清水潔「「南京事件」を調査せよ」 『極論を言ってしまえば、虐殺があろうとなかろうと私には無関係である』取材を開始する前、著者はこんな風に思っていたという。興味は事実か否かだけにあり、虐殺があったにせよなかったにせよ、それが事実であれば自分にとってはそれでいい、というのが著者のスタンスだ。しかし、南京事件を含む周辺の様々な取材を通じて、著者の考えは変わっていく。『虐殺があろうとなかろうと私には無関係…。取材を始めた頃の私はそう思っていた。だが…、なんということだ。122年を遡った先で私の到来を待っていた「事実」は、愚かな思考を完膚なきまでに叩き潰してくれたのだ―。「おまえは本当に戦争と無縁だったと言い切れるのか?」大陸の寒風が、私の頬をピタピタと打つ。けれど、それでも私はそれをなかったことにしてしまおうとは思わない。「事実」に一歩でも近づくことこそが、私の仕事だからだ。歴史にはおぞましいものもある。だからといって事実を修正できるはずなどないのだ。』
































「南京事件」を調査せよ
清水 潔
文藝春秋
売り上げランキング: 354



http://butao.hatenadiary.com/entry/2016/08/31/032623


『「南京事件」を調査せよ』を読まずに死ねるか!

 書評 社会 考え方






8月はあわや何も書かないで終わろうとしていたが去る25日に大変な本が刊行されたので紹介せずにはいられなくなった。8月はその他にももろもろ事件があり、もやもやした気持ちになっていたけれど、とりあえずこの一冊の感想にぶつけてみたい。それだけ昨今のいろいろの事柄が集約された本だったと思う。



その本とは清水潔『「南京事件」を調査せよ』だ。以前に紹介した『南京事件 兵士たちの遺言』というドキュメンタリー番組を制作するにあたって著者が調査した内容に、追加調査したことなどを交えて書籍化したものだ。あのすごい番組の制作の内幕をより詳しく紹介しているということだ。



そうなのだ。もてラジでもずっと推している清水記者の新刊だ。読まずには死ねない本だ。「またかよ!」とか言われそうだけど、みんなが清水記者の本を読むまで勧めるのをやめない。必要な本なのだ。とりわけ日本を生きる我々にとっては。だからこの期に及んでも知らない人は、まず『桶川ストーカー殺人事件』を読んで欲しい。何も言わず。何も前知識ももたず。



『桶川ストーカー殺人事件』はノンフィクションに属する本なので、実際に不幸な被害者もいるから不謹慎なことなのだが、あえて言わせてもらうと単純に面白い本だ。ミステリーものなどを好きな人はぜひ気軽に手にとってもらいたい。本当にあった話であって、とんでもないミステリーでもある。そして事件に挑むのは著者でもある清水記者だ。清水記者が事件をひたすら追いかけ、やがて警察も把握していないとんでもない真相にたどり着く。ぜんぶ本当のことだから驚愕する。こんな事が実際にありえるなんてという気持ちになる。



清水記者はまさに現代の名探偵といえる。ただしシャーロック・ホームズやミス・マープルのように、1を聞いて100というように、ズバズバと事件の本質を言い当てる安楽椅子探偵ではない。靴をすり減らしながらあちこち訪ね歩き、司法の壁に阻まれたり、脅されたり、汗と泥にまみれながらも、不屈の意思で事実を積み上げていき、最後に真相にたどり着くというハード・ボイルド式の名探偵だ。



清水記者は『桶川ストーカー殺人事件』の後も、北関東連続幼女誘拐事件の調査に乗り出す。こちらも『殺人犯はそこにいる』という一冊にまとまっている。最近になって文庫版も出たので絶対に読んで欲しい。こちらでもたいへんな労力を払って、冤罪の男性も無実を晴らし、隠蔽された連続事件の真相にせまっている。なんどでもいうが、全部事実に即した内容であって、虚構のストーリーではない。しかしミステリー小説でもなかなかここまでのストーリーは作れないのではないかという興味深さで迫ってくる。



