ボクシングと差別の歴史

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https://togetter.com/li/911965


ベアナックルからボクシングへ そしてボクシングの人種差別について
まとめました。

人種差別 モハメッド・アリ ボクシング ベアナックル 黒人差別 タグを編集

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ちていのき @baritsu 2014-08-08 03:36:09
ビクトリア朝の写真家オスカー・グスタフ・レイランダーによる砕石場でのボクシング1855年。ベアナックル時代の絵はたくさんあるけど写真は多くないんで素敵  p.twipple.jp/BIELg






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 02:09:05
【ボクシングの歴史と、そこに見える差別】①
「ボクシングの起源は人類の誕生と、ときを同じくする」という人もいる。武器を持たない原始人の自衛と闘争の手段として始まった、というワケである。それはともかく歴史的な存在証明というなら、ひとつの説に紀元前四千年ごろのエジプトの出土品を挙げる






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 02:15:34
②紀元前688年の第23回古代オリンピック大会では「パンクランチオン」として正式種目に加えられた。しかし、これをボクシングの源泉とするのには個人的に疑問符がある。近代ボクシングに通じる歴史として明らかなのは1719年に英国のジェームス・フィッグという人物が拳で
@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 02:20:46
③の格闘技を考案し、ロンドンに「ボクシング・アカデミー」を設立したあたりだろう。当時はグラブを着けず素手で殴り合うベアナックルの時代だった。余談だが四角いジャングルとも称される「リング」は、もちろん語源は輪を意味するものだが、フィッグの時代は「アカデミー」という @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 02:25:42
④名称は立派だが、実際のところ試合は地面に円を描いただけであった。四本の柱を立てロープを張ったり板敷にになるのは、まだのちのことで当時は正真正銘の「リング」で殴り合ったのである。またフィッグのころは殴るだけでなく、蹴る、頭突きをかます、投げ飛ばすのもありだった。 @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 02:31:30
⑤もちろん、そのころには体重制もラウンド制限、判定もない。試合はどちらかが再び立ち上がれなくなるか、降参して棄権するまで徹底的に続けるものだった。そもそもスポーツ、厳密に現代の認識で言うところのアマチュア・スポーツは、英国の王侯貴族や富豪が「余技、遊び、気晴らし」@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 02:36:17
⑥としていたものだ。しかしボクシングは近代化したときすでに闘う内容からして、その範疇を大きく外れたものであって、勝者には賞金が与えられるのが当然であった。近代オリンピックで行われる競技はすべて、まずアマチュアがあって、そののちプロが誕生する歴史を持つが、ボクシング@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 02:42:19
⑦だけはプロが先行したという特異な経過がある。1866年、ボクシングをこよなく愛したと言われる英国のクイーンズベリー侯爵が、アマチュア・スポーツ協会に命じて12ヶ条からなる新ルールを作らせた。これによって現在に通ずるボクサーはグラブを着用、一辺24フィートの四角 @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 02:48:45
⑧の試合場で1ラウンド3分間、ラウンド間は1分の休憩を置き、ダウンして10秒以内に立ちあがらない場合はKOとして勝敗が決まるといったルールが制定された。だが、このルールでグラブを着けたスタイルによって世界タイトルマッチが催されるには、まだなお26年を要したという。@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 03:00:24
⑨というのもグラブはボクサーの安全を守るため考案されたのだが、当時のロンドンやニューヨークの下町にある倉庫や空き地を舞台にして戦うプライズファイター(賞金稼ぎ)たちは「手袋なんぞして殴り合うのは男のすることじゃない」という意識があったのだ。おもしろいのはへヴィ級で@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 03:06:07
⑩とくにそのような意識が強く残り、グラブをつけた王者の誕生が最も遅かった。黎明期のボクシングには奇談、伝説が多いが、記録として最も長く闘ったのは1825年に英国であった試合で、なんと276ラウンズという。当時は一方が倒れると1ラウンドとカウントして、次のラウンドへ@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 03:13:21
⑪移ったが、勝負が決するまで4時間半かかったという。しかし時間で見ると、さらにすごい記録が残っていて1893年4月6日に米国で行われた試合。夜の9時15分に始まった試合は翌7日の午前4時半まで続き、計7時間15分闘った末に両者グロッギーとなって引き分けに終わる。 @GPart2






石部統久 @mototchen 2015-12-13 01:21:55
ベアナックル ボクシング - NAVER まとめ matome.naver.jp/odai/214418791…






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 03:23:48
⑫さて、1882年に米国に住む貧しいアイルランド移民の子、ジョン・L・サリバンがベアナックルでの世界へヴィ級王者に認められると、ボクシングの中心地は英国から米国へと映る。それから10年後ジェームス・コーベットがサリバンをグラブ着用ルールでKOし、王者になる試合こそ@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 03:29:57
⑬真の意味でモダンボクシング時代となる。英国から新大陸に舞台を移したボクシングだが、その「王の中の王」を決めるへヴィ級は「白人のもの」とする時代が続く。しかし王座に就いたのは白人でも貴族や富豪ではなく、モダンボクシングになって初代王者のサリバン、2代目コーベット @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 03:35:03
⑭3代目はイギリスにタイトルがもどるが王者になったフィッツシモンズを経由して4代目ジェフリーズと初期のチャンプはいずれも祖国の絶望的飢餓から逃れて米国に渡ったプアホワイトのアイルランド人だった。貧しいアイルランド人たちは明日の食べものと自分の誇りを賭けてリングへと@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 03:40:59
⑮上がった。当時『ブルックリン・イーグル』紙でボクシングの記者で、のちに作家となったバッド・シモンズは「彼らは白人プロテスタントの上流階級人士からは軽蔑されたが、その代わり自分たちより後にやってきた雑多な移民や奴隷として連れてこられた黒人を見下すようになった」と @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 03:47:01
⑯書いた。そこへ憎悪を売りものにした黒人ボクサー、ジャック・ジョンソンが登場する。彼はリングでギリギリの生活を賭けたアイルランド人と折り合いをつけて試合することを断固拒否する。憎悪には憎悪を、蔑視には冷笑を返し、その激しい攻撃で相手を殴り倒した。黒人をへヴィ級の @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 03:55:17
⑰リングに上げるなという圧倒的な敵視の中で闘い続けたジョンソンは、ついにシドニーでときの王者トミー・バーンズとのタイトルマッチを実現させる。そのときニューヨークヘラルド紙に「わたしも彼と同じ白人だ。だから当然彼に勝ってほしい」とバーンズを応援するジャック・ロンドン@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 04:04:10
⑱の言葉が掲載された。だがロンドンら圧倒的な敵への応援をものともせずジョンソンはバーンズを破り史上初の、そして「最も憎悪を集めた」王の中の王となった。憎しみをぶつけ合う試合を続けたジョンソンが、やがて王者を追われたあと、2人目の黒人王者ジョー・ルイスが生まれるのは@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 04:11:03
⑲1937年である。その年の6月22日、ルイスが王者になる姿にニューヨークポスト紙の記者は有名な一説を紙面に掲載した。それは「彼は人種の誇りだ。人間という人種の…」というものだった。ルイスは歴史の風向きも味方にした。彼は38年6月に元王者のシュメリングと対戦する。@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 04:18:25
⑳ナチスドイツの誇りという役割を担ったシュメリングをルイスは1ラウンドKOで下すと、米国社会から喝采を浴びた。しかし、そんな称賛はルイスにある種の圧力となったのかもしれない。初の黒人王者ジョンソンが白人に対する攻撃態度によって、どれほど憎悪と偏見を生んだかを彼は @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 04:23:57
続 「学んだ」のである。ルイスは自分に愛されないまでも憎まれないことを望む。そのためのルールには、白人女性には近づかない(ジョンソンは妻にまでした)し、いっしょに写真を撮ることはしない、白人に対して尊大な態度は一切慎む、対戦相手を罵ったりせずに敬意を払う、などが @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 04:29:19
続 あった。リングでは圧倒的な強さで相手をリングに沈めても、試合以外では分をわきまえた黒人として振る舞う。かくしてルイスは白人社会に許容されていくのだった。第二次世界大戦の前後にかけて勝ち続け、1948年にはタイトル防衛25回という不滅の大記録を樹立したルイスだが@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 04:37:26
続 その晩年は伝説のチャンプにふさわしいものではなかった。12年間も王座に君臨して稼いだ金は、周囲の者たちからカモにされて使い果たすと、晩年は税金まで払えなくなってしまい、プロレスの興行にまで出るようになって、偉大な王者らしからぬ姿を世間にさらすこともあった。 @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 04:43:14
続 常に白人社会に向かって従順な姿を生涯見せたルイス。最後にはラスベガスのカジノで客を出迎える仕事をするようになる。訪れた人々は伝説の王者に握手を求め、記念写真を撮って観光土産にした。ルイスは自身を観光名所で白人たちの「記念品」となって口に糊するようになった。 @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 04:50:33
続 偉大なボクサーは最後の最後まで白人の意を迎える役目を演じ続けた。それゆえ彼は白人社会からも愛された。しかし、ルイスがその全盛時代から老残の姿を見せるまで示された白人たちからの親しみに「尊敬」や「敬意」がこもっていただろうか?それは彼が一番よく知っているだろう。@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 14:36:51
続 「褐色の爆撃機」と称されたへヴィ級史上に残る偉大な王者だったジョー・ルイスのタイトルはチャールス、ウォルコットと黒人の手に受け継がれたあと、再びイタリア系移民の子で白人のロッキー・マルシアノの手に渡る。マルシアノは防衛6回、通算戦績が49勝無敗で43KOと @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 14:44:13
続 とんでもない記録を残すが、これには少々胡散臭い話がある。一説では、ひさびさの白人王者にへヴィ級ボクシングはすさまじい人気を誇るが、ここにはギャンブルで稼ぐマフィアが一枚噛んでいて、大半の試合が八百長だったというものだ。対戦相手がマシンガンを突きつけられ脅された@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 14:49:09
続 というエピソードも残っている。ともあれ、あまりに「強すぎた」マルシアノの試合は勝つか負けるかのスリルに欠けたため、やがて人気は落ちてしまう。人々の関心は肌の色から去って、同じことを繰り返す日常性というものに漠然と苛立っていたとも言える。1956年にマルシアノが@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 14:59:38
続 引退したあと、へヴィ級ボクシングはしばし沈滞ムードの時代となる。その間に個人的に好きな映画『My Life as a Dog 』の終盤でラジオ中継シーンがあるように、スウェーデン人のインゲマル・ヨハンソンが短期間だったが王座についた。だが肌の色は白くても彼は @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 15:05:38
続 ボクシングの「中央」となったアメリカから離れたローカルの王者。人気が沈滞から回復するまでには至らない。それが達成されるのは史上最も色彩豊かで「グレイテスト」なチャンプであるカシアス・マーセラス・クレイ、のちのモハメド・アリが登場するまで待たねばならなかった。 @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 15:17:17
続「クレイ」は1942年ケンタッキー州ルイビルに生まれる。60年のローマ五輪でライトへヴィ級の金メダルを獲得した彼は、意気揚々と市長を始めお偉方に迎えられて故郷に凱旋した。18歳だった黒人少年は月日が流れても興奮が治まらず、金メダルを首にかけてはルイビルの街を歩き@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 15:24:32
続 まわった。しかし、ある夜に白人専用のレストランに入ろうとして店の主人から「首から何をぶら下げようと、うちはニガーお断りだ」と怒鳴られ、店から叩き出された。おまけに居合わせた白人の「暴走族」に追い回される羽目にも遭い、なんとか逃げ延びた黒人少年クレイはたいせつな@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 15:33:24
続 はずの金メダルを惜しげもなく「こんなもの!」と川へ投げ捨てた話は有名である。クレイはプロに転向して王の中の王を決めるへヴィ級で「蝶のように舞い、蜂のように刺す」スタイルで連戦連勝すると、64年2月に20戦目で「熊殺し」と呼ばれた王者ソニー・リストンに挑戦する。@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 15:45:24
続 白人の意に沿う英雄造を演じるというジョー・ルイスの系譜であり、刑務所帰りのソニー・リストンを「醜い熊」と罵りつつ7ラウンドでKOして王座についたクレイは、リターンマッチでは試合開始早々に「ファントム・パンチ」と呼ばれたボクシング史上最高のカウンターでリングに @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 15:50:42
続 リストンを沈めた。そのセンセーショナルな闘いぶりは、アメリカ人好みであった。白人たちも「やたら生意気なヤツだが、なかなかかわいいところもある」と関心を持って迎えた。が、クレイはやがてブラックムスリムに改宗すると「Black is beautiful」と主張し @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 15:58:16
続 モハメド・アリと名前を変える。「オレにはベトコンと戦う理由がない」と徴兵を拒否して戦争反対を叫び、盛り上がりを見せていた黒人の公民権運動にも参加すると、反体制運動のシンボルになった。へヴィ級タイトルの防衛を9回重ねる間アリは「もう白人は弱り始めてる」と白人社会@GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 16:06:47
続 対して吠えまくった。こうなると「寛大な」態度を見せていた白人たちも我慢できなくなる。オールドガードと呼ばれる共和党最右翼のような人たちだけでなく「平凡な一般市民」の白人たちも、いっせいに反発する姿勢を見せた。やがて兵役を拒否したアリは各州で州政府管轄下にある @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 16:12:41
続 ボクシング・コミッションから次々とプロボクサーのライセンスを剥奪され、1967~70年に、アスリートとして最盛期であるはずの25から28歳にかけての3年半を失うことになる。当然ライセンスを失ったボクサーのタイトルも奪われて別の黒人選手がチャンプを名乗るように @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 16:18:26
続 なった。このころにはへヴィ級のボクシングはもう黒人対黒人という図式が当然のものとなっていたし、それを「嘆かわしい」とあらためて論じる人も表面的にはいなくなっていた。が、黒人の、そして反体制のヒーローに祀り上げられた男には厳しく「叩きつぶす」姿勢で白人の社会は @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 16:23:33
続 対応したのである。70年10月、法廷闘争の末にアリはようやくライセンスを取りもどしてリングへとカムバックするが、最盛期をアスリートの面では無為に過ごしたアリは苦渋の試合を重ねる。ときに顎を砕かれ、ときに病院送りになりながらも辛うじて踏ん張り、1974年10月 @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 16:43:16
続「象をも殺す」と言われたジョージ・フォアマンを伝説となったロープ際の闘いで逆転KOするとへヴィ級史上初めて王者に返り咲いた。しかし、全盛期のフットワーク、軽量級並みのスピードで繰り出すパンチは、もうない。ときにひどい拙戦を演じたりしつつも、類稀なセンスと技術、 @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 16:48:08
続 勝負への執念でタイトルを防衛していった。が、そんなアリを次は「白人社会に媚び諂い」うまく取り入った黒人たちによって、簒奪されていく。代表的なのがプロモーターとして一世を風靡したドン・キングである。ここまで、ずいぶんと長い連続ツイートになってしまったので、アリ @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 16:55:39
続 以降のことは別の機会にしたい。その後には弱小団体では白人ボクサーが王者を名乗ることもあったが、基本的には黒人たちが主役のへヴィ級には変わりない。ここのところ「新興」のロシア勢が王座に君臨したのは経済的に見て「成り上がる」側のハングリーさやナショナリズムの発揚 @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 17:00:05
続 という面があるのだろう。わたしの大好きだったボクサーがこういうことを言った。「ボクサーは、みんな死ぬ気でやっている」と。人種的であれ、階級的であれ、生きている社会で虐げられたり不遇な立場にいない限り「死ぬかもしれない」し「壊れてしまう」危険がつきまとう仕事を @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 17:06:27
続 進んで選ぶことはないだろう。ボクシングの源泉に立ち返っても、古代格闘技は王侯貴族、市民たちが死を覚悟して奴隷たちが闘う姿を楽しむものであったし、その本質は現代の格闘技、とりわけビッグビジネスになるボクシングではあからさまなくらいに見えてしまう。そういった視点 @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 17:13:53
続 でボクシングを見ると、単なるカタルシスを得るだけではなくなってしまう。リングで闘う姿とともに、さまざまなサイドストーリーを併せて観戦する胸の奥底では、なんとも形容がしがたいものが渦巻くのである。それでいながら、わたしなんぞは観るだけでなく自身がプロのリングへ @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 17:23:15
続 上がることもした。日本のボクシング界では黒人を在日コリアンに、白人を日本人に置き換えた構図がなくはない。そのような話は世界各国のボクシング界で、転がっているような話である。それだからこそ、わたしは特別の感情を持ってボクサーたちから目が離せないでいる。終 @GPart2






凛七星 Part2 @GPart2 2015-08-12 17:30:08
【ボクシングの歴史と、そこに見える差別】は連続50ツイート近くになってしまったなぁ。酒の勢いで始めると、だいたい収拾がつかなくなる。笑




MMA_gadoukai
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石部統久 @mototchen 2016-01-22 07:39:08
ベアナックル ボクシング - NAVER まとめ matome.naver.jp/odai/214418791…







リンク matome.naver.jp

ベアナックル ボクシング - NAVER まとめ

[ベアナックル ボクシング]のまとめ

http://zip2000.server-shared.com/onboxing.htm


究極の格闘技ボクシングの歴史
History of Boxing

- ボクシングの歴史、英雄、映画 -



<ボクシングというスポーツ>
 先日、初の日本人同士による世界王者統一戦を見て、久しぶりにボクシングの魅力に感動。思わず目に涙を浮かべてしまいました。思い起こせば、大場、海老原、柴田、小林、西城ら日本人チャンピオンたちが大活躍していた1970年代をスタートに、輪島、ガッツ石松、井岡、具志堅など偉大な日本人チャンピオンたちの活躍はずっと追いかけていました。もちろん、モハメド・アリがキンシャサで起こした奇跡の瞬間やシュガー・レイ・レナード、マービン・ハグラー、トマス・ハーンズ、ロベルト・デュランらが活躍していたミドル級の黄金時代も忘れられません。
 スポーツ観戦といえば、最近はすっかりサッカー中心になってしまいましたが、僕にとってはボクシングはずっと最高の格闘技であり続けてきました。考えてみると、プロレスごっこはよくやりましたが、ボクシングごっこはやったことがなく、「ボクシングこそ真の格闘技である」という考えは昔から変わらず、それはある種神聖な行為ですらあるというのが僕の考えでした。だからこそ、前述の統一戦の途中で八重樫選手が見せた笑顔には興奮させられました。格好よすぎるぜ!
 やっぱりボクシングは凄い。このスポーツはサッカーとも野球とも、どのスポーツとも違う。そう思いながら、昔読んだボクシングについての名著「オン・ボクシング」を改めて読み返してみました。考えてみると、このサイトでは今までボクシングについては、モハメド・アリしか取り上げてきませんでした。ということで、ここでは「ボクシングとは?」「ボクシングの歴史」「ボクシングの偉人たち」について勉強してみようと思います。
 「ボクシングの歴史」、それは人間がこの世に登場して、争いごとをはじめたとき、すでにそこにあったと考えられます。あらゆるスポーツよりも、その歴史は古いといえるのかもしれません。それは人類の本質に通じる原始的な部分を思い出させるがゆえに強く人に訴えかけるのです。誰かが誰かに「怒り」をおぼえたとき、「ボクシング」はそこに生まれ、それを憎しみの伴わない「スポーツ」に昇華させたからこそ、人間は人間となり得たのではないか?そんな気がします。

