燃えよ! カンフー


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燃えよ! カンフー

燃えよ! カンフー(原題Kung Fu)はアメリカ合衆国のABC系で1972年から1975年まで、3年間に渡り放送された連続テレビドラマ。全62話で、構成は3シーズンに分かれている。

日本での初放映は1974年6月8日、テレビ朝日「土曜映画劇場」で90分のパイロット版が先行放送された。その後、1976年にシリーズ放送が開始、1980年代にも再放送された。また、1999年から2004年にかけてもSuper! drama TVにてロングランで再放送された。 更に2004年5月20日からは日本テレビでも、第1シーズンに当たる第1~15話分が放映された。

目次

1 概要
2 あらすじ
3 登場人物
4 スタッフ
5 裏話
6 脚注
7 外部リンク

概要

清の少林寺で中国武術(カンフー)をマスターしたハーフの男がアメリカ西部を渡り歩くアクションドラマ。カンフーブームの時代、東洋の神秘を感じさせる内容が受けて、世界各国で人気を博した。主演はデヴィッド・キャラダイン。少林寺で修行する幼少期はラッド・ペラが演じている。原案はブルース・リー、脚本は作家のハーマン・ミラー。ワーナー・ブラザース作品。

西部を流離うむさ苦しい男がいったい誰なのか、どこから来てどこへ向かうのか、など主人公に関する事項が全く明らかにされず、視聴者は主人公の回想を通じて徐々にその実体を知っていくという作品構成が特徴的で斬新であった。、タイトルからはカンフーの派手なアクションドラマを想像しがちであるが、実はカンフーアクションシーンは非常に短く、重厚な仏教の教えを分かり易く米国人に説く内容となっており、仏教の神秘性・精神性が人気を呼んだ作品となっている。

なお、アメリカのテレビドラマは視聴率やスポンサーの意向次第で直ちに打ち切りとなり、明確な「最終回」がない作品が多い中、本作では明確な最終エピソードが描かれている。
あらすじ

白人の父と中国人の母を持つ少年クワイ・チャン・ケイン(Kwai Chang Caine、虔官昌)は、少林寺で盲目のホー先生や館長のカン先生の指導の下、長年にわたって仏教の修行を積む。少林寺では仏教修行のひとつに武術修行(少林拳や棒術など)があるが、厳しい修行の末、やがて成長したケインは砂の上に敷かれたライスペーパーを破かずに歩けるまでになり、炭火の入った巨大な香炉を両上腕で夾んで運び、両腕に龍と虎の紋章(少林寺僧侶の紋章)を焼印するという最終関門をパスして、少林寺の僧となった。

しかし、ホー先生と共に、ある寺院の祭に出かけた時、寺に来ていた皇帝の甥にホー先生がピストルで銃殺される(無礼討ちに相当)事件が発生、思わず近くにあった槍を皇帝の甥に投げつけ殺害してしまい、追われる身となる。良心の呵責にさいなまれながら、少林寺の僧やキリスト教の神父の助けを得て、父の国アメリカに逃げる。清国政府が放った刺客に追われつつ、アメリカ西部に居ると思われる異母兄を探して回るなか、さまざまな事件や人種差別などの不合理等に遭遇するが、東洋的な思想と武術で解決してゆく。
登場人物

クワイ・チャン・ケイン
演:デビッド・キャラダイン、青年期 - キース・キャラダイン、幼少期 - ラダメス・ペラ  /吹き替え:岩崎信忠、野沢雅子(幼少期)
カン先生
演:フィリップ・アーン - 少林寺の館長
ホー先生
演:ケイ・ルーク - 少林寺の盲目の僧侶で、ケインの師。

スタッフ

原案:ブルース・リー
脚本:ハーマン・ミラー
プロデュース:ジェリー・ソープ
カンフー指導:デヴィッド・チョウ
メイン監督:ジェリー・ソープ

裏話

本来、世界中にカンフーブームを巻き起こしたブルース・リーは、この作品で自らケイン役をする構想であったが、英語に訛があることや、ハーフという設定にしては風貌が東洋人すぎるという理由で、デヴィッド・キャラダインが主役に抜擢された経緯がある。逆にキャラダインは東洋人的ではなく、目を細めて中国系に見せようとするなど、演技上の苦労が見られる。

この作品の中にしばしば回想シーンとして出てくる少林寺は、実は1967年の映画『キャメロット』[1]に使われたセットを改造したもので、中国ロケは行われていない。少林寺でケイン少年がつけられたあだ名「Little Grasshopper」(小さなバッタ、日本語版では(コオロギ))は、放送当時アメリカで流行語になった。

2003年以降、この作品を収録したDVDボックスのシリーズが発売されている。

1986年、デヴィッド・キャラダインと原案のブルース・リーの息子であるブランドン・リーを主演に迎え、単発で"Kung Fu: The Movie"(邦題:「ブランドン・リーのカンフー・ファイター」)が制作され、CBSで放送された。翌年にはブランドンの主演で“Kung Fu: The Next Generation”が同じくCBSで放送されたが、シリーズ化には至らなかった。1993年から1996年には、ケインの子孫が現代アメリカでシンジケート組織と闘うという、続編のテレビドラマ新・燃えよ!カンフー (原題“Kung Fu: The Legend Continues”)がアメリカ合衆国で放送され、キャラダインと息子役としてクリス・ポッターが主演した。ただし、1986年・1987年版と1993年版との間に物語の連続性は無い。
脚注

^ 監督:ジョシュア・ローガン、出演:リチャード・ハリス、ヴァネッサ・レッドグレイヴ他

外部リンク

公式サイト
Kung Fu Episode Guide (Unofficial site)
Kung Fu - インターネット・ムービー・データベース(英語)
ワーナー海外TVドラマシリーズ(公式Facebookページ)

執筆の途中です この項目は、テレビ番組に関連した書きかけの項目

http://www.geocities.jp/kumkonman/moekan.html

燃えよ!カンフー
燃えカン
兄を探して三千里 クワイ・チャン・ケインは今日も行く

これぞ東洋の神秘 少林寺拳法
1972~75年アメリカ作品

原題 KUNG FU

邦題 燃えよカンフー

全62話

デビット・キャラダイン、、、、、このマイナーな役者を初めて知ったのは、チャック・ノリス主演の「テキサスSWAT」だった。近年になって、この忘れ去られていた俳優が脚光を浴びてきたのは紛れもなくクエンティン・タランティーノ監督の作品「キル・ビル」であろう。
ブルース・リー映画が流行った30年前、よもや、このようなクンフー海外ドラマがあった事に驚いた。内容はと言うとデビット・キャラダイン演じるクワイ・チャン・ケインなるアメリカ人の父と中国人の母との間に生まれた孤児が少林寺で心身共に逞しく成長していく。
ある時、ケインは師を救う際に王族の人間を殺めてしまう。やむなく彼は少林寺を出て、中国からアメリカ西部へと流れ着く。ケインには生き別れた兄がおり、その兄と再会すべく長い放浪の旅に出るのであった。
しかし、王族殺害の罪は逃れられた訳ではなく、王族側はケインを賞金首に掛け、無法者、ガンマン達に目の仇にされる事になる、、、と言うのが大まかなストーリー設定になっている。
西部劇と少林寺拳法をミックスさせてしまう所が、いかにもアメリカらしい発想であると言える。毎回が一話完結のストーリーになっており、人助けの回もあれば、無法者と決戦する回もあり、観る側からすれば全62話の、どの回から観ても入りやすく判り易い作りになっているのが特徴。
この作品から感じる限り、東洋人と西洋人では少林寺拳法&クンフーというキーワードの捉え方の違いに気づいた。我々、東洋人は少林寺拳法&クンフーと言えば、どうしてもガッチャガチャのアクションを求めたがるのが特徴なのだが、西洋人はどちらかと言うとアクションそのものに興味は持たない。「拳法とは己の身を守る事 人を救う為の手段」という静の思想に基づいた作り方をするのが特徴ではないだろうか。
この燃えよカンフーという作品は、日本でいうワビ・サビの部分を強調しており、主人公であるクワイ・チャン・ケインという青年を義理人情を知る孤独なサムライの様な設定にしているのが面白い。

少林寺やクンフーを扱った映画が流行っていた1970年代~80年代。ブルース・リーからジャッキーチェンへと世代が交代していった訳だが、彼ら二人のビッグネームの前に埋もれてしまったクンフーアクション俳優が意外に多い事実を知る人は少ない。
ジャッキーチェンは、人気と派手さで多くのライバル・クンフー俳優を凌駕し、ブルース・リーの後継者の地位を手に入れた。ジャッキーのアクション俳優としての勝因は、ブルース-リーとは逆の売り方をしたからと言われている。ブルースが威圧感を出せば、ジャッキーはおどけて見せる。ブルースが硬派で見せればジャッキーは軟派で見せる。禁欲的イメージのブルース・リーに対し、ジャッキーは解放的なイメージで勝負した。
ブルース・リーに追いつけ、追い越せで来た他のクンフー俳優と、あえて逆走していったジャッキーチェンの大きな違いは此処にある。
そんな陽の目を見なかった他のクンフー俳優達だったが、やがて彼等に脚光を浴びせる救世主が現われた。今やハリウッド俳優に仲間入りしたジェット・リー(旧名・リー・リンチェイ)である。何となく古い時代のクンフー俳優のイメージがあるジェット・リーだが、実は彼が一番クンフーアクション俳優としては遅い。
80年代作のジェット・リーのデビュー作品「少林寺」は大ヒットし、世の中の人は「少林寺って何だ?」と興味を持ち出した。すると不思議なもので、70年代に作られ埋もれていた数々の少林寺映画が不死鳥の如く甦り、日本各地の映画館で上映され始めた。
歴史は繰り返すという例え通りなのか、その頃から又しても少林寺映画=硬派、ジャッキーのコミカルクンフー=軟派という形式が出来上がったのも面白い現象だった。とすると、硬派なブルース・リーの真の後継者はジャッキーチェンではなくジェット・リーなのでは???と考える事も出来るのではないだろうかw
そんな感じで密かに熾烈な競争を繰り返してきたクンフー映画業界の中で、今回取り上げた「燃えよカンフー」は競争の渦に巻き込まれずひっそりと存在していた作品だったんだなと今になって気づく私である。

http://www.superdramatv.com/line/kungfu/


作品タイトル


タイトル
燃えよ!カンフー

原題
KUNG FU

データ
1972~75年/アメリカ/COL/60分/62本

出演
デビット・キャラダイン





エミー賞監督賞・撮影賞に輝く傑作。元祖カンフー・アクションTVシリーズ! 孤独なケインに平穏の日は来るのか…?

1870年代の西部をさすらうクワイ・チャン・ケイン(デビッド・キャラダイン)は、お尋ね者であった。彼は中国でアメリカ人の父親と中国人の母親との間に生まれ、孤児として少林寺の僧に育てられた。僧たちは、ケインに精神調和のための神秘的な哲学と非暴力の規律、そしてカンフーを伝授した。武術の達人となったケインだったが、恩師を助けようとして王族のひとりを死なせてしまう。追われる身となったケインは中国を離れ、アメリカ西部にやってきた。行方不明のままの兄を探すために。お尋ね者として賞金を懸けられた彼の前に、悪徳資本家や、ガンマンら賞金稼ぎたちや、無法者が立ちはだかるのだった…。


「新 燃えよ!カンフー」




解説

アメリカではABCネットワークで放送され、個性的なストーリーから哲学的西部劇シリーズとして評価される。スローモーションを併用した画期的なアクション・シーンや“東洋の神秘”がフューチャーされた異色シリーズ。1970年代のブルース・リー映画のヒットと共にアメリカ、そして日本でも大ヒットした。ケインと少林寺の僧の禅問答が回想シーンとして各話の随所に描かれ、東洋の思想を見事に描き出している。ゲストも豪華で、当時子役であったジョディ・フォスター、若手俳優時代のハリソン・フォード、ウィリアム・シャトナー(「宇宙大作戦/スタートレック」)、レスリー・ニールセン(「裸の銃を持つ男」)、ジョージ・タケイ(「宇宙大作戦/スタートレック」)、ドン・ジョンソン(「マイアミ・バイス」)、そして俳優一家キャラダイン家のデビッドの父ジョン、兄弟のキースやロバートが登場している。92年~96年には続編シリーズが制作された。


お知らせ

放送終了 ありがとうございました

エピソード

■第1シーズン '99~'00 第1話~第22話 全22話
■第2シーズン '00~'01 第23話~第44話 全22話
■第3シーズン '01~'02 放送未定
■第4シーズン '02~'03 放送未定
■第5シーズン '03~'04 放送未定
■第6シーズン '04~'05 放送未定

放送履歴

※2004年10月28日第28話~2004年11月30日第62話 ベルト放送
※2003年5月07日第01話~2004年7月29日第62話 放送
※2003年1月06日第01話~2003年4月03日第62話 ベルト放送
※2002年3月16日第39話~2002年9月30日第62話 放送
※2001年3月23日第01話~2001年12月7日第38話 一旦休止

http://tennenzinen.com/karatemovie/archives/1318

1969年には映画「かわいい女」にも殺し屋の役で出演。同年には長女シャノン・リーが誕生。

その頃、ブルース・リーが原案・企画していたアメリカのテレビドラマ「燃えよ! カンフー」(原題Kung Fu)で
主演するつもりであったが、東洋人であることを理由に演じることはできなかった。
「燃えよ! カンフー」にはデビッド・キャラダインが主演することになる。

http://blog.goo.ne.jp/rekisisakka/e/00d49d8ba8248e18d27f1e398e6b4677




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「燃えよ!カンフー」の敵を「キル・ビル」で討て!(1) ─ 「燃えよ!カンフー」編

2014年05月04日 | 日記


1966年にレギュラー出演した「グリーン・ホーネット」で、ブルース・リーはそれまで誰も見たことがないスピーディーでパワフルな功夫アクションを披露し、アメリカ人たちを魅了しました。しかし、番組としてはその前に放映されていた人気シリーズ「バットマン」の高視聴率には及ばず、26話で終了します。その後はいくつかのTVドラマや映画に端役で出演したり、武術指導を務めたりはするものの、より創造的で次元の高い演技や役柄を求める彼の野心と情熱は、決して満たされることはありませんでした。

1971年、ワーナー・ブラザースは連続TVアクションドラマ「ウォリアー」を企画します。少林寺で功夫を学んだアメリカ人と中国人のハーフであるクワイ・チャン・ケインが、19世紀中頃、西部開拓時代のアメリカに渡って様々な苦難を乗り越えながら放浪するという物語です。彼は自分から争いをしかけることはありませんが、やむにやまれぬ状況に追い込まれ、最後は磨き上げた武術の腕に訴えて虐げられた弱者たちを救います。また彼が体現している東洋哲学の叡智が、周囲の人々の心を捉えます。

ブルースはこの企画を知らされた時、それがまさに自分にふさわしいものであると確信し、制作会社のワーナーに対して、細部にわたって数多くのアイディアを提供しました。彼は当然のことのように主演を期待していましたが、実はワーナーも放映元のABCテレビも、彼の起用を考えてもいなかったのです。
12月、香港で「ドラゴン怒りの鉄拳」をヒットさせたブルースのもとに、ワーナーから「ウォリアー」を降ろされたという電報が届きます。あまりに無名であるとか、小柄すぎるとか、経験不足であるとか、英語の発音が完璧でないといった理由が挙げられていましたが、「グリーン・ホーネット」で流暢な英語を話し、主人公を上回る人気を勝ち取ったブルースに向けられたものとしては、はなはだ根拠が薄いと言わざるをえません。真の原因は、アジア人に対する人種差別にあったのです。スポンサーがあまりに中国人らしく見える俳優が、毎週放映されるTVシリーズの主人公を演じることに危惧を感じたという一事に尽きます。
こうしてハリウッドでビッグなスターになるというブルースの夢は、決定的な挫折によって一端幕を閉じます。彼は香港で、映画俳優としてのキャリアを積んでいくことを心に決めるのです。

