Dropkickより

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西村修が語るプロレスの神様――「ゴッチさんはもう一度、日本に来たがってたんです。でも……」



2016-07-27 00:001

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明日7月28日は「プロレスの神様」カール・ゴッチの命日です――というわけで、晩年のゴッチさんとワインや葉巻を嗜んでいた西村修にありし日の神様の思い出をたっぷりと語っていただきました。やっぱりゴッチさんは凄い!







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――7月28日はカール・ゴッチさんの命日ということで、晩年の“プロレスの神様”と親交が深かった西村さんにお話をうかがいにきました。



西村 ゴッチさんが亡くなられたのは2007年のことですから、もう9年も経つんですよねぇ……(しみじみと)。



――西村さんがゴッチさんの住むフロリダを訪れたのは90年代前半になりますが、ゴッチさんとの付き合いが始まるのはだいぶあとのことなんですよね。


西村 じつはそうなんですよ。それは“派閥”の問題があったんです。私が93年にフロリダに行ったときはヒロ・マツダさんの道場でレスリングを学び、ブライアン・ブレアーのボディビルジムで身体作りに励んでこいというのが会社(新日本プロレス)の命令だったんです。当時のフロリダは、そのマツダさんとマレンコ道場の2つの派閥に分かれていて。


――マレンコ道場とは、全日本プロレスにも来日していたジョーとディーンの親父ラリー・マレンコが開いたレスラー養成機関ですね。


西村 当時のゴッチさんのところに誰か生徒がいたかは定かではないんですけどね。


――ゴッチさんは正式なレスリングスクールをやっていたわけじゃない。西村さんはマツダ派閥の人間だったからマレンコ道場には近寄りづらかったんですね。


西村 もともとマツダさんはゴッチさんの弟子でもあるんですけどね。マツダさんの得意技ジャーマン・スープレックスはゴッチさんに教わったわけですから。



――ゴッチさんはラリー・マレンコと古くから交流がありましたからマレンコ派寄りというか。


西村 でも、ディーンとゴッチさんの仲は良くなかった。兄貴のジョー・マレンコとゴッチさんの仲は良いですよ。そこは完全な師弟関係でしたけど。


――ジョーは薬剤師として晩年のゴッチさんに薬を渡しに来ていたりしてたんですよね。


西村 あと投資家として不動産を扱っていたり、いまは郡の警察官をやってます。シェリフっていうんですね。


――やり手なんですね(笑)。ディーンは小さい頃からゴッチさんと接してはずなのにどうしてそんな仲に?


西村 まあ性格が合わなかったんでしょうね。ゴッチさんは頑固一徹な性格の方ですからね。曲がったことは絶対に許さない。ディーンとのあいだに何があったのかはわからないですけど、ゴッチさんから彼のいい話は一度も聞いたことないんです。


――兄弟でもそんなに仲が違うんですね。


西村 昔はマレンコ一家とゴッチさんはひとつの家に住んでいたんですよ。1階はゴッチさん、2階はマレンコ一家。朝起きるとゴッチさんとまだ幼いジョーが庭でスクワットや腕立て伏せを1時間くらいやって、それからジョーは学校に通ったそうですから。


――幼少の頃から深い付き合いだったんですね。


西村 話を戻すと、そんな派閥があったことでゴッチさんとは会う機会はなかったんですが、ラリー・マレンコのお葬式が94年にあったんです。そこで初めてゴッチさんと会話をしたんですけど、私が自己紹介したって「誰だ、おまえは?」みたいな怪訝な顔をするんですよ(苦笑)。


――ゴッチさんはなかなか他人を受け入れないんですよね(笑)。


西村 本当に親密になったのはマツダさんが亡くなられて、2000年8月に木戸(修)さんがゴッチさんを表敬訪問するというテレビ企画があったんですけど。私が現地のコーディネイトをしまして、それがきっかけです。「タンパに住んでるなら家に来なさい。いろいろと教えてあげるから」と。それから月に一度はフロリダに帰るそのたびにお会いすることになりまして。1週間に1回は電話で連絡を取るようになって。


――初対面から5年近く経ってのことなんですね。


西村 ちなみにそのとき木戸さんの奥さんもゴッチさんの家を訪れてるんですけど、「西村さん、ウチの主人がなぜ細かい性格なのかようやくわかりました。整理整頓はゴッチさんの影響なのね!」って感激してましたね(笑)。


――それほどの整理整頓ぶりなんですね(笑)。そんな性格のゴッチさんとのお付き合いは大変だったんじゃないですか?


西村 私はいまでこそ若手レスラーの面倒を見たりしてますけど、プロレス界に入ってからは先輩との付き合いが多くて。ヒロ・マツダさん、藤波辰爾さん、マサ斎藤さん、タイガー服部さん……常に先輩ばっかり。先輩への気の使い方という部分では慣れてるというか。


――だからゴッチさんとの付き合い方もわかってたんですね。


西村 それとドイツ人の感性を理解していましたから。ゴッチさん自身はベルギーのアントワープ生まれなんですけど、育ったのは南ドイツのバーバリアン地方なんです。


――ドイツ人とアメリカ人ではそんなに性格は違うもんですか?


西村 いやあ、もうまったく違いますね。ドイツ人は勤勉真面目で頑固。私、ドイツ人の女性と付き合ったことがあるからわかるんですよね(笑)。


――だからゴッチさんの流儀が理解できる(笑)。


西村 97年にオットー・ワンツのところをツアーしていた頃にドイツ人女性と付き合っていて。彼女と付き合うということは、その両親、地域の仲間とも触れ合うということですから。その経験があるのでゴッチさんの考えてることは理解できたんですよ。ゴッチさんは典型的な頑固なドイツ人です。日本にだっているじゃないですか、とんでもない頑固ジジイって。


――偏屈な下町のオジサンですかね(笑)。


西村 現在の文化にいっさい適合しない生き方。それはゴッチさんの生き方なんですよね。勝ち気な根性はすさまじいものがあって、80歳を超えても絶対に負けないぞという姿勢ですから。


――常に張り合ってくるというか。


西村 自分に負けない、他人にも負けない。自分に厳しいけど、他人にも厳しい。ゴッチさんはずっと何かと戦ってるんです。ご飯を食べても酒を飲んでも、私より食べたり飲もうとするんです。80いくつなのにですよ?


――とんでもない80歳ですね(笑)。


西村 500グラムのステーキ、2人前のサラダ、大盛りのデザートをペロリと食べるんですよ。ワインを2本も開けてね。


――聞いてるだけでお腹いっぱいです!


西村 もの凄く元気。パワーも凄かったですね。手押しの差しってあるんですけど、82歳のゴッチさんに勝てなかったですもんね。


――それはトレーニングを怠っていなかったんですね。


西村 亡くなる直前まで腕立て伏せ毎日200回やってましたから。


――凄い(笑)。


西村 昔は何千回の世界ですけどね。ゴッチさんがよく言っていたのは、それは自分自身に言い聞かせていたんでしょうけど「若い頃からやるべきである。年寄りになってもやらなきゃいけないんだ」ってことです。


――晩年のゴッチさんは、多くのレスラーやプロレスファンが訪れたガレージや庭つきの家から、小さなアパートに引っ越したそうですけど、練習はちゃんとしてたんですね。


西村 リビングが8畳くらいのアパートです。大きな机があっていつもそこで本を読むんですよね。小さなベットルームと小さなキッチンもあって。


――西村さんはそこのアパートでゴッチさんとスパーをやられてたそうですね。


西村 スパーリングと言っても一方的な技かけですよ。「こうやるんだ!」と何かしら教えてくれて。あとはブリッジや腕立て伏せのやり方。引っ越した先のアパートに登り綱やコシティはなかったですけど、プッシュアップバーやブリッジ用のゴムマットはありました。首の運動、スクワットは毎日やってたんでしょうね。


――試合をするわけでもないのに。もう習慣だったんでしょうね。


西村 ゴッチさんがアパートに引っ越した理由は奥さんなんですよ。ゴッチさんが70いくつのときに奥さんが亡くなってしまって。その家にはあまりにも奥さんとの思い出が詰まり過ぎてるし、庭の掃除から何から自分ひとりでは面倒が見きれない。それで家を売却することになるんですけど、購入予定の見学者に全部やらせたらしいですよ。


――何をですか?


西村 ロープ登りからスクワットから(笑)


――ハハハハハハハハハハ! 不動産購入と無関係ですよ!(笑)。


西村 ブリッジもやらせて、最後はゴッチさんとスパーリングまでやったそうですよ(笑)。


――家を譲る条件がゴッチ式トレーニング!(笑)。


西村 かなりの大金持ちがゴッチさんの家を購入したんですけど、「家を買うときに全部やらされた」って言ってましたね。いまでも家の外見は変わりないんですが、家の中はリノベーションしちゃって豪華な内装になってるんですけど。


――そのお金持ちはゴッチさんのことをご存知だったんですか?


西村 それが知らなかったそうなんですよ。でも、次から次に日本からゴッチさんの家の見学者が来るもんだから、あとからカール・ゴッチというプロレスラーを勉強したそうです(笑)。


この続きと、前田日明vs安生洋二、マスカラス、仮面シューター・スーパーライダーなどの記事がまとめて読める「13万字・詰め合わせセット」はコチラ http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1076915

http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1027358



PRIDE・1ヒクソングレイシー戦〜紫に消えた高田延彦〜■金原弘光のゼロゼロ年代クロニクル⑩



2016-05-13 16:48
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伝説のプロレス団体UWFインターナショナルでデビューして、キングダム、リングス、PRIDEと渡り歩いた日本格闘技の生き証人金原弘光が格闘技界黎明期を振りかえる連載インタビュー。今回は高田延彦vsヒクソン・グレイシー戦の裏側! 前回はコチラです→http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1012796









――今回は1997年10月11日にPRIDE.1の高田延彦vsヒクソン・グレイシーについてお聞きします。高田さんはヒクソン戦に備えてキングダム道場でどんな練習をしていたんですか?


