沈まぬ太陽






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小説「沈まぬ太陽」のモデルとなった、日航労組元委員長 小倉寛太郎氏の海外辺地たらい回し人事の経緯を、吉原公一郎著「墜落」(大和書房)より抜粋させていただき、ご紹介します。
 



小倉寛太郎氏



日本航空の労働組合、いわゆる第一組合と呼ばれる労組は、1951年11月に結成された日本航空労働組合(日航労組)と、日航労組から1954年9月に分離・独立した日本航空乗員組合、日本航空整備株式会社の従業員で組織された日本航空整備労働組合(日整労組)であった。(この日整労組は63年10月の日航・日整の合併後、会社の行った分裂工作によって少数組合となり、同じく分裂させられた日航労組と66年8月に統一することになる)

日航内で自立した労働組合運動がはじめて成立するのは、1961年に小倉執行部(日航労組)が誕生してからである。では、それ以前の日航労組と会社側との関係はどうであったのか。

① 組合の三役人事は、前執行部があらかじめ会社側と相談して決め、たとえば1960年度の吉高執行委員長は61年度の三役人事を小倉委員長、亀川副委員長、相馬書記長とすることを新町人事部長の諒解をとりつけた上で小倉氏に立候補を説得している。このように、執行部人事にあらかじめ会社が介入するやり方は、組合結成以来つづいていた。

② 組合三役の言動は会社の労務担当者がこれを演出するという関係にあり、たとえば分裂前の日整労組の書記長であった中村信治氏は、1965年7月、前年度執行部と会社との最後の労使協議の後、吉高労務課長らに酒食に誘われ、「私の言うことをよく聞いて今後は活動してほしい。そうしてくれれば君の前途は悪くしない」と念を押され、その後も分裂した「民労」と同じ内容で妥結することを求められている。

③ 日航労組の三役ポストは出世コースであり、59年度執行委員の萩原雄二郎氏は62年には人事課長となり、その後現在では常務取締役(労務担当)となっている。60年度執行委員長の吉高氏は62年には労務課長に就任し、その後取締役になっているのである。

 このように、会社との談合によって決められる三役が、会社側の筋書きに従って行動することにより、その見返りとして出世コースに乗るというパターンが「正常な労使関係」とされていたのであるが、それは、日航の路線拡張、事業所の増大にともなって増大していくなかで、慢性的残業をともなう長時間労働や、人員の不足を埋めるため中途採用者と定期採用者・正社員との賃金の格差、臨時従業員の身分、また正社員でも零細企業を含めた「全産業平均」にすぎない賃金水準の低さ-これらの是正を求める一般組合員の要求が充満してくるという矛盾が発生する。従って、従来のように執行部を使って組合員の要求をおさえこむという方式は、必然的に破綻し、1960年の年末闘争で吉高委員長以下の執行部が、年末手当に組合要求を独断で切り下げて妥結したことに対して、オペレーションセンター支部が委員長不信任決議をし、つづく全国大会でも執行部不信任案可決寸前になる。

 このようななかで、61年度の執行委員長のポストを進んで引き受ける者がなく、吉高委員長は勝手に小倉寛太郎氏の立候補届を提出し、既成事実が作られた上で小倉氏は委員長を引き受けることになるのである。

 「昭和36年度小倉執行部において日航労組ははじめて『会社のヒモがつかない』執行委員長を持つことができたわけである(吉高前委員長が、『小倉委員長、亀川副委員長、相馬書記長』の線で人事部長の諒解をとりつけて来た事実は、小倉にとっては委員長職を引き受ける理由ではなく、むしろ吉高氏からの立候補受諾の説得を当初拒否した理由であった。事実、小倉は前述のとおり右「了解事項」に拘束されることなく、規約上の三役指名権を行使し、亀川氏に代えて境栄八郎氏を副委員長に指名したのであった)。

 そして小倉執行部(昭和36年度・37年度)、および境執行部(昭和38年度・39年度・40年度)のもとにおいて、十分な職場討議を経て組合員の要求をまとめ、組合員の立場に立って会社に対し率直に要求を提示し、正当な団体行動権の行使を通じ、あるいはこれを背景として会社と堂々と交渉するという、あたりまえの労働組合の姿が確立されたのである」(1969年3月31日「東京都労働委員会に対する『最終陳述書』」)

 小倉執行部が成立した年、日航労組は時間短縮、労働協約の改訂、年末一時金のアップ、客乗ジェット手当改訂の要求を掲げて初のスト権を確立し、翌年ストに突入している。

 この闘争を通じて1956年10月以来の労働協約の改訂が合意され、新協約には賃金や労働時間などの労働条件の引き上げが当然のことながらもりこまれ、またユニオンショップ制の強化、規約所定の組合各機関の会合の時間内保障等の組合の権利を伸長させたのである。そして、①賃金水準は62年から65年までの毎春闘でのベースアップのつみかさねによって、「全産業平均」から「主要企業平均」の水準に達した。②労働時間の短縮(週43時間を38時間に)、長期臨時従業員全員の正社員化、年休改善、定年延長、生休の一期間二日有給化、③年齢調整(晩学調整)制度と中途採用者の経験調整制度等、今日の日航の労働条件の水準は、そのほとんどが小倉執行部時代の日航労組の活動によって獲得したものであった。

 ちょうど、この時期は日航にとって収益の低下から無配転落、さらに翌年は経営赤字を記録するときにもあたっている。

 日航労組の『最終陳述書』は、次のように書いている。

 会社は、日航労組が小倉・境執行部をいただくことによって御用組合から脱皮し、一般組合員の要求を民主的手続を通じてくみあげ、その要求実現のためにたたかうまともな組合に成長したことに危機感を抱き、日航労組を昔日の御用組合の姿に戻すための数年間(昭和37年から40年)にわたり、あらゆる手段を用いて介入した。介入のパターンは一方において組合執行部を攻撃(①組合役員・活動家に対する人事異動により一般組合員と接触を断つ、②正当な組合活動への大量処分、③これらを推進するうえで障害となる労働協約を廃棄する、④管理職を使って、活動家の役員立候補を阻止する、など)するとともに、反執行部派を育成強化し、これに執行権を握らせるよう画策する(①反執行部派に対する資金援助、②職制機構を通じての役選票よみ等選挙対策の推進、③職制に反執行部的意識を注入するための監督者研修に名を借りた思想教育、④反執行部派に「今の執行部は問題解決の機能を失った」とアピールさせるためのお膳立てとして、団交形骸化、膠着の事態をたえず生じさせる)というものである。そして、足かけ4年にもわたるこの種の介入をやりつくしても、なお御用幹部が多数組合員の支持をとりつける可能性のないことを会社が知ったとき、組合を分裂させるという方向転換が指令されたのであった。



 小倉寛太郎氏が二期つとめた委員長の座を降りるのは1963年6月であるが、日本航空の労務管理がどのようなものであるかを端的に示しているのが、小倉元委員長に対する海外たらい回し人事であった。

 すなわち、小倉氏が委員長の座を降りて本社予算室に復帰して一年にも充たない翌年早々カラチ支店への転勤を命じられ、66年3月にはテヘランへ、70年1月にはナイロビへと、テレックスがたたきだす一片の命令によってつぎつぎに海外をたらい回しされるのである。

 小倉氏に対しては、小倉執行部によって日航労組が初のストライキを実施した1962年当時から、すでに会社首脳部のあいだでは「くびにしろ」という声があり、そのために入社時にさかのぼって、小倉氏の勤怠状況が調査されている。本人が無遅刻・無欠勤であったため目的を果たせず、63年秋には新町予算室長が小倉氏に「おまえみたいなアカがこの予算室にいるのは非常に残念だ。とっとと出ていけ」といった事実さえあった。そして、その翌年早々にカラチ転勤となるのだが、彼には海外支店の総務主任の職務内容をなす経理・財務・調達・人事などの仕事についての経験はなく、しかも当時、組合の会計監査の地位にあり、母親と未成年の弟を同居して扶養中という生活環境の上からも転勤に不向きな条件にあった。従って、このような異動は常識では考えられないことであった。

 日航の「海外在勤員の在勤期間基準」によれば、生活条件の劣悪な「特別地域」における在勤期間は二年とされており、赴任に先だって小倉氏は当時の松尾社長に、「会社の規定では任期二年ということになっているので、二年たったら必ず帰してもらえるのでしょうね」と念をおしている

。これに対して松尾社長は、「二年先のことはわしにまかせろ。悪いようにはせん、必ず責任を持つ」と答えている。

 だが二年後には、支店開設のため総務主任としてテヘランに赴任させよというテレックスに接し、このことで、通常ならばこの人事について事前に本社から相談にあずかっているはずの支店長も、「あなたの問題に関しては私などの及ぶところではない、私にいくらいっても無駄である」と、小倉氏にいったという。

 テヘランに赴任直後、小倉氏は母親の訃報で休暇をとって帰国したが、このとき松尾社長は彼の顔を見るなり「すまん、すまん」といい、「テヘラン支店の開設が軌道に乗ったら帰してやるから、それまで待て」となだめているが、結局この約束も果たされず69年いっぱいテヘラン勤務をつづけさせられたあげく、さらにナイロビへ転勤させられるのである。

 小倉氏がテヘラン支店に勤務していた1968年秋頃、本社人事部長安辺敏典氏が出張した際、小倉氏は「いつ帰してくれるのか」といったところ、安辺人事部長は「あなたが帰っても組合活動をやらない、組合と縁を切るという約束をすれば、それは簡単なんだけれども…」と、組合脱退と帰国とを取り引きする話を持ちかけている。