「ウォリアー」は「クンフー」(KUNG FU)と題名を変えて、1972年に全米で放映されました。邦題は「燃えよ!カンフー」です。主演のデイビッド・キャラダインは、これっぽっちも中国人の血が流れていないブロードウェイあがりの俳優で、功夫についてはその名を聞いたことがあるという程度の知識しか持ち合わせていませんでした。物静かで思慮深い男を演じるのはまあまあさまになっていても、そのアクションのキレは、ブルースの華麗な功夫技を知る者の目にはいささか物足りず、まるで素人が踊るダンスを見ているようでした。
そうは言ってもこのドラマ、相当人気があったらしく、6シーズン、全62話が放送され(1972年~75年)、さらには舞台を現代に移した全21話の「新・燃えよ!カンフー」(KUNG FU:THE LEGEND CONTINUES。1993年~97年)、1986年には外伝「ブランドン・リーのカンフー・ファイター」(KUNG FU:THE MOVIE)が作られ、キャラダインとブルースの子ブランドンとの共演まで実現しています。残念ながら、そのほとんどを私は見ていませんが、これだけやればキャラダインの功夫アクションの腕も、相当に上がったことでしょう。

功夫と西部劇のコラボ「燃えよ!カンフー」

つい皮肉っぽくなってきましたので、気を取り直して話題を変えることにしましょう。
少林寺でケインに功夫と東洋の哲学思想を教えた師匠の1人が盲目のポー老師です。しかし修行を終えて寺を去ったケインは、再会したポーを目の前で撃たれ、さらなる銃撃を避けるためにやむなく清国皇帝の甥を殺めてしまいます。こうして追われる身となった彼は、アメリカへ逃れることになるのです。
物語の発端に関わる重要な役割を果したポーを演じるケイ・ルーク(陸錫麒)は、ブルースとは浅からぬ縁のある役者です。彼は人気ラジオ・ドラマを1939年に劇場映画にした「グリーン・ホーネット」の初実写化版で、後にブルースが演じたカトー役をやっています。さらに、「燃えよドラゴン」で悪の総帥ハンに扮したシー・キエンが英語が不得手だったため、セリフの吹き替えを担当しました。
ついでに言えば、やはり「燃えよドラゴン」でブルースとともにハンの要塞を壊滅させるローパーを演じたジョン・サクソンが、「燃えよ!カンフー」にゲスト出演しています。

ブルース・リーのハリウッドにおける挫折は、「ウォリアー」が最初ではありませんでした。かけた時間や労力の分量から見れば、むしろそちらの方が彼に与えたダメージは大きかったかもしれません。
それこそが遡ること3年前、ブルースが俳優としての飛躍を賭けて自ら考え出した冒険活劇映画「サイレントフルート」の制作計画でした。


【参考文献】
リンダ・リー著、柴田京子訳『ブルース・リー・ストーリー』キネマ旬報社、1993年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年
関誠著「「グリーン・ホーネット」魅力の源泉はブルース・リーにあり!」『キネマ旬報』2月上旬号(No.1574)
  キネマ旬報社、2011年

http://makes-tanaka.seesaa.net/article/396292301.html

元ネタはブルース:リーが考えた映画版「燃えよカンフー」

 
1966年TVシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢された

ブルース:リー、正義のヒーロー「グリーン・ホーネット」の助手兼

運転手として、目の周辺だけを隠すマスクをつけた日系アメリカ人のカトー

役を演じた。アメリカ国内で「有名な日本人は?」と質問すると

「ブルース・リー」と回答する人が多いが、その理由はブルース・リーが

グリーン・ホーネットにおいて日本人の役を演じた為に現在でも多くの

アメリカ人が「ブルース・リーは日本人である」と勘違いしてるからだと

言われている。


img_1.jpeg

『グリーン・ホーネット』の後、アメリカの連続テレビドラマ『燃えよ!カンフー』

を企画し、自ら主演を願ったが、東洋人であることでデイビッド:キャラダインが

主演することになった。

photo.jpg

「燃えよ!カンフー」は1972年から75年までアメリカで放送されたアクション

ドラマで、19世紀のアメリカ西部を舞台に中国でカンフーをマスターした男

(デビッド・キャラダイン)が渡り歩くというストーリー。もともとは、

ブルース:リーが考えた企画だった。


Kung-fu-David_Carradine.jpg

 ラーマン監督は「ダンシング・ヒーロー」「ロミオ&ジュリエット」

「ムーラン・ルージュ」最新作「華麗なるギャツビー」まで、豪華絢爛な

セットとエネルギッシュでミュージカル的な演出が得意、ミュージカルカンフー

映画が出来上がるでしょうか?

 映画版は「ブラック・スワン」の脚本家ジョン・マクロクリンが手

がけており、中国を舞台に主人公が父親を捜す物語になっているという。

公開はまだ先です。

http://www.emitefil.com/tv/america/kungfu.html

アメリカはいつも教科書だったよ  ~懐かしの海外ドラマ ▼アメリカかぶれ
作詞・秋元康/作曲・塩塚博/唄・郷ひろみ


燃えよ!カンフー /1976年
米国ABC系で72年から放映されたアクション・ドラマ。日本での放映は1976年。

1870年代のアメリカ西部。行方不明の兄を探し歩くクワイ・チャン・ケイン(デビッド・キャラダイン)は賞金付きのお尋ね者だった。

孤児ケインは中国で少林寺の僧に育てられ、成長して武術の達人となったが、 恩師を助けるために清の皇帝の甥を殺し、追われる身となってアメリカへ渡って来たのだ。

東洋人に対する偏見、差別。賞金稼ぎの殺し屋、善意の人々との出会いと別れ・・ケインの旅は続く。

カンフー映画ブームのなか、日本のTV局は先を争って『燃えよ!カンフー』の放映権を・・とはならず、本国に遅れること4年。深夜の放映だった。

あからさまに『燃えよドラゴン』にあやかった邦題とは裏腹に、スローモーションを多用したアクションに派手さはなく、デビッド・ジャンセンの『逃亡者』を開拓時代に置き換えたような、シリアスな人間ドラマだったからだ。

制作当時の米国はベトナム戦争に疲弊し、反戦を唱えるヒッピーの間では東洋思想がブームだった。そういった背景に合わせたのか、劇中には修行時代のケインと高僧の禅問答が回想シーンとして度々登場した。

「コオロギ(ケインのあだ名)よ。ネズミは穀物を盗む。猫はネズミを殺す。どっちが悪か?」というような話が交わされる。

この種の東洋趣味は米国人の心の琴線に触れるのか、日本でヒットしなかった『燃えよカンフー』は米国では支持され、続編も作られた。80年代の空手映画『ベスト・キッド』の師の教えにも同様のニュアンスを感じたものだ。

『燃えよカンフー』の原案はTVドラマ『グリーン・ホーネット』で俳優としての頭角を現したブルース・リーが企画したといわれるが、自ら演じる事は出来なかった。

失意の中、香港へ帰ったブルースは『ドラゴン危機一発』の主役の座につき、一気にスターダムを駆け上がった。成功に目をつけたハリウッドはブルース・リー主演で『燃えよドラゴン』を製作する。しかしブルースはその成功を自らの目で確かめることは出来なかった。

歴史に「もし」は禁句だが、『燃えよカンフー』をブルース・リーが演じていたならば、TVのアクションとしてのカンフーブームはあっても、ドラゴンブームはなかったかも知れない。


《余談》
カンフーという言葉は、『燃えよドラゴン』がブームになった当初はクンフーと表記されていた。時代的にアメリカンニューシネマの雰囲気があり、同時代の『木枯し紋次郎』に通ずるものがあった。

エピソードのサブタイトルの邦題は『木枯し紋次郎』と区別がつかない。
第2話:「さすらい人に刃が光る」  KING OF THE MOUNTAIN
第3話:「石の心に愛を刻んだ」 DARK ANGEL
第4話:「友の誠が闇を照らした」 BLOOD BROTHER

http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=233858
1870年代、アメリカ人の父と中国人の母を持つケインは両親を亡くし、少林寺に入門。仏教の教えを受け、カンフーのマスターとなるべく修行を続けていたが、ある日、恩師を助けようとして人を殺してしまう。追手を逃れて父の祖国アメリカに渡ったケインは、西部を旅しながら様々な試練に立ち向かうのだった。少年時代のケインが師と交わす禅的問答を回想シーンとして織り交ぜながら、西洋社会の中で孤独に生きるケインと、彼に畏怖を抱きながら接する人々を描く。西部劇と東洋哲学を融合させ、人種差別や異文化との共存をテーマにした異色アクション・ドラマ。企画・脚本は「ゴードンの戦い」のエド・スピールマンと「警部マクロード」のハーマン・ミラー。製作総指揮は「ガンマンの対決」のジェリー・ソープ。1993年には続編シリーズ「新・燃えよ!カンフー」が製作された。出演は、デヴィッド・キャラダイン(「ウディ・ガスリー/わが心のふるさと」)、フィリップ・アーン(「慕情」)、ケイ・ルーク(「グレムリン」)。当時は無名だったジョディ・フォスター、ハリソン・フォード、ドン・ジョンソンなどがゲスト出演している。

http://www.geocities.jp/soit5/b/master_po.html
TV雑記

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2004-08-03 ポー先生の教え@「燃えよ!カンフー」


 「燃えよ!カンフー」は、恩師を助けるために皇帝の親族を殺めてしまった少林寺の僧ケイン(米中のハーフ)が、国を逃れ、兄を探して1870年代のアメリカ西部を旅する物語(製作は1972年~)。東洋から来た寡黙な旅人は行く先々で侮りや好奇の目に迎えられるが、彼の拳法は粗野な無法者たちを叩き伏せ、彼の高潔な人柄は善良な人々を魅了し、人々や彼自身を救う。エピソードの随所にケインの修行時代の回想(多くは老師との哲学問答)が挿入され、争いを好まないがその内に高い戦闘力を秘めるケインの生い立ちと“神秘的な東洋思想”が少しずつ語られてゆく。

 特殊な技能・能力を持つ“お尋ね者”があるものを求めて旅をし、人々との出会いと別れを重ねてゆくというのは往年のアメリカTVドラマの黄金パターンだが(「逃亡者」、「超人ハルク」など)、西部劇の主人公を少林寺の僧にするとは思い切った企画である。アメリカでは大ヒットしたらしい。

 新奇なものが好まれるにしても、予備知識が欠けていたりあまりに価値観に隔たりがあれば理解も共感も得られない。“本場モノ”が常に歓迎されるわけではない。ヒッピーにウケるに留まらず大ヒットしたということは、当然のことながら、70年代のアメリカの視聴者にウケるようにアレンジされた“東洋の神秘”であったわけだ。

 というようなことを、第11話「Chains」に挿入された回想シーンを見て思った。

ポー師どっちが悪なのかな? ネズミは穀物を盗むのが商売だ。ところが猫はネズミを殺すように生まれついている。 ケインネズミは盗みます。でも、ネズミにとって猫は悪です。ポー師猫にはネズミが悪だ。ケインではどちらも悪ではないのですか?ポー師ネズミは盗むのではない。猫は殺すのではない。雨が降る、川が溢れる、が、山は沈まぬ。一つ一つが自然に適っているのだ。ケインでは悪はないのですか。何をしてもそれがその人にとって善なら、許されるのですか。ポー師コオロギ(*)、人は自分に都合のいいことだけを言う。しかし宇宙にはその人間一人が住んでいるわけではあるまい。ケイン私に悪をなす者を私が懲らしめれば、二度としなくなるかもしれません。ポー師懲らしめなければどうなるかな?ケイン好きなことをしていいのだと思うでしょう。ポー師そうだな。だがもう一つ、悪に報いるに即ち善をもってする、その心も教えるのだ。

(*) ケイン少年が少林寺に入門し盲目の老師ポーと初めて出会った時、少年の足元でコオロギが鳴いていた。以来、ポー先生はケインをこの愛称で呼ぶ。

 ネズミから宇宙まで自在に喩えを引きながら語られる少林寺の老僧の教えは、「悪に報いるに即ち善をもってする」という新約聖書的なフレーズで締め括られる。アメリカの視聴者は毎週少林寺の師弟の問答を見て、仏教(禅)というのも結局キリスト教の教えと似通ったところに辿り着いている思想・宗教なのだな、と気持ちよく“理解”を深めていたのだろうか? なんて、ちょっとヒネた思いが頭に浮かんだのである。

 試みに音声を切り換えて聴いてみると、ポー先生のセリフは英語版では以下のようであった。

Master PoPerhaps. Or perhaps, he will learn that some men receive injury but return kindness.
 おや。新約聖書的なフレーズだと感じたのは日本語版の訳のせいか。この問答での「善」、「悪」はそれぞれgood 、evil なのだが最後のポー先生のセリフのみ、上で引用したようにinjury(損害)とkindness(親切)になっている。オリジナルはこの箇所で聖書を連想させる単語は避けたのだろうか。どうもよくわからない。わからないといえば、ポー先生のセリフもオリジナルだと茫漠としている。

 「たぶん(おまえの言うように、害をなす者を懲らしめなければ彼は好き放題し続けるかもしれない)。だがもしかすると(何もしないことによって)、世の中には損害を被ってもなお親切で応える者がいることを、彼は学ぶであろう」

 我流で訳すと上のようになるのだが、なんだかすごく生ぬるいぞ少林寺。親切ってなんだ親切って(笑)。説得力を感じないのは私の誤訳のせいかもしれないけど。


 悪をなす者に対し如何に処すべきか、仏教がどう説いているのかは知らない。東洋思想のもう一つの源流、孔子は次のように説いている。

三六  或曰、以徳報怨、何如、子曰、何以報徳、以直報怨、以徳報徳、
ある人が「恩徳で怨みのしかえしをするのは、いかがでしょう。」といった。先生はいわれた、「では恩徳のおかえしには何をするのですか。まっ直ぐな正しさで怨みにむくい、恩徳によって恩徳におかえしすることです。」

出典:『論語』(金谷治 訳注、岩波文庫、巻七 憲問第十四、p.203)

*  *  *

 と、ここでこの雑文は終えるつもりだったのだが。ネット検索で『論語』の英訳を見つけ、上で引用した箇所を読んでみて驚いた。

14-36
Some one said, "What do you say concerning the principle that injury should be recompensed with kindness?"
The Master said, "With what then will you recompense kindness?"
"Recompense injury with justice, and recompense kindness with kindness."
或曰、以徳報怨、何如、子曰、何以報徳、以直報怨、以徳報徳、

出典: 憲問 第十四(論語、中村学園大学電子図書館)

 injury とkindness がいっぱいだ。そうか、この章の「怨」、「徳」を英訳するとinjury 、kindness になるのか。うぅむ。

 ポー先生の言葉を「新約聖書的なフレーズ」と評し、オリジナル(英語版)を聞いて「『親切』ってなんだ」なんて失礼なことを書いてしまったが、ポー先生のセリフ(用語法)は(英訳された)『論語』を踏まえたものだったのかもしれない。侮ってはいかんのだなあ。

 用語法にはそれなりの根拠があるらしいことはわかったが、さて、では、“悪をなす者を罰しないことによって、もしかすると、世の中にはinjury(損害)を受けてもkindness(徳?)で応える者がいることを、彼は学ぶであろう”というのは、少林寺の僧の教えとして妥当なものなのか?

 疑問は依然残るが、私の手には余るのでこれにておしまい。

*  *  *

 ポー先生のセリフをネット検索してみたら「“Kung Fu”:TV Series Episode Guide」というサイトでこの問答が採録されているのを発見した。下の参照リンクに入れておく。回想シーンの問答全体が英語版ではどうなっているのか、確認したい方はこのサイトを参照されたし。(一部単語が抜けていたり異同があるが、大筋で問題なし)

http://kohe000.at.webry.info/200906/article_1.html


デビッド・キャラダインの言霊・・・「燃えよ!カンフー」詩録

<< 作成日時 : 2009/06/06 21:12 >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 11 / トラックバック 0 / コメント 4

"生まれついての役?いや、それは否定する。絶対にね。私は私自身だ。だろ?"


