元祖にして本家フランスの原作 アルセーヌ・ルパンと柔術 柔術家 レニエ vs ボクサー デュボワ  20世紀初頭のオールイン バーリートゥード 公開他流試合

430_001.jpg

http://realize.txt-nifty.com/blog/2005/10/post_d377.html#search_word=柔術

ルパン:サヴァット




映画「ルパン」でルパンの父テオフラストは逮捕されようとしたとき憲兵相手に武術を使って脱出する。この武術は実はサヴァットらしい(字幕ではボクシングの先生となっていたが、クラリス母のセリフから「サヴァット」という単語が聞き取れる)
。その息子のルパンも結構肉体派で、同じくサヴァットを使っているようだ。ロマン・デュリスは「フランス式キックボクシングのサヴァット、イギリス式ボクシング、カンフーのトレーニングを受けた」とインタビューに答えている。

サヴァットはフランスの格闘技で結構荒っぽいものだったようだ。
イノサント・アカデミー:サバットとは何か?
http://www.bruceleejkd.com/jkd/aboutia/savate/savate.html
Japan Savate Club:サバットとは
http://www.savatejapan.com/savate/


現在、一般的に「サバット」と呼ばれているものは、
正式にはボックス・フランセーズ(フランス式ボクシング)といって、 古式サバットの一部に過ぎません。
元来サバットとは、離れた間合いでは武器(杖)を使い(=杖術:ラ・カン)
中間距離では手足による打撃を用い(=ボックス・フランセーズ)、
相手と接触した場合は投げ技を使う(=パリジャン・レスリング)という総合格闘技でした。
元々路上の喧嘩から生まれたため、 あらゆる状況に応じて最も効果的な技術が発達していったのです。



杖を使うといえば、映画のなかでルパンが無頼漢をステッキで撃退してたけど、実際のラ・キャン(ラ・カン)がどんなのか知らないのであれがそうなのか分からない。なおこのころのステッキは武器なので頑丈で重いらしい。いろいろ物騒だから。ってそんな街中を妊婦一人で歩かせるなー。アクションはテオフラストが一番カッコよかった。


原作「カリオストロ伯爵夫人」でも、テオフラストはボクシングとサヴァットの先生と言われている。でも邦訳では単にボクシングの先生と訳されている(ハヤカワ、創元、偕成社とも)。ルパンはその父からボクシングや体操などいといろ教わったと言っているのでサヴァットも習ったと思われる。というのは、「カリオストロ伯爵夫人」でルパンは水泳、ボクシング、レスリング、体操(軽業)、日本流武術(柔術か?)を身に付けていることが分かるが、このうち水泳以外は父から譲り受けたと明言されてるから。たとえば

「どうだ、見事な一撃だったろう?」とラウールは笑いながら言った。「亡き師テオフラスト・ルパン直伝の日本流武術さ。これでしばらくは夢見心地で、羊みたいにおとなしくなるだろうよ」(※ラウール=ルパン。ハヤカワ文庫)

とファザコンっぷりをアピールしてくれるのが楽しい。若さいっぱいだし。これらは身一つでできる武術ばかりなので、当然サヴァットも教わっていると推測できる。実戦では「緑の目の令嬢」でサヴァットを使って相手の胸を蹴り飛ばしている。そこでは“蹴合い術”と訳されている(創元推理文庫)。


また、「カリオスオトロの復讐」でもサヴァットが出てくる(引用は偕成社文庫)。

なんてことだ! スポーツマンか? いや、完璧な運動選手とでもいうか? なんといえばいいんだ? 一見、仕事しか頭にないような建築技師に見えるが、あの筋肉、神経、意思力、あの勇気と大胆さ。それにしても、人をひきつける男だな、あの若者は。柔術、ボクシングと蹴合いをもうすこし手ほどきしてやれば、すばらしく理想的な男に仕立てあげられるんだが。

フェリシアンのことが気に食わなかったはずなのに、“できる”男だと分かったらこれです。ていうか、柔術(日本流武術)、ボクシング、サヴァット、それ全部父から習った体術じゃないか!楽しいです、いろいろと。