金原 いや、キングダム道場で練習はしていなかったんじゃないかなあ。少なくとも俺や安生さんとは練習してないよ。


――そういえば、高田さんはサーキットトレーニングが中心だったみたいな話は聞いてますね。


金原 高田さんは身体能力が高かったからね。そこはUWFの中でもナンバーワンだったんじゃないかな。


――スパーリングはどこでやってたんですかね。


金原 どこでやってたんだろ。


――高田さんの動向は気にならなかったですか?


金原 気にはなっていたんだけど、「高田さん、どこで練習してるんですか?」なんて聞けるような関係ではなかったしねぇ。



――そこはプロレス団体ならではの上下関係があったんですね。


金原 高田さんはそもそもキングダムの道場にもそんなに顔を出してなかったしね。


――キングダム勢の中でも話題にはならないんですか?


金原 高田さんは別の場所で秘密の特訓をしてるという話は聞いた。


――秘密の特訓!それがサーキットトレーニングだったんですかね。


金原 前にも話をしたけど、ヒクソンと引き分けた柔術家と練習はしていたんだと思う。それはキングダムのジムでやってたのかなあ。そこもあんまり記憶にないなあ。



――ほかの場所といっても、当時都内に格闘技ジムはほとんど存在しなかったですしね。



金原 俺と安生さん、サクがその柔術家にいつも極められてると耳にした高田さんが「ヒクソンはヤバイんだ」って警戒してるって話は聞いたけど。俺らはエンセンと交流してたし、柔術家にも教わったから、柔術というものがだんだんとわかり始めてきたんだけど。高田さんはどうだったんだろうなあ……。


――いまの格闘技ファンにはピンとこないかもしれないですけど、高田さんクラスのプロレスラーが新しい分野にイチから取り組むってなかなか難しい時代だったと思うんですね。


金原 当時の高田さんといったらプロレス界のスーパースターだったからね。


――PRIDE.1のあとに高田さんがアメリカのビバリーヒルズ柔術クラブに行ったとき、スパーリングでトレーナーに腕十字を極められた写真がFRIDAYに載ったんですけど、「情けない姿」として報道されていて。それは道場で教わることや習う文化という認識がマスコミにもなかったってことですよね。たとえ練習でも極められてはいけないという。


金原 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンのスパーリングだったら、高田さんが一番強いんだけどね。高田さんって身体能力が本当に凄くてさ、剛か柔でいえば、圧倒的に剛のレスリングなんだよね。パワーで相手をねじ伏せるんだよね。


――フィジカルで圧倒する感じですね。


金原 いままでいろんな選手とスパーリングをやったけど、日本人の中ではあのパワーは群を抜いてる。安生さんはどちらかというとテクニックの人なんだけど、高田さんはパワーの人。手が凄くでかいし、クラッチしても簡単に切っちゃうんだよ。ほかの人だったら切られないのに高田さんだけは別。それくらいパワーがあったんですよ。

この記事の続きと、ハッスル誕生と崩壊、スティング、KEI山宮、藤波辰爾、さくらえみとアイスリボンなどがまとめて読める「12万字・詰め合わせセット」はコチラ

http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1012796



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UWFが柔術を知った日〜道場はどう変わっていったのか〜 ■金原弘光のゼロゼロ年代クロニクル⑨



2016-04-20 18:41
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伝説のプロレス団体UWFインターナショナルでデビューして、キングダム、リングス、PRIDEと渡り歩いた日本格闘技の生き証人金原弘光が格闘技界黎明期を振りかえる連載インタビュー。今回は「柔術の邂逅」がUWFインターナショナルにとってどのような影響を与えたのか。 前回はコチラです→http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar973981







佐山サトルさんに「Uインターなんて、あんなところに行っても全然練習にならないから無駄だよ」とか言われたみたいなんだよね




――UWFインターの後継団体として旗揚げされたキングダムですが、道場は麻布にあったんですよね。凄い場所にありますね(笑)。



金原 東麻布。凄くいい場所でしょ。それにビル丸々一棟キングダムが使ってたんだよ。



――ビル丸ごとですか!


金原 そのビルの中に合宿所と道場、事務所が入ってたんだよね。


――金原さんはその合宿所に寝泊まりしてたんですか?


金原 いや、俺はもう合宿所は出てた。そこには山本喧一、松井(大二郎)、上山(龍紀)、豊永(稔)が住んでいてね。


――そのほかのキングダムのメンバーは、安生(洋二)さん、佐野(巧真)さん、高山(善廣)さん、桜庭(和志)さん、垣原(賢人)さんですね。しかし、6階丸ごとキングダムは凄いですねぇ。


金原 各階60平米くらいの広さで、地下は“和田(良覚)の部屋”と呼ばれててウエイトトレーニング専用。1階は事務所、2階はレスリング五輪代表だった安達(巧)さんがコーチのグラップリング専用スペース。3階はムエタイのボーウィー・チョーワイクンが打撃を教えて、4階がちゃんこ部屋。5階が合宿所で6階は何があったか忘れた。地下の和田さんを倒せないと上に進めないみたいな感じだから、ブルース・リーの『死亡遊戯』みたいだったよ(笑)。


――勝ち残った人間だけが、ちゃんこ部屋にたどりつくという(笑)。それだけ環境が整ってると、普通にジムとして運営できますよね。


金原 いや、最初の予定では一般の人も通えるジムにして、キングダムの選手たちが教える話もあったんだよね。結局やらなかったけど、いま振り返ってみても最高の練習環境だったよね。Tさんもいないしさあ。


――ハハハハハハ!


金原 いつもの1日のスケジュールは、午前中に2階の安達さんの部屋に集まって、レスリングや関節技をやる。昼飯を食ったあとはおのおの昼寝。ビルは凄く広いからね(笑)。午後は和田の部屋や打撃の部屋で練習して。


――外部の選手が出稽古に来てたりしてたんですか?


金原 誰が来てたかなあ。エンセン(井上)は何回来てたけど、それはUインターの頃からの話だから。


――あの当時、修斗の人間がU系の道場に練習に来るって相当凄いことですよね。修斗は格闘プロレスの存在を全面否定していたわけですし、スパーリングなんかやったら殺伐としそうで。


金原 宮戸(優光)さんがいたらそんな雰囲気になってたかもしれないけど。Uインターの末期は宮戸さんもTさんもいないし、交流の意味でのスパーリングだったから、相手を壊してやろうとか極めてやろうという感情はないよね。「どんな技術を持ってるんだろう?」ってお互いに勉強するためにやるわけだしね。


――だからその後も交流が続いてたんですね。


金原 うん。そもそもエンセンと交流することになったのは、エンセンがたまたま新日本とUインターの対抗戦を見たからなんだよ。両国でやった試合を見て「Uインターの選手は強いと思う」と興味を持って。それから当時の修斗にヘビー級の練習相手がいないこともあって、「練習をしたい」という話があったんだよね。


――金原さんたちUインター勢も柔術系の選手とスパーすることの意味は大きかったんですよね。


金原 凄く大きかった。ガードポジションとか知ってはいたけど、どういう技術なのかはわからなかったから。Uインターにはガードポジションの概念がなかったんで、「抑えこまれてもガードに戻せばいいんだ」ってことは眼から鱗だったよね。まず俺らは寝技で抑えこまれたら「亀になって立つ」という発想でしょ。「下の体勢からこんなに極められるんだ」「こんな動きがあるんだ」って衝撃的だったよね。


――やっぱり実際にやってみないとわからないもんなんですね。


金原 エンセンとやってみて思ったのは、柔術とUインターでは寝技の流派が違うって感じかなあ。空手でもいろいろと流派があるでしょ。それと同じで寝技でも流派があるんだなって。だからお互いをミックスしたら凄いんじゃないかなって直感的に思った。それはエンセンにも言えることで「やっぱりUインターの人たちは強かった」という感想だったから、お互いにメリットはあったよね。


――Uインターのプロレスラーは弱くなかった、と。


金原 まず俺らの身体能力が高いことに凄く驚いてた。


――選ばれた人間だけが入門できて、そこから地獄のトレーニングを潜り抜けてきたわけですもんね。


金原 技術的には、亀の姿勢から極める技にビックリしてた。「こいつら、簡単にバックを取らせるけど、そこから腕を極めるのか」って。


――のちに桜庭さんがPRIDEなんかでよく見せた、バックからの腕取りですね。

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「プロレスの神様」カール・ゴッチの生涯……■「斎藤文彦INTERVIEWS⑤」



2016-08-01 00:00
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斎藤文彦
























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80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回は13000字で「プロレスの神様」カール・ゴッチを語ります! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付き!




「斎藤文彦INTERVIEWS」バックナンバー

■プロレス史上最大の裏切り「モントリオール事件」
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1010682

■オペラ座の怪人スティング、「プロレスの歴史」に舞い戻る
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1022731

■なぜ、どうして――? クリス・ベンワーの栄光と最期
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1039248

■超獣ブルーザー・ブロディ
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1059153




斎藤文彦(以下フミ) ゴッチ先生のことは30年以上前から取材してるんですよ。ゴッチ先生が住むフロリダのタンパにも行きましたし、取材したカセットテープも残ってるので、いつか完全版として翻訳したいなって。



――それはぜひ読みたいです!


