性差別激しい19世紀末から20世紀初頭にかけて柔術を身につけて闘った女たちがいた! 偉大なフェミニストにして偉大な柔術家Edith Garrud



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19世紀~20世紀初頭の英国、女性柔術家が参政権のために立ち上がった!エメリン・ゴドフリィ『ヴィクトリア朝文学と社会における女性性、犯罪と自衛:刀扇子から女性参政権運動家まで』CommentsAdd Startorly

ジェンダー, 歴史, 英文学, 書評 | 19世紀~20世紀初頭の英国、女性柔術家が参政権のために立ち上がった!エメリン・ゴドフリィ『ヴィクトリア朝文学と社会における女性性、犯罪と自衛:刀扇子から女性参政権運動家まで』を含むブックマーク 19世紀~20世紀初頭の英国、女性柔術家が参政権のために立ち上がった!エメリン・ゴドフリィ『ヴィクトリア朝文学と社会における女性性、犯罪と自衛:刀扇子から女性参政権運動家まで』のブックマークコメント



 19世紀~20世紀はじめの英国の女性の自衛に関する研究書、Emelyne Godfrey, Femininity, Crime and Self-Defence in Victorian Literature and Society: From Dagger-Fans to Suffragettes, Palgrave Macmillan, 2012(エメリン・ゴドフリィ『ヴィクトリア朝文学と社会における女性性、犯罪と自衛:刀扇子から女性参政権運動家まで』)を読んだ。



 著者の前著はMasculinity, Crime and Self-Defence in Victorian Literature: Duelling with Dangerでその女性版ってことらしいのだが、この男性の自衛についての本は読んでない。女性版は主に1850年から1914年頃までの英文学(新聞・雑誌を含む)を主なテキストとし、ヴィクトリア朝(+エドワーディアン)の女性の一人歩き、スポーツ、護身術などがどう描かれていたかを分析するというもの。小説としてはアン・ブロンテとか、H・G・ウェルズの『アン・ヴェロニカの冒険』みたいに日本でも若干なじみのあるものからエリザベス・ロビンズのThe Convertとか、シャーロック・ホームズの女版みたいな初期ミステリみたいに英国人でもほとんど知らないであろうものまで広くカバーしている。

 この本で一番面白いのは、サフラジェット(女性参政権運動家)で英国初の本格的な女性柔術教師として他の女性たちに柔術を教えたり、ボディガードをつとめていた武道家、イーディス・ガラッドの話である。最近、日本女子柔道で発生した指導暴力事件について、告発した選手をバックアップした山口香選手が注目をあびているが、既に世紀転換期ロンドンにも女性の権利を守り正しいことをするために頭を使って頑張っていた女性柔術家がいたのである。以前写真をのっけたが、イーディス・ガラッドについてはイズリントンにブルー・プラークがたったりしてこの人は最近けっこう注目されている。

f:id:saebou:20120930130628j:image

 ゴドフリィによると、イーディスが教師として働き始めたエドワーディアン時代には女性向けの護身術というのは既にけっこうよく知られているものだったそうだが、女性の武道家が自分で先生になって東洋武術なんかを教えるというのは非常に珍しいことであったらしい。ガラッドは夫も武道家だったそうで、最初はシャーロック・ホームズも習ったという噂のバートン流柔術(ホームズのほうではバリツになってるのだがこれはバートンのバーティッツという術がモデルという話)を教えてたエドワード・ウィリアム・バートン=ライト(護身術を習いたい女性の弟子をかなりとっていた)についたあと、日本出身の上西貞一に柔術を習った(上西もかなり女性の弟子をとっていたらしい)。上西が日本に帰ったあと、イーディスの夫ウィリアムが道場をひきついだので、イーディスはそこで女性や子供向けのクラスを担当するようになったそうだ。

 女性参政権運動家はいろいろな嫌がらせにあうことがあり、警察に胸をつかみあげられるなどの暴力を受けたこともあったので(p. 78)、護身術はかなり役立つ技術だったらしい。我々のイメージだと世紀転換期の女性が武道なんてやるのか?!と思ってしまうのだが、なんでもヴィクトリア朝末期からエドワーディアン時代あたりになると柔術は女性にふさわしい運動と見なされるようになっていたそうで、柔術クラスは世間の風当たりが厳しい女性参政権運動の運動家たちにとっては格好の隠れ蓑になっていたらしい。柔術クラスやります、という名目にしておけば、道場に抗議運動で使うものを隠しておいたり、相談場所として道場を使っていて万一警察のガサ入れがあった場合でも、「ご婦人方が柔術をやっているだけですので、殿方はご遠慮いただきたいの」みたいな言い訳で誤魔化すことができる(pp.101-02)。

 こういう警察を欺くテクニックからもわかるようにどうもイーディス・ガラッドというのは単なるストイックな武道家でも理想主義的な政治運動家でもなく、相当に商売や政治の才がある女性で、うまいこと警察を出し抜きながら参政権運動をする一方、自分の柔術教室を売り込むということを非常に精力的にやっていて、自分のパブリックイメージにすごい注意を払ってたらしい。フェミニスト的な女性たちを弟子として取り込む一方、女性が武術を身に着けることを恐れる男たちをうまいことなだめる話術も持っていたので(「私たちが本気でぶちのめすのはならず者だけですわ!あなた方紳士はご安心なさってよろしいのよ」的な)、かなりメディアからも注目されており、初期のサイレント映画に登場するなど非常に英国ではよく知られていた。とくに晩年は英雄的なフェミニスト、カッコいい女子武道のパイオニア、みたいな感じで持ち上げられてたそうで(サフラジェットでも最近まで再評価されなかった人がかなりいることを考えるとこれは珍しい例なのかも)、やっぱり女ドラゴンは英国でも人気あるのか…とか思ってしまう。

 と、いうことで、柔術関係のところはかなり史料を掘り出しよく分析していて面白いのだが、タイトルに出てくるもう一つのポイント、ダガーファン(刀扇子)については説明が少なく、そもそもどうやって使うのかすら私はあまりよくわからなかったので、物足りなかった。ダガーファンとファンダガーは違う、という話が出て来たりするのだが、このあたりは扇についても武器についても服飾史についても知識ない人にわかるような書き方はされてないと思う。そのへんがちょっと残念。

追記:このエントリはもともとタイトルを「19世紀」としてたのですが、エドワーディアンの時代まで、つまり世紀転換期から1910年代までを扱っていて、もともとのタイトルがあまりよくなかったので、ちょっと変更しました。

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:FtK2kxMivtEJ:waseda-sport.jp/paper/1306/1306.pdf+&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


http://waseda-sport.jp/paper/1306/1306.pdfのHTMLバージョンです。
Googleではファイルを自動的にHTMLに変換して保存しています。


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女もすなる Jiu-jitsu:

二十世紀初頭のイギリスにおける女性参政権運動と柔術

English Women Do Jiu-jitsu

The Women's Suffrage Movement and its Jiu-jitsu Practices

in the Early Twentieth Century England

岡田 桂

関東学院大学文学部比較文化学科

Kei OKADA

Kanto Gakuin University, Faculty of Letters, Department of Cultural Studies

キーワード: イギリス、女性参政権運動、柔術、身体文化、文化伝播

Key words: suffragette, jiu-jitsu, physical culture, cultural diffusion

抄 録

本稿では、二十世紀初頭のイギリスにおいて、女性参政権運動家たちによって実戦の手段として柔

術が学ばれ、その運動の後期にはリーダーを警察権力から守るため女性による柔術ボディガード団が結

成されたという事例を考察する。イギリスでは十九世紀末から柔術がブームといえるほどの急激な広がり

をみせたが、本論ではまず、女性による実践に先立つイギリス社会への柔術の浸透を先行研究に基づ

いて説明する。続いて、如何にして女性参政権運動と柔術が結びついていくことになったか、さらには当

時のイギリス社会で女性による柔術実践というものがどのように表象され、認識されていったのかを、新聞

や雑誌メディアの資料に基づいて検討する。そして、当時の世界において新興国であった日本の柔術と

いう文化が、近代という時代の中心に位置した当時のイギリスに伝わり、その意味を変容させながら定着

したという文化伝播の事例として位置づけ、文化が経済・社会的諸力から離れて一定の自律性を持つと

いう文化ヘゲモニー論の説明可能性の一つとして提示する。

スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年, 受付日:2013 年 2 月 28 日, 受理日:2013 年 9 月 25 日

連絡先: 岡田桂 関東学院大学文学部比較文化学科 〒236-8502 横浜市金沢区釜利谷南 3-22-1

E-mail: kokada@kanto-gakuin.ac.jp

I. はじめに

1. 問題設定

柔術は日本の伝統的な武術である。また、その

有力な一派である柔道はオリンピックの公式種目

にも採用され、現在では国際的に受容された日

本文化のひとつとなっている。しかし、その柔術や

柔道が欧米をはじめとして海外へ伝播し始めた

のは十九世紀末葉からであり、その拡散の歴史

は一般に考えられているよりもはるかに長い。本

稿ではそうした歴史の中でも、二十世紀初頭のイ

ギリス人女性参政権運動家たちが、女性の政治

参加を巡って激しい闘いを繰り広げる過程で組

織的に柔術を実践し、女性による柔術ボディガー

ド団を結成したという興味深い事例を考察する。



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考察にあたっては、まず、女性による柔術実践

に先だって起こったイギリスにおける柔術ブーム

について先行研究を参照しながら概略し、二十

世紀初頭のイギリス社会における柔術の意味と

位置を明らかにする。次いで、ブームによってイギ

リスに浸透し始めた柔術を女性が実践してゆくこ

とになる経緯を、さらには、それが高まりを見せる

女性参政権運動という政治的文脈の中で如何に

機能し、また如何なるイメージを喚起したかを論

述する。こうした考察を通じて、イギリスにおいて

柔術が担った価値観のジェンダー差、階級差が

明らかになると共に、柔術という日本文化が、そ

の意味や価値観をずらしながら他地域に受容さ

れたという文化転移の事例としての側面も浮かび

上がることになる。

2. 先行研究の検討

これまで、十九世紀末から二十世紀初頭のイ

ギリスにおける柔術の受容に関しては幾つかの研

究が存在する。当時のイギリスにおける身体文化

(physical culture



=身体鍛錬、フィットネスやボ

ディビルの元祖)との関係から柔術の流行を歴

史・社会的に読み解いたものとして、岡田(2005、

2010)が、また主に身体文化そのものを論じる上

で柔術に言及したものとしてマイケル・アントンバ

ッド(1997)が挙げられる。また、文学表象におけ

る柔術に着目し、同じく身体文化との関連から考

察した研究として、木下(2003)が存在する。しか

しながら、管見の限り当時のイギリス人女性による

柔術実践、および女性参政権運動との繋がりに

ついて包括的に考察した研究は存在していない



。 従って、本稿ではこれまでの先行研究を踏ま

えた上で、女性による柔術の受容というジェンダ

ー的側面と、さらには参政権運動と武術実践の

結びつきという社会的側面に関して、新たな知見

を提供することになる。また、各先行研究の内容

に関しては、本論中で適宜参照してゆく。

II. イギリスにおける柔術の到来

1. “バーティツ(Bartitsu)”としての紹介

ショートとハシモトによる著書『Beginning Jiu

Jitsu Ryoi-Shinto Style』の記述によれば、イギリ

スにおいてはじめて柔術が紹介された記録は、

1892 年 4 月 29 日のジャパン・ソサエティ第一回

会合であったという。この際、当時の日本銀行ロ

ンドン支店主事であり、自らも楊心流柔術の使い

手であったタカシマ・シダチ(Takashima Shidachi)

という人物によって、柔術・柔道の歴史と発展に

関する図解を用いた講演が行われた(Shortt and

Hashimoto 1979:p.44)。しかし、これは限らた聴

衆を対象にした会合であり、この時点では、柔術

はいまだイギリス社会において認識される段階に

はなかった。“Jiu-Jitsu”が一般的なイギリス人に

認知されるきっかけとなるのは、1899 年、エドワー

ド・ウィリアム・バートンライト(E. W. Barton-Wright)

による日本人柔術家の招聘と、自らが考案したと

主張する護身術“バーティツ(Bartitsu)”の記事

が『ピアソンズ・マガジン(Pearson's Magazine)』

(1899 年 3 月号)に掲載されて以降のことである。

技師として日本に滞在した経験のあるバートン

ライトは、短期間ではあるが柔術の指南を受け、

帰国後、他の様々な格闘技の要素と折衷した総

合的な護身術であるバーティツを考案し、ロンドン

に道場を開いた。バートン(Barton)によるジュー

ジュツ(Jiu-Jitsu)を表す造語がバーティツという

訳である。バートンライト以降のイギリスにおける柔

術受容に関しては、既に先行研究(岡田 2005、

2010)において詳述されているが、同内容に沿っ

て概括すると以下のようになる。

バートンによる新奇な護身術は、当時の人気

雑誌『ピアソンズ・マガジン』に数回にわたって掲

載されたこともあって、それなりに一般の人々の耳

目を集めはしたが、彼自身、柔術に関しては人に

指南するほどの技量ではないことを自覚していた

ため、日本から専門の柔術家を招き寄せることに



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した。この時、イギリスにやってきたタニ・ユキオ

(谷幸雄)と、後に合流したウエニシ・サダカズ(上

西貞一・通称 Raku)が、その後のイギリスにおける

柔術の認知に多大な貢献を果たすこととなる。レ

ッスン料が高額であったことなど、種々の理由によ

ってバーティツ道場が短期間で閉鎖された後、タ

ニとウエニシはイギリス人マネージャーと共にイギ

リス各地を精力的に巡業し、未知の文化であった

柔術を自らのデモンストレーションによって徐々に

イギリス社会に浸透させていった。

2. 柔術のイギリス巡業と認知の高まり

タニとウエニシによる巡業が始まった当初、ほと

んど知名度のない柔術の公演に観客を集めるた

め、彼らは各地域において一種の芸人でもある

怪力男(strong man)やレスラー、ボクサーを対戦

相手として募り、高額の賞金を賭して無差別の試

合を行うという方法をとった。当時、タニは身長一

五〇センチ、体重六〇キロ足らずであり、体躯で

大幅に優るイギリス人の猛者たちにとって、この条

件は非常に有利に映ったようである。しかしながら、

相手の力を利用して自らを利する柔術の技によ

って、こうした対戦は日本人柔術家の完勝記録を

積み上げてゆくこととなった。ノーブルの記述によ

れば、タニはある六ヶ月にわたる興業ツアー中、

一週間に平均二〇人、全体の合計で五〇〇人

以上の挑戦者を倒したという。さらにウエニシに関

しては、当時の身体文化雑誌の記述を引用して

以下のように述べている。

雑誌『ヘルス・アンド・ストレングス・マガジン(Health and

Strength Magazine)』には、こうした様子が、「私は幸運

にも、これらの対戦の多くを目撃する機会に恵まれ、尚

かつ、彼(ウエニシ)が 15 分の時間内に 6 人の敵を全て

倒すのに失敗した事は一度たりともなかった。実際に私

は、彼が各々の闘いの間にある必須の待ち時間を含め

て、5 人を 10 分間で片づけるのを目撃した事がある」と

描写されている(Noble 1996:p.23)。

もちろん、柔術は当初から好意的に受け入れ

られた訳ではない。事実、巡業の初期には、筋骨

逞しいイギリス人の大男を小柄な東洋人がやす

やすと投げ飛ばす様を見て、観客たちは一種の

やらせか、あるいはどたばたコメディと見なしたと

いう。しかし、こうした誤解にも屈せず地道にイギリ

ス全土を巡ってゆく過程で、一般のイギリス人の

間に柔術というものが広く認知されてゆくことにな

り、その到来からわずか数年のうちに、一種のブ

ームを引き起こすまでに受け入れられてゆくことと

なった。

この頃になると、柔術は、コナン・ドイルによるシ

ャーロック・ホームズ・シリーズの一作『空き家の冒

険』(1903 年)やバーナード・ショウの戯曲『バー

バラ少佐』(1905 年)にも登場し、「東洋の未知な

る秘技」といった存在から、一般の人々にもイメー

ジすることが可能な格闘技としての理解が進んで

いく。また、こうした文学作品におけるイメージとし

ての利用のみではなく、時を同じくして隆盛しつ

つあった、ユージン・サンドウ主宰の『身体文化』

や、『ヘルス・アンド・ストレングス』といったフィット

ネス雑誌の元祖ともいえるメディアにおいても頻

繁に取り上げられ、柔術に関する書籍も次々と発

刊されるようになる。さらにはロンドンを中心として、

イギリス人が柔術を実践する場としての道場も複

数開設されていった。

III 柔術ブームと身体文化

こうしてイギリス社会に受容され、知名度を上げ

ていった柔術だが、実際にはこの時期のイギリス

社会には、柔術のブームを可能にする素地が既

に存在した。一つは身体文化(physical culture)

