チェ 28歳の革命 チェ 39歳別れの手紙 ゲバラのいない時代は不幸だが、  ゲバラを必要とする現代は、もっと不幸な時代だ。  スタジオジブリ 鈴木敏夫 ※ブラウザによっては表示再生されませんのでブラウザを変えて視ることを薦めます

review_gstche_1.jpg
review_gstche_14.jpg
review_gstche_large.jpg
Che_Guerva_22.jpg
ac81d91f6dd57ae948ae7ca5840dd464.jpg




動画:知恵28 ②



動画:知恵39 ②

http://zip2000.server-shared.com/che-part12.htm



「チェ 28歳の革命 Che Part1 : The Argentine」
 「チェ 39歳別れの手紙 Che Part2: Guerrilla」 
2008年

- チェ・ゲバラ Che Guebara、スティーブン・ソダーバーグ Steven Soderbergh -






<カリスマ・ヒーローの再評価>
 20世紀を代表する数少ないカリスマ的英雄のひとり、チェ・ゲバラ。1970年代以降、彼の存在は伝説となり、彼の顔がプリントされたTシャツは変らぬ人気を保ち続けています。反体制運動がピークを迎えていた1969年には彼の伝記映画がリチャード・フライシャー監督によって映画化もされています。(この時、ゲバラを演じたのは「アラビアのロレンス」で有名なオマー・シャリフ。そして、カストロを演じたのは西部劇の悪役で有名なジャック・パランスでした)革命が現実の出来事だったその時代、同時代のヒーローとしてゲバラの生き様は十分に映画化する価値があったのです。
「もし、われわれが空想家のようだといわれるならば、救いがたい理想主義者だといわれるならば、できもしないことを考えているといわれるならば、何千回でも答えよう、そのとうりだ、と」
チェ・ゲバラ

 しかし、米ソの対立やアメリカの保守化の中でゲバラの存在は、「共産主義のテロリスト」として否定されるようになってゆきました。ところが、1980年代のソ連の崩壊をきっかけに社会主義経済体制の失敗が明らかになると「共産主義」の本質自体が疑われようになり、ゲバラに対する評価も変り始めてゆきます。戦闘による革命という「暴力革命」への批判は変らないもののソ連型社会主義を「形を変えた帝国主義」と批判した彼の考え方はやっと正統に評価されるようになりました。もちろん、アメリカによるベトナム、アフガニスタン、イラクなどでの失敗は、資本主義という名の新たな帝国主義が誤まりであったことを証明し、ゲバラによる国連での伝説的演説が再評価されることになります。さらに、米ソどちらとも距離をおき、独自の社会体制を築こうとしたキューバの社会政策も再評価されるようになり、カストロとゲバラが目指した「革命」はけっして間違いではなかったということが明らかになってきました。(けっして生活レベルは高くはありませんが、医療や社会福祉、教育などに関するキューバの社会システムは日本よりはるかに充実しています)
 今一度、ゲバラの人生を描き出してみてはどうか?そうした動きが起きるのは必然だったのかもしれません。こうして、この映画の企画は2000年公開の「トラフィック」撮影時に同映画のプロデューサー、ローラ・ビックフォードによって提案され、その案にひかれたベニチオ・デル・トロとスティーブン・ソダーバーグによって準備が進められることになりました。

<スティーブン・ソダーバーグ>
 「エリン・ブロコビッチ」や「オーシャンズ11」などのヒットで知られるソダーバーグ監督ですが、元々彼は「セックスと嘘とビデオ・テープ」(1989年)「KAFKA/迷宮の悪夢」(1991年)「スキゾポリス」(1996年)など、実験的映画を得意とする監督であり、ハリウッド映画の枠からはずれて作品を撮り続けているインデペンデント映画を代表する監督です。この映画には、そんな彼の代表作「トラフィック」で用いられていた場面によって映像の色を変える手法が用いられていて、この映画が彼の集大成のひとつであることがうかがえます。ハリウッド式の娯楽映画で稼ぎ、アンドレイ・タルコフスキー監督の難解SF映画のリメイク作「ソラリス」(2002年)、フィルム・ノワールに対するオマージュ「さらば、ベルリン」(2006年)のようにマニアックな作品をヒットを意識せずに撮る。このやり方を心得た彼にとって、「ゲバラ」もまたマニアックにこだわって撮るのに最適な題材だったといえます。しかし、この題材に対する周りの期待は彼が考えていた以上だったようです。そうなると、この映画をヒットさせなけらばならないという思いも強くなったのでしょう。しかし、彼の手腕をもってしても、この映画をヒットさせるには数多くの困難が予想されました。

<ヒット困難の企画>
 ゲバラの人生を史実にこだわって描くため、この映画は全編スペイン語で撮られています。しかし、アメリカでは日本と異なり字幕付き映画は一般的ではないため、それだけでヒットの可能性は低くなってしまいます。そうでなくても、アメリカを徹底的に批判した国連での演説シーンをクライマックスのひとつとする映画なだけにアメリカでの大ヒットを期待することは困難でした。

 登場人物がスペイン語を話すとなると、出演する俳優もヒスパニック系の俳優で固める必要が生じ、なおかつドキュメンタリー・タッチを重視するため人気俳優を使うこともできません。ハリウッド・スターとしては唯一マット・デイモンがちょい役で出演しているぐらいでしょう。(ドイツ人の牧師としてゲバラのもとに交渉に来たマット・デイモンは、もしかするとCIAなのではないでしょうか?あの「グッドシェパード」の主人公エドワード・ウィルソンかも?)そうなると、俳優の人気で集客するのは困難です。
さらに問題になったのは、この作品が2部作になったことでしょう。当初、ソダーバーグ監督はゲバラがボリビアで処刑される悲劇的な最後の部分を中心にした映画を撮るつもりでした。それはキューバでの活躍はすでにあまりにも有名であり、逆にボリビアでの悲劇についてはあまり知られていなかったからです。しかし、そこに至る過程を描くには、ボリビアに渡る以前、キューバ革命で何があったのかも描かざるを得ないと考えた彼は、キューバ編とボリビア編という2部作構成を選択したのでした。監督自身の考えでは、2部作を前編、後編に分けて同時公開したかったようですが、結局日本での公開のように連続して前編、後編を公開するというスタイルになったようです。しかし、この方法もかなりリスキーな公開方法です。先に公開するパート1がこけたら、パート2は製作費の回収すら困難になるしょう。(幸いパート1は革命の成功というある意味ハッピーエンドのストーリーなのでヒットする可能性は高いと考えられましたが)

<チャンス到来>
 7年の歳月をかけた準備の後、撮影が始まりましたが、その間に時代は変り、新たな状況がこの映画にとってプラス材料となり始めます。組合の規定に従うため、ピーター・アンドリューという名を借りてカメラマンも担当している監督は、どの監督よりも「映像」にこだわる監督です。そんな彼にとって、森の中などで展開されるゲリラ戦の場面を自然光だけで撮ることのできる革命的な高感度カメラ「RED」登場は、技術面において大きな助けとなりました。このカメラによって撮られたリアルな映像によって、観客はゲリラの一人となり、部隊と共に行軍するという擬似体験をすることができるようになりました。そして、その行軍はゲバラの死まで続くことになります。
 ウォルター・サレス監督の映画「モーター・サイクル・ダイアリーズ」の公開と世界的ヒットも、この映画にとって好材料となりました。ソダーバーグ監督自身、この映画を加えてゲバラ3部作ができたといっているように、ゲバラの青春を描いた映画が先に公開され、なおかつ世界中でヒットしたというのは、どんなプロモーション活動よりもありがたかったでしょう。
 考えてみると、「モーター・サイクル・ダイアリーズ」が青春ロード・ムービーとすると、「チェ 28歳の革命」は戦争アクション。そして、「チェ 39歳別れの手紙」は悲劇的な結末を迎える戦場サスペンス映画とはっきりと色分けできます。さらにいうと、この3部作はイエス・キリストの生涯を描いた大河作品にも見えます。「モーター・サイクル・ダイアリーズ」は、イエス・キリストの青春時代と預言者ヨハネによる洗礼までを、「チェ 28歳の革命」は彼が十二使徒を集め、大衆の歓呼の中エルサレムに入場するまで、そして、「チェ 39歳別れの手紙」は弟子たちの裏切りと大衆に見捨てられての処刑(受難)までの物語になっているように思えます。
 過去の英雄物語のほとんどがイエス・キリストの人生と重なってしまうのは、大衆が英雄と認める存在のほとんど共通する条件がイエス・キリストの人生と共通しているからなのでしょう。たぶん、それはキリスト教以外の宗教圏でも共通しているのではないでしょうか?それはそうした英雄たちに共通する重要な言葉があるからです。たぶんそれは「愛」でしょう。
「甘ったるいと思われるかもしれないが、言わせてほしい。ほんとうの革命家は、大いなる愛情に導かれている。愛のない本物の革命家なんて、考えられない」
チェ・ゲバラ

<ゲバラを求める時代>
 「モーター・サイクル・ダイアリーズ」の大ヒットは、時代が再びゲバラを求めていることを象徴していたのかもしれません。そして、ソ連の崩壊以後、急激に東西両陣営の雪解けが進んだことで、ゲバラを直接知るキューバ人たちから証言を得ることができたことも映画に真実味と深い奥行きを与えることになりました。
 弟ラウルの国家評議会議長就任により、カストロの健康が不安視されるなど、ゲバラを直接知る人々もどんどん天国に召されつつあります。それだけに今この映画を撮ることは大きな意義がありました。
 それともう一つギリギリ間に合ったことがありました。それは「チェ 28歳の革命」の重要な場面、国連での演説シーンです。それが行われた国連本部の建物が老朽化により、建て替えられることになっていたため、急遽そのシーンだけが映画の撮影に先行して行われました。歴史的重要なシーンを、実際の場所で撮影できたこともまたこの映画に真実味をもたらすことになりました
 この映画が描いているのは、「魂の誕生」、「魂の成長」、「魂の完成」、その過程につきると思います。そして、このゲバラの物語の場合、「魂」とはもちろん「革命家の魂」もしくは「正義の魂」ということになるでしょう。
 青春時代に行った中南米の旅における人々との出会いが、それを生み出し、キューバ革命がそれを成長させ、ボリビアでの苦闘がそれを完成させたということなのです。
「この闘争は、ある種の機会を我々に与えている。最も崇高な類の人間である”革命家”になる機械を、また人間として最も純粋な形で成熟する機会を・・・・・」
チェ・ゲバラ
 映画全編を通じて彼のまわりの環境はどんどん変り悪化して行きます。そして、最後にはすべての味方を失うという絶望的状況に追い込まれるのですが、それでもなお彼の魂は変ることなく「革命」を目指し続けます。死んでしまえば、それまでなのかもしれないにも関わらず。しかし、彼が最後に銃で撃たれて倒れた瞬間、ぼんやりとその目に見えた光は優しく彼を天国へと招いていたよにう僕に見えました。彼の魂はこの瞬間に完成され、天に召されたのではないでしょうか。「革命」という旅を生涯続けたチェ・ゲバラの魂は、ついにその旅を終えたのではないでしょうか。

<混乱の時代に>
 2008年の世界同時不況が、この映画の公開と重なったのもまた何かの必然だったのかもしれません。1980年代の社会主義経済システムの崩壊に続き、2008年に資本主義経済もまた崩壊してしまった今、次なる理想の社会システムとは何なのか?21世紀は20世紀に生まれた社会をリセットしたところから、再びスタートを切ろうとしています。
 同時多発テロによる国際関係の混乱。
 世界同時不況による国際関係の混乱。
 地球温暖化による地球環境の混乱。
 すべてが混乱した状況の中、いかなる「魂」がそこで「誕生」し、「成長」し「完成」に至るのか?そんな時代を我々は体験し、目撃することになるのでしょうか?
 「チェ 39歳別れの手紙」のエンドロールは、まったく音のない沈黙の状態です。僕はその画面を見ているうちに、思わず目を閉じてチェの冥福を祈ると同時に子供たちに明日が来るようにと願っていました。2009年世界の復活を信じたいと思います。

「この手紙を読まねばならないとき、お父さんはそばにいられないでしょう。
 世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、いたみを感じることができるようになりなさい。これが革命家において、最も美しい資質です。
 子供たちよ、いつまでもお前たちに会いたいと思っている。
 だが今は、大きなキスを送り、抱きしめよう。
 お父さんより」
 チェ・ゲバラ

「チェ 28歳の革命 Che Part1 : The Argentine」 2008年
「チェ 39歳別れの手紙 Che Part2: Guerrilla」 2008年
(監)(撮)スティーブン・ソダーバーグ Steven Soderbergh
(製)ローラ・ビックフォード Laura Bickford 、ベニチオ・デル・トロ Benicio Del Toro
(脚)ピーター・バックマン Peter Buchman
(美)アンチョン・ゴメス Antxon Gome
(音)アルベルト・イグレシアス Alberto Iglesias
(衣)サビーヌ・デグレ Bina Daigeler
(出)ベニチオ・デル・トロ Benicio Del Toro、カルロス・バルデム、デミアン・ビチル Demian Bichir、アキム・デ・アルメイダ、エルビラ・ミンゲス、フランカ・ポテンテ、ロドリゴ・サントロ、ルー・ダイヤモンド・フィリップス、マット・デイモン(友情出演)

<あらすじ>
「チェ 28歳の革命」パート1
 1964年 アメリカのジャーナリスト、リサ・ハワードによるハバナでのインタビュー
「アメリカの中南米への支援はキューバ革命の意義を失わせるのではないか?」
 ここから映画は過去に戻るように始まります。

 1955年7月メキシコシティーでキューバのバティスタ政権打倒を目指すフィデル・カスロト(デミアン・ビチル )と出会ったチェ・ゲバラ(ベニチオ・デル・トロ)は、82名の革命戦士たちとともにグランマ号という船に乗りキューバへの出発しました。

 1964年ニューヨークのケネディ空港に降りたったゲバラはキューバの首席代表として国連での演説を行うことになっていました。しかし、到着した彼を迎えたのは歓迎ではなく亡命キューバ人を中心とする抗議のデモ隊でした。

キューバ東南のビノクに上陸したゲバラたち革命軍はバティスタ軍に発見され、十数人しか生き残れませんでした。しかし、カストロはその作戦をあきらめず、仲間を少しずつ増やしながらゲリラ戦を展開。進軍を続けるカストロの隊と離れ負傷兵を運搬することになったゲバラは、その行軍の中で革命戦士のリーダーになる資質を身につけて行きます。

 1961年にビッグス湾への上陸作戦に失敗したアメリカは、1962年のキューバ危機以降、キューバ上空を侵犯しながら監視を続けていました。パーティー会場で後の大統領候補となるユージーン・マッカーシー上院議員と出会ったゲバラはそのこと皮肉ります。

 1955年7月、武力闘争を主張し平和的な革命を否定していたカストロは都市部の平和主義革命勢力と協力関係を築きます。より現実的かつ革命後の社会体験を視野に入れたカストロの作戦にゲバラも従い、新兵の教育を担当しながら彼らに革命家として必要な人間性をより強く認識させるようになります。
 1958年5月、シエラマエストラ山中で各派の代表が集まり、その中でカストロが総司令兼政治指導者に選出され、いよいよキューバ革命は最終決戦に向けて進み始めます。

 1964年12月、ゲバラは2回に渡り国連総会の演壇に立ち、歴史的な演説を行いました。

「チェ 39歳別れの手紙」パート2
 1965年10月3日、キューバ共産党の発足式が行われた会場にゲバラは現れず、カストロは彼が残した手紙を読み上げました。
「フィデル
 私は今、多くを思い出している
 マリアの家で君に出会ったこと
 革命戦争に誘われたこと
 準備期間のあの緊張の日々
 死んだ時は誰に連絡するかと聞かれた時 -
 死の現実性を突きつけられ慄然とした
 後にそれは真実だと知った
 真の革命であれば
 勝利か死しかないのだ
 私はキューバ革命で -
 私に課せられた義務の一部は果たしたと思う。
 だから別れを告げる
 同志と君の人民に今や私のものでもある人民に
 私は党指導部での地位もキューバの市民権も
 今 世界の他の国々が -
 私のささやかな助力を求めている
 君はキューバの責任者だからできないが
 私にはできる
 別れの時が来たのだ
 もし私が異国の空の下で死を迎えても -
 最後の想いはキューバ人民に向かうだろう
 とりわけ君に」
 1965年10月3日