「燃えよ!カンフー」DVDボックスの特典映像から、主演の僧ケイン役デビッド・キャラダインの発言を拾ってみる。
享年72歳・・・。


「わしが復讐しなければ誰がする?」
僧「誰も」
「無力のちから」(2005年8月5日付)より。
"興味深いのは、それが実際のテーマということなんだ。反・復讐のテレビシリーズさ"

彼は36歳だった。元海兵隊員だった。
72年の"復讐否定"のドラマ。
ベトナム戦争末期のアメリカ。
彼はシリーズ出演を当初渋った。が、ケイン役に惚れ込み、頭を丸めた。
カンフーも禅も、まったくの未知だった。

"ブルース・リーが亡くなった時は、シャツの色を変えたんだ。こげ茶から彼が着てた黄色にね"

メイン監督はケイン役をブルース・リーで推していたという。
彼はまったくの素人からカンフーの動きをこなした。
やがて東洋哲学も学び始めた。
彼はブルース・リーとは会ったのだろうか?
彼がハリウッドでケインになった年、リーは香港でドラゴンになっていた。

「飛べる自由、巣喰う自由」(2005年12月28日付)
"この話は差別や社会問題を番組でどう扱うべきか、私が初めて興味を持ち始めた話でもあるんだ"

黒人差別と、人間の自由をテーマにした一編。
彼は、週7日朝6時から夜9時まで出ずっぱりだった。
いつもシナリオをろくに読まずに現場へ現れ、一発OKをこなす天才肌だった。
その彼が、やがて作品創りにのめり込み始める。
特に少林寺での老師との禅問答のシーンは、脚本家には書かせず、監督始めプロデューサー陣とディスカッションして仕上げていったという。

"主役を張るのは大変だ。私は頭が変になる前にやめたんだ。別に殴られてじゃなくて、シリーズで主役を続けていると太ったり、酒浸りになったり、人間の抜け殻になるんだ。何人か目にした"

彼は自らケインを降りた。
高潔な僧を演じて廃人になるより、全米のファンに背を向けて己自身であり続けることを選んだ。
ケインが彼に選択させた道だったのかもしれない。
僧は必ず旅立っていく。
決して後ろを振り返らず・・・。

"番組を降りた時、私は収まることのない怒りを買った。テレビ局やスタジオからだ。今日に至るまでスタジオは、私の降板に怒ってる"

彼は5度結婚して4度離婚した。
彼は自分の人生を頑固に貫く。

"長く評価されるのは、万人のための教訓劇だからだ。永遠だ。聖書のように古く、神話の響きを有してもいる。魔法を持つ。テレビ史上、どの番組より多くの魔法をだ"

魔法・・・彼の顔も魔法だ。
高齢を迎えても彼の顔は、ほとんど変わることがない。
死ぬまでケインだった。
そして永遠になった。

"番組の価値を信じてた。多分、これまでで一番精力をつぎ込んだ作品だ。「キル・ビル」を別にして"

僕は俳優デビッド・キャラダインの熱烈なファンではない。
映画は「明日に処刑を・・・」と「キル・ビル」シリーズしか見ていない。
そして「キル・ビル」は、つまらなかった。
特に「2」は、まったく退屈の極みだった。
彼は「1」で声だけの登場だったから、ビルなのだ。
姿を見せないのが、彼の真の存在と価値だったのだ。
僕にとって彼は僧だ。
だから彼の死に様など、全然聞きたくないのだ。

質問・・・人々が自分にケインを重ね合わせるから、それに対して自分は何らかの義務(責任)があると思う?
"時にはそう思うこともあるし、また意図的にイメージを壊そうと思うこともある。どうして?それは・・・変人だから"

その通りに彼は死んだようだ。
突然の訃報は心底悲しい。
だが、彼はただでは死ななかった。
彼は僧ではなかったのだから。
僕は虚しさの彼方に、ほのかな灯りを拾う。
彼は人間だった。
ケインはまだ死んではいないのだ。

"私の感じ方はちょっと違うかもな。確かに世間に与えた影響は想像以上だったが、済んだことだ。好きか嫌いかにかかわらず、その後ずっと遺産はついて回る。面倒なこともある。"

済んでしまったこと。
「燃えよ!カンフー」も終わった。
「新・燃えよ!カンフー」も終わった。
もう二度と続編が、その本当の最終章が映像化されることはなくなってしまった。
けれど遺産は残った。
僕の掌の中に零れ落ちてきてくれた。
僕が終わるまで、あと何度、あと何話、僧の軌跡を辿れるだろうか。
僕には遺産なんて、ないから・・・・。

"言いたいのは私が続編に出たのは、皆が私の所に来てこう言い続けたからだ。「続きはやらないのか?」やるべきなのかもと思った。選択の余地はなかったのかも。生まれついての役?いや、それは否定する。私はケインより西部劇のキャシディーの方に近い。絶対にね。私は私自身だ。だろ?煙草は吸うし、基本的に西部劇俳優なんだ。まったく違うよ、仏教徒でもないしね。あれは私じゃない"

やるべき役。
近い役。
向いてる役。
そして自分とは、まったく違う役。
彼はその役目で歴史に名を残した。
大いなる仕事を果たし、世界中の人々の記憶に刻まれた。
彼はケインではない。
仏教徒でも僧侶でもない。
しかし、彼が授けられた役は、ケインだった。
彼の命の役割は、僧としての巡礼だった。
役者には、人間には、それぞれの"生まれついての役"があるのかもしれない。
それが本人と違っていたとしても、いや異なっているからこそ、人は全霊を込めてその役割を全うできる。

"脚本に書かれていた以上のものを私はケインという役柄にもたらした。自分が考えたすべてを込めた"

彼はケイン以上だった。
だからケインは、不滅の魂へと昇華した。
彼は彼自身。
ケインは誰でもない、一個の僧。

質問・・・依頼されたら、またケインを演じる?
"・・・・ギャラは?(笑)高いよ"

彼は、もういません。
いや、そこにいる。力の限りを尽くし、才能を傾け、やっと仕上げた"作品"だ。単なる記念碑かな、それともあの人自身か?
まさか一週間前に更新した記事がそのまま現実になるとは・・・・。
僕はまだまだ残された彼の"作品"を見続ける。
詩録を重ねる。
それはケイン自身であり、キャラダイン自身であるとも感じながら。

「勝者が産む悪魔」(2006年5月16日付)が最も印象深い一編だという。
「下を向いて歩かず、太陽に顔を向けろ」
"いいセリフだ。「賢い者ほどコウベ(頭)を垂れる」という言葉をかつて聞いた。でも私にはそれを信じることは出来ない"

彼は生きた。
僕も生きた。
彼はケインを演じ、僕は僧を記した。
彼は生涯太陽を見上げて生きていったことだろう。
僕はコウベを垂れて、僧の詩録を少しずつ這うように更新していく。
僕は結局何も信じてはいない。
彼も、人も、言葉も、自分も・・・・。
ただ己の役をひっそりと行乞していくだけだ。
運命という役柄に、追われながら殉じていくだけだ。
できれば僧のように、キャラダインのように。
最終回まで、あと少し・・・・。


「彼と役柄は渾然一体だったね。完璧なハマリ役だ。みんな、彼を信じた。つまり、何事にも常に陰と陽がある」
(ワーナーブラザーステレビ前副部長 トム・クーン)

http://tv6.2ch.net/test/read.cgi/tv2/1093405448/
★★ 燃えよカンフー(語録保存編)★★

1 :名無しでいいとも!:04/08/25 12:44 ID:???ケイン 「先生、なぜ新たなスレッドをたてるのですか?」

カン  「一般のスレッドでは様々な議論が展開されるため語録が埋没してしまう。
     そのため語録を見やすく閲覧できるように別スレをたてたのだ。」

ケイン 「無法者が侵入して心ない書き込みをおこなったらどうすればいいのですか?」

カン  「その時は削除依頼を行うのだ。無法者の制圧は一般スレのほうで行い、
     このスレではあくまで削除依頼に徹するのだ。」

ケイン 「削除依頼が受け入れられなかったらどうするのですか?」

カン  「スレの住人全員が魂の戦士となり削除依頼を繰り返せば削除人はもはや
     その声を無視できなくなる。」

ケイン 「一般スレの方の語録はどうすればいいのですか?」

カン  「お前が他の住人の皆さんと協力してこのスレに移植するのだ。」

ケイン 「わかりました。早速皆さんにも協力をお願いしてみます。」








2 :重複スレ。”削除”依頼出せ:04/08/25 13:10 ID:???燃えよカンフー
http://tv6.2ch.net/test/read.cgi/tv2/995696777/l50

3 :奥さまは名無しさん:04/08/25 22:45 ID:???よくやった。

4 :3:04/08/25 22:46 ID:???訂正
≫1
よくやった。

5 :奥さまは名無しさん:04/08/25 23:38 ID:???
武道・武芸板  「燃えよ カンフー!」を見ろ!

http://sports7.2ch.net/test/read.cgi/budou/1085067074/l50


40代板  ▲燃えよカンフーっておぼえているよねえ▲ (DAT落ち)

http://bubble2.2ch.net/test/read.cgi/middle40/1073033382/l50


6 ::♯5 毒蛇は勇者に呑まれた :04/08/26 01:07 ID:nv+FlT4Rカン   「ここから出て行けば、お前は多くの暴力に出会うだろう」

ケイン 「もしもそれに気づいたならば、避けて通ることはできないのでしょうか」

カン  「お前にはできるだろう。しかし多くの者たちはそれに躓く」

ケイン 「では気づいたなら打ち倒すべきなのでしょうか」

カン  「常に平和を求めるのだ。魂が危険に晒されない限り、無法な者にかかわりあうな。
人はすべて魂で結ばれている。一人の危険はすべての危険だ。」

ケイン 「そのときはどうするのですか」

カン  「そのときは魂が戦士となって戦わねばならん」

7 ::♯5 毒蛇は勇者に呑まれた:04/08/26 01:09 ID:nv+FlT4Rカン  「目が見るものは瞬きひとつするだけで、息を吹きかけるだけで消える。そこに明かりがあっても。
     しかし目にはもう何も見えん。よいか。フッ(と息を吹きかけ目の前の蝋燭の炎を消して見せるカン先生)」

ケイン 「目には見えません。明かりも蝋燭も。何も見えません」

カン  「こちらへ(と別の蝋燭の前へケインを誘うカン先生)」

カン  「目が見るものは消える。魂が見るものは消えることはない」

ケイン 「死が瞬きするとき魂は召しいるのではないのでしょうか」

カン  「いや、魂は常に見ておる」

ケイン 「でも肉体は死にます」

カン  「太陽は死ぬか?」

ケイン 「夜は輝きません」

カン  「輝いておる。どこかで。お前の目に見えぬだけだ。」

8 ::♯5 毒蛇は勇者に呑まれた:04/08/26 01:09 ID:nv+FlT4Rポー  「肉体を鍛える目的はより大きな力を見出すためだ」

ケイン 「先生、より大きな力とは何ですか」

ポー  「己自身を空しくする者が内なる力を得る」

ケイン 「手足よりも身を守る役に立つのですか」

ポー  「心が危険を感じないときは危険は存在しないのだ。
     魂の戦士となるときすべての恐怖は消え去る。
     掌に舞い降ちる雪が溶けて消えるように」

9 ::♯5 毒蛇は勇者に呑まれた:04/08/26 01:11 ID:nv+FlT4Rケイン 「先生、内なる力はどのようにすれば得られるのですか」

カン  「すべての他者と一体となることによって得られる」

ケイン 「敵対する者にはどのようにするのですか」

カン  「炎と氷が相対したらどちらが勝つかな?」

ケイン 「氷です」

カン  「炎は消えるが、しかし氷も溶けて水になるのではないかな?」

ケイン 「では炎ですか」

カン  「相手の力を知ろうとしない者はすなわち負ける。
     未知のものを恐れるところに危険が生じる。
     恐れが無ければ危険も存在しない。
     虎と人が別々の存在ならば人は虎に襲われて死ぬだろう。
     しかし虎と人がひとつのものなら、すなわち恐れはなく危険もない。
     虎が己とひとつのもの、すなわち己自身を襲うはずがないではないか。」

10 ::♯5 毒蛇は勇者に呑まれた:04/08/26 01:12 ID:nv+FlT4Rポー

コオロギ、己を偽るな。裸の己をさらけ出すことを恐れてはならん。人はとかく己を偽り、飾りたがる。
そして単純なものはなかなか理解されにくい。しかし真実は真実だ。分かる者には分かる。
森の中で木が倒れる。人の耳には聞こえず何の音もしない。しかし木は倒れるのだ。

11 : ◆oBUxnlXtxo :04/08/26 01:14 ID:nv+FlT4R
カン 「戦では慎重さを失わぬ者、怒りにかられることのない者が勝つ。
    しかし、最も賢い者は戦わずして勝ちをおさめるものだ。」

ケイン「でも先生。怒りを抑え、戦いを避けることが大事ならば、このように
    体を鍛えるのは何のためですか?」

カン 「これは戦うための力ではない。弱い者が強い者に打ち勝つための手だてだ。」

12 :(^O^)6. 「空井戸は情に湧いた - NINE LIVES -」:04/08/26 01:20 ID:nv+FlT4Rポー  「いいか、コオロギ。人間の両手は目や舌と同じなのだ。
     手を触れることで他の者の心を感じ、また自分の心を伝えることもできる。」

ケイン 「その同じ人間の手が他の者を殴ることもできるんです。
     悲しいことですね。」

ポー  「苦痛と喜びは並んでつるされている二つの鐘のようなものだ。
     一方が鳴れば、もう一方も震える。」

ケイン 「では苦痛と喜びは同じものなのですか?」

ポー  「目と舌は同じものかな?
     同じ目が美しい蝶と醜い傷口を見る。
     同じ舌が苦しい叫び声をたて、楽しい笑い声をたてる。」

13 :(^O^)6. 「空井戸は情に湧いた - NINE LIVES -」:04/08/26 01:21 ID:nv+FlT4R 
少年時代のケインが数人の子供達に袋叩きにあっているところへ
ポー先生が通りがかり、子供達を追い払いケインを助ける。

ケイン 「ありがとうございました、ポー先生。
     おかげで助かりました。」

ポー  「お前のためにしたのではない。わしのためだ。」

ケイン 「でも、みんなは私を異国人だと言っていじめたのです。」

ポー  「わしがまだ子供のころだ。はい上がることもできぬ深い穴に落ちてしまった。
     わしはそのままそこで死ぬかと思ったがな、通りがかりの知らない人が助けてくれた。
     その時その人はこう言った。
     『昔人に助けられたお礼に自分は10人の人を助けねばならぬ。
      その10人がまた10人を助ける。
      小石を投げると水の輪が広がるようにそうして善行が広がっていくのだ。』
      とな。
      わしはそのお返しをした。
      今度はわしがお前に対して貸しを作る。
      お前は10人の人を助けてその貸しを返すのだ。」   

14 :奥さまは名無しさん:04/08/26 01:22 ID:1t4MLxVA
過、過去ログ

http://piza.2ch.net/log/tv2/kako/938/938822907.html

うしみつショー(燃えよカンフー)

http://www.ntv.co.jp/ushimitsu/kung-fu/

スーパーチャンネル(新燃えよカンフー)

http://www.super-ch.com/line/kungfu/

15 :(^O^)7. 「裏切りは潮騒に散った - THE TIDE -」:04/08/26 01:23 ID:nv+FlT4R
ケインとポー先生が断崖の上から海を見ている。