の流行、もう一つは日清・日露戦争による日本へ

の興味の高まりである。

身体文化とは、一九世紀後半からイギリスで大

きな潮流となった、ボディビルやフィットネスの元

祖とも言える健康志向・身体トレーニングの総称



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である。ミシェル・フーコーが述べるように、イギリス

を含め、近代以前のヨーロッパ社会においては身

体とは所与のものとみなされており、後から鍛錬

することでそれを作り替えることができるという考え

は一般的ではなかった



。 こうした状況に対して、

目指すべき理想の身体を実際のモデルによる写

真や図解で提示し、その実現を可能とするための

トレーニング方法や身体に関する知識を具体的

に提供したのが、雑誌や書籍を中心とした当時

の身体文化メディアであった。そして、その名も

『身体文化』という雑誌を主宰し、ブームの立役

者となったとも言える存在がユージン・サンドウ

(Eugen Sandow)であった。

マイケル・アントンバッドによれば、十九世紀中

庸以前のイギリスにおいて「身体文化」という語彙

はほとんど一般には流通していなかったという。そ

れが世紀転換期から二十世紀初頭には、特定の

意味を表す言葉として広く人口に膾炙し、この急

速な普及はもっぱらユージン・サンドウその人と、

彼による雑誌『身体文化』の影響力に負っている

と述べる(M. Anton Budd 1990)。サンドウは、ミュ

ージック・ホールを巡って行う、自らの逞しい身体

を使った怪力男(strong man)の見世物で評判と

なり、その知名度と身体を武器に、雑誌や書籍を

通じて自身が考案したトレーニング法や知識の宣

伝・普及に努め、身体文化のカリスマ的存在とな

っていった。こうしてイギリスで一気に流行となった

身体文化は、ヨーロッパはもとより、アメリカやオー

ストラリア、そして明治期の日本にまで広まりをみ

せてゆく





このような急激な身体文化の流行、即ち「身体

の強さ・健康さ」に対する意識の高まりの背景に

は、当時の西欧を思想的に席巻した社会ダーウ

ィニズムと、そこから導き出される身体の“退化”へ

の怖れがあったと指摘できよう。(富山 1995) つ

まり、産業革命以降、急激な工業化を果たしたイ

ギリスにおいては、劣悪な環境で働き、生活する、

都市の産業労働者たちの身体虚弱や不健康さ

が社会的な問題として浮かび上がり、それが将来

におけるイギリス国民の“退化”をもたらす要因と

して取り沙汰されたということである。身体文化の

流行は、こうした怖れに対する、主に下層中産階

級からのリアクションであったと考えられる。

ここで今一度、柔術のブームに立ち返ってみる

と、その初期において対戦の相手となり、柔術の

認知に一役買った怪力男たち(レスラーやボクサ

ーも含まれる)こそ、この身体文化という価値観の

代表的な体現者たちであったことに気づく。力自

慢のショーに説得力を持たせるために身体を鍛

え筋肉を身にまとった怪力男はもとより、当時のレ

スラーやボクサーもまた“強さ”のイメージを目に見

える形で提示する存在であり得た。そして、柔術

はその身体文化を代表する者たち即ち“強い”者、

を打ち負かすことによって、より大きな注目を浴び

ることになったと言える。

さらには、日清・日露戦争における小国日本の

電撃的な勝利は、イギリス社会に日本という国へ

の興味を呼び起こし、身体の小さなものが大きな

相手を打ち負かすという柔術の比喩的効果を促

進することとなった。こうした時機が相まって、イギ

リスに柔術ブームがもたらされ、当初は身体文化

に対するオルタナティヴとして認知されていくが、

後にイギリス人自身による実践を通じて柔術自体

の理解・分析が進むと、次第に身体文化の一ヴ

ァリエーション(レスリングなどの競技に近い身体

技法)として消化・受容されていくことになった。

IV. イギリス人女性の柔術実践

バーティツという形での柔術の到来以降、その

実践の中心となったのは上流~中産階級の人々

であったと考えられる。それは、当初バーティツや

柔術の記事が連載された雑誌(『ピアソンズ・マガ

ジン』、『サンドウズ・マガジン』、『ヘルス&ストレン

グス』など)の主な購読層が中産階級であったこと



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や、わざわざ費用を支払ってまで稽古に励む時

間的・経済的余裕がある層に限られていたことか

らも推測できる



。 そして、ジェンダー的にはやは

り男性による実践が多数を占めてはいたが、中に

はごく初期から柔術に携わる女性も存在した。確

認できる限り、女性による初めての柔術指南書を

著したエミリー・ダイアナ・ワッツ(Emily Dianna

Watts〔ロジャー(Roger)とも称した〕)



もその一

人である。

ワッツは、記録によれば 1903 年頃から柔術を

始め、ロンドンのゴールデンスクウェアに道場を開

いていたウエニシ・サダカズの元で修行したという。

そして三年のうちに自ら道場を開いて少年たちに

柔道を教え始め、 1906 年『The Fine Art of

Jujutsu 』を出 版した。( Shortt and Hashimoto

1979:p.46、Svinth 2001) これは、イギリスにおけ

る初めての柔術書籍の出版が 1905 年であること

を考えても非常に早い



。 ワッツは豊かな家庭の

出身であり、この時期に柔術を実践するための指

南書という限られた読者を対象にした書籍を執

筆・発行し得たこと、また、本書が鮮明な写真印

刷をふんだんに用い、厚手の光沢紙で誂えられ

た高価なものであることからも、当時の柔術実践

に関心を寄せた階層をうかがい知ることができる。

ワッツはその後、ギリシア文化に関する著書も出

版し、講演で世界各国を回るなど国際的に活動

するが、柔術そのものに関してはそれ以降目立っ

た活躍を見せることはなかった。

一方、同時期に柔術を始め、本稿のテーマで

ある女性参政権運動に大きな役割を果たした人

物 が 、 エ デ ィ ス ・ ガ ー ラ ッ ド ( Edith

Garrud:1872-1971)である。ガーラッドはもともと

身体文化の指導者(physical culturist)であり、ま

た教師でもあった。同じく身体文化の指導者であ

った夫のウィリアムと共にロンドンに移り住んだ際、

バーティツのデモンストレーションを見る機会に恵

まれ、夫と共に柔術へ傾倒してゆく。その後、ウエ

ニシが主催したゴールデンスクウェアの柔術道場

に入門し、ウエニシおよびタニの元で柔術を学ぶ。

この時期、本道場には何人かの女性入門者が存

在したが、その中でもエディス・ガーラッドは、以

降の人生を通じて深く柔術と関わってゆくことに

なった。

1907 年には、映画会社ゴーモンの「柔術で追

いはぎを撃退(Jujutsu Downs the Footpads)」と

いう短編フィルムに柔術のデモンストレーターとし

て出演し、男性を相手に柔術の技を披露した。

翌 1908 年、夫のウィリアムが、イギリスを去ること

になったウエニシのゴールデンスクウェアの道場を

引き継ぐと、エディスはそこで女性と子供のクラス

を担当するようになる。また同年より、女性の権利

運動を展 開する WSPU (女性社会政治 同盟

Women’s Social and Political Union)と WFL(女

性自由連盟 Woman’s Freedom League において

柔術・護身術の特別クラスを指導するようにもなっ

た。この頃から、ガーラッドは女性運動との関わり

を深めていくことになる。

V. ジ ュ ー ジ ュ ツ ァ フ レ ジ ェ ッ ツ

(Jujutsuffragettes): イギリス女性参政権運動と

柔術

1. 女性参政権運動の活発化

イギリスでは十九世紀半ば以降、徐々に選挙

権の拡大が図られ、1885 年の第三次選挙法改

正によって選挙権者は 440 万人(当時の人口の

13%)に達し、成人男子に関してはほぼ普通選

挙制を実現していた。しかしながら、女性の参政

権は未だ認められておらず、選挙権獲得・社会

的権利の向上を目指した運動が展開されるように

なる。そうした活動組 織の代表的存在として、

1903 年 10 月 10 日、マンチェスターにおいてエメ

リン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst)を指導

者とした WSPU(女性社会政治同盟)が結成され、

女性参政権を求めて活動を開始した。この団体



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は女性のみで構成され、そのモットーは“言葉で

はなく行動を”というものであった(Housego and

Storey 2012:p.13)。

当初は機関誌の発刊やデモなどを通じた活動

を行っていたが、1905 年のデモでパンクハースト

の娘が逮捕され、新聞などを通じて報道されたこ

とで、WSPU は女性参政権運動家(suffragettes)

の代表的な団体として知られていくようになる。ロ

ンドンへの進出後、それまで比較的穏健な活動

を行っていた WSPU であったが、一向に歩み寄り

を見せない政府に対して、参政権の実現にはより

強硬な手段が必要であると方針を転換し、1905

~8 年にかけて運動は武装闘争(ミリタンティズム)

を辞さない方向へと急進化してゆく。具体的には

デモやアジテーションを過激化し、政府の建物の

窓を割る、議会の建物を取り囲む柵に自らを手

錠で繋ぐなどの示威行為に及ぶこととなり、そうし

た行為を取り締まり、集会を排除しようとする警官

隊との間の衝突もまた激しさを増していった(河村

2001)。

その様な社会情勢の中で、こうした状況を風刺

する興味深い記事が、1907 年 3 月 13 日『Punch』

誌上に掲載された(図 1)。

図 1

女性参政権運動家を持ち上げる警官たちの

挿 絵の下には“One Man One Suffragette: A

Suggestions to the House of Commons’ Police”

(女性参政権運動家一人につき男性一人:議会

警察に提案)と説明が付けられ、「警官たちは空

き時間にダミーの女性参政権運動家の人形を使

って、柔術の訓練をするべきだ」という意の文章が

添えられている。実際に柔術ブームの後、イギリス

では軍隊や警察の一部で柔術が訓練に取り入れ

られるようになるなど、武器を用いない格闘・護身

術として浸透しつつあったこともあり、この記事の

風刺はあながち荒唐無稽な笑い話という訳では

なかった。しかし、ここで注目すべきは、この時点

で柔術を学ぶべきとされるのは女性参政権運動

家ではなく、それを取り締まる警官たちの方であ

る、と見なされている点であろう。デモや集会を過



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激化する女性たちを排除する上で、柔術は有効

な手段だという訳である。だが、こうしたイメージは

参政権運動と柔術が度々雑誌メディアに取り上

げられるようになってゆく二、三年の間に、急激に

変化していくことになる。

2. 女性による柔術実践

先述したように、1908 年になると WSPU と WFL

においてエディス・ガーラッドによる柔術・護身術

の特別クラスが提供されるようになる。これは、日

増しに激しくなる警官隊との衝突から身を守るた

め、WSPU ではパンクハースト自身の発案で開始

された。女性たちによる柔術の訓練開始から一年

後の 1909 年、『Health and Strength Magazine』

誌上に“Jujutsuffragettes: A New Terror for the

London Police”と銘打たれた、柔術をたしなむ女

性参政権運動家がロンドン警察の脅威になって

いるという記事が掲載され、その文中で師範のガ

ーラッドは「WFL の全てのメンバー中で、おそらく

最も重要な人物」と評されるようになる。この際、

柔術の使い手である女性参政権運動家たちを指

す た め に 、 「 Ju-Jutsu ( ジ ュ ー ジ ュ ツ ) 」 と

「suffragettes(サフレジェッツ)」を組み合わせた

「Jujutsuffragettes(ジュージュツァフレジェッツ)」

なる造語がはじめて用いられ、以降たびたびこの

呼称が登場することとなった。

そして、更に翌年 1910 年 7 月 6 日には、

『Punch』誌上に“The Suffragettes that knew

Jiu-Jitsu”(柔術を嗜む女性参政権運動家)とい

う風刺画が掲載される(図 2)。

図 2

この絵の中では、柔術使いの女性の前で警官

隊が震え上がっている様子が戯画的に描かれて

いるが、1907 年の記事と比較して興味深い点とし

ては、ここに至っては柔術の使い手が警官ではな

く女性参政権運動家の側として描かれており、三

年前とはイメージが完全に逆転しているところであ

ろう。雑誌メディアにおけるこうしたイメージの変遷

は、イギリスにおける参政権運動と女性の柔術実

践という結びつきが、短い期間で一般の人々の

間にも浸透し、認知されていったことの表れともい

える。さらには、権利獲得のためには実力行使も

辞さないという女性たちの運動の高まりもまた、商



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スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

190

業メディアを通じて人々の大きな関心事となって

いったことを示している。そして同年の秋、こうした

活動の一つのピークともいえる出来事が訪れるこ

ととなる。

1910 年 11 月 18 日、当時の首相ハーバート・

ヘンリー・アスキスと与党である自由党が、一定以

上の資産を有する女性に選挙権を拡大する法案

「Conciliation Bill」を議会の時間切れを理由に

廃案としたことに端を発した大規模な女性参政権

デモが WSPU によって行われた。この際、国会周

辺に集まった 300 人以上のデモ隊に対し、警察

が暴力を行使して弾圧を行ったことで騒然となり、

結果として多数の負傷者(1 名は後に死亡)と 119

名の逮捕者を出す惨事となった。この際の報告

によれば、「女性たちは顔や胸、肩を殴られてもな

お、無意識的に自分たちを律し、後から後へと

(デモの現場へ)戻っていった。何人かの女性は、

三回も四回も放り投げられているのを目撃された」

(Housego and Storey 2012:p.33)という。

この事件は、後にブラック・フライデーと呼ばれ、

女性参政権運動史に刻まれることになる。これま

でにない警察の暴力的な取り締まりに対して、そ

れまで女性参政権運動に対して比較的冷淡であ

った世論も批判の姿勢を見せ始め、新聞などのメ

ディアも弾圧の模様を写真で掲載するなど、次第

に運動の側に立った報道がなされるようになって

ゆく。当時、女性参政権運動の中心となっていた

活動家たちの多くは中産階級の女性であったが、

その淑女たちを路上に引き倒し、死者まで出した

ことは、階級とジェンダー双方の意味で警察や政

権に対する批判を呼び起こし、彼女たちの運動

に同情する機運を生み出すことにつながったとい

える(Housego and Storey 2012:pp.32-34)。

VI. 女性 Jiu-Jitsu ボディガード団:実戦のための

柔術

1. ハンガー・ストライキと“Cat and Mouse”法

ラック・フライデー以降、WSPU や WFL の活動

はますます盛んになり、政府との間の軋轢も激し

さを増していった。こうした状況にあって、護身の

ための柔術の有用性もまた、女性活動家たちの

間に浸透してゆく。この間、柔術の指導者であっ

たエディス・ガーラッドは、1911 年 4 月 8 日の

『Health and Strength Magazine』に掲載された”

Ju-jutsu as a Husband Tamer (夫を手懐けるた

めの柔術)”という記事において柔術指南を担当

し、続く 7 月 23 日 の同誌においては自ら”

Damsel v Desperado(乙女対ならず者)”という記

事を執筆し、男性の暴漢に対する女性の柔術実

践の有用性を説いている。だが、この後ほどなくし

て、女性参政権運動の団体は構成員個人の柔

術習得に留まらず、女性柔術家を組織化してボ

ディガード団を結成するという転機を迎えることに

なる。

1913 年、自由党による Prisoner's Temporary

Discharge of Ill Health Act(通称 Cat and Mouse

法)が議会を通過し、法律として制定された。これ

は、健康を害した囚人を一時的に釈放することを

可能にする法案であり、当時、収監された女性参

政権運動家が頻繁に用いていた抵抗手段である

ハンガー・ストライキを狙い撃ちにしたものであっ

た。絶食することで抗議の意志を示すハンガー・

ストライキは、当然ながらその実践者に衰弱をもた

らすことになるが、もしも収監中に容疑者が衰弱

死するようなことがあれば、それを放置した当局に

非難が向くことは避けられない。そこで、当時の政

権がとった対応策が forcible feeding(食餌強制)

