福沢諭吉の恐るべき正体を徹底解説する 諭吉は侵略差別主義者だった

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「福沢諭吉の正体」-① .     2014-08-12

 福沢諭吉といえば、日本の近代化に多大な功績を残した人物であるというのが一般的な理解である。一万円札の肖像画にも用いられており、日本だけでなく世界においても、日本人として最も名の通った人物だ。
 人物のプロフィールとして、広辞苑は次のように簡潔にまとめている。
「福沢諭吉。思想家.教育家。豊前中津藩の大坂蔵屋敷で生れる。緒方洪庵に蘭学を学び、江戸に蘭学塾を開き、また英学を研修。幕府使節に随行し三回欧米に渡る。1868年(慶応四)塾を慶應義塾と命名。明六社にも参加。82年(明治一五)「時事新報」を創刊。独立自尊と実学を鼓吹。のち脱亜入欧・官民調和を唱える。著「西洋事情」「世界国尽」「学問のすすめ」「文明論の概略」「脱亜論」「福翁自伝」など。(1834-1901)」

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」-このフレーズは、『学問のすすめ』の冒頭を飾る、あまりにも有名な言葉である。学校教育の場において、子供の時から福沢諭吉の言葉としてたたき込まれてきたものだ。
 白潟小学校4年生の社会科の学習。恩師柿丸賢吉先生(「冤罪を創る人々ー096 原体験への回帰」参照)から、「五箇条の誓文(ごかじょうのせいもん)」と共に、明治維新の中核的な思想としてクラス全員が暗記させられた。今から60年以上も前のことだ。
 「天は人の上に…」の文句は短くて覚え易いものであったが、「五箇条の誓文」にいたっては言葉が難しい上に五つもフレーズが連っているために、暗記をするのに難渋した。

一つ、広ク会議ヲ興(おこ)シ万機公論ニ決スヘシ。
二つ、上下(しょうか)心ヲ一ニシテ盛(さかん)ニ経綸(けいりん)ヲ行フヘシ。
三つ、官武(かんぶ)一途(いっと)庶民ニ至ル迄(まで)其(その)志(こころざし)ヲ
   遂(と)ケ人心ヲシテ倦(う)マサラシメン事ヲ要ス。
四つ、旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ。
五つ、智識ヲ世界ニ求メ大(おおい)ニ皇基(こうき)ヲ振起(しんき)スヘシ。

 今改めて書き出してみると難解な言葉のオンパレードである。意味は後からついてくる、とにかく丸暗記せよ、これが柿丸先生の厳命であった。
 クラス全員が暗記するまでに10日以上もかかったのではないか。一人一人立ち上って暗唱させられ、うまく言えなければ家に帰してもらえなかったのである。
 私は生まれつき記憶力がさほどいいほうではない。そのためか、暗記は大の苦手であった。
 ところが、やっとの思いで「五箇条の誓文」を暗記したおかげで、苦手意識がなくなってしまった。コツさえ覚えれば記憶力には関係なく、誰でも簡単に暗記できることが分かったのである。覚えようとして意識を集中させるだけでいい。暗記術の発見だ。この発見は、その後の私の人生において、どれだけ役に立ったのか図り知れない。柿丸先生に感謝すること頻(しき)りである。

 日本が近代化の道を歩み始めたとされるのが1868年。慶応4年であり、明治元年だ。250年続いた徳川幕府が崩壊し、日本は西欧並みの近代国家の仲間入りを果した。暗黒の封建時代が終わりを告げ、輝かしい近代社会の幕が明けたのである。明治のご一新、明治維新であり、文明開化である。
 これが、日本における明治維新に対する一般的な理解、つまり歴史認識だ。私も最近に至るまで、さしたる疑いを抱くこともなく、当然のことのように以上のような歴史認識を受け入れてきたのは事実である。
 堰(せき)を切ったように流れ込んできた西欧の文物、中でも西欧流の風習とか学問は、古来から日本にあったものに比較して、当然のことのように一段と秀れたものと見なされた。一方で、古来から受け継がれてきた多くのものが、文明開化を阻害する“旧来の陋習”として排斥されたのである。
 歌麿、北斎などの浮世絵とか、今では国宝クラスの書画、工芸品、仏像が反古(ほご)同然の評価で売買されたり、タダ同然で取引され、そのほとんどが海外に流出していった。西欧の人達はその芸術的価値をしっかりと見抜いていたのである。
 レンガ造りの建物、ザンギリ頭と洋装。西欧のモノマネの最たるものは、鹿鳴館だ。欧化政策の象徴となったものであるが、当の西欧の人達からは滑稽な猿マネと揶揄(やゆ)され、マンガの恰好の題材となった。
 学問についても同様だ。西欧の学問のごく一部、しかも内容的に初歩的かつ皮相的なものが、あたかも絶対の真理であるかのように喧伝(けんでん)され持ち込まれた。学問ならぬ、学問もどきである。
 このような怪しげな学問の旗振り役を演じた中心人物こそ福沢諭吉であった。
(この項つづく)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”男湯に女性が来ても咎(とが)めない” -富里、石橋 勤
(毎日新聞、平成26年7月31日付、仲畑流万能川柳より)

(もともと日本には混浴文化の伝統が。咎めるどころか老若問わず歓迎です。)

「福沢諭吉の正体」-② .     2014-08-19

 福沢諭吉は明治5年、『学問のすすめ』を出版し、実学を鼓吹(こすい。太鼓を打ち笛を吹く意。何かすることの意義を一人ひとりに宣伝し、積極的にそうしようという気持ちにさせること。-新明解国語辞典)した。
 福沢は一般大衆を、「所謂(いわゆる)百姓町人の輩(やから)」と称し、「無知文盲の民」、「豚の如き存在」であると断定した上で、その啓蒙(けいもう。蒙は知識不足の意。情報の寡少な一般人に必要な知識を与え、知的水準を高めること。-新明解国語辞典)の必要性を力説した。
 福沢の念頭にあったのは、自らを含めた文明開化のリーダーだけであった。浪士、豪農、儒者、医師、文化人等こそがリーダーの名に値する人種であり、それらを「士族」と総称した。
 彼は「士族」以外の一般大衆、つまり「所謂百姓町人の輩」は、維新の大業・新政を傍観して徒食(としょく。働く気持もなく、遊び暮すこと-新明解国語辞典)するだけの「豚の如き存在」であると扱(こ)き下(おろ)した。
 ただ、「豚の如き存在」ではあっても、努力して「学問」さえすれば、「豚の如き存在」から脱することができ、リーダーとなることができると力説したのである。
 
 福沢が鼓吹した「学問」は、前回述べたように、“西欧の学問のごく一部、しかも内容的に初歩的かつ皮相的なもの”であった。
 要は、人間が社会生活をする上で直接役に立つ学問に重きを置き、彼はこれを「人間普通日用に近き実学」と称した。実学の勧めである。
 福沢は、日本古来の学問のほとんどは、実学ではないとし、実学以外の学問は、実なき学問であるとして排斥した。まさに、盲(めくら)蛇に怖(お)じず、といったところである。
 尚、福沢が、一般大衆と学問に対してどのような考え方をしていたのかについては、安川寿之輔著『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』-高文研、を参考にした。
 安川氏は、戦後丸山眞男によって創り上げられた福沢諭吉の虚像-福沢神話を完膚(かんぷ)なきまでに打ちくだいた。私が近年福沢諭吉に対して抱いていた、ウサン臭さの原因を具体的に摘出(てきしゅつ)し、白日の下に晒(さら)した。安川氏の緻密な論証には、ただ脱帽するほかはない。見事である。
 
 私の冤罪事件について有罪の判決が確定し、3年間の執行猶予の期間は会計士と税理士の登録が抹消され、それぞれの業務ができなくなった。今から10年ほど前のことである。
 資格を使えなくなって、さてどうしたものかと考えあぐねていたときにひらめいたのが、認知会計 Cognitive Accounting(「123 認知会計の発見 - 冤罪を創る人々」参照)であった。私の職業の中核をなしている会計とは一体なんだろうと考えているうちに、浮かんできたアイデアだ。
 その際、日本における簿記会計のルーツが気になり、調べてみた。その結果、明治の初めに、福沢諭吉が翻訳したアメリカの簿記の教科書が嚆矢(こうし)であることが判明。
 明治6年6月に慶應義塾出版局から出された『帳合の法』(『福沢諭吉全集』第三巻、P.331~P.550。岩波書店)がそれである。
 原著は、“Bryant and Stratton's Common School Book-keeping:embracing single and double entry,New York,1871”である。当時、アメリカで用いられていた初級の簿記の教科書だ。現在の日本における3級程度の簿記のテキストである。

 昭和34年、私は島根県立松江商業高等学校に入学した。今から55年前のことだ。
 商業高校一年生のとき、授業で最も多くの時間が割かれていたのが簿記であった。週5時限が簿記の授業であったから、ほとんど毎日簿記をたたき込まれていたことになる。
 私達が学んだ簿記は、日々の商取引を近代簿記特有の仕方で二つの要素に分解(これを仕訳という)して記録するやり方だ。仕訳のルールさえ覚えれば、極めて簡単なものである。
 商用文字とか数字の書き方に始まり、文字、数字の訂正の仕方、実際の伝票、帳簿の書き方など、それこそ理屈ではなく身体で覚えさせられた。その際ソロバンは必需品とされ、ソロバンの活用は簿記の学習と一体となっていた。
 なかでも仕訳のルールについては理屈をつけることは無用であるとされ、丸暗記が求められた。いかに帳簿に記録し、まとめていくか、これは一つの技術であり、下手に理屈をつけてはいけないとされたのである。簿記会計の職人の養成である。この時身体で覚えた簿記の技術とソロバンの活用法は、その後の会計士人生にどれだけ役に立ったのか、図り知れない。
(この項つづく)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”中味より名文だった本の帯” -柏原、柏原のミミ
(毎日新聞、平成26年6月12日付、仲畑流万能川柳より)

(羊頭狗肉。)

「福沢諭吉の正体」-③ .     2014-08-26

 確かに簿記は、使い方さえ誤らなければ役に立つ技術である。福沢諭吉が、いちはやく実学の代表的なものとして簿記、つまり「帳合の法」を翻訳して紹介したのも、誰でも短期間で容易に修得できる簿記の有用性に着目したからであろう。
 このように、簿記は秀れた技術である。しかし、簿記はあくまでも仮定にもとづく産物であって、間違っても学問と呼べるようなシロモノではない。

 『帳合の法』で説明されている簿記は次のようなものであった。尚、( )内は『帳合の法』で用いられている言葉である。

 複式簿記(本式。ドップル・エンタリ)の特徴は、一つの商取引(取引。トランスアクション)を二つに分解することにある。借方(借。デビト)と貸方(貸。ケレヂト)である。これを仕訳(清書)といい、仕訳帳(清書帳。ジョルナル)に記入する。
 次に行うのは仕訳帳から総勘定元帳(大帳。レヂャル)への転記(写し)だ。
 総勘定元帳には借方の勘定(デビト・エッカヲント)と貸方の勘定(ケレヂト・エッカヲント)があるが、一定時点で締め切った場合(たとえば、日、月、年)には、借方の勘定の合計額と貸方の勘定の合計額は必ず一致する。一つの取引を借方と貸方の二つに分解して記入したものであるから当然のことである。
 一定時点での勘定の残高(残金。バランス)を借方と貸方に分けて集計して一覧表にしたものを試算表(平均表。トライアル・バランス)という。
 勘定には大きく分けて、資産(元手又は手当。レソウルス)と負債(払口又は引負。ライエビリチ。)と資本(元金。カピタル)の三つに加えて、収益(利益。ゲエン)と経費・損失(損亡。ロス)の二つがある。
 このうち、一定時点での資産と負債と資本とを一覧表にしたものを貸借対照表(平均表。バランスシイト。)といい、一定時点までの期間の収益と経費、損失とを一覧表にしたものを損益計算書(利益と損亡)という。
 貸借対照表における資産・負債と資本との差額と、損益計算書における収益と経費・損失との差額は一致する。この差額のことを当期利益、あるいは当期損失という。
 貸借対照表によって計算された当期利益(あるいは損失)と、損益計算書によって計算された当期利益(あるいは損失)とは必ず一致するし、一致しなければならない。
 これは、複式簿記の自己検算機能といわれているもので、複式簿記の利点の最大のものといわれている。損益計算書によって計算された当期利益の額は、貸借対照表によって計算された当期利益の額と一致することによって初めて計算の正しさの証明ができるのである。

 以上が、福沢諭吉によって翻訳された『帳合の法』の概要である。簿記のイロハであり、検定試験三級程度の内容だ。
 もっとも、簿記はあくまで会計の基礎的な技術であるから、この程度で十分だ。検定二級、検定一級と試験が難しくなるからといって、なにも高度なものになる訳ではない。内容がよりマニアックになるだけの違いである。この点、税理士とか会計士の試験課目の簿記も同様だ。三級程度の基本さえしっかりしていれば、あとは実務の現場でこの技術を使いこなして身につけていけばいい。

 簿記という技術は、いわば大工(番匠)におけるノミとかカンナの刃の研ぎ方であり、ノコギリの目立ての仕方である。あるいは、ノミ、カンナ、ノコギリ、墨縄(すみなわ)、曲尺(かねじゃく)の使い方といっていい。しかも研ぎ方なり使い方の基本が番匠から弟子に暗黙裡に伝えられるにすぎない。弟子はそれら一応の基本を習得したら、あとは本人の工夫と努力次第である。一生をかけてそれらの技術に磨きをかけていくのである。失敗を繰り返してこれらの基本的な技術を使いこなして、自分のものにしなければならない。技術というのはそういうものであり、簿記に限らず技術一般に言えることだ。
(この項つづく)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
“好きなのはカンが鋭くない女”-相模原、水野タケシ
(毎日新聞、平成26年8月13日付、仲畑流万能川柳より)

(願わくは、賢くてトロイ女(ひと)。)

「福沢諭吉の正体」-④ .     2014-09-02

 福沢諭吉は、「帳合の法」が簡単に修得できる技術であり、使いようによっては実際に役に立つことから、飛びついたものと思われる。
 日本には古来からの記帳方法-大福帳方式-があった。福沢が生れた江戸の末期には、この記帳方式は、朝鮮王朝の開城(けそん)簿記と同様に、記帳方法としては世界最高レベルに達していた。ソロバンを並用することによって、経営の実態を的確かつ迅速に把握することができる優(すぐ)れものであった。もちろん、独得の複式簿記であって、自己検算機能もしっかり具えていた。しかも、現在の簿記とは異なり、一切の仮定とか前提をおくことのないリアルなものであった。
 ただこの大福帳方式は、一朝一夕に修得できるヤワなものではなかった。もの心つく頃から丁稚(でっち)奉公に入って使い走りのかたわら、読み・書き・ソロバンの基礎を身に付けると共に、一歩一歩積み上げて、手代(てだい)になる頃にようやく一応の修得ができるとされていた技術だ。修得するのに、速い者でも5年から7年の年月がかかるとされていたのである。福沢が持ち込んだ、短期間で修得できる「帳合の法」のように片手間でできるようなものではなかったのである。
 手代(今の課長クラス)は、その後順調にいけば番頭(ばんとう。今の専務クラス)へと昇格するが、大店(おおだな)をまかされた番頭こそ、大福帳方式の匠(たくみ)の名に値する当代一流のプロフェッショナルであった。このレベルになると、日々の商(あきな)いの全て、つまり人・商品・お金の全てが、記帳するまでもなく、頭の中で瞬時にかつ立体的に把握されていたものと思われる。かつて「江戸時代の会計士」でとり上げた恩田木工(おんだもく)も、大店の番頭にひけをとらない記帳の匠であったに違いない。