 このとき小倉氏は、「だいたい会社が組合を分裂させてから、第一組合が非常に困難な状況になっているというのは、外地にいる私も知っております。私がかつて委員長をやっておりましたときに私を信用してくれた人たちが多く第一組合に残って、困難に負けずに頑張っている。そこで男として「私はもう組合をやめましたよ」というようなことがいえると思いますか、あなただったらどうします」と反問して、人事部長の誘いをことわっている。

 ナイロビへの転勤命令は、営業所長と異なり、部下を持たない販売駐在員で、現地人ならともかく、日本人としては前例のない地位におかれたのである。

 文字通りカバン一つでナイロビに赴任したのち、1970年の暮れ、年末年始を日本で過ごすために休暇をとって帰国した際、労務担当の斉藤進専務は、「わしの目の黒いうちには、おまえは帰さん」と断言し、72年3月には、業務実態はほとんど変わらないまま、ナイロビ勤務を長期化させるため、「ナイロビ営業所長に昇格する」という辞令が発せられ、このとき以来、会社は小倉氏が「管理職」になったとして、小倉問題に関する日航労組との団交を一切拒否するという挙にでるのである。

 結局、1972年の連続事故の問題に関連する国会の審議の過程で、小倉問題についての追及もされたことが契機となって、小倉氏は73年10月に、9年7ヶ月ぶりでようやく祖国の土を踏むことができたのである。だが、この間小倉氏が家族と生活をともにすることができたのは、戦乱や教育施設の不備、また支店開設準備には家族を収容する社宅の不備など、さまざまな事情が重なったため、全体の三分の一にすぎなかった。

 たしかに、国会審議の過程で問題になってから帰国できたようなものの、日本航空ではナイロビにつづいて、西アフリカのラゴスへの転勤を“準備”していたというのである。想像もできないような陰湿な報復人事に、日航労組を労働組合本来の姿にたちかえらせた小倉執行部に対する日航の怨念のすさまじさに、なにか“そら恐ろしさ”を感じる。このような日航の異常な“報復人事”は、小倉元委員長に対してだけ行われたのではなかった。

 


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小説「沈まぬ太陽」のモデルとなった日航労組元委員長 小倉寛太郎氏は9年7ヶ月もの長期にわたり、海外の辺地をたらい回しにされました。(“実録”沈まぬ太陽アフリカ編へ)
更に悲惨なのは、乗員組合の役員4名が正当に行われたストライキを違法とされ、これを理由に解雇されたことでしょう。この不当解雇を撤回させるまでに8年2ヶ月の歳月を費やしました。(解雇撤回までの経緯はこちら)
小説の背景となった時代を中心に、日本航空の経営がとってきた労務対策の数々を年表でご覧ください。

 
1951年 日本航空創立

1960~1961年  
日航労組委員長に小倉氏就任

 初めてのジェット機DC-8がサンフランシスコ線に就航、日本人により運航が始められた。会社は外国人乗員をジェット機に乗せないと公約し、国際水準、IASCO(乗員の派遣会社)並にという乗務手当の要求を突っぱねる。組合との約束もあり、比較的賃金も安かったレシプロ機へ外国人乗員を振り向けた。さらに、移行後の穴埋めに外国人乗員追加導入。
 

1962年  
日航労組委員長に小倉氏再任

・会社はミリオンダラー作戦と称し、年々増大する運航直接費、整備費、乗員訓練等の節約に関して「合理化」の諸対策を立てる。

 

1963年   ・乗員不足に困った会社は61年の公約を破り、DC-8に外国人を乗せると通告。組合は機長4人、航空機関士4人に限り認め、争議時には外国人クルーを使用しないという覚書を会社と取り交わす。
 

 12月
  ・DC-8が沖縄上空で訓練中、エンジン2基の脱落事故。
 
1964 年   小倉元日航労組委員長、カラチ支店へ転勤。
 

9月
 
・会社は覚書に違反し、外国人6人をコンベアに乗務させると通告。訓練は既に始められていた。
会社発言「組合員のプロモーションのことを考えて善意でやった」「セーフティキャプテン(教官機長)だから機長でもクルーでもない」「争議時に外国人クルーを使用しないとあるのは協定書の印刷ミスである」

・乗員編成権は会社にあるとし、労使間の解決を見ないまま、カイロ-カラチ間に乗務する航空士を降ろすことを強行した。降ろした航空士をオリンピックによる太平洋線の大増便に当てたかった。

・協定違反や労使慣行無視が相次ぐ。
 


11月
 
・会社、一時金の業績リンク制を提案。

・組合、外国人導入、航空士問題に関し、指名ストライキを決行。
 


12月
 
・賃上げ、年末手当に関して、指名ストライキを決行。

・会社は12月の組合のストに対抗し、違法ロックアウトを行う。
 


1965年

 
  ・会社は、違法ロックアウトを再び行ったり、社長を始め管理職がいろいろな言葉を使って、不当労働行為を承知で組合の切り崩しを図る。
2月   ・CV880が壱岐空港で離着陸訓練中、炎上事故。
 
5月   ・前年11月と12月のストを違法とし、組合役員4人を解雇。(その後の裁判等で、違法はなかったことが明らかにされた。関連ページへのリンク)

・機長懇談会、乗員組合から脱退。
7月   ・日航労組が分裂攻撃を受け分裂、日本航空民主労働組合(民労)の結成。
 
12月  
・日整労組が分裂し、日本航空新労働組合(新労)結成。(民労と新労が合併し、68年に全労ができる。旧日整労組は日航労組と合併)また、客乗組合が分裂独立。これらの新しい組合は生産性向上に積極的に協力する方針を立てる。

・DC-8エンジン火災でオークランド空港へ緊急着陸。
 


1966年
   

5月
  ・会社は被解雇者を次期執行委員に選出しないようにという管理職による干渉を行う。また、争議行為として行っているリボン着用に対し、管理職や機長を使い不当干渉を行う。
 

6月
  ・共産党との関連云々の噂を流すなどして、組合に対する攻撃を更に強める。そしてついに月末に乗員組合、分裂。最終的に第一組合である乗員組合員は被解雇者を含め8名となった。
 
7月  
・運航乗員組合が発足。

 

11月   ・運乗組合、民労、新労、客乗は業績リンク制による年末一時金に調印。
 

1967年
 
 2月に67~72年度の六ヶ年計画が、7月には六ヶ年計画を踏襲した68~74年度長期計画が策定される。これらの計画の前提として、日本出入国旅客数が、7年間に約3倍になると想定し、69年度までは比較的安定した成長を見込むものの、その後、ジャンボ導入やパシフィックケース(PA,NW以外の太平洋線参入)等による供給過剰、競争激化から、相当困難な時期に

なると予想(危機宣伝)。そのための「力の準備」として、後に「伸び過ぎた翼」と批判される、急激な事業規模拡大(6年間で2倍にする機材計画)と、それを支える「合理化」を押し進めていく。
 
5月   ・「合理化」策の一環であるとも言える、職種統合(航空機関士→副操縦士、航空士→航空機関士→副操縦士)と、セカンドオフィサー制度導入を決定。それと同時にSCNと呼ばれるドプラーレーダーを使った自蔵航法を進める。(ドプラーレーダーの精度が悪く、ロランを併用しないと飛べなかった。)

・外国人導入により、飛行機の稼働が上がり、昼間に整備する時間が大幅に減ったため、夜間整備専門の課を設ける。またこの年からエンジンのオーバーホールの間隔を無節操に延ばしていく。


8月  
・全社でZD運動を始める。これは作業者の自覚によって無欠陥の作業を行うことを目指したもので、たとえば整備の現場では、飛行機が1分遅れたらレポートを提出しなければならないようなものだった。
12月  
・会社、運乗組合と「事業計画との関連における乗員計画の合理的推進」「運航業務全般の効率化の推進」を協力する確認書(「合理化」協力確認書)を締結。

 組合を分裂させた会社が、着々と「合理化」を進めていく中で、運乗組合内でも種々の問題について、「与えるばかりで何も得ていないのではないか」という疑問と不満の声が、乗員組合の速報から情報を得た組合員の中で、大きくなりつつあった。

 

1968年   ・会社はひたすら事業規模を拡大し大きな収益を上げていく。乗員不足は更に進み大量の外国人乗員を導入。
4月  
・乗員組合員に対し、機長昇格差別(詳細はこちら)。

・運乗組合、長期賃金協定(3年に一度の交渉のため、業績リンク、労働協約とともに、組合活動を弱体化させる三本柱の一つだった)を締結。

9月   ・運乗組合は労使協議制(システムは現在の経営協議会と同じようなものだが内容は、会社の方針を説明して了承させるという性格のもので、団交を制限し、労使対等でなくす効果があった)に調印。
 
11月  
・サンフランシスコ沖不時着事故。事故原因は、新型機の新しい装置の訓練がわずか1時間半で、クルーが操作に慣れていなかったこと、日本人の機長と外国人の副操縦士間のコミュニケーションの問題とされている。

 幸い死亡事故にはならなかったものの、「合理化」の歪みによる事故がついに起こってしまった。日航は世界で一番安全な航空会社と言われていたが、4月の段階で、過去15年間の全損事故発生率が世界平均の2倍になっており、旅客死亡事故がないと言うだけで、決して安全な会社とは言えない状態だった。
 


