プロレスの歴史

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意外!? プロレスには185年もの歴史があった
2015.08.02 雑学

『フミ斎藤のプロレス講座・第48回』は、プロレス史――プロレス発祥のエビデンス――の再検証。

 歴史的発見なんていったらちょっと大げさかもしれないけれど、これまでの誤った常識の修正ということにはなるだろう。プロフェッショナル・レスリング、つまりプロレスの歴史はアマチュア・レスリングの歴史よりもずっと古い。

 結論からいってしまえば、プロレスのほうが先に存在していて、プロレスよりもあとからアマレスが生まれた。レスリングにおけるプロとアマチュアの“分離”は、そもそも近代オリンピック以降の概念である。

 プロレスとアマレスの関係は、日本の伝統的レスリングである大相撲と学生相撲の関係とまったく同じととらえるとわかりやすい。あまりにもあたりまえのことではあるけれど、大相撲の歴史は学生相撲のそれよりもはるかに古い。また、学生相撲(アマチュア)が発展して大相撲(プロ)が誕生したわけでもない。

 これまでの研究ではアメリカでプロレスの興行がはじまったのは1850年代後半から1860年代とされてきたが、最近の研究では1830年ごろにフランスで“プロレス巡業”の原型がスタートしていたことが明らかになってきた。

 初期のプロレスラーはエドワード“ザ・スティール・イーター(鉄を食う男)”、ガスタヴ・デアビヨン“ザ・ボーン・レッカー(骨折魔)”、ボネット“ザ・オックス・オブ・ジ・アルプス(アルプス山脈の雄牛)”といったいかにもフリーク的なリングネームを名乗っていた。

 プロレスラーの集団は、動物の曲芸ショーや綱渡りなどを披露するサーカス、奇人・変人やフリークスをディスプレーする見せ物小屋などといっしょにバーンストーミング(地方巡業)をまわりながら「だれの挑戦でも受ける。この大男を投げ飛ばすことができた者には賞金500フラン」といった賞金マッチのたぐいをおこなっていたという。

 巡業スタイルの“プロレス一座”でいちばん有名だったのはジーン・エクスブロヤJean Exbroyat(本名はジーン・ブロヤッセでエクスブロヤはニックネーム)という人物が1848年に南フランスに設立したサーカス団で、エクスブロヤは――伝統的なフランス式レスリングの流れを汲むサムシングとして――ウエストから下への攻撃を禁止し、上半身のみを使って闘うレスリングをフラット・ハンド・レスリングFlat Hand Wrestlingと命名。この新しいスタイルのレスリングを“プロレス一座”の統一ルールとして採用した。

 エクスブロヤが“商品化”したフラット・ハンド・レスリングはその後、フレンチ・レスリング、クラシック・レスリング、フレンチ・クラシカル・スタイル・レスリングFrench Classical Style Wrestlingといった名称でフランスからオーストリアハンガリー帝国、イタリア、デンマーク、ロシアに普及。

 しかし、普仏戦争(1870-1871)でドイツ帝国が大勝し、敗れたフランスが第二帝政から第三共和政へ移行するとフレンチ・レスリングという名称そのものが使われなくなり、イタリア人レスラーのバシリオ・バルトーリBasilio Bartoliが――レスリングの起源は古代ローマにあるという主張から――これをグレコローマン・レスリングGreco-Roman Wrestlingと呼称しはじめた。これが現在のグレコローマン・レスリングのルーツである。

 グレコローマン・レスリングはその名称とはうらはらに――古代ギリシャとも古代ローマともまったく関係なく――19世紀後半のフランス人とイタリア人の“発明”だったが、グレコローマン・レスリングそのものは1860年代から1900年代までの約40年間、ヨーロッパのプロレス興行の主流としてその地位を確立していく。

19世紀のフランスの世界グレコローマン王者ポール・ポンズ

19世紀のフランスの世界グレコローマン王者ポール・ポンズ
 1898年、フランス人レスラーのポール・ポンズが初代世界グレコローマン王者に認定されるとヨーロッパのプロレスのメッカはパリに移り、フォリー・ベルジェール、カジノ・ド・パリといった由緒ある劇場がプロレス興行の舞台となるが、19世紀末から20世紀初頭にかけてのたびかさなる八百長疑惑、不透明な試合結果、選手のプロフィル詐称など――つまりプロレスが20世紀的な様式を整えていくプロセス――が原因でプロレスの“信用”は失墜していく。