 1966年、コンゴでの革命に失敗したゲバラはキューバに一時帰国。家族と最後となるひと時を過ごし、新たな革命闘争の地、ボリビアへと向かいました。1966年11月ボリビアに潜入したゲバラは山中でゲリラ兵を育て始めます。すでに一度革命によって農地改革が行われたことのあるボリビアはクーデターによって誕生したバリエントス軍事独裁政権(ヨアキム・デ・アルメイダ)によって支配されていましたが、革命を成功させることが可能な土地と考えられていました。
 しかし、状況は予想以上に厳しい方向へと変わりつつありました。ソ連の影響を強く受け武装闘争を認めないボリビア共産党の代表モンヘ(ルー・ダイヤモンド・フィリップス)との話し合いは不調に終り、彼らは重要な資金源を失ってしまいました。さらにバリエントス政権は、キューバ革命の成功から、ゲバラの侵入を恐れていたため、アメリカからの軍事顧問団を受け入れて対ゲリラ用の特殊部隊を育成し始めていました。さらには政府がばら撒いたデマにより、農民たちまでもがゲリラへの協力をこばみ、密告までするようになります。ゲバラの部隊は食料、医薬品などの不足に苦しみ、しだいに兵力を失ってゆきます。
 1967年10月8日、ユロ渓谷に逃げ込んだ部隊は政府軍の掃討作戦によって、いよいよ逃げ場を失います。そして、足に銃弾を受けたゲバラは捕虜になり、その翌日10月9日、彼を処刑するようにという命令が届きます。
20世紀映画劇場へ   トップページへ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

チェ (映画)





移動先: 案内、 検索



チェ
(28歳の革命 / 39歳 別れの手紙)

Che
(The Argentine / Guerrilla)

監督
スティーブン・ソダーバーグ

脚本
ピーター・バックマン

製作
ローラ・ビックフォード
ベニチオ・デル・トロ

製作総指揮
アルバロ・アウグスティン
アルバロ・ロンゴリア
ベレン・アティエンサ
フレデリック・w・ブロスト

出演者
ベニチオ・デル・トロ
フランカ・ポテンテ
カタリーナ・サンディノ・モレノ

音楽
アルベルト・イグレシアス

主題歌
メルセデス・ソーサ『バルデラーマ - Balderrama』

撮影
ピーター・アンドリュース

編集
パブロ・スマラガ

配給
アメリカ合衆国の旗 フォーカス・フィーチャーズ
日本の旗 ギャガ・日活

公開
スペインの旗 2008年9月5日
アルゼンチンの旗 2008年11月13日(前編)
アルゼンチンの旗 2009年1月29日(後編)
フランスの旗 2009年1月7日(前編)
フランスの旗 2009年1月28日(後編)
日本の旗 2009年1月10日(前編)
日本の旗 2009年1月31日(後編)
アメリカ合衆国の旗 2009年1月24日

上映時間
265分 (132分 / 133分)

製作国
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
フランスの旗 フランス
スペインの旗 スペイン

言語
スペイン語・英語
テンプレートを表示

『チェ』(Che)は、革命家チェ・ゲバラの半生を描いた、2008年のアメリカ・フランス・スペインの合作伝記映画。

全編の上映時間が4時間30分に及ぶため、フルヘンシオ・バティスタによる独裁政権をフィデル・カストロと共に倒すキューバ革命までを描いた『チェ 28歳の革命』(The Argentine)と、ボリビアでの敗北と処刑までを描いた『チェ 39歳 別れの手紙』(Guerrila)の二部作に分けられている。



目次 [非表示]
1 概要
2 あらすじ
3 キャスト
4 上映
5 ソフト化
6 関連映画
7 脚注
8 外部リンク


概要[編集]

監督をスティーブン・ソダーバーグが、主役のチェ・ゲバラ役をベニチオ・デル・トロが務めた。ベニチオ・デル・トロは本作の共同プロデューサーでもある。

2008年5月21日、カンヌ国際映画祭で初上映され、作品がパルム・ドールにノミネート、主演のデル・トロが男優賞を受賞した[1]。
ベニチオ・デル・トロは、2009年度スペイン版アカデミー賞(『ゴヤ賞』)の最優秀主演男優賞を受賞した[2]。

なおデル・トロは、アメリカ領プエルトリコで育ったこともあって、幼い頃からチェ・ゲバラは「悪者」だという認識を抱いていた[3]が、『007/消されたライセンス(1989年)』のロケでメキシコに行った時に偶然ゲバラの書簡集を読み、深い感銘を受けた。以降は認識を改め、ゲバラの人生に強く興味を持ったという[4]。

撮影前には、ゲバラの著書を読んだり、ゲバラの2番目の妻アレイダ・マルチやアルゼンチン在住の弟や妹などと会い、革命活動以外のゲバラの素顔を知った[5]。更に自らキューバへ赴き、関係者への証言を得るなど、7年を費やして[6]、徹底的にゲバラを研究し尽くした。キューバを訪れた際には、フィデル・カストロと5分間だけ面会できたと言う[6]。ゲバラに関するリサーチは、ゲバラの日記、ボリビア滞在時に書いたメモ、果てはニューヨークへ行く際にアメリカ国務省が作成していた公文書(機密指定が解かれたもの)にまで及んだ[7]。

撮影は2007年5月から開始され[8]、デル・トロは撮影に際し、25kgの減量をして[9]、ゲバラになり切った。

デル・トロは共同プロデューサーのローラ・ビックフォードと共に、キューバ革命とボリビアでゲバラと共闘し、生き残っているポンボ(ハリー・ヴィジェガス)、ウルバノ (レオナルド・タマヨ・ヌニャス)、ベニグノ (ダリエル・アラルコン・ラミレス)ら3名と会った[7]。彼ら3人に個々に話を聞き、ポンボとベニグノはキューバとボリビアでの体験を語ってくれた。ウルバノはスペインでの撮影アドバイザーを務め、どのように銃を構えていたか、など俳優たちの細かい相談に乗った[7]。


本作のコンサルタントを務めているのは、最も代表的なチェ・ゲバラの伝記で、 世界の多くの国で翻訳・出版されている『Che:A Revolutionary Life』の著者であるジョン・リー・アンダーソンである。
彼の製作スタッフインタビュー『チェの伝記著者が語る、ボリビア戦争の真実』は、『チェ2部作 コレクターズエディション』の映像特典中に収録されている。


あらすじ[編集]

『チェ 28歳の革命』

1964年5月。革命後のキューバの要人として、首都ハバナで女性インタビュアーの取材を受けるゲバラ。過去の様々な場面を回想しながら、物語は進んでいく。

1955年7月、キューバ人の革命家フィデル・カストロは、亡命先のメキシコシティで密かに同志を募っていた。キューバはバティスタの独裁政権に支配され、貧富の差は広がるばかりだったのだ。アルゼンチン人の青年医者エルネスト・ゲバラは、カストロの言葉に共鳴し、翌年、カストロと共にキューバに密航した。

1964年12月のニューヨーク。ゲバラはキューバ主席として国連本部の総会で演説するために渡米した。このニューヨークの訪問と、7年前の1957年のキューバでのゲリラ活動が交互に語られて行く。

1957年3月、喘息の発作に苦しみながら、キューバのジャングルを進む戦闘服のゲバラ。反乱軍の仲間からは、すでに「チェ」と愛称で呼ばれているが、彼はまだ任務をうまくこなすことが出来ない。外国人である引け目が遠慮を生んでいるのだ。

同5月、カストロ率いる反乱軍は政府軍の兵営を襲って、その力を見せつけた。6月の戦闘では、ゲバラは志願して本隊から離れ、治療が必要な負傷兵たちを引き受けて危険地帯に潜伏した。この時の困難な負傷兵の移送作戦で、真の戦士に成長したと語るゲバラ。

1964年のニューヨークでテレビに出演し、支持者のパーティーに出席して、キューバの立場を語るゲバラ。交互に語られる1957年のゲバラ達は、戦いを続けている。カストロは革命後の臨時政府の方針を創案し、都市の活動家たちと協定を交わした。ゲリラたちは内心では、都市で起こっている「ゼネストによる政権崩壊」の運動を軽んじていたが、目指すところは同じなのだ。

ゲバラの指揮官としての能力は高かった。しかし、カストロはゲバラに新兵のための訓練キャンプを任せた。カストロはゲバラを革命後に必要な人材と考え、その命を惜しんだのだ。それは降格人事だったが、ゲバラは受け入れた。

1958年5月、カストロはキューバで活動する複数の反乱軍の総司令官に任命された。都市でのゼネストが鎮圧され、個々の武装勢力は結束する必要を痛感したのだ。

1964年のゲバラは国連本部での演説を成功させ、ソ連が率いる社会主義陣営の支持を求めた[10]。1958年のキューバでは、反乱軍同士の勢力争いが表面化していた。カストロが率いるゲリラ部隊は「7月26日運動(M-26-7)」という名称だったが、その政策の核である農地改革に反対する者も多かった。カストロは反乱軍の意思統一を急ぎ、ゲバラを軍の全勢力をまとめる司令官に任命した。

山岳部が主だったゲリラ戦は、ラス・ビリャス州の都市部へと移行した。市民はゲリラを歓迎し、主要都市が次々と制圧されて反乱の動きは加速していった。左腕を骨折したゲバラには、アレイダという女性兵士が付き従うようになった[11]。

独裁者バティスタは、最後に残った都市サンタ・クララに政府軍を集結させた。そこを落とせば首都ハバナは目の前だ。ゲバラは援軍を待たずに市内に進軍し、ラジオで市民に共闘を呼び掛けた。政府軍は市民の住む町への空爆を強行し、激戦が続く中、軍や警察からは降伏する者が出始めた。

サンタ・クララの司令官は逃亡を図り、ついにバティスタが国外へ亡命した。1959年1月2日に、ゲバラは首都ハバナに向け最後の進軍を開始した。25ヶ月に及ぶ戦いには勝利したが、革命はこれからだった。政府軍を完全に制圧し、クーデターの芽を潰さなければならない。そしてゲバラの夢は、中南米に革命を広げることなのだった。


『チェ 39歳 別れの手紙』

1965年のキューバ。共産党の中央委員会にゲバラの姿はなかった。委員長のカストロは市民に対して、彼宛のゲバラの手紙を公開した。ゲバラは党の幹部の地位を捨て、貧しい人々が搾取され続ける国々での国際的な革命闘争を目指して、まずアフリカへ渡っていたのだ。

一年後の1966年11月、変装したゲバラは、キューバの妻子に別れを告げて[12]、南米中央部のボリビアに入国した。キューバ人のゲリラ仲間や現地の同志と合流し、辺鄙な土地に新兵の訓練キャンプを設営するゲバラ。だが、ボリビアの共産党は武装闘争に消極的だった。

年が明けて1967年、キューバのカストロはゲバラの消息を探り、支援物資を届ける努力を続けていた。ラモンという偽名で戦闘を続けるゲバラは、貧しい農民の子を治療し、親たちに協力を求めた。だが、農民たちは外国人の多いゲリラ部隊を信用しなかった。ボリビア軍はゲリラが農民を奴隷にすると言い触らしていたのだ。

アメリカ寄りのボリビア政府は、カストロがボリビアでも共産革命を起こすのではと案じていた。官僚たちはゲバラがまだアフリカのコンゴにいると思っていたが、アメリカ軍はボリビアの特殊部隊の訓練を買って出た。彼らは、人気のある「英雄ゲバラ」がボリビアの人民に支持されることを恐れたのだ。

ゲバラは、自分とキューバ人ゲリラの存在を秘密にしていた。だが、捕虜から情報が漏れて、ゲバラの存在は政府軍の知るところとなった。シグロ・ベインテ炭鉱でストライキが計画されると、政府はゲリラ部隊と鉱夫たちの共闘を防ぐために、鉱夫たちを虐殺した。

ボリビア人民解放軍と名乗って戦闘を続けるゲバラ達。だが、新兵が補充できず、戦闘のたびに兵士の数は減って行った。ゲバラがボリビアに入って280日目には、ゲバラ自身の体調も悪化していた。喘息を患っているゲバラは、薬を切らしてしまったのだ。合流するはずだった別働部隊も、農民の裏切りで政府軍に待ち伏せされ、全滅した。

フェルナンドという偽名で部隊を率いるゲバラを、ボリビア政府軍が追い詰めて行った。ゲバラがボリビアに入って340日目、ユロ渓谷の戦闘で、ついにゲバラは捕虜となった。オルトゥーニョ大統領は、ゲバラを連行することなく現地での銃殺を命じ、刑は翌日に執行された。1967年10月9日のことだった。

キャスト[編集]


役名

俳優

日本語吹替

チェ・ゲバラ ベニチオ・デル・トロ 小山力也
ポンボ(ハリー・ヴィジェガス) ベンジャミン・ベニテス
リサ・ハワード ジュリア・オーモンド
タニア(タマラ・ブンケ) フランカ・ポテンテ 林真里花
ベニグノ(ダリエル・アラルコン・ラミレス) アルマンド・リエスコ
インティ(ギド・ペレド・レイゲ) クリスティアン・メルカド
アレイダ・マルチ カタリーナ・サンディノ・モレノ 冠野智美
フィデル・カストロ デミアン・ビチル 大塚芳忠
ラウル・カストロ ロドリゴ・サントロ 福田賢二
カミロ・シエンフェゴス サンティアゴ・カブレラ 檀臣幸
シロ・レドンド エドガー・ラミレス
イスラエル・パルド アルフレド・デ・ケサダ
フアン・アルメイダ・ボスケ ロベルト・サンタナ
ロヘリオ・アセベド ヴィクター・ラスク
マリオ・モンヘ ルー・ダイアモンド・フィリップス 木下浩之
ウルバノ(レオナルド・タマヨ・ヌニャス) カリ・メンデス
レネ・バリエントス ジョアキム・デ・アルメイダ 土師孝也

上映[編集]

カンヌでの上映後、ソダーバーグはそれぞれのフィルムから5分から7分のシーンをカットした[13]。その後、第46回ニューヨーク映画祭[14]、第33回トロント国際映画祭でも15分の休憩を挟んで上映された[15]。2008年11月1日、アメリカ映画協会のフェスティバルの一環としてグローマンズ・チャイニーズ・シアターで行われたロサンゼルス・プレミアでは、チケットが完売した[16]。

チェ・ゲバラの故郷・アルゼンチンでも2008年11月に上映されたが、首都ブエノスアイレスでは、チェに扮したデル・トロの巨大なポスターがそこかしこに貼られた。

2008年12月、キューバの首都・ハバナで行われる第30回新ラテンアメリカ国際映画祭、通称ハバナ映画祭 (Festival Internacional del Nuevo Cine Latinoamericano de La Habana) で、ヤラ映画館(12月6日)とカール・マルクス劇場(12月7日)の両日、2作とも上映されている[17][18]。キューバの外相フェリペ・ペレス・ロケによると、キューバとの交易を断っているアメリカ政府がキューバでの撮影許可を下ろさなかったために、撮影はスペインやボリビアで行われたという。

日本公開に際しては、スタジオジブリの鈴木敏夫が「ゲバラのいない時代は不幸だ。だがゲバラの存在が必要な現代の方が、ずっと不幸だ」と「賛辞」を寄せた[19]。

ソフト化[編集]

日本では2009年6月12日にブルーレイ、DVDが発売。
チェ ダブルパック(DVD2枚組・2010年1月末までの期間限定生産) ディスク1:「チェ 28歳の革命」本編DVD 映像特典 予告編


ディスク2:「チェ 39歳 別れの手紙」本編DVD 映像特典 予告編


アウターケース付き2枚組トールケース仕様

チェ コレクターズ・エディション(DVD3枚組・初回限定生産) ディスク1:「チェ 28歳の革命」本編DVD(ダブルパック版と同様)
ディスク2:「チェ 39歳 別れの手紙」本編DVD(ダブルパック版と同様)
ディスク3:特典DVD スタジオジブリ プロデューサー鈴木敏夫×スティーブン・ソダーバーグ監督対談 リアルな伝記映画について
なぜ、今「チェ」なのか?