このように書くと、なんだか茶化したような物言いになってしまって心苦しい面もあるが、興味本位でも良いので、多くの人に読んで欲しいのでこういう紹介にしている。



清水記者がその著書で何度も何度も訴えているのは「発表報道」と「調査報道」の違いだ。



「発表報道」とは、警察が「○○○○について××××と記者会見で発表しました」というようなことを、ただただ記事としてまとめただけのことを言う。



それに対して「調査報道」というのは、記者が自分の意思で、自発的に見聞きしたことや、調査したことを報道することを指す。



現代の日本のマスメディアは、圧倒的に前者が多いということだ。記者が足を使って調べたことや、見聞きしたことを自分の頭で考えて記事にまとめたものよりも、いわゆる「公式発表」といったことが紙面の中心になっている。そしてそちらのほうが尊ばれる風潮にすらある。



記者クラブに加盟した大新聞による「公式発表」の前には、地方紙や週刊誌の「スッパ抜き記事」などは、「三流紙のたわ言であって、信ぴょう性に欠ける」などという目で見られ兼ねない。記者が労力を費やして調査した記事よりも、警察や政府の記者会見を、ただそのまま書き起こしただけの記事が尊ばれるなんて…。



これと似た現象が、かつて日本にもあった。戦時中の「大本営発表」というやつだ。



僕らが歴史の時間などに習ったことは「昔の日本人は大本営発表という根も葉もない情報を信じて戦争に協力してしまいました」という事だった。子供のころは「昔の人はバカだなぁ」などと思っていたもんだが、現代の人間は「大本営発表」を笑えるだろうか。現代で「大本営発表」などというと「根も葉もない公式情報」を揶揄する言葉として使われる事が多かったはずだが、気がつけば現代人も「大新聞の書き立てる公式発表」ばかり信じていたりする。「津波で原発がメルトダウンして危険ですよ」という話よりも「メルトダウンなんて起こっていない」という公式発表を重視したりしていた。当時だっていろいろの事を検証したり見聞きしたりして「日本は戦争に負けてる」と言っていた人もいたはずだ。しかし大半の人は「敵空母撃沈!」みたいな大本営発表の方が心地良かったのだろう。



清水記者の信条はあくまでも「真実が知りたい」ということだ。たとえそれが恐ろしい事であっても真実を追求する。警察がどう発表しようと関係がない。おかしな所があれば徹底的に調べてみる。その情熱と労力たるや頭がさがる。結果として桶川ストーカー殺人事件や、北関東連続幼女誘拐事件の真相に迫ることになった。もちろんその他の事件なども調査されていて、それらの活動の一端は『騙されてたまるか 調査報道の裏側』という新書にもいくつか紹介されている。興味をもった方はあわせて読んでいただけたらと思う。



前置きのようなものが長くなってしまったが本題は『「南京事件」を調査せよ』という本だ。タイトルにある「調査」とは、ここまでながなが説明してきた、「調査報道」的なスタンスでの調査を意味するということは言うまでもない。そして「南京事件」とカッコでくくられているのは、「いわゆる南京事件」といわれる「事件なのかどうなのかすら定かではない」というあやふやな事象すべてを調査してやる!という清水記者の決意の現れであろう。相手はなにしろ80年ちかく前の「歴史」になりかけているものだ。そして被害者は30万人とも40万人ともいわれている。もしくはゼロとすらも言われている。途方も無い調査に思える。



ちなみに「南京大虐殺」についての日本政府の「公式見解」はこうなる。

外務省のHPからの引用だ。


日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/

もし「発表報道」として「南京事件」を取り扱うとするならば、これがそのまま記事になるということだろう。



つまり「そりゃ戦争だから民間人に迷惑があったことは否定することは不可能だけど、人数とかはまったくわからないし、1人かもしれないし40万人かもしれないけど、証拠もないし今さら特定することも困難ですよ」というわけだ。



