経済にゆきづまると思想に走る 北朝鮮が「思想強国」を自称していると聞いたらどうだろう。なるほど、「経済強国」にはなれないが、イデオロギーの面ではある意味「強い国」だと妙な納得感を覚えるかもしれない。だが、経済にゆきづまって思想に走るのはなにも北朝鮮だけの話ではない。経済は元手が必要なためおのずと制約を受けるが、思想は実態がないため際限なく派手な議論ができる。かつて日本も同じ理由で一種の「思想強国」になろうとしたことがあった。























http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51610

ゼロからわかる日本スゴイ論の元祖『国体の本義』の支離滅裂っぷり
「教育勅語」の次はコレか?

辻田 真佐憲

文筆家
近現代史研究者

プロフィール







経済にゆきづまると思想に走る

北朝鮮が「思想強国」を自称していると聞いたらどうだろう。なるほど、「経済強国」にはなれないが、イデオロギーの面ではある意味「強い国」だと妙な納得感を覚えるかもしれない。

だが、経済にゆきづまって思想に走るのはなにも北朝鮮だけの話ではない。

経済は元手が必要なためおのずと制約を受けるが、思想は実態がないため際限なく派手な議論ができる。かつて日本も同じ理由で一種の「思想強国」になろうとしたことがあった。

昭和戦前期。日本は、世界恐慌の深刻化と共産主義の流行からくる「思想国難」に悩まされていた。

思想問題を担当する文部省は、これに対処するため、1934年思想局を設置し、1937年『国体の本義』を編纂して、思想の力で国難突破を図ったのである。

この『国体の本義』の内容は、前代未聞のものだった。世界の思想問題は、日本が解決すると言い放ったからだ。

同書冒頭の「緒言」はいう。



日本は歴史上、中国やインドに由来する東洋文化を受け入れ、国体のもとで醇化(純化)してきた。ところが、明治以降はあまりに急いで欧米の文化を受け入れたため、それらをうまく検証し醇化するいとまがなかった。

ここに、今日の日本をめぐる思想的・社会的な困難の原因がある。

そもそも、日本が受け入れてきた西洋思想は、18世紀以降の啓蒙思想およびその延長の思想であり、個人に至上の価値をおいている。実証主義、自然主義、理想主義、民主主義、社会主義、無政府主義、共産主義などすべてそうだ。

欧米においても、こうした個人主義のゆきづまりが指摘され、ファシズムの台頭を招きつつある。

西洋文化はこれからも広く受け入れるべきだ。ただ、それは万古不易の国体のもとで十分に醇化されなければならない。そのためにも、われわれは国体の本義を解明し、体得しておく必要がある。

今日の様々な困難は、以上のプロセスによってのみ解決される。これは日本のためだけではなく、個人主義のゆきづまりに悩む世界人類のためにもなるのである――と。

『国体の本義』はかくも大言壮語する。ひとによっては、その魅力に取りつかれてしまうかもしれない。

また同書は、敗戦後にGHQの「神道指令」によって頒布を禁止されたため、「禁断の書」などと呼ばれ、あたかもそこには隠された歴史の真実があるかのような印象を振りまいてもいる。

顧みればここ数年、政治家の口から古めかしい言葉が相次いだ。「八紘一宇」「天壌無窮の神勅」「教育勅語」……。

わたしは、そのつぎにくる「復古風アイテム」のひとつがこの『国体の本義』ではないかと踏んでいる。『国体の本義』こそ、戦前日本のイデオロギーの集大成だからだ。その内容の充実ぶりは、「教育勅語」などとは比較にならない。

備えあれば憂いなし。

ここで『国体の本義』の歴史や内容についてあらかじめ知っておくのも無駄ではないだろう。

NEXT ▶︎ 『国体の本義』はこうして生まれた

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「思想国難」に対処する文部省

まず、『国体の本義』編纂の歴史から振り返ってみたい。

1929年10月、ニューヨークを震源として世界恐慌が発生し、翌年日本でも深刻な恐慌を引き起こした。

全国で失業者が急増し、社会不安や生活苦から労働争議や小作争議が頻発した。また、公務員や学生の赤化事件も相次いだ。

経済が好転すれば、こうした問題も一挙に解決したのかもしれないが、それは容易なことではなかった。

そこで、思想面での解決が徐々に重要視された。

1930年代なかばには、「国体明徴」(すばらしい日本の国柄を明らかにして共産主義に対抗すること)と「教学刷新」(その国柄にもとづいた文教政策を推し進めること)が唱えられるようになった。

『国体の本義』は、以上の流れのなかで、「日本の国柄とはなにか?」という核心的な問題に応えるため、文部省が1937年3月付で刊行・頒布した冊子である(1943年11月までに173.3万部を刊行)。

この冊子に関わったものの数は多いが、基本的には、文部省思想局長の伊東延吉によって発案され、国民精神文化研究所助手の志田延義によって起草されたと考えてよい。

文部官僚の伊東延吉は、思想問題のエキスパートとして知られた。会議の席上で「いまの自分の発言は皇祖皇宗のみむねを、皇祖皇宗が自分に語らしめるのである」と発言するほど過剰な自信の持ち主だったという。

一方、国文学者の志田延義は、20数名いた編纂委員と編纂調査嘱託の意見などを取りまとめる役割を果たした。

文部省は1920年代後半から1930年代前半にかけて、「思想国難」に対処するための部署(学生課→学生部→思想局)や研究機関(国民精神文化研究所)を設置し、その拡張に努めてきた。

その成果がここでついに発揮されたわけである。



日本人は個人主義を超越する?

それでは、つぎに『国体の本義』の内容をみてみたい。

『国体の本義』は、「緒言」「第一 大日本国体」「第二 国史に於ける国体の顕現」「結語」の4部からなる。

「第一 大日本国体」では、国体と国体の本義がつぎのように定義づけられる。

「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである」

簡潔な説明だが、これだけだと抽象的でわかりづらい。『国体の本義』の特色は、諸外国と比較しながら、日本の国柄の優位性をこと細かに説明するところにある。

以下では、便宜的に4つにまとめてみたい。

NEXT ▶︎ 日本人の使命とは何か







第一に、君主について。

外国の君主の位は、智・徳・力にもとづく。ところが、智・徳・力は時代とともに移りゆくため、革命は避けられない。

これに対し、日本の天皇の位は、「天壌無窮の神勅」(後述)にもとづく。そのため、万世一系で絶対に揺らぐことがない。

第二に、君臣関係について。

西洋諸国の人民は、独立した個々の人間の集合である。そのため、君主との関係は、支配服従・権利義務で成立している。

これに対し、日本の臣民は、生まれながらにして天皇に奉仕するものである。それゆえ、天皇に対する絶対随順は、止みがたき自然の心の現れにほかならない。天皇と臣民の関係は本質的に「没我一如」であって、両者の間にいかなる対立も存在しえない。

第三に、生活の基本について。

西洋人の生活の基本は、個人であり夫婦である。それゆえ、西洋人は、利益や個人的・相対的な愛にもとづいて団体を形成する。

これに対し、日本人の生活の基本は、家である。日本人は家を基本単位とし、皇室を宗家とする一大家族国家を形成する。

第四に、日本人の精神性について。

諸外国は個人主義に立脚する。そのため、協同・妥協・犠牲などはありえても、本当の和は成り立たない。

これに対し、日本では、個々はあくまで全体のなかの部分として存在する。そのため、本当の和である「大和」が成り立つ。

――ひとことでいえば、諸外国は個人主義にもとづくのに対し、日本はそうではない。それゆえ、日本人は天皇と一体であり、全体の一部であり、家族を単位とし、不和対立を起こさないというのである。



つづく「第二 国史に於ける国体の顕現」は、日本の国柄を具体的な歴史や文化のなかで説明していく。

たとえば、武士道については、「生死は根本に於て一であり、生死を超えて一如のまことが存する」とされ、「没我一如」のあらわれだとされる。

また敬語についても、「没我帰一の精神は、国語にもよく現れてゐる。国語は主語が屢〻表面に現れず、敬語がよく発達してゐるといふ特色をもつてゐる。これはものを対立的に見ずして、没我的・全体的に思考するがためである」とされ、やはり「没我一如(=帰一)」のあらわれだと説かれる。

このように、ありとあらゆる現象が「国体の本義」から演繹されるのである。

そして最後の「結語」では、国体のもとで西洋文化の摂取・醇化し、新しい日本文化を創造し、世界文化の発展に貢献することこそ日本人の使命であると改めて強調される。

NEXT ▶︎ 丁寧に読んだら無茶苦茶だ…


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日本特殊論の失敗例として

『国体の本義』は、以上のように、様々な事例を持ち出して日本の優位性を怒濤のごとく説明していく。今風にいえば、「日本スゴイ」をかき集めて、きわめて精密に体系化したようなものだ。

それゆえ、中途半端に手を出すと、その説明に引きずり込まれてしまう恐れがある。

もちろん、落ち着いて読めば、『国体の本義』は様々なつまみ食いの集積だとわかる。

皇位の絶対性・不動性を証明する「天壌無窮の神勅」(天皇家が日本を永遠に統治すべきだとする天照大神のメッセージ)にしても、『日本書紀』に由来する神話にすぎない。

『国体の本義』の編纂当時すら、津田左右吉によって批判的に検証されていたぐらいだ。国体の根拠がこんなものでは、あまりに心もとない。



また、君民一体にしても、歴史をすこし振り返れば、日本人が天皇を冷遇・軽視した例は数え切れないほど見つかる。これで「天皇に対する絶対随順は、止みがたき自然の心の現れ」といわれても無理があろう。

そもそも『国体の本義』は、深い思索の結果生まれたものではなく、共産主義に対抗する必要から編まれたものである。そのため、丁寧に読んでいくと、無数の粗が際立ってしまう。

戦時下には、国体イデオロギーの指導書として尊重された面もあったが、敗戦後には一挙にその影響力を失った。GHQの禁止などなくてもそうなっただろう。

その意味では『国体の本義』は、いまや歴史的な資料のひとつにすぎない。

ただし、現在は「八紘一宇」や「天壌無窮の神勅」などが政治家の口から飛び出す時代である。『国体の本義』も、何かのきっかけで評価されないとは言い切れない。

まして今日の日本では、経済的な衰退から、思想問題が持ち上がりつつある。かつて政治的・社会的な問題は、経済的なバラマキである程度解決できたが、いまやそれができなくなり、左右のイデオロギー対立がむき出しになっているのである。

愛国教育、国旗国歌問題、道徳の教科化、家族主義、文教族の台頭などは、こうした変化の兆しでもある。

そのなかで、体系的な『国体の本義』は魅力的に見えるかもしれない。

だからこそ、いまのうちにその芽をつんでおく必要がある。『国体の本義』は、いまでは珍妙な骨董品にすぎないのだと。しかも、それは土台の部分が揺らいだ欠陥品なのだと。

『国体の本義』は、日本特殊論の失敗例としてのみ今後参照されるべきだろう。「思想強国」路線は他山の石としなければならない。

(バックナンバーはこちら http://gendai.ismedia.jp/list/author/masanoritsujita)


文部省の研究

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51461

「昔の家族は良かった」なんて大ウソ! 自民党保守の無知と妄想
家庭教育支援法案の問題点

広田 照幸

日本大学文理学部教授


プロフィール







自民党は今国会で「家庭教育支援法案」の提出をめざしている。

この法案に対しては、「改憲への布石」という議論もあるが、ここでは、別の視点からこの法案の問題点を洗い出してみたい。

「家庭教育支援法案」とは何か

全15条からなるこの法案は、建前上は、家庭教育のあり方自体を細かく定めたものではない。

国や地方自治体、学校や保育所、地域住民等が分担・連携して家庭教育を支援する仕組みを作ろうとするものである。この点は注意が必要である。

「家ニ対スル我ガ国固有ノ観念」とか「家族制度ノ真精神」とか「鍛錬ヲ重ンジ」とかが並んでいた戦時中の議論(1941年6月教育審議会「家庭教育ニ関スル要綱」答申)に比べると、家庭教育の中身を行政権力が直接いじり回そうとする法案ではないように見える(しかし、結果はそうなってしまう、ということを後で論じる)。

ただし、この法案は、家庭教育の中身にまったく触れていないわけではない。



「基本理念」を定めた第2条において、どういう家庭教育が望ましいのか、どういう保護者が望ましいのかを間接的に定義してしまっている。

下線を引いた箇所である。狡猾なやり方である。1項は教育基本法の文言をそのままなぞっており、2項はこの法案オリジナルである。

第2条1項 家庭教育支援は、家庭教育が、父母その他の保護者の第一義的責任において、父母その他の保護者が子に生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めることにより行われるものであるとの認識の下に行われなければならない。
第2条2項 家庭教育支援は、家庭教育を通じて、父母その他の保護者において、子育ての意義についての理解が深められ、かつ、子育てに伴う喜びが実感されるように配慮して行われなければならない。

とはいうものの、このレベルの記述は、まだ抽象的なものにとどまっている。これを余計なおせっかいと思う人もいるだろうし、この程度のことはもっともなことが書かれていると思う人もいるだろう。

「もっともなことが書かれている」と思う人には、ぜひこの続きを読んでみてほしい。

だが、私の見立てでは、これはかなりヤバいことが起きてしまう。

後で述べるように、「教育のため」という論理は歯止めが利かないうえ、いかようにも解釈できてしまう。子育て中の家庭へのとめどない行政や地域権力の介入を許すことになってしまうのだ。

NEXT ▶︎ この法案はどこから来たのか?