追記。
DVD「ルパン コレクターズ・エディション」特典ディスクで、ドルー・スビーズ公爵とルパンの手合わせシーンの公爵が使うステッキ術は1900年代のステッキ術(音声ではラ・キャンといっていた)を元にしていると言っていました。

http://realize.txt-nifty.com/blog/2005/10/post_fe05.html#search_word=柔術

ルパン:柔術




映画「ルパン」では柔術は出てこないので原作のみ。

ルパンは「アルセーヌ・ルパンの脱獄」でガニマール相手に柔術を披露している。他に「カリオストロの復讐」でフェリシアンが柔術を使っている。興味深いことに、「アルセーヌ・ルパンの脱獄」(初出1906年)の時には日本という単語が前後に出て日本の武術だということが分かるようになっているのに、「カリオストロの復讐」(初出1935年)では柔術と言う言葉が単体で使われるようになっている。フランスへの浸透ぶりが見えるかのようだ。

この柔術(日本では柔道という言葉のほうが一般的)は嘉納治五郎によって1889年にフランスにもたらされたらしい。パリ万国博覧会、エッフェル塔の建設もこの年。ということでルパンが柔術を習得しておかしくはない。「カリオストロ伯爵夫人」でルパンがテオフラストから習ったと語った日本流武術が柔術だとすると、テオフラストから習ったとするには少し新しい(テオフラストが亡くなったのは1880年以前と推定される)。「アルセーヌ・ルパンの脱獄」では柔術が一般的になる前に日本の格闘技を教えてた、とあるし。でも、まあ、柔術としたいじゃないですか。だから柔術ということで決定!(私的には)

SportsClick 柔道
http://www.sportsclick.jp/judo/01/index32.html


フランスに於ける柔道普及の経緯についてですが、その基盤は、ひとえに我が日本人柔道家の苦労と努力によって形成されたと言えます。
 柔道の海外進出の歴史を紐解いて見ましょう。その最初の担い手は、明治22(1889)年10月15日、マルセイユに普及の第一歩を記した若き日の嘉納治五郎師範(当時満29歳)、その人でした。その後、普及の拠点はパリに移動しました。




興味深いページを見つけた。
フランス語になった日本語
http://www.geocities.jp/bourgognissimo/Bourgogne/1ARTL/BR_046_2.htm

このページによると、柔術(jiu-jitsu)の初出は1906年。柔道(Judo)の初出1931年よりかなり早い。そして、jiu-jitsuが出てくる「アルセーヌ・ルパンの脱獄」の初出は1906年1月!(むしろ初出をこの用例からとってる?) もちろんそれ以前に口頭では使われていたのだろうけれど当時最新の言葉だったことがわかる。嘉納氏が1889年に柔術を紹介しているからもっと早い用例があるかもしれない。それとも、別の名前で呼ばれていたのだろうか。「アルセーヌ・ルパンの脱獄」では警視庁でも柔術を採用していたとあるし、割と知られているように書かれていると思う。ちなみに空手の初出は1956年でルブランの死後。ルパンは空手を使っていない(※)。


じゃあ、ホームズのバリツは?と思うわけで。
バリツ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%84

バリツとは、柔道(または柔術)のことであるというのが通説となっている。当時、バートン=ライト(E.W.Barton-Wright)という人が日本の柔術の技法を取り入れた護身術を"bartitsu"と名付けてロンドンで教えており、雑誌に記事を掲載していた。その雑誌にはドイルも小説を掲載していたので、ドイルがその記事を読んでいた可能性は高く、"baritsu"とは"bartitsu"の誤記であるとする説が有力である。

ということらしい。バリツの初出は1903年発表の「空き家の冒険」。バートン・ライトが記事を掲載していたのは1899年から3年間の間だそう。


□2006/05/23追記
※「空手」は原文には存在しないが、日本語訳では存在する。ハヤカワ文庫の「謎の旅行者(1-4)」より


片手で攻撃をかわし、もう一方の手で男の頚動脈に強烈な一撃を加える。いわゆる空手チョップという技だ。男は卒倒した。



この箇所の「空手チョップ」は実は原文では「頚動脈へのフック」となっている。どうして空手と訳したのだろう?と思っていたら、アルセーヌ・ルパンサイトを公開されている方のブログで頚動脈の発音「カロティード」と「カラテ」を掛けて訳しているとあって納得した。フランス語の原文で読んだ感想など書いてあるので参考になる。