「ボクシングとは、基本的には怒りなのだ。ボクシングとは、実際のところ、唯一のスポーツ、その中では、怒りが順応させられ、気高いものにまで高められる唯一のスポーツである。」

 ただし、ボクシングとはケンカとは異なります。最高のボクシングの試合は、動く絵画であり、美しい美術品と呼ぶべき存在なのです。

「・・・芸術の中に、自然な類似をまったく持たない芸術。もちろん、それは、原始的・・・誕生、死、そして、性愛が原始的と言えるように、原始的でもある。そして - 私たちは、自分たちが、基本的には、精神的存在であると信じ、また、確かに、そうであるにもかかわらず - 、私たちの人生における最も深い経験は、肉体的なできごとなのだ、ということを、無理やり認識させるのだ。」

 ボクシングは芸術ではあっても、その肉体性にこそ本質があります。そして、すぐれた芸術作品と同様にそこには「狂気」が見えかくれしています。多くのボクシングファンはその「狂気」にひかれているのでもあります。

「ボクシングは、時おり見せる美しさにもかかわらず、まったくの狂気なのだ、ということを・・・。この確信が、私たちの共通の絆であり、そして、時には - あえて言う必要があるだろうか? - 私たちが共通に持つやましさなのである。」

<ボクシングの起源>
 ボクシングの「BOX」とは、もともと拳を握り締めた形が「箱=BOX」に似ていることから、古代ギリシャ時代に「PUKOS=箱」と名づけられたのが始まりといわれています。古代ギリシャ時代のボクシングは古代オリンピックの正式競技のひとつであり、名誉あるスポーツとして行われていました。
 ところがローマ時代、ボクシングは剣闘士たちによる残酷な格闘ショーのひとつとなり、スポーツではなくなっていました。その後は兵士たちが身に着けるべき武術として生き残ることになります。(まあ、けんかに必要な最低限の戦法ではあったので消えることはなかったのでしょうが)
 ボクシングがスポーツの一種として再び歴史に登場するのは18世紀のイギリスです。

<ボクシングの誕生>
 もちろんボクシングを「ボクシング」というためには、そのルールが誕生していなければなりません。そして、それが単なる素手によるケンカではなく、そこに「観客」という第三者の目が加わって初めて、競技としての「ボクシング」が成立したといえます。

「単に、無力の個人を生け贄に捧げるのではなくて、競技が「スポーツ性」を持っていた点が、観衆を興奮させた。なぜならば、闘い殺すという本能は、確かに、各個人の勇気によって条件づけられているが、他者が闘い、殺すのを見るという本能は、明らかに、先天的なものだからだ。ボクシングファンが『殺せ!ヤツを殺せ!』と叫ぶとき、彼は、特に個人的な病質、あるいは異常を見せてしまったわけではない。たとえ、彼が剣闘士たちが死を賭して闘うのを見るために、ローマの円形劇場を埋めつくした何千、何万もの観客たちから、いかに遠く隔たっていようとも、『殺せ!』と叫ぶファンには、彼らと共通する人間性、そして、彼らとの近似性を主張している。」

 「ボクシング」の本質は、ローマの円形劇場で剣闘士たちが命がけの闘いを行っていた時代とそう変わらないといえるのかもしれません。ただし、現在のボクシングにつながるルールの原点を生み出した国は、やはり「サッカー」と同じ英国です。
 サッカーが村対抗の一日がかりのボールをめぐる戦争だったのに対し、「ボクシング」の原型は一対一の戦争でした。ただし、それは当初から観客の存在を意識した闘いであり、賞金をもらうことを目的としたもので、決して決闘ではなかったようです。

「イングランドにおけるベアナックル・ファイトの最初の記録 - ジェントルマンに仕える馬丁対肉屋の試合 - は、1681年のもので、『ロンドン・プロテスタント・マーキュリー』という雑誌に出ている。・・・
 それは、『賞金試合』あるいは『賞金リング(プライズ・リング)』と呼ばれ、移動性の大衆娯楽として、よく村祭りのときなどに行われた。プライズリングとは、観客の作る可能性の空間のことで、観客は、長い一本のロープをみんなで持つことによって、大まかな円を作った。
 プライズ・ファイトは、普通は、「チャンピオン」と「チャレンジャー」の間で闘われる自由参加の競技で、レフェリーはいなかったが、原始的なフェア・プレイの規則で律せられていた。
 一人の選手とその仲間が相手を求めて呼びかけます。受けて立とうという者は自らの帽子をリングに投げこむことで、試合が始まることになります。勝敗を決するのは、どちらかが倒されるか、血を流した場合。試合後は握手で終わる。当初は下層階級の娯楽だったがしだいに貴族や上流階級にも広がった。」

 イングランド初のベアナックル・チャンピオンはジェイムズ・フィッグ(1719年)。最後のベアナックル・チャンピオンとなったジョン・L・サリバンは1882年から1892年まで、彼の時代に、「グローブをはめる」という決まりごとを含んだ「クイーンズベリー・ルール」が導入されています。

「クイーンズベリー・ルール」とは?
 ルールがないために、けが人どころか死者が出かねない危険なスポーツとして廃止の危機にあったボクシングを存続させるため、ロンドンのアマチュア競技クラブが作ったルールです。12条の条項からなるこのルールは、クイーンズべり侯爵ジョン・ショルト・ダグラスが保証人となっていたことから「クイーンズベリー・ルール」と呼ばれることになりました。
(1)革のグローブを使用する(相手を守るのではなく手を守るためのもの)
(2)レフェリーを導入し、彼が試合の勝敗を判定する
(3)1ラウンドは3分とする
(4)ラウンド間には1分間の休憩をいれる
(5)ダウンして10カウント以内に立てなければ負け
 ただし、このルールではラウンド数までは決められていなかったため、どちらかがKOされるまで延々と試合が続くことになります。

<ヒット&アウェー>
 1892年、世界タイトルマッチにおいて初めて「クイーンズベリー・ルール」が採用されました。その試合で戦ったのは、ベアナックル時代から世界チャンピオンとして伝説的存在となっていたジョン・L・サリバンと無名に近いボクサー、ジェームズ・J・コーベット。元銀行員という肩書きをもつコーベットは、体格的に完全にサリバンより劣っており、観客のほとんどはサリバンの勝利を確信していました。しかし、コーベットはその試合にのために秘策を用意していました。それは今ではまったく当たり前の戦法である「ヒット&アウェー」です。
 西部劇など古いアメリカ映画を見ていると、男たちは殴り合いをする時、ガードをまったくせずにお互いが順番に殴り合っています。一発殴らせてはニヤリと笑い、自分が殴る。その繰り返したケンカの基本であり、ボクシングもまったく同じく順番に殴りあうだけの単純素朴な力比べのようなものでした。しかし、それでは試合をせずとも、単に力が強く頑丈な身体を持つ方が勝つことになり面白くもなんともありません。
 その試合、コーベットはサリバンの周りを動き回りながらパンチを打ち込みますが、当初はまったく効き目がありませんでした。かといって、サリバンが追うとコーベットが逃げるという試合展開が続いており、いつしか試合は20ラウンドを超えていました。
 敵を追うという戦法をとらず、殴ることしか練習していなかったサリバンは、しだいにスタミナを失い、しだいにコーベットの手数に圧倒されるようになります。そして、コーベットによってメッタ打ちにされ、KO負けをしてしまいました。残念ながら勝利者であるはずのコーベットは卑怯者と非難されてしまいますが、ここからボクシングの歴史は変ることになります。
 その後、1910年代から1920年代にかけて「ゲットーの魔術師」と呼ばれたユダヤ人ボクサーのベニー・レナードが「コンビネーション・ブロー」を発展させ、ボクシングに新しいスタイルを持ち込みました。異なるパンチを組み合わせて、連打で相手を倒す戦法は、このころ生まれたものです。

<アメリカにて>
 英国で生まれたボクシングは、その後、アメリカに渡り、プロスポーツとして大きな発展をすることになります。しかし、ボクシングはサッカーに比べると誕生当初から「賭博」との関係が深く、暗黒街と密接な関わりがあるスポーツでもありました。そのため、アメリカでは1920年代禁酒法時代にボクシングも禁じられていたことがあります。しかし、アルコールと同様、禁じられることでボクシングの人気はさらに高まり、闘いの場は地下深くへと潜ることになりました。

 ボクシングが、ニューヨークで公式に禁じられていた1920年代、ボクサーたちは、もぐり酒場に似たプライベート・クラブで闘った。まったく何の監視もなかった。バッド・シェルバーグの書くところによると、ボクシングが非合法だった年月の間、現実には、現在よりも多くの試合が、ニューヨーク市で、行われていたという。各区が独自のクラブを持ち、試合は、毎晩行われ、あらゆるウェイト、年齢、経験、能力を持つボクサーの体は、身元を示すものなしで、川に捨てられたらしい。

 たとえボクシングが法律的に禁止されても、その人気がおとろえることはなく、観客は話題の試合を見るために遠くまで足を運ぶことをいといませんでした。テレビもインターネットもない時代、人々は偉大なチャンピオンたちの神聖な儀式に参列するためだけに試合が見える見えないに関係なく、その地に向かったといえそうです。

 1896年ロバート・フィッツモンズvsピーター・マーハーのヘビー級タイトルマッチ。当時アメリカ国内全体でボクシングは禁止されていたため、その試合はエルパソから400マイルはなれたリオグランデ川の砂州で行われた。デンプシーとフィルポのタイトルマッチの観客は8万5千人。デンプシーvsタニー戦二試合には、10万人以上が集まったという。試合が見えなくても人々は満足した。

 しかし、アメリカにおいてボクシングがさらなる発展をとげ、その人気が海外にまで広まるためには、黒人のチャンピオンが登場して、そのレベルが急激にアップする必要がありました。実は、1902年から1932年の期間、ボクシングにはニグロのへビー級チャンピオンが存在していました。そして、白人のチャンピオンたち(ジョン・L・サリバン、ジェームス・F・ジェフリーズ、ジャック・デンプシーら)は、その間、黒人のチャンピオンと闘うことを拒否し続けていました。
 従って、ジャック・ジョンソンが黒人初の世界チャンピオンになった後も、1930年代以降まで白人と黒人との間には、はっきりと壁が存在していたといえます。彼が「白い希望」ジム・ジェフリーズを倒すと、全国で暴動が起き、黒人たちにリンチが行われたといいます。ここからは、そんな黒人ボクサーたちの苦難の歴史を振り返ります。

<黒人ボクサーの登場>(2013年11月追記)
 アメリカにおけるボクシングは、プランテーションの奴隷主たちが自分が所有する奴隷たちを戦わせるローマにおける「拳闘士」のような見世物として発展した部分もありました。当然、そこで戦わされたのは黒人の奴隷たちでした。当然、その試合は黒人同士で行われたため、白人と黒人奴隷が戦うことはなく、黒人ボクサーと白人ボクサーを戦わせようという発想もなかったといえます。
 しかし、ボクシングがスポーツとして認められるようになると、黒人ボクサーが白人ボクサーに挑戦するチャンスも生まれることになるのは必然でした。もちろん、そこには人種の壁という大きな障害があったため、黒人ボクサーが人種の壁に挑むことが可能になったのはアメリカではなく差別意識の少ないヨーロッパ、そしてもう一つの新世界オーストラリアにおいてでした。

<トム・モリノー>(2013年11月追記)
 黒人ボクサーの歴史において、「伝説のボクサー」といわれる存在、トム・モリノーは、1784年にバージニア州の奴隷に生まれました。彼の父親も兄弟もみな拳闘士という格闘技一家に育ちました。
 1892年25歳になった彼はボクシングの試合で稼いだ賞金で自由を買い取ります。そして、ボクシングでもっと稼げる場所といわれていたヨーロッパを目指し、ニューヨーク経由でロンドンに渡ります。当時、プロボクシングの中心地はイギリスのロンドンで、そこで彼はさらなる成功を求め、専属コーチとともに世界チャンピオンへの挑戦を目指します。彼のコーチとなったのは、やはり彼と同じように奴隷出身で自由を得てイギリスに渡ってきたビル・リッチモンドという黒人コーチでした。彼の元でボクサーとしての再スタートを切った彼はかつて彼のコーチ、リッチモンドを破った白人の元世界チャンピオン、トム・クリッブに挑戦します。しかし、この試合は明らかなレフェリーの不正のせいで敗北してしまいます。ヨーロッパでもやはり黒人選手への差別は存在したことを思い知らされた彼は、1815年にまだ31歳の若さで引退。その後はアルコール中毒となり、まだ34歳という若さで肝不全によりこの世を去りました。

<ピーター・ジャクソン>(2013年11月追記)
 ピーター・ジャクソンは黒人ボクサーとして初めて世界チャンピオンに迫ったボクサーとして知られています。彼が生まれたのは、1861年バージン諸島の中のデンマーク領セント・クロイという小さな島でした。幸いなことに自由黒人として生まれた彼は、小学校を卒業後、船乗りとなり、1880年にオーストラリアに移住し、そこで市民権を獲得しました。1882年、彼はその才能を認められて、オーストラリア在住の有名なボクサー、ラリー・フォーリーの指導を受けるようになり、1886年にはオーストラリアのヘビー級チャンピオンの座につきました。そして、当時の世界ヘビー級チャンピオン、ジョン・L・サリバンに挑戦を申し込みました。ところが、サリバンのマネージャー、ウィリアム・マルドーンは黒人ボクサーにもし負ければ、サリバンの栄光に泥を塗ることになってしまうと考え、タイトルマッチを拒否。
 結局、彼は世界タイトルに挑戦できないままボクサーとしてのピークを迎えてしまいます。1898年、彼は後に無敗のチャンピオンとして有名になる白人のジェームス・F・ジェフリーズに3ラウンドKO負けをきっしてしまいます。そこで彼の世界への夢は完全に断たれたといえました。
 彼もまた晩年は肺炎や坐骨神経痛などに苦しみ、40歳という若さでこの世を去っています。

<ジャック・ジョンソン>(2013年11月追記)
 名作が多いボクシングを題材とした映画の中でも名作中の名作といわれる「ボクサー」(監督はマーチン・リット)でジェームス・アール・ジョーンズ(「スター・ウォーズ」のダース・ベイダーの声)が演じたのが、「ガルベストンの巨人」と呼ばれた黒人初の世界ヘビー級チャンピオン、ジャック・ジョンソンです。
 彼がテキサス州のガルベストンに生まれたのは1878年、6人兄弟の2番目でした。両親はともに元奴隷で、父親は学校の清掃員として働いていましたが、暮らしは厳しかったようです。そのため、喧嘩が強かった彼は、早くから黒人少年たちを集めてリング上で最後の一人になるまで戦わせるバトルロイヤルに出場しては賞金を稼いでいました。
 1903年、本格的にボクサーとして活躍し始めた彼は25歳の時、デンバー・E・マーティンを破って黒人ボクシング界のヘビー級王者となりました。そして、1908年ついに当時の世界ヘビー級チャンピオン、トミー・バーンズを14ラウンドKOで文句なしに倒し、黒人初の世界チャンピオンの座につきました。しかし、バーンズが人種差別が少ないカナダの選手でなければ、さらにタイトルマッチの試合会場がオーストラリアでなければ、彼はチャンピオンに挑戦することすらできなかったかもしれません。当然、アメリカの白人大衆のほとんどは彼が世界チャンピオンであることを認めていませんでした。
 ジャック・ジョンソンの強さは本物で彼を倒せる挑戦者は見当たりませんでした。そこでジャック・ジョンソンを倒すために白羽の矢が立てられたのが、かつてピーター・ジャクソンを倒し、その後世界ヘビー級チャンピオンとなり無敗のまま引退した伝説のボクサー、ジェームス・F・ジェフリーズでした。(といっても、彼もまた黒人選手との試合を拒否し続け白人選手としかタイトルマッチを行いませんでした)
 「偉大なる白人の希望」と呼ばれたジェフリーズとの試合は、1910年7月4日(独立記念日)にネバダ州リノで行われ、ジャックは見事にグレート・ホワイト・ホープを15ラウンドTKOで勝利をおさめ、ジェフリーズを今度こそ引退させてしまいます。その試合だけでも、彼は白人のボクシング・ファンに憎まれてもしかたがなかったのですが、彼の憎まれる理由はそれだけではありませんでした。
 彼が白人たちから憎まれた最大の理由は、人種差別に対して常に戦いを挑むかのような生き方をリングの外でも繰り広げたことです。特に有名なのは、彼が公然と白人女性と付き合い、そのうち3人と結婚し、自分は男として白人より優れていると公言していたことです。それは白人大衆を挑発しているかのような生き方でした。そんな生き方が認められるほど、アメリカはまだ寛大に国ではありませんでした。
 1912年、彼はマン法違反の罪で逮捕され有罪判決を受けます。マン法とは州境を越えて売春目的の女性を移動させることを禁じる法律です。(のちにあのチャック・ベリーもこの法律によって逮捕されることになります)これは当時、彼が付き合っていた白人女性が過去に売春で逮捕されたことがあることを利用した警察による不当逮捕だったといえます。このままでは2度とリングに上がれずタイトルを失ってしまうと判断した彼は保釈中に国外へと逃亡します。
 1915年、彼はキューバのハバナで白人ボクサー、ジェス・ウィラードの挑戦を受けますが、敗北を喫し、タイトルを失ってしまいました。その後、彼はアメリカに帰国して服役、刑期を終えて現役に復帰しますが、もはや過去の栄光を取り戻すことはできず、68歳の時、交通事故でこの世を去りました。