 恩田木工は、信濃松前藩の財政建直しに文字通り命を懸けた人物である。同じ再建を任とする職人として近年もてはやされているのに、企業の再建請負人がいるが、それらとは月とスッポンほどの違いがある。この一つの事例として、日産自動車のカルロス・ゴーンを取り上げたことがある。(「カルロス・ゴーンとは何者か?」を参照のこと)。
 カルロス・ゴーンは、かつて倒産の危機に瀕していたフランスのルノーから日産に送り込まれた整理屋だ。親会社になったルノーの利益の為に、日産自動車の再建どころか日産を食いものにしただけであった。この事実は、カルロス・ゴーンが日産自動車に来てからの10年間、彼が何をしたのかを分析した結果判明したことだ。ルノーと日産自動車の有価証券報告書(マニュアル・レポート)を認知会計の視点から分析した結果である。
 カルロス・ゴーンは、今なお日産自動車のトップに居すわり、年額10億円という高額報酬を手にしていることでも有名だ。全上場会社の中でトップの高額報酬である。

 恩田木工とカルロス・ゴーンの違いは何か。一方は松前藩の財政再建にとり組み、片や日産自動車の建直しと称してルノーの再建にとり組んだ。その最大の違いは何か。
 ズバリ、再建計画のもとになった決算書と予算書の違いである。
 恩田木工が活用したのは、日本古来の大福帳方式によるもので、リアルなものだ。リアルであるだけにゴマカシがきかない。
 カルロス・ゴーンが活用したのは、簿記、つまり福沢諭吉が導入した「帳合の法」によるものだ。簿記自体が仮定に基づくものであることから、多分にヴァーチャルな部分が混入している。従って、実態を糊塗し、曖昧(あいまい)にしようと思えば簡単にできるシロモノだ。実際はルノーの再建であるにも拘らず、あたかも日産の再建であるかのごとく見せかけたのである。
 誤解を避けるために付言すれば、何もカルロス・ゴーンが粉飾決算に手を染めていたということではない。ここで言及していることは粉飾決算とは質の異なる問題で、簿記、ひいては制度会計そのものに、リアルではないバーチャルな部分が潜んでいることに起因する。

 このような、日本独自の発展を遂げた記帳方式について、福沢はその存在自体については知ってはいたであろうが、一体どういうものであるのか本当のところを理解していなかったものと思われる。福沢には商家での丁稚奉公の経験がないからだ。更に言えばソロバンだ。福沢はソロバンを弾(はじ)くこと位はできたであろうが、記帳にあたって肝腎なのは暗算だ。暗算、つまり頭の中にソロバンが明確な形でイメージされることだ。デジタル脳といっていいかもしれない。福沢にはこれが欠けていたのではないか。
 江戸末期、高度なレベルに達していた日本の漢方医学が捨て去られ、西洋医学が医学の主流になっていったのと同様の転換が、福沢諭吉によって会計の分野でもなされたのである。それはまさに蛮行(ばんこう)の名に値する愚かな行為であった。
(この項つづく)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”コンビニで二十歳過ぎかと古希問われ” -川越、麦そよぐ
(毎日新聞、平成26年8月15日付、仲畑流万能川柳より)

(コンビニの、責任逃れの法令遵守。)

「福沢諭吉の正体」-⑤ .     2014-09-09

 簿記、福沢諭吉のいう「帳合の法」において要(かなめ)になるのは仕訳(しわけ。福沢は清書と訳している)である。商取引を借方と貸方に分解すること(「取引の借貸を定むること」)だ。前々回述べた通りである。
 この仕訳なるもの、よく考えてみると一筋縄でいくシロモノではない。何故借方になるのか、あるいは何故貸方になるのか疑問を抱いたら、もういけない。その理由を考えだしたら訳が分らなくなってしまうのである。前回述べた通り、簿記そのものが仮定にもとづく産物であるからだ。
 そのために私達は、商業高校一年生の時に、仕訳の原則を理屈抜きで暗記させられた。
1.資産の増加は借方に、資産の減少は貸方に。

2.負債の増加は貸方に、負債の減少は借方に。

3.資本の増加は貸方に、資本の減少は借方に。

4.費用の増加は借方に、費用の減少は貸方に。

5.収益の増加は貸方に、収益の減少は借方に。

 これだけのことである。これを来る日も来る日も暗唱させられた。私が小学校4年生の時に暗唱させられた「五箇条の誓文」のときと同様である。
 しかし、理屈をこねるなと言われれば、こねてみたくなるのが人情だ。ましてや生意気盛りの高校一年生だ。
 クラスの一人が恐る恐る手を挙げて質問した。
「センセーイ。貸付金は資産ですが、何故借方にくるんですか。貸付けているんだから貸方にくるんではないですか?借入金は負債ですが、何故貸方なんですか?借りているんだから借方になるんではないですか?」
 クラス全体がどよめいた。みんなが暗唱しながらも同様の疑問を抱いていたからだ。
 このときのセンセイの反応が面白かった。明らかに当惑している。答えることができないのである。
「そのような理屈はともかくとして、これは簿記の基本だから、丸暗記しなさい。理屈抜きで覚えろといったのはそういうことだ。」
 この日は問答無用とばかりにセンセイにねじふせられてしまったが、次の授業のときに一(ひと)騒動が起きた。

 授業が始まる前からクラスがザワついている。簿記のセンセイが登壇するのを手ぐすね引いて待ち構えていたのである。数人が集って、予(あらかじ)め質問責めの準備をしていたものとみえる。
 高校一年生といえば、思春期まっただなかのガキである。私など、好奇心旺盛なガキそのものであった。連日、面白くもない簿記の授業に皆がウンザリしていたところだ。
 それが、なに気なく発した質問に、センセイが立往生(たちおうじょう)して答えに窮(きゅう)したのである。本能的に面白いことが起るに違いないと察した連中が綿密な打ち合せを行った。謀議である。センセイを困らせることを目的になされた悪ガキによる企(たくら)みだ。
 センセイが黒板の前に立った。すかさず一人の生徒が勢いよく立ち上がった。前日質問した生徒ではない。昨日の生徒とは違って恐る恐るどころか、ヤル気満々である。
「センセーイ!!やっぱり分かりませーん!昨夜寝ないで考えたんですが、考えれば考えるほど訳が分らなくなったんです。教せーて下さーい!」
 口では寝ないで考えたと言いながらも、その実、しっかり寝たことが明らかな顔色である。昨夜は、センセイの困惑した顔を楽しみにして熟睡したに相違ない。この生徒、前日の貸付金とか借入金に加えて、資本とか当期利益にまで及んだことから、収拾がつかなくなってしまった。
「資本とか当期利益は貸方に、ということはそのまま受け入れてもいいんですが、ではその資本とか当期利益は一体どこにあるんですか?教せーて下さーい!」
 もともと資本にしても当期利益にしても、いくつかの前提(仮定)をもとにして計算された机上のもので、その実体は存在しない。いわば架空のものだ。それをどこにあるのかと問われても答えることはできないのである。簿記のセンセイ、とうとう教壇の上でカンシャクを起してしまった。
「ウルサイ!ツベコベ抜かすんじゃない!簿記は理屈じゃない。一つの技術であるから理屈抜きで覚えて実務に役立てることが肝腎だ。以上、オワリ!」

「ファーイ!」
 謀議は成功裡に終った。謹厳実直な簿記のセンセイが青筋を立ててカンシャクを起こしたことは、私を含む悪ガキ共にとっては望外の成功であった。
 それ以後、簿記の授業が無味乾燥なものから面白いものへと変容していったのは言うまでもない。
(この項つづく)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”手料理をオイシイ?聞けば慣れた言い” -柏原、柏原のミミ
(毎日新聞、平成26年8月13日付、仲畑流万能川柳より)

(「私、愛してる?」「愛してる、愛してる!」)

「福沢諭吉の正体」-⑥ .     2014-09-16

 実は、『帳合の法』にも、当時のアメリカで借方、貸方をめぐって、学者の間で甲論乙駁(こうろんおつばく)の議論が交されていたことが記されている。
 「借と貸の事」として、難しい問題があることを指摘して、『帳合の法』は、
“借と貸の字をよく解して其字の義を明(あきらか)に定(さだむ)るは勘定学の一大難事にて、これがためには勘定の学者先生も常に困却せり。”(『帳合の法』-p.475)
と述べ、
“元来学義を説くの良法如何(いかん)とてこれを詮索するは、唯学問の議論にして事実に関係することに非(あら)ず。勘定学を教(おしう)る人の主とす可(べ)き所は、学義を説くの巧拙に在(あ)らずして、学義を知(しり)てよくこれを活用するに在(あ)るなり。”(『帳合の法』-p.476)
として、借方と貸方の意味合いをめぐる議論は棚上げにして、定められた規則をしっかりと覚えて実際に活用することが大切であると説いている。
 続けて、
“学者左の七箇條の規則に熟してこれを忘るることなくば、商売に於て何等の帳合にても借と貸とを定(さだむ)るに難(かた)きことなかる可(べ)し。”(『帳合の法』-p.476)
として、以下の覚えるべき七つの規則を列挙している。

      規  則
第一則  主 人
    商売に元入金を出したる主人は、其元入の金高と商売の利益の高とを以て貸
    と為(な)し、主人の引請たる払口と、商売の高より引去たる金と、引請た
    る損亡とを以て借と為(な)すなり。
第二則  正 金
    正金の勘定は、請取たる高を借と為(な)し、払出したる高を貸と為(な)す
    なり。
第三則  品 物
    景気見込を以て仕入たる品物は、仕入元代を以て借と為(な)し、其品の売
    上げ代を以て貸と為(な)すなり。
第四則  請取口手形(注、現在の受取手形のこと)
    請取口手形の勘定は、他人の手形、他人引受の証文、其外都(すべ)て金子
    引替の約條書を此方へ請取たるときに、其書面の高を以て借と為(な)し、
    これを引替る歟(か)、又は他に用るときは、其高を貸と為(な)すなり。
第五則  払口手形(注、現在の支払手形のこと)
    払口手形の勘定は、此方の手形、此方引請の証文、其外都(すべ)て金子引
    替の約條書を出したるときに、其書面の高を以て貸と為(な)し、これを引
    替たるときは借と為(な)すなり。
第六則  他 人
    バンク其外都(すべ)て此方と取引する他人の勘定は、其当人が此方へ対し
    て引負と為(な)る歟(か)、或は此方より兼ての引負を先方へ返したると
    きに借と為(な)り、此方が先方へ対して引負と為(な)る歟(か)、或は
    先方より兼ての引負を此方へ返したるときに貸と為(な)るなり。
第七則  雑 費
    何等の名目にても費す所のものは、其費したる高を以て借と為(な)し、何
    等の事柄にても利を得るものは、其利の高を以て貸と為(な)すなり。
     定
    商売の元高は借なり。商ひ高は貸なり。
        (『帳合の法』p.476-P.477)
 この7つの規則は、前回掲げた仕訳の原則(5つ)と全く同じものだ。『帳合の法』は、この7つの規則を丸暗記(“七箇條の規則に熟してこれを忘るることなく”)せよと教えているのである。
 尚、ここで訳出されている、「学者」、「勘定の学者先生」、あるいは「学問の議論」、「勘定学」という言葉がいかなることを意味するのか定かではない。私の手元に英語の原書がないので確かめることができないからだ。
 ただここで「学者」「勘定の学者先生」を簿記のイロハを習ぼうとしている初心の学習者と解し、「学問の議論」、「勘定学」を借、貸の字句についての詮索と考えるならば、初級の手引書の記述としては納得がいくものとなる。このような理解が正鵠(せいこく)を射たものであるとするならば、50年以上も前に日本の片田舎、松江市で簿記のセンセイと私達悪ガキとの間で繰り広げられた茶番劇(「福沢諭吉の正体-⑤」参照)と何ら変るところがないことになる。この教科書(“Bryant and Stratton's Common School Book-keeping”)で習んだ、140年前のアメリカの若者達が、同じガキ仲間としてにわかに身近な存在になった思いがする。
(この項つづく)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”行く先で名前が全部ちがう猫(オレ)” -いすみ、野原咲子
(毎日新聞、平成26年8月9日付、仲畑流万能川柳より)

(“この猫(オレ)は一体どこの猫(オレ)なんだ”)

「福沢諭吉の正体」-⑦ .     2014-09-23

 福沢諭吉は、いわば大工(簿記)の見習いであった。見習いが始めた学習塾が慶應義塾だ。当時、匠(たくみ)のレベルに達した大工(番匠。ばんじょう。)が日本にいないことをいいことに、自ら番匠風(かぜ)を吹かせ、棟梁として一般の家屋の建築(私企業の会計)を請負っただけでなく、宮大工として寺社の建築(公的部門の会計)をも請負った。
 今から140年前、簿記を『帳合の法』としてアメリカから導入した福沢諭吉を大工に譬(たと)えれば、上記のようになるだろう。日本には当時世界でも最高レベルに達していた記帳システム(大福帳システム)が存在していたにもかかわらず、それをあっさりと打ち捨て、いくつかの仮定のもとに組みたてられているレベルの低い簿記をそのままの形で持ち込んだのである。無知のなせる業(わざ)である。前に、盲(めくら)蛇に怖(お)じずと言ったのはこのことだ。(「福沢諭吉の正体-②」参照)

 その後、一般の私企業においては簿記特有の欠陥を承知の上でうまく使いこなしてきた。簿記で計算された数字をそのまま真(ま)に受けて企業経営に用いることなく、経営者の判断でうまく修正して使いこなしてきたのである。
 しかし、公的部門(国、地方公共団体、裁判所)はそうではなかった。福沢が導入した生煮(なまにえ)の簿記を金科玉条のように扱って現在に至っている。一般の企業と違って、公的部門は親方日の丸だ。間違っても倒産することはないし、誤りをチェックする者がいない。どのような扱いをしようとも気軽なものである。やりたい放題だ。収支計算、あるいは財産計算に関する判例の多くが、トンチンカンで的外れであるのに、是正されることなく放置されているのがいい例である。
 具体的に言えば財政法、会計法、あるいはその他財産とか収支計算に関する法律とか判例がそうである。現在でも明治憲法下のそれらが基本的に変っていない。明治憲法下で成立した、脱税を摘発するための国税犯則取締法とそれに関連する判例が現在もそのまま引き継がれているのと同断である(「脱税は犯罪ではなかった-1」~「脱税は犯罪ではなかった-7」参照のこと)。
 
 役人(官僚)が自分たちのために、つまり、自分達の使い勝手がいいように作っているのが財政法であり、会計法だ。訴訟法(刑事訴訟法、民事訴訟法)も同様である。判例も無批判的に右にならえだ。
 明治憲法下ではそれでよかったかも知れない。しかし、現在の憲法は主権在民を旨として、国民一般が国の主人公であると定めている。財政法も会計法も、あるいは訴訟法も、役人(官僚)のためでなく、国民のためのものに切り替えるべきであったが、切り替えられることはなかった。
 
 現在の財政法と訴訟法の実態と問題点について、認知会計の視点からの分析を行ってみた。その概要については、別稿に譲る。
 
 憲法上、国民が主人公であるといっても実態は異っている。実態は、官僚が一般国民の上に君臨し、為政者として国を統治しているのである。為政者であり権力者だ。政治家は彼らの操り人形にすぎない。これが明治以降、100年以上も続いてきた官僚制の実態だ。
 役人(官僚)が国の財政と裁判権を自らの手中において、自由気ままにコントロールできることは、国を統治していることを意味する。カバナーであり、為政者である。三権分立など建前だけのもので、所詮絵に画いた餅である。
 
