赤松健の 原作:松田隆智『拳児』 批評



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■原作:松田隆智/作画:藤原芳秀『拳児』

 80年代『週刊少年サンデー』の名作のひとつに数えられる『拳児』は、武術研究家である松田隆智の体験を元に、中国武術・八極拳を修業する少年の活躍を描いた格闘アクション漫画である。当時としては斬新だった中国拳法の描写は非常に魅力的で、読者に衝撃を与えるだけでなく、後のアクション漫画や格闘ゲームなどに強い影響を与えることになった(余談だが、『男組』の雁屋哲に中国拳法の知識を与えたのも松田隆智である)。

 さて、当然だが『拳児』にも魅力的な師匠キャラクターが登場する。それも複数だ。主人公、剛拳児に格闘技を伝授するキャラクターとして、祖父であり李氏八極拳の達人でもある剛侠太郎から始まり、同じく李氏八極拳の張仁忠、劉月侠、蘇崑崙ら、強氏八極拳の朱勇徳、陳家太極拳の緒才老と李長典、北派少林拳の悟雷、心意六合拳の馬大元、空手の高山双八、合気柔術の佐上幸義……と師匠キャラのオンパレードであり、さながら「回転寿司方式の格闘漫画バージョン」とでも呼べそうな様相を呈している。拳児の成長物語は最終的に祖父の元へ帰納するようになっており、その祖父がこの漫画の正ヒロインといった所だろうか。『拳児』はどちらかといえばライバルキャラより師匠キャラの人物像を深く描いており、また、対決シーンより修業シーンの方が読んでいて面白い、という点でも、魅力的な「師匠萌え漫画」として楽しめよう。
 その上で、『拳児』の残した問題点が何なのかといえば、『ラブひな』の瀬田記康→浦島景太郎の関係と同じように、師匠を乗り越えようとせず、同一化する方向に近付いているという点にある。
 拳児は師匠達に教えられる通りに八極拳の修業をするのだが、最終的に師匠の縮小版にしかなりえておらず、別の答えや結果に辿り着いていないように(漫画表現上は)見えてしまうのである。
 年功や経験の差があるのだから、実力面で無理に師匠を乗り越える必要性は無い。それより主人公に求められるのは、師匠の教えを継承した上で自分独自の答えを出し、それを師匠に認めてもらうということなのだ。

 もっとも、拳児は複数の師匠に付くことで、一種類ではなく様々な流派の武術を学んでいる。また、それぞれの師匠もメインとなる八極拳とそれ以外の武術を混ぜ合わせ、自己流に発展させるよう拳児に促してもいるのだ。例えば劉月侠は、彼自身が八極拳と八卦掌をミックスさせたスタイルを持っているだけでなく、拳児にも八卦掌を教え、スタイルを変化させることを勧めている。彼の八極拳に「化勁」と呼ばれる力が欠けていることを指摘してのことだ。


「そうだ。八卦掌の原理を理解すれば、君の八極拳は銀から金に変わる!」

 それでも拳児の化勁は未熟なままであり、緒才老から太極拳の化勁を教わることになる。その際にも、拳児が身に付けている八極拳を一度バラバラに解体し、そこに太極拳の原理を加え直し再構築するように促されているのだ。その後の一戦(張狠子戦)では、太極拳の化勁と八極拳の技を交互に用いて相手を倒すなど、拳児のスタイルに確かな変化が見られた。
 しかし問題は、クライマックスであるトニー・譚との戦いの中で起こる。幻の武術・心意六合拳を身に付けて強力な敵となったライバル、トニーと戦って勝つ為、拳児も心意六合拳の修業を始める。だが修業が完了する前に決戦となり、拳児は苦戦を強いられる。トニーに対して心意六合拳は無力で、張狠子を倒した太極拳の化勁までもが通用しないのだ。「貴様の化勁はまだ未熟なようだな」とトニーは指摘する。
 そこで拳児が絞り出した答えは、以下のようなものだった。


「通じない! 何もかも通じない!! / そうだ原点にかえろう。 / 最も練習した八極拳で闘うしかない!!」

 その八極拳の技だけはトニーに通用し、拳児は逆転勝利する。……ここで疑問が生まれるのだが、では拳児が八卦掌や太極拳、心意六合拳を学んだ意義は、一体なんだったのだろうか? そこが全く描かれないまま物語はエピローグへと進む。そこでも化勁について触れられることは無かった。彼自身にどういうフィードバックを与えたのかが具体的に伝わらず、結局「八極拳こそが最強だ」という原理主義的な結論にミスリードさせかねない結末に陥っているのだ。拳児が最終的に身に付けた必殺技も、かつて祖父が見せたのと同じ、八極拳の奥義だった。彼の「未熟な化勁」はどこに行ったのだろうか? 「見えないレベルで八極拳の中に吸収されたのだ」という模範解答を導き出すことは可能だろう。しかし、そう思わせる描き方がされていないことが問題なのだ。
 それだけではなく、中国武術を通じて東洋的な哲学を学んだものの、その極意を悟りきれない拳児は、最終回において 父親から西洋哲学の考え方を得る。これは東洋哲学と西洋哲学の融合を予感させるものだったが、しかしその後の拳児は祖父に導かれるがままの結論を出してその境地に納得しており、祖父の想像の範疇を出て驚かせるということが無かった。これはある意味リアリズムに寄った描写でもある為、受け入れ方は読者の価値観によるだろう (確かに、年長者である師匠=祖父が、子や孫の価値観を超越していること自体は変ではない)。けれど、少年漫画的なドラマツルギーで言うなら、ここで主人公の意外な結論や、師匠の驚きの演出(それに追随する「成長の認定」)が何よりも欲しい場面なのだ。主人公に師匠を乗り越えさせるということは、実力で勝たせることでも、同じ境地に到達させることでもない。「異なる結論を出した上で、師匠に認められる」ことでも乗り越えたことを充分表現できる筈なのである。