1969年

 
  ・整備の現場に、サンプリング方式導入。運乗組合にはポーラー線の2ランディングを提案。(組合は拒否)

1月
 
・労働協約(ユニオンショップ制を含む)についての三労組会議開催。

 労働協約とは、労働条件以外の労使間の基本的な取り決め。組合活動に関する事項、ショップ制、人事に関する事項、争議に関する事項(争議予告についてなど)を含む。会社の提示したものは、

ストを制限し、その他については労組法などの法律並かそれ以下という、組合にとって不利なものだった。
ユニオンショップ制とは、組合を除名された者を会社は解雇しなければならない制度。元々組合の団結を保護するためのものだが、組合の不満封じのため、当時会社の提示したものは、原則として解雇(尻抜けユニオン)とし、実質的に解雇は会社の権限に属する。会社は御用組合を使って会社に都合の悪い社員の処分もできる。
 

7月
  ・運乗組合、ユニオンショップ制についての全員投票を行う。規定投票数に達せず、2回不成立になり、3回目の投票(10月)でユニオンショップ条項が否決される。
 
1970年  

1月
  ・ユニオンショップ導入に失敗した会社はこれをはずした労働協約を提案。運乗組合で行った、この会社提案についての一般投票に不正が発見される。ニセの投票用紙が200票余り(すべて賛成)混ざっており、不正票を除くと有効票が規定投票に達せず、投票は無効となる。

7月
 
・B747就航。ここにも「合理化」が持ち込まれ、以降訓練でシミュレーターによる緊急降下、油圧故障などの訓練を行わないという簡略化されたものだった。

・ユニオンショップ、労働協約締結失敗で焦ったのか、会社は執行部が交替する直前に機長管理職制度導入を強行。

 


12月
 
・運乗組合初の全員組合大会(それまでは代議員大会が最高議決機関)が行われ、「従来のような、組合本来の任務を果たせない労使協調ではなく、労使対等という原点から出発・・・」という運動方針を可決。
 

1971年
5月 ・運乗組合、乗員組合の解雇問題につき、見解を表明。「全ての問題を、機長を含め、全乗員の問題としてとらえるものであり、その方針からも、関係各位におかれましては、従来の経緯をはなれ、早急に円満な解決をはかるため、真剣な努力をされるよう要望いたします。」
 
6月
・運乗組合は、長期業績リンク協定における自動延長はしないことを決定。
 

10月 ・整備士死亡事故。原因は時間に追われ安全措置をとらなかったため。
11月 ・乗員組合は年末要求に初めて安全要求を加える。
・運乗組合は単年度で一時金を要求(ここ数年、創業以来の好業績を上げたが、長期賃金協定、業績リンク導入後、それまで航空三社中一番だった賃金、乗務手当、一時金が最低になった)、会社はこれに対し、団交を途中退席したり、回答の引き延ばしを行う。そして単年度で回答している日航労組と乗員組合に対しては、露骨な差別回答をすることにより、運乗組合を更に揺さぶる。結局運乗組合は長期協定業績リンク制で妥結。
 
1972年

3月

・会社の不当労働行為が国会でも取り上げられ、労働大臣が会社に注意。「幸いにして今日まで日航には、たいした事故はないが、今その話を聞いてみると、不思議に思われるくらい、内部にいろいろな事件が起きている。しかし、航空産業は、まさに安全第一以外にない。このような労使関係が大きな事故につながることがあったら大変だ。・・・」


 


4月
・運乗組合、初の安全要求、乗員組合解雇撤回要求を決定。また、賃金要求に関してはスト権投票を行うことを決定。
運乗組合執行部の解雇撤回要求に対する見解:「この問題を長引かせているのは、同じ職場の乗員組合より分裂した組合(運乗組合)が、口をつぐんで、これまで十分な行動をとっていないことが原因であるとしなければならない。更に考えれば、分裂そのものが、口をつぐんでじっとしていることをねらったものだったからではないでしょうか。」
 

5月

・管理職乗員(機長)2名が、仙台訓練所でスト権投票に対する介入行為を行う。また会社労務が発行するILBだよりを使ったり、委員長に対する個人攻撃などあらゆる手を使って介入を行う。これに対し労働省の課長が勤労部長に、不当労働行為をしないように注意。

 

・羽田空港において離陸時、滑走路逸脱事故。

・運乗組合は介入に負けず、初のスト権を確立(長期賃金協定を拒否し、単年度で要求することに決定)
 

6月
・会社は乗務手当に関する運乗組合との団交を拒否、延期。

・ニューデリーでの墜落事故。
 

9月
・ソウルでの滑走路逸脱事故。

・ボンベイ誤着陸事故。

 会社の安全運航強化対策:「人格面での教育、審査をより厳格に行う」「規定遵守の徹底をはかる」

 

 11月 ・モスクワでの墜落事故。
1973年
    7月 乗員組合員4名の解雇撤回。
 
 10月 小倉元日航労組委員長、海外勤務より帰国。
 

11月
・運乗組合、乗員組合へ再統一。
 
1975年 ・アンカレジでのB747の誘導路からのスリップ事故。
 
1977年
・アンカレジでの貨物機墜落事故。

・クアラルンプールでの墜落事故。
 

1982年 ・羽田沖墜落事故。
 
1985年

8月
・123便事故。
 

9月
小倉氏2度目のナイロビ勤務。
 

12月
・伊藤副会長、山地社長、利光副社長の新体制発足。
 
1986年
1月 ・伊藤副会長、新聞の対談において「まず経営側がかつての分裂労務政策を反省するなど、やるべきことをやらなくてはならない。安全も含めて経営問題の答えは現場にある」と発言。
 
  2月 ・会社は組合に対して副操縦士地上業務の中止を回答。
 
6月
・機長組合発足。

小倉氏、会長室部長に就任。
 


10月
・橋本運輸大臣は伊藤会長に対し、「話し合い」の名目のもとで労使問題に介入。全労幹部との関係が取りざたされていた三塚元運輸大臣も、週刊誌の記者に対し「全労組合のためにやっている」と答える等、全労と政治家の癒着体質も明らかになる。
 
1987年
2月 ・先任航空機関士組合結成。
 
3月 ・伊藤会長辞任。
 
4月 ・日航開発、HSST、ドル先物買い等、不正経理や経営疑惑が明るみに出る。
 
7月 小倉氏、3回目のナイロビ勤務 。
 


この後日本航空経営は、乗員組合と結んだ勤務協定、
送迎協定等を一方的に破棄し、
東京地裁に提訴されました。

この裁判は会社が敗訴し、東京高裁に控訴しています。



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「沈まぬ太陽」乗員版・解雇編
 

会社の思うようにならない乗員組合に対し、会社は組合の役員選挙への介入、脱退工作などの不当労働行為を行い、ついには4名の組合役員を、前年行った2度のストライキの責任追及を理由に解雇しました。

しかし、争議理由、争議予告義務や、争議の規模、態様についてもすべて正当なものと労働委員会や裁判所に認められました。

解雇撤回まで8年もの歳月を費やしたのは、16もの第三者機関の判断が下されるほど、会社が頑なに解雇撤回を認めようとしなかったからです。その間の詳しい経緯を日航乗員小史より見ていきます。
 


「解雇・差別撤回に関する闘い」

運乗成立と組合統一にも触れて

 

‘65年(昭40)4月27日、日本航空は前年(昭39)11月及び12月に乗員組合(以下組合又は第一組合)が実行したストライキは「争議権濫用に当たる違法ストライキであり、これを企画実行した責任者」として、小嵜誠司(おざき せいじ)委員長・田村啓介(たむら けいすけ)副委員長・藤田日出男(ふじた ひでお)書記長・丸山巌(まるやま いわお)教宣部長(何れも当時)の四名を懲戒解雇した。

 

 これに対し一ヶ月後の同年5月27日 、組合は「ストライキは適法に実施された。解雇は無効で社員としての地位を保全せよ」との仮処分を求めて東京地方裁判所(以下地裁)に提訴した。

 同日、機長会は突然、「機長は全員組合から脱退する」旨を声明した。

 

 組合は、提訴以来僅か十ヶ月後の‘66年(昭和41)2月26日、地裁仮処分に勝訴したが、会社は解雇を撤回せず、同地裁に「仮処分異議申し立て」をしたため、組合は直ちに同年3月26日、地裁に本訴を提起した。

 

 一方「機長無し」で頑張り、仮処分裁判に勝訴して勢いづいた組合は、裁判所(司法機関)での判断を基盤にして、同年4月24日「組合役員の解雇は、組合潰しの不当労働行為」として東京都労働委員会(行政機関・以下都労委)に「原職(乗員)復帰の救済命令」を求めて申し立てを行った。

 

 組合は、解雇事件を裁判所と労働委員会、即ち司法と行政の二本立てで闘うことにより解雇の不当性を広く社会に明らかにするという方針をとった。

 

 組合役員を解雇しても、機長を脱退させても活動力の落ちない組合に対して、会社は
‘66年(昭41)7月25日、一部組合員機長を利用して運乗組合を発足させた(注1)。

 

 組合は、会社の激しい分裂攻撃の前に極小組合(組合員8名)に転落し、財政的にも心理的にも辛酸をなめたが、当初からの方針を堅持して闘うなか、分裂から一年後の‘67年(昭42)8月1日、都労委に於いて組合申し立て通り、4名の「原職復帰の救済命令」を勝ち取った。

 

