実際にロイ・ウッド先生から学ぶレスリングとは? 多くの昭和プロレスファンがそうであるように、私のランカシャーレスリングのイメージも、 カールゴッチ → アントニオ猪木、藤原嘉明、佐山サトル、前田日明 → UWF! というものであった。 ところが、しばらく学んでいくと、「少し違うかなぁ...」 が正直な感想だった。 もちろん、私はUWFの技術を習ったわけではないので、あくまでも一ファンとしてUWFを見ていたイメージではあるが。 サブミッション(関節技)自体は、やはりUWFでよく見られたものがたくさんあったが、 それ以外の部分に関しては、UWFとはずいぶん違うのでは? と感じていた。 「絶えずサブミッション(関節技)の取り合いをする」というのではないと感じた。また、UWFで見られた、いわゆる“亀”の体勢もない。ロイ・ウッド先生いわく、「その体勢になれば、ビリーライレーに、この腰抜けが!と怒鳴られ、後方からお尻を蹴り上げられた。」 あと、昔からチョークスリーパー(首を絞める技)はやっていなかった。(ビリー・ライレー以前の時代にはやっていたらしい) キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの関節技は、カール・ゴッチによって、ウィガンから日本に伝えられたものが多いはずなのに、技の名前は日本で呼ばれているものと違うものが多かった。例えば、写真のチキンウィング・フェースロックもウィガンでは別名だ。 詳しいことはわからないが、日本での呼び名は当時のマスコミによって名づけられたものなのかもしれない。 フリースタイル(オリンピックスタイル)は、サブミッションを習う上での基本という考え方のようで、ここに重点が置かれていた。 かといって、ロイウッド先生の教えるフリースタイルは一般的なフリースタイルともかなり違う。























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はじめに

ビリーライレージム、ランカシャー“キャッチ・アズ・キ ャッチ・キャン”レスリングと聞いても、何のことかさっぱりわからないかたのほうが多いと思います。
また、名前は聞いたことはあっても、あまり詳しいことは知られていないのではないでしょうか。

私、ライレージム京都 代表の松並修の自己紹介も兼ねて、当ジム設立までの経緯をご紹介させていただきます。


少しでも多くの方に興味を持っていただき、
このレスリングの発展につながれば幸いです。







 第1章  伝説のジム

   ◇最盛期

「ランカシャーレスリング」、「ビリーライレージム」 昭和のプロレスファンには馴染みのある言葉でしょう。 
日本では“プロレスの神様”と呼ばれ、アントニオ猪木を始め、多くの日本人レスラーを指導したカール・ゴッチ。

昭和40年代、当時誰も見たことのない華麗な技を次々と繰り出し、日本プロレス界に一大旋風を巻き起こした、
“人間風車”ビル・ロビンソン。 この二人がイギリス・ランカシャー地方にある、伝説のレスリングジム、“蛇の穴”ビリー・ライレー・ジム出身で、彼らの技術が、現地伝統のランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリング のものだということで、昭和40-50年代に、それらの名前はプロレスファンの間で浸透していきました。

関節技、肘を使った攻撃なども含む、制限の少ない激しいレスリングである一方、その技術体系は、“フィジカル・チェス(体を使ったチェス)”と呼ばれるように、力ずくで相手をねじ伏せるのではなく、相手の動きの読み合い、相手の力を利用した返し技の連続です。
(現地では“ランカシャー・(スタイル)・レスリング”、や“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”と呼ばれていた。日本では、昭和時代には前者が、最近では後者の呼び方がよく使われている。また単に“キャッチ”、“キャッチ・レスリング”という呼び方が一般化してきている。)

 


キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの歴史については諸説あるが、大流行し始めたのは、1800年代半ばで、1900年に入るとその人気は、ランカシャー地方から、イギリス全土に広がり、プロスポーツとして確立されていった。 そしてランカシャー地方の鉱山労働者たちは、レスリングによって大金を得ることができるようになり、鉱業地の悪条件から逃れるきっかけを掴んだ。屋内だけでなく、マットも敷かれていない屋外ボーリング場などでも試合は行われた。
屋外では数万人もの観客を集め、選手は1試合で、当時の国民平均年収以上を稼ぐこともあった。


ビリー・ライレー(1896-1977)は、その最盛期、1920-30年代に大活躍したレスラーである。長年ミドル級チャンピオンとして君臨した。イギリス国内だけでなく、当時は容易ではなかった海外遠征も行い、南アフリカでタイトルも獲得している。
   
現役を退いた後、第二次世界大戦後にウィガンという街にジム建て、世界トップクラスの選手を育てあげていった。
プロの選手は、昼間にジムで練習をして、夜には試合をする。昼間に仕事をしている者は、夜に練習といった具合いに、狭いジムには常に多くの選手たちが、ビリー・ライレーの元で、激しい練習を繰り広げていた。

ライレーの教えは厳しく、一流選手であろうが、初心者であろうが、手加減は一切ない。スパーリングでは、どんなに疲れていようが、ライレーが「終わり」というまで休むことは許されない。 技の練習は、ライレーが「よし」というまで、何度も何度も同じことをやらされる。 練習生たちに容赦なく浴びせられる、“Do it again!”(もう一回やれ!) というライレーの怒鳴り声がジム内にはいつも響き渡っていた。



 

日本でもお馴染みのビル・ロビンソン(1938 -)は、15歳でビリーライレージムに入門し、アマチュアレスリングでイギリス、ヨーロッパチャンピオンになった後、19歳でプロデビューする。
ビリー・ライレー直伝のテクニックを武器にヨーロッパ各地、インド、アメリカ、日本など世界を股にかけて戦いを繰り広げる。昭和50年のアントニオ猪木との一戦は、日本プロレス史上に残る名勝負とされている。            



  ◇ライレージムの終焉

1960年代の終わりが近づくと、ビリーライレージムは衰退の一途をたどる。テレビの普及の影響でプロレスリングの世界は華やかになるが、それに反して、激しく厳しく痛みを伴う危険なランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングが敬遠されていく。 様々な娯楽も増えてきたことにより、レスリングを学ぼうとする者は少なくなっていた。ビリー・ライレーの幼少期のように、原っぱでキャッチの真似をして遊ぶ子供の姿を見ることもなくなっていた。 ビル・ロビンソンなどのように、トップ選手はアメリカなど、プロレスがより盛んな海外へと活躍の場を広げていき、ウィガンを離れていった。
ジム自体も古くなり、雨漏りもひどくなっていた。そんなビリーライレージムの姿は、年老いていくライレー自身のよ
うでもあった。 残ったのは、1959年に16歳で入門した、“ビリー・ライレー最後の弟子”ロイ・ウッドだけになり、1970年代半ば、ビリーライレージムは閉鎖される。




