南京事件 兵士たちの遺言 さて、最後に、こんなことを言っている人がいます。署名を募っているのだそうです。「そもそも、南京大虐殺など無かった」と…。さらに、自民党の原田義昭・国際情報検討委員会委員長が、「南京大虐殺や慰安婦の存在自体を、我が国はいまや否定しようとしている時にもかかわらず、(中国が)申請しようとするのは承服できない」などと発言したり、二階俊博・自民党総務会長が、「ユネスコが『(南京事件で)日本は悪い』というなら、ユネスコの資金はもう日本は協力しないと言えないとしょうがない」と言っていて、そしてさらに、安部首相本人が、昨年、特攻隊資料を記憶遺産申請の手続きに入るようにと、自ら指示をしていました。ちなみに、この世界記憶遺産の文部科学省の担当者は、籾井勝人・NHK会長の娘である籾井圭子氏です。もうこのような愚かなことを言う大人が、この先どんどんと減っていく日本であることを、心から願っています。そのためにもわたしたちは、とんでもない『歴史修正に熱心』で、浅はかな言動を繰り返す政権を、必ず倒さなければなりません。
































南京事件 兵士たちの遺言 投稿者 tvpickup

http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/ba7c323938bb4c49f843826f525a69cc


『南京事件・兵士たちの遺言』文字起こし(その1)

2015年10月14日 | 日本とわたし


先日の10月4日に放送された、NNNドキュメント“シリーズ戦後70年”『南京事件・兵士たちの遺言』の、文字起こしをしました。
ビデオをここに転載することができませんので、重要だと思われる場面を切り取りました。
なので、とても長い記事になると思います。
けれども、わたしたちが知らずにいてはいけない事実が、このビデオの中にたくさん存在しています。
どうか、時間を見つけて、目を通してください。

↓以下、文字起こしはじめ

南京事件 兵士たちの遺言/NNNドキュメント
http://www.at-douga.com/?p=14681

中国を貫く大河長江。


下流域では、揚子江とも呼ばれています。


岸辺に寄り添う町の一つが南京です。


揚子江に近いいくつかの場所に、慰霊碑が建てられています。


今から78年前の、日中戦争当時の、悲惨な出来事を伝えるためです。


『南京虐殺』『南京事件』などと呼ばれるこの事件は、1937年12月以降、日本軍が行ったとされる中国人への残虐行為です。




中国側は、犠牲になった人の総数を、30万人以上と主張しています。


戦後日本で行われた東京裁判では、20万人以上が犠牲になったとされ、


松井石根元陸軍大将が死刑になりました。


以後、犠牲者の数については、多様な意見が飛び交います。


日本では、数万人や20万人など、議論にもなってきました。


近年、ネット上などにおいては、「あれは虐殺ではない」、


または、「抗議そのものが無かった」、という声まで上がっています。


日本政府の見解は、
「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは、否定できない」としつつ、
「被害者の具体的な人数については諸説あり」
「正しい数かを認定することは困難である」としています。



南京陥落。
当時、勇ましく伝えられた『南京攻略戦』。


しかし、日本国内では、残虐行為は伝えられていませんでした。


南京戦に参加した兵士は、
「南京で見たことは、決して口外するな」


公式な記録の多くは、終戦時に処分されたと言われています。


一枚の写真があります。


防寒着姿で倒れている多くの人々。
これは、南京陥落後の中国で、日本人が入手した写真といわれています。
はたして、南京で撮られたものでしょうか。

これば、南京戦に参加した、ある兵士が書き綴った日記です。


『捕虜セし支那兵ノ一部五千名余、揚子江ノ沿岸ニ連レ出し、機関銃ヲ以テ射殺ス』
『年寄も居レバ子供モ居ル。一人残ラズ殺ス』

それは、加害者側の告白でした。
この日記を書いた元日本兵は、
「何万という捕虜を殺したのはこれ、間違えねえ。
俺は生きて帰って、しゃべって、それから死にてえなと思って 」