 会社は、弱小組合の「勝利」など意にも介する事なく、命令を履行せず直ちに同年9月13日、中央労働委員会(以下中労委)に再審を申し立てた。≪労働組合法は、再審の申し立てをしても初審命令(本件では都労委命令)は履行しなければならないと定めており、法無視の傲慢な会社姿勢が、後述する「会社に対する過料(罰金)」の原因となる≫

 

 

都労委に於ける勝利にも拘らず、会社と運乗(第2組合)執行部の執拗な介入・差別の攻撃を受けて、組合の活動は低迷気味であったが、‘69年(昭44)を迎え、解雇されていない組合員(4名)らに対する不当差別を都労委に申し立てるなど新たな闘争が加わり、また運乗内では組合民主化の兆しが見え始めた。

 

 これらの状況変化と並行するように、裁判や労働委員会での勝訴が連続した。‘69年(昭44)4月14日には、組合員築野淳司(つくの あつし)・山田隆三(やまだ りゅうぞう)らに対する機長昇格に必要な国家試験の「受験差別」について都労委に救済の申し立てを行い、同年8月18日には救済命令を得た。

 

 さらに受験日確保のため築野組合員は、年次有給休暇(年給)を会社に要求したが認められず、地裁に「年給取得」の仮処分を求めて提訴し同年9月10日勝訴した。

 

 解雇事件に於いては、‘69年(昭44)7月2日、組合は都労委に続き中労委でも、「原職復帰の救済命令」を勝ち取り、二審制を採る労働委員会での闘いは三年余りで完勝したが、会社は同年8月1日、今度は中労委を相手に「命令取消し」の行政訴訟を地裁に提訴した。

 

 同年9月29日、地裁での本訴裁判に於いて組合が完全勝訴、裁判所執行官がバックペイ(賃金未払い分1,800万円)の差し押さえのため、本社及び中央運航所(羽田オペレーションセンター)に出向いた。会社は差し押さえ寸前、自ら全ての金員を組合に支払った。しかし解雇は撤回せず、同年10月11日東京高等裁判所(以下高裁)に控訴した。(会社は「仮処分異議申し立て」も棄却され同じく高裁に控訴した)

 

 翌9月30日、かねて中労委から「会社は原職復帰の命令を履行していない」との報告を受けていた地裁は、会社に対し「中労委命令に従って直ちに原職に復帰させよ」との「緊急命令」を出した。徹底抗戦の会社は直ちに9月25日「緊急命令変更」の申し立てをしたが、同地裁は11月19日これを棄却した。

 

 中労委(行政機関)命令を地裁(司法機関)が支持し、その履行を命じたことは、会社にとって大きなダメージとなった。

 

 会社はこの事態を打開するカギを職場に求め、ユニオンショップ制を含んだ労働協約を運乗と締結することによって、仮に会社が法的に解雇を撤回せざるを得なくなっても、職場が受け入れないという体制をつくり、被解雇者らを排除しようと企てた。

 

 しかし、運乗組合員の反発は強く、大会でユニオンショップ条項については全員投票にかけることが決まって、執行部独断による会社との闇取引は回避された。

 

 全員投票は2回の不成立の後、第3回目で否決されたが、執行部は若干の修正をほどこして4回目の投票に持ち込んだ。

しかし、この投票中、‘70年(昭45)1月21日、205票にのぼる賛成票がニセ用紙によること(いわゆる不正投票事件)が発覚、一部機長執行委員の関与が取り沙汰されるなか、疑惑を感じた組合員らの組合民主化への気運は一気に高まった。

 

 約六ヶ月後の、機長全員管理職制度による機長の非組合員化を予感させる動きでもあった。   

 

 この間、‘69年(昭44)7月11日、会社が撤去しようとした組合掲示板を確保すべく地裁に起こした「掲示板確保」の仮処分で勝訴した。

 

 前述の築野組合員の「年休確保」の勝訴と並んで、会社の無法ぶりを示す例として地裁職員の間でも話題になったという。

 

 緊急命令で追い詰められ、労働協約の改悪にも失敗した会社に、追い打をかけたのが
‘70年(昭45)5月18日、地裁が会社に出した「緊急命令違反」による過料(罰金)200万円の決定であった。(会社はこれを無視「200万円の過料取消」を求めて、同年6月25日高裁に即時抗告した)

 

 翌5月19日、都労委は乗務手当差別に関する団体交渉の開催や、丹羽叡(にわ あきら)・坂井正一郎(さかい しょういちろう)組合員に対する基本賃金差別について組合申し立て通りの救済命令を出した。

 

‘70年(昭45)7月31日、機長全員管理職制度(注1)によって「機長無し」となった運乗は、急速に第1組合と接近し、同年12月23日の組合大会に於いて、「乗員は一つ」の画期的な方針を採択した。

 

‘71年(昭46)3月19日、会社が行った「過料(罰金)200万円取消」の即時抗告を高裁が棄却、会社は直ちに3月25日、最高裁判所(以下最高裁)に「特別抗告」を行った。

 

 同年5月24日、運乗は先の「乗員は一つ」の方針に沿って、「高裁判決に従い、解雇を撤回すべき」旨の見解を公表した。

 

 翌5月25日、地裁は会社に対し「緊急命令違反」による「第二次過料(罰金)200万円」を決定するも、会社はこれを受け入れず、6月初旬高裁に即時抗告したが、二ヶ月後の8月には棄却され、最高裁に特別抗告した。

 

 この結果、第一次及び第二次の過料(罰金)取消の特別抗告と本訴上告の三件が最高裁で係争することゝなった。

 

 

‘71年(昭46)10月23日、運乗は解雇事件での「公正判決」を最高裁に要請、12月12日には第一組合との統一促進のための署名を開始した。

 

 元気づけられた組合は翌年2月26日、都労委に「築野・山田・丹羽・坂井の各組合員を機長候補者として扱え」との命令を求めて救済を申し立てた。

 

‘72年(昭47)3月27日、労働大臣が労使関係の(正常化)について注意喚起するなか、4月26日、運乗は解雇撤回の要求を決定した。

 

 会社はこの要求書の受取を拒否するなど、強硬姿勢を見せたが、かえって会社方針の孤立ぶりが目立つようになった。

 

 同年7月31日、会社は中労委を相手に地裁に提訴した行政訴訟に完敗し、(直ちに高裁に控訴)続いて8月15日、都労委から「築野・山田・丹羽・坂井の四名を機長候補者として訓練しなければならない」旨の命令を受けた。(会社は直ちに中労委に再審を申し立てた)

 

 更に、後述する10月20日の統一ストライキ(いわゆる10.20闘争)に向けて、職場に緊張感みなぎるさなかの9月22日、地裁は会社に対し「緊急命令違反」により「過料(罰金200万円)」(第三次分・合計600万円)を決定した。

 

 会社は前例通り直ちに高裁に即時抗告したが、益々、行政・司法の両面での追求により孤立した。

 

同年10月20日、管理職であった佐竹仁・尾崎行良機長らの脅し(仙台基礎訓練所における“ストライキに賛成するなら機長にしない”など)に屈することなく、賃金要求で初のスト権を確立した運乗と第一組合は、合同闘争委員会の決定により、解雇撤回を含む要求で、統一ストライキを構えた。

 

ストライキは回避されたが、両組合が示威した団結力は情勢を動かし、翌‘73年(昭48)1月26日、最高裁が第一次及び第二次「過料(罰金)取消」の特別抗告を棄却するや、会社は遂に理不尽な抵抗を諦め、全ての係争中の事件(最高裁2件・高裁2件)を取り下げて、3,000日に及ぶ解雇の撤回を表明した。

 

 引き続き、2月3日、先に都労委で救済命令のあった機長昇格差別を撤回させ、中労委に於いて和解協定を締結し、築野・山田・丹羽・坂井の四名は、機長昇格候補者として訓練に入ることになった。

 

‘73年(昭48)7月19日、組合は本社に於いて、運乗執行委員会(委員長・小塚 剛 こづか つよし)同席の下、合同団体交渉の席上で解雇撤回協定に調印した。

 

その後両組合は組織統一のための投票(圧倒的賛成)を経て、同年11月22日の統一を主題とした大会に於いて、統一宣言を採択、歴史的な組合統一を成し遂げ、その名称も「日本航空乗員組合」を継承することゝなった。

 

 機長は、‘77年(昭52)のアンカレッジ牛輸送・クアラルンプールでの各墜落事故、
‘82年(昭57)羽田事故を経て、‘85年(昭60)123便の大事故の後の翌‘86年(昭61)6月12日の機長組合設立まで「機長会」のメンバーであった。

 

 訓練生は、‘79年(昭54)12月15日、組合の働きかけにより全員組合に加入した。 

 


 





以上のように、会社はあらゆる手を使って解決を引き延ばし、挙げ句の果てには公的機関の命令も無視するという暴挙に出ます。
しかし1972年の連続事故後、国会での追及、世論の批判に抗しきれず、解雇を撤回せざるを得なくなりました。
この間の被解雇者の苦労はいかばかりのものだったでしょうか。
御巣鷹山での123便事故のときもそうでしたが、日本航空という会社は事故を起こし尊い人命を失ってからでないとその卑劣な労務姿勢を変えようとはしません。現在も乗員組合の勤務関連問題(東京地裁で会社は敗訴、東京高裁に控訴中)や、機長組合の長時間乗務手当問題などで提訴されています。これらの問題も、事故で人命が失われるまで解決しようとしないのでしょうか・・・。運航の現場では「いつ事故が起きてもおかしくない」という声が挙がっているのです。

 