ポー  「海の向こうに何があると思うのだ?コオロギ。」

ケイン 「見たことのない父の国があります。私につながる遠い過去があります。」

ポー  「では、いつか訪ねていくのだな。」

ケイン 「過去を訪ね求めることはよいことですか?現在だけで十分では?」」

ポー  「過去によりかかって生きるなら現在を疎かにすることになり、
     過去を無視することは将来を疎かにすることだ。
     人の運命の根は過去の種によって養われるのだぞ。」

16 :(^O^)7. 「裏切りは潮騒に散った - THE TIDE -」:04/08/26 01:24 ID:nv+FlT4R
少年時代のケインがホーハンと二人で食料の買い出しに町へ向かうが、
途中出会った老人に騙されて、森の中を通ったところ盗賊に襲われ、
金銭と衣服を盗まれる。
少林寺に戻って、カン先生にそのことを報告する。

カン   「ホーハン、このことからお前は何を学んだ?」

ホーハン 「人を信用するなということです。」

カン   「クワイチャン、お前は何を学んだかな?」

ケイン  「思いがけぬことはどこにでもあるということです。」

カン   「ホーハン、今夜はゆっくり休んで明日の朝うちへ帰るがよい。」

ホーハン 「いつここに戻ったらいいんですか?」

カン   「二度と戻るな。」

カン   (ホーハンが立ち去った後ケインに向かって)「お前はわしが厳しすぎると思うか?」

ケイン  「どうしてホーハンだけが罰を受けるのかわかりません。老人を信用した責任は
      私も同じです。」

カン   「信用したから罰するのではない。家を建てるとき大工が釘を打つ。
      たまたま悪い釘で曲がってしまった。そのために大工は全部の釘が悪いと思って、
      家を建てるのをやめるだろうか?」

ケイン  「悪い人がいると解っていてもいつも人を信じることが大事なのですね。」

17 :(^O^)7. 「裏切りは潮騒に散った - THE TIDE -」:04/08/26 01:26 ID:nv+FlT4R16の続き

カン   「人間の中には常に善と悪がある。人を信じることで善を励ますのだ。
      そうすることで己自身の中に善を積むのだ。」

ケイン  「人を信じることの報いが善なのですか?」

カン   「どのようなことを為す時も報いを求めてはならぬ。
      しかし人を信用すれば、時には善よりももっと大きな報いがもたらされる。」

ケイン  「善より大きなものとは?」

カン   「愛だ。」

18 :(^O^)7. 「裏切りは潮騒に散った - THE TIDE -」:04/08/26 01:26 ID:nv+FlT4R
カン先生と少年ケインが観劇をしている。舞台では女性の踊り子が踊っている

カン  「心と身体と魂は一つだ。
     心と魂の欲望を関係があらわす時、関係は自然と解け合っているのだ。
     それは清らかなもので何ら恥じることはない。」

ケイン 「愛とは何ですか?」

カン  「愛とは調和だ。響き合うことだ。」

19 :(^O^)8.「日影に咲いた愛の花 - SUN AND CLOUD SHADOW -」 :04/08/26 01:28 ID:nv+FlT4R
ポー  「このハスの花というものはまことに清らかなものだ。
     根は水の中にあるが花は水の上に咲く。
     ようやく今水の表に達した花もあれば、中にはまだ水の中にいる花もある。」

ケイン 「それでは人に対するときも相手によってそれぞれに応対の仕方を
     変えるべきなのでしょうか?」

ポー  「花を見るがよい。
     どのような成長の段階にあろうと常に同じ花ではないかな。」

ケイン 「ではあらゆる人に同じ態度で接することですか?」

ポー  「そうだ。卑屈にならぬ限り、できるだけ親しみをもって接するのだ。」

ケイン 「しかし、水の中にいる花は、日の光を知りません。
     他人は、私を知りません。
     知らずに理解してくれるでしょうか?」

ポー  「人がどう思おうと気にするな。
     決して自分自身を卑しめてはならぬ。」

20 :(^O^)8.「日影に咲いた愛の花 - SUN AND CLOUD SHADOW -」:04/08/26 01:30 ID:nv+FlT4R
ケイン 「先生、世の中が平和な時は少ないのに、どうしたら平和な道を歩けるのですか?」
 
ポー  「コオロギ、平和は世の中にあるのではない。
     道を歩む人間の心の中にあるのだ。」

ケイン 「途中で心に平和もたない人と出会うかも知れません。」

ポー  「そうしたら別の道を行くのだ。」

ケイン 「どの道を行っても乱暴で平和を愛さない者が現れたらどうするのですか?」

ポー  「完全に到達するためには人は知恵と哀れみを持たねばならぬ。」

ケイン 「でも先生、争いをしかける者と争わないためにはどうすればいいのですか?」

ポー  「はっはっは、自然と一体となっている者は、肉体が争っていても心に暴力はない。
     だが自然と一体となっていない者は、肉体は何もしなくてもそこには常に暴力がある。」
     いいかコオロギ、船の舳先になるのだ。
     舳先は水を分けて進む。しかし船が通った後、水はまた一つになっている。」

21 :(^O^)9 「亡父が教えた道標 - PRAYING MANTIS KILLS -」:04/08/26 01:35 ID:nv+FlT4R
ケインがポー先生の側で弦楽器を奏でている。
そこへある僧がケインから借りた六分儀を返しに来る。この六分儀はケインの父親の形見である。
ところがケインは受け取りを拒み、自分には必要ないのでその僧に贈与すると言う。

ポー  「お前は父親が大切にしていた思い出の品をとっておこうとは思わんのか?」

ケイン 「先生は『物に執着するな。』そう教えてくださったではありませんか。
     それなのにどうして・・・。」

ポー  「しかし他の物とは違う。あの六分儀はお前が父親を偲ぶ唯一のよすがだ。」

ケイン 「それなら、ばなおさらきっぱりと捨て去らねば。」

ポー  「父と子の間には時も死も打ち壊すことができぬ橋がかかっているのだ。
     お互い相合うためにはその橋を渡って行かねばならぬのだぞ。」

ケイン 「父は死にました。」

ポー  「コオロギ、わしが橋と言っておるのはお前の父親への愛情だ。

22 :(^O^)9 「亡父が教えた道標 - PRAYING MANTIS KILLS -」:04/08/26 01:37 ID:nv+FlT4R
ケイン 「先生、淋しいと思うことはありませんか?」

カン  「お前は淋しいか?」

ケイン 「いいえ。世間の人のように別に家庭が欲しいとも、家族の団らんが欲しいとも思いません。」

カン  「初めてここへ来た日を覚えているか?お前は雨の中に立っていた。
     他の子と遊びもしなかった。」

ここでケインが少林寺へ入門した当時の回想シーンとなる。

少年ケイン 「いつも一人ぼっちでした。」

カン    「それでこの寺に入るためにあのように辛抱強く待っていたのか?」

少年ケイン 「はい。」

カン    「寺はにぎやかな所だと思ったか?」

少年ケイン 「でも、ここではみんないっしょに暮らしていました。」

カン    「他の生物と同じように、人も仲間といっしょに暮らすようにできている。
       しかし、仲間と暮らすことの意味は所詮人間は一人であるということを
       しっかりと見極めることだ。」

回想シーンが終わる。

ケイン 「それを教えてくださるために、入門を許してくださったのですか?」

カン  「お前は既に知っておった。だから入門を許したのだ。」


23 :奥さまは名無しさん:04/08/26 01:45 ID:1t4MLxVA
 乙

24 :10.   「真実は拳銃が知っていた - ALE THEA -」:04/08/26 01:54 ID:nv+FlT4R
12歳になった少年ケインがポー先生の使いで、ある寺まで由緒ある巻物を届けに行く。
しかし道中盗賊に出会い、巻物を奪われそうになるところを居合わせた人に助けられる。
しかし、今度はその人に騙されて巻物を奪われてしまう。
寺に戻って報告しているところに、役人が巻物を奪った男を連行してくる。
男は巻物を盗んだのではなく、ケインを助けたお礼に借りただけだと主張する。
ケインは迷った末に男の主張が本当であるとウソをついて男を斬首から救う。
ケインはウソをついた罰を覚悟する。

ケイン 「先生…。」

ポー  「なんだ?」

ケイン 「いつ首を斬られるのですか?」

ポー  「もうお前から奪うものはない。」

ケイン 「でも先生私は何も失っていません。」

ポー  「お前にはわからんのか?」

ケイン 「巻物は返ってきました。」

ポー  「疑いを知らぬお前の無邪気さは、二度とは戻らんだろう…。」

25 :11 CHAINS 手錠がつないだ2つの心 :04/08/26 01:56 ID:nv+FlT4R
カン師 「自分の世界をよく見るのだ。この池の中には12匹の魚がいて12の世界がある。」

ケイン 「池はたったひとつです。」

カン師 「違うな。お前が見るのと私が見るのとそれぞれ別の世界だ。
     お前の世界には未知のもの、楽しいものが溢れている。わしのは見慣れた穏やかな世界だ。
     お前はわしの世界を永久に見ることはできん。」

ケイン 「なぜ?」

カン師 「お前がわしの目でものを見、考えることができるか?」

ケイン 「でも先生、私たちは同じ宇宙に住んでいます。」

カン師 「そうだ。しかしやはり違う。百万の生き物には百万の世界がある。
     自分が宇宙の中心だと考えてはならんぞ。自分の考えを押し付けてはいかん。
     人それぞれ見方考え方が違う。それを尊重することが大切だ。」

26 :11 CHAINS 手錠がつないだ2つの心:04/08/26 01:57 ID:nv+FlT4R
ポー師 「どっちが悪なのかな? 鼠は穀物を盗むのが商売だ。ところが猫は鼠を殺すように生まれついている。」

ケイン  「鼠は盗みます。でも鼠にとって猫は悪です。」

ポー師 「猫には鼠が悪だ。」

ケイン  「ではどちらも悪ではないのですか?」

ポー師 「鼠は盗むのではない、猫は殺すのではない。雨が降る、川が溢れる。が、山は崩沈まぬ。
      ひとつひとつが自然にかなっているのだ。」

ケイン  「では悪は無いのですか? 何をしてもそれがその人にとって善なら許されるのですか?」

ポー師 「コオロキ゛、人は自分に都合のいいことだけを言う。
      しかし宇宙にはその人間ひとりが住んでいるわけではあるまい。」

ケイン  「私に悪をなす者を私が懲らしめれば、二度としなくなるかもしれません。」

ポー師 「懲らしめなければどうなるかな?」

ケイン  「好きなことをしていいのだと思うでしょう。」

ポー師 「そうだな。だがもうひとつ、悪に報いるにすなわち善をもってす。その心も教えるのだ。」

27 :11 CHAINS 手錠がつないだ2つの心:04/08/26 01:58 ID:nv+FlT4R
******少林寺僧たちの修行を見守る少年がひとり******

ケイン  「先生、あの少年は入門者でもないのになぜここに?」

ポー師 「わしが村から連れてきたのだ。
      あのように身体が不自由な上に口も聞けず、心無い者に苛められておったのでな。」

ケイン  「生まれながらに大きな不幸を背負っているのですね?」

ポー師 「なぜ不幸だと思うのだ? あの子には雀や子羊ややさしい仲間が大勢おる。
      あの子はものの言えぬ口と、ねじれた手足をもって生まれた。
      しかし自然は、生き物と心を通わせあうという素晴らしい力を与えた。
      それは富や名声よりも、王侯貴族となることよりもはるかに素晴らしいことではないか。」

28 :14.   「凶弾は男心を闇にした - THE THIRD MAN -」:04/08/26 02:02 ID:nv+FlT4R
カン先生の指導のもとにケインが二人の修行僧相手に対峙している。
修行僧の一人がケインに攻撃をしかけ、ケインはその僧の攻撃わかわして投げるが、
もう一人の僧の攻撃を受け結局取り押さえられてしまう。

カン 「こうして技を学ぶのはまず精神を鍛えるためであり、あくまで自己防衛のためだ。
    よいかケイン、複数の敵に襲われた場合は、まず相手から先に攻撃をかけさせる、
    その動きを利用して敵を倒すのだ。」

29 :14.   「凶弾は男心を闇にした - THE THIRD MAN -」:04/08/26 02:03 ID:nv+FlT4R
少年ケインが涙ぐみながらポー先生と話しをしている。

ケイン 「母も、そして父も死んでいました。助けることができなかったのです。」

ポー  「お前はまだ小さな子供だったのだ。

ケイン 「でもその時から私はもう子供ではいられなくなったのです。」

ポー  「雪に覆われた山は美しい。しかし雪が消えた後にはその下から新しい緑が萌え出す。
     失うものがあれば得るものがあり、何かを得るには何かを失う。
     どうだコオロギ、お前にはそれがわかるか?」

ケイン 「よくわかりません。」

30 :14.   「凶弾は男心を闇にした - THE THIRD MAN -」:04/08/26 02:03 ID:nv+FlT4R
ポー  「お前は自分を哀れんでいるのだ。」

ケイン 「先生には解らないんです。」

ポー  「お前が腹を立てているのはわしにではなく、お前をおいて死んでしまった両親に対してだ。
     その怒りをわしに向けてはいかんな。そうするとわしもお前に怒りを返すことになるぞ。」

ケイン 「何と思われてもかまいません。」

ポー  「それは本心か? え、コオロギ。」

立ち去ろうとするポー先生。

ケイン 「先生。」(涙声)

ポー先生に駆け寄りその手を取る少年ケイン。

31 :奥さまは名無しさん:04/08/26 03:49 ID:nv+FlT4Rカン


口に平和を説く者はその身に武器をつけてはならぬ。

人に平和を説く者は弱くてはならぬ。

十本の指を十本の短剣とし、両の腕を槍とし、そして両の掌を斧とするのだ。

32 :奥さまは名無しさん:04/08/26 03:52 ID:nv+FlT4Rカン 「歩く時は軽く確実に、常に薄紙を踏むつもりで足を運ぶ。
    修行を積み少林寺の教えを身につけた者は、探しても目には見えない。 聞いても耳には聞こえない。 触っても指には感じない。
    しかし、容易い事ではないぞ。
    薄紙は蜘蛛の糸の如く脆く、真綿の様に足にまとい付く。
    何の跡も残さずにこの上を歩けたら、ここを去る時だ。」

33 :奥さまは名無しさん:04/08/26 19:31 ID:nv+FlT4R少年期のケインが池に飛び込むシーン

ポー  「怖いと思うから怖い。怖くないと思えば怖くないのだ。」

ケイン 「でも先生、未知のものを恐れるのは身を守るための術では
     ないのでしょうか?」

ポー  「自分自身に打ち勝つものが最も勇敢な人間だ。
     怖いと思う自分にまず打ち勝つのだ。」

ケイン 「私には、できるかどうか・・・」

ポー  「空の色の耳を澄ませるのだ。
     ハチドリの微かな羽音を目で見るのだ。
     木の葉も動かず炎熱のなかにも一陣の涼風が吹き渡る。
     お前が宇宙とひとつになるとき
     おまえ自身が宇宙だ。」

34 :奥さまは名無しさん:04/08/26 19:38 ID:nv+FlT4R
物思いのふけるケイン

ポー  「何を考えておる、コオロギ。」

ケイン 「死です。死が恐ろしい。」

ポー  「生きるとは何か知っている人間は死を恐れない。
     そういう人間は虎やライオンの上を歩くことが出来るし
     虎やライオンが襲おうにも襲うことができない。
     戦いで傷つくこともない。
     死がはいりこもうにもはいりこむ隙がないのだ。」

35 :15.   「憎しみは愛に焼かれた - THE ANCIENT WARRIOR -」:04/08/27 03:38 ID:nWqXRLHr
ケイン 「先生、愛する者を失った時はどうすればいいのですか?」

カン  「真の愛は決して失われることはないと知るがよい。
     死んだ後でこそ、初めて絆の深さが解るものだ。
     そして生前よりもより強くその人間と一つになることができる。」