Promotion Tour in Japan 舞台挨拶
記者会見&学生へのメッセージ
ベニチオ・デル・トロ インタビュー

製作スタッフインタビュー 映画を二つに分けた理由 / 製作秘話(プロデューサー:ローラ・ビッグフォード)
2つの映画に違いを出すための工夫(衣装:サビーヌ・デグレ)
「チェ」の著者が語るボリビア戦争の真実(コンサルタント:ジョン・リー・アンダーソン(チェ・ゲバラの伝記の著者))

主要キャストが語る、役作りとその素顔 デミアン・ビチル(フィデル・カストロ役)
カタリーナ・サンディノ・モレノ(アレイダ・マルチ役)
ロドリゴ・サントロ(ラウル・カストロ役)


封入特典 戸井十月監修豪華ブックレット(52P)

特製アウターケース付きデジパック仕様

チェ コレクターズ・エディション ブルーレイ(2枚組・初回限定生産) ディスク1:「チェ 28歳の革命」本編BD 映像特典 製作スタッフインタビュー 映画を二つに分けた理由 / 製作秘話(プロデューサー:ローラ・ビッグフォード)
「チェ」の著者が語るボリビア戦争の真実(コンサルタント:ジョン・リー・アンダーソン(チェ・ゲバラの伝記の著者))
2つの映画に違いを出すための工夫(衣装:サビーヌ・デグレ)

主要キャストが語る、役作りとその素顔 デミアン・ビチル(フィデル・カストロ役)
カタリーナ・サンディノ・モレノ(アレイダ・マルチ役)
ロドリゴ・サントロ(ラウル・カストロ役)



ディスク2:「チェ 39歳 別れの手紙」本編BD 映像特典 スタジオジブリ プロデューサー鈴木敏夫×スティーブン・ソダーバーグ監督対談 なぜ、今「チェ」なのか?
リアルな伝記映画について

Promotion Tour in Japan 舞台挨拶
記者会見&学生へのメッセージ
ベニチオ・デル・トロ インタビュー



封入特典 戸井十月監修豪華ブックレット(52P)

特製アウターケース付き2枚組ブラックブルーレイケース仕様


関連映画[編集]
『ゲバラ!』(1969年) 主演:オマー・シャリフ
ほぼ同時期のゲバラを描いた伝記映画

『モーターサイクル・ダイアリーズ』(2004年) 主演:ガエル・ガルシア・ベルナル
自伝『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』をもとに若き日のゲバラを描いたロード・ムービー


脚注[編集]

1.^ “パルム・ドール決定!受賞結果に記者から不満の声も!【第61回カンヌ国際映画祭】”. (2008年5月26日) 2008年11月25日閲覧。
2.^ “スペイン版アカデミー賞「ゴヤ賞」、男優賞は『チェ』のデル・トロ”. (2009年2月2日) 2009年2月2日閲覧。
3.^ “The Big Preview”. エンパイア(雑誌): pp. 104. (2008年8月)
4.^ 『SPA!』2009年1月7日号掲載インタビュー『ゲバラを撮ることで、僕らも成長した。ソダーバーグ&デルトロ インタビュー』より
5.^ 'Che' Lives Backstage, November 19 2008
6.^ a b “チェ・ゲバラを演じたベニチオ・デル・トロ、カストロとも面会したと激白【第52回ロンドン映画祭】”. (2008年10月27日) 2008年11月25日閲覧。
7.^ a b c “Che”. Festival de Cannes program. (2008年) 2008年9月6日閲覧。
8.^ “スティーヴン・ソダーバーグ、チェ・ゲバラの伝記映画の撮影を来年から開始”. (2006年11月6日) 2008年11月25日閲覧。
9.^ “25キロもの激ヤセ!チェ・ゲバラが乗り移った?命がけのデル・トロ”. (2008年10月9日) 2008年11月25日閲覧。
10.^ カストロは、革命の初期には社会主義者ではなかった。ピッグス湾事件を参照のこと。
11.^ 1959年にゲバラはアルゼンチンのイルダ・ガデアと離婚し、アレイダ・マルチ・デ・ラ・トーレと再婚した。
12.^ 1959年に再婚したゲバラは、アレイダ・マルチ・デ・ラ・トーレとの間に4児を儲けた。
13.^ “A Cannes of worms for indie films”. (2008年7月31日) 2008年7月31日閲覧。
14.^ “チェ・ゲバラを描いたソダーバーグの新作は4時間28分の超大作!【第46回ニューヨーク映画祭】”. (2008年9月30日) 2008年11月25日閲覧。
15.^ “Toronto fest adds 20 films to lineup”. バラエティ(雑誌). (2008年8月13日) 2008年8月14日閲覧。
16.^ “Soderbergh takes a revolutionary approach to Che”. ロサンゼルスタイムス. (2008年10月13日) 2008年11月2日閲覧。
17.^ Benicio del Toro presents Soderbergh’s Che - DIGITAL Granma International (December 6, 2008 at the first Havana premiere of Che at the Yara Theater)
18.^ 「チェ・ゲバラ描いたソダーバーグ監督の映画、キューバで絶賛」[1](CNN.co.jp 2008年12月13日)
19.^ ブレヒトの戯曲『ガリレオ・ガリレイの生涯』に出て来る台詞にちなむ。原文は“ゲバラ”ではなく“英雄”

外部リンク[編集]

ポータル 映画 ポータル 映画
オフィシャルサイト
Official International Site(スペイン語) - Official UK site(英語)
キューバへ、チェ・ゲバラの足跡を追う旅
cinemacafe.net『CHEチェ 28歳の革命 | 39歳 別れの手紙』特集
チェ 28歳の革命 - allcinema
チェ 39歳 別れの手紙 - allcinema
チェ 28歳の革命 - KINENOTE
チェ 39歳別れの手紙 - KINENOTE
Che, Part 1 - AllMovie(英語)
Che, Part 2 - AllMovie(英語)
Che - 28 sai no kakumei - インターネット・ムービー・データベース(英語)
Che: 39 sai - Wakare no tegami - インターネット・ムービー・データベース(英語)



[表示]

表 ·
話 ·
編 ·


スティーブン・ソダーバーグ監督作品







































[表示]

表 ·
話 ·
編 ·


チェ・ゲバラ







Che por Jim Fitzpatrick.svg


























































ウィキクォート
ウィキソース
コモンズ
ウィキブックス
ウィキデータReasonatorで見る






カテゴリ: 伝記映画
チェ・ゲバラ
2008年の映画
アメリカ合衆国の伝記映画
スペインの映画作品
フランスの伝記映画
キューバを舞台とした映画作品
メキシコを舞台とした映画作品
南アメリカを舞台とした映画作品
ギャガ
日活配給の映画

http://yorimichim.exblog.jp/9191273/


「チェ 28歳の革命」



CHE: PART ONE
THE ARGENTINE
2008年/アメリカ・フランス・スペイン/132分

監督: スティーヴン・ソダーバーグ
製作: ローラ・ビックフォード/ベニチオ・デル・トロ
脚本: ピーター・バックマン
撮影: ピーター・アンドリュース
音楽: アルベルト・イグレシアス
出演: ベニチオ・デル・トロ/デミアン・ビチル/サンティアゴ・カブレラ/エルビラ・ミンゲス/ジュリア・オーモンド/カタリーナ・サンディノ・モレノ/ロドリゴ・サントロ/ウラジミール・クルス

d0117645_17204574.jpg

原題が「CHE: PART ONE」とあるように2部構成で制作されている。
今回の第一部「チェ 28歳の革命」は、親しみをこめてチェと呼ばれたゲバラことエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナがフィデル・カストロと出会い、キューバ革命に身を投じたゲバラ28歳から31歳までを描いている。
ゲリラ戦で政府軍と闘うゲバラ、そして実質の勝利となった1959年ハバナ制圧までを描いたカラー映像と、それと交錯するように挿入されるモノクロ映像は、革命政権樹立後の1964年、キューバ代表としてニューヨークで開催された国連総会に出席するゲバラをドキュメンタリー風に撮った映像。
ゲバラの歴史に残るスピーチを、迫真の演技でデル・トロが演じていた。


「すべての戦争を内乱へ」というゲバラのスローガン。
「この戦いはクーデターではない。革命だ」と作中でもゲバラが兵士たちに向って語るシーンがあった。
大国にコントロールされることなく、腐敗しきった政権を倒し、真の独立国家を作り上げるのが彼らの目指す革命であり、アメリカ資本と手を結んだフルヘンシオ・バティスタ軍事政権から、カストロやゲバラが数年にも及ぶゲリラ戦でその主権を勝ち取った。

若き日のゲバラはカストロに、キューバ革命が成功したら故国アルゼンチンでも革命を起こしたいと語っていたという。同じような革命を他の国でも起したいとも語っていたという。
ホーチミンがフランスの植民地支配からベトナムを守ったような闘いを、世界であといくつか必要だ。そう語っていたという。

ベトナム戦争に対する反戦運動とも絡み合い、「帝国主義粉砕」を叫び先進諸国の若者たちの間で瞬く間に広がった学生運動。そんな革命闘争の時代にあったいわゆる68年世代といわれる1968年という時代。今は2つの国に分裂してしまったチェコスロバキアと呼ばれた国で、後にソ連軍の軍事介入よって制圧される「プラハの春」と呼ばれる変革運動が起きた年でもある。

「すべての戦争を内乱へ」というゲバラのスローガンは、ゲリラ戦で民族解放を掲げアメリカ軍と闘うベトナムの兵士たちの姿とも重なり、帝国主義粉砕を叫んだ若者たちの心を掴み、ゲバラは、あのイラストとともに、革命の象徴として熱狂的に受け入れられたのだろう。60年後半から70年にかけてカーキー色とアーミージャケットが流行したっけ
デル・トロと比べても数段カッコいい実物のゲバラ。その風貌もあっただろう。ゲバラのイラストが入った商品は廃れることなく巷に溢れ「かっこいい男」の象徴として、今はあるのだろうか。

今もなおゲバラのイラストは廃れることななく一人歩きしている。よく知られているゲバラの写真だ。
d0117645_1719912.jpg


喘息という持病を抱えながら医学生だったエルネスト・ゲバラが、友人と二人で南米をバイクで旅したことは、ロバート・レッドフォード総指揮、ウォルター・サレス監督の「モーターサイクル・ダイアリーズ」で描かれている。若き日のゲバラを演じたのはガエル・ガルシア。
この旅で最下層の人々やハンセン病患者らと出会い、中南米の現実を眼の辺りにしたことが、医学の道を目指していた一人の青年を革命に目覚めさせたと言われている。

映像で国連会議出席のため訪米したゲバラのインタビューシーンがある。
「あなたにとって革命の原動力は何ですか?」という問いに、ゲバラは「愛だ」と答えていた。
ここから更にゲバラの実像に肉薄して欲しかったと思う。

医学を目指していた一人の青年を、激しいゲリラ闘争に駆り立てたものは何だったのか?
「祖国か、死か」
そう叫んで更なる闘争へと彼を向かわせた「革命」という言葉にある熱きものが、映像から感じ取れなかった。
キューバ革命そのものよりも、革命に生きたゲバラを描こうとしたからだろうか。

本作の中には自分たちが勝手に作り出したエピソードやストーリーは1つもないとソダーバーグは断言する。今世紀最大のカリスマと大々的に本作について謳われているチェ・ゲバラ。キューバ革命を知らなくともゲバラは知っている人も多いだろう。カストロ以上にゲバラの名前は浸透しているだろう。必要以上にドラマチックに描きたくなかったというのがソダーバーグの本作に対する考えなのだろう。

しかし、映画とは、丹念にリサーチした中から、語られないもの、浮かび上がってこないものも掬い取り、映像として語ることにあるんじゃないのかって思う。
そこに監督の人間性とか描こうとするものに対する意識とか、果ては思想まで問われるものだろうと思うのだけれど。

革命に向わせる力は「愛」だと答える一方で、革命達成の一ヶ月後、旧バティスタ派の人々に対する裁判が行われ、600人もの人が処刑された。そしてゲバラはその処刑の責任者を務めている。

「これはクーデターではない。革命だ」と映像でゲバラは兵士たちに語っている。
そのための処刑も辞さないということだろう。
流血なくして革命はならずだろう。

ゲバラは恐らく熱烈なるマルクス・レーニン主義者だっただろう。
そして純粋に革命を目指していたのだろう。
理論派であると同時に過激な武闘派でもあっただろう。
それはまたゲバラの情熱と純粋さの表れともいえるだろう。
決して策略家でもなかっただろう。
熱く今を生きた男だっただろう。
それがカストロと決定的に違っていた点だろう。
革命終結後、急速にソ連に近づいていったカストロと袂をわかった。
私はそう思う。


第二部「チェ 39歳別れの手紙」
ソダーバーグはゲバラをどのように描いているのだろう。


映像では建前えのゲバラしか描かれていないような、そんな燻りを感じた。
今世紀最大のカリスマと言われるチェ・ゲバラと呼ばれた一人の男を解体し、ソダーバーグが再構築したゲバラ像を描いて見せてほしかったと思う。
一人の青年を革命闘争に投じさせた、彼の心に燃えていたものを見せて欲しかったと思う。

とまあ、若い時代を通り過ぎた今の私は映画を観ていて思ったことをつらつらと書きなぐってしまったけれど……。
恐らく、ソダーバーグはゲバラが生きた時代にまだ生まれていなかった若い世代に向けてこの映画を発信したかったのだろうとも思う。
熱い愛でもって苛酷なゲリラ闘争に生き、強い意志と信念をもって革命に生命をかけ、そして燃えたゲバラという一人の男。

単なる英雄伝的な作品にはしたくなかったのだろう。
けれどゲバラの中の、そして時代に流れていた熱い鼓動は描いて欲しかったと思う。

こうしてムキになるのも、ゲバラという人物は、すでにエルネストという実在の人物を離れ、偶像化され捏造されたものも大きいと思いながらも、私の中にも熱いものを沸き起させる作用をもつ存在なのだろうか?

28歳という年齢はちょっと辛いところはあったけれど…デル・トロの演技には拍手をおくりたい。

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/guevara.html

本気で世界を変えようとした男
【 あの人の人生を知ろう~チェ・ゲバラ 】 

Che Guevara 1928.6.14-1967.10.9


  

『1960年頃、世界で一番かっこいい男がチェ・ゲバラだった』(ジョン・レノン)
『チェ・ゲバラは20世紀で最も完璧な人間だ』(サルトル)

    

「もし我々が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者と言われるならば、出来もしないことを考えていると
言われるならば、何千回でも答えよう、“その通りだ!”と」(チェ・ゲバラ)~ゲバラのカッコ良さは異常!笑顔がまた良い!




★爆走!闇タクシーでゲバラに巡礼

2000年12月4日午前10時。僕はキューバの首都、ハバナにいた。
キュ-バ革命の英雄であり、圧政への世界の抵抗運動の象徴だったチェ・ゲバラの墓を探し出し、墓参を果たすという大いなる野望を持って。
しかし、この悲願の成就を阻む大きな壁が2つあった。“時間”そして“お金”だ。

AM8時に船でハバナ港に入港し、翌日の昼過ぎに同船が出港するため滞在時間は約30時間。
「ハバナは大都会だけど、30時間もあれば楽勝じゃん」
僕は国民的英雄ゲバラの墓は首都ハバナにあると始めから信じ込んでいた。
ところが!