 <ラブひな編>において、「主人公が師匠と同一化してしまう」ことによって「読者が主人公と同一化した気になってしまう」という幻想の危険性を説いたわけだが、期せずして『拳児』がその危険性を自ずと証明しているということも言える。
 一部では有名なことだが、『拳児』の熱狂的な読者の中には、八極拳の強さを妄信した八極拳原理主義者とも呼べる者達が多く存在したという歴史的事実がある。彼らは大抵、主人公の拳児と同一化し、八極拳を練習すれば強くなれると信じている。例えそれが書物の真似事や、初歩の練習法止まりであってもだ。勿論、更にその中には、途中で自らの幻想に気付いて方向転換をしたり、本物の格闘技(それは八極拳であったり、八極拳でなかったりするだろう)と巡り会った上で現実的な道を辿る者も少なからず存在するのだが。
 漫画の現実に対する影響力について指摘することは、お門違いの批評だと思われるかもしれない。しかし、『拳児』における結末の仕方が、読者の幻想に拍車をかけたことには違いないと思う。
 繰り返して強調するが、少年漫画が読者に伝えなければならないのは、「憧れのヒーロー像」であろう。その上で伝えられなければならないのは、「主人公とは別の道を辿ってその夢を目指すこと」ではないだろうか。
 つまり、主人公が師匠に対して「貴方のようになりはしない」という結果を示すことにならって、読者も「主人公のようになりたいが、ならない」と決意することこそが最も望ましい。だからこそ少年漫画の主人公はその決意の見本を示すことが求められるのだが、『拳児』はその肝心な部分を軽視していたような気がしてならないのだ。

※12月3日註:この『拳児』のラストに関する当時の事情(主に原作者に関すること)について、貴重な意見をメールで頂くことができた。ご本人の許可を得た上でメールの原文をそのまま掲載する。参考にして頂きたい。

はじめまして。偶然検索ヒットで赤松論を読んでしまった通りすがりの者です。

先にことわっておきますが、自分は拳児の熱狂的な読者です。
一部偏った見方の内容かもしれませんがご容赦ください。

もしかするとご存知かもしれませんが、実は拳児は連載終了前3回目あたりで編集長
交代による方針の変更(劇画調漫画の削減)のせいで急遽話をまとめなければいけな
くなった経緯があり、当初の予定通りに連載が継続していれば違った結末になってい
た可能性があります。
話の収集をつけるために苦慮した原作者が、当時感銘を受けていた西洋哲学をシメの
文章に持ってきたそうです。また、なんでも予定では中国編のあとにアメリカ編も構
想していたとか・・・。


周知のとおり、拳児の内容は原作者の体験談そのです。
もし拳児=松田氏とすれば、松田氏自身に師匠のモデルとなった方々に対しての畏敬
の念があるために、最初から拳児が師匠を乗り越える段階まで行かせるつもりがあっ
たのかどうかは疑問が残ります。
氏自身も今でこそ「師にどれだけ近づけるか」という意を持たれてはいますが、実際
怒涛のようにあらゆる拳法を駆け巡ったために収集がつかなくなっていた時期があっ
たようです。現在では八極拳と心意六合拳に絞って練習されているようで、最近その
二つの境目が無くなってきたとおっしゃられています。(『月刊秘伝』05年12月号)

自分をモデルとしている以上、氏にあれ以上のものは書けなかったわけで、もとより
原作に関しては素人だったために、愚直なほど現在の自分の状態をそのまま書かれて
しまったのではないかと思っています。

よって十数年の時を経て、やっとリアルに拳児の物語が収束に至りつつあるわけで、
もしかするともう一度松田氏が筆を取られることがあるならば、とてもいい形の結末
が見れるかもしれません。

 一応筆者からのフォローも加えておく。ここで『拳児』と『ラブひな』を似たような欠陥を抱えた作品だとして並べて批評してみたものの、『拳児』が名作と称される理由は相応にあるのだ。
 それは、当の師匠キャラ達が異様に格好いい、という点でも語ることができる。
 前述した師匠達の頂点には李氏八極拳の創始者である「李書文」(※実在の人物でもある)が存在しているのだが、このキャラクターこそが『拳児』の真の主人公と言ってもいいくらいだ。現に『拳児』という作品自体は拳児が祖父に認められた時点で完結したわけではない。その後、書文を文字通りの主人公にした外伝が追加されており、それがまた人気を博してもいる(逆にその過剰な格好良さゆえに、幻想を作り出してもいるのだが)。また書文の直接の弟子である劉月侠は、書文を神聖視しながらも師匠とは明確に異なる道を辿る選択をしている。書文→月侠の関係だけを見てみれば理想的な師弟関係が築かれてもいるのだ。
 それに対して、『ラブひな』における師匠は主人公以上に無茶苦茶格好いい、とは言えそうにない。師匠である瀬田に比べれば、主人公である景太郎の方がまだ格好良く映るような描かれ方をしていたからだ。

 では次に、サンデー誌上における『拳児』の後継者であり、ひとつのアンサー作品とも呼べる『史上最強の弟子 ケンイチ』の成り立ちを見て貰いたい。
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