 ◇再始動

違う形ですぐに復活の兆しがおとずれる。ビリーライレージムが閉鎖した時、それはロイウッドの小学生の息子、ダレンが、父親のやっているキャッチ・アズ・キャッチ・キャンなるものに興味を持ち始めたころでもあった。 ロイ・ウッドは、息子と甥のポール、近所の子供たちを集めてレスリングを教え始めた。ビリーライレージムは、女性、子供が入ることは許されていなかったので、最初はビリー・ライレーもあまり乗り気ではなかったようだ。しかし、次第に顔を出すようになり、自らも子供を指導するようになった。 70代後半になっていたライレーは、メインコーチの座をロイ・ウ ッドに譲った。
かつては恐い鬼コーチであったビリー・ライレーも、子供たちのコーチになったロイ・ウッドを怒鳴りつけるようなことはなくなっていた。
子供たちの前では常にロイ・ウッドをたてて、2人きりになったときに、優しく指導法などをアドバイスしてくれたという。ビリー・ライレーは、ロイ・ウッドを自分の後継者としてジムを任せられるようにすることを、最後の仕事とした。

しかし、プロのジムであったビリーライレージムを、子供のレスリング教室に変えるにあたり、大きな壁があった。関節技などの危険な技術を子供たちに教えるわけにはいかなかった。 また、フリースタイルレスリング(オリンピックスタイル)の大会に参加させても、ライレーの技はルールで禁止されていて使えないものもたくさんあった。 二人は、プロの技術を上手くアマチュアのルールに適応させ、すぐに次々に全英チャンピオンを誕生させた。ロイ・ウッドの息子ダレンもその一人だ。 ビリー・ライレーの技術は、オリンピックスタイルのレスリングで戦っても最強であることを証明していった。
ビリーライレージムは再び輝きを取り戻したが、ジム自体の老朽化はとまることはなかった。もう修繕の余地もないところまできていた。
そんな中、かつて市民を大熱狂させたランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングの英雄、
ビリー・ライレーは1977年に81年の生涯の幕を閉じた。




   ◇新生ジム - アスプル・オリンピック・レスリング・クラブ

ライレーの死は、ひとつの時代の終わりであった。しかし、それは新しい時代の始まりでもあった。 ライレーの死後、ビリーライレージム、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングを特集したドキュメンタリーがテレビ放送された。 これが注目を集め、助成金も得て、ビリーライレージムから1.5キロほど離れたアスプルという場所に新しく大きなジムを建てることができた。 当時はプロとアマチュアの区別が厳格で、ビリーライレージムはプロのジムとみなされており、 子供たちをアマチュアの大会に参加させるのに、障害となることもあった。 この移転を期に、ジムの名前をアスプル・オリンピック・レスリング・クラブと変えた。もとのビリーライレージムは、出入りするものもいなくなり、空き家状態になっていた。そして1990年に謎の火災により、 全焼した。
ロイ・ウッドは子供たちにビリー・ライレーのレスリングを教え続けた。練習生はどんどん増えていった。 教えている子供達が大きくなれば、サブミッションも含む本当の意味でのランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングを復活させようという思いはあったが、ほとんどの者は大人になれば、レスリングから離れていった。 しかし、数々の全英チャンピオンを育て上げ、子供のレスリングジムとしては、大成功を続け、
イギリスで一番のアマチュアレスリングのジムになった。

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第2章  ウィガンへの旅立ち



   





    ◇ライレージムへの興味

私が18歳の時、週刊ゴング(1989年5月25日号No.257)で、日本では初代タイガーマスクのライバルとしても有名な、ダイナマイト・キッドが廃墟状態にあったビリーライレージムを訪問するという記事があった。 ジム火災の1年ほど前に取材されていたと思われる。

そこに、ゴッチ、ロビンソンをも手玉にとり、その人を知る人なら誰もが“最強”と認めるビリーライレージム出身のレスラー、ビリー・ジョイスのコメントが掲載されていた。

「ライレーが亡くなった後は、今はここにいるロイ・ウッドが子供達を相手にアマレスを教える程度。残念ながら、ここでランカシャー流プロレスリングを習い、己を磨き上げようとする者は、その後、出現していない。」

これが、私のその後の人生を決定づけた言葉であった。ぼんやりとではあるが、「自分がそこへ行ってジムを復活させられれば、かっこいいなぁ」 と思った。

その1年後の1990年、新プロレス団体、メガネスーパーのSWSが旗揚げし、ビリーライレージム出身のロイ・ウッドがランカシャーレスリングのコーチとして日本に招かれた。
週刊ゴングにインタビューなども載っていて、またまた興味がふくらんでいった。とにかく私はプロレスラーになりたくて、練習を開始していた。当時、日本のプロレスは、ヘビー級の大型選手が主流で、171cm の私には難しいだろうとは思っていた。

メキシコのプロレス、ルチャ・リブレは軽量級が盛んなので、そこへ行くことも考えた。
ちょうどウルティモ・ドラゴンこと、浅井嘉浩さんが活躍し始め、日本に逆輸入されたころだった。
また、その浅井嘉浩さんが週刊ゴングに綴っていた自伝にも感銘を受けた。体が小さくてもプロレスラーになることを諦めず、単身メキシコに渡り成功した話だった。



 





    ◇21歳の決意

単身メキシコへ行った日本人の前例はある。アメリカ・フロリダ州タンパのカール・ゴッチのところへ行ったという話もよく聞く。 しかし、ビリーライレージムは名前こそ有名だが、日本人が行って修行したという話は、子供の頃からプロレス雑誌を読みまくっていた私も聞いたことはなかった。

1993年、すでにダイナマイト・キッドのライレージム訪問の記事から4年近く、ロイ・ウッド来日から2年半が経っていた。 「ひょとして、同じことを考えて、すでにイギリスに行った人がいるのでは? 早く行かなくては。自分がやりたい!他の人に先を越されたくない!」 と思い、21歳の時にイギリス行きを決意する。

