VICE JAPAN の格闘技コラム

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モスクワに実在した
狂気のリアル・ファイト・クラブ
LIFESTYLE-
2016.10.25

Text By Julien Morel



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ロシア人が『ファイト・クラブ(Fight Club)』を真に受け過ぎていたとしても、誰も驚きはしないだろう。ロシアでは、DNAに刻み込まれた陰惨な暴力がさまざまな形で噴出しているのだから。同性愛者を標的とした暴行の増加。性器を切除した軍隊内部のいじめ。とどめに、上半身裸で田舎を闊歩し、ライフルで動物を撃ち、民衆の心を掴もうとする大統領。

2008年、モスクワ。素手で闘うアンダーグラウンド格闘技「ベアナックル」の元ファイター2人が、現実世界でファイト・クラブをスタートさせた。「ローニン(浪人)・ファミリー」と名づけられたこのクラブでは、900ドルを支払えば、どんな高給取りのビジネスマンであろうと1週間に渡り、赤の他人の前で叩きのめされ、たっぷりと屈辱を味わえる。「エリートの都会人を肉体的にも精神的にも痛めつけて、本物の男にするのがローニン・ファミリーの目標だ」とクラブの創始者は言明する。

若きロシア人フリー写真家マリア・トゥルチェンコワ(Maria Turchenkova)は、この異様なブートキャンプを1週間に渡り取材した。

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どうやってローニン・ファミリーを知ったんですか?

偶然インターネットで広告を見つけたんです。そこにはこう書かれていました。「君の価値は、何を持っているかではない。仕事、車、銀行口座も関係ない。人生を変えたいなら、内なる戦士を覚醒させ、内なる敵と戦え。さあ、コースに参加せよ!」。そこで私は、クラブに電話し、取材を申し込みました。

ずいぶん簡単ですね。入会金は必要なんですか?

はい。全員が900ドルを払って1週間のコースに参加します。トレーナーは本物のファイト・クラブのメンバーなので、格闘経験の少ない参加者にはそれが一番のお目当てなんでしょう。参加希望者は入会前に、健康診断書を提出し、面接を受けなければなりません。

参加者はどんなトレーニングを受けるんですか?

最初の課題は、トレーニング2日目です。まずは精神的な課題で、これまで誰にも話せなかった人生最悪の出来事をグループ全員に告白します。そして、みんなの気がすむまで質疑応答します。

その後、いよいよ身体を動かします。訓練はハードで、途中で止めた人は殴られ、最初からやり直しさせられます。続ける意志のない人は、ジムから強制退去となり、クラブへの再入会は許されません。しかし、もし戻ってきたら、徹底的に辱めを受けます。それこそが訓練の要です。

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絶叫や悲鳴はしょっちゅう?

ええ、もちろん。

男たちが腕を掴みあっている写真がありますが、これは何をしているんですか? それにナイフを構える写真は?

これはいわゆるチームづくりの訓練です。誰かが弱みを見せたら、相棒が助けなければいけません。でないと、全員が叩きのめされ、最初からやり直しです。そのあとナイフの出番です。木製ですが、命がけで戦う訓練なので、全員傷だらけになります。

ローニン・ファミリーの創設者について教えてください。

男性2人、どちらもスポーツマンで、軍とは無関係です。1人は「ゲイリー」ことイゴール・ルニャコフ(Igor Lunyakov)。もう1人は「レイザー」ことアントン・ルダコフ(Anton Rudakov)。ちなみに参加者は、自ら戦士名をつけていました。「ウルフ」とか、「ディレクター」とか、「ボールズ」とか、「アーティスト」とか。チーム名は「ニュースパルタ」でしたね。

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このクラブの目的は何ですか?

自分の内に信念を見出し、殴られる恐怖を克服する…明らかに心理学に基づく手法でした。「戦士」たちは、屈辱を受け、自身の道徳的弱点に直面し、肉体が限界に達したときに「内なる敵」を倒し、最終的には自分を信じるようになれる、といわれていました。

創設者2人は、自分たちを伝道師とでも考えているんでしょうか?

明らかにそうです。彼らは心から参加者を助けたいのです。しかし最近になって、ゲイリーとレイザーはクラブの方針を巡って対立し、ローニン・ファミリーを閉鎖しました。ゲイリーは、精神的鍛錬は無意味だと判断したのですが、レイザーはコースの一環として残したがっていたんです。

当初の2人のアイディアは、本当にシンプルでした。ゲイリーとレイザーいわく、「現代社会の人間は、みんな文句が多過ぎる」そうです。

あるときゲイリーは、「人生は宝くじだ」と私にいいました。強い人間なら、いずれ自らと対峙し、自らを見つけ出せる。でも弱い人間は手の施しようがなく、同じやり方で訓練しても、余計に酷くなるだけだと。

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しかし、「恐怖の克服」への執着ぶりが、とてもアメリカ的な印象です。それに「self-made man(自力で成功を掴んだ人)」を過剰に崇めているような…

私は、アメリカ的だと考えていません。確かに当初のアイディアは『ファイト・クラブ』からの借用かもしれませんが、大都市に生きる男性たちが、このクラブに共感するのは理解できます。顔の見えない大企業で働く人や、大不況で失業した人は特にそうでしょう。自分は無価値だという気持ち、没個性化、将来への自信の喪失は、むしろ普遍的感情です。同時に、他のどこよりもロシア的ともいえます。現在のロシアには多数の企業があり、それだけ可能性もありますが、人々がグローバル社会や市場経済と一体化するメカニズムはまだありません。また、参加者全員の年齢が30〜35歳に限られています。そこには、中年男性になる自分への危機感もあるのかもしれませんね。


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欧米で太極拳を広めた2人の女性
SPORTS-
2016.04.15

Text by Charles Russo



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ゲルダ・ゲデス(左)Photo courtesy of her daughter, Harriet Devlin
ソフィア・デルザ(右)Photo courtesy of the NY Public Library

ゲルダ・ゲデス(Gerda Geddes)がはじめて太極拳と出会ったのは明け方のことだった。

1949年、朝もやに包まれた上海の街。ゲデスは散歩中に、屋外でひとりの中国人男性がゆっくりと瞑想をしながら動いているのを眺めていた。ノルウェーでモダン・ダンスを学んだゲデスは、すぐにそのスペクタクルに魅せられた。「それを眺めていたら、背筋を熱く冷たいものが上へ下へと流れるのを感じた。(中略) 『これこそ探し求めていたものだ』と観じたのを覚えている」

奇しくも、太極拳に興味を抱いたのはゲデスだけではなかった。同じく1949年、上海でアメリカ人ダンサーのソフィア・デルザ(Sophia Delza)も中国の武術、太極拳を学びはじめた。多くの欧米人のように、彼女たちも太極拳に触れたことはなかった。しかし彼女たちは、自分自身が目の当たりにした太極拳に、すぐに価値を見出した。それぞれが当時の人種の壁、性別の壁をものともせずに、先駆けとして活動し、ゲデスとデルザは、それぞれ有名な師のもとで修行を積み、太極拳を自国へ持ち帰る。奇妙なまでに符合する2人の経歴は長いあいだ忘れ去られていたが、彼女たちは、太極拳を中国外に輸出し、西洋における武術文化創成期の草分けとしての役割を担った。そして、太極拳が現在のように世界的人気となる土台を築いたのだ。

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現在、太極拳は世界中で人気を誇る武術になり、その愛好者は何百万人にものぼる。何世紀もの歴史を持つ中国武術だが、文化、年齢を問わず幅広い層に好まれており、武術というよりもむしろ、健康法、娯楽として受け容れられている。その結果、太極拳がもともと拳法であり、中国の格闘技だ、という事実が忘れられがちだ。

その起源は伝説に包まれているが、太極拳(「至極の一打」という意味)は数百年前、道教の道士たちから始まった、とする説の信憑性がもっとも高い。当時の中国社会では戦いが日常茶飯事であり、戦闘法を身につけるのに重きが置かれた。しかし、月日を経るにつれ、太極拳は、相手の力と動きの方向を利用しながら戦うスタイルから「激しくない」武術、と徐々に認識されるようになった。

緩やかな動き、呼吸法、気功を重視する太極拳は、武術とは離れた健康体操として徐々に人気を獲得してきた。これまでさまざまなスタイルのカンフーがしのぎを削ってきたが、太極拳の人気は21世紀になってから特に盛り上がりはじめている。健康に良い、とは昔から実践者が証言していたが、昨今の科学的研究により、その効果が実証され始めたからだ。

武術史家のベン・ジャドキンス(Ben Judkins)はこう記している。「(前略)太極拳のような行為が医療的な効果を生むか否かについては、西洋で100年以上も前から議論されてきた。しかし、医学の専門家が関心を持ち、体系的に研究するためのリソースに本気で取り組み、多くの(慢性的な)症状に対する太極拳の効果を評価しだしたのはごく最近だ」

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太極拳を実演するソフィア・デルザ. Negatives courtesy of the NY Public Library

近年の臨床試験により、太極拳には健康へのさまざまなメリットが知られている。心臓病の予防に役立ち、ストレスを抑制し、老齢者の全身の健康を促進させる効果があるそうだ。2015年には『British Journal of Sports Medicine』では、太極拳の効果は実際にあり、糖尿病や関節炎など多くの症状に対して、医師によって「処方」されて然るべきレベルだと報告されている。

「太極拳人気の理由は、誰にでもできる、それに尽きる」、そう語るのは『Nei Ji Quan: Internal Martial Arts』の著者ジェス・オブライエン(Jess O’Brien)だ。「中国武術の一派、北派蟷螂拳は皆ができるものではない。しかし、太極拳は世間の需要に適している。多くの人々にとって太極拳が魅力的なのは、心身鍛錬に役立つからだ」

