蟹工船

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)
小林 多喜二
新潮社
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劇画 蟹工船

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蟹工船
小林多喜二
         
      一
「おい地獄さ行( え) ぐんだで!」    
二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛
( かたつむり) が背のびをしたように延びて、海を
抱え込んでいる函館( はこだて) の街を見ていた。
― - 漁夫は指元まで吸いつくした煙草( たばこ)
を唾( つば) と一緒に捨てた。巻煙草( まきたばこ)
はおどけたように色々にひっくりかえって、高い
船腹( サイド) をすれずれに落ちて行った。彼は身
体( からだ) 一杯酒臭( くさ) かった。
赤い太鼓腹( たいこばら) を幅広く浮かばして
いる汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖( か
たそで) をグイと引張られてでもいるように、思
いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙
1
突、大きな鈴のような赤いヴイ、南京虫( なんき
んむし) のように船と船の間をせわしく縫ってい
るランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑
( くず) や腐った果物の浮いている何か特別な織物
のような波… … 。風の工合で、煙が波とすれずれ
になびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウ
インチのガラガラという音が、時々波を伝って直
接( じか) に響いてきた。
この蟹工船( かにこうせん) 博光丸( はっこうま
る) のすぐ手前に、ペンキの剥( は) げた帆船が、


ヽヽ
さきの牛の鼻穴のようなところから錨( いかり)
の鎖( くさり) を下していた。甲板を、マドロス・
パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も
機械人形のように、行ったり来たりしているのが
見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の
「蟹工船」に対する監視船だった。
 「俺( おい) らもう一文も無( ね) え。 ― ― 糞
( くそ)。こら。」
 そういって、身体をずらして寄こした。そして
もう一人の漁夫の手を振って、自分の腰のところ
へ持って行った。祥天( はんてん) の下のコールテ
ンのズボンのポケットに押しあてた。何か小さい
2
箱らしかった。
一人は黙って、その漁夫の顔をみた。
 「ヒヒヒヒ… … 」と笑って、「花札( はな) よ。」
といった。
 ボート・デッキで、「将軍」のような恰好( か
つこう) をした船長が、ブラブラしながら煙草を
のんでいる。はき出す煙が鼻先からすぐ急角度に
折れて、ちぎれ飛んだ。底に木を打った草履( ぞ
うり) をひきずッて、食物バケツをさげた船員が
急がしく「おもて」の船室を出入した。― ― 用意
はすっかり出来て、もう出るにいいばかりになっ
ていた。
 雑夫( ざつふ) のいるハッチを上から覗( のぞ) き
こむと、薄暗い船底の棚( たな) に、巣から顔だけ
ピョコピョコ出す鳥のように騒ぎ廻っているのが
見えた。皆十四、五の少年ばかりだった。
 「お前は何処( どこ) だ。」
「×× 町。」みんな同じだった。函館の貧民窟( ひ
んみんくつ) の子供ばかりだった。そういうのは、
それだけで一かたまりをなしていた。
 「あっちの棚は? 」
 「南部。」
3
 「それは? 」
 「秋田。」
 それらは各々( おのおの) 棚をちがえていた。
 「秋田の何処だ。」
 膿( うみ) のような鼻をたらした、眼の
ヽヽ
ふちがあ
かべをしたようにただれているのが、
 「北秋田だんし。」といった。
 「百姓か? 」
「そんだし。」
空気が
ヽヽ
ムンとして、何か果物でも腐ったすッぱ
い臭気( しゅうき) がしていた。漬物( つけもの) を
何十樽( たる) も蔵( しま) ってある室( へや) がすぐ
隣りだったので、「糞( くそ)」のような臭いも交
っていた。
 「こんだ親父( おど) 抱いて寝てやるど」― ― 漁
夫がベラベラ笑った。
薄暗い隅( すみ) の方で、袢天( はんてん) を着、
股引( ももひき) をはいた、風呂敷を三角にかぶっ
た女出面( でめん) らしい母親が、林檎( りんご) の
皮をむいて、棚に腹ん這( ば) いになっている子供
に食わしてやっていた。子供の食うのを見ながら、
自分では剥( む) いたぐるぐるの輪になった皮を食
4
っている。何かしゃべったり、子供のそばの小さ
い風呂敷包を何度も解いたり、直してやっていた。
そういうのが七、八人もいた。誰も送って来てく
れるもののいない内地から来た子供たちは、時々
そっちの方を
ヽヽヽ
ぬすみ見るように、見ていた。
 髪や身体がセメントの粉まみれになっている女
が、キャラメルの箱から二粒( つぶ) ぐらいずつ、
その附近の子供たちに分けてやりながら、
 「うちの健吉と仲よく働いてやってけれよ、
な。」といっていた。木の根のように不恰好( ぶ
かっこう) に大きいザラザラした手だった。
 子供に鼻をかんでやっているのや、手拭( てぬ
ぐい) で顔をふいてやっているのや、ボソボソ何
かいっているのや、あった。
 「お前さんどこの子供は、身体は
ヽヽ
ええべもの
な。」
 母親同士だった。
 「ん、まあ。」
 「俺( おら) どこのア、とても弱いんだ。どうす
べかッて思うんだども、何( な) んしろ… … 。」
 「それア何処でも、ね。」
 ― ― 二人の漁夫がハッチから甲板( かんぱん) へ
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顔を出すと、ホッとした。不機嫌( ふきげん) に、
急にだまり合ったまま雑夫の穴より、もっと船首
の、梯子形( はしごがた) の自分たちの「巣」に帰
った。錨を( いかり) 上げたり、下したりする度
( たび) に、コンクリート・ミキサーの中に投げ込
まれたように、皆は跳( は) ね上り、ぶッつかり合
わなければならなかった。
薄暗い中で、漁夫は豚のようにゴロゴロしてい
た。それに豚小屋そっくりの、胸がすぐゲエと来
そうな臭( にお) いがしていた。
 「臭( く) せえ。臭せえ。」
 「そよ、俺だちだもの。ええ加減( かげん)、こ
ったら腐りかけた臭いでもすべよ。」
 赤い臼( うす) のような頭をした漁夫が、一升瓶
( びん) そのままで、酒を端( ふち) のかけた茶碗に
注( つ) いで、賜( するめ) をムシャムシャやりなが
ら飲んでいた。その横に仰向けにひっくり返って、
林檎を食するめいながら、表紙のボロボロした講
談雑誌を見ているのがいた。
 四人輪になって飲んでいたのに、まだ飲み足り
なかった一人が割り込んで行った。
 「… … んだべよ。四カ月も海の上だ。もう、こ
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れんかやれねべと思って… … 。」
 頑丈( がんじょう) な身体をしたのが、そういっ
て、厚い下唇( くちびる) を時々癖のように嘗( な)
めながら眼を細めた。
 「んで、財布( さいふ) これさ。」
 干柿( ほしがき) のようなべったりした薄い蟇口
( がまぐち) を眼の高さに振ってみせた。
 あの白首( ごけ)、身体こったらに小せえくせに、
とても上手( うめ) えがったどオ! 」
 「オイ、止( よ) せ、止せ! 」
 「ええ、ええ、やれやれ。」
 相手はへへへへへと笑った。
 「見れ、ほら、感心なもんだ。ん? 」
酔った眼をちょうど向い側の棚の下にすえて、
顎( あご) で、「ん! 」と一人がいった。
 漁夫がその女房に金を渡しているところだった。
 「見れ、見れ、なア! 」
 小さい箱の上に、皺( しわ) くちゃになった札や
銀貨を並べて、二人でそれを数えていた。男は小
さい手帖( てちょう) に鉛筆をなめなめ、何か書い
ていた。
 「見れ。ん! 」
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「俺にだって嬶( かかあ) や子供はいるんだで。」
自首( ごけ) のことを話した漁夫が急に怒ったよう
にいった。
 そこから少し離れた棚に、宿酔( ふつかよい) の
青ぶくれに
ヽヽヽ
ムクンだ顔をした、頭の前だけを長く
した若い漁夫が、
「俺( おら) アもう今度こそア船さ来ねえッて思っ
てたんだけれどもな。」と大声でいっていた。
「周旋屋( しゅうせんや) に引っ張り廻されて、文
無しになってよ。― ― また、長げえこと
ヽヽヽヽ
くたばる
めに合わされるんだ。」
 こっちに背を見せている同じ処から来ているら
しい男が、それに何かヒソヒソいっていた。
 ハッチの降口( おりぐち) に始め鎌足( かまあし)
を見せて、ゴロゴロする大きな昔風の信玄袋( し
んげんぶくろ) を担( にな) った男が、梯子( はしご)
を下りてきた。床に立ってキョロキョロ見廻して
いたが、空いているのを見付けると、棚に上って
きた。「今日は。」といって、横の男に頭を下げ
た。顔が何かで染ったように、油じみて黒かった。
 「仲間さ入( え) れて貰( もれ) えます。」
 後で分ったことだが、この男は、船へ来るすぐ
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前まで夕張( ゆうばり) 炭坑に七年も坑夫をしてい
た。それがこの前のガス爆発で、危く死に損ねて
から― ― 前に何度かあった事だが― ― フイと坑夫
が恐ろしくなり、炭山( やま) を下りてしまった。
爆発の時、彼は同じ坑内にトロッコを押して働い
ていた。トロッコに一杯石炭を積んで、他の人の
受持場まで押して行った時だった。彼は百のマグ
ネシウムを瞬間眼の前でたかれたと思った。それ
と、そして1/500 秒もちがわず、自分の身体が紙ッ
きれ
片のように何処かへ飛び上ったと思った。何台と
いうトロッコがガスの圧力で、眼の前を空のマッ
チ箱よりも軽くフッ飛んで行った。それッ切り分
らなかった。どのぐらい経( た) ったか、自分のう
なった声で眼が開いた。監督や工夫が爆発が他へ
及ばないように、坑道に壁を作っていた。彼はそ
の時壁の後から、助ければ助けることの出来る炭
坑夫の一度聞いたら心に縫( ぬ) い込まれでもする
ように、決して忘れることの出来ない、救いを求
める声を「ハッキリ」聞いた。― ― 彼は急に立ち
上ると、気が狂ったように、
「駄目だ、駄目だ! 」と皆の中に飛びこんで、
叫び出した。( 俺は前の時は、自分でその壁を作
9
ったことがあった。そのときは何んでもなかった
のだが。)
  「馬鹿野郎!  ここさ火でも移ってみろ、大
損だ。」
 だが、だんだん声の低くなって行くのが分るで
はないか!  彼は何を思ったのか、手を振ったり
わめいたりして、無茶苦茶に坑道を走り出した。
何度ものめったり、坑木に額を打ちつけた。全身
ドロと血まみれになった。途中、トロッコの枕木
( まくらぎ) につまずいて、巴投( ともえな) げにで
もされたように、レールの上にたたきつけられて、
また気を失ってしまった。
 その事を聞いていた若い漁夫は、
 「さあ、ここだってそう大して変らないが…
… 。」といった。
  彼は坑夫独特な、まばゆいような、黄色ッぼ
く艶( つや) のない眼差( まなざし) を漁夫の上にじ
っと置いて、黙っていた。 
秋田、青森、岩手から来た「百姓の漁夫」のう
ちでは、大きく安坐( あぐら) をかいて、両手をは
すかいに股( また) に差しこんで
ヽヽヽ
ムシッとしている
のや、膝( ひざ) を抱えこんで柱によりかかりなが
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ら、無心に皆が酒を飲んでいるのや、勝手にしゃ
べり合っているのに聞き入っているのがある。―
― 朝暗いうちから畑に出て、それで食えないで、
追払われてくる者たちだった。長男一人を残して
― ― それでもまだ食えなかった― ― 女は工場の女
工に、次男も三男も何処かへ出て働かなければな
らない。鍋( なべ) で豆を

いるように、余った人間
はドシドシ土地( くに) からハネ飛ばされて、市に
流れ出てきた。彼らはみんな「金を残して」内地
( くに) に帰ることを考えている。しかし働いてき
て、一度陸を踏む、すると
ヽヽ
モチを踏みつけた小鳥
のように、函館( はこだて) や小樽( おたる) でバタ
バタやる。そうすれば、まるッきり簡単に「生れ
た時」とちっとも変らない赤裸になっておっぽり
出された。内地( くに) へ帰れなくなる。彼らは、
身寄りのない雪の北海道で「越年( おつねん)」す
るために、自分の身体を手鼻ぐらいの値で「売ら
なければならない。」― ― 彼らはそれを何度繰り
かえしても、出来の悪い子供のように、次の年に
はまた平気で( ? ) 同じことをやってのけた。
 菓子折を背負った沖売の女や、薬屋、それに日
用品を持った商人が入ってきた。真中の離島のよ
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うに区切られている所に、それぞれの品物を広げ
た。皆は四方の棚の上下の寝床から身体を乗り出
して、ひやかしたり、笑談( じょうだん) をいった。
 「お菓子( がし) めえか、ええ、ねっちゃよ? 」
 「あッ、もッちょこい! 」 沖売の女が頓狂
( とんきよう) な声を出して、ハネ上った。「人の
尻( しり) さ手やったりして、いけすかない、この
男! 」
 菓子で口をモグモグさせていた男が、みんなの
視線が自分に集ったことにテレて、ゲラゲラ笑っ
た。
 「この女子( あねこ)、可愛( めんこ) いな。」
 便所から、片側の壁に片手をつきながら、危い
足取りで帰ってきた酔払いが、通りすがりに、赤
黒くプクンとしている女の頻( ほっ) ぺたをつッつ
いた。
 「何んだね。」
「怒( おこ) んなよ。― ― この女子( あねこ) ば
抱いて寝てやるべよ。」
そういって、女におどけた恰好( かっこう) をし
た。皆が笑った。
 「おい饅頭( まんじゅう)、饅頭!」
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 ずウと隅の方から誰か大声で叫んだ。
 「ハアイ… … 」こんな処( ところ) ではめずらし
い女のよく通る澄んだ声で返事をした。「幾( な
ん) ぼですか? 」
「幾ぼ( なん) ?  二つもあったら不具( かたわ) だ
べよ。― ― お饅頭、お饅頭! 」― - 急にワッと笑
い声が起った。
 「この前、竹田って男が、あの沖売の女ば無理
矢理に誰もいねえどこさ引っ張り込んで行ったん
だとよ。んだけ、面白いんでないか。何んぼ、ど
うやっても駄目( だめ) だっていうんだ… … 」酔っ
た若い男だった。「… … 猿又( さるまた) はいてる
んだとよ。竹田がいきなりそれを力一杯にさき取
ってしまったんだども、まだ下にはいてるッてい
うんでねえか。― ― 三枚もはいてたとよ… … 。」
男が頸( くび) を締めて笑い出した。
 その男は冬の間はゴム会社の職工だった。春に
なり仕事が無くなると、カムサッカへ出稼( でか
せ) ぎに出た。どっちの仕事も「季節労働」なの
で、( 北海道の仕事は殆( ほと) んどそれだった。)
イザ夜業となるとブッ続けに続けられた。「もう
三年も生きれたら有難い。」といっていた。粗製
13
ゴムのような死んだ色の膚をしていた。
 漁夫の仲間には、北海道の奥地の開墾( かいこ
ん) 地や鉄道敷設( しせつ) の土工部屋へ「蛤( た
こ)」に売られたことのあるものや、各地を食い
つめた「渡り者」や、酒だけ飲めば何もかもなく、
ただそれでいいものなどがいた。青森辺の善良な
村長さんに選ばれてきた「何も知らない」「木の
根ッこのように」正直な百姓もその中に交ってい
る。― ― そして、こういう
ヽヽ
てん
ヽヽ
でん
ヽヽヽヽ
ばらばらのも
のらを集めることが、雇うものにとって、この上
なく都合のいいことだった。( 函館の労働組合は
蟹工船、カムサッカ行の漁夫のなかに組織者を入
れることに死物狂( しにものぐるい) いになってい
た。青森、秋田の組合などとも連絡をとって。―

ヽヽ
それ


ヽヽヽ
何より
ヽヽヽ
恐れて
ヽヽ
いた。)
 糊( のり) のついた真白い、上衣( うわぎ) の丈
( たけ) の短い服を着た給仕( ボーイ) が、「とも」
のサロンに、ビール、果物、洋酒のコップを持っ
て、忙しく往き来していた。サロンには「会社の
オッかない人、船長、監督( かんとく)、それにカ
ムサッカで警備の任に当る駆逐艦( くちくかん) の
御大( おんたい)、水上警察の署長さん、海員組合
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の折鞄( おりかばん)」がいた。
 「畜生、ガブガブ飲むったら、ありゃしない。」
 ― ― 給仕はふくれかえっていた。
 漁夫の「穴」に


