戸塚ヨット事件 また、わが国の、体罰容認という風潮や、人権感覚の不毛さもからんでいた。登校拒否を否定する価値観と登校させようという圧力や期待が、本人たちをどれほど追いつめ家庭内暴力や神経症、対人恐怖、昼夜逆転などを生んでいくかというような理解もなかった。生まれてきて、学校でしっかりやれるように育てられ、その学校で苦しい目にあい、不登校に至り、あるいは小川くんのように体育が苦手、体を鍛練させなければと、戸塚ヨットに入校させられ死んで家に戻ってくる人生とは何であったのか。ひどく息苦しい問いに、私たちは直面せざるを得ない。











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http://www.futoko.org/special/special-43/page1205-2087.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(1)

(11-12-05)


 80年代前半の日本の登校拒否の歴史で、絶対欠かせないのは、戸塚ヨットスクールの存在と、そこで死に追いやられ、あるいは暴行障害を受けた多くの子ども、若者であろう。
 ざっと、戸塚ヨットスクール事件の経過をまず紹介したい。
・1976年11月 戸塚ヨットスクール開設
・1977年12月 登校拒否の子たち対象の合宿訓練開始
・1979年2月 見学祐次くん(13歳)死亡(不起訴)
・1980年11月 吉川さん事件
 当時21歳の吉川幸嗣さん(大阪府枚方市在住・大学受験生)を殴るなどしてヨットスクールに連行。10月31日から11月2日まで激しい暴行を加え4日未明外傷性ショックで死亡させた。(傷害致死罪)
・1982年8月 あかつき号事件
 7月、愛知県春日井市と大阪府箕面市(ともに当時15歳で高校1年生)の2人を、それぞれ自宅から合宿所に連行。2人は8月14日、夏期合宿からの帰途、約1カ月にわたる暴行監禁から逃れようと神戸行きフェリー「あかつき」から高知沖の海上で飛び込み、行方不明になった。(監禁致死罪)
・1982年12月 小川くん事件
 神奈川県藤沢市の中学1年生(当時13歳)を、12月5日から12日にかけて、竹刀などで殴ったり、海中に突き落とすなどの暴行を加え12日深夜、外傷性ショックで死亡させた。(傷害致死罪)
 愛知県警、戸塚ヨットスクール捜査
・1983年5月 暴走族リンチ事件で、コーチ6人逮捕
・1983年6月 小川くん事件で戸塚校長逮捕
・1983年7月 小川くん事件で起訴
・1983年9月 ヨットスクール閉鎖
・1983年10月 吉川さん事件で起訴。 戸塚被告ら初公判
・1983年11月 あかつき号事件で起訴
・1985年2月 小川くん事件で元コーチに有罪判決
・1986年7月 戸塚校長ら保釈
・1986年10月 ヨットスクール再開
・1991年3月 戸塚校長に懲役10年の求刑
・1992年7月 有罪判決(名古屋地裁)

 この一審判決で事実認定されたケースで、上記以外のものを下表にあげてみる。

資料1
※画像クリックで原寸表示

(つづく・奥地圭子)

※2003年2月1日 不登校新聞掲載

http://www.futoko.org/special/special-43/page1212-2095.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(2)

(11-12-12)