観光局の職員に墓所を尋ねてみると、首都にあるどころかハバナから約300キロも離れた地方都市サンタクララに眠っているというではないか!300キロといえば東京~名古屋間に匹敵する距離。
“そんな遠くまで行って明日の出港に間に合わなかったらどうしよう”…頭を抱え込んだ。

交通手段がこれまた大問題。
キューバはアメリカから40年近く経済封鎖されており、慢性的な石油不足に陥っていて公共の長距離バスがない。鉄道があったので時刻表を調べてみると、なんとサンタクララ行きは一日にたった1本(14時発)だけ!しかも所要寺間が約10時間!
切符代は1000円程度と安かったけど、向こうに着いても明日の昼までに帰ってこれない…。

観光局の職員は国営タクシーに乗ることを勧めたが、値段を聞いて地獄の1丁目に突き落とされた。
グヘーッ、300ドル以上かかると言うのだ!(基本通貨はペソだけどドルも有効)
カード支払いはNGと言われ、手持ちのドル札は全部かき集めても168ドルしかなく、
「ぐぬぬ…、もはやこれまでか」
泣き濡れて床にバッタリ両手をついた。

“なんでハバナに埋葬せんのじゃ~”
ここまで来て墓参を断念せねばならぬ悲しさ。すっかり打ちひしがれていると、その様子があまりに哀れだったのか、職員がそっと耳打ちしてくれた。
「違法だけど、闇タクシーがあるからあたってみたら…」


闇タクシーとは何か。
キューバのタクシーは3つの形態に分かれている。
【国営タクシー】…普通にメーター制で走っている。
【個人タクシー】…ドライバーとの交渉で値段が決まる。彼らは国にタクシーの登録料(営業料)を一定額納めることで、正規のタクシー業を営んでいる。
【闇タクシー】…国に登録料を払わず、こっそりタクシー業をしている悪党。

この時点では、闇タクシー=個人タクシーと思っていた。
それで、その職員から教えてもらったタクシー銀座、ハバナ旧市街の議事堂周辺に行ってみた。なるほど、そこには見渡す限りズラリと個人タクシーが集まっている。さっそく値段交渉の開始。
「あの~、サンタクララに行きたいんですが」
「サンタクララ!?そんな遠い所まで行けないよ…」
ヌヒョ~ッ、誰もサンタクララに行ってくれないのだ!


 
議事堂周辺にて。全部個人タクシー。フロントに“TAXI”の黄色いプレートを置いている

事情はこうだ。
経済封鎖のあおりから、個人タクシーの車はどれも1950~60年代のアメ車ばかりで、車体はベコベコ、ミラーは折れてぶら下がってるという風体。最高速度が60キロでは、確かに遠距離はキツイ。何より故障で立往生したらもう一巻の終わりだ(実際、彼らも見知らぬ土地での故障を一番恐れていた)。
つまり、彼ら個人タクシーはハバナ市内の近距離専門だったのだ。

そうこうしてる内に2時間近く経ってしまい、追い詰められた僕はノートに大きく“サンタクララ”とマジックで書いて
「ポルファボール、サンタクラーラ!(誰かサンタクララへ連れてって)」
と絶叫しまくった。
すると、初対面のくせに“ハロー、マイフレンド”と満面の笑みで近づいてきた人物がいた。この男、神か悪魔か…。

その不気味なまでに陽気な男は、年の頃30代前半、体格のガッシリした兄ちゃんで、“アミーゴ”と笑顔で握手をしてくると同時に間髪を入れず“サンタクララまでお金を幾ら出す気なのか”と聞いてきた。

前回にも書いたが、手持ちの168ドルに対し国営タクシーの相場は300ドル。僕は恐る恐る
「1…1…120ドル」
と言うと、彼は天を仰いで
「ノーッ!せめて170ドルだ!」
「1…125ドル」
「俺には2歳の子供がいるんだ、150!」
「130」
「140」
最後は互いに歩み寄って135ドルで落ち着いた。僕は内心小躍りした。135ドルは大金だが、相場の半額以下ではないか!
男は名をカルロスと名乗った。

さあ、さっそく出発だ!と思いきや、カルロスが何やら真剣に電話をし始めた。時々声高になってエキサイトしている…徐々に僕にも事態が分かってきた。
カルロスは車を持っていないのだ。
彼は額の汗を拭きながら電話をかけまくり、4人目にしてようやく車を持つ友人と話がついたようだった。

僕らはまずガタガタの個人タクシーに乗って郊外へ向かい、カルロスの友人・ホセの家を目指した。
僕は何が何だか分からずドギマギしていたが、こうなれば事の成り行きを最後まで見届けてやろうと腹をくくった。
ホセは比較的に新しい車を持っていた!本当に乗り心地の良い車で、ちゃんと4枚の窓は開閉するし、驚いたことに冷房まで付いていたのだ。

ホセは35歳の小柄で物静かな男。はにかむように笑う照れ屋だった。“もしホセがラオウのような極悪人だったらどうしよう”と心配してたので、彼となら往復600キロも平気と胸を撫で下ろしていたら、
「OK、レッツ・ゴー!」
助手席のカルロスが前方を指差した。ちょっと待て、アンタも行くんかいッ!?
思わず目が点になったが
「俺も英雄ゲバラの墓には行きたかったんだ」
と聞いて、なるほど、ガソリンが貴重なキューバでは遠いサンタクララの街に行く機会など滅多にないのだと了解した。
ホセもまた“初めてなのですごく楽しみだ”と、まるで遊びにいくノリだ。
要するに、2人とも他人の金でサンタクララに行けるので喜んでいたんだ!



左が運転手のホセ、右がお調子者のカルロス

考えてみれば英語を話せるカルロスはインテリだ。ホセをはじめキューバっ子の多くはスペイン語しか通じない。道中どんなアクシデントがあるか分からないし、全員が初めての場所に行くわけだから、彼が助手席で地図を広げてナビゲーターをしてくれるのは心強かった。

動き出して最初にカルロスから警官対策の話になった。
「この車は闇タクシーで、政府の許可を得ていない。もし警官の検問があったら、日本人の君と俺は昔からのペンフレンド(!)で、親切心からサンタクララまで案内してあげてる、そういうシナリオで頼む。間違ってもお金のやり取りがあることを言わないでくれ」
“ほんとにこんなシナリオで大丈夫なのか”と内心思いつつ、口裏合わせをした。
そして、漢字が書かれた本(某『歩き方』)やノートはカバンにしまってくれ、と言われた。僕の顔はキューバ人には見えぬから意味ないぞと言ったら、アジア系キューバ人がいるので警官がそう思えば余計な質問はされない、との返事。

ホセは本格的に幹線道路へ入る前に闇ガソリン屋へ寄ると、怪しげな液体を買ってオイルタンクに流し込み始めた。
「あれはな、“薄め液”でガソリンを増やしてるんだぜ」
そう言ってカルロスは僕に目配せしたが、そんなことして途中で止まったらどうすんだよとハラハラした。

警官の検問などそうそうあるものでもないのに…と思ってたら、幹線道路に出たとたん事情を把握した。車を走らせてると道端でたくさんの人がヒッチハイクをしており、警官が車を誘導している。つまり、国民は皆兄弟ということで、空荷のトラックを見つけては警官が荷台に彼らを乗せてあげるよう指示していたのだ!
キューバは貧しい国だが人々はめちゃくちゃ陽気だ。こういう助け合いの精神が行き届いてるから、社会も明るくなるのかと思った。

そう感じ入ってると、カルロスは
「今日はやたらと警官が多い。乗用車が止められる事はないと思うけど、後部座席の足元にタオルケットがあるから、俺が“ポリース!”と叫んだら素早く身を伏せ、それを被ってくれ」
と、のたまった。
ウ~ム、まるで石橋を叩いて発見した小さな隙間に、アロンアルファを流し込んで渡るほどの慎重さ。さすがはプロ…などと感心してる場合ではない!おかげで彼が「ポリース!」と叫ぶ度に体を右へ左へ倒れさせ、大忙しだった。



道はひたすら一直線。道路脇を馬車がゆく

ホセの超絶マシンテクニックはカリブの風を切り裂き、アベレージ110キロでサンタクララに乗り付けた。片道4時間ちょい。時間は16時半になろうとしていた。
僕は無事に到着したことを天に感謝した。なぜなら、ガソリンの残量を示す針は街に入る10分ほど前から、すでにゼロを指していたからだ。“サトウキビ畑が延々と続くこんな所でガス欠になったらどうすんだよ~!”って、手の平はびっしょり濡れていた。

そして、いよいよゲバラとの感動の対面となったわけだけど、実はサンタクララの郊外から既に彼の墓は見えていた。街の中で一番高い建造物がゲバラの墓だからだ!

ゲバラの霊廟だけでも15メートル近くあるんだけど、てっぺんに6メートルほどのゲバラ像が立っているので、おそらく全体では20メートルを超えていた(ガンダムですら18メートルだ)。
このカリスマぶり、一体ゲバラとはどういう人間だったのか。



サンタクララに到着ゥゥウウ! 霊廟の建設時の様子。巨神兵のようなゲバラ像!


●チェ・ゲバラという漢(おとこ)

チェ・ゲバラ(キューバではゲバーラと言う)の本名はエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ。1928年6月14日、アルゼンチンに生まれる。つまり、彼はキューバの英雄となったアルゼンチン人だ。“チェ”はあだ名で、意味は『心にくいヤツ』『(掛け声の)よっ、大将』。
19歳の時にブエノスアイレス大の医学部に入り、25歳で博士号(医学博士)をとっている。

彼は在学中に約1年間ラテンアメリカ全土をオンボロのバイクで放浪し、南米社会の極端な貧富の差に社会の矛盾を感じ、どう生きるべきか思い悩む。
特にインディオをはじめ、各地で少数民族が不当な弾圧を受けている現実に打ちのめされた。

『その頃私は医者としての個人的成功を夢見ていた。しかしこの旅を通じて考えが変化した。飢えや貧困を救うには注射だけでは不十分だ。社会の構造そのものを変革せねば。病人の治療より重要なことは、病人を出さないことだ』
彼は貧困層を取り巻く劣悪な住宅環境や、深刻な栄養不足を改善することこそが、自分の最優先課題だと考え始める。



この子がやがて歴史を作っていく 「ボクはどうしたら…」悩む青年ゲバラ

医学部を卒業後、ペルーの診療所に行くはずが途中でグアテマラの内戦に遭遇。グアテマラでは左派政権が大地主の土地を没収して貧しい農民たちに分配したが、これをきっかけに富裕層や米国に支援された反政府軍が攻撃を開始。ゲバラはグアテマラ政府軍の一員として戦うが敗北しメキシコへ脱出する。そこで運命的に出会ったのが、生涯の盟友となるキューバ人の青年弁護士、フィデル・カストロだった。
カストロはキューバ国内で反政府運動に参加していたが、厳しい弾圧を受けてメキシコに潜伏していたのだった。

《キューバ革命に参加》

1950年代のキューバは米国の属国同然で、土地、電話、電力、鉄道すべての利権がアメリカ資本の手に渡り、首都ハバナはマフィアが横行する無法の歓楽街となっていた。しかもキューバ政府の要人は独裁者バティスタ将軍を筆頭に米国にゴマをする者ばかり。巨額の黒い金が支配層間で動いていた。

そのバティスタ軍事政権を打倒する為に、カストロは武装した同志82人と今まさに祖国に戻らんとしていた。情熱的に巨悪と立ち向かうカストロの生き方に感銘を受けたゲバラは、軍医として彼らに同行することを決意し、1956年12月、キューバへの密航船に同乗した。
ときにカストロ29歳、ゲバラ28歳。

    アルゼンチンから世界へ

ところがこのキューバ上陸作戦は事前に情報が漏れており、海岸にはバティスタの政府軍がズラリと待ち構えていた。上陸時の激戦でメンバーの4分の3以上が死に、付近の山に逃げ込んで助かった者はわずかに17名。それも武器と食料の大半を失って…。
普通なら絶望してしまうところだが、この時にカストロが語った言葉がすごい。
「俺たちは“17人も”生き残った。これでバティスタの野郎の命運は尽きたも同然だ!」
戦車や戦闘機で武装した2万人の政府軍に対して、17名の革命軍でどうやって戦うのか。さすがのゲバラも、カストロが悲嘆のあまり発狂したのではないかと真剣に心配したという。

しかしカストロには、本当に勝算があったのだ。
キューバ人の大半を占める貧農は、普段から徹底的に支配層から抑圧されていた為、戦闘が始まれば必ず自分たちを支持すると確信し、事実そうなった。
これには、彼ら革命軍が農村で食料や物資を調達する際、必ず農民に代金を支払ったことも大きな要因だ。略奪が日常茶飯事だった政府軍とは決定的な差になった。
また、医者のゲバラは戦闘が終わると自軍だけでなく、負傷した敵兵にまで必ず治療を施した。こうした仁義話はキューバ全土にすぐに広まり、政府軍の中からもゲバラたちの仲間に加わる者が出た。

古今東西のゲリラ戦を研究し尽くしたゲバラは、政府軍の意表をつく様々な作戦を立案し、最少の人数で最大の戦果をあげ続けた。
一方、カストロは情報戦の重要性も熟知しており、積極的に内外のジャーナリストに取材をさせた。これでいくらバティスタが隠そうとしても革命軍の連戦連勝ぶりは民衆に伝えられ、ますます支持を得たのだった。

上陸から2年後、サンタクララがバティスタ軍との最終決戦の地となった。ゲバラは7倍の敵に対し、兵力の少なさを悟られぬよう複数の地点から攻撃を開始。また敵の退路を絶つ為に軍用列車を破壊した。パニックに陥った政府軍は雪崩をうって投降し始める。“ゲバラは捕虜を殺さない”という噂がこの投降を加速させた。
サンタクララ陥落の報を聞いたバティスタ将軍は、恐怖に駆られ国外へ逃亡する。

1959年1月2日、民衆の大歓声に迎えられ革命軍はついに首都ハバナへ入城し新政権を樹立させた。首相に就いたカストロは若干31歳、国銀総裁のゲバラは30歳という、若者たちの政府が誕生した。



民衆に語りかける ゲバラとカストロ ついに勝利した!

ゲバラとカストロはすぐさま新生キューバの建設にとりかかる。
まず国民全員が文字を読めるよう教育を無償化すると共に、政府軍が使っていた全ての兵舎を学校に変え、文盲一掃運動に取り組んだ。続けて医療の無料化を実現した後、少数の大地主が独占していた土地を国有化、米国資本が牛耳っていた企業の国営化などをすすめ旧勢力の激しい抵抗を受けつつも独自の国家作りに挑戦した。
国民全員の家賃を半額にするなど、過激な政策をどんどん実行していった。

キューバ革命で最も煮え湯を飲まされたのが隣国アメリカだ。
キューバ全土の土地や電力、鉄道などの巨大な利権と、ハバナ歓楽街のブラックマネーを一度に失った米国は、革命政府に憎悪をたぎらしCIAを暗躍させ、爆弾テロ、米軍傭兵部隊の上陸作戦など様々な方法でゲバラたちを倒そうとした。
1962年、米国の破壊工作にブチ切れたカストロは、ソ連(当時)の強力を得て核武装に踏み切ろうとした。マイアミの目の前に核弾頭を突きつけられてはかなわんと、米国内はパニックになった。
これが俗に言う『キューバ危機』である(最終的に米国の圧力にソ連が屈し、核配備は流れた)。



左からボーヴォワール、サルトル、チェ・ゲバラ!すごい顔ぶれ!

《ゲバラは戦い続ける》

ゲバラが国立銀行総裁になって一番最初にしたことは、自分の給料を半分以下にカットすることだった。工業相になってからは自ら建設現場で働いたり、工場のラインに立って作業を手伝った。サトウキビの収穫期には農園で汗を流し、とにかく人々の中へ自ら飛び込んでいった。これは彼にとって美談でも一過性のパフォーマンスでもなく、いつもの“ごく普通の光景”であった。
仕事場には誰よりも早くきて、帰りは誰よりも遅く、労働者に交じって食事をするゲバラ。国民の間でどんどん彼の人気は高まっていった。

※ゲバラはパワフルに各地の工場や畑に出かけていった!そこにもゲバラ、ここにもゲバラ!