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改正された教育基本法のその先へ

この法案の性格を考えるためには、この法案がどこから出てきたのかという問いについて考えてみる必要がある。

一つには、2006(平成18)年に改正された教育基本法から出てきた、という答えを示すことができる。家庭教育支援法案の第1条では、明確に「教育基本法(平成十八年法律第百二十号)の精神にのっとり」と謳われている。この法案の根拠法は、現行の教育基本法である。ちなみに教育基本法第10条は次の条文である。

第10条  父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2  国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。

この第10条1項の文言は、上で述べた通り、家庭教育支援法第2条1項にそのままコピペされている。この第10条2項では「国及び地方公共団体は、……家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」となっている。これが、今回の法案につながる動きの根拠になっているのである。

2006年に改正される前の旧教育基本法では、家庭教育については次のように書かれていた。ずいぶんあっさりと書かれていたことがわかる。

旧教育基本法 第7条(社会教育)
 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によつて奨励されなければならない。

これは、戦争中の過剰な統制や干渉に対する痛切な反省から、家庭教育や社会教育など成人を対象にした教育では、行政がふみこみすぎてはいけなという考え方がとられ、あえて「奨励」という線でとどめられていたのである。

それに対して、前に見た2006年に改正された教育基本法の条文づくりには、国民の家庭教育を政治の力でいじり回したいという保守政治家の野心が作用していた。「奨励」では抽象的過ぎて飽き足りない、というわけである。

そこで、保護者の責任が書き込まれたうえ、「生活のために必要な習慣」だの「自立心を育成」だのと、教育の中身について書き込んでしまったのである。これが、今回の法案によって、さらにもう一歩、先に進められようとしている。



自民党と文科省――合流した2つの動き

この法案はどこから来たのか? という問いへのもう一つの答えは、「自民党と文科省だ」という答えになる。ただし、両者は一体ではない。

自民党の議員は、保守的な家族イデオロギーから「よい家族」像を決めつけて、家庭教育に行政が関与できる具体的な立法をめざしてきた。自民党が野党になった時期(2009~12年)に、自民党内部は思いっきり右翼的な方向に振れた。

そのときに、安倍晋三氏を会長とする超党派の「親学推進議員連盟」が発足(2012年4月)した。同議連では、「伝統的な子育て」と彼らが考える子育てのイデオロギー(「親学」)を内容として盛り込んだ、家庭教育を支援するための法案作りが模索された。

それがいったん頓挫した後、昨年秋からの家庭教育支援法案の提出の動きは、この人たちが進めているものである。

もう一つの法案作りに向けた動きは、文科省内部で進んできていた。2006年12月の教育基本法改正を受け、2008年ごろから文科省内部で、家庭教育支援のあり方の検討が始められてきていた。2011年度からは、学者や有識者を集めて、次のような検討委員会が検討を進め、報告書をまとめてきた。

2011年度 家庭教育支援の推進に関する検討委員会
2013年度 中高生を中心とした子供の生活習慣づくりに関する検討委員会
2013年度 家庭教育支援チームの在り方に関する検討委員会
2014年度 中高生を中心とした子供の生活習慣が心身へ与える影響等に関する検討委員会
2015年度 家庭教育支援手法等に関する検討委員会
2016年度 家庭教育支援の推進方策に関する検討委員会

これらの検討委員会のメンバーを見ると、意外なことに、右翼的なメンバーはほとんど入っていない。むしろ、リベラルな人たちが大半である。

これらの検討委員会では、格差社会の中で取り残されて誰からも助けを得られないような家族に手を差し伸べる、というイメージで、家庭教育支援を議論してきている。

いわば、主たるターゲットとして、「生活困難―低学力や荒れ―結果としての貧困の連鎖」といった問題に対する施策として、家庭教育支援を検討してきているのである。

今回の法案に関しては、ひょっとすると、文科省の役人は、自民党の政治家たちの法案作りに手を貸しているかもしれない、と私は想像している。自民党の先生方が作ったにしては、家庭教育の内容に関する記述が抑制的であるからである。

つまり、過去の家族を妄想的に理想化する保守政治家の熱意と、現代の格差社会の中で孤立した家族を支援しようとするリベラルな文科省の考え方とが、同床異夢で合体したのが、今回の家庭教育支援法案だというふうに私は考えている。

NEXT ▶︎ 過去に対する無知と妄想


「昔の家族は良かった」のウソ

では今回の法案の何か問題なのか。ここでは4つの問題点を指摘したい。

第一に、家族や家庭教育についての認識に問題がある。

自民党の先生方の「伝統的な子育て」を賛美する「親学」を含めて、「昔の家族は良かった」というのは過去に対する無知と妄想である。「昔は親がしっかり子どもをしつけていた」という命題も「家庭の教育力が低下している」という命題も、いずれもまちがいである。

庶民の暮らしを見ると、乳児は兄や姉や子守の背中に、ただ一日中くくりつけられていたし、幼児は親の目の届かないところで放任されていた。親子間の会話は現代に比べてはるかに低調であったし、親には「子どもを理解してやろう」などという姿勢はなかった(広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、広井多鶴子・小玉亮子『現代の親子問題』日本図書センター、等を参照されたい)。

「現代の親子関係は希薄化している」「家族のことをかえりみない親が増えている」「現代の青少年は規範意識が薄らいでいる」などというのもウソである。少しだけデータを示しておく。

図1は、統計数理研究所が5年おきに行ってきた「日本人の国民性」調査の結果である。「あなたにとって一番大切なもの」として「家族」を挙げる比率が、戦後一貫して増加してきたことを読み取ることができる。「家族こそが一番」という人は増え続けてきているのである。



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図2と図3は、全国学力・学習状況調査(いわゆる全国学テ)で、中学3年生の規範意識を尋ねたものである。

「当てはまる」「どちらかといえば当てはまる」を足した数字で見ると、学校の規則を守っているとか、いじめをいけないことだと思う比率はともに9割を超えている。人が困っているときに進んで助けていると答えた割合は83.8%、人の役に立つ人間になりたいと思っている割合は92.8%に上る。




【平成28年度 全国学力・学習状況調査 報告書】(全国の中学3年生が回答)

1 当てはまる
2 どちらかといえば,当てはまる
3 どちらかといえば,当てはまらない
4 当てはまらない
その他、無回答

図2 日常生活の規範意識







図3 社会生活の規範意識







現代は「家族の時代」だし、大半の子どもは規範意識も含めてまともに育っている。少年非行の統計を見ても、過去最低の水準になっている。

保守派の政治家が描いている、過去や現在の家族像は妄想だらけなのである。家庭教育や子育てを論じようとする政治家は、せめてもっと過去の歴史や現在の調査データをきちんと学んでほしい。

とはいえ、現代の家族に問題がないわけではない。

文科省の検討委員会で指摘されてきているような、家族の規模の縮小と家族の孤立化、家庭と地域との関係の希薄化(親子関係の希薄化ではない)などは、確かに実証的に見ても確認できる。一部の家庭では、誰からも援助のないまま生活がすさんで、子どもを放任したり虐待したりしている。

ではそういう層の家庭に対してどうしたらよいのか。この問いへの答えは最後に論じることにして、もう少し今回の法案の何か問題なのかを考えていく。

NEXT ▶︎ 教育に正解はあるか?


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家庭教育には多様な考え方がある

今回の法案の2番めの問題は、家庭教育の中身については多様な考え方があることが軽視されている点である。

行政が講座を開く際にどういう人を呼んで話をしてもらうのか、あるいは、NPOや地域の人が子育て家庭に関わって支援していく際に、この点が簡単に忘れられてしまうことが危惧される。

次の図は、「子供は幼い時期は自由にさせ、成長に従って厳しくしつけるのがよい」という考え方に対する賛否を、日本と米国、韓国の間で比較した調査の結果である(内閣府「子供と家族に関する国際比較調査概要」)。




子どもを「堕落しやすい存在」としてみる西洋的な子ども観(米国)では、幼い時期には厳しくしつけるべきという考え方が強い。子どもを「まだ分別のつかない存在」とみる東アジア的な子ども観がまだ強い韓国では、幼い子どもに対して自由にさせる割合が多い。

それらに対して、日本では、考え方が割れているのがわかる。「どちらかの考え方が正しい」のではない。どちらでもよいのである。

子育てや家庭教育をどうするべきかについては、この例のように、「正しい答えが定まらない」ものは多い。ある状況で子どもを叱るべきか、励ますべきか。話しかけるべきか、そっと見守ってやるべきか。どうすればよかったのかわからないことが多いのである。

しかし、保守派の教育論でも、リベラルな教育論でも、そこに「正しい答え」をすぐに探そうとしてしまう。

たとえば、文科省の検討委員会では「効果的な取組を行うための知見・ノウハウ」の検討の中で、どういう家庭教育のやり方が望ましいのかが議論されてしまっている。

「家庭教育支援の具体的な推進方策について」(2017年1月)では、「家庭教育に関する多くの情報の中から適切な情報を取捨選択する困難さ」が支援の必要性の説明に使われているから、支援が「適切な」ものを示す、ということになるのは自明視されている。

要するに、多様で正答のない子育ての問題を「これが正しい」と決めつけることになるのである。



「望ましい」ことと行政との距離

この法案がはらむ第三の問題は、規範と法との距離がなくなってしまうという問題である。

何かが望ましいということと、それを行政がときには権力的に行なうということとの間には、本来大きな距離がある。それがそこらじゅうで無視されてしまう事態が起きかねないのである。

法哲学者の井上達夫さんの議論を借りて言うと(『他者への自由』創文社)、次のようになる。

一つには、「ある価値観が端的に(誰にとっても)正しいということと、それを受容することを誰も不公平として拒絶できない理由によりそれが正当化されているということと」は同じではない。

私なりにかみくだけば、「郷土を愛することはよいことだ」という命題が一般的にみんなに承認されていたとしても、「すべての人が郷土を愛するべきだ」(=郷土を愛さないヤツは問題だ)という命題は正当化されないということである。

もう一つには、「ある価値観が正しいことと、これが公権力によって強行されるのが正しいことと」は区別されなければならない。いわば、「郷土を愛することはよいことだ」としても、「市民全員が郷土を愛するよう市役所が強制してよい」ということにはならない、ということである。

今回の法案を検討した自民党のプロジェクトチームの事務局長を務める上野通子参院議員(元文科政務官)は、「家庭教育ができていない親は責任を負っておらず、明らかに法律(教育基本法)違反。支援法で改めて正す必要がある」と語ったという(2016年11月3日毎日新聞)。

そこでは、もはや規範と法とが同一視されてしまうような議論になっている。道徳的にふるまえない親は、行政権力によって取り締まりの対象とされるのである。

NEXT ▶︎ 最も危惧されること


歯止めのない「教育のため」という論理

「教育のため」という善意の介入には、歯止めが利かないうえ、いかようにも解釈できてしまう。食生活も、生活時間も、家族のライフスタイルも、「教育的にいかがなものか」という批判の対象にされてしまいかねない。

お父さんの変わった趣味も、お母さんの友だちづきあいも、朝ごはんのメニューも、わが子に対する話し方も、みんな「教育的に望ましくない」と誰かにレッテルを貼られることになってしまう。

とめどない介入の根拠は、すでに紹介した法案の第2条にある。再掲しておくと次の条文である。

第2条1項 家庭教育支援は、家庭教育が、父母その他の保護者の第一義的責任において、父母その他の保護者が子に生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めることにより行われるものであるとの認識の下に行われなければならない。
第2条2項 家庭教育支援は、家庭教育を通じて、父母その他の保護者において、子育ての意義についての理解が深められ、かつ、子育てに伴う喜びが実感されるように配慮して行われなければならない。

これらの文言は、いかようにも解釈をふくらませることができる。目の前のどこかの家庭に対して、これらを使うと、たとえば次のようになる。

「お宅の○○は、『自立心を育成』する観点から見て、問題ですねー。改めなさい」、「お宅の××は、お子さんに『心身の調和のとれた発達を図る』上で問題がありますよ、××ではなく□□しなさい」、「あなたたちご夫婦は、『子育ての意義についての理解』が不十分ですねー。こんど市の講習があるから、参加してください」、という具合だ。

○○や××には、「朝食のメニュー」から「お父さんの趣味」まで、いろんなものが入りうる。

DVとか児童虐待とかに関しては、暴力や放任という事実認定をもとに、家庭内に介入が許されている。介入が開始されるための構成要件が明確なのだ。

しかし、「教育のため」という論理は、いくらでも水ぶくれが可能だし、それを止める論理がないのである。現場の担当者の恣意的な解釈を止められないのが、この法案の持つ最も危険な性格である。



危惧される3つの事態

今回の法案では、まだ「正しい家庭教育」像はごく抽象的で、具体的に細かく提示されているわけではないことは先述したとおりである。

しかしながら、それが具体的に細かく提示され、個々の保護者に押し付けられる危険性はとても大きい。それは3つのレベルで起きてしまう可能性がある。

第一に、国のレベルにおいて、である。この法案がもしも成立すれば、それを具体的に肉付けするための政令・省令や通知が出されるはずである。

そこでは、「正しい家庭教育のあり方」がより詳細に規定され、その方向に向けた「効果的な取組を行うための知見・ノウハウ」が提示されることになってしまうだろう。

国が作成していくであろう解説やパンフレット、手引き、好事例集などでは、あからさまに「よい家庭教育のあり方」を特定の像で描いていくことになるはずである。

第二に、今回の法案には「歯止め」規定がないから、地方自治体のレベルで、「正しい家庭教育のあり方」をより具体的に決めつけていくケースがみられるだろう。

条例やそれをふまえた行政の運用レベルで、「正しい家庭教育」について、具体的中身を盛り込むことがいくらでも可能なのである。

現在すでに、いくつかの自治体で「家庭教育支援条例」が作られている。2012年に大阪市で、大阪維新の会が提出を検討した「家庭教育支援条例(案)」に関しては、伝統的な子育てによって発達障害が防止できるという条文が世間から批判を浴びて条例案は撤回された。しかし、すでに作られた条例の中にも問題があるものは含まれている。

たとえば、「岐阜県家庭教育支援条例」では、「家庭教育」の定義の中に、徳目のようなものが次のように列挙されている。

 この条例において「家庭教育」とは、保護者(親権を行う者、未成年後見人その他 の者で、子どもを現に監護するものをいう。以下同じ。)がその子どもに対して行う次に掲げる事項等を教え、又は育むことをいう。
一 基本的な生活習慣
二 自立心
三 自制心
四 善悪の判断
五 挨拶及び礼儀
六 思いやり
七 命の大切さ
八 家族の大切さ
九 社会のルール

他の自治体の条例における簡素な「家庭教育」の定義とはちがって、この条例では明らかに特定の価値にコミットする形で「家庭教育」が考えられている。

また、今回の法案にはない、「親の責務」とか「祖父母の責務」とかを書き込んでいる条例もある。条例各条にではなく、「前文」において、特定の家族モデルを称揚しているような条例もある。こういうふうに、地方レベルでいくらでも具体的・詳細になってしまうのである。

そう考えると、妙な教育観に憑りつかれた首長とか議員がいる自治体では、「ワシが考える『真の家庭教育』」が、住民に押し付けられることになっていくであろう。
 
第三に、「家庭教育支援」に携わる実務家レベルにおいても、「正しい家庭教育のあり方」をより具体的に決めつけていくケースがみられるだろう。

すでにある条例を見ていくと、地域の人の関与に関しては、NPOなどと並んで、町内会の人も役割が与えられている。町内会のジイさんがやってきて、「お宅の子育ては……」と説教をして帰る、というふうなことが当然起きそうだ。

文科省の検討委員会では「訪問型家庭教育支援」も提唱されている(「家庭教育支援の具体的な推進方策について」2017年1月)。全戸訪問も地域全戸も、具体的な課題を抱える家庭をターゲットとした家庭訪問も、何でもありとなっている。こういう人たちが、「あるべき家庭教育像」を押し付けない保証はどこにもない。

最悪の事態は、自民党政治家が考えるような妄想の家庭教育論と、文科省が検討してきたような、行政と地域の人による網の目のような「支援」(=介入)の仕組みとがドッキングして、全国津々浦々で家庭教育の監視がなされる、という事態である。

それは、日本の社会から、「子育ての自由」が失われる状況を意味している。

NEXT ▶︎ 行政の役割とは何か

行政の役割は生活を支えること

最後に私の代案を提示したい。

家庭教育への行政による介入は、一般の大人を教育しようとするものなので、すぐれて謙抑的でなければならない。犯罪受刑者に対する矯正教育のような一部の例外を除き、望んでもいない大人を教育してはいけない。

そもそも、教育基本法では、「家庭教育」は公の性質をもたないものとして考えられている。まずはそれをみんなが理解するべきである。



家庭で実際に子どもを教育している保護者が、家庭教育をどうやっていけばよいのか迷うことがあるのは通常だし、そういうものだ。迷いがあるのはあたりまえで、前に述べたように「正しい答えが定まらない」のが子育てなのだ。

