講道館の創始者 嘉納治五郎の一切語られることのない負の顔 皇国史観を持った国家主義者であり幻の東京五輪は大日本帝国の皇国史観を決定づける記念すべき祭典になる筈だった! 「嘉納は露骨な他国への侵略を批判していたが、いざ戦争への講道館の貢献も主張し、戦争の功労者の特別昇段も約束している。また、講道館自体も、大日本武徳会と並んで武道による思想善導を主張し、国家の権力装置として機能していた。嘉納は貴族院議員という政治家の立場にあったこともあるし、柔道の練習者や彼の雑誌の購読者に対する影響はあっただろうから、彼を日本のウルトラナショナリズムに全く無関係と言い切ることは難しい。無論、嘉納は講道館柔道を創始し世界への普及、教育者として多数の人材を育て上げるなど、彼の功績は簡単には語りきれない。時代の影響という部分も大きいだろうが、一方で彼の功績だけにとらわれず、彼のナショナリズムという側面を見たときに、こうした問題も浮かんでくることは意識すべきではないだろうか。」






















嘉納治五郎といえば柔道の正史では人格者で通っており
戦争や軍国主義には非協力的で
平等な考えを持つ民主主義者的な印象を持つエピソードばかりが取り沙汰されているが

その実態は中国と中国人 アジアに対し蔑視的な感情を記した手記が残っていたり
ズブズブの国家主義&皇国史観の持ち主で幻の東京五輪の開催が1940年 皇国史観の思想を元にした国家主義の祭典にするつもりだった

と描くと驚く人もいるかもしんない

だが
教育者 柔術家 柔道家としてのプラスの側面だけではなく
極右思想という点で福沢諭吉と相通じるファシストだったのは紛れもない史実である

以下参照 

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http://rhizome.hatenablog.jp/entry/2013/09/25/234110


人物-001 嘉納治五郎 -嘉納治五郎とナショナリズム-

人物 武道


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 2013年9月、2020年オリンピックの開催地が東京都に決定した。1964年の東京オリンピックは知らぬ人は少ないと思うが、1940年の東京オリンピックの存在を知る者はあまりいないのではないだろうか。その中止・返上となった1940年の幻の東京オリンピックの招致成功は当時の日本にとって画期的なことであったが、その背景にはとあるIOC委員の功績があった。

 講道館柔道の創始者・嘉納治五郎は廃れかけていた日本の古流柔術を近代化し、講道館柔道として世界に誇るべき日本文化に育て上げたのだが、彼の功績は広きにわたる。

 嘉納は1909年に東洋初のIOC(international Olympic Committee)委員となり、長きにわたって活動し、1936年のIOC総会で東京オリンピックの招致に成功したのだが、その背景には長年の嘉納の活動をねぎらう思いがあったとも言われる。

 1938年の嘉納の死後、東京オリンピックは日中戦争の長期化により頓挫してしまう。もし、1940年に東京オリンピックが開催されていたらどのようなものになっていたのだろうか。安易に今日のオリンピックのイメージを当てはめるべきではないだろう。

 西暦1940年が大日本帝国にとってただならぬ意味を持っていたのは今日ではあまり即座に理解されないかもしれない。西暦1940年は神武天皇の建国(B.C.660)よりちょうど紀元2600年の記念すべき年だった。

 私がまず紀元2600年で思い出すのは「紀元二千六百年」という唱歌である。この歌はタバコの値上げとからめた替え歌がまた面白いのだが、「荒ぶ世界にただ一つ 揺るがぬ御代の生立ちし 感謝は清き火と燃えて 紀元は二千六百年 ああ報告の血は勇む」などとなんともナショナリスティックな歌詞である。

 当時の大日本帝国に限らず、オリンピックはナショナリズムの高揚のために利用されるものだったのは、1936年のオリンピックがベルリンで行われ、ナチスのプロバガンダに利用されていたこと、1944年にイタリアで開催される可能性があり、またナチスが巨大施設を作り、以後のオリンピック開催を独占しようと思っていたことからもわかる。

 ここで、1940年東京オリンピック招致の立役者・嘉納治五郎に当時の日本の超国家主義(ウルトラナショナリズム)との関係があったのかどうかということが疑問として浮かびあがってくる。

 従来の研究では嘉納とナショナリズムの関係についての言及は充分になされていない。それには、嘉納研究者の東憲一が言うように、柔道家の研究者主体で行われている嘉納研究が創始者嘉納に批判的になりづらいことが理由として挙げられる。

 では、嘉納と大日本帝国のナショナリズムはどう関係しているのだろうか。まず、戦前日本のナショナリズムがどのような形で出てきたのかを確認しよう。

 幕末では個々人の帰属意識は「藩」にこそあり、「国」という共同体意識はなかったが、明治政府になり、その必要性から「国家」と「国民」が創出されていった。その際に国家の基軸としての「皇室」が掲げられ、「国体」も創られた。橋川文三によれば、欧米列強への危機意識や、幕末期に形成された平等意識がこうした背景にはあるという。

 ちなみに、皇室尊重は「国家」の創出のために行われたので、明治維新の元勲たちは皇室を本心から尊ぶようなことはあまりしていないだろうが、宮台真司の言葉を借りるならば「ネタ」が「ベタ」になったというような状態(だんたん天皇が崇高な存在として浸透していった)になっていった。(余談だが、某国の反日運動とかにも似たものを感じる・・・)

 そのような日本国家の潮流の中で、嘉納は帝国大学に入るエリートとして成長していた。嘉納は柔術に興味を抱き、当時廃れかけていた柔術を習い、それを近代化(技術の体系化・理論化など)し、講道館柔道を創始した。これは、井上俊も指摘するように、エリック・ホブズボウムの「創造された伝統」に当てはまるものである。なお、柔術については中国起源とする説もあり、ラフカディオ・ハーンも柔道の技が中国に由来すると主張したのだが、嘉納が日本固有のものであると結論づけたのも興味深い。

 その後の嘉納は学習院や東京高等師範学校で教師としての道をたどっていくのだが、一方で国士を創るための「造士会」を創始、『国士』などの雑誌で学校外でも国の進歩のための若者の教育に力を注ぐ。

 大正期、いわゆる大正デモクラシーという思想の多様化を見た嘉納は、これに批判的な態度を取る。まさに大正デモクラシー化で権威を失いつつあった教育勅語の復権という意味合いを含めた形で嘉納の「精力善用・自他共栄」の理念が登場する。

 ちなみに、大正の帝都震災の際に嘉納は「天は一大試練によって吾等の惰眠と驕慢の悪夢とを破らんとせしには非ざるか」と、東日本大震災の際の石原慎太郎の「天罰」を彷彿させるような記述もしている。

 さて、昭和時代に入るといよいよナショナリズムの気運が国家を覆い、国体についても、ほとんどトートロジー的な説明で、シニフィエの空虚さをシニフィアンの過剰で覆い尽くすような言論がひたすら語られていた(姜尚中『思考のフロンティア ナショナリズム』)。

 こうした中で嘉納も「国体を尊び歴史を重んじ、その隆昌を図らんが為、常に必要なる改善を怠らざらんことを期す」(講道館文化会の設立宣言)などの言論を行う。

 嘉納は露骨な他国への侵略を批判していたが、いざ戦争への講道館の貢献も主張し、戦争の功労者の特別昇段も約束している。

 また、講道館自体も、大日本武徳会と並んで武道による思想善導を主張し、国家の権力装置として機能していた。

 嘉納は貴族院議員という政治家の立場にあったこともあるし、柔道の練習者や彼の雑誌の購読者に対する影響はあっただろうから、彼を日本のウルトラナショナリズムに全く無関係と言い切ることは難しい。

 無論、嘉納は講道館柔道を創始し世界への普及、教育者として多数の人材を育て上げるなど、彼の功績は簡単には語りきれない。時代の影響という部分も大きいだろうが、一方で彼の功績だけにとらわれず、彼のナショナリズムという側面を見たときに、こうした問題も浮かんでくることは意識すべきではないだろうか。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwj46K-m-sDSAhUCk5QKHZiLDngQFggcMAA&url=https%3A%2F%2Ftsukuba.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D29081%26item_no%3D1%26attribute_id%3D17%26file_no%3D1&usg=AFQjCNFJlnuISmylFLH94dJ3ydpVr3BW-Q&sig2=FIkRc0h06PKj0jIbeR2HVw

〈I.研究論文〉 嘉納治五郎の留学生教育を再考す
る : 近代日中関係史のなかの教育・他者・逆説
著者平田 諭治
雑誌名教育学論集
号9
ページ63-97
発行年2013-02-25
その他のタイトル Critical Consideration of the
Foreign Student Education by KANO Jigoro :
Education, Others, and Paradox in the History
of Modern Japan-China Relations
URL http://hdl.handle.net/2241/119324
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嘉納治五郎の留学生教育を再考する
1  嘉納の留学生教育をどうみるか――課題設定と分析視角
( 1 )顕彰・・の検証・・へ
 嘉納治五郎(1860-1938)は、1896(明治29)年より、近代化を志向・模索す
る清朝中国からの留学生の教育に携わっており、初期の中国人留学生教育に寄与
した人物として知られている。高等師範学校そして東京高等師範学校の校長を、
3 期にわたって務めていたときであり、多彩な活動を精力的に展開する、年齢的
にも脂の乗った時期のことである。当初は民家を塾舎として小ぢんまりと開始し、
その後「亦
えき
楽ら

