体罰  「しかし今度、日本人捕虜を見て大いに失望した。上級者は威張り散らし、下級者はうそといい逃れに終始している。話し合いや理屈のいい合いもなく、すぐ上の者が下の者を殴りつける。弱肉強食とは日本人集団のことをいうのではないか」(佐藤悠『モンゴル吉村隊事件凍土の悲劇』より)

http://plaza.rakuten.co.jp/bluestone998/diary/201303150000/

体罰、近代日本の遺物 「持たざる国」補う軍隊の精神論(15日の日記) (2)


テーマ:政治について(14501)

カテゴリ:社会問題

 政治学者の片山杜秀氏は、2月19日の朝日新聞に寄稿して、わが国の教育現場の「体罰」は日本軍に起源をもつと述べている;



 教師に体罰を受けた。東京の私立小学校。しつけは厳しい。私語するとひざを打たれる。耳を引っ張られる。痛かった。

 まるで軍隊教育だ。よくそう思った。当時はまだ戦後約四半世紀。兵隊生活を描く映画やマンガが氾濫(はんらん)していた。しばしばビンタの場面があった。その亜種のようなスポーツ根性物も多かった。しごきの描写が凄(すご)かった。

 実際、日本の軍隊では体罰は日常茶飯事だった。戦後5年めの座談会。政治学者の丸山真男は徴兵体験をこう振り返る。「(なぜ殴られるのか)考えているうちに十くらい殴られてしまうん(笑声)ですからね」

 軍隊での暴力的指導はいつからのことか。明治維新期の建軍当初からか。そうでもないらしい。敗戦時の首相、鈴木貫太郎は海軍軍人。日清戦争前に海軍兵学校を卒業した。自伝を読むと、その頃の兵学校は暴力と無縁だったという。

 転機は日露戦争。元陸軍大将の河辺正三が戦後に著した『日本陸軍精神教育史考』にそうある。相手は超大国。ロシア軍は大人数で装備もよい。「持たざる国」の日本が張り合えるのか。大慌てで新規徴兵した。しかし中身が伴わない。練度が低い。弾も少ない。戦闘精神も上官への服従心も不足。おまけに敵は西洋人。体格がいい。小柄な日本人が白兵戦を挑むとなるとつらい。

 苦心惨憺(さんたん)のやりくりの末、日露戦争は何とか負けずに済んだ。が、次は分からない。仮想敵国は西洋列強ばかり。常備戦力を彼らに太刀打ちできるほど増やす。装備も訓練も一流にする。そうできればよい。しかし、日本は人口も武器弾薬も工業生産力も足りない。結局、期待されたのは精神力だ。戦時に動員されうる国民みなに、日頃から大和魂という名の下駄(げた)を履かせる。やる気を示さぬ者には体罰を加える。痛いのがいやだから必死になる。言うことも聞く。動物のしつけと同じ。

 もちろん軍隊教育だけではない。大正末期からは一般学校に広く軍事教練が課された。過激なしごきは太平洋戦争中の国民学校の時代に頂点をきわめた。

 『日本人はどれだけ鍛へられるか』という戦争末期の児童書がある。日本人はしごかれると英米人よりもはるかに高い能力に達するという。理屈はよく分からない。でもそう信じれば勝てるという。これぞ精神論である。

 戦後、日本から軍隊は消えた。しかし暴力的指導の伝統はどうやら残存した。「持たざる国」の劣位や日本人の体力不足は気力で補うしかない。日本人は西洋人に個人の迫力では劣っても、集団でよく統率されれば勝てる。そういう話は暴力的な熱血指導と相性がよい。体格の立派な外国人と張り合うスポーツの世界ではなおさらである。

 先日、人前でずっと座っていなければならないことがあった。それを眺めていたお客さんが言った。「あんなに堅苦しく膝(ひざ)を揃(そろ)えていなくてもよいのに」

 なるほど。しかし私はそういうとき、膝を崩すと昔の先生が叩(たた)きにこないかと今でも心配してしまうのだ。からだは決して体罰を忘れない。それでピシッとしているのだからよいとも言える。が、もう一度してくれとは決して思わない。