ヽヽ
なすのような豆電気がついた。
煙草の煙や人
ヽヽヽ
いきれで、空気が濁って、臭く、穴
全体がそのまま「糞壷( くそつぼ)」だった。区切
られた寝床にゴロゴロしている人間が、蛆虫( う
じむし) のようにうごめいて見えた。― ― 漁業監
督を先頭に、船長、工場代表、雑夫長がハッチを
下りて入って来た。船長は先のハネ上っている髭
( ひげ) を気にして、始終ハンカチでで上唇を撫
( な) でつけた。通路には、林檎やバナナの皮、グ
ジョグジョした高丈( たかじょう)、鞋( わらじ)、
飯粒のこびりついている薄皮などが捨ててあった。
流れのとまった泥溝( どぶ) だった。監督は
ヽヽヽ
じろり
それを見ながら、無遠慮に唾( つば) をはいた。―
― どれも飲んで来たらしく、顔を赤くしていた。
 「ちょっといって置く。」監督が土方の棒頭
( ばうがしら) のように頑丈な身体で、片足を寝床
の仕切りの上にかけて、楊子( ようじ) で口をモグ
モグさせながら、時々歯にはさまったものを、ト
ットツと飛ばして、口を切った。
15
 「分ってるものもあるだろうが、いうまでもな
くこの蟹工船の事業は、ただ単にだ、一― 会社の
儲( もう) け仕事と見るべきではなくて、国際上の
一大問題なのだ。我々が- 我々日本帝国人民が偉
いか、露助( ろすけ) が偉いか。一騎打ちの戦いな
んだ。それにもし、もしもだ、そんな事は絶対に
あるべきはずはないが、負けるようなことがあっ
たら、睾丸( きんたま) をブラ下げた日本男児は腹
でも切って、カムサッカの海の中にブチ落ちるこ
とだ。身体が小さくたって、野呂間( のろま) な露
助に負けてたまるもんじゃない。」
「それに、我カムサッカの漁業は蟹缶詰ばかりで
なく、鮭( さけ)、鱒( ます) と共に、国際的にいっ
てだ、他の国とは比べもならない優秀な地位を保
っており、また日本国内の行き詰った人口問題、
食料問題に対して重大な使命を持っているのだ。
こんな事をしゃべったって、お前らには分りはし
ないだろうが、ともかくだ、日本帝国の大きな使
命のために、俺たちは命を的に、北海の荒波をつ
ッ切って行くのだということを知ってて貰わにゃ
ならない。だからこそ、あっちへ行っても始終我
帝国の軍艦が我々を守っていてくれることになっ
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ているのだ… … それを今流行( はやり) の露助の真
似をして、飛んでもないことを
ヽヽ
ケシかけるものが
あるとしたら、それこそ、取りも直さず日本帝国
を売るものだ。こんな事は無いはずだが、よく覚
えておいて貰うことにする… … 。」
 監督は酔いざめの
ヽヽヽ
くさめを何度もした。
酔払った駆逐艦の
ヽヽ
御大( おんたい) はバネ仕掛
の人形のようなギクシャクした足取りで待たして
あるランチに乗るために、タラップを下りて行っ
た。水兵が上と下から、カントン袋に入れた石こ
ろみたいな艦長を抱えて、殆( ほと) んど持てあ
ましてしまった。手を振ったり足をまともふんば
ったり、勝手なことをわめく艦長のために、水兵
は何度も真正面( まとも) から自分の顔に「唾( つ
ば) 」を吹きかけられた。
「表じゃ、何んとか、かんとか偉いことをいっ
て、この態( ざま) なのだ。」
艦長をのせてしまって、一人がタラップのおどり
場からロープを外しながら、ちらっと艦長の方を
見て、低い声でいった。
 「やっちまうか!?……」
 二人はちょっと息をのんだ、が… … 声を合せて
17
笑い出した。
[      二
祝津( しゅくつ) の灯台が、回転するたびにキラ
ッキラッと光るのが、ずウと遠い右手に、一面灰
色の海のような海霧( ガス) の中から見えた。それ
が他方へ廻転してゆくとき、何か神秘的に、長く、
遠く白銀色の光茫( こうほう) を何浬( カイリ) もサ
ッと引いた。
留萌( るもい) の沖あたりから、細かい、ジュク
ジュクした雨が降り出してきた。漁夫や雑夫( ざ
つふ) は蟹の鋏( はさみ) のようにかじかんだ手を
時々はすかいに懐の中につッこんだり、口のあた
りを両手で円( ま) るく囲んで、ハアーと息をかけ
たりして働かなければならなかった。― ― 納豆の
糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不
透明な海に降った。が、稚内( わっかない) に近く
なるに従って、雨が粒々になって来、広い海の面
が旗でもなびくように、うねりが出て来て、そし
てまたそれが細かくせわしくなった。― ― 風がマ
ストに当ると不吉に鳴った。鋲( びよう) がゆるみ
18
でもするように、ギイギイと船の何処かが、しき
りなしに
ヽヽ
きしんだ。宗谷( そうや) 海峡に入った時
は、三千噸( トン) に近いこの船が、
ヽヽヽヽヽ
しゃっくりに
でも取りつかれたようにギク、シャクし出した。
何か素晴しい力でグイと持ち上げられる。船が一
瞬間宙に浮かぶ。
― ― が、
ヽヽ
グウと元の位置に沈む。エレヴエターで
下りる瞬間の、小便がもれそうになる、くすぐつ
たい不快さをその度に感じた。雑夫は黄色になえ
て、船酔らしく眼だけとんがらせて、ゲエ、ゲエ
していた。
 波のしぶきで曇った円( ま) るい舷窓( げんそう)
から、ひょいひょいと樺太( からふと) の、雪のあ
る山並の堅い線が見えた。しかしすぐそれはガラ
スの外へ、アルプスの氷山のようにモリモリとむ
くれ上ってくる波に隠( か) くされてしまう。寒々
とした深い谷が出来る。それが見る見る近付いて
くると、窓のところヘドッと打ち当り、砕けて、
ザアー… … と泡立つ。そして、そのまま後へ、後
へ、窓をすべって、パノラマのように流れてゆく、
船は時々子供がするように、身体を揺( ゆ) すった。
棚からものが落ちる音や、ギーイと何かたわむ昔
19
や、波に横ッ腹がドブーンと打ち当る音がした。
― ― その間中、機関室からは機関の音が色々な器
具を伝って、直接( じか) に少しの震動を伴って、
ドッ、ドッ、ドッ… … と響いていた。時々波の背
に乗ると、スクリュが空廻りをして、翼で水の表
面をたたきつけた。
 風は益々( ますます) 強くなってくるばかりだっ
た。二本のマストは釣竿( つりざお) のように
ヽヽヽ
たわんで、ビュゥビュウ泣き出した。波は丸太棒
( まるたんぼう) の上まで一またぎするぐらいの無
雑作( むぞうさ) で、船の片側から他の側へ暴力団
のようにあばれ込んできて、流れ出て行った。そ
の瞬間、出口がザアーと滝になった。
 見る見るもり上った山の、恐ろしく大きな斜面
へ玩具( おもちや) の船ほどに、ちょこんと横にの
ッかることがあった。と、船はのめったように、
ドッ、ドッ、とその谷底へ落ちこんでゆく。今に
も、沈む!  が、谷底にはすぐ別な波がむくむく
と起ち上ってきて、ドシンと船の横腹と体当りを
する。
オホツック海へ出ると、海の色がハッキリもっ
と灰色がかって来た。着物の上からゾクゾクと寒
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さが刺し込んできて、雑夫は皆唇( くちびる) をブ
シ色にして仕事をした。寒くなればなるほど、塩
のように乾いた、細かい雪がビュウ、ビュウ吹き
つのってきた。それは硝子( ガラス) の細かいカケ
ラのように甲板に這いつくばって働いている雑夫
や漁夫の顔や手に突きささった。波が一波甲板を
洗って行った後は、すぐ凍えて、デラデラに滑
( すべ) った。皆はデッキからデッキへロープを張
り、それに各自が
ヽヽヽ
おしめのようにブラ下がり、作
業をしなければならなかった。― ― 監督は鮭殺
( さけころ) しの棍棒( こんぼう) をもって、大声で
怒鳴り散らした。
 同時に函館を出帆した他の蟹工船は、何時( い
つ) の間にか離れ離れになってしまっていた。そ
れでも思い切りアルプスの絶頂に乗り上ったとき、
溺死者が両手を振っているように揺られに揺られ
ている二本のマストだけが遠くに見えることがあ
った。煙草( たばこ) の煙ほどの煙が、波とすれず
れに吹きちぎられて、飛んでいた。… … 波浪( は
ろう) と叫喚( きゅうかん) のなかから、確かにそ
の船が鳴らしているらしい汽笛が、間を置いてヒ
ユウ、ヒユウと聞えた。が、次の瞬間、こつちが
21
アブ、アブでもするように、谷底に転落して行っ
た。
 蟹工船には川崎船を八艘( そう) のせていた。
船員も漁夫もそれを何千匹の鱶( ふか) のように、
白い歯をむいてくる波に
ヽヽ
もぎ取られないように、
縛りつけるために、自分らの命を「安々」と賭け
なければならなかった。― ― 「貴様らの一人、二
人が何んだ。川崎船一艘を取られてみろ、たまっ
たもんでないんだ。」 ― ― 監督は
ヽヽヽ
日本語でハッ
キリそういった。
 カムサッカの海は、よくも来やがった、と待ち
かまえていたように見えた。ガツ、ガッに飢えて
いる獅子( しし) のように、えどみかかってきた。
船はまるで兎( うさぎ) より、もつと弱々しかった。
空言の吹雪は風の工合で、白い大きな旗がなびく
ように見えた。夜近くなってきた。しかし時化
( しけ) は止みそうもなかった。
 仕事が終ると、皆は「糞壷( くそつぼ)」の中へ
順々に入り込んできた。手や足は大根のように冷
えて、感覚なく身体についていた。皆は蚕( かい
こ) のように、各々の棚の中に入ってしまうと、
誰も一口も口をきくものがいなかった。ゴロリと
22
横になって、鉄の支柱につかまった。船は、背に
食いついている虻( あぶ) を追払う馬のように、身
体を
ヽヽ
ヤケに振っている。漁夫はあてのない視線を
白ペンキが黄色に煤( すす) けた天井にやったり、
殆( ほと) んど海の中に入りツ切りになっている青
黒い円窓にやったり、中には、呆( ほう) けたよう
にキョトンと口を半開きにしているものもいた。
誰も、何も考えていなかった。漠然とした不安な
自覚が、皆を不機嫌にだまらせていた。
顔を仰向けにして、グイとウイスキーをラッパ
飲みにしている。赤黒く濁( にご) った、にぶい
電灯のなかでチラッと瓶( びん) の角( かど) が光っ
てみえた。― ― ガラ、ガラッ、とウイスキーの空
瓶( あきびん) が二、三カ所に稲妻形( いなずまが
た) に打ち当って、棚から通路に力一杯に投げ出
された。皆は頭だけをその方に向けて、眼で瓶を
追った。― ― 隅の方で誰か怒った声を出した。時
化にとぎれて、それが片言のように聞えた。
 「日本を離れるんだど。」円窓を肱( ひじ) で拭
( ぬぐ) っている。
 「糞壷」のストーヴはブスブス燻( くすぶ) って
ばかりいた。鮭や鱒と間違われて「冷蔵庫」へ投
23
げ込まれたように、その中で「生きている」人間
はガタガタ顫( ふる) えていた。ズックで覆( おお)
ったハッチの上をザア、ザアと波が大股( おおま
た) に乗り越して行った。それが、その度に太鼓
の内部みたいな「糞壷」の鉄壁に、物凄( ものす
ごご) い反響を起した。時々漁夫の寝ているすぐ
横が、グイと男の強い肩でつかれたように、ドシ
ンとくる。― ― 今では、船は断末魔の鯨が、荒狂
う波涛( はとう) の間に身体をのたうっている、そ
のままだった。
 「飯だ」賄( まかない) がドアーから身体の上半
分をつき出して、口で両手を囲んで叫んだ。「時
化( しけ) てるから汁( しる) なし。」
「何んだって? 」
 「腐れ塩引( しおひき) ! 」顔をひっこめた。
思い、思い身体を起した。飯を食うことには、
皆は囚人のような執念さを持っていた。ガツガツ
だった。
 塩引の皿を安坐( あぐら) をかいた股( また) の間
に置いて、湯気をふきながら、バラバラした熱い
飯を頬ばると、舌の上でせわしく、あちこちヘヤ
った。「初めて」熱いものを鼻先にもってきたた
24
めに、水洟( みずばな) がしきりなしに下がって、
ひょいと飯の中に落ちそうになった。
  飯を食っていると、監督が入ってきた。
  「
ヽヽ
いけ
ヽヽヽ
ホイドして、ガツガツまくらうな。仕
事も
ヽヽ
ろくに出来ない日に、飯は鱈腹( たらふく) 食
われてたまるもんか。」
 ジロジロ棚の上下を見ながら、左肩だけを前の
方へ揺( ゆす) って出て行った。
    「一体
ヽヽヽ
あいつにあんな事をいう権利があ
るのか。」 ― ― 船酔と過労で、ゲツソリやせた
学生上りがブツブツいった。
 「浅川ッたら蟹工の浅か、浅の蟹工かッてな。」
 「天皇陛下は雲の上にいるから、俺たちにャど
うでもいいんだけど、浅ってなれば、どっこいそ
うは行かないからな。」
 別な方から、
 「ケチケチすんねえ、何んだ、飯の一杯、二杯!
 なぐつてしまえ下唇を尖んがらした声だった。
 「偉い偉い。そいつを浅の前でいえればなお偉
い! 」
 皆は仕方なく、腹を立てたまま、笑ってしまっ
た。
25
 夜、よほど過ぎてから、雨合羽( あまがつば) を
来た監督が、雑夫の寝ているところへ入ってきた。
船の動揺を棚の枠( わく) につかまって支えながら、
雑夫の間にカンテラを差しつけて歩いて南瓜( か
ぼちゃ) のようにゴロゴロしている頭を、無遠慮
にグイグイと向き直して、カンテラで照してみて
いた。フンづけられたって、眼を覚ますはずがな
かった。全部照し終ると、ちょっと立ち止まって
舌打ちをした。- どうしようか、そんな風だった。
が、すぐ次の賄( まかない) 部屋の方へ歩き出した。
末広な、青ッぼいカンテラの光が揺れる度に、ゴ
ミゴミした棚の一部や、脛( すね) の長い防水ゴム
靴や、支柱に懸けてあるドザや袢天( はんてん)、
それに行李( こうり) などの一部分がチラ、チラッ
と光って、消えた。― ― 足元に光が整えながら一
瞬間溜まると、今度は賄のドア一に幻灯のような
円るい光の輪を写した。― ― 次の朝になって、雑
夫の一人が行衛( ゆくえ) 不明になったことが知れ
た。
 皆は前の日の「無茶な仕事」を思い、「あれじ
ゃ、波に浚( さら) われたんだ。」と思った。イヤ
な気持がした。しかし雑夫たちは未明から追い廻
26
されたので、そのことではお互に話すことが出来
なかった。
 「こったら冷( しゃ) ッこい水さ、誰が好き好ん
で飛び込むって― ― 隠れてやがるんだ。見付けた
ら、畜生、夕夕きのめしてやるから― ― 」
 監督は棍棒( こんぼう) を玩具( おもちゃ) の
ようにグルグル廻しながら、船の中を探して歩い
た。
 時化は頂上を過ぎてはいた。それでも、船が行
先きにもり上った波に突き入ると、「おもて」の
甲板を、波は自分の敷居でもまたぐように何んの
雑作( ぞうさ) もなく、乗り越してきた。一昼夜の
闘争で、満身に痛手を負ったように、船は何処か
跛( びっこ) な音をたてて進んでいた。薄い煙のよ
うな雲が、手が届きそうな上を、マストに打ち当
りながら、急角度を切って吹きとんで行った。小
寒い雨がまだ止( や) んでいなかった。四囲にもり
もりと波がムクレ上ってくると、海に射込む両足
がハッキリ見えた。それは原始林の中に迷いこん
で、雨に会うのよりももっと不気味だった。
 麻のロープが鉄管でも振るようにバリ、バリに
凍えている。学生上りが、すべる足元に気を配り
27
ながら、それにつかまって、デッキを渡ってゆく
と、タラップの段々を一つ置きに片足で跳躍して
上ってきた給仕に会った。
 「チヨット」給仕が風の当らない角( すみ) に引
張って行った。「面白いことがあるんだよ。」と
いって、話してきかせた。
 ― ― 今朝の二時頃だった。ボート・デッキの上
まで波が躍り上って、間を置いて、バジャバジャ、
ザアツとそれが滝のように流れていた。夜の闇の
中で、波が歯をムキ出すのが時々青白く光ってみ
えた。時化のために皆寝ずにいた。その時だった。
 船長室に無電係が周章( あわ) ててかけ込んでき
た。
 「船長、大変です。S ・O ・S です! 」
 「S ・0 ・S ?  ― ― 何船だ? 」
 「秩父丸( ちちぶまる) です。本船と並んで進ん
でいたんです。」     
「ボロ船だ、それア! 」 ― ― 浅川が雨合羽( あ
まがっぱ) を着たまま、隅( すみ) の方の椅子
( いす) に大きく股を開いて、腰をかけていた。片
方の靴の先だけを、小馬鹿にしたように、カタカ
タ動かしながら笑った。「もっとも、どの船だっ
28
て、ボロ船だがな。」
 「一刻といえないようです。」
 「うん、それア大変だ。」
 船長は舵機室に上るために、急いで、身仕度
( みじたく) もせずにドアーを開けようとした。
しかし、まだ開けないうちだった。
いきなり、浅川が船長の右肩をつかんだ。
「余計な寄道せって、誰が命令したんだ。」
誰が命令した?  「船長」ではないか。― ― が、
突嵯( とっさ) のことで、船長は棒杭( ぼうぐい) よ
り、もっとキョトンとした。しかし、すぐ彼は自
分の立場を取り戻した。
 「船長としてだ。」
「船長としてだア― ― ア? 」
船長の前に立ちはだかった監督が、尻上りの侮
辱した調子で押えつけた。「おい、一体これア誰
の船だんだ。会社が傭船( チアタア) してるんだで、
金を払って。
ヽヽ
ものをいえるのア会社代表の須田
( すだ) さんとこの俺だ。お前なんぞ、船長といっ
てりゃ大きな顔してるが、糞場( くそば) の紙ぐれ
えの価値( ねうち) もねえんだど。分ってるか。―
― あんなのにかかわってみろ。一週間もフイにな
29
るんだ。冗談じゃない。一日でも遅れてみろ!
 それに秩父丸には勿体( もったい) ないほどの
保険がつけてあるんだ。ボロ船だ、沈んだらかえ
って得するんだ。」
 給仕は「

今」恐ろしい喧嘩( けんか) が!  と思
った。それが、それだけで済むはずがない。だが!
( 船長は咽喉( のど) へ綿でもつめられたように、
立ちすくんでいるではないか。給仕はこんな場合
の船長をかつて一度だって見たことがなかった。
船長のいったことが通らない?  馬鹿、そんな事
が!  だが、それが起っている。― ― 給仕にはど
うしても分らなかった。
「人情味なんか柄( がら) でもなく持ち出して、
国と国との大相撲( おおずもう) がとれるか! 」
唇を思いッ切りゆがめて唾( つば) をはいた。
 無電室では受信機が時々小さい、青白い火花
( スパアクル) を出して、しきりなしになっていた。
とにかく経過を見るために、皆は無電室に行った。
 「ね、こんなに打っているんです。― ― だんだ
ん早くなりますね。」
 係は自分の肩越しに覗( のぞ) き込んでいる船長
や監督に説明した。― ― 皆は色々な機械のスウィ
30
ッチやボタンの上を、係の指先が、あちこち器用
にすべるのを、それに縫いつけられたように眼で
追いながら、思わず肩を顎根( あごね) に力をこめ
て、じいっとしていた。
 船の動揺の度に、腫物( はれもの) のように壁に
取付けてある電灯が、明るくなったり暗くなった
りした。横腹に思いッ切り打ち当る彼の音や、絶
えずならしている不吉な警笛が、風の工合で遠く
なったり、すぐ頭の上に近くなったり、鉄の扉を
隔てて聞えていた。
 ジイ― ― 、ジイ― ― イと、長く尾を引いて、ス
パアクルが散った。と、そこで、ピタリ音がとま
ってしまった。それが、その瞬間、皆の胸へドキ
リときた。係は周章( あわ) てて、スウィッチを
ひねったり、機械をせわしく動かしたりした。が、
それッ切りだった。もう打ってこない。
 係は身体をひねって、廻転椅子をぐるりとまわ
した。
 「沈没です… … 。」
頭から受信機を外しながら、そして低い声でい
った。「乗組員四百二十五人。最後なり。救助さ
れる見込なし。S ・0 ・S、S ・0 ・S、これが二、三
31
度続いて、それで切れてしまいました。」
 それを聞くと、船長は頸( くび) とカラアの間に
手をつッこんで、息苦しそうに頭をゆすって、頸
をのばすようにした。無意味な視線で、落着きな
く四囲を見廻してから、ドアーの方へ身体を向け
てしまった。そして、ネクタイの結び目あたりを
抑えた。― ― その船長は見ていられなかった。
 … … … … …
 学生上りは、「ウム、そうか」といった。その
話にひきつけられていた。― ― しかし暗い気持が
して海に眼をそらした。海はまだ大うねりにうね
り返っていた。水平線が見る間に足の下になるか
と思うと、二、三分もしないうちに、谷から狭ば
められた空を仰ぐように、下へ引きずりこまれて
いた。
 「本当に沈没したかな。」独言( ひとりごと) が
出る。気になって仕方がなかった。同じように、
ボロ船に乗っている自分たちのことが頭にくる。
 ― ― 蟹工船はどれもボロ船だった。労働者が北
オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる
重役には、どうでもいい事だった。資本主義がき
まりきった所だけの利潤では行き詰り、金利が下
32
がって金が
ヽヽ
ダブついてくると、「文字通り」どん
な事でもするし、どんな所へでも、死物狂いで血
路を求め出してくる。そこへもってきて、船一艘

ヽヽヽ
マンマと何十万円が手に入る蟹工船、― ― 彼ら
の夢中になるのは無理がない。
蟹工船は「工船」( 工場船) であって、「航船」
ではない。だから航海法は適用されなかった。二
十年間の間も繋( つな) ぎッ放しになって、沈没
させることしかどうにもならない
ヽヽヽヽ
ヨロヨロな「梅
毒患者」のような船が、恥かしげもなく、上( う
わ) べだけの濃化粧をほどこされて、函館へ廻っ
てきた。日露戦争で「名誉にも」ビッコにされ、
魚のハラワタのように放って置かれた病院船や運
送船が、幽霊よりも影のうすい姿を現わした。―
― 少し蒸気を強くすると、パイプが破れて、吹い
た。露国の監視船に追われて、スピードをかける
と、( そんな時は何度もあった。) 船のどの部分
もメリメリ鳴って、今にもその一つ、一つがバラ
バラにほぐれそうだった。中風( ちゅうふう) 患者
のように身体をふるわした。
 しかし、それでも全くかまわない。何故( なぜ)
なら、日本帝国のためどんなものでも立ちあがる
33
べき「秋( とき)」だったから。― ― それに、蟹工
船は純然たる「工場」だった。しかし工場法の適
用もうけていない。それでこれぐらい都合のいい、
勝手に出来るところはなかった。
 利口な重役はこの仕事を「日本帝国のため」と
結びつけてしまった。嘘( うそ) のような金が、
そしてゴッソリ重役の懐( ふところ) に入ってくる。
彼はしかしそれをモット確実なものにするために、
「代議士」に出馬することを、自動車をドライヴ
しながら考えている。― ― が、恐らく、それとカ
ッキリ一分も違わない同じ時に、秩父丸の労働者
が、何千哩( マイル) も離れた北の海で、割れた硝
子屑( ガラスくず) のように鋭い波と風に向って死
の戦いを戦っているのだ!
… … 学生上りは「糞壷( くそつほ)」の方へ、タ
ラップを下りながら考えていた。
「他人事( ひとごと) ではないぞ。」
「糞壷」の梯子( はしご) を下りると、すぐ突き
当りに、誤字沢山( だくさん) で、
雑夫、宮口を発見せるものには、バット二つ
手拭い一本を、賞与としてくれるべし。
 
34
浅川監督
  と、書いた紙が、糊( のり) 代りに使った飯
粒( めしつぶ) のボコボコを見せて、貼( は) ら
さってあった。
       三
 霧雨が何日も上らない。それでボカされたカム
サッカの沿線が、するすると八ツ目鰻( うなぎ) の
ように延びて見えた。
 沖合四浬( カイリ) のところに、博光丸( はくこ
うまる) が錨( いかり) を下した。― ― 三浬までロ
シアの領海なので、それ以内に入ることは出来な
い「ことになっていた」。

ヽヽヽ
さばきが終って、何時からでも蟹漁が出来る
ように準備が出来た。カムサツカの夜明けは二時
頃なので、雑夫たちはすっかり身仕度をし、股
( また) までのゴム靴をはいたまま、折箱の中に入
って、ゴロ寝をした。
 周旋屋( しゅうせんや) にだまされて、連れて
来られた東京の学生上りは、こんな筈( はず) がな
35
かった、とブツブツいっていた。
 「独り寝だなんて、ウマイ事いいやがって! 」
 「ちげえねえ、独り寝さ。ゴロ寝だもの。」
 学生は十七、八人来ていた。六十円を前借りす
ることに決めて、汽車賃、宿料、毛布、布団、そ
れに周旋料を取られて、結局船へ来たときには、
一人七、八円の借金! ) になっていた。それが始
めて分ったとき、貨幣( かね) だと思って握ってい
たのが、枯葉であったより、もっと彼らはキョト
ンとしてしまった。― ― 始め、彼らは青鬼、赤鬼
の中に取り巻かれた亡者( もうじゃ) のように、漁
夫の中に一かたまりに固まっていた。
函館を出帆してから、四日目ころから、毎日の
ボロボロな飯と何時も同じ汁( しる) のために学生
は皆身体の工合を悪くしてしまった。寝床に入っ
てから、膝( ひざ) を立てて、お互に脛( すね) を
指で押していた。何度も繰( く) りかえして、そ
の度に引っこんだとか、引っこまないとか、彼ら
の気持は瞬間明るくなったり、暗くなったりした。
脛をなでてみると、弱い電気に触れるように、し
びれるのが二、三人出てきた。棚の端から両足を
ブラ下げて、膝頭を手刀( てがたな) で打って、足
36
が飛び上るか、どうかを試した。それに悪いこと
には、「通じ」が四日も五日も無くなっていた。
学生の一人が医者に通じ薬を貰いに行った。帰っ
てきた学生は、興奮から青い顔をしていた。― ―
「そんな
ヽヽヽヽ
ぜいたくな薬なんて無いとよ。」
 「んだべ。船医なんて

んなものよ。」側で聞い
ていた古い漁師がいった。
「何処の医者も同じだよ。俺のいたところの会
社の医者も

んだった。」坑山の漁夫だった。
 皆がゴロゴロ横になっていたとき、監督が入っ
てきた。
 「皆、寝たか― ― ちょっと聞け。秩父丸( ちち
ぶまる) が沈没したっていう無電が入ったんだ。
生死の詳しいことは分らないそうだ。」唇をゆが
めて、唾( つば) をチエッとはいた。癖( くせ)
だった。
 学生は給仕からきいたことが、すぐ頭にきた。
自分が現に