書院」と名づけて運営していくが、留学生の増加に伴って「弘文学院」
(のち改め「宏文学院」)として整備・拡大、その分校を相次いで増設するまでに
発展する。弘文(宏文)学院は、「留学生教育の大本山」との異名をとり、つご
う七千人以上が入学、四千人近くが卒業したといわれる。東京高等師範学校は協
力関係を築き上げ、進学先として卒業生を受け入れながら、1908年以降は留学生
教育を制度化する。
 ところが、嘉納を院長とする同学院は、1906年を頂点として留学生数が減少の
一途をたどり、3 年後の1909(明治42)年になると閉鎖してしまう。1902年には
清国視察まで行っている嘉納だが、その後、留学生の教育に主体的・積極的に関
わることはなく、後年においても多くを語らなかった。
 これは嘉納が37歳から50歳までの13年間の活動だが、かれはなぜ、いかなる経
緯で留学生教育に従事することになったのか、そしてどのような考えをもちなが
ら、いかなる体制をつくり、いかなる教育を行ったのか、また留学生はその教育
嘉納治五郎の留学生教育を再考する
-近代日中関係史のなかの教育・他者・逆説-
平田 諭治*
* 教育基礎学専攻 准教授
筑波大学大学院人間総合科学研究科教育基礎学専攻『教育学論集』第9 集,2013.2
 64
をどのように受け止め、いかなる行動をとったのか、さらにはこうした留学生教
育を、どのように意味づけたらよいのか――これらについて、従来の歴史的語り
を省察しながらトータルに再考するのが、本稿の課題である。
 先行研究を概観すると、嘉納の人物史・伝記的研究では、どちらかといえば周
辺的・付随的な業績として扱われているのに対し、留学を対象とした歴史的研究
では、中国人日本留学の直接の端緒を開いたものとして、数多くの研究がなされ
ている。教育史的・学校史的なアプローチや、著名な関係者・留学生に照明を当
てたものも少なくない。近年ではその実態を掘り起こす研究も発表されており、
新たな解釈も提出されるようになった1 )。
 しかしながら、嘉納についての語りはある種神話化されており、「教育者・嘉納」
という視線に強く縛られている。それゆえ、かれのパイオニアとしての功績を顕
彰・称揚しがちであって、実態的な分析や批判的な検証はなお不十分であるとい
わざるをえない。本稿においては、それら先行研究のうち主要な成果を踏まえな
がらも、以下にみる問題史的な視角から嘉納の動静や言説を再検討し、その留学
生教育の位相と意味をあらためて考察することにする2 )。
 まずは、近代化をめぐる日中関係と嘉納の留学生教育に関わって、その時代的
な背景と歴史的な文脈を整理・確認しておきたい。それは19世紀末から20世紀に
かけての「帝国主義の時代」に当たるが、この背景には、日清戦争に敗北した清
国が近代的な統一国家=国民国家を志向・模索し、日本をモデルとした改革を推
進するという事情があった。これは歴史的には、前近代的な中華帝国秩序が解体・
崩壊し、西洋中心の近代世界システムが東アジアを席巻したことを意味する。西
洋的近代化に先行した日本は、清朝からの要請に応答・対応した、が、その行き
先は「改革」ではなく、清朝打倒を企てる「革命」であった――。
 こうした背景と文脈に重ねて嘉納の言動を検討するとき、あらかじめ問うべき
視点として、相互に関係しあう三つのキーワードを挙げておきたいと思う。それ
は第1 に、比喩的な表現だが「西洋メガネ」、第2 に「アジアの侵略/連帯の二
重性」、そして第3 に「知の結節環としての日本」である。
( 2 )3 つの分析視角
 第1 の「西洋メガネ」というのは、西洋的近代化を推し進めた日本人が、「文
65 
嘉納治五郎の留学生教育を再考する
明化」のイデオロギーと「植民地主義」のエートスを内面化=主体化したことを
たとえたものである。「文明化」とは、「未開」や「野蛮」を他者化し、「植民地
主義」を正当化する、近代西欧の普遍主義的な価値観にほかならない。正木恒夫
によれば、「日本のアジア侵略は『近代化のひずみ』ではなく、近代化そのもの
の必然的な帰結であった。日本人は侵略を始める前に西洋眼鏡をかけて、アジア
を見つめなおした」のであり、「日本人にとって、この眼鏡をはずすことはむず
かしい。既に深く肌に食い込んでいて、はずれなくなっていると言うべきかもし
れない」という。これは「西洋」と「東洋」、「ヨーロッパ」と「アジア」といった、
二元論・二分法的な言説体系である「オリエンタリズム」の問題系であり、その
知=権力のもとで「日本人」という国民的主体が、いかに立ち上げられたかとい
うことである3 )。
 ここには日本の近代経験に刻印された、抜き差しがたいアポリアがある。すな
わち日本は、「ヨーロッパ」からすれば「アジア」の一部であり、「オリエンタリ
ズム」の客体にほかならないが、西洋的近代化を達成しようとすれば、福沢諭吉
の「脱亜論」(1885年)が典型的に示すように、その「アジアというトポス」を
否定・脱却しなければならない。このジレンマを回避するには、みずからが「東洋」
を表象=代表し、「文明化」のエージェントとなることによって、「西洋」と対等
な位置を占めなければならないのだ。この「屈折したオリエンタリズム」のもと
で、「西洋」を模倣して主体化=従属化する「自己植民地化」と、その事実を隠蔽・
忘却しようとする「植民地的無意識」、そして帝国主義的な「植民地主義的意識」
が進行する。しかも「国民」という共同体意識が形成されるのは、ここでの舞台
となる日清・日露戦争期のことだ4)。
 まぎれもなく嘉納は、その「文明化」=「自己植民地化」の先端を担う知的エ
リートとして、自己形成を図ってきた。嘉納の「西洋メガネ」には、清国からの
留学生やポスト中華帝国としての東アジア世界がどのように映ったのか、またか
れの語りは、「西洋メガネ」をかけた「日本人」をいかに想像=制作するものであっ
たのか――こうした問いが成り立ちうる。かれ自身は実際のところ、眼鏡を常用
していたわけではないけれども、なるほど眼鏡というものは、常時着用すればそ
の行為に「無意識」となるものである。
 66
 第2 の「アジアの侵略/連帯の二重性」は、かかる問いと密接に関係する問題
圏であり、近代日本のアジアへの関与を「侵略」か「連帯」かという二者択一で
はなく、「侵略」と「連帯」の両義性・重層性とその絡まり合いのなかでとらえ
ようとする視座である。米谷匡史がいうように、日本の近代経験は、東アジアの
近代経験と交錯・連鎖しており、世界市場へと包摂する「西洋」の衝撃と圧迫は、
上述した「西洋」対「東洋」の対立構図を生むだけでなく、「アジア」内部にお
ける摩擦や分裂や抗争を引き起こした。かつて竹内好は、日本の近代思想を「興
亜と脱亜のからみあい」(1964年)として定式化したが、「興亜論」のなかに「脱
亜」=「侵略」の契機を、「脱亜論」のなかに「興亜」=「連帯」の契機を見出し、
「アジア/日本」としてその矛盾や葛藤を問わなければならない5 )。
 嘉納が留学生教育に関わる日清戦争後は、日中間の政治的・経済的・文化的な
提携の必要性が唱えられ、「興亜論」が前景化していく時代といってよい。「支那(東
亜)保全」がスローガンとなり、「唇歯輔車」「同文同種」が高唱・喧伝され、利
敵行為とみなす批判を凌駕するのだ。とりわけ、反キリスト教的排外運動だった
義和団事件(北清事変)以降、西洋の帝国主義的な中国分割競争が激しくなるに
つれて、三国干渉を呑まざるをえなかった日本では、東アジア情勢への危機感が
高まることになる。この時期は「他国の目にはうらやましいほどの教育文化面で
の日中蜜月の時代」などと概括されるが6 )、その一翼を担った嘉納に即して、そ
うした時代の語りを再考することもまた重要な課題である。
 第3 の「知の結節環としての日本」は、第1 ・第2 の問いと分かつことのでき
ない視座だが、近代世界のグローバルな形成過程を顧みたとき、「日本」は「欧
米と東アジア世界をつなぐ」位置関係にあり、「日本への留学」は「思想連鎖の
最も重要な回路として機能した」ということを指す。山室信一によれば、「明治
維新以降の日本の歩みは非西洋世界の人々が国民国家形成を模索するに際して模
範ないし反模範としての素材を提供」したとされる。清末中国の視点に立てば、
それはあくまで「文明化」された「欧米」への適合過程であったから、「日本」
はその「プロセスのモデル」ないしは「経由地」として評価されたということで
あり、かかる「模範」性が反転するのはある意味で当然だったといわなければな
らない。
67 
嘉納治五郎の留学生教育を再考する
 というのも、中国側は清朝体制の再建と延命を図る「改革」から、体制そのも
のを否定・解体する「革命」へとシフトチェンジし、日本側は「侵略/連帯」の
一方に重心を移しながら、帝国主義的な「植民地主義」を露わにしていくからで
ある。「留学」は「思想連鎖の回路」のひとつだが、いずれにしても「日本」は「知
の結節環」として、「歴史的にも特筆に値する現象」をもたらしたのである7 )。
 もっとも、清国の近代化のための留学としては、なにも日本が最初ではないし、
日本への留学に関しても、嘉納がその教育の先鞭をつけたわけでもない。けれど
も、その後に活発化・本格化する日本留学の起点となると、嘉納の名前はその功
績とともにかならずや言及される。ここで「知の結節環」という視座から問うべ
きなのは、清朝政府や留学生の上述のごときまなざしは、嘉納の思考および言動
といかに交差・連関し、あるいは相反したのかということである。たとえ清国の
近代化路線で一致し、「擬制的延長体としての留日教育空間」が現出したとして
も8 )、そこには「同床異夢」の関係が生じたのではないかと考えられる。
 これまでの歴史研究の語りは、時間軸に沿ってみれば「成功と失敗」「栄光と
挫折」、空間的にみれば「教える日本」と「教わる中国」という、二項対立的な
見方が概して強かった。しかしながら、歴史的な布置や条件とともに考えるべき
は、「他者」への働きかけである「教育」は、その「不確実性」を免れることが
できず、「成功と失敗」を一義的に判定することなどできない、ということだ9 )。
そうだとすれば、嘉納の留学生教育とその打ち切りについても、かかる対立的な
評価軸に貫かれた「物語」に解消・回収してしまうのではなく、その試行性や逆
説性、さらには「他者」との関係性とともに問うていかなければなるまい。
 以上のように、相互に関係する問題史的な視点をもちながら、以下においては、
およそ通時的に実態に即して論述していくことにする。まず、留学生教育の草創
期をそのいきさつとともに論じ、つぎに、亦楽書院から弘文学院にいたるその制
度化を論じる。そして、弘文(宏文)学院の消長に焦点づけて留学生教育の思想
と展開を明らかにし、さらには、その成果および評価について問い直す――これ
らをとおして、嘉納の留学生教育とはいったいなんであったのか、ひとつの解を
導き出してみたい。
 68
2  留学生教育の開始と嘉納の対応――本田増次郎との関係
( 1 )受け入れの経緯と思想
 嘉納が留学生教育に着手するようになったのは、みずから率先したものではな
く、国際関係上のいきさつからである。1895年4 月の日清講和条約の調印から1
年余後のこと、それは清国政府の日本政府に対する要請に端を発する。当時清国
では、対日敗戦が知識人たちに激しい危機感をもたらし、士大夫の康
カンヨウウェイ
有為やその
弟子の梁
リャンチーチャオ
啓超などを中心とする「変法自彊運動」が高まり、若き光
クァンスー
緒帝を動かし
つつあった。康は日本の「明治維新」にいち早く注目し、立憲制の導入や「君主
専制」から「君民一体」への転換を主張するが、国家制度の抜本的な改革を目指
す変法自強運動は、「文明」主義的な教育改革運動でもあった。
 1896年、清国政府は3 か年の官費留学生として、欧米諸国へ3 名ずつ派遣する
が、日本には13名の派遣を決定する。総理衙門の選抜試験を合格した、18歳から
23歳までのエリート子弟である。清朝の年号では「光緒22年」に当たるこの年、
中国は近代化に向けた本格的なスタートを切ったわけだが、日本は明らかに「知
の結節環」としての位置と役割を期待されていたといってよい。
 この年の5 月から6 月にかけ、清国駐日公使の裕
ユーガン
庚は日本政府に対して、その
留学生の受け入れと教育を依頼した10)。当時の文部大臣(その間に外務大臣を兼
任)の西園寺公望は、いったんは「日本語能力問題」を理由に拒絶したが、にも
かかわらず再度にわたる依頼を受けると、こんどは高等師範学校長であった嘉納
に委嘱している。嘉納が後年口述した自伝によれば、西園寺から「相談をむけら
れた」ときの様子は、つぎのとおりである。
 すなわち、「さしより自分に名案とてもなかった。自分はとても暇がないから
直接世話はできないが、誰か人を選み、直接にはその人に世話をさせ、自分は間
接に指導・監督をするなら差支えがないという答をしたところが、それでよろし
いからということになり、三崎町に塾舎を設けて、いよいよ支那人の教育を引き
受けた」という11)。嘉納はけっして快諾したわけではなく、むしろ不承不承とい
う観が強いが、そもそも日本政府自体、留学生教育の意義を見出すことができて
いなかったのである。
 この嘉納の、戸惑いを隠せない受け身的な対応を、どうとらえたらよいのか