建設現場のゲバラ 小麦を次々と袋詰め 休憩するか問われ「へっちゃらさ!」

糸を紡ぐゲバラ サトウキビ畑でトラクターを運転 「ふーっ」サトウキビをガリガリガリ

…ところが!ゲバラが本当にスゴイのはこっから。
1965年、37歳になった彼は突如失踪した。彼は自身の信念によってキューバを去ったのだ。アルゼンチン人のゲバラは、キューバにおける自分の役目は終わったと判断し、貧困と搾取に苦しむ新たな国へ、再び一人のゲリラとして向かったんだ。国家の要人という地位を投げ捨て、再び過酷なゲリラ生活に帰っていった。
ゲバラはアフリカで戦い、続いて南米ボリビアへと転戦した。



あまりにカッコ良すぎだろ…常識的に考えて…

彼は毎日欠かさず日記をつけていた。そこには“圧制者からの解放”という崇高な目的と同時に、仲間の裏切り、束の間の平和、食糧難に苦しみ高地をうろつき回る日々の様子が綴られていた。
『1966年12月24日、クリスマス・イブに捧げられた一日。(中略)最後にはみんなで集まって楽しい時間を過ごした。ハメをはずした者もいた』
『1967年5月13日、げっぷ、おなら、もどし、下痢の一日。オルガン・コンサートもかくやと思われる』
これらは捕われの身となる前日まで書き続けられた。

そして運命の1967年10月8日、ボリビア山中でCIAのゲバラ追跡部隊に指揮されたボリビア軍に捕らえられ、その翌日、全身に弾を撃ち込まれて射殺された。捕虜として収容所へ送られるのではなく処刑されたのだ。最期の言葉は上官の命令でゲバラに銃口を向け、ためらう兵士に叫んだ「ここにいるのは英雄ではない。ただの一人の男だ。撃て!臆病者め!」。39歳の若さだった。
ゲバラの遺体はすぐにヘリコプターで近くの町バージェグランデまで移送され、そこで“ゲリラのリーダーが死んだ証拠”として、見せ物のように晒された。人々が見学に訪れると、ゲバラは目をしっかり見開いたまま死んでいた。その死に顔があまりに美しかった為、「まるでキリストだ」と胸で十字を切る者までいたという。

ゲバラはキューバを去る時、カストロに別れの手紙を送っていた。

『フィデル、僕は今この瞬間多くのことを思い出している。初めて君と出会った時のこと、革命戦争に誘われたこと、準備期間のあの緊張の日々のすべてを。死んだ時は誰に連絡するかと聞かれた時、死の現実性を突きつけられ慄然とした。後に、それは真実だと知った。真の革命であれば、勝利か死しかないのだ。
僕はキューバ革命で僕に課せられた義務の一部は果たしたと思う。だから僕は君に、同志に、そして、君の国民達に別れを告げる。僕は党指導部での地位を正式に放棄する。大臣の地位も、司令官の地位も、キューバの市民権も。今、世界の他の国々が、僕のささやかな助力を求めている。君はキューバの責任者だから出来ないが、僕には出来る。別れの時が来たのだ。
もし僕が異国の空の下で死を迎えても、最後の想いはキューバ人民に向うだろう、とりわけ君に。僕は新しい戦場に、君が教えてくれた信念、人々の革命精神を携えてゆこう。帝国主義があるところならどこでも戦うためにだ。永遠の勝利まで。革命か、死か』



楽しそうにくつろぐゲバラ 子ども達と一緒に まだ30代で散ってしまった

※参考資料…『ゲバラ日記』、『エンカルタ百科事典』、『世界人物事典』(旺文社)、TBS『世界・ふしぎ発見!』ほか。

-------------------------------------------------------------

歴史上には様々な“英雄”がいる。その多くは圧制者を倒す過程には目を見張るものの、いざ当人が権力を手中にすると傲慢な支配者となって民衆を抑圧し、保身にいそしむ事が少なくない。しかし、ゲバラは違った!いったん権力を手にした革命家が、自らその地位を放棄して再び苦難の中に身を投じる、そんな例は殆ど聞かない。
彼は純粋なまでの左派だけど、思想的な立場の違いを超えて、ゲバラが貫き通した『心の声に忠実に生きる』という姿勢に共鳴する人は数多く、特にラテンアメリカでは「英雄の中の英雄」としてリスペクトされ続けている。実際、チリでも、ペルーでも、ブラジルでも、ゲバラの肖像画を街のあちこちで見ることが出来た。
ハバナ市内のお土産屋では、ゲバラのTシャツが20種類近く売られており、有名な革命広場では、夜になると彼の顔が壁一面に浮かびあがる。
※日本でも近年は彼の顔がプリントされたTシャツをよく見かけるようになったね。



革命広場のゲバラ(ハバナ市)

一方、カストロの肖像画はどこにもなかった。これはぜひ特筆しておきたい。
米政府はカストロを悪魔のように宣伝しているけど、街のどこを探しても、彼を賛美するポスターも銅像もなかった。国民に個人崇拝をこれっぽっちも求めていないのだ!社会主義国から連想する、笑ってしまうほど巨大な国家元首のモニュメントは、キューバでは見当たらなかった。
ホセやカルロスにカストロをどう思うか聞いたら
「う~ん、たまにドジを踏むけど、俺や皆にとって愛すべき兄貴みたいなもんかな」(カルロス)
「確かにキューバは貧乏だけど、40年もアメリカに経済封鎖されちゃ仕方ないさ。少なくとも、誰も餓死しないんだからカストロはよくやってるよ」(ホセ、訳・カルロス)


米国による長年の経済封鎖でキューバ経済は何度も破綻寸前に追い込まれた。それでも医療費は無料だし、自給率100%で餓死する者がいず、人種差別もなく国内に悲壮感がない。カストロの生き様は筋が通ってる。社会主義政権の中で私利私欲に走らなかった希少な例。CIAは“独裁者”カストロの個人資産を調査したが、あまりに少なくて驚いたという。

●主な国家元首の年収(日刊ゲンダイ07/11/2)
シンガポール・リー首相…2億4600万円
アメリカ・ブッシュ大統領…4500万円
日本・福田首相…4000万円
英国・ブラウン首相…4000万円
ドイツ・メルケル首相…3800万円
韓国・盧武鉉(前)大統領…2400万円
フランス・サルコジ大統領…1680万円
ロシア・プーチン大統領…850万円
タイ・スラユット首相…480万円
中国・胡錦濤国家主席…53万円
キューバ・カストロ国家評議会議長…4万円(!)

1997年7月。処刑されたゲバラの骨が、ボリビアの空港の滑走路の下から見つかった。ボリビア政府はゲバラの埋葬された場所が“反政府運動の聖地”になることを恐れ、ずっと遺骨は不明と公式発表していた。ところがゲバラの埋葬に立ち会った当時の関係者が、
「ワシも、もう歳じゃ。このままチェの埋葬場所を喋らず死ねば、永遠に謎のままになっちまう」
と公表したから大騒ぎ。この年はちょうど没後30年。ボリビア政府は発想を転換し、観光名所にすることで外貨を得ようと発掘に全面協力。ついにゲバラの骨が発見された。
遺骨はキューバに空輸され、ゲバラゆかりのサンタクララで国葬が行われた。証言がなければいまだにチェの墓はなかったわけで、ボリビア人のお爺さんにはホント感謝したい!


●墓参、そして再びハバナへ

かくして僕ら3人は車から降り、丘の上に建つゲバラの霊廟と向き合った。ホセとカルロスは2人して同じように腕を組み、無言のままゲバラの像を見つめていた。周囲には数名の観光客と墓を警護する2人の男しかおらず、とても静かだ。夕暮れ時の心地よい風が我々の間を通り抜けてゆく--。
“あなたから、たくさんの勇気をもらいました…ムーチャス・グラシアス!(ありがとう)”
墓前では、ゲバラの生き様にどうシビれたかや、今の世界情勢はこうだとか、あなたの死の同年翌月に僕は生まれたとか、半時ほど日本語でチェに喋りまくった。生きてたら日本語は通じないだろうけど、ソウル・トークは言葉の壁を越えるのでOKなのだ(と信じている)。



 
墓は高さ20mを超えていた!
(足下の人影と比較して欲しい) ライフルを持ち臨戦態勢。
ゲバラは戦い続ける


高さもあるけど、土台の霊廟の幅も相当のもの 左手前の黄色いバスが小さく見える

帰りにカルロスが“せっかくここまで来たんだしちょっと観光しよう”と言うので、車で街中をグルグル周った。
「あの~、ガソリン…」
って僕が言ってんのに、カルロスはわれ関せず。冷静なホセが必死でガソリン・スタンドを目で探してるのが首の動きで分かった。結局、僕とカルロスが街を観光してる間に、ホセが給油してくるという段取りになった。ホセはとにかく人が良い。

しかし、なぜカルロスが観光にこだわったのか理由を聞いて納得した。彼はこの街に、ゲバラが最終決戦で破壊した軍用列車の一部が博物館として残っていることを知っていたのだ。カルロスは片っ端から道を尋ねまくって、一目散に鉄道跡地を目指した。15分ほど歩くと、なるほど脱線した列車がそのまま革命博物館になっていた。カルロスはパネルや展示品を色々と熱心に解説してくれた。

ホセとの約束の場所に戻ると、彼はノンストップで運転して疲れたのか座席を倒してスヤスヤ眠っていた。僕は“もう少し寝かせてあげよう”とカルロスの顔を見たら、カルロスは「もう観光したし早く帰りたい」と言って(アンタな~)、次の瞬間には窓を叩きまくっていた。

帰途。
街を出る前にやはり怪しげな闇スタンドで謎の液体をホセは買い、カルロスは出発したときと同じ説明を、これまた同じ目配せをしながらしてくれた。闇スタンドのオヤジは僕らに甘いコーヒーを入れてくれた。
それから4時間の間、再びノンストップでハバナを目指した。ただ一度だけ、写真タイムを要請。広大なサトウキビ畑に沈んでゆく深紅の夕陽に圧倒された…!
やがて、とっぷりと日が暮れた。幹線道路に街灯はなく、漆黒の闇の中を滑るようにひたすら突き進んだ。



夕暮れの大地を弾丸のごとく疾走! 「ホセー!ちょっとタンマ!写真をーッ!」

ハバナに戻った時は、もう21時半をまわっていた。
読者の方は、ひとつの疑問を持っている思う。昼頃に出発して、今まで食事はどうしていたのかと。信じられないと思うけど、3人とも懐が寂しかったので何も食わず我慢したんだ。
否、正確に言うと、カルロスが持っていた1枚の板チョコを3分割し、9時間以上かけてチビチビ食べていたんだ。ホセ35歳、僕33歳、カルロス31歳という三十路3羽ガラスが、チョコの破片を分け合う姿は、ある意味とてもユーモラスだったと思う。

ホセはハバナの中心街まで僕とカルロスを送り届け、郊外の自宅に帰って行った。僕はホセと別れる前に肩を抱き合った。彼は本当に一人で頑張って運転してくれたので、ちょっとウルウル。僕は決してリッチではないけれど、135ドルの約束に対して150ドルを手渡した。だって、日本で9時間半タクシーを飛ばしたら、こんな値段じゃすまないもんね…。

カルロスとの別れ際、彼が少しだけ家に来ないかと言うので驚いた。実は今日、娘が2歳の誕生日なので、一言祝ってやって欲しいというのだ。 “俺には2歳の子供が…”と言ってたあの話は本当だったんだ!サンタクララで早く帰りたいと言ったのも、娘のバースデーの為だったのか。カルロスって、けっこういいヤツじゃん!
近くのアパートの3階に上がり部屋に招待されると、婆ちゃん、奥さん、弟、チビちゃんの4人が22時というのに皆起きていて、テーブルにはケーキが置かれていた。僕は色んなお菓子を薦められジーンときた。

しばし団らんの後、時間が時間なので早めにおいとまをした。
カルロスはアパートの下まで見送りに来てくれたが、最後の言葉が
「アミーゴ。マリファナを買わないか?」
ギャフン。カ、カ、カルロス…。

午後10時半、かくして僕は港に戻ったのであった。
グラシアス&アディオス!ホセ、カルロス、チェ・ゲバーラ!!





ゲバラの墓前で。ホセと派手な服のカルロス。この車(ルノー・サンク)が実によく走った! ひれ伏さずにいられない!

(P.S.)ゲバラの愛読書
彼が好んだ作家は、幼少期がデュマ、学生時代がフロイト、ボードレール、パブロ・ネルーダ。ゲリラになってからはゲーテやセルバンテスを愛読していたという。

(P.S.2)ゲバラの口ぐせ
「最も重要なことは権力を握ることではなく、握った後に何をするかを明らかにすることだ」

(P.S.3)武装闘争は最終手段
「政府が、不正があろうとなかろうと、何らかの形の一般投票によって政権についている場合、または少なくとも表面上の合憲性を保持している場合には、ゲリラ活動には多大の困難が伴うだろう。非暴力闘争の可能性がまだあるからである」(『ゲリラ戦争』)

(P.S.4)向こう見ずなドン・キホーテ
彼自身、そのドン・キホーテぶりを自覚してたようで、両親に宛てた手紙でそのことに触れている。両親にとっては以下の文面が遺書となってしまった。(署名のエルネストは彼の名前)

『もう一度、私は足の下にロシナンテ(ドン・キホーテの愛馬)の肋骨を感じています。盾をたずさえて、再び私は旅を始めるのです。もしかすると、これが最後になるかもしれません。自分で望んでいるわけではないが、論理的にはそうなる可能性があります。もしそうなら、あなた方に最後の抱擁をおくります。
私は、あなた方を心から愛していました。ただ、その愛情をどう表現したらよいのかを知らなかっただけです。私を理解していただくのは容易ではないのですが、今は、私を信じて欲しいのです。芸術家のような喜びをもって完成を目指してきた私の意志が、なまってしまった脚と、(喘息の為)疲れた肺を支えてくれるでしょう。この20世紀の小さな外人部隊長を時々想い出して下さい。
おふたりの強情な放蕩息子から大きな抱擁を送ります。~エルネスト』

(P.S.5)子ども達への最後の手紙

『この手紙を読まねばならない時、お父さんは側にいられないでしょう。世界のどこかで誰かが不正な目にあっている時、痛みを感じることが出来るようになりなさい。これが革命家において、最も美しい資質です。子ども達よ、いつもお前たちに会いたいと思っている。だが今は、大きなキスを送り、抱きしめよう。~お父さんより』

※YouTubeにアップされているゲバラの肉声(1分10秒)
※青年ゲバラのバイク旅行の様子は傑作映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』(公式)で描かれている!
※俳優ジョニー・デップはゲバラのペンダントを肌身離さず身につけているという。男が憧れる男、それがゲバラ。





★ゲバラと日本~ゲバラは来日していた!

《ゲバラ、訪日時に被爆地・広島を夜行列車でゲリラ的訪問》 [ 07年10月9日 毎日新聞 ]

キューバ革命の英雄チェ・ゲバラが訪日団の団長として1959年に来日し、広島をゲリラ的に訪問した際、副団長と2人で大阪から夜行列車に飛び乗ったことが9日、分かった。副団長だったオマル・フェルナンデスさん(76)が明らかにした。
フェルナンデスさんは「チェは被爆地・広島訪問を熱望し、私と2人で大阪のホテルをこっそり抜け出し、夜行列車で広島に行ったんだ」と振り返った。

ゲバラは59年1月の革命後、同年6月から3カ月間、アジア・アフリカを歴訪した。訪日団長が当時31歳のゲバラで、副団長を2歳年下のフェルナンデスさんが務めた。7月中旬に来日、10日間滞在し、自動車工場などを視察した。アルゼンチン出身の医師であるゲバラは、予定になかった広島の被爆地訪問を強く希望したが、日本政府の許可が出なかったという。業を煮やしたゲバラは大阪のホテルに滞在中、「ホテルを抜け出して広島に行くぞ」と決断。オリーブグリーンの軍服姿で大阪駅で切符を買い2人で夜行列車に飛び乗った。

「被爆者が入院する病院など広島のさまざまな場所を案内され、私同様、チェも本当にショックを受けていた」とフェルナンデスさん。帰国報告の際にゲバラは、フィデル・カストロ国家評議会議長(当時は首相)に「日本に行く機会があれば、必ず広島に行くべきだよ」と強く勧めたという。カストロ議長は03年3月に広島を訪問。フェルナンデスさんは「フィデルはチェとの約束を守ってくれた」と感激した。

※ゲバラは家族にあてた絵ハガキに「広島を訪れ、ますます闘うエネルギーがわいた」と書いた。
※原爆ドーム訪問後にゲバラが通訳に言った言葉「日本はこんなにひどい事をされたのに、アメリカの言いなりになっているのか」。






★僕は映画『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳別れの手紙』を全肯定ッ!!