しかし、今でこそ、海外の知らない場所でも簡単に調べられるが、インターネットがなかった当時、イギリスの小さな街にあるレスリングジムの情報を手に入れることは不可能に近かった。
結局、 「ウィガンという街にある」 「ロイ・ウッドがアスプル・オリンピック・レスリング・クラブという所で教えている。」 ということしかわからなかった。ほとんど英語もわからず、海外へ行くのも初めてで、正直、不安だらけだった。

最終的には、「見つからなければ、適当に観光でもしてくればいいか。とにかく行ってみないと何もわからない。ロイ・ウッドさんに会えなくても、これだけの情報では会えないということがわかれば、それでいい。やらなければ何もわからない、でもやれば何かつかめるはず。」 と思い、10間の往復航空券を買って、1993年5月に初めてイギリスへと立った。
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第3章  ロイ先生との出会い



   





    ◇ジム探索

大阪伊丹空港から出発し、シンガポールで乗り換え、マンチェスター空港に到着した。1993年5月8日のことである。 バスと電車を乗り継いで、目的地の“ウィガン”に辿り着いた。日本で予約しておいたホテルへ着いたときには、京都の家を出てから、24時間以上経過していた。 長旅の疲れと時差ボケからその日はとりあえず寝ることにした。

翌日からいよいよ、“ビリーライレージム”、“アスプル・オリンピック・レスリング・クラブ”、“ロイ・ウッド” 探しの開始。

チェックアウトする前にホテルで尋ねたが、全く情報は得られなかった。ウィガンの街中へ行った。日曜日だったので、ほとんどの店は閉まっていて静まりかえっていた。
イギリスでは、ほとんどの街の中心部には必ずある、Tourist Information (観光案内所) に行ってみた。そこで、アスプル・オリンピック・レスリング・クラブの場所を聞いてみるが、何を言っているのかさっぱりわからないので、紙に書いてもらった。 電話番号はないので、はっきりとしたことはわからないが、おそらく「アスプル・ラグビー・クラブ」の近くだろうということだった。そこの電話番号と、行き方を教えてもらえた。
意外とあっさりとわかった。何事もやってみるものである。

この街の様子から、日曜はジムも開いていなさそうだなと思い、その日はブラブラ散歩し、初めて見る海外、イギリスを楽しんだ。とにかく建物一つとっても、見る物すべてが新鮮で、ただ景色を眺めているだけで面白かった。
次の日こそ、ロイ・ウッドさんに会える。 でも、会ってうまく英語で話す自信がないので、自分が何者なのか、何しに来たのかを、手紙にしようと、 辞書を片手に深夜まで書いていた。

翌朝、教えてもらったとおり、ウィガン中心部のバスターミナルへ行った。ところが、初めて訪れる地、言葉もよくわからない、たくさんのバスがあり、どれに乗ればいいのか、わかるはずがない。

あたふたしていたら、女の人が声をかけてきてくれた。とりあえず、行き先を伝えることができた。偶然にも、その人も同じバス停で降りるらしい。しかもジムの場所を知っているとのこと。
車内でその人が何か話しかけてくるが、何回聞いてもよくわからないので、紙に書いてもらい、それを見てじっくり考えた。「そこは見つけにくいので、連れて行ってあげます。」 ということだった。今なら、こんな簡単なことも当時はわからなかった。  この紙切れが自分の英語学習の始まりなので、今でも大事にとってある。

15分ほどでアスプルに着いた。サッカーグラウンド、教会が近くにあり、舗装されてない細い道を少し歩いて畑の横にある建物が、「アスプル・オリンピック・レスリング・クラブ」。 しかし閉まっていた。まわりには誰もいない。何時に開くかもわからない。その女性は、コンビニと数件の店がある場所を教えてくれて、去っていった。 こんなに簡単に辿り着けるとは思ってもいなかった。「アスプル・オリンピック・レスリング・クラブ」、「ウィガン」、「ロイ・ウッド」 これだけの情報でも、思い切ってやってみれば、道は切り開けるものだと実感した。

「今日はやっているのかな? 何時に開くのかな?」 場所はわかったので、この辺りをブラブラしながら、気長に待とうと思った。しかし...強い雨が降りだした。傘は持っていなかった。

雨宿りするために、バス停に戻った。屋根、ベンチがある。1時間ぐらい、ボケーッと座っていた。小降りになってきて、ひょっとしたら、もう開いているかな? と思い再びジムへ。やっぱりまだ閉まっていた。ところが、今度はジムの前の畑に一人のおじさんがいた。その人は、少し距離を置いて、私のことを睨み付けるようにジーっと見ている。ジムのことを聞いてみようと近づいていったが、かわらず見つめられたままだ。おじさんの目の前にくると、理由はすぐわかった。目が不自由らしく、聞き慣れない足音なので、私がいったい誰なのかと思っていたらしい。
まだ雨が少し降っているので、おじさんの畑の中にある、小屋へと案内された。紅茶をだしてくれて、私の話を聞こうとしてくれた。名前、どこから、何しに来たのかなど話した。そのおじさんの名前はバリー・ジャクソン。
のちに私がイギリスに滞在している間、たくさんの時間を一緒に過ごすことになり、大変お世話になる人だ。強い光をあて、でっかい虫眼鏡を使い、集中すれば、休憩しながら、メモなどは少し読めるという。なかなか私の英語が伝わらなかったので、前日書いた、ロイ・ウッドさんに渡そうと思っていた手紙を見せた。私が目を開けていられないくらいの眩しいライトをその手紙にあて、頑張って読んでくれた。読み終えると、バリーさんは、「よし、ちょっと待ってろ」と言って、小屋に私一人を残し、小雨の中、盲導犬のワトソンと共に何処かへと出かけて行ってしまった。



    ◇初対面

しばらくして、バリーさんが帰ってきた。わざわざ家へ戻って、ロイ・ウッドさんのところへ電話をして、事情を説明してくれたらしい。
もちろん当時は携帯電話などなかった。バリーさんは、ジムの前に畑があることから、ジムの開け閉めをすることもあった。
しばらくすると、ロイ・ウッドさんの息子のダレンさんがジムに来てくれた。私より5歳上で、体は大きいが、もうレスリングはしていない。とにかく明るく、気さくな人だ。これからどこへ連れて行かれるのかよくわからなかったが、とりあえず車に乗った。着いたところは、ウッド家の仕事場。
家族で、食器、掃除用具、ゲームマシーンなどのパブ(イギリスの酒場)用品の卸をしている。紅茶、昼食をご馳走になった。また例の手紙を見せた。下手くそな英語で話すより、まだこのほうがマシで、わかってもらうのが早いことがわかった。ダレンと2人の従業員が、ビリーライレージムの話などをいっぱいしてくれた。