フミ ボクとゴッチ先生の出会い……と言ったら大げさですけど、それは1971年の春、ボクが小学生4年生のときで国際プロレスの第3回IWAワールドシリーズが開かれたんですが、当時の国際プロレスの主力メンバーではストロング小林、グレート草津、サンダー杉山、ラッシャー木村ら。決勝リーグに残ったのは、ゴッチ先生、ビル・ロビンソン、モンスター・ロシモフ、のちのアンドレ・ザ・ジャイアントの外国人3選手なんです。


――凄い決勝メンバーですね(笑)。


フミ この決勝リーグは非常に国際プロレスらしいというか。国際プロレスのテレビ中継はいまのTBSの水曜夜7時という時間帯に放映されていて。金曜夜8時に放映されていた日本プロレスとは違った意味でプロレスファンが心を躍らせるものだったんですよ。わかりやすく言うと、日本プロレスとの差異化を図るためなのか、外国人選手が活躍してたんです。


――決勝リーグの外国人3選手進出は、国際プロレスらしいんですね。



フミ そうなんですよ。1971年ですから、ゴッチ先生はすでに47歳。小学4年のボクが見たゴッチ先生は「プロレスの神様」というよりも「無冠の帝王」のイメージだった。「プロレスの神様」というニックネームは、アントニオ猪木さんが新日本プロレスを立ち上げたときのストロングスタイルというテーマの象徴として、ゴッチ先生は神格化されていくんだけど。


――国際プロレスに参戦していたのは、「プロレスの神様」として神格化される前のことなんですね。


フミ 国際プロレスに参戦したときはしばらくぶりに現役復帰したときで、予選リーグのビル・ロビンソン戦は30分時間切れ引き分け。その試合はテレビではすべて流れず、番組中継は終わってしまったんですけどね。


――昔のプロレス生中継ではよくあったことですね(笑)。


フミ 決勝リーグのロシモフ戦では、ゴッチ先生が完璧なジャーマン・スープレックス・ホールドであの巨体を投げちゃうんですよ。その当時のロシモフはやや体重を軽いんでしょうけども、本当に圧巻のシーンで。


――40代のゴッチさんがアンドレを投げきるってさすがですねぇ。


フミ ビデオのない時代なのに、そのシーンはボクの脳裏にはしっかりと焼き付いていて、試合の攻防もハッキリとおぼえてるんです。そのジャーマンの直前にレフェリーが選手の動きに巻き込まれて、場外に落ちてしまうんです。ゴッチ先生のジャーマンで3秒が経過するんだけど、レフェリー不在ですからフォールは認められない。仕方なくゴッチ先生は自ら技を解いて、リング上から場外でうずくまっているレフェリーに声をかける。そのとき背後からロシモフに襲われて、シュミット式バックブリーカーをかけられてしまい、そのタイミングでレフェリーがリングに戻ってきて、ゴッチ先生は不覚にもフォール負け!という決着で。


――「勝負ではゴッチが勝ったのに!」というエクスキューズがつく決着だった。


フミ そこはいまのアメリカンプロレスっぽい流れですよね。ゴッチ先生は試合には負けたけど、あのジャーマンは昭和プロレスファンにはいまでも語り草なんですよ。その後、決勝リーグで再戦したゴッチ先生とロビンソンはまたもや時間切れ引き分けに終わってしまったので、1点差でロシモフの優勝で終わったんです。それがボクのゴッチ原体験。


――そんなものを見せられたら虜になりますよね。


フミ いやあ、本当にカッコよかったですよ。あのときのロビンソンは30代前半、ゴッチ先生は47歳で、あきらかにゴッチ先生のほうが歳を食ってるんですけど。背筋はピンと張っていて歳を感じさせなかったし、変幻自在のテクニックを見せて、当時の外国人レスラーにありがちな反則プレーを一度もしない。外国人なのに正統派スタイルを貫くんですよ


――ああ、当時って外国人レスラーはたいてい悪役だったんですね。


フミ 日本プロレスはインター王者の馬場さんが主人公。その馬場さんに挑戦する外国人選手には、ブルーノ・サンマルチノやジン・キニスキーという大物も多かったんだけど、基本的にディック・ザ・ブルーザーやクラッシャー・リソワスキーのように悪役ですよ。一方の国際プロレスはロビンソンをはじめ正統派外国人レスラーをディスプレイしてくれたんです。


――ゴッチさんはそれ以前に日本プロレスにも来日してましたが、日プロからはどういう評価を受けてたんですか?


フミ ゴッチ先生の初来日は力道山の日本プロレス。昭和36年の第3回ワールドリーグ戦です。カール・クラウザーという名前で来日した第一戦の相手は吉村道明。当時日本で一番のテクニシャンとの45分3本勝負で、その試合でジャーマンスープレックスを初公開してるんですね。ワールドリーグは3カ月くらい続きますから、そのシリーズのあいだに吉村道明とのシングルマッチを12回もやったんですけど。


――12回も!(笑)。


フミ 3勝3敗6引き分けという戦績だったのかな。もちろん、ボクはリアルタイムでは観ていません。力道山とも1回だけシングルマッチをやってるんですけど、痛み分け。力道山は「強けりゃいいってもんじゃねえ」っていう評価だったんです。


――あらら(笑)。


フミ お客さんが見ていて面白くないと思ったんじゃないですか。それはゴッチ先生の動きがつまらないというよりは、力道山のプロデューサーの感性からすれば、「正義の味方・力道山」とは相性がよくない外国人レスラーってことだったんでしょうね。


――悪役には見えないということですね。


フミ そのあとも来日してるんですが、3度目の来日は昭和42年11月。その年から44年の5月まで日本プロレスの専任コーチとして東京に住むんですよ。それがいまでも伝説になってるゴッチ教室なんです。


――日本プロレスはゴッチさんをコーチとして評価したんですね。



フミ ゴッチ先生はスパーリングがバカ強くて、サブミッションは求道的にやってきていたので、選手よりはコーチとして採用したってことなんでしょうね。


――コーチング能力がそこまで際立ったんですね。


フミ これは有名な話ですけど、ゴッチ先生はウエイトトレーニングが大嫌いで。のちに日本でゴッチ先生と出会ったボブ・バックランドもそれから器具を使った練習をしなくなったんです。ゴッチ先生は「自分の体重を使いなさい。ベンチプレスをするよりは100回腕立て伏せしなさい」という教えですから。


――コーチに就任したゴッチさんは、現役にそこまでこだわりはなかったんですか?


フミ そこが面白いところで。ゴッチ先生はプロレスをやるということより、レスリングそのものが大好きなんですよ。1950年代にゴッチ先生は「蛇の穴」と言われたビリー・ライレー・ジムでテクニックを身につけ、そこからヨーロッパをツアーして、カナダに渡り、アメリカに移ってくるんですけど。ゴッチさんはプロレスでスターになろうという意識がそんなに強くなかった。レスリング好きでずっと流浪してたんです。たとえると、お相撲を取ることは好きだけど、大相撲協会に馴染めなかったというか、そういうニュアンスだと思うんですよ。


――だからコーチになることにも問題はなかったんですね。


フミ そのときのゴッチ教室に参加していたのは、のちのタイガー戸口さん、ミスター・ヒトさん、サムソン・クツワダさんら。猪木さんとゴッチさんの出会いもゴッチ教室です。運命的に出会いを果たした猪木さんは、そこでゴッチさんから卍固めを教えてもらったんですけど。猪木さんが卍固めを使う前はコブラツイストが必殺技だった。日本テレビの番組内で徳光和夫アナが「この技の名前を付けてください」と公募した結果、一番多かった名前が卍固めだった。


――猪木さんのプロレスラー人生において、ゴッチさんとの出会いはターニングポイントになりますね。


フミ ボクが小学5年生のときに新日本プロレスが旗揚げするんですけど。大田区体育館大会のメインは猪木さんとゴッチ先生。この試合は新日本ワールドでも見られると思いますが、旗揚げ戦の模様は80年代に「新日本プロレスの夜明け」というタイトルでビデオ化されているんです。猪木さんvsゴッチ先生、山本小鉄&豊登vsドランゴ兄弟の2試合が収録されているほかに、控室にいる倍賞美津子さんと倍賞千恵子さんの姉妹、少年のあどけなさが残る藤波辰爾さんが猪木さんの世話してる姿なんかも映っていたり。


――貴重な映像ですね。


フミ 小学5年生の頃と違っていまはプロレスを見る目が肥えてますから、あらためて見ると凄く面白いんです。なぜなら1回もロープワークなしなんですよ。ゴッチ先生はもともとロープに振らないレスラー。ただ、猪木さんは自らがロープに走って、その反動を利用したショルダーブロックでゴッチ先生を倒す動きは見せていた。



――相手を振るんじゃなくて自分がロープに走る。


フミ それは1930年代に生まれたプロレスのロープワークの原型なんです。昔のロープワークというのは相手を飛ばすんじゃなくて、自らが飛び、その反動で相手を体当たりで倒す。猪木さんとゴッチ先生の試合ではそのシーンが2回だけあったんですが、あとはグラウンドレスリングの攻防に終始して。


――まさにストロングスタイルの始まりとなる試合だったんですね。


フミ ゴッチ先生が放った必殺ジャーマンは、ロープサイドだったので猪木さんの足がセカンドロープにかかってフォールにはならず。その後、フロントヘッドロックを取り合いから、ゴッチ先生がリバース・スープレックスのかたちで猪木さんを投げてフォール勝ち。


――団体のエースが旗揚げ戦で負けることは当時どう受け止められたんですか?


フミ やっぱりアントニオ猪木とてカール・ゴッチに勝てないですか。


――つまりゴッチ幻想は浸透してたんですね。


フミ 幻想はあったんでしょうね。力道山がある意味で勝負を避けたレスラーであり、猪木さんに卍固めを教えてる偉大なコーチ。アメリカではルー・テーズvsゴッチを何度かやっていて、ルー・テーズもその実力を評価している。あと有名な話として、“ネイチャー・ボーイ”バディ・ロジャースをドレッシングルームでビル・ミラーと一緒に袋叩きにした。「影の実力者」「実力世界一」のイメージは強かったんでしょうね。


――だからこそ「無冠の帝王」とも呼ばれていて。


フミ 「ストロングスタイル」を新日本のコンセプトにしたのは猪木さんですけど、その象徴としてゴッチ先生を迎え入れた。「生き神」だったわけですよね。


――「生き神」には、さすがのアントニオ猪木も負ける、と。


フミ 旗揚げのシングルマッチから半年後の10月、蔵前国技館でゴッチさんが幻の世界ヘビー級王座を懸けて猪木さんと対戦するんです。そのベルトは古舘伊知郎アナがプロレス実況から引退するときに、猪木さんがプレゼントしたあの青と赤の帯のベルトなんですけど。


――そのベルトにはどんな由来があるんですか?