だから、行政であれ、地域の人であれ、「正しいやり方」を押しつけてはいけない。

格差社会の進行の中で、子どもの教育について十分配慮する余裕がないような、深刻な問題を抱えた家庭は確かにある。そういう家庭には支援が必要だ。

でもそれを「家庭教育のあり方を指導する」というので解決しようとするのではなく、「生活の立て直し」のためのサポートこそが必要だし、有効なはずだ。

きめ細かな福祉や安定した雇用など、生活の基盤を支える行政サービスや、本人たちの切実な必要に応えるボランタリーな支援など、ともかく生活を安定させるということこそが必要なはずである。

家庭の置かれた状況が深刻な時に、行政が親を教育して問題を解決しようとするのは、善意ではあっても罪深い考え方である。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50764

「教育勅語」復活論者は、単に歴史の無知をさらしているだけ
ナンセンスな主張が繰り返される理由

辻田 真佐憲

文筆家
近現代史研究者

プロフィール







繰り返される「教育勅語」再評価

「教育勅語」(「教育ニ関スル勅語」)復活論は亡霊のように何度でもよみがえる。1948年6月に衆参両院でその排除および失効確認が決議されたにもかかわらず、政治家や教育関係者でその再評価を唱えるものがあとを絶たない。

最近では、大阪の私立幼稚園で、園児が「教育勅語」を暗唱させられているとして話題になった。今年4月に開校予定の系列小学校では、「教育勅語」が「教育の要」におかれるのだという。しかも、同校の名誉校長に安倍昭恵首相夫人が就任するというのだから驚かされる。

こうした「教育勅語」の再評価は、今後も繰り返されるだろう。

それにしても、なぜ「教育勅語」復活論はいつまでたっても消えないのだろうか。それは、この文書の内容や歴史がかならずしも広く知られていないことが関係している。

「教育勅語」について、あるものは、いつの時代にも適用できる普遍的な内容として金科玉条のごとく尊び、またあるものは、狂信的な神国思想の権化として蛇蝎のごとく嫌悪する。

だが、「教育勅語」に対する評価としては両方とも一面的で適切とはいいがたい。

「教育勅語」の内容や歴史をただしく知れば、議論もおのずと収束するはずである。そこで、以下では「教育勅語」のたどった道を事実ベースで振り返ってみたい(なお引用にあたって、読みやすさを考慮し、カタカナをひらがなに直し、漢字を開いたところがある)。

弱小国家らしい慎ましい内容

「教育勅語」は1890年10月30日に発布された。日清戦争が勃発する約4年前のことである。これが「教育勅語」の内容を考えるときのひとつのヒントになる。

当時の日本は、不平等条約を押し付けられ、いつ植民地にされてもおかしくない、極東の弱小国家のひとつにすぎなかった。それゆえ、「教育勅語」の内容は、後世の文書などにくらべて、意外にも慎ましいものだった。



たとえば、「日本は神の国であり、世界を指導する権利がある」などという大それた神国思想は、「教育勅語」のなかに見られない。これは、『国体の本義』(1937年)や『臣民の道』(1941年)などで、教育界に広められたものである。

むしろ「教育勅語」の内容はかなり抑え気味だった。たしかに、「我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ」「天壌無窮ノ皇運」など神話にもとづく記述もあった。だが、そこに掲げられた個々の徳目は現実的で、日常的な振る舞いに関するものが多くを占めた。

当時の日本に、空想をもてあそぶ余裕などなかったのだ。

そのため、日本が日清戦争や日露戦争に勝利し、帝国主義列強の一角を占めるにいたって、かえって問題が指摘されるようになった。大国日本の国民道徳として、「教育勅語」はあまりに物足りないのではないかと注文がつきはじめたのである。

その動きはのちに触れるとして、以上を踏まえたうえで、まずは「教育勅語」発布の経緯をみておきたい。


「教育勅語」成立の経緯

1890年2月、帝国議会の開会を直前に控え、地方の治安維持をつかさどる県知事(内務官僚)たちは、「文明と云ふことにのみに酔ひ、国家あるを打忘れた」自由民権運動を抑制するため、「真の日本人」を育成する国民道徳の樹立を求めた。

ときの首相山県有朋(内務大臣兼任)も国防上の理由などからその求めに同意し、明治天皇より「徳育に関する箴言」編纂の命令を取り付け、腹心の芳川顕正内務次官を文部大臣に据えてその任にあたらせた。山県は「軍人勅諭」(「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」、1882年)の民間バージョンを考えていたようだ。

同年5月、「徳育に関する箴言」の起草は中村正直に依頼された。ところが、『西国立志編』の翻案者・中村は啓蒙思想家であり、自由民権運動に親和的な草案を提出してきた。そこで、代わりに法制局長官の井上毅に白羽の矢が立った。井上は、「大日本帝国憲法」の起草にも関わった法制官僚である。

能吏の誉れ高い井上は、その評判に反せず、山県の求め以上に完全な文書をめざした。

井上は、山県に対する書簡で「箴言」ではなく「勅語」の名称を使い、その内容は「王言の体」でなければならないと説いた。

つまり、君主たるもの、特定の政治的、宗教的、思想的、哲学的立場に肩入れする言葉を使うべきではなく、またその訓戒も「大海の水」のごとくあるべきで消極的な否定の言葉を使うべきではないと主張したのである。

また、井上は帝国憲法の起草者として立憲主義を尊重し、「君主は臣民の良心の自由に干渉せず」と述べて、「勅語」を軍令のように考える山県の構想も牽制した。

井上は、明治天皇の侍講で儒教主義者の元田永孚と協議しながら、「教育勅語」を短期間で完成させた。その本文はわずか315文字に刈り込まれた。それが以下である。


朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
  明治二十三年十月三十日
 御名 御璽

注釈書は戦前だけで300種類以上

では、「教育勅語」はどのような内容だったのか。

実はこれがむずかしい。というのも、井上毅が「王言の体」をめざした結果、言葉づかいが曖昧になり、様々な解釈を受け入れるものになったからだ。「教育勅語」の注釈書は、戦前だけで300種類以上も刊行された。

そのなかでも、帝国大学文科大学教授の井上哲次郎が執筆した『勅語衍義』(1891年)は、ときにもっとも権威があるとされる。文部省が公認し、井上毅を含む文教関係者の回覧を受け、天覧にも供されたからである。

ただ、井上毅が不満を述べ修正を求めた(にもかかわらず修正されなかった)箇所もあり、そのまま採用することはできない。それに、井上哲次郎はのちに不敬事件を起こして、帝国日本のイデオローグとしての地位を失った。



また、「教育勅語」には英訳を含む様々な官定翻訳が存在するが、これも正確なものではない。なぜならその官製訳は、ヨーロッパ向けでは、日本の先進性をアピールするために意訳されることがあったからである(官定翻訳については、平田諭治『教育勅語国際関係史の研究』を参照されたい)。

さらに、文部省は1939年から翌年にかけてひそかに学者を集めて「教育勅語」の全文通釈を作成したが、一般に公開されたものではなく、またアジア太平洋戦争(1937〜1945年)下特有の超国家主義的な解釈も行われたため、やはりこれもそのまま鵜呑みにできない。

このように、「教育勅語」の内容理解は困難をきわめる。現在、「現代語訳」として流通しているものにも身勝手な解釈が含まれ、信頼に足るものが少ない。

とはいえ、具体的な徳目が以下の箇所である点はおおよその同意が取れている。


父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

先述の全文通釈(1940年完成)の該当箇所を以下に引いておく。正しい解釈と断言できないが、部分的には参考になる。


父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合ひ、朋友互に信義を以て交り、へりくだつて気随気儘の振舞をせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚の御栄をたすけ奉れ。

最後の「一旦緩急アレハ(万一危急の大事が起つたならば)」以下はともかくとして、それ以前の徳目の多くはかなり現実的なものだ。

もちろん、自由民権運動対策が念頭にあったこともあり、独立自治などにつながる徳目が慎重に排除されていることは見逃せない。その一方で、その内容は、神国思想や軍国主義の権化のごとき過激なものでもなかった。

NEXT ▶︎ 復活論はナンセンス!

解釈、追加、修正、補完…

ただ、前述したように、こうした控えめな内容は、日本が帝国主義列強として成長するにつれ問題視されるにいたった。

「教育勅語」には、国際交流や産業振興に関してかならずしも十分な言及がない。「一等国」の国民としてこれらは欠かせない徳目だ。そこで、1898年第三次伊藤博文内閣の文部大臣に就任した西園寺公望は、明治天皇の内諾を得て、「第二の教育勅語」の起草に着手した。

今日に残されたその草案には、「大国寛容の気象」を発揮して、「藹然社交の徳義を進め、欣然各自の業務を励み」、また女子教育を盛んにするべきなどとある。悪くない内容だったが、結局、西園寺の病気と辞職で頓挫してしまった。

また1919年、『勅語衍義』の執筆者・井上哲次郎によって「教育勅語に修正を加へよ」という論考が発表された。

「教育勅語」は植民地を獲得する前に書かれたので、異民族の教育方針にはなりにくい。そこで「今上陛下が有個所を修正せられて、新付の民族に賜はる様にすればよくはないか」というのである。この提言の背景には、同年に朝鮮で起きた三・一独立運動の衝撃があった。

しかし、こうした「教育勅語」の改訂・修正案などは、さまざまな理由でうまくいかなかった。

そのひとつに「不敬」問題があった。「教育勅語」はその発布以後、小学校の祝祭日の儀式などで校長によって「捧読」され、神聖不可侵な存在となっていった。そのため、年々その改訂・修正などがむずかしくなったのである。

結果的に、「教育勅語」の不足分は、ほかの詔勅の発布で補うかたちが取られた。1908年発布の「戊申詔書」、1939年発布の「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」などがそれにあたる。

1948年6月の衆参両院の決議では、「教育勅語等」として「教育勅語」だけではなく「軍人勅諭」「戊申詔書」「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」などがセットで排除および失効確認されている。これらの詔勅が一体的に理解されていた証左だ。

このように「教育勅語」の歴史は、解釈、追加、修正、補完などで覆われていた。「教育勅語」はつねに動揺していたのである。これが偽らざるこの文書の姿であった。



復活論はナンセンス

敗戦後、GHQ内で新しい「教育勅語」を発布させる動きもあったが、ここでは割愛する。いずれにせよ、主権在民を原則とする「日本国憲法」のもとで「教育勅語」が廃止された。当然というべきである。

「教育勅語」は、狂信的な神国思想の権化ではないが、普遍的に通用する内容でもなく、およそ完全無欠とはいえない、一個の歴史的な文書にすぎない。その限界は、戦前においてすでに認識されていた。

ましてかつてなく社会が複雑化し、価値観が多様化した現在、部分的に評価できるところがあるからといって、「教育勅語」全体をそのまま公的に復活させようなどという主張はまったくのナンセンスである。

「教育勅語」の内容と歴史を知れば知るほど、そう結論づけざるをえない。

復活論者は、「『教育勅語』再評価=戦後民主主義批判=反左翼=保守」と早合点し、その内容や歴史の精査を怠り、その復活を唱えることを自己目的化してはいないか。

「教育勅語」の歴史に学ぶことがあるとすれば、それは、ある時代の教育方針を金科玉条のように墨守することではなく、むしろそれを柔軟に見直し、現実に対応していくことであろう。

「教育勅語」を個々人で愛好するのはよい。だが、公的に復活するべきかといえば、その答えは明確に否である。


本稿で扱ったテーマは、近刊『文部省の研究 「理想の日本人像」を求めた百五十年』(文春新書)でも掘り下げている。「文部省の真の姿」に迫った1冊、どうかご高覧ください。

(バックナンバーはこちら http://gendai.ismedia.jp/list/author/masanoritsujita)

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44029





日本最大の右派団体「日本会議」と安倍政権のただならぬ関係〜なんと閣僚の8割が所属
みんな、そこでつながっている

魚住 昭

ノンフィクションライター


プロフィール








〔PHOTO〕gettyimages

安倍政権の"黒幕“!?

ちょっと前の話になるが、6月15日、日本外国特派員協会での記者会見で面白いやりとりがあった。質問者はエコノミスト誌のマクニール記者。答えたのは慶応大名誉教授の小林節さん(憲法学)である。

小林さんは例の憲法審査会で安保法制を「違憲」と言い切った3学者の1人だ。もともとは憲法学会で改憲派を代表する存在だったが、今回の安倍政権の解釈改憲については、立憲主義の根幹を揺るがすものだとして真っ向から反対している。

マクニール記者「集団的自衛権行使を合憲としている憲法学者が3人いて、彼らはみんな、日本会議に属している。それは何を意味しているのか?」

日本会議は安倍政権の”黒幕”とも噂される日本最大規模の右派団体だ。そしてマクニール記者の言う3人とは、菅官房長官が安保法制を支持する憲法学者として名を挙げた西修・駒沢大名誉教授ら3氏を指す。

つまりマクニール記者はこう訊いたのである。日本の憲法学会に数えるほどしかいない”合憲派”の顔ぶれを見ると、そろいもそろって日本会議の関係者だ。これはどういうことか。単なる偶然とは思えない、と。

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小林名誉教授「私は日本会議にはたくさん知人がいる。彼らに共通する思いは、第二次大戦での敗戦を受け入れがたい、だからその前の日本に戻したいということ。日本が明治憲法下で軍事5大国だったときのように、米国とともに世界に進軍したいという思いの人が集まっている。よく見ると、明治憲法下でエスタブリッシュメントだった人の子孫が多い。そう考えるとメイク・センス(理解できる)でしょ」

これは、なかなか意味深な答えである。いやそれどころか安倍首相と、彼の仲間の心情を的確に捉えた言葉だと私は思う。

国会議員の4割、閣僚ポストの8割を占める

そう言っても、日本会議と安倍政権のただならぬ関係をご存じない読者には、すんなり了解してもらえないだろうから補足説明させていただきたい。

日本会議には国会議員懇談会という超党派の集まりがある。現在そこに属する国会議員は自民党を中心に約280人。衆参両院をあわせた定数は717人だから4割ほどが日本会議の構成メンバーという計算になる。

驚くべきは日本会議の構成員が閣僚に占める割合である。第一次安倍内閣では首相をはじめ12人、麻生内閣では9人だった。それが改造前の第二次安倍内閣で13人になり、現内閣では19人中15人に増えた。公明党枠の1人を除く閣僚ポストの8割強を日本会議に関係する議員が占めている。

もし小林名誉教授が言うように、日本会議に属する人たちの「共通する思い」が、70年前の敗戦を受け入れがたく、明治憲法下の「日本に戻したい」ということだとするなら、現閣僚の大半が戦前の大日本帝国の再来を望んでいることになる。

まさか、そこまで非常識な政治家はいないはず。と思われる読者も多いだろうから、日本会議とはそもそもどんな団体かということについて語りたい。

日本会議が目指すものは何か

日本会議の特色は何と言っても、そのネットワークの全国的広がりと構成メンバーの多彩さにある。会員は全国に約3万5000人。日本会議の地方議員連盟に属する議員は約1700人と言われる。

HPの役員名簿を見ると、石井公一郎・ブリヂストンサイクル元社長、小田村四郎・元拓殖大総長、三好達・元最高裁長官、作家の石原慎太郎氏、外交評論家の田久保忠衛氏ら各方面の著名人がずらりと並んでいる。

加えてさまざまな宗教団体のトップたちが名を連ねる。神社本庁、靖国神社、崇教真光、霊友会、天台宗など数え上げるときりがない。新宗教から伝統仏教・神道まで多種多様な宗教の結集軸になっている団体、それが日本会議と言ってもいい。