ケイン 「それは、長い間知っていて愛した人の場合だけそうなるのでしょうか?」

カン  「時には、ほんのつかの間の巡り会いにおいて互いの魂を永遠の絆で結ぶ者もある。」

ケイン 「行きずりの未知の人であっても、それは可能でしょうか?」

カン  「魂の世界には時間の長短は無いのだ。」

36 :奥さまは名無しさん:04/08/31 05:14 ID:HbNxk3YN
カン 「歩く時は軽く確実に、常に薄紙を踏むつもりで足を運ぶ。

    修行を積み少林寺の教えを身につけた者は、探しても目には見えない。
 
聞いても耳には聞こえない。  触っても指には感じない。
    
しかし、容易い事ではないぞ。

    薄紙は蜘蛛の糸の如く脆く、真綿の様に足にまとい付く。
    
何の跡も残さずにこの上を歩けたら、ここを去る時だ。」

37 :奥さまは名無しさん:04/08/31 05:17 ID:???
カン 「歩く時は軽く確実に、常に薄紙を踏むつもりで足を運ぶ。

    修行を積み少林寺の教えを身につけた者は、探しても目には見えない。
 
    聞いても耳には聞こえない。  触っても指には感じない。
    
    しかし、容易い事ではないぞ。

    薄紙は蜘蛛の糸の如く脆く、真綿の様に足にまとい付く。
    
    何の跡も残さずにこの上を歩けたら、ここを去る時だ。」

38 :奥さまは名無しさん:04/09/09 13:15 ID:XeqX0io6コオロギよ、なぜM字開脚で死んだのだ?
ttp://manabekawori.cocolog-nifty.com/blog/


39 :(^○^) 序章:04/12/22 23:31:14 ID:DZrKgM8p(各種拳法演連のシーン 日本語吹き替え編)

カン

「少林寺において、我々が肉体を鍛えるのはあくまでも心を鍛えるためだ。

肉体が鍛え上げられた時に初めて何者にもとらわれない心を持つことができる。

そのためには、自然界の生き物に習えと先人たちは我々に教えている。

このシャンは鶴の教えを会得した者だ。鶴から我々は優雅さと自己規制を学ぶことができる。

蛇はしなやかさと、律動的な持続力。蟷螂はすばしこさと忍耐力を教えてくれる。

そして虎からは力とたくましい強さを学ぶのだ。龍からは風に乗る技を学ぶ。

全て生き物は大小強弱を問わず自然と溶け合って暮らしている。

我々が学ぶ知恵を持つなら、彼らはそれぞれの長所を教えてくれる。

小さな蟷螂の繊細な美しさと、火を吐く龍の激しさの間には何の不調和もない。

蛇のしなやかな沈黙と鷲の荒々しさも見事に調和している。自然界には対立し争いあうものは何一つない。

そこでこの自然界の法則を学ぶならば、人間も己の中に対立を取り除き、肉体と心の完全な調和を発見し、

宇宙に融合して生きることができるのだ。これを真に会得するには一生かかるかも知れん。」

40 :(^○^) 序章:04/12/22 23:33:58 ID:DZrKgM8p(各種拳法演連のシーン 日本語字幕編)


カン

「少林寺には三通りの人間がいる。見習いと弟子と師範だ。

精神力を高めるにはまず体を鍛えねばならない。

このために、先人は神聖な生き物の動きを真似よと伝えた。

彼はシャン、白鶴拳の師範だ。鶴の動きからは優雅さと自己抑制を学ぶ。

蛇からはしなやかさと律動的な強さを、カマキリからは速さと忍耐を、

虎からは粘り強さとパワーを、そして龍からは風に乗る術を学ぶ。

生きとし生けるものすべてが自然と一体だ。学ぶ知恵さえ持てばすばらしい教えを受けられる。

カマキリのはかない美しさと龍の激しい情熱の間には不調和はない。

蛇のしなやかな沈黙と鷲のかぎづめの間には調和があるのみ。

自然界には不調和がない。ゆえに、自然を知ることにより心の中の不調和を取り除くのだ。

そして心と体を調和させ宇宙の流れと一体になる。

一つの拳法を学ぶのに半生をかけることもある。」

41 :(^○^) 序章:04/12/22 23:34:36 ID:DZrKgM8p(各種拳法演連のシーン 英語編)


KAN

"In the Shaolin Temple, there ara three kinds of men: Studennts,disciples and masters.

Development of the mind can be achieved only when the body has beenn disciplined.

To accomplish this the ancients have taught us to imitate God`s creatures.

This is Sun, master of the white crane system.

From the crane we learn grace and self-control. The snake teaches us suppleness and rhythmic endurance.

The praying mantis teaches us speed and patience. And from the tiger we learn tenacity and power.

And from the dragon,we learn to ride the wind. All creatures, the low and the hige, are one with nature.

If we have the wisdom to learn, all may teach us their virture.

Between the fragile beauty of the praying mantis and the fire and passion of the winged dragon, there is no discord.

Between the supple silence of snake and the eagle's claws there is only harmony.

As no two elements of nature are in conflict. So when we perceive the ways of nature we remove conflict within ourselves and

discover a harmony of body and mind in accord with the flow of the universe.

It may take halh a lifetime to master one system."

42 :奥さまは名無しさん:05/01/31 20:28:45 ID:nIFNRhW/語録希望

43 :奥さまは名無しさん:2005/04/18(月) 22:23:36 ID:???武侠?

44 :奥さまは名無しさん:2005/04/27(水) 18:23:59 ID:LFcdTY8Eわかるな?こおろぎ。

http://asianimprov.at.webry.info/200701/article_16.html


燃えよカンフー - すべての理解は誤解から

<< 作成日時 : 2007/01/23 21:53 >>

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『燃えよカンフー』を日本のテレビで見たことがあるアナタは僕と同世代かそれ以上だ。(笑)深夜枠で何度も再放送していたのも懐かしい。これは、アメリカのテレビ局が、カンフーを操る高潔な僧侶を主人公にして、東洋の神秘に迫ると同時に、それを西部開拓時代を背景とした娯楽番組(西部劇)に仕上げることを試みた怪作である。傑作とはいえないが、かといって、東洋に対する誤解の産物と失笑することはできない。中国人と白人との間に生まれたケインは、あの少林寺で修行し、少林寺での師匠を助けるためにやむを得ず時の皇帝の甥を殺したのがもとで、アメリカに渡る。過酷な鉄道建設に従事する当時の中国人移民たちに混じり、あるいは離れ、ケインは旅をする。寡黙に、あたかも少林寺で行っていた苦行を続けるかのように。

さて、アジア系アメリカ文学研究会の次の例会で、同志社大学の臼井雅美先生が下記の題で発表をされるという。今度の日曜日だ。

Bamboo Ridge Instituteとハワイのローカル劇

Darrell H.Lumの新作"David Carradine Not Chinese"を中心に

「バンブー・リッジ(竹の節)」とはハワイにあるアジア系の作家団体である。70年代から続いている老舗である。中国系のダレル・ラムはバンブー・リッジの創設者で、作家、劇作家、詩人で、ハワイのローカル文学を語る時には避けて通れない人物である。そのラムが書いた戯曲のタイトルが「デビッド・キャラダインは中国人じゃない」だ。

これには笑った。大笑いだ。実におかしい。このフレーズはあのマーガレット・チョーが舞台で喋るギャグのひとつでもあるからだ。マーガレット・チョーは叫ぶ。「デビッド・キャラダインは中国人じゃないわ!」。一呼吸置いて客席がどよめく。そうだ、「カンフー」の主人公は白人だ。(笑)正確には、「白人の俳優であるデビッド・キャラダインが演じている」と言うべきだが、とにかく、白人なのだ。白人がアジア人の役を演じ、「おお、これこそが空手だ。カンフーだ。東洋思想だ」と感心したり陶酔したりするこの奇妙なねじれ現象。

当時は、いや、今でも、アメリカのテレビシリーズの主役にアジア系が抜擢されることは非常に稀である。せいぜい脇役だ。それを批判することはたやすい。しかし、半分白人の少林寺の青年僧を開拓時代の西部に連れてきたこのアイデアの斬新さは特筆すべきだ。三船敏郎が出演した映画にも似たようなのがあったが、「カンフー」はテレビシリーズで数年間続いた。影響力が違うのだ。おそらく、「カンフー」は、東洋の精神がアメリカ合衆国の普通の家庭のテレビに流れた最初の娯楽活劇だろう。禅がある。「敵が闘いを挑んできたらどうづればいいのですか」とキャラダインが扮するケインが問うと少林寺の先生は「逃げよ」と指導するのだ。これはまさに西洋的価値観への挑戦である。大げさではない。

本当の少林寺がどうだったか僕は知らない。おそらく、とんでもない誤解や馬鹿馬鹿しい誇張に満ちているだろう。実際、奇妙奇天烈な会話や仕草が続く。しかし、そういう「創造的誤解」も含めて、このシリーズを楽しむべきなのだ。

お尋ね者の僧を演じたデビッド・キャラダインを『キル・ビル』のビル役に起用したクエンティン・タランティーノ監督は、デビッド・キャラダインを使うことで、デビッドと「カンフー」に敬意を表したのだ。『キル・ビル』公開時には日本映画や深作監督作品からの影響、ルーシー・リューなどが話題になったが、僕は、悪役を演じたデビッド・キャラダインこそがこの映画のキモだと思っていた。いま、この古い作品を30年ぶりにDVDで見直すと、予想を超えた質の高さを感じる。

「燃えよカンフー」なしには「カラテ・キッド」はなかった。ジャッキー・チェンのアメリカ進出もなかっただろう。ブルース・リーを主役に持ってきていれば・・という恨みはあるが、それを考慮に入れても、このシリーズは充分に面白い。ファニーな「東洋と西洋の出会い」がここにある。何度も言うが、これは笑える。しかし、馬鹿にはできない。カリフォルニアのヒッピーたちが愛した底の浅いサブカルチャーだと決めつけてはいけない。「間違った東洋理解だ」と切り捨てずに、なんだかゆっくりとした動きのデビッド・キャラダインのカンフーを楽しもうではないか。

ゲスト出演者も楽しみで、ノリユキ・パット・モリタもどこかに出ているらしい。(笑)

http://acusco.cocolog-nifty.com/higurasi/2006/01/post_58c8.html
『燃えよ!カンフー』 ~ 禅の思想




CIMG8536a今、日本テレビ系(4CH)で深夜、『燃えよ!カンフー』が放送されている。

この作品は1972年から3年間にわたって約60話がアメリカで放送された。日本での放送は1976年から、当時、私は学生であり、ドストエフスキーやニーチェをはじめ、東洋思想、聖書などに興味があリ、その関連書物をむさぼり読んでいた時期でもあった。

1972年から翌年にかけて、日本で上映された『燃えよドラゴン』が大ヒットし、一躍カンフー・ブームに火がついた。本作は、それを受けて日本のテレビに登場した。しかし、制作年月日を見ると2つの作品はほぼ同時期につくられているのであり、『燃えよドラゴン』のブームにあやかってつくられたのではないことがわかる。

しかも、2つの作品には驚くべき共通点があった。『燃えよ!カンフー』の原案はブルース・リーであり、当然、主人公ケインを演じることを彼は希望した。しかしながら、ケインは白人と中国人の混血であり、いかにも東洋人然としているブルース・リーは採用されなかった。

そして、当時、新人に近かったデビッド・キャラダインはこの作品で人気を博すようになる。もっとも、彼は、あの名作『駅馬車』にも出演しているジョン・キャラダインの息子でもあるが、その後、彼はマーチン・スコセッシ監督の『明日に処刑を・・・』で、スクリーンでも人気者となる。

私が先日購入したベルイマンのDVD-BOXに収められた『蛇の卵』(1977年・ドイツ)でも主演しているが、ベルイマンが彼を採用したのは『燃えよ!カンフー』を観たからか、あるいは『明日に処刑を・・・』を観たからかはわからない。その後は、監督業や制作にまわり映画出演も少なかったが、3年前話題となった映画『キル・ビル』で悪役のビルを演じている。

そんな裏話もある作品であるが、『燃えよ!カンフー』の舞台は1870年のアメリカ西部。主人公である孤児クワイ・チャン・ケイン(デビッド・キャラダイン)は、中国で少林寺の僧に育てられ、成長して武術の達人となるが、 恩師を助けるために清の皇帝の甥を殺し、追われる身となってアメリカへ渡った。そこで、行方不明になった彼の兄を探すという目的もあった。

最初、馬鹿のようにも思える柔和な顔立ちに長髪、決して綺麗だとはいえない服装と裸足をいう彼のいでたちに、西部の人たちは蔑視する。そこには東洋人に対する偏見、差別が当然に見られる。しかし、悪に決して屈することのない彼の強さ・不屈の精神と高尚な彼の思想に感化されてしまうのである。

ケインは、銃弾が当っても死なない、どんな姦計にも陥らない、いわばスーパーマンである。ヒーローとしての資格十分だったが、悲しいかな深夜放送の枠で放映されたばかりに、日本ではあまり話題にならなかった。私のような当時の深夜族の一部が観たに過ぎないであろうこの作品は、そうした事情もあってか今ではカルト的人気を得ている。

私がこの作品に惹かれたのは、彼が超人的な少林寺拳法の達人であるばかりではなく、その東洋思想にあった。毎回、少林寺での修行の過程と高僧との禅問答が描かれ、その禅問答が作品を進行し、トラブルや事件を解決して行くのである。

30年も前のセリフなので詳細は忘れたが、例えば、ケインがガラガラ蛇がうようよしている穴に放り込まれても平然としている。

彼は言う、「己を自然に同化させれば、蛇から襲われることはない。なぜなら、蛇は自然を襲うことはしない。人に敵対する意識と行動があるから襲うのだ」と。自己を自然に同化する。あるいは闇に同化させることによって闇に対する恐怖を払拭させる。それは、禅の無の思想や空の思想といわれているところに通じるものであろう。

今放送されているのはシリーズの後半のものであり、私はもう一度最初から見たかったのだが、先日、某レンタル店においてシリーズ前半のものを発見した。それは、一昨年にDVD化されていたのであった。捜し求めて十数年、ようやく数ある一つの執着が、ここに終焉したのである。

ちなみに、『燃えよ!カンフー』はアメリカではまだ人気があるのだろうか、10年ほど前・・・もっと前かもしれない・・・に続編が作られた。こちらは警察官となったケインの息子が主人公で、彼は息子の危機を助ける役なのであるが、前作ほど興味はもてなかった。

(画像はTVからDショット)
http://www.indierom.com/dengei/dailylife/rappa/rappa53.htm

『燃えよ! カンフー』は'72年から3年間に渡りABCネットワークで放送されたTVシリーズである。流れ者のガンマンを拳法の達人に置き換え、禅問答などを中心に“東洋の神秘”をフィーチュアした哲学的西部劇とでも呼ぶべきストーリーは高い評価を受け、米テレビ芸術科学アカデミー(The Academy of Television Arts & Sciences)主催のエミー賞において監督賞・撮影賞を受賞した。

 修業時代のケインと師範である僧との様々なエピソードが回想シーンとして挿入され、二つのドラマが同時進行するユニークな作劇スタイルが取られている。

 主人公が白人と東洋人の混血児という設定上、移民としてアメリカにやってきた東洋人、滅ぼされつつあったネイティヴアメリカン(以下ネイティヴ)などマイノリティにスポットをあてたエピソードに傑作が多い。物語の随所に現れるレイシズムとそれに対して静かに、しかし深い信念を持って対処するケインの姿に共感を覚えたファンは多かったはずだ。

 合衆国のテレビ業界におけるスポンサーの意向は絶対で、それにそぐわないもの、視聴率が振るわないものは問答無用で打ち切りになる。その意味で3年間もの長きにわたって放送され、また正式な形での最終回(さらには特別編や続編まで)も存在する以上、スポンサー・視聴者の双方から支持を得ていたということになる。