 前号で延べたような事件を引き起こした戸塚ヨットスクールに対し、1992年7月27日、名古屋地裁は、判決を下した。戸塚宏校長には懲役3年執行猶予3年(求刑は懲役10年)、可児・東コーチには懲役2年6カ月、山口・横田・内田コーチには懲役2年、藤浦・加藤・境野コーチには懲役1年半、小杉コーチには10カ月(コーチらにもそれぞれ執行猶予が3年~2年)という内容であった。
 この判決の軽さに、子どもの生命を何と思っているのだ! と私たち市民団体は怒りを覚え、判決の考え方にも問題点を感じ、2カ月後、抗議の緊急集会を開くのだが、それは後に述べることにし、ここでは戸塚ヨットスクールについて事実をもう少し紹介したい。
 まず、戸塚宏とはどんな人物であったのか。  
 判決要旨には「被告人戸塚宏の身上経歴」として次のように出ている。
「被告人戸塚は、名古屋市立菊里高等学校を卒業後、名古屋大学工学部に入学し、同40年3月に同大学を卒業したが、大学時代ヨット部に所属し、大学間対抗競技の小型ヨットのレースに出場したり、ヨット部の主将を務めるなどしており、大学卒業後すぐには就職することなく渡米し、ヨット部の先輩らとともに、大型ヨットのレースに出場した。
 その後、昭和41年8月に、名古屋市内の会社に就職したが、昭和44年ヨットレースに出場のため休職して再び渡米し、大型ヨットのレースに出場して帰国した後の昭和45年に同社を退職した。
 被告人戸塚は、以後、個人でヨットの販売、ヨットスクールを営む一方、国内外のヨットレースに参加し、昭和50年9月に開始された沖縄海洋博覧会記念のサンフランシスコ・沖縄間太平洋横断シングルハンドヨットレースにも参加して優勝した。そして、被告人戸塚は、右レースにおいて同被告人のスポンサーとなったヤマハ発動機株式会社からヨットの提供を受け、昭和51年11月ころ、愛知県知多郡美浜町内の河和海岸などにおいて子供を対象とした「戸塚宏・少年ヨットスクール」を開講した。なお、昭和49年11月26日には、それまで個人で行っていた事業を「株式会社シー・ワイ・シー」の商号で法人組織としたが、昭和56年11月1日には、その商号を「戸塚ヨットスクール株式会社」と変更している。」
 では戸塚は、どのように登校拒否の子どもを訓練することになっていくのか。
「被告人戸塚は、ヨットスクールの普及によってヨット人口が拡大し、日本のヨットの操縦技術の水準が高まると考えたばかりではなく、その訓練過程において一般児童の体力、精神力が強化されると考え、ヨットスクールの運営、指導にあたっていた。
 被告人戸塚が河和海岸において開いたヨットスクールは、当初、小学校3年生以上中学生までの児童を主に対象とし、隔週の日曜日を利用して月2回の訓練を行っていたもので、生徒数は5名くらいのものであった。そして、被告人戸塚が直接経営するものではなかったが、同じ時期にスクール名に「戸塚塾」の名前を使った同様の内容のヨットスクールが、浜名湖など他に5カ所でも開かれ、被告人戸塚は、その巡回指導も行っていた」
 そして沖縄海洋博覧会記念のヨットレースで優勝した戸塚が、児童を対象にヨットスクールを開いていることを伝える記事が1977年6月ごろから新聞に掲載されるようになる。「海のしごきで独立心養成」(読売新聞)、「戸塚艇長、新たな挑戦」、「全国にヨット塾」(中部読売新聞)、「荒っぽくしごかれるチビッ子ヨット教室」(報知新聞)などの見出しのもとに、ヨットの訓練によって子どもの独立心、我慢強さ、集中力が養われるとの内容の記事が報道された。
 さらに、11月ころからは、「情緒障害児ヨット訓練で自立心」「戸塚宏さんが実証」(朝日新聞)「風と戦い、元気が出たよ」、「登校拒否にヨット療法」(朝日新聞、名古屋版)「独立心を養うのに最適」、「現代っ子の欠点を直す」(中部経済新聞)などの見出しのもとに、登校拒否などの問題を抱えた児童がヨットスクールにおいて戸塚の訓練を受け、4カ月でふつうの児童と同じように学校に通うようになったことなどを紹介した。こうしてヨットスクールの訓練がいわゆる「情緒障害児」の立ち直りに効果があるというマスコミ報道は、戸塚にも親たちにも大きな影響を与えていく。(つづく・奥地圭子)

※2003年2月15日 不登校新聞掲載

http://www.futoko.org/special/special-43/page1219-2100.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(3)

(11-12-19)


 戸塚ヨットスクールというスポーツ施設が、登校拒否の子どもの矯正施設になぜに変わっていったのか。
 戸塚ヨットスクール事件判決要旨から、引き続き紹介する。
 被告人戸塚は、ヨットスクールの訓練が情緒障害児の立ち直りに効果がある旨を伝える記事が掲載された直後より、登校拒否などの問題を抱えた児童の父母から多くの問い合わせを受け、また、ある程度の期間児童の身柄を引き取って訓練し、治してもらいたい旨の要望を聞いたため、これらの児童を対象に、一定期間の合宿訓練を内容とするヨットスクールを開くことを考えた。
 そして、第1回の合宿訓練は、被告人戸塚の知人の会社が持っていた厚生施設を借用し、河和海岸において、昭和52年12月末から翌年の正月にかけての4日間の日程で行われ、参加費用一人4万円を支払って4名の児童が参加した。
 その後、昭和53年2~3月ごろ、10名くらいの児童が参加して、第2回の合宿訓練が5日間の日程で行なわれ、以後、登校拒否などの問題を抱えた児童10名くらいを対象に、ほぼ同様の合宿訓練が月に1回の割合で継続して行なわれた。なお、途中で合宿施設は愛知県知多郡美浜町内の名古屋鉄道河和駅近くにあった、以前に観光船の切符売り場として使用されていた建物となり、昭和54年9月ころからは、愛知県知多郡美浜町大字河和字北屋敷236番地所在の旧河和観光館の建物(以下「北屋敷合宿所」という)となった。合宿期間についても、児童のようすによっては、5日間の期間を延長する場合も出てきていたが、北屋敷合宿所を使うようになってからは、5日間という合宿期間の定めがなくなり、その結果、常に合宿生を抱える状態となっていった(従来から行なわれていた一般児童を対象としたヨットスクールは「一般スクール」または「日曜スクール」と呼ばれ、これに対し、登校拒否などの問題を抱えた児童を対象とした合宿訓練を内容とするヨットスクールは「特別合宿」と呼ばれたので、その生徒は「特別合宿生」ともいう)。
 特別合宿をはじめてまもなくのころから、戸塚は、積極的に、情緒障害が立ち直ったことを広く宣伝しはじめたという。自らのスクールのパンフレットに「登校拒否等の情緒障害児の回復に非常に大きな効果をあげております。特に登校拒否の場合は、5泊5日の合宿とその後の一般児との日曜スクールでほぼ100%の成績をあげております」「この半年間だけでも10名以上の情緒障害児を完治させています」などと記す。費用も漸次引き上げられ、昭和54年には、5泊5日の合宿費用は、入校金とあわせて50万円となった。では、どんな訓練だったのか。
 戸塚は基本方針と実績を自ら以下のように記している(判決要旨より)。
「なるべく冬季に陸上でヨットの乗り方を教える。ヨットのところまで来ないので、引きずったり、ぶったりしてヨットの側に立たせる。ぶたれる痛さに、子どもは不承不承ヨットの側に立つ。それから『よく聞いていろ。一度しか言わない』と言って、ヨットの乗り方、転覆した時の起こし方を教えておいて『わかった』という返事を取っておく。次に転覆しても安全なようにウェットスーツ(半袖・半ズボンで体の4分の3をおおえる)とライフジャケットを着せ、一人でヨット(このヨットは転覆しやすく帆走もテクニックを要する特別設計)に載せ、沖合1~2㎞のところに引っぱっていく。コーチはエンジン付の救助艇で行く。ここで『一人で岸まで帰れ』と言ってうっちゃってくる。コーチ艇は一目散に岸へ帰る。岸では望遠鏡で、子どものようすを見る。『人権じゅうりん』などとわめくが、我々に落ち度はなく、無視する。ヨットはたちまち転覆し、子どもは海に放り出される。10分ぐらいたったところでコーチ艇は側に行き、「早く艇を起こして岸まで走れ」と言って、すぐ岸に帰ってしまう。子どもは、はじめの元気はなく、「助けてください」などと哀願調になっている。また10分くらいしてそばに行き、かなり強く叱りつける。子どもは、強く救助を依頼するが、聞かずに帰ってしまう。悪いのは子どもが説明を聞いて理解しなかったからであり、我々が悪いのではない」(つづく・奥地圭子)