<ジョー・ルイス>(2013年11月追記)
 ジョー・ルイスは、1914年にアラバマ州の貧しい農家に生まれています。父親が精神病の施設に入院したため、母親に育てられた彼は、1926年、KKKによる脅迫を受けて新しい父親らとともに北部ミシガン州デトロイトへと移住しました。子供の頃、母親は彼を音楽家にしようとバイオリンを習わせました。しかし、彼はバイオリン・ケースにボクシングのグローブを隠し、公共のレクリエーション施設に通いそこでボクシングを習いました。
 1934年にセントルイスで開催された全国アマチュア・ボクシング大会で優勝。アマチュア時代の成績は50勝4敗43KO。圧倒的な成績を残して、プロに転向。3年後の1937年、白人の世界ヘビー級世界チャンピオン、ジェームズ・ブラドックに挑戦。見事8ラウンドにKO勝しジャック・ジョンソン以来の黒人チャンピオンとなりました。この後、彼は25連続でタイトルを防衛。ヘビー級史上最長の記録を打ち立てました。
 ジャック・ジョンソンと異なり彼は多くの白人ボクシング・ファンにも愛されるボクサーとなりました。それは彼が白人、黒人人種の壁を越えたアメリカを代表する存在になっていたからです。彼はアマチュア時代には、ベルリン・オリンピックに出場し金メダルを獲得。陸上競技における黒人のジョー・ルイスとならぶ英雄となりました。さらに世界チャンピオンになる前、1935年に彼は元世界ヘビー級チャンピオンでイタリア人のプリモ・カルネラに勝っています。さらに1936年にはドイツ人の元世界ヘビー級チャンピオン、マックス・シュメリングにも勝っています。二人はいずれも当時アメリカと戦闘状態に入る直前だったファシズム国家の代表選手でもあり、その二人に勝ったことで一躍彼はアメリカを代表する英雄となったわけです。

<ルール変更の歴史>
 ボクシングの歴史はルール変更の歴史でもありました。
 実は、1892年から1915年までの間、ボクシングにはラウンド制限というものがありませんでした。そのため、1893年には110ラウンドにおよび7時間を越えるという信じられないような試合もあったといいます!
 伝説的なジャック・ジョンソンとウィラードのタイトルマッチは26ラウンドにジャック・ジョンソンが倒れて決着がつきましたが、その試合が45ラウンド制最後の試合となりました。15ラウンド制から現在の12ラウンド制への以降は、1982年にレイ・マンシーニがダック・クー・キムを倒し、あの世に送ったことがきっかけでした。かつて、ボクシングは終わりなき究極のデス・マッチだったのです。
 こうしたボクシングのルール変更の多くは、このスポーツについての危険性が問われる事件が起きたことがきっかけとなって行われてきました。(ある研究では、ボクサーの87%が、その戦歴にかかわらず、生存中、なんらかの脳障害に苦しむといわれています)
 こうした危険性と前述の犯罪組織との関わりから、ボクシング廃止論は常に存在してきました。しかし、現時点ではそれが実施される可能性はほとんどなくなりました。なぜなら、ボクシングのように巨額のマネーを生み出すエンターテイメントなら、アメリカが開催を拒否しても、他のどの国ででも開催することが可能だからです。(メキシコ、ザイール、中国、中東、北朝鮮・・・どこででも)
 さらにいうなら。「サッカー」と同様、貧しい若者たちに生きる目標を与えるためにもボクシングはなくてはならない、そう考えるのが世界的な常識となっているからです。(ジェイク・ラモッタ、ロッキー・マルシアノ、フロイド・パターソン、ソニー・リストン、ヘクター・カマチョ、マイク・タイソン、その他、多くのボクサーは刑務所、少年院でボクシングと出会いました)

 実のはなし、ボクシングを廃止しないための理由としてよく言われるのは、それがつまるところ、主に黒人やラテンアメリカ系の恵まれない若者たちの怒りの捌け口になる、ということだ。彼らは、社会と戦うかわりに、お互いどうしで闘うことによって、自分で生きて行けるようになるのである。

「黒人でいるっていうのは、シンドイぜ。あんた、黒人だったことがあるかい?
 俺はある - 昔、金がなかった頃の話だ。」
ラリー・ホームズ(元WBC世界ヘビー級チャンピオン)

 もうひとつ重要だと思えるのは、ボクシングというプロスポーツの人気の高まりと時代の変化との関わりです。多くのボクサーの中から神に選ばれたがごとく、たった一人のチャンピオンが誕生し、栄光と富を手にする。そんなスター・システムは、アメリカという夢の国が経済発展し、資本主義社会が成熟しつつ貧富の差が増す中で生み出されたともいえます。(ハリウッドが映画の黄金時代を迎えた時期とボクシングの黄金時代は重なっています)

・・・1920年代における、ボクシングのめざましい興隆は、社会に対する個の矮小化の結果と考えられる。個人の自由、意志、強さ - 確かに「男らしさ」ではある、しかし、それだけではない - が、次第に減少していった結果なのだ。
 フランスの哲学者アラン・フィンケルクロートは、テクノロジーとメディアによる全体主義的な支配を称して「アメリカ化」と呼んだ。

<階級と団体の増加>
 ボクシングの階級は誕生からしばらく無差別で行われていました。しかし、体重が重い方が有利なのは明らかだったので、そこに階級分けが導入されます。先ずはじめに、「ヘビー級」と「ライト級」が誕生。その間に「ミドル級」ができ、さらに「ライトヘビー級」、「ウェルター級」、「フェザー級」、「バンタム級」ができ、1916年に「フライ級」ができて8階級制が確立されました。ここから50年ほど、この8階級制が続きますが、その後はそれぞれの間に「ジュニア」ができ、それが「スーパー」と改められて21世紀に入りました。(「ジュニア」を「スーパー」に変えたのは、その方が聞こえが良いから)
 なぜ、こんなに階級が増えたのか?それは単純にチャンピオンを増やせば、それだけタイトルマッチを行うことができ、観客を増やすことができるからということです。
「ミニマム」「ライトフライ」「フライ」「スーパーフライ」「バンタム」「スーパーバンタム」「フェザー」「スーパーフェザー」「ライト」「スーパーライト」「ウェルター」「スーパーウェルター」「ミドル」「スーパーミドル」「ライトヘビー」「クルーザー」「ヘビー」なんと17階級に増えました。そのうえ、ボクシング団体もそれぞれ利益をより多く得たいと考えるグループが組織を立ち上げたために4つも存在しています。それぞれがチャンピオンを認定するとなんと68人もの世界チャンピオンがいることになります。
 かつて8階級時代に世界チャンピオンだったボクサーの価値は、今より遥かに高いわけです。

<伝説の英雄たち>
 さて、このへんで伝説的なボクサーたちを何人かご紹介しましょう。ちなみに、モハメド・アリ(カシアス・クレイ)については、すでに特集ページがあるので、そちらをご覧ください。
 クリス・ミード作の伝記本「チャンピオン」でも有名な黒人ヘビー級チャンピオン「褐色の爆撃機」ことジョー・ルイスについての逸話から始めます。

<ジョー・ルイス>
「かなり前のことだが、南部の一州が、新しい死刑方法を採用した。毒ガスが絞首台にとってかわったのだ。その初期の段階では、密閉されたガス室の中に、マイクが設置してあり、科学者たちが、死にゆく囚人の言葉を聞けるようになっていた・・・最初の犠牲者は、若いニグロだった。薬品が滴り落ち、ガスが上へとわきあがりはじめると、マイクを伝って、こう言うのが聞こえてきた。『助けてくれ、ジョー・ルイス、俺を助けてくれ、ジョー・ルイス・・・』」
「チャンピオン - ジョー・ルイスの生涯」クリス・ミード著より

 アメリカの黒人たちにとって、モハメド・アリ以前最大の英雄といえば、ジョー・ルイスでした。その波乱の人生は名著「チャンピオン」に詳しく書かれています。多くの白人ボクサーを倒し、人種差別が当たり前だった時代に白人層の憎しみを一身に受けながら闘い続けた彼のボクシング・スタイルは、そうした周りの状況を頭の中から消し去った時に生まれたといわれています。

「ジョー・ルイスは、マックス・シュメリングとの初めての試合で、ひどい脳震とうを起こしたあとの数ラウンドを意識不明のまま闘ったと言われている - 彼の美しい整えられた肉体は、教えこまれた動きを機械じかけのように行った。(そして、この負け試合の間に、ルイスの並はずれた耐久力、つまり、偉大なボクシングの才能が、姿を現したのである。)」

 モハメド・アリ以前の黒人ボクサーにとって、人種差別との闘いは単なる心理的プレッシャーではなく、実際に命に関わる危険を伴う問題でした。そのため、彼らの多くは白人からの怒りを受けないよう、そうした差別に対する自分自身の怒りを表に出すことなく無表情もまま闘うのが普通でした。アリの「ビッグ・マウス」などは、絶対にありえないことでした。

「ルイスは、リングの外では、慎み深くおとなしい男だったが、リングの中では、一種の殴打マシンだった - (見た目には)まったく感情を表さなかったので、スパーリング・パートナーさえも、脅えたほどだ。一人は言った。
『彼の目だ。うつろで、じっと見つめている。いつも、こっちを見ているんだ。あのうつろな視線 - それに倒されるんだ』」

 彼はそうやって無表情を貫くことで白人ボクサーを倒し続けました。しかし、そうした闘いは彼の心にいつしかストレスをため込ませ、最後に彼の精神をおかしくさせることになります。

<ジャック・デンプシー>
 「マナッサの殺人鬼」と呼ばれたジャック・デンプシーは、少年時代、アメリカ各地を放浪しながら、そこでレフリーなしの賭けのボクシングに出場しながら、お金を稼ぎ、そこから世界チャンピオンまでのしあがっていった西部劇と「ロッキー」を合体させたような伝説的存在です。
 彼はコロラドの貧しいモルモン教の一家に11人兄弟の9番目として生まれました。父親は小作農と鉄道での季節労働で家族を育てていました。彼は少年時代にいち早く家を出て鉱山などで働いた後、より多くのお金を稼げる賭けボクシングの世界に足を踏み入れます。
 1919年、当時のチャンピオン、ジェス・ウィラードに挑戦した彼は、チャンピオンの6本の歯を折り、さらに顎の骨を砕き、頬骨にひびを入れ、鼻をつぶし、圧倒的な勝利を収めました。この時、彼はすでに24歳になっていました。
 多くのボクサーは、たとえチャンピオンとして栄光を手にしても、その後の敗北とともに悲劇的な人生を歩むことになります。しかし、彼は世界タイトルを失った後も企業家として成功し、幸福な老後を送ることになった数少ないボクサーの一人でした。彼にとってのボクシングは、収入を得るための手段の一つだったともいえ、幸いにして彼は実業家としても一流だったようです。彼は「殺人マシーン」を引退後、レストランを経営し「集客マシーン」としてもその才能を発揮することになったのです。

<フロイド・パターソン>
 フロイド・パターソンは、非暴力的な人間で、対戦相手が、マウスピースをキャンバスから拾い上げるのを助けたこともあった。
「俺は血を見るのが嫌いなんだ。自分が血を流すのは別の話さ。気にはならない。だって、俺には見えないんだから」と、パターソンは説明している。

<ロッキー・マルシアノ>
 すべてのボクサーの中で、最も修道士のようにトレーニングに身を捧げたのは、ロッキー・マルシアノのようです(彼は、現在でも、不敗を誇る唯一のヘビー級チャンピオンです)。
 彼は試合が近づくと3ヵ月に渡り、妻や家族たちからも離れて、修道僧のようなトレーニング・キャンプを行いました。この期間中、数少ない関係者たちは彼の前で対戦相手の名前どころか、ボクシングについて論じることすら禁じられていたといいます。
 残り一ヶ月になると彼は手紙を書くこともやめ(もちろん電話など論外です)、残り10日の時点では手紙も読まず、かかってきた電話にもでず、関係者以外の誰とも会いませんでした。さらに最後の一週間では握手せず、車にも乗らず、夢を見ることすら自分に禁じていたといいます。

 つまり、あまりにも多くの自己修練が要求され、技術が関与するようになり、そして、自分がもともと持っていた動機の他に、あまりにも多くのことに集中しなければならないので、そのもともとの動機は、少なくとも、ぼんやりとぼやけてしまい、たいていは、忘れ去られるか、完全に失われてしまう。多くの優秀な、そして経験のあるボクサーたちは、優しくて、親切な人間になる・・・。
 彼らは、自分の闘いすべてを、リング上に置いてくる習慣を持つ。

<ジェイク・ラモッタ>
 マーチン・スコセッシ監督の代表作の一つ「レイジング・ブル」で有名になったイタリア系の世界ミドル級チャンピオン、ジェイク・ラモッタの場合は、また特別です。彼にとってのボクシングは、自らに罰を与えるための儀式ともいえる存在だったからです。
 1949年から1951年にかけてミドル級の世界チャンピオンだったジェイク・ラモッタは、少年時代に強盗事件で逮捕され少年院に入れられていました。彼はそこでボクシングを知り、出所後はボクサーとして成功します。しかし、彼はかつて逮捕された事件の際、自分は殺人を犯したと思っていました。実は、相手は死んでいなかったのですが、そう思い込んでいた彼は誰にもそのことを告げず、一人「殺人」の罪に苦しんでいました。11年間罪に苦しみながら、自分を罰するために彼は相手のパンチを浴び続けたのです。

「俺は、誰とでも闘っただろう。相手が誰でもかまわなかった。ジョー・ルイスと闘いたいとさえ思った。どうでもよかったのだ・・・だが、だからこそ、俺は勝った。だからこそ、俺は、対戦相手たちが、それまで目にしたこともない攻撃性を持てたのだ。彼らは、俺を殴った。だが、俺は、殴られてもかまわなかった」

 後に、彼は自分が殺したはずの男が生きていることを知ります。当然、その後彼の闘うためのモチベーションは失われてしまい、チャンピオンの座を明け渡すことになります。それでも、彼は救われたことになるのですが・・・。
 こうして、彼は黄金時代を自ら終わらせることになりました。でも、ある意味、それをファンたちは持ち望んでもいました。ロッキー・マルシアノのように不敗のまま引退することをファンは喜んではいないはずです。ボクシングファンが求めるのは、「勝利」と同時に「敗北」の瞬間だからです。

「偉大なボクシングの試合は、人をうっとりさせるほど優雅で美しい。けれども、誰もが待ち望んでいるのは、その破局的な終わりなのだ。」

 その意味でも、マーティン・スコセッシ監督が描いたジェイク・ラモッタの試合の美しさは最高だったと思います。(映画「レイジング・ブル」)

<勇利アルバチャコフ>
 日本のジムに所属し、世界フライ級チャンピオンの座についたロシア人勇利アルバチャコフの強さは当時圧倒的でした。まるでロボットのような正確なパンチと強靭な肉体をもつ彼は、まるでロボットのような戦いだという声に対し、こんなことを言ったといいます。彼が強さだけでなく、哲学者のようなクレバーさをもつ存在だったことがよくわかります。
「ロボットは完璧にはなれない。人間だからこそ、完璧になることができるんだ。なぜなら、人間には理想を求める意志がある。憧れを抱くべき対象がある。しかし、ロボットにはそれがあるだろうか。・・・」

<マイク・タイソン>
 20世紀のボクシング界最後のカリスマ・ヒーロー、マイク・タイソンの登場は、ボクシングをそれまでのボクシングとは異なる新種の格闘技の一つにしてしまいました。それは、ボクシングのもつ「残虐性」「アメリカン・ドリーム性」「人種間闘争性」などの特性をまるで漫画の世界のように極端に拡張見せることになりました。
「ある観戦者が指摘しているように、タイソンの試合のなかには、なにか、コミックブック的なところがある - 暴力性が誇張されすぎているがゆえに、非現実的に見えてしまうのだ。」

 タイソンの存在自体がまるで格闘ゲームのキャラクターのようで、やることなすことすべてが現実離れしているです。それは、「ゲーム時代のボクシング」なのかもしれません。
「オレは、傷つけられることを拒否する。オレは、打ち倒されることを拒否する。オレは、負けることを拒否する - オレは、殺され、リングから運び出されるかもしれない。だが、オレは、傷つけられはしない」
マイク・タイソン
 残念ながら、彼はこんな言葉を残しつつ、自らの手で選手生命を縮め、自らのの名誉を傷だらけにしてゆくことになります。やはり彼のような存在が現実世界でリアリティーを保ち続けることは不可能でした。彼の選手生命にリセット・ボタンはなかったのです。
 マイク・タイソンの登場と退場により、20世紀にその黄金時代を迎えたボクシングの時代は終わりを迎えてしまったのかもしれません。しかし、人類に平和が訪れない限り、究極のスポーツであるボクシングの存在は永遠に続き、どんな亜流の格闘技にもその凄さを越えることはできないのではないか?そう思います。

<黒人ボクサー時代の終焉?>(2013年11月追記)
 ボクシングの世界では軽量級こそ、早くからアジアや中南米の選手が活躍していましたが、ミドル級より重いクラスでは黒人選手が常にチャンピオンの座をしめていました。特にヘビー級では、戦後ほとんどの期間はアメリカの黒人選手が独占を続けていました。
 1990年以降、ボクシング団体がWBO、WBA、WBC、IBFと四つに増えてもまだそのタイトルは、ほぼすべてアメリカの黒人選手がしめていました。ところが、21世紀に入り、そんなボクシング界の勢力分布に少しずつ変化が起き始めます。マイク・タイソン以降、黒人ボクサーのスーパースターがいなくなり、チャンピオンも減り始めたのです。
 2011年10月それぞれのヘビー級タイトル・ホルダーは、ウラジミール・クリチコ(ウクライナ)、ビタ・クリチコ(ウクライナ)、スルタン・イブラギモフ(ロシア)、サミュエル・ピーター(ナイジェリア)、クリス・バード(アメリカ)、デヴィッド・ヘイ(イギリス)となっていて、3人が白人、残り3人の黒人も一人はアフリカ、一人はヨーロッパでアメリカの黒人はたった一人になってしまいました。
 ボクシングだけでなくK-1など格闘技全体にいえるのは、スピードや瞬発力に優れていても、パワーや体格的に上回る選手の方がやはり優位だということです。こうして、ボクシングの重量級においては東欧やオランダなどの白い巨人たちが黒人選手と五分以上にわたりあえる存在になりました。今やボクシング界におけるアメリカ人黒人チャンピオンは、珍しくなりつつあります。これは、アメリカにおける黒人の地位が向上したからなのか、それとも、ボクシングよりも稼げるバスケやアメフトへと移動していっただけなのか?誰もが憧れるスターがいなくなったせいなのか?
 少なくとも僕は、黒人選手のパワーだけではないダンスを踊るようなスピードとリズム感のある美しいボクシングが大好きです。ただ重いだけのパンチで相手を倒すだけのボクシングは、エンターテイメントとして許せないと思っています。モハメド・アリやシュガー・レイ・レナードのボクシングを見たことのある人なら、そう思うのではないのでしょうか?