この日はいなかったが、ここにはマーク・ライレーという人も働いているとのこと。 そう、あのビリー・ライレーのお孫さんである。「本当に伝説の地まで来たんだ」とわくわくしていたのを覚えている。
いろいろな来客がある。パブの経営者などが買い物、商談に来ているようだ。 みんなは仕事があるので、私は紅茶をご馳走になりながら、オフィスでポツリと一人でたたずんでいた。

またドアが開き、人が入ってきた。しかし、お客さんではなかった。ロイ・ウッドさんと、妻のブレンダさんだった。ついに出会えた。たくさんの親切な人たちのお陰で。 1993年5月10日 これが、ロイ・ウッド先生との出会い、私のランカシャーレスリング人生の始まりである。
グリーンのジャケットに身を包んだ、穏やかな感じの人だった。奥さんも、優しそうで、すごく感じの良い人だ。2日前にイギリスに着いて以来、会う人全てが初対面で、英語での自己紹介も慣れてきた。やっと手紙を見てもらいたい人に見せることができた。

「私は日本から来たプロレスファンで、ランカシャーレスリングを習いたくて来ました。ビリーライレージムを復活させて欲しいと思っています。今回は数日後に日本に帰りますが、またここに戻ってきて、長期滞在して習いたいです。ランカシャーレスリングを受け継ぎたいです。」ということが下手くそな英語で書かれたものだった。

“ビリーライレージムを復活させて欲しい” “ランカシャーレスリングを受け継ぎたい”ロイ・ウッド先生に初めて会った時に伝えていた言葉だった。
手紙を読み終えると、先生は、ニコッと笑い「OK、OK」とだけ言って、あまり、あれこれ質問してこなかった。もちろん、みんな仕事中なので、私はまた紅茶をよばれながら、1人ポツリとオフィスに座っていた。みんなが気を遣って、代わる代わる私に話しかけたりしてくれる。



    ◇初練習


みんな仕事が終わり、連れて行かれたのは、ロイ・ウッド宅だった。壁には、家族の写真に、レスリングの写真、暖炉もあり、初めて見る西洋の家に感激した。レスリングに関する写真や資料をたくさん見せてもらい、話もいっぱいしてもらったが、当時の私の英語力では、ほとんど理解できなかった。
SWSにコーチとして日本に招かれた時の話もしてくれた。ここへ来るきっかけにもなった、その時の雑誌記事のコピーも日本から持ってきていた。また、その日本遠征は、地元ウィガンの新聞でも取り上げられていた。 夕食までご馳走になった。一般的に評判の悪いイギリス料理だが、まだ滞在3日目。ボリュームがあって、美味しかった。 しばらく休憩して、「行くぞ」とジムに連れて行かれた。

ロイ・ウッド宅から、車で5分ほど、アスプル・オリンピック・レスリング・クラブに戻ってきた。いきなり練習に参加させてもらえることになった。残念ながら、ビリーライレージム全盛期のような、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングは、もうやっていない。
雑誌で読んだように、子供を中心にフリースタイルをやっているだけだ。しかし、その戦い方、技術は一般のフリースタイルレスリングとは異なる。サブミッション(関節技)こそやってないが、ウィガン伝統のレスリングである。子供のクラスが終わり、大学生など数人の大人クラスに参加させてもらった。 動きっぱなしの練習ですごく疲れた。 初めてロイ・ウッド先生のもとで練習をした、記念すべき日だった。

練習後、先生は、私が泊まっていたB&Bまで送ってくれ、そのまま1階のパブで話をした。
そして、先生は私に「いつまでここに泊まる予定なんだ?明日ここをキャンセルして、日本に帰るまでの間、うちに泊まらないか?」と提案してくれた。 遠い国から突然やって来た、言葉もあまり通じない、今日初めて会ったばかりの私にである。





    ◇忘れられない言葉


とにかく、数日前にイギリスに着いて以来、本当に夢のような、全てうまく行き過ぎる展開に、ただただ驚くばかりだった。翌日言われたとおり、B&Bをキャンセルした。また先生の仕事場へ。しかし、この日は、オフィスにポツリと一人残されるのではない。

言われるがまま、車に乗った。どうやら、先生の外回りのお供のようだ。パブを数カ所回った。パブに置いてあるゲーム機の集金などだ。もちろん、仕事の手伝いができるわけでもなく、ただ一緒にいるだけである。傍目から見ると、妙な感じだったと思う。でも、行く先々で先生は、パブの従業員らに、私を紹介してくれて、少し会話を楽しめた。 昼食は、ジムの練習生のお父さんが経営するレストランへ行った。

食事の席で、私は「本気でランカシャーレスリングを習いたいです。いったん日本に帰りますが、絶対戻ってきます。」と言った。これまでの予想外の好展開に、気持ちも高ぶり、「本気でやるぞ!」 という気になっていた。
店を出て、車に戻り、ちょうど乗り込もうとするところで、先生は、立ち止まった。「強い心を持て。何があっても諦めない強い心だ!」と力強く言ってくれた。心に響いた忘れられない言葉だった。ちなみに、私が何故、こんな20年も前のことをハッキリと覚えているかというと...
イギリスでの生活は、この時の2週間の滞在も含め、ほとんど日記をつけていたからだ。 もう忘れかけていることもあるが、日記を読み返せば思い出せ、そのお陰でこの話を書くことができる。

昼食後、またいろいろパブ回り。しかし、2時頃にやってきたのは、何故か小学校だった。
イギリスの小学校に入った。子供たちが不思議そうに、私を見つめていて、口々に何か聞いてくるが、子供の話す英語はさらにわからない。
先生に「手伝ってくれ」と言われ、体育用具倉庫に行った。マットを体育館に敷くためだ。小学校でレスリング教室をやっているのだ。
この地で、ビリー・ライレーのレスリングの灯をたやさないよう、ロイ・ウッド先生はこうやって、週2回、仕事の合間に無償でこのような活動をしている。この時はマットの出し入れしか役に立てなかった。しかし、後に長期滞在するようになってからは、もちろん毎回、私も一緒に教えるようになる。
先生が技の見本を見せるのに、小学生が相手だと小さすぎるし、思い切って投げたり出来ないので、いつも技を受ける役になった。これが今となっては私の大きな財産だ。ビリーライレージムのレスラーの技を何百回、何千回と受けたことになる。