※2003年3月1日 不登校新聞掲載

http://www.futoko.org/special/special-43/page1226-2103.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(4)

(11-12-26)


 戸塚ヨットスクールは、スポーツ施設から何ゆえに登校拒否の矯正施設となり、はては子どもの生命を何人も奪うまでにいたったか。
 今、第一審判決文から紹介しているが、引き続き、どうヨット訓練がなされたか、戸塚宏本人の文章を引用する。前号では、引きずり、ぶってヨットのそばに立たせ、一度だけ言葉で乗り方を言い、沖合につれていく、そして、一人で岸まで帰れ、とコーチは岸へ戻る、ヨットは転覆しやすくつくってあり、海へ放り出された子どもは助けを求めるが、コーチは10分おきにそばに行って、叱りつけて戻る、ということを二度やるところまで紹介した。なるべく冬がいい、とある。
 「30分目にまたそばまで行く。寒さのために口も十分にまわらないが、ウェットスーツを着ている部分は十分に暖かいということには気がつかない。手足はしびれるように冷たいが、ライフジャケットは浮力が7キログラムあり、溺れて死ぬことは不可能である。子どものそばに行って、いきなりコーチ艇の上に引きずりあげ、テレビの刑事もののように胸倉をつかまえて、『テメェ、オレをなめやがって』という調子で脅す。近ごろの子どもはテレビのドラマばかり見ているので、十分芝居がかった行動をとらないと通らないところがある。これに対し、子どもはなにか言おうとするが、そのひまを与えず、平たいもので子どもの太股、尻などを殴る。大きな音がし、痛いが打撃はたいしたことはない。次に『死んじまえ!』とか、『帰ってくるな!』とかの言葉とともに、もう一度海にほうり込む。これで子どもは完全に潰れて素直になってくる。
 それから次の交渉がはじまる。『なぜやらぬ』『わからないです』『教えたじゃないか』『聞いてませんでした』『誰が悪い』『僕です』
 これで十分である。子どもをコーチ艇に引き上げ、ヨットを引っ張って岸へ帰り、10~20分たき火にあたらせて休ませた後でもう一度教えると子どもは必死となる」
 これだけでも身震いするやり方である。恐怖感をこれでもかというほど味あわせ、人間の抵抗力を抜き去って従順にしていく。ウェットスーツを着ているんだから、死ぬほどの殴打じゃないんだからいいだろうという問題ではない。子どもの人格は操作され、人権は侵され、生きるために残された道はただひとつ、戸塚の指示通りに全力をふりしぼってやるしかないところに追い込むやり方である。それを冷徹に計算して訓練と正当化している。
 特別合宿は、登校拒否の問題を抱えた児童のみならず、家庭内暴力、自殺未遂または自殺願望、無気力、非行などの問題を抱えた児童も対象となっていた。そして当初、小・中学生が参加していた特別合宿が、次第に高校生などを含む、年齢の高い者の参加が増加していった。はじめは父母らが、名古屋駅まで連れて来ていたのをコーチらがマイクロバスに引き取り、合宿施設まで連れて行っていたが、年齢の高い者を親自ら連れていくことができないことから、コーチが直接、自宅まで迎えに行くことが多くなったという。
 この連行の仕方も、本人にとっては恐怖である。奥地が、親の会で聞いた例でも、父母が100万円払って申し込むと、屈強なコーチが2人、車でやってきた。子どもは2階から降りてこない。コーチらは、「お母さん、心配入りません。絶対トイレには降りてくるから、帰ったようにして、静かに待たせてください」と言ったという。子どもは、しばらくしてトイレに降りてきた。トイレから出てきたところを、2人のコーチが両側から腕をわしづかみにし、車まで引きずり、うむを言わせず乗せて、運び去ったという。その母親は、罪悪感に襲われ、かわいそうで胸がつぶれる気もして眠れなく、よかったのかどうか悩んだというが、本人のために心を鬼にしなければ、と自分に言い聞かせた、という。
 そんな連行の仕方では、当然、逃げ出そうとする者も増える。
「逃走を防ぐため、夜間、特別合宿生の寝ている部屋の出入り口付近に交替でコーチなどが見張りに立つことや、逃走した者を捕まえて殴打するなどの体罰を加えることが行なわれるようになった」
と、判決文にある。82年ごろには30~40名の特別合宿生を収容していた。(つづく・奥地圭子)