<追記:ボクシング映画に駄作なし!>
 ボクシングの栄光と敗北の美学を映し出した数々の映画は、その多くが名作と呼べる作品ばかりです。ここでは、僕がお勧めできる範囲でボクシングに関する映画、もしくはボクシングの名シーンが登場する作品をご紹介しておきます。ボクシングというスポーツが「究極の格闘技」だけに、これらの映画はいつまでも古くならずにすむかもしれません。
「ALI アリ」(2001年)(モハメド・アリの伝記映画)(監)(脚)マイケル・マン(出)ウィル・スミス、ジョン・ヴォイト、ジェイミー・フォックス
「傷だらけの栄光」(1956年)(ロッキー・グラジアノの自伝をもとにした作品)(監)ロバート・ワイズ(出)ポール・ニューマン、サル・ミネオ
「キッズ・リターン」(1996年)(青春ドラマであり、ボクシング映画の傑作でもあります)(監)(脚)北野武(出)金子賢、安藤政信、石橋凌、森本レオ
「静かなる男」(1952年)(人生ドラマですがボクシング・シーンが有名な作品)(監)ジョン・フォード(出)ジョン・ウェイン、モーリン・オハラ
「シンデレラマン」(2005年)(実在のボクサー、ジェームズ・J・ブラドックの物語、リアリズムに徹した貧困との戦いの映画でもあります)
(監)ロン・ハワード(出)ラッセル・クロウ、レニー・ゼルウィガー
「ストリート・ファイター」(1975年)(ストリート・ファイトを描いた異色作)(監)(脚)ウォルター・ヒル(出)チャールズ・ブロンソン、ジェームス・コバーン、ジル・アイアランド
「チャンピオン」(1949年)(監)マーク・ロブソン(脚)カール・フォアマン(出)カーク・ダグラス、ルース・ローマン
「チャンプ」(1979年)(1931年に製作された同名映画のリメイク)(監)フランコ・ゼフィレッリ(脚)ウォルター・ニューマン(出)ジョン・ヴォイト、リッキー・シュローダー
「鉄腕ジム」(1942年)(世界初のヘビー級チャンピオン、ジム・コーベット物語)(監)ラオール・ウォルシュ(出)エロール・フリン
「どついたるねん」(1989年)(赤井英和の自伝をもとにした映画、赤井選手もいいボクサーでした!)
(監)(脚)阪本順治(出)赤井英和、相楽晴子、麿赤児、原田芳雄
「殴られる男」(1956年)(監)マーク・ロブソン(脚)フィリップ・ヨーダン(出)ハンフリー・ボガート、ロッド・スタイガー
「ザ・ハリケーン」(1999年)(ルービン”ハリケーン”カーターをモデルとする冤罪実録映画)(監)ディック・ローリー(出)デンゼル・ワシントン
「ボクサー」(1970年)(黒人初の世界チャンピオン、ジャック・ジョンソンの物語)(監)マーティン・リット(出)ジェームス・アール・ジョーンズ、ジェーン・アレキサンダー
「ボクサー」(1977年)(青春映画であり、本格派ボクシング映画)(監)(脚)寺山修司(脚)石森史郎(出)菅原文太、清水健太郎
「ボディ・アンド・ソウル」(1947年)(監)ロバート・ロッセン(脚)エイブラハム・ポロンスキー(出)ジョン・ガーフィールド、リリー・パルマー
「街の灯」(1931年)(ボクシング映画ではありませんが、伝説的なボクシング・ファイトは爆笑間違いなし!)(監)(脚)(出)チャールズ・チャップリン
「ミリオン・ダラー・ベイビー」(2004年)(後半は究極の人間ドラマとなるイーストウッド入魂の作品)
(監)(出)クリント・イーストウッド(脚)(製)ポール・ハギス(出)ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマン
「レイジング・ブル」(1980年)(伝説的ミドル級世界チャンピオン、ジェイク・ラモッタの自伝をもとにした作品)
(監)マーティン・スコセッシ(脚)ポール・シュレーダー(出)ロバート・デニーロ、ジョー・ペシ
「ロッキー」(1976年)(続編はボクシング映画ではなくなってゆきますが、第一作は確かに本格ボクシング映画でした)
(監)ジョン・G・アビルドセン(脚)(出)シルベスター・スタローン(出)バージェス・メレディス、タリア・シャイア、バート・ヤング
「ザ・ファイター」(2010年)(監)デヴィッド・O・ラッセル(脚)スコット・シルバー、ポール・タマシー(出)マーク・ウォルバーグ、クリスチャン・ベイル

<最後に>
 予想以上に盛り上がりをみせたロンドン・オリンピック。その中心は、サッカー、レスリング、体操、水泳あたりでしたが、僕としてはボクシングにも注目をしていました。特に大会前から金メダルの有力候補とされていたミドル級の村田選手の試合には驚かされました。
 1ラウンドは、相手の出方を見てポイントを与えるものの、2ラウンドにはボディへのプレッシャーにより、ポイント差をつめ、3ラウンドに一気に相手を圧倒して逆転する。これぞアマチュア・ボクシングの必勝パターンといった感じの試合運びにはすでに王者の風格を感じてしまいました。
 レスリングもそうでしたが、格闘技は常に強い方が勝ち、そこには番狂わせはほとんど起こる余地はほとんど残されていないのかもしれません。(サッカーなどの球技では、しばしば奇跡が起きるものです)

<おまけに:ニックネームの数々>
 ボクサーのニックネームって実に味がありました。(そういえば、プロレスラーにも同じように素晴らしいニックネームがありました)
ジャック・デンプシー「マナッサの殺人鬼」、ハリー・グレッブ「人間風車」、ジョー・ルイス「褐色の爆撃機」、ロッキー・マルシアノ「ブロックトンの高性能爆弾」
ジェイク・ラモッタ「ブロンクスの雄牛」、トミー・「ハリケーン」ジャクソン、ロベルト・デュラン「石の拳」と「小さな殺人者」、レイ「ブンブン」マンシーニ
トーマス・「ヒットマン」ハーンズ、アル「アースクェーク」カーター、「テリブル」ティム・ウィザースプーン、ロニー「ライトニング」スミス
リヴィングストン「ピットブル闘牛」ブランブル、ヘクター「マッチョマン」カマチョ、「マーヴェラス恐るべき」マーヴィン・ハグラー

<その他のボクシングについてのページ>

ボクシングに関する名言集

モハメド・アリ 白井義男&カーン博士 矢尾板貞雄、三迫、米倉、関など ファイティング原田、海老原博幸、青木勝利

<参考>
「オン・ボクシング On Boxing」 1987年
(著)ジョイス・キャロル・オーツ Joyce Carol Oates
(訳)北代美和子
中央公論社

「『黄金のバンタム』を破った男」 2010年
(著)百田尚樹
PHP文芸文庫

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3

カラーライン





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カラーライン(英: colour line)とは、かつてボクシングに存在した、チャンピオン(主として白人)が黒人との対戦を拒否できる制度で、人種差別制度の一種である。

カラーラインの使用例を見るに、白人が黒人を嫌悪していたというよりも、黒人の実力を恐れ、黒人王者が誕生して白人の権威が脅かされるのを恐れたのが誕生した理由であるといえる。

歴史[編集]

カラーラインを最初に用いたのは、ボクシング初代世界ヘビー級王者のジョン・L・サリバンだった。サリバンは、西インド諸島出身の黒人ボクサーだったピーター・ジャクソンの実力を恐れ、対戦を拒否するためにカラーラインを使った。

第4代世界ヘビー級王者のジェームス・J・ジェフリーズは、王座在位中はカラーラインを用いて黒人とのタイトルマッチを拒否した。(ただし在位中も、タイトルに無関係な変則試合では黒人の実力者ハンク・グリフィンと対戦している。)

第7代世界ヘビー級王者で、黒人であるジャック・ジョンソンがマン法で逮捕され、パリに逃亡すると、1913年1月1日にアメリカのプロモーターは勝手に新たに世界ヘビー級タイトルマッチを行い、白人同士で世界王者決定戦をやらせた。もちろん、この世界戦は正規の世界戦として認められておらず、現在は、この試合で勝ったルーサー・マカーティは王者として認められていない。こうして妙な世界ヘビー級王者になったルーサー・マカーティはカラーラインを宣言し、黒人との試合を拒んだ。なお、マカーティは世界王座防衛戦直前に落馬し、首の骨を折って試合中に倒れた。そしてその直後に急逝した。こうした出来事の原因には、強さの象徴である世界王座をどうしても白人の手に戻したかった背景があった。

なお、カラーラインに忸怩たる思いを味わったはずのジャック・ジョンソン自身、皮肉にも王座奪取後は黒人実力者(サム・ラングフォードなど)との対戦を拒み、実質的にカラーラインを引いたことがある。当時黒人ボクサー同士のタイトルマッチでは、興行的に訴求力を持たなかったことが原因とされる[1]が、黒人コミュニティからは失望の声があがった。なかでも黒人強豪ジョー・ジャネット(1909年に黒人ヘビー級王座奪取)の憤りは激しく、「世界チャンピオンになって、ジャックは旧友を忘れてしまった。彼は同胞に対してカラーラインを引いた」と非難した[2]。王者ジャックは1913年にようやく在位中唯一の黒人ボクサーとの防衛戦に臨んだが、相手は黒人ヘビー級王座獲得経験者ではなく、この時点でラングフォードに1戦1敗、ジャネットに4戦全敗のジム・ジョンソンというボクサーであった。王者ジャックはこの挑戦者を相手に、ドローで王座を防衛した。


https://books.google.co.jp/books?id=_A24DQAAQBAJ&pg=PT59&lpg=PT59&dq=%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%80%80%E3%83%9C%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0&source=bl&ots=2wV3XiCkhL&sig=MY2-k8ItqBueFycInq6tA9felJk&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwidpbjJq-fRAhVGebwKHct-DV0Q6AEISzAL#v=onepage&q=%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%80%80%E3%83%9C%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0&f=false

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3_(%E3%83%9C%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%BC)

ジャック・ジョンソン (ボクサー)





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ジャック・ジョンソン

Jack Johnson boxer.jpg

基本情報


本名
ジョン・アーサー・ジョンソン
(John Arthur Johnson)

通称
ガルベストンの巨人

階級
ヘビー級

国籍
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国

誕生日
1878年3月31日

出身地
テキサス州ガルベストン

死没日
1946年6月10日(満68歳没)

死没地
ノースカロライナ州ローリー

スタイル
オーソドックス

プロボクシング戦績


総試合数
124

勝ち
100

KO勝ち
51

敗け
14

引き分け
14

無効試合
14
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正装時のジョンソン
ジャック・ジョンソン(Jack Johnson、1878年3月31日 - 1946年6月10日)は、アメリカ合衆国のプロボクサー。テキサス州ガルベストン出身。元ボクシング世界ヘビー級王者。

「ガルベストンの巨人」のニックネームでもよく知られていた。奴隷の子供として生まれた彼は黒人としては初めての世界ヘビー級王者(1908年-1915年)となり、そのことは当時非常に大きな論争の的となった。その生涯をたどったドキュメンタリーにおいて、ケン・バーンズは、「13年以上にわたり、ジャック・ジョンソンは地球上で最も有名であると同時に、最も悪名高い黒人であった」と評した[1]。なお、ジョンソンは、カラーラインを使って黒人ボクサーの挑戦を避ける白人王者に業を煮やした黒人達によって設立された黒人ヘビー級王座を獲得した経験がある。



目次 [非表示]
1 来歴 1.1 生い立ち
1.2 プロボクサーとしての経歴
1.3 世紀の決戦
1.4 暴動とその余波
1.5 フランス滞在
1.6 王座陥落

2 個人生活 2.1 獄中期

3 後半生
4 後代への影響 4.1 ポピュラー・カルチャー

5 獲得タイトル
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク


来歴[編集]

生い立ち[編集]

ジャック・ジョンソンは、ヘンリー・ジョンソンと妻ティナの第2子にして最初の息子として、テキサス州ガルベストンで生まれた。両親は元奴隷の敬虔なメソジストであり、6人もの子供(ジョンソン夫妻には9人の子供が生まれ、成人する前に4人の子どもが亡くなったが、養子が1人いた)を養いながら読み書きを教えるために、2人とも肉体労働者として働いた。ジャック・ジョンソンは5年間正式の教育を受けた[1]。

ジョンソンが初めての試合を戦い、16ラウンドで勝利を収めたのは15歳の時であった。彼は1897年ごろにプロへ転向し、私立のクラブで戦うことにより、それまで見たこともないほどの大金を稼ぐようになった。1901年、小柄なユダヤ人のヘビー級ボクサーであったジョー・コインスキーが、ジャック・ジョンソンを訓練するためガルベストンにやってきた。コインスキーは経験豊かなボクサーであり、3ラウンドのうちにジャック・ジョンソンをノックアウトした。このとき2人は「違法試合」の咎で逮捕され、23日間刑務所に収容された(この当時ボクシングは野球や競馬と並んでアメリカでポピュラーな3大スポーツであったが、テキサスを含め多くの州において、試合は公的には違法なものであった)。コインスキは刑務所内でジャック・ジョンソンの訓練を始めたが、このときには逮捕されなかった[1]。





1909年のコインスキー(前)とジョンソン(後)
プロボクサーとしての経歴[編集]

ジョンソンのファイティング・スタイルは非常に特徴的なものだった。彼はそのころ慣習的であったスタイルよりも忍耐的なアプローチを取った。すなわち、防御的に立ち回って相手のミスを待ち、それを利用するというものである。ジョンソンは常に用心深く試合を始め、ラウンドを重ねるにつれ徐々に攻撃的なファイターになっていった。彼は対戦相手の攻撃を避けては素早いカウンターを浴びせるという攻撃を繰り返したため、相手を一撃でノックアウトするよりも執拗に打ち込むことが多かった。彼は挑みがたい印象を常に与え、勢いに乗ったときには強烈なパンチを繰り出すことができた。

ジョンソンのスタイルは非常に効果的であったが、白人の報道陣からは臆病で卑怯なものだと批判された。一方で10年前から同様のテクニックを用いていた白人の世界ヘビー級チャンピオンで、「ジェントルマン・ジム」の異名を取っていたジェームス・J・コーベットについては、白人のプレスは「ボクシング界の最も賢明な男」と賞賛していた[1]。

1902年までに、ジョンソンは対白人戦・対黒人戦合わせて50以上の試合で勝利を収めた。1903年2月3日、ジョンソンは20以上のラウンドを重ねて黒人ヘビー級王者“デンバー”エド・マーティンを破り、初のタイトルとなる黒人ヘビー級王座(当時の黒人ボクサーは黒人用のタイトルしか挑戦できなかった)を獲得した。ジョンソンは世界王座を手に入れようと試みたが、世界ヘビー級チャンピオンであったジェームス・J・ジェフリーズがカラーライン制度を利用しジョンソンとは戦おうとしなかったため、果たすことができなかった。黒人はタイトル戦以外の舞台でならば白人と対戦することができたが、アメリカにおいて世界ヘビー級チャンピオンという座は大変な栄誉であり、当時は黒人がそれを競い合うに値するなどととはまったく考えられていなかったのだ。しかし、ジョンソンは1907年に元チャンピオンのボブ・フィッシモンズと対戦する機会を得る。当時44歳のフィッシモンズには昔日の面影無く、ジョンソンはたやすく2ラウンドKOで勝利した[1]。

黒人ヘビー級王座の防衛記録を17にまで伸ばしたジョンソンは1908年12月26日にようやく世界ヘビー級のタイトルを手に入れた。カナダ人のチャンピオン、トミー・バーンズを世界中追い掛け回して公の場で罵りつづけ、オーストラリアのシドニーでの試合に持ち込んだのである。試合は20,000人を超える観客の前で、レフェリーはなんとバーンズのマネージャーが務めたが、ハンデにはならなかった。ジョンソンは今までの恨みを晴らすかのようにバーンズをいたぶり続け、14ラウンド目にレフェリーが試合を止めなかったため、見かねた警察官が乱入して試合をやめさせた。これによりレフェリーはTKOの裁定を下してタイトルはジョンソンのものとなったが、それまでにジョンソンは何度もチャンピオンを打ちのめしていた。試合中、ジョンソンはバーンズとそのリングサイドのクルーを嘲っていた。バーンズが崩れ落ちそうになるたびに、ジョンソンは彼を掴まえてもう一度立たせ、さらに攻撃を加え続けた。ジョンソンがフィニッシュを決める瞬間、バーンズの敗北を映し出さないためにカメラが停められた[1]。

ジョンソンがバーンズに勝利してからというもの、白人の間では人種的な憎悪の念が広まり、ジャック・ロンドンのような社会主義者でさえ、ジョンソン(類人猿とまで戯画化された)からベルトを奪取し、それを本来保持すべき「優生種」の白人の元へもたらす「グレート・ホワイト・ホープ」(Great White Hope、白人の期待の星)の到来を切望した。そのため、ジョンソンはこうした「グレート・ホワイト・ホープ」としてプロモーターが用意した数多くの選手と立て続けに試合をさせられたが、その多くはエキシビション・マッチであった。

もっとも、白人ボクサーとの対戦はジョンソン自身の望むところでもあった。黒人ボクサー同士のタイトルマッチでは、当時の観客へは訴求力を持たず、金にならなかったのである[2]。黒人ボクサーからの対戦要求を拒み、実質的にカラーラインを引いたに等しいジョンソンに対し、黒人コミュニティは失望の声を上げた。なかでも黒人強豪ジョー・ジャネット(1909に黒人ヘビー級王座奪取)の憤りは激しく、「世界チャンピオンになって、ジャックは旧友を忘れてしまった。彼は同胞に対してカラーラインを引いた」と非難した。[3]

1909年だけでも、ジョンソンはヴィクター・マクラグレン、フランク・モラン、トニー・ロス、アル・カウフマン、ミドル級チャンピオンのスタンリー・ケッチェルらを退けた。ケッチェルとの試合では両者とも最後まで熱烈な戦いを繰り広げたが、最終12ラウンドにケッチェルがジョンソンの頭に右パンチを叩き込み、ジョンソンからダウンを奪った。ゆっくりと立ち上がったジョンソンはケッチェルの顎にストレートを放ち、何本かの歯をへし折りKOした。フィラデルフィア・ジャック・オブライエンとの試合はジョンソンにとっては不本意なものであった。オブライエンの161ポンドに対して205ポンドと体格差の利のあったジョンソンは、この試合に6ラウンド引き分けという結果しか残すことができなかったのである。

世紀の決戦[編集]





