投げ技を一本勝ちにしてしまった講道館 武徳会 国際柔道連盟 柔道の競技としての矛盾

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2009-06-07
レスリングから見た柔道1 ~競技か流派か~
テーマ:レスリングの考え方

このブログは柔道関係の方もご覧になっているそうなので、この内容を書くかどうか迷ったのですが、私なりの考え方ということで掲載することにしました。
 
 「柔道がいつからレスリングになったんだ」こういう言い方がされるようになってから大分立ちます。私も柔道をやっていたのでその気持ちは分かるのですが、レスリングをやるとやっぱり柔道の見方はちょっと違うのではないかと思うことがあります。
 
 まず本質的に殆どの人(柔道関係以外も含めて)が勘違いをしているのは、柔道という「競技」を「流派」で捉えようとしているという点です。この両者の違いは前にも書きましたが、競技は「ルール」で中身が決まるのに対して「流派」は技術体系の総称である、という点です。
 背筋をピンと伸ばして綺麗な姿勢から一瞬にして相手を投げ伏せる、そういう技術が柔道なのだ、という考え方です。ではその技術体系は一体何なのか、という話になるととてつもなく長くなるので控えますが、要はそういう技術体系が柔道であってそれを外れてはならない、だからレスリング流を苦々しく感じるわけです。
 

 確かに競技として発展している柔道も元々は体系化された技術をを競い合えるようにルールが決められたわけですから、その技術を無視することは出来ないでしょう。しかしルールは最終的に技術を出しやすいような条件整備までしかできませんから、その枠の中でならば何をしても良いのです(但し、北京五輪以降は組まないと反則が取られるようになりましたが)。柔道がスポーツ競技として世界的に普及した以上はそれが現実です。
 流派の発想にこだわるのであれば、「JUDO」という「競技」の中で、流派としての「日本伝講道館柔道」の技術を試すという考え方になればよいのです。要は競技の場は「個々の流派の試し合い」、そういう発想になれば全てが収まります。本当に最高の技術体系だというのであれば、その技術で全ての相手を打ち負かせばよいのです。
 

そもそも明治の時代に「学士柔道」と揶揄された嘉納治五郎率いる講道館派が勢力を伸ばしていったきっかけは、西郷四郎等いわゆる四天王達が警視庁武道大会で圧倒的な強さを誇ったからです。その大会は無論一流派内の小さい戦いではなく、様々な流派が競っていたはずです。現代の競技柔道に置き換えれば、各国のスタイル、あるいはレスリングやサンボを基盤とした流派があって、そこに立ち向かう「講道館柔道派」、そういう発想といったらよいでしょうか。


 どんなに「流派」としての柔道を広めるといっても、世界には様々な格闘技があって、その人達が「競技」として柔道に参加してくる以上、「流派」的側面がぶれてしまうのは仕方がありません。まして今のオリンピックは政治やら利権やら生涯の保証やら様々なものが絡み合っている舞台なのですから、ルール内において勝つために一番得意な手段を取るのは当然のことでしょう。流派としての柔道がスポーツ競技としての柔道に変わっていく過程は様々な要素が複雑に絡みっていますが、現状では国際柔道が「競技」を前提としている以上、日本もそこを前提としていかなくてはこれからも今までと同じ議論の繰り返しになるように感じます。(続く)

http://ameblo.jp/wrestlewrestle/entry-10275895241.html

2009-06-07
レスリングから見た柔道2 ~立ち技一本の理想と寝技との矛盾~
テーマ:レスリングの考え方

 以前に、柔道とレスリングの違いは立ち技をどう考えるかにある、と書きました。レスリングもそれなりに立ち技を重視してはいますが、フォールが目的である以上、やはり本質は「寝技への繋ぎ」です。
 一方、柔道は完全に立ち技一本を目指しています。「きれいな柔道」という言い方は立ち技に対して賞賛する言葉です。裏を返せば立ち技一本が寝技を断ち切ってしまうので、どうしても寝技軽視の傾向が出てきます。やればみんな強いんですけれどもね。しかし、柔道は立ち技と寝技を完全に分けて練習しますから、実践での有用性が限定されてしまう点は否めないでしょう。
 

 嘉納治五郎は寝技や当て身も含めた技術体系を作ったにも関わらず、どうして立ち技一本にこだわったのでしょうか。嘉納は剣術のように一瞬にして相手を仕留める技術を柔道の美学として求めたという考え方は出来るかも知れません。廃刀令後の世に柔術を体系化しようとしたこととけっして無関係ではないようにも思います。また、近世以前の組み討ち的技術体系が実践武術としてどういう意味を持っていたのかということもあるでしょう。
 しかし、柔道の立ち技一本と寝技を同時に採り入れたことはどうしても矛盾を生み出しています。
 
 中でも私が解せないのは、立ち技で投げ飛ばした後に、投げた方が半回転をして下になってしまうことがあるという点です。内股で一本を取った時に特に多いですよね。レスリングだったら投げで3点、返して2点、で下手をすればそのままフォール負けです。つまり投げた方が負けてしまうのです。
 格闘技は相手を不利な状況に追い込むのが基本ですから、相手を投げた後に下になってしまうような技術を当たり前のように勝ちにしてしまうのは明らかに格闘技の本質からはずれています。そこに対して誰も異議を申し立てないのはなぜなのでしょうか。柔道は寝技一本もあるのです。少なくともサンボのように完全に立った状態のみを一本とするくらいの配慮はすべきかと思います。
 これを考えれば明らかなとおり、立ち技一本は結果として寝技の技術を柔道全体の技術体系から分断してしまいました。旧制高校や帝大柔道部が力を入れた寝技主体の柔道(高専柔道)やそれに付随する寝技への引き込みを柔道規則上否定したこともそれに拍車をかけたといえるでしょう。
 
 結局のところ、立ち技一本と寝技の関係を融合しきれなかった点が講道館柔道の流派的な弱点として現代に現れた、そのように私は捉えています。タックルが寝技の展開を前提とした技だとすれば、立ち技一本で終わることを前提とした柔道はそれに対応しきれなかった。それは一つの技術的欠陥である、とも言えるかも知れません。無論、個人的に対応出来ている人はいくらでもいますけれどもね。
 現在逆輸入された形の「柔術」はその辺りの本質を明確に我々に気付かせてくれました。それは、寝技ありの格闘術なら投げた後も技術は続くし、寝技に引き込むこともありだし、組まない技術だってありだ、という点です。
 
 では「立ち技一本」とは一体何なのでしょうか。総合格闘技が隆盛を誇り、逆輸入の柔術スタイルが日本に広まりつつある今、柔道は立ち技一本の意味をどのように考えるべきなのか、改めて捉え直すべき時期に来ているように感じます。

これは私の全く個人的な考えですが、競技としての柔道(JUDO)は、まず寝技をバッサリ切り捨てた立ち技だけの種目(立技柔道)を一つ作り、一方で別に、現在の柔術に近いルールの種目(総合柔道)をもう一つ作ることが望ましいように思います。そうすることによって、限定された立ち技の卓越した技術は真に意味を為しますし、寝技の技術も更に高まりを見せるはずです。
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