兵士たちの遺言と、残された日記が伝えるものとは。
多くの部隊が手柄を競った、南京攻略戦。
その中の、ある部隊の記録を遡ります。



南京事件を長く調査している人がいます。
福島県出身の小野賢二さん(66)。


小野さんは、地元である福島県から、南京攻略戦に参加した部隊があることを知り、興味をもって調べ始め、すでに27年が経ちました。

「福島県会津若松にあった歩兵第65聯隊という、その人たちの証言を聞いて、証言を聞いた上でまあ、証拠としての日記を中心に集めてきたという、それを延々とやってきただけですね」
「俺が証言を聞き始めた頃は、ちょうどみんな80歳以上ですからね。
だから(あうな?)見解があったんですけど、一応その中でも200人、には一応、なんらかのかたちで、あの…話は聞きました」
「そのみんな、亡くなったんじゃないですか。もう100歳以上ですからね、生きてても」
「一応用意したんで。これはひ孫のおもちゃ箱から出てきたもの、陣中日記ですね」


兵士たちが綴った戦の記録。
小野さんは、元兵士たちの家に何度も通った、と言います。


集めた日記は、コピーを含めると31冊。
そこに書かれていたのは…。








「これは本人からもらった、譲ってもらった」

「支那事変日記帳」と書かれてますねえ。これはわりと、戦後貼ったんでしょうかね」


古めかしい革張りの表紙に、年季の入った赤い背。
昭和12年9月から、南京が陥落するまでの3ヶ月間、ほぼ毎日書かれています。
今から19年前に亡くなった、陸軍の上等兵の遺品です。


男性は山砲兵、歩兵第65聯隊と行動を共にしました。
日記には、ごく普通の農民だった男性が、身重の妻を残し、戦場へ向かう様子が記されていました。




『10月3日
午後6時頃、いよいよ上陸して、支那の土地を踏んだ。
空襲となり、我が優軍の打ち出す高射砲機関銃は、火花を散らし…、
これが本当の戦争かと思った』


上海などに上陸した上海派遣軍。


当初の作戦任務は、居住していた日本人の保護でした。


しかし…。
これは陸軍の命令書です。
軍部の判断で、当時中国の首都だった南京攻略を目指すのです。


日本を発って一ヶ月。
日記からは、次第に故郷の話題は消えていき、食べ物についての記述が増えていきます。

『11月4日、ひし(水草の種子)を採って食す者、落花生を掘りきりて煮る者などもある』


突然のことだった南京への転戦。
後方支援はほとんどありません。


『11月16日
食糧の補給は全然無く、支那人家屋より南京米、その他の物を徴発して、一命を繋ぎ前進す』


徴発とは、強制的に、民間人から物質を集めることをいいます。
そして、2ヶ月前まで、ごく普通の農民だった男性が、ついに、民間人に対して、銃口を向けたというのです。

『11月17日
ニャー(若い中国人女性と思われる)を一人連れてきたところ、我らの目を盗んで逃げたので、直ちに小銃を発射し、射殺してしまう』


『11月25日
実に戦争なんて面白い。
酒の好きな者、思う存分飲むことが出来る』


12月、日本軍は、南京に迫っていきます。
中心部は高い城壁で囲まれた、巨大な要塞です。


日本軍のとった作戦は、幾つもの部隊による、完全包囲作戦でした。


上等兵が所属していた山砲兵第19聯隊は、歩兵第65聯隊などと隊を組んで、揚子江沿いを遡って行きました。


この包囲作戦で、中国兵や多くの民間人が、揚子江を渡れずに取り残されました。


12月13日、ついに南京陥落。


その後、松井元陸軍大将の、入場式が行われました。




揚子江沿いを遡っていた上等兵たちの部隊は、武器を捨てて降伏してきた多くの中国兵を、捕虜にします。




『12月14日
途中、敗残兵を1800名以上捕虜にし、その他、たくさんの正規兵で、合計5000人の敗残兵を捕虜にした』


捕虜はその後も増えていき、1万人を超えていきます。
そして…

『12月16日
捕虜せし支那兵の一部五千名余、揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃を以って射殺す。
その後、銃剣にて、思う存分に突き刺す。
自分も此の時ばかりと、30人も突き刺したことであろう。
山となって居る死人の上をあがって、突き刺す気持ちは、鬼をもひしがん(?)勇気が出て、力いっぱい突き刺したり。
ウーンウーンと呻く支那兵の声。
一人残らず殺す。
刀を借りて、首をも切ってみた』