ヽヽヽ
かけて殺した四、五百人の労働者
の生命のことを、平気な顔でいう。海に夕タキ込
んでやっても足りない奴だ、と思った。皆はムク
ムク頭をあげた。急に、ザワザワお互に話し出し
た。浅川はそれだけいうと、左肩だけを前の方に
37
振って出て行った。
 行衛( ゆくえ) の分らなかった雑夫が、二日前に
ボイラーの側から出てきた所をつかまった。二日
隠れていたけれども、腹が減って、腹が減って、
どうにも出来ず、出て来たのだった。捕んだのは
中年過ぎの漁夫だった。若い漁夫がその漁夫をな
ぐりつけるといって、怒った。
 「うるさい奴だ。煙草( たばこ) のみでもない
のに、煙草の味が分るか。」バットを二個手に入
れた漁夫はうまそうに飲んでいた。
雑夫は監督にシャツ一枚にされると、二つある
うちの一つの方の便所に押し込まれて、表から錠
( じょう) を下ろされた。初め、皆は便所へ行く
のを嫌( きら) った。隣りで泣きわめく声が、と
ても聞いていられなかった。二日目にはその声が
かすれて、ヒエ、ヒエしていた。そして、そのわ
めきが間を置くようになった。その日の終り頃に、
仕事を終った漁夫が、気掛りで直ぐ便所のところ
へ行ったが、もうドアーを内側から叩きつける音
もしていなかった。こっちから合図をしても、そ
れが返ってこなかった。― ― その遅く、睾隠( き
んかく) しに片手をもたれかけて、便所紙の箱に
38
頭を入れ、うつぶせに倒れていた宮口が、出され
てきた。唇の色が青インキをつけたように、ハッ
キリ死んでいた。
 朝は寒かった。明るくなってはいたが、まだ三
時だった。かじかんだ手を懐につッこみながら、
背を円るくして起き上ってきた。監督は雑夫や漁
夫、水夫、火夫の室まで見廻( まわ) って歩いて、
風邪( かぜ) をひいているものも、病気のものも、
かまわず引きずり出した。
 風は無かったが、甲板で仕事をしていると、手
と足の先( さ) きが括粉木( すりこぎ) のように感覚
が無くなった。雑夫長が大声で悪態( あくたい)
をつきながら、十四、五人の雑夫を工場に追いこ
んでいた。彼の持っている竹の先には皮がついて
いた。それは工場で怠( なま) けているものを機
械の枠越( わくご) しに、向う側でもなぐりつけ
ることが出来るように、造られていた。
 「昨夜( ゆうべ) 出されたきりで、
ヽヽ
ものもいえな
い宮口を今朝からどうしても働かさなけアならな
いって、さっき足で蹴ってるんだよ。」
 学生上りになじんでいる弱々しい身体の雑夫が、
雑夫長の顔を見い見い、そのことを知らせた。
39
 「どうしても動かないんで、とうとうあきらめ
たらしいんだけど。」
 そこへ、監督が身体をワクワクふるわせている
雑夫を後からグイ、グイ突きながら、押して来た。
寒い雨に濡れながら仕事をさせられたために、そ
の雑夫は風邪をひき、それから肋膜( ろくまく) を
悪くしていた。寒くないときでも、始終身体をふ
るわしていた。子供らしくない皺( しわ) を眉の間
に刻んで、血の気のない薄い唇を妙にゆがめて、
府のビリビリしているような眼差( まなぎ) しをし
ていた。彼が寒さに堪えられなくなって、ボイラ
ーの室にウロウロしていたところを、見付けられ
たのだった。
 出漁のために、川崎船をウインチから降ろして
いた漁夫たちは、その二人を何もいえず、見送っ
ていた。四十ぐらいの漁夫は、見ていられないと
いう風に、顔をそむけると、イヤイヤをするよう
に頭をゆるゆる二三度振った。
「風邪をひいてもらったり、不貞寝( ふてね) を
されてもらったりするために、高い金払って連れ
て来たんじゃないんだぜ。― ― 馬鹿野郎、余計な
ものを見なくたっていい! 」
40
 監督が甲板を棍棒( こんぼう) で叩いた。
 「監獄( かんごく) だって、これより悪かった
ら、お目にかからないで」
 「こんなこと内地( くに) さ帰って、なんぼ話し
たって本当にしねんだ。」
 「んさ。― ― こったら事って第一あるか。」
 スティムでウインチがガラガラ廻り出した。川
崎船は身体を空にゆすりながら、一斉に降り始め
た。水夫や火夫も狩り立てられて、甲板のすべる
足元に気を配りながら、走り廻っていた。それら
のなかを監督は鶏冠( とさか) を立てた牡鶏( ぉん
どり) のように見廻った。
仕事の切れ目が出来たので、学生上りがちょっ
との間、風を避けて、荷物のかげに腰を下してい
ると、炭山( やま) から来た漁夫が口のまわりに両
手を円るく囲んで、ハア、ハア息をかけながら、
ひょいと角( かど) を曲ってきた。
「生命的( えのぢまど) だな!」それが― ― 心か
らフイと出た実感が思わず学生の胸を衝いた。
「やっぱし炭山( やま) と変らないで。死ぬ思いぼ
しないと、生( え) きられないなんてな。― ― 瓦斯
( ガス) も恐ッかねど、波もおっかねしな。」
41
昼過ぎから、空の模様がどこか変ってきた。薄
い海霧( ガス) が一面に― ― しかしそうでないとい
われれば、そうとも思われるほど、淡くかかった。
波は風呂敷( ふろしき) でもつまみ上げたように、
無数に三角形に騒ぎ立った。風が急にマストを鳴
らして吹いて行った。荷物にかけてあるズックの
覆いの裾がバタバタとデッキをたたいた。
 「兎( うさぎ) が飛ぶどオ― - 兎が! 」誰か大声
で叫んで、右舷のデッキを走って行った。その声
が強い風にすぐちぎり取られて、意味のない叫び
声のように聞えた。
 もう海一面、三角波の頂きが白い
ヽヽヽ
しぶきを飛ば
して、無数の兎があたかも大平原を飛び上ってい
るようだった。― ― それがカムサッカの「突風」
の前
ヽヽ
ブレだった。にわかに底潮の流れが早くなっ
てくる。船が横に身体をずらし始めた。今まで右
舷( うげん) に見えていたカムサッカが、分らない
うちに左舷( さげん) になっていた。- 艘( そう) に
居残って仕事をしていた漁夫や水夫は周章( あわ)
て出した。
 すぐ頭の上で、警笛が鳴り出した。皆は立ち止
ったまま、空を仰いだ。すぐ下にいるせいか、斜
42
め後に突き出ている、思わないほど太い、湯桶
( ゆおけ) のような煙突が、ユキユキと揺れていた。
その煙突の腹の独逸( ドイツ) 帽のようなホイッス
ルから鳴る警笛が、荒れ狂っている暴風の中で、
何か悲壮に聞えた。― ― 遠く本船を離れて、漁に
出ている川崎船が絶え間なく鳴らされているこの
警笛を頼りに、時化( しけ) をおかして帰ってくる
のだった。薄暗い機関室への降り口で、漁夫と水
夫が固まりあって騒いでいた。斜め上から船の動
揺の度に、チラチラ薄い光の束が洩( も) れていた。
興奮した漁夫の色々な顔が、瞬間瞬間、浮き出て、
消えた。
 「どうした? 」坑夫がその中に入り込んだ。
 「浅川の野郎ば、なぐり殺すんだ。」殺気だっ
ていた。監督は実は今朝早く、本船から十哩ほど
離れたところに碇( とま) っていた×× 丸から「突
風」の警戒報を受取っていた。それにはもし川崎
船が出ていたら、至急呼戻すようにさえ附け加え
ていた。その時、「こんな事に一々ビク、ビクし
ていたら、このカムサッカまでワザワザ来て仕事
なんか出来るかい。」― ― そう浅川のいったこと
が、無線係から洩( も) れた。
43
 それを聞いた最初の漁夫は、無線係が浅川でで
もあるように、怒鳴りつけた。「人間の命を何
( な) んだって思ってやがるんだ!」
「人間の命? 」
「そうよ。」
「ところが、浅川はお前たちをどだい人間だな
んて思っていないよ。」
 何かいおうとした漁夫は吃( ども) ってしまった。
彼は真赤になった。そして皆のところへかけ込ん
できたのだった。
 皆は暗い顔に、しかし、争われず底からジリジ
リ来る興奮をうかべて、立ちつくしていた。父親
が川崎船で出ている雑夫が、雑夫たちの集ってい
る輪の外をオドオドしていた。ステイが絶え間な
しに鳴っていた。頭の上で鳴るそれを聞いている
と、漁夫の心はギリ、ギリと切り苛( さ) いなまれ
た。
 夕方近く、ブリッジから大きな叫声( さけびご
え) が起った。下にいた着たちはタラップの段を
二つ置きぐらいにかけ上った。― - 川崎船が二艘
( そう) 近づいてきたのだった。二艘はお互にロー
プを渡して結び合っていた。
44
 それは間近に来ていた。しかし大きな波は、川
崎船と本船を、ガタンコの両端にのせたように、
交互に激しく揺り上げたり、揺り下げたりした。
次ぎ、次ぎと、二つの間に彼の大きなうねりがも
り上ってローリングした。眼の前にいて、仲々近
付かない。― ― 歯がゆかった。甲板からはロープ
が投げられた。が、とどかなかった。それは無駄
なしぶきを散らして、海へ落ちた。そしてロープ
は海蛇のように、たぐり寄せられた。それが何度
もくり返えされた。こつちからは皆声をそろえて
呼んだ。が、それには答えなかった。漁夫の顔の
表情はマスクのように化石して、動かない。眼も
何かを見た瞬間、そのまま硬わばったように動か
ない。― ― その情景は、漁夫たちの胸を、眼のあ
たり見ていられない凄( すご) さで、えぐり刻んだ。
 またロープが投げられた。始めゼンマイ形に―
― それから鰻( うなぎ) のようにロープの先きがの
びたかと思うと― ― その端が、それを捕えようと
両手をあげている漁夫の首根を、横なぐりにたた
きつけた。皆は「アッ! 」と叫んだ。漁夫はいき
なり、そのままの恰好( かっこう) で横倒しにされ
た。が、つかんだ!  ― ― 口ープはギリギリとし
45
まると、水のしたたりをしぼり落して、一直線に
張った。こっちで見ていた漁夫たちは思わず肩か
ら力を抜いた。
 シテイは絶え間なく、風の工合で、高くなった
り、遠くなったり鳴っていた。夕方になるまでに
二艘を残して、それでも全部帰ってくることが出
来た。どの漁夫も本船のデッキを踏むと、それっ
きり気を失いかけた。一艘は水船になってしまっ
たために、錨( いかり) を投げ込んで、漁夫が別の
川崎に移って、帰ってきた。他の一艘は漁夫とも
に全然行衛不明だった。
 監督はプリプリしていた。何度も漁夫の室へ降
りて来て、また上って行った。皆は焼き殺すよう
な憎悪に満ちた視線で、だまって、その度に見送
った。
翌日、川崎の捜索かたがた、蟹の後を追って、
本船が移動することになった。「人間の五、六匹
何んでもないけれども、川崎が
ヽヽヽヽ
いたましかった」
からだった。
 朝早くから、機関部が急がしかった。錨を上げ
る震動が、錨室と背中合せになっている漁夫を煎
豆のようにハネ飛ばした。サイドの鉄板がボロボ
46
ロになって、その度にこぼれ落ちた。― ― 博光丸
は北緯五十一度五分の所まで、錨をなげてきた第
一号川崎船を捜した。結氷( けっぴょう) の砕片
( かけら) が生きもののように、ゆるい彼のうねり
の間々に、ひょいひょい身体( からだ) を見せて流
れていた。が、所々、その砕( くだ) けた氷が見る
限りの大きな集団をなして、
ヽヽヽ
あぶくを出しながら、
船を見る見るうちに真中に取囲んでしまう、そん
なことがあった。氷は湯気のような水蒸気をたて
ていた。と、扇風機にでも吹かれるように「寒気」
が襲( おそ) ってきた。船のあらゆる部分が急にカ
リッ、カリッと鳴り出すと、水に濡れていた甲板
や手すりに、氷が張ってしまった。船腹は白粉
( おしろい) でもふりかけたように、霜の結晶でキ
ラキラに光った。水夫や漁夫は両頬( ほお) を抑え
ながら、甲板を走った。船は後に長く、曠野( こ
うや) の一本道のような跡をのこして、つき進ん
だ。
 川崎船は仲々見つからない。
 九時近い頃になって、ブリッジから、前方に川
崎が一艘浮かんでいるのを発見した。
それが分ると、監督は「畜生、やっと分りやがっ
47
たど。畜生! 」デッキを走って歩いて、喜んだ。
すぐ発動機が降された。が、それは探がしていた
第一号ではなかった。それよりは、もっと新らし
い第36 号と番号の打たれてあるものだった。明か
に××× 丸のものらしい鉄の浮標( ブイ) がつけられ
ていた。それで見ると××× 丸が何処かへ移動する
時に、元の位置を知るために、そうして置いて行
ったものだった。
 浅川は川崎船の胴体を、指先きでトントンたた
いていた。
 「これアどうして
ヽヽ
バンとしたもんだ。」ニヤッ
と笑った。「引いて行くんだ。」
 そして第36 号川崎船はウインチで、博光丸のブ
リッジに引きあげられた。川崎は身体を空でゆす
りながら、雫( しずく) をバジャバジャ甲板に落し
た。「一( ひと) 働きをしてきた」そんな大様な態
度で、釣り上がって行く川崎を見ながら、監督が、
「大したもんだ。大したもんだ! 」と独言した。
 網
ヽヽヽ
さばきをやりながら、漁夫がそれを見ていた。
「何んだ泥棒猫!  チェンでも切れて、野郎の頭
さたたき落ちればえんだ。」
 監督は仕事をしている彼等の一人一人を、そこ
48
から何かえぐり出すような眼付きで、見下しなが
ら側を通って行った。そして大工をせっかちなド
ラ声で呼んだ。
 すると、別な方のハッチの口から、大工が顔を
出した。
 「何んです。」
見当外れをした監督は、振り返ると、怒りツぼく、
「何んです?  馬鹿、番号をけずるんだ。カンナ、
カンナ。」大工は分らない顔をした。
 「あんぼんたん、来い!」
肩幅の広い監督のあとから、鋸( のこぎり) の柄
を腰にさして、
ヽヽヽ
カンナを持った小柄な大工が、び
っこでも引いているような危い足取りで、甲板を
渡って行った。― ― 川崎船の第36 号の「3」がカ
ンナでけずり落されて、「
ヽヽ
第六号川崎船」になっ
てしまった。
 「これでよし。これでよし。うッはァ、様( ざ
ま) 見やがれ! 」監督は、口を三角形にゆがめる
と、背のびでもするように哄笑( こうしょう) した。
 これ以上北航しても、川崎船を発見する当( あ
て) がなかった。第三十六号川崎船の引上げで、
足ぶみをしていた船は、元の位置に戻るために、
49
ゆるく、大きくカーヴをし始めた。空は晴れ上っ
て、洗われた後のように澄んでいた。カムサッカ
の連峰が絵葉書で見るスイッツルの山々のように、
くつきりと輝いていた。
 行衛不明になった川崎船は帰らない。漁夫たち
は、そこだけが水溜( たま) りのようにボツンと空
いた棚から、残して行った彼らの荷物や、家族の
いる住所をしらべたり、それぞれ万一の時に直
( す) ぐ処置が出来るように取り纏( まと) めた。気
持のいいことではなかった。それをしていると、
漁夫たちは、まるで自分の痛い何処かを覗( のぞ)
きこまれているような
ヽヽヽ
つらさを感じた。中積船が
来たら托送( たくそう) しようと、同じ苗字( みょ
うじ) の女名前がその宛先きになっている小包や
手紙が、彼等の荷物の中から出てきた。そのうち
の一人の荷物の中から、片仮名と平仮名の交った、
鉛筆をなめり、なめり書いた手紙が出た。それが
無骨な漁夫の手から、手へ渡されて行った。彼ら
は豆粒でも拾うように、ポッリ、ボツリ、しかし
むさぼるように、それ等を読んでしまうと、嫌
( いや) なものを見てしまったという風に頭をふっ
50
て、次ぎに渡してやった。― ― 子供からの手紙だ
った。
ぐずりと鼻をならして、手紙から顔を上げると、
カスカスした低い声で、「浅川のためだ。死んだ
と分ったら、弔い合戦をやるんだ。」といった。
その男は図体の大きい、北海道の奥地で色々なこ
とをやってきたという男だった。もっと低い声で、
 「奴、一人ぐらい夕タキ落せるべよ。」若い、
肩のもり上った漁夫がいった。
 「あ、この手紙いけねえ。すっかり思い出して
しまった。」
 「なア、」最初のがいった。「うっかりしてい
れば、俺たちだって奴にやられるんだで。他人
( ひと) ごとでねえんだど。」
 隅の方で、立膝をして、拇指( おゃゆび) の爪を
かみながら、上限をつかって、皆のいうのをひら
いて聞いていた男が、その時、うん、うんと頭を
ふって、うなずいた。「万事、俺にまかせれ、そ
の時ア!  あの野郎一人グイとやってしまうか
ら。」皆はだまった。― ― だまったまま、しかし、
ホッとした。
51
博光丸が元の位置に帰ってから、三日して突然
( ! ) その行衛不明になった川崎船が、しかも元
気よく帰ってきた。
彼らは船長室から「糞壷」に帰ってくると、忽
( たちま) ち皆に、渦巻のように取巻かれてしまっ
た。
 ― ― 彼等は「大暴風雨」のために、一たまりも
なく操縦の自由をなくしてしまった。そうなれば
もう襟首( えりくび) をつかまれた子供より他愛
( たあい) なかった。一番遠くに出ていたし、それ
に風の工合もちょうど反対の方向だった。皆は死
ぬことを覚悟した。漁夫は何時でも「安々と」死
ぬ覚悟をすることに「慣らされて」いた。が( ! )
こんなことは滅多にあるものではない。次の朝、
川崎船は半分水船になったまま、カムサッカの岸
に打ち上げられていた。そして皆は近所のロシア
人に救われたのだった。
 そのロシア人の家族は四人暮しだった。女がい
たり、子供がいたりする「声というものに渇して
いた彼らにとって、そこは何ともいえなく魅力だ
った。それに親切な人たちばかりで、色々と進ん
で世話をしてくれた。しかし、初め皆はやっばり、
52
分らない言葉をいったり、髪の毛や眼の色の異っ
た外国人であるということが不気味( ぶきみ) だっ
た。
 何アんだ、俺たちと同じ人間ではないか、とい
うことが、しかし直( す) ぐ分らされた。難破のこ
とが知れると、村の人たちが沢山集ってきた。そ
こは日本の漁場などがある所とはよほど離れてい
た。
 彼らはそこに二日いて、身体を直し、そして帰
ってきたのだった。「帰ってきたくはなかった。」
誰がこんな地獄に帰りたいって!  が、彼らの話
は、それだけで終ってはいない。「面白いこと」
が、その外にかくされていた。
 ちょうど帰る日だった。彼らがストオヴの周り
で、身仕度をしながら話していると、ロシア人が
四、五人入ってきた。― ― 中に支那( しな) 人が一
人交っていた。― ― 顔が巨( おお) きくて、赤い、
短い額の多い、少し猫背の男が、いきなり何か大
声で手振りをして話し出した。船頭は、自分たち
がロシア語は分らないのだという事を知らせるた
めに、眼の前で手を振って見せた。ロシア人が一
区切りいうと、その口元を見ていた支那人は日本
53
語をしゃべり出した。それは聞いている方の頭が、
かえって
ヽヽヽヽヽヽ
ごぢゃごぢゃになってしまうような、順
序の狂った日本語だった。言葉と言葉が酔払いの
ように、散り散りによろめいていた。
 「貴方( あなた) がた、金キット持っていない。」
 「そうだ。」
「貴方がた、貧乏人。」
 「そうだ。」
 「だから、貴方がた、プロレタリア。― ― 分
る? 」
 「うん。」
 ロシア人が笑いながら、その辺を歩き出した。
時々立ち止って、彼らの方を見た。
 「金持、貴方がたを
ヽヽ
これする。( 首を締める恰
好をする。) 金持だんだん大きくなる。
 ( 腹のふくれる真似。) 貴方がたどうしても駄
目、貧乏人になる。― ― 分る?  ― ― 日本の国、
駄目。働く人、これ。( 顔をしかめて、病人のよ
うな恰好。) 働かない人、これ。
 えへん、えへん。( 偉張って歩いてみせる。) 」
 それらが若い漁夫には面白かった。「そうだ、
そうだ― ― 」といって、笑い出した。
54
 「働く人、これ。働かない人、これ。( 前のを
繰り返して。) そんなの駄目― ― 働く人、これ。
( 今度は逆に、胸を張って偉張ってみせる。) 働
かない人、これ。( 年取った乞食のような恰好。)
 これ良ろし。― ― 分る?  ロシアの国、この国。
働く人ばかり。働く人ばかり、これ。( 偉張る。)
 ロシア、働かない人いない。ずるい人いない。
人の首しめる人いない。― ― 分る?  ロシアちっ
とも恐ろしくない国。みんな、みんなウソばかり
いって歩く。」
彼らは漠然( ばくぜん) と、これが「恐ろしい」
「赤化」というものではないだろうか、と考えた。
が、それが「赤化」なら、馬鹿に「当り前」のこ
とであるような気が一方していた。しかし何より
グイ、グイと引きつけられて行った。
 「分る、本当、分る! 」
 ロシア人同志が二、三人ガヤガヤ何かしゃべり
出した。支那人はそれらをきいていた。
 それからまた吃( ども) りのように、日本の言葉
を一つ、一つ拾いながら、話した。
 「働かないで、お金儲ける人いる。プロレタリ
ア、いつでも、これ。( 首をしめられる恰好。)
55
― ― これ、駄目― ― プロレタリア、貴方がた、一
人、二人、三人… … 百人、千人、五万人、十万人、
みんな、みんな、これ( 子供のお手々つないで、
の真似をしてみせる。) 強くなる。大丈夫。( 腕
をたたいて) 負けない、誰にも。分る? 」
 「ん、ん! 」
 「働かない人、にげる。( 一散に逃げる恰好。)
大丈夫、本当。働く人、プロレタリア、偉張る。
( 堂々と歩いてみせる。) プロレタリア一番偉い。
― ― プロレタリア居ない。みんな、パン無い。み
んな死ぬ。― ― 分る? 」
 「ん、ん! 」
 「日本、まだ、まだ駄目。働く人、これ。( 腰
をかがめて、縮こまってみせる。) 働かない人、
れ。( 偉張って、相手をなぐり倒す恰好。) それ、
みんな駄目!  ― ― 働く人、これ。( 形相凄く立
ち上る、突っかかって行く恰好。相手をなぐり倒
し、フンづける真似。) 働かない人、これ。( 逃
げる恰好。)  ― ― 日本、働く人ばかり、いい国。
― - プロレタリアの国!  ― ― 分る? 」
 「ん、ん、分る! 」
 ロシア人が奇声をあげて、ダンスの時のような
56




みをした。
 「日本、働く人、やる。( 立ち上って、刃向
( はむか) う恰好。) うれしい。ロシア、みんな嬉
しい。バンザイ。― ― 貴方がた、船へかえる。貴
方がたの船、働かない人、これ。( 偉張る。) 貴
方がた、プロレタリア、これ、やる! ( 拳闘のよ
うな真似― ― それからお手々つないでをやり、ま
た突っかかって行く恰好。) 大丈夫、勝つ!  ―
― 分る? 」
 「分る! 」知らないうちに興奮していた若い漁
夫が、いきなり支那人の手を握った。
 「やるよ、キットやるよ! 」
 船頭は、これが「赤化」だと思っていた。馬鹿
に恐ろしいことをやらせるものだ。これで― ― こ
の手で、ロシアが日本を
ヽヽヽ
マンマと騙( だま) すんだ
と思った。
 ロシア人たちは終ると、何か叫声をあげて、彼
らの手を力一杯握った。抱きついて硬い毛の頬を
すりつけたりした。面喰った日本人は、首を後に
硬直さして、どうしていいか分らなかった… … 。
皆は「糞壷」の入口に時々眼をやり、その話を
もっともっととうながした。彼らは、それから見
57
てきたロシア人のことを色々話した。そのどれも
が、吸取紙に吸われるように、皆の心に入りこん
だ。
 「おい、もう止( よ) せよ。」
船頭は、皆が変にムキにその諸に引き入れられ
ているのを見て、一生懸命にしゃべっている若い
漁夫の肩を突ッついた。
     四
靄( もや) が下りていた。何時も厳しく機械的に
組合わさっている通風パイプ、煙筒、ウインチの
腕、吊り下がっている川崎船、デッキの手すり、
などが、薄ぼんやり輪廓をぼかして、今までにな
い親しみをもって見えていた。柔かい、生ぬるい
空気が、頬( ほお) を撫( な) でて流れる。― ― こん
な夜はめずらしかった。
 