69 
嘉納治五郎の留学生教育を再考する
――嘉納の思想は形成史的にみれば、なるほど「東洋的儒教的思想」に根ざして
いるようにみえるけれども、それは「西欧功利主義的実利主義的思想」を前提と
する、その補完物ないしは代替物としてであって、伝統的過去ではない「東洋」
の現在に対しては、やはり「西洋メガネ」をかけて再発見したといわなければな
らない12)。そのまなざしのありようは、「生涯の方向を決定したといってもよい
ほど大きな意義」をもつ、7 年前の最初のヨーロッパ視察(1889 ~ 1891年)に
際した観察や印象から、うかがい知ることができる。
 すなわち、その渡航の行き帰り、嘉納は上海で船を乗り継ぐため、清国社会の
一端を垣間見ているが、途上の英文日記は、欧米の進出ぶりと対照しながら、「金
持でさえも、不潔な支那人の家、町」「奇妙以上に感じた」というように、否定
的で異質な「他者」として表象している13)。帰国時には、「蒲団なしで寝台のみで」
泊まらざるをえなかった「当惑」を振り返りながら、「中国のことは自分はその
当時まで余り知らなかった」と回想している。「西洋は知っていたが、近い中国
を知らなかったための失敗」とも述べており14)、かれは西欧世界を基準とし、日
本との三角関係から「アジア/中国」を蔑視・黙殺する、「西洋・中国複合経験」
を内面化=主体化したのだ15)。それゆえ、当初の消極的・受動的な応対ぶりは、
かれにとっては必然的であった。
 こうして、嘉納が受け入れた留学生の教育は、予備的な知識や十分な見通しを
もちえないまま、急ごしらえで発足することになる。嘉納はまず、東京の自宅近
くの神田区三崎町に民家を借りて塾舎とし、その指導・監督を嘉納塾入門以来面
倒をみてきた、英文学者の本田増次郎に一任する。本田は当時30歳、嘉納の呼び
かけで高等師範学校附属中学校英語科講師になったばかりであり、留学生と起居
を共にし、かれらの世話をしながら、日本語の教授に当たることになる。本田は
中国語に通じていたわけではないが、言語の専門家で語学の実践家であったし、
規律的な生活と一体的な人間形成は、かれ自身が「過去において十分な経験を積
んでいた」ことだった16)。
 この本田が「教育主任」となり、後藤胤保・松下俊雄・吉田彌平といった人物
らが嘱託として講師を務めた。3 年間の予定だが、「過る二年間は日本語学に重
きを置き、傍ら普通学の初歩を授くる方針」を採り17)、「東文(日本語作文)」「算
 70
術」「理科」「地理」「歴史」「体操」を教えている。このうち「理科」や「体操」
などは高等師範学校で教授しており、最終的には各科目において試験を課してい
る。嘉納はほとんど教育にタッチしていないが、話しの大意を書かせる日本語の
試験は、みずからが行っている。当初は戦略なき場当たり的な対応だったとはい
え、要所だけは外すことなく嘉納は責務を果たそうとしたのである。
( 2 )本田増次郎という存在
 上述のとおり、かつての嘉納の塾生だった本田増次郎が手探り状態の留学生教
育の中心を担ったわけだが、その実際はどうであったのか。本田はのちに英文自
叙伝のなかで、「3 年間、私は彼らと同じ屋根の下に住み、同じ釜の飯を食べ、
この物珍しい状況下で、失敗も成功も共に味わった」と振り返っている18)。はる
ばる異国の地にやってきたばかりの、おたがい見知らぬ間柄だった留学生たちに
とって、本田は唯一の頼りにできる存在だったようで、「大きなものから小さな
ものまで、あらゆるトラブルを、ちょうど両親の所に持ち込むかのように私の所
へ持ち込んで来た」という19)。
 当時は「最初少しも邦語を解せざる彼等に、少しも支那語を知らざる教師が
邦語を授け‥‥‥教師の工夫苦心したる所少からずといふ」と報じられていた
が20)、その「工夫」のひとつは「筆談」という、「儒教の古典に精通した中国人
と日本人との間で長きに亘り実践されてきたもの」であった。「昔ながらの筆談
で意志の疎通を図る」ことからスタートし、「3 ヶ月で日常生活に困らない程度
の日本語をマスターしてしまった」のである21)。
 ただ13名の留学生は、全員が3 年間の教育を終えたわけではなく、そろって帰
国の途についたわけでもない。本田はこのことにふれていないが、「病気其他の
事故によりて」3 か月ほどで帰国した者が4 名、代わりに約半年遅れで派遣され
た補欠留学生が1 名おり、最終的には7 名が曲がりなりに整えられた課程を修了
して「卒業」した。事情は不明だが、「卒業」できなかった者が3 名いることに
なり、その一方で、さらに東京専門学校に通学・進学した者も3 名いる。このう
ち首席で卒業した唐
タ ンバオウ
宝鍔は、のちに弘文学院で日本語教育を担当し、戢
ジーイーフィ
翼翬は唐
と日本語教科書『東語正規』を著して、その後の留学生教育に貢献している22)。
 1899年6 月の修了から1 年後、教育の「成果」をアピールする意味もあってか、
71 
嘉納治五郎の留学生教育を再考する
かれらの「卒業式」が講道館で挙行された。嘉納とすでに「教育主任」を退いて
いた本田の祝辞につづいて、戢翼翬が卒業生総代として「仮名交り文」の答辞を「日
本音を以て滔々」と朗読したが、そのなかにはこうある。「三年ノ歳月ヲ経テ種々
ナル学問ヲ学ビタリ。且ツ時々先生ノ正大ナル議論ヲ聴タルガ故ニ、我等ノ脳漿
ニ浸淫シ、三年前ノ思想ニ比較スレバ、真ニ別人ノ如キナリ、嗚呼善イ哉先生ノ
教育我等能ク感奮セザル可ケンヤ」23)――ここでの「先生」は嘉納を指しており、
本田にはひと言の謝意もないが、それは答辞という形式からいえば、当然のこと
かもしれない。だがそうだとすれば、この儀礼的な答辞から嘉納の影響力や留学
生の思想変化を即断すべきではなく――「真ニ別人」になったとしたら、そのこ
とを第三者的に語りうるものか――、むしろ嘉納らの「期待」を読み込んで反復
しているものと考えるべきであろう。
 ところで嘉納と本田は、じつは思想的には相容れない、かなり微妙な関係だっ
たと考えられる。なぜなら本田は、嘉納の精神的な薫陶と物質的な援助を受けな
がらもクリスチャンとなり、国家主義的な嘉納とは対照的にコスモポリタン的な
志向を有していたからである。本田が7 歳年長の嘉納の門をたたき、英語や柔道
を学びはじめたのは、1883年のことだが、それは「貧しい生徒に無償で英語教育
を受けさせてくれる」からであり、「同時に師範の所で柔道も学ぶことが条件だっ
た」からである24)。
 本田は英語を学んだ弘文館で教授するまでになり、嘉納の渡欧に際しては、柔
道を教える講道館の留守を預かるほどであったが、その嘉納が不在にしていた
1890年、本田は「苦悶に苦悶を重ねて」キリスト教に改宗・入信している。本田
はここにいたるまで、「感謝」の念を捧げる嘉納の考え方に違和感を抱き、「知的
自殺」と表現するほど、それまで身につけてきた実学的な知識に懐疑的になって
いた。それが洗礼を受けて、「狭量な愛国主義から幅広い博愛主義へと、実現可
能な現実生活から理想を追い求める生活へと、こうして最初の一歩を踏み出した
のだ」と述懐している25)。
 嘉納が帰国したとき、本田は即刻、嘉納塾を破門されるが、しかしこれで、ふ
たりが絶縁してしまったわけではない。1891年、嘉納は第五高等中学校の校長に
任命されるや、本田を英語科教授に推薦し、ともに熊本に赴任している。嘉納は
 72
本田の受洗と破門に口をつぐんでいるが、本田によれば、「私が破門を覆すに足
るようなことは一切していないにもかかわらず、恩師がなぜ和解されたのか、私
が驚きあわてたのは当然だ。師の度量の広さがなさしめたということで、大方の
説明はつくだろうが、一方でまた、私が生涯を宗教上の大義名分に捧げてしまう
のを懸念されたことも一因ではないかと思う。しかし、このことについては一切
言及されなかった」ということである。嘉納が文部省参事官に復職し、本田が五
高の辞職を余儀なくされたときも、「先生は親切にも、信仰を伏せておくことを
条件に、文部省に来ないかと勧めてくれた」という26)。これは嘉納の知られざる
一面といえるかもしれないが、その延長線上に本田は留学生教育を委託されたわ
けである。
 だが、嘉納がキリスト教への理解を新たにしたわけでも、本田のクリスチャン
としての思想を認めたわけでもない。それにもかかわらず本田は、1897年から高
等師範学校の教授となると、「クリスチャンの教師や学生が多数集まり、私の部
屋で毎月祈りの会を開くようになった」とされる。この集会はのちに、高等師範
学校におけるキリスト教青年会(YMCA)の「組織の中核」となるが、同居する
留学生はもちろんのこと、嘉納もこの活動のことは知っていたようだ。というの
も、「仲間の多くの者は、仮に嘉納校長が私の個人的友人でなかったとしたら、我々
のこの祈りの集会も、その正当性が頭の固い愛国者によって問題にされたかも知
れないと考えていた」からである27)。詳細は定かでないが、嘉納にしてみれば、
もしキリスト教の信仰が留学生の間に広まれば、外交問題にまで発展するおそれ
があるだけに、懸念や憂慮を拭い去ることはできなかったにちがいない。
 つぎにみていくように、嘉納は、清国側のさらなる留学生受け入れ要請に応じ、
1899年10月に「亦楽書院」を開設するが、このとき本田は任務を降ろされ、留学
生の指導・監督から身を引くことになる――それはもしかしたら、こうした事情
が関係しているのかもしれない。
3  留学生教育の制度化――亦楽書院から弘文学院へ
( 1 )受け入れの拡大と対応
 日清戦争後、康有為や梁啓超らを中心とする変法自強運動が勢いを増し、近代
73 
嘉納治五郎の留学生教育を再考する
的な政治改革、国政の徹底改革が進められようとしたことは、前述のとおりであ
る。しかしながら、西
シータイホウ
太后を中心とする保守派のクーデターにより、かれら変法
派が主導する運動は挫折を余儀なくされ、急進的な改革は一頓挫をきたすことに
なる。「百日維新」といわれる、1898年の「戊戌の変法」から「戊戌の政変」へ
の急旋回である。だが翌年からの義和団事件により、清国の半植民地化が決定的
となるや、西太后下の保守派は後退して洋務派の官僚が台頭し、みずから攻撃・
否定した体制変革に取り組まざるをえなくなる。
 このように政局はめまぐるしく変転するが、日本に対する留学生の派遣は継続
的に行われ、総理衙門や各省督撫から官費の派遣が相次いだ。本格化するのは義
和団事件後の西太后新政下だが、洋務派の湖広総督
ヂャンヂードン
張之洞が著した『勧学篇』(1898
年刊)は、もっとも影響力が大きかった。『勧学篇』は、1860年代以来の「洋務運動」
の指導理念である「中体西用」論――中国の伝統的な学問・思想を「主」とし、
西洋の近代的な学術・技芸を「輔」とする考え方に基づいており、「興学」(学堂
の建設と普及)は「遊学」(留学)に及ばず、その対象国としては「西洋」は「東
洋」(日本)に及ばない、と言明していた。まさに「知の結節環」としての「日本」
の積極的評価である。日本政府は、当初は受け入れに消極的だったが、一部の関
係者の間でその外交上・国益上の意義が認識されるようになり、日本側からの働
きかけも行われるようになるのだ。
 こうしたなかで、嘉納は1899年10月、張之洞が派遣した留学生らを受け入れな
がら亦楽書院を開設する。ただ開設とはいっても、それまで「嘉納学校」などと
仮称され、正式な名称がなかった塾舎を新たに命名して整備したものであり、こ
のとき本田に代わって国語学者の三矢重松が「教育主任」に就いている。「亦楽
書院」という名称は、有名な『論語』冒頭の一節――「朋有り、遠方より来たる、
亦た楽しからずや」に由来する。三矢重松は「子供の頃から嘉納が世話した人」
で、大阪府立第五尋常中学校を辞職して上京し、のちには高等師範学校教授とな
るが、「篤実綿密な人物で、学問は国語学を専攻し、尤も文法研究に孜々として、
一生を捧げたといふべく、日語教授として極めて適材であつた」と評される28)。
 注目しなければならないのは、三矢が1896年に辻清蔵と共訳で、『台湾会話篇』
を出版していることだ。本書は、「最近刊行(千八百九十二年第三版)英人レヴェ
 74
レンドマッガワン氏著厦門語集(漢名英華口才集)に本づきて同書の英語を邦語
に翻訳し本邦人をして台湾語を学ぶに便ぜしめたるもの」であり、「新領地」つ
まり植民地台湾の統治に活用されることを意図したものである29)。おそらく嘉納
は、本田の件もあって、こうした業績をもつ旧知の三矢を呼び寄せたのではない
だろうか。そうだとすれば、ここに嘉納の考え方の一端があらわれているのかも
しれない。かれは清国の留学生と植民地台湾の人びとを、同列に認識していたよ
うに思われるからである。
 ここで三矢は、本田と同じように、寝食を共にしながら、留学生の指導・監督
に当たり、内堀維文という人物が助力した。やはり日本語を中心に普通学を教授
し、当初「学生其業に熱心にして、進歩の較著なるものあり」といわれ、「三箇
年を以て其業を畢る」と伝えられるが30)、その実態など詳しいことはわからない。
この時期の嘉納は、1898年11月から官職を離れており、3 度目の高等師範学校長
に就任するのは、1901年5 月のことである(1902年3 月の校名変更以降、東京高