 近代オリンピックの第1回大会(アテネ=1896年)の正式種目は陸上、レスリング、ボート、自転車、フェンシング、体操、重量挙げ、水泳、射撃、テニスの10競技だったが、“オリンピックの父”ピエール・ド・クーベルタン男爵は――フランスにおけるプロレスの人気とその功罪を理解し――レスリングをオリンピックの正式種目とすることに消極的とはいえないまでも、それほど積極的ではなかったという。

 近代オリンピックの第1回大会、1896年のアテネ大会ではアマチュア・レスリングとしてオーガナイズ=競技化される以前のアマチュアのレスリングの試合がおこなわれた。

 フランスのプロフェッショナル・レスリング(グレコローマン・スタイル)に準じたルールを適用し、時間無制限、ウエート階級制なし、ポイント制もジャッジによる判定もなしという“初期設定”で開催されたトーナメント戦にはレスリング以外の種目の代表選手5名が出場。ドイツのカール・シューマン(陸上競技)がイギリスのラウンストン・エリオット(重量挙げ)を下して初代オリンピック王者となった。

 4年後のパリ大会(1900年)ではレスリングは正式種目には含まれず、さらに4年後のセントルイス大会(1904年)ではグレコローマン・スタイルが姿を消し、アメリカ代表40選手のみ――47・6キロ=104・9ポンド級から71・7キロ=158ポンド超級の全7階級――によるフリースタイルのトーナメント戦が開催された。

 この時点ではヨーロッパのレスリングの主流はあくまでもフランス発祥のグレコローマン・スタイルで、アメリカのそれはイギリスのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの流れを汲むフリースタイルだった。

 現在のUWW=世界レスリング連合(United World Wrestling)とその前身のFILA=国際レスリング連盟(英International Federation of Associated Wrestling Styles、仏Federation Internationale Des Luttes Associees)のさらにルーツにあたる最初の国際的な連盟組織がドイツのデュイスブルグに誕生したのは1905年。

 同連盟はストックホルム大会(1912年)からアントワープ大会(1920年)にかけて何度かの分裂―組織改編をくり返し、1920年にIOC国際オリンピック委員会の要請でIAWF(International Amateur Wrestling Federation)に改称。

 戦後の1954年(昭和29年)、東京で開催された国際会議にてIFAW(International Federation of Amateur Wrestling)、1994年にはIFAWS(International Federation of Associated Wrestling Styles)と改称したが、フランス語読みの頭文字であるFILAという正式名称を経て、2014年9月にUWW=世界レスリング連合(United World Wrestling)という新名称に統一された。UWWは現在、アマチュア・レスリングだけでなく、グラップリングやアマチュアMMA(総合格闘技)の大会運営も手がけている。

 フランスでは1830年代ごろから、アメリカ大陸では南北戦争(1861-1865年)の前後から本格的なプロレス巡業がはじまったが、ヨーロッパでもアメリカでも、いわゆるアマレスは20世紀の“産物”であった。

 アメリカで――オリンピック・ムーブメントとは関係なく――アマレスが組織化されはじめたのは1876年。NAAAA(National Association of Amateur Athletes of America)という団体がアマチュア・スポーツのルールづくりに着手し、レスリングについてはふたつの異なるスタイルであるグレコローマンとキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(フリースタイル)の公式ルールを作製したが、ルールそのものはヨーロッパとアメリカ国内ですでにおこなわれていたプロレスの様式を踏襲したものだった。

 1878年にはニューヨーク・アスレチック・クラブというアマチュアの団体がアメリカ国内で初のアマレス・トーナメントを開催。NAAAAによるルールづくりから10年後の1888年、同団体から派生した新組織AAU(Amateue Athletic Union)がキャッチ・アズ・キャッチ・キャン・ルールに改良を加え、のちにカレジエイト・スタイル(カレッジ・スタイル)と呼称されるところの新しいレスリング・スタイルの土台をつくった。