ジョンソンとジェフリーズの試合、1910年。
1910年、無敗のまま引退していた元ヘビー級チャンピオンのジェームス・J・ジェフリーズが現役復帰を宣言し、「私は白人が黒ん坊よりも優れていることを証明する、ただそのためだけにこの試合を戦う」と言い放った[4]。ジェフリーズは6年間試合から遠ざかっており、復帰して試合に臨むためには100ポンドも減量する必要があった。

試合は1910年7月4日、ネバダ州リノの中心部に作られた特設リングで22,000人の観客を前に行なわれた。リングサイドの楽団は "All coons look alike to me" (クーン・ソング (Coon song) と呼ばれる、人種的偏見に基づいて黒人を嘲弄した歌)を演奏していた。

この試合は人種間の緊張関係の温床の相を呈し、プロモーターは白人で埋め尽くされた客席を煽動して「ニガーを殺せ!(kill the nigger)」の大音声を繰り返させた[5]。しかし試合が始まってみれば、ジョンソンの方がジェフリーズよりも強く、機敏であることは明らかとなった。第15ラウンド、その経歴を通じて初めて1ラウンドに2回のダウンを喫したジェフリーズのセコンドは、ジョンソンによるKOだけは避けようと判断して試合を放棄した。この「世紀の決戦」によりジョンソンは225,000ドルの賞金を得ただけでなく、批判者たちをも沈黙させた。彼らは、前王者バーンズはジェフリーズが無敗のまま引退したおかげでベルトを手にした偽者のチャンピオンだと主張し、したがってジョンソンがバーンズを倒してチャンピオンになったとはいえ、そんな勝利など「無内容」だと過小評価していたのである。

暴動とその余波[編集]

試合の行なわれた7月4日の夜、テキサス州やコロラド州からニューヨーク、ワシントンD.C.に至るまで、合衆国中で人種暴動が引き起こされた。ジェフリーズに対してジョンソンが勝利したことにより、ジョンソンを打ち倒す「グレート・ホワイト・ホープ」を見つけ出すという白人たちの夢は挫折した。多くの白人たちはジェフリーズの敗北に屈辱を覚え、ジョンソンのコメントに怒り狂った[1]。

一方黒人たちは歓喜して、ジョンソンの偉大な勝利を長く虐げられてきたその人種全体の勝利として祝った。黒人の詩人ウィリアム・ウェアリング・クーニーはのちに自作の詩 "My Lord, What a Moming" において、この試合に対するアフリカ系アメリカ人の反応を強調した。

国中で黒人たちが自然発生的なパレードを行ない、祈祷所に集合し、ギャンブルの配当金によって買い物などをした。こうした浮かれ騒ぎに対して白人から暴力的な反応が示されることもあった。ただし「暴動」と呼ばれている動きのいくらかは、たんに黒人たちが路上でどんちゃん騒ぎをしたというだけのものである。シカゴなどいくつかの都市では、警察も黒人たちがこうしたお祭り騒ぎを続けることを許可した。しかしそれ以外の都市では、警察や怒りに駆られた白人市民が騒ぎを止めさせようとした。罪もない黒人が路上で襲撃され、場合によっては白人のギャングが近隣の黒人宅へ押し入り、家屋を焼き払うなどといった事件も起きた。警察は黒人に対するリンチの仲裁などの対応にも追われた。全体として、25以上の州と50以上の都市で暴動が発生した。少なくとも23人の黒人と2人の白人がこれらの暴動によって死亡し、負傷者は数百人にも及んだ。白人の中には、黒人を殴打している群衆を止めようとして負傷した者もいた[1]。

ある州ではジョンソンが白人ボクサーに勝利する場面の撮影を禁止するという措置を取った。アフリカ系アメリカ人の新聞は、黒人が優れているというイメージが出回ることを白人たちは恐れていると述べ、一方で黒人が勝つ場面の撮影を禁止しておきながら他方では黒人に対するリンチを無批判のまま放置している白人の報道を偽善的なものだと主張した[1]。Washington Bee紙は「白人はもはやその地位を脅かすものなく第一級の存在でいられるのが当然とは思うことができなくなっている。こうした事実を見てもわれわれはそのことを窺い知ることができる」と書いた。

フランス滞在[編集]

1912年12月に、ジョンソンはベル・シュライバーを同行させ、マン法違反で逮捕され、裁判で有罪判決を受けた。判事のジョージ・カーペンターはジョンソンに禁固1年と1日、そして1000ドルの罰金を言い渡した。これは、黒人の中で最も有名な人間は、その黒人全体に与える影響が大きいのだから、罰金以上の刑が必要というのがその理由だった。しかし保釈中のジョンソンはカナダ経由でパリに渡り、1913年12月19日にそこでバトリング・ジム・ジョンソンを相手に防衛戦を行った。しかし、試合中に左腕を傷め、試合は凡戦のまま10R引き分けに終わり、試合後に大ブーイングを浴びた。翌1914年6月27日にアメリカのフランク・モランを相手にフランスで2度目の防衛戦を行った。20R判定でジャクソンが防衛を果たした。ところが、試合中にファイトマネーの引き出し状を持っていた弁護士のルシアン・セルフが急逝し、引き出し状の行方が分からなくなってしまった。その為、フランス銀行から金を引き出せず、ジャクソンはファイトマネーの一部である2万ドルを受け取り損ねてしまった。

ところが、このフランスへの逃亡中に、アメリカでは勝手に世界ヘビー級王者決定戦が挙行されていた。1913年1月1日にアメリカのプロモーターは勝手に新たに世界ヘビー級タイトルマッチを行い、白人同士で世界王者決定戦をやらせた。もちろん、この世界戦は正規の世界戦として認められておらず、現在は、この試合で勝ったルーサー・マカーティは王者として認められていない。こうして妙な世界ヘビー級王者になったルーサー・マカーティはカラーラインを宣言し、黒人との試合を拒んだ。なお、マカーティは世界王座防衛戦直前に落馬して首の骨を折っていたことが原因で試合中に倒れた。そしてその直後に急逝した。この王座はジョルジュ・カルパンチェに引き継がれていった。

王座陥落[編集]

1915年4月5日、ジョンソンはジェス・ウィラードにチャンピオンの座を奪われた。ウィラードは元カウボーイで、30歳近くなってからボクシングを始めたばかりであった。キューバのハバナにあるヴェダド競技場に25,000人の観客を動員し、全45ラウンドの試合の第26ラウンドでジョンソンはKOされた。この試合はロデリック・マクマホンとそのパートナーによって共同プロモートされたものである。ジョンソンは大男のウィラードをノックアウトすることができず、ウィラードはカウンターパンチャーとしてジョンソンに先手を打たせていた。ジョンソンは20ラウンドを経たころから疲れを見せ始め、26ラウンドにノックアウトされる前からウィラードにボディーを痛打され、苦しんでいる様子が見られた。ウィラードは正々堂々と勝利を収めたと一般に認められているが、一方でジョンソンが「アメリカに帰国出来るようにしてやる」という条件で八百長を受けたという噂も流れた。ウィラード曰く「ジョンソンが本当に試合を投げるつもりだったのなら、もっと早くしてほしかったね。何しろあそこは地獄よりも熱かったからな」。当時、ノックアウトされてリングに横たわりながら、両手でハバナの日差しを遮るジョンソンの姿は物議を醸した。

個人生活[編集]

ジョンソンはセレブ・スポーツ人の先例の1人であり、プレスの前には定期的に顔を出し、のちにはラジオや映画にも出演するようになった。彼は特許医薬品なども含めた様々な製品の保証人になることで莫大な収入を得ており、かつてスピード違反の切符を切られて50ドルの罰金(当時としては高額である)を科せられたときには、警官に100ドル紙幣を渡して「帰りも同じスピードで行くから釣りは取っとけ」と言い放った[1]。ジョンソンはまたオペラ(『イル・トロヴァトーレ』がお気に入りであった)や歴史にも関心を寄せており、特にナポレオンを崇拝して彼は自分と同じような境遇に生まれたのだと考えていた。

ジョンソンはアメリカ社会におけるアフリカ系アメリカ人の社会的・経済的「地位」なる慣習に一切価値を認めていなかった。黒人の男性と白人の女性が肉体関係をもつことは強いタブーであったが、ジョンソンはこれを破り、リングの内外で人々を(白人と黒人とを問わず)罵った。ジョンソンはためらうことなく白人女性を愛し、やはりリングの内でも外でも自分の肉体的な能力を誇示した。チャンピオンのホテルの部屋から出てくる女性たちや順番待ちをしている女性たちの列を見たリポーターに持続力の秘密を訊ねられたときには、「ゼリー詰めのウナギでも食って深く考えないことだな」と答えたとされている[6]。

ジョンソンは1910年後半もしくは1911年初頭にエッタ・デュリエイと結婚した。彼女は1911年9月に自殺し、ジョンソンはその直後にルーシー・キャメロンと再婚した。いずれの女性も白人であったが、この事実は当時きわめて大きな論争の的となった。ジョンソンがキャメロンと結婚したあとには、南部の牧師2人がジョンソンをリンチにかけろと勧告したほどである。夫妻は合衆国で刑事告発されるのを避けるために、結婚してすぐにカナダ経由でフランスへ逃れた[1]。

獄中期[編集]

1920年、ジョンソンはハーレム地区にナイトクラブを建てた。3年後に彼はこの店を白人ギャングのオウニー・マドゥンに売却し、マドゥンはコットン・クラブと店名を変えた。

メキシコでいくつかの試合を終えた1920年7月20日にジョンソンはアメリカへ帰国したが、マン法違反の嫌疑をかけられたため連邦捜査官に自首した。マン法とは「不道徳な目的のために女性を州境の外まで連れ出すこと」を禁じたものだが、ジョンソンが白人のガールフレンド、ベル・シュライバーにピッツバーグ-シカゴ間の鉄道乗車券を送ったことがこの法に抵触したのである。この起訴は法の意図的な不正使用であると考えられている。というのも、ジョンソンはガールフレンドを招いただけであるのに対し、マン法は複数の州をまたいだ売春婦の取引網を規制することを目的としたものだからである。ジョンソンは1年の刑期を科せられてレブンワース連邦刑務所へ収監され、1921年7月9日に出獄した[1]。ジョンソンの死後には大統領による恩赦を与えるべきだという提案も繰り返しなされていた。

入獄中にジョンソンは、緩めた留め具を締め直すための道具の必要性に思い至り、そのためにレンチを改良した。彼はこの発明に対する特許を申請し、1922年4月18日に合衆国特許1,413,121号を取得した。

キャメロンは彼の不貞を理由として1924年に離婚した。ジョンソンはその後1925年に古くからの友人であったアイリーン・ピノーと再婚した。彼女はジョンソンより長生きした。ジョンソンには子供が生まれなかった。

後半生[編集]

ジョンソンは試合を続けたが、年による衰えは隠すことができなくなっていった。1928年に2度の敗北を喫してからは、エキシビション・マッチにしか出場しなくなった。

ジョンソンは1946年にノースカロライナ州ローリー近くで自動車事故によって命を落とした。68歳。おりしもジャッキー・ロビンソンがメジャーリーグの「人種の壁」を打ち破る1年前のことであった。彼はシカゴのグレースランド墓地のエッタ・デュリエイの隣に埋葬された。ジョンソンの墓石には銘が刻まれていないが、「ジョンソン」とだけ書かれた石が、彼と2人の妻の埋葬された区画の上に立てられている。

後代への影響[編集]

ジョンソンは1954年にボクシング栄誉の殿堂入りし、国際ボクシング殿堂と世界ボクシング殿堂の両方にリストされた。また2005年には、国立フィルム保存委員会 (National Film Preservation Board) が1910年のジョンソン - ジェフリーズ戦のフィルムを「歴史的に重要なもの」としてアメリカ国立フィルム登録簿に登録した。

ジョンソンの話を元として戯曲が書かれ、それを原作とした映画『ボクサー』が1970年に制作された。ジェームズ・アール・ジョーンズがジョンソン(映画の中ではジャック・ジェファーソンの名で登場する)に扮し、彼が思いを寄せる女性の役はジェーン・アレクサンダーが演じた。2005年には、映画作家のケン・バーンズがジョンソンの生涯を題材とした2部からなるドキュメンタリー "Unforgivable Blackness: The Rise and Fall of Jack Johnson" を制作した。この映画はジェフリー・C・ワードが2004年に発表した同題のノンフィクションを原作としたものである。

ファイターとしてのジョンソンの技巧と、それによって彼にもたらされた金は、彼を白人支配階級にとって無視できない存在にした。アフリカ系アメリカ人が市民権というものをほとんど享受することができず、超法規的な社会的強制力の手段としてのリンチが合衆国の多くの地域で認められていたこの時代において、彼の成功や挑発的な振る舞いは、人種差別主義的な当時の社会状況にとって深刻な脅威と受け取られた。ボクシング界がジョンソンの功績に反発した時期もしばらく続いた。後年、ジョー・ルイスは彼が「白人のように振る舞う」ことができると証明するまでヘビー級タイトルに挑戦することを許されず、打ち倒した対戦者を見て満足げな表情を見せたり、白人女性と一緒に写真に納まったりしないよう警告を受けた[1]。しかしジョンソンが多くの点においてその先例となったといえるのは、おそらく、モハメド・アリであろう。実際にアリは自分がいかにジョンソンから大きな影響を受けたかについてしばしば語っている。アリはベトナム戦争に反対したため、同じように白人社会から爪弾きにされたことで、ジョンソンと同じ気持ちを味わうことになった。またアリは自伝において、往年の最も偉大なボクサーはジョンソンとジョー・ルイスであるという点で、自分とジョー・フレージャーの見解は一致しているとも述べている。

ポピュラー・カルチャー[編集]

南部アメリカのパンク・ロック・バンド This Bike Is a Pipe Bomb には、ジャック・ジョンソンについての歌がある。この曲は彼らのCD "Three Way Tie For A Fifth" および Carrie Nations とのスプリット7インチに収録された。多くのヒップホップ・アーティストもまたジョンソンの功績を表現しているが、特に有名なものとしてはモス・デフのアルバム "The New Danger" があり、そこに収められた楽曲 "Zimzallabim" や "Blue Black Jack" などは彼らにとってのボクシング・ヒーローに捧げられている。マイルス・デイヴィスとウィントン・マルサリスはいずれもジャック・ジョンソンについてのドキュメンタリーのサウンドトラックを制作している。映画『俺たちニュースキャスター』 ("Anchorman: The Legend of Ron Burgundy") には、主人公ロン・バーガンディによるジャック・ジョンソンへの言及がしばしば登場する。マイルス・デイヴィスの1970年のアルバム『ジャック・ジョンソン』 ("A Tribute to Jack Johnson") はジョンソンの影響下に作られたものである。レコードの終わりには、俳優ブロック・ピーターズ扮するジョンソンのセリフも入る。

フォーク歌手でありブルース・ミュージシャンのレッドベリーはタイタニック号についての歌の中でジョンソンに言及している。タイタニック号に乗船しようとしていたが、船長から「石炭を載せるつもりはねえんだよ」と言われ乗船拒否されたジョンソンは、この船の事故と沈没を聞いたときにイーグル・ロック(当時流行していたダンス)を踊りだしたというエピソードを歌詞にしているのである。

カントリー・ミュージシャンのトム・ラッセルは「ジャック・ジョンソン」と題した曲を書き、バレンス・ウィットフィールドをリードボーカルに擁して1993年に録音し、アルバム "Hillbilly Voodoo" で発表した。この曲はジョンソンに対する賛歌であると同時に、彼が直面した人種主義に対する痛烈な告発である。

2006年、ウォルマートのウェブサイトでDVD購入者が『チャーリーとチョコレート工場』や『猿の惑星』のページから「類似の商品」を検索すると、ジョンソンの映画 "Unforgivable Blackness: The Rise and Fall of Jack Johnson" のページに誘導されるという珍現象が生じ、議論が引き起こされた[7]。

NHL・オタワ・セネターズのレイ・エメリー (Ray Emery) はボクシングへの愛好心の証として、ジャック・ジョンソンの写真を貼り付けたマスクを身に着けて試合に出場したことがある(マイク・タイソンの写真を付けていたこともある)。

テキサス州ガルベストンの41番街は彼にちなんで「ジャック・ジョンソン大通り」と名づけられた。

獲得タイトル[編集]
第11代黒人ヘビー級王座
第7代ボクシング世界ヘビー級王座

脚注[編集]

1.^ a b c d e f g h i j k l m Ken Burns, Unforgivable Blackness
2.^ Kieran,Mulvaney"The greatest fighter almost nobody knows", ESPN, 2007-2-8. Retrieved on 2007年2月8日
3.^ Rosero,Jessica"Native sons and daughters North Hudson native and 20th century boxing sensation Joe Jeanette", Hudson Reporter.com, 2006-2-26. Retrieved on 2006年2月26日
4.^ Remnick, David "Struggle for his soul", The Observer, 2003-11-02. Retrieved on 2003年11月2日
5.^ Zirin, Dave "The Hidden History of Muhammad Ali", Edge of Sports
6.^ Stump, Al. 'The rowdy reign of the Black avenger'. True: The Men's Magazine January 1963.
7.^ Horowitz, Adam, et al. "101 Dumbest Moments in Business", CNN.com, 2007-01-23. Retrieved on 2007年1月23日

Washington Bee, New York Times, Chicago Tribune, 各紙とも1910年7月5日付。

関連項目[編集]
男子ボクサー一覧
ボクシング世界ヘビー級王者一覧

外部リンク[編集]

ウィキメディア・コモンズには、ジャック・ジョンソンに関連するカテゴリがあります。

ウィキクォートにジャック・ジョンソンに関する引用句集があります。

ジャック・ジョンソンの戦績 - BoxRec(英語)
Unforgivable Blackness: The Rise and Fall of Jack Johnson, ケン・バーンズと PBS による2部構成の映画、2005年。
Extended biography of Jack Johnson
Famous Texans - Jack Johnson
John (Jack) Arthur Johnson
Harlem 1900-1940: Schomburg Exhibit Jack Johnson
ESPN.com: Jack Johnson
Cyber Boxing Zone - Jack Johnson
Interview with Jack Johnson biographer Geoffery C. Ward
CBS News - A Pardon for Jack Johnson
ジャック・ジョンソン - Find a Grave(英語)

前王者
エド・マーティン 第11代黒人ヘビー級王者

1903年2月5日 - 1908年12月26日
空位
次タイトル獲得者
サム・マクビー

前王者
トミー・バーンズ 第7代ボクシング世界ヘビー級王者

1908年 - 1915年
次王者
ジェス・ウィラード



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カテゴリ: アメリカ合衆国のボクサー
アフリカ系アメリカ人のボクサー
ガーナ系アメリカ人
ヘビー級世界王者
ガルベストン出身の人物
交通事故死した人物
1878年生
1946年没