被害者の人数すら特定されていない事件……。そんな無責任なものがあって良いのだろうか。



『桶川ストーカー殺人事件』では殺害された1人の女子大生の謎を清水記者が調査した。



『殺人犯はそこにいる』では5人の幼女の失踪事件を清水記者が調査した。



しかし南京の問題に関しては、そもそもの事件がどんなものであったのか、被害者が何人いるのかすらぼやけてしまっている。仮にも事件だといっているものに、諸説あってよくわからないなんてことがあっていいのだろうか。挙句には南京大虐殺なんてものは無かったという話まで飛び出してくる。



肝心の事件の経緯にしたって、戦後のどさくさでほとんどの史料が「意図的に」処分されてしまっている(やましいことが満載だったという推測しか出来ない)し、ものすごく時間が経ってしまったことによって、当時のことを知るものもほとんど生き残ってはいない。



じゃあ真相を知るためにはどうするのか。実は処分されずに現代まで残っていた史料があったのだ。それは南京攻略戦に従軍した兵士たちの手帳の記録や日記だった。そういう手帳や日記をたくさん集めて保管していた人が福島県にいたのだった。当事者たちの記録。まさに一次史料と呼べる代物だった。これらの記録の裏付けがあるのかという調査が始まる。日付から逆算して、当時そういう事が起こり得たのかとか、複数の記録や他の日記帳、証言などと照らし合わせながら、相互の記述や証言に矛盾点が無いかなどを検証していく。中国まで訪れて聞き込みや現地調査もしていく。とんでもなく骨の折れる作業を清水記者はやっていく。



その結果として、南京で行われたとてつもなくおぞましい真実がわかってくる。背筋が凍るような恐ろしい話だった。



「南京事件」の調査についての中心的な成果は先に紹介したドキュメンタリーでもだいたいやっていたのでそちらを見てもらうのが先かもしれないが、こちらの書籍版ではより詳しく歴史的な背景が説明されている。現代の話からはじまって、南京事件の話、南京事件の後の話、そして南京事件より以前にあったこと。日本では知られていない「旅順虐殺事件」なんかの話も出てくる。それなりに知名度があるはずの重慶爆撃にしたって、実はちゃんと習ったことのある日本人は少ないのではないか。歴史はその一部分だけ切り取っても不可解なものでしか無かったりするが、その前を知れば「さもありなん」と合点がいったりもする。教科書では唐突に「南京大虐殺がありまして…非難されてまして…」とか出てくるから納得できないのもムリはない。



本書はそのたくみな構成によって、いやでも歴史の連続性というものを感じ取れるようになっている力作だ。70年、80年前にあった問題は、それ以前にもあった問題でもあるし、今現在を生きる我々にも起こっている問題だったりもする。自分の親の親の問題であり、親の問題であり、自分自身にもつきつけられた問題でもある。「南京事件」というのは教科書の中の話ではなく、今に至る地続きの話であることを人はしばしば忘れてしまう。言ってしまえばたった80年前のことだ。かろうじて生きている人だっているのである。しかし「歴史」という言葉は便利なもので、そこに閉じ込めてしまうとどこか別の世界のお話のようになってしまう。本の中には清水記者の祖父や父親が従軍していた話も出てくる。僕の祖父も職業軍人で戦死している。生まれる前にはこの世にはいなかった祖父がなんのために戦死したのか、後で戦争の本を読んでいて「ああ、こういうことで」と思ったりもした。誰だって歴史のつながりからは逃げられないし一部でもある。



「歴史に学ぶ」とは端的にいえば「同じ失敗を繰り返さない」ということなのに「今回は上手くやれるはずだ」なんてつい考えてしまう。だから広島に「過ちは繰り返しません」などと石碑を立てておいて、一方ではアホみたいにたくさん原発を建て続けた挙句、ついには不幸な事故を起こしてしまってたりする。「原発ならコントロール出来るだろう」とか言いながら。それでまた再稼働なんて言っている。性懲りもなく「次はうまくコントロール出来るだろう」とか言ってしまう。人類は永遠に「歴史に学ぶ」という姿勢をもてないのかと呆れてしまう。