現在受け入れられているその魅力は、デルザとゲデスの歴史的文脈の中で考えると特におもしろい。2人は、太極拳が誰にでも実践できて健康にも効果がある、と半世紀以上前に見抜いていたのだ。しかし、結局、彼女たちは、武術の男性的な側面に埋もれ、忘れ去られてしまった。

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1940年代に中国を訪れた彼女たちだが、既にそれまでに2人とも個性的な人生を歩んでいた。

デルザはブルックリンのボヘミアンの家庭に生まれ、アートやリベラルな思想に囲まれて育った。モダン・ダンスを学び、いっときはパリに留学している。その後ニューヨークに戻り、舞台や映画のキャリアを積んだ。1928年には『Grand Street Follies』という作品でジェームズ・キャグニーとともにブロードウェイの舞台に立ち、またその後、ニューヨークの名だたる劇場でソロ・リサイタルも開いている。1948年に夫の都合で上海へ渡り、そこでデルザは、アメリカ人女性として初めて、中国の劇場やダンススクールでパフォーマンスを披露し、講義をした。

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ソフィア・デルザ. Photos courtesy of the NY Public Library

ゲデスはノルウェーの上流階級の家庭に生まれる。デルザと同じく、幼い頃からモダン・ダンスを学んだが、その後オスロ大学で、何かと物議を醸す精神医学者ヴィルヘルム・ライヒに師事し精神療法を専攻した。成人するとすぐにナチスの占領に対するレジスタンスに加入し、さまざまな劇的な出会いを経て、最終的に、材木を載せた荷車に隠れてスウェーデンに亡命した。1949年、夫の都合で上海に渡る頃には、彼女が勉強したダンスと精神療法を融合し、身体にフォーカスした新しい精神療法を生み出せないか、とアイディアを練っていた。しかし、早朝、太極拳をする男性を観察した彼女は、中国には何百年も続いてきたものが既にあり、新しいシステムなど考える必要がないのを悟った。ただ、当時、中国武術を学ぶ西洋の女性はいなかった。

「太極拳の指導者は、私にかなり手を焼いていたようです。なぜなら当時、太極拳をやる女性はいなかったからです」とゲデスはのちに回想している。「多くの女性が、まだ纏足でしたから」

「外国人」と「女性」を受け入れない中国武術の慣例、言語の高い壁、そして共産党の権力掌握により中国内は混乱していたが、ゲデスもデルザも国家公認の達人について太極拳を修行した。デルザは上海で有名な指導者である馬岳樑に師事し、呉式太極拳を学び、ニューヨークに戻って太極拳を広めるべく活動した。ゲデスは蔡鹤朋に師事し、香港で楊式太極拳を学んだのち、イギリスで太極拳の指導者になった。同じ時期、当時10代のブルース・リーは、ヨーロッパの血が流れているのを理由に葉問(イップ・マン)の詠春拳道場から破門された。そんな時流のなか、彼女たちが中国人の達人に師事した経歴が、いかに当時の社会的障害をものともしない革命的な出来事だったのがわかる。

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『Popular Mechanics』に掲載されたソフィア・デルザの写真.1960年10月

ヨーロッパに戻り、太極拳を広めていこうとゲデスは努力するが、最初は誤解や無関心に苛まれた。ニューヨークのデルザは、あらゆるところで太極拳を紹介し、勢いをつけていった。1954年にはMoMAで演武を繰り広げた。ジェドキンスによると、この演武はアメリカの武術文化において重要な出来事だそうだ。「1954年当時、アメリカで中国武術の演武が見れることなど全くなかった。旧正月の獅子舞、大学でのインターナショナル・フェスティバルで中国人学生のちょっとしたパフォーマンスを目にするくらいしか、アメリカ人が中国武術に触れる機会はなかった」。しかし、デルザの本格的な演武によって、中国拳法に対する関心が高まり、彼女はカーネギー・ホール、国連で定期的に太極拳教室を開くようになった。それはアメリカにおいて、現代の武術家たちに先立っていた(エド・パーカーがカリフォルニア州パサデナにアメリカン・拳法道場を開設するのが1957年頃、ブルース・リーがシアトルで教えるようになるのは1959年だ)。イギリスではゲデスの努力がようやく身を結び、ロンドン・コンテンポラリー・ダンス・スクールでゲデスのクラスが新入生のカリキュラムに組み込まれた。そして1年のあいだに、彼女たちはそれぞれの国で太極拳の演武をテレビで初披露した。

1961年、デルザは、おそらく中国武術について英語で書かれた初めての書籍『T’ai-Chi Ch’uan: Body and Mind in Harmony』を上梓する。最初の章で彼女が書いているとおり、本を書いた目的は「西洋の人々にこの古来から続くすばらしい健康法にもっと関心を持ってほしかった。(中略) 太極拳は、現代という時代にこれ以上ないくらいに適している」からだった。デルザとゲデスは現代社会において、この「古来から続く」武術が健康や精神の鍛錬のために機能するビジョンを抱いていたが、その後スポットライトを浴びたのは、結局、太極拳の違う側面だった。

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1960年代初頭まで、西洋の武術文化は揺籃期だったが、人気を集めつつもあった。20世紀に入ると日本の柔道が世界に広がり、西洋社会に根付いた始めての武術となった(アメリカ大統領のテオドア・ルーズベルトはホワイトハウスで柔道を習っていた。大統領執務室を訪ねた若者たちに技を披露していた、という熱心さを示すエピソードもあるくらいだ)。第二次世界大戦中、多くの軍人たちが沖縄伝統空手に触れ、自国に戻ってからも沖縄空手の稽古を続け、広めた。1946年、エド・パーカーは第一回ロングビーチ国際空手選手権大会を開催。同年夏の東京オリンピックでは柔道が初めてオリンピック競技に加わった。1965年にはロサンゼルスを活動拠点とするカンフー・マスターのアーク・ウォンが、門徒を中国人だけに限定することをやめ、興味関心のある人なら誰でも入門の資格あり、と文書で宣言した。

1966年、ブルース・リーがテレビ番組『グリーン・ホーネット』でカトー役を演じると、ついに武術人気に火がついた。ブルース・リーのパフォーマンスは、従来の武術に対する印象を一変させ、観客の心を掴み、あっという間に中国武術を普及させてしまった。70年代初頭、「カンフー・ブーム」は頂点に達した。ゲデスとデルザの志向した心身の健康法という側面は二の次となり、男性中心の武術文化が興隆した。誇張されたアクション映画、秘技という決まり事が「戦闘」の側面を強調し、結局、それが西洋文化のなかに東洋武術を広く浸透させたのだ。

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ゲルダ・ゲデス Photo courtesy of her daughter, Harriet Devlin.

新たな武術ファンは最新の情報に飛びつくので、デルザとゲデスは、男性によるダイナミックな格闘技術を中心とするような潮流には乗れなかった。そして2人とも、メディアにはほとんど出なくなった。それぞれ、独力で太極拳を自国に紹介し、40年という長い年月をかけて何千人もの門弟を育ててきたキャリアがありながら、デルザもゲデスも、権威のある武術専門誌『Blackbelt Magazine』で満足ゆく特集は組まれていない。

「むしろ、彼女たちの功績を忘れることで大衆文化ができあがった」とジェドキンスは語る。「世間の記憶からデルザは消えていた。ブルース・リーとカンフー・ブームこそが斬新で面白い現象だった、と勘違いしがちだが、本当は、それより15年も前に、既にデルザが紹介していたのだ」

アメリカ武術界では、太極拳黎明期の主唱者としてデルザの名前が批判的に言及される機会が多い。彼女の太極拳は武術面を重視しないために「不完全」だ、という評価なのだ。

ジェス・オブライエンは著書『Nei Jia Quan』のなかで、太極拳の達人の多様性を紹介し、中国武術が決して一義ではない、と主張してデルザとゲデスを擁護した。「人々は『中国武術』に対しひとつの定義を求めるが、ひとつだけということはありえない」とオブライエンは断言する。「太極拳は多面的で、習得にもさまざまな道筋がある。戦闘面を大事にする向きもあるが、瞑想や癒しの効果を重要視する向きもあり、どちらもまったく間違っていないのだ」

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ソフィア・デルザ Photos courtesy of the NY Public Library

ダンサーとして、デルザとゲデスはダンスや動きに対して新しく、もっと大局的なアプローチとして太極拳をとらえていた。当時のダンス界を席巻していた激しい身体の動きに対抗する手段としてである。デルザは太極拳を健康法として広め続けたが、ゲデスは徐々にスピリチュアルな方向へと進む。それでも2人は、戦うことが彼女たちのゴールではないにせよ、自らが実践しているのは武術だ、と明確に理解していた。

結局、批判と知名度の低さにもかかわらず、デルザとゲデスは太極拳の普及に成功したようだ。2人が西洋社会に太極拳の種を播くうちに、弟子、孫弟子が彼女たちの意志を受け継ぎ世界中で指導をしている。デルザは1996年、ゲデスは2006年にこの世を去ったが、健康へのメリットは臨床試験で実証されはじめ、現在、太極拳の人気はとどまるところを知らない。逆に、かつて注目を浴びていた戦闘的カンフーは、21世紀に入ってその人気に陰りがみえている。

「ソフトなスタイル」が生き残るのは理に適っていたようだ。彼女たち2人が抱いていたビジョンが静かに天下をとったのだ。


TAG: ゲルダ・ゲデス, ソフィア・デルザ, ブルース・リー, マーシャル・アーツ, 健康法, 太極拳, 格闘技

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120Rに及ぶ遺恨試合の末に死んだボクサー
SPORTS-
2016.09.12

Text by L.A. Jennings



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アメリカのボクシング人気は19世紀初頭に始まった。それは1816年のジェイコブ・ハイヤー(Jacob Hyer)vs. トム・ビーズリー(Tom Beasley)戦に遡る。現代ボクシング・ルールの基礎となるクインズベリー・ルール