等師範学校長)。その関わりかたは、三矢の日記によると、ごく散発的に「午前
嘉納君来る」(明治32年12月9 日条)、「夜嘉納君を訪ひ、学生監督の事を相談す」(同
33年1 月17日条)などとあり31)、それまでと同様、留学生の教育に日常的に携わ
るのではなく、基本的には三矢に任せていたものとみられる。
 この時期はまだ留学生が十数名であったため、これで対応することができた
が、しかし清国において日本への留学がさらなる注目を集め、来日する留学生が
劇的に増加するようになると、嘉納は新たな留学生教育機関の設立を決断するこ
とになる。その背景には、義和団事件をへて1901年以降、西太后新政下の重点施
策として日本留学が積極的に奨励されたことがあり、より直接的には、川島浪速
が創設した北京警務学堂からの留学生受け入れの要請や、当時の清国駐日公使の
李リ
シュンドゥオ
盛鐸を介して張之洞からの留学生教育の相談があった。すでにいくつかの留学
生教育機関が設けられていたが、官費・自費の別なく大量に来日する留学生を受
け入れる日本側の態勢は、まったく不備だったのである。
 嘉納によれば、「当時の外務大臣小村侯爵(当時男爵)から、塾舎をさらに拡
張して学校をたててはどうかとすすめられたので、いよいよ宏
ママ
文学院という支那
人教育を目的とする学校を設立するに至つた」という32)。義和団事件の戦後処理
75 
嘉納治五郎の留学生教育を再考する
に当たり、1901年9 月に外相に就任していた小村寿太郎から慫慂されたとすれば、
それは多分に外交戦略・権益拡大に関わる意味合いを帯びていたとみてよい。こ
うして弘文学院は、1901年11月、東京市牛込区西五軒町に広大な屋敷を賃借して
設立され、翌年4 月に「私立学校」として正式に認可された。
 これは多種多様な教育機関を管理・統制するために制定された、1899年の勅令
「私立学校令」に基づく「各種学校」であり、嘉納からの願出が東京府に認可さ
れて文部省に報告されている33)。嘉納はこのとき43歳、その名称はさきにふれた、
20年前に創設・運営した弘文館(1882 ~ 1889年)に由来する。1899年10月には
光緒帝からその功を褒賞されているが、これまでの経緯と実績があり、後述する
ような清国側のニーズに柔軟に対応したこともあって、当時「最も有名であり、
収容学生数の最も多かつた」のが、この弘文学院であった34)。
( 2 )弘文学院の教育体制
 では嘉納は、どのような体制を整え、いかなる教育を行おうとしたのか。
 設立時の「私立弘文学院規則」によると35)、その「目的」は「清国人ニ日本語
及普通教育ヲ授クル処」とし、「清国人ニ専門ノ学科ヲ授ケ日本人ニ清国語ヲ授
クル課程ヲ設クルコトアルベシ」とされている(第1 条)。学生は「院内ノ学寮
ニ寄宿」させて「監督薫陶」することになっており、「通学」は許可制(第2 条)、
学費は諸費用を含めて前納制である(第24条)。修業年限は原則として3 年で、
9 月始期・3 学期制を敷き(第4 ~ 6 条)、学期末・学年末の試験の成績によっ
て進級・卒業が認められることとなっていた(第10 ~ 16条)。入学条件は「身体
健全品行方正ニシテ清国普通ノ教育ヲ受ケタルモノ」で、年齢制限や選抜試験は
ない。志願者は履歴書を添えた入学願を届け出ることになっているが、「日本人
又ハ清国人」の「相当ト認メタル」保証人の連署が必要である(第17 ~ 20条)。「品
行学術共ニ優等ナルモノ」への表彰の規定がある一方、退学や出席停止の規定も
あり、「疾病」「学業不進」「学費不納」のほか、「品行修ラズ改善ノ見込ナキモノ」
が対象であった(第21・22条)。
 学科課程をみると、授業日数は1 学年およそ43週、週当たり33時数となってお
り(第7 条)、各学年・各学期ごとに「清国人ニ日本語及普通教育ヲ授クル」た
めの学科目と授業時間が定められた(第9 条)。科目を瞥見すれば、第1 学年が
 76
「修身」「日本語」「地理歴史」「算数」「理科示教」「体操」、第2 学年が「修身」「日
本語」「地理歴史」「理科示教」「算術」「代数」「幾何」「理化」「図画」「体操」で
あり、第2 学年には随意科目として「英語」が加わる。第3 学年は二部に分かれ、
第1 部(文科系)が「修身」「日本語」「三角」「歴史及世界大勢」「動物」「植物」「英
語」「体操」、第2 部(理科系)が「修身」「日本語」「幾何」「代数」「三角」「理化」
「動物」「植物」「図画」「英語」「体操」であった。授業時数に着目すれば、「日本
語」が圧倒的に多いが、学年・学期が進むにつれて、その比重は小さくなり、第
3 学年になると、ほぼ同時数の英語の授業があった。第1 部と第2 部では、科目
による時数の違いもある。各学年・各学期に「修身」1 時と「体操」5 時が必置
されているのも、特徴的である。
 こうして、「私立各種学校」としての弘文学院の開設により、必要な学則が整
備されることになった。塾舎としての発足当初については、規則等の存在が確認
されていないけれども、当然のことながら、それまでの実践や経験を踏まえて策
定されたものとみられる。大枠は所定の申請様式に拠るだろうが、嘉納の理念的
な考え方も、そこに盛り込まれているとみるべきであろう。嘉納は留学生に対し
て、弘文学院は「普通中学のようなもの」「将来、高等学校や大学の試験を受け
るための予備校」と説明しているが36)、当時の「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ
為ス」中学校の、「中学校令施行規則」(1901年文部省令)と比べると、科目数・
授業時数ともこれを上回っているのがわかる。
 三たび高等師範学校長に就いた嘉納は、このため同校の教官を中心に各方面に
協力を求めた。去就はめまぐるしかったが、「日本の学術界を代表する錚々たる
顔ぶれ」が授業を担当している37)。職員体制も整えており、「学院長」の嘉納のもと、
「学生監」「教授」「助教」「講師」「幹事」「会計主任」「書記」が置かれた(第26条)。
亦楽書院で「教育主任」として尽力した三矢重松は、高等師範学校に勤務するか
たわら、引き続き日本語を担当し、1902年12月からは「教務幹事」に就任している。
 だが、これで留学生教育の体制づくりが完了したわけではないし、これがその
まま実施に移されたわけでもない。嘉納が留学生に向けて述べたように、この学
科課程を修了して卒業すれば、「無試験にて文部省直轄学校に入学することを得
るの便も開かれあることなれば、同院学生の便宜は大なり」であったが38)、しか
77 
嘉納治五郎の留学生教育を再考する
しながら実際のところ、この「普通科」といわれる「正科(本科)」がその本流
を占めたわけではなかった。というのも現実には、清国留学生側の事情や要求に
応じながら、多種多様な別科の教育課程――とりわけ短期の「速成科」を随時開
設したからである。
 開校当初から、「猶ほ清国目下の大勢を察し、便宜特殊の別科学級を編制して、
之が授業を為し居れり」という状況であり、具体的には、まず「北京警務科班」と「速
成師範科班」が設けられた。前者はさきにふれた、北京警務学堂から派遣された
政府官費留学生の「別科学級」(26名)であり、警察官の養成を目的とする実地
練習を含めた3 年課程である。後者もまた先述と関係するが、張之洞総督が派遣
した湖南省官費留学生中心の「別科学級」(15名)で、近代的な教員養成の「一
斑に通ぜしむる」ことを目的とする6 か月の課程だ39)。当初から「正科学級」の
留学生数は、それら「別科学級」の人数を下回っていたが、両江総督劉
リウクンイー
坤一が派
遣した南洋官費留学生の周
チョウシューレン
樹人――のちに近代中国を代表する文学者・思想家と
なる魯
ルーシュン
迅は、その入学第一号である。
 最初はこれら官費留学生を中心とする、三つの「学級」=出身省別に編成され
た専用の教育課程だったが、その後多様な社会階層に属する自費留学生が急増し、
さまざまな分野・種類の速成教育が主流になっていく。すでに当時から、「学院
の教育事業は‥‥‥必要に応し別種の速成学科を設けて、教育を施すの準備あり
と云へば、相当人員を一団とし、特別約束を提供して、特殊臨機の教導を志願し
来るものあるときは、他の学術技芸と雖も、警察官養成、師範科速成の例に倣ひ、
短日月を以て其大体に通了し、直ちに実際に応用することを得る便宜を与へ、清
国目下の現状に対し、有用の人材を養成して、要急の需に応する心算なりと云ふ」
と紹介されていた40)。「清国目下の現状」というのは、「西洋メガネ」をかけた嘉
納らに共有される、危機意識に満ちたオリエンタリズムの見方だが、そのまなざ
しが「別種の速成学科」の正当化と常態化をもたらすことにもなる。
 各種速成科の開設については、1903年にこの学院の日本語教師に招かれ、のち
に「中国人留学生教育の父」と慕われた松本亀次郎によれば、張之洞の相談に応
じた嘉納の意見に端を発するという。すなわち、「自分(嘉納――引用者)に教
育意見を求められたから、余は一ヶ年、一ヶ年半、三ヶ年修業の三種学生を送る
 78
事の必要を述べた。短期の学生は相当年齢に達して、進士挙人等の資格を有する
ものに、通訳を用ひて教授する速成科で、三ヶ年修業の者は、少年学生に普通学
から教授して、修業の後、高等学校や大学専門学校に入学せしめるものである。
此の意見が張之洞氏其の外各省の総督巡撫等に認められて、三十五年頃から、盛
んに速成師範科や、速成警務科等の学生を送られると同時に日語及び普通科の学
生も、多数に送り来つたのである」とのことである41)。
 これは後年の回想だが、はたしてこの当時において、嘉納は普通科と速成科の
併設をどのように考えていたのであろうか。そして留学生からは圧倒的に支持さ
れた、速成科中心の教育のありかたをいかにとらえていたのであろうか――速成
教育の主流化は弘文学院のみならず、留学生教育全体の転跌となるが、その具体
相をさらに嘉納の言動とともにみていくことにする。
4  留学生教育の思想と展開――弘文(宏文)学院の消長
( 1 )嘉納の動静と思想
 義和団事件後の1901年以降、西太后新政下で本格化する日本への留学は、1904
年からの日露戦争をへて過熱し、「日本留学極盛時代」といわれる活況が到来す
る。それは、新政実施のための人材を早急に必要とした清朝政府が、張之洞らの
提言によって無条件に留学を奨励するようになり、留学帰国者を優遇する措置を
採用したからであった。伝統的な官吏登用試験だった科挙制度は、1905年に廃止
される。この時期は矢継ぎ早に近代化政策が展開し、日本を全面的に模倣した近
代学校制度が創始された。日本への留学は、整備途上にある近代的な「学堂」教
育の代替的な役割を果たし、そのメリットが個人的な欲望や社会的な地位と結び
つくなかで、一段とクローズアップされるわけである。中国から来日する留学生
は、性別・年齢・出身・階層において多様化していき、その概数は1902年に五百
人だったのが翌年には倍増し、1906年には八千人に達して最盛期を迎える。
 だが、こうした留学生の膨張ぶりは、すでに権威が失墜していた清朝政府にとっ
て、自己否定の契機を助長・増幅する危うさを蔵していた。先述した「改革」から「革
命」へのシフトチェンジであり、日本留学は意図せぬ「思想連鎖の回路」として、
反清・排満を掲げる革命運動の温床そして拠点となりえた――実際、そうであっ
79 
嘉納治五郎の留学生教育を再考する
たのだ。清朝政府は留学生の急進化をもっとも危惧しており、清国の近代化のた
めの留学は積極的に推進するが、革命運動への参加はあくまで阻止しなければな
らなかった。
 そこで清朝政府は、日本政府の協力を求めながら、留学生の政治的活動を取り
締まろうと画策し、文部省は1905年に留学生取締規則を制定する。すると留学生
は、これに激しく反発・反対し、同盟休校や一斉帰国などによって抵抗・抗議す
る。かかる紛糾を機として俎上に載るのが、速成主体の留学生教育のありかたで
あり、私立学校の営利主義的な方針や傾向であった。ここにいたり、清朝政府は
留学生の速成教育の中止や資格の引き上げによって、「量」から「質」への転換
を図ることになる。けれどもそのことは、留学生数の大幅な減少を伴うことにも
なり、辛亥革命から中華民国の成立にいたる1912年には、千四百人にまで激減し
てしまうのである。
 これが弘文学院の消長・盛衰に関わる大きな流れである。それは「少数良質の
時代」から「多数速成の時代」へという図式で語られ、「留学生の空前の量的拡大」
は「その必然的結果として留学生教育の質的低下」をもたらし、日本留学という
ブームは終息を迎えたと評される42)。ここでは、そうした歴史的文脈に棹さしな
がら、嘉納がとった行動とその思想的背景を探り、この学院が廃止されるまでの
軌跡をみていきたい。
 その際、注目しなければならないのは、嘉納が学院開校後の1902年7 月から10
月にかけて清国を公式に訪問し、この学院を紹介・宣伝しながら教育事情を視察・
調査していることである。この外遊は、小村外相の勧めによる官命を帯びたもの
だが、清国では「当時の自分の地位に比較しては、余程特別の待遇を受け‥‥‥
色々意見を交換した結果、帰朝後、益々留学生は各省から多数に派遣されるに到
つた」という43)。嘉納は2 か月ほどの滞在期間に、天津・北京・上海・南京・武