フミ フランク・ゴッチの世界ヘビー級王座をルーツということになっていた。実際にゴッチ先生は1962年にオハイオ州でそのベルトを取ってるんです。つまり世界最高峰と呼ばれたNWAの流れをくまない権威としての系譜はある。それは消滅した団体のベルトなので、『東京スポーツ』のフィクションも混ざって「どこの団体が認定する王座なのか」という議論もなかったわけではないですけど。とにかくゴッチ先生はその幻の世界王座のベルトを巻いて、猪木さんの挑戦を受けるんですよ。そのときは猪木さんのカウントアウト勝ち。


――猪木さんがゴッチさんに初めて勝った試合ですね。


フミ 場外から一瞬早くリングに戻った猪木さんが幻の世界王座のベルトを巻いた。その試合から1週間後に猪木さんはレッド・ピンパネール相手に防衛を果たし、また1週間後に大阪に舞台を移してゴッチ先生と再戦。その試合はI編集長(井上義啓)の心の名勝負として残ってるんですけど。再戦ではローリング・キーロックをかけまくった猪木さんをゴッチさんが上から押さえつけてフォール勝ちしたと。


――猪木vsゴッチのキーロックの攻防は有名なシーンですね。


フミ 目に浮かぶでしょ?(笑)。さらに翌年1973年10月、アントニオ猪木&坂口征二vsゴッチ先生&ルー・テーズの「世界最強タッグ戦」があったんです。世界最強タッグというと、全日本プロレスの暮れの最強タッグを思い浮かべるけど、そのフレーズを最初に使ったのはじつは新日本なんです。


――新日本のほうが先なんですね。


フミ 小学6年生のボクはこの試合を蔵前国技館まで見に行きましたよ(笑)。


――見てますね〜(笑)。


フミ ちなみに坂口征二が柔道日本一の肩書で日本プロレスに入団して、その足でアメリカ修行に行くんですけども。ロサンゼルスで坂口さんの面倒を見たのはゴッチ先生なんです。そうは見えないですけど、意外にも坂口さんはゴッチ先生の弟子になるんですよね。


――坂口さんにもとっても感慨深い試合なんですね。


フミ 試合は三本勝負。一本目はルー・テーズのバックドロップで坂口さんのフォール負け。二本目は坂口さんがアトミックドロップでルー・テーズにフォール勝ち。決勝の三本目は猪木さんとゴッチ先生が変幻自在のレスリングの攻防をしているうちに、猪木さんがジャパニーズレッグロッククラッチホールドのようなかたちでゴッチさんから3つ取る。


――猪木さんが初めて神様にフォール勝ちするんですね。


フミ この試合ではゴッチさんのジャーマンが出なかったんです。そしてカットプレーが一度もなかったんです、タッグマッチなのに。


――それはかなり珍しいですね。


フミ 普通のタッグマッチは誰かがフォールしようとすると、味方がカットプレーに入ろうとしますよね。それが一度もなかったことが印象に残ってますね。


――新日本黎明期に尽力したゴッチさんですが、その数年前まで引退されてハワイで普通の仕事をされてたんですよね。それほどの実力者がなぜ。


フミ プロレスをやめてハワイの清掃局に勤めていましたね。そのときのゴッチ先生は40代半ばですからね。年齢的なこともあったでしょうし、アメリカのプロレスでお金を稼ぐとか、スターになりたい考えもなかった。


――だからポイと引退しちゃったんですね。


フミ 初めはハワイでも試合をしていたんですよ。でも、ゴッチ先生にとって何か気に入らないことがあったんでしょうね。プロレスをやめて清掃局で働くようになった。ゴッチ先生はゴミ清掃車の運転していたそうですけど、そこでも清掃員を鍛えていたんだって。ランニングしながら各家のゴミを集めさせたり(笑)。


――清掃もストロングスタイルですか(笑)。

http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar990328

月刊秘伝のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの記事を読む。面白かった!
 内容については皆さんに読んでいただくとして、私が思ったのはピンフォールとサブミッションの両方が認められた競技がかりにあったとしてもフォールのほうが多くなるだろうな、ということ。サブミッションをとるのはポジショニングと相反する部分が大きいから、結局サブミッションでジリジリ痛めつけてもポジションを入れ替えられるリスクを犯さずピンするほうが確実、となるだろう。それって実は現行のレスリング的だよね。
 自分が柔道部だったとき兄からお前抑え込みばっかりなんだな、関節技あんまり使わないんだな、と言われたことがあるけど、そんな言われても困るけどさ、そんな感じのことを思いだしましたワケです。

http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar985100





Dropkick

【追悼・堀辺正史】矢野卓見、親子喧嘩ついに終幕「ダメなお父さんでしたねぇ……」



2016-03-08 09:062
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日本武道傳骨法創始師範、堀辺正史氏が2015年12月26日に心不全のために逝去されていた。堀辺氏の意向により葬儀は家族だけで執り行われ、関係者に伝えられたのは3月に入ってからだった。80年代からプロレス格闘技界で特異な存在感を示してきた堀辺氏、そして喧嘩芸・骨法――。ここはやはりこの男の話を聞かなければいけないだろう。「虚勢乙…もとい虚星堕つ…もとい巨星落つ」という、独特の愛情表現で堀辺氏を弔ったヤノタクこと矢野卓見に追悼インタビューを行った。元弟子は何を思うのか?





【喧嘩芸の実態がよくわかる骨法シリーズ】

■ヤノタク、堀辺正史を語る「骨法は俺の青春でした……」【愛と悲しみの17000字インタビュー】http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar483646

■骨法会員番号229番!漫画家・中川カ〜ルが見た「骨法変節の瞬間」

http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar560930

■ヤノタク×中川カ〜ル「俺たちが愛した喧嘩芸骨法」
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar581751


■元・骨法内弟子、かく語りき「矢野くんや皆さんは骨法を誤解しています」 http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar546715

■船木誠勝「俺は真剣勝負がやりたかったわけじゃないんです」
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar597913






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――今日は急なお話にも関わらず時間を割いていただいて。


矢野 いえいえ、まあ、亡くなったのは急な話……ではないですけどね。


――骨法の堀辺正史さんが昨年12月26日にお亡くなりになってまして。3月に入るまで外部には伏せられてましたね。


矢野 親しい関係者にも知らせてなかったんですよね。


――みたいですね。亡くなる前日に谷川貞治が堀辺先生を取材してるんですよね。そのあと原稿チェックなんかのやりとりもあったはずなんですが……。


矢野 そこは局長(堀辺夫人)が原稿チェックしてたんでしょうね。


――骨法の寮生たちはさすがに先生の死を知ってたんですよね。


矢野 まあ、さすがに知ってたと思うんですよね。たぶんですけど。


――しかし、SNS全盛の世の中でここまで情報が漏れないって凄いですよね。


矢野 まあまあ、寮生もそんなに数は多くないですからね。誰が漏らしたかはわかっちゃうんで。俺だったら言いたくなっちゃいますけど(笑)。


――ハハハハハハハハハハ。


矢野 それより、なんでここまで隠していたのかを考えたんですよ。これは武田信玄を倣ったんじゃないか、と。


――あー、「しばらくは死んだことを隠しておくように!」と。


矢野 あの人が考えそうなことじゃないですか(笑)。堀辺先生が死んでも、次の体制ができるまでは公にはせず……というふうに考えたほうが面白いですよね。


――矢野さんが堀辺先生が亡くなったニュースを聞かれたときはどう思われました?


矢野 うーん、なんていうんですかね、「昨日亡くなった」という話なら「昨日何してったけ?」って考えるんですけど。亡くなったのは去年の12月26日じゃないですか。あの日は土曜日か、何をやってたっけかな、おぼえてないなって。実感が湧きにくいし、もともと堀辺先生って死にかけてたじゃないですか。まあまあ、だから「けっこうもってるな〜」くらいの感じではいたんですけど。


――矢野さんは堀辺先生とはずいぶん会われてないですね。


矢野 そうですね。直接話したのは、スポセン(新宿スポーツセンター)で練習してたら、先生が寮生を連れて殴りこんできたときですよね(http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar483676)。


――ああ、「ガードポジション、やれるもんならやってみろ!」のときですね。


矢野 あれ、まったく意味がわからなかったですね。あれが最後の会話ですよ(苦笑)。


――じゃあかれこそ20年近く……。


矢野 そうですね。いまの心境を言えば、追悼するって感じでもないですし、悲しくもないんですけど、べつに嬉しくもない。なんなんですかね。


――矢野さんと骨法の愛憎入り交じる関係からすると、複雑な感情があるでしょうね。


矢野 複雑なのかなあ……。


――プロレス格闘技界としては功績はあったし、影響を与えたっていう評価に落ち着くと思うんです。


矢野 そこは関わりの深さで変わってくると思うんですけど、そんなに骨法に関係ない人にとっては「功績はあった」だと思うんですね。逆に堀辺先生の近くにいてゴジャゴジャあった人は「ふざけんなコノヤロー!!」って気持ちは強いと思う。


――矢野さんは後者なんですか?


矢野 うーん、ボクはそこまでの感情はないですけど(苦笑)。ある人は網膜剥離になって障害者になったし。


――それは◯◯さんでしたっけ?


矢野 ◯◯さんは稽古中の事故で金玉が一個なくなっちゃったみたいですね。


――喧嘩芸ですね……。


矢野 イジメられてやめた奴もいるし、悪感情を持ってる人間は凄くいると思うんですよね。

――骨法をやめた武闘派たちが当時の師範代を襲撃するなんて話もあったとか。

矢野 自分のことをいえば、なんとなく思ったのは、俺の両親は堀辺先生と年齢も近いところはあるし、まだ生きてるんですけど、微妙に予行練習っぽいところはあるのかなって。


――今生の別れの。


矢野 そうそう。


――つまり矢野さんの人生において、堀辺先生は父親的な存在だったということですね。


矢野 そうっすね。「お父さん」とはいっても、どっちかというと「ダメなお父さん」ですけど(笑)。


――ダメおやじ(笑)。


矢野 本当に「ダメなお父さん」でしたねぇ……(しみじみ)。外面はいいけど、家にいるときは子供に対して理不尽な仕打ちをして。まあ堀辺先生にはそういう身内っぽい感情はありますけど、局長には一切ないです。


――「ダメなお母さん」ではない。


矢野 ウザいだけです。あの人がいなかったら、もっとうまくやっていけたかもしれなかったですけどね。トラブルで追い詰めらてた道場生がいたら本来はフォローするのに、みんなで攻撃して追い出すというね。


――そうやってカルト化していくわけですもんね。


矢野 そこは中川(カ〜ル)さんも言ってたじゃないですか(http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar560930)。最初の頃の道場はあんな雰囲気じゃなかったって。