投降した捕虜を殺害することは、國際法で禁じられていました。

調査をしてきた小野さんは、日記を書いた上等兵に、インタビューをしていました。


この映像は、今から21年前に撮影されたものです。
山砲兵第19聯隊・元上等兵:
「機関銃を持ってきて、バババーッと捕虜に向かって撃っちゃったんだ。


捕虜はそりゃあみんな死んだけれども、中には弾に当たんねえ兵隊がいっかもしんねえから、みんな着剣してその、死骸の上を突いて歩け」と。
ザッカザッカ突いて歩いた。
もうおそらく、そうだなあ、30人くらい突いたと思うが、うん。
何万という捕虜は殺したのはこれ、間違いねえ」


これは、同じ作戦に参加していた、別の兵士(歩兵第65聯隊・第八中隊少尉)の日記です。
『一万七千二十五名の三分の一を引き出し、射殺す』


さらに違う兵士(山砲兵第19聯隊・第八中隊伍長)の日記にも、
『揚子江畔にて銃殺』


歩兵第65聯隊(第四中隊少尉)の兵士の日記


小野さんが入手した日記や写しは、合わせて31冊。
その多くが、捕虜の銃殺に触れていたのです。


中にはこんな日記も。
「これは、16日の記述が消されてますね。インクだから消されちゃう」
「ああ、これ、12月15日まではあって、その後無い」

銃殺があったとされる16日だけが、消されて空白になっていました。


戦後になって、諸説飛び出した南京事件。
その根拠の多くは、戦後になって記された文書や証言でした。
一方、これらの日記は、戦場で書かれたもの、つまり、一次資料です。


上等兵の日記の記述に、不自然な点や矛盾が無いか、さらに調べてみることにしました。
日記によれば、上等兵は、ここ神戸港から、白馬山丸という船に乗って、上海に向かったと記されています。


港のそばにある資料館を訪ねました。
白馬山丸の記録が残されていました。


船は、民間からの徴用船でした。


最大時速は13.3ノット。一時間に、およそ15マイル進むことになります。
日記では、上海までは5日間かかっています。
上海までの直線距離は、およそ830マイル(約1336キロメートル)。
日記の記述と矛盾しないことがわかりました。


上海上陸後の足取りの確認は、できないのでしょうか。
防衛省の研究施設に、軍の公式な報告書が残されていることがわかりました。


上等兵が所属していたのは、山砲兵第19聯隊です。


上等兵の書いた10月の日記と、照らし合わせてみます。


「大塲鎮、という場所ですね。陥落の日、と書いてありますが、こちらの資料にも、大塲鎮粉砕し、というふうに書かれています」


日記と公式な記録は、符合しています。
ただ、この部隊の12月以降の報告書は、ここでは見つけることができませんでした。
「この先の、南京に行った時の分が無いんだな」
プツリと消えた、聯隊の公式記録。


しかし、別の資料が、日記を裏打ちしていました。
これは、従軍していた新聞社のカメラマンが撮影した、65聯隊が捕虜にした、中国人の写真です。


これを報じた新聞によれば、捕虜の数は、一万四千七百七十七人。


翌日の報道では、『大漁鮨詰め』と表現した上で、
『弱ったのは食事で、これだけの人間に食わせるだけでも大変だ。茶碗を1万5千個も集めることは、到底不可能』
などと、苦労話が書かれていました。