ペレンナのアルセーヌ・ルパン・ブログ 《Le Mysterieux voyageur》を読み終えました。 samedi-20-mai
http://vingt.exblog.jp/2234523/

因みに偕成社文庫、岩波少年文庫でも「空手チョップ」、新潮文庫は「頸撃ち」と訳されていて、創元推理文庫はこの言葉を訳していない。ポプラ社文庫版も記述に省略があるが「空手」という言葉を使っている。

http://realize.txt-nifty.com/blog/2006/06/_2006328425_3a12.html#search_word=柔術
毎日新聞夕刊「夢枕獏の格闘塾」ルパン対ホームズ (2006年3月28日-4月25日)




「夢枕獏の格闘塾」というコラムはだいたい隔週ペースで連載しているようで、第47回から49回の3回に渡って「ルパン対ホームズ」を扱っていた。夢枕氏の「本朝無双格闘家列伝」を読んだことがあるけれど(面白かったです)、それと同じように、はっきりしてないところは好きに解釈して楽しんでしまおうというエッセイ。
•その1 柔道対柔術、達人の闘い(2006年3月28日付)
•その2 立ったまま“腕ひしぎ”を極める(同4月11日付)
•その3 第三者に無防備な寝技(同4月25日付)

内容はバリツとウデヒシギとルパン対ホームズについてというあたり。ルパンの関連作品はアルセーヌ・ルパンの脱獄(1-3)、金髪婦人(2-1)、ユダヤのランプ(2-2)。記述は創元推理文庫版を元にしている。格闘技についての知識が無いので描写についてはそのまま飲み込むしかないのだけど、面白く読ませてもらった。映画「ルパン」でテオフラストが相手の気をそらせ、みたいなことを言ってるのを思い出したかな。

□関連記事
ルパン:柔術


□2010/02/11
この連載は夢枕獏『薀蓄好きのための格闘噺』毎日新聞社、2007年で単行本化されています。
http://realize.txt-nifty.com/blog/2005/10/post_a2da.html
ルパン:フェンシング




サヴァットと違って映画「ルパン」のルパンが使えないのはフェンシング。クラリスの父を相手にしたとき正攻法でいかなかったのは、フェンシングをやったことが無かったからのようだ(せっかくだから遊んでやれ、ぐらいの気持ちはあったと思うけど)。ルパンは庶民の育ちだから当然といえば当然だし、似非貴族としての実績もおそらく無いと思う。ノベライズ本ではフェンシングは父に教わらなかったから身についていないことになっている。

これについて原作「カリオストロ伯爵夫人」を確認してみて疑問だったのは1.ルパンはフェンシングを教わったか。2.テオフラストはフェンシングの先生だったかの2つ。というのは、ルパンはクラリスに父は“体操、フェンシング、ボクシング”の先生だったと言っている。でもそのすぐ後父に教わったといっているのは“体操、ボクシング”で、「カリオストロ伯爵夫人」ではフェンシングは使わない。このころのルパンは武器(拳銃やナイフ。仕事用のナイフは持っていると思うが護身用ではないと思う)を持たないようにしているので、出番がなかったとも考えられる。でも、貴族育ちのクラリスに気を使った(見栄を張った)とも考えられる。(私の勝手な考えだけど、クラリスがただのクラリス・平民だったなら、南フランスからエトルタまで追いかけていかなかったと思う。)

原作のルパンは後にはサーベルでの決闘をしてるのでその頃までにはフェンシングを身に付けていることがわかる。
http://realize.txt-nifty.com/blog/2008/11/1---1-3-f5d8.html#search_word=柔術
腕ひしぎ(その1) - アルセーヌ・ルパンの脱獄(1-3)




アルセーヌ・ルパンは数種の格闘技を会得していることになっているが、最も早く出てくるのが柔術である。1906年に発表された「アルセーヌ・ルパンの脱獄(1-3)」において、柔術の技を披露する。