――道場生同士が一緒にご飯も食べに行くことも禁じられるという……。「ダメなお父さん」というキャラもそうですし、マスコミ受けも良かったのは、堀辺先生って愛嬌はあったってことですよね。


矢野 なんていうんですかね。抜けたところがあったので、あの人。基本的に嘘をつくというよりは、ホラ吹き系なんですよね。


――わかります(笑)。


矢野 ねえ(笑)。話をおもしろおかしく喋っちゃって引っ込みがつかなくなるタイプ。誰かを騙してるわけじゃないんですよね。


――そういう意味で場持ちもするから、マスコミとしては扱いやすかったわけですよね。


矢野 マスコミにとってはいいネタですよ。道場生としては最悪でしたけど、マスコミとして骨法に関わって嫌な思いをした人はそんなにいないんじゃないですかね。「いい思いをさせていただきました!」って素晴らしい思い出になっちゃってる(笑)。


――こころよく思ってなかったのは、「これまで骨法にページを割きすぎました」っていう記事を載せた『格闘技通信』のAさんくらいですかね。


矢野 Aさんはね、あの記事を書いたせいで、中井(祐樹)さんの結婚式のときに骨法の人間に囲まれて蹴りを入れられてますからね。他人の結婚式で何をやってるんだって話ですけど(笑)。


――けっこう武闘派集団ですよね(笑)。矢野さんもやめるときに道場生に襲われそうになったし。



矢野 あんときは逆に潰してやりましたけどね。



――ボールペンで刺しに来た相手を引き込んで倒して、ヒールホールドで仕留めたんですよね……。熱い時代ですよね(笑)。あの頃の骨法をB級的なものとして評価する動きはあるじゃないですか。「あの怪しさ、うさんくささがよかった」と。でも、当時ってみんな真剣に向き合ってたいところはあったと思うんです。それはいまみたいにネットである程度、実態を把握できた時代じゃなかったですから。


矢野 あー、わかります。いまになって振り返ってみればB級だったという話なのに……ってことですよね。


――そうです。


矢野 もし骨法を総合で結果を残していたら「いまが競技化してるけど、昔は裏技があって、堀辺先生も適当なことを言っていて……」という楽しみ方もできましたけどね。要は極真空手の大山道場時代みたいなもんですよ。


――そこは中川先生も同じように振り返ってましたね。うさんくささもありながら、黎明期は本当に凄かったと。廣戸聡一というカリスマ的な師範代もいて、80年代末期から「なんでもあり」の稽古をやっていたわけですし、総合っぽい格闘技をやろうとしたら骨法か修斗しかなかった。マスコミも後押ししたらこそ「オウム真理教か骨法か迷った」という会員もいたほどで。


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スーパーセーフをつけて稽古する中川カ〜ル氏。
喧嘩芸時代の骨法だ。



矢野 だってアレですよ、骨法の打撃って恐れられていましたからね。修斗の人間も「骨法の打撃は怖い」って言ってましたし。いまだから「骨法はたいしたことない」「ペチペチ」というけど、みんな怖がってたんだから。

――最初は常に「金的」だけを狙う物騒な練習をしてたそうですね。

矢野 あとになってね、「いや、俺、インチキだって知ってましたよ」って言う奴が多すぎますよ。「ボクは騙されてなかった!ああいうもんだと楽しんでました!!」ってね。プロレスにもいるじゃないですか。「シナリオがあるものとして昔から楽しんでました」とか。違うだろ、真剣勝負だと思って見てただろ。「でも、ちょっとはおかしいな、これ。でも、俺はプロレス好きだから、どうやって言い訳しようかな……」って葛藤しながら見てたはずなんですよ。


――プロレスファンは子供の頃から理論武装してましたね。


矢野 「プロレスはインチキ、八百長だ」と馬鹿にしてる奴らになんて言い返せいいんだ……と考えながら見てたんですよね。それこそね、第二次世界大戦後に「ボクは最初から戦争に反対していました!」って言うような感じですよ。みんな勝つことを期待して応援していたはずなのにね、負けると「なんで無謀な戦争をやったんだ!」って。まあ、俺は骨法に内部にいて「……これは負けるだろ!」って思ってたんですけど(笑)。


――あの当時の骨法にどこか信じてしまう求心力はたしかにあったという。


矢野 ですね。だってね、骨法を辞めた人間は報復を怖がってたんだから。先生の「徹し」で殺されたらどうしよう……!?って。




――骨法の奥義「徹し」に怯えていた!



矢野 いや、本当に。笑われるかもしれないけど、みんなそんな感じで恐れていたんですよ。だから俺もやめたときは「徹し」のことを考えたんですよね。結論としては「打撃はよくわからないけど、いままでの経緯を振り返ったらこれもウソだな」って。先生は寝技のことはよくわかってなかったら、きっと打撃もデタラメだろう……ってことにしたんです(笑)。

http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar922062
昼練。全編自由稽古。他競技畑の方と練習するのは楽しい、刺激的だ。
 そこでひとつ近況の告白を。なるべくその方のされている競技の方式での勝ちを目指して練習するのが現在の私のスタイルなのだがそれが技法的には自然ではないかもしれないよなー、とも最近は感じている。
 例えば柔術選手は現状、正直なところ他競技の人からすれば
「下から返すのとバックにまわるのが上手いだけだよね、でも俺らにとってはそれは負けじゃないし!」
と言われる可能性が高いと思うのだ。それに抗いたい、と。
 そこで僕はなるべく抑え込んでやり、そのあとサブミッションを決めてやりたいと意気込んでやるわけだが、実はバックにまわっていくほうが身体的に無理なく自然だったりするのだ。このあたりが試合と試合ではないスポーツの端的な違いなのだろう。少しだけ今の私は自分の美学のために無理をしている、とも言える。ま、しばらくさまようとでもするかな。

http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar890325



Dropkick

【バトラーツの奇跡と絶望】石川雄規“情念”のロングインタビュー



2015-10-12 01:36
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アントニオ猪木に憧れプロレスラーを目指し、佐山サトルのシューティングで腕を磨き、アメリカで“プロレスの神様”カール・ゴッチに教えを請い、帰国後は藤原喜明を師事。まさにストロングスタイルの王道を歩み続けたプロレスラー、石川雄規。彼とその仲間が興したプロレス団体バトラーツは、殴る、蹴る、極めるの原始的な戦い、いわゆるバチバチのスタイルで熱狂的な人気を博していく。しかし、経営不振で2001年に一度幕を下ろし、その後は形を変えての活動を続けていたが、2010年に解散。石川は現在はカナダでプロレスの指導しているが、石川が同地に導かれたプロレスの奇跡と絶望とは? イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!





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お得な詰め合わせセット par20記事内容 
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar883409

◉無我の伝道師西村修ロングインタビュー
真のプロレスを追求すべく、現代のプロレス、そして長州力に逆らい続けた歴史を17000字でタップリと! 癌の告白もプロレスの肥やしにしてしまう生き様を読め!


◉好評連載中!小佐野景弘の「プロレス歴史発見」
悲運の闘将ラッシャー木村物語!
耐え抜き続けたその人生、初めての自己主張は「全日本プロレス移籍」だった……


◉ブシロードクラブの怪物・岡倫之「プロレスラーが世界最強であることを証明します!」

プロレスと格闘技がジャンル分けされた現代において
あらゆる格闘技で腕を試し続ける岡――どんなプロレスラー像を抱いているのか?

◉ゼロゼロ年代格闘技バブルの秘話続出! 語ろう和術慧舟會!
全国に支部を展開、多くのプロ格闘家を送り出し、「ケージフォース」や女子格闘技などのイベントを運営。PRIDEやK−1などメジャー団体にも影響力を与えていた格闘技集団とはなんだったのか? 


◉INVICTAアトム級世界王者・浜崎朱加
女子MMAイベントの最高峰INVICTAのアトム級タイトルマッチを制して、日本人で初めて北米MMAの王座を獲得した浜崎朱加インタビュー!


◉金原弘光のゼロゼロ年代クロニクル②
90年代ゼロゼロ年代のオモテとウラを知り尽くした金ちゃんが過去を振り返るインタビュー連載!
ヴァンダレイ・シウバ戦試合直前に起きた悲劇とは?


◉事情通Zの「プロレス 点と線」
業界のあらゆる情報を線に繋げて立体的に見せる大好評コーナー。今回は4本立て!
「話題騒然!棚橋弘至vsHARASIMAで何が起きたのか?」
「ヒョードルのインスタグラムはブラフなのか?」
「ヒョードルはなぜ大晦日を選んだのか?」
「川尻達也と日刊スポーツ」

◉マット界一の読書家笹原圭一の酔いどれ書評! 

今回取り上げるのは「東天の獅子/夢枕獏」です!
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――石川さんが「バトル・アーツ・アカデミー」のコーチとしてカナダに渡られてからだいぶ経ってますよね。


石川 もう2年と3ヵ月ですか。月日が経つのは早いですねぇ。



――向こうでの生活はもう慣れましたか。


石川 比較的ノンビリですよ。昼過ぎくらいにジムに行って。ジムにはいろんなクラスがあるんですけど、デイタイムはMMAクラス、夕方からは子供たちのクラス、夜にはプロレスを教えたりしてね。


――ジムはどんな場所にあるんですか?


石川 トロントの隣町。トロント空港から車で10分くらいの住宅街。とにかくジムは広いんですよ。オクタゴンがあって、キックボクシングのスペースがあって、アマレスのマットがあって、リングもある。ウエイトトレーニングの設備もありますし。会員は軽く300人以上はいるんじゃないですかね。正確な数字は聞いてないですけど。
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――プロレスコースはどういう指導内容なんですか?