チェ・ゲバラの伝記映画2部作をレビュー。「最も重要なことは権力を握ることではなく、握った後に何をするかを明らかにすることだ」(チェ・ゲバラ)。最初は民衆の為に立ち上がった革命家が、最終的に自らの権力に固執する暴君と成り果て死んでいったことが幾度あったことか。“堕ちた英雄”の話はゴマンとある。その中で、死の瞬間まで理想を求めて戦い続けたのが、アルゼンチン人の医者でありながらキューバ革命を成功させ、ラテンアメリカのカリスマとなったチェ・ゲバラだ。
ゲバラ役のベニチオ・デル・トロはこの熱演でカンヌ映画祭の主演男優賞に輝いた。監督は当サイトのトップ最上段にある言葉「芸術を生むために日々努力をしている人に感謝します。僕は芸術なしでは生きられない」で知られるスティーブン・ソダーバーグ。この映画はもともとキューバ時代の華々しい活躍ではなく、あまり知られていない晩年のボリビア時代を描く目的で製作が始まった。しかしボリビアでの失敗と悲しみは、キューバでの成功を描くことで、それがコントラストとなっていっそう浮き彫りになると、最終的にキューバ編を含めた4時間超えの大作となった。


●第1部『チェ 28歳の革命』

冒頭、ゲバラがメキシコでフィデル・カストロと出会い、キューバの腐敗しきった独裁政権を倒す為に船で出発。キューバ上陸後はゲリラを組織して、島の東側から徐々に西進を開始する(最初はたった17人)。優れた戦術で2万人の国軍を相手に連戦連勝、誠実なゲバラは人望が高く、多くの民衆がゲリラに加わり、わずか3年で首都ハバナを陥落させ勝利する(第1部はここまで)。
…と、ストーリーだけ書けば盛り上がる要素満点なんだけど、大抵の映画批評サイトでこの映画はメタメタに叩かれている。観客の心を掴もうというサービス精神が完全に欠けているからだ。例えば--

(1)アルゼンチン人のゲバラがなぜキューバ革命への参加を決めたのか、その過程が描かれてないので、ゲバラの人物像を知らない人はスムーズに感情移入できない。
(2)史実では、キューバ上陸の際に待ち伏せ攻撃にあい約80人の仲間のうち4分の3を失っている。このエピソードは完全にカット。Why?その壮絶な戦いを前半に見せていれば、観客は後の戦いをもっと応援するし、勝利の度に感無量になるのに~!
(3)ラストにハバナ入城のシーンがないなんて詐欺ッスよ!実際のニュース映像でゲバラたちがハバナ市民から熱狂的に歓迎されたのを知ってるだけに、「さあ今から首都に入って歓喜の凱旋パレードだ!」と、感動の大エンディングを待ち受けていたら、車でハバナに向かうシーンで唐突に“完”。しかも、若いゲリラが戦利品でゲットした高級車を乗り回していたので、怒ったゲバラが「今すぐにそれを帰してこい!俺たちは泥棒じゃない!」と説教&肩をすくめているとこで“完”。思わず椅子からズリ落ちそうになった。2部構成とはいえ中途半端すぎる。大群衆に喝采で迎えられる劇的なラストシーンなら、観客はカタルシスを感じて“いや~、盛り上がったね”となるのに…。あうう、もったいない。

それでは、この映画は「駄作」なのか?答えは映画に何を求めるかで違ってくるだろう。ハリウッド的な派手な戦闘シーンや、“聖者ゲバラ”の感動エピソード&カリスマ・オーラ爆裂を期待していたら20点。しかし、あざとい演出や“ここで泣いて下さい”的な音楽を排除し、実際のゲリラ活動の大半を占めるであろう地味な行軍やキャンプ生活を丁寧に描くことで、「チェという人間と一緒にいること、それがどんな感覚かを味わって欲しい」(監督)という、“ゲバラと空気を共有する”一体感を味わいたければ85点だ。そして僕は後者だった。

とはいえ、多くの観客は“ゲバラがどんなヒーローだったのか見てみたい”という気持で劇場に足を運んだと思うし、それ故のガッカリ感も分かる。もっとエンターテインメント性に重きを置いて、アクションとロマンスをふんだんに入れ、ラストの大勝利を見せて爽快ハッピーエンドという作り方をしていれば、それが全部事実なだけに、タイタニック並とは言わなくてもかなりの大ヒットが期待できたハズ。彼の存在がより多くの人に伝わる好機を逃して残念とも思う。だがしかし!その路線のゲバラ映画は、今後も登場する可能性は充分にあるし、定石通りの見せ方なら簡単に製作できるだろう。このようにリアリティを追求し、移動の休息中に読書をしている姿や、持病のぜん息で苦しんでいる様子、貧しい村人を治療したり、仲間の喧嘩を仲裁している普段のゲバラを通して、稀代の英雄と寝食を共にする感覚を味わえたことは、ゲバラ・ファンとしてこれ以上ない喜びだった。




●第2部『チェ 39歳別れの手紙』

ゲバラが処刑されるまでの最後の11ヶ月を描く。第1部ではキューバ革命という“勝ち戦”を描いており、ゲリラ仲間には希望があり陽気なムードメーカーもいて、ジョークを言い合う余裕もあった。ところが、第2部はもう最後に死ぬことが分かっているので、ひたすら状況が悪化して行くのみ。胃がキリキリしっぱなし。ソダーバーグ監督いわく「素晴らしい冒険物語を描きたかったのではなく、偉大な思想を行動に移そうとする時の難しさを掘り下げたかった」。主演のデル・トロは25kg減量して撮影に挑み、筆舌に尽くしがたい凄味を出していた。

ゲバラは「キューバ革命は成功したが世界にはまだ虐げられた人々が大勢いる」と、キューバ政府の大臣の地位を捨て、愛する家族とも別れ、ただの一介のゲリラとして旅立つ。目指したのは南米の中心に位置する軍政ボリビア。そこで革命を成功させ、周辺諸国を次々と独裁者の圧政から解放する計画だった。
勝算はあった。キューバのようにゲリラが潜める山岳地帯があり、ボリビア共産党から物資食料の支援を受ける根回しもしていた。ところが、ゲバラがソ連のことを「帝国主義の共犯者」と批判したことから、親ソ派のボリビア共産党から過激派扱いされて援助を断たれ、米国に支援されたボリビア軍精鋭部隊がゲバラを執拗に追跡した。最大の悲劇は、ゲバラたちが貧しい農民のために頑張っていたのに、ボリビア軍が流したデマの為に農民の支持を得られなかったことだ。
軍はゲバラたちを「キューバ人の侵略者」「外国人の山賊」などと農民に吹き込み、ゲリラを見た農民たちは逃げ出し居場所を軍に通報した。また脱走ゲリラが軍に捕まり作戦を自白したのも痛かった。次第に追い詰められ、もともと50人しかいなかったゲバラの仲間が1人、また1人と散っていく。少ない戦力で奮戦するも多勢に無勢、ついにゲバラは軍に拘束され、裁判抜きで翌日に処刑された。

多くの映画評で、この第2部は第1部以上にボロボロの点数が付けられている。単調といわれた第1部でさえ、一応見どころとなる大きな市街戦があった。しかし第2部は山岳地帯で小競り合いがたまにあるだけで、前作以上に娯楽性が皆無&ストーリーにメリハリもなく、人間ゲバラに興味のない人には2時間の“苦行”だったと思う。僕は第1部を見て、この2部作は通常の“映画的興奮”を求める作品じゃないことが分かったので、最初からスイッチを切り替え、ゲバラの過酷な行軍を見届ける覚悟で挑んだ。見終えた僕の点数は100点だ。
「我々が作り出したエピソードはひとつもなく、すべて入念なリサーチで事実と認められたもの」(監督)というどこまでも誠実な作り。前作以上にゲバラを間近から見つめ続けた本作は、ゲバラ信者として100点以外に付けようがない。すぐ側で目にした彼の言動の一つ一つに心が動いた。

武力による革命には安易に賛同できないけれど、「人間による人間の搾取をなくしたい」というゲバラの気持ちは良く分かる。彼はモラルや正義を重視し、腐敗や私欲とは無縁の誇り高い男だった。たとえ部下でも、農家の食料を略奪したり女性を暴行すれば許さなかった。彼の辞書には「妥協」という文字が無いので、一緒に行動するのは大変だ。食料も弾薬も乏しい。それでも、“虐げられた貧しい人々を救いたい”というゲバラについていく、そんなゲリラたちの想いと共に行動した2時間は、僕の人生の中で決して無駄な時間ではなかった(ゲバラのぜん息の呼吸音がまだ耳から離れない。それくらい彼が近くにいた)。ゲバラが銃殺されるシーンだけ、カメラが彼の目線になったので、ゲバラと共に自分も地面に崩れ落ちた気がした。

最後に特筆したいのは、この映画にエンディングの音楽がなかったこと!過去にも曲なしエンディングはあったけど、スタッフロールは比較的に短かった。本作はスタッフの数が多く、長い時間、ずっと無音の中に身を置くことになる。この無音という“演出”は、ある意味、音楽以上に感情を揺さぶった。音楽がないので他に集中するものがなく、暗い画面を見ているうちに、ゲバラの人生を振り返り始める。キューバでの情熱の日々、フィデルや家族と遠く離れたボリビア山中での逃避行、孤独な死…。理想や正義感が空回りし、作戦は失敗、農民にも部下の一部にも裏切られて39歳で死んでいったゲバラが、とにかくもう可哀相で可哀相で、無意識に涙が溢れてきた。それは僕だけじゃない。ほぼ同時に場内のあちこちから鼻をすする音が聞こえてきた(静かなのでよく響く)。特に僕の左前に座っていたおじさんは号泣。右の方でもおじさんが爆涙していたので、おそらく団塊の世代は学生運動の挫折を経ているので、ゲバラのことが他人事と思えず、あんなにも泣けたんだと思う。

一方、後ろに座っていた若者3人は「つまらん、途中で寝た」「何も伝わってこない」と、全くゲバラに同情していない。なんという温度差!これは別にあの若者たちに感受性がないわけじゃなく、再び日本に熱い政治の季節が訪れたら、この2本の映画が若者にもリアリティを持って輝き出し、高く再評価されると確信している。
「もし我々が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者と言われるならば、出来もしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、『その通りだ!』と」(ゲバラ)



※追記。サイト読者の方から「第2部は短いエンドタイトルが最初に流れました」「曲はおそらくメルセデス・ソーサの“共和国の庭園にて”です」と情報を頂きました(有難うございました!)。僕は思い出せないのですが、感動で記憶が飛んでいた可能性が大です。DVDが出たら確認します!
※映画のテーマ的には従来ならミニシアターでひっそり上映される内容。ゲバラの伝記映画が巨大シネコンで大々的に上映されるとは公開前に思ってなかったので、僕はそれだけでも嬉しい。



   

2009年6月12日、『チェ・2部作』がセットで発売開始!待ってたぜーッ!!





Tシャツなどのゲバラの肖像はこの写真がモトになっている!

http://camus242.blog133.fc2.com/blog-entry-144.html

映画 『チェ 28歳の革命』 『チェ 39歳別れの手紙』
映画・テレビ
★ チェ・ゲバラが殺されたときの衝撃は忘れません。世界中でどれほどの人間が悲しみ悼んだか、誇張でなくそれは億を超えたと思います。ジョン・レノンが「世界で最もかっこいい男」と讃え、サルトルが「20世紀で最も完璧な人間」と言い切ったチェ・ゲバラ。わたしも最も尊敬する男です。彼には国境はありませんでした。アルゼンチンで生まれ、キューバで革命を成功させ、その後もアフリカ、南米で民衆のため戦い尽くし、ボリビアで39才の若さで処刑されました。今年初めゲバラの二部作が公開されました。『チェ 28歳の革命』、『チェ 39歳別れの手紙』。映画の感想を交え、思いを書きます。このような人間も確かに存在した、人間を信じる気持ちになってきます。

★ 例のない革命家 理想そのままに生きて死んだ チェ・ゲバラ200pxguerrilleroheroico

 ゲバラは1928年、アルゼンチンの比較的裕福な家に生まれます。2歳の時、重度の喘息と診断されます。生涯ゲバラを苦しめた宿病でした。時には激しい発作で命の危機にさえ見舞われます。大学で医学を学んだのもまずは自身の喘息を直さんがためでした。在学中、おんぼろオートバイで親友と南米を回ります。これが後の革命家ゲバラを創った原点でした。お坊ちゃんのお気楽息子、ゲバラは南米各地で貧しく病に苦しむ民衆、一方で奢侈にふける支配者の腐敗を目にします。素直で感受性に満ちた彼は民衆の苦しみをおのれのものとして考え抜きます。(この旅行は映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」として2004年に公開されました。おもしろく南米の風景がとても美しいです)
 大学卒業後も放浪し、グアテマラで妻となるイルダ・ガデアと知り合います。彼女はペルーの革命家でグアテマラに亡命していました。彼女はゲバラに大きな影響を与えます。時のグアテマラは南米でも最も民主的で進歩的な政権だったのですが、アメリカの介入により政権は倒され軍事独裁政権に戻ります。(「アメリカの裏庭」を乱す者をアメリカはけして許しませんでした。あらゆる汚い介入で「反」米政権は潰されます)。ゲバラが武力による解放を決意した政変でした。医学博士号も持っていましたが、医学では世界を変えることはできないと革命家を決意します。グアテマラから追放されたゲバラはメキシコに渡り、生涯を運命づけたカストロと出会います。カストロに共鳴したゲバラはキューバ解放に身を投じます。
 キューバ革命、それは現代の神話です。奇跡の革命、奇跡の勝利でした。メキシコから8人乗りのヨットに何と82人もが乗り込みキューバに密かに上陸します。これを察知していた政府軍に待ち伏せされ、ゲバラたちは一気に12名に激減します。この12名が核となり2万の軍隊に勝利し、革命を成功させるのです。時のキューバはアメリカの属国同然で、土地、電話、電力、鉄道すべての利権がアメリカ資本に牛耳られ、首都ハバナはマフィアが横行する無法街でした。しかもキューバ政府の要人は独裁者バティスタ将軍を筆頭に米国に追従するばかりで、巨額の黒い金が支配者間で動いていました。ゲバラたちはマエストラ山脈にこもり、解放闘争を進めていきます。ゲバラは誠実に精力的に活動し、一軍医からカストロに次ぐNO.2のリーダーとして認められていきます。キューバの農民は疲弊しきっていました。ゲバラたちの活動は次第に認められ、支持を広げていき、キューバ上陸からわずか2年余りの1959年1月1日、バティスタ将軍は亡命し、キューバ革命は成功します。ゲバラ、30才の若さでした。
 革命後のキューバは困難の連続でした。そんななかカストロたちは教育・医療の無料化、アメリカ資本の接収、農地解放など懸命に政策を進めます。キューバ国立銀行総裁の要職にあったゲバラは自らの報酬を半減させ、その後工業相になってからは毎日深夜まで自ら現場におもむき、率先して現場労働に身を投じました。建設現場で自らレンガを積み、サトウキビ畑で自らトラクターを運転しました。アメリカは経済封鎖し、執拗にキューバ崩壊をめざし介入しますがことごとくはねつけています。
 そして過去の革命家に例を見ない行動に走ります。1965年、37才のゲバラは大臣の地位、キューバの市民権さえ捨て去り、新たな解放の戦いに飛び込んでいきます。まずアフリカコンゴに渡った後、ボリビアに潜入します。ボリビアでの戦いは困難を極めました。アメリカを後盾としたボリビア軍事政権は執拗にゲバラたちを追い詰め、ついに1967年10月、政府軍に捕縛され裁判なしに処刑されます。ゲバラという大物を射殺しようとする兵士は震えるのですが、ゲバラは「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」と最後の言葉を残し、39才の生涯を閉じました。