捕虜のその後をとらえた、一枚の写真があります。(歩兵第65聯隊の兵士が所有)
欄外には、『幕府山の捕虜』


この写真は、福島の65聯隊の日本兵が、所有していたものです。
着剣した銃を担ぐ日本兵の隣には、後ろ手に縛られ、防寒着を着た捕虜も写っています。
裸足の足元には、冬の西日が、長く影を伸ばしています。


12月16日、捕虜は、揚子江西の、中国軍の海軍施設へ連行されたといいます。


当時、日本軍が使っていた機関銃です。


その引き金を引いたという兵士の、音声が残っていました。

歩兵第65聯隊・元第三機関銃隊兵士(1990年収録):
「この方(捕虜)を“お客さん”て言うんだよね。
『今晩はお客さんが来て、お客さんを処理するんだ』と。
そして、“ピー“という呼び子の、将校の呼び子の合図で、一斉射撃。
ダダダダダダダダと始まる』


暗闇に響く、銃殺の合図。
“ピー“

処刑はこの日だけで終わらなかった、といいます。
翌17日、現場は、揚子江の別の河川敷。
これは、65隊の伍長が、後日スケッチしたものです。


河原に集められた捕虜を、日本兵の機関銃が、半円形に囲んでいます。


同じ現場に居たという、別の兵士の証言。
歩兵第65聯隊・元第一大隊本部行李係二等兵(1994年):
「とにかく、1万も集めるっちゅうだから、相当広い砂原だったね。
有刺鉄線か何か、後ろ、周囲に張ったでなかったんかな、あれ」


機関銃隊に所属していた兵士は…。
歩兵第65聯隊・元第一機関銃隊二等兵(1994年):
「機関銃乗せて高くしてね、砂を積んでこう盛って、こうやって撃ったんだから。
5.6発撃ったんでも百、サブロクジュウハチ…200発ぐらい撃ったのかな、うん。
ダダダダダダダダと、一斉に死ぬんだからそりゃ」


二日間で、多くの捕虜の命が、奪われていったといいます。


何冊もの日記や証言から浮かび上がってきた、南京事件。
私たちは、現地取材のため、中国へ向かいました。


戦後、大きく発展を遂げた町、南京。


戦争の傷跡は、今はかなり少なくなったといいます。


市街の所々に残る城壁。
その一部に、痕跡がありました。


事件に関わる資料が展示されているという、(南京)虐殺記念館。


私たちは、館内の撮影を申し込んでいました。
ところが、一ヶ月の交渉の末、明確な理由が示されないまま、断られてしまったのです。


残されたのは、数少ない手がかりです。
・歩兵第65聯隊第二中隊伍長のスケッチ


スケッチに描かれた、捕虜の銃殺場面。
あの、鮨詰にされた捕虜収容所から、捕虜たちはいったい、どこに連れて行かれたのでしょうか。

スケッチには、捕虜収容所から、揚子江へ連行する経路が描かれていました。


ある兵士は “幕府山を右にまわり1時間ちょっと” と証言しています。


手前に描かれている細長い山が、幕府山です。


当時の日本軍の地図には、幕府山には、中国軍の砲台が記載してあります。


私たちは幕府山へ。


探してみると、山頂付近に、中国軍の砲台跡が残されていました。


眼下には揚子江。そして中洲が見えます。


伍長の書いたスケッチと、ほぼ一致していました。
スケッチに描かれた場所は、この辺りと推定できます。
そして、その前日の16日の銃殺が行われたという海軍施設は、少し上流の、この辺りでした。

*文字制限のため、次の記事に続きます→

http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/9b25a9537e947d2eda1d271ab9ce8791


『南京事件・兵士たちの遺言』文字起こし(その2)