『「南京事件」を調査せよ』は今に生きる日本人なら全員が読んで欲しい本だ。今このタイミングだからこそ必要だと判断して出された渾身の一冊だ。決して南京事件を謝れとかではない。そんな情緒的な話ではないのだ。とにかく今の日本人にいちばん必要なことは過去の失敗をできるだけ正確に知ることに違いない。知らないことには先に進めないのだ。しっぽを追いかけるアホの犬みたいに、同じ所をぐるぐる廻るのは虚しいじゃないか。



清水記者は言う。「知ろうとしないことは罪だ」と。とにかく、知って欲しい。


hon.bunshun.jp

http://hon.bunshun.jp/articles/-/5134

インタビュー・対談




『「南京事件」を調査せよ』 (清水潔 著)

南京事件は「あった」? 「なかった」? 「知らない」と言う人が一番無責任。

『「南京事件」を調査せよ』 (清水潔 著)

聞き手「本の話」編集部







2016.08.29 07:30

著者が取材と制作にあたった日本テレビ「NNNドキュメント 南京事件 兵士たちの遺言」が2015年に放送され大きな反響を呼んだ。ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞をはじめ、たくさんの賞を受賞。その放送からこぼれた情報を含め、大幅な追加取材で書籍化した。


『「南京事件」を調査せよ』 (清水潔 著)

――清水 潔さんといえば、桶川ストーカー殺人事件の報道で捜査本部よりも先に犯人にたどり着いたことで知られ、「殺人事件」取材のプロというイメージがあります。今回、南京事件を取り上げたきっかけは何ですか?

 いや、別にいつも殺人事件の取材ばかりやっているわけではないんですよ。テレビで報道の仕事をしていると、たとえば昨年は戦後70周年の節目番組を作らなければならない、という事情もあります。

「南京事件」とは1937年、日中戦争のさなかに日本軍が、当時の中国国民革命軍の首都・南京を攻略。その際に、多数の捕虜や民間人を虐殺し、強姦や放火、略奪までおこなったとされている事件です。このテーマを、調査報道のスタイルで取り上げることができないだろうか、と思ったのがきっかけです。少し調べてみたら、小野賢二さんという市井の研究者が27年間も調査を続けておられ、実際に南京攻略戦に従軍した兵士が現場で書いた従軍日誌(陣中日記)を、31冊もコツコツと集めていた。これは大変なことで、貴重な一次資料です。この遺された日記を中心に、裏付けや現場取材をして制作した番組が、「NNNドキュメント 南京事件 兵士たちの遺言」です。



小野賢二さんが集めた兵士の日記の一部

――日本テレビで放送されたのは深夜枠でしたが、直後から大変な反響だったそうですね。

 SNSを中心に、たくさんの意見が寄せられました。ほぼ9割が「よく放送してくれた」などの賛意を表するものでしたが、中には「南京事件って本当にあったんだ」という意見もあり、なかったと信じている若い人が多いことを実感しました。

 私自身、それほど戦史に詳しかったわけではないんです。最初に「南京事件」について調べ始めた時、その被害者数の振幅に、まずびっくりした。戦時中のことで正確な記録はそろっておらず、日中双方、政府や学者、一般人まで、自分が信じる根拠に基づく説を述べるわけです。それぞれが主張する人数が、数千人から数十万人まである。ふだんはひと一人の命は重い、と事件取材をしている感覚からすると、この振り幅は「何だこりゃ」です。おまけに「被害者数はほぼゼロ」という人までもいる。

 被害者がゼロとは、何もなかった、ということですよ。一部の本や新聞では「南京事件はなかった」と書いているんです。これはすごいことです。普通ならば事件が「あった」ところから話は始まりますよね。まさか「今日は、どこそこで火事がありませんでした。殺人事件がありませんでした」とは報じない。それを、なぜかわざわざ「なかった」と言うわけです。たとえば、アメリカ政府が「東京大空襲はなかった」と言い出したら? これは大変でしょう。