と呼ばれる、強制的に食べ物や飲み物を流し込

むという手法であった。自らが食物の摂取を望ん

でいない相手に強制的に食餌をさせるということ

は想像以上に困難であり、多くの場合、数人がか

りで手足を拘束した上で、口や鼻から無理矢理

流動食を流し込むという非人道的な手段が執ら

れた。この方法は、収監者にとって大変な苦痛を



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伴うものでもある。女性参政権運動家はこうした

状況を自らの機関誌で訴え、また他の一般メディ

アも大きな関心を持って報道したため、イギリス社

会に大きな反響と怒りを呼び起こした。(Housego

and Storey 2012:p.39)(図 3:Daily Sketch, May

1, 1913)。

図 3

世論の多くは、仮にも賤しからぬ階級に属する

レディに対してこのような非人道的な扱いをする

当局側に対して批判的なものであったため、自由

党政権も強制食餌に代わる何らかの対応をとらざ

るを得なくなってゆく。そこで生み出されたのが、

先述の通称「Cat and Mouse 法」であった。

本法案によって、ハンガー・ストライキで衰弱し

た収監者を一時的に釈放することが可能になっ

たため、政権側は女性参政権運動家が衰弱して

ゆく危険も強制食餌に対する国民の批判もかわ

すことができるようになった。一方で、健康を取り

戻せば再収監することができるため、運動家たち

はハンガー・ストライキを続ける限り釈放と収監を

繰り返されるという過酷な状況におかれることにな

った。逮捕と衰弱、そして釈放と再逮捕の循環に

よって活動家の気力と体力を奪ってゆくという、そ

の名の通り、まさに「猫がねずみをいたぶる」ような

法律であったといえる(図 4:WSPU による反「Cat

and Mouse 法」ポスター〔Housego and Storey

2012:p.26 より転載〕)。



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図 4

2. 私設柔術ボディガード団の結成

こうした政権側の「Cat and Mouse 法」に対して、

WSPU はリーダーのエメリン・パンクハーストを含め

一旦釈放された活動家を二度と逮捕させないと

いう作戦方針で対抗することになる。この時期、

WSPU は一向に進展しない政治状況に対して武

装闘争を加速させており、1912 年にはその頂点

を迎えた。WSPU は過去の選挙法改正が民衆の

暴動によって達成されたと考えたため、それにな

らって「財産の破壊」という闘争方針を採り、政府

関係施設にとどまらずリージェント街の商店の窓

ガラスを割り、郵便ポストに火を投げ込み、美術

館の絵画を刃物で切り裂くなどし、とりわけすさま

じかった 1913~14 年の放火闘争は 17 ヶ月間で

約百件、推定被害額は 45 万ポンドに上ったとい

う(河村 2001:p.117)。

こうした闘争やデモ、集会の会場にあって、指

導者や活動家たちを警察から守り、拘束させない

ために、WSPU は 1913 年、エディス・ガーラッドを

師範として柔術ボディガード団を結成する。ボデ

ィガード団はカナダ出身のガートルード・ハーディ

ング(Gertrude Harding)をリーダーとし、25~30

名程度の女性メンバーから成っており、警察に所

在を掴まれないため、各地を転々としながら柔術

のトレーニングを行った。彼女たちは柔術の技に

加えて衣服の下に忍ばせた棍棒で武装し、特に

指導者のエメリン・パンクハーストを守るため警察

と渡り合うことになった。ボディガード団の役割は、

介入してきた警察官たちから活動家たちを守り、

その間に中心人物を逃がすための時間稼ぎをす

るところにあった。そのため、単純に柔術を使って

応戦するだけではなく、時には変装して警察を混

乱させたり、パンクハーストの影武者を仕立てて

本物の逃走を手助けするという戦術も採られた。

この際、柔術ボディガード団の最重要人物であ

ったガーラッドが最前線で闘うことはほとんどなか

ったが、これは万一逮捕された時に指導者を失う

ことになるリスクを避けるためであった。また、ガー

ラッドは自らの道場に活動家たちを匿うこともあっ

たという。この時期になると、激しい武装闘争とそ

れに対する抵抗によって、WSPU の女性参政権

運動は社会の注目を集めるようになっており、先

述したように「柔術の使い手としてのサフレジェッ

ツ=ジュージュツァフレジェッツ」というイメージが、



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社会に浸透していたといって良い。さらに同年 12

月 19 日には、『Health and Strength Magazine』

誌上でガーラッドが再び柔術のデモンストレーショ

ンを行い、警察官の扮装をした相手に柔術の技

をかける姿が掲載され、こうしたイメージに拍車を

かけることになった(図 5)。

図 5

この柔術によるボディガードは実際に功を奏し、

後に第一次世界大戦開戦に際して WSPU が武

装闘争を解除するまでエメリン・パンクハーストが

拘束されることはなかった。だが、警察との闘争に

おいて女性たちの柔術が有効であったことには、

当時の女性参政権運動において特定の状況が

成り立っていたことに留意する必要がある。まず、

WSPU の活動主体はほとんどが中産階級の女性

であったことから、警察側はこの鎮圧にあまり暴力

的な手段を用いることができなかった。先に述べ

たブラック・フライデーや食餌強制の事例からも明

らかなように、世論は比較的、女性参政権運動に

同情的になっており、女性であり出身階級も高い

淑女たちに直接的な暴力を行使することは、政

権側への批判を強める恐れもあった。結果として、

警官隊は活動家たちを集団から素手で引き離し

て拘束したり、持ち上げて連行したりといった比較

的穏当な手段を用いざるを得なかった。こうした

制約から、生身の人間が素手で対峙する状況が

作り出されたことは、柔術という武術が実戦として

効果を発揮する上で非常に有利に働いたといえ

る。また、当然ながら、体重や身体の大きさに依

存しないという柔道の最大の利点が、女性たちに

とって有効であったことは言うまでもない。仮に、こ

れ以前の選挙法改正運動などで見られたような

騎馬警官の投入や、警棒などを用いた暴力的な



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介入があったとすれば、おそらく柔術のみで十分

な護身を行うことは困難であっただろう





近代のイギリスにおけるフェミニズム運動を詳

細に検討した河村によれば、WSPU は膠着状態

に陥った女性参政権運動を打開するために意識

的に「戦闘的」手段(ミリタンシー)を採用し、その

思惑通り、「上品なみなりのレイディが、会場整理

の無骨な男性によって集会場から荒々しく投げ

出される写真は、ヴィクトリア朝のリスペクタブルな

女性観に慣れた一般大衆には十分に衝撃的な

ものであった」し、「女性によるミリタンシーはまさし

くニュースになったのである」と指摘している(河村

2001:p.112)。これらを考え合わせると、WSPU は

そのメディア戦略を含めた活動方針によって自ら

の存在を上手くアピールし、結果として、対抗手

段として用いた柔術さえもそのイメージに取り込む

ことに成功したともいえるであろう。

その後、WSPU はイギリスの第一次世界大戦参

戦に伴い、1914 年 8 月、武装闘争と参政権要求

を中断することを宣言し、その後は政権からの資

金援助を得て戦時協力を行うようになる。この変

節には批判もあったが、エメリン・パンクハーストお

よび娘のクリスタベルの強力なリーダーシップと戦

時下という状況もあって、方針変更は維持された。

そして 1917 年、名称を「女性党」と変更するに至

り、最終的に WSPU は解体された。さらに 1918 年

3 月、第4回選挙法改正により 21 歳以上の男性

に加えて 30 歳以上の女性にも参政権が認められ、

一部限定はあるものの女性参政権運動の目的で

あった女性の普通選挙制がほぼ実現したことから、

種々の参政権運動は収束することになり、実戦手

段としての女性柔術も終焉を迎えることとなった。

VII 柔術と Jiu-jitsu:イギリスにおける女性の柔

術受容

1. 日英における女性柔術の相違:修養か実戦



これまで見てきたように、二十世紀初頭の一時

期、イギリスにおいては女性による柔術が非常に

特徴的なかたちで実践、受容されたことがわかる。

そもそも柔術を実践するイギリス人女性の数が限

られていた中で、それが実戦の手段として用いら

れたことは、イギリス人男性の柔術受容と比較し

ても大きな相違である。また、これは柔術の“本国”

と言える日本の同時代と比較しても、際だって特

異な現象であったといえるだろう。諸説あるが、日

本における組織的な女性の柔術実践は、講道館

柔道の成立後の 1920 年代以降であることを考え

ると、イギリスにおける女性の柔術実践はこれに

先んじている。また、「実戦」という側面を考えた時、

両国における柔術の違いは際立っており、日本

においては女性の柔術・柔道を実戦に用いること

はおろか、かなり時代が下るまで、乱取りや試合

を念頭に置いた実践は推奨されず、修養としての

側面に重きが置かれていた。こうした相違は、当

然ながら武術としての柔術や柔道の文化的意味

が日本の文脈から切り離され、イギリス社会にお

いて脱色されて独自の文化的文脈に位置づけら

れたためである。

また、この時期のイギリスにおける女性の柔術

は、男性のそれが身体文化的な価値観に包摂さ

れていったのに対し、「身体の小さい女性が体重

や筋力で勝る男性を倒す」という、むしろ身体文

化とは逆のベクトルの価値観を含んでいた。さら

に、イギリス人男性の柔術実践が、レスリングなど

他のスポーツと同じく競技として自己目的化して

ゆくこととも一線を画していたといえる。ここには、

日本とイギリスという国をまたいだ文化と、イギリス

国内における女性と男性というジェンダーの、双

方における相違を見ることができる。

2. 文化伝播としてのイギリス柔術

以上を踏まえて述べるならば、イギリスにおける

この時期の柔術は、当然ながら日本文化が海外



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伝播した一形態と捉えることができる。しかしなが

ら、グローバル化以前の二十世紀初頭に、日本

をはじめとしたアジア地域の文化が、近代の世界

秩序の中心国ともいえるイギリスおよびヨーロッパ

諸国に根付いた例はきわめて稀であり、そうした

意味で柔術は文化伝播の方向を考える上で非

常に興味深い事例ともいえる。

スポーツを含めた遊技的な文化の伝播に関し

ては、アレン・グットマンが『スポーツと帝国』(1997

年)において詳細に検討しており、文化帝国主義

の議論およびその批判の両側面から考察してい

る。グットマンは、スポーツを含む文化の伝播が近

代の帝国主義の力学に沿った、欧米諸国からそ

の他の地域へという方向性、つまりは“近代の中

心から周縁へ”、というあまりに単純化された図式

へ還元されがちであることに批判的であり、イデオ

ロギーとしての文化帝国主義よりも、文化的な双

方向性を担保した文化ヘゲモニー論に条件付き

ながら与する。そして、中心から周縁へという方向

に逆行する例としてポロやハイ・アライ(バスク人の

ペロタのキューバ版)などを挙げた上で、「逆伝播

のもっと顕著な例は柔道である」と述べている





さらには、「「異国の」スポーツを受容するという行

為は、通例その社会の比較的富裕で教育のある

層に限られてきた」と続けており(グットマン:1997

p.199)、これらの記述は本稿が考察してきたイギ

リスの柔術、特に上流・中産階級女性の柔術実

践の説明とも良く符合する。

ここでは、スポーツという文化を巡る文化帝国

主義/文化ヘゲモニー論の議論に深く立ち入る

ことはしない。しかしながら、少なくとも二十世紀

初頭のイギリスにおける女性と柔術の受容に関し

ていえば、一つの身体的な文化が近代という時

代の世界的な勢力図とは必ずしも一致しない方

向へと伝播し、さらにはその先で女性/男性とい

うジェンダー上の異なる受容をみせたことは、文

化が政治や経済の諸力とは異なる自律性を持ち

得るという可能性 即ち、文化ヘゲモニー論に

よる伝播の説明可能性の一事例として提示する

ことができるのではないだろうか

10



もちろん、こうした解釈に関しては留保すべき

要素も残されている。例えば、この時代にイギリス

やヨーロッパで沸き起こった東洋趣味という名の

オリエンタリズムを考えれば、柔術もまたそのような

エキゾティックな身体技法として帝国主義的まな

ざしによって消費されたといえなくはない。また、

そもそも列強による植民地化を回避するためとは

いえ、アジアにおいて自ら帝国化した日本を、

「文化帝国主義」の影響を被る側におくことが適

切であるのかという疑問も残る。これらに関しては、

今後、欧米の他地域、およびアジア諸国における

柔術受容を検証することによって明らかにしてゆ

くべき課題としたい。

【引用・参考文献】

アレン グットマン『スポーツと帝国:近代スポー

ツと文化帝国主義』、谷川稔、石井昌幸他訳、

昭和堂、1997.

岡田桂「一九世紀末-二〇世紀初頭のイギリス

における柔術ブーム:社会ダーウィニズム、身

体文化メディアの隆盛と帝国的身体」『スポー

ツ人類学研究』 第六巻、スポーツ人類学会、

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岡田桂「柔術家シャーロック・ホームズ、柔道家

セオドア・ルーズベルト:英米における柔術/

柔道ブームの位相と身体文化」、『海を渡った

柔術と柔道:日本武道のダイナミズム』青弓社、

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木下誠、「D. H. ロレンス『恋する女たち』にお

ける柔術と身体文化」『運動+(反)成長(身体医

文化論 ; 二) 』 武藤浩史, 榑沼範久編、慶

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河村貞枝『イギリス近代フェミニズム運動の歴

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スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年

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ドイル、コナン『空き家の冒険』、小池滋ほか訳、

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富山太佳夫『ダーウィンの世紀末』、青土社、

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Anton Budd, Michael, The Sculpture

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“Ju-jutsu as a Husband Tamer”, Health and

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demonstrates the methods of jujutsu. She has

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Constable,1920(舞台の初演は 1905 年、戯曲

初版は 1907 年)

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Alternative Perspectives Feb 2001(オンライン

ジャーナル)

Watts, Roger, photographs by Beldam, G. W.

The Fine Art of Jujutsu, Heinemann, 1906.

________________________________________________________________________________________________________________________________



physical culture は、その語義に沿えば「身体鍛

錬」と訳す方が適切ではあるが、これまでの先行

研究事例において身体文化という訳語が用いら

れてきたため、本稿でもそれを踏襲した。



二十世紀初頭のアメリカにおける柔術を考察し

た以下の研究には、一部女性の実践に関する言

及がある。薮耕太郎「前世紀期転換期のアメリカ

における柔術をめぐる緊張関係 H.I.ハンコック

による柔術教本と“The New York Times”の分析

を中心に」(未刊行:立命館大学での研究会発

表資料)二〇〇七年



ミシェル・フーコー『監獄の誕生:監視と処罰』

(1977 年)参照。また、三浦雅士『身体の零度』

(1994 年)にも同様の視点が見られる。



造士會編纂による『サンダウ體力養成法』(1900

年)が発行されている。本書は雑誌『國士』に連

載された内容を増補の上、出版したものであり、

サンドウが提唱し、自らの書籍や雑誌に掲載した

鉄アレイなどを用いた身体鍛錬法がまとめられて

いる。また、本書には造士会長としての嘉納治五

郎による序文が付記されており、嘉納がヨーロッ

パを外遊した際にサンドウとその身体鍛錬法の評



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197

判を聞き及び、日本人の体力向上に資すると考

えて訳出した旨述べられている。



アントンバッドは、当時の身体文化メディアの主

な購読層が、中産階級の中でも特に下層中産階

級を中心としていたこと指摘している。ただし、後

に身体文化に包含されてゆくとはいえ、ブームの

当初、柔術を実践した人々の多くは上層~中層

中産階級であったことから、身体文化を支えた中

産階級の幅はかなり広いといえる。



本名は Emily Diana Watts であるが、後述する

柔術書籍の著者名は「Mrs. Roger Watts」として

いる。また、彼女にはもう一冊の著作(『The

Renaissance of the Greek Ideal』Frederick A.

Stokes Co., 1914.)があるが、本書では Diana

Watts (Mrs. Roger Watts) と併記しており、名称

を使い分ける理由は不明である。なお、“Roger”

は男性に多く見られる名ではあるが、女性名とし

ても通用している。



確認できる限り、イギリスで最も早く発行された

柔術に関する書籍は以下の二冊であり、前者は

柔術ブームの立役者の一人である上西貞一、後

者は谷と上西のマネージャーを務めたウィリアム・

バン キ ア に よ る も の で あ る 。 Sadakazu "Raku"

Uyenishi, Text Book of Ju-Jutsu as Practised in

Japan, London : Athletic Publications, 1905.

Bankier, William. Ju-Jitsu: What It Really Is,

London: Apollo's Magazine, 1905. 尚、翌年

1906 年には、谷と三宅太郎(一時期、谷と共にゴ

ールデンスクウェアの道場で柔術を指南していた)

による書籍も発行されている。Taro MIYAKE and

TANI (Yukio), The Game of Ju-Jitsu, for the use

of schools and colleges: 91 illustrations.

Drawings by George Morrow. Edited by L. F.

Giblin and M. A. Grainger., London : Hazell,

Watson & Viney, 1906. これらを考え合わせると、

ワッツによって初の女性による柔術教本が同年に

発行されていたことは、驚くべき事といえるかもし

れない。



こうした、柔術が実践として有効に機能する空間

的な条件や間合いに関しては、池本淳一氏(早

稲田大学スポーツ科学学術院)から重要な示唆

を受けた。



ただし、ここでは「この競技がヨーロッパと合衆国

に定着したのは、第二次世界大戦に敗れて占領

下におかれた日本が、瓦礫の中からかろうじて復

興しはじめた頃のことだったからである」としており、

柔術(柔道)の欧米伝播に関して時代的な誤りが

ある。この記述はグットマンが参照した先行研究

に基づくものであるが、現在、柔術や柔道の伝播

がこれよりはるかに早かったことは、複数の研究に

よって明らかにされている。(代表的なものとして

は『海を渡った柔術と柔道』(引用・参考文献)参

照。)

10

こうした伝播の方向性が逆転する他の事例とし

ては、ジェムとフィスターによる、カナダにおけるラ

クロスの近代スポーツ化と文化の相互転 移

(cross-cultural transfer)が挙げられる。(Gems,

Gerald,

R.

and

Pfister,

Gertrud,

Understanding American Sports, Routledge,

2009: pp.40)

http://matome.naver.jp/odai/2136101783750692801


Twitterで話題の警官を柔術で投げ飛ばすイギリス人女性の正体
イギリスの女性参政権運動のデモ警官を一人でやっつけるイーディス・ガラッドの勇姿がTwitterで話題となっていたのでまとめました。

更新日: 2013年02月16日


rinqoo1976さん









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こなたま(CV:渡辺久美子)@MyoyoShinnyo

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イギリスの女性参政権運動のデモで、鎮圧に来た警官をジュージュツの技でちぎっては投げ、ちぎっては投げして、女だって男の腕力に対抗できると知らしめたイギリス人女性柔道家ってのがいたんですよ pic.twitter.com/OJHVkinc


返信 リツイート いいね 2013.02.16 11:42











『パンチ』誌1910年7月号より


出典
sanjuro.cocolog-nifty.com




『パンチ』誌1910年7月号より


警官を一人でやっつけるイーディス・ガラッドの勇姿。「THE SUFFRAGETTE THAT KNEW JIU-JITSU柔術の心得がある婦人参政権運動家」と書いてある。







この女性の名前は「イーディス・ガラッド」





「イーディス」の夫は欧州に柔術を広めた上西貞一の弟子だった





ウエニシ(上西貞一)の弟子であったウィリアム・ガラッドの妻イーディスは、柔術に熟達していた。



出典
柔道か柔術か(45): 翻訳blog



















彼女は婦人参政権運動家として、また婦人参政権同盟の設立者エミリーン・パンクハースト夫人(1857-1928)のボディガードをつとめる「戦う参政権論者」の柔術教師として悪名をはせた。



出典
柔道か柔術か(45): 翻訳blog



















風刺画ではなく、イーディスが実際に警官をやっつけている写真






イーディス・ガラッド


出典
sanjuro.cocolog-nifty.com




イーディス・ガラッド


イーディスは小柄で負けん気の強い女性だった。1910年から12年ごろの写真に彼女が警官をやっつけるところを撮ったもの。

彼女は当時流行だったむやみに大きい帽子をかぶっている。
風刺画と同様、細身でそれほど大きくは無い女性で、いかつい感じはしない。







女性参政権運動家はいろいろな嫌がらせにあうことがあり、警察に胸をつかみあげられるなどの暴力を受けたこともあったので、護身術はかなり役立つ技術だったらしい。



出典
19世紀英国、女性柔術家が参政権のために立ち上がった!エメリン・…






















こなたま(CV:渡辺久美子)@MyoyoShinnyo

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イーディス・ガラッドのインパクトは、なんだかんだいっても女は男の腕力にかなわない、最終的には殴れば解決するというパラダイムを覆したことなんですわ。ムキムキの突然変異の女じゃなくて、ジュージュツという“技術”を習得すれば誰でもそうなれる、というね


返信 リツイート いいね 2013.02.16 12:15










イーディスは夫と離婚し、オックスフォード・サーカスに道場を開いた。この道場が参政権運動家の基地となり、女たちはここから出撃して街で窓などを割って回り、すばやく戻って警官が来るころには何食わぬ顔で柔術の稽古をしているのだった。



出典
柔道か柔術か(45): 翻訳blog



















最近、日本女子柔道で発生した指導暴力事件について、告発した選手をバックアップした山口香選手が注目をあびているが、既に19世紀ロンドンにも女性の権利を守り正しいことをするために頭を使って頑張っていた女性柔術家がいたのである。



出典
19世紀英国、女性柔術家が参政権のために立ち上がった!エメリン・…



















運動家たちは暴力に訴えることもあったが、イーディス・ガラッドは素手で戦った。





イーディス・ガラッド女史は柔術を使って素手で戦ったから偉いのだ。運動の成果により、1918年に30歳以上の女性に選挙権が認められ、1928年には男女とも21歳以上に選挙権が認められた。)



出典
柔道か柔術か(45): 翻訳blog






















こなたま(CV:渡辺久美子)@MyoyoShinnyo

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持たざるものの武器、階級闘争の武器としてのジュージュツ


返信 リツイート いいね 2013.02.16 11:51













こなたま(CV:渡辺久美子)@MyoyoShinnyo

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ジュージュツの達人でも大勢で押し囲むようにすれば捕まえられただろうけど、それをやったら威信がとか、女ひとり大の男が単独で押さえ込めないなんてメンツに関わるとか、そーいう時代だったんでしょうね多分


返信 リツイート いいね 2013.02.16 12:04










▼女性参政権運動とは?





世界にさきがけて産業革命を経験したイギリスでは,家庭での生産活動がなくなり存在理由を見いだせなくなった女性たちが,貧民救済などの慈善事業に活動の場を求めた。19世紀に入って広範な女性をひきつけた慈善事業が土台となって,婦人参政権運動をはじめとし,女性の社会的活動の機会拡大のための運動,女性の人権のための運動が展開された。



出典
婦人参政権運動 とは - コトバンク



















▼なぜイギリス人の女性が「柔術」を使っているのか?






20世紀初頭、イギリスでは柔術が流行ってた?!


出典
p.twpl.jp




20世紀初頭、イギリスでは柔術が流行ってた?!