を遵守させる公式の管理機関は設立されていなかったが、その試合には新しいルールを守ろうとする「努力の姿勢」があったようだ。当時のボクシング熱の中心はニューヨークで、あらゆる選手たちが、爆発的に増えたボクシングジムでのトレーニング、スパーリングに勤しんでいた。1820年代には、上流階級も労働階級も関係なく、男たちはボクシングを愛好していたが、当初イギリスで謳われていた「男の護身術を紳士的に習得するためのボクシング」は、ジェイコブ・ハイヤー vs. トム・ビーズリー戦からたった10年で終焉し、アメリカにおけるボクシングは、暴力的な見世物、と批難されるようになった。以下は、1826年の『New York Post』紙への投書である。

「このような行為は乱暴であり、忌々しい。こんなスポーツを容認しているのは、国家にとっても不名誉だ。賛成する者は『護身術』だというが、実際は恐るべき暴力の行使、あるいは殺人でしかない」

この投書はあまりに誇張が過ぎるような気もするが、ボクシングのリアルな危険性は、1842年のトーマス・マッコイ(Thomas McCoy)vs. クリストファー・リリー(Christopher Lilly)戦で顯わになった。当時、アメリカのボクシングには、ルールと呼べるようなルールはなく、試合は何十、ときには何百ラウンドにも及んだ。マッコイ VS. リリー戦は120ラウンドに及び、マッコイは80打以上のダイレクトブローを受けてダウン。そして死亡した。検死の結果、マッコイの肺は液体に浸されていた。つまり、自らの血液に溺れ死んだのが明らかになった。アメリカのボクシング界は、この恐ろしい死をきっかけに、新たな道を拓いたのである。

試合前

試合当日の1842年9月13日、クリストファー・リリーとトーマス・マッコイは、ニューヨークのバワリーで顔を合わせた。実はこの試合は、「遺恨試合」でもあった。というのも、その数週間前、リリーがマッコイに挑戦状を叩きつけたが断わられ、怒ったリリーがマッコイを殴る、という事件が起きたのだ。スポーツマン・シップを欠いたリリーの振る舞いをきっかけに、両者は試合での決着に同意。ボクシングの正当なマナー通り、マッコイもリリーも当代きってのボクシング・コーチの下でトレーニングを積んでいた。

ある記者がニューヨークの『Spirit of the Times』紙に、この試合の記事を寄稿した。プロボクサーの人生と、彼の痛ましい死についての秀逸なボクシング記事であった。この記者は、試合当日、トーマス・マッコイの家を訪ね、彼が飼い犬と遊ぶ姿、仲間たちとジョークを交わす姿、応援の言葉をかけてくれた近所のアイルランド系女性たちに、丁寧にお礼をいう姿を見た。もしかしたら誇張かもしれないし、あるいは奇妙な啓示があったのかもしれないが、マッコイは「勝つか、死ぬかだ」と言明したらしい。試合会場は、ニューヨーク州ウエストチェスター郡、ヘイスティングス・ランディング。1500人以上の観客が仮設アリーナに集まった。その会場は草だらけで、ほぼ平坦だった、と表現されている。

クリストファー・リリーは、当時23歳だった。20歳のマッコイよりも数センチ背が高く、体重は約63.5キロ。約62キロのマッコイに比べると、リリーのリーチは明らかに有利だった。2人の若者は向かい合い、コイントスでコーナーを決めた。そこではマッコイが勝ち、やや高くなっているコーナーを選んだが、逆にそのために、陽射しにより視界が遮られてしまった。そして両者は、勝者への賞金となる100ドルを献上。つまり、トーマス・マッコイは100ドルのために命を落としたのだ。

試合開始

午後1時きっかりに、1ラウンドが始まった。両者ともパンチが決まり、マッコイの耳は既に流血していたが、リリーをダウンさせる。しかしリリーは無傷で立ち上がり、笑顔で自分のコーナーに戻ったマッコイを逆に嘲笑していた。『Spirit of the Times』に掲載された記事には、120ラウンドの詳細が記されている。ほぼ毎ラウンド、2人のどちらかがダウンしたが、アメリカでクインズベリー・ルールが制度化される、そうでなくともルールが「守られる」前に行われた試合だったので、投げ技は容認され、エイトカウントシステムもなければ、ダウンの回数にも制限がなかった。試合序盤は両者互角とみられていた。

「8ラウンド。リリーが鋭いブローをマッコイの顔に入れると、そこから怒涛の連打がマッコイを襲う。マッコイも距離を詰めた。厳しい打ち合いのあと、マッコイはリリーを投げ飛ばそうとした。しかしリリーはその際にマッコイを巻き込み、彼を下敷きにして激しく倒れ込んだ」

「28ラウンド。リリーは落ち着いており、用心深かった。逆にマッコイは興奮しており、セコンドが『落ち着け』という隙も無いほど、殺気立っていた。リリーがマッコイの首あたりに、3発のきついブローを立て続けに見舞った。客席全体に潰れたような音がした。恐れ知らずのマッコイは、思い切って距離を詰め、2〜3発を当てるものの、逆に投げ技を決められてしまった」

30ラウンドまでに、マッコイは鼻からひどい流血をし、さらに片目が腫れあがっていた。一方のリリーはアザひとつなく、マッコイにブローを見舞い続ける。マッコイは空振りも多くなり、自ら転ぶようになった。しかしマッコイはダウンしない。35ラウンドでマッコイは、血にまみれた自分の顔を指し、「なんでここを殴らないんだ?」とリリーを挑発した。それにリリーが乗ると、マッコイは復活し、激しいパンチを食らわせた。その威力は大きく、リリーは投げ飛ばされ、その際リングポストに頭を打ち付けた。

2人は1時間以上戦い続け、ラウンドは50を過ぎていた。リリーはそこまで疲弊しているようには見えなかったが、マッコイの流血はひどく、顔はすっかり腫れ、視界はほぼ塞がれていた。それでも少し回復した54ラウンド、リリーをヒップトスで頭から投げ飛ばした。しかし、彼の復活も長くは続かず、70Rまでにはリングの中をよろめき、吐いた血が自身の胸にかかっていた。観客席からは、「彼を下ろしてやれ!」とマッコイ陣営のコーナーに叫ぶ声も聞こえていたが、勇猛な(あるいは愚かな)マッコイは、根気強く戦い続けた。そして2人は消耗戦を続けた。リリーが何度もパンチや投げ技を繰り出し、マッコイは攻撃を仕掛けるよりも受けるほうが多かった。88ラウンド、試合開始から既に2時間。観客は試合を終わらせるよう要求し始めた。「やめろ、やめろ!」「死ぬまで殴るのか!」その叫びが「予言」になるとは、誰ひとりとして知らなかった。

試合が経過するにつれ、マッコイは自身のコーナーで立ち尽くすようになる。リリーは何度もマッコイを倒した。観客は「頼むからマッコイをリングから下ろせ!」と叫んでいた。しかし、それでもマッコイは戦う姿勢を見せ、数ラウンドに1度はリリーに対しパンチや投げ技を繰り出した。間違いなく2人とも疲れ切っていたが、マッコイは体内の大量出血で苦しんでいたはずだ。息も絶え絶えで、血を吐きながらも立ち上がり、何度もリリーに向かっていった。

107ラウンド。やはりマッコイは立ち尽くし、舌を出し、ただ空気を吸っていた。記者は、彼の様子を描写する。儀式で詠まれる詩のようだった。

闘争心こそ雄々しいが
すでに命脈は絶たれ
全ての血管が破裂しようとも
一切苦痛の色を見せなかった

マッコイは、覚束ない足取りでリリーへと向かっていくが、またダウンした。そのとき、彼のコーナーでは、念のため雇われた医師がその様子を見ていたが、明らかに危険な状態なのに何もしなかった。記者はその「人でなし」な医師について、マッコイの死の責任は疑いの余地なくその医師にある、と指摘している。「硬く汚いもじゃもじゃの髪、ブツブツの顔、表情のない濁った目」……記事に描かれている医師の風貌はいかにも卑劣漢だ。118ラウンド、マッコイは再び倒れる。観衆は「彼を助けてやれ!」とマッコイ側のコーナーと医師に罵声を浴びせるが、セコンドは「まだ半分もやられていない」と返しただけだった。しかし、そのたった2ラウンド後、リリーの投げ技を喰らい、そのままリリーの下敷きになったマッコイは、遂にリングの上で動かなくなった。2時間43分の死闘だった。

「彼は仰向けに横たわっていた。顔と首はアザだらけで、原型をとどめず、腫み、腐敗の初期段階にある物体だった。喘ぎ、激しく呼吸するせいで、腫れた唇は口内に深く入りこんでいた。次の瞬間、彼の呼吸が止まった。『死んだ!』。その言葉が周囲に広がっていった」

マッコイの死体は彼の家に運ばれ、検死解剖された。そして検死にあたった医師たちは、彼の両肺が血液で浸された状態になっているのを確認し、窒息死、と断定した。

裁判

アメリカで初めての死亡例となったこの試合に対して怒りの声が噴出した。さらにボクシング反対派は、これを恰好の批難材料にし、法律によるボクシングの禁止を訴えた。1842年11月22日火曜日、クリストファー・リリーと、リリーのセコンド、マッコイのセコンド、そして「人でなし」の医師を含む18名が、殺人の罪で起訴された。ボクシングを禁止する制定法は当時なかったため(しかしその後、法令となった)、罪状は殺人、そして「暴動・乱闘」とされ、たった3時間の審議の結果、陪審員団は被告を有罪と判断。判事はボクシング、そして、そのような不道徳なショーに参加する人間を非難した。ボクシングの観客を「労働もせず、乱暴で、危険で、堕落的で、暴力と犯罪によって生きているような人間の集まり」とさえ断言した。潔癖・厳正を良しとする、ピューリタニズムに端を発するアメリカ合衆国の善良な国民は、トーマス・マッコイの死に恐れ慄き、反道徳的で無法なボクシング・コミュニティを何の躊躇いもなく批難した。