 明治憲法のもとでは、為政者としての官僚の権力は、国の暴力装置と国のサイフを握ることによって保証されていた。
 軍部、治安警察、国税が暴力装置の役割を果した。この3つの暴力装置で国民に睨みをきかせる一方で、国のサイフまで握ることができるのであるから、古今東西あまた出現した独裁者をいだく独裁国家と変るところがない。
 現在の日本も基本的に同じである。かつての陸軍とか海軍といった軍部はなくなったが、なくなったのは形の上だけのことだ。自衛隊という世界有数の軍隊がしっかり存在している。
 元来、自衛隊というのは憲法違反の存在だ。第二次大戦後に勃発した朝鮮戦争とか東西冷戦のために、もっぱらアメリカの御都合主義とアメリカに追随する日本の政治家・官僚の詭弁によって、自衛の名のもとに敢えて憲法が禁じている戦力を持つようにしただけのことだ。
 
 昨今、集団的自衛権の行使を安倍内閣が閣議決定をして物議を醸(かも)しているが、何のことはない。もともと自衛隊ができた当初から、集団的自衛権の行使も予定されていたことだ。これまでの自民党政権と官僚が個別的自衛権の行使は容認されるとする一方で、集団的自衛権の行使については頑なに否定してきたのは、憲法違反が余りにも明白であるために、そこまでの詭弁を弄することができなかっただけだ。
 それを安倍・麻生のコンビがゴリ押しをした。厚顔無恥である。福沢諭吉の言葉を借りれば、“無知文盲の輩(やから)”の暴走である。
 その上、秘密保護法を制定したり、これまで慎んで来た武器の製造・輸出もおおっぴらにできるようにしてしまった。中でも、原発が核の抑止力として働くことを公言し、原発が核兵器工場であることを事実上認めるに至ったことは特筆されていい。日本が核保有国であることを宣言したに等しいからだ。残るのは憲法9条の改正と徴兵制の実施だ。戦前の軍事国家への道である。
 この道は、かつて福沢諭吉が、日清戦争に際して声高に叫んだ「強兵富国」(「富国強兵」ではない!)と「脱亜入欧」(注)への道だ。アジテーターとしての福沢諭吉の亡霊がよみがえり、太平洋戦争へと突き進んでいった悲惨な歴史が繰り返されようとしている。平和国家・日本の危機である。
(この項つづく)

1.(注)「脱亜入欧」。脱亜入欧(だつあにゅうおう)とは、「後進世界であるアジアを脱し、ヨーロッパの列強の一員となる」ことを目的とした、日本におけるスローガンや思想のこと(ウィキペディア)。

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”カキャクセンマンギョンボンはアナも噛む” -我孫子、千賀美
(毎日新聞、平成26年8月5日付、仲畑流万能川柳より)

(隣のガキはよくヒト食うガキだ。)

「福沢諭吉の正体」-⑧ .     2014-09-30

 福沢諭吉の「脱亜論」がどのように形成されていったのか、安川寿之輔氏の論述(『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』)をもとにまとめてみる。

 まず福沢の一般大衆に対する見方がいかなるものであったのか、これを見定めることが出発点となる。
 すでに述べた(「福沢諭吉の正体」-①参照)ように、福沢は日本の一般大衆に対して偏見を持ち、彼らを「百姓町人の輩(やから)」と称し、「豚の如き存在」であると蔑視していた。ただ初期の段階では、学問を修めさえすれば、「豚の如き存在」であってもそれから脱することができるといった、啓蒙思想家もどきの低俗な主張を大真面目に行なっていた。
 ところが、明治10年代に盛り上った自由民権運動に直面した福沢は、一般大衆への啓蒙を断念するに至り、呼称も「百姓町人の輩」から「百姓車挽(くるまひき)」へと変った。侮蔑の度合いがエスカレートしたのである。
 彼ら一般大衆を「馬鹿と片輪(かたわ)」呼ばわりするようになると同時に、自由民権運動家・陣営を「無頼者の巣窟(そうくつ)」、「狂者」、「愚者」と蔑(さげす)んで憚(はばか)らなかった。

 安川氏は、日本の一般大衆さえ「豚」とか「馬鹿・片輪」呼ばわりする福沢諭吉が、アジアの他国の一般大衆に対して偏見を抱き蔑視するのは何の不思議もなかったとする(前掲書.P.301)。
 福沢諭吉が近隣諸国の人々に対して、蔑視・偏見を持っていた事実は彼の論述から明らかである。中国人を「頑陋(がんろう)不明なる支那人」と称し、ガキ仲間のケンカでもあるまいに、「豚」「乞食」「チャンチャン」呼ばわりし、朝鮮を「我(わが)属国となるも之(これ)を悦(よろこ)ぶに足らない」「小野蛮国」と言い放ち、台湾の一般大衆を「台湾蛮人」「禽獣(きんじゅう)」と扱(こ)きおろすなど、まさに言いたい放題であった。
 福沢は、とりわけ中国兵に対して、ここまで言うかというほどの罵詈雑言(ばりぞうごん)を投げかけている。「猫ならまだしもだ、豚の癖に」と言ってみたり、「乞食の行列」「豚屋の本店」「けし坊主の頭の尻尾」「恥知らずの人非人(にんぴにん)」「生擒(いけどり)の大将…腐ったような穢(きた)ねへ老爺(ぢぢぃ)」などと罵倒・侮蔑したのである(前掲書.P.50)。これらの言葉からは、一般に福沢のイメージとして定着している教育者・思想家の片鱗もうかがうことができない。ここからは、劣等民族を軍事力で支配し、彼らの領土を収奪してもかまわないといった“侵略路線”つまり「脱亜論」へは一直線だ。
 このように福沢は、ナチスを率いて、ユダヤ人を大量虐殺したアドルフ・ヒトラーを髣髴(ほうふつ)させるアジテーターそのものであった。そのような人物が、日本人のシンボルであるかのように、一万円札を飾っているのである。日本国民として恥ずかしい限りである。

 日本の一般大衆だけでなく、中国、朝鮮、台湾の一般大衆をも蔑視していた福沢は、国内では自由民権運動が活発化し、福沢がモデルとした欧米先進諸国では労働運動・社会主義運動が盛んになるのに危機感を覚え、“後ろ向きの歴史的現実主義の立場への後退”(安川寿之輔氏の評言。前掲書.P.186)を表明した。
 その福沢が選択したのが、富国強兵ならぬ「強兵富国」路線であった。つまり、「専(もっぱ)ら武備を盛(さかん)にして国権を皇張(こうちょう)し、無遠慮(ぶえんりょ)に其(その)地面を押領(おうりょう)する」とする“アジア侵略路線”である。
 現在のアメリカは、世界のどこかで戦争を仕掛けなければ経済的にやっていけない軍事国家に成り下っているが、福沢が狂信的なまでに主張した「強兵富国」はそのようなアメリカの軍事国家路線そのものだ。自国の利益のために他国で戦争を仕掛け、他国の人々を殺し、その富を掠奪するといった、いわば海賊行為をこととする軍事国家そのものだ。

 1882年(明治15年)7月の壬午(じんご)軍乱(注1)と、1884年(明治17年)12月の甲申(こうしん)政変(注2)を好機到来と考えた福沢は、最強硬の軍事介入を主張した。
 とりわけ、甲申政変の際には、福沢自身が刀剣や爆薬類といった武器弾薬の提供まで行って世論を煽(あお)りたてた。現在の中近東のテロリストと同じである。
(この項つづく)

•(注1)壬午軍乱。じんごぐんらん。1882年(明治15年)7月23日、朝鮮旧軍隊が、俸禄米の支給遅延をきっかけとして起した、閔妃(びんひ)政権に対する反乱のこと。この軍乱の背景には、日本の援助のもとに軍制改革を主導してきた閔妃一族に対する反発があったとされている。

•(注2)甲申事変。こうしんじへん。1884年(明治17年)12月4日、漢城(かんじょう。今のソウル)で起きた閔妃政権に対するクーデターのこと。政府内改革派(独立党)が、壬午の軍乱の後、清国の力を借りて支配力を強化した守旧派(事大党)を打倒しようとしたとされている。


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 ここで一句。
”浪費ぐせお灸すえてよ昭恵さん” -北九州、黄昏桜
(毎日新聞、平成26年9月3日付、仲畑流万能川柳より)

(“この病(やまい)、祖父(岸 信介)から続くDNA、お灸ごときで治りゃせぬ”)

「福沢諭吉の正体」-⑨ .     2014-10-07

 前回述べたように、福沢諭吉は日本の一般大衆を見下し、馬鹿扱いしていた。江戸時代の、
1.士

2.農

3.工

4.商

5.エタ・非人

のうち、自らの所属する1.の士、つまり武士階級と公家(くげ)、更には2.~3.のうち経済的に豊かな豪農・豪商のみを日本国民とし、2.以下の貧しい農・工・商・エタ・非人は一段低い階層に属するものと考えていたのである。差別されていたのはエタ・非人(明治になってから新平民と呼称)だけではなかったということだ。
 対外的にも同様の考えが貫かれ、中国(支那)、韓国・北朝鮮(朝鮮)、中華民国(台湾)の人々を蛮族、即ち劣等民族扱いし、あからさまに侮蔑していた。
 これらのことについて安川寿之輔氏は、「福沢の愚民観とアジア蔑視観」(前掲書.P.292以下)で詳細に明らかにしている。

 ここまで筆を進めてきて、ハタと困ってしまった。初回で述べたように、福沢諭吉といえば、小学校の時から脳裡に刷り込まれてきたあまりにも有名な言葉、
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
があるからだ。この言葉と、福沢が実際に言っていることと矛盾するのである。
 この点について、安川氏は実に明解な答えを用意している。いわば福沢の行ったインチキの種明しである。

 安川氏は、この種明しを行なったのは歴史家の古田武彦であることを明らかにした上で、古田説を追認する。
 安川氏が追認した古田説は次のようなものである。
 まず、「天は人の上に人を造らず…」の文章の出典についてである。これについては、福沢自身が翻訳した「アメリカ独立宣言」にヒントを得て福沢が考えだした文章であるというのが定説的な理解であるのに対して、古田武彦はこれを全面的に否定する。
 古田は、『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』ほかの「和田家文書」の中に「天は人の上に人を造らず…」の出典があるという(古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版)。
 具体的に言えばこうだ。「和田家文書」を所持していた和田末吉が秋田重季子爵を介して、和田家祖訓である、
「神は人の上に人を造らず、亦(また)、人の下に人を造り給ふなし」

「吾(わ)が一族の血肉は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

「吾が祖は、よきことぞ曰(い)ふ。…人の上に人を造り、人の下に人を造るも人なり」
の3つの文章を福沢に見せたという。
 この経緯について、古田は次のような1910年の和田末吉の署名入り文書が残っていることを明らかにしている。
「有難くも、福沢諭吉先生が御引用仕(つかまつ)り、『学問ノ進(ママ)メ』に、「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ」との御版書を届けられしに、拙者の悦び、この上も御座なく…」
 古田は、更にその典拠に擬せられたアメリカの「独立宣言」やフランスの「人権宣言」には、「翻訳の原本」と見なすべき「原文」を発見できないとし、福沢自身がこの文章を「…と云えり」という伝聞の形を用いて、何者かからの引用であることを明示していることを論拠に挙げている。
 古田は、以上の論拠を挙げた上で、
「人間は…少年、少女時代、頭のコンピューターにセットされた情報と正面から衝突する新情報には、たとえそれが真理であっても、拒絶反応をおこす」
として、別の側面から次のような最後の論証を行なっている。駄目押しである。
 それは、『学問のすすめ』の冒頭の一句は、福沢の思想になじまない、という端的な理由であった。
(この項つづく)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”ようしゃなくバァちゃんと呼ぶ孫が来る” -坂戸、セッちゃん
(毎日新聞、平成26年9月29日付、仲畑流万能川柳より)

(ご本人、いつになってもオネェさん。)

「福沢諭吉の正体」-⑩ .     2014-10-14

 『学問のすすめ』冒頭の一句、
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
が、そもそも福沢の思想になじまないと古田武彦が論断し、安川寿之輔氏が追認しているのは尋常のことではない。まさに福沢諭吉の思想の根幹にかかわることであり、福沢の全人格をも規定しかねないことだからだ。
 古田は論断するにあたって、福沢の『帝室論』の一節を引用する。
「我日本国に於(おい)ては、古来今に至るまで真実の乱臣賊子なし。今後千万年も是(こ)れある可(べか)らず。…若(も)し必ずこれありとせば、其者は必ず瘋癲(ふうてん)ならん。」(全集5巻、P.262)
 古田はこの一節を一読して呆然(ぼうぜん)としたという。たしかに、古田ならずとも、正史とされている『日本書紀』を通読した者なら誰しも目を疑うに相違ない。

「我日本国に於ては、古来今に至るまで真実の乱臣賊子なし」
など全くのウソッパチだ。このような見えすいた嘘をよく言えたものである。『日本書紀』の中では乱臣賊子のオンパレードではないか。それらが全て瘋癲(精神状態が正常でない人。-広辞苑)であったというのか。加えて、天皇一族の皇位をめぐる血なまぐさい殺し合いとか、古代ローマのネロとかカリグラを思わせるような残虐な天皇の行状が生々しく記録されているではないか。人殺しを趣味にしていた武烈天皇など、乱臣賊子よりタチの悪い「乱帝賊帝」ではないか。
 戦後菊のタブーから解放されて、『日本書紀』も黒塗り、あるいは削除の部分がなくなった。伝承されたままの形で『日本書紀』を読むことができるようになった現在、福沢の見えすいたウソッパチなど通用するはずがない。

 ただし、一つだけ例外がある。事実上神社本庁がかかわっている『神典』(大倉精神文化研究所編輯、神社新報社発行)だ。神社本庁の傘下にある全国の神主たちのバイブルである。かって多くの若者を洗脳して戦場へと送り出し、死へと追いやった国家神道のバイブルだ。私の父、山根万一も現人神を信じ切って32歳の若さで戦死した一人である。
 この『神典』、天皇が万世一系の現人神(あらひとがみ)とされていた昭和11年に初版が発行されて以来、版を重ねて2万5千部刊行されている。しかし戦後、天皇自ら現人神であることを否定し、人間宣言を行なった後においては絶版となっていたものだ。
 ところが、昭和42年(1967)2月11日、かつての「紀元節」が「建国記念日」として復活したのに合わせて復刊され、現在に至っている。私の手許にある『神典』は、本文.2156ページ、神典索引.396ページという分厚いもので、平成24年9月28日現在で実に22版を重ねている。
 この『神典』、端的に言えば、明治維新に際して創作されたフィクション、つまり、天皇は万世一系の現人神(あらひとがみ)であるという「つくりごと」を、もっともらしいものに見せかけるために、日本の古典に小細工を施したトンデモないシロモノだ。