※2003年3月15日 不登校新聞掲載

http://www.futoko.org/special/special-43/page0102-2106.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(5)

(12-01-02)


 戸塚ヨットスクールにおいては、特別合宿生からの逃走などを防ぐため、次のようなことをやっていた。
・夜間に見張りをおく
・コーチ専用部屋の押し入れに、逃走のおそれのある者を入れ、ふすまに鍵を取り付ける
・格子戸付きの柵を設置する
 各段の高さは、上段87㎝、中段68㎝、下段70㎝、奥行は125㎝。コーチみずからがつくり、逃走のおそれのある者を就寝時に入れ、南京錠で施錠。多いときは、1段に3~4人入れた。
・階段の中間に人の通行を感知する警報装置取り付け

 1982年ごろは、70~80人の特別合宿生を収容していたという。
 すでに1978年ごろから、戸塚自身が、入校をいやがって暴れる子ども(大人年齢の場合も同じ)の手足を押さえ、無理に自動車に押し込んだうえ、おとなしく従わない子どもには、何度も殴打して鼻血を出させるなど手荒な方法でつれてきていた。車に押し込んだ子が途中で暴れるおそれがある場合は、ロープや手錠を用いて、子どもの体を拘束させることもあった。
 連行してきた子どもはまず、逃走を防ぐため、通常1週間ないし10日間、押し入れに入れられた。
 そして、スクールが今まで生活してきた日常とはちがうところと知らしめ、また、コーチへの反抗を断念させ、服従させるために、理由なく殴打していた。殴打するか否かの基準はなく、コーチの主観で決められ、ヨットの舵棒(卓球のラケットのような形をした木製のもの)で、生徒の尻、太股を数回から十数回殴打することが多かった。
 早朝体操は、新人にとっては、とくに厳しく、こなせる者は皆無であったが、こなせない者に対しては見まわりのコーチが、罵声、拳や棒の殴打、足蹴りなどの体罰を加えた。
 戸塚は、著書『私が直す!』のなかで「ヨットスクールのやり方は、厳しさが基本です。しかもそれは中途半端ではありません。殴ります、蹴ります、あえいでいる子どもの背にあえて乗ることもします。それが私たちの基本方針なのです」と書いている。
 また、ランニング中に突堤上から訓練生を海に突き落としたり、砂浜で訓練生を海に浸けるなどの方法による体罰も行なわれたという。
 これは体罰ではなく、暴行であり傷害であり、犯罪行為だ。街のなかでやれば、すぐ逮捕だろう。それが、教育の名のもとだと、なぜ許されるのか。なぜ親は、こんなむごいやり方のもとへ、わが子を託せるのか。こうまでして治す登校拒否とは何なのか。戸塚ヨットスクールについて紹介していて、次第にムカムカしてきた。
 これでは、逃げるのが当たり前、どんな逃走を防ぐ方法をとっても死にものぐるいで逃げ出すだろう。
「逃走した者があるとコーチがその捜索にあたった。特別合宿生は原則として現金をいっさい持たされておらず、逃走した者も、徒歩で逃げるか、通りがかりの自動車に乗せてもらうなどの限られた方法しかなかったので、逃走に成功する者もいたが、自動車を利用するなどしたコーチに見つけられ、連れ帰られる者も多かった」と判決要旨にある。逃走に失敗したら、猛烈な殴打が待っていた。

 最初の死者は、吉川くんだった。彼は高1の2学期から、頭痛を訴え登校拒否をしたり、早退したりしたが、進路にさしつかえるほどの欠席はなく、1978年高校を卒業した。
 しかし、大学に不合格となり、予備校も続かず、かといって進学をあきらめることもできずにいた。
 吉川くんの親は、何をするにも面倒くさいようすに困っていたが、新聞で戸塚ヨットスクールを知り、問い合わせていた。共通一次申込締切日のころ、吉川くんが暴れ、近所の人の通報でパトカーが駆けつけた。
 親は、入校を戸塚に依頼、80年10月30日、スタッフ2名が自宅まで車で迎えに行った。吉川くんが拒絶し2階に上がってしまったので、トイレに入って出てきたところを殴りつけた。いったんおとなしく行くようすだったが、玄関で「やっぱり行かない」と拒絶し、玄関内で寝転がる状態になり、スタッフ2人と父親で上半身、両足をつかんで、車に押し込んだ。その間、暴れたので、父親も殴っている。こうして10月30日入所した吉川くんが、11月4日には亡骸で戻ってくる。わずか5日で何があったのだろうか。(つづく・奥地圭子)

※2003年4月1日 不登校新聞掲載

http://www.futoko.org/special/special-43/page0109-2109.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(6)

(12-01-09)