20世紀初頭海外で活躍した柔術家として上西貞一、谷幸雄などと並んで名前が出てくる詳細不詳の柔術家Eidaの写真。投げているのはギャビー・デリスという女優。「柔術ワルツ」という出し物をやたのだそうだ







柔術が欧州に伝わったのは、バリツの創始者バートン=ライトの功績である。彼が谷幸雄と上西貞一を指導員としてロンドンに招いたのが1900年のことで、それから柔術は英国に広まり、さらに欧州諸国にも広まっていった。



出典
欧州の柔術について: 翻訳blog











柔術が欧州に伝わった時期等には諸説あるようです。




1

http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/45-abb7.html





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2009年1月19日 (月)



柔道か柔術か(45)




 タニ・ユキオ略伝(2)

 ウエニシは「ラク」というリングネームを用いていたが、ゴールデンスクウェアに道場を開いた。ウエニシは弟子のネルソンの助けを得て1906年にJu Jutsu as Practised in Japanという教科書を出版した。
 
 Jujitsu_by_skuenishi_250_sml

 1908年ごろラクが英国を去ると、この道場は弟子のウィリアム・ガラッドが受け継いだ。タニはミヤケといっしょにオックスフォード・ストリートに道場を開き、これは2年ほど続いた。このころは、ほかにも日本人の柔術家が何人か訪英した。オオノやマエダなどである。後者はグレイシー柔術の始祖である。

Jiujtsu3

 1906年はじめにタニとミヤケも The Game of Ju-Jitsu - for the Use of Schools and Collegesという本を出版した。またラクの弟子であったエミリー・ワット夫人も同じ年に The Fine Art of Jujitsuという本を出している。1904年12月にはバンキアがJu-Jitsu: What It Really Isという本を出した。これは雑誌に連載した記事を元にしたもので、タニとウエニシの写真多数を含んでいる。ここに挙げた本はみなよく書けているが、日本人の書いたものがバンキアやワットのものよりすぐれている。そのほかにも英語の柔術の本は多数出版されたが、大方は単なる珍品であって真面目な研究には値しない。

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(訳者補足 OEDにも引用されているものにHancock & Higashi Complete Kano Jiu-Jitsuがある。柔道か柔術か(3)参照。タニも別の本を出している。)

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 イーディス・ガラッドと婦人参政権運動

 ウエニシの弟子であったウィリアム・ガラッドの妻イーディスは、柔術に熟達していた。彼女は婦人参政権運動家として、また婦人参政権同盟の設立者エミリーン・パンクハースト夫人(1857-1928)のボディガードをつとめる「戦う参政権論者」の柔術教師として悪名をはせた。イーディスは夫と離婚し、オックスフォード・サーカスに道場を開いた。この道場が参政権運動家の基地となり、女たちはここから出撃して街で窓などを割って回り、すばやく戻って警官が来るころには何食わぬ顔で柔術の稽古をしているのだった。イーディスは小柄で負けん気の強い女性だった。1910年から12年ごろの写真に彼女が警官をやっつけるところをとったものがある。彼女は当時流行だったむやみに大きい帽子をかぶっている。

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(訳者補足 英国で婦人参政権運動が本格化したのは1865年以降である。20世紀初めになると過激化し、運動家たちはハンガーストライキを武器とした。暴力に訴えることもあった。ゲバ棒をふるって反対派の集会に乱入することもあったようだ。イーディス・ガラッド女史は柔術を使って素手で戦ったから偉いのだ。運動の成果により、1918年に30歳以上の女性に選挙権が認められ、1928年には男女とも21歳以上に選挙権が認められた。)(続く)

Punchjuly1910suffjj
(『パンチ』誌1910年7月号から、警官を一人でやっつけるイーディス・ガラッドの勇姿。「THE SUFFRAGETTE THAT KNEW JIU-JITSU柔術の心得がある婦人参政権運動家」と書いてありますね。)







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Page 1

Osaka University

Title

日露戦争期の英国における武士道と柔術の流行

Author(s)