★ 人は必ず死す 人の志はいつまでも死なない

 映画『チェ 28歳の革命』、『チェ 39歳別れの手紙』は合わせて4時間半の大作ですが、長いとは少しも思いません。ただ疲れます。映画評がけして好評でなかったように、ハリウッド製の血湧き肉躍る活劇を求めたら、大失望でしょう。監督スティーブン・ソダーバーグは「ゲバラと行動を共にしている」視点から映画を作っており、ドキュメンタリーと見まがうリアルな描写が続きます。特に『チェ 39歳別れの手紙』は結末が分かっているだけに息苦しいほどの重苦しさです。原作はゲバラの日記であり、そこにヒロイズムは何もありません。キューバと違いボリビアではゲバラのもくろみはことごとく裏切られていきます。
 37才でカストロや家族に別れの手紙を残し、なぜ世界の解放闘争に身を投じたか。一番はゲバラの本物の理想主義だと思いますが、彼の立場も微妙なものがありました。キューバ革命はけして当初から社会主義革命をめざしたものではありません。ただ疲弊の極にある農民の解放と腐敗の極にある軍事独裁政権打倒をめざしたものです。キューバを「社会主義」国に追いやったのはアメリカです。アメリカの目と鼻の先にある反米政権はアメリカにとり言いしれぬ脅威でした。経済封鎖し、ことごとく敵対した結果、キューバは時のソ連に頼らざるを得なくなったのです。しかしゲバラはソ連の大国主義には疑問を持っていました。おおやけに反ソの演説も行っています。親ソのキューバ共産党内では次第に孤立感を覚えていきます。ボリビア共産党も親ソでゲバラへの援助はありませんでした。徹底的に軍事政権に抑えられたボリビアの農民もけしてゲバラに同情的ではなく、ゲリラ兵士内部にさえ裏切りが現れます。過酷な環境のなか、喘息の発作に苦しみゲリラ戦争を続けるゲバラは痛ましくてたまりません。
 彼には革命の戦略は欠けていたのかも知れません。彼はただ目の前の苦しみ悲しむ民衆を救う手だてはないかと、それだけだったのだと思います。こんな革命家は知りません。当初は崇高な理想に燃えていたはずの革命家もひとたび権力を握ると、恐ろしい権力亡者と化し、血なまぐさい権力闘争を繰り返しました。ロシア革命、中国革命など枚挙にいとまありません。「愛を愛とのみ交換しうる打算なき社会」を目指したマルクスの理想は20世紀にボロクズのように貶められました。(ただわたしはソ連や中国が真の社会主義国だとは思いませんが)。ゲバラのみが革命の理想に殉じました。これもまた20世紀の奇跡と思います。「戦略がなかった」などとあとから評することは簡単です。彼のような人間が現に存在したことは人間の崇高さをいつまでも思い起こさせます。映画の主役であったベニチオ・デル・トロはゲバラに入れ込み6年も役作りに精進し25キロもやせたと言われています。すばらしい演技でアカデミー男優賞ももらっています。監督と俳優のゲバラへのオマージュでした。惜しいことがあるとすれば現実のゲバラはもっとハンサムだったことくらいです。思想を問わずゲバラのTシャツが世界にあふれているのも、あの澄んだ目の髪もじゃ青年に人が何かを感じ取るからでしょう。わたしは恐れ多く着たことはありませんが。
 最近南米では次々に反米政権が誕生しています。以下「知恵蔵2008」からの引用です。

 『南米にここ数年、左派政権が猛烈な勢いで拡大している。1998年に発足したベネズエラチャベス政権以来、2003年にはブラジルのルラ政権とアルゼンチンのキルチネル政権、05年にはウルグアイのバスケス政権、さらに06年にはボリビアのモラレス政権、チリのバチェレ政権、ペルーのガルシア政権、エクアドルのコレア政権、07年にはアルゼンチンでキルチネルの妻のフェルナンデスと次々に大統領選挙で左派政権が誕生した。今や南米で明確な親米右派政権は左翼ゲリラとの内戦で米国の軍事援助に頼るコロンビアだけだ。 左傾化のきっかけは90年代に米国が主導する国際通貨基金(IMF)が南米各国に押しつけた新自由主義政策だ。民営化や規制緩和を過度に進めた結果、地場産業が崩壊し失業が増大して格差が拡大した。「IMFの優等生」といわれたアルゼンチンでは金融危機に陥って暴動となるなど各国で社会が混乱し、大統領選挙では有権者が新自由主義反対を掲げる反米左派の候補に流れた。……』

 ゲバラの理想は少しずつ実現されています。これらの国ではゲバラは高く評価されています。もちろん歴史は直線に進むものではありません。長い長い螺旋の階段を上るように、一歩後退二歩前進で進むものだと思っています。これからも紆余曲折は必至でしょう。けれど人間は変わらぬ理念を掲げることができます。ゲバラはその生き様、死に様で人間に無言の理想を教えました。最後ボリビアではゲバラはおのれの理想の敗北を痛切に実感したでしょう。孤立感に苦しむゲバラが哀れでなりません。半眼の彼の死に顔は悲哀も苦悩もなく澄み切っています。おのれの理想と思想を生ききったたぐいまれな男の死に顔です。映画ではラスト、悶絶するゲバラの声のみ聞こえ、沈黙のエンディングロールが続きます。くされ団塊の感傷と笑えば笑え、嗚咽がとまりませんでした。南米の貧しい民衆にとり今やゲバラは「聖ゲバラ」の感さえあります。キリストがそうであったように優れた人間の生き様、死に様は何より人の胸をえぐります。ゲバラの意志はこれから数百年も人間に苦しみと悲しみのある限り生き続けると思います。
 最後ゲバラの言葉です。わたしのような小賢しい者にはがつんと響きます。

もし私たちが空想家のようだといわれるならば、
救いがたい理想主義者だといわれるならば
できもしないことを考えているといわれるならば
何千回でも答えよう
「その通りだ」と

※ ゲバラは妻子を捨てたのかと「優しい日本人」の突っ込みがありそうですが、わたしの父であったとしてもたまらなく誇りに思います。釈迦でさえ妻子を捨てました。宮殿で何不自由なく育った釈迦はひとたび外に出、生病老死に苦しむ人間を見て、それをおのれの苦しみとして考え抜きました。釈迦やキリストが20世紀の南米に生まれていたら革命家になっていたとは言いませんが。

★ 映画『チェ 28歳の革命』、『チェ 39歳別れの手紙』オフィシャルサイト

★ 「チェ・ゲバラ伝」 三好徹 著

http://ryo-report.hatenablog.com/entry/2016/03/28/022839


キューバ旅行に行く人におすすめの本と映画


人気ブログ「Chikirinの日記」を書かれている、ちきりんさんは、「海外を訪ねる前に、その国を舞台にした本を“ガイドブック以外に1冊”でいいから読んでいく」ことを勧められていますが、確かに事前に本を読んだり映画を見たりして旅行すると、自分の中に新たな視点が加えられ、その国に対する興味が増します。

また、先週の記事で触れたように、旅先での会話を楽しむという意味でも、事前に情報収集できていると、的確な質問ができ、より深い会話ができる可能性が高くなります。

今月は3回に渡ってキューバ旅行の様子やそこで考えたことをお伝えしてきましたが、今回は、キューバ旅行に行こうと思っている人におすすめの本と映画を紹介します。

1. 『キューバでアミーゴ!』(たかのてるこ)


キューバでアミーゴ! (幻冬舎文庫)

キューバでアミーゴ! (幻冬舎文庫)
作者: たかのてるこ
出版社/メーカー: 幻冬舎
発売日: 2010/07
メディア: 文庫
クリック: 3回
この商品を含むブログ (8件) を見る


.
キューバへの約2週間の旅行記。地元の人とのユーモアあふれるふれあいの様子から、キューバの文化や生活の様子が垣間見えます。
平易な文体で堅苦しくない内容なので、最初の1冊としておすすめです。

2. 『小さな国の大きな奇跡』(吉田沙由里)


小さな国の大きな奇跡~キューバ人が心豊かに暮らす理由~

小さな国の大きな奇跡~キューバ人が心豊かに暮らす理由~
作者: 吉田沙由里,アレイダ・ゲバラ
出版社/メーカー: WAVE出版
発売日: 2008/05/15
メディア: 単行本
購入: 7人 クリック: 21回
この商品を含むブログ (11件) を見る


.
こちらはもう少し幅広く、キューバの歴史や政治経済にも触れつつ、普通の人たちの生活や教育・医療制度などいろんな角度からキューバの様子を描いた本。
この本もすごく読みやすくてよかったです。


3. 『チェ・ゲバラ伝』(三好徹)


チェ・ゲバラ伝 増補版 (文春文庫)

チェ・ゲバラ伝 増補版 (文春文庫)
作者: 三好徹
出版社/メーカー: 文藝春秋
発売日: 2014/04/10
メディア: 文庫
この商品を含むブログ (3件) を見る


.
伝説の革命家チェ・ゲバラの生い立ちに始まり、学生時代の放浪の旅、カストロとの出会い、ゲリラ戦を戦い抜いて勝ち取った革命、革命後に親善使節団として日本に立ち寄った際の様子、そしてボリビアで再び革命を志し、ゲリラ戦に身を投じ最期を迎えるまでの濃密な生涯が丹念に描かれています。
読み応えはありますがその価値はあると思います。
今までチェ・ゲバラやキューバ革命のことをほとんど知らなかったけど、これを読んでこんな奇跡みたいなことが起こり得るんだなと思いました。


4. 『老人と海』(アーネスト・ヘミングウェイ)


老人と海

老人と海
作者: アーネスト・ヘミングウェイ
出版社/メーカー: 佐和出版
発売日: 2015/07/18
メディア: Kindle版
この商品を含むブログを見る


.
今回キューバに行くまで知らなかったのですが、ノーベル賞作家のヘミングウェイは、約20年感キューバを拠点に執筆活動をしていて、当時の家や、行きつけのバーなどが今も残っています。
題名だけは知っていましたが、今回ハバナ到着後に初めて読みました。


5. 『ブエナ★ビスタ★ソシアル★クラブ』


ブエナ★ビスタ★ソシアル★クラブ Film Telecine Version [DVD]

ブエナ★ビスタ★ソシアル★クラブ Film Telecine Version [DVD]
出版社/メーカー: 東北新社
発売日: 2012/11/30
メディア: DVD
クリック: 5回
この商品を含むブログ (7件) を見る


.
キューバの世界最高齢バンド『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』を追ったドキュメンタリー映画。
みんな超高齢(最高年齢は92歳)なのにカッコいいし、演奏も上手い。
キューバ音楽の雰囲気がわかる映画。


6. 『モーターサイクル・ダイアリーズ』


モーターサイクル・ダイアリーズ 通常版 [DVD]

モーターサイクル・ダイアリーズ 通常版 [DVD]
出版社/メーカー: アミューズソフトエンタテインメント
発売日: 2005/05/27
メディア: DVD
購入: 4人 クリック: 215回
この商品を含むブログ (398件) を見る


.
チェ・ゲバラの学生時代の放浪の旅を描いた映画。
キューバ革命の印象が強いチェ・ゲバラですが、実は生まれはアルゼンチンで、学生時代に南米各国を縦断していました。
まだ観れてないけど今度観たい。

7. 『28歳の革命』&『39歳別れの手紙』


チェ ダブルパック (「28歳の革命」&「39歳別れの手紙」) [DVD]

チェ ダブルパック (「28歳の革命」&「39歳別れの手紙」) [DVD]
出版社/メーカー: NIKKATSU CORPORATION(NK)(D)
発売日: 2009/06/12
メディア: DVD
購入: 2人 クリック: 33回
この商品を含むブログ (58件) を見る


.
こちらもまだ観れていないのですが、チェ・ゲバラのキューバとボリビアでの奮闘を描いた2部作です。
革命の様子を映像で観てみたい方は是非!

以上、キューバ関連のおすすめの本と映画の紹介でした。
もちろん、キューバに旅行に行かなくても楽しめるものばかりですので、興味があったら是非読んで、観てみてください

http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%90%E3%83%A9

チェ・ゲバラ







チェ・ゲバラ

 ジョン・レノンが世界一かっこいい男と言い、J=P・サルトルが「二一世紀でもっとも完璧な人物」と評した人物。それが、チェ・ゲバラである。 1928年、アルゼンチンの冨裕な家庭に生まれ、二十代末にキューバの革命家フィデル・カストロと知り合い、キューバ革命に成功して、一躍時の人となった。


【生い立ち】

1928年(0歳)アルゼンチンに生まれる

1941年(13歳)コルドバのディーン・フネス学院に入学

1948年(20歳)ブエノスアイレス大学医学部に入学

1952年(23歳)友人で6歳年上の医師、アルベルト・グラナドスとともに南米大陸縦断の旅に出る。

1953年(25歳)ブエノスアイレス大学卒業。医学博士号を受ける。2度目の旅に出発。ボリビアからパナマなどを経てグアテマラに入る。

1954年(26歳) メキシコに入国

1955年(27歳) 亡命ペルー人活動家のイルダ・ガデアと結婚。フィデル・カストロと知り合う。この頃から「チェ」と呼ばれるようになる。

1956年(28歳) 長女イルディタ誕生。カストロらとともにキューバ解放の遠征軍に参加。以後、山岳地帯のシエラ・マエストラでゲリラ活動を行う。

1057年(29歳) コマンダンテ(司令官)に昇格。解放軍の第二部隊を指揮する。気管支「自由キューバ人」を刊行

1958年(30歳) キューバ中部のサンタ・クララへの遠征作戦(サンタクララの戦い)成功

1959年(31歳) フルヘンシオ・バティスタ将軍がキューバから逃れ、キューバ革命を成功。アレイだ・マルチと再婚。アジア・アフリカの親善使節団長として、日本をはじめとする各国を歴訪。国立銀行総裁に就任。

1960年(32歳) 著書「ゲリラ戦争」を出版。アレイダとの間に長女アレイディタ誕生

1961年(33歳) 工業省が建設され、工業大臣に就任

1962年(34歳) キューバ危機が起こる。長男カミーロ誕生

1963年(35歳) 二女セリア誕生

1965年(37歳) 二男エルネスト誕生。アルジェリアで演説、ソ連を帝国主義として批判した発言が問題となり、カストロと別れ、新たな革命の地としてコンゴに向かう。カストロ、ゲバラの「別れの手紙」公表

・1966年(38歳) いったんキューバに戻った後、ボリビアに向かう

1967年(39歳) 「第二,三のベトナムを」というメッセージが公表される。場リビアのチューロ渓谷で、ボリビア国軍の捕虜となる。イゲラ村に連行され、処刑される。

1968年 「ボリビア日記」が公開

1997年 ボリビアのバージェ・グランデで遺体が発見される。遺体、キューバに機関


【時代背景】

 社会主義が熱い視線を集め、学生運動のウェーブが世界的に巻き起こった1960年代、ゲバラは「抵抗」し、「闘う」人間のシンボルであった。この時代のヒーロ―として毛沢東やホーチ・ミンもいる。その中で飛びぬけてゲバラは人気がある。ゲバラの特異なのは、「祖国」のためでなく、純粋に「理想」のために命をかけて闘った点である。彼は理想の実現を求めて、革命から革命へと世界を渡り歩くスケールの大きな放浪者であった。


【持病】

 チェは、生まれつき重い喘息を持っていた。チェが医学部に進んだのも、自分と同じように病気で苦しんでいる人を助けたいと思ったからである。しかし、南米大陸の旅に出、革命家の道を歩むことを決心した。革命の地のボリビア・パナマは、湿気が多く、暑い土地だったため、喘息持ちのチェにとっては、革命以前に生活すること自体とても苦しいものであった。一方、生れながらにして重い喘息を持ち、常に死と隣り合わせの生活を送ってきたことが、チェを偉大な革命家にした一つの原因でもある。常に死と隣り合わせだからこそ、一瞬、一瞬を大切にし、覚悟を決めて闘うことができたのだ。


【教育】

 チェは初め、軍隊志願者に必ず「読み書きはできるか?」と聞き、できない人は相手に騙されやすいからという理由で、入隊させなかった。しかし、後にチェは軍隊の中に学校を作り、教養のある人を教師にし、読み書きを教えてた。また、学校だけでなく、病院も作り、村の人たちの診療もしていた。


【“チェ”と呼ばれる由来】

 「チェ」とはアルゼンチンのコルド地方の方言で、人に話しかけるときの「ねぇ」「君」といった意味がある。ゲバラがこの言葉を連発するのを面白がって、亡命するキューバ人のアントニオ・ロペス(ゲバラとカストロを引き合わせた人物)があだ名にしたという。ちなみに、ゲバラの本名は、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナである。