2013年2月19日 朝日新聞朝刊 13版 16ページ「体罰 近代日本の遺物」から引用

 武器弾薬の不足や兵隊の体力の不足を精神力で克服するとは、実に呆れた発想で、敗戦直後の昭和天皇もそれが誤りであったことを述懐していた。その悪しき伝統が、現代まで引き継がれていたとは、これまた呆れた話だ。自民党などは、文部科学大臣経験者までが「体罰を禁止するのは、警察官から拳銃を取り上げるようなものだ」というような発言をしたそうであるが、よく話し合って悪しき伝統と決別するべきである。

http://judo.daa.jp/z%20taibatu.htm

体罰問題 ~日本帝国陸・海軍の悪しき風習の残存~

 大阪市立桜宮高2年のバスケットボール部主将の男子生徒(17)が、顧問の男性教諭(47)から体罰を受けた後の12月23日に自殺した問題に始まり、その後、全国で体罰問題が次々に明らかにされ、直近では柔道女子日本代表の園田監督やコーチが、選手に暴力やパワーハラスメント行為をしていたことを15人の女子選手が日本オリンピック委員会に告発する問題が出てきた。

 これらの問題に対して、問題を起こした張本人の管理・監督者である大阪市教育委員会や全日本柔道連盟は、体罰と自殺との因果関係は明確でない、といって顧問教諭をかばったり、当人は反省していると言って即座に監督続投を発表した。これらの問題に対して、マスコミや知識人と言われる人達が様々なことを発言しているが、私には上面の議論にしか感じられない。私はこれらの本質は戦前の日本帝国陸・海軍時代から続く日本の悪しき風習が現在まで続いているのだと感じている。

 帝国陸・海軍の悪しき風習とは何か?幾つかをいかにまとめる。
 ①日常的な暴力
    軍隊内での暴力が日常的に行われていたことは、今更説明するまでもないだろう。海軍の工藤俊作は、艦内での鉄拳制裁を厳禁したとか、同じく海軍の谷口尚真が海軍兵学校における生徒の鉄拳制裁を禁止したという話が残るくらいこれらは珍しいことであった。私の父はラバウルだったか、南洋の島に送られ、毎日病気で死んでいく戦友を看取り、マラリアに罹って体重が30kgまで落ちて日本に帰って来た話をしていた。軍隊では日常的に暴力を振るわれ、班の所有物が足りない時には別の班から盗んでくるようメチャクチャなことを教育されたと話していた。叩かれることを恐れていてはやっていけない組織であったようだ。そういう意味では現在問題になっている高校や女子柔道と同じである。日本に帰ってきて憲兵になって、福岡市付近を見回っていた時に長髪?の為か理由は忘れたが、九大の学生を捕まえて竹刀が折れるまで叩き上げた話もしていた。自慢話ではなく、そんな出鱈目なことが自分も含めて日常的に行われていたという反省が強かったと思う。
 ②庇い合いの風習
    陸海軍トップの悪しき風習の一つが、庇い合いである。どんな間違いを犯しても責任を問うということをしない。トップ仲間内で庇い合うのである。兵隊の下っ端には容赦なく責任を取らせるくせにトップ同士では責任を問わずに庇い合う。実例はいくらでもある。服部卓四郎、辻政信、牟田口廉也など。興味があったら調べたらよい。そういう意味ではアメリカ軍は厳しい。TOPとして失敗を犯したり、無能だと判断されると即座に首を挿げ替えられる。旧日本軍など問題にならない位アメリカはそういう点は厳しい。良いか悪いかは別にして、戦後も日本は企業同士が談合したり、護送船団方式と言ってみんな仲良くをモットウにしていたが、アメリカは良いものは良い、悪いものは悪い、と合理的に判断する理性を有していた。だから京セラやソニーなど戦後立ち上げられた有名な企業は最初にアメリカで実力を示したのである。庇い合うということは、悪いことを悪いと改める能力や風土が無いということである。
 ③真実を直視せず、改めることができない体質
    戦争でも会社の経営でも何でもそうであるが、敵を知り、己を知る。これがベースであり、最も大切なことである。しかし、太平洋戦争中、日本軍は真実を直視することなく、大本営のデマを流し続けた。それによって国民だけでなく、軍隊内部も政府関係者も天皇陛下も欺いた。真実を直視すれば、自分達が責任を取らねばならなくなるという自己保身の気持ちも十分働いていただろう。そもそも旧帝国陸海軍の指導者たちは、部下を何千人、何万人無駄死にさせても何とも思わないが、自分達が責任を取るのは嫌だという卑怯者ばかりだったから、真実を直視できなかったのだろう。真実を直視できなければ、改善・改革もできないのは当たり前である。