またジュウジツが知られていなかった時代に、パリでこの闘技を教えたのも、またアルセーヌ・ルパンだったらしい。(「強盗紳士ルパン」ハヤカワ・ポケット・ミステリ、中村真一郎訳、P57ー58)




 それから彼は、急に腹を立てて、男の首をしめて、押し倒そうとした。彼は五十歳だったが、まだ人並み以上の力を持っていた。ところが相手は、かなりわるい条件にあるように見えた。それに、もしこの男を連行することができたら、何という手柄になることだろう!
 闘争は長くつづかなかった。アルセーヌ・ルパンはほとんど抵抗しなかった。襲いかかるとすぐに、ガニマールは手をはなした。彼の右腕は力なく、だらりとたれ下っていた。
「オルフェーブル河岸でジュウドウを習っていたら」と、ルパンは言った。「この手は日本語でウデヒシギだってことがわかるだろうよ」(同P64ー65)



原文ではジュウジュツ/ジュウドウはjiu-jitsu、ウデヒシギはudi-shi-ghiと綴られている。このうちjiu-jitsuは今でも使われる表記なので問題はない。腕ひしぎがudi-shi-ghiとなるのか、という点は、フランス語はHを発音しないので、
/u-de-hi-shi-gi/→/u-de-i-shi-gi/→/udi-shi-ghi/
となってもおかしくはないと推測することはできる(あくまで仮定として)。ただ、なぜjiu-jitsuでudi-shi-ghiなのか気になっていた。


L'arrivee du jujitsu en France(仏語)…A
http://pagesperso-orange.fr/laurent.thomas/ffjj.htm

このページで、1905年に行われたレニエとデュボワによる異種格闘戦が紹介されているが、柔術家レニエが英語でアーム・ロック(arm-lock)、日本語で腕ひしぎ(udi-shi-ghi)という技で勝ったことが紹介されている。(後で指摘するときのために、このページをAと名づけておく)

このレニエ=デュボワ戦を紹介しているブログがある。

100年前のフランスの出来事 : 柔術家vs拳闘家
http://france100.exblog.jp/3743911/


デュボワはレ・ニエに素早く懐に飛び込まれ、足固めに押さえ込まれて優勢に立たれた。レ・ニエがデュボワを地面に押さえつけ、腕をひねると、彼はこらえきれずに「止めろ!」と叫んで試合を終了させねばならなかった。



腕をひねる…確かに腕ひしぎっぽい? さらに調べてみる価値がありそうに思えた。


Early Ju-jutsu: The Challenges by Graham Noble(英語)…B
http://www.dragon-tsunami.org/Dtimes/Pages/articlee.htm
同じ腕ひしぎでも、こちらはUde-shighiとなっている。

Historique - Club de Judo / Jujitsu DOJO OLYMPIC de Lyon(仏語)…C
http://www.judoclichy92asjj.com/pages/judo-histoire-du-judo-en-france.htm
今度は十字固め(JUJI-GATAME)だ。しかし案ずるに及ばず、腕ひしぎは現在「腕ひしぎ十字固め」と呼ばれているようなので、同じ技を指すのだろう。とはいえ、当時、腕ひしぎと言っていたのか、十字固めと言っていたのでは問題が違ってくる。ところでCのページでは、フランスの柔道史をKawaishi前とKawaishi後とで分けている。この日本人の名前「川石」で検索してみると、ずばりの本が見つかった。

吉田郁子「世界にかけた七色の帯 フランス柔道の父川石酒造之助伝」駿河台出版社、2004年
この本には、私が気になっていた情報がほぼ網羅されていた。この本で参照されているミシェル・ブルッス「柔道 その歴史その成功」1996年は、Aのページの参照本と同じと思われ、Aのページの下にある画像がレ=ニエの柔術道場の宣伝ポスターであることが分かる。

http://realize.txt-nifty.com/blog/2008/11/2-0761.html#search_word=柔術
腕ひしぎ(その2)