橋本, 順光

Citation

阪大比較文学. 7 P.178-P.198

Issue Date 2013-03

Text Version publisher

URL

http://hdl.handle.net/11094/27366

DOI

Rights



Page 2

- 178 -

日露戦争期の英国における武士道と柔術の流行1

橋本 順光

Yorimitsu HASHIMOTO

はじめに 英国における新たな日本趣味

英国における新たな日本趣味

日露戦争時、英国は日本の戦況を自国のことのように大々的に報道した。なによりも日本の同盟国とし

て、ロシアの南下や外債の貸し付けといった利害を共有していたからである。それだけでなく日本の善戦

を褒め称え、さらには日本の効率的な文明化に学ぼうという機運まで生まれた。実際、G・K・チェスタ

トンが回想するように、当時のジャーナリズム界ではあからさまな日本への批判が事実上、禁じられてお

り、日本嫌いであっても賞賛するのが慣例だったという事情は考慮しなければなるまい2。ただ、それら

の賛美は日英同盟のための擬製という政治的な配慮にはとどまるものではなかった。サールがいち早く

指摘したように、ボーア戦争に辛勝した帝国を「頽廃」や「退化」から救うため、さまざまな改革運動と

解決策とを模索していた英国にとって、ロシアと善戦する日本は一つの手がかりと手本とを提供したの

である3。英国最大の脅威であり、それだけに反面教師ともなった新興ドイツとならんで、日本は、英国

の「国民=国家の効率」化に示唆を与えるものと考えられたのだった。

たとえば、「武士道(Bushido)」や「柔術(Ju-jitsu)」といった言葉が、脚光を浴び、盛んに使われるよう

になったのも日露戦争以降のことである。十九世紀後半、日本を芸者や美の国として理想化するジャポニ

スムが流行したが、日露戦争以降の英国における日本熱もまた、日本礼賛にことよせた英国の改良運動ゆ

えに、第二のジャポニスムとしてとらえられるかもしれない。一九〇八年、武士道と柔術に言及しなが

ら、日本をスパルタのような堅忍不抜の国として喧伝し、英国の若者に「最初に国のこと、それから自分

のこと(‘Country first, self second’)」を訴えたベーデン=パウエルによるボーイスカウト運動などは、そ

の典型的な一例といえよう4。これら柔術や武士道は、日露戦争以前から紹介があったにもかかわらず、

一部をのぞいてさして人々の関心を集めなかった。したがって日露戦争を契機にして、流行と流用が生ま

れたといえるのだが、それでは英国のどのような土壌がそれを可能にしたのか。本稿は、エドワード朝の

教育改革と国民道徳の模索に注目し、その流用の過程をみてみることにしたい。

1 日露戦争の報道 『タイムズ』紙の社説を中心に

『タイムズ』紙の社説を中心に

ロシアとの戦争で日本がどれだけ好意的に英国で報道されたのか、そして日本側も外国人記者をプロ

パガンダとして利用しようとしたかは、お雇い外国人の医師として東京に滞在し、各国の要人に会い、多

くの新聞に目を通していたベルツの日記に端的に現れている。旅順陥落の目前、一九〇四年十二月三十日

に、開戦この方を振り返って、以下のように記している。

イギリスの新聞の日本礼賛は、はてしがない。アメリカの方はもう、ずっと控え目になった。だが、

日本も如才なく、アングロ・サクソンの世界で、じゃんじゃん警鐘を打鳴らすことを心得ている。雑

誌類は、日本関係の記事で一杯だ。そして米・英の日本特派員は、今や全くの賓客扱いで、記事の提

供をうけている5。



Page 3

- 179 -

もっとも、外国人記者を「賓客」扱いして

東京で接待するばかりで、なかなか従軍させ

ないことにいらだつジャック・ロンドンのよ

うな記者もいたことは、ベルツ自身も記すと

おりである6。一九〇四年三月十六日号の『パ

ンチ』誌掲載の「東洋の知恵」と題された挿

絵が巧みに示唆するように(図 1)、「検閲」

と書かれた白布で従軍記者を目隠しする日

本の軍人は、背後からスカーフで旅人を絞殺

するインドの伝説的な暗殺集団サグを連想

させ、油断のならない警戒感をうかがわせる

7。事実、日本側の報道規制と広報活動は必ず

しも功を奏したとは言い難いのだが8、それ

でもなお英国の新聞の「日本礼賛」が続いた

ことは確かである9。この引用からまもなく

して旅順が陥落し、一九〇五年の一月八日、

ベルツは、「イギリスの新聞のように、あん

なに持ち上げたのでは、日本人の間に、危険

な自惚れが頭をもたげざるを得ない。この結

果を、いつかイギリスは思い知ることだろう」

と不吉めいた予言を日記に書き付けている

10。

図 1

そこで、ここでは『タイムズ』からの例を

いくつかみてみることにしよう。その社説はしばしば政府を代弁するものとして知られるが、『タイムズ』

の社説では日露戦争の経過はほぼ日をおかず詳細に報道され、おおむね好意的に評価されていた。たとえ

ば開戦に際して、仁川沖でのワリヤーグとコレーツへの攻撃と沈没についてロシアはその「奇襲攻撃」を

非難したが、『タイムズ』の社説は早くも一九〇四年二月十一日において、その問題は単に「アカデミッ

クな興味を引くものでしかなく」、「現代の慣習においては、正式な宣戦布告というものは、規則というよ

りも例外にすぎない」と擁護した11。旅順陥落についての社説では、勝算が低いにもかかわらず、難攻不

落の砦を攻撃しつづけた「粘り強さ」と「壮烈な勇気」をたたえ、日本は、西洋の文明をわずか一世代の

あいだに完璧に習得したことに驚嘆してみせている12。そうした精神主義の強調は、日本海海戦について

の社説でいっそう明らかとなる。両艦隊が同等の戦力であったにもかかわらず、日本側の被害が少なくロ

シア側が全滅したのは、戦術や技術が原因なのではなく、「すみずみまで行き渡った義務と愛国の心」す

なわち「武士道の産物」というのである13。

また、ヨーロッパ大陸を中心にしてくすぶり始めた黄禍論についても反論しており、むしろ日本の文明

化をたたえることで、等しく列強として処遇すべきことを「タイムズ」の社説は幾度にもわたって訴えて

いる。そもそも二千五百年にわたって、外国と「混血」することなく島国で生活してきた民族と、ほかの

「反動的なアジア諸国」とは「同じ血」に属するとすら言い難く、日本が黄色人種を統率することはきわ

めて考えにくいと、ある社説は述べている14。この黄色人種とは主に中国を念頭においてのことなのだが、

旅順陥落直後の社説では、その中国と日本とは、「白人」同様に「人種の相違点」や利害の不一致が多い



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- 180 -

ことを改めて指摘し、氾アジア主義や黄色人種による連合がいかに幻想の産物であるか強調している15。

このように、こと社説に限ってみても、一貫して『タイムズ』紙は日本の文明化を強調し、その高い士気

をたたえ、黄禍論のような否定的な論調に対して、日本とほかの東洋諸国との相違点を指摘して反駁を繰

り返したのだった。

これはまた日本政府の公式見解、とくに広報大使として英国に派遣された末松謙澄の主張とほぼ一致

している。事実、旅順が陥落してまもなく、末松がロンドンで演説した「歴史的にみた中国の膨脹」16は、

その詳細が『タイムズ』で紹介されたが17、中国を、元来、平和な民族国家とみなす主張は別として、日

中の差異を強調するあたりは、末松の講演の四日前に掲載された『タイムズ』の社説とも共通するところ

であった。このように英国の新聞が日本と同調していたことは、同じ頃、ロンドンにいた劇作家の島村抱

月が『読売新聞』ほかへ書き送った記録からもうかがえる。抱月は、明治三五年春から三七年秋まで英国

に留学していたのだが、日露戦争がボーア戦争と同じくらい耳目を集めていて、その報道に一喜一憂する

こと「殆んど英国みづから戦ッてでもいるようである」と感激している18。新聞では『タイムズ』を先鋒

に、「殆んど凡て、及ばん限りの力を日本の弁護に尽し」、ヨーロッパ大陸の新聞が黄禍論を訴えるのに対

しても「一々弁駁争議の労を吝まず」、この友誼にはしかるべく報いなければならないというのである19。

とはいえ、日本の善戦や勝利の理由を技術より、もっぱら士気にばかり求める論調が、日本よりむしろ

英国で多かったのは、大きな相違点といわなければならない。ここには、物量の差からすぐに圧勝できる

と信じられたボーア戦争での苦戦を経たところ

が大きい。というのも、日清戦争においては事情

がまったく異なっていたからである。たとえば

新渡戸稲造は『武士道』(一九〇〇)において、

日清戦争に日本が勝利できたのは「レミントン

銃とクルップ砲」を持っていたからにすぎない

といった、とくにアメリカで顕著な技術決定論

に対して、それらの武器を使いこなした「武士

道」という精神の重要性を強調しなければなら

なかった20。それに対し日露戦争に際しては、む

しろ英国の方で武士道によって日本の善戦が説

明されたのである。二十世紀の戦争においては、

新渡戸が述べた「武士道」のように、宗教や階級

に縛られない国民道徳が兵士の育成に効果があ

り、それをボーア戦争に苦戦した英国は取り入

れるべきではないのかと、国家再生の鍵として

期待をもって報道されたのである。こうした風

潮を示す初期の一例が、風刺画雑誌『パンチ』の

一九〇四年七月六日号に掲載されている(図 2)。

その絵は「愛国心の勉強」と題され、着物姿の日

本人女性が、旅順の地図を前に説明するのを、英

国人の象徴であるジョン・ブルが神妙に聞いて

いる様子が描かれている。その台詞には、

図 2



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- 181 -

ジョン・ブル「あなたの陸軍の組織はすばらしくうまくいっているようだけど、いったいどうやった

らそんなことができるんだろうか?」

日本「それはとても単純なことです。わたしたちのところにいる男たちは、国のためならいつだって

自分の身を捧げる覚悟ができています。だから現に、あんなふうに実行できるんですよ。」

ジョン・ブル「それはうまいやりかただね。私も国で試してみることにしよう。」21

とあって、国のために自己犠牲を厭わない兵士たちへの関心が、やや皮肉まじりながら、うかがうことが

できる。この絵より数ヶ月前、二月から五月にかけての旅巡港閉塞作戦が、その失敗にもかかわらず、『タ

イムズ』紙などで、その広瀬武夫の死とともに好意的に大きく報道されていたので22、そうした風潮をふ

まえてのことであろう。『タイムズ』紙の社説にみる精神性の強調は、こうした『パンチ』誌の疑問と連

続していることがうかがえる。

一方、その旅順で決死の作戦に従事していた桜井忠温は、皮肉にもボーア戦争でのボーア人の善戦こ

そ、士気が物量に勝る一例だと考えていた。桜井は、そのベストセラー『肉弾』(一九〇六)で、

世界の最大強国として自負せる英人が、弾丸黒子の地に割據したるボア人と戦端を開いた時には、世

界は挙りて、是れ恰も鉄槌を以て卵子を砕くが如きのみと信じいた。然るに意外にも、英軍の敗報連

りに天下を驚かしたは何故か。乃ちボア人の勇敢慧敏なると、彼等の祖先以来英人に対する歴史的敵

愾心と、又其スパルタ的精神教育とに基因したことは云うまでも無い23。

と、記している。桜井忠温の『肉弾』は、宣伝もかねて翌一九〇七年に本田増次郎とアリス・ベーコンに

よって英訳が出版され、新渡戸の『武士道』同様に、そこから各国語訳が刊行された。自己犠牲をいとわ

ないどころかむしろ誇りに思う「忠君愛国」ぶりは、英国にも衝撃を与えたが、当然のことながら、この

一節は英訳されることはなかった。

2 柔術と武士道の流行

柔術と武士道の流行 レピントンの「国民の魂」を中心に

レピントンの「国民の魂」を中心に

ボーア戦後の英国で、桜井にならえば日本の善戦には「スパルタ的精神教育」に起因するのではないか

という同時代の見立てを裏書きし、「武士道」を用いて明確に説明して、英国でその言葉を広めた最大の

立役者こそが、『タイムズ』の軍事通信員チャールズ・レピントンである24。たしかに一九〇四年の八月

から十月にかけて、日本陸軍は宣伝と参考資料として、新渡戸の『武士道』を戦地で従軍する各国記者に

配布した記録が残っており、それらの影響を看過することはできまい25。裳華房から寄贈とあるので、一

九〇二年に刊行された英文の『武士道評論』かと思われるが、新渡戸の『武士道』はよく読まれたものの、

従軍した作家ジャック・ロンドンの例が示すように、むしろ黄禍論へと転用されたところがあった26。一

九〇五年に新渡戸は、『武士道』の増補改訂版を刊行するが、それが日露開戦から約一年経過した後手の

作業であることが示すように、それだけ関心が高まった素地そのものは、新渡戸によるというよりも、そ

の著作を援用したレピントンが形成したといっても過言ではない。新渡戸に依拠しつつ武士道を英国で

宣伝したという点では、日本政府の意を受けたアルフレッド・ステッドや末松謙澄も講演と著作で力説し

たが27、各種評論や記事への言及や引用といった影響力から考えると、あいにくレピントンに及ぶことは

なかった。



Page 6

- 182 -

そのレピントンの記事「国民の魂」は、前述の『パンチ』の「愛国心の勉強」から約三ヶ月後、ちょう

ど陸軍が従軍記者に新渡戸の『武士道』を配布していたころの一九〇四年十月四日付け『タイムズ』に掲

載された。同紙で戦況を細かく報道してきたレピントンは、こうした日本兵の誇り高い勇気と国家への忠

誠は、武士道に起因すると説明したのである。スパルタになぞらえながら、日本の武士道は「政治的にみ

れば国民道徳のシステムとして実に称賛すべき内容」であり、英国はもっと見習うべきではないかと提案

したのだった28。後日、『タイムズ』紙には賛否両論の投書が掲載されたが、深く記事に同意した意見の

方が多く、さらにミース卿が提案する投書に従って、記事はパンフレットとして再発行されることになっ

たのである29。この「国民の魂」は新渡戸について言及こそしていないものの、内容からみて『武士道』

をふまえて書かれているのは明らかである。

いうまでもなく、「武士道」という言葉を英語圏に広めたのは新渡戸の功績である。チェンバレンが「新

宗教の発明」(一九一二)で批判したように、新渡戸の造語とまではいえないまでも、新渡戸の『武士道』

刊行以降、日本の近代化と愛国心とを説明する原理として重宝されたことに変わりはない30。ただレピン

トンの記事の重要性は、もともとアメリカに向けて書かれた『武士道』を、ボーア戦争での英国の苦戦と

いう、衝撃がさめやらぬ当時の関心にそって要約し紹介した点にある。その結果、いわば『武士道』はよ

り身近なものとして、より切実な問題意識とともに、英国でいわば再発見されたのである。そんなレピン

トンの影響はまた日本にも及んでいた。彼の連載記事は、時を置かずして『時事新報』に森晋太郎によっ

て訳載され、それらすべてが各種情報資料として切り抜いて保管された31。連載終了後には、斉藤実はじ

め軍人諸家の序文を多数冠してタイムス軍事投書家稿『タイムス日露戦争批評』(時事新報社、一九〇五

年)として一書にまとめられたのだった。「国民の士気」と訳された「国民の魂」の記事は、『時事新報』

掲載のころから評判となり、たとえば読売新聞ではやや「買い被りの嫌い」があるため、背に「冷汗」す

る読者がいないことを祈ると論評した記事があるほか、出征兵士に小冊子として頒布を願い出た例まで

あったという32。こうした事例からも、日本よりもむしろ英国で、日本の善戦は武士道に起因すると報道

され、その結果、日本でも忠君愛国の原理として武士道への注目がいっそう高まったことが考えられよ

う。

そもそも、日露戦争時の英国では、愛国心により国民国家を改良し、大英帝国の臣民として自覚を高め

ようという機運が高まっていた。レピントンの「国民の魂」を小冊子にするよう提案したミース卿は、ち

ょうど日露開戦からほどなく、ヴィクトリア女王の誕生日である五月二十四日を祝い、学校では国旗を掲

揚し、国歌を斉唱すべきだという「帝国記念日(Empire Day)」運動を始めていた。日本の愛国教育と、

日本兵の「自己犠牲と忠誠心」とが参照されたことはいうまでもない33。辛くも勝利したボーア戦争につ

いていえば、終戦の翌年一九〇三年五月には、戦争に志願した一万一千人のうち、八千人が兵士として不

合格になったことが報じられ、この事実は英国人が「人種的退化」に陥っている例として、その後も衝撃

のみ一人歩きして繰り返し言及されることになる34。一九〇四年には、「身体的劣化」についての合同委

員会報告書が提出され、「人種的退化」自体は否定されるのだが、未成年の喫煙や飲酒を規制し、ドイツ

やスウェーデンの制度を参考に、身体を訓練する必要性が改めて強調されることとなった35。

柔術もまた、こうした外国の身体文化への関心が高まりのなかで、日露戦争とあいまって注目されたの

である。すでに一九〇〇年に、谷幸雄が自分よりも重く大きな男をねじ伏せる柔術によって、ミュージッ

ク・ホールのような娯楽の場で人気を呼んでいた36。それが、前述の島村抱月によれば、「時節柄ではあ

り、日本の柔術というものは疾くから西洋人間に評判のものであるため、何れの新聞もこのたびの戦争に

因みをもたせて盛んに書き立てた」と、「柔術家の谷君」が見世物だけではなく言論の場でも話題になっ

たことを記している37。小国のボーアに苦戦した英国が、日本がロシアに善戦するなかで国民効率化の鍵



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- 183 -

として柔術に注目し、武士道はその説明原理として見いだされたのである38。実際、その谷による模範演

技の写真が満載された『柔術』という書物の序文では、柔術を武士道によって説明しながら、レピントン

の「国民の魂」を引用している39。複数の日本人が英国で柔術や柔道を教え、流行に棹さしたことは興味

深い現象ではあり、彼等の功績もさることながら、こうした同時代英国の文脈は見逃すことはできないだ

ろう。

その点で示唆に富むのは、パンチの一九〇五年五月二四日号掲載の図 3「財政の柔術」である40。財政

問題で対立するジョセフ・チェンバレンに対し、握手して受け入れると見せかけて、組み伏せるアーサ

ー・バルフォア首相を二枚の続き絵で描き、いわば寝技の政治を風刺した一枚である。ただ正確には柔術

ではなく、おそらく『ピアソンズ・マガジン』一八九九年四月号に掲載されたバーティツの図解(図 4)

を参考にしたものだろう41。逆版になっているのは、おそらく挿絵画家のサンボーンが線をトレースした

からだと思われる42。そしてこのバーティツとは、その名が示すように、バートン=ライトが、和服

左 図 3 上 図 4

を前提にした柔術を洋服の英国人の護身術へと作り替えたバートン流柔術の意味である43。武士道の流布

にレピントンが大きな役割を果たしたように、柔術においても、英国の土壌に根付くよう仕立て直した媒

介者の存在が大きかったことを示す一例といえるだろう。

このように広範な影響が示すように、レピントンは「国民の魂」で、先のボーア戦争での苦戦の記憶と、

現在進行中の日露戦争の報道を巧みに組み合わせた。小国のボーアに苦戦してしまうほど、まともな「宗

教戦争」や「愛国」戦争ができなくなってしまった英国と、「広瀬中佐の精神」とを対比したのである。

そして、そうした名誉と勇気を尊ぶ武士道が、スパルタのように過去から連綿と続いている例として、鎌

倉権五郎景正(Gongoro)の故事に言及している。権五郎は眼に矢が刺さったまま奮闘したが、あとでそ

の矢を自分の顔に足をかけて引き抜いた男を、武士の顔を足蹴にしたとして責めたと紹介しており、それ

だけ武士は名誉を重んじるため、場合によっては「切腹(harakiri)」を厭わないことを強調したのであ

る。レピントンは柔術にこそ言及していないものの、こうした歴史的な故事の恣意的な援用は、ボーア戦

争後の英国で、主にドイツを参考にしながら、初等教育で体育と歴史の必修化にふみきったことと関係づ



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- 184 -

けることができる。このとき、本来、一部の上層階級がたしなむスポーツと歴史が、国民全体を規律し、

統合する科目へと大きく変化したのである。従って軍事目的に沿って体育が導入されたように、歴史もま

た国民としての一体感と愛国心を育成することが期待された。たとえば、前年の改正教育令に基づいて一

九〇五年に作成された『教師手引書』では、複雑な史実よりも「偉人の偉業」に重きをおくことが指示さ

れている44。新渡戸の『武士道』では、やや不正確な歴史的挿話や故事が史実と創作を混同したまま参照

され、過去との連続性も恣意的に強調されており、その点についてはすでに発表当時から批判があった

45。「国民の魂」でも同じ傾向がみられるが、そうした国民の歴史と尚武の強調は、むしろ英国の教育改

革が目指すものと多く共通していたのである。

第二の点は、宗教問題にふれずに国民道徳を涵養することが武士道には可能ではないか、と指摘したこ

とである。もはや「宗教戦争によって燃え上がるような息吹を感じることが皆無」な英国にとって、「宗

教ではなく哲学である」武士道は、キリスト教の各宗派の争いや違いの問題を超えて、「規律と団結を促

進し、個人を国家に埋没させ」ることができるのではないか、と述べたのだった。英国の場合、「騎士道

(chivalry)」では階級の壁を乗り越えられないが、本来、「侍(samurai)」のものだったにもかかわらず国

民道徳へと浸透していった「武士道」ならば、宗派や階級の対立を超えて、国民を一致団結させることが

できるのではないかというのである。こうした関心は、同時代の英国において、宗教教育と道徳教育との

関係をどのようにすべきか、激しく論争が繰り広げられていたことと切り離すことはできない。一九〇四

年の改正教育令で、宗教教育とは無関係の道徳教育が初等教育に導入され、「子どもたちに勤勉、自律、

そして困難な状況に直面したときのための勇気ある忍耐を養い、高貴なものに対する崇拝、いつでも自己

を犠牲にする覚悟、純潔と真実を求めて努力することを教える」よう求められたからである46。新渡戸は、

『武士道』の序文で、宗教教育のない日本で道徳教育はいったい可能なのかと、否定的に質問されたこと

が執筆の動機となったと記しているが47、日露戦争のころの英国では、まさに宗教教育とは別個の道徳教

育が模索されていたのである。

このようにボーア戦争後の英国では、宗派間の相違を超えるような愛国心や自己犠牲の精神の涵養が

試みられており、レピントンの「国民の魂」は当時の風潮に寄り添う形で、武士道が一つの手本になるこ

とを示唆したといえる。それだけでなく、日露戦争中にレピントンは、膨大な通信記事を『タイムズ』紙

に掲載したが、そのなかで精神力の重要性を幾度となく強調している。一例を挙げると、レピントンによ

れば、奉天の会戦の勝利は、日本の「いかなる犠牲も厭わない」「団結」によって、つまり、この「道徳

の力(moral forces)」こそが「物量の力(material strength)」を「二倍、三倍にした」ためにもたらされた

としている48。レピントンの通信記事は、「国民の魂」を含めて、『極東での戦争』という七百頁近い書物

として一九〇五年に刊行されたが、そのなかでも、こうした「道徳の力」は繰り返し力説されている。前

述したように、『タイムズ』の社説は、日本海海戦の勝利を「武士道の産物」としたが、その際に、東郷

平八郎の信号旗は「ネルソン提督のものとほとんど同一」だったと記してもいる49。東郷が、日本海海戦

を百年前のトラファルガー海戦に重ね、ネルソンが「イングランドは各人が義務を全うすることを期待し

ている」という一節を念頭において、「興国の荒廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と信号を送

ったとは、すでに当時からよく言われてきた。これまで見てきたように当時の英国は「各人が義務を全う

する」体制を模索しており、それゆえ東郷の信号旗は、彼が望んだ以上にネルソンと重ねられ、英国民へ

の呼びかけのように翻訳されたことは無理からぬことであったと思われる。



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3 武士道の流行と同時代の風刺

武士道の流行と同時代の風刺

こうした英国の武士道熱を、外交辞令も含め、もっともはっきりと示す例が、リーズデール卿こと、A・

B・ミットフォードによる『日本へのガーター使節団』(一九〇六)である50。日露戦争での「業績」から、

明治天皇は英国最高の勲章であるガーター勲章を授与されることになったが、明治天皇が渡英できない

ため、コンノート公爵家のアーサー王子を団長とする使節団が組織された。使節団は、一九〇六年一月に

ロンドンを出発し、二月に横浜港に到着し、明治天皇のほかにも、大山巌や東郷平八郎にはメリット勲章

を授与するなど、高官たちに勲章がばらまかれることになった。このメリット勲章は一九〇二年に国王エ

ドワード七世が創設した特別の勲章で、ボーア戦争の英雄フレデリック・ロバーツなど陸海軍の大御所が

受賞してきたが、大山や東郷はこの「名誉勲位」を受けた最初の外国人であった51。『日本へのガーター

使節団』は、そのときの様子を日誌形式で記録した報告書である。

ミットフォードは、一八六六年から一八七〇年まで、英国公使館の書記官として日本に滞在したことが

あり、その滞在を生かして書かれた『古い日本の物語』(一八七一)は、忠臣蔵の物語を紹介するなど、

西欧世界に日本事情を周知させる代表的な書物となった。とりわけ、神戸事件によって滝善三郎が切腹す

る様子を詳細に記録した一文は英語世界に「ハラキリ」を定着させたほどに名高く、たとえば新渡戸は

『武士道』で切腹を説明する際に、簡にして要を得ているためとして、ミットフォードの記述をそのまま

掲載している52。そのミットフォードが、この『日本へのガーター使節団』で日本の「武士道」を幾度と

なく褒めそやし、これこそがいまの日本を築いたと記しているのは、驚くに当たらないだろう。武士道で

は「死ぬことこそが重要な点」であり、日本の女性は息子たちが国のために身を捧げることを厭わないと

賞賛し53、それだからこそ日本には国のために身をなげうつ無数の「広瀬」がいるというのである54。少

年少女の一糸乱れぬ行進については、先のロバーツ陸軍元帥がみたら喜びそうだと特記し、女性による柔

術の演技に感心しているだけでなく、江田島の海軍兵学校で柔術を体育として賞賛しているのも55、一九

〇四年に「身体的劣化」についての報告書を提出する合同委員会で、英国の初等教育で体育と軍事教練と

の関係をどうすべきか、各国の例をひきながら、かまびすしく議論されていたことを念頭においてのこと

だろう56。徴兵制度についても、「近年、階級間の格差を撤廃したこと」によって、「侍」のみが兵士にな

れた旧時代と異なり、優秀な将校や将軍が生まれたことを注記している57。これもまた、レピントンと同

じく、「武士道」が本来、武士階級のものだったにもかかわらず、兵士全体に共有されていることへの関

心に根ざしている。

これはもちろん、日本で読まれることを意図しての外交辞令ということでもある。実際、ミットフォー

ド個人は、「古い日本」にこそ愛着はあっても、新しい日本については、むしろ警戒と失望を感じていた。

たとえばわずか六年前、一九〇〇年の義和団事件に際しては、日本政府が西欧列強と足並みを揃えること

に好意的な『タイムズ』紙に反論して、義和団事件を契機にして、日本が反ヨーロッパのアジア同盟を構

築する可能性を挙げ、警告の投書を掲載していた。ほんの二、三十年前の日本では義和団と同じような

「狂信的」攘夷が多くみられたことを忘れるべきではなく、「侍」という言葉こそ消え去っても、「古い日

本の精神である大和魂」はまだ死ぬことなく、その「攻撃的な」国民性とあいまって、いつ火山のように

爆発するか知れたものではないと、警告したのである。この投書の影響は大きく、フランスでは黄禍論を

引き起こす契機となり、日本の外務省も問題視するところとなった58。つまり、三国干渉を賢明な措置と

して言及し、中国と日本の連合の危険性を訴え、「満州」が日本の支配下におかれないようロシアに期待

すべきと述べていたミットフォードが、日本へのガーター使節団随行を命ぜられたことになる59。従って、

これはあえてガーター勲章と共に送りこみ、日本賛美の報告書を書かせることで、日本政府に対する警戒



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心を解いて懐柔しようとした行為といえるかもしれない。ただミットフォード自身はといえば、一九一四

年の著作『日本の遺産』では、再び、日本が中国とアジア連合を率いる危険性について激しい筆致で記し

ており、持論を変えた様子はない60。いずれにせよ、ミットフォードの事例は単なる歴史の皮肉というよ

りも、日本や武士道への高い評価が、英国国内の事情と密接に連動しており、武士道の評価はその脅威と

も表裏一体であったことを示す端的な例といえよう。

実際、英国の日本礼賛は、列強のなかでも特有のものであった。冒頭で引用したベルツが記すように、

アメリカには冷ややかな意見も多数見られたからである。例えばニューヨーク・タイムズ紙は、ロンド

ン・タイムズの「国民の魂」が持ち上げる「武士道(bushidu [sic])」は、しょせん「日本を危険にする狂

信主義」にすぎず、日本が体現しているのは、「近代西洋文明の理念」にほかならないと、醒めた批判を

している61。例外的ながら、英国でも似たような批判があった。日露戦争時、日本批判は事実上不可能だ

ったと回想した G・K・チェスタトンは、同じ趣旨の指摘をやんわりと、しかし、特異な逆説と警句を好

んだ保守派文人らしい筆致で記している。一九〇六年八月二五日号の『絵入りロンドン新聞』に寄せた一

文で、彼は、日露戦争後の柔術の流行をこんなふうに風刺している。

日本の勝利を、日本人は大いに誇るべきだ。しかし、それは日本的方法や、いわんや日本文明にとっ

ては誇るべきことでもなんでもない。今回の勝利は、あくまでヨーロッパの模倣によってもたらされ

たのであって、ヨーロッパをまねなければ勝つことはありえなかったからだ。日本の格闘技とか、何

か日本的なもので日本が勝ったわけではないのである。黒木とクロポトキンは、両国軍が見守るなか

で、柔術の試合などしたわけではない。日本の勝利は、日本の連中が柔術を知っていたのに、ロシア

人は知らなかったからというわけでもない。日本の貴族は刀が二本差しなのに、ロシア人は一本差し

だからといって、何の関係もないのと同じことだ。なのに、勝利のあとには、いつもこうしたファッ

ションばかり流行する。勝った者の衣装、哲学、壁紙が模倣されるのだ62。

実際、当時の英国ではキモノが流行しており63、マダム・タッソーの蝋人形館では東郷や乃木の蝋人形が

並んでいた64。こうしたキモノや武士道、柔術の流行を、チェスタトンは日露戦争での勝利が理由と考え

たのだった65。たしかに、柔術や「哲学」が流行したのは、十九世紀のジャポニスムではほとんど見られ

なかった現象であり、チェスタトンが苦々しく指摘するのも無理はなかったといえる。

一方、柔術については、ついにロンドン警視庁で教えられるに及び、自身も日本へ行ったことのある

E・T・リードが、一九〇五年九月六日号の『パンチ』で、いっそ服装も日本風にしたらどうだろうと、

十九世紀の皮相なジャポニスムとの連続性を指摘するように風刺している(図 5)66。チェスタトン自身

は、柔術とは「普通のレスリングにファウル・プレイを加味したもの」と甚だしい誤解をしているのであ

るが、両者の軽妙な批判から、「日本的方法」が表面的に流行した土壌は共通のものであることが推測で

きよう。ほかにも作家の H・G・ウェルズによる『モダン・ユートピア』(一九〇五)で、ノブレス・オ

ブリージュを担う未来の特権階級が「サムライ」と名付けられているのもその現れである67。これは階級

を横断する国民道徳として武士道に注目したレピントンらとは異なる受容だが、そんな表面的な「流行」

の事例は、他にも「武士道」と名付けられた競走馬がいるなど、枚挙にいとまがない68。

このように「レミントン銃とクルップ砲」で勝利したとささやかれ、新渡戸が『武士道』で弁護しなけ

ればならなかった日清戦争とは違って、英国では日露戦争に際し、あたかも武士道や柔術といった「哲

学」によって勝利したかのように、その精神的側面が強調されたのであった。そしてそれを裏書きするよ

うに、英米へ広報大使として派遣された末松と金子とは、愛国教育の必要性と効果を強調している。末松



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は、一九〇五年二月、金子は一九〇五年四月、それぞれ教育勅語を紹介し、日露戦争において道徳教育が

重要な役割を果たしたことを主張したのだった69。

図 5

一方、東京で主教をつとめていたウィリアム・オードリーは、そうした風潮の一端を担った『タイムズ』

紙に、日本の過大評価は日英双方にとって幻滅をもたらすことになるという手紙を投書している70。しか

し、オードリーが宗教者であることが示唆するように、こうした意見は少数派であった。ボーア戦争後の

英国では、加速した世俗化と産業化のなかで、階級や宗派の差異を超えた国民道徳ないし国民兵の育成を

模索しており、非キリスト教国家の日本はその格好のモデルと考えられたのである。

4 教科書としての日本

教科書としての日本 ヴィヴィアン・グレイの『大英帝国衰亡史』(一九〇五)について

ヴィヴィアン・グレイの『大英帝国衰亡史』(一九〇五)について

ヴィヴィアン・グレイの『大英帝国衰亡史』(一九〇五)について

こうした武士道の称揚にみられるように、日本の事例を引き合いにだして英国の現状に警鐘を鳴らす

風潮を体現するパンフレットが、一九〇五年に出版された。翌年に出された改訂第二版の巻頭と末尾に

は、二十五にも及ぶ各紙書評からの抜粋が並び、その表紙にある惹句を信じるなら、初版は一万六千部を

売り上げたという。これがヴィヴィアン・グレイによる『大英帝国衰亡史』である71。グレイという名は、

ベンジャミン・ディズレーリが書いた最初の小説 『ヴィヴィアン・グレイ』(一八二六)にちなむ。それ

が野心的で弁舌巧みな青年の立身出世を半自伝風に描いた小説であり、その作者が、十九世紀後半に、帝

国主義を積極的に推し進める宰相になったことを考えれば、大望あふれる若い弁論の徒といった意味だ

ろうか。ほかにもいくつかのパンフレットを同じ筆名で刊行しているが、本名はエリオット・エヴァン

ズ・ミルズということと、オックスフォードで歴史を学んだということのほか、詳細は不明である。

とはいえ、この『大英帝国衰亡史』は、エドワード朝の英国、特にトーリー党が抱いた懸念を見事に要

約した資料として、ハインズが言及して以来72、英国史研究ではつとに注目されてきた。また、題名がギ



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ボンの『ローマ帝国衰亡史』をふまえているように、エドワード朝においては大英帝国がしばしばローマ