 さて、これら帝国陸・海軍の出鱈目な指導者達は戦後どこに行ったのか。政治家になり、経営者になり、企業の幹部になり、自衛隊の幹部になり、現在の日本にこれら悪習を存続させたのである。

 元々、日本は世界で最も子供が生き生きとしている国だと南蛮人たちが報告している。日本では子供を甘やかしこそすれ、体罰と言うものは無かった。南蛮人がなぜ日本人は子供を鞭打たないのかと驚いているのである。

 体罰が導入されたのは、明治政府になって富国強兵を進める過程であろう。学校で軍隊で。

 体罰の問題では常に管理者が、体罰した人間を庇い、擁護する。世論がどう動いて、世界がどこに進んでいるのかを直視できない硬直した頭。正に帝国陸・海軍と同じ体質なのである。

 1月12日付朝日新聞に『体罰 恥ずべき、ひきょうな行為』と題して桑田真澄氏が体罰について語った記事が載っている。「私は中学まで毎日のように練習で殴られていました。・・・・・殴られるのが嫌で仕方なかったし、グラウンドに行きたくありませんでした。今でも思い出したくない記憶です。・・・・・私は、体罰は必要ないと考えています。・・・・・・監督が采配ミスをして選手に殴られますか?スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。・・・・・今はコミュニケーションを大事にした新たな指導法が、多くの本で紹介もされています。子どもが10人いれば、10通りの指導法があっていい。「この子にはどういう声かけをしたら、伸びるか」。そう考えた教え方が技術を伸ばせるんです。・・・・・・殴ってうまくなるなら誰もがプロ選手になれます。私は、体罰を受けなかった高校時代に一番成長しました。「愛情の表れなら殴ってもよい」という人もいますが、私自身は体罰に愛を感じたことは一度もありません。・・・・・・・」

 私は野球に全く興味が無いので桑田氏のこともあまり知らなかったが、苦しい思い出も含めて良く語ってくれたと思う。体罰は人の心に一生の傷を与えるのである。

(2013年2月4日 記)

http://www.asahi-net.or.jp/~kf3n-akmt/taibatsu.html

これは1992年1月、筑波大学体育研究科に提出の修士論文の概要である。


学校教育における体罰についての研究
     ―体育指導を中心に―

             
              秋本 信孝
序 本論文の動機および目的
 学校教育の現場で行われてはならないはずの体罰を、特に最近目の当たりにしたり、聞いたりすることが多くなった。
 管理主義教育の現場では特定の教師(体育教師であることが多い)が下士官的役割を担わされ、時として心ならずも、やがて自発的に体罰におよぶことになる。
 授業では秩序維持のために、スポーツ部活動では勝たんがためにしごき、体罰が行われている例がある。ある調査によれば、体罰を受けた者の8割が体罰に対して肯定的であり、少なくない者が自分が指導者であったならば体罰を行うと答えている。このように、体罰の再生産が現在でも起こっているのである。
 なぜこのようなことが起こるのかを、体育指導(体育授業、スポーツ部活動、体育行事)での実態を通して、体罰の根源を文化的・構造的に明らかにするのが本研究の目的である。