『神典』復刊の辞(昭和42年2月11日)は、
「この『神典』に収載の古典は我民族精神の淵源するところを伝へ、わが国の正史と文化の根底に働いてその形成の原動力となってきたものであり、われわれの祖先から子孫へと永久に継承さるべき貴重な宝典である。」
と述べているが嘘である。
 収載されている古典は、古事記、日本書紀を筆頭に、古語拾遺、宣命【続日本紀抄】附中臣寿詞、令義解【抄】、律【抄】、延喜式【抄】、新撰姓氏録、風土記、万葉集【抄】であるが、まず、物部氏の伝承とされている旧辞本紀とか高橋氏文が恣意的に外されているし、何よりも古事記とか日本書紀にしてからが、
「わが民族精神の淵源するところを伝へ」
ているものではない。
 古事記も日本書紀も日本の誇るべき古典であることについては勿論異論はない。しかし、これらは一握りの支配者の側がまとめ上げた、自分達にとって都合のいい歴史書であって、99%以上の一般大衆とはほとんど関係のないものだ。従って、「わが民族精神の淵源」などではありえない。
 加えて、東北地方以北に居住していた人々(アイヌ民族)をエミシ(蝦夷)と呼び、神武東征以前に吉野に居住していた人々をクズ(国栖)と呼び、九州に居住していた人々をクマソ(態襲)、あるいは各地の先住民をツチグモ(土蜘蛛)と呼んで、ヤマト朝廷に服従すべき蕃族としていたのであるから、当然に「わが民族」ではない。
 更に言えば現在の沖縄とか北海道については、古事記にも日本書紀にも影も形も見えない。沖縄とか北海道は蕃国の一つとされており、そこに住む人々は蕃族と考えられていたのであろう。これまた「わが民族」ではない。
『神典』には以上のような根本的問題点があることに加え、各古典に手を加え、いいとこどりをしているのである。粉飾である。
 天皇神話(フィクション)にとって都合のよいところだけをピックアップしてみたり(とくに万葉集)、あるいは、都合の悪いところは削除したり(とくに日本書紀、宣命(続日本紀))と、やりたい放題である。古典に対する冒瀆である。
 このような『神典』の世界、即ち、神道を標榜する神主たちの世界においてだけは、福沢諭吉の前述のような見えすいたウソッパチがまかり通っているのかもしれない。
(この項つづく)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”茶色ってお茶の色ではありません” -横浜、おっぺす
(毎日新聞、平成26年9月27日付、仲畑流万能川柳より)

(いやいやどうして、煎茶(黄緑)、抹茶(濃緑)は日本人が磨き上げた富裕層向けの比較的新しいもの。中国では団茶の歴史が長くつづき、それがヨーロッパに持ち込まれて紅茶に。日本でも一般庶民のお茶と言えば番茶、しっかりした茶色です。刑務所、拘置所で支給されるお茶(「冤罪を創る人々ー096 原体験への回帰」参照)も番茶と決まっています。ちなみに、わが事務所のお茶も番茶。)

「福沢諭吉の正体」-⑪ .     2014-10-21

 前回述べたように、日本の正史の記録(日本書紀)は、伝承されたままのものを素直に読む限り、福沢諭吉が述べていることとは相いれない。
 改めて、古田武彦が引用している部分(「福沢諭吉の正体-⑩」)を拡大して、ここに引用する。
「我(わが)日本国に於(おい)ては、古来今(こらいいま)に至るまで真実の乱臣賊子(らんしんぞくし)なし。今後千万年も是(こ)れあるべ可(べか)らず。或(あるい)は今日にても狂愚者(きょうぐしゃ)にして其言(そのげん)往々乗輿(じょうよ。山根注.天子の乗り物、また天子のこと。)に觸(ふ)るる者ある由(よし)伝聞したれども、是(こ)れとても真に賊心ある者とは思はれず。百千年来絶(たえ)て無きものが今日頓(とみ)に出現するも甚(はなは)だ不審なり。
 若(も)しも必ず是れありとせば、其者は必ず瘋癲ならん。瘋癲なれば之(こ)れを刑に処するに足(た)らず。一種の檻に幽閉して可(か)ならんのみ。」

 何とも恐れ入った言い分だ。-
 乱臣賊子は愚(おろ)かな狂人(狂愚者)だ。精神に異常をきたした精神病者(瘋癲)であるからには一般人と同じように扱って刑罰に処するわけにはいかない。檻(おり)のある精神病棟(一種の檻)にでも閉じ込めてしまえ。
 昨今の福祉関係の人達が読んだらあまりのことに卒倒しかねないスサマジイ内容である。

『帝室論』が発表されたのは明治15年(1882)、福沢諭吉48歳のときである。決して若気の至りなどではない。不惑を過ぎた、言わばトウの立った言論人が大真面目に喋っているのである。
 では何故福沢は、検証すれば直ちにバレるような嘘をまことしやかに開陳しているのか。何故福沢は、黒を白と言い募り、日本国民を騙したのか。その上何故福沢は、狂愚者とか瘋癲など、およそその人の品性を疑わしめるような汚い言葉を用いてまで嘘を言い張ろうとしたのか。
 理由は簡単だ。『帝室論』において、一般大衆を愚民視する福沢が、『愚民を籠絡(ろうらく)する…欺術(ぎじゅつ)』としての神権的天皇制を支持していたからだ。
 換言すれば福沢が、「天皇は万世一系の現人神(あらひとがみ)である」というフィクションを前提にしていたからに他ならない。
 偽りの前提(神権的天皇という欺術)を押し通そうとすれば、必然的に偽りの結論に辿(たど)り着くということだ。ひとたびウソをつくと、ツジツマを合わせるために次から次へとウソをつかなければならなくなり、収拾がつかなくなるのである。論理的思考力に欠けている者がズルズルと滑り落ちる陥穽(かんせい)だ。福沢は他人を瘋癲呼ばわりする前に、自らを顧(かえりみ)る必要があったのではないか。

 古田武彦は、『帝室論』における福沢の瘋癲発言を捉まえて、次のように論を進めていく。
 古田は、
「福沢思想においては、一般の人の上に『天皇』があり、一般人の下に『瘋癲』があった」
とし、さらに「脱亜論」を引用して、
「これは日本人の上に西欧人をおき、日本人の下に中国人・朝鮮人をおく議論ではあるまいか。」
とまとめている。的確な指摘である。
 結局、福沢諭吉と結びつけられてきた有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という文章は、内実を伴わない空疎なものであった、つまり、“単なる枕言葉”にすぎない「借り物」であったというのが、古田の結論であり、同時に安川氏の結論であった。

 安川寿之輔氏は、「福沢諭吉と田中正造-近代日本の光の影」の章(前掲書.P.325以下)において、福沢と田中の人間観の違いを浮き彫りにしている。そこで明らかにされているのは、福沢諭吉の差別的人間観である。
 安川は言う。

 福沢が「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の主張者であるという誤解を取りはずしさえすれば、素顔の福沢諭吉の理解は容易である。
 そのような誤解を広めたのは、丸山真男である。丸山真男が創り出した「福沢神話」(安川氏はこれを「丸山諭吉」と表現している)の歪んだメガネを取りはずしてみれば、福沢諭吉の真の姿が自然に現われてくる。
 このようにして丸裸にされた福沢は、日本の民衆を「馬鹿と片輪」「豚」呼ばわりしたり、アイヌ先住民族を「北海道の土人(どじん)」と呼んで差別していたほどであるから、被差別部落問題とか障害者問題などはとうてい理解できるものではなかった。この意味で福沢は並みの「明治の男」であった。
 
 安川氏は以上のように論じた上で、福沢こそ「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という思想とは似ても似つかない、むしろ真逆の考えを持っていた人物であると結んでいる。
「むしろ福沢諭吉こそ、明治日本の社会に「人の上」の人としての天皇制・華族制度と、「人の下」の人としての各種の被差別集団(アジア諸国民、女性、被差別部落民、アイヌ先住民、障害者)の存在を「造」りだした思想家である。」(前掲書.P.329)

 安川氏の上記の結論は、青森のリンゴ農家の屋根裏から見つかった「和田家文書」の中の文章の一つ、
「吾が祖(おや)は、よきことぞ曰(い)ふ。…人の上に人を造り、人の下に人を造るも人なり。」(「福沢諭吉の正体-⑨」参照)
を想起させるものだ。ここでは5つの「人」が用いられているが、最後の「人」こそ福沢諭吉その人であるということなのであろう。
(この項つづく)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”玄関に領土主張のような糞” -東京、恋し川
(毎日新聞、平成26年9月30日付、仲畑流万能川柳より)

(北方領土、竹島、尖閣諸島、ウクライナ、中東、イスラエル、イスラム国、アフリカ諸国。糞の犯人は、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国。第2次大戦の戦勝国、国連常任理事国のメンバーだ。領土問題の本質をついた秀句。)

「福沢諭吉の正体」-⑫ .     2014-10-28

 福沢諭吉は、広辞苑によれば「思想家・教育者」(「福沢諭吉の正体-①」参照)だそうである。
 教育者についてはすでに述べた通りなんともオソマツなものであった。当時の西欧の学問のごく一部、しかも皮相的かつ初歩的な部分を実学と称して日本に紹介し、鼓吹しただけの人物だ。現在の学習塾とか予備校の経営者と変るところはない。教育者というよりも、慶応義塾というレベルの低い学習塾の経営者であったということだ。
 教育者に関して言えば、福沢はにわかには信じ難いことを主張している。人間は遺伝によって決まっている能力を一毫一厘こえられないという、「遺伝絶対論」である。
 つまり、日本人の場合は、遺伝の能力の優れている士族・豪農・豪商という「良家の子弟」を優先してエリート教育を実施するように提案し、「貧民家庭の子弟」に学ぶチャンスを与える可能性のある官立大学や公立の高等教育機関を、経費負担の重い私立学校に改編することを一貫して主張した。
 福沢のこの発言、金(かね)勘定に抜け目のない私塾経営者の本音である。まさに我田引水も極まれり、あまりのことに論評する言葉もない。
 
 戦後、貧乏人は麦を食えと言い放った官僚上がりの総理大臣がいたが、貧民差別はその後エスカレートの度を加え、現在の安倍政権においてピークに達している感がある。
 安倍晋三総理とコンビを組んでいるのがマンガオタクの麻生太郎副総理(財務大臣)だ。この御仁(ごじん)、衆院選初出馬の際、街頭演説の第一声で、
「下々(しもじも)の皆さん!」
とブチかまして平然としていたというマンガのようなエピソードを残していることを忘れてはならない。

 では思想家についてはどうか。
 まず、一般的に思想とは、
「その人の・生活(行動)を規定し、統一する所の・人生観(社会観・政治観)」(新明解国語辞典)
のことだ。
 このような思想の意味合いを前提として、思想家とは、
「思想が深く豊かな人」(広辞苑)
であるとされている。
 以上のような思想家の定義を前提として、福沢諭吉の全生涯を見てみると、とても思想家であるなどと評することはできなくなる。
 安川寿之輔氏は、福沢諭吉を融通無碍(ゆうずうむげ。考え方や行動が、何物にもとらわれず自由であること。新明解国語辞典)の「思想家」であるとする。
「融通無碍に自説を開陳し、むしろなりふりかまわぬ思想の無節操性を築き上げた人物であった。(前掲書.P.247)」
とまで酷評しているのである。
 安川氏が、上記のように思想家にカッコをつけて「思想家」と表現しているのは、先に挙げた思想家の定義にあてはまらない、思想家モドキであることを強調するためであったろう。
 政治がらみのフィクサー、あるいは思想家モドキの人物を一般に「デマゴーグ」と言うが、福沢はフィクサーでありデマゴーグではあっても断じて思想家などではない。
 以上により、福沢諭吉を「思想家・教育者」とした広辞苑の記述は誤っており、訂正されるべきであろう。

 福沢諭吉の思想が無節操(むせっそう。倫理的に見て、行為や考え方に全く一貫性が認められないこと。新明解国語辞典)であったことは、安川寿之輔氏がいまになって新たに指摘していることではない。
 福沢の同時代人であった、徳富蘇峰、陸羯南(くがかつなん)、内村鑑三、鳥谷部春汀(とやべしゅんてい)なども口を揃えて福沢の思想が無節操であったことを指摘している。つまり、
「福沢には原理原則、哲学がなかったという評価で共通している。」(前掲書.P.247)
のである。 
(この項つづく)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”いま地球回してますと酔っぱらい” -久喜、高橋春雄
(毎日新聞、平成26年7月18日付、仲畑流万能川柳より)

(“いま日本回してますと酔っぱらい、安倍川餅でクダを巻き”)

「福沢諭吉の正体」-⑬ .     2014-11-04

 明治維新は、西欧の先進文明国に追いつくためになされた改革であるというのが定説である。
 その前提としては明治以前の日本の文明は否定されるべきマイナスのものでなければならなかった。暗黒の封建社会から輝かしい近代文明社会を目指した改革であったという訳である。これが明治期の近代化と言われているものの実態だ。
 明治維新イコール日本の近代化の第一歩という、上述のような定説的理解は果して正しいものなのか。明治元年(1868)から150年近く経った現在、明治維新とは果して何であったのか改めて考えてみる必要がある。

 明治維新は、維(これ)新(あらた)などともっともらしい表現が用いられているものの、その実、権謀術数が渦巻く下剋上(げこくじょう。地位の下の者が上の人をしのいで勢力をふるうこと。新明解国語辞典)、あるいは革命そのものであった。梲(うだつ)のあがらない下級武士が、これまたショボくれた公家(くげ)を利用して、徳川政権を乗っ取っただけのことだ。一般国民を置いてきぼりにした単なる政権交代である。
 その背後には、植民地の拡大を図るイギリス、フランス、アメリカが、彼らの利権を求めて巧妙に操る工作が見え隠れする。現在改めてふりかえってみると、明治維新は、主にこの3つの国が陰で細工をして、日本を自分達にとって都合のよい国家、つまり自分達に利権をもたらしてくれる国家に生まれ変らせるための小細工であったことが判明する。

 このように、明治維新は、政権交代であり、革命であった。騙(だま)し、殺人、なんでもありの血なまぐさい革命であった。とりわけ明治維新の主導的役割を果した長州の面々に関していえば、高杉晋作が組織した奇兵隊はテロリストの集団そのものであったし、初代総理大臣となった伊藤博文は歴代総理のなかで唯一殺人者の汚名を着せられている(渋沢栄一の回想)人物だ。伊藤博文を暗殺した安重根(アン・ジュングン)をやみくもに犯罪者呼ばわりする資格は私達日本人にはない。
 そのような革命を裏で操っていたのがイギリスでありフランスであり、アメリカであった。彼らの手口は、外交という名の脅しと、軍需品と軍資金の提供だ。
 明治維新に要した軍需品と軍資金の実態については、長い間隠蔽されたり、偽りの説明がなされてきたが、近年その実態が次第に明らかになってきた。分ってみればなんのことはない。トリックまがいの策略が横行し、唖然とするような詐術のオンパレードである。欧米列強の手先となって踊らされていたのが、明治維新の志士、元勲と呼ばれている人達であり、福沢諭吉とか勝海舟のような幕府側の役人であった。いずれも欧米列強のスパイであり操り人形である。
 ここでは、二重スパイ、トーマス・グラバー、坂本龍馬、武器商人、アヘン、密貿易、新貨条令、などのキーワードを列挙するにとどめ、詳細は別稿に譲る。

 以上は、明治維新という名の革命における物理的(資金的・軍事的)な側面である。この側面に関して幕府側にあって、欧米列強の意を体して動いた中心人物の一人が勝海舟である。
 同じ幕府の役人であった福沢諭吉は、精神的(文化的)側面で欧米列強の意を受けて動いた人物であった。幕府側にとっては“獅子身中の虫”、つまり二重スパイである。これこそ、維新政府の「御師匠番」とされてきた福沢諭吉の実像だ。
 第2次世界大戦後から現在に至るまでの役人(官僚)が日本の国益などどこ吹く風とばかりに無視して、自分達の利権のために政治家をテキトウに操りながら専らアメリカの顔色をうかがい、二枚舌を駆使して国民を騙し、アメリカの言いなりになってきたのと酷似する。デマゴーグ・福沢諭吉の忠実なるエピゴーネン(Epigonen。思想上の追随者・模倣者を軽蔑していう言葉。広辞苑)である。
(この項つづく)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”CMじゃ奉仕のような保険業” -久喜、宮本佳則
(毎日新聞、平成26年9月27日付、仲畑流万能川柳より)