【チェの才能】

 ゲバラは39歳で亡くなり、それから30年が経って遺体が発見された時、かつての同志や友たちが、「チェ・ゲバラという人間の、最も優れた資質は何だったと思いますか?」という質問に口を揃えたように、「人間を愛する才能です」と答えたという。ゲバラは稀代のゲリラ戦士であり革命家であるより前に好奇心に満ちた旅人であり、負けず嫌いのスポーツマンであり、乱暴な医者であり、写真や詩を愛し、自らも幾多の名文を残した表現者だった。そして何より、人を愛した。これが、ゲバラが今も、国境や言葉を超えて世界の人々の中で生き続けている理由ではなだろうか。


【ゲリラヒーロー】

 ゲバラの存在を今も輝かせている要素の一つが、キューバ人カメラマン、アルベルト・コルダが撮影した「ゲリラヒーロー」と題される写真である。この写真は、1960年3月、沈没した貨物船の追討集会で演説するゲバラを望遠レンズで狙ったもの。コルダはこの写真を気に入って自宅に飾っていたが、ゲバラの死後の数か月前に彼のもとを訪れたイタリア人ジャーナリストにプリントを贈呈したところ、瞬く間に世界中に知られるようになったという。コルダは、2000年、イギリスの酒造メーカーがウォッカの広告に使用した時、一度だけ訴訟を起こし、「チェを支持する者の一人として、酒や売春のために使用することは断固として許さない」と主張して勝訴し、受け取った約5万ドルをすべてキューバの医療機関に寄付したという。


【映画】

 フィデル・カストロとともにキューバ革命を成功に導いた、20世紀最大のカリスマ、エルネスト・“チェ”・ゲバラの生涯をスティーブン・ソダーバーグ監督&ベニチオ・デル・トロ主演で映画化した2部作「チェ/28歳の革命」「チェ/39歳 別れの手紙」が年明け1月10日と1月31日から公開される。


 【参考文献】

NHK知るを楽しむ私のこだわり人物伝 チェ・ゲバラ 革命への旅 / 日本放送出版協会


「チェ/28歳の革命」スティーブン・ソダーバーグ(監督)ベニチオ・デル・トロ(主演)


歴史のミステリー NO。48 小河原和世(発行人)デアゴスティーニ(発行所)

http://iwarin7575.blog.so-net.ne.jp/2009-12-20-1

『チェ 28歳の革命』 [映画]

[映画]
『チェ 28歳の革命』2008年の作品

3424290
解説・・・
ジョン・レノンは「あの頃、世界で一番かっこいい男だった」と語り、哲学者ジャン・ポール・サルトルは「20世紀で最も完璧な人間」と評した。ジョニー・デップは彼が刻印されたペンダントを肌身離さず身につけ、世界中の若者がこぞってアイコンとして掲げる。この男、いったい何者なのか?

歴史に残る記述は、“フィデル・カストロと共にキューバ革命を成し遂げた男”。しかしそれは、彼の激烈な人生のほんの1ページにしか過ぎない。医者であり、旅人であり、詩人であり、夫であり、父であり、そして人を愛する才能を持つ革命家。真実の情熱に導かれ、人間愛こそが人を救うと信じ、圧政下にあった人々を大いなる愛情を持って救おうとした、世界でただ一人の男、チェ・ゲバラ。享年39歳。

正義の見えない今の時代に湧き上がるそんな声に応えるかのように、キューバ革命成立50周年でもある2009年、彼が映画となって蘇る。彼の半生にある真実と謎を2本の映画で紐解いたのは、『トラフィック』のアカデミー賞コンビ、スティーヴン・ソダーバーグ監督とベニチオ・デル・トロ。

死してなお、1枚の写真で人々の心に革命を起こし続けるこの男の気高い<生>と、今なお謎の多い<死>の、知られざる真実。生き様と死に様、成功と失敗、光と影。どちらかを目撃しても、どちらも体験しても、確実なことは、ただひとつ。あなたはもう、今までのあなたではいられない。2009年、新しい年の幕開けと共に、あなたの心にも革命が起きる。



・・・ゲバラは

1928年、アルゼンチンの比較的裕福な家に生まれます。2歳の時、重度の喘息と診断されます。生涯ゲバラを苦しめた宿病でした。時には激しい発作で命の危機にさえ見舞われます。大学で医学を学んだのもまずは自身の喘息を直さんがためでした。在学中、おんぼろオートバイで親友と南米を回ります。これが後の革命家ゲバラを創った原点でした。お坊ちゃんのお気楽息子、ゲバラは南米各地で貧しく病に苦しむ民衆、一方で奢侈にふける支配者の腐敗を目にします。素直で感受性に満ちた彼は民衆の苦しみをおのれのものとして考え抜きます。(この旅行は映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」として2004年に公開されました。おもしろく南米の風景がとても美しいです)
 大学卒業後も放浪し、グアテマラで妻となるイルダ・ガデアと知り合います。彼女はペルーの革命家でグアテマラに亡命していました。彼女はゲバラに大きな影響を与えます。時のグアテマラは南米でも最も民主的で進歩的な政権だったのですが、アメリカの介入により政権は倒され軍事独裁政権に戻ります。(「アメリカの裏庭」を乱す者をアメリカはけして許しませんでした。あらゆる汚い介入で「反」米政権は潰されます)。ゲバラが武力による解放を決意した政変でした。医学博士号も持っていましたが、医学では世界を変えることはできないと革命家を決意します。グアテマラから追放されたゲバラはメキシコに渡り、生涯を運命づけたカストロと出会います。カストロに共鳴したゲバラはキューバ解放に身を投じます。
 キューバ革命、それは現代の神話です。奇跡の革命、奇跡の勝利でした。メキシコから8人乗りのヨットに何と82人もが乗り込みキューバに密かに上陸します。これを察知していた政府軍に待ち伏せされ、ゲバラたちは一気に12名に激減します。この12名が核となり2万の軍隊に勝利し、革命を成功させるのです。時のキューバはアメリカの属国同然で、土地、電話、電力、鉄道すべての利権がアメリカ資本に牛耳られ、首都ハバナはマフィアが横行する無法街でした。しかもキューバ政府の要人は独裁者バティスタ将軍を筆頭に米国に追従するばかりで、巨額の黒い金が支配者間で動いていました。ゲバラたちはマエストラ山脈にこもり、解放闘争を進めていきます。ゲバラは誠実に精力的に活動し、一軍医からカストロに次ぐNO.2のリーダーとして認められていきます。キューバの農民は疲弊しきっていました。ゲバラたちの活動は次第に認められ、支持を広げていき、キューバ上陸からわずか2年余りの1959年1月1日、バティスタ将軍は亡命し、キューバ革命は成功します。ゲバラ、30才の若さでした。
 革命後のキューバは困難の連続でした。そんななかカストロたちは教育・医療の無料化、アメリカ資本の接収、農地解放など懸命に政策を進めます。キューバ国立銀行総裁の要職にあったゲバラは自らの報酬を半減させ、その後工業相になってからは毎日深夜まで自ら現場におもむき、率先して現場労働に身を投じました。建設現場で自らレンガを積み、サトウキビ畑で自らトラクターを運転しました。アメリカは経済封鎖し、執拗にキューバ崩壊をめざし介入しますがことごとくはねつけています。
 そして過去の革命家に例を見ない行動に走ります。1965年、37才のゲバラは大臣の地位、キューバの市民権さえ捨て去り、新たな解放の戦いに飛び込んでいきます。まずアフリカコンゴに渡った後、ボリビアに潜入します。ボリビアでの戦いは困難を極めました。アメリカを後盾としたボリビア軍事政権は執拗にゲバラたちを追い詰め、ついに1967年10月、政府軍に捕縛され裁判なしに処刑されます。ゲバラという大物を射殺しようとする兵士は震えるのですが、ゲバラは「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」と最後の言葉を残し、39才の生涯を閉じました。


ゲバラ 最後の言葉・・・

もし私たちが空想家のようだといわれるならば、 救いがたい理想主義者だといわれるならば できもしないことを考えているといわれるならば 何千回でも答えよう 「その通りだ」と






http://che.gaga.ne.jp/


私は数年前 「モーターサイクル・ダイアリーズ」という映画を観た。アルゼンチン生まれ、医者志望の若者エルネスト・ゲバラが、中古のオートバイで友人と二人、南米を旅する。そして、南米の虐げられた人たちの現実を目の当たりにすることとなる。
http://www.kadokawa-pictures.co.jp/official/m_cycle_diaries/index.shtml

この映画がとても良く・・・サッカーでは彼の顔のダンマクが良く張られていたが・・・本当の人物を勉強するきっかけになった・・・

http://www.mmjp.or.jp/hannan-union/cuba_no3-1.htm


私たちの訴えと取組み





キューバを知る会通信第三号より


 「キューバを知る会」は、今とても注目されているキューバを知りたい!資本主義的大量消費でない「持続可能な社会」に挑戦し、医療福祉教育が手厚い社会主義国キューバの本当の姿を知り、みんなに伝えたいという人たちが呼びかけてできた会です。

第3回「キューバを知るつどい」を開催(12/10)
DVD鑑賞会 
「炎の記憶」
「AIのつながり紀行」

 12月10日第3回「キューバを知るつどい」には、年末で忘年会等も重なり忙しい中で18名の方が参加してくれました。今回は、キューバをもっと知ろうと考え、一つは、原爆の平和の火をキューバにつなぐ活動の紹介番組で、チェ・ゲバラが1959年に広島を訪れた時の珍しい映像も含まれていたDVD(約30分)上映と、めざましスペシャルで放映された歌手のAIのキューバ紀行のDVD(約30分)上映を行いました。上映後、参加した方にそれぞれ感想を言って頂く気軽なつどいで、とても楽しいものでした。

DVD上映会報告
「炎の記憶~原爆の残り火をキューバに~」

 これは吉田沙由里さん(NPO法人アテナ・ジャパン代表)が、広島の原爆投下時の残り火である平和の火を、キューバに運び、永遠に保存しようとする活動の紹介の番組です。 

 キューバの子どもたちに、「原爆」のことを尋ねると「8月6日広島、8月9日長崎にアメリカが投下した」と、どの子も答えることが出来るのに驚きました。キューバでの8月6日と9日は平和記念日になっているそうです。キューバの学校の教科書には3頁にもわたって「1945年アメリカが日本の広島、長崎に落とした原子力爆弾について」記載され、全てのキューバの子供はこれを勉強しているそうです。

 1959年、カストロと並ぶキューバ革命の指導者であるチェ・ゲバラが、日本訪問時、日本政府が許可しなかった広島行きを、訪問団から離れてこっそり行っていたのです。その写真が数枚残されていました。その時同行した指導者の一人が今も生きておられ、当時の様子を紹介されていました。

 ゲバラは、原爆資料館も訪れていました。キューバへ帰国後、アメリカの広島・長崎への原爆投下についてキューバの人々に伝え、教育の中にも取り入れ、カストロには広島行きを熱心に進めたそうです。2003年、カストロも広島を訪れています。

 アメリカが日本に落とした原爆は、一瞬のうちに数万の命を奪い、町を破壊し尽くし、その後も原爆症で人々の命を脅かすもので、使ってはいけない殺戮破壊爆弾を使用したアメリカの犯罪は許すことは出来ない事実として、ゲバラがキューバの人々に伝え、平和の礎としてキューバで語り継がれていることに感動しました。
















「AIの“つながり紀行”~憧れのキューバ~」

 ロサンゼルス生まれの歌手AIは、カリブ海に浮かぶ島国キューバの音楽に惹かれキューバを訪れます。キューバのハバナでは、いつもどこでも音楽が流れ、誰もがダンスを踊り、いたるところでカーニバルが催されている、本当に陽気な人々が暮らす明るい町なのが伝わってきます。

 AIも明るく人なつっこい性格ですが、キューバの人々もそれに劣らず明るく人なつっこい性格で、AIが「オラ!(こんにちは)」と気軽に声をかけるとすぐにとけ込んで一緒にダンスをし歌を歌う、見ているみんなもつい笑いが漏れ、楽しくなってきます。

 AIは、憧れのサルサのダンス教室も訪れ、17~18歳の、ダンサーをめざす若者と一緒にダンス。さすがAIちゃんサルサもうまい!AIが訪問した老人クラブでも80歳、90歳代の老人もダンスを踊って、歌を歌ってみんな元気で陽気です。子どもたちのダンスグループもあり、子供からお年寄りまで、みんな歌って踊って明るく楽しいキューバが伝わりました。

 キューバはモノが少ないので、消費するのでなく修理する文化です。車も住宅も古いモノを修理して使います。AIちゃんもキューバでみんなが利用しているヒッチハイクで、測車が付いた二輪車に乗せてもらったり、ココタクシーを利用したり、あちこちで行われているカーニバルに挑戦しました!楽しそう!

 2人の子供と母親と祖父と4人暮らしの家に招かれ、キューバの家庭料理も紹介。米と豆を炊いた主食、揚げバナナもおいしそう!1ヶ月100円で、配給所に行くと基本的な生活物資が配給されます。野菜やお魚、肉といった生鮮食品は、国営市場で新鮮なモノが買えます。キューバの平均月給は2千円位。

 キューバは教育も医療も無料で、将来に不安が無いので、モノが不足していても、みんな陽気で明るく生きることが出来るのだとつくづく感じました。

 AIちゃんはキューバに来て、キューバの国と人々をとても気にいり「大好き!グラシアス(ありがとう)!」と叫んでいたのには、「キューバを知る会」のメンバーもうれしい思いでいっぱいになりました。

 
【つどいに参加して・・・DVDの感想を紹介】

・ キューバの老人クラブでみんなダンスをしたり歌ったり楽しそう。日本の老人ホームでも、キューバを見習って楽しくすると良いのにと思った。
・ 原爆に関心があり資料館に行ったことがあるが、恐ろしかった。キューバに原爆の残り火を運んで永久保存しようとしている試みはすごいと思った。
・ とても楽しそう!教育と医療が無料であることで、みんな安心出来ると思う。
・ 広島に行ったことがない。戦争には関心があり沖縄には行ったことがある。広島にもキューバにも行ってみたいと思った。
・ 南国でもともと明るい国、みんな楽しそう!キューバは教育がしっかりしているから子どもたちもしっかりしている。将来の不安が無いから、より明るいのかな。自分の子どもを広島に是非連れて行きたいと思った。
・ 給料は安い。配給もあり、医療・教育が無料で充実している。キューバの子どもたちが広島のことを知っていてびっくりした。日本は知らない子が多いと思う。教育が大切だと思う。
・ キューバは名前しか知らなかったが、楽しそうだったので行ってみたいと思った。
・ ゲバラは何でこのように長い間英雄なのかと疑問に思っていたが、キューバの医療・教育を勝ちとってくれた人だからだとわかった。
・ 私は、小学校の教師をしていますが、最近、読んだ「世界がキューバの高学力を手本にするわけ」という本に、毎日子どもたちが「チェ・ゲバラのようになろう!」と言い、国歌を歌っている。とあった。

*******************************
・ AIの力がすごいなあ!即興でダンスや歌をプロと一緒に出来るのがすごい!
・ 音楽が街中にあふれていてすごい!日本に来たキューバ人は「日本には二度と来たくない。みんなよそよそしい。」キューバでは見知らぬ人にも気軽に声をかける習慣あるが、日本で地下鉄に乗ってもみんな素知らぬふりであることが、キューバ人にとっては耐えられないことのようだ。
・ キューバはスリムな人が多い。みんなダンスをしているから?
・ 来年キューバ革命50周年、映画「チェ・28歳の革命」「チェ・39歳 別れの手紙」。チェ・ゲバラの一生を描いた映画の試写会があり、パート1を見た。(組合ニュースの第5097号にも感想が掲載されている。)ゲバラを演じている俳優のデル・トロが、まるでゲバラのようで魅力的である。来年1月公開される。それがとても楽しみ!
・ キューバは明るく、人と人とのつながりがあり、コミュニケーションが充実していてみんな楽しそう!
・ キューバのカーニバルは、日本の盆踊りとは、また違って楽しそう!今後もキューバの文化、音楽をもっと紹介したい。キューバは野球も盛んである。キューバの有機農業にも学びたい。

(キューバを知る会通信第3号  2009.1.30.より)
スポンサーサイト

| 未分類 | コメント(0)

コメント

非公開コメント

トラックバック

http://kimuramasahiko.blog.fc2.com/tb.php/3288-a7313d2d