石川 結局やることはレスリングなんですよ。とかく北アメリカだとプロレスはエンターテイメントとして見られてるでしょう。がっちりとロックアップしてロープに振って……というのがプロレスだと思われてますからね。それはプロレスのメインロード。WWEのプロレスはそのメインロードのダイジェストを見せてるだけなんです。


――プロレスをやるからには緻密なロードマップを知っておかないとマズイわけですね。


石川 そうそう。いまはメインロードしか知らないでやってるプロモーションやレスラーが多すぎるんですよ。本来のプロレスリングにはMMAのスキルがあって、その周りにエンターテイメントの要素が混じってる。その外側だとマネすれば、なんとなくそれらしくは見える。でも、それじゃエンプティ(からっぽ)なんですね。WWEはエンプティじゃないですよ。素晴らしく完成されたエンターテイメントです。ファンもどきの“プロレスラー”は、外側の華やかなわかりやすい部分だけ見て「あの技、あの動きなら、自分もできるかも」と思うわけですよ。


――では、石川さんの指導に「プロレスはこんなことから習わないといけないの?」って驚く生徒もいるんじゃないんですか。


石川 そういう人も少しはいましたよ。ボクがキャッチレスリングからみっちりと教えて「そういうものがなければエンプティだ。エンターテイメントにはならない。ただのフェイクだ」という思想を叩き込んでいますよ。

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――いまは日本でもそういった指導をする団体は少なくなってますね。


石川 かもしれないですね。いまは素人がプロレス団体を立ち上げるようになっちゃってるんで。でも、本来のプロというものは、道を外れても走り続けないといけないんですよ。素人でも見たことがあるメインロード以外の細かい道でも高速でカーチェイスできなきゃダメなんです。素人だったらすぐにクラッシュしちゃうような道をね。それがプロフェッショナルレスリング。


――つまりフリースタイルの対応力が求められるわけですね。



石川 いくらいい身体をしていても、かっこいいハイスパートをやるだけじゃダメなんですよ。第1試合も第2試合も第3試合も、おんなじよーな奴が出てきて、おんなじのよーな試合をやって、プロレスの表面だけのモノマネをして自己満足してるんですよ。「どうだい、俺はプロレスができるだろ?」って、いやいや全然できていない。偽物ですよ。


――そこで石川さんはカナダで真のプロレスを伝えてる、と。


石川 これからはバック・トゥ・ザ・レスリングの時代になっていくはずなんですよ。そこは繰り返していくと思うんですよね。レスリングの時代、ルチャっぽい動きの時代、マッチョマンの時代……そしてまたレスリングの時代が戻ってくる。本物のレスリングが求められたとき、誰も指導者がいなかったらどうします?


――いまは絶滅危惧種的なところはあるかもしれませんね。


石川 WWEのプロレスは、言ってみればディズニーランド。完成されたエンターテイメントの世界ですが、そのプロレスも世の中には絶対に必要なんですよ。だけど、プロレスってそれだけじゃないんですよ。猪木さんが築き上げてきた文学的な世界もあるんです。挑戦すること、戦い続けること、信じ続けること……俺たちは猪木さんのプロレスを通して人生を考えてきたじゃないですか。



――考えてきましたねぇ(笑)。


石川 テレビの前に正座して、猪木さんの戦う姿を見て「俺の人生はどうなんだろう? こんなんでいいのだろうか……?」って自問自答していたわけですよ。ディズニーランドに遊びに行ってそんなことは考えないじゃないですか。「あー、楽しい、面白い!」の世界ですから(笑)。



――ディズニーランドで自分の人生は考えないですね(笑)。


石川 いまのプロレスはそうやってみんなディズニーランド化しちゃってるんですよ。なぜ文学的なプロレスをやらないかといえば、面倒くさいから。アントニオ猪木のプロレスは、“行間を読ませる”文学的要素がものすごく含まれていて、とても深い。でも、表現する側にとってはこんなに面倒くさく、難しいものはない(笑)。



――その面倒臭さが癖になるわけですね。


石川 いまは体育会系のプロレスばっかでしょ。「俺はプロレスが好きなんだ、こんなに好きなんだあ!」というプロレス。でも、猪木さんはそんなことは言ったことがないし、そんなプロレスをやったことがない。「俺はなんでレスラーになっちゃったんだろう? 俺はレスラーになってよかったんだろうか……?」っていう、まるで禅問答のような哲学的なことをこちらは勝手に感じ、勝手に考え、勝手に思いを巡らせていたわけです。そうして心を揺さぶられたんですね。いや、もしかしたら“勝手に心を揺さぶっていた”だけのかもしれないけど。うん。



――猪木さんの対極にディズニーランドとして、当時は馬場さんのプロレスがあったわけですよね。


石川 猪木さんが馬場さんのプロレスを嫌いだったとか、好きだったとかということでなく、自らの立ち位置を確立するためには、舶来のエンターテイメントプロレスを凌駕する、日本文化に則した“日本のプロレス”が必要であると、本能的に感じたのではないでしょうか。まさに、未来の日本のために天から与えられた使命というか。馬場さんのプロレスが対極にあったからこそ俺たち猪木信者も、意地になって“考えるプロレス”をしていたんでしょうね。


――そう考えると猪木さんのプロレスは特殊だったんですね。


石川 私の世代の前後、プロレスラーを目指し、プロレスラーになった人間は、ほとんどがアントニオ猪木のプロレスに影響され、狂ったクチじゃないですかね(笑)。そこは馬場さんのプロレスがいい悪いじゃなくて。猪木さんは狂い人として、他人を狂わせるプロレスをやっていた。ヒールだベビーフェイスだでプロレスをやっていなかったんですよね。


――昔WWEのレッスルマニアでロックvsホーガンをやったときに、ヒールのはずのホーガンがファンから大声援を送られて試合中に立ち位置がチェンジしたことがありましたけど。


石川 それなんですよ! 本来はそのレスラーから滲み出るものによって、ヒールやベビーフェイスって分けられていくものじゃないですか。なのに、この試合はどっちがベビーをやるのか、ヒールなのか。見る方も緊張感もなく「こっちが悪役だから」ってブーイング、ベビーフェイスだからって声援。そうじゃないんですよ、プロレスは!


――石川さんのプロレスへの思いは、両親にプロレスラーになることを大反対されたことで深まっていったところもあるんですよね。


石川 俺が「プロレスラーになる」と言い出したことで、進路問題は揉めに揉めて母親は具合悪くなって寝込んだりしましたしね。でも、迷いはありませんでした。“闘い続けよ。夢は叶う”というアントニオ猪木の言葉か正しいということを自分の人生をもって証明してやると心に決めてましたから。


――お母さんに「猪木と私、どっちを取るの!?」まで言われたんですよね。


石川 でも、あのときの俺は「猪木!」と言えなかったんです。口をつぐんでしまった自分を十数年、責め続けましたねぇ。「俺はダメな奴だ、ダメな奴だ、ダメな奴だ……」って。それで行動で示すしかなかった。


――そんな親御さんの反対もあって、とりあえず大学には進まれて。


石川 日大のレスリング部に入りました。周囲は特待生というんでしょうか。高校生のときにインターハイチャンピオンとか、活躍してきた選手ばかり。中にはオリンピックに出る選手もいますしね。そんな中に、アマレス未経験の生徒がわざわざ厳しくて有名な体育会レスリング部に飛び込んできたわけですから、変人だと思われましたね。


――そこに飛び込んだのはもちろんプロレスラーになるためですね。


石川 とりあえずやれることをやろう、と。高校ではスポーツに全然、力を入れていない進学校のコーチもいない柔道部でしたから。それでも高校のときはスクワット1000回2000回やってましたからね。「打倒・新日本プロレス!」とわけのわからないことを言いながら。もうリアル「1、2の三四郎」ですよ(笑)。


――日大のレスリング部も相当厳しそうですね。


石川 高校を出たばかりの青年にとっては地獄のようでしまよ。あの頃、日大のレスリング部員は合宿所に住んでいて、もう、一年生は奴隷のよう。電話のコールはその日の当番が3回以内で出なければならないルールで、遅れるととぶっとばされましたしね、まあ、この緊張感を持つ癖は、社会に出て役にたちましたけど(笑)。



――バリバリの体育会系(笑)。


石川 寝てるときも油断はできないんですよ。先輩が何か用があるときは壁を叩くんです。夜中に「ドンドンドンドン!」って。バッと起き上がって走って先輩に部屋に行くと「ちょっとカーテン閉めて」

「水を持ってきて」とか。インスタントラーメン買ってきて作ったりすると、他の先輩が「あっ、俺も食べたいな」と、またコンビ二走ったり。


――完全に奴隷扱いなんですねぇ。


石川 1年間は完全に奴隷。で、2年生になったときに佐山サトル先生が三軒茶屋でスーパータイガージムを開いたことを知ったんですよ。即座に「これだ!」と。レスリング部はちょうど1年の区切りでやめさせてもらいました。奴隷扱いは1年生までだから、下働きがつらくてやめるわけじゃないですよってことで。


――では、ほぼ立ち上げ初期のスーパータイガージムに通われたんですね。


石川 比較的そうですね。北原(光騎)さんがコーチのときで。北原さんとは1年くらい経ってから全日本プロレスに行かれましたから。あの伝説の合宿も参加しましたよ。





――あの伝説の!!(笑)。佐山さんがスパルタ指導する動画は衝撃的ですが……。



――合宿ではいつもあのテンションなんですか?


石川 そうです。


――そうです(笑)。


石川 先生もムキになる性格だから、体育館のスペースを借りて練習するときは、ほかのアマチュアの競技の人間に見せつけるかのように厳しくやるんですよ。


――見られることでハードになっていくわけですね(笑)。


石川 でも、ボクは先生に引っ叩かれたことはなかったですね。なんかね、俺には優しかった。そこは本能でわかるのかな、「コイツはリミットまでやってない」とか「石川はキチガイだから放っておこう」とか(笑)。だってジムでも「先生、今日はスクワット4000回やりました」とか報告してましたから。


――4000回……!!


石川 「えっ、4000回~!?」「雑誌にスクワットやると背が伸びる、て書いてあったので!」「バカ、あれは嘘だ。背なんかのびないぞ!」なんてやりとりもあったなぁ(笑)。合宿でも、まず板の間でフットワーク1時間。最初の10分で足の裏が水ぶくれになって。


――うわあ……。


石川 それでも知らんぷりして、足がグチャグチャになってるのに続けて。あとで先生から「お前、早く言えよ〜」って呆れられました。あの鬼の佐山先生にそんなことを言わせたのは俺だけですよ(笑)。


――佐山さんも呆れる根性(笑)。


石川 根性があるとかそういう話じゃないんですよ。だってプロレスラーになるために、猪木を否定した大人たちを土下座させるためにも、死んでもプロレスラーになろうと決めたんですから。


――シューティングは何年やられていたんですか?