帝国と重ねられたが、その典型的な一例としてもよく知られている73。その影響という点では、ベーデン

=パウエルが、「もし諸君が 6 ペンスを愛国心のために惜しみなく使いたいと思うなら、明日の朝一番に

『大英帝国衰亡史』というパンフレットを買い求めなさい」74と演説したように、彼の『スカウティング・

フォア・ボーイズ』(一九〇八)から始まるボーイスカウト運動と密接な関係があることも有名である75。

にもかかわらず、この『大英帝国衰亡史』が、出版当時から百年後の二〇〇五年に、日本で教科書とし

て使われているという設定で書かれていることについては、ほとんど触れられることはなかった。筆名に

ヴィヴィアン・グレイとはあるものの、『大英帝国衰亡史』は、二〇〇五年の東京で、とある歴史家が国

民学校用に記した歴史書を英訳したという見立てで書かれているのである。たしかに、大英帝国がローマ

帝国と同じ要因で衰退しつつあることを指摘するのが主眼であるから、日本という設定はあくまで、その

設定でしかないともいえよう76。しかし、いわば他山の石として歴史を用いて、英国が滅び去ったいま、

帝国を維持していく「責務は日本にかかっているのである」77と、若い男女に呼びかける国民学校の教科

書という形式は、前述したエドワード朝における歴史の必修化と無視できまい。

大英帝国が崩壊し、「インドはロシアに、南アフリカはドイツに、エジプトはサルタンの手に落ちる一

方で、カナダはアメリカという鷲の翼の下へ避難し、オーストラリアはミカドの保護領となってしまっ

た」78未来、帝国衰亡の理由が、以下のように各節で列挙される。

1 都会が田園の生活を圧倒し、英国人の健康と信仰とに破滅的な影響を及ぼしたこと

2 二〇世紀のあいだに、英国人が保養地として以外は海を見捨てるようになったこと

3 脆弱と贅沢が進んだこと

4 文学と演劇の趣味が堕落したこと

5 英国人の体格と健康が徐々に劣化したこと

6 英国人の間で知的な活力と宗教的な生活とが衰微したこと

7 国民への課税が増大し、地方自治体がそれを浪費したこと

8 教育制度の欠陥が英国中に横行したこと

9 英国人が自国とその帝国とを防衛することができなくなったこと

このうち第八節の教育の機能不全については、一九〇六年の第二版で増補されたものであるが、見出しに

その内容が要約されていることがうかがえよう。時事的な話題についても、たとえば第五節で、前述した

一九〇四年の「身体的劣化」についての合同委員会報告書が言及されるなど、ローマ帝国衰亡史の見立て

を巧みに盛り込んだパンフレットとなっている。こうしてローマ帝国の轍を踏まぬよう、教育を改善し、

軍を整備し、若者に部分的な兵役を実施する必要を訴えるのである。

そもそもローマ帝国の衰退の理由が盛んに論じられ、それが大英帝国と重ねられるようになったのは、

エドワード朝になってからのことだった。その先鞭をつけたのは、サミュエル・ディルの『西ローマ帝国

の最後の一世紀におけるローマ社会』(一八九八)といわれており79、『大英帝国衰亡史』でも七節の注一

でしかるべく言及がある。本稿との関連で重要なのは、このディルの書物が、新渡戸稲造の『武士道』で

も言及されていることだろう。ローマ帝国滅亡の一因は貴族が商業に従事するようになったためという

ディルの説を、新渡戸は武士が商業を嫌悪したことと対比しているのである80。ここで思い起こされるの

は、新渡戸自身は武士道を説明する際にギリシアになぞらえることはほとんどなく、むしろ「ウルトラ・

スパルタ」という形容詞を否定的に用いていることである81。それにもかかわらず、「国民の魂」のレピ



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ントンを筆頭に、日本やその武士道を賞賛する際に英国では「スパルタ」が肯定的に頻用された。日露戦

争時における日本の評価は、いわば奢侈と退廃のローマと質実剛健のスパルタという図式が、知らず知ら

ずのうちに前提となっていたのである82。

そうした「スパルタ的精神教育」については、「彼ら[英国人]は如何に死すべきかを、われわれ[日本]に

学ばねばならなかった」という一文がある83。これが同時代の英国においてしばしば見られた、国のため

には殉死を厭わない日本兵への驚嘆と切望をあらわしていることは明白だろう。これは、『大英帝国衰亡

史』で部分的な兵役を主張し、健全な市民と健全な兵士とを同一視している点と関連している。当時、兵

役については、陸軍のロバーツがその導入を熱心に説くなど、激しい論争が繰り広げられており、前述し

たように、ミットフォードが整然と行進する男女の若者を日本で眼にしてロバーツが喜びそうだと記し

ているのは、そんな彼の徴兵制導入論を指してのことであった。このパンフレットを書いたヴィヴィア

ン・グレイことミルズは、第九節でロバーツの改革案を肯定的に言及しているだけでなく、彼の演説集を

編集しており、兵役導入も執筆の動機であったと考えられる。そして当時の兵役導入論者は、容易に予想

がつくように、日本を習うべき例として言及することが多かった。実際、「国民の魂」を書いたレピント

ンもまた、徴兵賛成論者の一人にほかならない84。

しかし、模範はまた脅威でもあった。『大英帝国衰亡史』の冒頭で、同盟国英国の危機に際して、はる

か「極西」まで艦隊を派遣できなかった「日本」の無念が触れられながらも、「オーストラリアがミカド

の保護領となった」ことが語られるのはその一例である。これはつまり、日本は同盟国としては遠くにあ

りすぎて頼りにならないこと、しかし、その急成長は、将来、なんらかのかたちで大英帝国の脅威になる

可能性があるということが示されているのである。その点で興味深いのは、九節の注十四で、英国の平和

はアメリカを含むアングロ・サクソンの連携によって可能になるという一節である。このことは、早くも

日露戦争直後の段階で、日英同盟はロシアの勢力を削ぐための過渡的な同盟であり、日本は将来的に大英

帝国の脅威となりうる存在であるため、最終的に必要なのはアメリカとの同盟であると、著者がみなして

いたことを示している。

5 模範と脅威 ベーデン=パウエルの『スカウティング・フォア・ボーイズ』における日本

ベーデン=パウエルの『スカウティング・フォア・ボーイズ』における日本

このように『大英帝国衰亡史』では、ローマ帝国という過去、そして日本という同時代の帝国が、巧み

に大英帝国再生のプロパガンダとして組み合わされている。そして、模範と同時に脅威でもある日本とい

う存在は、『大英帝国衰亡史』の主張に同意し、何をおいても購入することを勧めたベーデン=パウエル

の著作とも連続している。ベーデン=パウエルは、その著作『スカウティング・フォア・ボーイズ』(一

九〇八)から始まるボーイスカウト運動の創始者として名高いが、そこでは日本が習うべき良い例とし

て、ローマ帝国が避けるべき悪い例として、それぞれ言及されているのである。

ベーデン=パウエルが、公の場で日本に言及したのは、一九〇四年の十一月での講演のことといわれる

が85、その内容は翌月の「イートン・クロニクル」に掲載されている。そこで、ベーデン=パウエルは目

下、進行中の日露戦争に触れ、強国に囲まれた島国という共通点をもつ日本に英国は見習うべきではない

かと述べている。

日本の成功した原因を考えてみるに、そのほとんどは日本人全体にある軍人精神と自己を犠牲に

する愛国心とにもとめられるだろう。(中略)



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どのようにして日本の連中はそんな愛国心を抱くようになったのか。

アッパークラスの少年が、父祖である侍(つまり、日本の騎士)の騎士道を学び、大きくなればそ

れを実践し、さらにはミドルクラスやワーキングクラスに教えたからである。つまり、彼らは子ども

のときに始めているのだ。

われわれのイングランドにも、中世の騎士のなかに振り返るべきすばらしい先祖がいる。しかし、

わたしたちは、彼らのまねをすべきなのに、そうしていない。

もし子どものときに、先祖の愛国心を学び、その名誉と自己犠牲という理想を実践に移し、武器の

扱いを修練すれば、そうしてから同じことをこの国にいるすべての若者に教えるならば、われわれも

日本の連中と同じくらい、どんな外国の侵略にも負けない強国になるにちがいない86。

これは、『タイムズ』紙にみられるような、当時の英国の典型的な日露戦争観であるといってよいだろう。

事実、その素地を形成したレピントンの「国民の魂」は、ベーデン=パウエルの講演の約一ヶ月前、十月

四日に掲載されている。「国民の魂」でレピントンが強調したように、ベーデン=パウエルもまた、騎士

階級にとどまらずアッパークラスからワーキングクラスまで国民全体に浸透した道徳、具体的には自己

犠牲の精神、に注目している。島国という共通点についても、レピントンは、

今日、日本が実行していることは、島国の帝国にとって理想的かつ模範的な戦略であり、この戦略を

もっと学べば、わがブリテンの王冠の下にある広大な領土で戦争を防止することも期待できよう87。

と述べており、ベーデン=パウエルとの連続性がうかがえる。こうした日本理解は、以下の引用のよう

に、『スカウティング・フォア・ボーイズ』でも踏襲されている。

ボーイスカウト組織の目的の一つは、かつて我が人種の道徳におおきな影響を及ぼしていた騎士道

を、現代の英国に復活できないかということである。ちょうど古代の「侍」という騎士たちの武士道

が、いまなお日本を支配しているように、騎士道を蘇らせようというわけである。残念ながら、騎士

道はあらかた滅びようとしている。一方で、日本の武士道は今でも子供に教え込まれており、日常生

活のなかで実践される存在なのである88。

こうしてベーデン=パウエルは、日露戦争から二つの逸話をとりあげている。一つは、「親切」の見出し

で、旅順において、ロシア兵が日本の塹壕に母宛の手紙を金品とともに投げ入れたところ、日本兵はそれ

を開封せずに、上官に報告し、上官が電報でその内容を母親に伝えたというものである。また「勇気」の

項目では、ロシア軍の砦を爆破する際に、その爆弾を押さえて発火しなければならなかったため兵士が自

爆したという話を紹介している89。この二つの挿話は出典が不明だが、後者については、一七〇六年のト

リノの戦いで、地下トンネルで爆死してフランス軍に抗戦したピエトロ・ミカの逸話と酷似しているの

で、広瀬あたりの逸話と混同したのかもしれない90。

武士道を示す逸話としては、『スカウティング・フォア・ボーイズ』以外でも、ベーデン=パウエルは

鎌倉権五郎景正(ただし、“Gorgorro”と誤記されている)の故事を挙げている91。そのとき、レピントン

の「国民の魂」と同様に、権五郎は矢を抜かれたあと、武士の顔を足蹴にしたと責めたと記しているので、

レピントンが参照されたのかもしれない。たとえ直接ではないにしても、武士と日本兵とを連続してとら

える見方はレピントン以降、多く見られたので、こうした同時代の英国の新聞報道などから書き留めたの



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だろう。

一方、スパルタとは対照的に、大英帝国の反面教師として参照されるのがローマ帝国である。一九〇七

年の五月、ベーデン=パウエルはボースカウトの素案の一つを書いているが、その冒頭で、「偉大なロー

マ帝国の衰退をもたらしたのと同じ要因が、今日のグレート・ブリテンでも作用し始めている」というジ

ョージ・ウィンダムの一節を引用し92、その引用をそのまま『スカウティング・フォア・ボーイズ』でも

繰り返している93。そして『大英帝国衰亡史』と同じ論法で、大英帝国がローマ帝国のように若者の退化

によって崩壊することを食い止めるため、以下のように過去の歴史と父祖とを召喚している。

わが帝国の運命は、君たちのような若い世代の英国人[Britons]にかかっている。君たちは大きくな

って、この帝国を支える男にならなければならない。まちがっても、かつてのローマの若者のように、

愛国心もなく無気力なまま、しかるべき責任も果たさず、ぐずぐずしているうちに父祖の築いた帝国

を失ってしまうような、あんな恥ずかしいまねをしてはならない。

君たちの父祖は、身を粉にして働き、苦しい戦いに耐え、そして激しく戦って死んだ。この帝国は、

そうやって君たちのために築き上げられたのである。天上の先祖に顔向けできないようなことはし

てはならない。帝国のためになんの働きもせず、ただポケットに手を突っ込んでぶらつくばかりとい

う姿を先祖に見せるべきではない94。

上記の一節は、レピントンが「国民の魂」で主張し、一九〇五年の教育改革で呼びかけられた歴史を国民

のものとして実感させる修辞の一つの完成形とみなすことができるだろう。

図 6



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図 7

そして国民国家だけでなく、国民の身体を規律する範例としても日本は言及されることになる。大英帝

国の衰退に歯止めをかけるため、日本の禁煙法が学ぶべき例として言及され、健康法として柔術が推奨さ

れるのである95。こうしたロウアーミドルクラスとワーキングクラスを効率的に「改良」しようとする試

みは当然のことながら、諸刃の剣となりうる。ベーデン=パウエルが柔術に興味をもち、それをボーイス

カウト運動に取り入れようとしたのは、上西貞一の模範演技を見てからと考えられるのだが、上西はまた

当時盛んだった婦人参政権運動の女性たちに柔術を教えた第一人者でもあった96。そして『パンチ』では

ウォーリス・ミルズが、こうしたロウアーミドルクラスの少年たちに柔術を教えることで、規律が徹底さ

れると同時に反抗の一因となる懸念を、いちはやく一九〇五年の十二月六日号で描いている(図 6)。見

習いの召使いが執事を柔術で投げ飛ばしてしまい、それを「意見の相違」ゆえとうそぶく少年の姿がそれ

である。ほかにもベーデン=パウエルが『スカウティング・フォア・ボーイズ』の草稿を仕上げるよりも

まえ、一九〇七年の三月十三日号の『パンチ』には、柔術を身につけたパンカーストたち婦人参政権運動

家が議院を妨害しないよう、人形で練習をしておいてはどうだろうかという、E・T・リードの挿絵が掲

載されている(図 7)。もちろんこれらは戯れ言として描かれた漫画だが、ベーデン=パウエルが柔術や

武士道によって強化しようとした父権的な階層秩序が、まさにその柔術によって亀裂が入りかねないこ

とを示唆しているといえるだろう。

事実、柔術が諸刃の剣であったように、武士道が褒め称えられる日本もまた、両義的な存在であった。

『大英帝国衰亡史』と同様に、『スカウティング・フォア・ボーイズ』でも、模範とされた日本は同時に

潜在的な脅威として描かれている。英国の陸軍や海軍を縮小しようとする「政治屋」議員を批判して、ベ

ーデン=パウエルは以下のように警告する。

彼らをこのまま、好き勝手にさせておくなら、将来、われわれはドイツ語か日本語を勉強することに

なりそうだ。というのも、私たちは彼らに征服されてしまうかもしれないからである97。

深刻な脅威を及ぼしていた新興国ドイツに比べれば、日本の脅威は潜在的でかつ距離も離れていたため



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に、改革の対象として参照しやすかったことが考えられる。遠交近攻よろしく、友としての敵のように機

能したともいえるかもしれない。それだけに、『大英帝国衰亡史』でも『スカウティング・フォア・ボー

イズ』でも、日本の脅威は筆をすべらせるようにして書き込まれている。ベーデン=パウエルは、『タイ

ムズ』紙で展開したレピントンの路線に沿って、日本の武士道に対して階級を横断する国民全体の道徳と

いう点で注目した。そして同時代の身体訓練への関心の延長から、柔術にも言及している。愛国教育が目

的である以上、日本の手法が範例として言及されても、それは同時に油断ならない敵となりうるとして警

告するのは当然のことといえるかもしれない。

おわりに

以上のように、英国では、日英同盟という政治経済的な利害のみならず、ボーア戦争後の国民国家の変

革運動のなかで、一つのモデルとして日露戦争における日本の善戦が報道された。その際に精神的な側面

が強調されたのは、ボーア戦争において小国に苦戦させられた苦い記憶ゆえのことであった。『タイムズ』

紙は、その社説においてほぼ一貫して同盟国日本の立場を擁護し、日露戦争を人種的・宗教的対立として

とらえようとする黄禍論に対しては、日本政府の主張と同様に、日本の文明化を強調した。ただ、その社

説において、日本の優勢を技術や物量だけではなく、その古層にある道徳心や滅私奉公の精神にしばしば

帰したのは、日英同盟の利害からだけではなかった。そこには英国の事情が大いに関係していた。日露開

戦の一九〇四年は、「人種的劣化」に関して合同委員会の報告書が提出され、子どもたちを中心とする国

民の身体改善への関心が高まった年でもあった。精神論への注目も、道徳教育を宗教教育から切り離し、

歴史と体育とを必修化して、国を愛し、それに身を捧げる国民を育成しようとする同時期の教育改革運動

と連動している。つまり、英国では、日露戦争と軌を一にして、教育改革と身体改善運動とにより心身と

もに愛国的な兵士の育成が求められていた。一九〇四年から帝国記念日運動を展開したミース卿は、国歌

と国旗とを時に反発を買うほどあからさまな形で敬愛するよう働きかけたが、容易に想像できるように、

日露戦争での日本の善戦は格好の範例として言及されることになった。

新渡戸の『武士道』は、元はといえば日清戦争での勝利を武器の性能に帰するような議論に対して、特

にアメリカの読者を対象にして書かれていた。それを英国の文脈にあわせて紹介したのが、『タイムズ』

紙のレピントンであった。彼は、その「国民の魂」で、武士道が日本の勝利の源であり、武士道が階級を

こえて国民全体の道徳となっていること、父祖と国を敬愛する武士道の教えはキリスト教とも矛盾せず、

むしろ宗派をこえて統合できることを主張した。宗派と階級の相違をこえて、国民としての一体感を創成

することは、ボーア戦後の英国で焦眉ともいえる課題であったため、このレピントンの記事によって、

「武士道」という言葉は、以降、人口に膾炙することとなったのである。たしかに新渡戸の『武士道』あ

ってのレピントンの記事ではあるが、英国での流行に、レピントンによる英国固有の文脈への変換と流用

があったことは特記しておいていいだろう。そして、レピントンが、当時、議論がかまびすしかった兵役

を積極的に導入しようとしていたことも見逃すことはできない。こうした兵役導入論者にとって、日露戦

争での日本兵の活躍は格好の事例として言及されたからである。

そうした規範としての日本へのまなざしを集約するのがヴィヴィアン・グレイによる『大英帝国衰亡

史』である。これは百年後の日本で、滅び去った大英帝国の歴史をもって亀鑑とする国民学校の教科書と

いう設定で記されている。国民の一体感と連続意識とを高めるために歴史が必修化されたことと、この警

世のパンフレットは問題意識を共有しているといってよい。ローマ帝国と大英帝国との衰退を二重写し



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にするのはエドワード朝に盛んな風潮であったが、日本がスパルタのような質実剛健なギリシアになぞ