 初期のプロレスのメッカ、フランスでは1856年に“八百長疑惑”が社会問題化し、パリでの興行が一時禁止となった。1873年にはパリのトーナメントにプロレス史上最初のマスクマン、ザ・マスクド・レスラーが登場した。この時代にプロレス興行のショービジネス化に拍車がかかった。

 いっぽう、アメリカでは1867年1月、ニュージャージー州ニューアークでジェームス・H・マクラフリンがルイス・アインズワースを退け、プロレス最古のタイトルといわれるアメリカン・カラー・アンド・エルボー王座を獲得した。

 ごく最近の研究では、J・H・マクラフリンのライバルで、同時代を生きたホーマー・レーン、ジョン・マクマホンといったレスラーも“チャンピオン”を名乗って全米各地を転戦していたことが判明している。

アメリカの“プロレスの父”ウィリアム・マルドゥーン

アメリカの“プロレスの父”ウィリアム・マルドゥーン
 “プロレスの父”として知られるウィリアム・マルドゥーンは1876年、アメリカで最初の“職業レスラー”としてニューヨークでデビューした。

 J・H・マクラフリンもマルドゥーンもアマレスというものがまだ存在しなかった時代のアメリカのプロレスラーである。マクラフリンやマルドゥーンの歩んだ道、プロレスラーとしての功績をリサーチするための手がかりはごく数カットだけ残されてるモノクロの写真、当時の新聞記事や古い文献だけで、試合映像はもちろん存在しない。

 この時代のプロフェッショナル・レスリングの闘い方がいわゆるプロレス――現代人であるわれわれがイメージするところのプロレス――というよりもMMAに近いものであったとしたら、マクラフリンやマルドゥーンはプロレスだけではなく総合格闘技の始祖ということにもなる。

 プロレスの歴史は、アマレスのそれよりもMMAのそれよりもはるかに古い。レスリングの変容の歴史はまさに“人類史”そのものなのである。

斎藤文彦

斎藤文彦
文/斎藤文彦 イラスト/おはつ

※「フミ斎藤のプロレス講座」第48回

※斎藤文彦さんへの質問メールは、こちら(https://nikkan-spa.jp/inquiry)に! 件名に「フミ斎藤のプロレス講座」と書いたうえで、お送りください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3

ガチンコ
曖昧さ回避 テレビ番組については「ガチンコ!」をご覧ください。

ガチンコは、大相撲やプロレスにおける「真剣勝負」を意味する隠語である。

同義語はガチ、シュート、セメント、ピストル。反対語は大相撲においては「注射」、プロレスにおいては「ケーフェイ」、「ワーク」などと呼ばれる。

目次

1 語源・用例
2 概要
2.1 相撲
2.2 プロレス
3 有名なシュート事件
3.1 セメントマッチ
3.2 ストーリー破り
4 脚注
5 関連項目

語源・用例

ガチンコ
本来は相撲界の隠語で、語源は力士同士が激しく立合いを行った際、「ガチン!」と音がするところから、真剣勝負を表す隠語として使用されるようになった。八百長とは縁のない力士のことを、俗に「ガチンコ力士」と呼ぶ。
1950年代に力道山が角界からプロレス界に身を投じて以降、大相撲の慣習・文化が多数取り入れられた日本のプロレス界においても、同様の意味で用いられるようになった。
セメント
ガチンコと同義。語の由来はセメントが「ガチガチ」に硬いことからなどとされているが定かではない。

シューティング・サイン

シュート
アメリカで誕生したプロレスの隠語であり、カーニバルの射的にその由来がある。シュートを表すジェスチャーである人差し指と親指を立てたハンドサインは「シュート・サイン」、または「シューティング・サイン」と呼ばれ、即ち拳銃を模したものである。日本のプロレス界でも1980年代後半から1990年代にかけてこの用語が使われ始め、真剣勝負を意味するガチンコやセメントとの類語・同意語として広く普及した。なお、シュートを行うレスラーを「シューター」と呼ぶ。かつてダニー・ホッジが「キレると何をするかわからない」という悪癖から稀代のシューターとしてレスラーの間で恐れられていた。用語の使い分けとしては、試合内容についてはガチンコ、リング外での本気の仕掛けをシュートと呼ぶ場面がしばしば見られるが、明確には使い分けられていない。アメリカではリング内外どちらもシュートと表現する。語句としては「シュートマッチ(セメントマッチ)」「シュート(セメント)を仕掛ける」などが一般的用法である。
ピストル
女子プロレスではピストルと呼ぶのが一般的である。これは全日本女子プロレス創始者である松永高司が提唱したものである。