石川 大学の3年間ですね。


――そのときはまだ競技化されてなかったんですよね。


石川 ちょうどボクが大学を卒業するときにその動きがあったんです。その候補選手に12名が選ばれて、10名が承諾して、1名が「自信がない」ということで辞退して。もう1名は何も名前が書かれてなかったんですけど、たぶん俺だったんですよね。あのときの俺は、佐山先生には言えなかったんだけど、ゴッチさんのところに行きたかったから。あの頃の佐山先生はプロレスが大嫌いだったから言えなかった。プロレスラーになりたいからシューティングをやめてゴッチさんのところに行くなんて言えなかったんですよ。


――当時の佐山さんはシューティングを形にすることが使命でしたし、新日本やUWFでいろいろとあったことで、プロレスと距離を置いてましたね。


石川 でも、ボクは強くなるためにシューティングをやりましたから。だって強くないとプロレスラーになれないし、セミプロの延長線上がプロなんですよ、本来は。いまは「アマチュアプロレス」とか言ってるバカがいるわけでしょ? 「アマチュアプロ野球」なんて言わない。アマチュアを超越してるのがプロなんだから。そのためにもシューティングをやったし、ゴッチさんのところにも行きたかったんですよ。


――それまでゴッチさんとはお会いしたことはあったんですか?


石川 ゴッチさんが佐山先生のジムに指導に来たことがあったんです。そのときにゴッチさんに習いたいな、と。あの頃、俺は身体も小さいし、年齢も22歳。当時の入り口にしては、若くない。山本小鉄さんに会っていただいて直談判したけれど、門前払い。プロレス団体に入るのはほんとうに難しかった。入門テストをクリアしても「おまえ小さいから、ダメ」と落とされたなんて話もよく聞きましたね。そんな時代。


――当時は団体も少なかったし、プロレスラーは狭き門でしたね。


石川 ゴッチさんに「大学を卒業したらゴッチさんのところに行きたいんです」って伝えたんですけど、ゴッチさんからすれば単なる少年。目を丸くして驚いてるんですよ。「まあ、いいけど……」という軽い感じのリアクションで。で、実際に行くにあたって、佐山さんにゴッチさんの家の住所を聞けないでしょ。『週刊プロレス』編集部を訪ねてターザン山本さんに相談したんです。そうしたら「行けばわかるよ!」と。


――さすがターザン、適当だなあ(笑)。


石川 『ゴング格闘技』の雑誌かなんかにゴッチさんが家の前でいる写真が載っていて。その写真には湖が写ってたんですよ。そこがオデッサという街であることはわかってた。オデッサはフロリダのタンパから車で30分くらい。そこに行って湖を探せばゴッチさんに会えるんじゃないかと思ったんですよね。


――湖だけを手がかりに。


石川 それでお金を貯めてアメリカに渡ったんですけど……オデッサに行ってみたら、数百の湖や沼があるんですよ(笑)。


――ハハハハハハハハ!


石川 現地に着いて「なんだよ、これ!?」って絶望ですよ! 湖、湖、湖だらけで。(スマホを取り出して)いまグーグルマップで見てみます? ほら、湖ばっかり(笑)。


――いまだったら行かないですか?(笑)。


石川 行ってないですよ(笑)。だから運が良かったんです。知らなかったら行けたんですから。


――なるほど(笑)。


石川 そのときに乗ったタクシーの運ちゃんがいい人でね、「写真一枚を頼りに日本から来たのか?なんのために?」と聞くから事情を話したら「Oh my God! Crazy !」と驚かれて。「俺は昔、日本に一度だけ行ったことがあるんだ。京都だったかな。道に迷って途方に暮れていたんだが、そのときに通りすがりの人に親切にしてもらった。でも、その人は通りすがりの人だからお礼もできない。ジャパニーズボーイ、おまえにお礼をする」って一緒に探してくれたんですよ。


――いい運ちゃんですね(笑)。


石川 それで湖の周辺をタクシーで走ってくれたけど、探しても探しても見つからない。俺も心の中で「こんだけ探したんだから夢を追いかけたと言えるよな……」って一瞬挫けたんですよ。そのとき運ちゃんが「コーヒーでも飲もう」とコンビニみたいなところに寄ったんです。そこでゴッチさんの写真をコンビニの客に見せたら、お婆さんが「私の家の隣のおじいさんよ、この人!!」って(笑)。すぐにその場所までタクシーですっ飛んでいって。たしかにゴッチさんはいた。


――神様に会えた!


石川 でも、ゴッチさんは俺の顔を見て戸惑ってるんですよ。「誰だっけ?」って感じで。


――うわあ(笑)。


石川 そりゃそうですよね、日本で一度会った名もない少年ですから。でも、あのときにゴッチさんが「ヘイ、ボーイ。おまえはいい身体してるけど、ウエイトトレーニングの偽物だろう? こういう腕立て伏せできるか、ああいう腕立て伏せできるか? こんなオールドマンでもできるぞ」ってかまってくれたんです。ゴッチさんは、なんか気になる人はイジるんですよ、からかうんですよ。ホントに嫌いだったら声もかけない。ゴッチさんが俺のことを「ヘーイ、偽物、偽物」ってからかってくれたことを思い出して、「ゴッチさん、本物の筋肉に変身してきました!」と言ったら、ゴッチさんは驚いた顔をして「……あのときのボーイか!」って。


――まるで筋書きがあるかのような展開ですね。


石川 一個一個の宿題というか、やれることをやっていくと次の出会いが生まれるんですよ。あの頃の自分は、プロレスラーになるという夢を、大人たちによってたかって否定されても、やれることを全力でやった。ただひたすらスクワットを何千回も繰り返すだけだとしても。それが何につながるかわからなくても、ただひたすら、そのときに“やれる事”を最大限にやった。


――そのままゴッチさんのところでトレーニングすることになったんですか?


石川 いや、そのときのゴッチさんは誰かに教えるってことはしてなかったです。自分のトレーニングはやっていたんですけど。「友人のマレンコ(ボリス・ラリー・マレンコ)がプロレススクールをやっている。そこに行け。わたしも教えにいくことにしよう」と、言ってくれたわけです。


――マレンコスクールでゴッチ教室が開催されたんですね。


石川 マレンコスクールではアメリカンプロレスとシュートレスリングを教えていて。ボクはいられるのは3ヶ月間だけだったんですけど、ゴッチさんがしょっちゅう道場に来てくれて教えてくれて。デビー・マレンコもゴッチさんに習っていましたね。


――全女に参戦していたデビー・マレンコですね。


石川 彼女もゴッチさんに興味を持って、ゴッチさんの教室に参加するようになって。ゴッチさんの弟子の中では唯一の女性なんじゃないですかね。


――普段のゴッチさんはどんな人柄だったんですか?


石川 マレンコさんの家で、ゴッチさんと一緒にビールをしょっちゅう飲みましたねぇ。ラリーさんはゴッチさんとは仲良しなんだけど、ゴッチさんのおしゃべりにつかまるのをおそれて「ちょっと買い物に行ってくる」って姿を消しちゃうんです。ゴッチさんは平気で3〜4時間しゃべり続けますから。


――逃げ出すほどのおしゃべり好きですか(笑)。


石川 電話で2〜3時間しゃべったあとに「ところで電話でもなんだから、話に来い!」というくらいの話好きですから(笑)。


――ゴッチさんはどんな話をしてくれるんですか?


石川 哲学的な話もするし、昔のプロレスの話もしてくれます。いろんな話ですよ。一番印象に残ってる言葉は「技術は人が教えてくれるけども、ガッツは誰も教えてくれない」ですね。それで3ヵ月経って帰国しようとしたときに、ちょうど日本で(新生)UWFが分派したんですよ。前田(日明)さんのリングス、高田(延彦)さんのUインター、藤原(喜明)さんの藤原組。空中さんは藤原組についていくことになって「石川、今度藤原さんが団体を立ち上げるから新弟子として入らないか?」と誘われたんです。


――ゴッチさん訪問からプロレス界への道が開かれたんですね。


石川 何かに導かれたんですねぇ。藤原さんに初めて会ったのは安行の植木屋でした。空中さんに連れて行ってもらったら、盆栽を見てる藤原さんの後ろ姿が見えて。UWFのジャージを着てるんですけど、背中のUWFの文字がマジックで塗りつぶされてるんですよ。藤原さんらしい(笑)。


――UWFが塗りつぶされてた(笑)。そうして藤原組の立ち上げから参加されたんですね。


石川 藤原組の同期は高橋義生、柳澤龍志。義生はもともとアマレスのチャンピオンで実力もあってボクよりデビューは早かった。入門は数ヶ月、ボクのほうが早かったんです。だからいまでも向こうが「石川さん」と呼んでくれて。


――藤原組はメガネスーパーがメインスポンサーでしたよね。


石川 あの頃はメガネスーパーがバックについていたので、金銭面では恵まれてましたね。若手なのに充分に給料をいただいてました。その代わり地獄のようなトレーニングを朝から晩までやってましたよ。だってみんな生命を危機を感じてみんなやめていくんだもん。


――生命の危機ですか……。


石川 「このままだと殺される……」って。赤子みたいな何もできない新弟子を相手に船木さん、鈴木さんがガチガチのレスリングでいたぶるわけですよ。上に乗っかられて動けない恐怖感ってわかります? 


――実験台の状態が延々と続くわけですね……。


石川 毎日1時間以上やられて、口の中は切れてグチャグチャ。練習が終わったあともイジられるわけですよ。先輩にとっては単なるイタズラかもしれないけど、新弟子にとっては恐怖ですよねぇ。

http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar849220

快守 ここに入院していたときには、弟のアントニオ(猪木)がお見舞いに来てくれてね。彼も忙しい中、わざわざ来てくれたんだよ。ほら、今度彼が上海・中国進出したでしょ? もう15年くらい前かな。中国のハルピンで新日本プロレスの興行があったけど、あれはボクが興行やったんだけども。


ーーあの興行は快守さんの仕切りだったんですね。


快守 一番のとっかかりはボク。あのときはね、中国政府が興行を許可しなかったの。だけど、たまたま中国政府人事部のお偉い方の甥っ子さんがハルピンで活動をやっていて。その方が頼んでくれて目を瞑ってくれた。


――目を瞑ってくれた(笑)。


快守 あんときの興行は血が出るよう暴力的なことは一切できなかったけどね。


ーーいろいろと制約があったんですね。


快守 それで今度中国政府から有機農法の指導を頼まれてるんですよ。斉藤くんも上海に一緒に行こうよ。面白ことをやろうよ。


――もちろんです!