第一章 先行研究と学校教育および体育指導について
 1. 学校における体罰についての先行研究の考察
 学校教育での体罰の歴史を扱ったものとしては、江森一郎『体罰の社会史』がある。江森の研究は江戸時代の寺子屋、郷学、藩校ではほとんど体罰がなかったことを資料を駆使して立証している。さかのぼって、昭和初期に乙竹岩造が『日本庶民教育史』全三巻(1929年刊)の寺子屋教育の研究があるが、これの下巻の「第6篇 興隆期庶民教育の全国的総括 第6章 訓育の方法」で体罰を扱っている。乙竹の研究は、「斯かる過酷なる体罰は甚だしき頑童にたいしてのみ稀に加えられたもので、決して常に慣用されたもので無いことは、前表の数字に拠っても知られる」と、言い切っている。
 近年になって、特に1980年代初頭“荒れる中学校”を中心に教師による体罰が目立つようになって、体罰に関する論文や書籍が出されるようになった。
 体育・スポーツとの関連での体罰を中心に論じた単行本は見当たらないが、1980年代の後半に入り、体育界でも体罰問題が取り上げられるようになった。
 1986年の第37回日本体育学会の体育社会学シンポジウムで、「体育教師の体罰問題」がテーマとして取り上げられ、1989年の体育学会の特別シンポジウムでは「スポーツ・体育における攻撃性と暴力行為」が組まれた。1990年にはスポーツ教育筑波国際集会で、「スポーツ倫理の教育」の分科会が設けられた。1991年には、体育学会第42回大会で「スポーツ指導者の暴力的行為の実体とその影響━過去体験に関する調査より━」が発表されている。
 2. 学校教育
 3. 体育指導
 ここでは一般に使用されている通例に従った。学校における身体活動全般を示す概念として体育の名辞が使用され、通称「第三体育」と呼ばれるようになったが、ここではこれと同じに、教科としての体育科と部活動や行事などの特別活動を含んだ概念として体育の名辞を使用する。
 4. 学校教育と軍隊教育の結びつき
 学校教育が軍隊教育とどのようにして結びつくかということについて、佐藤秀夫は次のように述べている。「近代的な学校が、全国民を対象にした低コストの教育をするためには、どうしても集団的な教授の形態をとる。はみ出る人間にはびしびし懲戒を加える必要が発生するわけです。集団的な統制、規律というものが近代公教育に不可欠であった時代には、日本の場合も欧米の場合も、その直接のモデルは、軍隊に求められました。ですから、軍隊の集団規律がそのまま公教育の学校に入ってくる。」このように規律維持を契機として、軍隊教育の方法が学校教育に入ってきた、という。
 日露戦争後は、今までの兵学の常識を越える軍事力が必要であり、「総力戦」であることを戦陣訓として残した。また国内には厭戦気分があり、兵士の逃亡も相次いだため、軍は国民に服従の観念の徹底をはかる必要に迫られたのである。以後一貫して軍は教育に要求(干渉)するようになる。その点で、臨時教育会議での教育政策の方策は、その後の教育に対する影響は大きく※、1917(大正6)年の「兵式体操振興ニ関スル建議」も1925(大正14)年には、文政審議会が学校における軍事教練の実施を可決し、同年の文部省と陸軍省の覚え書きにより、体操科主任に配属将校をあてることになった。「陸軍現役将校学校配属令」がこれであり、これにより現役将校が学校に入り、軍の教育への主導権が確立した。
※久保義三著『日本ファシズム教育政策史』41頁(明治図書 1969年)によれば、審議会には軍部の代表である 山梨半造中將が財閥の代表や右翼の代表とともに会議 に列し、発言権を持ったことが書かれている。