もともとボクシングを批難する反対派はいたが、マッコイの死により、複数の州でボクシング禁止運動が起こった。それは、ボクサーたちを危害から守るため、そしてボクシングに参加する無頼漢のような輩たちから、アメリカ国民を守るためであった。19世紀のボクシングは、現在のボクシングでも総合格闘技でもなかった。当時のボクサーは、頭突きも、投げ技も、踏みつけも、蹴り技も、目潰しも可能であったし、試合をコントロールする本当のレフェリーもいなければ、選手たちの状態をチェックするスタッフもいなかったのだ。マッコイの死とその後の訴訟によって、より安全でマイルドなボクシングへの道が開かれたのは確かだ。そしてその250年後の今、ボクシング人気は不動のものとなっている。

19世紀のアメリカは、英国のボクシングスタイルを見習うべきだった。クインズベリー・ルールを徹底すべきだった。業界の組織化と、選手の安全に対する配慮があれば、「自己防衛のための男の術(すべ)を紳士的に習得するためのボクシング」、もしくは現在のスタイルにもっと早く近づいていたに違いない。

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18世紀英国の女性ボクシング事情
SPORTS-
2016.09.20

Text by L.A. Jennings



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1987年、ジョイス・キャロル・オーツ(Joyce Carol Oates)による『オン・ボクシング(On Boxing)』が出版された。この著書の中でオーツは、「ボクシングは、純粋たる男性的行為であり、純粋たる男性的世界に存在する」と述べている。オーツのボクシングへの情熱は、この文章が書かれた同時代の研究の視野を狭めてしまったのかもしれない。あるいは、女性ボクサーの存在を知ってはいたが、ボクシング自体、そしてその概念に関しては、本質的に「男性的」という特徴を持ち続けると考えていたのかもしれない。おそらく彼女のその考えは間違っていないだろう。一般的にスポーツ(特にボクシング)は、男性が挑むべきものとして、われわれの集団的無意識のどこかに刻まれている。現在でも、われわれが女性ボクサーについて語るときは、ただの「ボクサー」ではなく「女性」という申し送りが必要だ。この風潮は格闘技に限らない。ジェンダーについて研究するマイケル・キンメル(Michael Kimmel)は、権力の中心にいる人物は、自らの特徴を示される必要がない、という事実を見出した。つまりスポーツをする男性は「アスリート」だが、スポーツをする女性は「女性アスリート」なのだ。「女性」という修飾語句がつくと、力の中心から追いやられる。「アフリカ系アメリカ人女性」、「アジア系アメリカ人女性」など、他の修飾語句が加わると、周縁化がさらに進む。男性は常にスポーツの中心に、ひいてはスポーツの歴史の中心にいる。

格闘技は男性優位のスポーツなので、女性は格闘技の世界には身を置けない、と主張する人は、ここ300年ずっと存在している。女性の身体は格闘技に不適格だ、という批判もあるし、ボクシングやレスリングは、常に男性のスポーツであったのだから、女性はその世界に足を踏み入れるべきではない、という主張もある。しかしそれらの主張は、歴史的には誤りだ。リングの上もマットの上も、金網の中も女性がいるべき場所ではない、という意見は長らくあるが、実は何千年ものあいだ、女性は格闘技の世界で活躍してきたのだ。都合のいい忘却や過去の改ざんにより、女性格闘家の歴史は消されてしまい、男性主体の体制が残り、女性は、今までもこれからも、そんな男の世界には属せるハズがない、という誤解が蔓延してしまったのだ。

こうして、女性の公式競技による格闘技への参加を阻もうとする人間や、現代の女性…例えば、軍隊、政治、アメフトに参加する女性を邪魔者扱いしたがる向きにより、女性格闘家の歴史は都合良く忘れ去られた。しかし、印刷機の誕生や、丁寧に保存されたドキュメントのおかげで、この500年間に女性格闘家が存在した、という事実を明らかにする1次資料が、マイクロフィルムとインターネット・データベースに残されている。そのなかでもエリザベス・ウィルキンソン・ストークス(Elizabeth Wilkinson Stokes)という女性格闘家は、1720年代、新聞に彼女への挑戦状を掲載していた。当時から、闘いはリングだけではなく、メディアでも繰り広げられていたのだ。

全盛期に活躍した格闘家にはビッグマウスが多い。現代の格闘家は、Twitterで大袈裟な発言をするとファンに批判されるが、当時は、大声で喋る人間ほど世間は注目し、さらに、チャンスも手にできたのだ。18世紀はじめのボクサーたちは、当時の民衆の識字率と新聞の普及率の上昇を生かし、新聞上でのプロモーションを展開した。試合相手を指名し、自ら次の試合を宣伝した。「国際ボクシング・ホール・オブ・フェーム」で、「ボクシングの父」と認定されているジェームズ・フィグ(James Figg)は、当時のチャンピオンたちがそうしたように、引退してからイギリスで正統な格闘ジムを開いた。彼の「護身術スクール」では、ボクシング、剣術、棒術を教えていた。フィグはライバルたちを貶めるのに新聞を利用した。無敗を誇る自らのキャリアを読者に思い出させ、自らのジムが最高のトレーニング・スクールである、とプロモートしたのだ。その生徒のひとりがエリザベス・ウィルキンソン・ストークスであった。彼女は、格闘家としての短いながらドラマティックなキャリアのなかで「アメリカとヨーロッパの女性チャンピオン」として名を馳せた。

エリザベスについて、われわれに与えられている知識は、彼女が新聞に掲載した挑戦状だけだ。1次資料は紛失したり、火事で燃えたり、洪水で流されたりと散逸しがちだが、彼女の挑戦状だけは現存する。しかし、この挑戦状以外の資料はないため、18世紀(もしかしたら史上)最高の女性ボクサーの実像はいまだ謎のままだ。

エリザベス・ストークスは、18世紀初頭にボクシングの「ヨーロッパ女王」と自称した。そう、彼女は間違いなく「ヨーロッパ女王」であった。記録されている最初の試合は、1722年、対ハンナ・ハイフィールド(Hannah Hyfield)戦。ストークス側が挑戦状を送った試合だ。ストークスは、ハイフィールドを激しく打ちのめし、24分で完全勝利する。女子ボクサーの試合は、珍しいものだったので、『London Journal』は、エリザベス・ストークによる挑戦状を再掲載した。

「公共闘技場でのボクシングは、目下、男性のあいだで流行しているが、女性のボクシング参加は今までなかった。しかし先週、2人の女性が初めて、ホックレー・イン・ザ・ホールの闘技場で、勇敢な闘いを繰り広げ、観衆を大いに湧かせた」

同紙はさらに、試合前にエリザベス・ウィルキンソンがハンナ・ハイフィールドに送ったそのやりとりも再掲載した。

「私、クラーケンウェルに住むエリザベス・ウィルキンソンは、ハンナ・ハイフィールドと口論をした。それに対し、償いを要求する。リングに上り、3ギニーをかけボクシングで勝負していただきたい。両手にそれぞれ半クラウン銀貨を握り、最初に銀貨を落としたほうが敗北だ」

ハイフィールドも同じように応えた。

「私、ニューゲート・マーケットのハンナ・ハイフィールドは、エリザベス・ウィルキンソンの断固たる意志を聞き入れ、神が許したまわれば、彼女に与えた言葉以上のブローを必ず与えるだろう。本気のブローでかかってきてほしい。一切の慈悲は不要だ」

ウィルキンソンとハンナ・ハイフィールドは、おそらくこの試合の前にも戦っているが、1722年以前に、ウィルキンソンの名が掲載されている記事はない。

また、「エリザベス・ウィルキンソン」という名前は、歴史家たちのあいだで議論の的でもある。同時代に殺人を犯し死刑となったロバート・ウィルキンソン(Robert Wilkinson)と、何らかの関わりがあるのではないか、と推測されているのだ。ロバートは殺人者であったが、同時にボクサーでもあった。1927年にアーサー・L・ヘイワード(Arthur L. Hayward)が『Lives of the Most Remarkable Criminals』という著書を上梓した。その著書は、18世紀に生きたイギリスの犯罪者たちの伝記集で、1735年の新聞の原本コレクションを元に編纂された。その中に、ロバート・ウィルキンソンのストーリーも含まれており、そのストーリーを締めくくるのは1922年に再版されたエリザベス・ウィルキンソンとハンナ・ハイフィールドの挑戦状のやりとりだった。著者はそれについて解説していないが、殺人者ロバート・ウィルキンソンとボクサー、エリザベス・ウィルキンソンのつながりを暗に示している。

ボクシング史の熱心な愛好者は、2人の関係を幅広く研究した。血の繋がった親戚や配偶者では、という説、凶悪な元ボクサーの殺人者を崇拝したエリザベスが「ウィルキンソン」という姓を拝借しリングネームとして名乗った、という説までさまざまな説がある。前説は、「エリザベス・ウィルキンソン」という名前が、ハンナ・ハイフィールドに対する公の挑戦状以前の歴史的記録に一切登場していないのをヒントに、エリザベスが改名した、と推測する。しかし、18世紀のイギリスの若い女性にとっては、成文化された書類に名前が載らないのは、ごくごく当たり前である。もし、1722年の挑戦状以前の文書があったとしても、それらの文書が長い年月を経てさまざまな事情により散逸し、残っていない可能性がある。

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ウィリアム・ホガース(William Hogarth, 1967-1764)によるジェームズ・フィグ