   ◇取材


夕方にロイ・ウッド家に戻ると、すぐに来客があった。本格的なカメラを持った男性だった。
地元の夕刊紙、「Wigan Evening Post」の記者だった。ロイ・ウッド先生は、ビリー・ライレーの後継者として、 ちょっとした有名人である。しかし、私も一緒に写真におさめられ、少しインタビューも受けた。出来上がった新聞を見ると...驚いたことに、私の話が中心だった。それに加え、私がここに来る1週間ほど前に、先生の教え子たちが、レスリング全英選手権でたくさんのメダルを獲得したことが載っている。
遠い異国の地から、日本人が、ウィガン伝統のランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングを習いに来たと紹介されている。
数日後、ロイ・ウッド夫妻は、エジプト旅行に出かけた。残りの数日間は、ダレンと2人で過ごすことになった。ちなみに先生にはアンドレアという娘さんもいるが、当時は大学生で、ウィガンから離れた町に住んでいたのでこの時は会わなかった。





   ◇聖地に立つ


天気が良く、暖かい休日にダレンが、「ちょっと出かけよう。」と言ってきた。近所を散歩か、買い物かと思いきや、連れて行かれたのは、ロイ・ウッド家から、ほんの1kmほど離れたところ。 大きい通りから、家が建ち並ぶ細い路地を少し入った。そこにあるのは -

伝説のジム 「ビリーライレージム」 があった場所だ。ビル・ロビンソン、カール・ゴッチらトップ・プロレスラーがかつて汗を流した、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングの聖地だ。 そして、ビリー・ライレー最後の弟子、ロイ・ウッド先生の青春、人生、全てがつまった場所だ。
1990年の謎の火災で焼け落ちたジムも、93年当時は、まだライレー家の土地で、基礎部分、煉瓦を残したまま放置されていた。 しかし90年代後半に土地は売却され、現在は家が建っており、この光景はもう見ることはできない。 多くの偉大なレスラー達の魂がこもった、この場所に立つことができたのは、幸いだと思う。あと何年か遅ければ、実現できなかったのだから。



   ◇伝説に触れる


イギリスを去る日の午前、ダレンが「ボブに会わせてやろうか?」 と言ってきた。「ボブ? 誰???」
ボブ・ロビンソン。“伝説の最強レスラー” ビリー・ジョイスの本名である。 日本ではあまり知られていないが、
“プロレスの神様”カール・ゴッチをも子供扱いにし、対戦したことのあるレスラーなら、誰もが“最強”と認めるレスラーである。

ビリーライレージムを離れた後、世界中を旅して、数々の世界の強豪たちと戦ってきたカール・ゴッチ、ビル・ロビンソンも、最強のレスラーは? との問いには、“ビリー・ジョイス”と即答する。 ロイ・ウッド家の近くに、伝説の最強レスラーは住んでいた。この時は70歳を過ぎたくらいだったと思う。
紹介してもらったが、何を話したか覚えていないし、私の英語力ではたいした会話はできなかった。ダレンとビリー・ジョイスさんが普通に世間話をしていただけだった。 伝説に触れることができたことに、ただ感動した。これが、この旅の最終日だった。



たった10日間。 しかし間違いなく、その後の私の人生の方向性を決めた旅だった。  目指す人生、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングの追求、絶対に諦めない強い心を持つこと、やればできるということ - この10日間で得たことである。
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第4章  本格修行の開始



   





    ◇入国審査

夢のような10日間の冒険が終わり、日本に帰ってきた。興奮は冷めず、友達にイギリスで起こったことを話しまくった。 “絶対にまた行く” まずはアルバイトでお金を貯めることに集中した。レスリングをする時間、場所はあまりなかったが、空いている時間に出来る限りのことはやった。日本にいる間も、ロイ・ウッド先生と手紙で連絡を取っていた。
「11月後半から半年間滞在します。」と連絡すると、「泊まる所を用意した。空港まで迎えに行くので、飛行機の時間を知らせてくれ。」という返事をもらった。


1993年11月23日、私のランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングの本格修行が始まる。

前回と同じく、伊丹空港より出発し、シンガポールで乗り換え、マンチェスター空港に到着した。飛行機を降り、通路を歩きながら、これから半年間のイギリスでの生活を想像していると              気分は最高潮に達してきた。
しかし―
そんな気分も、ものの数分後、絶望感に変えられた。入国審査で、入国目的を尋ねられ、「半年間ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングを習うために来ました。」と素直に答えた。帰りの飛行機も決まってない。所持金もたいしてない。その後、何十分間も尋問を受け、入れてもらえなかった。 英語はほとんど話せず、どうすることもできなかった。全く入れてもらえる気配がない。 「もうアカン... 帰らされるんかな?」 と諦めモードになってきた。
どうしようもなくなり、入国審査官に、ロイ・ウッド先生の電話番号を教えた。

先生がうまく説明してくれたらしく、「ウッド氏が迎えにくるから、とりあえずここで待っていろ」と、横へはじかれた。
ウィガンからマンチェスター空港まで、車で1時間ほどだ。仕事を抜けて来てくれた。「ウッド氏が到着した。到着口で待っているので、行ってよし。」 やっとスタンプを押してもらえて入国できた。スーツケースを取り上げに行ける。
もちろん、2時間以上前に到着した便の荷物など、当然もうベルトコンベア上にはない。私の荷物は、一人の検査官の前にあった。次の対戦相手は、税関検査官のようだ。スーツケースを開けられ、中身全てをチェックされた。いちいち全部説明させられた。到着口を出ると、ロイ・ウッド先生がいた。「ハハハハ、大変だったな」と笑いとばすような感じで、明るく出迎えてくれた。そのまま手配してくれていた、半年間お世話になるパブへ連れて行ってもらった。

   