2015年10月14日 | 日本とわたし


続きです。

私たちは、取材で浮かび上がった情報を、CGにしてみました。
揚子江岸に建っていた、中国軍の海軍施設です。


16日の昼間、日本兵がやって来て、コンクリートの壁に、いくつもの穴を空けました。
そこに機関銃を設置。
銃口は、揚子江側に向けられています。


そして、夕暮れを待ちます。
あの上等兵の日記には、
『捕虜せし支那兵の一部5千名を、揚子江の沿岸に連れ出し』

《声》歩兵第65聯隊元第三機関銃隊兵士:
「捕虜が、歩かされてやってきたんですよ、夕方暗くなってきて」

後ろ手に縛られた捕虜たち。
揚子江とトーチカのようになった建物に挟まれ、逃げ場はありません。
そして、合図で始まる一斉射撃。


山砲兵第19聯隊上等兵の日記
『その後、銃剣にて、思う存分に突き刺す』
『一人残らず殺す』

翌17日が、河川敷での銃殺でした。
河原には、鉄条網が張られました。
外側に砂を盛って台座が作られ、機関銃が並べられます。
機関銃の上にはシートが、聯隊本部と連絡する野戦電話も引かれました。
辺りが暗くなり、やがて捕虜たちが到着。
そして、岸辺に用意された2本の松明に、火が灯されます。


《声》歩兵第65聯隊・元第一機関銃隊二等兵
「合図があったわけだ。一斉にもう、機関銃撃ったんだから」

機関銃同士の相打ちを防ぐために、この松明の間を狙って、引き金を引いたといいます。


伍長のスケッチの余白には、この時の、


『撃たれまいと、人から人へと登り集まる様、即ち人柱は、丈余(3メートル以上)になっては崩れ、なっては崩れした。


その後、片っぱしから突き殺して、夜明けまでそのところに石油をかけて燃やし、柳の枝を鍵にして、一人一人引きずって、河の流れに流したのである』


揚子江の岸辺が処刑場に選ばれたのは、多くの死体を処理するためだった、といいます。
揚子江で起きた銃殺での犠牲者の、正確な総数は、今もはっきりとはしていません。
戦後になって、
「捕虜を解放するために、揚子江岸に連行したが、暴動を起こされたので、やむなく銃撃した」
という証言が、為されたことがあります。


しかし、小野さんが31人から集めた、戦中の一次資料には、解放するという話は全く書かれていませんでした。


捕虜の銃殺。
地元の南京では、直接事件を知る人を見つけることは、できませんでした。


ところが、揚子江沿いで、銃殺を目撃したという日本人が、大阪に居ることがわかったのです。
南京での銃殺を目撃したという、96歳の男性。
当時18歳だったこの男性は、海軍兵士として南京戦に参加した際に、揚子江岸での銃殺を目撃したといいます。


「12月18日というのは、あのー、午後の2時頃に、突然、機関銃の射撃音が響いてきて、河川敷の中に、火を噴く機関銃と、倒れてワイワイ…』

これまで確認できた処刑場所は、2箇所でした。
そして、海軍兵士が見た18日以降の場所は、この辺り。
銃殺は、揚子江沿いの幾つかの場所で、行われていたことになります。


「銃殺は連日続いていた」と、この男性は言います。
しかしなぜ、海軍兵士が南京に居たのでしょうか。

「『海風』がある。これがその時の」
「あ、船ですか」


第24駆逐隊の海風。
男性は、この駆逐艦で、信号兵をしていたと言います。


あまり知られてはいませんが、海軍は揚子江をさかのぼり、南京戦に参加していたのです。


防衛省が保管している、海軍の公式記録にも、海風が。




海軍兵士は、駆逐艦の上から、こんな光景も目にしていました。
「南京の上海で停泊中、その時に、いかだに死体の山を積んだのが、4隻流れてきました」

いかだについては、軍の公式記録にも記載されていました。
『敗残兵、南京上流よりいかだにて逃走せんとす』




駆逐艦から銃殺を目撃したのは、その二日後だといいます。

「いわゆる陸軍のね、重機関銃の銃座が片っぽにあって、河川敷にトラックで運ばれてきた、25人か30人程度の人が、重機関銃の標的にされて、撃ち殺されてたということですね」
「はじめはダダダンダダダンダダダンと、やがてはタタタンタタタン、タン、タン、タンともう、
残り少なくなったら、弾は一発でボン、ボンと、狙い打ちしているようなのが、音聞いてわかるというふうに慣れてしまった」