ヽヽ
トモのハッチに近く、蟹の脳味噌の匂いが
ヽヽ
ムッ
とくる。網が山のように積まさっている間に、高
さの異なる二つの影が佇( たたず) んでいた。
 過労から心臓を悪くして、身体が青黒く、ムク
58
ンでいる漁夫が、ドキッ、ドキッとする心臓の音
でどうしても眠れず、甲板に上ってきた。手すり
にもたれて、



糊( のり) でも溶( と) かしたように
トロッとしている海を、ぼんやり見ていた。この
身体では監督に殺される。しかし、それにしては
この遠いカムサッカで、しかも陸も踏めずに死ぬ
のは淋し過ぎる。― ― すぐ考え込まさった。その
時、網と網の間に、誰かいるのに漁夫が気付いた。
 蟹の甲殻の片( かけら) を時々ふむらしく、その
昔がした。
 ひそめた声が聞えてきた。
 漁夫の眠が慣れてくると、それが分ってきた。
十四、五の雑夫に漁夫が何かいっているのだった。
何を話しているのかは分らなかった。後向きにな
っている雑夫は、時々イヤ、イヤをしている子供
のように、すねているように、向きをかえていた。
それにつれて、漁夫もその通り向きをかえた。そ
れが少しの間続いた。漁夫は思わず( そんな風だ
った。) 高い声を出した。が、すぐ、低く早口に
何かいった。と、いきなり雑夫を抱きすくめてし
まった。喧嘩( けんか) だナ、と思った。着物で口
を抑えられた「むふ、むふ… … 」という息声だけ
59
が、ちょっとの間聞えていた。しかし、そのまま
動かなくなった。― ― その瞬間だった。柔かい靄
の中に、雑夫の二本の足がローソクのように浮か
んだ。下半分が、すっかり裸になってしまってい
る。それから雑夫はそのまま蹲( しゃが) んだ。と、
その上に、漁夫が蟇( がま) のように覆( おお) いか
ぶさった。それだけが「眼の前」で、短かい― ―
グッと咽喉( のど) につかえる瞬間に行われた。見
ていた漁夫は、思わず眼をそらした。酔わされた
ような、撲( な) ぐられたような、興奮をワクワク
と感じた。
漁夫達はだんだん内からむくれ上ってくる性慾
に悩まされ出してきていた。四カ月も、五カ月も
不自然に、この頑丈な男たちが「女」から離され
ていた。― ― 函館で買った女の話や、露骨な女の
陰部の話が、夜になると、きまって出た。
一枚の春画がボサボサに紙に毛が立つほど、何度
も何度もグルグル廻された。
 … … … … … …
床とれの、
  こちら向けえの、
  口すえの、
60
  足をからめの、
  気をやれの、
  ホンに、
ヽヽヽ
つとめはつらいもの。
誰か歌った。すると、一度で、その歌が海綿に
でも吸われるように、皆に覚えられてしまった。
何かすると、すぐそれを歌い出した。そして歌っ
てしまってから、「えッ、畜生! 」と、ヤケに叫
んだ。眼だけ光らせて。
 漁夫たちは寝てしまってから、
「畜生、困った!  どうしたって眠( ね) れない
や。」と、身体をゴロゴロさせた。「駄目だ、


が立って! 」
  「どうしたら、ええんだ! 」 ― ― 終いに、
そういって、勃起( ぼっき) している睾丸( こうが
ん) を握りながら、裸で起き上ってきた。大きな
身体の漁夫の、そうするのを見ると、
ヽヽ
身体


ヽヽヽ
しまる、何か凄惨( せいさん) な気さえした。度胆
( どぎも) を抜かれた学生は、眼だけで隅の方から、
それを見ていた。
 
ヽヽ
夢精をするのが何人もいた。誰もいない時、た
まらなくなって
ヽヽ
自涜をするものもいた。― ― 棚の
61
隅に、カタのついた汚れた猿又( さるまた) や褌
( ふんどし) が、しめっぼく、
ヽヽ
すえた臭いをして円
( ま) るめられていた。学生はそれを野糞( のぐそ)
のように踏みつけることがあった。
 - ― それから、雑夫の方へ「夜這( よば) い」が
始まった。バットをキャラメルに換えて、ポケッ
トに二つ三つ入れると、ハッチを出て行った。
 便所臭い、漬物樽( つけものだる) の積まさって
いる物置きを、コックが開けると、薄暗い、ムッ
とする中から、いきなり横ッ面でもなぐられるよ
うに、怒鳴られた。
 「閉めろッ!  今、入ってくると、この野郎、
夕タキ殺すぞ!」
×    ×    ×
無電係が、他船の交換している無電を聞いて、そ
の収獲を一々監督に知らせた。それで見ると、本
船がどうしても負けているらしい事が分ってきた。
監督が
ヽヽヽ
アセリ出した。
すると、
ヽヽ
テキ面にそのことが何倍かの強さになっ
て、漁夫や雉夫に打( ぶ) ち当ってきた。― ― 何時
でも、そして、何んでもドン詰りの引受所が「彼
ら」だけだった。監督や雑夫長はわざと「船員」
62
と「漁夫、雑夫との間に、仕事の上で競争させる
ように仕組んだ。
同じ蟹つぶしをしていながら「船員に負けた」
となると、( 自分の儲けになる仕事でもないの
に、) 漁夫や雑夫は「何に糞ッ!」という気にな
る。監督は「手を打って」喜んだ。今日勝った、
今日負けた、今度こそ負けるもんか― ― 血の滲
( にじ) むような日が滅茶苦茶( めちゃくちゃ) に続
く。同じ日のうちに、今までより五、六割も殖
( ふ) えていた。しかし五日、六日になると、両方
とも気抜けしたように、仕事の高がズン、ズン減
って行った。仕事をしながら、時々ガクリと頭を
前に落した。監督はものもいわないで、なぐりつ
けた。不意を喰らって、彼らは自分でも思いがけ
ない悲鳴を「キャツ! 」とあげた。― ― 皆は敵
( かたき) 同士か、言葉を忘れてしまった人のよう
に、お互にだまりこくって働いた。
ヽヽ
ものをいうだ
けのぜいたくな「余分」さえ残っていなかった。
監督はしかし、今度は、勝った組に「賞品」を
出すことを始めた。燻( くすぶ) りかえっていた木
が、また燃え出した。
 「他愛のないものさ。」監督は、船長室で、船
63
長を相手にビールを飲んでいた。
 船長は肥えた女のように、手の甲に
ゝゝゝ
えくぼが出
ていた。器用に金口( きんぐち) をトントンとテー
ブルにたたいて、分らない笑顔で答えた。― ― 船
長は、監督が何時でも自分の眼の前で、マヤマヤ
邪魔をしているようで、たまらなく不快だった。
漁夫たちがワッと事を起して、こいつをカムサッ
カの海へたたき落すようなことでもないかな、そ
んな事を考えていた。
 監督は「賞品」の外に、逆に、一番働きの少い
ものに「焼き」を入れる事を貼紙した。鉄棒を真
赤に焼いて、身体にそのまま当てることだった。
彼らは何処まで逃げても離れない、まるで自分自
身の影のような「焼き」に始終追いかけられて、
仕事をした。仕事が尻上りに、目盛りをあげて行
った。
 人間の身体には、どのぐらいの限度があるか、
しかしそれは当の本人よりも監督の方が、よく知
っていた。一仕事が終って、丸太棒のように棚の
中に横倒れに倒れると、「期せずして」う、う―
-、うめいた。
 学生の一人は、小さい時に祖母に連れられて、
64
お寺の薄暗いお堂の中で見たことのある「地獄」
の絵が、そのままこうであることを思い出した。
それは、小さい時の彼には、ちょうど


ヽヽ
わば

みの
ような動物が、沼地に
ヽヽヽ
にょろ、
ヽヽヽ
にょろと這ってい
るのを思わせた。それとそっくり同じだった。―
― 過労がかえって皆を眠らせない。夜中過ぎて、
突然、硝子の表に思いッ切り庇( きず) をつけるよ
うな不気味な歯ぎしりが起ったり、寝言や、うな
されているらしい突調子な叫声が、薄暗い「糞壷」
のところどころから起った。
彼らは寝れずにいるとき、フト、「
ヽヽ
よく、まだ
生きているな… … 。」と自分で自分の生身の身体
にささやきかえすことがある。よく、まだ生きて
いる― ― そう自分の身体に!
 学生上りは一番「こたえて」いた。
 「ドストイェフスキーの
ヽヽ
死人



家な、ここから
見れば、あれだって大したことでないって気がす
る。」― ― その学生は、糞が何日もつまって、頭
を手拭で力一杯に締めないと、眠れなかった。
 「それアそうだろう。」相手は函館から持って
きたウイスキーを、薬でも飲むように、舌の先き
で少しずつ嘗( な) めていた。「何んしろ大事業だ
65
からな。人跡未到の地の富源を開発するッてんだ
から、大変だよ。― ― この蟹工船だって、今はこ
れで良くなったそうだよ。天候や潮流の変化の観
測が出来なかったり、地理が実際にマスターされ
ていなかったりした創業当時は、幾ら船が沈没し
たりしたか分らなかったそうだ。露国の船には沈
められる、捕虜になる、殺される、それでも屈し
ないで、立ち上り、立ち上り苦闘して来たからこ
そ、この大富源が俺たちのものになったのさ。…
… まァ仕方がないさ。」
 「… … … … … … 」
 ― ― 歴史が何時でも書いているように、それは
そうかも知れない気がする。しかし、彼の心の底
にわだかまっている
ヽヽ
ムッとした気持が、それでち
っとも晴れなく思われた。彼は黙ってベニヤ板の
ように固くなっている自分の腹を撫でた。弱い電
気に触れるように、拇指( おやゆび) のあたりが、
チャラチャラとしびれる。イヤな気持がした。拇
指を眼の高さにかざして、片手でさすってみた。
― ― 皆は夕飯が終って、「糞壷」の真中に一つ取
りつけてある、割目が地図のように入っているガ
タガタのストーヴに寄っていた。お互の身体が少
66
し温まってくると、湯気が立った。蟹の生っ臭い
匂いがムレて、ムッと鼻に来た。
 「何んだか、理窟は分らねども、殺されたくね
えで。」
 「んだよ! 」
 憂々した気持が、もたれかかるように、そこへ
雪崩( なだ) れて行く。殺されかかっているんだ!
皆はハッキリした焦点もなしに、怒りッぼくなっ
ていた。
 「お、俺だちの、も、ものにもならないのに、
く、糞、こッ殺されてたまるもんか! 」
 吃( ども) りの漁夫が、自分でももどかしく、顔
を真赤に筋張らせて、急に、大きな声を出した。
ちょっと、皆だまった。何かにグイと心を「不意
に」突き上げられた― ― のを感じた。
 「カムサッカでァ死にたくないな… … 。」
 「中積船、函館ば出たとよ。― ― 無電係の人い
ってた。」
 「帰りてえな。」
 「帰れるもんか。」
 「中積船でヨク逃げる奴がいるってな。」
 「んか!?…… ええな。」
67
「漁に出る振りして、カムサッカの陸さ逃げて、
露助と一緒に赤化宣伝ばやっているものもいるッ
てな。」
 「… … … … … … 。」
 「日本帝国のためか、― ― また、いい名義を考
えたもんだ。」― ― 学生は胸のボタンを外( はず)
して、階段のように一つ一つ窪( くぼ) みの出来て
いる胸を出して、あくびをしながら、ゴシゴシ掻
( か) いた。垢( あか) が乾いて、薄い雲母( うんも)
のように剥( は) げてきた。
 「んよ、か、会社の金持ばかり、ふ、ふんだく
るくせに。」
 
ヽヽ
カキの貝殻のように、段々のついた、たるんだ
眼蓋( まぶた) から、弱々しい濁った視線をストー
ヴの上にボンヤリ投げていた中年を過ぎた漁夫が
唾をはいた。ストーヴの上に落ちると、それがク
ルックルッと真円にまるくなって、ジュウジュウ
いいながら、豆のように跳ね上って、見る間に小
さくなり、油煙粒ほどの小さい
ヽヽ
カスを残して、無
くなった。皆はそれにウカツな視線を投げている。
 「それ、本当かも知れないな。」
 しかし、船頭が、ゴム底タビの赤毛布の裏を出
68
して、ストーヴにかざしながら、「おい反逆( て
むかい) なんかしないでけれよ。」といった。
 「… … … … … ‥ 。」
 「勝手だべよ。糞。」吃りが唇を蛤( はまぐり)
のように突き出した。
 ゴムの焼けかかっているイヤな臭いがした。
 「おい、親爺( おど)、ゴム--!」
 「ん、あ、こげた! 」
 波が出て来たらしく、サイドが微かになってき
た。船も子守唄ほどに揺れている。腐った海漿
( ほおずき) のような五燭灯でストーヴを囲んでい
るお互の、後に落ちている影が色々にもつれて、
組合った。― ― 静かな夜だった。ストーヴの口か
ら赤い火が、膝から下にチラチラと反映していた。
不幸だった自分の様が、ひょいと― ― まるッきり
ひょいと、しかも一瞬間だけ見返される― ― 不思
議に静かな夜だった。
 「煙草無( ね) えか? 」
 「無え… … 。」
 「無えか? … … 」
 「なかったな。」
 「糞。」
69
 「おい、ウイスキーをこつちにも廻せよ、な。」
相手は角瓶( かくびん) を逆かさに振ってみせた。
「おッと、勿体( もつたい) ねえことするなよ。」
 「ハハハハハハハ。」
 「飛んでもねえ所さ、しかし来たもんだな、俺
も… … 。」その漁夫は芝浦の工場にいたことがあ
った。そこの話がそれから出た。それは北海道の
労働者たちには「
ヽヽ
工場」だとは想像もつかない「
ヽヽ
立派



処」に思われた。「ここの百に一つぐらい
のことがあったって、あっちじゃストライキだ
よ。」といった。
 その事からそのキッかけで、お互の今までして
きた色々のことが、ひょいひょい話に出てきた。
「国道開たく工事」「潅漑( かんがい) 工事」「鉄
道敷設( しせつ)」「築港埋立( うめたて)」「新鉱
発掘」「開墾」「横取人夫」「鎌取り」― - 殆
( ほと) んど、そのどれかを皆はしてきていた。
― ― 内地では、労働者が「横平( おうへい)」に
なって無理がきかなくなり、市場も大体開拓され
つくして、行き詰ってくると、資本家は「北海道・
樺太( からふと) へ! 」鉤爪( かぎづめ) をのばした。
そこでは、彼らは朝鮮や、台湾の殖民地と同じよ
70
うに、面白いほど無茶な「虐使」が出来た。しか
し、誰も、何んともいえない事を、資本家はハッ
キリ呑み込んでいた。「国道開たく」「鉄道敷設」
の土工部屋では、虱( しらみ) より無雑作に土方が
夕夕き殺された。虐使に堪( た) えられなくて逃亡
する。それが捕( つか) まると、棒杭( ぼうくい) に
しばりつけて置いて、馬の後足で蹴( け) らせたり、
裏庭で土佐犬に噛( か) み殺させたりする。それを、
しかも皆の眼の前でやってみせるのだ。肋骨( ろ
っこつ) が胸の中で折れる
ヽヽヽ
ボクッと
ヽヽヽヽ
こもった音を
きいて、「人間でない」土方さえ思わず額を抑え
るものがいた。気絶をすれば、水をかけて生かし、
それを何度も繰りかえした。終( しま) いには風呂
敷包みのように、土佐犬の強靭( きょうじん) な首
で振り廻されて死ぬ。ぐつたり広場の隅( すみ) に
投げ出されて、放って置かれてからも、身体の何
処かが、ピクピクと動いていた。焼火箸( やけひ
ばし) をいきなり尻にあてることや、六角棒で腰
が立たなくなるほどなぐりつけることは「
ヽヽ
毎日」
だった。飯を食っていると、急に、裏で鋭い叫声
が起る。すると、人の肉が焼ける生ッ臭い匂いが
流れてきた。
71
 「やめた、やめた。― ― とても飯なんて、食え
たもんじゃねえや。」
 箸( はし) を投げる。が、お互暗い顔で見合った。
 脚気( かつけ) では何人も死んだ。無理に働かせ
るからだった。死んでも「暇がない」ので、その
まま何日も放って置かれた。裏へ出る暗がりに、
無雑作にかけてあるムシロの裾から、子供のよう
に妙に小さくなった、黄黒く、艶( つや) のない両
足だけが見えた。
「顔に一杯蝿( はえ) がたかっているんだ。側を通
ったとき、一度にワァーンと飛び上るんでない
か! 」
 額を手で
ヽヽヽヽ
トントン打ちながら入ってくると、そ
ういう者があった。
 皆は朝は暗いうちに仕事場に出された。そして
鶴嘴( つるはし) のさきがチラッ、チラツと青白く
光って、手元が見えなくなるまで、働かされた。
近所に建っている監獄で働いている囚人の方を、
皆はかえって羨( うらやま) しがった。殊( こと) に
朝鮮人は親方、棒頭( ぼうがしら) からも、同じ仲
間の土方( 日本人の) からも、「踏んづける」よ
うな待遇をうけていた。
72
 そこから、四、五里も離れた村に駐在している
巡査が、それでも時々手帳をもって、取調べにテ
クテクやってくる。夕方までいたり、泊りこんだ
りした。しかし土方たちの方へは一度も顔を見せ
なかった。そして、帰りには真赤な顔をして、歩
きながら道の真中を、消防の真似( まね) でもして
いるように、小便を四方にジャジャやりながら、
分らない独りごと言をいって帰って行った。
 北海道では、字義通り、どの鉄道の枕木もそれ
はそのまま一本一本労働者の青むくれた「死骸
( しがい)」だった。築港の埋立( うめたて) には、
脚気の土工が生きたまま「
ヽヽ
人柱」のように埋めら
れた。― ― 北海道の、そういう労働者を「
ヽヽ
タコ
( 蛸) 」といっている。蛸は自分が生きて行くた
めには、自分の手足をも食ってしまう。これこそ、
全くそっくりではないか!  そこでは誰をも憚
( はばか) らない「原始的」な搾取( さくしゅ) が出
来た。「儲( もう) け」がゴゾリ、ゴゾリ掘りかえ
ってきた。しかも、そして、その事を巧みに「
ヽヽヽ
国家的」
ヽヽ
富源


ヽヽ
開発ということに結びつけて、マ
ンマと合理化していた。抜け目がなかった。「国
家」のために、労働者は「腹が減り」「タタき殺
73
されて」行った。
 「其処( そこ) から生きて帰れたなんて、神助け
事だよ。有難かったな!  んでも、この船で殺さ
れてしまったら、同じだべよ。― ― 何アーんで
え! 」そして突調子なく大きく笑った。その漁夫
は笑ってしまってから、しかし眉( まゆ) のあたり
をアリアリと暗くして、横を向いた。
 鉱山( やま) でも同じだった。― ― 新しい山に坑
道を掘る。そこにどんな瓦斯( ガス) が出るか、ど
んな飛んでもない変化が起るか、それを調べあげ
て一つの確針をつかむのに、資本家は「モルモッ
ト」より安く買える「労働者」を、乃木軍神がや
ったと同じ方法で、入り代り、立ち代り雑作( ぞ
うさ) なく使い捨てた。鼻紙より無雑作に!
「マグロ」の刺身のような労働者の肉片が、坑道
の壁を幾重にも幾重にも丈夫にして行った。都会
から離れていることを好い都合にして、ここでも
やはり「ゾッ」とすることが行われていた。トロ
ッコで運んでくる石炭の中に拇指( おやゆび) や小
指がバラバラに、ねばって交ってくることがある。
女や子供はそんな事にはしかし眉を動かしてはな
らなかった。そう「慣らされていた」。彼らは無
74
表情に、それを次の持場まで押してゆく。
ヽヽ
その
ヽヽ
石炭が巨大な機械を、資本家の「利潤」のために
動かした。
 どの坑夫も、長く監獄( かんごく) に入れられた
人のように、艶( つや) のない黄色くむくんだ、始
終ボンヤリした顔をしていた。日光の不足と、炭
塵( たんじん) と、有害ガスを含んだ空気と、温度
と気圧の異常とで、眼に見えて身体がおかしくな
ってゆく。「七、八年も坑夫をしていれば、凡
( およ) そ四、五年間ぐらいは打( ぶ) ッ続けに真暗
闇( まっくらやみ) の底にいて、一度だって太陽を
拝まなかったことになる、四、五年も! 」 ― ―
だが、どんな事があろうと、代りの労働者を何時
でも沢山仕入れることの出来る資本家には、そん
なことはどうでもいい事であった。冬が来ると、
「矢張( やは) り」労働者はその坑山に流れ込んで
行った。
 それから「入地百姓」― ― 北海道には「移民百
姓」がいる。「北海道開拓」「人口食糧問題解決、
移民奨励」、日本少年式な「移民成金( なりきん)」
などウマイ事ばかり並べた活動写真を使って、田
畑を奪われそうになっている内地の貧農を煽動
75
( せんどう) して、移民を奨励して置きながら、四、
五寸も掘り返えせば、下が粘土ばかりの土地に放
り出される。豊饒( ほうじょう) な土地には、もう
立札が立っている。雪の中に埋められて、馬鈴薯
( ばれいしょ) も食えずに、一家は次の春には餓死
することがあった。それは「事実」何度もあった。
雪が溶けた頃になって、一里も離れている「隣り
の人」がやってきて、始めてそれが分った。口の
中から、半分のみかけている藁屑( わらくず) が出
てきたりした。
 稀( ま) れに餓死から逃れ得ても、その荒地を十
年もかかって耕やし、ようやくこれで普通の畑に
なったと思える頃、それは実にちアんと、「外
( ほか) の人」のものになるようになっていた。資
本家は― ― 金利貸、銀行、華族、大金持は、嘘
( うそ) のような金を貸して置けば、( 投げ捨てて
置けば) 荒地は、肥えた黒猫の毛並のように豊餞
な土地になって、間違いなく、自分のものになっ
てきた。そんな事を真似て、
ヽヽ
濡手( ぬれで) をきめ
こむ、眼の鋭い人間も、また北海道に入り込んで
きた。― ― 百姓は、あっちからも、こつちからも
自分のものを噛みとられて行った。そして終( し
76
ま) いには、彼らが内地でそうされたと同じよう
に「
ヽヽヽ
小作人」にされてしまっていた。そうなって
百姓は始めて気付いた。― ― 「失敗( しま) った! 」
彼らは少しでも




ヽヽヽ
作って、故里( ふるさと) の
村に帰ろう、そう思って、津軽海峡を渡って、雪
の深い北海道ヘやってきたのだった。― ― 蟹工船
にはそういう、自分の土地を「他人」に追い立て
られて来たものが沢山いた。
積取人夫は蟹工船の漁夫と似ていた。監視付き
の小樽( おたる) の下宿屋にゴロゴロしていると、
樺太( からふと) や北海道の奥地へ船で引きずられ
て行く。足を「一寸」( いっすん) すべらすと、ゴ
ンゴンゴンとうなりながら、地響をたてて転落し
てくる角材の下になって、
ヽヽ
南部
ヽヽヽヽ
センベイよりも薄
くされた。ガラガラとウインチで船に積まれて行
く、水で皮がペロペロになっている材木に、拍子
を食って、