第二章 子ども観と体罰
 1. わが国と外国との子ども観の比較
 2. 体罰と類似概念
 事典によると体罰は「肉体的苦痛を与えることによって教育上の目的を達成しようとする方法」(3)と、説明されている。
 体罰の類似概念
 「しごき」「いじめ」「校内暴力」「暴力」についてはここでは省略。
 3.わが国の学校史にみる体罰
 明治初期「学制」以後教育令(1879年)以前の近代学校において、体罰規定を含んでいるところは一つもない。
 1879(明治12)年の教育令は「自由教育令」とも呼ばれたが、これの第46条に「凡学校ニ於テハ、生徒ニ体罰(殴チ或ハ縛スルノ類)ヲ加フヘカラス」と、体罰禁止が法制上明文化された。前年文部省が上奏した「教育令布告案」では次のようになっていた。「第75条 凡学校ニ於テハ、生徒ニ体罰ヲ加フ可ラズ。」
 江森はこのことについて「日本ではなぜ学校体罰の禁止が、近代教育思想の体罰的構造に反して、教育法規にすんなりと早期に定着したのか、ということである。学校体罰法禁の西欧先進国であるフランスでさえ、教育令の規定より8年遅れている。それは、わが国の伝統思想の中に国民のエートスとして、体罰を残酷とみる見方が定着しているとすれば、この課題設定はあっさりと氷解してしまうことになる。本書はこれまで、まさにそのことを明らかにしてきたつもりである。」
 江森の論に従えば、維新期の指導層である中央政界の武士出身者には、体罰否定思想は抵抗なく受け入れられ、海外の新思潮も多く紹介されたが、改正教育(1880年)以後から、文部省の軌道修正がみられるのである。1882(明治15)年には軍人勅諭の発布、1889(明治22)年大日本帝国憲法・皇室典範の発布、1890(明治23)年教育勅語の発布とつづき、天皇制国家の基礎が作られていった。1879(明治12)年天皇が提示した教学聖旨をめぐり、開明派の伊藤博文と儒学派の元田永孚の間に起こった徳育論争があったが、天皇制国家体制は教育勅語にみられるように忠孝を教育の基礎とする元田らの思想をその拠り所とするものである。
 しかしこの間もわが国では法制上は、ほぼ一貫して体罰禁止の明文を掲げていた。1900(明治33)年の第三次小学校令では「小学校校長及び教員ハ教育上必要ト認メタルトキハ児童ニ懲戒ヲ加フルコトヲ得但シ体罰ヲ加フルコトヲ得ス」(第47条)と、懲戒権を認めた上で、限定条項として体罰禁止が規定されることになった。この規定は、国民学校令(1941年3月公布、同年4月施行)においても「国民学校職員ハ教育上必要アリト認ムルトキハ児童ニ懲戒ヲ加フルコトヲ得但シ体罰ヲ加フルコトヲ得ズ」(第20条)として継承された。
管理主義教育
 管理主義教育とは、教育における形式化と事務化である。教育対象たる子どもをモノとしてみるのである。戦前の教師とは違い「威重」を持たない教師は、体罰も事務的に、公平に行うようになるのである。森川の言うように、無道徳化(善悪の区別のなさ・まじめに物事を考えようとしない・強きに屈し、弱きをくじくなど)した子どもたちを取り締まり、体罰を加える教師はともに犠牲者の側面を持つのである。
 4.軍隊教育における体罰・陵辱
日本の軍隊教育の要は「服従」の徹底にあったといってよい。そして服従の徹底は軍事訓練だけではできないことを悟った、軍部中枢は、兵営内(内務班)での教育を軍事訓練以上に重視した。
ヒトをモノとして見る訓練をする場が兵営内での生活である。その訓練の主要な手段が体罰(私的制裁)であった。私的制裁はやられているだけでは忠実な兵は生まれない。次の年に入隊してくる初年兵や下級の兵に私的制裁を加えることによって、自己を忠節に富んだ兵に変化させるのである。
軍隊内務書
 1908年の軍隊内務書は5度ほど改正され、1943年(昭和18)には『軍隊内務令』と改称され改正される。しかし、1908年の軍隊内務書が改正の全期間を通じて基礎となっており、日露戦争以後、太平洋戦争敗戦までの兵営生活と軍隊教育の基本となったのである。日本軍の特質を形成したのは、この1908年の軍隊内務書にあるといえよう。
内務班での生活
事例1
 小松 軍隊の中でも上等兵というものが殴るね。内務班において。
 飯田 それはこうなんです。一つの階級的組織に入っておりますから、将校が直接兵隊を殴るというケースは一番少ない。将校はむしろ下士官を殴り、下士官は上等兵位まで殴る、上等兵は直接兵隊を殴る、将校が兵隊を殴るというのは、非常に特別な場合なんですね。将校は或る程度おうようにしておるわけなんで、そのかわり下士官をしぼり、下士官は上等兵を、兵隊はどこにも当るところがないから馬に当るとか。(笑声)
 小松 ですから厩をみて馬が非常に荒れている、また馬にきずのある中隊に、大体制裁が盛んだというようなことがいわれてますね。(笑声)(飯塚浩二『日本の軍隊』より)
事例2(略)

 暴力的威圧は、相手の思想と人格を変える力としては弱い。暴力に屈することによって、人間は行動を暴力行使者の意図に従属させる。この状態を永続する関係として設定すること、これが1908年軍隊内務書でいい、帝国軍隊最後の1943年の軍隊内務令まで続いた「服従ハ軍紀ヲ維持スルノ要道タリ故ニ至誠上官ニ服従シ其ノ命令ハ絶対ニ之ヲ励行シ習性ト成ルニ至ラシムル」ことである。したがって、この「至誠」は権力的・暴力的威圧の消滅とともに消滅する。しかし戦後であっても、権力的・暴力的威圧が維持されたところでは、「至誠」ではなく力関係によってある種の秩序が維持されたのであった。その2つの例を次にあげる。
事例4
 見棄てられた戦場レイテの兵は、この間に潰乱状態に陥った。(中略)
 脊梁山脈の谷間には、戦線離脱兵が到る所にいた。彼等は通りかかる輜重兵に頼んでも、部隊の形をとっていないから、米を渡して貰えない。そこで強奪し、後で罪が発覚しないように殺してしまった、と信ぜられている。これらの若い輜重兵はもはや軍紀の通用しない山の中で、固苦しいことをいったので殺されたのであった。
「それより生きる道がなかったのだから仕方がなかった」と十六師団配属の野砲第二十二聯隊の生き残りの一人はいっている。今日でもその行為を悪いなどと夢にも思っていないのである。(大岡昇平『レイテ戦記』より)
事例5
 「しかし今度、日本人捕虜を見て大いに失望した。上級者は威張り散らし、下級者はうそといい逃れに終始している。話し合いや理屈のいい合いもなく、すぐ上の者が下の者を殴りつける。弱肉強食とは日本人集団のことをいうのではないか」(佐藤悠『モンゴル吉村隊事件凍土の悲劇』より)