概要
相撲

近代において相撲はスポーツであり、本場所での取り組みはすべて真剣勝負、つまりガチンコであることが建前上は当然とみなされている。これに対して、地方巡業などの本場所以外での花相撲ではあえてガチンコをとらず、無気力相撲ともとれる取り組みや地元出身力士に花を持たせるような取り組みが度々行われている。これは花相撲が興行的な側面が強いイベントであり勝敗も番付に影響しないこと、相撲がもともと過酷な格闘技であること、などの理由がある。昭和前期の大関名寄岩には「花相撲で部屋の横綱である双葉山に勝って師匠に怒られた」という逸話がある。
[icon] この節の加筆が望まれています。
プロレス

1920年代にエド・ルイスらが「トラスト」と呼ばれるプロレスラーの組合を結成して以降、プロレスはブックと呼ばれる事前の打ち合わせに基づいて試合が行われるようになった。しかしながら選手間の人間関係の悪化などの理由により、しばしばその打ち合わせを無視して試合が進行する場合がある。このような試合をガチンコやシュートと呼ぶ。この隠語の発祥の地であるアメリカでは、リング内の真剣勝負のみならず、リング外でのストーリー破りもシュートと呼んでいる。また、レスラーは試合をファンによる乱入により妨害された場合には、乱入者に容赦ない攻撃を加えることがあるが、アメリカではこれもシュートと呼ばれる。日本ではリング内はガチンコ、リング外はシュートと呼んでいたが、リング内での真剣勝負もシュートと呼ばれる機会が増えている。

シュートは選手の格やマッチメイカーによって試合の勝敗をあらかじめ決めることなく、両者の実力によって決着を着ける意としても使用されることがあり、佐山聡が創設した総合格闘技である修斗及び立ち技格闘技のシュートボクシングの由来となっている。

「女子プロレス終わらない夢 全日本女子プロレス元会長 松永高司」によると全女の試合は基本的にシュート(ピストル)で行われていた。また、デビル雅美も「kamipro」146号誌上において「タイトル戦はシュートだった」と語っている。プロレスにおける実力主義についてはストロングスタイルも参照。

ただし、シュートという概念はそれ自体がアングルとして用いられることもあり、上記の試合についてそのような見方をする人も少なくない。このアングルをあたかもシュートであるかのように見せる手法は、海外では「ワークド・シュート(Worked shoot)」と呼ばれストーリーを盛り上げる演出としてポピュラーなもののひとつである。
有名なシュート事件
セメントマッチ

1954年12月22日の力道山対木村政彦

詳細は「昭和の巌流島」を参照

予定では引き分けで終わるはずであり、試合も途中までは相互に技を掛け合う普通のプロレスとして進行していたが、木村の蹴りが力道山の金的に入ったように見える場面の直後、力道山は豹変し、突然本気のパンチを浴びせる「ブック破り」を行うと、困惑する木村を一方的に打ちのめした。成り行きに多くの謎があり、その後も両者の間に禍根を残したことから、多くの作品の題材とされた。
1976年6月26日のアントニオ猪木対モハメド・アリ

詳細は「アントニオ猪木対モハメド・アリ」を参照

当時のプロボクシング世界ヘビー級王者であったモハメド・アリが「俺に挑戦する奴はいないのか。相手はレスラーでも誰でもいい」というリップサービスを行い、それに猪木が呼応したことに端を発する。後日実現した試合では双方が終始相手のスタイルに付き合わず、「世紀の凡戦」と痛烈な酷評を浴びた。
しかし近年になって、事前に交わされた契約交渉の段階から既に激しい摩擦があったことが関係者の口から明らかになっている。また、試合中猪木に執拗に脚部を蹴り続けられたアリは血栓症を発症、帰国後治療のため入院を余儀なくされた。
結果としてこの対戦によって猪木は多額の負債を背負うことになり、アリは前述の血栓症が原因ともいわれる体調不良からスケジュールを狂わせるなど、両者共に決して実り多きものとはならなかった。
1976年10月9日のアントニオ猪木対パク・ソン