ヽヽヽ
なぐりされると、頭のつぶれた人間
は、蚤( のみ) の子よりも軽く、海の中へたたき込
まれた。
― ― 内地では、何時までも、黙って「殺されて
いない」労働者が一かたまりに固って資本家へ反
抗している。しかし「殖民地」の労働者は、そう
77
いう事情から完全に「遮断( しゃだん)」されてい
た。
 苦しくて、苦しくてたまらない。しかし転( こ
ろ) んで歩けば歩くほど、雪ダルマのように苦し
みを身体に背負いこんだ。
 「どうなるかな… … ? 」
 「殺されるのさ、分ってるべよ。」
 「… … … … … … 。」何かいいたげな、しかしグ
イとつまったまま、皆だまった。
 「こ、こ、殺される前に、こつちから殺してや
るんだ。」どもりがブッきら棒に投げつけた。
トブーン、ドブーンとゆるく腹( サイド) に波が
当っている。上甲板の方で、何処かのパイプから
スティムが
ヽヽ
もれているらしく、シー、シ― ― ン、
シ― - ンという鉄瓶( てつびん) のたぎるような、
柔かい音が絶えずしていた。
 寝る前に、漁夫たちは垢( あか) でスルメのよう
にガバガバになったメリヤスやネルのシャツを脱
いで、ストーヴの上に広げた。囲んでいるものた
ちが、炬燵( こたつ) のように各々その端をもって、
熱くしてからバタバタと
ヽヽ
ほろった。ストーヴの上
78
に虱( しらみ) や南京虫( ナンキンむし) が落ちると、
プッン、プツンと、音をたてて、人が焼ける時の
ような生ッ臭い匂( にお) いがした。熱くなると、
居たたまらなくなった蚤が、シャツの縫目から、
細かい沢山の足を夢中に動かして、出て来る。つ
まみ上げると、皮膚の脂肪( あぶら) ッぼいコロッ
とした身体の感触がゾッときた。かまきり虫のよ
うな不気味な頭が、それと分るほど肥えているの
もいた。
 「おい、端を持ってけれ。」
 褌( ふんどし) の片端を持ってもらって、広げな
がら蚤をとった。
 漁夫は乳を口に入れて、前歯で、音をさせてつ
ぶしたり、両方の拇( おやゆび) 指の爪で、爪が真
赤になるまでつぶした。子供が汚い手をすぐ着物
に拭( ふ) くように、袢天( はんてん) の裾( すそ) に
ぬぐうと、また始めた。それでもしかし眠れない。
何処から出てくるか、夜通し虱( しらみ) と蚤( の
み) と南京虫( ナンキンむし) に責められる。どう
しても退治し尽されなかった。薄暗( くら) く、ジ
メジメしている棚に立っていると、すぐモゾモゾ
と何十匹もの蚤( のみ) が脛( すね) を這い上ってき
79
た。終いには自分の体の何処かが腐ってでもいな
いのか、と思った。岨( うじ) や蝿に取りつかれて
いる腐爛( ふらん) した「死体」ではないか、そん
な不気味さを感じた。
お湯には、初め一日置きに入れた。身体が生ッ
臭くよごれて仕様がなかった。しかし一週間もす
ると、三日置きになり、一カ月ぐらい経つと、一
週間一度。そしてとうとう月二回にされてしまっ
た。水の濫費( らんぴ) を防ぐためだった。しかし、
船長や監督は毎日お湯に入った。それは濫費には
ならなかった。( ! ) ― ― 身体が蟹の汁で汚れる。
それがそのまま何日も続く。それで虱か南京虫が
湧( わ) かない「筈( はず)」がなかった。
 褌を解くと、黒い粒々がこぼれ落ちた。褌をし
めたあとが、赤く
ヽヽ
かたがついて、腹に輪を作った。
そこがたまらなく掻ゆかった。寝ていると、ゴシ
ゴシと身体をやけにかく音が何処からも起った。
モゾモゾと小さいゼンマイのようなものが、身体
の下側を走るかと思うと― ― 刺す。そのたびに漁
夫は身体をくねらし、寝返りを打った。しかしま
たすぐ同じだった。それが朝まで続く。皮膚が皮
癬( ひぜん) のように、ザラザラになった。
80
 「





虱だべよ。」
「んだ、ちょうどええさ。」
 仕方なく、笑ってしまった。
       五
 あわてた漁夫が二、三人デッキを走って行った。
 曲り角で、急にまがれず、よろめいて、手すり
につかまった。サロン・デッキで修繕をしていた
大工が背のびをして、漁夫の走って行った方を見
た。寒風の吹きさらしで、涙が出て、初め、よく
見えなかった。大工は横を向いて勢よく「
ヽヽヽヽ
つかみ鼻」をかんだ。鼻汁が風にあおられて、歪
( ゆが) んだ線を描いて飛んだ。
 ともの左舷のウインチがガラガラなっている。
皆漁に出ている今、それを動かしている
ヽヽ
わけがな
かった。ウインチにはそして何かブラ下がってい
た。それが揺れている。吊( つ) り下がっているワ
イヤーが、その垂直線の囲( まわ) りを、ゆるく円
を描いて揺れていた。「何んだべ? 」 ― ― その
時、ドキッと来た。
81
 大工は周章( あわて) たように、もう一度横を向
いて「つかみ鼻」をかんだ。それが風の工合でズ
ボンにひつかかった。トロッとした薄い水鼻だっ
た。
 「また、やってやがる。」大工は涙を何度も腕
で拭( ぬぐ) いながら眼をきめた。
こっちから見ると、雨上りのような銀灰色の海
をバックに、突き出ているウインチの腕、それに
すっかり腰を縛られて、吊し上げられている雑夫
が、ハッキリ黒く浮び出てみえた。ウインチの先
端まで空を上ってゆく。そして雑巾( ぞうきん) 切
れでもひッかかったように、しばらくの間― ― 二
十分もそのままに吊下げられている。それから下
がって行った。身体をくねらして、もがいている
らしく、両脚が蜘妹( くも) の巣にひっかかった蝿
( はえ) のように動いている。
やがて手前のサロンの陰になって、見えなくな
った。一直線に張っていたワイヤーだけが、時々
ブランコのように動いた。
涙が鼻に入ってゆくらしく、水鼻がしきりに出
た。大工はまた「つかみ鼻」をした。それから横
ポケットにブランブランしている金槌( かなづち)
82
を取って、仕事にかかった。
大工はひょいと耳をすまして― ― 振りかえって
見た。ワイヤ・ロープが、誰か下で振っているよ
うに揺れていて、ボクンボクンと鈍い不気味な音
はそこからしていた。
 ウインチに吊された雑夫は顔の色が変っていた。
死体のように堅くしめている唇から、泡( あわ) を
出していた。大工が下りて行った時、雑夫長が薪
( まき) を脇にはさんで、片肩を上げた窮屈な恰好
( かっこう) で、デッキから海へ小便をしていた。
あれでなぐったんだな、大工は薪をちらっと見た。
小便は風が吹く度に、ジャ、ジャとデッキの端に
かかって、
ヽヽ
はねを飛ばした。
 漁夫たちは何日も何日も続く過労のために、だ
んだん朝起きられなくなった。監督があきかん石
油の空缶を寝ている耳もとでたたいて歩いた。眼
を開けて、起き上るまで、やけに缶をたたいた。
脚気( かっけ) のものが、頭を半分上げて何かいっ
ている。しかし監督は見ない振りで、空缶をやめ
ない。声が聞えないので、金魚が水際に出てきて、
空気を吸っている時のように、口だけバクパク動
いてみえた。いい加減たたいてから、
83
「どうしたんだ、夕夕き起すど! 」と怒鳴りつ
けた。「いやしくも仕事が国家的である以上、
ヽヽ
戦争


ヽヽ
同じなんだ。死ぬ覚悟で働け!  馬鹿野
郎! 」
 病人は皆蒲団( ふとん) を剥( は) ぎとられて、甲
板へ押し出された。脚気のものは階段の段々に足
先きがつまずいた。手すりにつかまりながら、身
体を斜めにして、自分の足を自分の手で持ち上げ
て、階段を上がった。心臓が左ごとに不気味にピ
ンピン蹴( け) るようにはね上った。
 監督も、雑夫長も病人には、継子( ままこ) にで
も対するように
ヽヽヽヽ
ジリジリと陰険だった。「肉詰」
をしていると、追い立てて、甲板で「爪たたき」
をさせられる。それをちょっとしていると「紙巻」
の方へ廻される。底寒くて、薄暗い工場の中です
べる足元に気をつけなら、立ちつくしていると、
膝( ひざ) から下は義足に触るより無感覚になり、
ひょいとすると膝の関節が、蝶つがいが離れたよ
うに、不覚に
ヽヽヽヽ
ヘナヘナと坐り込んでしまいそうに
なった。
 学生が蟹をつぶした手の甲で、額を軽くたたい
ていた。ちょっとすると、そのまま横倒しに後へ
84
倒れてしまった。その時、側に積さなっていた缶
詰の空瓶がひどく音をたてて、学生の倒れた上に
崩れ落ちた。それが船の傾斜に沿って、機械の下
や荷物の間に、光りながら円るく転んで行った。
仲間が周章てて学生をハッチに連れて行こうとし
た。
 それがちょうど、監督が口笛を吹きながら工場
に下りてきたのと、会った。ひょいと見てとると、
 「誰が仕事を離れったんだ!」
 「誰が!?…‥」思わずグッと来た一人が、肩でつ
ッかかるように、せき込んだ。
 「誰がア― ― ?  この野郎、もう一度いってみ
ろ! 」監督はポケットからピストルを取り出して、
玩具のようにいじり廻した。それから、急に大声
で、口を三角形にゆがめながら、背のびをするよ
うに身体をゆすって、笑い出した。
「水を持って来い!」
監督は桶( おけ) 一杯に水を受取ると、枕木のよ
うに床に置き捨てになっている学生の顔に、いき
なり― ―  一度に、それを浴( あび) せかけた。
「これでええんだ。― ― 要( い) らないものなん
か見なくてもええ、仕事でもしやがれ! 」
85
次の朝、雉夫が工場に下りて行くと、旋盤( せ
んばん) の鉄柱に前の日の学生が縛りつけられて
いるのを見た。首をひねられた鶏のように、首を
ガクリ胸に落し込んで、背筋の先端に大きな関節
を一つポコンと露( あら) わに見せていた。そして
子供の前掛けのように、胸に、それが明かに監督
の筆致で、
「此者ハ不忠ナル偽病者ニツキ、麻縄( あさな
わ) ヲ解クコトヲ禁ズ。」
 と書いたボール紙を吊していた。
 額に手をやってみると、冷えきった鉄に触るよ
り冷たくなっている。雑夫らは工場に入るまでガ
ヤガヤしゃべっていた。それが誰も口をきくもの
がない。後から雑夫長の下りてくる声をきくと、
彼らはその学生の縛られている機械から二つに分
れて各々の持場に流れて行った。
 蟹漁が忙がしくなると、ヤケに当ってくる。前
歯を折られて、一晩中「血の唾( つば)」をはいた
り、過労で作業中に卒倒したり、眼から血を出し
たり、平手で滅茶苦茶に叩( たた) かれて、耳が聞
えなくなったりした。あんまり疲れてくると、皆
は酒に酔ったよりも他愛なくなった。時間がくる
86
と、「これでいい」と、フト安心すると、瞬間ク
ラクラッとした。
 皆が仕舞いかけると、「今日は九時までだ。」
と監督が怒鳴って歩いた。
「この野郎たち、仕舞いだッていう時だけ、手
廻しを早くしやがって! 」
 皆は高速度写真のようにノロノロまた立ち上っ
た。それしか気力がなくなっていた。
「いいか、ここへは二度も、三度も出直して来
れるところじゃないんだ。それに何時だって蟹が
取れるとも限ったものでもないんだ。それを一日
の働きが十時間だから十三時間だからって、それ
でピッタリやめられたら、飛んでもないことにな
るんだ。― ― 仕事の性質( たち) が異( ちが) うんだ。
いいか、その代り蟹が採れない時は、勿体( もっ
たい) ないほどブラブラさせておくんだ。」監督
は「糞壷」へ降りてきて、そんなことをいった。
「露助はな、魚が何んぼ眼の前で群化( くき) てき
ても、時間が来れば一分も違わずに、仕事をブン
投げてしまうんだ。んだから― ― んな心掛けだか
ら露西亜( ロシア) の国がああなったんだ、日本男
児の断じて真似てならないことだ! 」
87
 何にいってるんだ、ペテン野郎!  そう思って
聞いていないものもあった。しかし大部分は監督
にそういわれると日本人はやはり偉いんだ、とい
う気にされた。そして自分たちの毎日の残虐な苦
しさが、何か「英雄的」なものに見え、それがせ
めても皆を慰めさせた。
 甲板で仕事をしていると、よく水平線を横切っ
て、駆逐艦( くちくかん) が南下して行った。後尾
に日本の旗がはためくのが見えた。漁夫らは興奮
から、眼に涙を一杯ためて、帽子をつかんで振っ
た。あれだけだ。俺たちの味方は、と思った。
 「畜生、
ヽヽヽ
あいつを見ると、涙が出やがる。」
 だんだん小さくなって、煙にまつわって見えな
くなるまで見送った。
 雑巾切れのように、クタクタになって帰ってく
ると、皆は思い合わせたように、相手もなく、た
だ「畜生!」と怒鳴った。暗がりで、それは憎悪
( ぞうお) に満ちた牡牛( おうし) の唸( うな) り声に
似ていた。誰に対してか彼ら自身分ってはいなか
ったが、しかし毎日毎日同じ「糞壷」の中にいて、
二百人近くのものらがお互にブッキラ棒にしやべ
り合っているうちに、眼に見えずに、考えること、
88
いうこと、することが、(


ヽヽヽ
めくじが地面を這う
ほどののろさだが、) 同じになって行った。― ―
その同じ流れのうちでも、勿論澱( よど) んだよう
に足ぶみをするものが出来たり、別な方へ外( そ)
れて行く中年の漁夫もある。しかしそのどれもが、
自分では何んにも気付かないうちに、そうなって
行き、そして何時の間にか、ハッキリ分れ、分れ
になっていた。
 朝だった。タラップをノロノ口上りながら、炭
山( やま) から来た男が、「とても続かねえや。」
といった。
前の日は十時近くまでやって、身体は壊( こわ)
れかかった機械のようにギクギクしていた。タラ
ップを上りながら、ひょいとすると、眠っていた。
後から「オイ」と声をかけられて思わず手と足を
動かす。そして、足を踏み外( はず) して、のめっ
たまま腹ん這( ば) いになった。
仕事につく前に、皆が工場に降りて行って、片
隅( かたすみ) に溜った。どれも泥人形のような顔
をしている。
 「俺ア仕事サボるんだ。出来ねえ。」― ― 炭山
( やま) だった。
89
 皆も黙ったまま、顔を動かした。
 ちょっとして、
 「


ヽヽ
焼きが入るからな… … 。」と誰かいった。
 「ずるけてサボるんでねえんだ。働けねえから
だよ。」
 炭山が袖を上膊( じょうはく) のところまで、ま
くり上げて、眼の前ですかして見るようにかざし
た。
 「長げぇことねえんだ。― ― 俺ァずるけてサボ
るんでねえだど。」
 「それだら、そんだ。」
 「… … … … ‥ ‥ 。」
 その日、監督は鶏冠( とさか) をピンと立てた喧
嘩鶏( けんかどり) のように、工場を廻って歩いて
いた。「どうした、どうした!」と怒鳴り散らし
た。がノロノロと仕事をしているのが一人、二人
でなしに、あっちでも、こつちでも― ― 殆( ほと)
んど全部なので、ただイライラ歩き廻ることしか
出来なかった。漁夫たちも船員もそういう監督を
見るのは始めてだった。上甲板で、網から外した
蟹が無数に、ガサガサと歩く昔がした。通りの悪
い下水道のように、仕事がドンドンつまって行っ
90
た。しかし「監督の梶棒( こんぼう)」が何の役に
も立たない!
 仕事が終ってから、煮しまった手拭( てぬぐい)
で首を拭きながら、皆ゾロゾロ「糞壷」に帰って
きた。顔を見合うと、思わず笑い出した。それが
何故( なぜ) か分らずに、おかしくて、おかしくて
仕様( しよう) がなかった。
 それが船員の方にも移って行った。船員を漁夫
とにらみ合わせて、仕事をさせ、いい加減に馬鹿
をみせられていたことが分ると、彼らも時々「サ
ボリ」出した。
 「昨日ウンと働き過ぎたから、今日はサボだ
ど。」
 仕事の出しなに、誰かそういうと、皆そうなっ
た。しかし「サボ」といっても、ただ身体を楽に
使うということでしかなかったが。
 誰だって身体がおかしくなっていた。イザとな
ったら「仕方がない」やるさ。「殺されること」
はどっち道同じことだ。そんな気が皆にあった。
― ― ただ、もうたまらなかった。
×    ×    ×
「中積船だ!  中積船だ! 」上甲板で叫んでい
91
るのが、下まで聞えてきた。皆は思い思い「糞壷」
の棚からボロ着のまま跳( は) ね下りた。
中積船は漁夫や船員を「女」よりも夢中にした。
この船だけは塩ッ臭くない、函館の匂いがしてい
た。何カ月も、何百日も踏みしめたことのない、
あの動かないの匂いがしていた。それに、中積船
には日附の違った何通りもの手紙、シャツ、下着、
雑誌などが送りとどけられていた。
彼らは荷物を蟹臭い節立った手で、鷲( わし) づ
かみにするとあわてたように「糞壷」にかけ下り
た。そして棚に大きな安坐( あぐら) をかいて、そ
の安坐の中で荷物を解いた。色々のものが出る。
― ― 側から母親が
ヽヽ
ものをいって書かせた、自分の
子供のたどたどしい手紙、歯磨、楊子( ようじ)、
チリ紙、着物、それらの合せ目から、思いがけな
く妻の手紙が、重さでキチンと平べったくなって、
出てきた。彼らはその何処からでも、陸にある
「自家( うち)」の匂いをかぎ取ろうとした。乳臭
い子供の匂いや、妻のムッとくる膚の匂( にお) い
を探した。
… … … … … … … … … …
  