らえらえたことと、同じ図式で考える必要があるだろう。

この『大英帝国衰亡史』の問題意識を実践に移し、ミース卿と同じ路線にたって、青少年を動員するこ

とにもっとも成功したのがベーデン=パウエルのボーイスカウト運動である。アッパークラスかアッパ

ーミドルクラスの子弟たちの文化であり、ノブレス・オブリージュだったスポーツ、狩り、愛国心を、ベ

ーデン=パウエルは、ワーキングクラスを含めた少年たちに開放し、彼らの「改良」に身を砕いた。その

理念が記された『スカウティング・フォア・ボーイズ』は、擬似的な父のもとで男同士の紐帯を強化すべ

く、父祖への敬愛と同時に、身体の鍛錬として柔術を薦め、現代の騎士道として武士道を参照している。

しかし、こうした日本の存在は脅威と裏腹だったことは見逃してはならないだろう。日露戦争において、

日本の文明化は称賛され、あるいは脅威として認知され、いわゆる列強入りを果たしたとはよくいわれ

る。しかし、その際に、もっともその文明化の成果を喧伝した英国において、日露戦争の勝因があたかも

武士道か道徳心にあったかのような精神主義の風潮が生まれたのである。

そして、柔術や武士道への英国の熱狂は、後にインドという植民地の男たち、そして英国国内の婦人参

政権運動家たちという、ベーデン=パウエルが意図した男たちの共同体とはおよそ別のところで流用さ

れ、帝国の紐帯は次々に切り崩されることになる98。婦人参政権運動家たちの抗議をかわすため、警官は

人形で柔術の練習をしてはどうだろうと冗談として描かれた戯画(図 7)から、早くも三年後の一九一〇

年には、事態は逆転した形で実現することになった。上西に柔術を習ったイーディス・ガラッドが、警官

の人形を使って、柔術で相手を投げ飛ばす模範演技を、婦人参政権運動家たちの大会で披露したのである

99。一九〇五年に執事を柔術で投げ飛ばしてしまう召使いの少年を描いたウォーリス・ミルズは、めざと

くその一事をとらえ、ほほえみながら警官を投げ飛ばす「柔術使いの婦人参政権運動家」を『パンチ』に

描いたのだった(図 8)100。

図 8

一方、日本でも、こうした柔術熱は逆輸入され、精神が物量に勝る好例としてとらえられるようになっ

てゆく。ベルツが危惧したように、こうした英国での過大な日本評価と精神主義の賞賛は、「危険な自惚

れ」と共振してアジア主義を刺激してゆくことになる。英国がその結果を思い知るのはしばらくしての

ち、第一次世界大戦前夜のことであった。



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1 本稿は、『近代世界における国民・ジェンダー規範の形成』(加藤千香子代表・科学研究費補助金報告書, 2010

所収の「日露戦争後の英国における武士道と柔術の流行」を大幅に改稿したものである。

2 G.K. Chesterton, Autobiography (London: Hutchinson, 1936), p.123. なお、チェスタトンにみられるよう

な日本批判や黄禍論の世紀転換期の系譜については、Yorimitsu Hashimoto (ed.), Yellow Peril, a Collection

of Historical Sources 4 vols (Tokyo: Edition Synapse, 2012)を参照。

3 G.R. Searle, The Quest for National Efficiency: a Study in British Politics and Political Thought, 1899-

1914 (Oxford: Blackwell, 1971), pp. 54-60.

4 ほかにも、それまですでに紹介されていた「能」や「俳句」が、その簡素な形式のゆえに再評価されるのも、

サールのいう「効率」化の文芸における一例とみなすことが可能だろう。この点については、橋本順光「失

われた大陸を求めて 俳句と英詩とアトランティス」(英米文化学会編『アメリカ 1920 年代―ローリング・

トウェンティーズの光と影』金星堂、二〇〇四年)を参照。

5 トク・ベルツ編『ベルツの日記 下』菅沼竜太郎訳、岩波書店、一九七九年、二八〇頁。

6 トク・ベルツ編『ベルツの日記 下』、七九-八〇頁(一九〇四年五月二十四日)、一一七頁(一九〇四年七月

三日)。

7 ‘The Wisdom of the East’, Punch, March 16 1904.

8 橋本順光「ジャック・ロンドンと日露戦争-従軍記事から「比類なき侵略」(1910)へ」(日露戦争研究会編『日

露戦争研究の新視点』成文社、二〇〇五年)を参照のこと。

9 トク・ベルツ編『ベルツの日記 下』、一七二頁(一九〇四年九月十四日)には、従軍も観戦もできずスパイ

扱いされたことに憤慨する英国人記者もいたとあるものの、全体としては少数派であった。

10 トク・ベルツ編『ベルツの日記 下』、二八八頁(一九〇五年一月八日)。

11 The Times, Februrary 11 1904.

12 The Times, January 3 1905.

13 The Times, June 2 1905.

14 The Times, May 12 1904.

15 The Times, January 7 1905.

16 この末松の論文は、松村正義『ポーツマスへの道 黄禍論とヨーロッパの末松謙澄』原書房、一九八七年、

一六五-一九八頁に詳細に訳出され、紹介されている。

17 ‘Baron Suyematsu on the ‘Yellow Peril’’, The Times, January 12 1905.

18 島村抱月『滞欧文談』春陽堂、一九〇六年、四四一頁。以下、旧字旧かなルビについては読みやすくするた

め一部改めたところがある。

19 島村抱月『滞欧文談』四三二、四三四頁。

20 Inazo Nitobé, Bushido: the Soul of Japan (Philadelphia: Leeds & Biddle Co., 1900), p.124. 邦訳は矢内原

忠雄訳が岩波書店から一九三八年以降、刊行され続けている。なお『武士道』の出版は、著作権を明記した

箇所には一八九九年とあるが、刊行年にその旨を記した版は見つけられなかった。

21 ‘A Lesson in Patriotism’, Punch, July 6 1904.

22 たとえば‘The Attempt to Block Port Arthur: Admiral Togo’s Report’, The Times, March 31 1904 など。

23 桜井忠温『肉弾』英文新誌社、一九〇六年、一三頁。なお、『武士道』の普及版邦訳を一九〇八年に出版し

た桜井鴎村(彦一郎)は、忠温の兄である。

24 こうした英国における武士道の流行とその消長については、Yorimitsu Hashimoto, ‘White Hope or

Yellow Peril? : Bushido, Britain and the Raj’ in David Wolff et al. (eds.), World War Zero: The Russo-

Japanese War in Global Perspective, vol. II (Leiden, forthcoming) を参照。

25 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C06040682900、大本営 日露戦役「明治 37 年自 6 月 13 日至 8

月 9 日 第 5 号 副臨号書類綴 大本営陸軍副官管」「第 1、2、3 接伴掛 武士道送付の件」(防衛省防衛研究

所)。

26 橋本順光「ジャック・ロンドンと日露戦争-従軍記事から「比類なき侵略」(1910)へ」、二一八頁。

27 アジア歴史資料センター, Ref.B03040670000,「義和団事変後ニ於ケル外国新聞操縦関係雑纂附倫敦ニ於テ

日本ノ利益ヲ代表スル雑誌刊行ノ議ニ付「アルフレッド、ステット」ヨリ申出ノ件」(外務省外交史料館)。

こうした日本の広報戦争において、Japan Weekly Mail 紙の F. Brinkley が『タイムズ』紙に「日本武士道

論」を寄稿して重要な役割を果たしたといわれることがあるが、該当する記事はない。ブリンクリーが日本

政府のいわゆる御用新聞の主筆であったことと、レピントンの「国民の魂」がブリンクリーに言及している

こと、後年、チェンバレンの武士道批判(1912)にブリンクリーが反論したことなどから起きた誤解かと思わ

れる。日本政府による Japan Weekly Mail 紙の懐柔については大谷正『近代日本の対外宣伝』(研文出版、



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一九九四年)六三-六四頁。チェンバレンとの武士道論争については楠家重敏『ネズミはまだ生きている-

チェンバレンの伝記-』(雄松堂出版、一九八六年)第十一章参照。

28 ‘A Soul of a Nation’, The Times October 4 1904.

29 The Times, December 9, 1904.

30 Hashimoto, ‘White Hope or Yellow Peril?’, p.398.

31 たとえば「国民の魂」は「国民の士気」と訳されて保存されている。アジア歴史資料センター, Ref.

A03023691800, 各種情報資料・タイムス日露戦争批評・「タイムスの日露戦争批評(百八)国民の士気(三)」

(国立公文書館) 。

32 「武士道(倫敦タイムスを読む)」読売新聞一九〇四年十一月十七日、および「出征軍人へ書籍寄贈」一九〇

五年五月二十八日。

33 Hashimoto, ‘White Hope or Yellow Peril?’, p.395. 一方、百年後の日本では、英国教育調査団編『サッチャ

ー改革に学ぶ教育正常化への道 英国教育調査報告』(PHP 研究所、二〇〇五年)など、英国の教育政策が

恣意的に参照されることになった。詳しくは橋本順光「国際理解教育とは何か(2):イギリスを事例に」横

浜国立大学教育人間科学部紀要Ⅰ(教育科学)、十一 、二〇〇六、五四―六〇頁を参照。

34 Searle, The Quest for National Efficiency, p.60; Searle, A New England? : Peace and War 1886-1918

(Oxford: Clarendon Press, 2004), p.305.

35 Searle, A New England?, pp.375-6. 委員会の報告は、『タイムズ』紙でも詳細に報道されている。‘Physical

Deterioration: Report of the Committee’ The Times, July 29 1904 を参照。

36 英国における柔術の移入と身体文化の関わりについては、木下誠「D・H・ロレンス『恋する女たち』にお

ける柔術と身体文化」(武藤浩史,・榑沼範久編『運動+(反)成長』慶應義塾大学出版会、二〇〇三年)および

坂上康博編著『海を渡った柔術と柔道-日本武道のダイナミズム』(青弓社、二〇一〇年)を参照。

37 島村抱月『滞欧文談』、四五九頁。

38 「柔術」が英語圏に広まったのは、『東の国から』(一八九五)所収のラフカディオ・ハーンによる一文「柔術」

からであり、ハーンがそこで嘉納治五郎の柔道を柔術と記したことに始まる。そこでハーンは柔術の精神性

を強調し、日清戦争は柔術によって勝利したのだと記したが、日露戦争期に、ハーンの「柔術」はほとんど

参照も引用もされることなく、もっぱら武士道が利用されることになった。詳しくは、橋本順光「ラフカデ

ィオ・ハーンの時事批評と黄禍論」(平川祐弘編著『講座 小泉八雲Ⅱ ハーンの文学空間』新曜社 二〇〇九

年)五四三-五五九頁を参照。

39 Apollo, Jujitsu: What It Really Is (London, n.d.), pp.19-20.

40 ‘Fiscal Jiu-jitsu’, Punch, May 24 1905.

41 E.W.Barton-Wright, ‘The New Art of Self-defence-How a Man May Defend Himself against Every Form

of Attack’, Pearson’s Magazine (7) 1899, p.402.

42 サンボーンは、長く『パンチ』の顔となった挿絵画家だが、ほかにも自身で撮影した写真を流用して大量の

作品を描いたことがわかっている。詳しくは Robin Simon (ed.), Public Artist, Private Passions: The World

of Edward Linley Sambourne (London: The British Art Journal and The Royal Borough of Kensington

and Chelsea, 2001)を参照。

43 シャーロック・ホームズにも登場する ‘Bartitsu’ については、Emelyne Godfrey, Masculinity, Crime and

Self-defence in Victorian Literature (Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2011)が詳しい。

44 井野瀬久美恵『子どもたちの大英帝国』中央公論社、一九九二年、一三二-一三七頁。

45 こうした新渡戸の『武士道』にみる創られた伝統としての構築性については、宇野田尚哉「武士道論の成立

-西洋と東洋のあいだ-」ぺりかん社、『江戸の思想』第七号、一九九七年や、鈴木康史「明治期日本におけ

る武士道の創出」筑波大学体育科学系紀要第二四号、二〇〇一年ですでに指摘されている。

46 梅根悟監修『世界教育史大系 38 道徳教育史 I』講談社、一九七六年、一九八頁、井野瀬久美恵『子どもた

ちの大英帝国』中央公論社、一九九二年、一三一頁。

47 Nitobé, Bushido, preface, v.

48 ‘Cause and Effect’, The Times, March 13 1905.

49 ほかにも The Times, August 22 1905 など、おおむねネルソンを意識した英訳がなされている。

50 Lord Redesdale, The Garter Mission to Japan (London: Macmillan, 1906). 邦訳として A・B・ミットフ

ォード『英国貴族の見た明治日本』長岡祥三訳、新人物往来社、一九八六年、あるいは改題再刊した『ミッ

トフォード日本日記』があるが、老獪な外交官としての側面は十分に触れられていない。

51 君塚直隆「日露戦争と日英王室外交」(軍事史学会編『日露戦争(一)―国際的文脈―』錦正社、二〇〇四年)

一二〇-一二一頁。

52 Nitobé, Bushido, pp.76-80.



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53 Redesdale, The Garter Mission to Japan, p.250. なお、自著を『武士道』で引用した新渡戸に返礼するか

のように、ミットフォードもまた『武士道』から茶道の記述を引用している。同書 pp.198-200 を参照。

54 Redesdale, The Garter Mission to Japan, p.64. 部下を助けに戻って爆死した広瀬武夫については同書

pp.248-249 で説明がある。

55 Redesdale, The Garter Mission to Japan, pp.64-65.

56 P・C・マッキントッシュ『近代イギリス体育史』加藤橘夫・田中鎮雄訳、ベースボール・マガジン社、一

九七三年、一二一-一二四頁。

57 Redesdale, The Garter Mission to Japan, pp.162-163. ただしミットフォードは、旧時代の身分差別が本

当に解消したのかと黒木為楨大将に質問したところ、「いっしょに食事をしようとしない者もいるが、時が

たてばそんなこともなくなるだろうと、考えているようだった」と記している。同書 p.161 参照。

58 大谷正『近代日本の対外宣伝』研文出版、一九九四年、三二三-三二五頁。

59 ‘Japan and the Chinese Crisis’, The Times July 12 1900.

60 E. Bruce Mitford, Japan’s Inheritance (New York: Dodd, Mead & Co., 1914), pp.364-365. ミットフォー

ドはまた、ドイツにおけるアーリア至上主義の理論的根拠となったことで有名なヒューストン・チェンバレ

ンの『一九世紀の基礎』の英訳(一九一〇)に好意的な序文を寄せてもいる。そして奇しくも、彼の孫娘の

一人ユニティは、ナチズムの熱烈な擁護者となり、唯一の孫息子トマスは共感するナチスドイツではなく、

嫌悪する日本軍との戦いを志望し、旧ビルマで戦死することとなった。詳細は、メアリー・S・ラベル『ミ

ットフォード家の娘たち』粟野真紀子・大城光子訳(講談社、二〇〇五年)を参照。

61 ‘The Yellow Peril’, New York Times April 18 1905.

62 G. K. Chesterton, The Collected Works of G. K. Chesterton, Vol. 27 (San Francisco: Ignatius Press, 1986),

p.269.

63 たとえば一九〇五年に限ってみても、縮緬と思しい‘New Kimona Jacket’についての Draffen & Jarvie’s の

広告や、‘Japanese Kimono Jacket’を紹介する Herbert & Sons の広告などが多く散見される。それぞれ

Evening Post, April 10, 1905 及び Gloucester Citizen, June 14, 1905 を参照。

64 英国側の資料では確認できていないが、桜井鴎村(彦一郎)は一九〇八年に東郷と乃木の蝋人形を、田中湄

人は一九〇九年に東郷のを、それぞれマダム・タッソーで見たと記している。桜井彦一郎『欧州見物』丁未

出版社、一九〇九年、三三六頁、田中湄人『最新倫敦繁昌記』博文館、一九一〇年、九六頁。なお、このこ

とは、和田博文ほか『言語都市・ロンドン』藤原書店、二〇〇九年、五一八頁でも一部指摘されている。

65 ただキモノの流行は、ヴィクトリア朝的な身体観からの解放も手伝って武士道熱よりも長く続いた。桜井鴎

村もロンドンでは「キモノ」あるいは「キモナ」が「上着ともなり、外套ともなり、これが近年引つづいて

の大流行」と述べ(『欧州見物』、二六三頁)、田中湄人も「所謂キモノはウエスト、エンドは勿論、市内の

所々にて見本棚に飾れるを認む」(『最新倫敦繁昌記』、一二五頁)と指摘している。一方で、田中はロンド

ンの本屋にある日本物といえば、「大隈伯の開国五十年史が一番目に立ち肉弾は最早廃りて買手なく」ほか

寥々たる状態とも報告している。ちなみに桜井鴎村が大隈の命を受けて欧州を訪問したのは、この『開国五

十年史(Fifty Years of New Japan, 1909)』の出版交渉のためであり、弟の『肉弾』を英訳した一人である本

田増次郎ともロンドンで三年ぶりに再会している(『欧州見物』、三頁および九三頁)。

66 ‘Banzai!!’, Punch, September 6 1905.

67 何事にも機を見るに敏なウェルズは三年後には、日独による世界戦争という『空中戦争』(一九〇八)を発

表している。Hashimoto, ‘White Hope or Yellow Peril?’, p.394, pp.398-399.

