力士の荒ぶる力は暴力性といった正義からズレたところで、アルケー(古層)として露出する異形の力だ。力士の暴力沙汰に対するメディアのスキャンだリズムは、偽善的ヒューマニズムによる批判にすぎない。力士が力人(ちからびと)として社会に認知される理由は、巨漢の荒ぶる力を社会の制御がおよばない神聖なものとみなし、それを豊饒性の象徴として必要としていたからだ。人間の原初の闘争心が、人間の力を超える呪術的なものと結びつき様式化して相撲が形成されていった。日本の相撲が外国人力士を受け入れても、なおかつ自らのもつ古層のエネルギーを開花させることができるかどうか、という可能性が試されている。この点が過小評価されて、朝青龍が日本においてどのような横綱像を創造しようとしていたか、だれも考えようとしない。朝青龍の決まり手は42手という現役最多であった。多彩な技を繰り出しながら、抑圧的で因習的な横綱像を更新する可能性があった。そうしたなかで、「品格」論争は後ろ向きの議論でしかない。朝青龍に限らず、異人を排除しようという暴力があらゆるところに出現している。それは相撲という閉鎖的共同体の話だけでない。排除の論理は現代日本社会全体が直面している問題である。朝青龍問題から日本社会が内面化している差別構造が浮き彫りにされる。

























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http://blog.livedoor.jp/sho923utg/archives/51488349.html

朝青龍がいない相撲はつまらない(1)

私は相撲が好きでよくみる。だが、朝青龍がいなくなった今場所は本当につまらない。
ワルのイメージがあった朝青龍だが、ガキ大将がそのまま大人になったようで、どこか憎めないところがあった。
また、相撲の実力はバツグンで、全盛時代の千代の富士や貴乃花にもひけをとらなかっただろう。まさに大横綱であった。
朝青龍が相撲界を引退させられた経緯は、異様で不透明で納得できないものがあった。
だが、『世界』(2010年4月号)の稲垣正浩・今福龍太の対談、「朝青龍はなぜ追放されたか」を読んで日本社会の縮図だと思った。
2人の対談の趣旨は以下の通りだ。

スポーツ=メディア複合体は、スキャンダルを餌にしてきた。スポーツ・メディア複合体の栄養分だったスキャンダルが、今回は排除の原理として働いて横綱の「王殺し」が行われた。
この追放劇には権力による巧妙な政治的暴力がある。この見えざる暴力に対して、朝青龍の横綱としての尊厳を守らなければならない。
伝統的なスポーツがグローバル化していく過程の問題が朝青龍問題で顕在化した。グローバリゼーションが引き起こす包含と排除のせめぎあいは、スポーツという世界が端的に体現している。
今までの外国人力士は、日本社会に溶け込もうと努力し、激しい自己主張しなかった。しかし、朝青龍は最初から最後まで自分を貫いた。日本の伝統と相容れない部分があっても屈しなかった。
力士であれば帰化や日本人との結婚によって国籍をとり、年寄株を取得する条件を得て相撲界への忠誠を誓う。相撲界への従順な帰依、これこそが誰もよくわからない「横綱の品格」の意味するものではないか。
朝青龍は最初から帰化しない選択をしていた。そもそも相撲界に残る意思はなかったといえよう。だから彼には抑圧がないし、本質的な批判者でありつづけた。
同じモンゴル出身の白鳳は、日本社会に同化しようとしてきた対極の存在だ。白鳳が「教化」された「品格」ある横綱になるために抑圧し続けてきた裏側を体言しているのが朝青龍であった。
白鳳と朝青龍は表裏一体だった。朝青龍がいるから白鳳は自らの中の荒魂をおさえ、違う道を選ぶことができた。
いわば朝青龍は秩序撹乱者たる異人てあった。秩序撹乱者が社会でどのように扱われているかというメカニズムは、社会のありようを映し出す。秩序撹乱者は本来社会のエネルギー源なのだ。
日本のメディアは、朝青龍という力士をトータルに捉える視点がなくて、はみ出し部分だけに焦点をあてて批判していく。
これは企業で学校でも個性的な人間が標準的な規範で社会から排除される典型的プロセス。
いま教育の現場で、教師は子どもに絶対手を出してはいけないと徹底されている。たしかに暴力は誰も肯定できない。
しかしそうしたヒューマニズムの名のもとに、ある種の思考停止状態が広がっていて、教師がコミットメントを避けてしまう傾向にあることは大きな問題だ。
せまい暴力排除の思想が日本に広まっていて、朝青龍批判もその一環ではないか。(続く)

http://blog.livedoor.jp/sho923utg/archives/51489298.html

朝青龍がいない相撲はつまらない(2)

力士の荒ぶる力は暴力性といった正義からズレたところで、アルケー(古層)として露出する異形の力だ。力士の暴力沙汰に対するメディアのスキャンだリズムは、偽善的ヒューマニズムによる批判にすぎない。
力士が力人(ちからびと)として社会に認知される理由は、巨漢の荒ぶる力を社会の制御がおよばない神聖なものとみなし、それを豊饒性の象徴として必要としていたからだ。
人間の原初の闘争心が、人間の力を超える呪術的なものと結びつき様式化して相撲が形成されていった。
日本の相撲が外国人力士を受け入れても、なおかつ自らのもつ古層のエネルギーを開花させることができるかどうか、という可能性が試されている。
この点が過小評価されて、朝青龍が日本においてどのような横綱像を創造しようとしていたか、だれも考えようとしない。
朝青龍の決まり手は42手という現役最多であった。多彩な技を繰り出しながら、抑圧的で因習的な横綱像を更新する可能性があった。そうしたなかで、「品格」論争は後ろ向きの議論でしかない。
朝青龍に限らず、異人を排除しようという暴力があらゆるところに出現している。それは相撲という閉鎖的共同体の話だけでない。
排除の論理は現代日本社会全体が直面している問題である。朝青龍問題から日本社会が内面化している差別構造が浮き彫りにされる。
稲垣正浩・今福龍太の2人の対談はこのように結ばれている。
話は変わるが、私が「禁煙ファシズム批判」を書いたのも上記と同様の趣旨からであった。
つぎの文章は「禁煙ファシズムー不寛容に時代」として、2004年6月号の月刊『むすぶ』(ロシナンテ社)に掲載した文章の抜粋である。

「わたしはタバコの煙はきらいだが、喫煙を「悪」としてパージする不寛容な社会は健全な社会だろうか。
劇作家の山崎哲は「悪」に対する社会の器が小さくなったと嘆く。若者にワルがいなくなって、悪いやつが立派なおとなになっていく物語は生まれなくなった。
ちょっとでも悪いことをすることを許さない社会になっている。子どもは小さな悪や暴力を積み重ねながらおとなに成長する。そうした成長のプロセスがこわれてしまったと。
おとなが悪や暴力を子どものまわりから周到に排除してしまったからだ。成長の機会を奪われた子どもたちが時に暴発し凶悪化する。
 小さな悪や暴力を許容する社会。異質な他者を排除しない社会。多様な人びとが共に生きる社会。そうした寛容な社会こそが求められる。
近世の禁煙令をほうふつさせる敷地内全面禁煙は、やがてやってくる健康ファシズムの予震である。」

「小さな悪や暴力を許容しない社会」「異質な他者を排除する社会」、そうした「不寛容な社会」が到来している。それは禁煙ファシズムであったり、学校の体罰問題であったり、朝青龍の追放劇として露出している。
 朝青龍問題から見えてくるのは、内部からの改革のエネルギーを喪失して閉塞・疲弊した日本の社会の姿である。
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