 こうした問題意識の高い良心的な作品をメジャー資本が制作し、それが支持されていたことは正に奇跡と言って良い。少なくとも現在の業界に同じことを期待するのは無理な話で、やはり時代が良かった としか言いようがない。

 斜陽化する映画産業がその状況を打破するため、新進の作家に規制の少ない制作環境を与え、それが実に理想的に展開したのが、例えば'60年代後半から'70年代初頭の “アメリカンニューシネマ” ムーヴメントであるが、こうした良いムードが現場にもまだまだ残っていたのだろう。

 ゲストも豪華で、当時子役であったジョディ・フォスター(この時のジョディこそ筆者の初恋の人である)、若手俳優時代のハリソン・フォード、『宇宙大作戦/スタートレック』のウィリアム・シャトナー、『裸の銃を持つ男』のレスリー・ニールセン、『マイアミ バイス』のドン・ジョンソン、そして俳優一家キャラディーン家からはデイヴィッドの父ジョン、兄弟のキースやロバートも登場している。



 ストーリー1870年代… クワイチャン・ケイン(デイヴィッド・キャラディーン)は、清(中国)でアメリカ人の父と中国人の母の間に生まれた。ケインは幼くして両親を失うが、運よく少林寺に入門でき、師範である僧たちから精神の調和のための東洋哲学と非暴力の規律を学ぶ。

 肉体を極限にまで高める修行を通じマスターとなったケインは少林寺を去り、俗世の人間となったが、ある時、恩師を助けようとして王族の一人を殺めてしまい、お尋ね者となる。ケインはゴールド ラッシュに沸くアメリカ西部に逃げ延びるが、そこでは賞金稼ぎや人種差別等、様々な試練が待ち受けていた。



 '73年12月に公開された『燃えよドラゴン』の大ヒットに便乗する形で、90分のパイロット版が'74年秋、児玉清解説の『土曜映画劇場』(テレビ朝日系)で放送された。放送日を指折り数えて楽しみにしていた筆者を茫然自失(背中一面にでっかい掌の絵が描かれたゴールドの道着-このファッション センスだけでもドン引き)させた後、同系列で深夜、シリーズの放送が開始される。当時、ブルース・リーの神がかり的なマーシャルアーツに傾倒していた筆者は、デイヴィッド・キャラディーンのしょっぱいアクションシーンには閉口していたが、その精神性のレベルにおいて大いに評価していた

 原案はブルース・リーだったが、その風貌があまりにも東洋人だったため配役からはハズされた とも言われている。しかしDVDに収められた特典映像を見る限り、そういった証言はない。

 ただ、本編以降に制作された外伝でブルース ジュニアのブランドンと共演したり、ブルースがジェームズ・コバーンと企画した幻の作品『サイレント フルート』に主演する等、キャラディーンとブルースの関係は意外にも深い。



第16話:『憎しみは愛に焼かれた』 THE ANCIENT WARRIOR

 では第一回目にあたり、全63本製作されたシリーズ中、筆者にとって最も印象的なエピソードを紹介したい。『燃えよ! カンフー』はエピソードそれぞれの完成度が高いため、単に物語を追うだけでも十分その魅力は伝わると思う。従って筆者のコメントは、蛇足でしかない。

 このエピソードでは珍しく、修行時代のケインが登場する回想シーンがなく、カーン先生との会話を思い出すだけにとどまっている。

***

“先生、愛する者を失った時は、どうすればいいのですか?”

“まことの愛は決して失われることがない、と知るがよい。死んだ後でこそ、初めて絆の深さがわかるものだ。そして生前よりもより強く、その人間と一つになることが出来る”

“それは長い間知っていて、愛した人の場合だけ、そうなるのでしょうか?”

“時には、ほんのつかの間の巡り逢いにおいて互いの魂を永遠の絆で結ぶ者もある”

“行きずりの未知の人であっても、それは可能でしょうか?”

“魂の世界には、時間の長短はないのだ…”

***

 サンタフェへ向かうケインは、山中の交易所で年老いた酋長ビッグイーグルと出会った。老酋長は死期を迎えるに当たり、“生まれた土地で死ななければ、あの世に生まれ変われない”というネイティヴの言い伝えに従って、息子に連れられ故郷へ帰る途中だった。ところが、具合の悪かった息子の様子を見たケインは表情を曇らせる。息子はすでにこと切れていた。残された老酋長の頼みで、ケインは予定を変え、老酋長を故郷まで送り届けることにする。

 たどりついた谷間の町で、老酋長は自らの埋葬の地を見出すが、そこは町の真ん中にある大きな木の下であった。しかも、その町では8年前、ネイティヴの為に14人の白人が惨殺されるという事件があり、それ以来、人々はネイティヴに対して異常な憎しみを持っていた。

***

 本来、北米大陸はインディアンという誤った名称で呼ばれたネイティヴたちのものであった。幼い頃から、勇敢な保安官や騎兵隊の大活躍が野蛮な原人を駆除するストーリーばかり見て育った筆者が、この白人の都合だけで描かれた矛盾に気づくには、ずいぶん時間がかかった。正にこの『燃えよ!カンフー』のエピソードによって、片目が開いたと言っても過言ではない。

 頭の皮を剥ぐ、まぶたを縫いつけて炎天下に放置し失明させる… 一般的な西部劇ではおなじみの残忍非道だが、では何がネイティヴをこのような行為に走らせるのか? ということについて、多くのドラマはその理由を明らかにしていない。あえて言えば、それが彼らの本質である ということか。結局、野蛮な原人は無意味な残虐行為を繰り返し、白人とは理解し合えない忌むべき存在として、フロンティアラインを西へ進めていく中、駆除すべき邪魔者としてのみキャスティングされている。

 ところが一方で、コロンブスの率いた探検隊はこの野蛮な原人とセックスし、梅毒をヨーロッパに持ち帰っている。性欲においては、野蛮な原人というレイシズムもたちまちノー問題なのだからいい加減なものである。

 ところで話は変わるが、デストロイヤーのフィニッシュホールドとして有名なプロレスの技 4の字固め(フィギュア4レッグロック '60年代におけるプロレス四大必殺技の一つ。ちなみに後の三つは、ブルーノ・サンマルチノのベアハッグ、ボボ・ブラジルのココバット、ルー・テーズのバックドロップ)は、ネイティヴが白人を拷問する際、実際に使った技の一つである。こうした経緯からかネイティヴ系のレスラーにはこの技をフィニッシュホールドとしている選手が多い。最も有名な選手は、第48代NWA世界ヘビー級王者 ジャック・ブリスコである。

***

 埋葬の地と定めた木の下で休息を取っていた老酋長に町の若者(バカ者?)が乱暴を仕掛ける。あと一日かもって二日の寿命である老人にさえ、その憎しみは向けられるのだ。しかし、ケインは彼らをあっさりやっつけてしまう。

“死ぬことが望みですか?”“あの世に生まれ変わることが望みだ”

 日頃からこうした状況を憂えていた判事は、市長に迫って市の委員会を召集、老酋長の希望は正当なものであり、町全体の土地の所有権と引き換えに、老酋長の埋葬を認めてはどうか という提案をする。

 委員会で一人の青年がネイティヴへの憎悪をまくしたてる。青年は8年前の事件で弟を殺されていたのだ。老酋長は静かに諭す。

“なぜお前の心には憎しみしかないのだ? …それは白人の側だけを見た、白人の歴史だ。そこには最初に殺された14人のわしの仲間のことは記されていない。さらに一週間後に、騎兵隊に皆殺しにされた男、女… そして子供達… それら67人のことも白人の歴史には何も記されていない。

 どうして過ぎた事は忘れようとせんのだ? 相手を許すことで自分も救われるのだ。わしはそうした”

 採決の末、一票差でこの提案は可決された。

“勝ちました。あなたの埋葬の場所は、もう誰も変えられません”

“空しい勝利だ… この町は憎しみで満たされている。わしを迎えてくれる神の優しい恵みは、もうここにはないのだ。ここにはもう用はない。わしを山の松の林の中で死なせてくれ。そしてお前の手で、わしの遺体を焼いてくれ…”

 死期の迫った老人の最期の望みをいとも簡単に踏みにじり、さらにはこうした諦念を強いる感覚が筆者には理解できない。これこそが自由の国と誤認されてきた合衆国の正体である。'70年代初頭、心ある制作者たちは、このことを自覚的に描いてきた。こうした母国の歴史を批判的に描いた作品が、普通にTVで放送され、それが高い評価を受けていたという事実に筆者は驚きを禁じ得ない。

 広島と長崎に原子爆弾を投下することで、第二次世界大戦後のイニシアティヴを握り、ついにはアメリカンスタンダード(グローバルスタンダードとはアメリカンスタンダードに他ならない)を確立した合衆国。今やこの国こそ世界最大のテロ国家であり、パワーハラスメントとコンプライアンス違反の温床、正に諸悪の根源である。

 被害者の寛容な心にもたれかかる一方、飽くまで合衆国を断罪しようとする人々をパブリックエナミー(実際には合衆国にとって不都合な人々でしかない)として無差別に空爆する恥知らずな現在の政府に、自浄能力を期待することは、もはや間違いなのだろうか。

***

“死んだのか? 悪いことをした…”

“謝ることはありません。酋長はあなたに心から、感謝していました。でもここに葬られることは望まなかった”

“しかし、この場所に葬られることが、酋長の夢ではなかったのかね?”

“新しい夢を抱いて死んだのです。この土地を、憎しみで覆う代わりに、愛で包もうと願ったのです”

“しかし、その願いが、果たして皆にわかってもらえるだろうか…”

“今はわからなくても、ビッグイーグルの物語は、多くの人に語り継がれ、伝えられるでしょう…”

 以下、たぶん続く

http://blog.goo.ne.jp/rekisisakka/e/2d4ceb5e07d99748634bd4060baf2988


「燃えよ!カンフー」の敵を「キル・ビル」で討て!(2) ─ 「サイレントフルート」編

2014年05月06日 | 日記


1969年、ブルース・リーは自らの武術を世に知らしめるため、1本の映画の制作を計画します。
「サイレントフルート」と題されたその映画は、スティーヴ・マックィーンを主演に迎え、ロマン・ポランスキーに監督させる予定でした。2人はブルースの功夫の弟子です。しかし、ブルースをスターにするために利用されることを嫌ったマックィーンは、出演を断ります。この出来事は、ブルースにマックィーンよりも大物のスターになってみせるという決意を固めさせました。ブルースは次に、やはり弟子であるジェームズ・コバーンに話を持って行くと、彼は快く引き受けてくれました。こうしてブルース、コバーン、そして同じく弟子で後のオスカー受賞脚本家スターリング・シリファントの3人で、映画の構想が練られることになります。

翌年、ワーナー・ブラザースがインドを舞台にするという条件で、「サイレントフルート」の制作に興味を示しました。なぜインドかというと、同国で得た収益の持ち出しをインド政府が許さなかったので、国内でそれを使おうと考えたからです。こうしてブルースは、シリファントとコバーンを連れてロケハン旅行に出かけました。
焼けつくような暑さと、未舗装の道から舞い上がる土埃の中を移動しながら、コバーンとシリファントは経験から、インドでの撮影がうまく行かないことを確信します。
ブルースとコバーンの間にも溝ができていきました。大きなホテルではコバーンだけが特別待遇を受け、自分とシリファントはそれに比べて粗末にしか扱われないことに不満を募らせたブルースは、将来超えるべき対象に、マックィーンばかりでなくコバーンも加えます。

結局コバーンが降板し、ワーナーが手を引いたため、この企画は頓挫しました。ポランスキーの妻で、ブルースの弟子でもあった女優のシャロン・テイトが惨殺される事件が起きたことも、挫折の一因となりました。
後にブルースが成功を掴むと、コバーンとシリファントはこの企画を復活させようとします。彼らは香港に飛んでブルースと話し合いますが、その頃彼には世界中から出演依頼が殺到するようになっており、一歩後退ともいうべきこの役を演じることはできませんでした。こうして再び企画は闇に葬り去られます。
ところがブルースが死んだ後の1978年、ついに「サイレントフルート」(The Silent Flute)は彼の神話化の煽りを受けて制作されました。ブルース、コバーンと練り上げた原案に、シリファントがスタンリー・マンとともに脚色を加えました。製作総指揮はリチャード・R・セント・ジョーンズ、製作はサンディ・ハワードとポール・マスランスキー、監督はリチャード・ムーアが務めました。

ストーリーを簡単に紹介しておきましょう。
若き武術家コード(ジェフ・クーパー)は、無敵の強さを誇るというジタン(クリストファー・リー)が持つ、世界の叡智を記した教典を求めて旅に出ました。杖とも武器ともなる長大なフルートを手にした盲目の武術の達人と出会い、その導きを受けながら、次々と襲いかかる試練を乗り越えてジタンのもとへたどり着き、ついに念願の教典を開きます。ところがそれはどのページも鏡がはめ込まれているだけで、コードの顔を映し出すばかりでした。彼は、究極の真理は自らの内側にあることを悟るのです。

ブルースがやるはずだった役を演じたのは、またしてもあのデイビッド・キャラダインでした。彼は盲目の武術の達人やコードと闘うモンキーマン、死神、キャラバンの隊長チャン・シャーと1人で何役もこなし、物語の鍵を握ります。さまざまな役柄を使い分けて幾度も登場し、自らの武術の素晴らしさを観客に見せつけようというブルースの意図が、露骨なくらい明白でした。これでは大スターとしてのプライドがあるマックィーンが、協力を拒んだのもしかたがなかったでしょう。

ブルース原案を謳う「サイレントフルート」

実は今、キャラダイン版「サイレントフルート」で製作に当ったポール・マスランスキーが、香港に拠点を置くプロデューサー兼俳優ベイ・ローガンのB&Eプロダクションと組んでリメイクしようとしています。ゾンビ、もとい不死鳥のように繰り返し蘇り続けるこの作品のことを、彼岸のブルースはどのように思っているのでしょうか。
妻のリンダは原案に夫の名があることについて、「ブルースは、そんなことをしてくれなくてもよかったのにと思ったにちがいない。最終的な作品は、彼の構想とはかけ離れたものだったからだ」(『ブルース・リー・ストーリー』)と言っています。その言葉のとおり、死後とはいえ望みどおりマックィーンやコバーンを超えるスーパー・スターとなったブルースは、もはやこの作品に対してなんのこだわりも持っていないかもしれません。

こだわりを捨てられなかったのは、ブルースを敬愛してやまないファンたちでした。「サイレントフルート」に、主演を熱望していた「燃えよ!カンフー」、2度までも彼の夢見ていた役柄をかっさらっていったキャラダインは、1970年代以降、ブルース・リーファンの怨念を一身に浴びることになります。
そしてそのことが、後に鬼才クエンティン・タランティーノ監督の手になる異色のバイオレンス・アクション映画「キル・ビル」に繋がっていくことになるのです。


【参考文献】
リンダ・リー著、柴田京子訳『ブルース・リー・ストーリー』キネマ旬報社、1993年
ブルース・トーマス著、横山文子訳『BRUCE LEE:Fighting Spirit』PARCO、1998年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年

http://tenmei.cocolog-nifty.com/matcha/2005/10/post_ac79.html
『燃えよ!カンフー』




休み

この秋から、わが偏愛するカンフー西部劇ドラマ『燃えよ!カンフー』の放送が

日テレで再開された。去年の夏ごろに1stシーズン全15話が放送され、懐かしさに

感激してから早くも1年。忘れかけてた頃に2ndシーズン全22話の放送が始まった

のは嬉しい限りだ。木曜深夜3時~4時頃だから普通の人は起きてないし、たとえ

起きててもこんなマニアックな番組は見ないだろう。恐ろしくマイナーな記事だから

しばらく読む人がいないかも知れないが、いずれ検索を通じて少しずつアクセス

が入るのを期待して、今のうちにきっちり書いとこう。

     