詳細は「朴松男#大邱事件」を参照

1976年12月12日のアントニオ猪木対アクラム・ペールワン
アントニオ猪木が行ったパキスタン遠征(前述のアリ戦で背負った多額の負債返済のためといわれている)で起きた、当地で英雄と称えられていたレスラー、アクラム・ペールワンとの対戦とそれに纏わる事件。全くのノールール・マッチであったとされ、それについては当時猪木に同行した藤原喜明やミスター高橋など複数の関係者が明言している。なお、この「ノールール勧告」は試合の数時間前に初めてペールワン陣営から突き付けられたという。単なる海外でのプロレス興行と思い込んでいた猪木陣営にとっては、この一方的な「潰し予告」ともいえる要求は全く不測の事態だった。
試合は両者が噛み付きや目突き(ペールワンは片目を失明したといわれている)などを応酬する凄惨なものになり、最終的には猪木がペールワンの腕をアームロックで脱臼させ勝利を収めた。勝利の瞬間、猪木は「折ったぞー!」と雄叫びをあげ、リング上でもみ合う両陣営の関係者を押しのけるように両腕を高々と振り上げた。このことについてミスター高橋は自著の中で「リング上で叫ぶ猪木の表情は、すでに正気のものではなかった」と述懐している。また、猪木のセコンドについていた藤原の弁によれば、ペールワンの勝利を信じて熱狂的な声援を送っていた観衆が一気に静まり返るのを感じ「もう俺たちは日本に帰れない」と絶望さえ覚えたという。猪木本人は興奮のあまりほとんど記憶がないとのことだが、ふと我に帰った瞬間ライフルを携えた兵士の姿が目に入り、急に恐ろしくなったと『リングの魂』内の談話で述べている。
試合後の猪木は憔悴しきった様子で「あいつ、(アームロックが極まっても)参ったしないから…」と語り、終始表情は曇ったままであった。
なお猪木は引退後、この試合が収録されたDVDの中で当時のことを解説している。ペールワンの腕を脱臼させたことについては、「僕はレフェリーに『折れるぞ。試合は終わりだ』と言ったんですが試合を止めないし、相手(ペールワン)もギブアップしない。それで思い切って力を入れたら、腕がバキバキと音を立てて折れてしまった」と述べており、あくまで事態を終息させるための最終手段だったという。その一方でペールワンに仕掛けた目突きのように見える行為は「フェイスロックを極める際の流れがそう見えるだけで、反則(目突き)ではない」としている。
この試合の結末が影響してか、ペールワンの兄であるアスラムと猪木が対戦する予定だった第2戦は中止になった。
1986年4月29日の前田日明対アンドレ・ザ・ジャイアント
UWFスタイルの確立によるムーブメントに危機感を覚えた新日本プロレスが、当時UWFの旗手とされた前田にアンドレとのセメントマッチを強行。試合開始からアンドレは全くプロレスに付き合わず、前田がタックルに来ると巨体を被せて押し潰そうとした。その様子に異変を感じた前田は試合途中から距離をとっての打撃に終始。この時点で前田はアンドレのセコンドに付いていた若松市政に「若松さん、(アンドレに止めるよう)言ってくださいよ」と言っていたといわれている。前田は自著『パワー・オブ・ドリーム』(角川文庫)で当時の状況を記しており、それによれば前田がセコンドに付いていた星野勘太郎に「本当にやりますよ。いいんですか」と尋ねたところ、星野は困惑した様子で「俺に訊くなよ」と答えたという。
異様な膠着状態が続く中、観客からブーイングが起こり始め、リングサイドには試合に関係のない猪木が現れる。リング中央から動かないアンドレに対し、前田は膝頭に危険な蹴りを連発。最終的にアンドレはリングに寝転がったまま起き上がらなくなり、戦意喪失とみなされ試合終了。困惑した前田がセコンドに対し事情の説明を求めるという不可解な結末に終わった。前述の前田の自著には、アンドレはマット上に寝転んだ後に制するかのように両手を広げながら「It Is Not My Business」(俺が仕組んだことじゃない)と言ったという記述がある。
シュートマッチ強行への経緯については諸説あり、当時の関係者の証言も断片的なものに留まり、また当事者のアンドレが故人となった現在では真相は不明。当時マッチメイクを担当していたミスター高橋も自著の中で、特に新日サイドから指示されたことはなく、試合後もアンドレは何も答えてくれず、困惑するしかなかったと当時の胸中を明かしている。この試合について見解を表明しているのは当事者の一人である前田と、新日サイド側では現時点に於いての唯一の証言者であるミスター高橋のみと非常に少ない。前田は「新日サイドによる組織的な『潰し』」という説を唱えており、対して高橋は「UWFスタイル、特にキック攻撃を嫌悪していたアンドレが個人的感情から起こした行動」としている。アンドレも晩年、この試合について「前田はキックが好きだと聞いていた。だから好きなだけ蹴らせてやっただけさ」という旨の発言を残しており、何らかの思惑があったことを示唆している。
なお、この試合の様子はテレビ収録大会にもかかわらず、後日、全国ネットで放映された録画中継で、この試合のみが何の説明さえもなく放送されなかったことから『“内容が危険”であるという理由で放送されなかった』とのまことしやかな“伝説”がしばらく流布していたが、テレビ朝日の関係者によれば当時のスタッフからも「試合が成立しておらず、つまらない」という声があり、放映するコンテンツとして品質不足と判断されたためだという(当然その時点では“セメント”とは分かっていない)。そのためしばらくの間いわゆる「お蔵入り」の状態が続き、非公式の“流出”のビデオが出回るのみであったが、近年になってDVD化されるなどようやく“封印”が解かれた。
その一方で、この試合の翌日に発行された東京スポーツは、試合の一部始終を詳報。1面トップかつ写真入りで大きく扱った。「大巨人、ナゾの試合拒否」などの見出しを付け、この試合を「異常事態」と捉えた報道になっていた。
1987年7月18日の神取忍対ジャッキー佐藤