 10月30日に戸塚ヨットスクールに連行されてきた吉川くんは、11月4日には死亡した。それは、いかにして発生したか。
 10月31日、午前6時早朝体操に向かう玄関前で、吉川くんが崩れるように座り込んだため、戸塚らは、ホースで頭の上から全身に水をかけた。動こうとしないので、戸塚の指示で、再度頭から水をかけた。吉川くんは、座り込んで数分後立ち上がり、早朝体操の行なわれる海岸のほうへ歩いていった。
 腕立て伏せのできない吉川くんに対し、スタッフたちで竹の棒で背中や臀部付近を10回くらい殴りつけたり、手で腹や体をこもごも殴りつけ、大腿部を足蹴りした。さらに、階段のところで動かなくなった吉川くんを、戸塚が命じて、もう1人のスタッフと2人で吉川くんの手首をつかみ、海のなかへ体を投げ入れ、その後、海岸で、吉川くんの頭を手で殴りつけた。午前中、健康診断のため平病院に行くが、戻って車から降りようとしないため、平手で顔面を殴りつけられ、3人のスタッフによって引きずり降ろされた。
 昼食をとろうとしないで寝転がっていたが合宿生が宿舎へ帰るときになっても動こうとしないので、胸や腹を足蹴りし、ホースの水を全身にあびせた。さらにスタッフ2人が、吉川くんのからだを引きずるようにして、車まで運び、頭と足が上下逆さ向きになる状態のまま押し込んで、合宿所まで戻った。
 同日午後、海上訓練に出発しようとせず、引きずりながら海岸まで連れて行かれた。波打ち際に倒れこんだのをみて、戸塚は立つよう命じ、立たないので、顔を海水につけた。
 その後、モーターボートに乗せられ、ヨットの操縦に必要な行動が取れず、海中に投げ出され、引き上げられたが、その間、顔面を平手で何回も殴りつけられ、ひしゃくで海水を頭からぶっかけられたりしている。海上訓練が終わったとき、海岸に横たわっている吉川くんを取り囲んで「情けない男だ」と言つつ足蹴りにした。吉川くんは、海岸から合宿所までひとりで歩くことができず、ほかの訓練生に抱えられながら合宿所へ戻り、夕食後も横になっていたという。それをまた「ほかの訓練生の邪魔」といって足蹴りにされた。
 たった1日で筆舌につくしがたい暴行の数々を受けたことにる。
 11月1日の早朝体操も、午前中の穴掘り作業も、似たような感じで何度も殴りつけている。
 午後の訓練での暴行もすさまじい。叱りつけながら、海水に突き落とし、モーターボートで近づいたスタッフが、バケツで海水をかけたりヘルメットを叩いたりしたが、その後吉川くんのからだ目がけて、スタッフが足から飛びこむようにして、吉川くんのからだを沈めることを何回もくり返した。また、吉川くんをモーターボートに引き上げた際、彼の背中を、マストの先の金具で殴りつけた。その日も、吉川くんは夕食もとらず横になっていた。夕食後、入浴のため角屋旅館へ行くときも、ほかの訓練生に抱えられても膝をつくようすに、往き帰りとも平手で殴りつけている。
 11月2日、午後は合宿所で終日寝る状態で深夜「水をくれ」と叫び、吐いたり、尿をもらすなどもあった。
 11月3日も食事をとらず、終日寝ていたがほかの者が話しかけても、意識が朦ろうとしているようすだった。
 この日の午後11時ごろ、吉川くんの脈拍が、確認できないくらいになっていることを知って慌てたコーチらが、平病院まで車で運んだが、同日4日午前0時ごろ、平病院へ行く途中で死亡した。
 これが80年に起きた、世に言う吉川事件だが、82年8月には、15歳の2人の高校1年生が暴行から逃れようと海に飛びこんで行方不明になった「あかつき号事件」、同年12月には、13歳の小川真人くん死亡事件を起こしている。(つづく・奥地圭子)

※2003年4月15日 不登校新聞掲載

http://www.futoko.org/special/special-43/page0116-2113.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(7)

(12-01-16)