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89

サム・ラングフォード





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曖昧さ回避 この項目では、カナダ、アメリカ合衆国の元プロボクサーについて説明しています。その他の用法については「サム・ラングフォード (曖昧さ回避)」をご覧ください。


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サム・ラングフォード

Sam Langford.jpg

基本情報


通称
ボストン・タール・ベビー

階級
ヘビー級

身長
171cm

リーチ
183cm

国籍
カナダの旗 カナダ

誕生日
1883年3月4日

出身地
ノバスコシア州ウェイマス

死没日
1956年1月12日(満72歳没)

スタイル
オーソドックス
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サム・ラングフォード(Sam Langford、1883年3月4日 - 1956年1月12日)は、カナダ出身の元プロボクサー。アメリカ合衆国のリングで活躍した黒人選手。

元来はライト級の選手ながら階級不問で戦った。その漆黒の肌から“ボストン・タール・ベビー”の異名を取る人気選手であった。

極貧の出身で、米国マサチューセッツ州ボストンでプロのリングに上がるようになった。その生涯でジョー・ガンス、スタンリー・ケッチェル、フィラデルフィア・ジャック・オブライエンら、8人の世界チャンピオン経験者を含む幾多の強豪たちと対戦した。1900年には後に黒人初の世界ヘビー級チャンピオンとなるジャック・ジョンソンと対戦、体格で遙かに上回るジョンソンを持ち前のスピードと強打で苦しめたが、僅差の判定負け。これに懲りたジョンソンはその後二度とラングフォードと対戦しようとしなかったと言われる。

後には眼を痛め、1924年の引退時にはほとんど失明状態だったとも言われる。晩年は不遇だった。

通算戦績[編集]

178勝(129KO)32敗40引分

外部リンク[編集]

ウィキメディア・コモンズには、サム・ラングフォードに関連するカテゴリがあります。
Sam's Family Tree
Cyber Boxing Zone
Profile on Langford by Monte Cox

サム・ラングフォードの戦績 - BoxRec(英語)






典拠管理

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カテゴリ: カナダの男子ボクサー
1883年生
1956年没

http://ameblo.jp/magokoro1216/entry-12133562261.html


安い言葉を剥ぎ取って~ジョー・ルイスの物語


2016年02月28日

テーマ: ボクシング



1934年、一人の青年、いや、まだ少年と言ってもよい若者が、トレーナーの元に連れてこられました。


世界チャンピオンを育てたこともあるトレーナーは、彼の肌の色をちらりと見て言います。

「無駄だな。黒人は世界チャンピオンにはなれないんだよ」

トレーナー自身も黒人でした。そして、その昔、優秀なボクサーとして知られた男でもありました。

トレーナーは今ボクシングが、どういう状態にあるのかを良く知っていました。

少し前に君臨したチャンピオン、ジャック・ジョンソン。

あまりにも 有名な、初めての黒人ヘビー級チャンピオン。

「初めての黒人ヘビー級チャンピオン」ジョンソン。

そして、ジョンソンは「最後」の「黒人ヘビー級チャンピオン」だ、トレーナーはそう思っていたのです。

ジャック・ジョンソンの時代に戦っていた黒人ボクサーであったからこそ、トレーナーは「今」がどうなっているのかを良く分かっていたのです。

あまりにもジョンソンは強く、そしてあまりにも白人に憎まれ過ぎたのです。

ジョンソンへの憎しみは二度と黒人チャンピオンを作らないと言う空気を世間に作り出しました。

そして、それはボクシング人気の低迷にもつながってしまったのです。

世間がヘビー級チャンピオン、世界で一番強い男に黒人がなることを認めることなど、もう有り得ない。

トレーナーは渋ります。黒人ヘビー級チャンピオンなどムリだと。

しかし、若者の才能を信じる後援者に押し切られ、トレーニングを引き受けることにします。

見るだけなら、と。

早速、若者を教えてみます。

彼は思います。

なんだ、コレでは使い物にならない。と。

優秀なボクサーを見て来たトレーナーには、青年に才能を感じることはできませんでした。

でも、青年はとにかく生真面目に毎日練習に励みます。

キツイメニューにも文句一つ言いません。

「飲み込みは良い」

トレーナーはそう思い直します。

しかし、闘争本能のようなものには欠けている、とも。

生真面目で物静か。そして礼儀正しいのだけれども。

トレーナーは青年のやる気に賭けてみることにしました。

ボクシングを知り尽くした男は、本当よくよく知り尽くした男は、青年に真に戦うべきものについて教えました。

本当にチャンピオンになりたいのならば、と。

黒人がチャンピオンになるためには、と。

「絶対に相手の悪口を言うな。試合の前でも後でも。それから、相手を倒した後笑うんじゃない」

それは、ジャック・ジョンソンの呪縛から抜け出るための言葉でした。

初の黒人ヘビー級チャンピオン、ジャック・ジョンソンは、白人のチャンピオンを罵ることにより、チャンスを掴みました。

そこまで言われては引けない、そうなるようになるまで罵ることで、自分との試合を引き受けさせたのです。

そして、チャンピオンになってからも、対戦相手(白人)を罵り、倒した後、笑いました。

リングの外でも傍若無人に振る舞い、当時はタブー視されていた白人女性と結婚したり(白人女性を「見た」と言うだけで黒人男性がリンチされていた時代です)、白人達でも手に入らない高級車を見せつけるように乗り回していたのです。

結果、ジョンソンは憎まれました。

ジョンソンが倒されるのを見るために、沢山の人々が押しかけたりもし、試合は話題にもなりましたが、結果として、それはボクシング人気の低迷に繋がりました。

誰もかれもが、「憎しみ」の結果をリングに見たいわけでもなかったのです。

ジ ョンソンは、紛れもなく、強いチャンピオンであり、強い人間でした。

彼は何千、何万人からの憎しみをものともせずに、傲岸不遜にリングに立ち、そしてその見事なボクシングで本当に強いチャンピオンで在ることを示しました。

差別され、抑圧されていた黒人であったにも関わらず、欲しいものは次々と手に入れて行きました。

しかし、そうやって憎まれるうちに、彼はアメリカから追い出されることになり、彼はアメリカに帰るために最後は八百長試合に荷担することにさえなります。

そして、ジョンソンにさんざんかきまわされたボクシング界は、二度と黒人のヘビー級チャンピオンを作り出してはいけないとしたのです。

憎しみにつぐ憎しみの連鎖。差別もありますが、そういうものをリングでも見ることに人々が拒否感を抱いたのは分かる気がします。

だから、とトレーナーは青年に言いました。

ジョンソンにはなるな、と。

「本当にチャンピオンになりたいなら、紳士でいろ。そして、綺麗な試合をしろ。クリンチなどするな」

そして一番大切なことを教えます。

「黒人に判定勝ちはない。お前の右の拳が審判だ。倒せ」

青年は頷きます。

ジョー・ルイス。

その名で知られるようになる青年は、そうでなければ、チャンピオンにはなれないことを学んだのでした。

それは元々、礼儀正しく、生真面目で、酒も煙草もしない、寛大で優しい青年だったルイスにはそれほど難しいことでもありませんでしたし、彼は強くあるために鍛錬し続けます。


そして、ジョー・ルイスの快進撃が始まります。

注目を浴び初め、記者達がインタビューしても、礼儀正しくはあっても、無口なルイスはあまり口を開きません。

でも、ジョー・ルイスは礼儀正しい。それは知られるようになります。

彼のイメージアップに貢献したのは彼の母親だったりもしてます。

明るく快活で、敬虔なキリスト教徒。そして沢山の子供を育て上げたこの好感が持てる女性は息子を朗らかに誉めあげました。

「あの子は母親想いのよい子でした」

しかし、ボクシング界が欲しかったのは、そういう黒人ボクサーではありませんでした。

彼らはルイスを「天性で戦う野生のボクサー」と言うことにしました。

普段は礼儀正しくとも、野獣なのだ、と。

それに白人ボクサーは毎日の訓練で鍛え上げた精神と肉体で野生に挑むのだ、と。

ルイスこそが誰よりも練習しているボクサーだったのに。

勝っても勝っても。

ルイスの勝利はルイスの努力の結果ではなく、そう生まれついたからだ、と言うことにされます。

ボクシングを知り尽くしたトレーナーの厳しい指導に耐えてまなんだ技術も、ただそう生まれついたものにされます。

「初めてグローブをはめた日より調子が良くなることはあるまい」

そうとさえ書きます。

あまり、いや、かなり、記者達のことをルイスは好きではなかったようです。

それでも彼は礼儀正しく接しました。

尤も、彼らが黒人を馬鹿にするために求めるポーズなどは、丁寧であってもキッパリ拒否しましたし、彼らが望むような、「野獣のような黒人ボクサー」のイメージ通りの言葉は与えませんでした。

ただ彼はボクシングのトレーニングを続けました。

しかし、連勝につぐ連勝から油断をしてしまったこともありました。

結果、ドイツの英雄、マックス・シュメリングに敗れ、それからは決して練習をさぼることはありませんでした。

実は、練習しなければならない期間以外はは大変女性にはだらしなかったルイスですが、酒や煙草に手を出すことはなく、

試合が近くなれば、キッパリ女性を遠ざけました。

彼はただただ真摯にボクシングに打ち込み続けたのです。

例え、その努力をなかったことにされ、天性のもので戦っているだけのボクサーだとされても。

そう書き立てる記者達に、それでも丁寧に彼は接します。

「残酷な獣」と書かれても。

反則などしない、正々堂々としたルイスであるのに。その肌の色にはそうあるのがふさわしいと言う勝手な決めつけだけで。

ルイスに出来ることは、毅然とし、丁寧に振る舞い、ボクシングの練習に打ち込むことになることでした。

そのうちに、少なくとも、ジャック・ジョンソンとはルイスは違う。

世間はそう思いはじめたのです。

少なくとも、ルイスは憎しみの対象ではなくなったのです。

タイトルマッチの話が出ても、黒人ボクサーに対するヒステリックな反応はなくなってきていました。

そして、チャンスが来ます。

偉大なボクサーとはいきませんが、誰からも愛されたチャンピオン、ジェームズ・ブラドック(奇跡の番狂わせと言われた試合を制し、シンデレラマンと言われたチャンピオン)とのタイトルマッチが決まったのです。

とにかく、好漢ブラドックは、黒人であるなどの理由でルイスとの試合を避けることはありませんでした。



ブラドックについての、過去記事。

シンデレラマン、ブラドックについての過去記事

シンデレラマン、ブラドックについての過去記事


そういうわけで、ルイスはチャンスをつかみ、ブラドックの人々の心を揺さぶる頑張りなどはありましたが、この試合で見事タイトルを手に入れます。

そう、再び黒人のヘビー級チャンピオンが誕生したのです。

世界は見事に戦ったブラドックの方ばかりを話題にはしていましたが、ルイスがヘビー級チャンピオンであることは誰もが受け入れていました。

黒人はチャンピオンになれない、そんなことをもう誰も受け入れない。そうなっていた不文律を、ルイスが覆した瞬間だったのです。

人々は、気が付けばこの若者の受け入れていたのです。

ルイスはそれからも、ただただボクシングに打ち込みます。

そして、彼が借りを返す日が来ました。以前負けたドイツの英雄、マックス・シュメリングと対戦する日が来たのです。

それは、第二次世界大戦前のアメリカとナチスドイツの代理戦争のようになっていたのです。

激しい報道合戦。

その中でルイスは気づきます。

気が付けば、自分が、黒人の自分が、アメリカそのものを代表していることに。

黒人のチャンピオンではなく、アメリカのチャンピオンだと、人々が自分を見始めていることに。

とにかくただボクシングに打ちこんでいるだけだった青年は、それを理解し、試合に挑みます。

それは、彼がヒーローになった瞬間だったのかもしれません。

元々、彼は黒人達のヒーローでした。

黒人歌手達は彼の為の歌を競って書きました。

これは今までの黒人の有名人にはなかったことでした。

全ての黒人が彼の名を口にしました。

若い死刑囚は毒ガスによる刑の執行の間、神の名でもなく、母親でもなく、ジョー・ルイスの名前を口にしていたとさえ言われいます。

神の名以上の力をその名が与えてくれるかのように。

そして今、彼は黒人のヒーローだけではなく、アメリカそのものになっていたのです。

彼は見事にシュメリングを倒します。
わずか124秒で。

彼は大歓声を受けます。

ルイス対シュメリング 第二戦

でも、その後の記事はいつものように、野獣としてのルイスに対する評価でした。

今までとは違い、好意的ではあっても。

それでも、ルイスは淡々と繰り返していきます。

丁寧に、毅然と。そして、練習。試合。

繰り返して繰り返して繰り返して。

そして、対戦相手に敬意を払い続けながら。

ルイスにはそれは難しいことではありませんでした。

「僕が対戦した選手達は例え一ドルだろうと全力を尽くす本物のプロだった。彼らがやっていたトレーニングを僕は知っている。僕は全ての対戦者を尊敬している。リングの中で立ち上がるのは容易なことではない。特別な勇気が必要なんだ」

ルイスは本当にそう思っていたのです。

そして、いつか。いつの間にか。

ルイスの記事は、ルイスの努力や人間性を認めるものになっていきます。

驚くことにそれを書いたのは、彼を野獣だとした記者達でした。

彼らは長年ルイスを見ている内に、本当の敬意と愛着をこのチャンピオンに感じるようになっていたのです。

ルイスの真摯なボクシングへの取り組みが、記者達の偏見を取り去ってしまったのです。

それはいつしか、アメリカの国中でそうなっていたのです。

多分、人気と言う意味では、ルイスはモハメド・アリを超えていたのではないのでしょうか。

第二次世界大戦と言うものの始まりが、愛国心の高まりが、アメリカを代表することとなったルイスの人気を助長したのは間違いないのでしょう。

でも、インターネットのある今の時代よりマスコミの力は大きなものでした。その記者達の考えを変えてしまい、逆にとらえてしまったのはルイスの人間性だったのです。

凝り固まった偏見を溶かしたのは、いつもいつも、ルイスがルイスであり続けたからでした。

長年彼を見続けていたことが、彼の魅力に捕まる理由ならば、それは間違いなく、ルイスが本物だったことを表しているようにおもえます。

だから、ルイスは愛されました。

それだけは生涯変わることなく。

引退後は、全く金銭感覚のないルイスはあっという間に窮乏してしまうのですが、

それでも、ジョー・ルイスはジョー・ルイス。

カジノでお客の相手をする接客業を手に入れてたみたいです。

ジョー・ルイスに会いたい客はいくらでもいたからです。

ボクシング以外の才は残念ながら持ち合わせてはいず、夫としても、父としての役割は果たせていたとは言えないルイスでしたが、でも、彼は家族にも愛されていたのです。

晩年は窮乏していたのは確かですが、ルイスは不幸だったわけでもないようです。

誰かが彼に常に手を差し伸べました。

彼を愛していたからです。

それは、対戦相手のマックス・シュメリングであったりもしました。

戦う内に、シュメリングはルイスが誰よりも努力し敬意に値するボクサーであることを理解していたのです。

彼は本当に愛されていました。

モハメド・アリが、ルイスについて言っています。

「黒人からミシシッピーの貧乏白人までみんなジョーが大好きだったんだ。億万長者のハワード・ヒューズが死んでも誰も泣かない。でもジョー・ルイスが死んだ時にはみんな泣いていたんだぜ」

アリの言葉は正しい。

こんな風に沢山の人々に愛されるボクサーはもう現れないでしょう。

ルイスは機知にとんだ会話や、華やかな言動が出来る男ではありませんでした。無口でしたし、人に喜ばれるためにどう言えば良いのかは知らなかった。

彼は真摯なボクサーであり、敬意に値するボクサーでしかなかった。

でも、彼の真摯さが、最後には人々の心を掴んだのです。

彼は本物でした。

一時の人気や盛り上がりの為に、安っぽい言葉がもてはやされる現代なら尚更そう感じます。

皮肉にも、今人気が欲しい人々が喜んで被りたがるだろうセンセーショナルな安っぽい野獣の皮を脱ぐために、ルイスがどれほど努力を払わなければならなかったのかを思います。

紳士的ではない野獣のようなボクサー。そのルイスが拒んだ役割を、今は喜んでしたがる人々がいるのですから。

ルイスがその役割を拒んだことは、結果的にボクシングを残酷な見せ物ではなく、観戦に値する競技であることを再確認させたのです。

ボクシングに敬意を取り戻させたのです。

それさえも、彼の意図したことではなかったのでしょうけれど。

世界で誰よりも愛されたボクサー、ジョー・ルイス。

1981年、4月11日。

心臓発作のためにルイスは帰らぬ人となりました。

その名は敬意を持って口にされる名前になりました。

当時を知る人ならば、なお。

ジョー・ルイス。彼は誰からも愛された。

差別は色濃く、ボクシングの野蛮さを嫌悪する者も多かった時代に。

彼は愛された。

尊敬すべきチャンピオンとして。

これは奇跡でした。そして、その奇跡は、彼がただただ真摯なボクサーであることを目指した結果だったのです。

ジョー・ルイスハイライト



ジョー・ルイス

本名ジョセフ・ルイス・バロー
Joseph Louis Barrow
通称褐色の爆撃機(ブラウン・ボマー)
Brown Bomber
階級ヘビー級
国籍 アメリカ合衆国
誕生日1914年5月13日
出身地 アメリカ合衆国
アラバマ州ラファイエット
死没日1981年4月12日(満66歳没)
スタイルオーソドックス

総試合数72
勝ち69
KO勝ち55
敗け3

http://zip2000.server-shared.com/muhannad-ali-1.htm



- モハメド・アリ Muhammad Ali (前編) -



<国境を越えたヒーロー>
 元々このサイトは、「世界の歴史」を「音楽」というキーワードをもとにグローバルな視点からとらえようと作り始めました。それは「音楽」という文化は、他の文化に比べ容易に国境や人種の壁を越えることができると考えたからです。
 しかし、国境を越えることができるのは、「音楽」だけの特権ではありません。スポーツもまた競技によっては世界中の人々の心を打つことが可能です。そんなスポーツ界のヒーローの中でも飛び抜けて巨大な存在が、モハメド・アリことカシアス・マーセラス・クレイです。
 彼はプロボクシングのヘビー級世界チャンピオンであっただけでなく、アメリカン・ドリームの象徴でもあります。しかし、それと同時にアメリカを揺り動かした反体制運動「ブラック・パワー」を代表する存在であり、ベトナム反戦運動の象徴、そしてアフリカの地においてはその独立運動の象徴でもあったのです。70年代のアリは、まさに全世界の大衆にとっての「自由の象徴」だったとも言えるでしょう。だからこそ、彼は「グレイテスト・チャンピオン・オブ・ザ・ワールド 世界で最も偉大な男」と呼ばれていたのです。
 もしかすると、「キンシャサの奇跡」と呼ばれた「ジャングルの決闘」(1974年)を制した瞬間の彼にまさる全世界的な英雄は、今後二度と現れないかもしれません。