ジャパン女子プロレスでプロレスデビュー間もない頃の神取忍が、同団体のエース格だったジャッキー佐藤との試合でシュートを仕掛けた。諸説あるが、両者の意見の食い違いが主な原因とされている。なお、この試合前に神取は「今日はジャッキーさんを30秒で倒す」「あっという間に終わらせたらお客さんに申し訳ないから、初めの5分はジャッキーさんに合わせる。だから5分30秒かな」とシュート予告ともとれる発言をしていた。
試合開始から数分後、神取が突然ジャッキーの顔面を次々と殴打し始め、ジャッキーは防戦一方に陥る。この際、異変に気付いたリングサイドのレスラーたちから「神取、何をやってるんだ」「やめろ」と怒声が上がったという。さらに神取は戦意喪失状態のジャッキーをアキレス腱固めや袈裟固めなどで執拗に攻め立て、最後はチキンウィングアームロックでギブアップを奪った。なお、これはジャッキーが喫した生涯唯一のギブアップ負けである。後に神取はこの際のことを「関節技は全部本気で極めにいった」と明言している。試合終了後のジャッキーの顔面は無残に腫れ上がり、極められた腕は脱臼していた。ジャッキーはこの試合から程なくして引退しており、神取戦における惨敗が要因のひとつという評もある。
後年、神取はインタビュー内でこの試合について「ジャッキーさんの心を折るために仕掛けた」と語る一方、喧嘩マッチとして語り継がれていることに関しては「あの試合は喧嘩じゃない」と述べている。また、最盛期のジャッキーを知る北斗晶は恐ろしい性格であるジャッキーを恐怖に追い込んだ神取は相当強いと感じたそうである。
1991年4月1日の北尾光司対ジョン・テンタ
SWS神戸大会で北尾が全くテンタと手を合わせようとせず、目潰しの構えをとるなどして威嚇した事件。結果としては何事も起きず未遂に終わっている(裁定は北尾の反則負け)。だがその直後に解説席のマイクを奪った北尾が「この八百長野郎!八百長ばっかりやりやがって」「お前ら、こんな試合見て面白いのか!」と暴言を発した。この発言を翌日のスポーツ紙は問題視する形で報道、すぐにプロレス業界全体を巻き込む大問題へと発展した。なお北尾はこの試合を最後にSWSを解雇されている。この事件から数年後にWARで再戦が行われたが、総合格闘家に転向していた(当時PRIDEにも参戦している)北尾は終始いきり立った様子で試合を進め、格闘技然とした展開となってしまい呆気ない幕切れとなった。
1993年のジェンヌゆかり対遠藤美月
当時団体のキャラクター路線で一定の人気を得ていたLLPW(現:LLPW-X)で宝塚風のキャラクターで再デビュー戦となったジェンヌゆかりに対し遠藤が試合途中からシュートを仕掛け一方的にジェンヌを蹴り上げる事態に発展、明らかにジェンヌに戦意損失の意思が見えても遠藤の攻撃は収まらず完勝に終わる。遠藤が日頃から団体のエンターテイメント路線に反発していたのに対し同じ格闘技路線のジェンヌがキャラクターレスラーに転向する意向を受け入れた事による制裁と思われる。しかしこの企画、テレビ番組のコラボレーションで作られた事により当日セコンドに立っていた番組出演者と遠藤が一触即発する結果となってしまった。
1993年の北斗晶対神取忍(横浜アリーナ、両国国技館)
詳細は「北斗晶#全日本女子プロレス時代」を参照
この試合は初めからシュートと公言していたせいかセメントマッチの中でも女子プロレス史における伝説の名勝負となった珍しい例である。
1999年1月4日の小川直也対橋本真也
ライバル抗争を繰り広げられていた橋本真也に対し、小川直也が執拗な顔面へのパンチ(プロレスで顔面パンチは反則行為である)や、倒れた橋本の頭部を思い切り踏みつけるなどの攻撃を繰り返した試合。橋本も小川に対して反則技である脊椎への攻撃を仕掛けるなど報復を行った。
一方的に攻撃を受け続けた橋本はKO(裁定は無効試合)され、直後に小川が挑発的な言動を行ったことから場内は騒然となった。これにより試合後、両選手のセコンド同士による大規模な乱闘が発生。小川のセコンドをしていた村上和成は、飯塚高史に顔面を踏まれ一か月入院するほどの大怪我を負う。さらに事態は紛糾し、当時の現場監督の長州力が小川に詰め寄り怒声を上げる姿がテレビで放映された。この際に長州は小川に対して「これ(シュートで橋本を潰す行為)がお前のやり方か!」と繰り返した。また、橋本がKOされた際にゴングを鳴らしたのはリングアナの田中秀和の独断によるものである(「何とか収拾を付けたかった」と本人が後に語っている)。
なお橋本は試合後の検査で鼻骨を骨折していたことが判明、長期離脱を余儀なくされた。
2000年8月5日のプロレスリング・ノア旗揚げ戦での垣原賢人対大森隆男
垣原賢人がオープンフィンガーグローブを着用して登場、対戦相手の大森隆男を一方的に叩きのめした試合。直後に垣原はノアを退団してしまい、原因や経緯など多くが不明のままである。なお垣原が引退直前にインタビューで語ったところによれば、試合後大森から「悪いけど僕にはああいうのは出来ない」と言われたことに自信を失い、退団を考えるようになったという。
2004年11月4日ダニエル・ピューダー対カート・アングル
2004年10月、WWEの第4回タフイナフチャレンジで優勝し、WWEとの契約を獲得したダニエル・ピューダーは、11月4日、スマックダウンにおいてカート・アングルと対戦した。この際ピューダーはアングルにシュートを仕掛け、ガードポジションからのキーロック(ダブルリストロック)を極めるも、異変に気づいたレフェリーがピューダーの肩がマットに着いていると判断し素早く3カウント、ピューダーのピンフォール負けを宣言した[1]。ピューダーは2005年9月、WWEのコスト削減を理由に解雇され、総合格闘家へ転向した。
2011年4月28日IGFのチャンピオンシップトーナメント一回戦として行われたジェロム・レ・バンナ対鈴川真一
K-1ファイターのバンナが、元幕内力士の鈴川の、張り手やタックルを全てかわしパンチやキックで計六回のダウンを奪い、最後は右フックで鈴川を失神させてKO勝ちした試合。この試合はバンナ側の要求と鈴川側の要求が合わず、KO、ギブアップのみにより勝敗の決まる異種格闘技ルールで行われた。