漢・安慶・杭州など、華北地方から華中地方にいたる主要各都市を巡遊し、清国
の改革事情や学事状況を実見するとともに、張之洞をはじめとする要路の人物と
会談している。この清国歴訪という経験は、嘉納の留学生教育をめぐる思想と展
開を考えるうえで、見逃すことができない。
 まず注目すべきは、嘉納が清国の改革・刷新の「急務」を語りながら、方法論
 80
的には「急進」を否定して「漸進」の必要を力説し、その観点から留学生教育の
ありかたを意味づけていることである。嘉納によれば、「清国今日の大急務は、
実に多数の人民が、速に世界に対する自国の地位を自覚することである」が、「緩
慢なる旧思想」と「過敏なる新思想」が「衝突」すれば、「大いなる内乱」を生じ、
「清国の滅亡」を招いてしまう44)。「現今支那要路の人は多く古風の頭脳を有する
を以て、迚も急進は望む可からず。故に教育の点に就ても、自分は漸進主義を採
る者なり」と、かれはいうのだ45)。
 北京滞在中の8 月5 日、当時管学大臣として教育改革を指揮した張
チャンバイシー
百煕との会
見では、こうした考えを敷衍しながら、つぎのように述べている。すなわち、「支
那今日の事情に於て、目下派遣の留学生の如く速成的教育を急務とするの必要あ
るべしと雖、根底ある教育は決して速成を以て期すべからず、必ず普通教育を終
り、専門教育を受け、深遠なる研究を遂げし者に待たざる可らず。貴国今日に於
て、唯刻下の急に逐はれ速成教育のみに注目し、根底ある教育を苟且に付するあ
らば、他日国家の進展に於て如何ともすべからざる手遅れなるべし、故に速成的
留学生を派遣すると同時に年少者を派して、他日国家の為め深遠なる学術に依り、
国家の経営の任に当るに足るべきものを造り置かざる可らず」と46)。前述したよ
うに、もともと速成教育の方式は嘉納の意見に端を発するようだが、あくまで便
宜的・補助的な手段として、かれはとらえていたのである。
 つぎに注目したいのは、嘉納が留学生教育をめぐって、みずから「知の結節環
としての日本」を合理化・正当化し、模倣的な清国の国民国家化を訴えているこ
とである。嘉納がいうには、「支那留学生を欧米諸国に派遣せしむ可きや、或は
我邦に渡来せしむ可きやの問題に就ては、自分は最も日本に留学せしむるの得策
たるを信ずるものなり。其理由の重もなるものは経費の多少は勿論、第一彼我道
徳主義の根底を一にすることは最も養成に便利を感ずる所にして、留学生自身も
異文異教の土地に於て修業するに比すれば、其感覚も同日の談にあらざる可し」
とされる47)。
 張百煕と会見した翌日の、恭親王や醇親王との会談では、「貴国と弊邦とは同
文の国にして、古来互に来往し、道徳に於ても均しく孔孟の教を尊崇し国体に於
ても君主を尊奉するの国柄なり」と断じ、「儒教」を共通の資源としながら、日
81 
嘉納治五郎の留学生教育を再考する
本への留学のメリットを吹聴している。それと同時に、清国が「南北言語を異」
にし、各省の留学生ごとに通訳が必要になる現状にも言及しており、「国家統一
の上に大関係を及ぼすものなれば、貴国は宜しく今日に於て言語の統一を図らざ
るべからず、言語の統一は実に困難中の難事にして容易に其結果を見るべからず
と雖、国民教育にして普及するあらば自ら言語の統一を期すを得べし」と述べ
る48)。日本では理念的・規範的な統一言語として「国語」が制度化され、その教
育が義務教育たる小学校でスタートしたばかりだったが、そうしたことが嘉納の
念頭には確実にあったであろう。
 そして、さらに指摘しなければならないのは、こうした言動が指し示すように、
嘉納が清国を「西洋メガネ」に映じるネガティブな「他者」として表象し、「中
国/日本」の連帯性・一体性を説きながら、日本の関与を鼓吹したことである。
もともと前向きとはいえなかった嘉納が清国への関心を強めたのは、「東洋の老
帝国がかくの如き悲運に陥りたる」義和団事件以降のことだ49)。嘉納が造士会を
立ち上げて発行した『国士』をはじめ、当時の雑誌メディアなどをとおして、か
れは「東洋の先進国」たる日本の責務を盛んに語るようになる。
 その論理は、「清国の保全発達は唯清国自身の為のみにはあらず、我国をして
争乱の渦中に投ずるの不幸を免れしめ、又欧米諸国をして衝突の原因を遠からし
むるものなれば、清国は必ず保全せられ、自ら防御し、発達し得る様、之を助
けざるべからず」というものであり、より端的には、「真に善隣の道を尽してこ
そ、始めて其結果反射して我国の大利益となるべし」ということである50)。しか
も「広大なる邦土」ゆえに、「清国今日の実際は、世人が日本に居りて考ふるが
如き刷新の気運に際せるものに非ず」というのが、実地に見聞したかれの認識で
あった51)。利敵行為とみなす批判も根強かったが、かくしてパターナリズム――
自国本位の恩情主義的なまなざしから、日本の清国に対する容喙・介入が奨励・
鼓舞されることになる。日清・日露戦争期に「国民」意識が構築されることを考
えるなら、嘉納もまたかかる言説の生産を通じてその創出に寄与したともいえよ
う。
( 2 )弘文(宏文)学院の顛末
 こうして、国益と結びつく「文明化の使命」をもって留学生教育に当たった嘉
 82
納だが、かれが帰国してからの弘文学院は、どのような顛末をたどるのか。前述
のとおり、清国各地からの留学生が激増し、各種速成科の増設が必要になってく
ると、同学院は本校舎だけでは手狭になり、大塚・麹町・真島・猿楽・巣鴨の分
校舎(のち統廃合して白銀分校場)を相次いで開設する。開学当初は数十名の規
模であったのが、留学生の来日がピークに達する1906年までの4 年間に、合わせ
て三千五百名を数えるようになる。普通科の留学生は1 割にも満たなかったが、
日本の高等教育機関に進学する卒業生も輩出した。
 教職員は東京高等師範学校および同附属中学校のほか、他大学の教授や教諭ま
で数多くを講師に招聘し、その数は1906年までに三百八十名に上った。教科書や
講義録の編纂・刊行も手がけるようになり、さきに言及した、三矢重松や松本亀
次郎などが日本語教授法を検討・開発し、嘉納院長の序文を付した、『言文対照
漢訳日本文典』(1904年刊)や『日本語教科書』全3 巻(1906年刊)を上梓する。
講義録編輯部も開設され、すべての教育課程の講義録を公刊することを計画し、
日本書籍の翻訳・出版を事業としていた東亜公司から刊行していく。こうして組
織としては急拡張するが、いずれも嘉納が院長として主導・差配したことは、い
うまでもない。
 ところが、留学生の取り締まりをめぐる混乱を一大契機として、学院内外から
速成教育を中心とする批判が噴出するや、嘉納らは今後の対応と見直しの必要に
迫られる。1906年、弘文学院は改組に着手し、速成科の全面廃止を断行する。こ
れは留学生教育界全体に共通する動きであり、他の指定校も共同歩調をとること
になる。「弘文」という嘉納の理想を託した、思い入れのある校名を「宏文」学
院と改称するのも、この年のことである。清朝第六代皇帝の乾隆の諱が「弘暦」だっ
たため、この字の使用を避ける留学生が多かったからという理由だが、その前年
の管理・統制の強化に猛烈な反対運動が起こり、実際はその「影響」があるとも
いわれる52)。「改革」を志向する清朝側と「革命」へと旋回する留学生の狭間に立ち、
学院はその存続に関わるジレンマを抱えながら、「量」から「質」への方針転換
に踏み切るわけだ。
 それはすなわち、3 年制の「普通科」の活性化や3 年制の「師範科」等の新設
となるが、嘉納らは進学準備教育を行う予科まで設置し、また実現にはいたらな
83 
嘉納治五郎の留学生教育を再考する
いものの、学院の大学昇格も構想、「遠大な留学生のための高等教育機関設立計画」
まで立案していた53)。さらに嘉納は、1907年に「清国教育私議」という改革提言
を、漢文訳とともに総合雑誌『太陽』に発表しており54)、その使命感に満ちた熱
意は、いまだ衰えてはいなかった。
 その一方で同じ1907年、文部省直轄学校における留学生の受け入れ態勢を整備・
拡充するため、日清両国間において「五校特約」といわれる協定が締結される。
これは留学生教育の「質的向上」を図る政策的な対応であり、特定の官立高等専
門学校等の留学生収容枠を拡大する措置であった。これによって東京高等師範学
校は新たに規則を定め、毎年入学試験をへた一定数以上の留学生を「聴講生」と
して受け入れていくが、その数は数十名規模で推移しながら民国期に入っても継
続される。こうなると、留学生教育に特化した宏文学院の存在意義は、なお一層
問われることになる。
 当時の代表的な教育雑誌『教育時論』は、「昨今の留学生減退の大勢」が及ん
で改組したこの学院を評し、「従来の教育に依つて得たる経験に基づき、教員を
精選し、教授法を改善して、模範的支那学生教育所たらんを期すべしといふが、
真面目に支那啓発の前途を攻究する人士は、大にその将来に望を嘱しをれり」と
いう55)。けれども、入学する留学生数が年間百名台にまで減退し、嘉納はついに
学院の閉鎖を決断するにいたる。閉校したのは1909年7 月であり、ここに13年に
わたる嘉納の留学生教育は、ひとつの節目を迎えたのである。
 このときの嘉納の胸中は、いかばかりであったのか。嘉納は留学生教育の方針
転換をめぐって、「従来の如き急造速成の教育法は最早其効果を挙げ得たるもの
として、今日以後に於ては成る可く其留学期間を長期と為し、充分に素養あり蘊
蓄ある新人物を養成せざる可からず」ととらえていた。だが同時に、「支那に於
ける諸般の事物に就て之を観察する時は尚未だ速成の方針を棄て難きもの無きに
しもあらざるべし」などとも述べており56)、かれの直情径行ぶりを思量すると、
なんとも歯切れが悪いようにみえる。「急造速成の教育法」は、たとえそれが便
宜的・補助的な手段であって、「革命思想の養成場なりとまで誤認」されたとし
ても、「清朝中国の擬制的教育空間」たる弘文(宏文)学院の生命線であるかぎ
り57)、その「効果」とともに容易に否定・放棄しさることのできるものではなかっ
 84
たのだ。
 最後の卒業式を兼ねた閉校式において、嘉納は院長として、「本院は最初支那
から依頼が有つた為に設けたが、今日は依頼が無くなつたから閉鎖するので、学
院として尽すべき義務は、茲に終りを告げたのである」という挨拶をしたという。
列席した教職員らは「無量の感に打たれた」とされるが58)、嘉納にしてみれば、
留学生教育がもたらす「連帯」=「興亜」の「利益」と、その不確定性の帰結た
る「革命」の「不利益」の合間で、きわめて冷徹に判断したうえでの幕引きだっ
たのではないだろうか。
5  留学生教育の効果を問う――結びに代えて
( 1 )嘉納という逆説
 これまで本論では、嘉納が清末中国からの留学生教育に従事した13年間を振り
返り、その学校史的な変遷をたどりながら、かれの思想と行動を跡づけてきた。
嘉納は日常的に留学生と接触・交流した実践的な教育者ではなく、強力なリーダー
シップのもとに留学生教育を組織・推進した統括的な指導者であった。当初はか
ならずしも積極的ではなかったが、国家的事業としての位置づけが明確化し、清
国の帝国主義的分割が進行するなかで、その関与は能動的・自発的・主体的にな
る。大きな負債を抱えるほど、かれは私財を投じて事業に邁進したのだ。
 あらかじめ設定した分析視角からすれば、それは「知の結節環としての日本」
を対欧米関係における優位性として認識したからであり、「西洋メガネ」に映っ
た中国との「連帯」=「興亜」が日本にとっての「義務」そして「便宜」だから
であった。嘉納にとって清国は、「東洋の先進国」が牽引・領導すべき「東洋の
老帝国」であり、「教育」によって改造・彫琢すべき他者性の消された「他者」
であった。
 そうだとすれば、嘉納の意図や期待が通じなかったり、非難や反発を生じたり
したとき、つまりは「他者」の他者性が露わになったときこそ、その行為の真価
と本質をリアリティをもって問い返すことができるはずである。あるいは一般化
して、このように言い換えてもよい――嘉納の留学生教育の「効果」および「成
果」とはなんであり、それはどのように理解して評価すべきなのか、と。
85 
嘉納治五郎の留学生教育を再考する
 これまでの歴史的語りにおいては、嘉納の留学生教育は多大な成果を収めたと
され、その名声は日本以上に中国で広まったといわれる。嘉納の伝記によると、「宏
文学院の教育が如何に大なる効果を収めたかは、帰国した留学生が嘉納先生に送
つた書面が山積してゐるのを見ても知られる。彼等は、時々、音信を通じて、先
生に敬意を表し、また好便を得る毎に、書画その他の音物を先生に贈呈して来た」
のであり、帰国後の身上に関わる懇願等も多く、「留学生は支那に於ける嘉納先
生の声望に信頼してゐた」という59)。一見すると、そこにうらやむべき師弟愛が
育まれていたようにみえるが、留学生からすれば、嘉納との関係がキャリア・アッ
プに益するという心算もあったようだ。これはこれで、ひとつの「効果」といえ
るかもしれないが、さらに掘り下げて問うべきなのは、こうした「効果」を超越
するような、あるいは無化するような教育的関係が結ばれたのか、ということだ
ろう。
 そう考えると、遊歴官として来日した弘文学院開設時の聴講生、楊
ヤンドゥオ