男性は、南京での戦いを終え、長崎県の佐世保へ戻ると、海軍士官から、ある注意を受けたと言います。


「『南京で見たことは、決して口外するな』ということを注意されましたね」



南京事件は、戦後になって表面化しましたが、78年が経った今も、論争が絶えません。
私たちは、捕虜の銃殺に関わった部隊の記録や、目撃者の取材を行ってきました。
現地では、被害者側の声を聞くことにしました。

南京市政府から、事件の被害者とされる中国人を、3人紹介されました。
被害者として来日し、講演をしたこともあります。

一人目は、当時10歳だったという男性。
親戚や近所の住民などと、店の地下に隠れているところに日本兵が来た、といいます。
余昌祥さん(88):
「おじを含む若者たちは、上に隠れていましたが、日本軍が来て、7人が殺されました」


二人目は、当時13歳だったという男性。
チン(草冠に今)洪桂さん(91)。
日本兵によって住んでいた家が放火され、中に居た幼い弟が死んだ、というのです。
 

私たちは、二人の証言について、裏付け取材を試みましたが、当時の状況はすでに大きく変わり、他の目撃者も見つかりませんでした。

三人目の女性は、1928年生まれのアイ(草冠に又のような漢字)義英さん。
9歳の時、農民だった父親と親戚を、殺害されたといいます。

「村人が、日本軍を歓迎すると言い出しました。
日本軍と握手をしましたが、関係なく殺されました。
日本軍は、村の広場に村人を一列に並ばせて、機関銃で十数人、射殺しました」


翌日、村に再び日本兵が現れ、アイさんの父親を連れ去った、といいます。
「父は、首を刺されて死んでいました。顔は血だらけでした。
叔父も死んでいました。
私は、父の手をずっと握って、泣いていました」


日本兵の仕打ちは、それだけではなかった、といいます。

「若い娘を見つけたら、強姦します」


親戚の女性も連れて行かれ、強姦されたと訴えました。


現在は、南京中心部に住んでいるというアイさん。
日本軍が来た時に暮らしていたのは、郊外の許巷村だったといいます。

これまで私たちが取材してきた、揚子江の銃殺とは別の場所です。


南京市政府担当者と別れた私たちは、単独で、事件があったという許巷村へ。


南京の中心部から、直線距離でおよそ45キロ。
田園風景が広がる場所に、村はありました。
取材開始から一時間後、
「なんか今、おじいさんが、おじいさんが来てね」


この村で暮らす男性。
彼は、村で起きた事件のことを、聞いたことがある、というのです。

「どこですか?どこで殺されましたか?」
「あそこです」


「村の年寄りが、『旗を持って日本兵を迎えに行こう』と、村人に呼びかけていました」


「日本兵は、子どもたちには手を出しませんでした。
しかし、若い村人たちは、縛られて裸にされ、殺されました」

「一般の方がここで、射殺されたということですね」
「民間人です。農民です」
「兵隊ではない、農民の方」

日本兵を歓迎した農民たちが殺された。
それは、アイさんが語った内容と同じでした。

取材を続けると、村人たちが集まってきました。
そして、アイさんは昔この辺りに住んでいた、村のはずれに一家の墓がある、と教えてくれました。


「アイ・イーインは、私の叔母さんです」


「お墓を案内してもらえる」
「そんなに遠くありません」

男性は、私たちがインタビューしたアイさんの、親戚だといいます。
村のはずれに建つ、一族の墓。
墓石は近年作られたものだそうです。


78年が経った今、たどり着けたのはここまででした。



民間人の殺害。
それは、当時海外メディアにより、指摘されていました。


南京の特派員たちが、報じていたのです。


そして、現在の日本政府も、非戦闘員の殺害や、略奪行為等があったことは否定できない、という公式見解を示しています。


南京陥落時、中国兵の中には、軍服を脱ぎ捨て、民間人に紛れ込む者もいたとされます。
日本軍は、そんな、兵隊と民間人の区別が出来なかったり、あるいはほとんどしないまま、殺害した例もあるといいます。