2015年2月22日の世IV虎対安川惡斗
スターダム後楽園ホール大会のメインイベントで行われたワールド・オブ・スターダム王座のタイトルマッチで、王者の世IV虎に対し、挑戦者の安川が顔面付近を殴ったことに激昂した世IV虎が、安川の顔面を拳打で執拗に攻撃し、安川が闘う意思を見せていたためレフリーは試合を止めず、危険と判断した安川のセコンドを務めた木村響子がタオルを投入し、世IV虎のTKO勝ちとなった試合。試合後に安川は都内の病院に救急搬送され、頬骨、鼻骨、左眼窩(か)底骨折、両目の網膜しんとう症の診断が下された。後日、この試合はTKO勝利から無効試合に変更され、顔面への過剰な反則攻撃を行った世IV虎はタイトル剥奪及び無期限出場停止の処分を受けた後、自ら申し入れ引退。負傷した安川も、復帰をしたものの怪我の回復がおもわしくなく、ドクターストップがかかり引退と、両者ともに後味の悪い幕切れとなった。この試合に関しては、世IV虎の行為はもとより、明らかに実力差のあった選手同士に対してタイトルマッチを組んだスターダムに対しての批判や、危険な状態になっていたにもかかわらず、試合を止めなかったレフリーの和田京平に対しての批判も起こり、顔面を負傷した直後の安川の写真が週刊プロレスの表紙になる等、社会的に問題視される事態となった。