ハンナ・ハイフィールドに勝利したのち、エリザベスはジェームズ・フィグ格闘ジムの「主」になった。試合を続けた彼女は、リングの覇者になった。エリザベスはボクシング活動を通して、当時のジェンダーロールを公然と無視していたが、英国社会から非難されたりはしなかった。むしろ、ちょっと風変わりなブリテン諸島のヒロインだった。19世紀英国のスポーツ・ジャーナリスト、ピアース・イーガン(Pierce Egan)が英国文化におけるボクシングについてのシリーズを著している。イーガンは、イギリスで生まれた男たちに固有の「男らしさ」と勇敢さを引き合いに、ボクシング人気を英国のナショナリズムと関連づけた。しかしイーガンは、ボクシングにおける「国の誇り」は男性社会を超えた、ともいっている。「女性ボクシング」と題された小さな項では、エリザベスとハンナ・ハイフィールドのやりとりを引き合いに、こう記している。「女性戦士であってもボクシングの名誉の証を渇望したのだ!」

1722〜26年のあいだに、エリザベス・ウィルキンソンは、同じくボクサーのジェームズ・ストークス(James Stokes)の妻、エリザベス・ストークスになる。ジェームズはエリザベスのプロモーターであり、伝説のボクサー「ジェームズ・フィグ」の仲間(のちに対戦相手となる)だった。ジェームズとエリザベスのような格闘家同士の結婚は、18世紀の女性ボクサーにとって、一般的であった。その後、エリザベスとジェームズは、夫婦ペアでの挑戦も受けていた。

1726年10月1日土曜日、『The British Gazetteer』で、イギリス人のエリザベス・ストークスとアイルランド人、メアリー・ウェルチ(Mary Welch)の試合が発表された。会場はエリザベスの夫ジェームズが所有するストークス円形闘技場。広告の下部には注意書きがある。「選手はジャケット、膝下程度の短いペチコート、ホランド・ドロワーズ、白の長靴下、そしてパンプスを着用する」

「私、アイルランド王国のメアリー・ウェルチは、高潔な防衛技術の手ほどきを受け、それを体得した。そして、この競技においては、ヨーロッパ唯一の女性選手だと信じてきた。しかし、このグレートブリテン王国には、公の舞台で試合をしてきた女性がいるのを知った。それは、ストークス夫人であり、彼女はイギリスの女王だ、と認められている。そこで、この場を借りて私は彼女に、互いの技術で勝負する旨を申し入れる。会場は彼女の所有する闘技場。彼女がイギリスの女王である事実に疑いないが、私の判断力と勇気のほうが優れているのを証明するためだ」

ウェルチに対してストークスは、自分がリングの上では無敗である、と主張した。

「私、高名なロンドン市のエリザベス・ストークスは、上記で言及されている『技術』と判断力の高さによって、『ロンドンの無敗の女王』という名で知られ、常に勝利と喝采で試合の終わりを演出している。アイルランドの女王の挑戦を受けるのに、何ら逃げ口上を弄するつもりはない。これまで築いてきた名声を保持し、女王エリザベス・ストークスが我が国に名誉を献上する試合になるだろう」

試合の広告はイギリス全土で何度も刷られているが、残念ながら、試合の結果について詳述している書類は、公的なものも私的なものも一切残っていない。しかし、エリザベス・ウィルキンソン・ストークスは無敗のキャリアを誇ったようだ。

1727年7月1日、ストークス夫妻は、エリザベスに敗北を喫したであろう挑戦者メアリー・ウェルチと、彼女のトレーニングパートナーで同じくアイルランド出身のロバート・ベイカー(Robert Baker)、2人のペアから挑戦を受けた。ペアでの試合だったが、それぞれ男同士、女同士で別々に戦った。その挑戦状で、アイルランドの二人は「ストークス氏と『アマゾネスの女戦士』に試合を申し入れた。『女戦士』は『大したことのない勝利』を重ねただけで天狗になっている」と指摘した。ストークス夫妻はそれに対し、これまでにないほど皮肉を利かせた、嘲笑的に応えた。

「われわれロンドン市のジェームズ・ストークスとエリザベス・ストークスは、これまでの自分たちのパフォーマンスによって、素晴らしい名声を打ち立てた、と信じている。そのため、これ以上アイルランド人の挑戦を受ける必要は無いはずだ。しかし、名誉を欲す『アベック』は、われわれにかなわないのを信じようとしない。ただ、彼らの支払いはかなりの額になるので、今回だけは彼らの挑戦に応じよう。もし彼らの夢が、2人で有名になる夢が、2人で敗北を共有する結果になっても、われわれにケチをつけるのではなく、自らの無分別さを認めるくらい彼らが慎み深い人間であるのを願う」

ヨーロッパのボクシングチャンピオンでありつつ、エリザベス・ストークスは若いボクサーたちを育てるインストラクターでもあった。メアリー・ベイカー
戦告知の最後に注釈があった。「女性たちの試合のあいだに、ストークス夫人の教え子2人によるクオータースタッフ(六尺棒)の試合もあり」。教え子たちの性別など、詳細は見つからないものの、大きな試合会場で教え子を戦わせる当時のエリザベスの権力を表している。

1728年、エリザベスは、かつてないほど厳しい挑戦を、ストーク・ニューイントンのアン・フィールド(Ann Field)というロバ使いの女性から受ける。歴史家はこの挑戦状をよく引用する。それは、アンの生業が興味深いからでもあろうが、それに対するエリザベスの返答に自信が漲っているからだ。この紙面上でのスマートで笑えるやりとりは、1728年10月7日の試合そのものが霞んでしまうほどだ。

「私、ストーク・ニューイントンのロバ使い、アン・フィールドは、どんな人間と対戦しようとも、自らを守るボクシング能力の高さで知られている。そんな私が、『ヨーロッパの女王』と自称するストークス夫人から攻撃を受けた。そこで、彼女がどれだけすごいボクサーなのかを見させてもらうべく、10ポンドで私と闘うよう、申し入れる。正々堂々と戦おうではないか。私の判断力を提示し、私がステージの女王である、と彼女に認識していただこう。そうなれば私の友人たちも喜ぶであろう」

フィールドの勇気ある挑戦へのストークスからの返事はかなり辛辣だった。「私、ロンドン市のエリザベス・ストークスは、6年前にビリングスゲートの有名な女性ボクサーと闘い、29分で決着をつけ完全勝利を収めて以来、こういった試合はしていない。しかし、ストーク・ニューイントンの有名なロバ女が10ポンドで私に闘いを挑んでいるので、それを獲得するために彼女に会う、と約束しよう。私のブローは、彼女がこれまでロバたちに与えた打撃よりも間違いなく強いだろう」

続く1728年12月、さらにストークスは再び公共の場での試合を申し込まれる。しかし、今回の彼女に対する挑戦状は、挑戦者の夫が書き手であった。アイルランド・ダブリン出身トーマス・バレット(Thomas Barret)。自身は「600余りの試合を闘った」といい、妻の「美しいサラ・バレット(Sarah Barret)」をエリザベス・ストークスの「深遠な」才能と戦わせたい、と書いた。「妻のサラはアイルランド、スコットランド、イングランドで35試合を戦ってきて、これまで一度も負けていない。『ヨーロッパの女王』と同じくらい素晴らしい選手である」と、トーマス・バレットは表現する。それに対しエリザベスとジェームズは、多くを語らないスタンスで返信した。

「私、ロンドン市のジェームズ・ストークスとエリザベス・ストークスは、もう公共の場で闘うつもりはなかった。しかし、グレートブリテン島北部にいるアイルランド人の新チャンピオン、そして新女王の勇姿について、スコットランド紳士、アイルランド紳士たちから聞き及んでいた。このめぐり合わせには驚きもしない。彼らが劣る、と明らかにしよう。私たちは、必ず名声を手にし、観客全員に満足を与える」

こんな風に、1730年までエリザベスのキャリアは紙面を賑わせ続けた。1729年5月には、ダブリン出身のチャールズ・ライト(Charles Wright)と、彼の「教え子」であるメアリー・ウォーラー(Mary Waller)が、「高名なロンドン市チャンピオン」ジェームズ、「現在ブリタニア最強の女傑とされている」エリザベスに挑戦状を送った。その後も挑戦状は続いたが、そのなかでも、最も美辞麗句の多い冗長な挑戦状は、ジョゼフ・パッドン(Joseph Paddon)によるもの。パッドンは、ストークス夫妻を「2つの金城鉄壁」と称し、2人に向けて、彼自身と「ゆりかごから戦場まで」彼が面倒を見た生徒と闘ってくれ、と挑戦した。残念ながら、これらの試合の情報は「試合前の冷やかし合い」しか残っていない。19世紀にならないと、イギリスでもアメリカでも、ボクシング専門の出版物は登場しないからだ。

エリザベスは基本的に、ボクシングで格闘家としてのキャリアを積んだが、短刀や短剣のスキルでも知られていた。

エリザベス・ウィルキンソン・ストークスは、イギリス史上、最も尊敬された女性ボクサーだろう。しかし、性別の規範をものともせず、ボクシングのリングへ上がっていく女性は、彼女が最初でも最後でもない。彼女がどう生きたかについては、史料が不足しているためにわかるべくもないのが残念だ。歴史家クリストファー・スラッシャー(Christopher Thrasher)は自著『Disappearance: How Shifting Gendered Boundaries Motivated the Removal of Eighteenth Century Boxing Champion Elizabeth Wilkinson from Historical Memory』の中で、男性優位の時代に合わせて、「社会」が意図的にエリザベス・ウィルキンソン・ストークスの名をボクシング史から消し去ったと主張している。格闘家のジェームズ・フィグは、現在「ボクシングの父」と称され、彼のキャリアについての文献は何百もある。しかし、スラッシャーによると、彼らが生きた当時、フィグよりもストークスが人気だったようだ。スラッシャーは、18世紀から21世紀まで、Google Booksのデータベースを調査した結果、19世紀にはストークス人気が高く、20世紀になるとフィグが彼女を追い抜き、その後、彼女は無名になった、という結果を導きだした。後期ヴィクトリア朝時代