では、その日本会議が目指すものは何か。HPには〈私たちは、美しい日本の再建と誇りある国づくりのために、政策提言と国民運動を推進する民間団体です〉と記されている。

〈美しい日本の再建〉という言葉に注目してほしい。再建と言うからには〈美しい日本〉が過去にあったということだ。それがいつの時代を指すか、明記はされてないが察しはつく。戦前の天皇主権下の日本だろう。

それを裏付けるようにHPにこう書かれている。

〈125代という悠久の歴史を重ねられる連綿とした皇室のご存在は、世界に類例をみないわが国の誇るべき宝〉であり〈皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、(中略)国の力を大きくする原動力になると信じています〉

言っちゃ悪いが、これはアナクロニズム(時代錯誤)だ。国民の大多数は戦前の天皇制の復活なんか望んでいない。にもかかわらず、日本会議が国会議員の4割弱と閣僚の8割を占める勢力になったのは、なぜか。



ここが思案のしどころだ。私の考えをまず言わせてもらいたい。こんな異様な現象は一朝一夕には起こらない。相当な時間と労力と金をかけた、何らかの仕掛けがなくてはならない。

ちなみに私が日本会議に注目しだしたのは10年ほど前のことだ。従軍慰安婦、国旗・国歌法、教科書検定、外国人地方参政権、教育基本法や憲法の改正などの問題を取材すると、必ずと言っていいほど、背後に日本会議の勢力が蠢いていた。

どうやら日本の右傾化を演出しているのは日本会議らしい。誰がどんな経緯でこの組織を作ったのか。それを調べていくと奇妙な事実に突き当たった。

日本会議を仕切る事務総長や関連団体の責任者、安倍首相の側近議員、学者などの経歴に意外な共通点があった。

彼らは青年時代、ある教団の信者だった。その教団の創始者は熱烈な天皇主義者で「敗戦した日本などない」と唱えた。敗れたのは「偽の日本」で、天皇中心の真の日本ではない。我々の使命は明治憲法を復元することだ。その言葉が青年らの心を捉えた。日本会議の歴史はそこから始まる。

以下、次回へつづく。(→こちら)

*参考:『増補 戦後の右翼勢力』(堀幸雄著・勁草書房刊)

『週刊現代』2015年7月11日号より


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http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51321

正気ですか?「パン屋は愛国心が足りない」という道徳教育の愚
政治と道徳の笑えない関係

辻田 真佐憲

文筆家
近現代史研究者

プロフィール







「パン屋背徳事件」を永遠に記憶せよ

日本の道徳教育の歴史に、新たなる1ページが付け加えられた。

小学校道徳の教科書検定で、文部科学省が「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」(「学習指導要領」)との点が足りないと指摘し、ある教科書会社が「パン屋」を「お菓子屋」に書き換えたというのである(3月24、25日付新聞各紙報道)。

このシンボリックな一件は、「パン屋背徳事件」とでも名づけて、永遠に記憶されるべきだ。

由来、道徳教育はつねに政治に翻弄され、ときにでたらめな議論や記述が横行してきた。今回の事件もさほど驚くべきことではない。おそらく今後も似たようなできごとが繰り返されるだろう。

それをできるかぎり防ぐためには、われわれが道徳教育に関心を持ち、これを継続して批判・検証していくほかない。そこで、今回の「パン屋背徳事件」を奇貨として、道徳教育の歴史を振り返り、今後の展望を考えてみたい。

戦前の修身は激しく移り変わった

そもそも道徳は、明治時代から政治に翻弄されつづけた教科である。

当時、道徳は修身と呼ばれた。修身は、明治維新当初かならずしも重視されていなかったが、啓蒙主義や自由民権運動を抑える狙いなどから徐々に重視され、「改正教育令」(1880年)で諸学科の筆頭におかれた。

教科書も、当初こそ民間の書物が自由に使われていたものの、やはりこれでは啓蒙主義や自由民権運動を学校に持ち込まれてしまうとして、段々と規制が強化され、1904年ついに国定制(小学校のみ)に移行した。

つまり、文部省が教科書を直に編纂・刊行するかたちとなったのである。

国定の修身教科書(修身書)は、都合4回全面改訂され、全部で5種類刊行された。その内容は、政治によって文字どおり大きく左右された。

第1期の修身書は、日清戦争と日露戦争の間に編纂された。日本はまだ近代化=西洋化の途上だったため、その内容は意外と開明的であり、博愛、親切、清潔、正直、勤勉など近代的な市民倫理が多く掲載された。ワシントン、ジェンナー(種痘法の発見者)、ネルソンなど外国人の活躍も広く紹介された。

ところが、第2期の修身書では、その内容が一変した。

NEXT ▶︎ 道徳の欠如が犯罪を起こす!?







日露戦争後の社会の混乱(社会主義の流行など)に対応するため、忠君愛国や家族主義が強調されたのである。その結果、近代的な市民倫理は後退をよぎなくされた。なお、負薪読書の像で知られる二宮金次郎が重視されたのは、この時期のことだ。

もっとも、つづく第3期の修身書では、行き過ぎた国家主義がやや緩和された。第1期ほどではないものの、近代的な市民倫理が増加し、忠君愛国が減らされた。また、国際交流に関する内容も追加された。

この背景には、第一次世界大戦の勃発があった。「一等国」にふさわしい国民を育てるため、いわば国家主義と国際主義の中間が取られたわけである。

しかるに、第4期の修身書は、ふたたび国家主義に逆戻りした。満洲事変後に編纂されたため、「国体観念」や「日本精神」が重要なテーマとなり、「天長節」「紀元節」「明治節」など天皇関係の教材が加えられた。「君が代」も、天皇讃歌としてこのときはじめて単独の項目でとりあげられた。

そして第5期の修身書は、さらに国家主義を推し進め、超国家主義、軍国主義的な内容にいちじるしく傾斜した。日中戦争と太平洋戦争のさなかに編纂・刊行されたのだから、当然の帰結だった。

個人に関する道徳は限界まで減らされ、反対に国家に対する道徳は全体の半数近くにまで増えた。陸軍の介入で、軍事教材も大量に追加された。一方、外国人の登場はジェンナーただひとりになった。

以上を大雑把にまとめると、戦前の修身は時代に応じて、(日清戦争)開明的→(日露戦争)国家主義的→(第一次世界大戦)やや開明的→(満洲事変)国家主義的→(日中戦争)超国家主義的、と激しく移り変わったことになる。

このように修身の内容は、政治に激しく翻弄された。戦後、修身の復活論者が絶えないが、かれらは修身のどの部分に着目しているのか、しっかり問わなければなるまい。

(以上、国定修身書の内容については、海後宗臣編『日本教科書大系』および唐澤富太郎『教科書の歴史』によった)

戦後の道徳教育は保守派の念願だった

さて、太平洋戦争の敗戦後、GHQの指令で修身の授業は停止され、国定教科書は回収された。教科書の国定制も検定制に改められた。

そして1947年、小中学校で修身などに代わる社会科の授業がはじまった。社会科は、戦後民主主義を支える新しい教科として期待された。

だが、保守派は虎視眈々と修身の復活を狙っていた。かれらは、犯罪増加やデモなど様々な社会問題の原因を道徳教育の欠如に見いだしたのである。

1951年GHQの占領統治が終わると、その動きは一層活発となった。そして第二次岸信介内閣時の1958年、「学習指導要領」が改訂されて、「道徳の時間」が特設された。いわゆる「特設道徳」だ。

道徳の教科化には、日教組を中心に根強い抵抗があった。そのため、「特設」という中途半端なかたちでの導入となり、その授業内容も地域や時代によってバラバラの状態が続いた。保守派は、その後も道徳の教科化を諦めなかったが、保革対立のなかで長らく果たせずじまいだった。

NEXT ▶︎ 安倍政権の杜撰な教育論






ようやく大きく動いたのは、遅れて第二次安倍晋三内閣のときだった。

2013年、首相の私的諮問機関である教育再生実行会議の第一次提言で、道徳の教科化が「いじめ対策」として打ち出された。そして、中央教育審議会などの検討をへて、2015年「学習指導要領」が一部改正されて、道徳が「特別の教科」として教科化されたのである。

道徳の教科化は、小学校では2018年度より、中学校では2019年度より実施される。冒頭で紹介した小学校道徳の教科書検定は、これに備えて行われたものだった。

戦後、保守派は様々な社会問題を解決する特効薬として道徳教育の導入・強化を主張しつづけた。その動きは革新派によって阻まれていたが、90年代以降その退潮によって抑えがなくなり、ついに道徳の教科化を実現するにいたったのである。

このように道徳教育は、戦後も政治の動きと不可分だった。

政権周辺で杜撰な教育論が横行

道徳教育はかならず政治に翻弄される。これは避けられない。そして道徳教育が中立的でも科学的でもありえない以上、そこにはつねに価値観の押しつけなどの問題が含まれてしまう。

そこで、道徳教育に対してつぎの3つの対応が考えられる。

①政治家や文部科学省に道徳教育への介入を諦めさせる。
②国民が積極的に関与して道徳教育をよりよい方向に導く。
③国民が道徳教育など保守派の玩具だからと笑い飛ばして無視する。

戦後長らく、日本社会では①と③が主流だった。革新派が道徳の教科化を食い止め、ノンポリな多くの国民は道徳教育など意に介さなかった。これはこれで、ある時期までうまくいっていた。

ところが、先述したように、90年代以降保革対立の構図が崩れ、保守派が伸長するなかで、道徳の教科化が実現するにいたった。いまや国民の無関心をよそに、政権に近い保守系論者たちによる杜撰な教育論がとめどなく影響力を増している。

ここで少し、首相の私的諮問機関などの周辺で語られてきた教育改革の議論を振り返ってみよう。

教育改革国民会議(小渕恵三→森喜朗内閣)の報告書では、「いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊、凶悪な青少年犯罪の続発など教育をめぐる現状は深刻であり、このままでは社会が立ちゆかなくなる危機に瀕している」「子どもはひ弱で欲望を抑えられず、子どもを育てるべき大人自身が、しっかりと地に足をつけて人生を見ることなく、利己的な価値観や単純な正義感に陥り、時には虚構と現実を区別できなくなっている」などと無根拠に決めつけられ、「学校は道徳を教えることをためらわない」「奉仕活動を全員が行うようにする」などとの方針が打ち出された。

教育再生会議(第一次安倍内閣)では、「『親学』に関する緊急提言」が一時検討され、「脳科学では5歳くらいまでに幼児期の原型ができあがる」などとして「子守歌を歌う」「授乳中はテレビをつけない」「早寝早起き朝ご飯」などの具体案がまとめられた。

これはさすがに自民党内でも問題視されて取りやめになったが、「親学」自体はその後も保守派の教育論として一定の影響力を保っている。

それ以外にも、「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいい」(三浦朱門)とか、「子どもを厳しく『飼い馴らす』必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう」(教育改革国民会議第一分科会配布資料)とか、「日教組をぶっ壊すために火の玉になる」(中山成彬)とか、問題含みの発言や資料はこの時期枚挙にいとまがない。まさにタガが外れたかたちだ。

さらに2014年小中学校に配布された文部科学省製作の道徳教材『私たちの道徳』には、歴史的な根拠に欠ける「江戸しぐさ」なる風習があたかも史実であるかのように紹介されたこともあった。

詳細は拙著『文部省の研究』に譲るが、ここ約20年間の教育改革ではかくも杜撰で異様な議論が横行していたのである。

NEXT ▶︎ このような事件を防ぐには

道徳と教育のこれから

道徳の教科化は、こうした一連の教育改革の集大成であり、安倍政権にとっても誇るべき成果でもある。したがって、安倍政権下の文部科学省が片言隻句にこだわって徹底的に道徳教科書を検定し、教科書会社がそれを慮るのもやむをえない。

そのなかで「パン屋背徳事件」のごときものが出てきても、とりたてて驚くに足りない。むしろこれくらいで済んでよかったとすらいいうる。

ただ、これ以上の問題発生を防ぐためには、われわれが無関心を捨てて、政治家や文部科学省に道徳教育への介入を断念させるか、あるいはみずから積極的に関与して道徳教育をよりよい方向に導くしかない。

今回の「パン屋背徳事件」は、道徳教育に対する国民の関心を高めたという点で怪我の功名だった。

今後グローバリズムやナショナリズムに対応するためさらなる教育改革が進められるだろうが、そこではできるだけ合理的で、柔軟な議論が求められる。

そうしなければ、第二、第三の「パン屋背徳事件」がより深刻なかたちでわれわれの目の前に現れるだろう。そして今度こそは、われわれもこれを笑って済ませられなくなるかもしれない。

(バックナンバーはこちら http://gendai.ismedia.jp/list/author/masanoritsujita)

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51438

世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる
森友学園や安倍政権を決して侮るな

内藤 朝雄

明治大学准教授
いじめ問題研究

プロフィール







森友学園問題と日本の右傾化

日本中、さらに世界中で「森友疑惑」が報じられ、ひとびとの関心を集めている。

それはおおむね次のような疑惑だ。

右翼思想を抱く理事長が運営する学校法人森友学園が、幼稚園児に教育勅語を唱和させている。運動会では、「中国、韓国が、心改め、歴史で嘘を教えないよう、お願いいたします。安倍首相、ガンバレ! 安倍首相、ガンバレ! 安保法制国会通過よかったです!」と連呼させていた。

学園は「よこしまな在日韓国人・支那人」、「韓国や中華人民共和国人の元不良保護者」などと記した文書を、保護者に配布したりホームページ(HP)で公開したりしていた。「お仕置き部屋」などでの暴行虐待も報告されている。理事長は政権中枢を牛耳る右翼仲間の同志であり、首相夫人や、政治家や、上層部の意を忖度する役人たちを通じてさまざまな便宜をはかってもらっている。

森友学園は子どもたちを極右思想で教育する小学校をつくることとし、国の土地を極端に安い値段で購入できることになった。首相は自身および夫人の関与を否認し、もし本当であれば辞任すると言った。

不正疑惑が報道されると、かつての仲間たちはトカゲの尻尾切りのような振る舞いをはじめた。裏切られた理事長は、政権中枢の右翼仲間たちに都合の悪いことを暴露しはじめた。このような疑惑のストーリーである(各種報道より)。


〔PHOTO〕gettyimages

国内では、一つひとつの細かなエピソードをめぐって、芝居見物のようににぎわっている。疑惑関係者は、それが人間ドラマとして消費され、飽きられて終熄する時を待っているはずだ。

対して、世界のメディアは、もっぱら日本の現政権と右傾化がどうなるかという関心から森友疑惑を報じている。



というのは、現政権は日本を戦前(特に昭和初期から敗戦まで)の社会に戻そうとしている「ウルトラ・ナショナリスト(ultra-nationalist)」政権であると考えられており、日本が戦前のタイプの社会に戻るかどうかは、大きな関心事だからだ。

日本の大衆も、現政権がこれ以上強くなることに、ぼんやりと不安を抱きはじめている。なんだか変なことになっている。自分たちの社会は、これからどうなってしまうのだろうか。自分たちはこれからどうなるのだろう。

NEXT ▶︎ 超タカ派が支配する日本政治


「超タカ派」勢力が動かす日本政治

ひとびとはそれを成熟した大人としてストレートに意識して考えるのではなく、政治とカネやら、「軍国主義」時代を再現する教育やら、お仕置き部屋の児童虐待やらの、「森友劇場」でもりあがることで不安を表現している。