ストーリー破り

カーテンコール事件
1996年5月19日、WWFの興行でバックステージの派閥グループクリックのメンバーが行ったストーリー破り。この事件当時スコット・ホールとケビン・ナッシュはWWFを離れてライバル団体のWCWに移籍することが決まっていた。この日のメインイベントで、ベビーフェイスのショーン・マイケルズは、ヒールのナッシュとのケージマッチを戦った。試合が終わるとすぐに、リングに上がったホールはマイケルズを抱擁した。ここまでは、両者ともにベビーフェイスであったため問題がなかった。しかしその後、マイケルズはリング上に横たわっていたナッシュにキスし、アンダーカードでヒールとして試合をしたハンター・ハースト・ヘルムスリー(トリプルH)もリングにやってきてマイケルズやホールとハグを交わした。最終的には敗れてマットに倒れていたナッシュも加わり、4人で観客に向けて "カーテンコール" を行った。
彼らのカーテンコールの行動は、当時、ベビーフェイスとヒールの関係は現実のもので彼らはリングの外においても友人ではないという幻想を維持したいと考えていたWWF首脳陣を憤慨させた。さらにWWF経営陣は、この興行をカメラで撮影していたファンがいたことを予期していなかった。この撮影テープは、翌年の1997年10月6日のロウ・イズ・ウォーで、マイケルズとヘルムスリーが、ビンス・マクマホンを怒らせる意図でストーリーライン上で使用された。マイケルズは当時WWF王者で、団体のトップスターの1人であったために罰せられなかった。ホールとナッシュはすぐにWCWに去ったため、残ったヘルムスリー1人だけに罰が下され、メインイベントのタイトルマッチを外されて前座の試合でジョバー役を回されるようになった。しかし彼は、この5ヶ月後にはWWF・IC王座を手に入れる。

モントリオール事件
1997年11月9日のWWFの特番サバイバー・シリーズでのブレット・ハート対ショーン・マイケルズのWWF王座を賭けた試合にて起こったストーリー破り。通常セメントマッチ及びストーリー破りは試合中にレスラーが行うものであるが、当事件は「団体側による」ストーリー破り(スキャンダルに巻き込むことでストイックなブレットの商品価値を落とそうとたくらんだ)という点が特徴。事件の衝撃は大きく、絶対的な悪名を得たチェアマンのビンス・マクマホンとそれには歯向かう荒くれ者スティーブ・オースチンの抗争をはじめとするアティテュード路線がさらに推し進められることとなり、後のアメリカプロレス史に大きな影響を与えた。

脚注

^ PUDER WANTS REAL FIGHT WITH KURT ANGLE - mmaweekly.com、2006年10月26日、2010年5月23日閲覧。

関連項目

八百長
ケーフェイ
カール・ゴッチ - 日本プロレス界のシュートの概念に強く影響を与えた人物
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