に「男らしさ」というものが復活した際、歴史家たちがこぞってジェームズ・フィグを祭り上げ、逆にエリザベスをコーナーに追いやってしまったのであろう。


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酒池肉林のベーブ・ルースを救ったボクシング
SPORTS-
2016.10.20

Text By L.A. Jennings



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本名:ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア(George Herman Ruth Jr)。そして、バンビーノ:男の子(Bambino)、打撃の帝王(The Sultan of Swat)、ザ・キング・オブ・クラッシュ(The King of Crash)、長打の王様(The Colossus of Clout)など、様々な愛称を持つベーブ・ルース(Babe Ruth)は、歴史的に最も有名なアメリカの野球選手である。1895年2月6日に生まれたルースは、メジャーリーグで22シーズンをプレーし、放った714本のホームランは、1974年までメジャー最多記録を保持していた。ベーブ・ルースは、大食漢であり、大酒家でもあり、充実した日々を送るために惜しげも無く金を遣いまくった。その結果、不摂生が祟り、この男はある時期にどん底を味わったのだが、まったく異なるスポーツのおかげで復活できた事実はあまり知られていない。ベーブ・ルースは、ボクシングをトレー二ングに取り入れ、野球のスーパースターに返り咲いたのだ。

ベーブ・ルースの野球人生は、セイント・メアリーズ少年工業学校で始まった。この学校は全寮制の矯正学校兼孤児院で、素行の悪さから手に負えなくなった両親が、当時7歳だったルースをここに送り込んだ。その後、野球の才能が開花。1914年からは、ボストン・レッドソックスで、投手との二刀流を続けながら、最強のホームランバッターへと成長。1919年には、ニューヨーク・ヤンキースに移籍し、ほぼ打撃に専念するようになる。「年間2桁のホームランを打てば強打者」とされていた時代に、ルースは40本越えを11度、50本越えは4度も記録。スポーツ史に残る偉大なスーパースターとなった。

ヤンキースに移籍した1919年、既に彼は「プロ・ボクサーに憧れている。なってみたい」との発言を残している。ルースはリングでの刺激を求めていたようだが、同時にチャンピオンが手にする莫大な賞金も狙っていたのかもしれない。もちろん、ボクシング側のプロモーターやマネージャーたちは、この「ザ・コロッサス・オブ・クラウト」に可能性があるとは考えていなかった。ルースは強打を誇っていたものの、拳や手首が特別強かったわけではない。何年もバットを振り、ピッチャーをこなし、外野からホームに向かって返球していたので、その野球慣れした関節と筋肉は、まったくボクシングに適していなかった。更に、暴飲暴食の日々によって腹部は丸々と大きくなり続けた。身長188センチの大男にとって、体調管理や養生といった意識は皆無で、「一度に10個のホットドッグを食べ、一夜で6人の女性を相手にしている」などとメディアは素行を報じた。こんな男、普通なら「子供たちの憧れの野球選手」にならないものだが、当時のニューヨーク・ワールド紙は、ルースを「最も愛すべきバッターであり、愛すべきバッド・ボーイ」と評している。



他のトップ・アスリート同様、ルースは常に大袈裟で、調子の良い話を早口でまくしたてるような男だった。パーティー三昧のだらしない生活態度はエスカレートし、ヤンキース移籍から5年経った1925年にピークを迎える。春季キャンプに現れた30歳のベーブ・ルースは、ブクブクに膨れ上がっていた。動きも緩慢で、さらに過度の浪費癖から、金にも困っていたという。チームメイトのジョー・デューガン(Joe Dugan)による「ベーブは、昼も夜も関係無く、女と酒に浸っていた」という発言はあまりにも有名だ。そんな状態のルースであったが、春季キャンプでは打率4割を記録し、きっちりと結果を残した。今シーズンも例年以上の活躍が期待されたが、やはり不摂生の影響から、ある日ルースは倒れてしまう。「その瞬間、ベーブ・ルースは頭を打ち、死んでしまった」という誤報が世間を騒がすほど、彼は注目されていたのだ。

しかし、ベーブ・ルースは予想以上にタフだった。腸内に発見された腫瘍の摘出手術後、7週間の入院生活を経て、6月1日にシーズン初めての試合に出場。それは、退院からたった1週間後の試合であった。入院の原因は、暴飲暴食やアルコール中毒といった見解が多かったが、「実際には性病だったらしい」との噂も飛び交っていた。ルースは酒と女を止めなかった。遠征先のホテルを抜け出しては、自由時間を満喫していた。さすがにプレーにも影響が出始め、監督のミラー・ハギンス(Miller Huggins)は、ルースに5000ドルの莫大な罰金を要求。これに対してルースは逆ギレし、チーム・オーナーのジェイコブ・ルパート(Jacob Ruppert)や、マスコミに不満をブチまけたりもした。結局、この年のヤンキースは大きく負け越し、ルースも自身最低の成績(打率.290、ホームラン25本)でシーズンを終える。しかし、信じられないほどの不振、そして僅かによぎった死への不安から、ベーブ・ルースは一歩前へ進む決意し、著名なトレーナーであるアーティー・マクガヴァン(Artie McGovern)の門を叩いた。

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アーティー・マクガヴァンは、ボクシングの元フライ級チャンピオン。引退後の1925年に、ニューヨークで「マジソン・アベニュー・ジム」をスタート。セレブ御用達フィットネスクラブの先駆けである。マクガヴァンの顧客には、ルースと同じくメジャーリーグのスターであったルー・ゲーリッグ(Lou Gehrig)をはじめ、ボクサーのジャック・デンプシー(Jack Dempsey)やゴルファーのジーン・サラゼン(Gene Sarazen)、さらには『ワシントン・ポスト』から『星条旗よ 永遠なれ』など、数々のマーチを生んだ作曲家・指揮者のジョン・フィリップ・スーザ(John Philip Souza)なども名を連ねていた。マクガヴァンの指導法は、鬼軍曹の如く真面目で厳しいものであった。顧客の食事は管理され、砂糖やスイーツはご法度。バランスのとれた食事を推奨した。トレーニングそのものも過酷で、一切の妥協も許されなかった。マクガヴァンのジムは人気を集め、ウォール・ストリートの大物たちも、ジムを訪れるか、自宅に「マジソン・アベニュー・ジム」のトレーナーを招くほどだった。その後、マクガヴァンは「フィットネスの父」と称されるようになる。

トレーニングは、ストレッチ、ウエイトトレーニング、数ラウンドの縄跳び、ボート漕ぎローイングマシン、トレッドミルなどを使った有酸素運動が中心だった。同時にマクガヴァンは、アスリートのためのトレーニングについて着目し、あらたなエクササイズも生み出していた。それは、専門種目だけでは鍛えられない筋肉をターゲットにした、今日の「ファンクショナルトレーニング

」の先駆けでもあった。マクガヴァンは、ボクシングだけでなく、様々な格闘技に触れていたため、ジムに通う野球選手、ゴルファー、弁護士、百万長者の妻たち、オペラのソプラノ歌手までもが、ボクシングとレスリングを取り入れたトレーニングに励んでいた。

「マジソン・アベニュー・ジム」では、サンドバッグを打つだけではなく、実際にスパーリングもメニューに入っていた。ニューヨークのセレブやビジネスマンが、アスリートと対戦する光景も良く見られ、最近オークションに出た写真にも、ベーブ・ルースとニューヨーク証券取引所のメンバーであったJ.G.ホール(J.G.Hall)によるレスリング風景が映っていた。またマクガヴァン本人も、オペラ・スターのナネット・ギルフォード(Nanette Guilford)とスパーリングをしていたそうだ。マクガヴァンは、ルースを上客として迎え入れ、減量のために、食事と飲酒を管理する積極的なプランを用意した。

ルースは、厳しいトレーニングに真面目に取り組んだ。健康を取り戻さなければ、野球選手としてのキャリアが終わってしまうとわかっていたからだ。1日4時間のトレーニングで、筋力をアップさせると同時に、118キロあった体重を減らしていった。ハンドボールやゴルフも取り入れ、ジョン・フィリップ・スーザなどの有名人の隣で汗を流し続けた。

「ベーブ、若返りの泉(Fountain of Youth)

でも見つけたのか?」と誰かが訊くと、「いや、アート・マクガヴァンのジムを見つけたんだ」と応えたそうだ。

マクガヴァンは、世界最高のアスリートたちに新しいトレーニング・スタイルを提供し、アスリートたちもそのキャリアに磨きをかけた。マクガヴァンによるリハビリ・トレーニングが功を奏し、ルースは、翌1926年のシーズンは打率.372、ホームラン47本と活躍した。さらに1927年は、打率.356、ホームランは自己最高記録となる60本、ヤンキースも圧倒的な強さでワールドチャンピオンに輝いた。また、この見事な復活劇もあり、「フィールド外でのトレーニング」がスポーツ界に広がった。その後もルースは、マグガヴァンのジムに通い、なかでもボクシング・トレーニングを積極的に取り入れていた。記者たちがルースとマクガヴァンのスパーリング撮影のためにジムを訪れると、ルースは「俺は、ヤンキースにとって8万ドルの価値がある選手だ」と言い放った。「そして俺が今一番に望むのは、脚の強化と、筋肉の軟化だ。ここにはじめて来た頃の体重は118キロだった。今はとても快調だから、あと数年の契約も問題ない」

ルースは、その後もボクシング・ファンであり続けた。偉大なヘビー級チャンピオンであるジョー・ルイス(Joe Louis)とも親交を重ね、彼のトレーニングに顔も出していた。残念ながら、ルースはプロのボクサーにはなれなかったが、ヘビー級のチャンピオンと同じようにグローブをはめてリングで戦う、という夢は実現した。超人的な力を発揮した「野球」の合間に、ベーブ・ルースは間違いなくボクサーになっていたのだ。

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立ち技世界最強 タイの国技
「ムエタイ」の伝統と現在
SPORTS-
2016.10.01

Text By Ren Hsieh



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This story was originally published on Dat Winning.