    ◇到着初日の洗礼


1階はパブで、2階に数部屋ある。オーナー、従業員に挨拶して、部屋に入った。長旅、入国審査で疲れ切っていたので、まだ夕方だったが、ベッドに入った。すぐに爆睡した。

ドンドンドンドン!と、ドアが叩かれる大きな音で目覚めた。何事?
「練習だ、行くぞ!」という先生の声だった。日本から、丸一日以上かけての長旅に加え、入国審査での一悶着。数時間前に着いて、時差ボケ、睡眠不足。この日はゆっくり休んでリズムを作ろうと思っていたのだが...
そんなことお構いなしである。
この時はまだロイ・ウッドという人をわかっていなかった。普段はすごく朗らかで、優しく、気さくな英国紳士であるが、レスリングに関しては、昔ながらの厳しい人である。練習に関しては一切の妥協は許されない。

病気や怪我でない限り 「疲れているから...」などという言い訳はなしである。
現に、「やれ!」と言われれば、できるものである。人間なかなか自分一人では限界まで頑張れないものだ。
一緒に頑張ってくれる人、励ましてしてくれる人、頑張ったことを喜んでくれる人がいるからやれる。

やはりこうふうに追い込んでくれるコーチの存在は非常に大事である。 
と、今となっては思えるが、当時は「あぁ今日もまたあんなしんどい思いするんやなぁ。」と練習前に毎日思っていた。
でも、終わった後の「今日もできた、乗り越えられた!」という充実感もあった。そして、「これが自分の選んだ道、これを続けていかないと、自分の行きたいところには辿り着けない。」と思っていた。




   

   ◇フランス遠征


イギリスでの生活が始まってしばらくして、フランスでフリースタイルの大会があった。子供達も参加するので、一緒に来ないかと誘われた。私は恐怖の入国審査を思い出し、断った。しかし、周りの人たちはみんな、「俺たちと一緒に行くから大丈夫、 No problem.」と言っていた。後にわかっていくが、イギリス人の No problem は Big problem なこともある。ドーバー海峡からフェリーで行った。フランスのチームと合流し、フランス人の家庭でお世話になった。お互い、英語があまり話せないので、大変だった。シティーハンター、キャンディキャンディなど、フランス語版の日本のアニメをテレビで見たのを覚えている。

何故か、私もいきなり成人の部で試合することになった。とにかく、最初のころは、文化、習慣、言葉、まわりの人たちの性格もよくわからず、わけがわからないうちに、いろんな事が起こった。当然、レスリングシューズなど試合の用意は持ってきてないので、仲間から借りて2試合した。どちらもあっさり負けた。 何しに来たのか? 何で試合することになった? まだ試合するのか? 明日もあるのか?
次に何が起こるのか?  完全に???な状態の私ではあったが、 試合後に、ロイ・ウッド先生が、熱く語りかけてきた。
「まず、お前は体を完全にフィットさせなければいけない。レスリングに最適な体だ。フリースタイルでも負けてはいけない、サブミッション(関節技)はその後だ。ビリー・ライレーのレスリングは、どんなルールで戦っても負けないんだ!」
私のヤル気もまたさらに増したが、とりあえず、恐怖の帰りの入国審査で頭がいっぱいだった。

フェリーを下りて、車で入国審査ゲートに近づく。どうやら車のまま通過するようだ。
「ほんまに大丈夫かなぁ...」 No problem と周りは言うが、やはり心配だ。仲間の家族の車に同乗していた。みんなイギリスのパスポートを提出しての帰国だ。もちろん全く問題ない。ところが、私は違う。当然質問攻めにあう。「とりあえずちょっと降りろ」とのこと。「ほらー、だから言うたやん! No problem ちゃうやん!」結局、その家族が話をつけてくれた。あとで、パブでみんな笑い話にしていたが、本当にこういうことは気疲れする。もう彼らの No problem は簡単には信用しないと決心した。






     ◇ノート





この1993年11月から始まる、ウィガンでの本格修行を前に、これから習う技術を全て書き留めるためにルーズリーフとバインダーを用意した。

これは、藤原喜明さんの「ゴッチ教室ノート」を真似てのものだ。 たしか昭和60年前後だと思うが、プロレス雑誌で紹介されていた。 藤原組長が、カール・ゴッチのもとで修行していたときに、学んだ技術を大学ノートにイラストにして描いていたという。

私は、その記事を思い出して、同じことをしようと決めた。 しかし、絵を描くとなると失敗も多くなるだろうと思い、大学ノートではなく、ルーズリーフにした。それと、いっぱい習って、いっぱい描いて、めちゃくちゃ分厚いものにしてやろうという思いもあった。


技の絵を描くのは、やはり難しかった。次第に慣れてきたが、それでも複雑な技になると、描いているうちに、自分でもわけがわからなくなる。 
そこで - 数年後に登場し、大活躍してくれるのが、 2体のアクションフィギュアだ。手首、足首まで細かく動く人形に技をさせて、それを見ながら絵を描いた。これにより、絵の精度は格段に上がり、描くのにかかる時間は大幅に短縮された。たった二千円程度の人形を購入しただけだが、私にとっては革命的な出来事だった。 人に見られていれば、妙なことかもしれないが、20代の男が毎晩、一人で人形で遊んで、絵を描いていた。

私のランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリング技術ノートには、ロイ・ウッド先生と、 後に学ぶことになるビル・ロビンソン先生から教わったことが約200ページにわたり、たっぷりと描かれている。

他人が見ても意味がわからないし、何の意味もないものかもしれないが、私にとっては、間違いなく世界で一番の技術書である。

先生達から離れていても、このノートに書かれていることを、マスターすることを目標にやってきた。 壁にぶつかった時も、いつも、このノートが解決のヒントを与えてくれる。 私はこれからも、このノートに書かれていることを追求していくだけだ。
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第5章  実態を知る



   





      ◇ロイ・ウッドの指導


私は当時、プロレスラーの“ゴツイ体”をイメージして、ウェートトレーニングも高重量でガンガンやっていた。
しかし、先生に言われた通り、このフランス遠征後から、肉体改造に打ち込んだ。
ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングに適した体とは? 減量というより、自分の体を自由自在に長時間動かし続けるのに最高の体を作るということだと理解した。 激しい練習で、80kgあった体重も、すぐに70kgを切った。練習時間自体はそれほど長くはなかったが、とにかく最初から最後まで息をあげっぱなしの練習だった。

子供の練習生は大勢いて、技の練習をたくさんして、最後にスパーリングを勝ち抜き方式でするというものだった。
それが終わると、大人の練習が始まる。レギュラーメンバーは、常に2~5人くらいだった。ただ、たまに来る人も入れると、大人もかなりいた。月謝制ではなく、来る度にお金を払うシステムだったためだと思われる。