第三章 事例にみる体罰
 1.体育授業における事例
事例1、事例2(略)
事例3
 授業が始まった。(中略)極め付けは「連続呼唱」という集団走である。1人が「連続呼唱、呼唱、呼唱、呼唱」と叫ぶ、全体が「おー」と応じる。続けて、1人が「そーれ」、全体が「いっち」、その後交互に、「そーれ」、「にいい」、「そーれ」、「さん」、「そーれ」、「しい」、全体で「1、2、3、4」と叫んで走るのである。教師生活23年目にして初めての経験であった。未だにこの意味がわからないのである。なお、水泳の授業の欠席、見学は1回につき1回の補習を受けなくてはならず、11月に入っても冷たいプールに入らされていた生徒がいた。これなど人権侵害ものであろう(3)。
 ※この「連続呼唱」であるが、ある人が言うには、自衛隊のやり方ではないかということである。未だ確かめてないのではっきりはしないが。なおこの事例でのプールの件については体罰に当たるかどうか見解の分かれるところかと思うが、体罰に近いものとして取り上げた。
事例4
 ある日の1年生男子の体育授業のことであった。ペースランニングを行っているところをS教諭が見ていた。何人かの生徒がわざとゆっくり走っていた。Zは「それでは時間内に入れないぞ、もっとペースを上げろ」と叫んでいた。するとSが突然彼らをトラックから呼び出し、いきなり殴る・蹴るの体罰を始めた。「おめえらふざけんじゃねえよ、もっとまじめにやれ」と言いながら。Zからは50メートルほど離れていたので止められなかった。
事例5(略)
 2.クラブ・部活動における事例
事例6
 県の農業系高校の大会(バスケットボール)に参加したときのことである(B高には園芸科が一クラスあった)。強豪といわれたM農高に勝ったのはよかったが、試合後M農高の監督が「なんでてめえらはB高なんかに(失礼な!)負けたんだ」といいながら一人の生徒を殴ったり蹴ったりし始めた。勝ったB高の生徒は自分たちが勝ったために彼が殴られているのを目の前にしてうれしさも吹き飛んでしまった。「なにもあんなことしなくてもいいのになあ」とつぶやく者もいた。私もいたたまれなくなってB高の生徒とともにその場を離れたが、その監督の暴力を止められなかったことを後悔している。暴力は強いものには向かわない。殴られた上級生は下級生に、殴る相手のいない下級生は監督に似た犬をいじめているという笑うに笑えないことが現実にあったのだ。このように暴力支配は人格破壊をももたらす。※
※城丸・水内編『スポーツ部活動はいま』の拙著部分
 下級生が監督に何となく似ている犬をいじめているということと、軍隊での事例1にみられるような兵が馬をいじめるというのがダブってブラックユーモアである。このように抑圧された者のはけ口は常に弱い者に向かうのは、いつの時代も同じといえる。
事例7
 昭和60年3月23日未明、一人の女子高校生が一枚の遺書を残し、自宅で首をつり、自殺した。
 両親の起こした損害賠償請求の訴えに対しては、1992年1月現在、岐阜地方裁判所からの判決はまだ出ていない。
事例8、事例9(略)
 3.体育行事における事例
事例10
 1976年5月12日、茨城県水戸市立第五中学校体育館において、3年生の体力診断テストの補助要員として出された2年8組の中央委員・S君が、「何だ、Kと一緒か」と小声でいったとの理由で、K教諭に叱責され、平手および手拳で頭部を数回「殴打」された。8日後S君は脳内出血で死亡。
 4. 体罰に関する調査から
第四章 結論
 1. 学校における体罰の根源は軍隊教育から
 体罰がわが国の学校教育の場で盛んに行われるようになったのは、近代に入ってから、それも日露戦争後である。
 ではなぜ明治の途中から体罰が瀰漫してくるかについて、ひとつは学校のような大きな集団を統率する方法を軍隊以外には求めるところがなかったためそこに求め、その訓練方法を採用したためである。その軍隊の訓練の要は、「命令―服従」であり、それを徹底させる方法が暴力的威圧(体罰)であった。師範教育の寄宿舎を兵営をモデルにしたり、兵式体操(教練)を取り入れ、退役下士官(後には現役将校)を学校に配置することにより軍と学校との連携が緊密になり、これらの軍人を通じても学校に体罰が広がった。