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「沈まぬ太陽」乗員版・昇格差別編

1965年に組合役員4名を解雇した会社は、翌1966年乗員組合の役員選挙に介入、乗員組合事務所への通路を閉鎖した上、脱退工作を開始しました。その結果、第二組合である日本航空運航乗員組合(運乗組合)を発足させました。脱退工作の武器として用いられたのが機長昇格差別でした。

機長になるためには定期運送用操縦士(ATR)という国家資格が必要ですが、従来はATR受験希望者全員に対し、必要な教育訓練が行われてきました。しかし、会社は乗員組合員のATR受験希望者に対する教育訓練を拒否するという差別を始めました。

このような昇格差別を道具とした分裂攻撃を受け、乗員組合に残ったのは被解雇者を含め、わずか8名となってしまいました。このうち2名に対するATR受験のための教育訓練の実施を要求し、1969年4月に都労委に救済申し立てを行い、8月に都労委は救済命令を発しました。しかし会社は中労委に対し再審査申し立てを行ったばかりでなく、個人でATR学科試験を受けようと有給休暇を申請した組合員に対し、これを拒否して受験を妨害しました。

ATRを取得した後、飛行経験を積み、昇格に必要な飛行時間に達すると機長昇格候補に指名され、路線訓練に投入されます。その後ATRを取得した4名の乗員組合員に対し会社は、4名が昇格に必要な飛行時間に達したのにもかかわらず、機長昇格候補に指名せず路線訓練に投入しませんでした。このため1971年12月、4名に対し機長昇格訓練を実施することを求めて救済を申し立てました。この審問の過程で、会社は機長に要求される人格的資質の抽象論を展開しましたが、4名がその資質を欠いているという具体的な立証が全くできなかったため、都労委は1972年8月、乗員組合の申し立てを全て認め、救済命令を出しました。

会社はこの命令に対し再審査申し立てをしましたが、1972年の連続事故後、世論の批判を受けたこともあり、1973年2月、中労委関与のもとで組合の要求を認める協定書にようやく調印しました。

 


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「沈まぬ太陽」の反響 
 -週刊朝日 VS 週刊新潮・・・日本航空、機長組合の見解-

週刊朝日2000年2月11日号、18日号の2号にわたり “『沈まぬ太陽』を「私は許せない」” と題した記事が掲載されました。(18日号の表題は、“読者が一番泣いた「御巣鷹山編」こそ「許せない」”)
この小説のモデルにされたと思われる方々、特に“悪役”として描かれた方々の不満の声がのせられています。曰く、「俺はそんなことはしていない・・・」「そんな事実はない・・・」
また、18日号の記事の中に囲みで小説の主人公となった小倉元日航労組委員長の声が掲載されています。「作者が膨大な取材の中身を大幅に削除したり、逆に取材で言わなかったことを書いたのは当然であり、それについてあれこれ言われるのは迷惑である」とのことです。

これに対し週刊新潮は2000年2月24日号で、朝日新聞および週刊朝日の愛読者が送った週刊朝日への抗議文と、週刊朝日には取り上げられなかった御巣鷹山事故の遺族の方々の声を中心に反論記事を掲載しました。
主張の内容は、一般の読者は書かれていることがすべて事実だとは思わないであろうこと、週刊朝日の記事には御巣鷹山事故の遺族の声が全く掲載されていなかったこと、そして「実際のモデルはこういう人物だった」「自分はそんな悪人ではなかった」「御巣鷹山には恩地はいなかった」などというコメントを、得々と連ねることに、いったい何の意味があるのだろう。(下線は本文より引用)

 

両週刊誌の記事の中で日本航空の内部にいた人のこんな言葉がのせられていました。

まずは週刊朝日から・・・小倉氏のコメントの一部
「この小説で白日の下にさらけ出された、組合分裂工作、不当配転、昇格差別、いじめなどは、私および私の仲間たちが実際に体験させられた事実です。日本航空の経営側にいた人たちは、(中略)数々の不当労働行為やその他の不祥事を思い出されたらいかがでしょう。人間である限り、そんな事実はなかった、などとはいえないはずです。」

週刊新潮の中から・・・日航OBで航空評論家の楠見光弘氏の提言
「私は、『沈まぬ太陽』という作品は、御巣鷹山で亡くなった520人の声なき声を遺した書であると同時に“戒めの書”であると思います。現在日航は厳しい経営環境に直面していますが、この小説に描かれているような過去を清算し、反省して、将来を展望する糧とすべきではないでしょうか。そのためにも、日航は『沈まぬ太陽』を不愉快なものとして抹殺せず、きちんと向き合うべきです。それがご遺族と国民の信頼を回復し、本当のナショナルフラッグキャリアとして再生する唯一の道でしょう。」

 

しかし、当の日本航空の考え方は(社内誌より)

『本小説は、御巣鷹山事故に関する記述などから、舞台となる会社組織および登場人物のモデルとされる人々が、当社とOBを含む当社社員など実在の人物であることが連想され、この著作によって会社と一部個人のイメージ・名誉が著しく傷つけられており、遺憾である。
作者は巻末において「事実を取材して小説的に再構築した内容」と付言しているが、この小説が弊社をモデルとしたノンフィクションであるという意図ならば、事実無根の部分が多く、弊社をご利用される一般のお客様の誤解を招き、企業イメージを悪化させ、営業上も甚だ問題である。
弊社は、大競争時代の中においてサバイバルの途上であり、フィクションと思われるものの事実関係について争うつもりは、今のところないが、更に弊社のイメージを低下させるようであれば、別途の対応を取る所存である。』

 

また、2000年3月22日の経営協議会の場で次のようなやり取りがありました。

「沈まぬ太陽」に関する週刊朝日の記事について
(機長・先任ニュースより)



<日本航空が山崎豊子氏に脅迫まがいの文を送る>

組合:「沈まぬ太陽」に関して広報部長から2月1日付で業務連絡が出された。同日週刊朝日に「沈まぬ太陽」に関する記事が掲載され発売されている。事前にこの記事を知っていたのか?



新町広報担当取締役:中身について事前に話し合うことは一切していない。

 

組合:会社は山崎豊子氏に「沈まぬ太陽」の発行許諾の撤回、映画化、テレビ・ラジオ・ドラマ化の中止、日本航空と無関係の架空の小説であることの告知と、掲載に対する謝罪を申し入れていることは事実か?

 

新町取締役:JALとして代理の弁護士を通して出した。大きな世間的社会問題になったので、兼子社長も含めて機関として決定して出した。




<兼子社長の変節!?>

組合:1月27日の機長組合との役員懇談会の席上、社長は小説「沈まぬ太陽」について機長から読んだかどうか聞かれて「コメントはない」といっていたではないか。それが急に脅迫的文書まで送る事態となっている。考え方が変わった理由を説明する必要があるのではないか。



兼子社長:その時には感想まで求められなかった。感想を聞かれたならばこのように答えたであろう。

 

組合:山崎豊子氏に対する申し入れ文書の中で、事実無根と主張しているがどこの部分が事実無根なのか。

 

新町取締役:この場では説明できない。別の場を設定して説明したい。

 

組合:山崎氏への申し入れ文の中に「営業上甚大な影響がでている」とあるようだが、具体的数値など、根拠はあるのか?

 

新町取締役:具体的数字を出すことはできないが、日本航空のイメージを落とすことは、有形無形にダメージを与えることになる。




<日航経営者、恥の上塗り>

組合:日本航空には真面目にやっている人達もいるとして、逆に旅客から評価される面もあるのではないか。営業上甚大な影響というならば、旅客数・トンキロなど具体的数字を出さなければ、単なる脅迫と捉えられる。



新町取締役:ダメージを定量的に断ずるのは極めて難しいが、脅迫ではない。

 

組合:先程の経営の説明でも、昨年より旅客輸送は伸びており、良くなっている。日本航空としては恥の上塗りと言わざるを得ない。また、この様な行為は、出版妨害に当たるのではないか。

 

新町取締役:そのようなものには当たらない。

 

組合:日本航空の対外イメージや公共交通機関の責任を云々するのであれば、「安全上問題あり」とした地裁判決を守らないことの方が、労使関係を悪化させ、ストライキにまで発展する。そういったことの方が企業のイメージダウンとなるのではないか。

 

兼子社長:そういう比較の問題ではない。

 

組合:今のような経営の対応では、労使関係はうまくいかない。

 

ということで、過去を清算し、反省する気はあまりないようです。もっとも、素直に反省できる会社なら小説のモデルにはならなかったでしょうが・・・

 

 

最後に週刊朝日の記事に対する機長組合の見解を掲載します。

週刊朝日2月11,18日号(「沈まぬ太陽」を私たちは許せない)の正しい読み方(機長組合ニュース14-140より)

山崎豊子作の「沈まぬ太陽」が2百万部を超す大ベストセラーとなっていることはご存知のとおりです。週刊新潮での連載が始まって以来、お客様から「JALってすごい会社だネ」と言われたとか、社歴の長い人が「俺もそう思っていた」と話していたとか、新人から「全労ってひどい組合ですネ」との感想が出されたなど、社の内外でさまざまな議論を醸し出しています。
そんな中、週刊朝日は2月11日、18日号の2回に分けて山崎豊子氏を主に批判する人物を中心とした特集記事を連載しました。これを受けて会社は週刊朝日の機内搭載の拒否と思いきや、それどころか発売日の2月11日に合わせて小説「沈まぬ太陽」に対する当社の考え方なる業連を出しました。また社内報を出して会社の考え方を社員に徹底するなど、今回は真っ向勝負に出ています。こうなってくると国民航空=日本航空が証明されたも同然です。組合も参戦せざるを得ないでしょう。

週刊朝日の記事についてここだけは是非確認したいものです。

<利光元社長への疑問>

Q利光さん、あなたがそれ程までに小説「沈まぬ太陽」に憤慨するのであれば、特別販売促進費が毎年どのくらいの額になるのか?