ヽヽヽ
おそそにかつれて因っている、
92
  三銭切手でとどくなら、
ヽヽヽ
おそそ缶詰で送りたい― ― かッ!
やけに大声で「ストトン節」をどなった。
 何んにも送って来なかった船員や漁夫は、ズボ
ンのポケットに棒のように腕をつッこんで、歩き
廻っていた。
「お前の居ない間( ま) に、男でも引ッ張り込ん
でるだんべよ。」
 皆にからかわれた。
薄暗い隅( すみ) に顔を向けて、皆ガヤガヤ騒い
でいるのを
ヽヽ
よそに、何度も指を折り直して、考え
込んでいるのがいた。― ― 中積船で来た手紙で、
子供の死んだ報知( しらせ) を読んだのだった。二
カ月も前に死んでいた子供の、それを知らずに
「今まで」いた。手紙には無線を頼む金もなかっ
たので、と書かれていた。漁夫が?! と思われるほ
ど、その男は何時までもムッつりしていた。
 しかし、それとちょうど反対のがあった。ふや
けた蛸( たこ) の子のような赤子の写真が入ってい
たりした。
 「これがか!? 」と、頓狂( とんきょう) な声で笑
93
い出してしまう。
 それから「どうだ、これが産れたんだとよ。」
といってワザワザ一人一人に、ニコニコしながら
見せて歩いた。
 荷物の中には何んでもないことで、しかし妻で
なかったら、やはり気付かないような細かい心配
りの分るものが入っていた。そんな時は、急に誰
でも、バタバタと心が「あやしく」騒ぎ立った。
― ― そして、ただ、無性に帰りたかった。
 中積船には、会社で派遣した活動写真隊が乗り
込んできていた。出来上っただけの缶詰を中積船
に移してしまった晩、船で活動写真を映すことに
なった。
 平べったい鳥打ちを少し横めにかぶり、蝶( ち
ょう) ネクタイをして、太いズボンをはいた、若
い同じような恰好( かっこう) の男が、二、三人ト
ランクを重そうに持って、船ヘやってきた。
 「臭い、臭い! 」
 そういいながら、上着を脱いで、口笛を吹きな
がら、幕をはったり、距離をはかって台を据( す)
えたりし始めた。漁夫たちはそれらの男から、何
か「海で」ないもの― ― 自分たちのようなもので
94
ないもの、を感じ、それにひどく引きつけられた。
船員や漁夫は何処か浮かれ気味で、彼らの仕度
( したく) に手伝った。
 一番年
ヽヽ
かさらしい下品に見える、太い金縁の眼
鏡をかけた男が、少し離れた処に立って、首の汗
を拭いていた。
「弁士さん、そったら処( ところ) さ立ってれば、
足から蚤( のみ) がハネ上って行きますよ! 」
 と、「ひャアーツ! 」焼けた鉄板でも踏んづけ
たようにハネ上った。
 見ていた漁夫たちがドッと笑った。
 「しかしひどい所にいるんだな! 」しゃがれた、
ジャラジャラ声だった。それはやはり弁士だった。
 「知らないだろうけれども、この会社がここへ
こうやって、やって来るために、幾( いく) ら儲
( もう) けていると思う?  大したもんだ。六カ月
に五百万円だよ。一年千万円だ。 一口で千万円
っていえば、それっ切りだけれども、大したもん
だ。それに株主へ二割二分五厘なんて滅法界もな
い配当をする会社なんて、日本にだってそうない
んだ。今度社長が代議士になるッていうし、申分
がないさ。― ― やはり、こんな風にしても
ヽヽヽ
ひどく
95
しなけァあれだけ儲けられないんだろうな。」
 夜になった。
 「一万箱祝」を兼ねてやることになり、酒、焼
酎( しょうちゅう)、するめ、にしめ、バット、キ
ャラメルが皆の間に配られた。
 「さ、親父( おど) のどこさ来い。」 雑夫が、
漁夫、船員の間に、引張り凧( だこ) になった。
「安坐( あぐら) さ抱いて見せてやるからな。」
 「危い、危い!  俺のどこさ来いてば。」
 それがガヤガヤしばらく続いた。
 前列の方で四、五人が急に拍手した。皆も分ら
ずに、それに続けて手をたたいた。監督が白い垂
幕( たれまく) の前に出てきた。― ― 腰をのばして、
両手を後に廻しながら、「諸君は」とか、「私は」
とか、普段いったことのない言葉を出したり、ま
た何時( いつ) もの「日本男児」とか、「国富」だ
とかいい出した。大部分は聞いていなかった。こ
めかみと顎( あご) の骨を動かしながら、「するめ」
を噛( か) んでいた。
 「やめろ、やめろ! 」後から怒鳴る。
 「お前( め) えなんか、ひっこめ! 弁士がいるん
だ、ちァんと。」
96
 「六角棒の方が似合うぞ! 」― ― 皆ドッと笑っ
た。口笛をビュウビュウ吹いて、ヤケに手をたた
いた。
監督もまさかそこでは怒れず、顔を赤くして、
何かいうと( 皆が騒ぐので聞えなかった。) 引っ
込んだ。そして活動写真が始まった。
 最初「実写」だった。宮城、松島、江ノ島、京
都… … が、ガタピシャと写って行った。時々切れ
た。急に写真が二、三枚ダブって、目まいでもし
たように入り乱れたかと思うと、瞬間消えて、パ
ッと白い幕になった。
 それから西洋物と日本物をやった。どれも写真
はキズが入っていて、ひどく「雨が降った」。そ
れに所々切れているのを接合させたらしく、人の
動きがギクシャクした。
しかしそんなことはどうでもよかった。皆はすっ
かり引き入れられていた。外国のいい身体をした
女が出てくると、口笛を吹いたり、豚のような鼻
をならした。弁士は怒ってしばらく説明しないこ
ともあった。
西洋物はアメリカ映画で、「
ヽヽ
西部
ヽヽヽ
開拓史」を取
り扱ったものだった。― ― 野蛮人の襲撃をうけた
97
り、自然の暴虐に打ち壊( こわ) されては、又立ち
上り、一間( いっけん) 々々と鉄道をのばして行く。
途中に、一夜作りの「町」が、まるで鉄道の結び
コブのように出来る。そして鉄道が進む、その先
きへ、先きへと町が出来て行った。― ― そこから
起る色々な苦難が、一工夫と会社の重役の娘との
「恋物語」ともつれ合って、表へ出たり、裏にな
ったりして描かれていた。最後の場面で、弁士が
声を張りあげた。
「彼等幾多の犠牲的青年によって、遂に成功す
るに至った延々何百哩( マイル) の鉄道は、長蛇の
如く野を走り、山を貫き、昨日までの蛮地は、か
くして国富と変ったのであります。」
 重役の娘と、何時( いつ) の間にか紳士( しん
し) のようになった工夫が相抱くところで幕だっ
た。
 間に、意味なくゲラゲラ笑わせる、短い西洋
物が一本はさまった。
 日本の方は、貧乏な一人の少年が「納豆売り」
「夕刊売り」などから「靴磨き」をやり、工場に
入り、模範職工になり、取り立てられて、一大富
豪になる映画だった。― ― 弁士は字幕( タイトル)
98
にはなかったが、
「げに勤勉こそ成功の母ならずして、何んぞ
や! 」といった。
 それには雑夫達の「真剣な」拍手が起った。
然し漁夫か船員のうちで、
「嘘( うそ) こけ!  そんだったら、俺なんて
ヽヽ
社長になってねかならないべよ」
 と大声を出したものがいた。
 それで皆は大笑いに笑ってしまった。
 後で弁士が、「ああいう処へは、ウンと力を
入れて、繰りかえし、繰りかえしいって貰いたい
って、会社から
ヽヽ
命令
ヽヽヽ
されて来たんだ」といった。
 最後は、会社の、各所属工場や、事務所など
を写したものだった。「勤勉」に働いている沢山
の労働者が写っていた。
 写真が終ってから、皆は一万箱祝いの酒で酔
払った。
 長い間口にしなかったのと、疲労し過ぎてい
たので、ベロベロに参って了( しま) った。薄暗い
電気の下に、煙草の煙が雲のようにこめていた。
空気がムレて、ドロドロに腐っていた。肌脱( は
だぬ) ぎになったり、鉢巻をしたり、大きく安坐
99
をかいて、尻をすっかりまくり上げたり、大声で
色々なことを怒鳴り合った。― ― 時々なぐり合い
の喧嘩( けんか) が起った。
 それが十二時過ぎまで続いた。
 脚気( かっけ) で、何時も寝ていた函館の漁夫
が、枕を少し高くして貰って、皆の騒ぐのを見て
いた。同じ処から来ている友達の漁夫は、側の柱
に寄りかかりながら、歯にはさまった
ヽヽヽ
するめを、
マッチの軸で「シイ」「シイ」音をさせて
ヽヽ
せせっ
ていた。
 余程過ぎてからだった。― ― 「糞壷」の階段
を南京袋のように漁夫が転がって来た。
 着物と右手がすっかり血まみれになっていた。
 「出刃( でば)、出刃!  出刃を取ってくれ! 」
土間を這( は) いながら、叫んでいる。「浅川の野
郎、 何処へ行きやがった。居( い) ねいんだ。殺
してやるんだ。」
 監督のためになぐられたことのある漁夫だった。
― ― その男はストーヴのステッキを持って、眼の
色をかえて、また出て行った。誰もそれをとめな
かった。「な! 」函館の漁夫は友達を見上げた。
「漁夫だって、何時も木の根ッこみたいな馬鹿で
100
ねえんだな。面白くなるど! 」
 次の朝になって、監督の窓硝子からテーブルの
道具が、すっかり滅茶苦茶に壊( こわ) されていた
ことが分った。監督だけは、何処( どこ) にいたの
か運よく「こわされて」いなかった。
       六
 柔かい雨曇( くも) りだった。― ― 前の日まで降
っていた。それが上りかけた頃だった。曇った空
と同じ色の雨が、これもやはり曇った空と同じ色
の海に、時々和( なご) やかな円るい波紋を落して
いた。午( ひる) 過ぎ、駆逐艦がやって来た。手の
空いた漁夫や雑夫や船員が、デッキの手すりに寄
って、見とれながら、駆逐艦についてガヤガヤ話
しあった。物めずらしかった。
駆逐艦からは、小さいボートが降ろされて、士
官連が本船ヘやってきた。サイドに斜めに降ろさ
れたタラップの、下のおどり場には船長、工場代
表、監督、雑夫長が待っていた。ボートが横付け
になると、お互に挙手の礼をして船長が先頭に上
101
ってきた。監督が上をひょいと見ると、眉( まゆ)
と口隅をゆがめて、手を振って見せた。「何を見
てるんだ。行ってろ、行ってろ― ― 」
 「偉張んねえ、野郎!」― ― - ゾロゾロデッキを
後のものが前を順に押しながら、工場へ降りて行
った。生ッ臭い匂いが、デッキにただよって、残
った。
 「臭いね。」綺麗( きれい) な口髭( ひげ) の若い
士官が、上品に顔をしかめた。
後からついてきた監督が、周章( あわ) てて前へ
出ると、何かいって、頭を何度も下げた。
 皆は遠くから飾りのついた短剣が、歩くたび
に尻に当って、跳ね上がるのを見ていた。どれが、
どれよりも偉いとか偉くないとか、それを本気で
いい合った。しまいに喧嘩( けんか) のようになっ
た。
 「ああなると、浅川も見られたもんでないな。」
 監督のペコペコした恰好( かっこう) を真似( ま
ね) して見せた。皆はそれでドッと笑った。
 その日、監督も雑夫長もいないので、皆は気楽
に仕事をした。唄をうたったり、機械越しに声高
に話し合った。
102
 「こんな風に仕事をさせたら、どんなもんだべ
な。」
 皆が仕事を終えて、上甲板に上ってきた。サロ
ンの前を通ると、中から酔払って、無遠慮に大声
で喚( わめ) き散らしているのが聞えた。
給仕( ボーイ) が出てきた。サロンの中は煙草の
煙でムンムンしていた。
 給仕の上気した顔には、汗が一つ一つ粒になっ
て出ていた。両手に空のビール瓶を一杯もってい
た。顎( あご) で、ズボンのポケットを知らせて、
 「顔を頼む。」といった。
 漁夫がハンカチを出してふいてやりながら、サ
ロンを見て、「何してるんだ? 」ときいた。
 「イヤ、大変さ。ガブガブ飲みながら、何を話
してるかっていえば― ― 女のアレがどうしたとか、
こうしたとかよ。お蔭で百回も走らせられるんだ。
農林省の役人が来れば来たでタラップから夕タキ
落ちるほど酔払うしな!」
 「何しに来るんだべ? 」
 給仕は、分らんさ、という顔をして、急いでコ
ック場に走って行った。
 箸( はし) では食いづらいボロボロな南京米に、
103
紙ッ切れのような、実が浮かんでいる塩ッぼい味
噌汁で、漁夫らが飯を食った。
 「食ったことも、見たことも無( ね) えん洋食が、
サロンさ何んぼも行ったな。」
 「糞喰え― ― だ。」
 テーブルの側の壁には、
  一、飯のことで文句をいうものは、偉い人間
になれぬ。
  一、一粒の米を大切にせよ。血と汗の賜物
( たまもの) なり。
  一、不自由と苦しさに耐えよ。
振仮名( ふりがな) がついた下手な字で、ビラが
貼( は) らさっていた。下の余白には、共同便所の
中にあるような猥褻( わいせつ) な落書がされてい
た。
飯が終ると、寝るまでのちょっとの間、ストー
ヴを囲んだ。― ― 駆逐艦のことから、兵隊の話が
出た。漁夫には秋田、青森、岩手の
ヽヽ
百姓が多かっ
た。それで兵隊のことになると、訳が分らず、夢
中になった。兵隊に行ってきたものが多かった。
104
彼らは、今では、その当時の残虐( ざんぎゃく) に
充( み) ちた兵隊の生活をかえって懐( なつか) しい
ものに、色々想( おも) い出していた。
 皆寝てしまうと、急に、サロンで騒いでいる音
が、デッキの板や、サイドを伝って、ここまで聞
えてきた。ひょいと眼をさますと、「まだやって
いる」のが耳に入った。
 ― ― もう夜が明けるんではないか。誰か― ― 給
仕かも知れない、甲板を行ったり、来たりしてい
る靴の踵( かかと) のコツ、コツという音がしてい
た。実際、そして、騒ぎは夜明けまで続いた。
 士官連はそれでも駆逐艦に帰って行ったらしく、
タラップは降ろされたままになっていた。そして、
その段々に飯粒( めしつぶ) や蟹の肉や茶色のドロ
ドロしたものが、ゴジャゴジャになった嘔吐( へ
ど) が、五、六段続いて、かかっていた。嘔吐か
らは腐ったアルコールの臭( にお) いが強く、鼻に
プーンときた。胸が思わずカアーッとくる匂いだ
った。
駆逐艦は翼( つばさ) をおさめた灰色の水鳥のよ
うに、見えないほどに身体をゆすって、浮かんで
いた。それは身体全体が「眠り」を貪( むさぼ) っ
105
ているように見えた。煙筒からは煙草の煙よりも
細い煙が風のない空に、毛糸のように上っていた。
 監督や雑夫長などは昼になっても起きて来なか
った。
 「勝手な畜生だ! 」仕事をしながら、ブツブツ
いった。
 コック部屋の隅には、粗末に食い散らされた空
の蟹缶詰やビール瓶が山積みに積まさっていた。
朝になると、それを運んで歩いたボーイ自身でさ
え、よくこんなに飲んだり、食ったりしたもんだ、
と吃驚( びっくり) した。
 給仕は仕事の関係で、漁夫や船員などが、とて
も窺( うかがい) い知ることの出来ない船長や監督、
工場代表などの
ヽヽ
ムキ出しの生活をよく知っていた。
と同時に、漁夫たちの惨( みじ) めな生活( 監督は
酔うと、漁夫たちを「豚奴( ぶため) 豚奴」といっ
ていた。) も、ハッキリ対比されて知っている。
ヽヽ
公平


ヽヽヽ
いって、上の人間は
ヽヽヽヽ
ゴウマンで、恐ろしい
ことを儲( もう) けのために「平気」で謀( たくら)
んだ。漁夫や船員はそれに
ヽヽヽヽ
ウマウマ落ち込んで行
った。― ― それは見ていられなかった。
 何も知らないうちはいい、給仕は何時もそう考
106
えていた。彼は、当然どういうことが起るか― ―
起こらないではいないか、それが自分で分るよう
に思っていた。
 二時頃だった。船長や監督らは、下手に畳んで
おいたために出来たらしい、色々な折目のついた
服を着て、缶詰を船員二人に持たして、発動機船
で駆逐艦に出掛けて行った。甲板で蟹外しをして
いた漁夫や雑夫が、手を休めずに「嫁( よめ) 行列」
でも見るように、それを見ていた。
「何やるんだか、分ったもんでねえな。」
「俺たちの作った缶詰ば、まるで糞紙( くそが
み) よりも粗末にしやがる! 」
「しかしな… … 」中年を過ぎかけている、左手
の指が三本よりない漁夫だった。「こんなところ
まで来て、ワザワザ俺たちば守っててけるんだも
の、ええさ― ― な。」
― ― その夕方、駆逐艦が、知らないうちにムク
ムクと煙突から煙を出し初めた。デッキを急がし
く水兵が行ったり来たりし出した。そして、それ
から三十分ほどして動き出した。艦尾の旗がハタ
ハタと風にはためく音が聞えた。蟹工船では、船
長の発声で、「万歳」を叫んだ。
107
 夕飯が終ってから、「糞壷」へ給仕がおりてき
た。皆はストーヴの周囲で話していた。
 薄暗い電灯の下に立って行って、シャツから虱
を取っているのもいた。電灯を横切るたびに、大
きな影がペンキを塗った、煤( すす) けたサイドに
斜めにうつった。
 「士官や船長や監督の話だけれどもな、今度ロ
シアの領海へこつそり潜入して漁をすそうだど。
それで駆逐艦がしっきりなしに、側にいて

番をし
てくれるそうだ― ― 大部、
ヽヽ
コレやってるらしい
な。」( 拇指( おやゆび) と人差指で円るくしてみ
せた。)
 「皆の話を聞いていると、金がそのままゴロゴ
ロ転( ころ) がっているようなカムサッカや北樺太
など、この辺一帯を行く行くはどうしても日本の
ものにするそうだ。日本のアレは支那( しな) や満
洲( まんしゅう) ばかりでなしに、こっちの方面も
大切だっていうんだ。それにはここの会社が三菱
などと一緒になって、政府をウマクつッついてい
るらしい。今度社長が代議士になれば、もっとそ
れをドンドンやるようだど。
「それでさ、駆逐艦が蟹工船の警備に出動する
108
といったところで、どうしてどうして、そればか
りの目的でなくて、この辺( あたり) の海、北樺太、
千島の附近まで詳細に測量したり気候を調らべた
りするのが、かえって大目的で、万一の
ヽヽ
アレに手
ぬかりなくする訳だな。これア秘密だろうと思う
んだが、千島の一番端の島に、コッソリ大砲を運
んだり、重油を運んだりしているそうだ。」
 「俺初めて聞いて吃驚( びっくり) したんだけれ
どもな、今までの日本のどの戦争でも、本当は―
― 底の底を割ってみれば、みんな二人か三人の金
持の( そのかわり大金持の) 指図で、動機だけは
色々にこじつけて起したもんだとよ。何んしろ
ヽヽ
見込


ヽヽ
ある
ヽヽ
場所を手に入れたくて、手に入れたく
てパタパタしてるんだそうだからな、そいつらは。
― ― 危いそうだ。」
     七
 ウインチがガラガラとなって、川崎船が下がっ
てきた。ちょうどその下に漁夫が四人ほど居て、
ウインチの腕が短いので、下りてくる川崎船をデ
ッキの外側に押してやって、海までそれが下りれ
109
るようにしてやっていた。― ― よく危いことがあ
った。ボロ船のウインチは、脚気( かっけ) の膝
( ひざ) のようにギクシャクとしていた。ワイヤー
を巻いている歯車の工合で、グイと片方のワイヤ
ーだけが跛( びっこ) にのびる。川崎船が燻製鰊
( くんせいにしん) のように、すっかり斜めにブラ
下がってしまうことがある。その時、不意を喰
( く) らって、下にいた漁夫がよく怪我( けが) をし
た。その朝それがあった。「あッ、危い! 」誰か
叫んだ。真上からタタキのめされて、下の漁夫の
首が胸の中に、杭( くい) のように入り込んでしま
った。
 漁夫らは船医のところへ抱( かか) えこんだ。彼
らのうちで、今ではハッキリ監督などに対し「畜
生!」と思っている者らは、医者に「診断書」を
書いて貰( もら) うように頼むことにした。監督は
蛇( へび) に人間の皮をきせたような奴だから何ん
とかキット難くせを「ぬかす」に違いなかった。
その時の抗議のために診断書は必要だった。それ
に船医は割合漁夫や船員に同情を持っていた。
 「この船は
ヽヽ
仕事をして怪我( けが) をしたり、病
気になったりするよりも、ひッぱたかれたり、た
110
たきのめされたりして怪我したり、病気したりす
る方が、ずウッと多いんだからねえ。」と驚いて
いた。一々日記につけて後の証拠( しょうこ) にし
なければならない、といっていた。それで、病気
や怪我をした漁夫や船員などを割合に親切に見て
くれていた。診断書を作って貰いたいんですけれ
どもと、一人が切り出した。
 初め、吃驚( びっくり) したようだった。
 「さあ、診断書はねえ… … 。」
 「この通りに書いて下さればいいんですが。」
 はがゆかった。
 「この船では、それを書かせないことになって
るんだよ。勝手にそう決めたらしいんだが。… …
ヽヽ
後々


ヽヽ
ことがあるんでね。」
 気の短い、吃( ども) りの漁夫が「チェッ」と舌
打( したう) ちをしてしまった。
 「この前、浅川君になぐられて、耳が聞えなく
なった漁夫が来たので、何気なく診断書を書いて
やったら、飛んでもないことになってしまってね。
― ― それが何時までも証拠になるんで、浅川君に
しちゃね… … 。」
 彼らは船医の室を出ながら、船医もやはりそこ
111
まで行くと、もう「俺たち」の味方でなかったこ
とを考えていた。
 その漁夫は、しかし「不思議に」どうにか生命
を取りとめることが出来た。その代り、日中でも
よく何かにつまずいて、のめるほど暗い隅( すみ)
に転がったまま、その漁夫がうなっているのを、
何日も何日も聞かされた。
 彼が直りかけて、うめき声が皆を苦しめなくな
った頃、前から寝たきりになっていた脚気( かっ
け) の漁夫が死んでしまった。― ― 二十七だった。
東京、日暮里( にっぽり) の周旋屋から来たもので、
一緒の仲間が十人ほどいた。しかし、監督は次の
日の仕事に差支えるというので、仕事に出ていな
い「病気のものだけ」で、「お通夜」をさせるこ
とにした。湯灌( ゆかん) してやるために、着物を
解いてやると、身体からは、胸がムカーッとする
臭気がきた。そして不気味な真白い、平べったい
虱が周章( あわ) ててゾロゾ口走り出した。鱗形
( うろこがた) に垢( あか) のついた身体全体は、ま
るで松の幹が転がっているようだった。胸は、肋
骨( ろっこつ) が一つ一つムキ出しに出ていた。脚
気がひどくなってから、自由に歩けなかったので、
112
小便などはその場でもらしたらしく、一面ひどい
臭気だった。褌( ふんどし) もシャツも赭黒( あか
ぐろ) く色が変って、つまみ上げると、硫酸( りゅ
うさん) でもかけたように、ボロボロにくずれそ
うだった。臍( へそ) の窪( くぼ) みには、垢とゴミ
が一杯につまって、臍( へそ) は見えなかった。肛
門( こうもん) の周( まわ) りには、糞( くそ) がすっ
かり乾いて、粘土( ねんど) のようにこびりついて
いた。
 「カムサッカでは死にたくない。」― ― 彼は死
ぬ時そういったそうだった。しかし、今彼が命を
落すというとき、側にキット誰も看( み) てやった
者がいなかったかも知れない。そのカムサッカで
は誰だって死にきれないだろう。漁夫たちはその
時の彼の気持を考え、中には声をあげて泣いたも
のがいた。
 湯灌に使うお湯を貰いにゆくと、コックが、
「可哀相にな。」といった。「沢山( たくさん) 持
って行ってくれ。随分、身体が汚れてるべよ。」
 お湯を持ってくる途中、監督に会った。
 「何処へ持ってゆくんだ。」
「湯灌よ。」
113
というと、

ヽヽヽヽ
ぜいたくに使うな。」まだ何かいいたげにして
通って行った。
帰ってきたとき、その漁夫は、「あの時ぐらい、
いきなり後から彼奴( あいつ) の頭に、お湯をブッ
かけてやりたくなった時はなかった! 」といった。
興奮して、身体をブルブル顛( ふる) わせた。
監督はしつこく廻ってきては、皆の様子を見て
行った。― ― しかし、皆は明日居睡( いねむ) りを
しても、のめりながら仕事をしても― ― 例の「サ
ボ」をやっても、



で「お通夜( つや)」をしよう
ということにした。そう決った。
 八時頃になって、ようやく一通りの用意が出来、
線香( せんこう) や蝋燭( ろうそく) をつけて、皆が
その前に坐った。監督はとうとう来なかった。船
長と船医が、それでも一時間ぐらい坐っていた。
片言のように― ― 切れ切れに、お経の文句を覚え
ていた漁夫が「それでいい、心が通じる」そう皆
にいわれて、お経をあげることになった。お経の
間、シーンとしていた。誰か鼻をすすり上げてい
る。終りに近くなるとそれが何人もに殖( ふ) えて
行った。
114
 お経が終ると、一人一人焼香( しょうこう) をし
た。それから坐を崩して、各々一かたまり、一か
たまりになった。仲間の死んだことから、生きて
いる― ― しかし、よく考えてみればまるで危く生
きている自分たちのことに、それらの話がなった。
船長と船医が帰ってから、吃( ども) りの漁夫が線
香とローソクの立っている死体の側のテーブルに
出て行った。
 「僕はお経は知らない。お経をあげて山田君の
霊を慰めてやることは出来ない。しかし僕はよく
考えて、こう思うんです。山田君はどんなに死に
たくなかったべか、とな。イヤ、本当のことをい
えば、どんなに
ヽヽヽヽ
殺されたく
ヽヽヽヽ
なかったか、と。確か
に山田君は殺されたのです。」
 聞いている者たちは、抑えられたように静かに
なった。
 「では、誰が殺したか?  ― ― いわなくたって
分っているべよ!  僕はお経でもって、山田君の
霊を慰めてやることは出来ない。しかし僕らは、
山田君を殺したものの仇( かたき) をとることによ
って、とることによって、山田君を慰めてやるこ
とが出来るのだ。― ― この事を、今こそ、山田君
115
の霊に僕らは誓わなければならないと思う… … 。」
 船員たちだった、一番先きに「そうだ」といっ
たのは。
 蟹の生ッ臭いにおいと人いきれのする「糞壷」
の中に線香のかおりが、香水か何かのように、た
だよった。九時になると、雑夫が帰って行った。
疲れているので、居眠りをしているものは、石の
入った俵( たわら) のようになかなか起き上らなか
った。ちょっとすると、漁夫たちも一人、二人と
眠り込んでしまった。― ― 波が出てきた。船が揺
れるたびに、ローソクの灯が消えそうに細くなり、
またそれが明るくなったりした。死体の顔の上に
かけてある白木綿が除( と) れそうに動いた。ずっ
た。そこだけ見ていると、ゾツとする不気味さを
感じた。― ― サイドに、波が鳴り出した。
次の朝、八時過ぎまで一仕事をしてから、監督
のきめた船員と漁夫だけ四人下へ降りて行った。
お経を前の晩の漁夫に読んでもらってから、四人
の外に、病気のもの三、四人で、麻袋に死体をつ
めた。麻袋は新しいものは沢山あったが、監督は、