 戸塚ヨットスクールに関係して死んでしまった若者たちの話は、どれも身震いを覚えずにはいられない。
 今回紹介する「あかつき号事件」は、奄美大島の合宿の帰途、乗船していた「あかつき号」から、2人の少年が海に飛び込み、死んだ事件のことである。2人の少年とは、水谷真くん(愛知県在住)と杉浦秀一くん(大阪府在住)で、どちらも15歳だった。
 水谷真くんは1982年4月に高校に入学するが、寮がいやで再三抜け出したり戻ったりしている。6月には、まったく登校しなくなり「山の中で生活したい」などと言い、自宅に戻った。水谷くんが所持していた2万円を父親が注意して取りあげたところ、バットを振りまわして暴れたので、父親は縛って車に乗せ、精神科に連れて行き入院を希望したが、水谷くんが拒否した。医者は精神病と神経症の中間にあるという意味の「境界例」と診断した。
 水谷くんの両親は、テレビにより知った戸塚ヨットスクールへの入校を希望、「登校拒否・家庭内暴力・無気力」が治るのを願って、早く入校させてほしいと何回かの電話と手紙まで書き、7月10日、新人迎えとなった。
 一方、杉浦秀一くんは中学時代、いじめや暴行を受け、登校はしていたが、うっぷん晴らしに弟をいじめることも多かった。
 杉浦くんは、関西大倉高校に進学したが、中学時代のいじめの噂にがまんしながら登校するため、家に帰ってからは当たり散らすので、親は精神神経科に相談した。当時の杉浦くんの状態は、「焦燥感が非常に強く、周りの人に対する不信感が強い、精神的に不安定で、睡眠も障害されていた」ということで、病名は、「心因反応(家庭内暴力)」と診断された。
 両親は、新聞報道で知った戸塚ヨットスクールに入れることを考えるようになり、一日も早い入校を希望する手紙を書いた。申込書には「家庭内暴力、無気力、思春期挫折症候群」に該当し「即刻入校希望・在宅に危険を感ず」などと記載されていた。そして、7月24日、戸塚の指示を受け、コーチ1人と生徒2人が、車で新人迎えのため家に向かった。 
 戸塚ヨットスクールに行くことを拒否する水谷くんに対し、2人のコーチは顔面や腹部を殴りつけ、腕をつかんで車に乗せ、愛知県の戸塚ヨットスクールへ連行、男子訓練生の部屋に設置された格子戸付き押入に水谷くんを入れ、鍵をかけた。
 7月11日から21日まで、そこで訓練を受けるが、訓練、作業などがない日中や夜間には、格子戸付きの押入内に水谷くんを入れて鍵をかけ、早朝体操、作業、海上訓練、入浴などで水谷くんが外に出るときには、コーチや番外生が監視役となった。夜間には、階段に設置してある人の通行を感知する警報機を作動させたり、交代制で見張りを置くなど水谷くんを含む特別合宿生が逃走しないよう監視を続けた。
 杉浦くんも、戸塚ヨットスクールへ行くことを拒否した。付近の机の脚や出入口の枠などにしがみついて抵抗する杉浦くんに対して、コーチはその顔面を2~3回殴りつけ、迎えの番外生に腕などをつかませ家の外に連れだし、停めてあった車に乗せ、両脇に番外生を見張り役として置き、車を発進させた。まもなく車内で両手首に手錠をかけさせ、翌日午前3時ごろ、愛知県の戸塚ヨットスクールに連行、手錠は外したが、男子訓練生の部屋に設置された格子付き押入に杉浦くんを入れ鍵をかけた。
 そこで7月25日から27日まで生活させるが、夜間は格子付きの押入に杉浦くんを入れ、日中は逃走しないよう監視していた。
 こうして2人は、ほかの特別合宿生らとともに、夏期合宿が行なわれる奄美大島へ向かわされることになる。
 合宿所までは日時をずらして、1~3陣のかたちで連行、水谷くんは第2陣として7月21日出発、神戸まではマイクロバスに乗せられ、休憩の際は、番外生に見張り役をさせて逃走しないよう監視、神戸港での乗船待ちのあいだは、事務所外の階段付近の一画に特別合宿生らをまとめて座らせた。便所に行くときには見張り役をつけ、乗船後は自由航行をさせず、夜間は見張りを置いた。
 杉浦くんは第3陣に入れられ、フェリー内でひそかに母親に電話をかけたので叱りつけられ、水谷くんと同様監視されつつ、奄美大島についた。(つづく・奥地圭子)

※2003年5月1日 不登校新聞掲載

http://www.futoko.org/special/special-43/page0123-2116.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(8)

(12-01-23)


 前号に続き、あかつき号事件について記述したい。本人の意志に反し、無理やり戸塚ヨットスクールに連行され、格子戸付きの押し入れに入れられ、訓練や作業では殴られどおしという扱いの後、奄美大島の夏期合宿施設まで監視されながら、連行されたところまでは前号で紹介した。
 合宿では、水谷くん、杉浦くんを含む特別合宿生には金銭を所持させず、外部の者との手紙や電話での通信を禁止し、日中の行動の際には、訓練生9人程度を1つのグループとした10のグループに班分けして、番外生に班長をさせ監視させ、夜間には逃走しないよう1時間交代の見張りをおいた。
 水谷くんは奄美大島に到着後、合宿施設から逃走を図ったが、逃げられないと思い、その日の夕方過ぎには自分で近くまで戻った。そのことで、顔面を平手で、身体を棒で何回も何回も殴られた。杉浦くんもいっしょに逃走の計画をたてたとして、棒で多数回殴られた。
 夜間、逃走の恐れありと考えられた水谷くんと杉浦くんは、同様の恐れありと考えられた4名くらいの者といっしょにして、それぞれの手首を手錠とロープで数珠つなぎに縛りつけられ、柱に固定された。こういう処置は、到着した8月1日から、奄美大島を離れる8月13日まで続いた。
 あかつき号乗船までも、監禁、監視状態が続いた。乗船後2人は、神戸港へ向けて進行中の8月14日未明、高知県沖の太平洋上に、あかつき号船上から海に飛び込み、そのころ死亡したとされている。
 起訴状は「合宿所に戻った後も行動の自由が拘束され、体罰を加えられて早朝体操や海上訓練などを強制される生活が続くことを嫌い、あかつき号の船上から救命浮き輪などをつけて海に飛び込むことにより、被告人らによる拘束から逃れようと考え、飛び込んだ」と述べている。たしかに、戸塚ヨットスクールに戻っても、何の希望も持てないではないか。2人はこうするしかなかったのだ。
 乗船してからの2人の行動でわかっていることは、次のようである。
 あかつき号に60数名乗り込んだ戸塚ヨットスクールのグループは、一等客室のます席に一団となって席を占めたが、ます席が混雑していたため、スタッフの指示で、水谷くん、杉浦くんは、ます席と壁のあいだの通路部分に席を定めた。
 よく14日午前7時前、コーチが朝食前に点呼をとったところ、2人の姿が見えないため、船内を関係者や船員がくまなく捜した。捜索は神戸港到着後も海上保安官なども加え行われたが、発見されなかった。
 2人の所在がわからなくなる前の言動や行動を調べたところによると、13日、乗船待ちをしていた午前9時ごろ、夜間、手錠やロープで数珠つなぎにされていたSくんに、2人は「船から飛び降りて逃げよう」「向こうに行ったら殺されるわ」などと飛び込みの意思を示した。乗船後も、2人は、C甲板の便所(大便用個室)の中に密かにSくんを誘い入れ、「飛び込むで」「お前もいかんか」などと述べて、船から飛び込む強い意思を示した。Sくんは、逃走の企てに参加しない旨告げた後も、決意を変えるようすはなく、水谷くんは、便所の奥のほうにある非常用梯子を昇って、先のようすを見てくるなどして、「ドアがあって、そこから出られるみたいだぞ」と杉浦くんに伝えていたという。
 その後、消灯前ごろにも便所の大便用個室から2人で出てきたところを訓練生のYくんに目撃され、コーチに告げないよう頼んだり、午前0時過ぎに、ほかの訓練生に出会い、そのときの時刻を聞いたりしている。
 その乗客らは、男の子らを目撃してからしばらくして、船尾の方で何か海面に向けて落ちたものがあることに気づき、海面を見たら、海面に浮かんだまま船尾後方に遠ざかっていく黒いものを目撃したという。
 そのときのあかつき号航路上の海域は、黒潮本流の中心にあたり、流速や方向からみても、どんどん太平洋上を南下するしかなく、陸地に漂着する可能性はほとんどない、と考えられた。2人は失踪後10年たっても発見されていない。
 何という悲惨な、短い生命だったことか。(つづく・奥地圭子)