報道される人間模様は、きわめて戯画的である。籠池夫妻、その息子、「アッキー」と呼ばれる総理夫人、便宜をはかる役人、安倍総理、稲田防衛大臣といったどたばた劇の配役とストーリー。

「森友劇場」を見物して喜んでいる大衆は、悪ふざけに興じているようにも見える。悪ふざけを通じて、箱庭で遊ぶ子どものようにしか政治に向き合えない大衆なのかもしれない。

わたしたちは、原発事故と現政権成立以降いまここに出現した歴史の折り返し点(いったん通過するともう戻れない)を子どもっぽくやりすごした後、次に来る本物の全体主義によって身ぐるみ剥がされ、地獄に突き落とされるかもしれない。



「騒ぎすぎだ」という声もある。しかし、森友問題は、わたしたちが目の前にあっても見ようとしなかったことを、日の光に晒すための手がかりになるのではないだろうか。森友問題を入り口にして、現実の危険を直視しよう。

現在、日本を戦前の状態(特に〈天皇中心の国体〉が暴走した昭和初期から敗戦までの時期)に戻そうとする勢力が、閣僚の大多数、国会議員のほぼ半分を占めている。日本社会は、その意向のままに造りかえられてしまう瀬戸際にあるといってよい。


〔PHOTO〕gettyimages

次の資料をみてほしい。

「第3次安倍晋三再改造内閣の超タカ派(極右)の大臣たち」(俵義文(子どもと教科書全国ネット21)作成:トップページの左側リストにある当該資料表題をクリック)、あるいは「国会議員いちらんリスト」。

資料を見ると、閣僚のほぼ8割が「超タカ派(極右)」団体(先進諸国の主要メディアはおおむねそのように見ている。筆者もそれに同意する)のメンバーであることがわかる。またそれが国会議員全員の半数に達しようとしている。

これらの団体は、仲間たちがいくつも掛け持ちしていたり、協力しあったりしているので、ひとつの大きなネットワークと考えることができる。

また、彼らは公明党など他勢力と利害同盟を組んでいる。その意味では、ほぼすべての閣僚と半数の国会議員が、上記資料にいうところの「超タカ派」勢力かそれになびく勢力であるといってよい。

これらの勢力が政権の座にあり、目標達成に向けて着実に歩を進めているのである。

NEXT ▶︎ これからどんな被害が出るか


どのような戦前を目指しているのか

彼らがめざすのは、どのような社会か。そのなかで、わたしたちはどのような生活を強いられることになるのか。彼らが人間の精神を根本からつくりかえることに熱心であるとすれば、わたしたちはどのようにつくりかえられてしまうのか。

一口に戦前といっても、いくつもの時期があり、多種多様な要素が混ざりあっている。今政権を盛り立てている勢力は、そのうちどの面に対しファナティックな情熱を示し、どの面に無関心なのか。このことから、私たちがどのような被害を受けることになりそうかを予測することができる。

彼らは、カミカゼ特攻隊、散華(さんげ)、英霊といったものを崇高なものとみなし、ファナティックな感動を示す。また、日本国憲法、個人の権利、個人の自由といったものを憎む。また、中国と韓国が日本に「逆らう」ことに常軌を逸した憎悪を示す(中国が超大国になった21世紀に、この上下感覚は滑稽ですらある。そして国防上きわめて危険である)。

対して、日露戦争で局地的な勝利を得た後、自軍が消耗しきっている事実を認識し、高額の賠償金や領土割譲をあきらめた明治政府の判断をほめたたえる、といったことはしようとしない。それどころか、アメリカと無謀な戦争をしたエリートたちを復権しようとする。

これらのことから、現在の「ウルトラ・ナショナリスト」勢力が取り戻そうとしている「戦前の美しい日本」なるものは、明治維新以降、さまざまな部分が混ざり合って進む日本近代史のなかで、昭和初期から敗戦までの時期に暴走し、悲惨な結果をもたらした最悪の要素であることがわかる。

一言でいえば、それは、個を超えた集合的生命として崇拝される〈天皇中心の国体〉なるものである。この共同幻想が世界の八隅を一つの家のように覆う(八紘一宇)ことをめざす、祭政一致の全体主義社会。これが昭和初期から敗戦までの大日本帝国であった。

これはいったい何なのか。



二つの国家観を理解する

二つの国家観(人間のためにつくられたしくみとしての国と、人間を超えた集合的生命としての国=国体)を対比させて考えると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力の行動様式や、そのめざすものを理解しやすくなる。そして、現状を放置すれば、これから日本社会がどのような被害をこうむるかも予想できる。

第一の国家観では、国家を、ひとりひとりの人間の共存と福祉のための公共財である機械装置と考える。

国は水道や電気や医療や交通網のように、ひとびとの生存にとってきわめて重要なものだ。その意味で、危険な国家メンテナンス業務をおこなっている自衛官は、高圧線上で危険な業務をしている技師と同様に、尊敬されて当然である。

また、国に軍隊があるのも当然である(この観点から、日本が普通の先進諸国なみのリベラル国家になった後で憲法9条を改正すべきだと主張する筆者は、「リベラル・タカ派」と呼ばれることがある)。

この第一の国家観からすると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力のいう愛国心は、水道管や電線を愛の対象にするような、奇怪なフェテシズムの情熱である。すくなくとも、日本で愛国心というとき、そのような意味で語られることが多い。

そのような愛国心ではなく、苦労して磨き上げた、ひとりひとりの人間のための公共財機械装置の性能のよさに対するプライド、という意味での国家プライドはあるかもしれない。

国家が愛国心などというフェテシズムを万人に要求する制度は、日本国装置の性能の悪さとして、国家プライドを大いに傷つけるだろう。ただし、この国家プライドを新しく「愛国心」と名づけることも可能である。

NEXT ▶︎ 日本人と「空気」


それに対し、第二の国家観では、国家はひとりひとりの生命を超えた、より高次の崇高なる集合的生命とみなされる。このような現実感覚を生きるひとびとにとって、国家装置の防衛メンテナンスのための危険業務組織(軍隊)は、集合的生命の男根のように感じられる。

アメリカに負けて憲法九条を押しつけられたのは、「全能感を断念しなさい」と去勢されてしまったような、屈辱の体験である。

また集合的生命の根本にあるはずの神聖にして侵すべからず天皇を、単なる「象徴」にされてしまったのは、河童に尻子玉を抜かれ、腑抜けにされてしまったような屈辱である。

そして雄々しき大日本帝国は、自由だの人権だの民主主義だの甘ったるいおしろいをぺたぺた塗られて、女にされてしまったと感じる。



国体をひかり輝かせること

第一の国家観は、ひとびとの安全と生命を守りながら繁栄をもたらそうとうするリアリズム政治のための基本である。国益の計算や戦略的思考も、この国家観を前提としなければ何の意味もない。また軍隊は、この国家観にしっかり基礎づけて保有されなければならない。

第二の国家観は、非常時に短時間「だけ」、ひとびとを狂わせるための興奮剤である。必要がないときに使ってはならない。そして21世紀の世界でそれが必要になる時は、もうない。いまではこういったドラッグは、貧しい国々で誤用され、悲惨な流血や国土の荒廃をもたらす廃棄すべき毒物でしかない。

この毒物ともいうべき第二の国家観はどのようにして生まれたか。江戸幕府が支配していた日本列島は、列強の植民地にされる危険にさらされていた。

クーデター成功後、最弱国日本、最弱明治政府を背負った指導者たちは、ゆっくり変化する時間的余裕がないなかで近代国家をつくりあげるために、集合的生命感覚に酩酊させるしかけを、当時入手可能な素材からでっちあげるしかなかった。

それが天皇を中心とする集合的生命としての国体(という共同錯覚)である。そしてこの興奮剤は効いた。国家の集合的生命感覚は、天皇を中心とする国体として、ひとびとの魂の底に埋め込まれていった。

生存のための必要に駆られてこのような興奮剤を使うときは、そのまえに目覚まし時計をセットしておき、時がくれば醒めるようにしておかなければならない。目覚まし時計を管理すべき指導層は、大衆を騙すための薬物にのめりこんではいけない。

しかし、昭和初期から敗戦にかけて、指導層のあいだでも「〇〇は国体にそぐわない」やら「不忠」やらといった、自家中毒が蔓延するようになっていった。ヤクザが売り物の覚醒剤に手を出すように、国家の中枢までもが、緊急用大衆操作劇薬の自家中毒にやられたのだ。

狂気の興奮剤におかされた指導層は、アメリカと戦争をするといった愚行に走り、敗戦の条件交渉にいたっては国民の生命や安全という本来の目的(第一の国家観)よりも国体護持(第二の国家観)などという幻想の薬物を大切にするありさまであった。国家の指導者として、これほどでたらめな酩酊者たちは類をみない。

学者も含め多くの人たちは、昭和初期から敗戦までの日本のありさまを「軍国主義」と呼んできた。軍国主義の社会であれば、軍事的成功を第一の優先事にするはずである。

しかし、戦争中の日本はそうではなかった。合理的に国益を追求したり、戦争に勝ったりすることよりも、国体を護持すること、国体をひかり輝かせることが優先された。

集合的生命としての国体は、単なる全体への外形的服従の積み重ねから成るものではなく、臣民ひとりひとりが自発的に個人であることをやめ、〈全体において永遠の今になる〉ことの内側から高次の命としてひかり輝く。

カミカゼ自爆攻撃などで死ぬ瞬間こそが、その永遠の今であり、人として生まれた最高の栄誉であり、「本当に生きること」である。それは華やかに花が咲いたような生のきらめき(散華)でなければならない。

このような国体の覚醒剤的な疑似哲学作用は、軍隊の合理的運用すら破壊した。

太平洋戦争では、みこまれる戦果と自軍の損失を計算すれば無意味であることが明白であっても、散華の輝き自体が目的となった軍事作戦がなされた(これは即身仏のような自殺儀式であって、軍事的な「作戦」とは言えないのかもしれない)。

毎日新聞記者の栗原俊雄は、このような輝きを後世に残すためと称して、自爆特攻作戦が続けられた例を紹介する(栗原俊雄「日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由」)。

また、航空機の援護なしに戦艦大和を沖縄に派遣するのも、国体を輝かせるための集団自殺である。これが抗いがたい空気となったのである。

もちろん、国体のなかでは「西欧流」の個人主義は徹底否定され、すべての臣民が自発的に集合的生命の一部で「あらねばならぬ」のであるから、すべてが強制である。戦争終結の成り行き次第によっては、一億玉砕というすさまじい「自発的」な散華が、すべての人に強制されたかもしれない。

NEXT ▶︎ 教育勅語の問題点


教育勅語はなぜ問題なのか

「ウルトラ・ナショナリスト」の政治家たちは、なにかと理由をつけて教育勅語を学校教育に導入したがっている。だが、国家大改造に成功する一歩手前とはいえ、今の段階では、まだ露骨な全体主義の本性を出すわけにはいかない。

だから国会の質疑やテレビ番組などでは、「教育勅語にあるように、親を大切にし、夫婦がなかよく、友だちは信じ合い、法律を守り、互いに誠実に生きるのはよいことではないか」といった理屈で、教育勅語を正当化することが多い。

それに対し、教育勅語に反対する側は、「一旦緩急(かんきゅう)あれば義勇公に奉じ」と続くのが「軍国主義」につながるからいけない、といった批判を繰りかえす。それでは、この兵士に関する部分だけ削除すればよいのか?

教育勅語の問題点は、人が人として望ましく生きること全般が、天皇を中心とした国体が生み出したものであり、それと離れては存在しない(「国体の精華にして」「淵源…これに存す」「皇祖皇宗の遺訓にして」とは、そういうことである)、と国家が命令していることだ。よく考えてみれば、これはきわめておぞましい論理である。

もし誰かから、ありとあらゆる望ましく生きることは、「私との関係から生み出されるものでなければならない」と言われたら、あまりの気持ち悪さに胃の内容物を吐瀉してしまうのではないだろうか。これは国体にかぎらず、さまざまな全体主義に共通する特徴である。


教育勅語〔PHOTO〕wikipedia

1890年(明治23年)の教育勅語は、大日本帝国が「国体」というキーワードを打ち出した初期の文書である。

その後、昭和初期から敗戦にかけて、政府は『国体の本義』(1937年)と『臣民の道』(1941年)によって全体主義としての国体の本性を分かりやすく、あけっぴろげに露出する。

この2冊を熟読すれば、閣僚の8割、国会議員の半分弱を占める勢力が、どのような「美しい国のかたち」をめざすかを理解することができる。

いくつか抜粋しよう。



「我らの行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の一つとして国家に関係ないものはない。」、
「我らの生命は我がものにして我がものにあらずといわねばならない」、
「日常我らが私生活と呼ぶものも、畢竟(ひっきょう)これ臣民の道の実践」、
「一腕の食、一着の衣といえども単なる自己のみのものではなく、また遊ぶひま、眠るまといえども、国を離れた私はなく、すべて国とのつながりにある。かくて我らは私生活のあいだにも天皇に帰一し、国家に奉仕する念をわすれてはならない」(『臣民の道』)

「人は孤立せる個人でもなければ、普遍的な世界人でもなく、まさしく具体的な歴史人であり国民である。従って我らにあっては、人倫すなわち人がふみ行うべき道は、抽象的な人道や観念的な規範ではなく、具体的な歴史の上に展開せられる皇国の道である。人たることは日本人たることであり、日本人たることは皇国の道にのっとり臣民の道を行ずることである。(『臣民の道』)

「皇国の道と一体たり得ざる学は、真の学たり得ざるもの」(『臣民の道』)

「祭政一致の我が国体」(『臣民の道』)

「我が国こそまさしく世界の光明である」(『臣民の道』)

「我が皇位が天壌無窮(てんじょうむきゅう:天地ともにきわまりない)であるという意味は、実に過去も未来も今において一になり、わが国が永遠の生命を有し、無窮に発展することの意である。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根底にはいつも永遠の今が流れている」(『国体の本義』)

「我らは、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我らの歴史的生命を今に生かす所以(ゆえん)であり、ここに国民のすべての道徳の根源がある。
…絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我ら国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂(いわゆる)自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威(おみいつつ:天皇の威光)に生き、国民としての真生命(真の命、ほんとうの命)を発揚する所以(ゆえん)である」(『国体の本義』)

我らは「忠において生命を得」る。(『国体の本義』)

NEXT ▶︎ 誰もが経験してきた「全体主義」

その他、『国体の本義』『臣民の道』では、自由主義、個人主義、平等主義、合理主義、普遍的人道(ヒューマニズム)、夫婦中心の家族、などあらゆる「西洋的」なものを激しい口吻で否定する。立憲主義や三権分立も否定する。

「忠を離れて孝は存せず」として親子関係も国体のものであるとし、そのような「忠孝一本」を日本の道理としている。そして、乃木希典夫妻(子どもが全員戦死した)のように、育てた子を国に捧げることを本当の親子の情愛関係とする。

「すめろぎにつかえまつれと我を生みし我が垂乳根(たらちね)は尊くありけり」というわけである。また、日々の労働の内容も、なにからなにまで国体への奉仕であるとする。

これから日本はどのようなかたちであるべきか、天皇を中心とする国体に戻したいか、戦後の自由と民主主義と個の尊厳を守りたいか、決断を迫られる時期がきた。私たちは、『教育勅語』、『国体の本義』、『臣民の道』を熟読した方がよい。


〔PHOTO〕gettyimages

日本に蔓延する全体主義

最後に、日本の学校が全体主義的であり、これが全体主義に抵抗がない大衆を生み出す、強力なインフラストラクチャーになっていることをつけ加えたい。学校の全体主義について知りたい方は、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)を手にとってください。

もうひとつ、世界各国の腐敗の程度をランキングした以下の資料を参考にされたい。全体主義の国ほど腐敗がひどく、人権を尊重する個人主義自由主義の国ほど腐敗が少ないことが一目瞭然となっている。

・トランスペアレンシー腐敗認識指数(http://www.ti-j.org/CPI2016ranking1.pdf)
・トランスペアレンシージャパン(http://www.ti-j.org/)

山本七平は、戦争中に製粉会社におしかけたパン屋の社長が大げさな国家への奉仕の話を延々しているが、それはすべて小麦粉をまわしてほしいというビジネスの要求であったというエピソードを紹介する(山本七平『ある異常体験者の偏見』文藝春秋)。

ビジネスと政治が分かれない祭政一致の社会は、すさまじく腐敗するのである。「森友劇場」の口利きや忖度、国有地格安払い下げに関する疑惑のエピソードをながめながら、このことを思い出した。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51376

もし「共謀罪」が成立したら、私たちはどうなるか【全国民必読】
知らなかったと後悔する前に

高山 佳奈子

京都大学大学院教授


プロフィール







共謀罪なしでは五輪開催できない?