直( す)

ぐ海に投げるものに新しいものを使うなん

ヽヽヽヽ
ぜいたくだ、といってきかなかった。線香はも
116
う船には用意がなかった。
 「可哀相なもんだ。― ― これじゃ本当に死にた
くなかったべよ。」
 なかなか曲がらない腕を組合わせながら、涙を
麻袋( あさぶくろ) の中に落した。
 「駄目( だめ) 駄目。涙をかけると… … 。」
 「何んとかして、函館まで持って帰られないも
のかな。… … こら、顔をみれ、カムサツカのしゃ
っこい水さ入りたくねえッていってるんでないか。
― ― 海さ投げられるなんて、頼りねえな… … 。」
「同じ海でもカムサッカだ。冬になれば― ― 九
月過ぎれば、船一艘( ソウ) も居なくなって、凍って
しまう海だで。北の北の端( はず) れの! 」
「ん、ん。」― ― 泣いていた。「それによ、こう
やって袋に入れるッていうのに、たった六、七人
でな。三、四百人もいるのによ! 」
 「俺たち、死んでからも、碌( ろく) な目に合わ
ないんだ… … 。」
 皆は半日でいいから休みにしてくれるように頼
んだが、前の日から蟹の大漁で、許されなかった。
「私事と公事を混同するな。」監督にそういわれ
た。
117
 監督が「糞壷」の天井から顔だけ出して、
 「もういいか。」ときいた。
  仕方がなく彼らは「いい。」といった。
 「じゃ、運ぶんだ。」
 「んでも、船長さんがその前に弔詞( ちょうじ)
を読んでくれることになってるんだよ。」
   「船長オ?  弔詞イ?  ― ― 」嘲( あざ) け
るように、「馬鹿!  そんな悠長( ゆうちょう) な
ことしてれるか。」
 悠長なことはしていられなかった。蟹が甲板に
山積みになって、ゴソゴソ爪で床をならしていた。
 そして、どんどん運び出されて、鮭( さけ) か鱒
( ます) の菰包( こもつづ) みのように無雑作に、船
尾につけてある発動機に積み込まれた。
 「いいか― ― ? 」
 「よォし… … 。」
発動機がバタバタ動き出した。船尾で水が掻( か)
き廻されて、アブクが立った。
 「じゃ… … 。」
 「じゃ。」
 「左様( さよう) なら。」
 「淋( さび) しいけどな― ― 我慢してな。」低い
118
声でいっている。
 「じゃ、頼んだど! 」
 本船から、発動機に乗ったものに頼んだ。
 「ん、ん、分った。」
 発動機は沖の方へ離れて行った。
 「じゃ、な! … … 。」
 「行ってしまった。」
「麻袋の中で、行くのはイヤだ、イヤだってして
るようでな… … 眼に見えるようだ。」
 ― ― 漁夫が漁から帰ってきた。そして監督の
「勝手な」処置をきいた。それを聞くと、怒る前
に、自分が― ― 屍体( したい) になった自分の身体
が、底の暗いカムサッカの海に、そういうように
蹴落( けおと) されでもしたように、ゾッとした。
皆は
ヽヽ
ものもいえず、そのままゾロゾロタラップを
下りて行った。「分った、分った。」口のなかで
ブツブツいいながら、


ヽヽ
ぬれのドッたりした袢天
( はんてん) を脱いだ。
       八
119
 表には何も出さない。気付かれないように手を
ゆるめて行く。監督がどんなに思いっ切り怒鳴り
散らしても、タタキつけて歩いても、口答えもせ
ず「おとなしく」している。それを一日置きに繰
りかえす。( 初めは、おっかなびっくり、おっか
なびっくりでしていたが。) ― ― そういうように
して、「サボ」を続けた。水葬( すいそう) のこと
があってから、モットその足並が揃( そろ) ってき
た。
 仕事の高は眼の前で減って行った。
 中年過ぎた漁夫は、働かされると、一番それが
身にこたえるのに、「サボ」にはイヤな顔を見せ
た。しかし内心( 心配していたことが起らずに、
ヽヽヽ
不思議


ヽヽヽヽヽヽ
ならなかった

が) 、かえって「サボ」が
効( き) いてゆくのを見ると、若い漁夫たちのいう
ように、動きかけてきた。困ったのは、川崎の船
頭だった。彼らは川崎のことでは全責任があり、
監督と平漁夫の間に居り、「漁獲( ぎょかく) 高」
のことでは、すぐ監督に当って来られた。それで
何よりつらかった。結局三分の一だけ「仕方なし
に」漁夫の味方をして、後の三分の二は監督の小
さい「出店」 ― ― その小さい「○ 」だった。
120
 「それア疲れるさ。工場のようにキチン、キチ
ンと仕事がきまってるわけには行かないんだ。相
手は生物( いきもの) だ。蟹が人間様に都合よく、
時間時間に出てきてはくれないしな。仕方がない
んだ。」 ― ― そっくり監督の蓄音機( ちくおん
き) だった。
 こんなことがあった。― ― 糞壷( くそつぼ) で、
寝る前に、何かの話が思いがけなく色々の方へ移
って行った。その時ひょいと、船頭が威張( いば)
ったことをいってしまった。それは別に威張った
ことではないが、「平」漁夫にはムッときた。相
手の平漁夫が、そして、少し酔っていた。
 「何んだって? 」いきなり怒鳴った。「手前
( てめ) え、何んだ。あまり威張ったことをいわね
え方がええんだで。漁に出たとき、俺たち四、五
人でお前( め) えを海の中さ夕タキ落すぐらい朝飯
前だんだ。― ― それッ切りだべよ。カムサッカだ
ど。お前えがどうやって死んだって、誰が分るッ
て! 」
そうはいったものはない。それをガラガラな大
声でどなり立ててしまった。誰も何もいわない。
今まで話していた外のことも、そこでフッ切れて
121
しまった。
しかし、こういうようなことは、調子よく跳
( は) ね上った空元気( からげんき) だけの言葉では
なかった。それは今まで「屈従( くつじゆう)」し
か知らなかった漁夫を、全く思いがけずに背から、
とてつもない力で突きのめした。突きのめされて、
漁夫は初め戸惑( とまど) いをしたようにウロウロ
した。
 それが知られずにいた
ヽヽ
自分



力だ、ということ
を知らずに。
 ― ― そんなことが「
ヽヽヽ
俺たちに」出来るんだろう
か?  しかしなるほど出来るんだ。
 そう分ると、今度は不思議な魅力になって、反
抗的な気持が皆の心に喰い込んで行っしまった。
今まで、
ヽヽ
残酷極まる労働で搾( しぼ) り抜かれてい
た事が、かえってそのためにはこの上ない良い地
盤だった。― ― こうなれば、監督も糞もあったも
のでない!  皆愉快( ゆかい) がった。一亘この気
持をつかむと、不意に、懐中電灯を差しつけられ
たように、自分たちの岨虫( うじむし) そのままの
生活がアリアリと見えてきた。
 「威張んな、この野郎」この言葉が皆の間で流
122
行( はや) り出した。何かすると「威張んな、この
野郎」といった。別なことにでも、すぐそれを使
った。― ― 威張る野郎は、しかし漁夫には一人も
いなかった。
 それと似たことが一度、二度となくある。その
たびごとに漁夫たちは「分って」行った。そして、
それが重なってゆくうちに、そんな事で漁夫らの
中から何時でも表の方へ押し出されてくる、きま
った三、四人が出来てきた。それは誰かが決めた
のでなく、本当はまた、きまったのでもなかった。
ただ、何か起ったりまたしなければならなくなっ
たりすると、その三、四人の意見が皆のと一致し
たし、それで皆もその通り動くようになった。―
― 学生上りが二人ほど、吃( ども) りの漁夫、「威
張んな」の漁夫などがそれだった。
 学生が鉛筆をなめ、なめ、一晩中腹這( はらば)
いになって、紙に何か書いていた。それは学生の
「発案」だった。
123
発案( 責任者の図)
  A         B         C
  |       |         |
二人の学生 ┐  ┌ 雑夫の方一人  国別にし
て、各々そのうちの餓鬼大将を一人ずつ
      │  │ 川崎船の方二人 各川崎船
に二人ずつ
吃りの漁夫 │  │ 水夫の方一人┐
      │ │      │ 水、火夫の諸君
「威張んな」┘  └ 火夫の方一人┘
   A ― ― ― ― → B ― ― ― ― → C → ┌ 全部の

    ← ― ― ― ―  ← ― ― ― ―  ← └ 諸君

学生はどんなもんだいといった。どんな事がA か
124
ら起ろうが、C から起ろうが、電気より早く、ぬ
かりなく「全体の問題」にすることが出来る、と
威張った。それが、そして一通りきめられた。―
― 実際は、それはそう容易( たやす) くは行われ
なかったが。「
ヽヽヽヽヽ
殺されたく
ヽヽ
ない
ヽヽ
もの


ヽヽ
来れ! 」
― ― その学生上りの得意の宣伝語だった。毛利元
就( もうりもとなり) の弓矢を折る話や、内務省か
のポスターで見たことのある「綱引き」の例をも
ってきた。
 「俺たち四、五人いれば、船頭の一人ぐらい海
の中へタタキ落すなんか朝飯前だ。元気を出すん
だ。」
 「一人と一人じゃ駄目だ。危い。だが、あっち
は船長から何からを皆んな入れて十人にならない。
ところがこっちは四百人に近い。四百人が一緒に
なれば、もうこっちのものだ。十人に四百人!
相撲( すもう) になるなら、やってみろ、だ。」そ
して最後に「
ヽヽヽヽヽ
殺されたく
ヽヽ
ない
ヽヽ
もの


ヽヽ
来れ! 」だっ
た。― ― どんな「ボンクラ」でも「飲んだくれ」
でも、自分たちが半殺しにされるような生活をさ
せられていることは分っていたし、( 現に、眼の
前で殺されてしまった仲間のいることも分ってい
125
る。) それに、苦しまぎれにやったチョコチョコ
した「サボ」が案外効き目があったので学生上り
や吃りのいうことも、よく聞き入れられた。
一週間ほど前の大嵐で、発動機船がスクリュウ
を毀( こわ) してしまった。それで修繕のために、
雑夫長が下船して、四、五人の漁夫と表に陸へ行
った。帰ってきたとき、若い漁夫がコッソリ日本
文字で印刷した「赤化宣伝」のパンフレットやビ
ラを沢山( たくさん) 持ってきた。
 「日本人が沢山こういうことをやっているよ。」
といった。― ― 自分たちの賃金( ちんぎん) や、
労働時間の長さのことや、会社のゴッソリした金
儲けのことや、ストライキのことなどが書かれて
いるので、皆は面白がって、お互に読んだり、ワ
ケを聞き合ったりした。しかし、中にはそれに書
いてある文句に、かえって反発( はんぱつ) を感
じて、こんな恐ろしいことなんか「日本人」に出
来るか、というものがいた。が、「俺アこれが本
当だと思うんだが。」と、ビラを持って学生上り
のところへ訊( き) きに来た漁夫もいた。
 「本当だよ、少し話大きいどもな。」
 「んだって、こうでもしなかったら、浅川の性
126
( しょ) ッ骨( ぽね) 直るかな。」と笑った。
「それに、彼奴( あいつ) らからはモットひどい
めに合わされてるから、これで当り前だべよ! 」
 漁夫たちは、飛んでもないものだ、といいなが
ら、その「赤化運動」に好奇心を持ち出していた。
 嵐の時もそうだが、霧が深くなると、川崎船を
呼ぶために、本船では絶え間なしに笛を鳴らした。
巾( はば) 広い牛の啼声( なきごえ) のような汽
笛が、水のように濃くこめた霧の中を一時間も二
時間もなった。― ― しかしそれでも、うまく帰っ
て来れない川崎船があった。ところが、そんな時、
仕事の苦しさからワザと見当を失った振( ふ) り
をして、カムサッカに漂流したものがあった。秘
密に時々あった。ロシアの領海内に入って、漁を
するようになってから、予( あらかじ) め陸に見
当をつけて置くと、案外容易く、その漂流が出来
た。その連中も「赤化」のことを聞いてくるもの
があった。
 ― ― 何時でも会社は漁夫を雇うのに細心の注意
を払った。募集地の村長さんや、署長さんに頼ん
で「模範青年」を連れてくる。労働組合などに関
心のない、いいなりになる労働者を選ぶ。「
127
ヽヽヽ
抜け目
ヽヽ
なく」万事好都合に!  しかし、蟹工船の
「仕事」は、今ではちょうど



に、それらの労働
者を団結― ― 組織させようとしていた。いくら
「抜け目のない」資本家でも、この
ヽヽヽ
不思議


ヽヽ
行方
までには気付いていなかった。それは、皮肉にも、
未組織の労働者、手のつけられない「飲んだくれ」
労働者をワザワザ集めて、団結することを教えて
くれているようなものだった。
     九
監督は周章( あわ) て出した。
漁期の過ぎてゆくその毎年の割に比べて、蟹の
高はハッキリ減っていた。他の船の様子をきいて
みても、昨年よりはもっと成績がいいらしかった。
二千函( ばこ) は遅れている。
― ― 監督は、これまでのように「お釈迦( しゃか)
様」のようにしていたって駄目だ、と思った。
 本船は移動することにした。監督は絶えず無線
電信を盗みきかせ、他の船の網でもかまわずドン
ドン上げさせた。二十海浬( かいり) ほど南下し
128
て、最初に上げた渋網には、蟹がモリモリと網の
目に足をひつかけてかかっていた。たしかに××
丸のものだった。「君のお蔭だ。」と、彼は監督
らしくなく、局長の肩をたたいた。
網を上げている所を見付けられて、発動機が放々
の態( てい) で逃げてくることもあった。他船の
網を手当り次第に上げるようになって、仕事が尻
上りに忙がしくなった。
仕事を少しでも怠( なま) けたと見るときには


ヽヽ
焼きを入れる。
組をなして怠けたものには
ヽヽヽヽヽ
カムサッカ体操をさ
せる。
罰として賃金棒引き、函館へ帰ったら、警察に
引き渡す。
いやしくも監督に対し、少しの反抗を示すとき

ヽヽ
銃殺されるものと思うべし。
 
浅川監督
 
雑 夫 長
 この大きなビラが工場の降り口に貼( は) られ
129
た。監督は弾をつめッ放しにしたピストルを始終
持っていた。飛んでもない時に、皆の仕事をして
いる頭の上で、鴎( かもめ) や船の何処かに見当
をつけて、「示威運動」のように打った。ギョッ
とする漁夫を見て、ニヤニヤ笑った。それは全く
何かの拍子に「本当に」打ち殺されそうな不気味
な感じを皆にひらめかした。
 水夫、火夫も完全に動員された。勝手に使いま
わされた。船長はそれに対して一言もいえなかっ
た。船長は「看板」になってさえいれば、それで
立派な一役だった。前にあったことだった。領海
内に入って漁をするために、船を入れるように船
長が強要された。船長は船長としての




ヽヽ
立場
ヽヽ
から、それを犯すことは出来ないと頑張( がんば
った。
 「勝手にしやがれ-」ぬ「頼まないや! 」とい
って、監督らが自分たちで、船を領海内に転錨
( てんびょう) さしてしまった。ところが、それが
露国の監視船に見付けられて、追跡された。そし
て訊問( じんもん) になり、自分がしどろもどろ
になると、「卑怯( ひきょう) 」にも退却してし
まった。「そういう一切のことは、船としては勿
130
論( もちろん) 船長がお答えすべきですから…
… 。」無理矢理に押しつけてしまった。全く、こ
の看板は、だから必要だった。それだけでよかっ
た。
 そのことがあってから、船長は船を函館に帰そ
うと何遍も思った。が、それをそうさせない力が
― ― 資本家の力が、やっぱり船長をつかんでいた。
 「この船全体が会社のものなんだ、分ったか! 」
ゥァハハハハハハと、口を三角にゆがめて、背の
びするように、無遠慮に大きく笑った。「糞壷」
に帰ってくると、吃( ども) りの漁夫は仰向けに
でんぐり返った。残念で、残念で、たまらなかっ
た。漁夫たちは、彼や学生などの方を気の毒そう
に見るが、何もいえないほどぐッしゃりつぶされ
てしまっていた。学生の作った組織も反古( ほご)
のように、役に立たなかった。― ― それでも学生
は割合に元気を保っていた。
 「何かあったら跳( は) ね起きるんだ。その代り、
その



かをうまくつかむことだ。」といった。
 「これでも跳ね起きられるかな。」― ― 威張ん
なの漁夫だった。
 「かな― ― ?  馬鹿。こっちは人数が多いんだ。
131
恐れることはないさ。それに彼奴( あいつ) らが
無茶なことをすればするほど、今のうちこそ内へ、
内へとこもっているが、火薬よりも強い不平と不
満が皆の心の中に、つまりにいいだけつまってい
るんだ。― ― 俺はそいつを頼りにしているんだ。」
「道具立てはいいな。」威張んなは「糞壷」の
中をグルグル見廻して、
「そんな奴らがいるかな。どれも、これも… …
… 。」
愚痴( ぐち) ッぽくいった。

ヽヽ
俺達
ヽヽ
から愚痴ッぽかったら― ― もう、最後だ
よ」
 「見れ、お前えだけだ、元気のええのア。― ―
今度事件起してみれ、生命( いのち) がけだ。」
 学生は暗い顔をした。「そうさ… … 。」といっ
た。
 監督は手下を連れて、夜三回まわってきた。三、
四人固っていると、怒鳴りつけた。
 それでも、まだ足りなく、秘密に自分の手下を
「糞壷」に寝らせた。
 ― ― 「鎖」が、ただ眼に見えないだけの違いだ
った。皆の足は歩くときには、吋( インチ) 太( ぶ
132
と) の鎖を現実に後に引きずッているように重か
った。
 「俺ア、キット殺されるべよ。」
 「ん。んでも、どうせ殺されるッて分ったら、
その時アやるよ。」
  芝浦の漁夫が、「馬鹿! 」と、横から怒鳴り
つけた。「殺されるッて分ったら?  馬鹿ア、何
時( いつ) だ、それア。― - 今、殺されているん
でねえか。小刻みによ。彼奴らはな、上手なんだ。
ビストルは今にもうつように、何時でも持ってい
るが、なかなかそんな



マはしないんだ。
 あれァ「手」なんだ。― ― 分るか。彼奴らは、
俺たちを殺せば、自分らの方で損するんだ。目的
は― ― 本当の目的は、俺たちをウンと働かせて、
締木( しめぎ) にかけて、ギイギイ搾( しぼ) り
上げてしこたま儲けることなんだ。そいつを今俺
たちは毎日やられてるんだ。― ― どうだ、この滅
茶苦茶( めちゃくちゃ) は。まるで蚕( かいこ) に
食われている桑( くわ) の葉のように、俺たちの
身体が殺されているんだ。」
 「んだな! 」
 「んだな、も糞( くそ) もあるもんか。」厚い
133
掌( てのひら) に、煙草( たばこ) の火を転がし
た。「ま、待ってくれ、今に、畜生! 」
 あまり南下して、身体( がら) の小さい女蟹ば
かり多くなったので、場所を北の方へ移動するこ
とになった。それで皆は残業をさせられて、少し
早目に( 久し振りに! ) 仕事が終った。
 皆が「糞壷」に降りて来た。
 「元気がねえな。」芝浦だった。
 「こら、足ば見てけれや。ガク、ガクッつて、
段ば降りれなくなったで。」
 「気の毒だ。それでもまだ一生懸命働いてやろ
ッてんだから。」
 「誰が!  ― ― 仕方ねえんだべよ。」
  芝浦が笑った。「殺される時も、
ヽヽ
仕方


ヽヽ
ねえ

か。」
 「… … … … … … 。」
 「まあ、このまま行けば、お前ここ四、五日だ
な。」
 相手は拍子に、イヤな顔をして、黄色ッぼくム
クンだ片方の頬( ほほ) と眼蓋( まぶた) をゆが
めた。そして、だまって自分の棚のところへ行く
と、端へ膝( ひざ) から下の足をプラ下げて、関
134
節を掌刀( てがたな) でたたいた。
 ― ― 下で、芝浦が手を振りながら、しゃべって
いた。吃りが、身体をゆすりながら、相槌( あい
づち) を打った。
 「… … いいか、まァ仮りに金持が金を出して作
ったから、船があるとしてもいいさ。水夫と火夫
がいなかったら動くか。蟹が海の底に何億ってい
るさ。仮りにだ、色々な仕度( したく) をして、
ここまで出掛けてくるのに、金持が金を出せたか
らとしてもいいさ。俺たちが働かなかったら、一
匹の蟹だって、金持の懐( ふところ) に入って行
くか。いいか、俺たちがこの一夏ここで働いて、
それで一体どのぐらい金が入ってくる。ところが、
金持はこの船一艘( そう) で純手取り四、五十万
円ッて金をせしめるんだ。― ― さあ、んだら、
ヽヽ
その