大人の部は、休むことなく動き続けるサーキットトレーニングで始まり、そのあとスパーリングだった。
スパーリングは、必ず一組ずつ行われる。ジムは広いが、複数組同時にすることはない。 つまり、常に先生の目が光っている。 そして、練習生がミスをすると、そこで先生がスパーリングを中断させ、間違いを指摘し、正しいやり方を、先生が「よし」というまで反復練習させられる。その後スパーリングが再開される。
ビリー・ライレーもこのように指導していたという。


スパーリングは、何分やるのか、いつ終わるのかもわからない。10分、20分も休みなしで、先生が「止め」というまで
延々と続く。「あと1分」と言っておきながら、訪問者が来て、話始めて、5分以上ほったらかしで、マットに目を戻し、再び「あと1分!」と言われるようなこともしょっちゅうだった。

ヘトヘトになってきて、「今から先にテークダウン取ったほうの勝ちで終わり!」 と言っておきながら、それで終わるかどうかはわからない。

「よし今日はこれまで!」と言って練習が終わり、着替えてカバンを肩にかけ、帰ろうとする。

しかし何かを思い出し、「あっ、ちょっと待て」と引き留め、「この技はこうだ!」と熱血指導が再び始まる。そしてまた何度も何度もその技の練習を、ジーンズ姿でさせられる。先生の「あと○分」、「今日はこれで終わり。」ほど信用できないものはなかった。とにかく、先生のさじ加減一つで、本当に終わるまでわからない。

自分で残り時間を計算してペース配分できず、その場その場で、柔軟に上手く対応しなければならない。しかしこういったこともまさに、“キャッチ・アズキャッチ・キャン”スタイルである。

このようなことを書いていると、ロイ・ウッド先生は昔気質の、恐い先生と思われるかもしれないが、そうではない。
むしろ優しい先生だ。 声を荒げ怒鳴りつけたり、高圧的な態度で、強制的にやらせるようなことは決してしない。いかなる時も冷静沈着で、優しく丁寧に指導してくれる。 技の練習を何度もさせられる時の、“Do it again.”(もう一度やれ。)という言葉も、威嚇的なものではなく、さらっとしたものだ。

「すみません、もう出来ません。」と言ったとしても、「何を言ってるんだ!」と怒られることはないだろう。でも、なぜか先生の優しい口調の中から感じる、真剣さ、厳しさ、強さ、熱心さがいつも私のモチベーションを高めてくれていた。








     ◇キャッチの実態




実際にロイ・ウッド先生から学ぶレスリングとは?
多くの昭和プロレスファンがそうであるように、私のランカシャーレスリングのイメージも、

カールゴッチ → アントニオ猪木、藤原嘉明、佐山サトル、前田日明 → UWF! というものであった。

ところが、しばらく学んでいくと、「少し違うかなぁ...」 が正直な感想だった。
もちろん、私はUWFの技術を習ったわけではないので、あくまでも一ファンとしてUWFを見ていたイメージではあるが。

サブミッション(関節技)自体は、やはりUWFでよく見られたものがたくさんあったが、 それ以外の部分に関しては、UWFとはずいぶん違うのでは? と感じていた。

「絶えずサブミッション(関節技)の取り合いをする」というのではないと感じた。また、UWFで見られた、いわゆる“亀”の体勢もない。ロイ・ウッド先生いわく、「その体勢になれば、ビリーライレーに、この腰抜けが!と怒鳴られ、後方からお尻を蹴り上げられた。」
あと、昔からチョークスリーパー(首を絞める技)はやっていなかった。(ビリー・ライレー以前の時代にはやっていたらしい)
キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの関節技は、カール・ゴッチによって、ウィガンから日本に伝えられたものが多いはずなのに、技の名前は日本で呼ばれているものと違うものが多かった。例えば、写真のチキンウィング・フェースロックもウィガンでは別名だ。 詳しいことはわからないが、日本での呼び名は、当時のマスコミによって名づけられたものなのかもしれない。

フリースタイル(オリンピックスタイル)は、サブミッションを習う上での基本という考え方のようで、ここに重点が置かれていた。 かといって、ロイウッド先生の教えるフリースタイルは一般的なフリースタイルともかなり違う。

バックを取られて、体を伸ばしフラットになって、ディフェンスするというフリースタイルでは常識のことも、当然教えられなかった。
フリースタイルの試合に出ても、ロイ・ウッド先生から、その体勢を取るよう指示されたことはない。

フラットになるのも、亀になるのも、ダメなのである。その体勢になったら、「動け!立て!」という声がとんでくる。
相手にバックを取られても、防戦一方になるのではなくそこから無数のエスケープ法、カウンター技が、この、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングにはある。
常に積極的な姿勢で、相手の動きを読み、技を繰り出していく、華麗な技の攻防 - このスタイルの魅力の一つだと思う。







     ◇ランカシャー選手権



よほどニュースがないのか、またウィガン・イブニングポスト紙に載せてもらうことになった。今回は1ページも。練習風景、パブでの生活など、ポーズも取らされ、写真もいっぱい撮ってもらった。内容は、「日本から、松並修という若者が、ランカシャー伝統のレスリング、“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”を学びにロイウッドのところへやって来て、厳しい特訓を受けている。・・・・近々、ランカシャー選手権に参加する。・・・・・パブに住んでいて、オーナーのグロリアさんは家族のように接している。」1994年1月20日発行の夕刊紙の記事だった。

当然ウィガン中に、この新聞が出回ったものだから、その後は近所のお店などでも「新聞見たよ!」とたくさんの人に声をかけられるようになった。


新聞に書かれたように試合に参加した。
フリースタイルの大会だが、 「ビリー・ライレーに学んだことを変えることなくそのまま伝えていく。そうすればどんなルールで戦っても負けない」というロイ・ウッド先生の信念のもとに教わった、ビリー・ライレーのレスリングを自分がどれだけ理解し、身に付けたのか?を試すのにいい機会だった。

下になっても、通常のフリースタイルのようにフラットになってディフェシブにならないということも実践できた。長い一日で、集中力は切れてしまったが、結局5試合戦って、銅メダルを獲得できた。