その内訳としてどこの会社にどのくらい支払われているのか?

を組合に説明すべきです。

Q昨年夏、あなたの自宅にピストルで銃弾が撃ち込まれましたが、思い当ることはないのですか?家を間違えられたとでも言うのですか?

 

<週刊朝日記者への疑問>

Qせっかく関係者の取材をしたのに、どうして組合所属による差別や不 当労働行為、不当解雇・分裂などの問題について第三者機関や組合に取材をしなかったのですか?

Q小説の主な登場人物と推定されるモデル一覧表の中に、なぜ重要人物である轟鉄也(元全労委員長、JTS副社長の大島利徳氏と推定されている)と権田宏一委員長(元全労委員長、現名古屋支店長の渡辺武憲氏と推定されている)の二人を除いているのですか?



<吉高AGS特別顧問への疑問>

Q記事にある「…組合だって悪いところがあった。・・」とは具体的には何の事ですか?第三者機関から判決や命令を受けたのはあなた方ではないのですか?

 

<平野日航特別参与(前常務)は正直に認めています>

週刊朝日の記事から

「…日航にはたしかに、組合員に対する不当な扱いや差別人事、一部子会社での問題経営があった。…」

 

<どこまでがギリギリか?高級官僚と業界の癒着>

黒野前運輸事務次官(小説では石黒航空局総務課長)は正直に週刊朝日の取材に応じています。黒野氏は昨年運輸省を退官しましたが、スカイマークの生みの親で、航空の規制緩和の立役者とまで言われていました。また航空局長から初めて運輸事務次官となったキャリア組のエリート中のエリートです。しかし退官の直前に、大蔵省接待で話題となった風俗しゃぶしゃぶに日航幹部と一緒に出入りしていた事が入店者名簿で明らかとなりました。

週刊朝日の記事から

「航空会社の人と食事も酒もともにしたことがないと言うつもりはない。…行政官としてのギリギリのモラルは守ってきたつもりです。…・責任ある立場になってから二次会に行かないようにしていましたから…」

注:意味深長、しゃぶしゃぶ店での食事は通常一次会のようですが、ギリギリとは何か基準があるのでしょうか?



<百戦錬磨、派閥の領袖三塚氏と、山地元社長の反応>

「沈まぬ太陽」の記事について三塚氏はインタビューで「自分が出て騒ぎになるのも大人げない」とコメントしているようです。また山地元社長はゴルフとカラオケで忙しいのでしょうか「全く読んでないのでコメントのしようがない」と取材で応えているようです。



<まとめ>

今回の問題は、あくまでも小説の世界と割り切れないところに日本航空の黒い部分の根深さがあります。週刊新潮で連載が始まった時には機内搭載拒否で抵抗してみたものの、2百万部の売れ行きとなっては無視できなくなりました。誰かの号令で反撃開始となったようです。週刊朝日にコメントが出されているように、まだまだ色気のある人、したたかな人、過去の人とそれぞれ小説に対する反応を異にしているのも興味深いところです。

その筋の話によれば、日航お抱えのいつもの新聞記者が「沈まぬ太陽」に反論する単行本を出版するとの事です。今回の記事はその前哨戦としてのジャブと言ったところなのでしょう。ところで今回の週刊朝日の記事、読んだ方にはお分かりの事と思いますが、「沈まぬ太陽」の第五巻・会長室編(下)の10章とどこか似ています。小説に出てくる日本ジャーナルの事です。「朝日の名前があるだけについ信頼して…」と言うのはよくある話です。

週刊朝日の販売部数が伸びないと言われているのは、今回のように読者の反権力という朝日への期待に反して、日航経営と政界・御用組合幹部との癒着の実態に目をつむり、事件の本質にメスを入れるという姿勢に欠けているからでしょう。通り一遍のワイドショー並みの記事は専門の別のアサヒに任せた方がよっぽど面白いでしょう。

もっとも朝日が「沈まぬ太陽」2百万部の売上げにあやかって、その2百万部読者に週刊朝日を売り込もうと考えてのことなら理解できるところです。しかし万が一にもそのような発想からの二週連載であるならば、読者は見抜き、いずれ離れていくでしょう。

 


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深田祐介氏も参戦!?
「沈まぬ太陽」への攻撃・・・黒幕は・・・?
ある機長の投書より

深田祐介氏はかつて日本航空に在籍し、広報部次長を務められました。その深田氏が「週刊現代」誌上で『沈まぬ太陽』への批判を展開されていますが、それに対しある機長から次のような投書が届きました。

 

週刊現代 6月10日に “深田祐介が初めて書いた「山崎豊子『沈まぬ太陽』徹底批判!」” という記事が掲載されました。
記事の内容は、見出しの通り「沈まぬ太陽への徹底批判」です。
曰く 「企業小説は、テーマとした企業の人間が読むに耐えると評価して初めて本物である。しかし、『沈まぬ太陽』は航空産業界に在籍した人間のほとんどが現実性をきわめて欠く作品と感じるのだから、失敗作と断じざるを得ない」 のだそうです。

しかし、週刊朝日で小倉氏自身がこう語っています。
「組合分裂工作、不当配転、昇格差別、いじめなどは、私および私の仲間たちが実際に体験させられた事実です。」
そして、組合の歴史がそれを裏付けています。
また、社内には 「事実を知っているから、『沈まぬ太陽』は読まなくてよい」 という人もいるくらいです。現実性をきわめて欠くと感じているのは、日本航空の経営に携わり、組合を分裂させる、いわゆる分裂労務政策を遂行した人と、その片棒を担いだ人と言う方が正確だと思うのですが・・・

更に深田氏は、山崎氏の 「取材や資料の解釈において著しい偏向があり・・・」 と語っています。「著しい偏向」とは一体どういう意味なのでしょう。まさか、直木賞作家の深田氏が組合活動をする人間はアカであるというようなおかしな偏見を持っているとは思えませんが・・・
また深田氏は 「特にモデルの選択において、決定的な誤りを犯した・・・」とし、「企業小説ならば、企業のなか、業界のなかで、志をもって働いている人物をモデルの対象にしなければならない」と語っています。「志」というのは司馬遼太郎さんの 「人間の志を描くのが小説である」 という言葉を引用しての発言なのですが、組合員の労働条件向上のために働いた人に「志」はないとでもおっしゃるのでしょうか。まさか、まさか、直木賞作家の深田氏が憲法で保障された組合活動を「偏向している」とお考えになっているとは思えませんが・・・
山崎氏は日本航空を題材とした企業小説を書きたかったのではなく、小倉氏を主人公とした小説を書きたかったのでしょう。たまたま小倉氏が所属していた会社が日本航空だったというだけの話で、取材の過程で 「小倉氏の話しか聞かなかった」 というのも、当然といえば当然だと思えるのですが・・・

一部の人には失敗作と評されましたが、『沈まぬ太陽』はベストセラーとなりました。これがすべてを物語っているのではないでしょうか。おもしろい、いい小説だからベストセラーになったのであって、失敗作がベストセラーになるなんて話、あまり聞いたことがないのですが・・・

『沈まぬ太陽』の文学的評価はさておき、週刊現代の記事で驚かされるのはモデルとなった小倉氏への誹謗中傷です。小倉氏が自身をモデルにこの小説を書いたわけでもないのに、こんなこと書いて名誉毀損にならないのかと、他人事ながら心配してしまいます。それこそ 「開いた口がふさがらない」・・・
曰く 「航空業界に生死を託すような志をもった人物ではない」、ある日航OBの言葉として 「俺が航空貨物の開発におもい悩んでいた頃は、組合のなかで成り上がることばかり考えていた。俺がマグロを空輸しようと血眼になっていた頃、彼はアフリカの駐在員になって、象を殺しては象牙を売って儲けていた。」 「俺が山で霊と暮らしていたころに、小倉は新会長にスリ寄って出世を狙っていた。」
後味が悪くなったのは私だけでしょうか。

週刊朝日にしろ、この週刊現代にしろ、『沈まぬ太陽』を批判しているのは、日本航空の経営サイドにいた人ばかり・・・というのは、気のせいでしょうか。 
「この記事、会社が書かせたんじゃないの」 なんて声もちらほら聞こえてきます。

『沈まぬ太陽』は、5巻で終わっていますが、日本航空では現在でも『沈まぬ太陽』が続いており、完結するのはいつの日になるのでしょう。
機長組合では5月24日の組合大会で、安全に関する問題についてスト権を背景に、経営に問題の解決をせまる方針を決議しました。裁判で安全性の根拠がないことを指摘されながら、全く改めようとしないまま、今日もたくさんのお客様を乗せて日本航空の飛行機は飛んでいます。この決議は『沈まぬ太陽』の一日も早い完結を願う日本航空の機長の総意であると信じます。『御巣鷹山編』はもうたくさんです。

一機長より

 


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http://www.jalcrew.jp/jca/public/taiyou/iwanami.htm