<「キンシャサの奇跡」の時>
 あの歴史的名勝負が行われた1974年、僕は14歳でした。小学生の頃からプロレスが好きだった僕は、少しずつよりリアルな格闘技、ボクシングの魅力にひかれるようになっていました。そのうえ当時は、日本のボクシング界には柴田、海老原、西城、大場など次々とスター選手が現れ、まさに黄金時代を迎えようとしていました。しかし、アリが闘うヘビー級の世界戦を見てしまうと、その迫力はあまりに違いすぎました。しかし、それはアリのもつスピードやしなやかさが、ヘビー級のボクシング・スタイルを革命的に変えてしまったせいでもあったことが後に僕にもわかりました。なぜなら、その後アリからホームズの時代へと移り変わり、ヘビー級の魅力はしだいに失われていったからです。多くのボクシング・ファンの目は、シュガー・レイ・レナード、ロベルト・デュラン、トマス・ハーンズなど、ミドル級のヒーローたちへと注がれるようになって行きました。

<時代の波にほんろうされた男>
 「ジャングルの決闘」が「キンシャサの奇跡」を生んだ1974年12月のアリ対フォアマンの試合は、僕も含めた世界中の人々の心を遙かアフリカの地へと飛び立たせてくれました。自ら国境を越え、人種の壁を越えて人々の心をつかんだ男。人々は彼の魅力に引き込まれることで、その瞬間国境や人種の壁を越える体験をしたのです。
 しかし、偉大なるチャンピオン、アリもまた長い人生において自分一人の力だけで闘い続けられたわけではありません。まして、その闘いの相手は、リング上の敵だけではありませんでした。彼ほど時代と社会に影響を与えたスポーツマンがいないのと同じように、彼ほど時代の波にほんろうされたスポーツマンもまたいないのです。

<1960年、ローマ・オリンピック>
 1960年のローマ・オリンピックは、エチオピアからやって来た裸足のランナー、アベベ・ビキラが初めてブラック・アフリカに金メダルをもたらしたということで、多くの人々の記憶に残る大会となりました。しかし、このオリンピックで金メダルをとり一躍スターの座をつかんだカシアス・クレイにとって、それは栄光への小さな一歩にすぎませんでした。
 この大会の後、すぐにカシアス・クレイは18歳でプロ入りし、ヘビー級の世界チャンピオンに向けて華々しいスタートを切ります。そして、そのために彼は白人の金持ちたちが作るシンジケートとの付き合いも始めていました。世界チャンピオンになるためには、そのために必要な資金の後ろ盾が不可欠だったのです。しかし、オリンピックのヒーローはすでに国民的アイドルとなっていました。この時点での彼の未来には、まさにアメリカン・ドリームを実現した輝かしい生活が待っていたと言えるでしょう。ところが、この時すでに彼はカシアス・クレイからモハメド・アリへと危険な変貌をとげつつあったのです。

<ブラック・ムスリムとの出会い>
 彼がブラック・ムスリム(ネーション・オブ・イスラム)の指導者イライジャ・モハメドの説法を初めて聴いたのは1959年のことでした。その後。ネーション・オブ・イスラム(NOI)のメンバーが彼の巡業を手伝うようになり、クレイ自身もその教えに少しずつひかれて行きました。しかし、NOIを代表する二人の人物、イライジャとマルコムXは、当時アメリカで最も危険な存在としてマスコミや政府からマークされる存在でした。そのため、クレイは自らがNOIの信者であることを秘密にしていました。

<ネーション・オブ・イスラムとは?>
 1930年代にデトロイトで誕生した典型的なカルト宗教団体。ただし、この団体はブラック・ナショナリズムを中心思想としており、その柱にコーラン、聖書、マーカス・ガーヴェイの思想などを組み合わせています。
 一応イスラム教の分派ではありますが、ほとんど別個の宗教というべきでしょう。彼らの思想における重要なポイントは、その目標が人種平等を実現することではなく、悪魔である白人社会と分離した新しい社会を創設することにあったということです。実際彼らは人種隔離を政府に要求し続けただけでなく、その際KKK(クー・クラックス・クラン)と協力関係を結んだことさえあったのです。
 娯楽を否定するイスラムの教えのとうり、彼らはボクシングという娯楽スポーツを認めていませんでした。その点、カシアス・クレイはNOIにとっては明らかな異端派だったはずです。しかし、彼には地位と名声、そしてそれ以上にお金がありました。その宣伝効果の大きさと資産価値は、NOIの教義を曲げるのに十分だったと言えるのです。NOIの指導者イライジャ・モハメッドは、例外的な措置として、自らが彼の信仰を認めると同時に彼に新しい名前「モハメド・アリ」を授けました。
 さすがにNOIを全米ナンバー1の組織にまで育てた人物だけのことはあり、イライジャ・モハメッドという人物もまたなかなかのくせ者だったようです。彼にはマルコムXのように他者を圧する危険なカリスマ性とはまた別の、誰もが心を許して引き込まれるようなカリスマ的な魅力を兼ね備えていたようです。
 こうして、クリスチャンだったカシアス・クレイはこの世から消え、新しい黒い思想を持つ存在「モハメド・アリ」がこの世に登場しました。

<盟友マルコムX>
 NOIを代表するもうひとりの人物マルコムXとアリが出会ったのは1962年のことでした。そのカリスマ性と黒人ならではコール&レスポンスの技をこころえた語り口、そして辛辣でありながらユーモアを巧みに織り交ぜた知的な演説内容。マルコムの才能は、まさに後のアリに引き継がれることになる特質でもありました。
 「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と形容されたアリのボクシング・スタイルは、思えばマルコムXの演説スタイルを肉体で表現したものだったのかもしれません。
 すぐにお互いを理解し合うようになった二人は、その後ほんの数年間とはいえ、お互いに影響を与え合う重要な関係を築くことになりました。当初、マルコムは自分の部下をアリのマネージャーにつかせ身の回りの世話をさせていましたが、しだいに自らも彼と行動をともにするようになります。当然、二人の関係はマスコミにも知られるようになり、すぐにアリに対し圧力がかかり始めます。
 1964年2月25日、そんな状況の中、彼はついに世界チャンピオンのソニー・リストンに挑戦することになりました。しかし、この時すでに彼はブラック・ナショナリズムの代表であり、逆にソニー・リストンは人種融合のシンボルであり、白人に飼い慣らされたアンクル・トムの代表と見られるようになっていたのです。
 戦前の予想では、断然実績のあるソニー・リストンが有利と見られていましたが、結果はまったくその逆でアリの圧勝に終わりました。試合後、彼は記者会見で正式に自分がNOIに入信していることを認め、今後自分はモハメド・アリと名乗ることを発表しました。こうして、一気に彼は黒人解放運動に対する逆風の矢面に立たされることになりました。
 驚いたことに、当時公民権運動などで活躍していた活動家のリーダーや他のスポーツ選手、アーティトたちのほとんどは、アリのこの発表を喜びませんでした。それは彼やマルコムXのような過激な活動家の登場により、これまで白人穏健派とともに築いてきた人種融和の政策が破綻してしまうことを怖れたからでした。
 NOI以外の黒人の中で、彼の勝利を素直に喜び、お祝いの言葉を伝えたのは、マーティン・ルーサー・キング牧師とサム・クックなどごくわずかだったと言われています。ただし、黒人の一般大衆は別でした。彼らは新しい黒人ヒーローの登場を熱狂的に祝い、その後彼がどんな立場に追い込まれようと彼を支持し続けました。このことは、非常に重要なことです。なざなら、この大衆からの支持は、その後世界中へと拡がって行くからです。

<もう一人のヒーロー、サム・クック>
 1963年、アリは初めてサム・クックと出会いました。当時サムはすでに黒人R&Bヴォーカリストとして大スターの座を獲得しており、その人気ぶりはアリにとっても憧れの対象でした。ニューヨークのアポロ・シアターで歌っていたサムはハーレムにあるホテル・テレサに宿泊しており、同じホテルにアリもまた宿泊していました。さらに、このホテルにはマルコムXの事務所にもなっていたため、当時の黒人文化を代表する新世代の3人が一堂に会することになりました。
 レコード業界というアリとは別の世界で、人種の壁を越えたアイドルを目指していたサム・クック。彼のビジネスに対する厳しい姿勢は、アリに大きな影響を与えました。(映画「アリ」にも、サム・クックは登場していました)
 3人はその後、より密接な関係をもつようになり、すでにレコード・デビューを果たしていたアリとサムが共同でレコードを録音する計画も立てられ、そのプロジェクトにマルコムXが関わることも決まっていました。しかし、1964年12月にサムはモーテルで謎の死をとげてしまい、その計画が実現することはありませんでした。(詳しくはサム・クックのページで)

<マルコム、アフリカへ>
 結局この後しばらくして、アリとマルコムXとの関係も終わりを迎えることになります。過激な黒人解放運動の闘士として、彼の名が有名になるにつれ、マルコムはNOI内部から邪魔者扱いされるようになり、アリはマルコムの存在を否定するようになったのです。その後マルコムは、NOI上層部から活動停止処分を受けることになり、アメリカ国内では何もできなくなります。そこで彼は新たな活動の場を求めて、ヨーロッパを経由してアフリカへと向かうことになります。
 なぜなら、当時アフリカの大地は、アメリカに住む黒人たちの故郷であると同時に、今まさに目覚めようとする未来の土地でもあったからなのです。そして、そこで再び二人は出会い、アフリカの旅はその後のアリの人生に大きな影響を与えることになります。

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- モハメド・アリ Muhammad Ali (後編) -



<アフリカ大陸の夜明け>
 1950年代当時、アフリカ大陸ではアメリカやイギリスの大学で政治や経済を学んだ若き政治家たちによる植民地からの独立と新しい国づくりが、いっきに開花しようとしていました。
 1957年のガーナ独立は、アメリカのペンシルバニア大学などで学んだクワメ・ンクルマ(エンクルマ)が中心となって実現しました。ロンドンに留学していたジョン・ケニヤッタは、その名のとおりケニアを独立へと導いています。それらの中でも、ベルギーから1960年に独立したコンゴ民主共和国のの初代首相パトリス・ルムンバは、マルコムXに大きな影響を与えることになる偉大な人物でした。(彼の人生は、「ルムンバの叫び」というタイトルで2000年に映画化されています)
 彼はコンゴを独立へと導いただけでなくアフリカの国々が統一組織をもつことを目指していました。しかし、独立後すぐに内戦が勃発。彼はその反政府活動をバック・アップしているベルギーやイギリスの傭兵組織の撤退を求め、ニューヨークの国連本部を訪れます。そしてこの時、彼はマルコムXに「黒人解放運動は、アメリカ国内だけでなくもっと広い範囲での活動としてとらえるべきなのだ」ということを教えました。特に、アメリカとアフリカそしてヨーロッパ、大西洋を囲む三つの地域で黒人たちの意識が高まれば、それが世界的な黒人の地位向上につながると考えたのです。
 彼はこうしてアメリカを離れてアフリカ、中東、イギリスなどの地域を回りながら、新たな黒人社会の未来を模索し始めます。残念なことに、マルコムXはこの考えを実現する前にNOI内部の者によって暗殺されてしまいました。しかし、彼の夢は、後にモハメド・アリというかつての盟友によって、まったく異なる形で実現されることになります。

<アリ、アフリカへ>
 マルコムがアフリカ諸国を歴訪している頃、アリもまた国内の喧噪や彼に対する非難の声を逃れるため、しばらくの間アメリカを離れ、招待をうけていたガーナなどのアフリカの国々を訪問していました。独立したばかりで夢と理想にあふれた国々と彼らを導く優れた指導者たちと出会った彼は、それまでのアフリカに対する考え方を改めることになります。
 そしてこの時、偶然彼はガーナの首都アクラのホテルでマルコムと久しぶりに出会いました。しかし、残念なことに二人がこの時和解することはありませんでした。二人の心が再び通じ合うには、今しばらくの時間が必要だったのです。しかし、この時確かにアリの中で何かが変わったようです。この旅に同行したNOIのメンバーの一人は後にこう言っています。
「あのアフリカへの旅を今後も忘れることはないでしょう、なぜって?それはその旅の過程でわたしはカシアス・クレイがモハメド・アリに変貌するのを目撃したからです、彼はそれまでの彼とは違う人間になった、そうなったのも、ほかでもない、アフリカの地だったからです」

<徴兵拒否>
 1966年、ベトナム戦争はいよいよ泥沼化の様相を呈していました。そして、ついにアリのもとに軍隊への入隊命令が届きます。しかし、彼は入隊を拒否。こうして、彼とアメリカという巨大軍事国家との長い闘いが始まりました。もともとNOIは、アメリカという白人中心の国家を黒人社会とはまったく別のものと考えています。従って、国からの入隊要請に応える義務は存在しないと考えています。教祖のイライジャ自身もかつて第二次世界大戦の際、軍への入隊を拒否し逮捕された経験があります。アリもまた、その信条にのっとって入隊を拒否したわけですが、後にこの闘いは、単に宗教的な論争を越えたより普遍的な反戦運動へと拡大してゆくことになります。

<逆風の中での闘い>
 当初、彼の軍への入隊拒否は、ほとんど世論の支持を得ることができませんでした。それどころか、戦争への協力によってその権利を勝ち取ってきた黒人解放運動の指導者たちからさえも非難されることになりました。
 その頃のアメリカは、2003年にイラク戦争を始めた当時の状況とそっくりでした。その戦争が間違いなのだということを指摘することは、誰にもできなかったのです。
 そのため、戦争への参加を否定した彼に対し、先ずは国内の会場運営者からタイトル・マッチでの使用を拒否する通告がありました。そのため、彼は試合の場所を海外へと移さざるを得なくなります。それでも彼は、ドイツ、カナダ、イギリスで次々に世界選手権をこなし、なんと一年間で7回もチャンピオンを防衛したのです。当時彼にかかっていたプレッシャーや異国の地でのハンディーなどを問題にしない圧倒的な強さでした。彼のボクサーとしての実力は、まさにピークを迎えようとしていました。しかし残念なことに、この後しばらくの間、世界中のファンは彼の試合を見ることができなくなります。彼は世界チャンピオンのベルトとともにプロ・ボクサーのライセンス、それにパスポートまでも没収されてしまったのです。もちろん、それは彼が軍への入隊を拒否し続けたことに対し、裁判が行われ有罪とみなされたからでした。こうして、モハメド・アリ絶頂期の3年半が失われることになったのです。入隊はしても戦場には行かないですむような妥協案も提示されましたが、彼はそれを拒否しました。

<反戦運動の高まり>
 しかし、初めは孤軍奮闘状態だったアリですが、しだいに時代の流れが変わり始めます。ベトナムの戦況がしだいに悪化してゆくにつれて、反戦運動が盛り上がりを見せ始めたのです。さらにいっこうに改善しない人種差別問題と黒人兵士の異常な死亡者数から、黒人解放運動の指導者たちもしだいに政府に対する批判を強め、反戦運動に参加するようになって行きます。その先陣を切ったのは、やはりキング牧師でした。

<再びリングへ>
 世論の変化にともないボクシング界も少しずつ変化し始めます。それまで国内ではまったく試合ができない状態だった彼に試合の話しがやってきたのです。それはキング牧師の地元でもあり、1974年には南部初の黒人市長が誕生したブラック・パワーの中心地アトランタでした。この街は、まわりの街や州の反対を無視し、あえてアリの試合を開催したのです。
 後にアトランタ・オリンピック開会式でアリが病に冒された肉体をあえてさらしたのは、この時の恩返しでもあったようです。
 その後、1971年ついに彼は連邦最高裁で無罪を勝ち取ります。しかし、皮肉なことに、彼は無罪を勝ち取る前の年、ジョー・フレイジャーと世界タイトルマッチを行い、破れてしまっていました。3年半のブランクとこの敗戦により、アリの時代は終わったとボクシング評論家の多くが論じました。
 しかし、アリはボクシングを止めませんでした。ヨーロッパ、インドネシア、日本、カナダなど世界各地を転戦しながら、彼は14試合もこなし、少しずつチャンピオン復帰への道をはい上がって行きました。その間、彼からチャンピオンを奪ったフレイジャーは、世界最強のハード・パンチャーと呼ばれたジョージ・フォアマンに叩きつぶされ、アリにとってはまた新たな脅威が生まれていました。
 結局アリは一度だけケン・ノートンにアゴを砕かれて破れたものの、それ以外はすべて勝利を飾り、1976年ついにチャンピオンへの挑戦権をつかみ取りました。この時、アリはすでに32歳。肉体的なピークがすぎていることは明らかでした。

<運命の国、ザイール>
 現在のコンゴ共和国、ザイール共和国は1971年にコンゴ共和国から国名を変更しています。1960年にベルギーから独立した時の、初代首相はパトリス・ルムンバでしたが、宗主国だったベルギーは、南東部の鉱物資源目当てに軍隊による併合を計画します。ルムンバは国連に協力を求めますが支援を得られず、ソ連に援助を要請します。しかし、このままだとソ連の元で共産化しまうことを恐れたアメリカは、軍の参謀長だったジョゼフ・デジレ・モブツを傀儡にしてCIAは1965年に独裁政権を設立します。モブツは国名をザイール共和国に改名します。彼はその後32年に渡り支配を続けながら私腹を肥やし続けることになります。彼はそうして得た巨額の資産を使って「キンシャサの奇跡」(1974年)を実現させたのでした。(なんとも皮肉なことです)
 こうして、行われることになった世紀のタイトル・マッチは、驚いたことにアメリカでもヨーロッパでもなく、アフリカのザイールで開催されることになりました。そして、この決定は、試合結果だけでなくその後のアリの人生、世界の歴史にも大きな影響を与えることになります。
 その後、モブツ政権は国内の鉱物資源を掘りつくし、1980年代にはソ連が崩壊したために支援を受けられなくなったことから弱体化。そんな状況下で、「ルワンダの悲劇」が起き、その影響でモブツは国を追われることになります。