2017年3月21日に、過去に3回廃案となったいわゆる共謀罪法案が閣議決定され、国会に提出された。その後、4月6日午後の衆院本会議で審議入りした。与党は5月中の成立を目指しているという。

共謀罪とは、犯罪の未遂や予備よりも前の計画段階で処罰の対象とする犯罪類型である。

与党は、同法案が過去のものと異なる点を強調しようとしているが、対象犯罪の数が限定された以外に、実質的な相違はない。

その内容は、政府が締結を目指すとされる国連国際組織犯罪防止条約との関係では共謀罪処罰そのものであり、日本語でいかなる名称を付けようともこれが共謀罪法案であることには変わりがない。

政府は、本法案を「テロ等準備罪」を処罰するものだとし、首相は、これがなければオリンピックを開催できないといっても過言ではない旨を述べていた。

しかし、法案の中には、テロのための条文は1ヵ条も存在していない。



適用対象の条項に「テロリズム集団その他」が付け加えられたが、「その他」の文言からも明らかなように、テロが除外されないことが示されているだけで、ほぼ無意味な挿入である。

こうしたまやかしが判明した後、世論調査における同法案への支持は急落したとされる。

オリンピック・パラリンピックの東京開催が決まった2013年までの間に、政府の犯罪対策計画においてオリンピックのための共謀罪立法が論じられたことはなく、共謀罪立法がテロ対策の一環として位置づけられたこともないという事実が明らかになっている。

筆者は五輪招致を管轄していた文部科学省の事業で、2013年3月までドーピング対策の研究班を率いていたが、やはりそのような話は非公式にも聞いたことがない。

日本にはすでに予備罪や抽象的危険犯の広範な処罰規定があることから、国連条約締結のために共謀罪立法は必要ないと考えられる上に、2004年に国連から各国向けに出された公式の「立法ガイド」にも、共謀罪処罰の導入は義務でないと明示されている。

実際、条約締結のために共謀罪立法を行った国としては、ノルウェーとブルガリアの2ヵ国しか知られていない。

このように、規制のために犯罪を創り出すものとしかいえない同法案に対しては、法律家はもちろんのこと、特に、日本ペンクラブや日本マスコミ文化情報労組会議を始めとする表現者の団体からも多数の反対声明が出されていることが注目される。

学術の分野からは、2月1日に「共謀罪法案の提出に反対する刑事法研究者の声明」が公表され、筆者を含む日本刑法学会理事7名の呼びかけに150名を超える専門研究者が賛同している。

また、3月15日には、憲法学者・政治学者を中心とする「立憲デモクラシーの会」が、長谷部恭男早稲田大学教授・元東京大学教授の起草にかかる「共謀罪法案に反対する声明」を発表した。

NEXT ▶︎ SNSでも共謀罪は成立?






「無限定」という恐怖

これらの反対意見が問題視する点の1つは、適用対象に限定がないことである。

「組織的犯罪集団」には認定や指定が不要なのはもちろんのこと、過去に違法行為をなしたことや、過去に継続して存在していたことすらも必要ない。当然のことながら、それ以外の集団との線引きが事前になされているわけではなく、構成員の属性も限定されていない。

当初、与党議員らは、一般人は適用対象にならない旨を述べていたが、その後、法務大臣はこれを撤回する発言を行っている。事実、法案にはそのような限定は書かれていない上、組織的犯罪処罰法に関する最高裁判所の判例も、限定を否定している。

すなわち、組織的詐欺罪を適用した最高裁の2015年9月15日の決定によると、ある組織がもともとは詐欺罪を実行するための組織でなかったとしても、客観的に詐欺にあたる行為をすることを目的として成り立っている組織となれば同法に該当し、中に詐欺のことを知らないメンバーがいても関係ない。

一般の集団がある時点から組織的犯罪集団とみなされることになるのである。

また、犯罪を行う計画についての「合意」は、やはり法案上限定されていないため、従来の共犯処罰に関する最高裁判例に従って解釈されることになる。

すなわち、暗黙のもので足り、ツイッターやフェイスブックなどSNSを用いて順次成立する場合もある。犯罪が確実に実行されることの認識も必要ない。

さらに、「準備行為」は、法案では例が挙がっているものの、「その他」の文言があるため、同じく無限定である。

予備罪や抽象的危険犯の処罰に必要だとされる実質的な危険が要件となっていないことから、文言上、危険性のない日常的な行為がすべて含まれることになる。



警察の実績づくりのための処罰

なぜ、このように無用な処罰規定を広範に導入する法改正が急がれているのか。

「政府に批判的な勢力を弾圧するため」、「米国に情報を提供するため」という見方にも説得性があるが、筆者は特に、「犯罪のないところに犯罪を創り出し、取締権限を保持するため」という動機が1つの背景をなしていると見ている。

近年の犯罪統計によれば、犯罪認知件数は激減しており、戦後最低新記録を更新中である。暴力団関係者の数とそれによる犯罪も大きく落ち込んでいる。仕事のなくなった警察が摘発対象を求めているかのように見える。

筆者がそのように考えるのは単なる憶測によるものではない。近年、何の違法性も帯びていない行為の冤罪事件や、極めて軽微な違法行為を口実とした大幅な人権剥奪が現に起こっていることが根拠である。

NEXT ▶︎ 警察には仕事がないらしい


筆者が直接関与した事件の例として、大阪のクラブが改正前風営法のダンス営業規制により訴追されたNOON裁判がある。

クラブNOONは単にフロアで音楽を流していただけで、深夜営業もしていなければ未成年者もおらず、騒音やごみ、いわんや暴行・傷害や違法薬物の問題も全く生じていなかった。

最高裁は、クラブには表現の自由と営業の自由が及んでおり、社会に対する実質的な危険がなければ無許可営業罪の処罰対象にはならないとして、無罪の判断を下した。

しかし、最高裁まで争って無罪を勝ち取った金光正年氏以外は、同様の事案で多くのクラブ関係者が略式手続によって冤罪の状態のままに置かれてる。

しかも、改正風営法ではダンス営業の罪が廃止されたものの、これよりもさらに広範で違憲の疑いの強い「遊興」処罰規定が新設され、多数の飲食店に対し、警察が嫌がらせともとれる立入りなどを実施している。

警察には仕事がないらしい。クラブ関係者の政治的立場は多様であり、反政府的であるから摘発されたとは考えがたい店も多い。



最近では、女性タレント2名が電車の線路に立ち入った行為が鉄道営業法違反で書類送検の対象になっている。この行為はクラブ営業と異なり違法は違法だが、極めて軽微な違法性しかない。この程度の行為であれば、刑事罰の対象とはされない国も多い。彼女たちは何の政治的立場もとっていない。

また、昨年5月には、右翼団体「草莽崛起(そうもうくっき)の会」メンバー20名が、道路交通法上の共同危険行為を理由に、運転免許の取消処分を受けることになったと報道された。

こうした摘発の現状を見ると、対象にされる者が政府に対してどのような立場をとっているかは、警察の実績づくりのためにはもはや関係がなくなっていると考えられる。

現行法の下でもこの状態であるから、いわんや、共謀罪処罰が導入されれば、取締権限がどのように用いられるかは、一般人の予測しうるところではないことが明らかである。

イスラム過激派などによるテロを警戒するのであれば、現にテロが起こっているところで用いられているアラビア語、ベンガル語、ウルドゥー語などがわからなければテロの計画を察知できないと思われるが、日本の捜査機関は、摘発が可能な態勢にはおよそない。

テロリストでない日本人しか、実質的には共謀罪処罰のターゲットにならないのである。

NEXT ▶︎ 表現の自由への大きな影響


表現の自由はどうなってしまうのか

一般人が対象になるということでは、社会運動への悪影響も論じられているが、より一層広がりのある問題は、各種団体も批判するとおり、表現の自由全般に対する抑圧的効果である。

表現の自由に関心を持つ比較的若い世代の懸念の1つとして、マンガ・アニメなどのパロディ(いわゆる二次創作)の計画が著作権法違反の罪の共謀罪として摘発の対象にされるのではないかという点がある。

著作権法違反はおよそテロリズムとは無関係に見えるが、海賊版や模造品が犯罪組織の資金源となりうるという理由で、知的財産権を侵害する他の罪とともに、共謀罪処罰の対象犯罪に含められている。

筆者(経済産業省の産業構造審議会で知的財産政策部会の関連委員会に所属する)は、パロディは独自のジャンルとして表現の自由の保護を受けるべきだと考えるが、筆者がどう考えるかは取締当局にとって重要ではない。

2017年3月28日には衆議院の丸山穂高議員(大阪維新の会)の質問にかかる議論において、同人誌やグッズを作る二次創作団体であっても、それ自体として共謀罪の適用対象から外れるものではないことが確認されている。少なくとも、法令上、海賊版とパロディとの間の線引きは予定されない。

著作権侵害の罪は、被害者の告訴がなければ公訴を提起できない「親告罪」であるが、警察が目を付けたターゲットを摘発するために、原著作者に告訴を促すことは可能である。

とりわけ筆者が懸念するのは、性交や非実在児童の描写を含むマンガに対する否定的影響である。



筆者は京都府青少年健全育成審議会委員として、18歳未満の者への提供を禁止する有害図書指定に携わっているが、委員の中には、性交描写の多いマンガやDVDについて、検閲により成人に対する提供も禁止すべきであるという意見を公の場で述べる者が常に複数いる。

憲法上の表現の自由を正面から否定する発言であり、おぞましいというほかはない。刑法175条のわいせつ物等頒布罪で規制されない対象には、表現の自由だけでなく営業の自由も及んでいることが無視されている。

また、筆者は、数十年前の写真をモチーフに描かれた作品が摘発の対象となったCG児童ポルノ裁判にも、第一審から無罪の意見書を提出してきているが、同事件は一審・二審とも有罪となっている。これらは不当判決であり、現在、事件は最高裁判所に係属している。

本来、日本国における児童買春・児童ポルノ処罰法は、実在する児童のみを保護するために立法されており、実在の児童をモデルにしていない絵が処罰対象となるはずはないのである。

しかし、表現の自由に対し抑圧的な意見が世論の有力な一角を占めていることは事実である。共謀罪の適用に関しても、取締機関がこれに迎合する形で摘発のターゲットを定めることは十分に考えられる。

共謀罪法案の実像を見れば、テロ対策目的がどこにもないばかりか、本来マフィア対策の条約である国連国際組織犯罪防止条約への対応としても説明のつかない内容になっている。

今回共謀罪処罰の対象から除外された犯罪類型は、警察などの特別公務員職権濫用・暴行陵虐罪や公職選挙法・政治資金規正法違反の罪など、公権力を私物化する罪、また、規制強化が国際的トレンドになっている民間の賄賂罪などである。

これは国際社会によって求められているのとは正反対の方向性である。警察は仕事がないなら、汚職の摘発に臨むべきである。


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http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50957

共謀罪の狙いはテロ対策ではない! スノーデンの警告に耳を傾けよ
合法化される政府の国民監視

小笠原 みどり




プロフィール







トランプ米大統領の就任と同時に、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』が米国でベストセラーに躍り出た、と複数のメディアが報じている。

直接的には、大統領就任式に集まった人数についてスパイサー報道官が「史上最多」と虚偽発表をしたことが契機になったらしい。オバマ前大統領の就任式写真と比べても明らかに人数は少ないのに、この発表を擁護してコンウェイ大統領顧問が言い放った言葉が「もう一つの事実(オールターナティヴ・ファクト)」だった。

嘘を「もう一つの事実」と呼ぶ、この倒錯した「新語法(ニュースピーク)」が人々に「ビッグ・ブラザー」の支配する小説の世界を思い起こさせたようだ。

真実を書き換える

『1984年』は作家の出身地である英国や、米国では高校の課題図書となっていることが多く、日本よりも若い年齢で広く読まれている。




東西「冷戦」下で書かれ(日本の周辺では「熱戦」であったが)、社会主義国の一党独裁体制を批判した小説として理解されてきたが、近年はむしろ自由主義諸国のなかに潜み、姿を現した監視国家への警鐘として読まれている。

日本でも住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)や街角に監視カメラが登場した2000年代から新たな目で読まれてきた。



住基ネットは国家が住民一人ひとりに番号を一元的にふって、個人情報を入手する初の「国民総背番号制」だった。政府内のデジタル・ネットワークを民間企業にも広げた、拡大・強化版が共通番号制(マイナンバー)である。

『1984年』の主人公ウィンストンは「真理省」の「記録局」に勤め、過去に発行された新聞記事を現在の政府の主張にあわせて修正している。

指導者ビッグ・ブラザーが過去に予測して外れた事実は、現在にあわせて過去の予測を書き換え、党の現在の「敵」がかつて「同盟相手」であったことは記録から抹消して、過去から首尾一貫して「敵」であったように記憶を捏造する。

つまり、指導者を完全なる正義にみせるための「真実管理(リアリティー・コントロール)」が彼の仕事だ。


トランプ政権は『1984年』の世界を彷彿させる Photo by iStock

20年ほど前、新聞記者として監視社会問題を取材するようになってからこの小説を読んだ私は、ウィンストンが精魂を傾ける「過去の変造」に心底ゾッとした。というのは、新聞社での原稿の送稿も過去の紙面管理も、すでに時代は紙からコンピュータへと移行していたからだ。

過去記事の改変はパソコン画面で、紙よりもずっと簡単に、証拠も残さずできてしまう。データベースに手を入れるだけで事実は跡形もなく差し替えられ、現在に都合のいい「真実管理」はいとも簡単に達成されてしまうのだから。

明らかな嘘を「もう一つの事実」と呼ぶ政権——黒を白と呼び、白を黒と受け入れる、この「新語法」は「二重思考(ダブルシンク)」によって支えられている、とオーウェルは書く。

だからウィンストンは嘘を同時に真実として受け入れ、真実を嘘にすり替えることができる。この小説のなかの国、オセアニアのあまりにも有名なスローガンを見て、読者がいま思い描くのは海の向こうの国アメリカだけだろうか。

戦争は平和である
自由は屈従である
無知は力である

NEXT ▶︎ 安倍政権が進める「真実管理」


話し合うことはテロ?