「世界にかけた七色の帯」によれば、当時、イギリスでバルトン=ライト(バートン・ライト)によって柔術を元にバルティツBartitsuが考案された。バルティツ・クラブに出向き、柔術の有効性を知ったフランス人にエドモン・デポネがいる。以下、なかなか知る機会のない内容だと思うので、少々長く引用する。(見やすくするため段落ごとに空行を入れた)


柔術の有効性を知ったデポネはパリに戻ると、グレコ・ローマン型のレスリング教師エルネスト・レニエに話を持ちかけ、デポネの出資で柔術の道場を開設する事にした。デポネがパリの目抜き通りシャンゼリゼに近いポンティウ街五十五番地に場所を定め、盛んな宣伝を繰り広げている間に、レニエはロンドンで柔術の拾得に励んだ。一九〇五年の秋、レスリング教師が柔術教師となって帰ってきてからは、さらに大がかりな宣伝で「日本式武術」の有効性を売り込んだ。あまりに派手な宣伝がレスリングやボクシングの教師たちの反感を買い、まもなくボクシング教師のジョルジュ・デュボワが試合を申し込んできた。デュボワは四〇歳、ボクシングを教え恐るべきボクサーとしても知られ、フェンシング教師でもあり、重量挙げでも一流という猛者である。身長一・六八メートル、体重七五キロ。一方レ=ニエ(ジウジツ教師になってからレニエは名前を日本人風にレ=ニエと分けて書いていた)は三十六歳で身長一・六五メートル、体重六三キロ。両者とも小柄な方で、体重においてややデュボワが勝っていた。デュボワは雑誌『体育』に寄稿して、「全く平然と我々の間接をひねりにヨーロッパにやてくる日本人」を皮肉り、ギリシャ、ローマ時代から二千年にわたって学んできた正統な格闘技が今や東洋の怪しげな技によってねじ伏せられようとしている、と憤慨する。


デュボウの挑戦はたちまちスポーツ新聞に大きく取り上げられ、パリじゅうの話題になる。試合の規則は簡単で「噛みつくこと、眼をつぶすこと、下腹部を傷つけること以外はすべて許される」というもの。場所の選定に苦労して何度か延期になったあげく、試合は一九〇五年十月二十六日、場所はパリの西九キロにある郊外の町クールブヴォワのヴェドリーヌ自動車工場の敷地内と決定した。前評判が高く、パリ市内では混乱が予想されるとして警察の許可がとれなかったのだ。試合は公園ではなく専門家だけが入場を許された。スポーツ新聞紙『野外生活La Vie au grand air』の写真が残っているが、一二メートル四方に網を張って作った広々としたリングを囲んで試合をのぞき込んでいる観客は、みなシルクハットか山高帽で正装した紳士たちで、そのなかに毛皮の襟巻きをした女性がちらほら。戦っているレ=ニエも上着を着ており、デュボワはジャケットに赤い手袋といういでたちであった。試合の経過を伝える自動車とスポーツの専門紙『自動車L'Aout』の記事によると「そこには五百人を越える招待客がいた! パリじゅうの著名なスポーツマンはみな顔を揃えている。ボクシングの花形選手が自動車レースの第一人者と並び、有名なフェンシング選手たちもリングのまわりにひしめき、スポーツ記者たちが全員勢揃いしていた……」という状況であった。


結果はあっけなく終わる。レ=ニエがデュボワを「腕ひしぎ」で押さえ込んで六秒で勝った。


「今や『ジウジツ』という言葉はまるで勝利のラッパのようにパリのいたるところで鳴り響いている。街でも、新聞紙上でも、ミュージックホールでも」とある新聞は報じた。レ=ニエのクラブにはパリの上流社会の人士が次々と登録した。(「世界にかけた七色の帯」P21ー22)



ボクシングの猛者をたった6秒で倒した。柔術(ジウジツと発音されていた)とレニエ=デュボワ戦の決め技「腕ひしぎ」は最新流行の話題だったのである。しかも、「今や『ジウジツ』という言葉はまるで勝利のラッパのようにパリのいたるところで鳴り響いている。街でも、新聞紙上でも、ミュージックホールでも」と報じたある新聞とは、Aのページに拠れば1906年1月14日付の「le sport Universel illustre」紙と思われるが、「アルセーヌ・ルパンの脱獄(1-3)」が掲載された「ジュ・セ・トゥ」12号の発行日は1906年1月15日なのだ。作者ルブランがいかに素早く反応し時流に乗っていたかが分かる。