原題は単なる『Kung Fu』で、内容的にもほとんど「燃える」イメージはなく、むしろ

風が吹くとか水が流れる感じ。中国の山水画という方がいいかも。でも、以前からの

ファンとしては『燃えよ!カンフー』っていう邦題に愛着を感じる。野暮ったくて古臭い

けどストレートな誠実さを感じる内容を、よく表してる邦題だっていうと言い過ぎか。

今、試しに手元のランダムハウス英和大辞典を引いてみると、驚いたことに「kung 

fu」の項目に番組が紹介されていた。「Kung Fu 『燃えよ!カンフー』 米ABCのTV

ドラマ(1972-1975)」。わざわざ辞典に参照事項として載せてあるし、足掛け4年

で3rdシーズンまで続いたことを考えると、当時のアメリカでの相当な人気が分かる。

             

東洋思想の香りが全編に漂うこのユニークなカンフー西部劇、主人公クワイ・チャン・

ケインを演じるのは、映画「キル・ビル」で悪役として活躍したデヴィッド・キャラダイン。

独特の味がある個性派俳優だ。元々はブルース・リーに主演要請があったってこと

だけど、話がつぶれてホントに良かった♪ 主人公ケインの独特のキャラを演じる

のはデヴィッド・キャラダインじゃないと絶対に無理! あの飄々とした冷静さの中に、

誠実さと底知れない力強さを秘めた感じは、彼にしか出せないものだ。

            

物語の設定は、主として1870年代のアメリカ西部。子供の頃から少林寺で修行

を積んでたケインが、恩師を暴力から救おうとして皇帝一族の一人を殺してしまう。

賞金付きのお尋ね者になってしまったケインは、行方不明の兄、あるいは自分の

ルーツを探しながら、西部を一人でさすらうことになる。途中、様々な悪者が登場し、

いざとなったらカンフーで倒すのだが、カンフーが中心のアクション・ドラマではなく、

むしろケインや少林寺の精神性がメインとなっている。

               

ドラマのオープニングは、物悲しくて印象的なテーマ曲が流れる中、西部の広大な

砂漠を一人で歩くケインの姿が映り、その後に少林寺での修行シーンが続く。ここ

に表されているように、物語の中心はさすらいの西部劇だけど、その中に時々、

少林寺での修行シーンが織り込まれていて、そのシーンにおける修行僧ケインと

二人の師ポー、カンとの禅問答のような対話が魅力的なのだ。

              

例えば、今週放送の「The Spirit-Helper」(直訳「助けの御遣い」。邦題「鉄拳

は復讐の剣を折った」)の冒頭。原住民の若者ナシーボが、ケインの事を、自分が

立派な大人になれるよう手助けしてくれる神の御遣いと思い込む。そこで早速、

少林寺時代の少年修行僧ケインと師カンとの対話が織り込まれる。

           

  大人になるとはどういう事ですか?

  大人になるとは、宇宙と一つの人間になることだ。

  宇宙とは何ですか?

  それよりむしろ、宇宙でないものを聞いた方が早い。

  ではそれは、どこにでもあるのですか?

  お前の目の中にも、心の中にもある。桃の種の中に、花の芳しい香りも、果実の

  甘さも含まれているのと同じだ。

  私の中に、宇宙があるのですか?

  そうだ。宇宙があるのだ。

                

この対話の後半は、小宇宙(ミクロコスモス)の話と考えるなら必ずしも東洋的とは

言えないが、「大人になるとは、宇宙と一つの人間になることだ」というような発想は

やはり東洋思想の特徴と言うべきだろう。

          


とりあえず今日はここまでにして、次回いつになるか分からないが、より内容に立ち

入った考察を行いたい。DVDや米国の番組紹介サイトも利用する予定。

それにしても、こんなマニアックな記事に本当にアクセスが来るのだろうか。。。

           


P.S.少しずつ検索が入り出したので、近々2本目の記事を書く予定(11/4)

         

P.S.2 2本目アップ。「燃えよ!カンフー」第22話の解読 (11/11)

                        

P.S.3 デヴィッド・キャラダイン、突然の死・・(09.06.05朝)

      自殺かどうかはともかく、ご冥福をお祈りします。合掌。。
http://tenmei.cocolog-nifty.com/matcha/2005/11/post_611e.html
「燃えよ!カンフー」第22話の解読




「燃えよ!カンフー」第22話、原題「THE SALAMANDER」、

邦題「愛憎は幻の炎に消えた」。

3週間前に書いた『燃えよ!カンフー』という記事には、予想通り、しばらく

ほとんどアクセスがなかった。平日深夜のマニアックなカンフー西部劇の

記事だから、当然のこと。ところが先週の放送の後、急にポツポツと検索

が入ってきた。その理由は明らかだろう。先週の話が難解だったからだ。

             

シリーズの中でもかなり哲学的なテーマを扱っており、ドラマの構成も複雑。

本来なら、英語のセリフを聞き取った上で記事を書くべきだろうが、前の

記事に11月4日付で「近々2本目の記事を書く予定」と追記してしまった

ので、有限実行ってことで、とりあえず間に合わせの記事を書いておこう。






まず、あらすじは次の通り。1870年代のアメリカ西部で、さすらいの旅を

続ける少林寺出身のケイン。山奥の川にかかる吊り橋で、若者(アンディ)

が首を吊ろうとしてる所に遭遇。若者は、ケインが助けようとせずに見てる

だけなので、怒りの叫びを上げて自殺を中止。やがてケインがたどり着いた


のは、金鉱探しの騒ぎが収まってすっかりさびれた街。そこで再び、父を探す

若者と遭遇。彼は、現実と幻想の区別があいまいな状態で、自分が本当に

自殺しようとしたのかどうかさえ確信できずにいた。その後、ケインは山奥に

戻り、金鉱探しを一人で続けてる父親(アロンド)と遭遇、雇ってもらう。

     

用事で街に出かけたケインは、若者に父親らしき男がいたと報告。若者を連れて

山に戻り、親子は再会。若者は、母が心の病で施設に監禁されてしまった件

で、父を激しく責める。さらに、炎を見つめながら、自分の精神状態まで変に

なってることを告白。やがて父は、金鉱を発見したと狂喜し、息子とケインを

廃坑の一つに連れて行く。その時、横取りしようとした男(ベイツ)が火をつけ、

さらに父親を銃殺。死の間際に父親は、自分が妻を愛しすぎていたからこそ

追い詰めてしまったことを告白。これを聞いて、若者の父への憎しみは和らぐ。

      

ケインは若者に、父が殺されたことも目の前の炎も、幻想ではなく現実だと

分からせると共に、カンフーで男を倒す。最後に、吊り橋にかかってた首吊り

用のロープを若者が川に投げ捨て、母のもとに帰ると言ってケインと別れる。



    ☆        ☆        ☆

この回のテーマは、現実と幻想。この区別がつかない者は、重い心の病、

いわゆる精神病の患者とされるのが普通だ。けれども、実はこの区別を

厳密につけるのは、少なくとも理屈の上では非常に困難だという事を、西洋

哲学の歴史は示している。この難しい問題に、ケインは彼なりのやり方で

取り組み、病める若者を救い出す。

           

いつものように、少林寺で修行する若き修行僧ケインの姿が何度か映し出

されるのだが、今回のエピソードはかなりヒネリが効いている。師カンは、

ケインら3人の少年を山奥の空き地に行かせて、そこで何を見たかを報告

させる。年配の僧3人が変装して、泥棒が突然孔雀に変身するという奇妙な

寸劇を演じるのだが、少年3人が師カンに報告すると、それぞれの問題点

を師は指摘。この辺り、芥川の「藪の中」という名作を思い出す所。

            

ここで師カンが言いたいのは、事実をよく見るように、などと言うことではなく、

逆に、人それぞれ違う世界を見ているのだという事だ。

                

師カン 「お前はしくじったわけではない。・・・何を見たか、何を見なかったかと

      いう事は重大ではない。・・・お前は、目に映ったものを見たのだ。」

ケイン 「でもそれは、本当の事ではなかったのです」

師カン 「だがお前は、そう見た」

           

この少年修行僧時代の教えを受けて、ケインは病める若者に言う。



 「君は自分の見るものが本物かどうか、分からなくて悩んでる。それは私も

  同じだ。・・・空は青い。私がそう言い、君もそう言う。だが君の心に映って

 いるものが、私のものと同じだろうか。どちらが本物だろう」


              

人それぞれ、見ている世界は違うし、他人の世界をのぞき見ることもできない。

この辺りは、大数学者ライプニッツのモナド論を思い出す所だ。ただしケインは、

現実=真の世界というものを全否定して、極端かつ虚しい相対主義に陥ってる

訳ではない。また、正常と異常の区別が消える訳でもない。

             

病める心や恐れる心は、自分の中の醜さや恐怖の対象を、世界の側に投影

してしまう。とりわけ、妖しく揺らめく炎は、人の目を歪ませる強い力を持つ。

実際、若者も母親も病的なまでに炎に魅せられてしまったし、ケインも昔、

炎の中に「火トカゲ」(原題のsalamander)を見てしまった。もちろん、火の中

に住める伝説上の動物など、本当にいるはずはなく、山椒魚(salamander)

を火の中に入れれば、焼け死ぬに決まっている。けれども、昔のケインの心

にあった醜いものが、salamanderという醜い姿で世界に投影されてしまった

のだ。そういう幻想に関する心の仕組みを理解するだけでも、不必要な不安

は緩和され、心はいくらか安らぐだろう。

                

若者の病める心が最後に立ち直ったのはなぜか。それは、父に投影していた

自分の醜い憎しみが、父の最期の告白で和らぎ、もはや熱い光の揺らめきの

中に妖しげな何かを投影することなく、正しく炎と認識できるようになったからだ。


現実の炎の中で、若者の病的な幻想も、父と横取り男の金鉱に対する妄想も

消えていく。したがって、邦題は内容的にはむしろ、「幻想は現実の炎に消えた」

とすべき所だろう。




不要な幻想は消し去り、最小限の現実をとり戻す。

単なる観念的な理屈におぼれることなく、人が生きていく際の基本的な技を、

ケインは心と身体で習得しているのである。無論その設定自体が、米国の

東洋的ドラマの幻想に過ぎないかもしれない事は、忘れるべきではなかろう。

とりあえず、今日のところはこの辺で。
http://www.freeml.com/3i-/6948

件名:

燃えよカンフー2ndシーズン放映!


差出人:
SNIPERさん

送信日時
2005/11/24 15:45

ML.NO
[3i-:6948]

本文:


昨年放映され反響の大きかった「燃えよカンフー」の第二弾が今夜2時40分
日本テレビ系で放映されるようです。

昨年3iで紹介しましたように、このドラマは、あのブルース・リーが
原案、企画したもので、彼を主役として作られる予定だったものです。

少林寺で武術を学んだ達人が、兄をさがして旅に出ます。行く先々で
出会う人達との交流や戦いなど一話完結式で進行していきます。

タイトルからカンフーアクションで中身は空っぽのイメージを持たれると
思いますが、アクションは控えめで、人間の心について描写されており
心に残る作品です。

主役のケイン役デビッド・キャラダイン(キルビル)がいいという訳では
ありませんが、結果的にブルース・リーでなかった事で精神的なドラマに
なったと思います。

何しろブルースはこの企画以前のグリーンホーネットというドラマで
脇役なのにド派手なアクションで目立ち過ぎていました。
TVの画面からハミ出したり「速過ぎる!もっとゆっくり動いて!」
などと言われていたようです。

キャラダインにカリスマ性がない分だけ脇役達の演技も光り
東洋思想の良さなどが表現されている感じです。

もしブルース・リーだったら?たとえアクションを控えめにしたとしても
カッコ良すぎてワンマンショーになってしまったでしょう!

一見の価値ありですよ(^○^)

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=19516&id=43760755

えみし 「燃えよ!カンフー」シリーズ制作のパイロット版?(なので、第1話と数えないらしい。)

 アメリカの鉄道建築現場にあらわれたケイン。鉄道建築現場で働く中国人の老人に誘われ働く事になったのだが、白人のオーナーは、中国人の安全など気にも留めず、危険な作業を続けて、ついには大事故が起こってしまう。中国人達は抵抗しようと決起するが、白人側の銃の前にはなすすべもなく、死人はふえるばかり。それどころか、まっこうから工事続行を反対した白人の現場監督ですら、射殺されてしまうような有様だった。ケインは、ゲリラ戦術? で、一人白人達を攪乱し、カンフーで倒していく。
が、白人オーナーが呼びよせた少林寺の僧侶くずれの賞金稼ぎが、到着して......。

 のっけからフラッシュバックで、少林寺へ入門するために門前で待つ少年時代のケインの回想が挿入される。初対面のポー先生との会話で「コオぉロギぃー」(声優 島宇志夫るんるんのイントネーションハート)という足下のバッタからの愛称がケインにつくエピソード。私はずっと単に「コオぉロギぃー」というのは、ポー先生が「こいつ~~」というような意味でいっているだけだと思っていました。

 今回英字字幕を見て驚いたのは、「あなたの心は広い、清の国のように」とケインが老人に言う箇所など、実は、「.....water of Tao 」をなっていた事! 
....そうか、「修業に励げむがよい」というカン先生のいいまわしなども、日本語訳が見事なんですね。日本人向けにより「東洋思想」的に違和感のないように訳されているようです。

 今、シリーズ見ると、少年時代の軽装として「中国」をフラッシュバックをいれるという手法は、ものすごく成功していると思います。もし少年時代の回想がないと、ケインが直接悪党に説教を垂れまくる(笑) 多弁なヒーローになってしまうから。全然イメージが違ってきたでしょうわーい(嬉しい顔)
 成人ケインは、いろいろな事件にあたって、老師の教えを元に、悩み、考えて、そして結果をだしていく。現在時点の、青年ケイン自身、アメリカを放浪しながら「修業」の旅であり、回想の中の、少年ケイン同様、青年ケインも、精神的に成長していく。~~これがいいんですよねえハート達(複数ハート) ロードムービー! 

