「いのちの記憶 -小林多喜二・二十九年の人生- [DVD]」。(北海道放送) 伊豆利彦『戦争と文学 ―いま、小林多喜二を読む』(白樺文学館多喜二ライブラリー)
「いのちの記憶 -小林多喜二・二十九年の人生- [DVD]」。(北海道放送) 伊豆利彦『戦争と文学 ―いま、小林多喜二を読む』(白樺文学館多喜二ライブラリー)


■ 馬込文学マラソン:
・ 志賀直哉の『暗夜行路』を読む→
・ 高見順の 『死の淵より』 を読む→
・ 間宮茂輔の 『あらがね』 を読む→
・ 佐多稲子の『水』を読む→

■ 参考文献:
●参考文献1: 「プロレタリア作家・小林多喜二の拷問死」(菊地正憲) ※『新潮45』 平成18年2月号 P.62-64 ●参考文献2:『小林多喜二(新潮日本文学アルバム)』 (昭和60年発行) P.81、P.94-96、P.108 ●参考文献3: 『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行) P.76、P.107 ●参考文献4: 『高見順 人と作品』 (石光葆 清水書院 昭和44年初版発行 昭和46年2刷参照) P.57 ●参考文献5:『六頭目の馬 ~間宮茂輔の生涯~』
 (間宮武 武蔵野書房 平成6年発行) P.179-193 ●参考文献6: 『不屈の知性 ~宮本百合子・市川正一・野呂栄太郎・河上肇の生涯』(小林榮三 新日本出版社 平成13年初版発行 平成13年2版参照) P.148 ●参考文献7:『凛として立つ(佐多稲子文学アルバム)』(菁柿堂 平成25年発行) P.74-75 ●参考文献8: 『昭和史発掘(5)』(松本清張 文藝春秋 昭和42年初版発行 昭和49年27刷参照)P.290-291 ●参考文献9: 「死のう団事件」※月刊「おとなりさん」(平成17年2月号 P.15~25 ハーツ&マインズ)

■ 参考サイト:
・ ウィキペディア/●小林多喜二(平成24年12月19日更新版)→ ●安倍源基(平成29年1月22日更新版)→ ●治安維持法(平成29年2月15日更新版) ●創価学会(平成29年2月18日更新版)→

・「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。/1933年3月15日 多喜二労農葬→

・ 日本共産党/●「しんぶん赤旗」2007年3月15日/小林多喜二の小説「一九二八年三月十五日」のモデルは?→ ●「しんぶん赤旗」2006年8月17日/小林多喜二らを虐殺した特高に勲章 本当ですか?→

※当ページの最終修正年月日
2017.5.1

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http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20131212/1386866289

2013-12-12



■[歴史][身辺雑記]治安維持法の犠牲者数について、大屋教授が忘れているか気づいていないことCommentsAdd StarNakanishiBedopurpleGl17flurrya-lex666GerardNakanishiBNakanishiBBUNTEN

問題は読解力か表現力か - 法華狼の日記に対して、大屋雄裕教授*1から下記ツイートが返ってきた。



@takehiroohya: ちなみに文化評論1976年臨時増刊号(日本共産党)によると、治安維持法で逮捕されて取調べ中に拷問・私刑によって死亡したのは194人だとのこと。 RT @hatenaidcall: id:hokke-ookamiさんから言及がありました URL

2013-12-13 00:12:55 via TweetDeck


@takehiroohya: 絶対的な数として少ないとか無視していいとか言う気はないけど、逮捕者ー起訴者=6万3千人と比べるとごく少数であり、やはりほとんどは起訴されず釈放されたとしか言えないだろう(その前に拷問されてる可能性はもちろんある)。またしても数字の否認か、という感じ。

2013-12-13 00:15:38 via TweetDeck


@takehiroohya: なおこの間に短いものですが原稿一つ書きました。「秘密と近代的統治:「特定秘密」の前に考えるべきこと」。詳細はいつも通り掲載されてからにしますが、アクセプトされて載ったらまた馬鹿が怒るんだろうなあ。

2013-12-13 00:19:28 via TweetDeck

大屋教授が参照している資料を持っていないので、どれほど治安維持法について詳細に書かれているかは知らない。誰がどのような数字を否認していると主張したいのかもわからない。


しかし、そもそも7万人という数字は送検者数であって逮捕者数ではないはずなのだ。せっかくだから日本共産党による説明を引こう。

治安維持法とはどんな法律だったか?