度と交わし
た論争は見過ごすことができない。既往の伝記には紹介されることのなかった、
そして嘉納自身も一切口にすることのなかった、この論争は1902年10月、嘉納の
清国視察からの帰国を待って行われた、第1 回卒業式での講話に端を発している。
嘉納は湖南省速成師範科卒業生たちを前に、清国の実情を踏まえながら2 回にわ
たって講話したが、楊はその内容に強い疑念と反発を覚えたのであり、議論は場
を移しながらつごう4 回にも及んだのだ60)。嘉納が最初に受け入れた留学生の一
人で、弘文学院で日本語を教えていた唐宝鍔は、このとき通訳を務めている。
 その主要な論点はいずれも、嘉納の留学生教育の思想や態度を根底的に揺るが
すものであり、その矛盾や背理を鋭角的に衝くものであったといってよい。嘉納
は前述したように「漸進」主義に立脚し、体制維持を前提に平和的に「改革」を
進めることを求めていたが、楊は清朝の権力腐敗を言挙げし、そうした考え方が
体制の堕落を助長すると批判、フランス革命以降のヨーロッパや明治維新後の日
本に言及しながら、「革命」なくして真の「平和」もないと訴えた。嘉納は「革命」
が起きれば、欧米列強の分割支配は必至であり、国家の滅亡を招来すると説くが、
楊は「革命」によって「文明」が伸長し、民度が向上するのなら、外国の干渉や
国家の衰退を招くこともないと譲らない。
 86
 教育の普及を通した「国民」形成を要諦とする点では一致していたが、嘉納が
欧米に対抗した「支那保全」の見地から、ルソーなど西洋の学説を退けて孔孟の
「儒教」主義を唱え、「支那人種」(漢族)が「満洲人種」(満洲族)に臣服する「国体」
を是とするのは、湖南籍の漢族・楊にとってほとんど屈辱的であった。漢族と満
洲族が対等に自立して手を携えなければ、欧米に対抗することも日本が独立を保
持することも不可能であり、西洋の思想を採り入れた教育の振興によって、服従
の精神をこそ打破・克服しなければならないと楊は反論する。「奴隷教育」――
楊は最終的に嘉納の教育をこのように表現している。嘉納にしてみれば思いもよ
らない、不本意な受け取りかたをされてしまったのである。
 ここで重要なことは、嘉納の留学生教育の主旨や方針は、留学生の間では逆
説的・対抗的に受容され、むしろ反語的に作用したのではないか――まさしく
毛マ
オツォートン
沢東が使ったような意味での、つまり「反面教師」としての嘉納の影響・効用
ということである。「公理主義」と形容されたナショナリズムと植民地主義の関
数というべきその考え方は、帝国主義への警戒感を伴ってかれらの間に変奏され
たといってよい。
 このとき楊は、留学生の間で人望の厚い28歳の青年活動家だったが、のちに
袁ユ
アンシーカイ
世凱の腹心となり、晩年には共産党に入党する。中華民国の政治家・学者とし
て知られるようになる、振れ幅の大きい経歴の持ち主である。当時は「革命派」
と競合関係にあった、立憲君主制を支持する「保皇派」のイデオローグだったが、
その嘉納との激論のなかで、「革命」の正当性を擁護するような論理を導いてい
るのは興味深い。しかもこの論争は、その場に同席した留学生の間だけでなく、
梁啓超の主宰する機関誌『新民叢報』に「支那教育問題」と題して活字化され、
同名の単行本も出されて中国の多くの人びとの間に知れ渡るようになるのだ。
 同じ時期に在学していた周樹人(魯迅)は、中国の「国民性」改造について親
友の許
シュショウシャン
壽裳とよく議論を交わしているが、これはその論争に「誘発」されたもの
といわれる61)。周樹人や許壽裳のみならず、この論争は留学生たちの関心を集め
ることになるが、これによって、「嘉納治五郎の教育者としての信用は失墜し、
学生達(漢族の留学生――引用者)は、自分は奴隷教育を受けているのだという
思いを払拭することができなくなった」ともいわれる。こうして多数派の漢族の
87 
嘉納治五郎の留学生教育を再考する
留学生を中心に、「民族的自尊を傷つけ信頼関係が壊れてしまった」なかで、「教
務幹事」の三矢重松の更迭を余儀なくされる、「同盟退学騒動」なども起きている。
となると、かなり早い時期からの「ぎこちない関係」が折り重なって、弘文(宏
文)学院は既述のごとき消長を経験したといわなければならない62)。
 このようにみると、留学生の「少数良質の時代」から「多数速成の時代」へ、「量
的拡大」による「質的低下」という図式的な語りは、少なくとも嘉納の留学生教
育を省察するかぎり、再考を要するものとみなすことができよう。それは、「教
える日本」という一方的な視点に囚われた過度の単純化に陥り、留学生たちの主
体性や他者性を等閑に付すことになってしまうからである。この論争にやや先ん
じているが、つぎのような周樹人が語る学院でのエピソードもある。
 すなわち、「或日の事である。学監大久保先生が皆を集めて言ふには君達は皆
な孔子の徒だから今日は御茶の水の孔子廟へ敬礼しに行かうと。自分は大に驚い
た。孔子様と其の徒に愛想尽かしてしまつたから日本へ来たのに又おがむ事かと
思つて暫く変な気持になつた事を記憶して居る。さうして斯様な感じをしたもの
は決して自分一人でなかつたと思ふ」63)。ここに浮かび上がる「学院の意図と留
学生の思惑のズレ」は、この学院に貫徹した嘉納の教育方針との齟齬・径庭と言
い換えてもよいだろう。「その時周樹人(魯迅)青年が感じた失望感は、三十三
年後の文豪魯迅の筆先に、なおあざやかに残るほどであった」わけだが64)、かれ
が「自分の師と仰ぐ人」として仙台留学期の藤野厳九郎を語ることはあっても、
嘉納をその人として語ることはなかった。
( 2 )留学生教育という経験
 もっとも、嘉納がこうした「反面教師」性を帯び、逆説的・対抗的な教育関係
を紡いだとすれば、それは、かれはかれで「熱意」をもって「全力を尽くして中
国留学生を教育」し、自己完結的ではあっても「誠実に対応」して「誠意ある指
導」を行ったからだ、ともいえる65)。平行線をたどった楊度との論争にしても、
食い下がるかれをぞんざいにあしらうことなく、関心のある他の留学生も集めて
居宅で時間をとり、たび重なる質問や反駁に逐一応答していることは看過すべき
でない。そうした態度は、キリスト教徒と知りながら本田増次郎に委任したよう
な、嘉納が留学生教育に携わりはじめた当初とは異なるように思われる。けれど
 88
も、その使命感に溢れた真摯な姿勢ゆえにこそ、嘉納は楊度にいくら自説を覆さ
れようとも、それを信念として翻すことはなかったのだ。これは、「一つのボタ
ンの掛け違い」によって生じた「相互誤解」などではない66)。
 そうなると、「教育」の「効果」が挙がらない楊度のごとき留学生に対しては、
嘉納は「一利の在る所一害の伴ふを免れず」として、つぎのようなまなざしを向
けることにもなる。「急造速成の人物が思慮足らず経験の乏しき所より出でたる
矯激の言動の如き、須らく之を寛恕して以て今日の新気運に頓挫あらしむべから
ざるは経世の眼識あるものゝ必ず承認する所ならん」67)――教育の「不確実性」
=「悲劇性」と個人的な「思慮」「経験」の問題に還元し、嘉納は鷹揚に構える
しかなかったのである。
 さらには嘉納は、現場の教師として日常的に留学生と交わっていたわけではな
いから、たとえば松本亀次郎のように、「教えながら教えられる」という経験を
味わうこともなかった。松本は周樹人らの日本語の指導に当たりながら、「漢文
字の使用法は本場の支那人と共に研究する必要の有る事をつくづく感じさせられ
た」「支那人に日本語を教へる様に成つて頭尾語研究の非常に大切な事が分つた」
という68)。留学生と激しく衝突した三矢重松などについても、「のち日本文法の
大家となった」のは、「じつは留学生をおしえたために、文法の問題点を逆にお
しえられたであろう」とされる69)。
 こうした経験が、オリエンタリズムの非対称的な認識枠組みを揺さぶり、ただ
ちに自省や自戒へとつながるわけでは、もちろんない。ただ、松本の場合はそこ
にとどまらず、この弘文(宏文)学院の日本語教師になったことが、その後の後
半生を決定づけることにもなった。松本はその後、北京の京師法政大学堂の教習
を務め、辛亥革命ののち、私財を投じて「日華同人共立」の東亜高等予備学校
を創立(のち改称して東亜学校)、中国人留学生教育に生涯を捧げたのである70)。
帝国拡大を図る日本の中国侵略に反対し、日中の相互理解の促進に努めたが、か
れもまた、ここで問題にしている「留学生教育の効果如何」を問うて、つぎのよ
うに述べている。
 「留学生教育の目的に関し、最も多くの人の念頭に存する者は、日華親善の四
字に在る様である。日華親善固より可であるが、予が理想としては、留学生教育
89 
嘉納治五郎の留学生教育を再考する
は、何等の求める所も無く、為にする事も無く、至純の精神を以て、蕩々として
能く名づくる無きの大自然的醇化教育を施し、学生は楽しみ有るを知つて憂ひあ
るを知らざる楽地に在つて、渾然陶化せられ、其の卒業して国に帰るや、悠揚迫
らざるの大国民と成り、私を棄て公に殉ひ、協力一致して国内の文化を進め、統
一を計り、内は多年の私争を熄め、外は国際道徳を重んじて、独り日本のみなら
ず、世界各国に対しても睦誼を篤くし、厳然たる一大文化国たるの域に達せしめ
るのが主目的で、日華親善は、求めずして得られる副産物であらねばならぬと考
へるのである」71)。
 ここには狭隘な国家間関係を超えた、留学生教育の「目的」と「効果」が「理
想」として語られているが、それが達成されるためには、「日華親善」のごとき
眼前の政治的目的に縛られず、その行為によって留学生が人間的な「楽地」に導
かれるのが先決であった。たしかにそれは、もはや「教育」と名指しすることは
できないかもしれないし、そこにエピキュリアン的――刹那的な享楽主義の危う
さがないわけではないが、少なくとも、嘉納の留学生教育の目的とするところと
は、あまりに対照的である。「支那保全」という大義名分に棹さす、かれの留学
生教育は、「漸進」主義にしても「儒教」主義にしても、他のアジア地域で展開
された日本の植民地教育と同型であり、楊度が喝破した「奴隷教育」というのは、
あながち的外れではない。たとえそれが、語られた主旨や方針とかけ離れている
ようにみえたとしても、である。
 最後にこうした留学生教育の経験は、嘉納にとってどのような意味をもったの
か。嘉納は後年、つぎのように述懐している。すなわち、「支那人教育の学校ほ
どむつかしいものはない。十余才から六十余才までのもの、しかもお互いに言葉
が通じない。支那の学問だけやったもの、支那で浅く英語で教育を受けたもの、
その上、目的がいろいろで、修業年限も短期あり長期あり、時節かまわずやって
くる。寄宿舎を要する者が多く、九〇人も突然やってくることがある。準備が出
来た頃に、私立の学校からポン引きを出してとってしまうこともあった。留学生
が多勢帰ってしまうことがあり、そのために教員が俄かに失業するので経営が困
難になった。風俗が違うので妙な問題がしばしばあった」という72)。
 じつにさまざまな苦労があったことがわかるが、この語り口からうかがわれる
 90
のは、「西洋メガネ」をかけた嘉納のオリエンタリズムのまなざしは、その経験
をへた後もさほど変わらなかったのではないか、ということだ。本田増次郎の場
合は、「中国人の生徒を身近に世話をし、個人的に確信したことは、如何にその
一時的、表面的様相が異なっていても、人間の本質は一つだということだ」と述
べているが73)、嘉納にとっては、どこまでも「支那人」としてひと括りにされる、
了解不能な「他者」=「異者」でしかなかったのである。
 この嘉納の述懐がいつ、いかなる状況でなされたのかは不明だが、これを紹介
したかれの伝記は、「かかる経験も、後年、嘉納の仕事が、高師、講道館を中心に、
国内並びに世界に伸びていく場合、よい修養になったにちがいない」と記してい
る。西洋的な近代知を身につけた嘉納は、もともと「教育」は人間の「性質」を
さえ「変換」する「力」をもっていると考えていた74)。しかも「その成功は一歩
一歩順を追い序を踏むがゆえに、失敗の恐れは、はなはだ少な」く、「個人の精
力をして国家のために活動せしむ」るのが、「教育」にほかならなかった75)。こ
のように考えるかれは、留学生教育に国家的価値を見出したとき、生活と一体的
な人間形成を媒介としながら、その可能性を組織的に追求・実行しようとしたわ
けだが、それがかならずしも首尾よくいかなかったことは、これまでみてきたと
おりである。
 嘉納は第一次世界大戦後、「国際協調」が重要視されるなかで、「精力善用」と
ともに「自他共栄」を声高に唱えるようになるが、そこでの「自己」「他者」は、
いずれかの「国家」に「国民」として枠づけられるものであり、かれにとって「国
家」なくして「個人」はありえなかった76)。嘉納にとって留学生教育という経験
は、たしかに個人的な「修養」の一環にはなったかもしれないが、その蹉跌とい
うべき「国家」という存在を見つめ直したり、「他者」の他者性の発見が「自己」
の主体的変容へとつながるような、そんなラディカルな契機とはなりえなかった
――その意味でかれにとっては、やはり副次的・傍系的な活動にとどまったとい
うべきであり、そのこと自体が省みるに値する・・・・・・・・・・・・・・というべきなのである。