企業と人間

-労働組合、そしてアフリカへ-

佐高信・小倉寛太郎 著

岩波書店発行

テレビ等でもおなじみの佐高信氏と小倉氏との対談。

「沈まぬ太陽」にまつわる話や、小倉氏の日本航空での様々な体験談などが載せられている、まさに実録「沈まぬ太陽」とも言える1冊。


 

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http://editor.fem.jp/blog/?p=214


山崎豊子さんインタビュー「沈まぬ太陽」を心に持って – 520人の命を奪った日航機墜落事故から31年
2015/8/12
etc.
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(▲山崎豊子さんのインタビューを掲載した国公労新聞と山崎さんからのハガキ)

【追記】※今から1年前にアップしたものですが、「31年」となりましたので、タイトルだけ変更しています。(2016年8月12日)

きょう(8月12日)は、520人の命を奪った日航ジャンボ機墜落事故から30年となります。この墜落事故などを題材にした小説『沈まぬ太陽』を書かれた山崎豊子さんのインタビューを、私、企画編集したことがあります。高校生の頃、田宮二郎さん主演のテレビドラマ「白い巨塔」にはまって以来、学生時代に観た山本薩夫監督による「白い巨塔」や「華麗なる一族」、「不毛地帯」など社会的な問題を告発しつつエンターテイメントとしても鮮烈な光を放つ映画に夢中になりました。そして社会人になってからも、山崎豊子さんの著作とそのテレビドラマ化や映画化に注目してきました。それがこうじて、山崎豊子さんのインタビューを企画して、ご自宅にうかがってお話を聴かせていただきました。1時間の約束だったインタビューが実際は倍以上の2時間超に及び、とても熱の入ったお話をしていただきました。このインタビュー記事には、たくさんの方から感想が寄せられ(じつはこれに追加取材をして書籍化するという話も動いていたのですが、残念ながらいろいろあって現実のものとはなりませんでしたが)、その感想をまとめて 私が山崎豊子さんに郵送したところ、山崎さんから自筆のハガキもいただいたという後日談もありました。(上の写真の右下がそのハガキです)

それから、当時『沈まぬ太陽』がベストセラーの渦中で、さまざまなところからインタビューの申し込みが殺到していたとのことですが、私に対して「あなたのインタビュー企画だけに応じることにしました」と山崎豊子さんは言われました。そのときはリップサービスなのかなと半信半疑だったのですが本当のことだったようです。そのインタビュー記事を、亡くなられた520人のご冥福と(私自身も中学・高校と同級生だった友人をこの日航機墜落事故で失っています)空の安全と、一昨年亡くなられた山崎豊子さんのご冥福を祈りながら紹介します。

沈まぬ太陽を心に持って
まともな労働組合に光あて、たたかう労働者を
勇気づけるベストセラー『沈まぬ太陽』を書かれた
山崎豊子さんにインタビュー

〈国公労新聞 第1034号 2000年1月1日号掲載〉

記念すべき2000年のインタビューは、いまベストセラーになっている『沈まぬ太陽』(3部構成全5巻、新潮社)を書かれた山崎豊子さんです。

航空会社の労働組合委員長として「空の安全」を求め会社とたたかったがために、カラチ、テヘラン、ナイロビと職場をたらいまわしにされる主人公を描く『アフリカ篇』。520人の犠牲者を出した「史上最悪のジャンボ機墜落事故」に綿密な取材で迫り、犠牲者の無念の思い、遺族の悲しみを、ドキュメント的な小説手法で描く『御巣鷹山篇』。航空会社の不正と乱脈、政官財のゆ着、利権をめぐる争いを描く『会長室篇』。全編を通して、まともな労働組合の存在がどんなに大切なものか痛感させられます。

永藤成明さん(全運輸近畿航空支部関西空港事務所分会)と戸田伸夫さん(全国税近畿地連委員長)が、大阪にある山崎さんのご自宅に訪問し、お話をうかがいました。(企画・編集=井上伸)

【やまさき とよこ】1924年大阪市生まれ。京都女専国文科卒業後、毎日新聞大阪本社調査部、学芸部を経て作家に。『花のれん』で直木賞受賞。『暖簾』『ぼんち』『女の勲章』『しぶちん』『花紋』『仮装集団』『白い巨塔』『華麗なる一族』『不毛地帯』『二つの祖国』『大地の子』など数々のベストセラー小説を発表している。

アフリカで巡り会った現代の「流刑の徒」

永藤 : 私は、『沈まぬ太陽』の中に登場する全運輸の組合員で仕事は航空管制官ですので、この作品を興味深く読ませていただきました。胸をつかれ、涙を流すシーンがたくさんありました。最初に、この作品を書かれるきっかけについてお聞かせください。

山崎 :前作の『大地の子』を書きあげてから、主人公の陸一心さんが私の胸の中に座ってしまって何も考えられなくなっていました。学生のころからキリマンジャロを見ながら死にたいというロマンチックな気持ちを持っていた私は、自分の気持ちをなんとか動かさなければとアフリカへ行くことにしたのです。私は未知の国に行くときは、時間をムダにしないように、その国をよく知っている人を探すことにしています。そのとき後に小説の主人公の恩地元さんの原型ともいうべき人に出会いました。

ナイロビの空港に降りたつと、古武士のような東洋人が立っていて、それが「恩地さん」でした。翌日から四輪駆動の自動車でサバンナを案内してもらい、動物の生態やアフリカの歴史を聞きました。穏やかで何をたずねても造けいが深く、ご自身の見識を持っておられ、単なるアフリカ通ではないことが感じられました。あれこれお聞きしていると、元航空会社の社員としての経歴を、ポツリポツリと話してくださいました。

私は、アフリカの自然を見にきたのに、アフリカの大地で今の日本ではなかなか会うことができない日本人に出会えたと感慨を持って帰ってきました。

それからあらためて、あなたをモデルに小説を書かせていただきたいとお願いにいったのですが、最初は「私の人生は、他人にわかるはずがありませんので、ご辞退します」と拒絶されました。それでも何度かお願いし了解を得て小説に書かせていただきました。

取材を始めますと、まさに現代の「流刑の徒」だと思いました。航空会社の労働組合委員長として、「空の安全」を守るために利益優先の会社とたたかい懲罰人事で10年間も中東、アフリカへ左遷させられ、国内の組合員も一般社員から隔離され、差別される。名前を「恩地元」としたのは、大地の恩を知り、物事の始めを大切にするという意味を込めたものです。

不条理を許さない人間としての誇り

戸田 :会社は、労働組合を分裂させ、第二組合を育成し、まともな労働組合をつぶそうとした。じつは私たち全国税も国税当局によって同じような扱いをうけてきました。政府が高度経済成長政策を打ち出して、低所得層から税収をあげるという不公平税制を推進しようとしたとき、全国税も「それはおかしい。税金は払えるところからとって配分すべきだ」と主張しました。それに対して政府は、大企業や高額所得者の利益を優先するために、じゃまな全国税を分裂させ、第二組合を育成した。全国税も差別など様々な攻撃を受けていますが、国民のための税制をつくらなければと奮闘しています。主人公があれだけの仕打ちを受けても、スジを通してたたかったことを知って、私たちは大きな勇気を与えてもらっています。

山崎 :彼だって人間ですもの、つらかったと思いますよ。仲間も言います。「僕らは仕事が終われば家族がおり、友人と語れる。あなたは365日、24時間孤独ではないか」。でも、自分が節を曲げたらこの組合はだめになる、「空の安全」は守れなくなるという思いがあるのですね。

組合員は「あなたが存在しているだけでいい。はるかアフリカの地でもどこでもいい、あなたががんばっていると思ったら、やはり私たちも辞められない」と言い、彼は「私が辞めたら悲しむ仲間がいる。その一方で丸の内の本社で祝杯をあげる会社や第二組合の人間がいると思うと辞められなかった」とおっしゃいました。彼には不条理は許さないという激しい怒りがありますね。会社側や御用組合がしいる不条理を受け入れることは精神的奴隷にほかなりません。やはり、不条理を拒否する意志の力と人間としての誇りが彼にはあったのだと思います。

小説には書きませんでしたけれど、彼が10年にわたる左遷から日本に帰られたときに、組合員の方々の家を訪ねて回ったそうです。「私についてきたために職場で差別を受け、ご家族にもご苦労をおかけしました」と。これだけの人に出会えて作品を書かせていただき、私は本当にしあわせだと思います。

戸田 :ご家族の方も苦労されたでしょうね。

山崎 :そうですね。奥様にいちばんつらかったことは何ですかとお聞きしますと、「子どもに、どうしてうちのお父さんは帰らないの?と聞かれて、言いきかすのがたいへんでした」と答えられました。奥様は、子どもさんに「お父さんにはお仕事がある。それはお父さんにしかできないお仕事なのよ」と言ってきかせていたそうです。

それに、子どももどこからか聞いてくるのですね。「左遷ってなに?」と父親に聞きます。「お父さんは、何も恥ずかしいことはしていない。だけど一生懸命いいことをしてもうまくいかない場合がある。それはお前が大きくなったときにわかるよ」と話したそうです。でも「やっぱり、つらかった。自分の節を通すために妻子をここまで犠牲にしていいのか」とつぶやかれました。

泣きながら書いた場面

山崎 :テヘランの空港で日本へ帰る奥様が、二人の子どもの手を引いて搭乗機に向かっていきます。彼は、アフリカへ向かう飛行機に乗る。そのときに、「声をかけたけれど、妻は振り返らなかった。その後ろ姿を見ながら泣きました」と話してくださいました。私はこの場面を小説に書くとき、泣きながら書きました。奥様に会って、「なぜ振り返らなかったのですか」と聞きました。「振り返ったら崩れます」と奥様はおっしゃいました。会社はこんなことまでしていいのでしょうか。私は、このことを知って、航空会社がどんなに取材を妨害したり、誹謗中傷してこようと、最後までこの作品を書きあげなければいけないと思いました。