 それに加えて、「なかった」ことの証明は、実は一番むずかしい。「悪魔の証明」という有名な言葉がありますが、何かが「ある」ことを証明するには、確たる証拠を一つ示せばいい。ところが、「ない」ことを証明するには、示された証拠や可能性を、一つ一つすべて潰さなければならないからです。

 実際にあった話で、本にも書きましたが、ある事件の被疑者が「川のこの辺にピストルを捨てた」と供述した場合、捜査陣は現場だけでなく、下流のすべての流域、さらには海まで延々と底をさらい尽くさなければ、「ピストルは捨てられていない」ことの証明はできないのです。

――この本を書くために足かけ2年取材したそうですが、テーマは史実であっても、清水さんのアプローチは、あくまでも「調査報道」なのですね。

 ボブ・ディランの言葉ですが、「俺にとっては右派も左派もない あるのは真実か真実でないかということだけだ」。私の記者人生もまさにこの通りで、思想に興味は無い。「事実」に一歩でも近づくのが最大の目標です。だから、結論は「あった」でも「なかった」でもいいんですよ。しかし、そのどちらかを言うために、何をどこまで調べるか。

 人が一人死ぬと、その人生が断ち切られるだけでなく、家族や友人に言葉に尽くせないダメージを与え、未来も変えてしまう。一つの死が「なかった」という人は、そうした現実のすべてを否定することになるんです。「あるはずがない」とか、「あったはずだ」という言い方も、事実とは言えない。そして、「知らない」という人は一番無責任だと思います。本当は知ろうとしないだけ。知ろうとしないことは罪なのです。


清水潔(しみずきよし)


南京長江大橋のたもとで。

1958年、東京都生まれ。ジャーナリスト。
日本テレビ報道局記者・解説委員。
雑誌記者時代から事件・事故を中心に調査報道を展開。著書に『桶川ストーカー殺人事件――遺言』、『殺人犯はそこにいる――隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』などがある。日本推理作家協会賞、新潮ドキュメント賞、日本民間放送連盟最優秀賞など受賞多数。本書で描かれている「南京事件」のドキュメンタリーで、ギャラクシー賞 テレビ部門優秀賞、「放送人グランプリ」2016準グランプリ、平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞などを受賞した。

http://blacknightgo.blog.fc2.com/blog-entry-3162.html

「南京事件」を調査せよ(清水潔)僕は「歴史の授業」が嫌いだったのだけど、そのことを人に説明する時によく、「南京事件」を引き合いに出すことが多かった。
たかだか100年も経っていない「南京事件」が、起こったのか起こっていないのかの論争が存在しているくらい歴史というのはファジーなものだから好きになれない、というように。

「南京事件」を引き合いに出すことが正しいかどうかはともかくとして、この感覚は常に僕の中にある。
例えば、僕は学校で「鎌倉幕府の成立は1192年」と習ったが、確かこれはもう否定されているはずだ(今何年と教わっているのかは知らない)。教わったことがどんどん変わっていく。しかしそれは、理系の知識も同じだ。新しい発見があれば、どんどん教科書の記述は変わっていく。
それは、まあ仕方ないことだと思う。

僕がどうにも受け入れられないのは、例えば歴史的事件の背景にある動機や理由などについてだ。
確か織田信長だか豊臣秀吉だかが朝鮮出兵をしたような記憶がある。それに対して、こういう動機で彼は朝鮮出兵を決めたのだ、というようなことをきっと学校で教わるのだろう。
しかし、そんなもの正しいかどうかなんてどうやって判断するんだ、と僕は思ってしまう。
何かの本に記述はあるのかもしれない。でも、その記述が正しいかどうかの保証はどうなされるのだろう?客観的事実に関する描写なら、複数の記述を突き合わせればその真偽は判断できる可能性が高い。しかし、内面の事柄に関しては、ほとんど検証など出来ないのではないか、と僕は感じてしまう。