快守 中国でコーヒー栽培を初めてやるっていうんでね。ほら、アントニオが議員だったときキューバと付き合いがあって、ボクはキューバのカストロさんのとこで農業指導してたでしょ。


ーーそのお礼にカストロさんからキューバの小島をもらったんですよね。「イスラ・アミーゴ・デ・イノキ」(猪木友人島)という名前をつけて。


快守 そうそう。あのときはキューバで有機農法指導を半年くらいしたかな。それがきっかけでいまやキューバは農業世界一になっちゃって。


ーー快守さんのおかげで世界一になったんですね(笑)。


快守 まあ、ボクのおかげってわけじゃないと思うけど(笑)。カストロさんがね、ボクが指導したとおりにやったから。一番手っとり早いさつまいもを作らしたら、それが凄いことになっちゃったというか、いままでの3倍4倍のさつまいもが収穫できたらしくて。カストロさんが大きな段ボールにさつまいもをたくさん詰めてね、「イノキ、こんなに取れた!」って見せてくれたんです。あの頃のキューバは経済封鎖で外貨がなくて、科学肥料が買えない、さとうきびが予定どおりに収穫できないっていうんで、どんどん借金が膨らんでいく中、カストロさんも非常に困ってて。そのさつまいもでなんとか息を吹き返したんですよ。


ーー快守さんのさつまいもが“キューバ危機”を救ったんですね(笑)。「イスラ・アミーゴ・デ・イノキ」には財宝が隠されてるという話もありましたよね?


快守 そうそう、ボクの島には歴史があってね。1948年のキューバ革命が始まる前に、財宝を積んだ船がたまたま水補給のために寄ったんだよね。船の中にはね、日本円で約1000億くらいの銀貨を積んでいた。

http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar776909
――桜井会長と笹原さんがお知り合いになったのは、会長とヒクソン・グレイシーの対談がきっかけなんですよね?



笹原 いや、じつはボクがこの業界に入る前に下北のお店でお会いしてるんです。20歳ぐらいのときですね。


雀鬼 あ、そうなの? 


笹原 会長はおぼえてらっしゃないと思いますけど(笑)。下北に会長のお店ができてまだ間もなくの頃です。ボクは大学生の頃から麻雀が好きだったこともあったので仲間内と「桜井章一のお店ができたらしいから行ってみよう」ってことで上京したんですよ。


雀鬼 へえー、そうだったんだ(笑)。


笹原 お店に足を踏み入れたら会長がいらして。地方から来たことを伝えたら凄く良くしていただいて、柳史一郎さんの小説『伝説の雀鬼』にサインしてもらったり。


――つまり一人の雀鬼ファンだったんですね(笑)。


笹原 もともとボクが勝手にお慕い申し上げていて、PRIDEをやるようになったときに、ボクが桜井章一に会いたいという理由もあってヒクソンとの無敗対談を企画したんです(笑)。それが97年のことですね。


雀鬼 あれから笹原さんにはよくしてもらってね。こんなジジイが毎回PRIDEに行くなんてちょっとおかしいんじゃないかなって思いつつもさ(笑)。というよりさ、斉藤はわかると思うけど、あんまりオレって興奮しないじゃないですか。


――何が起きても冷静沈着ですよね。


雀鬼 でもね、PRIDEのリングを観に行くときは凄くワクワクしたんだよ。「なんでこんなにワクワクするんだろう……!?」っていうくらい。そういうものを観させていただいたことは本当にありがたいことで。女の子がデートしてくれるっていってもちっともワクワクしないのにね(笑)。


笹原 女の子よりPRIDEでしたか(笑)。そういえば、ボクはVシネマ『雀鬼』シリーズにチョイ役で出させていただいて。赤坂のバーという設定で会長がそこのマスター、ボクはお客さんです。『まいっちんぐマチコ先生THE MOVIE』以前に出演歴があったんですよ(笑)。


――『まいっちんぐマチコ先生』がデビュー作じゃなかった、と(笑)。


雀鬼 人の縁って不思議だね。それまでプロレスや格闘技界からはだいぶ離れていた。力道山まで遡るかなあ……。


笹原 力道山からヒクソンですか(笑)。


雀鬼 俺は遠藤(幸吉)さんと親しくさせてもらったから、日本プロレスの道場にもよく顔を出していたんだけど。そういえば、PRIDEの道場で小路(晃)や戦闘竜と取っ組み合いをやったことがあったな(笑)。


――何をやってるんですか(笑)。


雀鬼 でも、ヒクソンと知り合うまではけっこう距離が空いていたんだ。たまたま格闘技の雑誌を読んでヒクソン・グレイシーという人間の考え方に共鳴したというか興味を持ったんです。「このヒクソンという人間は実際にはどんな動きをするんだろう」ってね。


笹原 そこにボクがタイミングよく対談の企画を投げたわけですね。


雀鬼 そこからヒョードル、ノゲイラ、シウバと興味ある人間と接点が持てたっていうのは本当にありがたいです。しかし、笹原さんはどうしてこの業界に入ったの?


笹原 最初に名古屋で就職した会社は格闘技とはまったく無関係だったんですけど、その会社の社長がヒクソンと知り合いだったんです。それでその社長と高田(延彦)さんと知り合いが「高田vsヒクソンをやれないか」というところから話が始まって。


雀鬼 うん、うん。


笹原 ボクは格闘技好きだったこともあって、そのプロジェクトに関わるようになったんですよね。その宣伝活動の一環として会長とヒクソンの対談をセッティングしたです。あの対談、二人が会った瞬間に、空気が変わりましたよね。


雀鬼 なんか緊張感があったよね。


笹原 話し始めた瞬間にヒクソンの表情が変わったんですよ。当時のヒクソンってもの凄くたくさん取材を受けていたんですけど、あんなヒクソンを初めて観ました。ヒクソンが「オレのことをこんなに理解してくれる人がいるんだ……」みたいな空気になったことは過去にはなかったんですけど、会った瞬間に打ち解けあえて。


雀鬼 自分の中でもそういう感じはあった。ヒクソンは日本語がわかんないし、俺も英語はあんまりわからないけども。握手をしてお互いに身体を触って「柔らかいねえ」っていうジェスチャーを交わしたところから対談は始まったんだよ。


笹原 言葉は通じてなくてもお互いの目がキラキラしてる感じがあったんですよねぇ。


雀鬼 途中からPRIDEはヒクソン抜きにして進んだじゃないですか。笹原さんはどういった心境だったんですか?


笹原 もちろんヒクソン・グレイシーは人間的に凄く興味があった選手だし、PRIDEという企画を作った選手なので、彼が上がらなくなったことに関しては凄く残念でしたけども。そこから何か新しいものを作っていくしかないなと思ってやってましたけど。


雀鬼 でもさあ、笹原さん。あの頃のヒクソンって日本人にとっては「敵」だったじゃないですか。


笹原 そうですよねぇ。


雀鬼 ね。いわゆるプロレスラーを応援するファンが多かった。PRIDEには「日本人vsガイジン」「プロレスvs柔術」みたいな構図があったりしてさ。


笹原 そこは我々も商売的にあえて煽っていたところがあると思いますけどね(笑)。




雀鬼 オレも小ちゃい頃はそれで興奮していたわけですから。それはプロレスの流れというか、シャープ兄弟という敵がいたから力道山は英雄だったわけでしょう。でも、会場にいると「周りは全員、ヒクソンの敵か……?」と思うときがあったんですよ。


――ボクも会長の隣で高田延彦の応援をしてましたからね(笑)。


雀鬼 この野郎はふざけてるし、後ろでも高田選手を応援してる騒がしいヤツがいるかと思ったら浅草キッドのお二人だったりな(笑)。とにかく「グレイシーは敵だ!」っていうムードがあった。


――グレイシーってなかなかプロモーターに対しても心を開かないイメージがありますね。


笹原 まあ、彼らはプロとしてそういうポーズを取ってるところはあると思いますけども。普段は馬鹿話をしたり全然普通でした。でも、ヒクソンはあまりそういう隙を見せなかったと思いますけど。ヒクソンは常にヒクソン・グレイシーでしたね。


雀鬼 そこは24時間、ずっとヒクソン・グレイシーでいるっていう感じだよね。


笹原 ボクが見るかぎりでは、リラックスしてるところはありますけど、「眠っていてもライオン」みたいな雰囲気でした。


雀鬼 いや、彼は持ってるね。品じゃないけど、野生の心みたいなものを。ヒクソンは自然が好きじゃないですか。


――試合前に山ごもりしてましたね。


笹原 ああ、試合前に「山を用意してくれ」と言われてましたね(笑)。いまだとちょっと考えられないです。当時だからこそできたんだと思いますけれど。


雀鬼 ホントだよねえ。「ジムの設備があるところで練習したい」とかだったらわかるけど、「山を用意してくれ」ってね(笑)。


笹原 「木があって、水があって」っていろいろとリクエストされました。いまそんなファイターがいたら「ふざけんな!」とって思いますけど(笑)。


雀鬼 そういうことが許された時代だったんだよね。そこはやっぱりグレイシー柔術という価値観を下げたくないわけですよね。だから交渉にも非常にうるさかったのかもしれないですよ。


――結局、ヒクソン最後の試合は『コロシアム2000』の船木戦になりましたけども、そのあとPRIDEからオファーはされていたんですか?


笹原 いろいろマッチメイクを考えるなかで、かならず名前は出てきた選手ですね。実現できる、できないという話じゃなくて。PRIDEはヒクソンと高田さんが産み落としたイベントですから、どうしても名前は出てきますよね。


雀鬼 ヒクソンはやる気ではいたんですよ。ただね、息子さん(ハクソン・グレイシー)が……。
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