暴力で締めつけた日本軍の実態 しごきの前に、まず近視の者はメガネを外せと言うから、なぜメガネを外すのかと思うと、殴られたらメガネが飛び散るからでした。 一番ひどいビンタは、鋲が入っている革靴の底で殴られると顔が腫れ上がってしまう。もっとひどいのは、4,5人掛けの椅子を力自慢の上級兵が振り上げて10人ほど並んでいる兵隊をなぎ倒すのです。3番目ぐらいまでに並んでいる者はまともに当たりますからね、私は小さいから一番後ろで助かったのですが、そんなビンタを顔が歪むくらい毎週やられました。 数ヵ月に一回位は連隊長か師団長が隊内視察に来るのですが、それがあらかじめ分かっているから一週間ほど前からは殴らないんですよ。一応軍隊の内規では私的制裁はいかんということになっていましたからね。





















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H・Tさん 大正14年(1925)生(80才)
 
   暴力で締めつけた日本軍の実態

戦争末期の昭和19年には、どんどん兵隊が戦死していくので、20才からの兵役の義務が、特命で19才に繰り上げられたのですよ。
だから私は、19才で徴兵検査を受けましたが、当時の徴兵検査の体格基準で第2乙種でした。甲種合格、第一乙種の次が第2乙種になります。それ以下は兵役から外されました。
私が入隊したのは、昭和19年9月1日で、高射砲連隊の現役兵でした。それから1ヵ月もしない10月には名古屋の高射砲中隊に配属されました。

一緒に入隊した人のなかには、視力の弱い人から足に障害のある人、40過ぎの所帯持ちのおじさんまで、私たちと同じ星一つの新兵として召集されたのです。そうした新兵を一年兵、二年兵、三年兵などの古参兵が、年齢からいえば親父か兄貴みたいな新兵をしごいたのです。
しごきの前に、まず近視の者はメガネを外せと言うから、なぜメガネを外すのかと思うと、殴られたらメガネが飛び散るからでした。
一番ひどいビンタは、鋲が入っている革靴の底で殴られると顔が腫れ上がってしまう。もっとひどいのは、4,5人掛けの椅子を力自慢の上級兵が振り上げて10人ほど並んでいる兵隊をなぎ倒すのです。3番目ぐらいまでに並んでいる者はまともに当たりますからね、私は小さいから一番後ろで助かったのですが、そんなビンタを顔が歪むくらい毎週やられました。
数ヵ月に一回位は連隊長か師団長が隊内視察に来るのですが、それがあらかじめ分かっているから一週間ほど前からは殴らないんですよ。一応軍隊の内規では私的制裁はいかんということになっていましたからね。

みじめだったのは、私がいた部隊では、戦争末期に入ると米飯が減って皮つきのジャガイモなどが主食で消化不良を起こしたりしました。どんどん食事の量も減っていきました。満州で収穫したコウリャンめしで下痢ばかり起こしたものです。
炊事当番に当たって飯上げに行った途中で、飯びつに顔を突っ込んで口に詰め込む者がいるほどひもじいのです。それがバレた兵隊の中にはお寺の僧侶がいましたが、気の毒につるし上げられてムチャクチャにやられましてね。
炊事当番が飯をつぐのを皆がジッと見つめているのですよ、おれの飯は他より少なくはないかと。中には分からないように飯をヘラで押さえつけて量をふやす者もあって、食べ物が乏しくなったら人間性の尊厳もあったものやないですね。

また、兵隊を指揮統率する士官将校の数も減ってきたので、昭和19年12月に幅広い幹部候補生の募集があった。私も半ば強制されてその試験に合格し、次いで極めて短期間のうちに下士官教育として厳しい訓練を受けて上等兵に進級しました。旧制中学卒業者以上の学歴をもつ者は幹部候補生危険を受けさされたのです。
私が入隊した当初は星一つの二等兵でしたが、僅か3ヵ月目で星3つの上等兵になったのです。そうすると古参兵たちが、昨日まで自分の子分か手下か奴隷みたいにしごいていた新兵が幹部候補生に合格したとたんに階級が上がり、その新参の兵隊から今度はしごかれる立場へと逆転するわけです。
ですから古参兵は私たちが幹部候補生になることを嫌うのです。ところが上部の命令ですから断るわけにいかんのです。
すると、私たちの隊内に50人ほどいた新兵のうち3人が脱走して行方不明になりましてね、これが全員の連帯責任ということでしらみ潰しに探させられた結果、1人は営内のトイレで首つり自殺していました。また1人は近くの池に浮かんでいたのです。もう1人は親元に帰っているところを捕まって営倉(軍隊内の留置場)に入れられたのです。(犯した行為の軽重により、重営倉・軽営倉がありました)
これが見せしめになって、それからは脱走して捕まれば拷問同様のひどい仕打ちをうけるという恐怖感に襲われたものです。