政府発表は治安維持法の送検者75,681人、起訴5,162人ですが、一連の治安法規も含めた逮捕者は数10万人、拷問・虐待による多数の死者が出ました。

つまり発端となった@SagamiNoriaki氏のツイートは不正確だったわけである。



@takehiroohya: 20年で7千人なら年間平均350人なので、現代における殺人の半分。結構レアでは。 RT @SagamiNoriaki 治安維持法は二十年の間に七万人が国内で検挙されたというひどさだが、起訴されたのはその十分の一だったという。案外と少ないなあと思ったが、七千人は普通に多いな…

2013-12-07 23:43:46 via Janetter for Android

SagamiNoriaki氏は後に逮捕者数が異なる説へ言及したツイートもしていたが*2、大屋教授は逮捕者数を過小評価していることに全く気づかなかったままらしい。

私へ反論するエントリで「ここで私の統計の読み方が違っているとかいう話なら健全な批判なのだが、もちろん法華狼氏の解釈は左斜め上に飛んでいくことになる」*3などと書いていたので、わざと細かな間違いを残したまま数字を操っているのではないかとすら疑っていたのだが。


むろん、虐殺された死者数を額面どおり受け取るのも危険である。

治安維持法の犠牲者は戦後どう扱われたの?


拷問で虐殺されたり獄死した人が194人、獄中で病死した人が1503人、逮捕された人は数十万人におよびます(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟調べ)。

かつてアパルトヘイトを題材にした映画を見た時のことを思い出す。EDクレジットで流れる死者リストの少なくない数が、病死や事故死と表記されていた。もちろん記録された死因であり、実態をそのまま反映したものではない。だからこそ、国家権力が二度にわたって人格を殺したという痛みを感じた。今でも印象に残っている。



Permalink | コメント(12) | トラックバック(1) | 01:38


*1:ツイッターアカウントは@takehiroohya。

*2:http://twitter.com/SagamiNoriaki/status/409521273237028865でのこと。ただし法政大学サイトのhttp://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-119.htmlに「被検挙者総数は八万人に近いと思われる」と書いているのを引いたツイートをRTし、それを最終見解にしたようだ。http://twitter.com/SagamiNoriaki/status/409523250725548032

*3:http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000926.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-09-22/20050922faq12_01_0.html



2005年9月22日(木)「しんぶん赤旗」

治安維持法の犠牲者は戦後どう扱われたの?


 〈問い〉 戦前、戦争に反対して特高に拷問され命を落とした人が少なくないと聞きました。平和の礎(いしずえ)となった、こうした人びとをけっして忘れてはいけないと思います。治安維持法の犠牲者にたいして戦後、政府はどんな扱いをしたのですか?(愛知・一読者)



 〈答え〉 1925年施行の治安維持法は、太平洋戦争の敗戦後の45年10月に廃止されるまで、弾圧法として猛威をふるいました。拷問で虐殺されたり獄死した人が194人、獄中で病死した人が1503人、逮捕された人は数十万人におよびます(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟調べ)。

 この法律は思想そのものを犯罪とし、天皇制をかえて国民主権の政治を願った日本共産党員には最高、死刑という重罰を科すものでした。また、活動に少しでも協力すれば犯罪とされ、宗教者や自由主義者も、弾圧の対象とされました。

 戦後、当然この法律は廃止されました。しかし、治安維持法で弾圧された犠牲者にたいしては「将来に向かってその刑の言渡を受けなかったものとみなす」とされただけで、なんの謝罪も損害補償もされませんでした。一方、拷問・虐殺に直接・間接に加わった特高たちは何の罪にも問われませんでした。

 ドイツやイタリアでは、第二次大戦時のナチス政権下の犠牲者や「反ファシスト政治犯」犠牲者に対しての国家賠償を早くに実施しています。戦争犠牲者に対する戦後補償は国際社会の常識です。日本弁護士連合会も「公式に謝罪をし、肉体的、精神的被害に関する補償を含めた慰謝の措置をとることが、侵害された人権の回復措置として必要不可欠である」と勧告しています。

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟は、1968年に当時の犠牲者や遺族、家族の人びとを中心に、設立されました。治安維持法の時代の実態やその教訓を学び、治安維持法など戦前の悪法で弾圧の被害をうけた犠牲者に国としての責任を認めさせ、謝罪させ、国家賠償をおこなう法律を制定するよう、運動をすすめています。その後、国家賠償要求同盟は、直接に被害をうけた人や親族の運動にとどまらず、ふたたび戦争と暗黒政治の復活を許さないためにたたかう多くの人たちが加入、犠牲者に対する国家賠償法の制定を要求する国会請願行動を毎年続けています。(喜)

 〔2005・9・22(木)〕

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-03-15/20060315faq12_01_0.html



2006年3月15日(水)「しんぶん赤旗」

戦前も拷問は禁止されていたのでは?