1 ) 嘉納の伝記である、横山健堂『嘉納先生伝』(講道館、1941 年)は、第3 編「支那教
91 
嘉納治五郎の留学生教育を再考する
育の権威」として、嘉納先生伝記編纂会編『嘉納治五郎』(講道館、1964 年)は、第2
章「教育家としての嘉納治五郎」に「中国留学生の師父となる」と題して記述してい
る。前者の旧伝記のほうが多くの紙数を費やしているが、「支那人教育の方面に至つて
は、其の真相が能く知られてゐないから、殊に其の事たる国際関係であるから、それ
に就いて、比較的詳細に記述したい」(153 頁)とある。「其の事たる国際関係」とは、
出版当時のアジア・太平洋戦争をめぐる情勢を指し、つぎの文章が示すように、嘉納
の功績に中国侵略への歴史的な正当性と教訓性を与えている――「支那留学生教育及
び支那に於ける日本教習の事たる、支那に於ける日本の教育権の消長の由つて関する
ところにして、東亜経綸の大計発揚の礎石を為すものといふ可く、吾邦に於て重大事
たるのみならず、支那に於ける欧米諸国の勢力の東漸と角逐して、まさに支那を舞台
とした東亜教育の世界的抗争の大歴史と見るべく、その顛末は、吾邦、国策上、将来
の鑑戒と為すに足るべく、日支事変に際して、特に此感を深うするものがある」(198
頁)。
 長谷川純三編著『嘉納治五郎の教育と思想』(明治書院、1981 年)は、ほとんど等
閑に付しているが、近年の評伝である、生誕150 周年記念出版委員会編『気概と行動
の教育者 嘉納治五郎』(筑波大学出版会、2011 年)は、第2 章第4 節「留学生教育」
を記述し、第5 章第1 節「生徒との交流」にも「宏文学院における留学生との交流」
として言及している(ともに真田久執筆)。
 留学(教育)史関係では、すべてを網羅することはできないが、実藤恵秀『中国人
日本留学史稿』(日華学会、1939 年)、さねとうけいしゅう『中国留学生史談』(第一書房、
1981 年)、阿部洋『中国の近代教育と明治日本』(福村出版、1990 年)などに概説的・
総論的な記述がある。本格的に対象化した研究としては、蔭山雅博の一連の論考があり、
「宏文学院における中国人留学生教育――清末期留日教育の一端――」(教育史学会編
『日本の教育史学』第23 集、1980 年)、「宏文学院における中国人留学生教育の展開
――清末期留日教育の一端(2)――」(斎藤秋男・土井正興・本多公榮編『教育のな
かの民族――日本と中国――』明石書店、1988 年)、「明治教育界の対中国教育認識
――嘉納治五郎の場合――」(平成6・7 年度科学研究費研究成果報告書『近代日本の
アジア教育認識――その形成と展開――』研究代表者阿部洋、1996 年)、などがある。
 その後に発表された個別論考としては、楊暁・田正平「清末留日学生教育の先駆者
嘉納治五郎――中国教育改革への参与を中心に――」(神奈川大学人文学会、大里浩
秋・孫安石編『中国人日本留学史研究の現段階』御茶の水書房、2002 年)、邵艶・船
寄俊雄「清朝末期における留日師範生の教育実態に関する研究――宏文学院と東京高
等師範学校を中心に――」(『神戸大学発達科学部研究紀要』第10 巻第2 号、2003 年)、
酒井順一郎「1896 年中国人日本留学生派遣・受け入れ経緯とその留学生教育」(国際
日本文化研究センター編『日本研究』第31 集、2005 年)、などがある。「成立・展開・
 92
終焉」の実態を照射した、近年のまとまった研究成果としては、酒井の前掲論文など
を収めた酒井順一郎『清国人日本留学生の言語文化接触――相互誤解の日中教育文化
交流――』(ひつじ書房、2010 年)が注目される。
 当時の関係者によるものとしては、松本亀次郎の『中華留学生教育小史』(東亜書房、
1931 年)や「隣邦留学生教育の回顧と将来」(『教育』第7 巻第4 号、岩波書店、1939
年4 月)があり、近年発表された長谷川勝政「本田増次郎と清国留学生教育――「グアン・
メソッド」と「筆談」による日本語教育――」(日本英学史学会編『英学史研究』第43 号、
2010 年)は、「実際の現場」についての新たな知見をもたらした。留学生の思考や内
面を掘り下げたものとして、厳安生『日本留学精神史――近代中国知識人の軌跡――』
(岩波書店、1991 年)などがあり、中村義「嘉納治五郎と楊度」(辛亥革命研究会編『辛
亥革命研究』第5 号、1985 年)も注目される。魯迅研究の側から明らかにされている
ことも多く、阿部兼也『魯迅の仙台時代――魯迅の日本留学の研究――』(東北大学出
版会、1999 年)に論述があり、北岡正子『魯迅 日本という異文化のなかで――弘文学
院入学から「退学」事件まで――』(関西大学出版部、2001 年)は詳細である。
2 ) たとえば、「偉大な教育者」の「実像に迫り、そのレガシー継承の指針を探る」とふれ
こんだ、前掲の評伝『気概と行動の教育者 嘉納治五郎』などは、その典型であろう。
「生誕150 周年」を記念した顕彰・・と宣伝のための大学出版物であり、アカデミックに自
校史に関わる歴史を検証・・するという姿勢からはほど遠い。「留学生教育」や関係する記
述は、先行研究のレビューや史資料の分析がおろそかなばかりか、内容的にも在来の
伝記的な語り口の域を出るものではない。昨今、大学史編纂や自校史教育が進展をみ
せているが、その意義を大学の社会的アピールやアイデンティティなるものに求める
あまり、本来的な学術的価値の追究をなおざりにしてしまう危うさ・・・を考えるうえでは、
参考になろう。
 当時の留学(生)の動向や嘉納の言動を知りうる資料としては、近代アジア教育史
研究会(代表 阿部洋)編『近代日本のアジア教育認識・資料篇[第2 部 中国の部]
――明治後期教育雑誌所収 中国・韓国・台湾関係記事――』全12 巻・附巻1 巻(龍溪書舎、
2002 年)が有用であり、附巻Ⅱの阿部洋や蔭山雅博らの「資料解題」も参考になる。以下、
歴史的資料からの引用に際しては、旧漢字を新字体に改めたことを付記しておく。な
お総括的なレビューとして、平田諭治「留学史研究の回顧と展望――欧米-日本-ア
ジアの「知」の連環と構造を考える――」(筑波大学教育学会編『筑波教育学研究』第
4 号、2006 年)を参照のこと。
3 ) 正木恒夫『植民地幻想――イギリス文学と非ヨーロッパ――』みすず書房、1995 年、
247 頁。「西洋メガネ」は、もともと農業経済学者の飯沼二郎が『朝日新聞』(夕刊・
1984 年11 月27 日付)に寄稿した「新渡戸稲造の『西洋メガネ』」によるものであり、
英文学者の正木が同書の終章「『世界』と日本人の西洋眼鏡」で敷衍してみせた。また
93 
嘉納治五郎の留学生教育を再考する
E.W. サイード著、板垣雄三・杉田英明監修、今沢紀子訳『オリエンタリズム』平凡社、
1986 年(Said,E.W., Orientalism, New York, Georges Borchardt Inc., 1978)。
4 ) 姜尚中『オリエンタリズムの彼方へ――近代文化批判――』岩波書店、1996 年、とく
に第4 章。小森陽一『ポストコロニアル』思考のフロンティア、岩波書店、2001 年。
西川長夫「帝国の形成と国民化」、西川・渡辺公三編『世紀転換期の国際秩序と国民文
化の形成』柏書房、1999 年。
5 ) 米谷匡史『アジア/日本』思考のフロンティア、岩波書店、2006 年。
6 ) 前掲『中国の近代教育と明治日本』、1-2 頁。
7 ) 山室信一『思想課題としてのアジア――基軸・連鎖・投企――』岩波書店、2001 年、
とくに第2 部第5 ~ 7 章。山室『日露戦争の世紀――連鎖視点から見る日本と世界――』
岩波新書、岩波書店、2005 年、第5 章。
8 ) 細野浩二「清末留日極盛期の形成とその論理構造――西太后新政の指導理念と「支那
保全」論的対応をめぐって――」『国立教育研究所紀要』第94 集、1978 年。
9 ) 広田照幸『ヒューマニティーズ 教育学』岩波書店、2009 年、第3 章。
10) 前掲『清国人日本留学生の言語文化接触』、第1 章。
11) 嘉納治五郎『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』人間の記録2、日本図書センター、1997 年、
86 頁。同書は、自伝に当たる「柔道家としての嘉納治五郎」(初出は講道館発行の雑
誌『作興』で1927 ~ 1928 年の連載)と「教育家としての嘉納治五郎」(初出は同前で
1929 ~ 1930 年の連載)を収録しているが、関係する記述はわずかである。ちなみに、
嘉納の「回顧六十年」(『教育』第457 号(嘉納先生謝恩記念号)、茗渓会、1921 年5 月)
などの自伝には、留学生教育をめぐる言及すら見出すことができず、最後に検証する
ように、その寡黙ぶりは丸ごと一考を要するものであろう。なおそれらは、講道館監
修『嘉納治五郎大系』第10 巻(自伝・回顧、本の友社、1988 年)に所収されている。
12) 前掲『嘉納治五郎の教育と思想』、「嘉納治五郎の教育と思想」第1 章。ただし、同書
とは見解を異にしている。
13) 前掲『嘉納治五郎』、80-89 頁。ここには「嘉納自筆の英文日記」が訳出されており、
つぎの指摘がある。すなわち、「この洋行はヨーロッパ文化の研究調査を主眼としたも
のであるが、その往復の途上において、はじめて、眼のあたりアジア・アフリカの窮
状を見、親しくその住民に接触したことは、嘉納の生涯の事業を考える上にも看過す
べきではない」と。ただし問題は、そのまなざしの「質」である。
14) 前掲『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』、230-231 頁。
15) 松沢弘陽『近代日本の形成と西洋経験』岩波書店、1993 年、第2 章。
16) 前掲「本田増次郎と清国留学生教育」。
17) 「我邦に派遣されたる最初の清国留学生」『国士』第1 号、1898 年10 月、「彙報」。
18) 長谷川勝政「本田増次郎自叙伝「ある日本人コスモポリタンの物語」(“The Story of a
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Japanese Cosmopolite”As told by himself)の紹介(1)」、桃山学院年史委員会編『桃