私たちの手元にある、一枚の写真。
防寒着姿で倒れている、多くの人々。
これが南京で撮られたものならば、後ろの河は揚子江と考えられます。


調べる手がかりは、後方に写っている、特徴的な二つの山の稜線。


そして右手には、なだらかな丘陵が続いています。


対岸に、似た地形がありました。





戦争を振り返る時、日本人は、自分たちを被害者として考えることがあります。


しかし、多くの命を奪ったという一面も、忘れてはなりません。


歴史を踏まえ、これからどう進んでいくべきか、今、問われています。


↑文字起こし終わり



わたしは、今の夫と暮らし始めたことで、違う国々の人たちと話す機会が多くなって初めて、この南京事件のことを知りました。
その時にはもう、30代の後半に差し掛かっていました。
ひょんなことから、南京のことが話題に上がり、その時わたしは無邪気に、「え?なんのこと?」と口にしたのでした。
その途端、普段はとても優しくて、ひょうきんな台湾人のジョイが、顔を真っ赤にして叫んだのでした。
「どうして知らないの?そんないい年をして、どうして知らないの?」
今にも掴みかかってくるほどの勢いで、目には涙がたまっていました。
わたしは本当に驚いて、それから家にすっ飛んで帰り、慌ててそのことについて調べるために、図書館に走って行ったのを覚えています。
今からもう20年近く前のことです。

わたしは、同じく戦争犯罪に当たる原爆投下による被害については、幼い頃から興味を持ち、同じように図書館に通っては調べたりする子どもでした。
そして、調べれば調べるほど、このような惨たらしい殺戮が仕事であり、目的となる戦争、軍隊、そして軍産複合体の存在を、憎々しく思ってきました。
でも、基本は、犠牲者としてのもので、加害者としての認識は、あまり強いものではありませんでした。

理不尽に奪われた命。
それが数人なら、数十人なら、数百人なら、数千人なら、数万人なら、数十万人なら、数百万人なら…。
戦争は人や生き物を殺し、町や村や自然を破壊し、終わった後も膿を出し続けます。
そんなとてつもない暴力を、研究し、計画し、命令し、それに従えるだけの人間としての心の破壊をし、実行に移すことが、どうして罪に問われないのでしょう。
こんなひどい犯罪が、どうして戦争という名の元に、やらなくてはいけないことのような嘘が、まかり通っているのでしょう。
戦争は犯罪であり、戦争を指令した者はみな罪人として、その結果がどうであれ、勝った側も負けた側も、どちらも極悪罪人として裁きを受けるよう、法律を作るべきだと思います。


さて、最後に、こんなことを言っている人がいます。
署名を募っているのだそうです。


「そもそも、南京大虐殺など無かった」と…。

さらに、自民党の原田義昭・国際情報検討委員会委員長が、
「南京大虐殺や慰安婦の存在自体を、我が国はいまや否定しようとしている時にもかかわらず、(中国が)申請しようとするのは承服できない」などと発言したり、
二階俊博・自民党総務会長が、
「ユネスコが『(南京事件で)日本は悪い』というなら、ユネスコの資金はもう日本は協力しないと言えないとしょうがない」と言っていて、
そしてさらに、安部首相本人が、昨年、特攻隊資料を記憶遺産申請の手続きに入るようにと、自ら指示をしていました。
ちなみに、この世界記憶遺産の文部科学省の担当者は、籾井勝人・NHK会長の娘である籾井圭子氏です。

もうこのような愚かなことを言う大人が、この先どんどんと減っていく日本であることを、心から願っています。
そのためにもわたしたちは、とんでもない『歴史修正に熱心』で、浅はかな言動を繰り返す政権を、必ず倒さなければなりません。
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