なお、「野外生活(La Vie au grand air)」というのは、「ジュ・セ・トゥ」と同じ出版社の雑誌、つまり、ルパンシリーズの仕掛け人ピエール・ラフィットが創刊した雑誌(山田登世子「リゾート世紀末」によればスポーツ週刊誌)で、第1号(1898年)には他社から刊行されていたルブランの「これが翼だ」が再録されている。だからレニエ=デュボワ戦の資料はすぐ手に入る状況にあったはずである。


前→腕ひしぎ(その1)
次→腕ひしぎ(その3)
http://realize.txt-nifty.com/blog/2008/11/3-0ecb.html#search_word=柔術
腕ひしぎ(その3)




新たなスポーツとして脚光を浴びた柔術は、その後まもなく見捨てられてしまう。警察や軍隊の訓練の中と、見世物興行で細々と生き残ることになる。


しかし警察と軍隊においてジウジツへの関心はいき続けた。一九〇五年パリ警視総監は市内の犯罪が増え逮捕が困難になってきたのを憂慮して、警官にジウジツを習わせることを決定した。これは警官の活動に自転車及び潜水服が取り入れられたことに続く、社会の養成に基づいた決定であり期待も大きかった。ジウジツを体得している警官は強い、という観念が広まったのが何よりの収穫だった。(同P24)



これで、わざわざルパンが「オルフェーブル河岸」(パリ警視庁)を持ち出してきた理由が分かる。警察への採用に関しては次のような記録が残っているらしい。日本側の働きかけと、柔術の知名度が上がったこととが作用して採用される運びになったのだろう。


一九〇一年のパリの警察関係の記録によると、東京の検事総長がパリの警視庁を訪問した際に、フランスの警官の中にあまり体格が優れない者もいるのを見て、日本の警察で活用している技を披露して、フランスでも試みるように勧めた、とある。(同P20)



そして、


レ=ニエがロンドンで習った教師は天神真楊流であり、この頃のフランスにはまだ嘉納治五郎の柔道は普及していなかった。(同P25)



これも知りたかった。当時、有名無名の日本人が海を渡り、そのなかには古い柔術を伝える者もいたのだ。天神真楊流は嘉納治五郎が最初に入門し、講道館柔道の元になった柔術の一つである。腕ひしぎは天神真楊流から柔道に取り入れられた。

嘉納の最初の訪仏は1889年のマルセイユで、フランスにはすでに柔道を見聞した者もいたと思われるが、このときのムーブメントは柔術だった。嘉納の初期の訪仏がフランス柔道にどのような影響を与えたか詳しく分からないらしい。しかし、嘉納が教育者で、英語・ドイツ語が堪能、フランス語も理解できた文武両道の人だとは初めて知った(以前も目にしていたわけだが、意識して読まないと頭に入らないものである)。1906年にジウジツは優れた護身術だが本物のスポーツではないと宣言したクーベルタンは、嘉納に出会って柔道の有効さを認めることとなる。嘉納は1909年に国際オリンピック委員会の委員に選ばれている。

この後、フランスの柔道普及には低迷期が続き、再び柔道が花開こうとするのは1930年代のようだ。ラルースの辞書にはjiu-jitsuが1906年(Nouveau Larousse supplement)に、judoが1931年に採用されているらしい。フランスに渡った川石酒造之助は1935年に道場を開いた。その機を知ってか知らずか、ルパンシリーズでも柔術の言葉が再浮上する。1934年発表の「カリオストロの復讐(20)」においてである(以前の記事→ルパン:柔術)。柔術は他に「戯曲アルセーヌ・ルパン(3)」で登場する。(1908年初演。ただし、二次作品に近いと考える)

http://realize.txt-nifty.com/blog/2008/11/4-9c19.html#search_word=柔術
腕ひしぎ(その4)