(銀行、証券と並ぶ欧米生まれのハゲタカの一種です。)

「福沢諭吉の正体」-⑭ .     2014-11-11

 福沢諭吉は、昭和天皇による人間宣言と共に葬り去られるべき人物であった。
 しかし現実にはそうはならなかった。日本の代表的な紙幣である一万円札の肖像画にも用いられるほど日本人を代表する立派な人物とされ、現在に至っている。
 教育者の風上(かざかみ)にも置けない、福沢のようなデマゴークが何故、国民的英雄であるかのように扱われ、日本の顔ともいうべき紙幣を飾っているのか。何故、日本を代表する国語辞典の一つである岩波の「広辞苑」にまで、麗々しく「教育者・思想家」などと書き込まれているのか。

 理由は三つある。
 一つは、福沢諭吉が創設した慶應義塾大学が存在していることだ。この大学、平成20年(2008)に創立150年を迎えた、実質的に日本で一番古い大学である。加えて、創設者・福沢諭吉の虚名をベースにして発展した大学であると称しても過言ではないほど、福沢諭吉と慶應義塾とは離れ難く結びついている。創設者と密接不離の関係にある大学は、日本では慶應義塾を措(お)いて他にはない。私学の雄を自任し、校歌で「陸の王者」と豪語する名門校の実態は、福沢諭吉の虚像の上に築き上げられた砂上の楼閣であった。

 二つは、三田会と称する慶應義塾大学の同窓会の存在だ。現在30万人近くの会員を擁する巨大組織である。もっぱら身内の利害だけで結束し、他を寄せつけない排他的な、いわば秘密結社だ。
 この特異な組織については、島田裕巳著『慶應三田会-組織と全貌』(三修社刊)にその実態が詳しく紹介されている。ただし、実態といっても表向きのものでしかない。虚像である。
 著者の島田裕巳といえば、かつてオウム真理教をヨイショしたことで知られている宗教学者だ。この著書も同様のものと考えてよい。
 本の帯封に
“日本の政財界を動かす巨大組織の実態を検証する!
       -慶應義塾創立150年” 
と銘打って出版されたヨイショ本である。東京大学出身の売文(ばいぶん。(つまらない)小説・評論などを書き、その原稿料・印税などで生活すること。-新明解国語辞典)を生業(なりわい)とする人物によるヨイショ本だ。
 発行部数が確実に見込める出版物の類(たぐい)で、TKCとその創設者・飯塚毅(参照:「誰が小沢一郎を殺すのか?」-⑤、「誰が小沢一郎を殺すのか?」-⑥、「誰が小沢一郎を殺すのか?」-⑦、「誰が小沢一郎を殺すのか?」-⑧、「誰が小沢一郎を殺すのか?」-⑨、「誰が小沢一郎を殺すのか?」-⑩)をヨイショしている高杉良著『不撓不屈』(新潮社)と同じ類である。

 三つは、福沢諭吉の虚像を創り上げた御用学者の存在だ。東大教授であった丸山眞男である。
 いまから50年前、私の学生時代には私のまわりでも丸山眞男のファンがおり、よく読まれていたようであるが、私には何となく胡散(うさん)臭く不潔な感じがしたために、スルーしていた存在である。
 当時芥川賞作家としてもてはやされていた大江健三郎の本を買い求めて読み始めてみたところ、あまりの悪文に嘔吐を催し、ゴミ箱にたたき込んだのと軌を一にする(「冤罪を創る人々、“安部譲二との出会い”」参照)。
 著者の安川氏は、次のような都留重人の丸山眞男に対する評価を紹介している(前掲書.P.362)。
「丸山君とは日本学士院でも一緒でしたし、「福沢論」を含めて議論したことがありますが、彼は自分自身の名声に負けて本当に正直になれなかったのではないかと思います。」
 私にはこの都留重人の評言だけで十分だ。一橋大学の大学院に在籍していた時、都留重人教授から直接教えを受けた者としてこの人の言葉の重さを知っているだけに、そのまま素直に受け取ることができるのである。

 安川氏は更に、
「保守的な福沢を、なぜ、あの丸山が神話化させたのか。」
と自問し、その答えとして
「永久革命論者と信奉されている丸山の、(女性問題意識に示唆されている)意外に把握されていない本質的な限界・保守性が「保守的な福沢」への共鳴・共感をさせたのではないか。」
と述べ、これを「端的な私の仮説」としている(前掲書.P.362)。

 安川氏の上記の仮説は、丸山眞男の虚名に引きづられてこの人物を買いかぶりすぎた結果ではないか。どうも安川氏の考えすぎのようである。
 むしろ都留重人の言うように、丸山眞男は単に
「自分に正直になれなかった」
だけのことではないか。黒を白と言いつくろって、ゴマかしているだけのことではないか。

そこで私の仮説である。
 福沢諭吉は、天皇は万世一系の現人神(あらひとがみ)であるというフィクションを信じ込み、あるいは信じ込んだふりをして、このフィクションを彼の全ての言動の原点に据えている。
 ところが、第2次大戦直後、昭和天皇自らがこのフィクションを「架空ナル観念」と明言して否定したことから、福沢諭吉の全言動が砂上の楼閣と化してしまった。福沢諭吉が全否定される運命にあったのである。
 戦前に、天皇を神に祭り上げて侵略戦争を押し進めていった中核グループの一つに秘密結社・慶應三田会の連中がいた。この連中のほとんどは、戦争犯罪人としての責任を問われることなく、戦後何ごともなかったかのように、ひきつづき各界の要職につき、口をぬぐい、口をつぐんでいた。
 慶應のシンボルである福沢諭吉が全否定されて困るのはこれら慶應三田会の連中だ。
 ではどうすればいいか。福沢諭吉は間違いではなかった、正しいことを行なった人物であると言い張るしかない。黒を白と偽るのである。
 そこで白羽の矢が立ったのが、当時気鋭の政治学者であった丸山眞男だ。東京大学法学部教授である。「東大話法」(注)を自在に操る本家本元だ。黒を白といいくるめることなど朝メシ前である。
 かくて丸山眞男によって福沢神話が創られた。安川氏が言うところの「丸山諭吉」の誕生である。

 以上が私の仮説である。安川寿之輔氏のご感想を賜りたいものである。
(この項つづく)

(注)東大話法。黒を白と言いくるめるインチキ話法のこと。安富歩東大教授の造語。安富さん、このところ女装にお目覚めのようで、以前のむさ苦しいヒゲを落してスッキリなさっている。いいですね。あのマツコデラックスさえもズッコケさせるほどの本格派。女装はするものの、好きになるのはあくまでも女性とのこと。これまた、いいですね。

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”なぜ人はキラキラピカピカ好きなのか” 東京、ショウ雅-
(毎日新聞、平成26年10月23日付、仲畑流万能川柳より)

(キラキラピカピカが好きなのはカラス。人間が次第にカラスに向って“進化”しているのかも。)

「福沢諭吉の正体」-⑮ .     2014-11-18

 私が慶應義塾とその創設者である福沢諭吉に対して疑念を持つに至ったのは最近のことである。それまでは、ほとんどの人がそうであるように、慶應義塾は裕福な家庭の子弟が学ぶ立派な大学であり、その創立者・福沢諭吉は近代日本文化の礎(いしずえ)を築いた立派な人物であると信じて疑わなかった。
 福沢諭吉に対して疑念が生じたのは、彼が生煮えの簿記(Book-keeping)を日本に初めて紹介し、それまで日本に根付いていた勝れものの大福帳方式を排斥した上で、実学としての簿記を帳合の法として普及させたのを知ったからであった。この連載記事の第②で述べた通りである。
 加えて、慶應三田会の存在があった。普通の大学の同窓会とは何やら異なる集団であることが分ってきた。慶應ブランドで人を信用させて引きつけるまではいいが、ひとたび利害関係が生ずると豹変するメンバーが多いことに気がついたのである。自分たちは特別に選ばれたエリートであって、メンバー以外の者は自分達に奉仕するのが当然だと思い込んでいる節がある。倒錯したエリート意識に固ったメンバー同志で結束し、人をテキトウに利用して、その挙句、お金のためなら平気で人を裏切るのである。私がこのメンバーの被害にあったのは、一度や二度のことではない。
 20年前、私を冤罪に引きずり込んだ(『冤罪を創る人々』)のは査察官と検察官であるが、その他に陰で重要な役割を演じた三人の人物がいた。共に私が信頼して親しくしていた慶應三田会のメンバーであった。このことが判明したのは一年ほど前のことである。 
 
 これらの疑念をきっかけとして、これまでさほど興味のなかった福沢諭吉とは一体何者なのか調べているうちに出会ったのが、
“新たな福沢美化論を批判する”
という副題のついた、
安川寿之輔著、『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(高文研刊)
であった。
 安川氏の緻密かつ明解な論述は、十分に納得できるものであったので、早速ネットで福沢諭吉全集全21巻(岩波書店)を買い求め、ザッと目を通してみた。
 収載されている著作、評論、時評、いずれも初級簿記の翻訳である『帳合の法』と同程度かそれ以下の、稚拙なものであった。全体的に見て、江戸時代の寺子屋のレベルにさえ達していないオソマツなものだ。学ぶべきときに、「読み」、「書き」、「ソロバン」の基本の習得とその後の修練がなおざりにされていた人物による戯言(たわごと)である。
 安川氏が「福沢諭吉の思想が無節操であり、福沢には原理原則、哲学がなかった」と指摘しているのも、あるいは福沢が、青少年時代に歪(いびつ)な教育環境の中で育った故(ゆえ)なのかもしれない。
 つまり、江戸時代に世界最高レベルに達していたと言われている日本の教育システムに福沢が背を向けてデマゴーグに走った結果ではないか。。

 江戸時代の教育レベルの高さについては、30年前に、歴史学者の樋口清之が『梅干と日本刀』(祥伝社)の中で的確に指摘している。『梅干と日本刀』は、当時の常識をことごとく打破して語られている卓越した日本文化論であり、歴史学の知見をベースにしながらも考古学、民俗学、文学など幅広い分野の成果を縦横に駆使して書き下されている名著である。
 何よりも、著者自身の体験が随所に散りばめられていることが特徴だ。その実体験から生じた素朴な疑問についての謎解きが、実に分かり易い語り口で展開されている。見事としか言いようがない。いたるところに目からウロコの指摘がなされており、思わずヒザを叩くこと頻(しき)りである。

 樋口清之は日本人が知恵と独創性にすぐれていたことを力説する。ここで樋口のいう日本人とは一般庶民のことだ。「貧民階級」である一般庶民のことを「百姓」(ひゃくしょう、あるいはひゃくせい)というが、その「百姓」こそ日本人の中核であり、知恵と独創性にすぐれている人達であるという。民俗学でいうところの「常民」(People)のことである。さらに言えば、福沢諭吉が高等教育を授けるに値いしないと蔑(さげす)んだ「貧民階級」のことだ。
 このような一般庶民・貧民階級は、福沢諭吉が勧める怪しげな「学問」即ち「実学」を習得するまでもなく、すぐれた知恵を具え、独創性に富んでいたというのである。
(この項つづく)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”アラフォーティ愛は終わって金に生き” 宝塚、忠公-
(毎日新聞、平成26年10月23日付、仲畑流万能川柳より)

(お金は記号、億・兆も夢幻(ゆめまぼろし)と見きわめて、彼岸(ひがん)を目指す愛もある哉。)

「福沢諭吉の正体」-⑯ .     2014-11-25

 日本人の90%以上を占める一般庶民、つまり百姓(ひゃくせい)が、何故それぞれの分野で優れた知恵を備え、独創性に富んでいたのか。
 樋口清之の答えはこうだ。日本という狭い島国で生き抜いていくために必要だったから、というものだ。
 更に樋口は日本人に知恵と独創性が備わっていた理由の一つとして、日本人の立体幾何学のセンス、つまり、数学的思考能力を挙げている。
 以下、樋口の考えを忖度(そんたく。「他人の気持をおしはかる」意の漢語的表現。新明解国語辞典)しながら、私の考えをまとめてみる。

 樋口は、加減乗除を用いて行う四則算、鶴亀算(つるかめざん。算数の問題の一つ。鶴と亀の合計数と合計足数を知ることによって、それぞれの数を知るもの。広辞苑)、図形の絵解き(幾何)、ソロバンといったものが人々の末端に至るまで浸透していた結果、日本人の数学的センスが格段に高められていたというのであろう。
 考えてみれば確かにそうだ。四則算の基礎は「九九」(くく。一から九までの自然数同士を掛け合わせた積を系統的に覚える時の唱え方。新明解国語辞典)であるが、これなど万葉の時代から日本人に根付いていたものだ。万葉集で用いられている万葉仮名の中に、人々が「九九」をしっかり暗記していた痕跡が残っているからだ。万葉の歌は、「九九」を万葉仮名に取り入れるなど、遊び心満載である。更に、ソロバンとのからみでは割り算の「九九」がある。「二一天作五」(にいちてんさくのご)である。寺子屋でソロバンを弾きながら声を挙げて暗唱したものだ。

 鶴亀算についていえば、ごく初歩的なものでさえ解くのに脳味噌が熱くなるほどだ。これを子供の頃から遊びの中にとり入れていたのであるから日本人の脳細胞が活性化するのは当然だ。連立方程式を用いて安直に答えを導き出すのと訳が違うのである。
 また、幾何の問題ともいうべき図形の絵解きについては、子供だけでなく大人も熱中していたようである。仲間内で幾何の難題を作り合い競争しながらそれを解いて遊んでいた。全国各地の神社・仏閣に数多くの絵馬ならぬ幾何の問題と解答(“術”)が奉納され、現在も額縁(算額)の中に誇らしそうに納っている。現存する算額は千面もあるという(佐藤健一著.『和算を教え歩いた男』東洋書店)。
 更に決定的なものはソロバンだ。ソロバンは一般には室町時代の中頃、中国から伝ってきたとされている。しかし、「九九」と同様、遅くとも万葉の時代にはソロバンもしくはソロバン類似のものが定着していたのではないか。通説より800年以上も前のことである。

 モノを数えたり記録したりする道具、このルーツを辿っていくと、8000年前の古代シュメールの時代に行きつくという。1950年代、60年代を通じて古代シュメールの都市の発掘がなされた際に、数多く発見された小さな土の人工物がそれだ。アメリカの考古学者が「トークン」と仮称している物体だ。この「トークン」と名付けられた人工物は、未焼成の円錐形をした土の物体だ。これが今のところ世界最古の会計記録を行う道具であるとされている(マイク・ブルースター著.山内あゆ子訳『会計破綻-会計プロフェッションの背信』、税務経理協会。P.29以下。)
 この「トークン」を使いこなしていくうちに、それらを縄で結んだり、溝のついた盤の上に並べたり、棒で束ねたりしてより使い易くするのは自然の成り行きである。これがいつごろ、世界のどこで今のソロバンのような形になったのかは定かではないが、シュメールを含むメソポタミアに統一国家が形成された頃(紀元前3000年頃)にはソロバンの原型ができていたのではないかと思われる。

 万葉の時代といっても、たかだか1300年か1400年前のことだ。ソロバン、あるいはそれに類似した会計記録用具が日本になかったはずがない。藤原京とか平城京のような巨大な都市が人工的に形成されたり、東大寺の大仏などの巨大構造物が国家規模の予算を費やして造営されたりしているが、それには造営に要する莫大な量の資材と人材の管理が不可欠だ。
 管理運営に関していえば、ヒトとモノの入(IN)と出(OUT)を把握し、その時々の残(BALANCE)を確認することによってはじめて適正な管理が可能となる。フローとしての入(IN)と出(OUT)を把握し、その差額としての残(フローの残(BALANCE))と実際の残(ストックの残(BALANCE))とが一致してはじめて管理が適正であったことが客観的に確認できるのである。これこそ複式簿記の基本そのものだ。
 このような管理作業を実際に行うに際して用いられたのが「トークン」であり、その発展形態と考えられるのがソロバンである。万葉の時代にソロバン、もしくはソロバン類似の計算用具があったと推断するゆえんである。
 