<ルイ・アームストロングとCIA>
 この事件が起きたとき、ちょうどルイ・アームストロングが親善大使としてコンゴを訪れていました。実は、このツアーの関係者の中にCIAの人間が隠れており、彼らがキンシャサでの工作を指揮していたという説があるそうです。さらにこのツアー自体が、事件からマスコミの目をそらすためのカモフラージュだったという説もあります。もちろんルイ・アームストロングは、その件には関わってはいません。それどころか、帰国後彼は人種問題の重さに気づき、より深く人種問題に関わって行くことになります。
 こうして生まれたモブツの独裁政権は、国の富を一カ所に集中させることで、社会をあっという間に荒廃へと追い込んでいました。残念なことに、この世界タイトルマッチは、ザイールの国民から吸い上げられた巨額の富をつぎ込むことで実現したのです。もちろん、アリはそんな現実を十分理解していたはずです。その証拠に、彼は試合の直前、控え室で「この試合を是非ルムンバに見せたかった」と言っていたそうです。
 この時、ついに彼は旧友マルコムXの抱いていた夢を理解できたのかもしれません。そして、異なる形とはいえ、自分がその夢を果たすための闘いを今始めようとしているのだということを認識していたはずです。こうして、「ジャングルの決闘」のゴングが鳴りました。

<世界を驚かせた戦法>
 この試合ほど、観客を驚かせたボクシングの試合は、未だかつてないでしょう。2ラウンドから8ラウンド残り30秒まで、彼はロープを背にして徹底的に守り続けました。というより、撃たれ続けたと言うべきでしょう。「ロープ・ア・ドープ Rope A Dope」と後に名付けられたこの戦法は、今や「間抜けのふりをする」という意味で辞書にまで載るようになったそうです。(ちなみに、「ドープ」は、ヒップ・ホップの基本用語の一つでもあります)
 しかし、回が進むにつれ、しだいにフォアマンは打ち疲れてゆきました。さらに彼はアリに対するもの凄い声援やアリ自身の不気味なまでの余裕と笑顔に精神的にも追い込まれて行きました。8ラウンドにアリが反撃に転じた時、、すでに勝敗は決していたのかもしれません。フォアマンの巨体は、あっという間にマットに沈んでいました。

<世界の頂点と時代の頂点>
 こうして、アリは再び世界の頂点に立ちましたが、それは彼の長い人生における頂点であると同時に、彼がそのシンボルとなっていた「ブラック・パワー」時代の終焉とも重なっていました。当時、キンシャサの街角に立てられた巨大な看板に「ブラック・パワーは現実だ」と書かれたものがあったそうです。しかし、この国の実状がブラック・パワーとはほど遠いものだったように、現実的には黒人解放運動の行き詰まりは明らかでした。一世を風靡していたブラック・パンサー党も一時の勢いを失い、多くの犠牲によってやっと勝ち取った法的権利を行使しようにも、黒人たちにはそのために必要なお金がありませんでした。1960年代以降、白人と黒人の所得格差はせばまるどころか広がる一方だったのです。

<スポーツ・ビジネス・ヒーローの時代へ>
 アリ以降も、マイケル・ジョーダンのような世界的ブラック・スポーツ・ヒーローは現れています。しかし、その本質はアリとは大きく異なります。マイケル・ジョーダンは、世界市場を狙うアメリカ企業のシンボルの役目を担い、人種間格差の増大をごまかすためのアメリカン・ドリームのシンボルになってしまったのです。(もちろん、それは本人が望んだことではないでしょうが・・・)
 しかし、そうしたヒーローとなった彼は、そのために周りのビジネスマンたちにいいように利用される運命も背負うことになりました。もうすでに言葉も遅くなり、それ以上に身体の動きが遅くなっていることは明らかだったにも関わらず、彼は彼の影武者だった男、ラリー・ホームズとのタイトルマッチに挑むことになりました。彼の下で長年修行を積んできたラリー・ホームズはすでに世界の頂点に立っていましたが、アリを完膚なきまでに叩きのめし引退に追い込んだことで、アリ以上のダメージを受けることになりました。その後、史上最強のチャンピオンとも呼ばれた彼ですが、英雄アリを倒したことと、その後敵らしい敵に恵まれなかったことで、いつしか彼はボクシング・ヘビー級の歴史から忘れられた存在となってしまったのです。もし、彼がアリを破った別のチャンピオンを破っていたら、英雄になれていたかもしれませんが、・・・。ラリー・ホームズ、彼は歴史上最も強く、最も悲劇的な世界チャンピオンとなります。

<英雄の代償>
 こうして、長い時を経て再びアリは栄光を手に入れたわけですが、その時アリの肉体はすでにボロボロの状態になっていました。そのうえアリには、パーキンソン病という不治の病との闘いが待っていました。神は、最後まで彼にヒーローとして闘い続けることを望んでいたのかもしれません。そして、彼は病と闘う姿をあのアトランタオリンピックの開会式で見せてくれたわけです。

<時代を代表するカリスマ・ヒーロー>
 アリが世界各地を旅しながら残した数多くのパフォーマンス(それは試合だけでなく、彼お得意のビッグ・マウスも含めて)は、白人黒人に限らず、人種差別や権力と闘う世界中の人々に勇気と希望を与え、その後の世界に大きな影響を与えました。
 1970年代以降、第三世界における最大のカリスマ・ヒーローは誰か?僕は迷わずボブ・マーリーとブルース・リー、そしてモハメド・アリをあげたいと思います。21世紀に入ってなお、あらゆる意味でアリこそが「グレーテスト・チャンピオン・イン・ザ・ワールド」よ呼ぶに値する唯一の存在なのです。

<締めのお言葉>
「哲学的に言って、アリは自由な男だった。おそらく史上もっともグレートなボクサーだろうし、それに加えて、彼は自由なボクサーでもあったんだ。しかも、それが誰であれ、何をしているものであろうとも、自由であることが歴史的にみても非常に困難だった時代に、アリだけは自由だったんだ。・・・」
ビル・ラッセル(元プロ・バスケット・プレーヤー) 

<追記>
<アリ最後の試合>(2011年6月)
 1980年10月2日、モハメド・アリ最後の試合が行われました。アリを倒したのは、長年アリのスパーリング・パートナーを務めてきたラリー・ホームズでした。たぶん彼は戦う前にすでに自分が勝つことを知っていたのではないでしょうか。試合は圧倒的なホームズの勝利でした。あまりに無残な敗北に多くの観客は衝撃を受けましたが、それ以上にがっくりきていたのはアリを倒したホームズでした。
 試合後、彼は控え室でのインタビューで目に涙を浮かべながら、モハメド・アリの栄光はこの試合によって汚されたわけではないと述べたといいます。その表情は英雄を打ち破ったチャンピオンにはとても思えなかたっといいます。その後、彼は控え室のベッドに横たわったままのアリのもとを見舞いに訪れました。しかし、彼がベッドに近づくと、アリは繰り返しそう叫んだそうです。
「かかってこい!ホームズ!かかってこい!」
 ジョー・フレージャー、レオン・スピンクス、ケン・ノートンと、彼は一度負けた相手にも必ず二度目の対戦では勝利を収めてきました。だからこそ、次はお前を倒してやる!そう言いたかったのでしょう。しかし、もうそのとき、彼の身体は脳だけでなく腎臓などの内臓も含め、ボロボロの状態にありました。減量に用いた薬物も、それに追い討ちをかけており、障害が表れるのは当然の結果でした。それは金の亡者たちが彼を無理やりリングに引きずり上げたからなのか?それとも彼のプライドがそうさせたのか?どちらにしても、彼にはそのときもう自らの進退を判断をすることはできなかったのでしょう。

「対戦相手のすべての動きに対して、類を見ない、そして威圧的な注意力を持ち、相手の動きを予測したうえ、さらに、観衆の気分のごく微妙な変化にまでも注意を払っていたボクサーが、少なくとも史上一人はいた。彼は、観客の気分についても、自分に個人的責任があると感じているように見えた
- もちろん、カシアス・クレイ/モハメド・アリのことである。」
ジョイス・キャロル・オーツ著「オン・ボクシング On Boxing」より

「詩を書き、KOラウンドを予言し、相手をみんなやっつけ、人を笑わせ、泣かせ、そして俺みたいに背が高く、美しいファイターが、またいつか現れるかね?この世の始まり以来、世界史上、俺のようなファイターはほかにいなかったぜ」
トマス・ハウザー著「モハメド・アリ」より

「哲学的に言って、アリは自由な人間だった。・・・どんな人間でも自由でいることが歴史的にきわめてむずかしかった時代に、彼は自由だったのだ。アリはアメリカ史上最初の真に自由な人間の一人だったよ」
ビル・ラッセル(プロ・バスケット選手)

<追悼>
 2016年6月3日、アリゾナ州フェニックスでモハメド・アリは74歳でこの世を去りました。栄光の後の病と闘う苦難の人生にもついに終止符が打たれました。お疲れ様でした。

http://ameblo.jp/magokoro1216/entry-11263361994.html


与えられなかった敬意の物語~ラリー・ホームズ 動画つけましたよ


2012年05月29日

テーマ: ボクシング

1980年代に無敵を誇ったヘビー級ボクサー ラリー・ホームズの話をしましょう

http://www.youtube.com/watch?v=kurb96bguRE
ハイライト動画

貧しい子供時代

ハングリーなボクサーに良くある話で


家族のために 少年は学校をあきらめなければなりませんでした

母はたった一人で11人の子供達を育てていたのです


働かなければならなかったのです 家族のために


学校を卒業してなければ良い仕事などない

分かっていました でも そうしなければならなかったのです


学生時代スポーツ選手だった彼は ボクシングもしていました


18歳の時 彼は近所のジムに行き トレーナーに頼みます
再びボクシングを始めるために


「ボクシングを教えて欲しい」


チャンピオン?
そこまでは考えていなかったとホームズは言っています


ただ 彼も 貧しい少年だったボクサー達と同じで 運命を変えたいと思ったのは間違いないでしょう


打ち込めるものが欲しい この手で確かに掴めるものが欲しい


そう願ったのでしょう


そして何より彼はボクシングが好きだったのでしょう

彼が手にした打ち込めるもの

この手で掴める何か


味気ない毎日を変える魔法


それがボクシングだったのです

彼は 大きなタイトルには 縁がありませんでしたが 優秀なアマチュアボクサーになります


19勝3敗 のレコードです


そしてドン・キングの目にとまり プロボクサーとしてデビューすることになります


アマチュア時代 彼はモハメド・アリと出会います

スーパースター【グレイシスト】モハメド・アリ


ボクシングの伝説です


アリは ホームズとスパーリングをし 彼を気に入ります


そして彼をスパーリングパートナーとして雇ったのです


ホームズは アリとのスパーの中でめきめき腕を上げていきます


「お菓子屋の前にいる子供のようだった」
ホームズは振り返っています


毎日 毎日彼は最高のボクサーと向き合うことで 新しい技術 新しい発見をしていったのです


ホームズを良いボクサーだと 皆は認めてはいましたが スターになるとは思っていなかったようです


でも 彼は毎日練習し 毎日走り続けます


オレにもチャンスは来る


他の誰でもなく 彼がそう信じていたからです


彼は アリのコピーと言われるようになります

当然です 彼はアリと戦うことから学んだのですから


しかし 周囲は アリの劣化コピーとしてホームズを扱い続けます


だから 彼は わずかな金でランカーとの ヘビー級コンテンダーとの試合を引き受けたのです


本来ならば 割の合わない しかも 周囲からは 負けると思われていた試合を


彼は 前半にエルボーを受け骨折しますが それでも 10ラウンド中10ラウンドをとって 見事にランカー相手に判定勝ちしてみせたのです


彼は 自分自身を証明してみせたのです


ですが プロモーターのドン・キングからは気に入られてなかったらしく


彼が王座へのチャンスを掴んだのは アリと戦うため ノートンとの指名試合を放り出した チャンピオン スピンクスの王座を ノートンと争うと言う 回りくどい出来事からでした
http://www.youtube.com/watch?v=WDXZQralw64


http://www.youtube.com/watch?v=Xrlyacf0YKI&feature=relmfu


http://www.youtube.com/watch?v=3-TXnp-hyK4&feature=relmfu


http://www.youtube.com/watch?v=8lLsCKSWQ0I&feature=relmfu


http://www.youtube.com/watch?v=jW6ZgeL8uz8&feature=relmfu


http://www.youtube.com/watch?v=I11HmOutJcQ&feature=relmfu

試合動画

ラッキー?


いいえ


ホームズがランキング1位にいたからこその チャンスでした

それまで彼は負けていなかったのです


タイトルマッチをホームズは「良い試合だった」と言っていますし


歴史的な試合だったとの評価もあります


アリのコピー

大した選手じゃない

ホームズは自分に投げられた言葉から 自分自身を証明するために 自分の力を証明するために戦います


試合前に左腕を痛めてました


でも 止めるわけにはいかなかったし 左腕が使えないわけにもいかなかった


彼は 痛んだ腕を 振り回します 使わなければ勝てないからです


庇っていては勝てないからです


自分自身で 自分の価値を勝ちとる

そのために 彼は戦い 僅か1ポイント差で王座を掴みとるのです


ホームズは 努力を知っていましたし


彼は アリの側で アリの取り巻き達のバカ騒ぎを 覚めて見れる賢明さを持ってました


そしてアリの不摂生

アリから彼はしてはいけないことも学びました


彼は 聡明で 努力家で 素朴な人間だったのです


ですが ドン・キングには散々搾取されたようです


当時 ドン・キングの力がなければ 重量級のボクサーは干上がってしまったため 仕方なしのプロモート契約でした


それでも 彼は王座に君臨し続けたのです


彼の前にあるチャレンジャーが現れました


引退したはずの アリが帰ってきたのです


彼が学んだ偉大なるボクサー モハメド・アリが


ホームズには分かっていました


もう アリは自分には勝てないと


アリの時は終わり 今自分は全盛期なのだと


彼は自分の仕事を悟ります


彼は分かっていました

この試合によって 自分が人々から憎まれることを


でも彼は 教えなければならなかった 誰よりもアリに


彼が尊敬し 彼が学んだ偉大なるボクサーに


彼の時代は終わったのだと


ホームズは アリを知り抜いていました


だから 勝つことは分かっていても 手を抜くことなく 練習に励みました


アリは どうだったのでしょう


可愛がっていた スパーリングパートナーとしてのホームズとしか見えていなかったのかもしれません


試合は 残酷なものとなりました


http://www.youtube.com/watch?v=nlKKn_dUqqA&feature=related

試合後半動画




ホームズはもう 前半で 彼を倒す気を失ってしまいました


11ラウンドの残酷ショー


ホームズは レフェリーにストップを望み続けたそうです


しかしホームズが葬ったのは 一人の盛りの過ぎたボクサーではなく


人々が愛した伝説でした


だから人々は彼を憎みました


それでも 連勝をホームズは重ねてきます


そこに現れたのは 黒人ばかりのヘビー級トップに 白人達の期待を背負った白人のボクサー


ジェリー・クーニーでした


【グレイト・ホワイト・ホープ】
彼はそう呼ばれます


彼に対する期待は ホームズへの悪意となって行ったのです


そしてクーニーをホームズが倒してしまったから 大変なことになります


ホームズの家の壁には人種差別的な落書きが


郵便ボックスは爆破


脅迫電話で家族を殺すと脅されます


アリに続き 人気者を倒したと言う理由で 彼はまた 憎まれるのです


イマイチ人気のないまま


勝ったと彼が確信している(悪くても引き分け)試合を 判定負けとされ 彼は王座を失います


再戦は 今度こそ勝ちだと彼は信じ 確かにそれを多くの人々が認める試合でしたが やはり 判定負け


そこで引退を決めたのですが……



しかしです


彼は再びボクシングにもどってきてしまうのです


アリと戦った彼なら 分かっていたはずなのに


タイソンと戦うためカムバック


KOされます
http://www.youtube.com/watch?v=d1kUdzwqTRQ

動画

彼の時代も終わっていたのです


その後も現役を続けてはいたようなんですが……


今は自ら「ラリーホームズドライブ」と言う 会社などをしているようです


彼は 愛されませんでした


その強さからは有り得ないほどに


負けることを望まれました


彼は誰よりも努力し ボクシングを愛する 人間だったのに


勝ったゆえに叩かれました


才能が正しく理解されることはありませんでした


全盛期のアリと全盛期の彼が戦うことが出来ていたら 彼のボクシング人生は 変わっていたかもしれません


彼には相応しい敵がいなかったのです

アリは早過ぎタイソンは遅すぎた

アリを虐殺するのではなく

タイソンに虐殺されるのではなく


ベストな彼らとベストな時に戦えたのなら……


勝ち負けに関係なく 彼は人々の心を掴むことができたかもしれません


ボクサーは拳で物語を語ります


シンガーが歌で

ピアニストがピアノで語るように

ただボクサーは一人では物語を語ることは出来ないのです


相応しい相手が必要なのです


自分の前に立つ相手こそが
試合を物語に変えてくれるのです


もし素晴らしい試合をボクサーがすることが出来たなら


感謝するべきなのは客でも仲間でも支えてくれる人々でもなく


まず敵なのだと私は思います


そこに誰かがいてくれるから始まる


それがボクシングだからです


ホームズにはそんな出会いがなかったのです


敬意を払うべき敵に 出会えなかったのです


私は彼が好きです


彼は理不尽な扱いの果てに あきらめたのです


「家族が分かってくれれば良い」と


「名声を手に入れた奴は 自分達が人より上だって思っている オレだって 尊敬されたい でも 生まれる前には何も知らなかったように 死んだら何もわからない だから一緒だ ただ今精一杯出来ることをするんだ」


彼は悟ったのです


王座につきながらにして 転落するよりも早く


栄光から転がり落ちて やっと気付くボクサーもいる中で 彼は転落せずに 気が付いたのです


彼は 自分の痛みを学びに変えたのでしょう


ですがですが 彼の不幸は 評価されなかったことではなく


敵に恵まれなかったことなのだと 私は思います


どこまでも どこまでもボクシングが出来なかったことなのだと思います


近年 再評価されている ラリー・ホームズ

少し 時代がズレていたならばと悔やまれます

https://books.google.co.jp/books?id=uabvBQAAQBAJ&pg=PT466&lpg=PT466&dq=%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%80%80%E9%BB%92%E4%BA%BA%E3%80%80%E5%B7%AE%E5%88%A5&source=bl&ots=LmkHK89bnN&sig=zW8MbOaD_aNiYTTe3ZX1jL8_B38&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjahczss-fRAhWCybwKHe4pC2wQ6AEIPTAF#v=onepage&q=%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%80%80%E9%BB%92%E4%BA%BA%E3%80%80%E5%B7%AE%E5%88%A5&f=false
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