気になっていた情報はほぼ分かったが、そうでないのが腕ひしぎは「udi-shi-ghi」かという点。こればかりは一次資料を当たらなければならないが、どうしようもない。フランス語の場合「e」は「ウ」と読むので避けたのかも知れない。フランス国立図書館のガリカで2005年10月27日付の新聞を調べたが、「フィガロ」紙と「プレス」紙でアーム・ロックという技名が見えるが、日本語の技名は出ていなかった。

面白いのが「プレス」の見出しである(記事前半部、記事後半部)。レ=ニエが日本人であるかのように見える。「プレス」では一面で扱い、ボクシングより柔術の名前が先に来ているのも独特だ。


柔術とボクシング
日本式勝利

午後のセンセーショナルな試合
教師デュボワ対日本人レ=ニエ
《アーム・ロック》技



1893年に刊行された天神真楊流の極意書では、同じ漢字(腕挫)で「ウデシキ」と読ませている。Bのサイトの「Ude-shighi」表記は「うでひしぎ」と「うでしき」との折衷のような感じもする。

近代デジタルライブラリー:天神真楊流柔術極意教授図解:140頁
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40075953&VOL_NUM=00000&KOMA=67&ITYPE=0
国立国会図書館 NDL-OPAC(書誌 詳細表示 ):天神真楊流柔術極意教授図解
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000000493376/jpn
ソフトマインド - livedoor Wiki(ウィキ):天神真楊流柔術極意教授図解の目次
http://wiki.livedoor.jp/pg_gifu_dojoo/d/%c5%b7%bf%c0%bf%bf%cd%cc%ce%ae%bd%c0%bd%d1%b6%cb%b0%d5%b6%b5%bc%f8%bf%de%b2%f2%a4%ce%cc%dc%bc%a1


もう一点。ルパンがかけた技は「腕ひしぎ」か。これは柔道は全くの門外漢なので分からない。ルブランの描写が簡潔で、翻訳により解釈が違うのがまた混乱する。レ=ニエが使ったのは寝技で、ルパンは立ったまま使っているからレ=ニエの「腕ひしぎ」とは違うことは分かる。所謂時事ネタというやつで、どんな形の技であれ、「柔術」であり「腕ひしぎ」であることが肝心だったのだと思う。読者はレニエ=デュボワ戦を知っているわけだから、四角四面に技を披露する必要はないわけだ。

前半期のルパンシリーズの魅力の一つは、ベル・エポックと呼ばれる時代との同時代性にある。「アルセーヌ・ルパンの脱獄(1-3)」の発生を1900年頃と解釈するのは後の作品との兼ね合いで、むしろ初期短編は「今からほんのちょっと未来」を見据えて書かれていたのではないかと思っている。たとえば第1作でルパンは執筆当時にはまだ就航していない船の上に登場した(→未来の船・プロヴァンス号)。「ジュウジツが知られていなかった時代」というのは、今まさに柔術が脚光を浴びようとしている様を捉えた言葉だとも言える。

あるいは、


立ったまま、本来は寝技でかける”腕ひしぎ”を極めているあたり、ルパンも並の人間ではない。立ち技で極める”腕ひしぎ”もあることにはあり、最近でいうと、PRIDEで、桜庭がヘンゾ・グレイシーの腕を折ってしまったあの技が近いかもしれない。(夢枕獏の格闘塾第48回「ルパン対ホームズ その2」毎日新聞夕刊2006年4月11日。単行本「薀蓄好きのための格闘噺」に収録)



との意見もあるので、立ち技でもアリなのだろう。柔術の教師をやっていたことになっているのだから、ルパンが技を考案したと主張することもできる。


前→腕ひしぎ(その3)
次→腕ひしぎ(その5)
http://realize.txt-nifty.com/blog/2008/11/5-7ec2.html#search_word=柔術
腕ひしぎ(その5)




最後に、Bのページからレニエ=デュボワ戦の模様を紹介する。この試合の模様は元々レ=ニエの著書「柔術の秘密」(1905年刊行)に収録されたものらしい。以下は自動翻訳を元にしたもの。なお、フランス式ボクシングは足も使う。