 ちなみにソロバンは単なる計算器ではない。それ自体がすぐれた会計帳簿-しかも複式簿記の帳簿の役割を果していた節がある。私が愛用しているソロバンはごく普通のものであるが、桁数が27桁もある。単なる計算器としては多すぎる。私は何故こんなにも桁数が多いのか長年疑問に思ってきたが、IN-OUT-BALANCEといった会計情報を適時に把握する帳簿代りのものであったとすれば納得がいく。
 現在残されている大福帳は、ソロバンの計算プロセスの一部を記録しただけのもののようである。計算プロセスの大半が、ソロバン上で「ご破算」されてしまっているようだ。
 近江商人が残した大福帳については滋賀大学経済学部あたりで研究がなされている(小倉榮一郎著『江州中井家帳合の法』洋学堂店)が、プロセスの完全な解明がなされていない。解明が尻切れトンボである。ソロバンの存在、つまり「ご破算」の実態が考慮されていないからではないか。
 このようなソロバンを日本人の多くは、子供の頃から教え込まれ、習熟してくると頭の中にソロバンがくっきりと浮かび上がり、暗算ができるようにまでなっていた。ソロバン脳の完成である。あるいはデジタル脳といっていいかもしれない。

 これら主に4つ、つまり、四則算、鶴亀算、図形の絵解き(幾何)、ソロバンを単なる知識としてではなく、生活をする上で必要なものとして文字通り身体で覚えることによって、日本人の数学的センスが自然に磨かれていったのではないか。その結果として得られたものが、樋口清之がいうところの「立体幾何学」のセンスである。あるいは複眼的思考、つまりN次元連立方程式、行列、行列式のセンスである。これなど、近代経済学で多用する「ceteris paribus.(other things being equal.他の条件が等しければ。岩波.英和大辞典)」の対極をなすものだ。
 更に言えば、名人クラスの宮大工、全国の城の石垣の8割をつくったといわれる穴太衆(あのうしゅう),あるいは、古くは行基、空海、近くは松尾芭蕉のような優れた土木技術者は、動く立体幾何学、つまり、動態幾何学を身につけていたに相異ない。地震、台風、洪水などの衝撃を吸収する柔構造の人工物を100年先、1000年先まで見すえて作っていたと思われるからだ。これなどまさに微分積分、偏微分、微分方程式の世界である。
 このような全国民的背景をもとに和算が発達し、ライプニッツの先を行くと言われる関孝和が生まれ、近江商人が大福帳方式を完成させたのである。

 福沢諭吉は和算も大福帳も、実学ではなく役に立たないものとして排斥し、葬り去った。福沢は和算・大福帳がいかなるものであるか知らなかったのである。まさに、盲(めくら)蛇に怖(お)じず、愚かとしか言いようがない。
 福沢には、彼が軽蔑した一般大衆・貧民階級が持ち合わせていた数学的センス、ものごとを立体的、複眼的に見るセンスが欠けていた。立体的な幾何図形が頭の中で時間と共に動いていくことなど、福沢には想像もできなかったに違いない。福沢は、平面的単眼的な思考の域から出ることができなかったのではないか。俗にいう単細胞である。
 明治以来、官僚制のトップに君臨し、日本を我もの顔で支配してきた一握りのエリート・キャリアこそ、このような単細胞・福沢諭吉の忠実なるエピゴーネン(Epigonen。思想上の追随者・模倣者を軽蔑していう言葉。広辞苑)であると言えようか。
(この項おわり)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”訂正も他紙に叩かれ紙面楚歌” 東京、恩田朔郎-
(毎日新聞、平成26年10月31日付、仲畑流万能川柳より)

(“穴にいるムジナ同志で叩き合い”)

「福沢諭吉の正体」-補足1-東大話法の元祖 .     2014-12-02

 16回にわたって連載した本編は、内容が福沢諭吉と慶應義塾大学を全面的に否定しかねないものであるだけに、慎重の上にも慎重に書き進めてきた。事実関係を何回も確認した上で、一字一句おろそかにすることなく、推敲に推敲を重ねて、私の考えをまとめたものだ。

 本稿を書き終えてから久しぶりに
安冨歩著『原発危機と東大話法』
を読み直してみた。
 この著書の標題に用いられている「東大話法」は、安冨氏による造語であり、当ブログでたびたび言及してきたものである。黒を白と言いくるめるインチキ話法のことだ。東大関係者、あるいは東大関係者もどきが、人を煙(けむ)に巻いたり、騙したりするときに用いるレトリック、論法のことである。安冨氏は、『屁理屈のためのレトリックの体系』(前掲書.P.240)と言っている。
 安冨氏は、その具体例として、精神科医、香山リカ氏とか東京大学の原子力御用学者を俎上(そじょう)にのせる一方で、自称経済学者・池田信夫氏を取り上げている。

 この池田信夫氏については一つの思い出がある。かつて私が「ホリエモンの錬金術」を書いて一時期アクセスが殺到したときに、一部のマスコミが私のことを勝手に“アルファ・ブロガー”として取り上げたことがあった。その時に同じ“アルファ・ブロガー”として池田信夫氏も紹介されていたので、一体“アルファ・ブロガー”とは何だろうかと思って、池田氏のブログをのぞいてみた。
 そこには、主として経済とか経済学の解説と称するものが載せられていたのであるが、何やら内外の経済学者とかエコノミストが言っていることをテキトウに引用しながらのツギハギ細工であり、とてもまともな経済学の解説とか経済分析といえるものではなかった。まさに経済学の基礎知識に欠け、経済の実態に触れたことのない人物による戯言(たわごと)のオン・パレード、あまりのことにのけぞってしまった。
 このような人物が“アルファ・ブロガー”であるならば、私に勝手に与えられた“アルファ・ブロガー”の称号は謹んで返上しなければならないと真剣に考えたものだ。
 その池田信夫氏が、経済学と同様にシロウト同然の原発問題に口を出したものだから、早速、安冨氏にとっつかまり、その正体を抉(えぐ)り出されてしまったという訳である。

 安冨氏は、「東大話法」を次のような20の類型(規則)に分類し、池田信夫氏の原発論議はそのほとんどの規則にあてはまると述べている(前掲書.P.144~P.185)。

「東大話法規則一覧」
規則1.自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
規則2.自分の立場の都合のよいように相手の話しを解釈する。
規則3.都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
規則4.都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
規則5.どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
規則6.自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
規則7.その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
規則8.自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
規則9.「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
規則10.スケ-プゴ-トを侮辱することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
規則11.相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
規則12.自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
規則13.自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
規則14.羊頭狗肉。
規則15.わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
規則16.わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
規則17.ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
規則18.ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
規則19.全体のバランスを常に考えて発言せよ。
規則20.「もし○○○であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。
(前掲書.P.24~P.25) 安冨氏が分析した池田信夫氏の正体は、安川寿之輔氏が『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』の中で明らかにした福沢諭吉の正体とそっくりである。福沢諭吉の言説は、「東大話法」の20の規則にピッタリ当てはまるからだ。
 即ち、「思想が無節操であり、原理原則・哲学がなかった」(「福沢諭吉の正体-⑮」)点で、福沢諭吉と池田信夫氏とが一致するのである。しかも、両者とも多くの著作、評論、時評を書き散らしている。もちろん、全体的に見て戯言(たわごと)の域を出るものではない。慶應三田会についてのヨイショ本を書いた島田裕己氏(「福沢諭吉の正体-⑭」)と同様、売文(ばいぶん。(つまらない)小説・評論などを書き、その原稿料・印税などで生活すること。-新明解国語辞典)の徒である。池田氏はまだ元気のようで、時おりテレビに出て何やら喋っているが聞くに耐えない。ヤメ検とかタレントが得意顔で政治やら経済のことに口を出すのと同様、聞くに耐えない戯言(たわごと)である。
 このように考えてみれば、福沢諭吉こそ、「東大話法」の元祖とでも呼ぶべき人物なのかもしれない。

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”糠床を混ぜるIT時代にも” -北九州、お鶴
(毎日新聞、平成26年11月14日付、仲畑流万能川柳より)

(IT時代にこそ。)

「福沢諭吉の正体」-補足2-軍国主義の亡霊 .     2014-12-09

 安冨歩著『原発危機と東大話法』の中に、日本が太平洋戦争に突入する端緒(たんしょ)となった閣議決定が紹介されている。昭和11年8月11日に広田弘毅内閣で閣議決定された「国策ノ基準」がそれだ。
 その冒頭に次のような件(くだり)があるという。
一、  国家経倫(けいりん)ノ基本ハ大義名分ニ即シテ、内、国礎(こくそ)ヲ強固ニシ、外、国運ノ発展ヲ遂ゲ、帝国ガ名実共ニ、東亜ノ安定勢力トナリテ、東洋ノ平和ヲ確保シ、世界人類、安寧福祉ニ貢献シテ、茲(ここ)ニ肇国(ちょうこく)ノ理想ヲ顕現(けんげん)スルニアリ。
 帝国内外ノ情勢ニ鑑(かんが)ミ、当(まさ)ニ帝国トシテ確立スベキ根本国策ハ、外交国防相俟(あいま)ッテ、東亜大陸ニ於ケル帝国ノ地歩ヲ確保スルト共ニ、南方海洋ニ進出発展スルニ在(あ)リテ、其ノ基準大綱ハ左記ニ拠(よ)ル。
(前掲書.P.118。句読点と読みは筆者)

 安冨氏は、この「国策ノ基準」の冒頭部分について、次のような分かり易い説明を加えている。
「この「国策ノ基準」はソ連に対抗して大陸進出するという陸軍の方針を認めつつ、同時に海軍の顔を立てて「南進」も開始することを定めたものです。そのため、全面的な軍拡が国策として確立し、いわゆる「高度国防国家」の構築に日本が着手することになった、重要な閣議決定です。後に、東京裁判では、戦争に消極的であった広田弘毅が、文官として唯一死刑宣告を受けた際の重要な根拠とされました。
 最初の一文は何やら「平和」とか「安寧福祉」とか言っていますが、これは煙幕に過ぎません。二文目にあるように、「根本国策」は、(1)「東亜大陸」における「帝国ノ地歩」の確保と、(2)「南方海洋ニ進出発展」とにある、というのが眼目です。ですから、最初の文の「内、国礎ヲ強固ニシ、国軍ノ発展ヲ遂ゲ」というのは、軍事力を拡大し、その威力によって周辺国を脅して対外的な勢力圏を拡大する、という意味なのです。
 つまり「国礎」は、軍事力のことであり、軍部が自らの立場を強化して予算を獲得するために、自分のことを「国礎」だと言っていたのです。」(前掲書.P.118~P.119)

 デマゴーグ・福沢諭吉が声高に叫んだ「強兵富国」と「脱亜入欧」(「福沢諭吉の正体」-⑦参照のこと)のスローガンが、昭和11年、福沢の死後35年にして亡霊のように国策として蘇(よみがえ)ったのである。軍国主義の亡霊である。

 昭和11年といえば、2月26日に、皇道派青年将校が部下約1400名を率いて「昭和維新」をかかげてクーデターを決行(「2.26事件」)したり、8月には、ヒトラー率いるナチスドイツが国威高揚のためにベルリンでオリンピックを開催(「ベルリン・オリンピック」)して気勢を挙げ、世界的な規模でまさに戦争に突入しようとしていた年であった。

 翻(ひるがえ)って現在の日本の状況を考えてみるに、この太平洋戦争突入の直前の時期とあまりにもよく似ている。そっくりと言っていい。
 思いつくままに、アト・ランダムに現在の状況を拾ってみると、-
1.現在の政治状況は、事実上、自民党の一党独裁であること。公明党はもちろん、維新の党、新世代の党、みんなの党(11月28日.解党)は隠れ自民党であるし、民主党にしても野田佳彦が党首になってから後は、自民党の一派閥でしかない。共産党、社民党だけは自民党と一線を画しているようではあるが、共に党利党略に明け暮れているだけで、一党独裁のガス抜きの役割を果たしているにすぎない。
戦前の「大政翼賛会」がいつできてもおかしくない状況である。

2.東京オリンピックの開催が決定したこと。オリンピックはスポーツの祭典を装った政治・経済的イベントにすぎないことに留意。大国の利権が渦巻く巣窟である。

3.日本の経済・財政の見通しが明るくないこと。偽りのアベノミクス。

4.機密保護法が制定され、言論統制に向っていること。

5.京都大学構内に公安・機動隊が突入し、公然と大学の自治を侵していること。

6.原子力基本法の改正によって安全保障目的が追加され、原発の核兵器としての位置付けがなされたこと。

7.閣議決定によって集団的自衛権の行使が容認され、自衛隊が軍隊として承認され、日陰の存在ではなくなったこと。

8.ヘイト・スピーチ、ネット右翼、ネオ・ナチ、軍事オタク。

9.尖閣諸島の国有化と竹島問題。共に占領軍の中核にいたアメリカが戦略的に介入しており、いまだ明らかにされていない中国、韓国との“密約”があるとされている。極右思想の持主である石原慎太郎が、敢えて国有化のキッカケをつくったのは、意図的に中国を刺激し、トラブル(戦争)へと誘引しようとしたものではないか。彼我の歴史認識を意図的に混乱させる売国行為ではないか。

10.創られる世論とマスコミの操縦。記者クラブ制度と、世論調査費、接待費、広告費の出捐による利益誘導。

11.見識(知識と知恵)に欠ける暗愚な政治リーダーによる内閣。

12.暗愚な政治リーダーを支える利権政治家と経済ブローカー・ハゲタカの存在。

13.腐敗政治家と腐敗官僚の跋扈(ばっこ)。

14.道徳教育の義務教育への組み入れと国歌「君が代」の強制。この背後には、福沢諭吉と共に、「万世一系の現人神(あらひとがみ)としての天皇」を基本理念としたモラロジー(道徳科学。モラロジ-(モラル・サイエンス)は、慶応義塾の分塾(豊前・中津)で学んだ広池千九郎による造語。道徳科学研究所、現、麗沢大学が提唱。)の存在がある。かつての「教育勅語」の復活である。原田実著、『江戸しぐさの正体』-教育をむしばむ偽りの伝統、参照のこと。

15.総理大臣をはじめ、与野党入り乱れた国会議員による靖国神社公的参拝。靖国神社は単なる神社ではなく、日本が侵略戦争をするに際して重要な役割を演じた軍事施設であることを忘れてはいけない。鳥居をくぐってすぐの正面に大村益次郎(帝国陸軍の創設者)の銅像があることと戦争記念館ともいうべき「就遊館」の存在。

 加えて、グロ-バルな視点では、太平洋戦争を境にして、「パクス・ブリタニカ」の時代が終わり、「パクス・アメリカーナ」の時代に移行したように、現在はアメリカがショボクレていることをチャンスとばかりに、隣国の中国とロシアが世界の覇権をねらって虎視眈々としている。中近東、東欧、アフリカ、アジア各地では、アメリカ、中国、ロシア、EU、日本などが利権をめぐって一触即発のツバ競り合いを演じている。利権と領土をめぐる小競り合いから、いつ何時世界的な戦争に移行してもおかしくない状況である。 