※2003年5月15日 不登校新聞掲載

http://www.futoko.org/special/special-43/page0130-2120.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(9)

(12-01-30)


 戸塚ヨットスクールの傷害致死事件で、もう一つ「小川事件」について紹介したい。
 小川真人くんは、「登校拒否、家庭内暴力、非行、ノイローゼ」などではなく、両親が強い精神力と丈夫な身体を持つ子どもとなることを期待して、戸塚ヨットスクールに入校させた子どもだった、と戸塚側も認識している。母親は、1982年1月ごろ、子どもを戸塚ヨットスクールに入れていた知人から、単行本となった「スパルタの海」を借りて読み、ヨットの操縦や苦手な水泳が上達し、体力にも自信がつくのではないかと考えるようになり、夫にも本を読むよう勧めたという。二人は乗り気になり、知人を介して入校希望を伝えてもらい、「明日からでも受けいれる」との回答を得た。
 父母は、非行、登校拒否などの問題を抱えた訓練生に殴打、足蹴りなどの合宿訓練を行っていることは、「スパルタの海」で知っていたが、「自ら身体を鍛えるために入校した子どもに対しては、それほどのことはしないだろう」と思っていたらしい。
 小川くん本人に両親が意向をたしかめたところ「明日から一人で入校する」との返事であったので、この年12月4日、午後9時ごろ、戸塚ヨットスクールの合宿所に両親が送った。
 翌12月5日午前6時、小川くんは、特別合宿生として、ほかの訓練生とともに早朝体操に参加。早朝体操は、海岸の突堤上で7時ごろまで毎日行なわれたが、サンダルで背中を殴りつけられたり、背中を突き飛ばされ、突堤上から1・5メートル下の海水に突き落とされたりした。また、顔面を手挙で数回殴りつけられ、腹部を数回足蹴りされた。
 新人や早朝体操をこなせない訓練生たちは、夜の自主トレーニングまでやらされた。午後8時ごろから30分か1時間やらされたが、初日から、コーチより腹部を足蹴りされ、腕、おしりなどを竹刀で数回殴られた。
 このような暴行、海上訓練、さらに寒冷のなか身体をさらされるなどが続き、1週間経つうちに疲労、衰弱し、12月9日ごろからは食事もほとんどとらなくなっていた。
 12月12日の早朝体操時、腕立て伏せができないため這うようにうずくまった小川くんを見て、コーチはその襟首をつかみ、突堤から海水中に突き落としたうえ、「頭まで浸かれ」などと怒鳴りつけて身体を海水中に浸からせた。さらに突堤上で、小川くんを何回も足蹴りした。
 戸塚宏は、腹筋運動の際、小川くんの胸ぐらをつかんで正座させ、「こいつは拒否反応が強い」などと言いながら、小川くんの鼻の近くの顔面を手のひらで数回突くように殴りつけた。その後、二人のコーチが、こもごも多数回、小川くんを殴りつけたり、足蹴りしたりした。
 このあと小川くんは、一人で合宿所まで歩くことができず、両脇から抱えられ、やっと戻り、合宿所でも毛布にくるまったままの状態で寝かされた。午後は、小川くんが自ら出てこなかったため、指示を受けた訓練生が部屋から連れ出してきた。ウエットスーツがはだけており、コーチは、小川くんの身体を殴打し、海水中に押し倒したうえ、背中を何回も踏みつけ、海水に浸けた。
 午後の海上訓練では、ヨットの操縦訓練をすることなく船室の中に入れられていたが、乗り降りにも一人では動くこともできず、ほかの訓練生らに抱えられて移動し、青白い顔をして、うわごとのように小さな声を出していた。
 コーチは、小川くんが自力で動けないのを見て、襟首をつかんでその額付近をコンクリート突堤側面に2~3回打ちつけた。その後、砂浜に運ばれ、うつ伏せのまま倒れていたが、近くでたき火にあたっていた戸塚宏やコーチらは、「しっかりしろよ」と木切れを投げつけ、一人のコーチは上半身を抱え上げ、上半身をたき火のそばに近づけたりした。小川くんが顔を背けて「許して下さい」と言っても聞き入れず2~3回火に近づけたあと、今度は波打ち際まで抱えたまま運び海水に浸け、足蹴りし、「犬みたいに鳴け」などと罵倒した。
 この日午後4時半ごろ、合宿所に戻りシャワー室で温水シャワーを浴びせられた小川くんはうめき声も出さず、体が硬直した状態となり異常を知ったコーチらが病院に運んだが、午後11時半ごろ、死亡した。入校して8日には変わり果てた姿になってしまったのである。(つづく・奥地圭子)