2年前、写真家のスティーヴン・カウンツ(Steven Counts)は、タイの伝統的スポーツ「ムエタイ」のルーツを撮るために、カメラと防水バッグふたつだけを抱えてタイへ旅立った。5か月もの間、東北部のイーサーン地域を中心に、村から村へとバイクで移動しては写真を撮り続けた。

カウンツは現地の言葉を話せないのに通訳もコーディネーターも雇わず、ジェスチャー、頷き、そして必殺の二単語だけを駆使し、最高のムエタイファイターたちを輩出するトレーニング・ジムに辿り着いた。長年、広告や企業ブランディングから離れたムエタイとその起源を撮影したい、と願っていた彼がそこで目にしたのは、今までメディアでは見たこともないような新鮮な光景だった。

努力は、上質なマット紙に『ムエタイ (MUAY THAI) 』というシンプルなタイトルを冠した196ページの「コーヒーテーブルフォトブック

」として結実した。この写真集は、キックスターターで資金集め、ブルックリンを拠点に活動する最強のディープ・スポーツメディア『ヴィクトリー・ジャーナル』のヴィクトリー・エディションからまもなく出版される。

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ブルックリンのアパートでカウンツとともに、写真集の撮影内容について会話した。タイを巡った5か月の旅には、この写真同様、たくさんのストーリーが隠されているようだった。

イーサーンのトレーニング・ジムは、予想通りの質素な施設だった。選手たちは、大き過ぎるパンツ、ボクシング・グローブなど、先輩のお下がりを着用していた。ボロボロの古いサンドバッグは、数万回打たれた重荷を背負っているかのようだった。

しかし、これこそが世代を超えて受け継がれるスポーツであり、これこそがカウンツを惹きつける要因なのだ。

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センチャイ・PKセンチャイムエタイジム(35歳)。最高のムエタイファイター。

「私は、カルチャーそのものに焦点を当てたかった」とカウンツは話す。「スポーツと一緒に生まれ、成長するカルチャーに焦点を絞りたかった。ゴージャスな面、荒々しい面だけでなく、ライフスタイルを見せたかったんだ」

カウンツの写真には大きな親近感が漂う。レンズを通した観察ではなく、場所を同じくする住民の目線のようだ。これは、ムエタイ・コミュニティ全般に、彼のようなアウトサイダーを暖かく迎える気質がなければ達成できなかっただろう、とカウンツは語る。

最初にカウンツは、イーサーン地方ブリーラム県のタコタピ地区に位置するジム「Kiatmoo9」に訪れた。そこでも彼は暖かく迎えられた。

町に着いた日、カウンツはすぐにファイターたちから好奇の視線を集めた。彼がカメラを見せると、早速ファイターたちはカウンツが撮りたいものを理解したようだったが、ジムはまもなく閉まるところだった。

カウンツは、ファイターたちに、明日の午後4時にもう一度来るよう誘われた。だがその夜、カウンツは食あたりに見舞われ、翌日、病院で診察を受けた後、ホテルで大事をとっていると、午後4時半、ドアがノックされた。

「酷い状態だったけれど、ドアを開けたら小さな子供がいてね。半マイル先のトレーニング・ジムの方を指したんだ。タイ語でなにかいって、付いてくるように、と身ぶりをしていたから、顔を洗って、力を振り絞ってジムに向かったんだ」

「ファイターたちは試合用の短パン姿で、バンテージを巻いて、チャンピオンベルトを腰につけ、さらにトロフィーも並べていた。体調不良なんてすぐに治ったよ。彼らを見た瞬間、痛みはすべてどこかに消えてしまった。そして、彼らと私はユナイトしたんだ。最初はまったく知らなかったけど、そのなかにはナショナル・チャンピオンも数人いたんだ」

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チーム「Kiatmoo9」。イーサーン地方ブリーラム県、タコタピ地区で。

カウンツによると、ムエタイというスポーツの存在感は、古き良きアメリカのそれと似ているそうだ。毎週末に行われるテキサスの高校のアメリカンフットボール、インディアナのバスケットボールの試合をみんなが楽しみにしていた時代の、スポーツの存在感だ。ただし、ムエタイはもっと大きな存在感があり、タイ国民の心に深く刻まれている。

スポーツは文化的な意義を持ちつつも、元来、生死を巡る戦いの歴史に大きく紐付いている。その中でもムエタイは、何世紀にも渡って侵略者たちを撃退するための戦闘武術として国家から認められていた。それは古代タイからの伝統であり、偉大な誇りでもあるのだ。

「ムエタイこそがタイ、タイこそがムエタイ。二人三脚でここまできたんだ」とカウンツは断言する。

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ムエタイ最高のファイターたちの大勢は、現在も生まれ育った村で生活している。その事実にカウンツは驚いたが、瞬時に納得する答えがそこにはあった。ファイターたちは、ムエタイで大金を稼ごうとしていない。そして、大金を求めているわけでもない。

「タイの人々の暮らしは、とてもシンプルだ。ひとまとめにするのは嫌だけれど、特にファイターたちは、物質的な豊かさを望まない。みんな、その村に住んでいるだけで幸せなんだ」

トップファイターの賞金は、アメリカで活躍するファイターたちよりも、もちろん少ない。だが、彼らのホームタウンで生活するには十分な金額であるから、村を離れる必要はない。そして、チャンピオンたちは、初心者の頃から同じ施設で、次世代ファイターたちと並んでトレーニングしている。

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これは、レブロン・ジェームス(Lebron James)

が地元のYMCAで、近所の子供たちと一緒にシュート練習をするようなものだ。しかしここには、セレブのゴシップ文化なんてものはない。子供たちも一般人も、ファイターたちにあれこれ話しかけたりせず、チャンピオンたちは、ファンに邪魔されずに普通に生活を続けているのだ。

「ブアカーオ・ポー・プラムック(Buakaw Por.Pramuk)以外は、ファンを気にせず移動できる」とカウンツは教えてくれた。ブアカーオは、元K-1チャンピオンで、国際的な成功を収めた伝説のムエタイファイターで、彼だけは例外だ。

タイのプロ・スポーツ界は、未だに欧米のような収益モデルが確立されていない。しかしカウンツにとっては、そんな環境も新鮮で純粋なイメージと結びついた。もちろん、セレブ選手を起用したナイキやジョーダンブランド、レッドブル、そしてESPNマガジンなどの仕事の方が、写真家にとっては相当のキャリアになる。しかしカウンツは、ナチュラルで慎ましさに溢れたタイに惹かれたのだ。

カウンツの経験そのものが映し出されたこの写真集には、気取っている写真も、必要以上に恣意的なアングルもない。偽りは全くない。被写体になったファイターたちは、富や名声のためでも、ただ試合を楽しんでいるのでもない。彼らは自らのためだけに闘う。それがタイのムエタイなのだ。

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しかし、インタビューの最後になって、カウンツは物悲しそうに口を開いた。「ムエタイの美しい光景は、こうやって私たちが話している間にも変わり始めている」

「今はサッカーが人気だし、他のスポーツも簡単に選択できるようになった。それに、大学の数も増え、地方の若者が教育を受ける機会も増えてきたんだ。もちろん、それはそれで素晴らしいけれど、ムエタイの伝統は衰退している。それが事実だ」

各種プロ・スポーツが国際的な注目を集め、そのエリート選手たちを取り巻く環境も変化し続けるなか、タイのムエタイにもその影響が及んでいる。実際、カウンツの訪れたいくつかのジムにも、海外のスポンサー企業が広告を掲げている。

写真集出版後、カウンツはニューヨーク市のギャラリーで展覧会を開き、そのあとはタイに戻ることを計画している。協力してくれたファイターたちが、カウンツの撮影意図を理解していたのか、確信が持てなくなったからだ。

カウンツは、何冊もの写真集をファイターたちに贈るつもりでいる。彼らこそ、ムエタイの歴史であり記録だ。それは時とともに状況がどう変わろうとも、真実なのだ。

https://jp.vice.com/lifestyle/transgender-kickboxer-in-thai



タイで活躍する
トランスジェンダー・キックボクサー
LIFESTYLE|
SPORTS-
2016.02.17

Text By Lindsey Newhall



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タイ農村部にある小さな屋外ジムで、ファッショナブルにコーディネートされたトランクスとタンクトップを身に着けたローズはとても目立っている。小柄で引き締まった胴体にぴったりとフィットしたショッキングピンクのタンクトップ、肩から覗く繊細な薄桃色のブラストラップ、光沢のあるサテンのショーツには金色の糸でリングネームRot-Duan(ロット-ドゥアン)と刺繍されている。

ラウンド終了後、彼女は丹念に塗ったアイメイクが落ちないように慎重に額の汗を拭う。双子の兄、ラックがクリンチの練習をするために彼女を呼んだ。ローズと同じくキックボクサーであるラックは、5分遅く生まれた妹のローズに全力で組み付いている。スパーリングでも手加減しない。女性のような装いをしているからといって、特別な配慮は一切ない。ローズはメイクをしたり、上品にクスクス笑ったり、ピンクのタンクトップを身に着けたりしているが、生物学的には男性である。だからローズの対戦相手はいつも男だ。

ローズは高校を卒業したばかりの18歳で、選手としての最盛期を迎えようとしている。7歳で初めてリングに上がって以来、2~300試合を経験した。ローズ、ラック、二人と同様にイサーンで格闘家として活躍している姉のゲール、イサーンとバンコクだけでなく中国でも勝ち星を重ねているゲールの夫ガングを知っている誰もが、内気な末っ子が家族でいちばん有名な選手になった、と笑う。ローズは一緒に笑いながらおどけてみせた。「それはわたしが選手として有能だから? それともわたしがレディーボーイ(カトイ、kathoey)だから?」