「始め」の合図で、リングの反対の角を取った2人の選手はすばやく向かい合って動き、数秒間警戒を保ちながら、互いから2ヤード(約1.8メートル)の場所で止まりました。
最初にローキックで攻撃したのはジョルジュ・デュボワでした。 それはすぐに、相手の上で跳ねてそのウエストを差押えたレ=ニエによって回避されました。 彼が左手でデュボワの背中の筋肉を絞っている間、右のももの下に置かれたひざの打撃で、彼は後者を揺らしました。 デュボワはあおむけにどしんと落ちました。
レ=ニエは彼に続いて倒れ込み、のどを締め、デュボワの右手を差押えることができました。 そして、彼の背中に自分を引き渡して、彼は、頚動脈を絞るためにデュボワの首の上に脚を通しました。 これが完了していて、彼は乱暴に敵の腕の関節に対して引きました。 腕を脱臼できるほどのこの拘束がそのような痛みを引き起こしたので、デュボワは、1秒の何分の1の間抵抗しようとした後に、ひどい叫び声をあげて負けました。


彼は柔術のひどい固め技の1つ「腕ひしぎ」によって破られました。 試合は26秒続き、実際の戦いはたった6秒でした。
デュボワが大声で叫ぶのを聞くとすぐにレ=ニエが緩めた、このひどい拘束からジョルジュ・デュボワが開放されたとき、彼は立ち上がって柔術王者と握手しました。だれもが2人の選手に群がりました。
デュボワは「もっと上手くやりたかった」と言いました。「しかし、私が拘束から逃れるのは不可能だった。そのまま続いたなら、私の腕は藁のように折れただろう」




□参考文献
・吉田郁子「世界にかけた七色の帯 フランス柔道の父川石酒造之助伝」駿河台出版社、2004年
駿河台出版社:世界にかけた七色の帯
http://www.e-surugadai.com/cgi-local/suruga/disp_desc.cgi?type=other&isbn=4-411
Amazon.co.jp: 世界にかけた七色の帯―フランス柔道の父川石酒造之助伝 吉田 郁子 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4411003589
・井上俊「武道の誕生」吉川弘文館、 2004年
・Emile Andre "100 Coups de jiu-jitsu" Flammarion, 1906
※ルパンシリーズの研究書
Jacques Derouard "Dictionnaire Arsene Lupin" Belles Lettres, 2001
でもレニエ=デュボワ戦が取り上げられているようだ。「Google ブック検索」で引っかかっただけなので詳細分からず。


□余談
「プレス」の記事には試合を観戦したモトノとタツケという二人の日本人の名前が出てくる。
検索してみると写真が見つかった。モトノ・イチロー氏と息子セイイチ、タツケ・S氏とアマリ・Z氏、モトノ夫人の3枚の写真がある。
10 1904 JAPAN PARIS ITCHIRO TATSUKE AMARI MOTONO PRINT
http://www.old-print.com/cgi-bin/item/LIL0904142

モトノ親子は本野一郎(もとのいちろう)と盛一(せいいち)だろう。本野は1901年12月からフランスに駐在していた。
本野一郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%87%8E%E4%B8%80%E9%83%8E
本野一郎
http://www.law.kyushu-u.ac.jp/~shichinohe/minpo/(67)_motono_ichiro.htm

タツケとアマリがTatsuke, ShishitaとAmari, Zojiと同一人物なら、田付七太(たつけしちた)と甘利造次のことかもしれない。
Min. Plen. Y Embajadores del Servicio Diplomatico Extranjero
http://archivo.minrel.cl/webrree.nsf/PagLisMinPlenEmbServDiplExtranj?OpenPage&Start=301&Count=1000&ExpandView&Click=
文官高等試験合格者一覧(田付七太・ブラジル大使)
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi25.2.html
神戸大学 電子図書館システム:移民の国南米に日本商品の大市場(甘利造次・前ペルー領事)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10016074&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1


前→腕ひしぎ(その4)
スポンサーサイト

| 未分類 | コメント(0)

コメント

非公開コメント

トラックバック

http://kimuramasahiko.blog.fc2.com/tb.php/3337-663aaad3