「平和のため」と言いながら、大半の憲法学者が違憲性を表明し、世論の反対が強かった集団的自衛権を合法化して、戦争参加への道を大きく開いた政権が、日本にも存在する。

この政権が、今国会で成立を目指しているのが「共謀罪」新設法案である。

共謀罪という概念にもまた、多くの刑事法研究者が反対している。「実行行為がなければ犯罪は成立しない」という歴史的に確立された刑法の大原則を、この法案がおかまいなしにひっくり返そうとしているからだ。

共謀罪は、二人以上の人間が犯罪行為について話し合った時点で、なんと犯罪が成立してしまう。



法務省刑事局長の国会答弁によれば、言葉とは限らず、目配せでも成立するというから、成立要件は限りなく捜査機関の「解釈」の問題になる。しかも犯罪と規定されるもの全般、676もの犯罪が対象になる!

(政府はこの対象項目の削減を国会での駆け引き材料にするらしいが、項目の拡大は後から簡単にできる)

「犯罪」の概念を密かに書き換え、犯罪行為に至るかもどうかもわからない時点で、むしろ実際には単なる会話に終わることが大半でも、人々を「犯罪者」に変えてしまう恐るべき強権性から、これまで国会で三度も廃案になってきた。


話し合うことはテロなのか Photo by GettyImages

その共謀罪を安倍政権は「テロ等準備罪」とラベルを張り替えて、今国会に提出する方針だ。

オリンピックを前にした「テロ対策」だと主張しているが、オリンピックと無関係に過去三度提案されたことを考えても、窃盗から公職選挙法違反まで刑法全体の書き換えに近いということを考えても、「テロ」とは噛み合わない。

共謀罪の核心は、人々の日常のコミュニケーションが犯罪化される、という点にある。合意すること、相談すること、言葉に出すことで犯罪が成立するのだから、警察は私たちのコミュニケーションそのものを捜査対象とすることになる。

それが「テロ対策」というなら、人々が会話すること、集まって表現すること、発言することそのものが犯罪の温床なのだろうか? 話し合うこと=テロ? これぞ危険な「新語法」である。

だが、「戦争」を「平和」と呼ぶ政権が出してきた「オリンピック」と「テロ対策」の二枚看板の前に、世論はなんとなく懐柔されているか、口ごもっているようにみえる。

これは私たちが「二重思考」に侵されてきた兆候だろうか。あるいは、共謀罪がなにかを知らないし、知らなくてもいいと思っているからだろうか。自分には関係ないだろう、と。

だとすれば、オセアニアのスローガンの末尾どおり、まさに私たちの無知は政権の力、である。知れば、これが自分にかかわる重大な問題と気づくだろう。

すべての通信が捜査対象に

そこで、いまから急いで共謀罪が自分にどうかかわるかを知るために、公開中の映画『スノーデン』を見ることをおすすめしたい。




オリバー・ストーン脚本・監督のこの作品は、米国防総省の国家安全保障局(NSA)の契約職員だったエドワード・スノーデンを主人公に、彼が2013年6月、全世界に衝撃を与える内部告発を遂げるまでを描いている。

NSAは世界中の通信網に忍び込ませた監視装置によって、携帯電話やインターネット上のコミュニケーションを大量に盗んでいた。

スノーデンがなぜ世界最強の権力に一人で抗し、極秘文書の数々を暴露したのかがドラマの軸だが、その決意の要因となった監視システムの無制限な拡大を映像で知ることができる。

ストーン監督はモスクワ亡命中のスノーデンと9回会って、監視システムの詳細を聞き取ったという。

なぜ映画に描かれた監視システムが共謀罪と関係するのか。

それは、共謀罪の取り締まりとは犯罪行為以前のコミュニケーションを取り締まることであり、犯罪に関係するコミュニケーションを警察が割り出すには、すべてのコミュニケーションを捜査対象とせざるをえないからである。

すべてのコミュニケーションを警察が把握するなんてありえない、とあなたは思うだろうか? そういう人ほどこの映画を見てほしい。

米政府を始めとする国家権力がすでにそれだけの技術的な能力を備えていることがわかるからだ。ビッグ・ブラザーもうらやむであろうほどの——。

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想像をはるかに超えた「監視の力」

映画は2013年6月、29歳のスノーデン(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)が、香港のホテルでジャーナリスト3人と面会し、NSAが電子通信網に張り巡らせた監視装置の数々について内部文書を見せる場面から幕を開ける。

世界を震撼させた連続スクープが公表されるまでの手に汗握る1週間の合間に、スノーデンの過去と、極秘裏に拡大していった監視プログラムが解き明かされる。

たとえば、「エックスキースコア」。米中央情報局(CIA)にエンジニアとして採用されたスノーデンは、2007年にスイス・ジュネーヴへ派遣され、そこでこのプログラムを知る。

NSAの調査員が「攻撃」「殺し」「ブッシュ」とキーワードを入力して、大統領への敵対的な発言をネット上から検索している。メール、チャット、ブログ、フェイスブックはもちろん、非公開のネット情報も含めて世界中の人々の通信と投稿が対象だ。有名人や政治関係者の発言ではない、すべての「フツーの人々」の私信から洗い出しているのだ。

当然、日本の首相への怒りや警察への批判、企業への不満などを示す発言を捜し出すことも可能だ。

特定の人物について知りたければ、エックスキースコアでその人物が送受信したメールからフェイスブック上の人間関係までを把握することもできる。

映画では、なんの罪もないパキスタンの銀行家をCIAが情報提供者として取り込むために、エックスキースコアを使って家族や友人、知人の弱味を捜し出し、それをネタに揺さぶりをかけ、脅迫していくさまが描かれる。

この経験は、国家の正義を信じていたスノーデンにとって、諜報機関に疑問を抱くきっかけとなる。


NSAはすべての情報を収集しているのか Photo by GettyImages

次に、ウェブカメラや携帯電話による盗撮、盗聴。個人のパソコンに内蔵されたウェブカメラを使って、NSAの調査員が上記銀行家の親族が着替えている場面を盗み見る。

パソコンがオフ状態にあっても、NSAが遠隔起動させ、監視カメラとして使用できるのだ。また、香港で3人のジャーナリストに会ったスノーデンは、3人の携帯電話を電子レンジのなかに保管する。

これはたとえ携帯電話の電源が切れていても、NSAがやはり遠隔操作によって電源を入れ、盗聴マイクとして音声を収集することができるから、それを防止するため。最初はあきれ顔だったジャーナリストたちが、スノーデンから監視技術の進化を聞くにつれ、驚愕していく。



そして、「プリズム」。これはNSAがグーグル、ヤフー、フェイスブック、マイクロソフト、アップル、ユーチューブ、スカイプなど米大手インターネット9社のサーバーにアクセスし、一日数百万件にも上る利用者の通信記録を入手していたプログラムで、2013年6月に暴露された事実のうち最も反響を呼んだといっていいだろう。

というのも、それまでも米政府がネット上の個人情報を大量に収集しているという動向は伝えられてはいたが、インターネット・サービス・プロバイダーは民間会社なので政府が直接介入するのには限界があると考えられていたからだ。

ところが実際には、政府は秘密裏に企業に協力を要請し、企業側は顧客にプライバシー保護を約束しながら、政府に大量の顧客情報を提供していた。

これらの米大手企業の事業は世界規模で、日本でも上記企業のサービスをまったく使わずにインターネットを使用している人はほとんどいないだろう。

さらに、無人機(ドローン)攻撃。監視は最終的にだれかを破壊することに行き着く。スノーデンが暴いたNSAの監視システムはすべて「対テロ戦争」の下で巨大な権限を手にした諜報機関が、法律や議会の監督なしに、公衆の目の届かないところで強化させた。

米軍は携帯電話に搭載されたSIMカードから持ち主の位置情報を特定し、無人機を遠隔操作して爆撃する。日本のNSA代表部がある米空軍横田基地で、またハワイの暗号解読センターで、スノーデンは米軍のドローンによって建物もろとも木っ端微塵に破壊される人間の映像を見た。

空爆による砂埃のなか、救助に駆けつける車両を再び、ドローンが襲う。ドローンを操作した女性空軍兵士の声がNSAの技術開発者たちに届く。

「ショーにご満足いただけたかしら?」

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この監視システムは狂気じみている

インターネットと携帯電話という、ほとんどの人にとって便利で快適で、必要不可欠ですらある技術が、いまやこれだけの監視の能力を政府と企業に与えている。

すべての人々のコミュニケーションを収集することは可能だし、現に実行されている。犯罪者や犯罪に関係していそうな人たちだけではない、まったく無関係な人たちの通信が検索され、弱味をつかむべく重箱の隅をつつかれ、ある者は陥れられて「犯罪者」にされ、ある者は殺される。

共謀罪は、こうしたコミュニケーションの把握を捜査の前提とし、したがって盗聴、盗撮、無制限な個人情報の収集を合法化する基盤をつくりだすのだ。

私は昨春、スノーデンにネット上の回線を通じてインタビューし、昨年末に『スノーデン、監視社会の恐怖を語る:独占インタビュー全記録』(毎日新聞出版)を刊行した。




彼がインタビューで語った「世界の諜報機関は集めた個人情報をまるで野球カードかなにかのように交換する。けれど彼らが実際にやり取りしているのは人々のいのちなのです」という言葉を、私はこの映画で真に理解することができた。

スノーデンはエックスキースコアを「スパイのグーグル」と私に説明した。

調べる側にとっては、グーグルにキーワードを入れてクリックするのと同じ、軽い行為かもしれない。だが、調べられる側にとってその結果は、ある日突然、自分や家族が災難に見舞われ、最悪の場合は軍にいきなり襲われる。自分がどうしてそんな目に遭うのか、本人にはわからない。

五感で感じ取ることのできないデジタル監視の暗躍と、すべての人々を巻き込んでいく、その狂気じみた壮大なまでのスケール、そして一人ひとりに及ぼす深刻な被害を、ストーン監督はドキュメンタリーの手法やCGも駆使し、実感のある物語として映像化することに成功している。

映画のなかのスノーデンはつぶやく。

テロを防ぐ仕事として、1人の標的がかけたすべての電話番号の相手も監視するよう指示された。さらにその相手の通話先40人も監視すると、最初の標的から3人先には総勢250万人になった、と。

「そしてその規模に気づき、愕然とする瞬間が来る。NSAは世界中の携帯電話を監視しています。誰もがデータベースのなかにいて、日々監視される可能性がある。テロリストや国や企業だけじゃない、あなたもです」



日本を機能停止させるマルウエア?

映画はさらに、日本の観客のために特別に重大な情報を織り込んでいる。

スノーデンは2009年から2年間、日本の米空軍横田基地内のNSAで勤務していたが、その場面で、自衛隊の制服組が彼の職場を訪れ、上司は自衛隊を感心させようと戦場のドローン映像を見せる。

NSAは日本国民の監視について協力を求めるが、日本側は「法律に反するから」と断った。その結果、NSAは日本の監視をあきらめるのではなく、さらに侵害的、一方的な監視に踏み込んだ。

それは日本の通信網を監視するだけでなく、送電網やダム、病院などの物理的ライフラインと大規模施設をマルウエア(不正プログラム)によって乗っ取りにかかったというのだ。

これは普段はスリープ状態にあるが、いったん起動すればすべてのコンピュータ・システムを誤作動させ、施設の機能を停止させることができるという。

米国は日本だけではなく、メキシコ、ドイツ、ブラジル、オーストリアにも、このマルウエアを仕掛けた、とスノーデンは明かす。


「同盟国」への容赦ない監視を証言したスノーデン氏 Photo by GettyImages

これが本当なら、米国の「同盟国」とは名ばかりで、ただの人質に過ぎない。日本政府は性急に調査する必要があるだろう。

もうお気づきだろうか。これらの監視能力はビッグ・ブラザーをはるかに超えている。

そしてこれはSF映画ではない。ハリウッドには9.11後の監視社会を予見したかのような『マイノリティ・リポート』を始め、『トゥルーマン・ショー』『ガタカ』『エネミー・オブ・アメリカ』など、高度に発達した技術によって個人の身体が管理され、心理が操作され、記憶が捏造される近未来を描いた作品が数多くある。

だが『スノーデン』は、いま起きていることを描いているのだ。

この現実をさらに深く理解するためには、ぜひスノーデンの告発をその場で撮影し、他の内部告発者の姿も追ったドキュメンタリー映画『シチズンフォー』(ローラ・ポイトラス監督、2015年、第87回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞受賞)を見てほしい。

NEXT ▶︎ スノーデンから日本への警告

手放してはならない法の守り

そして私たちは、8年前の日本政府が国民監視に消極的だったからといって毛頭安心することはできない。

スノーデンが日本にいた時期はちょうど民主党(当時)を中心とする連立政権期であり、その後の自民・公明政権は特定秘密保護法、新安保法、盗聴法の大幅拡大を続けざまに成立させている。

つまり、当時の日本政府は国民監視が国内法に違反することを理由にNSAへの協力を断ったが、その法律による規制はいまや次々と取り払われ、政府による盗聴と盗撮と国民監視は合法化の一途をたどっているからだ。

共謀罪が私たちにとってのこれまでの法の守りを、一気に突き崩すものであることはもはや論を待たない。


「特定秘密保護法」はアメリカがデザインしたものです Photo by GettyImages

だからこそスノーデンは、私のインタビューで「特定秘密保護法は実はアメリカがデザインしたものです」「その後、日本の監視法制が拡大していることを、僕は本気で心配しています」と語ったのだ(拙稿『スノーデンの警告「僕は日本のみなさんを本気で心配しています」なぜ私たちは米国の「監視」を許すのか』参照)。

『シチズンフォー』で彼は、NSAがテロではなく、「国家権力に反対する力を削ぎ落とし続けている」と語っている。

共謀罪はテロ対策にはならないし、テロ対策ではない。「二重思考」の著しい政権が聞きたくない声を捜し出し、封殺し、無力化し、それと同時に、私たち各人に自己検閲させるための広範な監視のシステムなのだ。

この真実を伝えるスノーデンの言葉と、映画監督たちの努力が「新語法」によって変造されないうちに、急いで作品に出合ってほしい。

知ることは、私たちの力なのだから。





(C)Praxis Films 発売元:ギャガ

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49507

スノーデンの警告「僕は日本のみなさんを本気で心配しています」
なぜ私たちは米国の「監視」を許すのか

小笠原 みどり




プロフィール








筆者のインタビューに答えるスノーデン氏(筆者撮影)

現在、映画『シチズンフォー スノーデンの暴露』が全国で公開中だ。この映画は2013年6月にアメリカ政府の監視システムを告発したエドワード・スノーデンを追ったドキュメンタリー映画である。世界的に話題となったあの事件から3年以上が経つ。今はロシアに亡命している彼から、日本の我々への緊急メッセージ。

文/小笠原みどり(ジャーナリスト)

あなたの通話・メール・ネット利用履歴は全て見られている

インターネット時代、日々めまぐるしく変わり続ける情報と状況のなかで、どれだけの人が彼を覚えているだろうか。いや、それ以前に、彼は日本でまだ十分に知られていないかもしれない。