僕にとっての「歴史」というものの認識の根幹には、そういう考え方がある。基本的に、「これが正しい」とされていることの正しさは怪しいな、と思っている。
そして、そういうことを一言で表すために僕は、「南京事件」を引き合いに出すことが多かったのである。

『「南京事件」取材の最大の障害は年月の経過だった。
終戦は70年目を迎えることになるが、「南京事件」は更に遡る77年前だ』

77年前の出来事。ギリギリ関係者が存命であるかもしれないというタイミング。そんなタイミングで著者は、「南京事件」の調査報道に携わることになった。

本書のベースとなっているのは、NNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」という番組である。著者である清水潔氏が手がけた番組だ。この番組は、「平和・協同ジャーナリスト基金賞『奨励賞』」「ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞」「メディア・アンビシャス賞」「放送人の会・準グランプリ」など様々な賞を受賞したドキュメンタリーであり、『大手メディアのほとんどがなぜかこの事件から目を逸らす』と言われている「南京事件」を真正面から扱ったものとして大いに話題になったようだ。

『番組はSNSなど、ネット上でも相当な話題となっていた。
書き込みにはこんなものもあった。
<南京事件って本当にあったんだ。中国の捏造ではなかったのか!>
そう信じていた人が多いことを改めて確認した。』

著者自身についても先に書いておこう。
著者は、「桶川ストーカー殺人事件」で、警察よりも先に犯人に辿り着くという執念の取材により、調査報道の新境地を拓く。「足利事件」の冤罪を証明し、それを足がかりとし「北関東連続幼女誘拐事件」の存在を明らかにした「殺人犯はそこにいる」も、調査報道のバイブルと評される。常に事実を追い求め、細かく細かく「正しいこと」を積み上げることによって誰にも到達出来ない地平に達する著者の取材のあり方には、恐らく誰もが驚愕させられることだろう。

『「事実」に一歩でも近づくことが最大の目標だ』

『資料取材の基本は「原典に当たれ」だ』

今回の南京事件の取材においても、過去の調査報道のスタイルを踏襲し、細かく事実を積み上げていくことで、否応なしに南京事件の発生の有無に決着が着くような形で取材を進めていく。「一次資料に当たること」「たった一つの一次資料を信用せず、複数の方向からその真偽を確認すること」「解釈や説明ではなく、事実を積み上げること」など、取材のイロハではあるのかもしれないが、そのイロハに忠実に徹底的に従うことで、未だに議論の尽きない南京事件というものを炙りだしていこうとする。

今回の取材のキーマンとなったのは、小野賢二という人物だ。小野氏の存在がなければ、著者の取材は、著者がこれまでやってきたスタイルではとても実現できなかっただろう。

小野氏は化学メーカーを勤めあげ、定年後ある活動を始めた。それは、地元福島県から徴兵された元兵士を探しだして、南京での出来事を聞き取り続けているのだ。

そんな小野氏は、貴重な資料を手にしていた。それが、元兵士から手に入れた日記と、取材の様子を記録した映像やテープだ。
著者の取材は、小野氏と出会ったことでようやくスタートラインに着くことが出来た。

『捕虜の虐殺。これが事実ならば「加害者の告白」ではないか。
殺人事件でいうなら自供調書ということになる。
しかもだ。これが大事なのだが掲載されていた日記は一人のものではなく、合計19名分もあった。そしてその多くが何らかの形で捕虜の虐殺に触れていたのだ。』

著者は、日記の原典や取材テープに当たり、そこで描写されていることが事実であるのか否か徹底的に調べることにした。南京事件についての記述だけにとどまらない。いつどこに上陸したのか、なんという船で向かったのか、日記に書かれているような場所が本当に中国に存在するのか…などなど、日記の記述全体から、現在でも検証可能な情報を抜き出しては、その真偽を確定していく。日記や取材テープにはすでに、元兵士による虐殺の証言が存在している。だから日記や取材テープの信ぴょう性を高めることで、南京事件の存在を証明できると考えたのだ。