68 その三歳馬「武士道」は、J・A・ロスチャイルド所有だった。もっとも、戦績はさしてよくなかったようで

ある。たとえば The Times, April 23 1908 を参照。

69 平田諭治『教育勅語国際関係史の研究』風間書房、一九九七年、第四章第一節「日露戦争下の広報外交活動

と教育勅語」を参照のこと。

70 William Awdry, ‘The Character of the Japanese People,’ The Times, October 2 1905.

71 Vivian Grey [Elliot Evans Mills], The Decline and Fall of the British Empire ... Appointed for Use in the

National School of Japan ... Tokio, 2005 (Oxford: Alden & Co.; London: Simpkin, Marshall, Hamilton,

Kent & Co., 1905). なお、この『大英帝国衰亡史』の本文は、初版との異同を含めて、橋本順光「The Decline

and Fall of the British Empire (1906)とその抄訳『英国衰亡論』(1906)の復刻及び解題」横浜国立大学教育

人間科学部紀要Ⅱ(人文科学)、七、二〇〇五年、で復刻した。なお、以下の記述は、上記解題と一部重複す

るところがある。

72 Samuel Hynes, The Edwardian Turn of Mind (Princeton: Princeton University Press, 1968), pp.24-5.

73 Donald Read, Edwardian England (London: Harrap, 1972), p.150 と Norman Vance, The Victorians and

Ancient Rome (Oxford: Blackwell, 1997), pp.234-5 および南川高志『海のかなたのローマ帝国』岩波書店、



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二〇〇三年、三一頁がそれぞれ、エドワード朝においてローマ帝国が批判的に言及されたことを指摘し、そ

の例として『大英帝国衰亡史』を挙げている。

74 Vivian Grey, The Further Surprising Adventures of Lemuel Gulliver (Oxford: Alden & Co., 1906), back

matter. この演説はやや不正確ながら Hynes, The Edwardian Turn of Mind, p.26 でも引用がある。

75 Elleke Boehmer, Introduction in Robert Baden-Powell, Scouting for Boys (Oxford: Oxford University

Press, 2004),xix および田中治彦『ボーイスカウト』中央公論社、一九九五年、二六頁。

76 こうした東洋の視点から英国を風刺した作品は十八世紀からあり、その系譜と変化については、橋本順光

「中国人からの手紙:オリヴァー・ゴールドスミスの『世界市民』にみる中国」『英米文化』 三十、二〇〇

一年、および「Lang-Tung, The Decline and Fall of the British Empire (1881)の復刻及び解題」横浜国立

大学教育人間科学部紀要Ⅱ(人文科学)八、二〇〇六年を参照。

77 Grey, The Decline and Fall of the British Empire, p.49.

78 Grey, The Decline and Fall of the British Empire, p.3.

79 チェインバース編『ローマ帝国の没落』弓削達訳、創文社、一九七三年、一九三頁。

80 Nitobé, Bushido, p.40.

81 Nitobé, Bushido, p.21.

82 十九世紀後半においても、生活の中に生きる簡素な美という近代文明との対比から、日本は古代ギリシアに

なぞらえられることがあった。谷田博幸『唯美主義とジャパニズム』名古屋大学出版会、二〇〇四年の第三

章「古代ギリシアと日本―英国の<日本趣味>の一局面」を参照。

83 Grey, The Decline and Fall of the British Empire, p.10.

84

R. J. Q. Adams and Philip P. Poirer, The Conscription Controversy in Great Britain, 1900-18

(Basingstoke: Macmillan Press, 1987), p.34.

85 田中治彦『少年団運動の成立と展開』九州大学出版会、一九九九年、二九頁。

86 Michael Rosenthal, ‘Knights and Retainers: The Earliest Version of Baden-Powell's Boy Scout Scheme’,

Journal of Contemporary History, vol. 15 (1980), p. 605 および鈴木雄一「ベーデン・パウエルの手紙」若

獅子会会報、第一号、一九九七年、二八頁。両者はともに、ベーデン=パウエルの投書の全文を掲載してい

る。なお後者の閲覧に際しては、スカウティング研究センター事務局の黒澤岳博氏より、格別のご厚意を賜

った。記して謝したい。

87 ‘The War in the Far East’, The Times, February 13, 1904.

88 Robert Baden-Powell, Scouting for Boys, edited with an introduction and notes by Elleke Boehmer

(Oxford: Oxford University Press, 2004), p.212.

89 Baden-Powell, Scouting for Boys, p.216, p.226.

90 Pietro Micca については、ベデカーのイタリア案内記に記載されていたこともあり、英国でもよく知られて

いた。日本でも松岡寿が「ピエトロ・ミカの服装の男」(1881)という肖像画を残している。

91 Baden-Powell, Rovering to Success (London: Jenkins, 1930), p.91.

92 この書簡は、E.E. Reynolds, Scout Movement (London: Oxford University Press, 1950), pp.9-13 に全文が

掲載されている。

93 Baden-Powell, Scouting for Boys, p.295.

94 Baden-Powell, Scouting for Boys, p.278.

95 Baden-Powell, Scouting for Boys, pp.277-8, p.216, p.226, pp.197-8, pp.188-9 など。

96 Yorimitsu Hashimoto, ‘Soft Power of the Soft Art: Jiu-jitsu in the British Empire of the Early 20th

Century’, in Shigemi Inaga (ed.), The 38th International Research Symposium: Questioning Oriental

Aesthetics and Thinking: Conflicting Visions of ‘Asia’ under the Colonial Empires (Kyoto : International

Research Center for Japanese Studies, 2011), pp.69-80.

97 Baden-Powell, Scouting for Boys, p.289.

98 こうした経緯の概観については、Hashimoto, ‘Soft Power of the Soft Art’を参照。また橋本順光「黄禍論と

ジェンダー-柔弱から柔術へ」(加藤千香子編『ジェンダー史叢書五 暴力と戦争』明石書店 二〇〇九年)

二〇一-二〇三頁でも簡単に触れている。

99 Hashimoto, ‘Soft Power of the Soft Art’, p.77.

100 ‘The Suffragette That Knew Jiu-jitsu’, Punch, July 6 1910.

http://kokusai.kanto-gakuin.ac.jp/column/column-229/


国際文化学部教員コラム vol.19

2010.02.04 比較文化学科 岡田 桂


女もすなるJiu-Jitsu


日本の伝統的な武術である「柔術」(Jiu-Jitsu)を、100年以上昔のイギリス人女性たちが
熱心に学んでいたといったら、少し意外でしょうか。



実は、柔術は19世紀末から20世紀にかけて、イギリス社会で大きなブームを巻き起こしました。
特に日露戦争後、英米では、「身体の小さな者が自分より大きな相手を投げ飛ばす」柔術というものが、
「小国日本が大国ロシアを倒す」という比喩とあいまって、一般人にも非常に熱心に受け入れられました。




しかし、この「身体の小さい者が、より強い相手を倒す」という柔術の機能は、当時、
低い社会的地位に甘んぜられてきた女性、特に参政権を求めて闘った婦人参政権運動家たちを
特に魅了しました。当時の婦人参政権運動は非常に激しく、時には警官や男性たちによって、
女性たちの集会が暴力的に解散させられることもありました。そこで、活動家の女性たちは
自らの護身のために柔術を習い始めたというわけです。



この時期、婦人参政権論者を指す「suffragettes(サフレジェッツ)」と「Jiu-Jitsu(ジュージュツ)」を
組み合わせた「Jiu-jitsuffragettes」という造語が生まれたほどです。

日本の女性による組織的な柔術や柔道の実践が1920年代以降であることを考えると、
20世紀の初頭、既に遠い異国の地イギリスで女性による柔術が花開いていたことは、
新鮮な驚きといえるかもしれません。柔術という文化が、海を越えてその意味や価値を
徐々にずらしながら、異なる文化圏で定着したという興味深い一例です。



※写真1. ミセス・ロジャー(エミリー)・ワッツの著作より(1906年)
※写真2. ミセス・ガーラッドのデモンストレーション(1910年)



(比較文化学科 岡田 桂)

https://slideshowjp.com/doc/802856/%E5%A5%B3%E3%82%82%E3%81%99%E3%81%AA%E3%82%8B-jiu-jitsu%EF%BC%9A-%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B8%96%E7%B4%80%E5%88%9D%E9%A0%AD%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9

http://mephistopheles.hatenablog.com/entry/2015/10/15/000000


Suffragette



Suffragette Official Trailer #1 (2015) - Carey Mulligan ...

10月に公開される映画のうち,もっとも楽しみにしていたのがこれ,キャリー・マリガン主演にヘレナ・ボナム=カーターやメリル・ストリープが助演で脇を固めるSuffragette。Facebook上ではアイルランド女性史協会の委員をつとめる友人が「金曜の夜,私たちと一緒に見に行きましょう」とイベントの告知をしていたのだが,女性史家たちと一緒にサフラジェット映画を見に行き,あまつさえそのあと語らうだなんてそんな恐ろしいフライデーナイトがあってたまるかと縮みあがったので,今日ひとりで見に行った。誤解のないように書いておくと,私も一応女性史家である。ただし,非常に気が小さい部類の。

勘違いされている例をよく見かけるので最初に明記したいのだが,「サフラジェット」とは20世紀初頭の婦人参政権運動の参加者で,それも戦闘的手段に訴えた人々のことである(これに対して,平和的な手段によるべきだと主張していた人たちは「サフラジスト(Suffragist)」と言う)。メリル・ストリープ演じるエメリン・パンクハーストをリーダー的存在とし,"Deeds not words(言葉でなく行為で示せ)"のスローガンのもと,ショーウィンドウを割るなどといった破壊活動を行うことで示威的に政治的主張を行った。年齢制限12Aだったので割と楽観していたのだが,凄惨な暴力シーンこそないとはいえ,警官隊に蹴散らされるシーンやら強制食餌(force feeding)のシーンなどはなかなか堪えるものがあり,見終わってげっそりと疲れた。

にわか女性史家としては,全体的にとてもよくまとまっていたし,ひとつひとつのシーンに象徴的な意味があって,婦人参政権運動史をコンパクトに学ぶことができるという点に満足した。将来,授業で非常に使える映画になるであろうことは間違いない。特に,この映画ではエミリー・デイヴィソンの死も取り上げられているのだが,事故なのかそれとも抗議の自殺なのかはっきりわかっていない彼女の死をきちんとその通り描いていたのには感動した。エミリーはパンクハースト夫人の言葉である"Never surrender, never give up the fight(絶対に屈しないで,絶対に闘いをやめないで)"という言葉を言い残してダービー競馬のレーストラックへと入っていくのだ。つまり,この言葉が決意表明にも遺言にもとれるのである。素晴らしい。他にも,それこそ前述のハンストとそれに伴う強制食餌やら,サフラジェットたちが護身術として柔術を習うところ*1などがきちんと描写されており,そうそうそれそれ!と快哉を叫びたくなるところがとても多かった。

しかしその一方で,ここはもう少しきちんと掘り下げてほしかったと思うところが一点あった。そしてそれは私の歴史研究の根本姿勢にも関わる点だったので,ここできちんとまとめておこうと思う次第である。それはつまり,なぜワーキングクラスのモード(キャリー・マリガン)が「過激」な政治活動に身を投じるのかということだ。

この映画の主人公であるモードは洗濯工場(laundry)で働く女工で,夫のソニーもまたこの工場で働いている。ある日モードはクリーニング済みの洗濯物を配達しにいく道中で,サフラジェットたちがショーウィンドウを割りながら「女性に投票権を(Votes for women)」と叫ぶ場面に遭遇する。その中には工場の同僚であるヴァイオレット(アンヌ・マリー・ダフ)の姿があった。活動家であるヴァイオレットはモードを集会に誘うようになる。ある日ウェストミンスターで開かれる婦人参政権運動についての公聴会に職場から代表1名を送ることになり,モードは代表のヴァイオレットに同行することにするが,当日ヴァイオレットは夫に受けた暴力がもとで人前で話せる状態ではなくなり,急遽モードが代役をつとめることになる。ロイド=ジョージをはじめとする閣僚たちはモードの言葉に真摯に耳を傾ける風を装うが,公聴会の結果は「却下」であった。これがモードを活動に参加させるきっかけとなった出来事である。

しかし,政治的であれ文化的であれ,なにか運動に身を投じるのは圧倒的にミドルクラス以上の階級の人々が多い。たとえばこの映画ではヘレナ・ボナム=カーターが演じていたイーディス・ニューがその典型である。ニュー本人は教師だったのだが,*2この映画では医師の資格を持ち,夫とともに薬局を経営している設定になっている。彼女はロンドン大学で医学を修めている(壁に卒業証書がかかっている)が,ロンドン大学医学部は20世紀初頭,はじめて女性に門戸を開き,さらに学位取得を認めた数少ない高等教育機関のひとつである。つまり彼女は当時のイングランドで望みうる最も高度な教育を受け,さらにその過程で経験した様々な不平等から,女性の地位の低さを身をもって知ったことによって政治活動に身を投じるようになった人物である,と察することができる。また,一瞬しか出てこないがパンクハースト夫人も同じであり,さらに彼女らの政治活動に協力的な夫がいる(いた)というところまで共通している。つまり,これらの女性たちは,金銭的にもまた精神的にも,政治活動を行う「余裕がある」人々なのである。しかしモードやヴァイオレットは違う。このレビューに詳しいが,モードやヴァイオレットは家事使用人を持たない身分なので,何よりも妻として母として家族の面倒を見なければならない。モードは夫と息子が1人いるだけなのでまだいいが,ヴァイオレットには何人も子供がいて,さらに夫には暴力を振るわれている。こんな状況で,政治活動に身を投じようと思うだろうか?もし思うのだとしたら,ただ「それが善いことだから」という理由だけで運動に参加するだろうか?

もちろんモードやヴァイオレットがワーキングクラスであるということは,この映画で非常に重要な意味を持っている。それは彼女らの置かれた状況が,そのまま当時の女性の置かれた隷属的な状況を象徴しうるということである。彼女らは劣悪な労働環境で,男性に比べて不公平な労働条件で*3働かざるを得ず,さらにそこでは卑劣な工場長(監督?)から日常的にセクハラを受けており,家庭では家族の面倒を見る役割を一身に背負う。また夫との間に問題が生じた時,子供の親権は父親にあるので一切子供とは関われなくなる。その上,それこそブルデューの「再生産」の話になるが,モードの母も同じ洗濯工場で働いていて大やけどを負って亡くなったという話があったり,さらにヴァイオレットの娘マギーも同じ洗濯工場で働いていたりと,どれほど悪い環境であろうと,基本的に,それも何世代にもわたって,抜け出すことはできないのである。しかし,悲しいことではあるが,人は麻痺するものである。そういう状況に生まれ,そういう状況で生活してきた時間が長ければ長いほど,その状況を疑問視することもなくなり,こういうものだとあきらめて生きていくようになるものである。それどころかヴァイオレットなど,政治活動への参加が家庭内の暴君である夫の機嫌を損ね,暴力を振るわれる可能性すらあるのだ。しかも,少なくともモードは読み書きに支障がないという設定だったが,*4もしかして識字率も低いのではないだろうか。つまり何が言いたいかというと,モードやヴァイオレットは本来ならこうした運動から最も遠いはずの人々であり,*5こうした人々が運動に身を投じるには人一倍の理由が必要であるはずなのだ。せっかく映画の冒頭,「これは婦人参政権運動に身を投じたワーキングクラス女性たちの物語である」とテロップを出すのであれば,階級とモチベーションの問題をもっと掘り下げてほしいものであった。

私はこの「そもそもなぜ人々は運動にかかわるのか」という疑問から生じたテーマによって博論を書いている。人々が何か物事を始める時,そこには「それが善いことだから」だけではない理由があるはずである。その問題を等閑視して,「善い方向に物事が進むのは当然なのだ」という前提のもとで歴史を解釈するのは,いわゆる発展史観的(近現代イギリス史的には「ホイッグ史観的」)な解釈であって,独善的になりうるので注意が必要である。女性史の叙述にも同じことが言えて,「男性優位社会との果敢な闘争」の結果「あるべき男女平等の世界」へと「必然的に」歴史が動いていくと解釈する傾向はしばしば見られるのではないかというのが私の印象である。それはやはり,早いうちに見直されなければならないのではないだろうか。

そういうわけで,これまであまり取り上げられてこなかった,"Unsung heroines"としてのワーキングクラス女性にスポットを当てたという点はこの作品が達成した偉業のひとつであるが,同時に女性史叙述の上での課題も明らかになった,ということだろうか。しかし,それこそが優れた作品の証左であると考えられなくもない。そもそも,私自身これまでさまざまなところで述べてきたが,*6ワーキングクラスの存在は歴史家にとって,女性史家にとってはなおさら,鬼門なのである。なぜなら彼らは私的な記録を残してくれないからだ。私もその「史料的制約」を言い訳にして逃げてきた感がある。歴史家として人生を歩むのであれば,ワーキングクラスの存在はいずれ,絶対に無視できないものとして直面することになるだろう。この映画はそのアラームであったということかもしれない。実はこの日記を書く前,こっそり論文の1本や2本読んで知ったかぶりをしようと思い,論文データベースで「working class suffragette」などで調べてみたのだが,良い検索結果は得られなかった。やはりワーキングクラスは鬼門ということか。

ところで,最後に疑問なのだが,これ,日本での公開予定はあるのでしょうかね。もし公開されないとしたら,こっちにいて本当によかった。


*1:これなんか比較的近年の研究結果であるように思うが,よくぞまあ反映したものだと驚いた。

*2:ちなみに女性教師とサフラジェットの親和性については,この間新刊紹介を書いたこちらの本に詳しいのでぜひどうぞ。先日も申しました通り,紹介記事は11月発刊の『女性とジェンダーの歴史』に掲載していただく予定です。


In Search of the New Woman: Middle-Class Women and Work in Britain 1870?1914

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作者: Gillian Sutherland
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*3:公聴会でモードは「女性は週13シリング,男性は週19シリング」と述べていたが,これは現在の通貨価値に換算して女性は週約5000円,男性は週約8000円である。ちなみに通貨価値の換算にはこちらの英国国立文書館HPにあるCurrency Converterが非常に有用です。

*4:劇中,刑事に手紙を書いていたり,エミリー・デイヴィソンから贈られた本を読んだりしていた。

*5:トムスンが『イングランド労働者階級の形成』で描いたワーキングクラス像と異なり,むしろワーキングクラスの人々は政治的に保守的である例も多く,しばしば保守主義者に取り込まれたという研究結果もある。詳しくはこちらを参照。日本のネトウヨやドイツのネオナチとかにもほぼ同じことが言える。


プリムローズ・リーグの時代―世紀転換期イギリスの保守主義

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作者: 小関隆
出版社/メーカー: 岩波書店
発売日: 2006/12/08
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*6:たとえばここ。


my (id:Mephistopheles) 1年前



http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/338.html

「100年前の海外でのジュージュツ写真集(3)」  武道・武術全般

100年以上前、日本人柔術家は海外に雄飛し、イギリス、ヨーロッパ等で柔術を教えました。講道館柔道が海外に広まったのは、その後になります。
そのような経過があり、現在でも欧米では「ジュード-」同様に、「ジュージュツ」の語が使われています。(英語ではジュージツとも表記される)

過去の柔術家の写真を掲載します。

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女性のためのフィジカルトレーニング(柔術ブック)

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足への攻撃は効果的

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「パンチ」誌 1910年7月号

100年前、イギリスで女性参政権の活動をしている女性活動家のグループが日本人に柔術を習っていたという事実があります。

素手で自分より力のある相手を制する技術である柔術は、活動を弾圧してくる警察との小競り合いで、かなり有効に働いたようです。
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