 〈問い〉 「3月15日事件」後、特高の拷問虐殺がひどくなったそうですが、拷問は戦前の法律でも禁止されていたのでは? 戦前戦後の国会は多喜二の虐殺などにどう対応したのですか?(東京・一読者)



 〈答え〉 拷問を認めた制度は、徳川時代の幕府法令による「拷問法」を手直ししただけで、明治政府になってからもつづいていました。近代国家の警察として自白絶対必要主義を証拠主義に改め、拷問を禁止したのは1879年10月でした(太政官布告「拷問無用、右に関する法令は総て削除」)。この太政官布告と刑法による拷問の禁止は、法律的には敗戦後まで存続していました。

 しかし実際には、拷問は、日常茶飯事におこなわれていました。とくに1928年3月15日の共産党弾圧の後は、拷問の目的が自白強要だけでなく、小林多喜二や岩田義道のときのように、虐殺を目的にした行為に変質しました。戦前、特高の拷問で虐殺されたり獄死したりした人は194人、獄中で病死した人は1503人にのぼります(治安維持法国家賠償要求同盟調べ)。

 拷問・虐殺は、多くの記録や写真、証言で明白になっているのに警察・検察、裁判所、それに報道機関もグルになってその事実を握りつぶしました。〔35年4月5日、京都・西陣署での鰐淵清寅(21歳)の虐殺で警部補が「特別公務員暴行致死罪」で懲役2年(執行猶予2年)の判決をうけた。拷問虐殺をした人物が起訴され、有罪の判決をうけた例は戦前はこの一件だけとみられる〕

 特高警察は、多喜二虐殺のときは死因を科学的に追及されることを恐れ、遺体解剖を妨害し、岩田義道のときは、殺人罪で告訴した父母を検事局が脅かして告訴を取り下げさせています。

 国会では、戦前1929年2月8日に山本宣治代議士が、戦後76年1月30日に不破書記局長がそれぞれ政府を追及していますが、国民周知の拷問の事実を認めず、「承知していない」「答弁いたしたくない」(戦前は秋田内務次官、戦後は稲葉法相)とまったく同じ答弁をしています。

 戦後、日本国憲法は第36条に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と明記しました。これは戦争の惨禍につながった野蛮な弾圧を、ふたたび繰り返すまいという決意がこもったものです。しかし、戦後も特高的体質は引きつがれ、代用監獄が残り、自白強要のための拷問(不眠・絶食・殴打・長時間取り調べ等)例が多く知られています。

 この問題は、靖国問題と並び戦前をきちんと決着していない恥部ともいえるものです。(喜)

〔2006・3・15(水)〕


http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:kYViFNNRfp4J:https://plaza.rakuten.co.jp/1492colon/diary/201308060000/&num=1&hl=ja&gl=jp&strip=1&vwsrc=0

2013.08.06
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治安維持法 (2)


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 今日は広島の原爆忌。安倍君の挨拶の虚しさが際立ちました。

 時々、戦争関係の記事を書いてみたいと思います。

 まず、「治安維持法」について。

 「ウィキペディア」を読みますと、「日本内地では純粋な治安維持法違反で死刑判決を受けた人物はいない。ゾルゲ事件で起訴されたリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実は死刑となったが、罪状は国防保安法違反と治安維持法違反の観念的競合とされ、治安維持法より犯情の重い国防保安法違反の罪により処断、その所定刑中死刑が選択された」と書いてあります。で、粗忽にここだけを引用して「治安維持法で死刑になった人間はいない」という主張がいまだに出てくるのですが、その下を見ると、「さらに、外地ではこの限りではなく、朝鮮では45人が死刑執行されている。それ以外の刑罰も、外地での方が重い傾向にあったとされる」と記してあります。当時朝鮮半島、そして1932年からは満州も実質的な植民地となるわけです。「日本国内」のわけです。