そうやって、僅かな記述も無視せずに、複数の情報を突き合わせることが可能なものを徹底的に洗い出すことによって著者は、南京事件と呼ばれるものがどういうものであり、そこで一体何が起こったのかを、大部分を何らかの裏付けによって支えられながら描写することが可能になった。死亡者数などははっきりとしないものの、南京における日本兵によるかなり大規模な虐殺は存在した、と著者は結論付ける。

しかし、本書においてこの結論は、著者の目的の半分である。

『そしてまた、放送後には私の中に別の疑問が残ったのである。
なぜ、この事件は強く否定され続け、闇へと封じ込まれようとするのか。真相を求める人々が多いにもかかわらず、大手メディアのほとんどがなぜこの事件から目を逸らすのか。そして現代に生きる人たちは、本当に戦争と無関係なのか、そもそも私自身はどうなのか…。そんなことについて書き残したくなったのだ。
これが本書を世に放つ理由だ。よってテレビで放送した「南京事件」の枠組みとは大きく異なっている』

著者の関心は、南京事件を取り巻く様々な言説や動きにも向けられていく。

著者は、南京事件の取材の過程で、南京事件以外の虐殺についても調べている。南京以外の外国の地で日本軍が行ったもの、日本国内で行われたもの、逆に日本人が虐殺に遭ったもの…。調べれば調べるほど戦争には虐殺がつきものなのだということが分かってくる。

しかしその中においても、南京事件というのは特異な存在感を持つ。

『しかし別れ際に小野さんはこんな言葉を口にしたのである。
「取材協力はしますけど、本当に放送なんてできるんですかね。これまでもNHKなどは、東京や福島の放送局から何度も来ましたけど、みな一度きりでしたよ。これを報じようとして新聞社で飛ばされた記者も知っています。難しいですよ南京事件は…」』

『テレビ番組で「南京事件」を報じることについて意見を聞く。またご本人の取材や出演は可能かと打診した。すると実にあっさりとこう言われてしまった。
「お止めになった方がよろしいと思いますよ。何しろ“両方”から矢が飛んできますからね。出演もご遠慮させて頂きたいですね」』

南京事件だけがなぜこうも特殊な論争が存在するのか。著者はそこに結論を見出すことはないが、南京事件という歴史的事件の特異さから、中国という国への違和感、戦争における被害者と加害者の立場など様々な方向に思考を広げていく。

そしてその一つに、現在の政治の動きがある。

『不思議なのはなぜ、わざわざ「なかった」と言い出すのかである。
産経新聞の連載もそうだ。
本来、報道とは何らかの事象が「起きた」ことを伝えるのが基本である。
事件や事故が起きる。状況を伝える、そのために目撃者が登場する…。
ところが連載記事では「見なかった」という人を取材し、「なかった」という結論に転化していた。実に不思議な報道である。』

南京事件は一つの要素に過ぎないだろうが、著者は、安保法案の成立や、政府によるマスコミへの介入などの「きな臭い動き」を作中に絡めながら、過去の歴史が、現在の政治の動きに影響を与えているのではないか、という空気を切り取っていく。報道ステーションのコメンテーターだった古賀茂明氏の降板、国際的な「報道の自由度ランキング」の低下などに触れながら、日本における「言論の自由」が揺らぎ始めている様を描写し、そこに安保法案の成立を推し進め、日本が再び戦争に突入する状況を生み出しつつある現政権の動きを見る。戦争に突入することでまた南京事件のような虐殺が起こりうるであろうこと、そして起こってしまった南京事件という出来事を否定したり矮小化したりすることで政治的な立場を有利にしようとすること。それらは、南京事件という一つの出来事とだけ直結する問題ではないが、南京事件を含む歴史という大きな枠組みが、現代を生きる僕らの生活に実は直結しているのだ、という現実を改めて認識させる。