ヽヽ
出所

だ。
 無から有は生ぜじだ。― ― 分るか。なア、皆ん
な俺たちの力さ。― ― んだから、そう今にもお陀
仏( だぶつ) するような不景気な面( つら) してる
なっていうんだ。うんと威張るんだ。底の底のこ
とになれば、うそでない、あっちの方が俺たちを
おッかながってるんだ、ビクビクすんな。
135
 水夫と火夫がいなかったら、船は動かないんだ。
― ― 労働者が働かねば、ビタ一文だって、金持の
懐にゃ入らないんだ。さっきいった船を買ったり、
道具を用意したり、仕度をする金も、やっぱり他
の労働者が血をしぼって、儲けさせてやった― ―
俺たちからしばり取って行きやがった金なんだ。
― ― 金持と俺たちとは親と子なんだ… … 。」
 監督が入ってきた。
 皆ドマついた恰好( かっこう) で、ゴソゴソし
出した。
      十
空気が硝子( ガラス) のように冷たくて、塵
( ちり) 一本なく澄んでいた。― ― 二時で、もう夜
が明けていた。カムサッカの連峰が金紫色に輝い
て、海から二、三寸ぐらいの高さで、地平線を南
に長く走っていた。小波( さざなみ) が立って、
その一つ一つつの面が、朝日を一つ一つうけて、
夜明けらしく、寒々と光っていた。― ― それが入
り乱れて砕( くだ) け、入り交れて砕ける。その
136
度にキラキラ、と光った。鴎( かもめ) の囁声
( ささやきごえ) が( 何処にいるのか分らずに、)
声だけしていた。
 ― ― さわやかに、寒かった。荷物にかけてある、
油のにじんだズックのカヴァが時々ハタハタとな
った。分らないうちに、風が出てきていた。
袢天( はんてん) の袖に、
ヽヽヽ
カガシのように手を
通しながら、漁夫が段々を上ってきて、ハッチか
ら首を出した。首を出したまま、はじかれたよう
に叫んだ。
「あ、兎( うさぎ) が飛んでる。これァ大暴風
( しけ) になるな。」
三角波が立ってきていた。カムサッカの海に慣
れている漁夫には、それが直( す) ぐ分る。
 「危ねえ、今日休みだべ。」
 一時間ほどしてからだった。
 川崎船を降ろすウインチの下で、そこ、ここ七、
八人ずつ漁夫が固まっていた。川崎船はどれも半
降ろしになったまま、途中で揺れていた。肩をゆ
すりながら海を見て、お互いい合っている。
ちょっとした。
 「やめたやめた! 」
137
 「糞( くそ) でも喰( くら) え、だ! 」
 誰かキッカケにそういうのを、皆は待っていた
ようだった。
 肩を押し合って、「おい、引き上げるべ! 」と
いった。
 「ん。」
 「ん、ん! 」
 一人がしかめた眼差( まなざし) で、ウインチ
を見上げて「しかしな… … 。」と躊躇( ため) らっ
ている。
 行きかけたのが、自分の片肩をグイとしやくつ
て、「死にたかったら、独( ひと) りで行( え)
げよ! 」と、ハキ出した。
皆は固って歩き出した。誰か「本当にいいか
な。」と、小声でいっていた。二人ほど、あやふ
やに、遅れた。
次のウインチの下にも船夫たちは立ちどまった
ままでいた。彼らは第二号川崎の連中が、こっち
に歩いてくるのを見ると、その意味が分った。四、
五人が声をあげて手を振った。
 「やめだ、やめだ! 」
 「ん、やめだー」
138
 その二つが合わさると、元気が出てきた。どう
しようか分らないでいる遅れた二三人は、まぶし
そうに、こつちを見て、立ち止っていた。皆が第
五川崎のところで、また一緒になった。それらを
見ると、遅れたものはブツブツいいながら後から、
歩き出した。
 吃りの漁夫が振りかえって、大声で呼んだ。
「しっかりせッ」
 雪だるまのように、漁夫たちの
ヽヽヽヽ
かたまりがコブ
をつけて、大きくなって行った。皆の前や後を、
学生や吃りが行ったり、来たり、しきりなしに走
っていた。「いいか、はぐれないことだど!  何
よりそれだ。もう、大丈夫だ。もう― ― ! 」
 煙筒の側に、車座に坐って、ロープの繕( つく
ろ) いをやっていた水夫が、のび上って、
 「どうした。オ― ― イ? 」と怒鳴った。
皆はその方へ手を振りあげて、ワァーッと叫ん
だ。上から見下している水夫たちには、それが林
のように揺れて見えた。
 「よオし、さ、仕事なんてやめるんだ! 」
 ロープをさっさと片付け始めた。「待ってたん
だ! 」
139
 そのことが漁夫たちの方にも分った。二度、ワ
アーッと叫んだ。
 「まず糞壷( くそつぼ) さ引きあげるべ。そう
するべ。― ― 非道( ひで) え奴だ。ちゃんと大暴風
( しけ) になること分っていて、それで船を出さ
せるんだからな。一― 人殺しだべ! 」
 「あったら奴に殺されて、たまるけア! 」
 「今度こそ、覚えてれ! 」
殆んど一人も残さないで、糞壷へ引きあげてき
た。中には「仕方なしに」随( つ) いて来たもの
もいるにはいた。
 ― ― 皆のドカドカッと入り込んできたのに、薄
暗いところに寝ていた病人が、吃驚( びっくり) し
て板のような上半身を起した。ワケを話してやる
と、見る見る眼に涙をにじませて何度も、何度も
頭を振ってうなずいた。
 吃りの漁夫と学生が、機関室の縄梯子( なわば
しご) のようなタラップを下りて行った。急いで
いた。慣れていないので、何度も足をすべらして、
危く、手で吊( つり) 下った。中はボイラーの熱で
ムンとして、それに暗かった。彼らはすぐ身体中
汗まみれになった。汽缶( かま) の上のストーヴ
140
のロストルのような上を渡って、またタラップを
下った。下で何か声高( こわだか) にしゃべって
いるのが、ガン、ガーンと反響していた。― ― 地
下何百尺という地獄のような竪坑( たてこう) を
初めて下りて行くような不気味さを感じた。
 「これも
ヽヽヽ
つれえ仕事だな。」
 「んよ、それにまた、か、甲板さ引っばり出さ
れて、か、蟹たたきでも、さ、されたら、たまっ
たもんでねえさ。」
 「大丈夫、火夫も俺たちの方だ! 」
 「ん、大丈― ― 夫! 」
 ボイラーの腹を、タラップで下りていた。
 「熱い、熱い、たまんねえな。人間の燻製( く
んせい) が出来そうだ。」
 「冗談じゃねえど。今火たいていねえ時で、こ
んだんだど。燃( た) いてる時なんて! 」
 「んか、な。んだべな。」
 「印度( インド) の海渡る時ア、三十分交代で、
それでヘナヘナになるんだとよ。ウッカリ文句を
ぬかした一機が、シャベルでたたきのめされて、
あげくの果て、ボイラーに燃かれてしまうことが
あるんだとよ。― ― そうでもしたくなるべよ! 」
141
「んな… … 」
 汽缶( かま) の前では、石炭カスが引き出され
て、それに水でもかけたらしく、濠々( もうもう)
と灰が立ちのぼっていた。その側で、半分裸の火
夫たちが、煙草をくわえながら、膝( ひざ) を抱
えて話していた。薄暗い中で、それはゴリラがう
ずくまっているのと、そっくりに見えた。石炭庫
の口が半開きになって、ひんやりした真暗な内を、
不気味に覗( のぞ) かせていた。
 「おい。」吃りが声をかけた。
 「誰だ? 」上を見上げた。― ― それが「誰だ―
― 誰だ、― ― 誰だ」と三つぐらいに響きかえって
行く。
 そこへ二人が降りて行った。二人だということ
が分ると、
 「間違ったんでねえか、道を。」と、一人が大
声をたてた。
 「ストライキやったんだ。」
 「
ヽヽヽ
ストキがどうしたって? 」
 「ストキでねえ、ストライキだ。」
 「やったか! 」
 「そうか。このまま、どんどん火でもブツ燃
142
( た) いて、函館さ帰ったらどうだ。面白いど。」
吃りは「しめた! 」と思った。
 「んで、皆勢揃( せいぞろ) えした所で、畜生
らにねじ込もうッていうんだ。」
 「やれ、やれ! 」
 「やれやれじゃねえ。やろう、やろうだ。」
学生が口を入れた。           、
 「んか、んか、これア悪かった。― ― やろうや
ろう! 」火夫が石炭の灰で白くなっている頭をか
いた。
 皆笑った。
「お前たちの方、お前たちですっかり一纏( まと)
めにしてもらいたいんだ。」
 「ん、分った。大丈夫だ。何時でも一つぐれえ、
プンなぐってやりてえと思ってる連中ばかりだか
ら。」
 ― ― 火夫の方はそれでよかった。
 雑夫たちは全部漁夫のところに連れ込まれた。
一時間ほどするうちに、火夫と水夫も加わってき
た。皆甲板に集った。「要求条項」は、吃り、学
生、芝浦、




ヽヽ
んなが集ってきめた。それを皆の
面前で、彼らにつきつけることにした。
143
 監督たちは、漁夫らが騒ぎ出したのを知ると―
― それからちっとも姿を見せなかった。
「おかしいな。」
 「これア、おかしい。」
 「ピストル持ってたって、こうなったら駄目だ
べよ。」
 吃りの漁夫が、ちょっと高いところに上った。
皆は手を拍( たた) いた。
 「諸君、とうとう来た!  長い間、長い間俺た
ちは待っていた。俺たちは半殺しにされながらも、
待っていた。今に見ろ、と。しかし、とうとう来
た。
 「諸君、まず第一に、俺たちは力を合わせるこ
とだ。俺たちは何があろうと、仲間を裏切らない
ことだ。これだけさえ、しつかりつかんでいれば、
彼奴( あいつ) ら如きを
ヽヽ
モミつぶすは虫
ヽヽ
ケラより
容易( たやす) いことだ。― ― そんならば、第二
には何か。諸君、第二にも力を合わせることだ。
落伍者を一人も出さないということだ。一人の裏
切者、一人の寝がえり者を出さないということだ。
たった一人の寝がえりものは、三百人の命を殺す
という事を知らなければならない。一人の寝がえ
144
り… … ( 「分った、分った。」「大丈夫だ。」
「心配しないで、やってくれ。」)
「俺たちの交渉が彼奴らを夕タキのめせるか、そ
の職分を完全につくせるかどうかは、一に諸君の
ヽヽ
団結



力に依るのだ。」
 続いて、火夫の代表が立ち、水夫の代表が立っ
た。火夫の代表は、普段一度もいったこともない
言葉をしゃべり出して、自分でどまついてしまっ
た。つまるたびに赤くなり、ナッパ服の裾( すそ)
を引張ってみたり、すり切れた穴( あな) のとこ
ろに手を入れてみたり、ソワソワした。皆はそれ
に気付くとデッキを足踏( あしぶ) みして笑った。
 「… … 俺アもうやめる。しかし、諸君、彼奴ら
はブンなぐってしまうべよ! 」こういって、壇を
下りた。
 ワザと、皆が大げさに拍手した。
 「そこだけでよかったんだ。」後で誰かひやか
した。それで皆は一度にワッと笑い出してしまっ
た。
 火夫は、夏の真最中に、ボイラーの柄( え) の
長いシャベルを使うときよりも、汗をびっしょり
かいて、足元さえ頼りなくなっていた。降りて来
145
たとき、「俺何しゃべったかな? 」と仲間にきい
た。学生が肩をたたいて、「いい、いい。」とい
って笑った。
 「お前ぇだ、悪いのァ。別にいたのによ、俺で
なくたって… … 。」
 「皆さん、私たちは今日の来るのを待っていた
んです。」 ― ― 壇には十五、六歳の雑夫が立っ
ていた。「皆さんも知っている、私たちの友達が
この工船の中で、どんなに苦しめられ、半殺しに
されたか。夜になって薄ッベらい布団に包まって
から、家のことを思い出して、よく私たちは泣き
ました。ここに集っているどの雑夫にも聞いてみ
て下さい。一晩だって泣かない人はいないのです。
そしてまた一人だって、身体に生キズのないもの
はいないのです。もう、こんな事が三日も続けば、
キット死んでしまう人もいます。
 ― ― ちょっとでも金のある家( うち) ならば、
まだ学校に行けて、無邪気にすすむん遊んでいれ
る年頃の私たちは、こんなに遠く… … ( 声がかす
れる。吃り出す。抑( おさ) えられたように静か
になった。) しかし、もういいんです。大丈夫で
す。大人の人に助けて貰って、私たちは憎い憎い、
146
彼奴( あいつ) らに仕返えししてやることが出来
るのです… … 。」
 それは嵐のような拍手を惹( ひ) き起した。手を
夢中にたたきながら、眼尻を太い指先きで、ソツ
と拭っている中年過ぎた漁夫がいた。
学生や、吃りは、皆の名前をかいた誓約書を廻
して、捺印( なついん) を貰って歩いた。
  学生二人、吃り、威張んな、芝浦、火夫三名、
水夫三名が、「要求条項」と「誓約書」を持って、
船長室に出掛けること、その時には表で示威運動
をすることが決った。― ― 陸の場合のように、住
所がチリチリバラバラになっていないこと、それ
に下地が充分にあったことが、スラスラと運ばせ
た。
ヽヽ
ウソのように、スラスラ纏( まとま) った。
 「おかしいな、何んだって、あの鬼顔出さない
んだべ。」
 「
ヽヽヽ
やっきになって、得意のピストルでも打つか
と思ってたどもな。」
 三百人は吃りの音頭( おんど) で、一斉に「ス
トライキ万歳」を三度叫んだ。学生が「監督の野
郎、この声聞いて震えてるだろう! 」と笑った。
― ― 船長室へ押しかけた。
147
 監督は片手にピストルを持ったまま、代表を迎
えた。
 船長、雑夫長、工場代表… … などが、今までた
しかに何か相談をしていたらしいことがハッキリ
分るそのままの恰好で、迎えた。監督は落付いて
いた。
 入ってゆくと、
「やったな。」とニヤニヤ笑った。
 外では、三百人が重なり合って、大声をあげ、
ドタ、ドタ足踏みをしていた。監督は「うるさい
奴だ! 」とひくい声でいった。が、それらには気
にもかけない様子だった代表が興奮していうのを
一通りきいてから、「要求条項」と、三百人の
「誓約書」を形式的にチラチラ見ると、「後悔し
ないか。」と、拍子抜けのするほど、ゆっくりい
った。
 「馬鹿野郎ッ! 」と吃りがいきなり監督の鼻ッ
面を殴りつけるように怒鳴った。
 「そうかい。後悔しないんだな。」
 そういって、それからちょっと調子をかえた。
「じゃ、聞け。いいか。明日の朝にならないうち
に、
ヽヽヽ
色よい
ヽヽ
返事をしてやるから。」 ― ― だが、
148
いうより早かった、芝浦が監督のピストルを夕タ
キ落すと、拳骨( げんこつ) で頬( ほお) をなぐり
つけた。監督がハッと思って、顔を押えた瞬間、
吃りが
ヽヽヽ
キノコのような円椅子で横なぐりに足をさ
らった。監督の身体はテーブルに引っかかって、
他愛なく横倒れになった。その上に四本の足を空
にして、テーブルがひっくりかえって行った。
 「色よい返事だ?  この野郎、フザけるな!
生命にかけての問題だんだ! 」
 芝浦は巾( はば) の広い肩をけわしく動かした。
水夫、火夫、学生が二人をとめた。船長室の窓が
凄( すご) い昔を立てて壊( こわ) れた。その瞬
間、「殺しちまい! 」「打( ぶ) ッ殺せ! 」「のせ!
 のしちまえ! 」外からの叫び声が急に大きくな
って、ハッキリ聞えてきた。― ― 何時の間にか、
船長や雑夫長や工場代表が室の片隅の方へ固まり
合って棒杭のようにつッ立っていた。顔の色がな
かった。
 ドアーを壊して、漁夫や、水、火夫が雪崩( な
だ) れ込んできた。
 昼過ぎから、海は大嵐になった。そして夕方近
くになって、だんだん静かになった。
149
 「監督をたたきのめす! 」そんなことがどうし
て出来るもんか、そう思っていた。ところが!
自分たちの「手」でそれをやってのけたのだ。普
段( ふだん) おどかし看板にしていたピストルさ
え打てなかったではないか。皆はウキウキと噪
( はしゃ) いでいた。― ― 代表たちは頭を集めて、
これからの色々な対策を相談した。「色よい返事」
が来なかったら、「覚えてろ! 」と思った。
 薄暗くなった頃だった。ハッチの人口で、見張
りをしていた漁夫が、駆逐艦がやってきたのを見
た。― ― 周章( あわ) てて「糞壷」に馳( か) け込ん
だ。
 「しまったッ! ! 」学生の一人がバネのように
はね上った。見る見る顔の色が変った。
 「感違いするなよ。」吃りが笑い出した。「こ
の、俺たちの状態や立場、それに要求などを、士
官たちに詳( くわ) しく説明して援助をうけたら、
かえってこのストライキは有利に解決がつく。分
りきったことだ。」
 外のものも、「それアそうだ。」と同意した。
 「我帝国の軍艦だ。俺たち国民の味方だろう。」
 「いや、いや… ‥ 」学生は手を振った。よほど
150
のショックを受けたらしく、唇を震( ふる) わせて
いる。言葉が吃( ども) った。
 「国民の味方だって?  … … いやいや… … 。」
 「馬鹿な! ― ―
ヽヽ
国民


ヽヽ
味方


ヽヽ
ない
ヽヽ
帝国


ヽヽ
軍艦、
そんな理窟なんてあるはずがあるか! ? 」
 「駆逐艦が来た! 」「駆逐艦が来た! 」という
興奮が学生の言葉を無理矢理にもみ潰( つぶ) して
しまった。
 皆はドヤドヤと「糞壷」から甲板にかけ上った。
そして声を揃( そろ) えていきなり、「帝国軍艦
万歳」を叫んだ。
 タラップの昇降口には、顔と手にホ一夕イをし
た監督や船長と
ヽヽヽヽヽ
向い合って、吃り、芝浦、威張ん
な、学生、水、火夫らが立った。薄暗いので、ハ
ッキリ分らなかったが、駆逐艦からは三艘( そう)
汽艇が出た。それが横付けになった。十五、六人
の水兵が一杯つまっていた。それが一度にタラッ
プを上ってきた。
 呀( あ) ッ!  着剣( つけけん) をしているでは
ないか!  そして帽子の顎紐( あごひも) をかけて
いる!
 「しまった! 」そう心の中で叫んだのは、吃り
151
だった。
 次の汽艇からも十五、六人。その次の汽艇から
も、やっぱり銃の先きに、着剣した、顎紐をかけ
た水兵!  それらは海賊船にでも躍( おど) り込
むように、ドカドカッと上ってくると、漁夫や水、
火夫を取り囲んでしまった。
 「しまった!  畜生やりやがったな! 」
 芝浦も、水、火夫の代表も初めて叫んだ。
 「ざま、見やがれ! 」 ― ― 監督だった。スト
ライキになってからの、監督の不思議な態度が初
めて分った。だが、遅かった。
 「有無」をいわせない。「不屈者( ふとどきも
の)」「不忠者」「露助の真似する売国奴」そう
罵倒( ばとう) されて代表の九人が銃剣を擬( ぎ)
されたまま、駆逐艦に護送されてしまった。それ

ヽヽ
ワケが分らず、ぼんやり見とれている、その短
い間だった。全く有無をいわせなかった。― ― 一
枚の新聞紙が燃えてしまうのを見ているより、他
愛なかった。
 ― ― 簡単に「片付いてしまった」。
 「俺たちには、俺たちしか、味方が無( ね) え
んだな。始めて分った。」
152
 「帝国軍艦だなんて、大きな事をいったって大
金持の
ヽヽ
手先でねえか、国民の味方? おかしいや、
糞喰( くそくら) えだ! 」
 水兵たちは万一を考えて、三日船にいた。その
間中、上官連は、毎晩サロンで、監督たちと一緒
に酔払っていた。― ― 「そんなものさ。」
 いくら漁夫たちでも、今度という今度こそ、
「誰が敵」であるか、そしてそれらが(
ヽヽ
全く
ヽヽ
意外



も! ) どういう風に、お互が繋( つなが) り合
っているか、ということが身をもって知らされた。
 毎年の例で、漁期が終りそうになると、蟹缶詰
の「
ヽヽヽ
献上品」を作ることになっていた。
しかし「乱暴にも」何時でも、別に斎戒沐浴
( さいかいもくよく) して作るわけでもなかった。
そのたびに、漁夫たちは監督をひどい事をするも
のだ、と思って来た。― ― だが、今度は異( ちが)
ってしまっていた。
「俺たちの本当の血と肉を搾( しぼ) り上げて
作るものだ。フン、さぞうめえこったろ。食って
しまってから、腹痛でも起さねばいいさ。」
 皆そんな気持で作った。
「石



ろでも入れておけ!  ― ― かまうもん
153
か! 」
「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」
 それは今では、皆の心の底の方へ、底の方へ、
と深く入り込んで行った。― ― 「今に 見ろ! 」
 しかし「今に見ろ」を百遍( ひゃっぺん) 繰
( く) りかえして、それが何になるか。― ― スト
ライキが惨( みじ) めに敗れてから、仕事は「畜
生、思い知ったか」とばかりに、過酷になった。
それは今までの過酷にもう一つ更に加えられた監
督の復仇的( ふっきゅうてき) な過酷さだった。
ヽヽ
限度というものの一番極端を越えていた。― ― 今
ではもう
ヽヽヽヽ
堪え難いところまで行っていた。
 「― ― 間違っていた。ああやって、九人なら九
人という人間を、表に出すんでなかった。まるで、
俺たちの急所はここだ、と知らせてやっているよ
うなものではないか。俺たち全部は、全部が一緒
になったという風にやらなければならなかったの
だ。そしたら監督だって、駆逐艦に無電は打てな
かったろう。まさか、
ヽヽヽ
俺たち
ヽヽ
全部を引き渡してし
まうなんて事、出来ないからな。仕事が、出来な
くなるもの。」
 「そうだな。」
154
「そうだよ。今度こそ、このまま仕事していた
んじゃ、俺たち
ヽヽ
本当に殺れるよ。犠牲者( ぎせい
しゃ) を出さないように全部で、一緒にサボルこ
とだ。この前と同じ手で。吃りがいったでないか、
何より力を合わせることだって。それに力を合わ
せたらどんなことが出来たか、ということも分っ
ているはずだ。」
 「それでもし駆逐艦を呼んだら、皆でこの時こ
そ力を合わせて、一人も残らず引渡されよう!
その方がかえって助かるんだ。」
 「んかも知らない。しかし考えてみれば、そん
なことになったら、監督が第一周章( あわ) てるよ、
会社の手前。代りを函館から取り寄せるのには遅
すぎるし、出来高だって問題にならないほど少い
し。… … うまくやったら、これア案外大丈夫だ
ど。」
 「大丈夫だよ。それに不思議に誰だって、ビク
ビクしていないしな。皆、畜生ッて気でいる。」
「本当のこといえば、そんな




ヽヽ
成算なんて、ど
うでもいいんだ。― - 死ぬか、生きるか、だから
な。」
「ん、もう一回だ! 」
155
そして、彼らは、立ち上った。― ―
ヽヽヽヽ
もう一度!
  附  記
 この後のことについて、二、三附け加えて置こ
う。
イ、二度目の、完全な「サボ」は、マンマと成功
したということ。「まさか」と思っていた、面喰
( くら) った監督は、夢中になって無電室にかけ
込んだが、ドアーの前で立ち往生してしまったこ
と、どうしていいか分らなくなって。
ロ、漁期が終って、函館へ帰港したとき、「サボ」
をやったりストライキをやった船は、博光丸だけ
ではなかったこと。二、三の船から「赤化宣伝」
のパンフレットが出たこと。
ハ、それから監督や雑夫長らが、漁期中にストラ
イキの如き不祥事を惹起( ひきおこ) させ、製品
高に多大の影響を与えたという理由のもとに、会
社があの忠実な犬を「無慈悲」に涙銭一文くれず、
( 漁夫たちよりも惨めに 首を切ってしまったと
いうこと。面白いことは、「あ― ― あ、口惜( く
や) しかった!  俺ア今まで、畜生、だまされて
156
いた! 」と、あの監督が叫んだということ。そし
て、「組織」「闘争」― ― この初めて知った偉大
な経験を担( にな) って、漁夫、年若い雑夫らが、
警察の門から色々な労働の層へ、それぞれ入り込
んで行ったということ。
 ― ― この一篇は、「殖民地に於ける資本主義侵
入史」の一頁である。
 
( 一九二九・三・三〇)
※ 本文は『小林多喜二全集』第二巻( 新日本出版
社 1982 年) を底本に、一部表記を改めました。ま
た、現在では不適切な表現もあるものの、歴史的
な表現として採用していることをおことわりいた
します。
157
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