 「治安維持法の下、1925年(大正14年)から1945年(昭和20年)の間に70,000人以上が逮捕され、その10パーセントだけが起訴された。日本本土での検挙者は約7万人(『文化評論』1976年臨時増刊号)、当時の植民地の朝鮮半島では民族の独立運動の弾圧に用い、2万3千人以上が検挙された」

 「小林多喜二や横浜事件被疑者4名の獄死に見られるように、量刑としては軽くても、拷問や虐待で命を落とした者が多数存在する。日本共産党発行の文化評論1976年臨時増刊号では、194人が取調べ中の拷問・私刑によって死亡し、更に1503人が獄中で病死したと記述されている。」

 これが「治安維持法で死刑になった人間はいない」という事の実態です。

 さて、「ウィキ」のラストに「藤岡信勝は『諸君!』1996年4月号の「自由主義史観とはなにか」で「治安維持法などの治安立法は日本がソ連の破壊活動から自国を防衛する手段」と全面的に評価し、ソ連の手先と名指しされた日本共産党などから強い反発を受けた。中西輝政も『諸君!』『正論』などで、同様の主張を行っている(『諸君!』2007年9月号「国家情報論 21」。『正論』2006年9月号など)。いずれも、反共主義の立場から「絶対悪としての共産主義」を滅ぼすためには当然の法律であったという肯定論である」とあります。

 藤岡や中西といったまともな学者は誰も相手にしない連中の言説をそのまま引き写しているような人士もいるようですが、『治安維持法』(潮見俊隆 岩波新書)『特高警察』(荻野富士夫 岩波新書)『思想検事』(荻野富士夫 岩波新書)の三冊を読むと、中西と藤岡の言説のいい加減さが分かります。これは、「ウィキ」でもはっきり書いてあるのですが、まずは対象の拡大です。大本教をはじめとする宗教団体、さらには自由主義者、民主主義者への取り締まりにも治安維持法は使われています。これが、「共産主義を滅ぼすための法」なのでしょうか?

 1932年の『特高教科書』では、「特高警察を『いわゆる反国家運動、すなわち国家の政治的法律的存在を危うくせんとする運動の取り締まりを任務とするもの』と定義」しています。『特高警察』p58

 ここにさらに「国体の本義を護る」という「任務」が付け加えられて、「被疑者」の範囲は極めて恣意的にひろげられていくのです。

 さらに、上記の三冊が指摘しているのが、警察内部の功名争いです。検挙者にたいして当初はまだまだ自制(世論の動向、マスコミの報道などにより)していた拷問が戦中ともなりますと、まったくと言っていいほど歯止めがかからなくなります。

 彼らはもちろん口には「国体護持」を叫び、「共産主義者撲滅」を呼号しています。しかしその実態は昇進したいがためのなりふり構わぬ摘発とでっち上げです。

 「1920年代の警視庁特高課の特高係と労働係の確執、『横浜事件』の背景の一つといえる警視庁特高に対する神奈川県特高の異常な競争心などが想起される。また、1940年前後から、治安維持の主導権を巡って特高警察と経済警察(経済統制を取り締まる警察組織 引用者注)の対立も見られた。これらは警察内部での不協和音を生みつつ、それぞれがライバルより優位に立とうと活動に拍車をかけることになり、その結果として社会運動の抉り出しや国民生活・思想の監視と抑圧の度合いをさらに高めることとなった」『特高警察』p55

 そして最大の問題は、戦前・戦中と特高の仕事を職務としていた者、思想検事の職にあった者たちが、戦後、続々と復活していることです。

 まず特高関係者に批判の声が挙がりますが、内務省保安課長、検閲課長をはじめとして多くのものがGHQによる罷免を免れています。そして思想検事たちはその大半が見逃され、マスコミも追及もしていません。そして彼ら「生き残り組」は戦後の公安警察へと吸収されていくのです。「検察の中央に旧思想検事派が位置する」ことになります。『思想検事』p200

 彼らは当然のことながら戦前と戦中の自己の行為に対して自己弁護をくり返し、藤岡と同じように「共産主義を滅ぼすためには必要であった」という理由のもとに、「転向については『反共政策の具体的な成功として誇っても良い』『ジュリスト』1952年7月15日号」とまで言っているのです。『思想検事』p201



 日本は確かに8月15日を機として大きく変わりました。しかし、引き継がれた思想、人的に連続している面も多々あることを忘れてはならないと思います。

 日本は岸伸介が首相になり、その孫の安倍が首相になっている国であることを忘れてはなりません。
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