このインターネットの裏側で大規模に執り行われている監視の実態を、世界に向けて暴いた当時弱冠29歳のエンジニア。かつて2年間日本で暮らしたにもかかわらず、日本人のほとんどは彼の警告を自分の問題として感じていない――。

アメリカ国家安全局(NSA)の契約職員だったエドワード・スノーデンに昨年末インタビューを申し込んだのは、この焦りに似た動機からだった。スノーデンは2013年6月、二人の米国人ジャーナリスト(『暴露』の著者グレン・グリーンウォルドと、公開中の映画『シチズンフォー』の監督ローラ・ポイトラス)にNSAの機密文書を提供し、米国が秘密裏に張り巡らせた世界監視網を人々に告げ知らせた。

メール、チャット、ビデオ通話、ネット検索履歴、携帯電話での通話など、世界中のあらゆる通信経路を通過する情報のすべてをNSAが掌握しようとしているという事実が、初めて具体的な仕組みとともに明らかにされた。世界中が驚愕し、多くの人々が激怒し、私自身も震えた。

しかし、日本ではこの史上最大級の内部告発はどこか他人事のように報道された。初報が英字紙ガーディアンやワシントン・ポストのスクープとして始まり、米国政府が自国の市民まで容赦のない監視の対象としていたことが驚きの焦点となったため、私たちはいつものように米国経由で情報を受け取って、自分たちには直接関係ないと高をくくった。

ドイツやブラジルではすぐに自分たちの個人情報はいったいどこまで把握されているのかという独自の取材が始まったが、日本ではそのような追及は起こらなかった。さらに、インターネット時代の私たちはまことに忘れやすい。昨日の衝撃は今日の凡庸にすぐさま姿を変える。自分が監視されているかもと知らされても、即刻「実害」がないのならさして危機感も湧かず、むしろ受け入れてしまう…。

だが、それは決して他人事ではなかった。2013年秋にカナダの大学院へ来た私は、スノーデンの喚起した議論が始まったばかりだと気づいた。英字紙によるスクープは止まず、「テロリスト」を捕まえるはずだった監視システムは「ジャーナリスト」を妨害するために使われていることを伝えていた。

やがて彼自身、世界各地の講演会場にネットを通じて登場してはNSAが自由と民主主義を蝕んでいることを指摘し、存在感を強めていった。

監視システムが人目の届かない場所でいかに乱用されているかを知らせる、こうした続報は日本にも大いに関係があったが、日本には伝えられなかった。流れ続ける情報は、日本のメディア関係者の意識に留まることなく、日本を静かに迂回していった。

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特定秘密保護法はアメリカがデザインした

5月、スノーデンは亡命先のロシアから、私のインタビューに応じた。詳細は他所で報じたが(『サンデー毎日』6月12日号〜7月10日号掲載)、彼はNSAが日本人をどう監視しているかを語ると同時に、日本の言論の自由が危機的状況にあることを深く憂えていた。それは彼自身が暴露した監視問題についての世界と日本との深刻な情報のギャップにも反映されていた。彼の発言のいくつかから、日本におけるNSA監視と報道の「不自由」の関係を考えたい。

発言1 「日本で近年成立した(特定)秘密保護法は、実はアメリカがデザインしたものです」

スノーデンはNSAの仕事を請け負うコンピュータ会社デルの社員として2009年に来日し、東京都福生市で2年間暮らしていた。勤務先は、近くの米空軍横田基地内にある日本のNSA本部。NSAは米国防長官が直轄する、信号諜報と防諜の政府機関だが、世界中の情報通信産業と密接な協力関係を築いている。デルもその一つで、米国のスパイ活動はこうした下請け企業を隠れみのにしている。

米国の軍産複合体は、いまやIT企業に広く浸透し、多くの技術が莫大な予算を得て軍事用に開発され、商用に転化されている。NSAはテロ対策を名目にブッシュ政権から秘密裏に権限を与えられ、大量監視システムを発達させていった。

スノーデンが働くNSAビルには、日本側の「パートナーたち」も訪れ、自分たちの欲しい情報を提供してくれるようNSAに頼んでいたという。が、NSAは日本の法律が政府による市民へのスパイ活動を認めていないことを理由に情報提供を拒み、逆に、米国と秘密を共有できるよう日本の法律の変更を促したというのだ。米側から繰り返された提案が、スノーデンの言う「秘密法のデザイン」に当たる。

特定秘密保護法はスノーデンの告発から半年後の2013年12月、国会で強行採決された。これまで語られなかった背景を、スノーデンはこう明かした。

「これはNSAが外国政府に圧力をかける常套手段です。自分たちはすでに諜報活動を実施していて、有用な情報が取れたが、法的な後ろ盾がなければ継続できない、と外国政府に告げる。これを合法化する法律ができれば、もっと機密性の高い情報も共有できると持ちかけられれば、相手国の諜報関係者も情報が欲しいと思うようになる。こうして国の秘密は増殖し、民主主義を腐敗させていく……」

特定秘密保護法により、国の秘密を漏らした者は最高懲役10年が課されることになった。厳罰によって、政府の監視システムとそれが扱う秘密情報を人々の目から隠すことができる。では、NSAは日本でなにを監視しているのか。

発言2 「米政府が日本政府を盗聴していたというのは、ショックな話でした。日本は米国の言うことはほとんどなんでも聞いてくれる、信じられないほど協力的な国。今では平和主義の憲法を書き換えてまで、戦闘に加わろうとしているでしょう? そこまでしてくれる相手を、どうして入念にスパイするのか? まったくバカげています」

これは、内部告発メディアのウィキリークスが昨夏公表した、NSAの大規模盗聴事件「ターゲット・トーキョー」についてのスノーデンの感想だ。NSAが少なくとも第一次安倍内閣時から内閣府、経済産業省、財務省、日銀、同職員の自宅、三菱商事の天然ガス部門、三井物産の石油部門などの計35回線の電話を盗聴していたことを記す内部文書が公にされた。

対象分野は、金融、貿易、エネルギー、環境問題などで、いずれもテロとはなんの関係もない。米国が表面上は「友好関係」を強調しながら、日本のなにを監視しているのかがわかる。NSAと緊密な協力関係にある英語圏の国々、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダにも一部共有されていた(これらの国々はNSA文書で「ファイブ・アイズ」と呼ばれる。次ページ 図1参照)。

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図1(Approved SIGINT Partners)NSAの信号諜報(SIGINT: Signals Intelligenceの略)協力国についてのNSA機密文書。最も緊密に情報を共有する「Second Parties」が英語圏の国々で、別名「ファイブ・アイズ」。日本は協力国ではあるが、監視対象ともなる「Third Parties」に含まれている。

標的は政府機関だけではない

ターゲット・トーキョーの盗聴経路はわかっていないが、NSAが国際海底ケーブルへの侵入、衛星通信の傍受、マイクロソフト、グーグル、フェイスブックなどインターネット各社への要請によって、世界中のコミュニケーションの「コレクト・イット・オール」(すべて収集する)を目指していることは、スノーデンの公表した機密文書によって明らかになっている。(↓図2参照)


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図2(Collect It All)米国の「すべてをかぎつけ、すべてを知り、すべてを収集し、すべてを処理し、すべてを利用し、すべてをパートナーにする」という、「対テロ戦争」下での新方針。スノーデンが明らかにしたNSA機密文書のうち、おそらく最も反響を読んだ一枚。「パートナー」の部分では、イギリスの諜報機関「GCHQと三沢(空軍基地)で得た情報を共有する」と記している。

オーストラリアの安全保障研究者、デズモンド・ボールとリチャード・タンターによれば、日本の監視拠点は、米海軍横須賀基地(神奈川県)、米空軍三沢基地(青森県)、同横田基地と米大使館(東京都)、米海兵隊キャンプ・ハンセンと米空軍嘉手納基地(沖縄県)で、約1000人が信号諜報に当たっているという。このうち米大使館は官庁、国会、首相官邸に近く、NSAの特殊収集部隊が配置されているといわれる。米軍基地は戦闘拠点であるだけでなく、監視活動を主要任務としているのだ。

このうち国際ケーブルなどの通信インフラに侵入して情報を盗み出す「特殊情報源工作(SSO)」を、スノーデンは「今日のスパイ活動の大半であり、問題の核心」と呼ぶ。SSOは主に、国際海底ケーブルの米国上陸地点で、ケーブルを通過する大量の情報をNSAのデータベースへと転送する工作を施す。

インターネットが米国由来の技術であることから、世界の通信の多くが米国内のインターネット、通信会社のサーバーを通過する。そのため、たとえ日本国内で送受信されたメールであっても、米国内のケーブル上陸地点を通過すれば情報を盗むことができる。標的にされているのは、政府機関だけではない。「コレクト・イット・オール」はすべての人々の通信を対象にしているのだ。

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日本の通信会社も協力しているはず

言うまでもなく、電話もインターネットも大半が民間企業によって運営されている。SSOには企業の協力が欠かせない。NSA文書は、世界中で80社以上との「戦略的パートナーシップ」を築いたと明かす。

米国内ではすでに、大手通信会社のベライゾンやAT&Tがデータ転送システムの構築に協力し、利用者データをNSAに渡してきたことがニューヨーク・タイムズなどによって報じられている。日米間海底ケーブルのひとつ「トランス・パシフィック・オーシャン」の国際共同建設にも、この両社が参加し、米側の上陸地点オレゴン州北部のネドンナ・ビーチの内陸、ヒルズボロに陸揚げ局を設置している。(↓図3参照)


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図3(Trans-Pacific Express)盗聴プログラム「STORMBREW」の一部としてNSA文書に記載された国際海底ケーブル「トランス・パシフィック・エクスプレス」。日本の接続地点は「Shinmaruyama」(新丸山)と表記され、「窒息ポイント」と呼ばれる侵入地点、米西海岸の「BRECKENRIDGE」につながる。

この位置が、NSAの最高機密文書に記された情報収集地点(「窒息ポイント」と呼ばれる)のひとつと重なることから、日本からのデータがこの地点で吸い上げられている可能性は高い。中国、台湾、韓国もつなぐこの光ファイバー・ケーブルには、日本からNTTコミュニケーションズが参加。千葉県南房総市に陸揚げ局・新丸山局を設置している。

発言3 「多くの場合、最大手の通信会社が最も密接に政府に協力しています。それがその企業が最大手に成長した理由であり、法的な規制を回避して許認可を得る手段でもあるわけです。つまり通信領域や事業を拡大したい企業側に経済的インセンティブがはたらく。企業がNSAの目的を知らないはずはありません」

日本の通信会社がNSAに直接協力しているのか、それはスノーデンにも分からない。だが、彼は言う。

「もし、日本の企業が日本の諜報機関に協力していないとしたら驚きですね。というのは、世界中の諜報機関は同手法で得た情報を他国と交換する。まるで野球カードのように。手法は年々攻撃的になり、最初はテロ防止に限定されていたはずの目的も拡大している。交換されているのは、実は人々のいのちなのです」

「僕が日本で得た印象は、米政府は日本政府にこうしたトレードに参加するよう圧力をかけていたし、日本の諜報機関も参加したがっていた。が、慎重だった。それは法律の縛りがあったからではないでしょうか。その後、日本の監視法制が拡大していることを、僕は本気で心配しています」

日本のNSA活動が米軍基地を拠点としているように、NSA監視システムは「対テロ戦争」下で世界に急速に張り巡らされた。新たな監視手段の導入が常に「安全のため」と説明されるにもかかわらず、欧米で相次ぐ「テロ」は、すでに強力な軍や警察の監視システムが人々の安全を守れてはいないことを露呈している。では、監視システムはなんのために使われているのか?

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筆者とネット越しに話すスノーデン氏(筆者撮影)

大量監視に危機感欠く 日本のメディア

スノーデンの告発によって、米国では「模範的」「愛国的」といえるムスリム市民たちが集中的な監視対象になり、調査報道ジャーナリストたちが「国家の脅威」としてリストに上がっていることが明らかになった。大量監視は私たちの安全ではなく、グローバルな支配体制を守るために、すべての個人を潜在的容疑者として見張っているようだ。

そしてスノーデンが指摘するように、情報通信産業は利益の追求という「経済的インセンティブ」に突き動かされながら、いまや世界の軍産複合体の中心部で、この広範な戦争と支配の構造を下支えしている。

今のところ米国の戦場とはなっていない日本も、この戦争構造に組み込まれているし、現に監視の下にある。長年米軍基地を提供し、「思いやり予算」と日米地位協定で厚遇してきた日本ですら執拗に監視されてきたことは、スノーデンを驚かせた。ターゲット・トーキョーは、監視が「敵」や反対者に限らず、協力者や無関係な人々まで対象としていることを明確にした。

と、同時に、日本政府は米国の監視システムの被害者でありながら、今後、特定秘密保護法によって米国の世界監視体制を守る同調者として、日本で暮らす人々の通信データを横流しする共犯者、加害者としての性格を強めていくことを、スノーデンは憂慮している。

秘密保護法によって逮捕された記者やジャーナリストはまだいない。だが、政府の特定秘密文書は昨年末時点で27万2020点、前年から8万点以上と恐るべき勢いで増大している(2016年4月26日付朝日新聞)。その間に、「世界報道の自由度ランキング」で近年順位を下げ続けて来た日本がさらに今年72位へと転落したのは偶然ではない。

強権発動はなくとも、報道の「不自由」が日本のメディアに蔓延し、英語や他言語がわかる特派員や現地スタッフが海外に何千人いようとも、日本の外交、民主主義、そして戦争と平和に大いにかかわるスノーデンの告発が、危機感をもって日本に伝えられることはなかった。いや、強権発動を要せずして、日本の報道関係者はネット上の流動的、断片的な情報から内向きに聞こえのよいもの、効率よくニュースにできるものを選択する「不自由」に慣れ、日本人の世界を理解する力を深刻に低下させている。

これは実は、監視問題に限ったことではない。史上最多といわれる難民問題から旧日本軍「慰安婦」問題まで、世界の現場で起きている事象が日本にいる私たちに「自分の問題」として感じられるまでに掘り下げて伝えられているとは言いがたい。特に、日本への批判を含んだ声は、穏便に加工されて出荷されているようにみえる。

このツケを払わされるのは、おそらくメディアではない。もちろん日本政府でもない。71年前の敗戦時、多くの日本人が政府と報道機関が実は何年も前から嘘ばかりついてきたことを初めて知った。世界を知らず、世界から孤立し、聞こえのよいニュースに期待をかけたまま、家族を、友人を、すべてを失った。が、政府も報道機関も生き延びた。

ツケを払わされるのは結局、悲しいまでに個人、私たち一人ひとりだ。大量監視システムは「監視されても構わない」と思う人たちでさえ、執拗に追い回し、いつでも「危険人物」に変えうることを、スノーデンは日本に警告した。日本人が自分たちは関係ない、と思わされている間に。

小笠原 みどり(おがさわら・みどり)
ジャーナリスト。朝日新聞記者を経て、2004年、米スタンフォード大でフルブライト・ジャーナリスト研修。現在、カナダ・クイーンズ大学大学院博士課程在籍。監視社会批判を続ける。共著に『共通番号制(マイナンバー)なんていらない!』(航思社)、共訳に『監視スタディーズ』(岩波書店)。


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