幹部候補生試験の第一関門を越え、一定の教育期間が過ぎて、昭和20年3月に将校予備軍としての甲乙分離試験というのがあった。私は中学生時代に国語と作文以外は成績が悪かったのですが、幸か不幸か甲種幹部候補生にパスしてしまったのです。大学生だった同僚が分離試験に落ちて乙種のまま残されたのが不満で怒っている人もいました。
当時は名古屋市内山手の高射砲隊にいたので、B29の大編隊による空爆のため炎上している名古屋城が遙かに見えたのが忘れられない記憶です。
終戦直前の8月に軍曹任官となり、千葉県の稲毛にあった千葉陸軍高射砲学校へ将校教育のために移動させられました。そこでの短い教育期間に天皇の「終戦詔勅」を聞いたのです。録音盤によるとぎれとぎれの聞き取りにくいラジオ放送でした。

占領軍最高司令官マッカーサーが近くの厚木空港へ降り立ち、米軍が進駐してきました。GHQ(占領軍司令部)は日本軍の武装解除を命令しました。無条件降伏したわけですからね。
兵士の小銃には天皇の菊の紋章がついていますから、それを削り取れというわけで、安物のヤスリで何百丁という小銃の菊の紋章を削り取るのは大変な作業でした。
日本軍の最後の潔さ、立派な姿を敵に見せろと言われましたが、米軍はそんなことにお構いなく、役に立たない小銃を積み上げて焼却処分してしまったのでした。

軍隊生活から解散して帰郷するに当たって、古い毛布2枚と米5キロぐらいを貰って、無蓋列車に乗って大阪の堺へ帰って来ました。後で聞いた話ですが、上官の将校連中は、砂糖とか新品毛布30枚とか兵隊に運ばして私物化した連中がいたということです。
礼儀正しさや訓練の厳しさで世界に誇るといわれた日本軍の軍律などもろいもので、影も形もなくなっていましたね。あれだけスパルタ的に特権と命令で締めつけられていた軍隊が、ちょうど桶のタガが外れたのと同様でバラバラになってしまった感がしました。
陸軍士官学校出の将校に兵隊はずいぶんしごかれたから、かつての部下から袋叩きに遭った将校もだいぶんおりましたね。「許してくれ、悪かった」と言うて平謝りしていた人もいましたが。

ヨーロッパなどでは敗戦国の反抗や暴動で進駐した米軍の将兵が殺されたという事例がありますが、マッカーサーの占領政策が成功したためか、日本では殆どそうしたテロや抵抗は見られなかったですね。
あの頃の日本人一般には、あれだけ負けても潔さや道義心とか慎みの心があったのでしょうか。耐え難きを耐え、忍び難きを忍んでいたのか、万世のために平和を──と述べた天皇の詔勅を素直に受け入れたからでしょうか。皇居の前で天皇陛下に申し訳なかった、われわれが至らなかった、と大勢の人たちがお詫びしたり自決した軍人もありましたね。
戦後しばらくして、筋金入りの将校だった元軍人の家を訪ねると、天皇・皇后両陛下の真影が飾ってあったのを見たこともありました。その人は軍隊ボケしているのではないかと私は思ったりしましたがね。日本人として鍛え上げられた軍人魂というのがあったのでしょうか。

一方、先輩の戦友から、野戦病院でいまわのきわに母親の名を呼んで息を引き取ったという話もよく聞きましたね。
例えば、私がいた部隊の上官の弟さんが中国戦線で機関銃で撃たれて両眼両耳を失って、野戦病院から九州方面に移送されて、お母さんが駆けつけて息子の名を呼んでも、目は見えないし耳もやられて聞こえないので、そっと乳房を触らせると、その兵士は最後に「お母さん」と一声叫んで息絶えたそうです。

日本の主要都市を焼き尽くした米軍の空襲は、日本の家屋に最も効果的な焼夷弾を計画的に研究開発して無差別に投下した作戦ですから、明らかに国際法に違反しています。戦争になると理性も道義も失ってしまうので、絶対に戦争はしてはいかんということを忘れてはなりませんね。
かつての三木首相夫人の三木睦子さんの話ですが、小泉さんは戦争を知らない世代だから、戦争の怖さも犠牲のおぞましさも分からない。あんな人が日本の総理としてブッシュ米大統領の言いなりになっているのは情けない、と語っていた言葉に強く感動しました。
3年前の9.11テロのとき、ブッシュさんから最大の友人と言われた小泉首相は、ブレア英首相の隣りにいて嬉しくて舞い上がってしまったのでしょうね。(2005.3.14)

<取材記者のひとこと>
殴ったり殴られたり、軍隊内部では日本人同士が暴力ののとりこになっていた実態が、お話を聞いてよく分かりました。
そのような暴力で締めつけた人間関係の下では、本当の信頼感と連帯感で結ばれていた組織体制とは、とても言えないと思います。その意味でも、日本が戦争に負けたのは当然であり、負けてよかったといえるのではないでしょうか。(3.25)
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