 このように縷々(るる)書き連ねていると、78年前の昭和11年にタイムスリップし、今にも軍靴の足音が聞こえてくる錯覚に陥るほどである。

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”誤爆だとあっさり語る報道官” -大分、春野小川
(毎日新聞、平成26年11月15日付、仲畑流万能川柳より)

(物体としての人間、ゲームとしての戦争。)

「福沢諭吉の正体」-補足3-徴兵令詔書 .     2014-12-16

 明治新政府は、明治5年(1872)11月28日、次のような太政官布告(太政官布告第379号)を発し、徴兵令を定めることになった旨の布告を行った。徴兵令詔書である。
「今般、全国募兵の儀、別紙詔書の通り被仰出(おおせいだ)され、相定候條(あいさだめそうろうじょう)、各(おのおの)御趣意を奉戴(ほうたい)し、末々(すえずえ)に至る迄(まで)、不洩様(もらさざるよう)布達可致(ふたついたすべし)。細大の事件は、陸軍海軍両省へ打合可申(うちあわせもうすべく)此旨(このむね)相達候事(あいたっしそうろうこと)。」(句読点、読み下しは筆者)
 別紙詔書は次の通り。

「朕惟(ちんおもんみ)ルニ、古昔(こせき)郡県ノ制全国ノ丁壮(ていそう)ヲ募リ、軍団ヲ設ケ、以(もっ)テ国家ヲ保護ス。固(もと)ヨリ兵農ノ分ナシ。中世以降、兵権武門ニ帰シ、兵農始(はじめ)テ分レ、遂ニ封建ノ治ヲ成ス。
 戊辰ノ一新(注.明治維新のこと)ハ、実ニ二千有余年来ノ一大変革ナリ。此際ニ当リ、海陸兵制モ亦(また)、時(とき)ニ従ヒ宜(よろしき)ヲ制セサルヘカラス。
 今、本邦古昔ノ制ニ基(もとづ)キ、海外各国ノ式ヲ斟酌(しんしゃく)シ、全国募兵ノ法ヲ設ケ、国家保護ノ基(もとい)ヲ立(たて)ント欲ス。
 汝百宮有司、厚ク朕ガ意ヲ体シ、普(あまね)ク之(これ)ヲ全国ニ告諭セヨ。」(句読点、改行、読み下し、注は筆者。)

 この詔書は、戊辰の一新(明治維新)に際しての日本の軍制のあり方について、朕(ちん。天皇)の考えを述べ、太政官をトップとする百宮有司(政府役人)に対して、全国民に対して告諭(こくゆ。[部下・目下のものに]注意すべき事柄などを言い聞かせること。-新明解国語辞典)せよと命令(めいれい。目下の者に対して、自分の思うままに行動するよう、言いつけること。-新明解国語辞典)したものだ。なんとも面妖としか言いようのない屁理屈が、もっともらしく述べられているのは驚くほかない。つまり、この時点で、この詔を発した天皇(明治天皇)は、日本国における絶対的な専制君主、しかも現人神(あらひとがみ)であったということだ。国民的合意のないままに、いわばドサクサまぎれに、いきなり「万世一系の神」に祭り上げられた明治天皇は、いわば操り人形であった。

1) 慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜、朝廷に対して大政奉還
2) 慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令。
3) 慶応4年(1868)3月14日、天皇(明治天皇)(17歳)が五箇条の誓文を読み上げ、建国宣言。

 いまだ17歳の少年であった明治天皇を、いきなり「万世一系の神」に祭り上げた連中は、いずれも腹に一物(いちもつ)のある面々であった。つまり、江戸時代に国政の中枢から外され経済的にも恵まれなかった連中が仕組んだサル芝居(明治維新)の出発点が、「万世一系の現人神」のデッチ上げであった。この天皇の詔(みことのり。天皇の言葉(を書いたもの)。勅語・詔書など。-新明解国語辞典)を受けて、天皇の下僕である太政官によって発せられたのが太政官布告第879号という訳だ。
 ここに太政官(だじょうかん。もとの読みはだいじょうかん)というのは、
「現在の内閣に相当する、江戸時代までの、朝廷における最高官庁。(狭義では、明治初年設置のそれを指す。長官は太政大臣)-新明解国語辞典」
のことである。

 更に、太政大臣について広辞苑にあたってみると、
「① 律令制で、太政官の最高位にある官。職掌はなく、一種の名誉職。適任の人がなければ欠員とする制で、則闕(そっけつ)の官ともいう。大相国。おおいもうちぎみ。おおきおおいどの。おおいまつりごとのおおまえつぎみ。おおきおおいもうちぎみ。おおきおとど。職員令「-一人、右師範一人、儀形四海、…無其人則闕」
②(ダイジョウダイジンとも)明治維新政府の太政官の最高長官。1871年(明治四)廃藩置県後に三条実美が任ぜられたが、85年に廃官。」
とある。
 つまり、慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令が発せられて、徳川家にかわって天皇家が王権かつ神権として復活したのを受けて、朝廷(天皇家)における最高官庁であった太政官(だいじょうかん)が、国家における最高官庁へと勝手に格上げされ、フィクションである神としての天皇の言葉として、全国民に対して絶対的服従を強いたのである。
 先にあげた徴兵令詔書はまさに、「万世一系の現人神(あらひとがみ)」の口を借りて、明治のクーデターを企てた連中が自分達に都合のいいように勝手に定めたものであるということだ。天皇を万世一系と偽ったことといい、更には現人神(あらひとがみ)にデッチ挙げたことといい、姑息なトリックのオンパレードである。
 この時福沢諭吉は38才、維新政府の「御師匠番」として、ゴソゴソと裏の小細工を仕掛け、それが功を奏して、強兵富国、即ち軍国主義への道が定った瞬間であった。

 ―― ―― ―― ―― ――
 ここで一句。
”うちの妻脱げばスゴイは別の意味” -千葉、喜術師
(毎日新聞、平成26年11月25日付、仲畑流万能川柳より)


(…。コメントなし。)

「福沢諭吉の正体」-補足4-徴兵告諭 .     2014-12-24

 明治5年(1872)、明治維新政府は徴兵令詔書(「福沢諭吉の正体」-補足3参照)と同時に、次のような徴兵告諭を発して国民皆兵の兵制(徴兵制度)の方針を打ち出した。

「我ガ朝上古ノ制、海内(かいだい)挙(あげ)テ兵ナラサルハナシ。有事ノ日、天子之(こ)レガ元帥トナリ、丁壮(ていそう)兵役ニ堪(た)ユル者ヲ募(つの)リ、以(もっ)テ不服(ふくさざる)ヲ征ス。
 役(えき)ヲ解キ家ニ帰レハ、農タリ工(こう)タリ又(また)商賈(しょうこ)タリ。固(もと)ヨリ後世雙刀(そうとう)ヲ帯(お)ヒ武士ト称シ、抗顔(こうがん。人もなげにふるまうこと。傍若無人。-広辞苑)坐食(ざしょく)シ、甚(はなはだ)シキニ至リテハ、人ヲ殺シ、官其ノ罪ヲ問ハサル者ノ如(ごと)キニ非(あら)ス。

 抑(そもそも)、神武天皇、珍彦(うずひこ)ヲ以(もっ)テ葛城ノ国造(くにのみやつこ)トナセシヨリ爾後(じご)軍団ヲ設ケ、衛士(えじ)防人(さきもり)ノ制ヲ定メ、神亀天平ノ際ニ至リ六府ニ鎮ヲ設ケ、始(はじめ)テ備(そなう)ル。保元平治以後、朝綱(ちょうこう)頽弛(たいし)、兵権終(つい)ニ武門ノ手ニ墜(お)チ、国ハ封建ノ勢ヲ為(な)シ、人ハ兵農ノ別ヲ為(な)ス。降(くだり)テ、後世ニ至リ名分全ク泯没(びんぼつ)シ、其弊勝テ言フ可(べ)カラス。然ルニ太政維新、列藩版図ヲ奉還シ、辛未ノ歳ニ及(およ)ヒ遠ク郡県ノ古(いにしえ)ニ復ス。

 世襲坐食ノ士ハ、其禄ヲ滅シ、刀剣ヲ脱スルヲ許シ、四民漸(ようや)ク自由ノ権ヲ得セシメントス。是レ上下ヲ平均シ、人権ヲ斉一(せいいつ)ニスル道ニシテ、即チ兵農ヲ合一ニスル基(もとい)ナリ。

 是ニ於テ、士ハ従前ノ士ニ非(あら)ス。民ハ従前ノ民ニアラス。均(ひと)シク皇国一般ノ民ニシテ国ニ報スルノ道モ固(もと)ヨリ其別ナカルヘシ。

 凡(およ)ソ天地ノ間、一事一物トシテ税アラサルハナシ、以(もっ)テ国用ニ充(あ)ツ。然(しか)ラハ即(すなわ)チ、人タルモノ心力ヲ尽シ、国ニ報セサルヘカラス。西人之(こ)レヲ称シテ血税(けつぜい)ト云フ。其ノ生血ヲ以(もっ)テ、国ニ報スルノ謂(いい)ナリ。

 且(か)ツ国家ニ災害アレハ人々其ノ災害ノ一分(いちぶ)ヲ受サルヲ得ス。是故ニ、人々心力ヲ尽シ国家ノ災害ヲ防クハ即(すなわ)チ自己ノ災害ヲ防クノ基(もとい)タルヲ知ルヘシ。苟(いやしく)モ国アレハ即(すなわ)チ兵備アリ。兵備アレハ即(すなわ)チ人々其役ニ就カサルヲ得ス。是ニ由(より)テ之(これ)ヲ観(み)レハ民兵ノ法タル固(もと)ヨリ天然ノ理(ことわり)ニシテ偶然作意ノ法ニ非(あら)ス。
 然而(しかりしこう)シテ、其制ノ如キハ古今ヲ斟酌(しんしゃく)シ時ト宜ヲ制セサルヘカラス。
  
 西洋諸国、数百年来研究実践以テ兵制ヲ定ム故ヲ以(もっ)テ、其法極メテ精密ナリ。然(しか)レトモ、政体地理ノ異(い)ナル悉(ことごと)ク之(これ)ヲ用フ可(べ)カラス。

 故ニ今其ノ長スル所ヲ取リ、古昔(こせき)ノ軍制ヲ補ヒ、海陸ニ軍ヲ備ヘ、全国四民男児二十歳ニ至ル者ハ、尽(ことごと)ク兵籍ニ編入シ、以(もっ)テ緩急(かんきゅう)ノ用ニ備フヘシ。

 郷長里長(ごうちょう、さとおさ)、厚ク此御趣意ヲ奉シ、徴兵令ニ依(よ)リ民庶(みんしょ)ヲ説諭(せつゆ)シ国家保護ノ大本(おおもと)ヲ知ラシムヘキモノ也。

 明治五年壬申十一月二十八日」(句読点、改行、読み下し、注は筆者)

 以上が徴兵告諭の全文である。私はこのたび初めてじっくりと全文に目を通したのであるが、徴兵制を導入するのに何とも奇妙な屁理屈をこねたものだ。1000年以上も前の古代の軍制をひっぱり出してそれを基本とし、西洋諸国の兵制をテキトウに参考にしたというのである。ここで手前勝手な御託(ごたく)を並べているのは、天皇の下僕を装った太政官だ。
 このような、上から目線の勿体ぶった(必要以上に重々しそうにする-新明解国語辞典)物言いは、天皇を「万世一系の現人神」にデッチ上げたからこそなされたものだ。
 前回述べた徴兵令詔書と同様、この徴兵告諭もまた、「万世一系の現人神(あらひとがみ)」を自在に操って、クーデターを企てた福沢諭吉を含むごく一部の連中が、自分たちに都合のいいように、即ち、自分たちの利益に合致するように、面妖な屁理屈をこねまわしているだけである。
 徴兵令詔書も徴兵告諭も、2つのトリック、つまり、天皇は万世一系であるというトリックと、天皇は現人神(あらひとがみ)であるというトリック、この2つのデタラメが出発点となっている極めていかがわしいものだ。

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”ご馳走はないというけど君がいる” -神奈川、トンボ
(毎日新聞、平成26年11月25日付、仲畑流万能川柳より)

(イヨッ!もて男。)

「福沢諭吉の正体」-補足5-“ええじゃないか踊り”の背景(1) .     2014-12-30

 明治維新が断行された慶応3年(1867)、全国的に「お陰(おかげ)参り」が大流行した。
 この全国的な規模で展開された「お陰参り」は、“ええじゃないか踊り”として必ず日本史の教科書に取り上げられる項目である。
 しかし、「ええじゃないか、ええじゃないか」と囃(はや)し立て踊りながら、600万人もの人々が伊勢神宮をめざして乱痴気騒ぎを起したことまでは事実として語られることはあっても、何故そのような騒動が起ったのか、その背景について真相が明らかにされることはなかった。
 この“ええじゃないか踊り”について、新事実の発見をふまえて、合理的な説明を行ったのは歴史家の樋口清之である。樋口は、『逆(さかさ)・日本史1』において、この騒動が意図的に仕組まれていたものであったとし、一般庶民のエネルギーをこの騒動で発散させて、そのスキに、いわばドサクサまぎれに維新のクーデターが断行されたと説明している。
 以下、少し長くなるが、樋口による分かり易い説明文を引用する。
 

「お陰参りとは、伊勢参りの一種だが、農民や町人などの一般庶民が、路銀を持たないで団体参拝に出かけ、街道筋の人々の喜捨や、庇護のお陰で伊勢参拝をすませることをいうのである。とくに式年遷宮(20年に一回、社殿を造営し、旧殿から新殿にうつしかえる儀式)のある年に、60年を周期として大流行したのである。
 ところが慶応三年のお陰参りは、例年になく“ええじゃないか踊り”を伴った爆発的なものだった。
 その発端は、江戸・静岡・名古屋・京都を結ぶ東海道筋や、甲府・松本・会津・大阪・徳島などを中心に、全国的に伊勢神宮のお札が空から降ってきたことからだった。
 夜、その町や村のおもだった家、たとえば庄屋などの屋根に、皇太神宮(伊勢神宮)のお札や、米・大豆・小豆などがどこからともなく降ってくる、という奇妙な現象が起きたのである。すると民衆は、天札が降ったというので、村中で天札祭りをやり、それから「ええじゃないか、ええじゃないか」と踊りながら、旅費も持たないで、伊勢神宮へ団体参拝に出かけたのである。
 ええじゃないか踊りというのは、阿波踊りと打ちこわしをいっしょにしたようなものである。太鼓・三味線・笛などの鳴物を鳴らしながら、多くの人々が興奮状態になって踊り狂い、地主や金持ちの家に土足で上がりこんで、勝手に飲食する。いまで言えば、集団無銭旅行である。また、そのような被害に遭いそうな家は、あらかじめ酒樽や握り飯を用意して、待ち受けていることもあったようだ。
 ときには、「これもらってもええじゃないか」と、品物を持ち去ってしまうこともあったが、持ち主も止めることはできず、しかたなしに「持っていってもええじゃないか」と返答した。また、よその家の娘や人妻に、「ええじゃないか、ええじゃないか」とせまると、人妻や娘は「どうでもええじゃないか」と求めに応じる。
 そして、ひとしきり乱痴気騒ぎがすむと、「ええじゃないか、ええじゃないか、おそそに紙張れ、破れたらまた張れ、ええじゃないか、ええじゃないか」と、卑猥な歌を歌いながら一行は通り過ぎていくのである。
 このお陰参りは、記録によれば600万人にも達したという。幕末当時の日本の人口が約4000万人であり、そのうちの600万人が伊勢に移動したのだから、まさに驚くべきことである。
 そして、日本の民衆のエネルギーが伊勢に集まっている間に、明治維新は進行したのである。
 言うまでもなく、伊勢神宮の御札が天から降ったのは、奇跡でも偶然でもなく、一般民衆の耳目をすべて伊勢に集めておくために、意識的にばらまかれたものである。
 最近、そのお札を刷った版木が、京都の吉田という公家の家から発見された。
 この吉田家で伊勢神宮の御札を大量に印刷する。それを薩摩藩の侍たちが日本の北は東北地方から南は九州にばらまいたのである。とくに官軍が幕府征討に向かう東海道筋や、大阪・甲府などの軍事的重要地点の民衆のエネルギー分散をはかったのである。
 手のつけられないような大混乱が、各地の要衝で次々に起こった。
 洋の東西を問わず、内政における焦点から外部の事件に目をそらせてしまい、そうしているうちに何とかごまかしてしまう、という方法は為政者がよく取ることである。
 かくして、民衆のエネルギーをたくみに利用したり、分散したりしながら、明治維新は成功した。しかし、すでにそれ以前に、庶民の時代は到来していた。庶民は主役にこそなれなかったが、明治維新は、庶民の時代の到来を確認したにすぎないとも言うことができる。」(前掲書.P.309~P.312)