タイ語でトランジェンダーを意味する「カトイ」は、タイ社会で認知されている。英語では「レディーボーイ」と訳されることが多く、「第三の性」と呼ばれたりもする。トランスジェンダーに対する扱いはさまざまであり、受け入れられ、(トランスジェンダーであることを公表しているセレブのように)もてはやされるカトイがいる一方で、社会的、法的に辛辣な差別にさらされているカトイもいる。

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ローズもトランスジェンダーのムエタイ選手としてさまざまな扱いを受けてきた。故郷のナコーンラーチャシーマー県ピマーイの人々は概ね好意的だ。「地元の人々は親切。わたしをよく知ってる。格闘家としてのわたしに敬意を払ってくれる」。故郷には友人、ファン、そして支えてくれる家族がいる。

しかし故郷を離れるとそうもいかない。ローズと同じリングに足を踏み入れることを嫌がる選手もいる。彼女よりもずっと強い選手に対戦を拒まれたこともある。その理由は、彼女のジェンダー・アイデンティティが明らかに原因である場合もあれば、まったく不明な場合もある。「わたしが『強い』いから怖気づいたのか、それとも、わたしがレディーボーイだからなのか、どちらかわからない。試合が始まる1~2時間前に初めて対戦相手と顔を合わせた直後に断られることもある」

故郷コラートのピマーイでは、彼女との対戦を拒絶する選手はいない。ギャンブラーたちは彼女が好きだ。プレッシャーにさらされても平静を保ち、得意のクリンチに持ち込む彼女の戦法を知っている。地元のギャンブラーのなかには、彼女を見くびっているギャンブラーを出し抜くために、遠方で開催される試合にわざわざ足を運ぶ者もいる

「リングに入った途端に下劣な野次が飛んでくることもある」とローズ。「わたしの試合を見たことがないから。でも、そういう観客は一旦試合が始まったら静かになる。わたしのことを知っているギャンブラーはその人たちにこう言うでしょう。『えっ、勝てるわけないって? じゃあ賭けようか』」

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対戦相手の反応も多岐にわたっている。クリンチ中や、試合開始直後、グローブが触れた瞬間に頬にキスをされたりもする。クリンチ中のキスは不愉快だ。そのうえ話しかけられたりするともっと居心地が悪くなる。「キスの感想を聞かれたり、距離が近すぎるとか、クリンチが長すぎる、なんて文句つけてくる人もいる」

ムエタイの試合では、選手間の言葉のやり取りはめずらしくない。判定負けが明らかになると、静かに対戦相手に負けを認める選手もいる。また少数ではあるが、クリンチ中に、対戦相手が発する性的悪言による心理的負担を訴える選手もいる。悪言、不本意なキス、といったローズを恥ずかしめ、いら立たせるための心理戦術は無視するようにしている。

罵詈雑言を浴びせてくるのは、対戦相手だけではない。アナウンサーがローズについて、もしくは、得意技のクリンチについて、好き勝手にまくし立て、観客を盛り上げることもある。「あんなふうに言われるともう恥ずかしくてクリンチしたくなくなる。でも、わたしはクリンチ・ファイターだからそうもいかない」

観客やアナウンサー、あるいは対戦相手にどれほど不快な気分にさせられても、ローズは集中力を研ぎ澄ませて最終ラウンドに臨む。10年間で200試合以上をこなし、多くの判定勝ちを収めてきた彼女は、気持ちを切り替える方法を知っている。第4、第5ラウンドで対戦相手に全力で組み付き、しっかりと勝つ。

彼女に負けた対戦相手の反応もさまざまだ。「試合後にお互いに敬意を示すことはマナーなのに、それをしない選手もいる」彼女は両手を合わせて「ワイ」と呼ばれる、タイ式の敬意を示すジェスチャーをした。「全員がワイをしてくれるわけではない。でもそんなことはどうでもいい。わたしは勝とうが負けようがすべての対戦相手にワイをする。たとえワイを返してもらえなくても」

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全対戦相手が彼女に対して否定的、あるいは失礼な態度をとるわけではない。試合後に彼女のところに来て、リング上のパフォーマンスを褒めてくれるボクサーは多い。対戦相手の取り巻きやコーチが、いつかまた彼女の試合を見たい、と称賛てすることもある。また、試合後に連絡先を交換し、今でもFacebookや電話で連絡を取り合っている選手もいる。ローズは、高校生の頃からホルモン剤を摂取している。ピルは簡単に手に入った。タイ農村部の故郷では、高校生でも薬局で避妊用のピルを手軽に買えた。薬局の店主にとって、ローズと友人がまだ14歳であることなどどうでもよかったのだ。

高校時代に年上のレディーボーイの友人ガウトにホルモン剤を勧められて以来、ローズは、それを試してみたくて仕方がなかった。ピルを服用すると身体つきが変わる、とガウトが教えてくれたからだ。「柔らかくて女らしい身体つきになる。きれいになれるよ」

30錠入りホルモン剤のボトルは、5~10米ドルで売られていた。ローズは1日に2~6錠を摂取していた。ガウトの勧め通りピルを摂取すると、自らが女である、とより強く感じられるようになり、その実感を気に入っていた。

しかし、ピルの摂取はトレーニングに悪影響を及ぼした。体重が増え、忍耐力と体力が低下した。ガウトは、そういった影響については警告してくれなかった。ガウトはムエタイ選手ではないのだから無理もない。

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コーチにはホルモン剤の服用を隠していた。14~15歳のローズは小柄で、ウエイト調整にも悩まされていなかったので、1週間前からピルの摂取を控えれば試合で戦えた。

しかし結局、ホルモン剤の使用を完全に中断せざるをえなくなった。試合数が増え、リスクが高まったからだ。筋肉組織の成長に伴い、ローズは階級を上げざるを得なくなった。バンコクで開催されるハイレベルの試合に出場するようにもなった。そして薬局通いとピルの摂取をひそかに中断し、女性らしくなる、という目標は一旦諦めた。

ローズのようなトランスジェンダー選手は珍しい。彼女の知る限り、現役で活躍しているのは他に3~4人だ。しかし、狭い世界だから、そういった選手とリング上で出くわすこともある。2年前にコラートの軍事訓練キャンプで開催されたイベントで、彼女はブバエという名前のトランスジェンダー選手と対戦した。ローズは対戦前、ブバエの女らしい歩き方とルックスに感動を覚えた。しかしゴングが鳴ると同時に、ブバエの女らしさはすべて消え失せた。

それは、ギャンブラーの面前で行われる試合の中でも、極めて期待度の高い試合であった。両選手の所属ジムは多額のサイドベットを投じた。ブバエはよく粘ったが、全5ラウンドが終了して判定勝ちを収めたのはクリンチ・ファイターのローズであった。

試合後、ローズとブバエはFacebookで連絡を取り合うようになり、選手としてのキャリアについて話し合い、お互いに支え合った。ローズはブバエが鼻の整形手術費を稼ぐために貯金していることを知った。ブバエは、手術費が貯まったらボクシングを引退することに決めているそうだ。

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マッチョな体型と短髪にもかかわらず、ローズは、ジムのどこにいても非常に目立つ。服装のせいだ。数年前からすべての試合でタンクトップを着用するようになった。生物学的にはまだ男性であるが、上半身をむき出しにして戦うことに抵抗があり、それを拒否してきた。当然、ルンピニー・スタジアム、ラジャダムナン・スタジアム、チャンネル7スタジアムなど、短髪と上半身裸が義務付けられているバンコクの主要スタジアムで開催される試合には出場できない。

ドレスコードが緩い会場もたくさんある。たとえば、多数のタイ人ボクサーを輩出していることで有名な、彼女の生まれ故郷でもある、タイ北東部のイサーン地方で開催される試合に出場するさいは、好きなリング・コスチュームて試合に臨める。バンコクには、オムノーイ・スタジアムのように自己表現の自由が認められている会場もある。フェミニンなタンクトップを纏い、ばっちりメイクしたローズがリングに飛び込む姿は、ニュース番組で何度も放映されてきた。ローズは、女性選手がよくやるようにロープの下をくぐるのではなく、男性選手のようにロープの上を飛び越える。

しかしローズは自らを「女性、レディーボーイであっても、決して男性ではない」と信じており、そのアイデンティティーに即した歩き方、装い方、話し方をする。高校1年生の時には、Facebookのメッセンジャーでチャットする仲の「ボーイフレンド」がいたが、オンラインの関係は長く続かず、自然消滅した。彼女は高校時代の友人たちとクスクス笑い合いながら、いつかムエタイ選手とデートしてみたい、と告白した。「でもハンサムすぎる人はイヤ。だって絶対に遊び人でしょ」。気になる選手はいるのかと友人に聞かれると、「気になる子は何人かいるけれど、今のところ何も起こっていない」と答えた。

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長年の選手生活を通じ、彼女は地元のセレブリティになった。ファンもいる。その多くは20-30代の年上トランスジェンダーであり、彼らはローズの追っかけだ。ローズは笑顔ではにかんだ。「わたしには支えてくれるたくさんのファンがいる。そのほとんどは格闘家ではないけれど、対戦相手のことを調べてアドバイスもしてくれる」。故郷で試合をすると、彼女の応援団席からは耳をつんざくような大歓声が湧き上がる。

ファンは支えてくれるだけでなく、人生の方向性を教えてくれたりもする。ローズはある友人にならい、引退後、性別適合手術を受けようとしている。本格的な手術はまだずっと先になりそうだが、今でも少しずつ、理想に近づけているそうだ。高校を卒業した今、好きなだけ髪を伸ばせる。彼女には、ありのままの自分を受け入れてくれる心強い友人たち、いつも味方になってくれる家族がいる。タイのような比較的進歩的な国でさえ差別はある。ローズは、リングの内外を問わず、ファン、友人、兄弟、両親をはじめとする多くの支持者に、心の傷を癒してもらいながら、今後も戦い続ける。
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