※2003年6月1日

http://www.futoko.org/special/special-43/page0130-2124.html

不登校の歴史・戸塚ヨット事件(10)

(12-01-30)


 ここのところ、戸塚ヨットスクール事件と言われるもののうち、いくつかの致死事件をとりあげてきた。起訴された事件の一覧は、本紙115号に掲載してあるので、紹介したケースを参考に類推してほしい。わが国の登校拒否、不登校の歴史は悲惨史であり、非史でもあったことを忘れてはならない。その陰に、登校拒否は、問題の子がひき起こすものであり、何としてでも治すもの、という偏見やとらえ方のまちがいがあった。また、わが国の、体罰容認という風潮や、人権感覚の不毛さもからんでいた。登校拒否を否定する価値観と登校させようという圧力や期待が、本人たちをどれほど追いつめ家庭内暴力や神経症、対人恐怖、昼夜逆転などを生んでいくかというような理解もなかった。生まれてきて、学校でしっかりやれるように育てられ、その学校で苦しい目にあい、不登校に至り、あるいは小川くんのように体育が苦手、体を鍛練させなければと、戸塚ヨットに入校させられ死んで家に戻ってくる人生とは何であったのか。ひどく息苦しい問いに、私たちは直面せざるを得ない。
 今まで紹介した中味は、実は1992年の戸塚ヨットスクール判決が出て、はじめてくわしく事実が世間にわかったわけで、実際の事件は、79年~82年に生じている。その都度、マスコミは断片的に報道しているが、全貌がわかるには、10年以上の月日を要したのである。死亡事件以後も、ずっと職員による暴行は続き、83年5月にやっと警察の捜査の手が入った。そのときの住民の声が新聞に載っている。「スクールは住民に不安とか暗いイメージを与えている」「家で寝ていても訓練生が殴られるにぶい音、悲鳴が聞こえてくるのですから。やっと警察が手を入れてくれましたか、という気持ちですね」(毎日・1983・5・26)
 ところが、戸塚宏は言う。「生きた人間を扱うんやから、まちがって死ぬこともある」「最初に殴る、ける。あれは脅し効果がある。子どもを進歩させなきゃいかんから。子どもを殴ったらいかん、心に傷がつくという。だけど傷ついた心、見たことあるんか。魂とか精神とか訳のわからんことで感心してしまうのがいかん」(1983・6・4講演で。朝日83・6・14付)
 こんな人に親は、大切な子どもをあずけたのである。

 この1983年に、新しい動きが市民運動として起ったことを105号に述べた。『登校拒否・学校に行かないで生きる』を出版。治すのでなく受けとめる発想は大きな反響をよんだ。国府台病院内にあった「希望会」と夜間中学の協力により、渡辺位、八杉晴美、松崎運之助、奥地らが柱になった初の登校拒否についての市民集会に400名の人が集った。また、この秋「登校拒否を考える会」発足準備をすすめた。そして、1984年1月に8人で準備会をもち、活動をはじめ、月1回の月例交流会を持つことを決め、2月には渡辺位講演会を、3月に第1回例会を市川市で開いた。
 「登校拒否を考える会」の活動は、日本の登校拒否の歴史が新しい時代に入ったことを示すものであった。
 これまでみてきたように、市民側のこのような動きは、登校拒否をめぐって、文部省の1983年版手引書、精神科入院、戸塚ヨットスクール等々、問題行動として治す発想ばかりのなかで、学校に行かない子どもを理解し受けとめ、子どもの側に立って、個々のあり方を尊重しようという新しい提起だった。
 それまで、医者、学者、行政などが登校拒否の子どもやその家族への指導者だったが、家族自身が自ら考え、体験、意見を交換し、支えあい、情報交流し、世の中や行政にも必要なことをもの申していく、というこれまでにない自立的な活動であった。専門家に依存していた自分たちの姿勢を問うものであったし、つらかった親たちが会に出会って涙も流したが、非常に明るい表情になっていくのだった。次号から、会の活動を紹介する。(つづく・奥地圭子)

※2003年6月15日 不登校新聞掲載
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