 ―― ―― ―― ―― ――
 ここで一句。
”ハロウィンに化粧落して参加する” -西海、うかい
(毎日新聞、平成26年11月27日付、仲畑流万能川柳より)

(“ハロウィンで化粧落して“ヒト”並みに”)

「福沢諭吉の正体」-補足6-“ええじゃないか踊り”の背景(2) .     2015-01-13

 前回述べたように、“ええじゃないか踊り”は、維新のクーデターを企らむ連中が仕組んだ騒動であり、民衆のエネルギーの捌(は)け口の役割を果たすものであった。これが歴史家・樋口清之の見解である。
 たしかに、それはそれでこの特異な社会現象を解明する一つの見方ではあろう。
 しかし、この見解では、何故600万人もの民衆が伊勢神宮をめざして狂ったように押しかけたのか、今一つすっきりしないものがある。

 そこで私の仮説である。
 まず、始めに天からお札(ふだ)が降ってきたというのであるが、そのお札は伊雑宮(いざわのみや)のお札であることだ。
 伊雑宮は、志摩国答志郡上之郷村(現在の三重県磯部町)にある伊勢神宮の別宮である。
 この伊雑宮、私にとっては忘れることのできない神社名だ。
 今から30年ほど前、私が40歳前後のことである。東京で慶應義塾大学出身の僧侶と出会った。彼に勧められて購入した稀覯本(きこうぼん)が『先代旧事本紀大成経』72巻本であるが、この72巻本が発見されたとされる場所が、他ならぬ伊雑宮の神庫(保玖羅ほくら)であるからだ。この『先代旧事本紀大成経』には、伊雑宮のほうが伊勢内宮より古くからアマテラス大神を祀っていたことが記されており、このことが伊勢神宮の反発を招き、やがては江戸幕府によって偽書のレッテルを貼られ、伊雑宮の秘蔵書として出版した関係者が流刑に処せられるといった受難の歴史があるからだ。

 樋口清之によれば、この伊雑宮のお札(ふだ)を密かに刷っていたのは、京都の吉田家であったという。吉田家から、お札の版木が発見されたことから判明したというのである。
 京都の吉田家といえば、吉田神道(あるいは卜部(うらべ)神道)の本拠地である吉田神社と関連があるのではないか。
 この「吉田神道」(よしだしんとう)、広辞苑によれば、
『神道の一派。室町後期に京都吉田神社の祠官吉田兼倶(かねとも)が唱道、仏教・儒教・道教などを融合し、わが国固有の惟神(かんながら)の道を主張する。天照大神(あまてらすおおみかみ)・天児屋根命(あまのこやねのみこと)から直伝・相承した絶対的本質的な神道の意から、唯一宗源神道・唯一神道・元本宗源神道などともいう。卜部(うらべ)神道。』
とある。
 「吉田神社」についても同様に広辞苑を引いてみると、
『京都市吉田神楽岡町にある元官幣中社。奈良の春日神社を藤原氏が勧請したもの。吉田神道の本拠地となり、大元宮が設けられた。二十二社の一。』
とあるが、ここで説明されている「二十二社」が何のことか私には分らない。
 そこで再び広辞苑にあたってみると、
『二十二社(にじゅうにしゃ)。大小神社の首班に列し、国家の重大事、天変地異に奉幣使を立てた神社。1039年(長暦3)後朱雀天皇の制定。伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大神(おおみわ)・石上(いそのかみ)・大和(おおやまと)・広瀬・竜田・住吉・日吉(ひえ)・梅宮・吉田・広田・祇園・北野・丹生・貴船の各社。』
とあり、確かに吉田神社が二十二社の中に入っている。

 今一つ注目すべきことがある。
 それは、江戸時代に盛んになった伊勢参りは、もっぱら伊勢外宮に祀られている豊受大神(とようけのおおかみ)にお参りするものであったことだ。この豊受大神、鎌倉時代に、天皇家と共に衰退した伊勢神宮を建て直すために、外宮の禰宜(ねぎ)渡会(わたらい)氏が創り上げた独自の神道説にもとづく大神、即ち、作物をはじめ万物を支配する最高神と喧伝された大神である。
 もともと伊勢内宮には、天皇家の祖霊である天照大神が祀られており、古代においては天皇家以外は貴族であっても参拝することができないものであった。もちろん一般大衆(百姓)などは立入禁止である。
 時代が下るにつれて一般の人々でも参拝できるようにはなったが、しかし、一般大衆は、五穀豊穣、家内安全、良縁祈願などの身近な現世利益を求めて、専ら伊勢外宮(豊受大神)を目指した。
 このような状況のもとで、敢えて伊雑宮(天照大神)のお札がバラまかれたのである。従って、伊勢神宮の主祭神は外宮の豊受大神ではなく、内宮の天照大神であることを一般の人々に印象づけるためになされた工作であったとみることができる。

 以上をふまえると、次のようなことが言えるのではないか。
 徳川家から政権を奪取しようと考えた一部の連中が、政権奪取のために天皇を利用しようと考えた。その準備工作が、天皇家の祖神を祀る伊勢内宮をクローズアップすることであり、それがこの狂乱騒ぎであった。いわば一般大衆をマインド・コントロールしようとしたということではないか。
 
 まず、お札を刷ったのが吉田家。これが吉田神道と関連があるとすれば、この吉田神道をもとにして明治維新政府が日本国家を統治するための国家神道をデッチ上げたことが思い起される。
 つまり、明治維新において最も利益を得たグループの一員が吉田家であり、吉田神道であったということだ。
 この吉田神道の本拠地が吉田神社、しかも吉田神社は藤原氏が自らの氏神・天児屋根命を祀る春日神社を勧請したものとくれば、吉田神道の背後に、藤原氏の生き残りの工作が透けて見えるのである。
 藤原鎌足、不比等が天皇家と姻戚関係を結び、藤原冬嗣の時代から文字通り天皇一族と一心同体になって日本の頂点に君臨し続けた一族だ。もっとも平安時代中期、武士が台頭してくると、現実の統治権は武士に移っていったが、依然として権威として武士の上に君臨し続けた。これが江戸時代の終りまで続く。
 徳川家が支配した江戸時代は、将軍の任命が形式上、天皇によってなされるものであったので、徳川幕府は朝廷に対して表向きは敬まってはいたが、皇室の領地(禁裏御料、きんりごりょう)はきわめて少なかったうえに、幕府が制定した禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)によって、天皇と公家の政治活動はほとんどできないように規制されていた。いわば、生かさず殺さず、あるいは敬して遠ざけるといった状況であった。公家全体がショボクレていたのである。
 このような状況にあって、古代から名門の名をほしいままにしてきた藤原氏をはじめとする公家(貴族)は鬱々(うつうつ)としていたに相違ない。

 このように考えてくると、明治維新において吉田家(吉田神道)以上に利益を被(こうむ)ったのは、公家ということになる。
 実際、明治維新後、上層の公家は旧大名とともに華族に列せられ、士族(武士)、平民(農工商民)、新平民(穢多、非人)の上に君臨することになった。多くの歴史教科書で、明治維新政府は四民平等政策をとったと説明されているが、嘘である。四民平等どころか、江戸時代とは異った新たな身分制度が定められたからだ。

 以上を要するに、伊勢神宮を目指した「ええじゃないか踊り」の狂乱騒ぎは、藤原氏をはじめとする公家がシナリオをつくり、薩摩藩の侍たちを手先に使って、伊勢神宮の主祭神が豊受大神ではなく、天皇家の祖霊である天照大神であることを国民の脳裏に刷り込ませるために行った政治的な準備工作であった。
 これが私の仮説である。
尚、この狂乱騒ぎにはアヘンが利用されたのではないかと思われるフシがあるが、いまのところ確証はない。

 ―― ―― ―― ―― ――


 ここで一句。
”檀蜜を観る視る診るで妻は見る” -佐倉、繁本千秋
(毎日新聞、平成27年1月5日付、仲畑流万能川柳より)

(“イケメンを妻は観る視る診るで撫でまわす”)

福沢諭吉と自民党政権 .     2015-01-20

 慶應義塾大学の創設者・福沢諭吉が、一般に流布されている人物像とは全く異なっていたことについては詳しく論じたところである(「福沢諭吉の正体」①~⑯、補足1~6)。
 基本的には、福沢諭吉に関する緻密な論述書・安川寿之輔著『福沢諭吉の戦争論と天皇制論-新たな福沢美化論を批判する』に従ったものではあったが、私は安川氏の論述に次の二つを付け加えた。。
 一つは、近代簿記を日本に初めて紹介したとされている『帳合の法』とは何であったのか、その正体を明らかにした。
 二つは、福沢諭吉が旗振り役の一人として活躍した明治維新とは一体何であったのか、その正体を明らかにした。
 共に、情報論としての「認知会計」による分析結果である。
 
 私と簿記とは長い付き合いである。松江商業高校一年生の時に簿記の基本を叩き込まれてから、半世紀以上の間、常に簿記と向き合っていたことになる。
 始めに芽生えた違和感(「福沢諭吉の正体-⑤」)は、その後薄れるどころかますます大きなものになっていった。ことに、職業として会計士の道を選んで、常日頃“道具”として使いこなしていくうちに、簿記は便利な“道具”であると同時に、ひとたび使い方を誤まれば非常に危険な“道具”であることに気がついた。
 そこで閃いたのが「認知会計」(「冤罪を創る人びと」-認知会計の発見)である。お金を記号、あるいは情報として捉え、簿記会計における多くの仮定を排除する考え方だ。お金を一つの記号(情報)として捉えた情報論と言ってもいい。
 この方法によれば、企業の実体が明瞭な形で浮び上ってくることが判った。嘘・偽りが通用しないのである。

 「認知会計」を思い付いてから10年ほどが経過した。その間私は、この情報論が実務の上で有効なものであるかどうか、実証研究を行い、当ブログで公表した。
 私的企業に関しては、
1.「ゴ-イング・コンサ-ンの幻想-西武鉄道1~6」

2.「西武鉄道グル-プの資金繰り-1~3」

3.「西武鉄道-堤商店のトリック」

4.「西武鉄道、銀行の責任逃れ-その1~その5」

5.「ホリエモンの錬金術-1~20」

6.「ゲ-ムとしての犯罪-1~25」

7.「ハニックス工業事件の真相1~16」

8.「検証!『ホリエモンの錬金術』1~21」
「検証!『ホリエモンの錬金術』号外1~号外13」

9.「トヨタの蹉跌」

などの企業分析を行って、有効性を確認した。

 公会計にかかる分析あるいは、冤罪事件をはじめ国税局査察部のインチキ調査については、
1.「冤罪の構図-1~20」

2.「粉飾された2兆円-1~18」
「粉飾された2兆円-号外1~号外3」

3.「100年に一度のチャンス-1~31」

4.「八ッ場(やんば)ダムの中止と税金ドロボー-1~4」

5.「『疑惑のダム事業4,600億円』八ッ場ダムの費用対効果(B/C)について1~4」
「『疑惑のダム事業4,600億円』号外1~号外2」

6.「保守王国の悪あがき-1~4」

7.「『大義名分なき公共事業』-大手前道路、大橋川改修、八ッ場ダム-1~12」

8.「脱税摘発の現場から、1~13」

9.「税務署なんか恐くない!!1~11」

10.「400年に一度のチャンス-1~26」
「400年に一度のチャンス-号外1~号外6」

11.「ソフトバンクの綱渡り」

12.「原発とは何か-①~⑲」

13.「11/28講演会「闇に挑む『原発とは何か?』-福島第一と島根」-1~14」

14.「高松国税局-恐喝と詐欺による天下り」1~7

15.「マルサ(査察)は、今-東京国税局査察部、証拠捏造と恐喝・詐欺の現場から」①~⑭

16.「認知会計からのつぶやき-政治・経済・歴史を認知会計の視座から見つめ直す」1~10

17.「やりたい放題の査察官(1)~(4)」

18.「民主党政権の置き土産-偽りの査察調査」①~⑮

19.「脱税は犯罪ではなかった」1~7

20.「修正申告の落とし穴」①~⑩

21.「狂える検察官」(1)~(5)

22.「福沢諭吉の正体」①~⑯
「福沢諭吉の正体」補足①~補足⑥

において、原因分析等を行った。ここでも有効性が確認された。
 その他、ブログで公表していない分析結果は、ゆうに100を超える。

 政権を奪取する二年ほど前の自民党は、100億円もの借金をかかえて青息吐息、まさに破産状態であった。破産状態に陥った企業、あるいは餓死寸前の欠食児童であったといってよい。
 なりふり構わぬ手段で政権を奪取した自民党は、餓死寸前の欠食児童が久しぶりのゴチソウを眼の前にして、あたりをはばからずガツガツとむしゃぶりついている姿と同じである。見苦しいを通りこして哀れである。これがこの二年間の安倍政権の実態だ。
 しかし、このような狂気とも言える政権が現在の日本で長く続くはずがない。日本の一般大衆はそれを許すほど愚かではない。
 現在は、福沢諭吉の『帳合の法』、即ち近代簿記がそのままでは通用する時代ではなくなった。それにかわるものとして情報論としての「認知会計」の時代がこようとしている。隠そうとしても、真実は隠せない。「認知会計」による分析結果は、現在進行中の狂気の政治状況を鋭くえぐり出して余すところがない。

 まず、公会計にかかる分析結果は、現在の国家財政システムに重大な欠陥があり、財政支出が底の抜けたバケツのような状態であることを明らかにした(『粉飾された2兆円』他)。歳出がデタラメだということだ。
 また、税務調査、特に査察調査のデタラメの原因が、法律そのものの欠陥とその運用の誤りにあることが判明(「脱税は犯罪ではなかった-1~7」他)。歳入がデタラメであるということだ。
 政治はズバリ、歳入と歳出だ。国家におけるお金の入と出である。それが共にデタラメであるとすれば、政治がデタラメであることを意味する。
 自民党政権は、歳入と歳出の重大な欠陥を放置したままで、訳の分からない政治をゴリ押してはばからない。現在進行中の安倍政権のなりふり構わぬ振舞いはピークに達した観があり、目に余るのである。
 権力はお金であると喝破したのは田中角栄だ。魔性の存在としてのお金、この使い方を誤ると必ずシッペ返しが待っていることを忘れてはいけない。
 現在は、日本の「夜明け前」だ。ほどなく明るい日本がよみがえってくるはずである。

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。
”使用前使用後のよな母娘” -北九州、黄昏桜
(毎日新聞、平成27年1月14日付、仲畑流万能川柳より)

(何の?)
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