『極論を言ってしまえば、虐殺があろうとなかろうと私には無関係である』

取材を開始する前、著者はこんな風に思っていたという。興味は事実か否かだけにあり、虐殺があったにせよなかったにせよ、それが事実であれば自分にとってはそれでいい、というのが著者のスタンスだ。

しかし、南京事件を含む周辺の様々な取材を通じて、著者の考えは変わっていく。

『虐殺があろうとなかろうと私には無関係…。
取材を始めた頃の私はそう思っていた。
だが…、なんということだ。
122年を遡った先で私の到来を待っていた「事実」は、愚かな思考を完膚なきまでに叩き潰してくれたのだ―。
「おまえは本当に戦争と無縁だったと言い切れるのか?」
大陸の寒風が、私の頬をピタピタと打つ。
けれど、それでも私はそれをなかったことにしてしまおうとは思わない。
「事実」に一歩でも近づくことこそが、私の仕事だからだ。
歴史にはおぞましいものもある。だからといって事実を修正できるはずなどないのだ。』

日本の政治が、戦争に向き始めている。そういう雰囲気はそこここで感じ取れる。実際に日本が戦争に突入するかどうか、それは誰にも分からない。しかし、南京事件を深く掘り下げていくことで著者は、戦争というものが何を生み出しうるのか、戦争というものが人間をどう変えうるのかを描写していく。戦争を経験した世代が年々減り続けている今、日本人にとって戦争はリアルなものではなくなってしまった。戦争のリアルを体験した人の言葉を、僕らはもっと知るべきなのではないかと感じた。

『黒い革張りの日記を遺した上等兵は、戦後にこんな一文も記している。
<日本も自衛隊を作り、年々国費を増やして増強を図っておりますが、いつかは再び戦争を予想していることと思う。もっとも自衛力を少しも持たずにいることは安心出来ないが、戦争までやるようなことは絶対に無いようにして貰いたい。どれほどの国民が犠牲になって我が故郷の土を踏むことが出来ず、親子に会うこともなく異国の丘に消えて行った何十万の戦友を思えば、自然と涙が流れて来るのであります>』

戦争を経験した上等兵とは違った形で、著者も、今を生きる我々に問いかける。「日本国民」という大きな集団に対してではなく、「わたし」「あなた」という個に対して。

『兵を戦地に送り込むのは国家であろう。しかし戦い、傷つき、家族を失い、苦しむのは、結局は個々の人間だ。国家がその苦しみを救えるはずもない。ならば宿命を背負うか、謝罪するか、最後に決めざるを得ないのは、私達個々ではないか。
それぞれが歴史に学び、事実を知り、憂い、死者に黙祷せずしてどうするのか。
そうして二度と国を破滅の危機に追い込まぬことこそが、本当の意味の愛国心ではないのか。それこそが「国を守る」ということではないのか』

『知ろうとしないことは罪である』という声に突き動かされて様々な取材に携わってきた著者。もちろん、どんなこともすべて何もかも知る、なんていうことは出来ない。世の中、知らないことだらけだ。しかし著者が言いたいことは、「常に知ろうとする意識を持て」ということだろう。今の知識量で満足するな。今の関心の範囲で満足するな。そういうことだ。

「知る」にも様々なレベルがあるだろうが、本書を読んだだけで知った気になる、というのもまた怖いことだろうと感じる。もちろん、一般人のレベルで出来ることは限られている。しかし、常に「知る」ための「行動」を伴うこと。そういう意識は持っておきたいと強く思わされた。


『「なかった」と言うのは、本当は、あったことを知っているから言っているのだと思います。知っていて、それでも「なかったことにしたい人」が言っているんじゃないかと思います』

ある海軍兵士の言葉だ。すべてに当てはまるわけではないだろうが、本書を読むと、なるほどと思わされる一言である。

清水潔「「南京事件」を調査せよ」

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