 第1話、中国人人種差別の問題がテーマだと思います。第1話いにはかなりな「熱」が感じられます。70年代、格闘技術顧問の中国人スタッフの思い入れ、熱意が相当こめられていたように思います。ラストにケインが、建築途中の、鉄道に火を掛けてまでの反抗をみせたのには驚きました。横目で横暴な白人オーナーを見据える、デビット・キャラダインの眼光が怖いです。ケインには「不敵」な面もある事に気づきました。

野卑な建築現場の白人オーナー、「中国人は臭いからな」と言い放つ酒場の白人男の言い分。........,,今の「嫌韓国」「嫌中国」の日本の風潮に当てはまらないでしょうか? 1870年に人種差別と闘った「東洋人」のケインの目が、今とても、怖く感じられるのは...私の中の「傲慢な白人」が怯えてしまっているのかもしれません。

村上由見子「イエロー・フェイス--ハリウッド映画にみるアジア人の肖像」朝日選書
が面白かったです。
(残念ながら「燃えよ!カンフー」には言及されてませんが、ブルース・リーの事が少し出ています。映画、TVで創作された「人種像」のイメージがいかに、広汎に浸透し、根深く続いていってしまっているかという考察です)

http://blog.livedoor.jp/koyamaclinic/archives/51971390.html

「燃えよ!カンフー(Kung Fu)」

kung-fu-20150207
 柔道の稽古仲間のフランス人男性、Patric Bigot氏が、彼のFACEBOOKの記事の中に、「燃えよ!カンフー(Kung Fu)」についての記事を載せていました。
 「燃えよ!カンフー」、深夜に放送されていたのを、親に隠れて観ていました。懐かしいです。
 改めて調べてみると、アメリカでは、1972年から1975年までの3年間で、全62話が放映されました。日本では、1976年からシリーズ放送が開始され、その後、何度も再放送されています。日本では、「燃えよ!カンフー」というタイトルがついていますが、これはもちろん、「燃えよドラゴン」の流用です。現題は、ただ「カンフー(Kung Fu)」でした。
 父親がアメリカ人で、母親が中国人の、混血の少年、クワイ・チャン・ケイン(Kwai Chang Caine)は、少林寺での厳しい修行を積み、少林寺の僧となりました。
 しかし、あるとき、盲目のホー先生と共に、ある寺院の祭礼に出掛けたところ、ホー先生が、居合わせた皇帝の甥に銃殺されてしまいます。思わず近くにあった槍を皇帝の甥に投げつけて殺害してしまったケインは、清国政府から追われる身となり、父の祖国である、アメリカに逃げることになりました。
 自分の半分のルーツを求めて、アメリカ西部にいるとされる異母兄を探す旅に出ます。人種差別を受けながら、さまざまな事件に遭遇しますが、東洋思想と武術で、それを解決していきます。
 ただのアクション映画ではなく、西洋人に向けて東洋思想を説いた、哲学的な映画でした。
「コオロギよ・・・」
 日本の吹き替えでは、ケイン少年は、ホー先生や館長のカン先生から、こう呼ばれます。アメリカ版では、「little grasshopper」、「小さなバッタ」でした。これは、放送当時のアメリカで流行語になったのだそうです。
 たとえば、「先生、この問題が分かりません」、「この公式を使えばいいのだ、コオロギよ・・・」といった感じでしょうか。
 脚本はクリント・イーストウッドの「マンハッタン無宿」の脚本も手がけたハーマン・ミラーでしたが、原案はブルース・リーでした。
 もともと、ブルース・リーは、この役を自分で演じたいと思っていました。ところが、英語に訛があったり、混血の青年という設定にしては風貌が東洋人すぎるという理由で、ブルース・リーは選ばれず、デヴィッド・キャラダインが主役に抜擢されたのだそうです。
 しかしながら、ブルース・リーは、ドイツ系の血が混じるクォーターでした。逆にキャラダインは東洋人には見えず、目を細めて演技するなど、東洋人に見えるように苦労したとのことでした。
 自分の原案が勝手に使われ、放映されたテレビ映画を見て、それに悔し涙を流す様子は、「ドラゴン/ブルース・リー物語」の一場面として使われています。
 もし、ここでこの役をブルース・リーが演じていたら、恐らくブルース・リーはアメリカでスターになり、香港に帰ることもなく、32歳の若さでなくなることもなかったのではないかと、勝手に想像しています。

http://misterkayne.tumblr.com/












『燃えよ!カンフー』 ~ 禅の思想

CIMG8536a今、日本テレビ系(4CH)で深夜、『燃えよ!カンフー』が放送されている。

この作品は1972年から3年間にわたって約60話がアメリカで放送された。日本での放送は1976年から、当時、私は学生であり、ドストエフスキーやニーチェをはじめ、東洋思想、聖書などに興味があリ、その関連書物をむさぼり読んでいた時期でもあった。

1972年から翌年にかけて、日本で上映された『燃えよドラゴン』が大ヒットし、一躍カンフー・ブームに火がついた。本作は、それを受けて日本のテレビに登場した。しかし、制作年月日を見ると2つの作品はほぼ同時期につくられているのであり、『燃えよドラゴン』のブームにあやかってつくられたのではないことがわかる。

しかも、2つの作品には驚くべき共通点があった。『燃えよ!カンフー』の原案はブルース・リーであり、当然、主人公ケインを演じることを彼は希望した。しかしながら、ケインは白人と中国人の混血であり、いかにも東洋人然としているブルース・リーは採用されなかった。

そして、当時、新人に近かったデビッド・キャラダインはこの作品で人気を博すようになる。もっとも、彼は、あの名作『駅馬車』にも出演しているジョン・キャラダインの息子でもあるが、その後、彼はマーチン・スコセッシ監督の『明日に処刑を・・・』で、スクリーンでも人気者となる。

私が先日購入したベルイマンのDVD-BOXに収められた『蛇の卵』(1977年・ドイツ)でも主演しているが、ベルイマンが彼を採用したのは『燃えよ!カンフー』を観たからか、あるいは『明日に処刑を・・・』を観たからかはわからない。その後は、監督業や制作にまわり映画出演も少なかったが、3年前話題となった映画『キル・ビル』で悪役のビルを演じている。

そんな裏話もある作品であるが、『燃えよ!カンフー』の舞台は1870年のアメリカ西部。主人公である孤児クワイ・チャン・ケイン(デビッド・キャラダイン)は、中国で少林寺の僧に育てられ、成長して武術の達人となるが、恩師を助けるために清の皇帝の甥を殺し、追われる身となってアメリカへ渡った。そこで、行方不明になった彼の兄を探すという目的もあった。

最初、馬鹿のようにも思える柔和な顔立ちに長髪、決して綺麗だとはいえない服装と裸足をいう彼のいでたちに、西部の人たちは蔑視する。そこには東洋人に対する偏見、差別が当然に見られる。しかし、悪に決して屈することのない彼の強さ・不屈の精神と高尚な彼の思想に感化されてしまうのである。

ケインは、銃弾が当っても死なない、どんな姦計にも陥らない、いわばスーパーマンである。ヒーローとしての資格十分だったが、悲しいかな深夜放送の枠で放映されたばかりに、日本ではあまり話題にならなかった。私のような当時の深夜族の一部が観たに過ぎないであろうこの作品は、そうした事情もあってか今ではカルト的人気を得ている。

私がこの作品に惹かれたのは、彼が超人的な少林寺拳法の達人であるばかりではなく、その東洋思想にあった。毎回、少林寺での修行の過程と高僧との禅問答が描かれ、その禅問答が作品を進行し、トラブルや事件を解決して行くのである。

30年も前のセリフなので詳細は忘れたが、例えば、ケインがガラガラ蛇がうようよしている穴に放り込まれても平然としている。

彼は言う、「己を自然に同化させれば、蛇から襲われることはない。なぜなら、蛇は自然を襲うことはしない。人に敵対する意識と行動があるから襲うのだ」と。自己を自然に同化する。あるいは闇に同化させることによって闇に対する恐怖を払拭させる。それは、禅の無の思想や空の思想といわれているところに通じるものであろう。

今放送されているのはシリーズの後半のものであり、私はもう一度最初から見たかったのだが、先日、某レンタル店においてシリーズ前半のものを発見した。それは、一昨年にDVD化されていたのであった。捜し求めて十数年、ようやく数ある一つの執着が、ここに終焉したのである。

ちなみに、『燃えよ!カンフー』はアメリカではまだ人気があるのだろうか、10年ほど前・・・もっと前かもしれない・・・に続編が作られた。こちらは警察官となったケインの息子が主人公で、彼は息子の危機を助ける役なのであるが、前作ほど興味はもてなかった。






デビッド・キャラダインの言霊・・・「燃えよ!カンフー」詩録

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なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 9 / トラックバック 0 / コメント 4
“生まれついての役?いや、それは否定する。絶対にね。私は私自身だ。だろ?”


「燃えよ!カンフー」DVDボックスの特典映像から、主演の僧ケイン役デビッド・キャラダインの発言を拾ってみる。
享年72歳・・・。


「わしが復讐しなければ誰がする?」
僧「誰も」
「無力のちから」(2005年8月5日付)より。
“興味深いのは、それが実際のテーマということなんだ。反・復讐のテレビシリーズさ”

彼は36歳だった。元海兵隊員だった。
72年の"復讐否定"のドラマ。
ベトナム戦争末期のアメリカ。
彼はシリーズ出演を当初渋った。が、ケイン役に惚れ込み、頭を丸めた。
カンフーも禅も、まったくの未知だった。

“ブルース・リーが亡くなった時は、シャツの色を変えたんだ。こげ茶から彼が着てた黄色にね”

メイン監督はケイン役をブルース・リーで推していたという。
彼はまったくの素人からカンフーの動きをこなした。
やがて東洋哲学も学び始めた。
彼はブルース・リーとは会ったのだろうか?
彼がハリウッドでケインになった年、リーは香港でドラゴンになっていた。

「飛べる自由、巣喰う自由」(2005年12月28日付)
“この話は差別や社会問題を番組でどう扱うべきか、私が初めて興味を持ち始めた話でもあるんだ”

黒人差別と、人間の自由をテーマにした一編。
彼は、週7日朝6時から夜9時まで出ずっぱりだった。
いつもシナリオをろくに読まずに現場へ現れ、一発OKをこなす天才肌だった。
その彼が、やがて作品創りにのめり込み始める。
特に少林寺での老師との禅問答のシーンは、脚本家には書かせず、監督始めプロデューサー陣とディスカッションして仕上げていったという。

“主役を張るのは大変だ。私は頭が変になる前にやめたんだ。別に殴られてじゃなくて、シリーズで主役を続けていると太ったり、酒浸りになったり、人間の抜け殻になるんだ。何人か目にした”

彼は自らケインを降りた。
高潔な僧を演じて廃人になるより、全米のファンに背を向けて己自身であり続けることを選んだ。
ケインが彼に選択させた道だったのかもしれない。
僧は必ず旅立っていく。
決して後ろを振り返らず・・・。

“番組を降りた時、私は収まることのない怒りを買った。テレビ局やスタジオからだ。今日に至るまでスタジオは、私の降板に怒ってる”

彼は5度結婚して4度離婚した。
彼は自分の人生を頑固に貫く。

“長く評価されるのは、万人のための教訓劇だからだ。永遠だ。聖書のように古く、神話の響きを有してもいる。魔法を持つ。テレビ史上、どの番組より多くの魔法をだ”

魔法・・・彼の顔も魔法だ。
高齢を迎えても彼の顔は、ほとんど変わることがない。
死ぬまでケインだった。
そして永遠になった。

“番組の価値を信じてた。多分、これまでで一番精力をつぎ込んだ作品だ。「キル・ビル」を別にして”

僕は俳優デビッド・キャラダインの熱烈なファンではない。
映画は「明日に処刑を・・・」と「キル・ビル」シリーズしか見ていない。
そして「キル・ビル」は、つまらなかった。
特に「2」は、まったく退屈の極みだった。
彼は「1」で声だけの登場だったから、ビルなのだ。
姿を見せないのが、彼の真の存在と価値だったのだ。
僕にとって彼は僧だ。
だから彼の死に様など、全然聞きたくないのだ。

質問・・・人々が自分にケインを重ね合わせるから、それに対して自分は何らかの義務(責任)があると思う?
“時にはそう思うこともあるし、また意図的にイメージを壊そうと思うこともある。どうして?それは・・・変人だから”

その通りに彼は死んだようだ。
突然の訃報は心底悲しい。
だが、彼はただでは死ななかった。
彼は僧ではなかったのだから。
僕は虚しさの彼方に、ほのかな灯りを拾う。
彼は人間だった。
ケインはまだ死んではいないのだ。

“私の感じ方はちょっと違うかもな。確かに世間に与えた影響は想像以上だったが、済んだことだ。好きか嫌いかにかかわらず、その後ずっと遺産はついて回る。面倒なこともある。”

済んでしまったこと。
「燃えよ!カンフー」も終わった。
「新・燃えよ!カンフー」も終わった。
もう二度と続編が、その本当の最終章が映像化されることはなくなってしまった。
けれど遺産は残った。
僕の掌の中に零れ落ちてきてくれた。
僕が終わるまで、あと何度、あと何話、僧の軌跡を辿れるだろうか。
僕には遺産なんて、ないから・・・・。

“言いたいのは私が続編に出たのは、皆が私の所に来てこう言い続けたからだ。「続きはやらないのか?」やるべきなのかもと思った。選択の余地はなかったのかも。生まれついての役?いや、それは否定する。私はケインより西部劇のキャシディーの方に近い。絶対にね。私は私自身だ。だろ?煙草は吸うし、基本的に西部劇俳優なんだ。まったく違うよ、仏教徒でもないしね。あれは私じゃない”

やるべき役。
近い役。
向いてる役。
そして自分とは、まったく違う役。
彼はその役目で歴史に名を残した。
大いなる仕事を果たし、世界中の人々の記憶に刻まれた。
彼はケインではない。
仏教徒でも僧侶でもない。
しかし、彼が授けられた役は、ケインだった。
彼の命の役割は、僧としての巡礼だった。
役者には、人間には、それぞれの"生まれついての役"があるのかもしれない。
それが本人と違っていたとしても、いや異なっているからこそ、人は全霊を込めてその役割を全うできる。

“脚本に書かれていた以上のものを私はケインという役柄にもたらした。自分が考えたすべてを込めた”

彼はケイン以上だった。
だからケインは、不滅の魂へと昇華した。
彼は彼自身。
ケインは誰でもない、一個の僧。

質問・・・依頼されたら、またケインを演じる?
“・・・・ギャラは?(笑)高いよ”

彼は、もういません。
いや、そこにいる。力の限りを尽くし、才能を傾け、やっと仕上げた"作品"だ。単なる記念碑かな、それともあの人自身か?
まさか一週間前に更新した記事がそのまま現実になるとは・・・・。
僕はまだまだ残された彼の"作品"を見続ける。
詩録を重ねる。
それはケイン自身であり、キャラダイン自身であるとも感じながら。

「勝者が産む悪魔」(2006年5月16日付)が最も印象深い一編だという。
「下を向いて歩かず、太陽に顔を向けろ」
“いいセリフだ。「賢い者ほどコウベ(頭)を垂れる」という言葉をかつて聞いた。でも私にはそれを信じることは出来ない”

彼は生きた。
僕も生きた。
彼はケインを演じ、僕は僧を記した。
彼は生涯太陽を見上げて生きていったことだろう。
僕はコウベを垂れて、僧の詩録を少しずつ這うように更新していく。
僕は結局何も信じてはいない。
彼も、人も、言葉も、自分も・・・・。
ただ己の役をひっそりと行乞していくだけだ。
運命という役柄に、追われながら殉じていくだけだ。
できれば僧のように、キャラダインのように。
最終回まで、あと少し・・・・。

http://sky.ap.teacup.com/aiki/81.html
「燃えよ!カンフー」  合気道

70年代の中ごろに、熱中して観たアメリカのTVドラマ「燃えよ!カンフー」がDVD化されHMVで販売されていた。

クリックすると元のサイズで表示します少林寺で修行した米中混血の孤児 クワイ チャン ケイン のストーリー。
トラブルに巻き込まれた老師を守るために、王朝関係の人間をあやめたケインは、アメリカへ逃れ、同時に老師の仇を追い放浪する、といったようなストーリーだったと思う。 西部開拓のような時代、鉄道敷設工事に中国人労働者が従事していたりといった設定もあったと記憶している。
ロードムービー スタイルによるエピソードの展開のなかで、折々に挟み込まれる少林寺での老師と「コオロギ」と呼ばれていたケインの東洋思想にもとづいた禅問答のような追想のシーンが素晴らしく毎回楽しみにしていた。

アクションシーンは非常に少なく、派手な技やアクションの無いスローモーションを多用した形意拳のようなスタイルの拳法は、ゆったりとした動きで、投げ技などもあり、流れに乗るような大きな動きで、当時流行った香港のカンフー映画の軽さとは違い、地味ながらリアルさを感じさせるものだった。
卒院を前に、両腕に龍と虎の焼印を入れるシーンなど、印象に残っているシーンも多い。

「燃えよ!カンフー」は、香港でも放送されたらしく、覚えている人も何人かいた。90年代に台湾へ行ったときに、深夜に放送されていて驚いたこともある。

香港で売られているものは、US仕様のリージョン1のもの。ネットで検索してみると、日本でも販売されている。 通常、日本語吹き替え版は、好きではないのだけど、この作品は、昔観たときのの印象が強く、吹き替えで観てみたいとも思う。


最後に、ネットで見つけた本編の中の「コオロギ」と老師との問答のなかでの言葉を一つ。


「自然界には不調和がない。
ゆえに、自然を知ることにより心の中の不調和を取り除くのだ。
そして心と体を調和させ宇宙の流れと一体になる。
一つの拳法を学ぶのに半生をかけることもある。」


こういう文章を、どういう人が書いていたのか、知りたくもある。
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