 2. 戦前と現在の体罰の相違性と共通性
 戦後の民主化の過程で、学校教育での体罰はあまり見られなくなるが、1970年代以後体罰が社会問題化してくる。現在の体罰は、戦前のそれと同じものであろうか。70年代にあっても、軍隊体験のある教師はすでに少数であった。しかも体罰実行者の多くは若い教師である。子どもも変わってきている。無道徳化(善悪の区別のなさ、まじめに物事を考えない、強気に屈し、弱気をくじく)した者には体罰をしてでも直すのが教師である、と。はみ出る者に対しては体罰が待っている。現在の企業社会では、はみ出る者は不良品としてはじき出される。企業に心身ともに捧げた者には過労死が待っている。このような社会状況を反映して、教育効果を焦る教師が体罰を行使するようになるのである。取締り主義的管理主義教育の現れである。
 戦前の教育を否定したことが戦後教育のはじまりであったが、新しい時代に合う訓練方法は開発されないまま、今日に至っている。第3章の事例3でみたようなことも復活している。それは形としてだけ残存しているのではなく、社会の深層中に残っていたのである。体育・スポーツの分野においては、一部大学や運動部の中に戦後もずっと存在していた。その点では戦前のものと同じといえる。
 3. 日本的集団を考える
 みんなが一緒に同じようにする。これが日本の集団の特徴である。伝統的な地域社会だけでなく、企業でも、運動部でも同じような練習をみんな揃ってやる。違うことをするものは嫌われる。意見の一致が理想で小数意見の存在は不幸なこととみなされ、極端な場合はそういう意見を持つ成員を集団の外に追い出す。これが村八分である。小数意見を含んだ集団ではない。何か行動を起こすとき、どうするかを決めなければならないが、この決定権は多くの場合、長老であったり、監督であったり、とトップの者が持っているのである。このような集団で生き残るには、なるべく自分の意見を言わない、目立たないようにして成り行きに任せるのが庶民の生活の知恵となる。そうしていれば伝統的な地域社会では仲間が守ってくれたが、現在の社会では、競争的な集団主義が加わり、最近の過労死の例のように、みんなが働いている中で自分だけ休めないと、働き、ついには逝ってしまうように、己の肉体にさえ主体性を持ち得ない状況が進行しているのである。取締り的管理主義教育の現場では体罰をやらないことは目立つことである。殴る側も、殴られる側も、己が己自身の主人公になること、主体性を確立することによって体罰禁止の条項が生きてくるのではないか。
 4. 今後体罰問題を考えるために
 体罰は、第三章で取り上げた体育指導の場面だけで起こっている現象ではない。また学校教育の中でだけ起こっているわけでもない。
 体罰の根源を明らかにするためには、体罰は体育・スポーツに固有の現象ではなく、組織のありかたにかかわる問題なので、体罰を醸成する組織の解明が必要である。それとともに、身体とはなにかを考える必要がありそうだ。今回はこの問題にはほとんど触れられなかった。
 体罰をなくすため当面やれることは何か考えてみると、
 ①主体性の確立。体罰否定を決意することであり、己自身が己の主人公になりることである。
 ②学校現場では、生徒定員の削減や持ち時間数の削減などの勤務条件を良くしてゆとりを持って教育に従事できるようにすることである。
 ③学校教育法(第11条)の懲戒権を認めたうえで、限定として体罰を禁止するという法構成になっているが、これはは1900年以来変わっていない。少々過激な提案になるが、この条項の改正をする必要がある。

参考文献 省略




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