山學院年史紀要』第23 号、2004 年、150 頁。長谷川が訳出したこの英文自叙伝は、本
田が関係した国内発行の英字週刊誌The Herald of Asia において、創刊号(1916 年3 月)
から連載されたもの。これまでの留学史関係の先行研究には紹介・言及されてこなかっ
たが、その実態などを知りうる貴重な資料のひとつであり、長谷川の前掲「本田増次
郎と清国留学生教育」が主資料として検討した。ただし、なぜか前掲紀要の訳出に
ふれていないのだが、長谷川が開設する「本田増次郎Web 記念館」(http://masujiro.
kakukaku-sikajika.com/ 2012 年9 月確認)は、その「誤植等を訂正」したものを公開
している。
19) 前掲「本田増次郎自叙伝「ある日本人コスモポリタンの物語」の紹介(1)」、195 頁。
20) 前掲「我邦に派遣されたる最初の清国留学生」。
21) 前掲「本田増次郎自叙伝「ある日本人コスモポリタンの物語」の紹介(1)」、148・150 頁。
22) 前掲「我邦に派遣されたる最初の清国留学生」、前掲『清国人日本留学生の言語文化接
触』、第1 章。
23) 「清国留学生卒業式」『国士』第21 号、1900 年6 月、「彙報」。嘉納の講演は大略紹介
されているが、本田の演説は割愛・省略されている。
24) 前掲「本田増次郎自叙伝「ある日本人コスモポリタンの物語」の紹介(1)」、175 頁。
25) 前掲「本田増次郎自叙伝「ある日本人コスモポリタンの物語」の紹介(1)」、167-172 頁。
26) 前掲「本田増次郎自叙伝「ある日本人コスモポリタンの物語」の紹介(1)」、156-160 頁。
27) 前掲「本田増次郎自叙伝「ある日本人コスモポリタンの物語」の紹介(1)」、145-146 頁。
高等師範学校において、同じ英語を担当する同僚だった岡倉由三郎は、本田が1925 年
に死去した際の追悼記事のなかで、この「日記に基いた伝」すなわち英文自叙伝にふ
れ、キリスト教信仰をめぐる嘉納との確執に言及している(「本田増次郎氏の事ども」
『英語青年』第54 巻第10 号、1926 年2 月)。岡倉はそのなかで、「察するに嘉納氏に
は柔道と云ふ妙諦があられて、之を彼岸に達する救ひの船と考へられ、その他の教法
(キリスト教など――引用者)を少くも柔道修業の門下生には不必要と考へられ、正純
とも信じてをられたのであらう。それ故当時の嘉納氏の立場は、横暴のネロ帝のそれ
とは大に違つてゐた」と述べている。岡倉は嘉納の考えや立場を慮っているわけだが、
いずれにしても、「嘉納氏のヤソ教防圧の態度」について争う余地はないだろう。ちな
みに、前掲「本田増次郎と清国留学生教育」は、この点に関してまったく等閑に付し
ており、嘉納と本田を一枚岩のように描き出している。筆者は最後でも論じるように、
両者の異同と懸隔が重要な意味をもっていると考えている。
28) 前掲『嘉納治五郎』、166 頁。前掲『嘉納先生伝』、172 頁。
29) 辻清蔵・三矢重松訳述『台湾会話篇』明法堂、1896 年、「凡例」。日本語史からの資
料紹介として、諸星美智直「John MacGowan“ A manual of the Amoy colloquial” と三
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嘉納治五郎の留学生教育を再考する
矢重松・辻清蔵訳述『台湾会話篇』」(国学院大学国語研究会編『国語研究』第72 号、
2009 年)がある。
30) 「亦楽書院の清国学生」『国士』第15 号、1899 年12 月、「彙報」。「留学生学校(十四)
宏文学院」『同仁』第18 号、1907 年11 月、「雑報」。
31) 前掲『中華留学生教育小史』、10 頁。ここには「三矢重松博士の日記」として、「一日
も漏さず」書かれたなかから「数節を抜抄」して紹介してある。
32) 前掲『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』、86 頁。
33) 前掲『魯迅 日本という異文化のなかで』、59-66 頁。
34) 前掲『中国人日本留学史稿』、101 頁。
35) 前掲『魯迅 日本という異文化のなかで』、77-88 頁。ここには嘉納が東京府知事に提出
した「私立学校設立認可願」に添付された、別冊「学則」すなわち「私立弘文学院規則」
(東京都公文書館蔵)の全文が紹介されている。
36) 黄尊三著、さねとうけいしゅう・佐藤三郎訳『清国人日本留学日記――1905 - 1912
年――』東方書店、1986 年、31 頁。「弘文学院の近況」(『同仁』第1 号、1906 年6 月、
「雑報」)でも、「中学程度の普通科を授くるものにして、各種専門学校に連絡の便宜あ
り」と紹介されている。
37) 前掲『清国人日本留学生の言語文化接触』、第3 章。
38) 「弘文学院の概況」『国士』第44 号、1902 年5 月、「彙報」。
39) 同上。
40) 同上。なお、前記の規則第1 条にあったように、「日本人ニ清国語ヲ授クル課程」を添
設したこともあるようだが、こちらのほうは詳細は定かでない。
41) 前掲『中華留学生教育小史』、8 頁。
42) さねとうけいしゅう『中国留学生史談』第一書房、1981 年、第2・7 談。前掲『中国
の近代教育と明治日本』、118 頁。
43) 前掲『中華留学生教育小史』、8-9 頁。なお、直接的な関係があるわけではないが、そ
の4 年前の1898 年には、第三次内閣の首相を辞任したばかりの伊藤博文が清国を訪問、
歓待を受けながら要人と会見している。このとき伊藤は「戊戌の政変」に遭遇してい
るが、瀧井一博『伊藤博文』(中公新書、中央公論新社、2010 年、第6 章)を参照すると、
かれの中国観や改革論との興味深い共通点および相違点が見出される。
44) 嘉納治五郎「清国瑣談」『教育時論』第633 号、1902 年11 月、「学説政務」。
45) 「嘉納氏の清国教育談」『教育時論』第633 号、1902 年11 月、「時事彙報」。ただし、
句点は引用者が適宜施した。
46) 「嘉納会長清国巡遊記(承前)」『国士』第50 号、1902 年11 月、「雑録」。
47) 「嘉納氏の清国留学生談」『教育時論』第622 号、1902 年7 月、「時事彙報」。ただし、
句読点は引用者が適宜施した。
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48) 前掲「嘉納会長清国巡遊記(承前)」。
49) 嘉納治五郎「清国事件」『国士』第23 号、1900 年8 月、「国士」。
50) 嘉納治五郎「清国」『国士』第44 号、1902 年5 月、「国士」。
51) 嘉納治五郎「清国巡遊所感(一)」『国士』第50 号、1902 年11 月、「国士」。
52) 前掲『魯迅 日本という異文化のなかで』、69-77 頁。
53) 前掲「宏文学院における中国人留学生教育の展開」。
54) 嘉納治五郎「清国教育私議」『太陽』第13 巻第1 号、1907 年1 月、「論説」、「清国時文欄」。
55) 「宏文学院」『教育時論』第827 号、1908 年4 月、「時事彙報」。
56) 嘉納治五郎「留学生教育」『同仁』第19 号、1907 年12 月、「論説」。
57) 前掲「清末留日極盛期の形成とその論理構造」。
58) 前掲『中華留学生教育小史』、24 頁。たとえば、前掲『清国人日本留学生の言語文化接触』
(254 頁)は、この嘉納の「淡々と述べた一言」に「悲哀と無念至極の想い」を読みとっ
ているが、それを指摘するだけでは不十分であるように思われる。
59) 前掲『嘉納先生伝』、179-191 頁。
60) 「支那教育問題」『新民叢報』第23・24 号、1902 年12 月・1903 年1 月、「余録」、藝文
印書館復刻。この論争については、すでにいくつかの先行研究が紹介・検討しているが、
とくに注目されるのは、前掲「嘉納治五郎と楊度」や前掲『日本留学精神史』(第1 章)、
前掲『魯迅 日本という異文化のなかで』(第6 章)、前掲『清国人日本留学生の言語文
化接触』(第7 章)であり、ここではそれらの記述を参照してまとめている。
61) 前掲『魯迅 日本という異文化のなかで』、292-296 頁。
62) 前掲『魯迅 日本という異文化のなかで』、368-371 頁。前掲『清国人日本留学生の言語
文化接触』、221-230 頁。
63) 魯迅「現代支那に於ける孔子様」『改造』1935 年6 月号、『魯迅全集』第8 巻、学習研
究社、1984 年、353 頁。
64) 前掲『日本留学精神史』、29 頁。
65) 前掲「清末留日学生教育の先駆者嘉納治五郎」。
66) 前掲『清国人日本留学生の言語文化接触』、220 頁。
67) 前掲「留学生教育」。
68) 前掲「隣邦留学生教育の回顧と将来」。
69) 前掲『中国留学生史談』、343 頁。
70) 平野日出雄『日中教育のかけ橋――松本亀次郎伝――』静岡教育出版社、1982 年。
71) 前掲『中華留学生教育小史』、73-74 頁。
72) 前掲『嘉納治五郎』、189 頁。
73) 前掲「本田増次郎自叙伝「ある日本人コスモポリタンの物語」の紹介(1)」、149 頁。
本田の「二十年前の回顧」(『英語青年』第39 巻第2 号、1918 年4 月)は、1898 年当
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嘉納治五郎の留学生教育を再考する
時を振り返って、「時正に北京政府派遣第一回留学生十余名と神田三崎町に同居し、其
の監督教育に従事しつゝ、支那が日本文化の淵源たりしこと、支那人が我等の有せざ
る長所あることをリヤライズし、近代北欧国民の希臘人伊太利人に対する感想亦斯く
あらんと想へり」と記している。
74) 嘉納治五郎「性質変換論」・「性質変換論(前承)」『日本大家論集』第8・9 編、1888 年1・
2 月。
75) 嘉納治五郎「教育家」『国士』第34 号、1901 年7 月、講道館監修『嘉納治五郎大系』
第5 巻(教育論Ⅰ)、本の友社、1987 年、312-313 頁。
76) 講道館監修『嘉納治五郎大系』第9 巻(精力善用・自他共栄)、本の友社、1988 年、
第1 篇第1 章。



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