永藤 :航空会社は、取材を妨害してきたのですか。

山崎 :あの会社は、あれだけのことをして、反省もしないで「組合側にたった一方的なでっちあげの小説だ」という怪文書を流し、一部のマスコミが掲載しています。どこまでも低次元な会社で怒りを通りこして今はあきれはてています。

永藤 :そういう航空会社の対応では、取材にもたいへんな苦労があったのではないでしょうか。

今でも夢でうなされる地をはうような取材

山崎 :最初、その航空会社の各職場を取材してから、それぞれの部署の担当役員のお話しをうかがいたいと申し入れますと、広報部長から「役員には責任があるから会わせられません」と突っぱねられました。

それで取材は、その航空会社のOBの良心派と社内にいる良心派の協力で進めることになり、地をはうような取材となりました。とくに社内の人は本当によく協力してくださいました。もし私とコンタクトをとっていることが会社にわかると、進退にまでかかわるかもしれません。

それから、航空会社ひとつにしても、整備、パイロット、運航、営業、計画等々と、職種は多岐にわたっていますからこの作品の取材はたいへんでした。『大地の子』の取材もたいへんだったのですが、あのときは広い大地の中でここという場所を見つければ、あとはずっとそこを掘り下げていけばよかったのです。でも今回は多方面にわたっていたので、今でも夢でうなされるのは、原稿を書いている姿ではなくて、取材しているときなんです。

もう一つの取材の苦労は、名誉毀損で訴えられないようにするために、神経を尖らせて細心の注意をし、業者の納品書や領収書なども全部コピーして持っていなければいけなかったことです。小説を書くエネルギーもたいへんでしたが、本来なら不必要なエネルギーも消費しました。

声なき声に支えられた『御巣鷹山篇』

永藤 :私たち全運輸も「空の安全」を守るために様々な運動をくりひろげています。私は一昨年まで沖縄で航空管制の仕事をしていました。沖縄の空域は米軍がわがもの顔で管制をにぎっていて、民間機の飛行が制限され、安全上問題があります。沖縄支部は、そういう問題を改善しようとがんばっています。また、航空会社の労働組合の仲間とも協力して、ニアミスや、事故の問題など様々な「空の安全」を守るための取り組みをすすめています。実際の航空機事故をあつかった『御巣鷹山篇』は、私たちにとって特別の感慨があります。この巻に込められた思いをお聞かせください。

山崎 :出版社の話では、『御巣鷹山篇』を先にお読みになって、こんな事故をおこす会社はどんなところかと『アフリカ篇』を読む、それから事故後どういう改善をしてくれたかということで『会長室篇』を読まれる読者が多いそうです。

『御巣鷹山篇』では、やはりご遺族の取材がいちばんつらかったですね。ご遺族の方には「せっかく忘れようとしているのに、心を切り裂くようなことはやめてほしい」と言われ、「遺族の悲しみは遺族にしかわかりませんよ」と、取材に応じていただけなかったのですが、何度もお願いしてようやく応じていただけるようになりました。

多くのご遺族の話をうかがえても、520人のご遺族のすべてを書けませんので、最後のお遍路になって巡礼に旅立つ老人の姿にご遺族の心を凝集させていただきました。じつは、あのお遍路姿のご遺族のその後について、読者からの問い合わせが多いのですが、あれは、創作なんです。読者の方から「あのお遍路姿に“仏の顔”を見た」という、もったいないお言葉をいただきました。作者として、これほどありがたいことはありませんでしたね。

心に残ったのは、墜落する機内で妻子に書きのこした河口博次さんの遺書です。家族に対する深い愛情と人間の尊厳に満ちた言葉を、あの状況の中で書き残したことに感銘しました。じつは奥様にお願いして手帳を見せていただきました。横書きにぐっと大きく書いた上下左右に揺れている文字を見たときには涙が止まらなかったですね。

それと遺体検視の取材もたいへんでしたが、群馬県の医師会と歯科医師会の先生方が協力してくださって、無惨な遺体検視の実相を書くことができました。未公開の写真を見せていただきましたが、『白い巨塔』の取材のときに見た手術や解剖の比ではありませんでしたね。

永藤 :事故原因についても、丹念に取材されていますね。

山崎 :分厚い『事故調査報告書』も全部読んで、報告書を書かれた先生方にもお話をうかがい、ボーイング社にも取材に行きました。ボーイング社には、「すでに国家間の話し合いによって、すべて終わっている問題に、なぜあなたがこだわるのか」と聞かれました。「国民感情としては、これだけの大事故を起こして、責任者が出ない、だれも罰を受けない、そんなことは納得できない。私は作家として、読者という国民を代表して聞いているのです」と言いましたが、答えませんでしたね。

事故機の隔壁を修理した作業員の名前もわかっていますが、もう会社にはいないと言うだけでした。あれだけの事故に対する贖罪の念はまったくありませんね。極論を言ってしまえば、広島で一発の原爆により20万人を殺したボーイング社ですから、贖罪の念はないのは当然なのかも知れません。私は恩地さんほど忍耐強い人間ではないですから、ボーイング社のあまりの対応にもう投げ出したくなりました。こんな取材の困難にあうたび、何度も挫折しそうになりましたが、やはり支えてくださったのはご遺族と520人の声なき声でした。本当に無念な思いで亡くなられたと思います。東京・大阪間の便、あれは私もいつも乗っている便ですもの。あんなところで誰も死ぬとは思わなかったことでしょう。河口さんの遺書にも「本当に残念だ」と書いてありますね。

なくしたい政官財ゆ着
不毛地帯の日本を警告したい

戸田 :私たちは国家公務員の労働組合として、特権官僚の天下りや企業団体献金などを禁止して政官財のゆ着をなくすことが、本当の行政改革の大きな課題の一つだと主張して取り組みを進めています。最後の『会長室篇』では、航空会社をめぐる政官財のおぞましいゆ着・腐敗が描かれていて、私たちも大蔵官僚の腐敗をまのあたりにしているだけに、本当に腹立たしい限りです。この『会長室篇』に込められた思いをお聞かせください。

山崎 :「カネ、カネ、モノ、モノといって、日本はいま精神的不毛地帯になりつつあることを警告したい」と、私が『不毛地帯』という作品で書いたのは21年前です。

ところが、『会長室篇』を書いていて、21年前と日本は何も変わっていないと思い、ゾッとして、不気味な恐ろしさを感じました。それでも、私は警告し続けたいと思います。

私は戦中派です。原稿に向かうとき、私の心にあるのは学徒動員のことです。男子は特攻機に乗って雲の向こうに死んでいき、私たち女子学生は全員、大学2年で軍需工場へ動員されました。そして、飛行機工場に動員された友人はB29に爆撃されて死亡しました。そのなかで生き残ったものとして、なまなかな生き方はできない。なまなかなものは書けないという思いがいつもあります。

寂しいのは使命感を持った友人が少なくなっていくことですね。『華麗なる一族』など私の作品を映画化してくださった山本薩夫監督が生きてらっしゃったら、『沈まぬ太陽』も映画にしてくださったのではないかと思いますね。

まともな労働組合に光あて
たたかう労働者を勇気づける

戸田 :私たち労働組合でがんばっている仲間は、『沈まぬ太陽』で「空の安全」を願い労働者や国民のためにたたかうまともな労働組合の姿に光をあてていただいたことで、たいへんはげまされています。

山崎 :今回の作品には、労働組合でがんばられている方からお手紙をたくさんいただきました。その中の一つで、涙が出るぐらいうれしかったのは、「『沈まぬ太陽』を読む前と後で私は確かに変わった。何が変わったかというと、勇気を持つことができた」と書いていただいたことです。また別の労働組合の方からのお手紙には、「私たちが一生懸命がんばっているのをわかってくれる作家もいるのだなとうれしくなった」とありました。リストラにあわれた方からも「恩地さんのあれだけの信念と不屈な精神に勇気づけられた」とありました。

一方、会社といっしょになって、まともな労働組合をつぶそうとする第二組合の方は、私の頭では考えられなかった組合でした。組合幹部が組合員を“搾取”するなんて考えられませんでした。私は三池炭坑でのたたかいなどで労働組合は労働者のためにたたかうものだと思っていましたからね。そういう意味でも、労働者のために、まともな労働組合にがんばっていただきたいと思います。

ただすべきことただし、国の行政をよくして

戸田 :最後に、私たち国家公務員労働者へのメッセージをお願いします。

山崎 :私の座右の銘としているゲーテの言葉をおくります。

「金銭を失うこと。それはまた働いて蓄えればよい。
名誉を失うこと。名誉を挽回すれば、世の人は見直してくれるであろう。
勇気を失うこと。それはこの世に生まれてこなかった方がよかったであろう」

なんときびしい言葉でしょうか。どんなに正しいことを考えても、それを実践に移すのは勇気なんです。この言葉を互いに肝に銘じていきましょう。

たいへんな時代ですが、沈まぬ太陽を心に持って、ただすべきことはただして国の行政をよくしていってください。

永藤・戸田 :長い時間、ありがとうございました。

(企画・編集=井上伸)

◆山崎豊子さんのインタビュー記事に大きな反響


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