「教わったことがだいぶ出せたと思う。これからも言われた通りに一生懸命やっていくだけ。」と当時の日記にも書いてある。自分のために一生懸命に教えてくれる人を信じ、素直に教えられたことをやっていく。  当たり前のことだが、本当に大事なことだと思う。







       ◇サブミッション


当時、ロイ・ウッド先生の下でサブミッション(関節技)を含んだ練習をやっている者はいなかった。
しかし私は生意気にも、’93年11月にジムに入ってすぐに 「サブミッションも教えてください。」とお願いしたが、「そんなもの、すぐには教えられない。 ビリーライレーもなかなか教えてくれなかった。」と一蹴された。
このことは、ビル・ロビンソン先生の自伝でも語られている。 「ビリーライレージムで、サブミッションを習ったのは、入門してから3年近くたってからで、それまではとにかく基本、基本の毎日だった。」とある。

試合2日後の1月25日、練習を再開した。試合直後なので、参加者は私ともう一人だけ。 2人で長々とスパーリングもして、ひと通り練習が終わった。 しかし、先生が「今日はこれまで!」と言っても、本当に帰るまで終わりかどうかわからない。
「あっ、ちょっと待て。」   「あ、また始った…」

私の試合のミスなどを思い出したのだろう。
「この前の試合、あの場面でお前はこうした。フリースタイルではあれでも良いが、本当はこうだ。 これが俺たちがライレージムでやっていたやり方だ。」と言ってサブミッションを見せてくれ、その練習をさせられた。銅メダルのご褒美か、初めて本格的にサブミッションを教わった日だった。

この日から、少しずつではあるが、サブミッションも教わるようになった。
本当のランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングを。

そして、フリースタイルの試合では、反則で使えない技も、ジム内での練習では、相手がフリースタイルの選手でも、どんどん使っていけと指示された。 2ヶ月目にして教わった。先生の若い頃は、もっと厳しく、こんなに簡単に誰も教えてくれなかった。

時代は変わり、今は誰でもすぐに何でも教えてもらえる。また、DVD、インターネットなど、いつでもどこでもすぐに映像で技を確認できる。
テレビもビデオもなかった、ビリー・ライレーの時代、技は本当にシークレットだったのだ。先生から直接指導してもらうまで学ぶことはできなかった。どちらがいいのかはわからないが、 私は昔のやり方のほうが好きだ。


しかし、今でも本当の技術は、DVDやインターネットで身に付けることは出来ないと思う。見た目の技の形は、簡単に真似できても、長年経験を積み重ね、本物の技術を持った人からしか学べないことがたくさんある。







      ◇生き証人たち



アーニー・ライレー。
昭和プロレスファンにも知られていない名前だが、
ビリー・ライレーの息子さんであり、自身もビリーライレージムの全盛期を支えた名レスラーの一人だ。
1995年の夏頃、一時期、アー二―さんは、頻繁にジムに顔を出し、直接指導をしてくれていた。

ロイ・ウッド先生が子供のクラスを教えている間に、隣の部屋で、 高齢ではあったが、自ら技を見せてくれた。 UWFでもお馴染みだった、クルック・ヘッドシザースは、私はアーニー・ライレーさんから習った技だ。

ロイ・ウッド先生と、ライレー宅に訪問したこともある。 ビリーライレージムの話もたくさんしてもらった。 父親のビリー・ライレーが巻いていたベルトなど、数々の貴重な品々、写真を見せて頂いた。

ロイ・ウッド先生もたくさんの昔のライレージムの写真を所有していたが、この時、アーニーさんは、 「ロイ、最近こんな写真が出てきたよ!」と言って、おそらくライレー家にしか残っていなかった、ロイ・ウッド先生も見たことのない数枚の貴重な写真を見せていただいた。 そして、ロイ・ウッド先生はそれらの写真を預かり、コピーさせてもらうことになった。ついでに私の分もコピーしてもらった。
私は日本に帰ってから、何人かにこれらの超貴重な写真のコピーのコピーを差し上げた。 これが、回りに回って、いろいろな所で使われた。
面白いことに、一番貴重だった写真が、一番出回っていく結果になった。

ちなみにアーニー・ライレーさんの孫、つまりビリー・ライレーの曾孫も、“ビリー”と名づけられていて、この頃にロイ・ウッド先生のもとでレスリングを始めたが、 残念ながら、大人になる前にやめている。


その他にも、同じくビリーライレージム出身の“伝説の最強レスラー”ビリー・ジョイスさん、ブライアン・バークさん、
ジャキー・チアースさん、ライレージムの取材をしていた記者など、私は幸いにもギリギリでライレージムの生き証人たちと出会い、話を聞くことができた。1990年代半ばまでは、まだご存命な方も多かった。


パブでロイ・ウッド先生と他のライレージムOBの人たちがする、ビリー・ライレーの話、ビリー・ジョイスの強さなどの昔話を聞けるというのは、 今考えてみても、なんとも贅沢な時間である。 ただ、ひとつ悔やまれるのは、私の当時の英語力である。もっとみんなの話を理解できれば...、もっといろいろ質問できれば... と思っていたが、その気持ちが私の英語学習のモチベーションでもあった。

偉大な大先輩たちのことで一番印象に残っているのは、みんながみんな、何歳になろうが、ビリー・ライレーがもうこの世にいなかろうが、いつまでも ビリー・ライレーのことを心から尊敬し、指導を受けたことに感謝し、誇りに思い、ビリー・ライレーが最高の先生だと信じ続け、その教えを守り続けているということだ。 私が、ビリーライレージムの生き証人たちから学んだ“心”である。








      ◇全英選手権





’95年4月8日、フリースタイルレスリング全英選手権に参加した。68kgで出場した。私は、試合前の減量は好きではなかったので、常日頃からこれぐらいの体重を維持していた。そのほうが体調が良く、精神的にもいい状態で試合に挑めた。

この試合、ロイ・ウッド先生は、どうしても外せない用事で来ることができなかった。私以外に、ジムからの参加者もいなかった。友達一人がついてきてくれただけだった。これまでにも、何度かフリースタイルの試合に参加してきたが、こんな状況は初めてだった。しかし、逆に緊張もせず、無駄な力も入らず、よく動けた記憶がある。


1回戦、負けてしまった。しかし、敗者復活というシステムがあった。これをどんどん勝ち進み、結局5位に入賞できた。
この当時、自分が本当に全英選手権5位の実力があったかどうかは疑問が残る。かなり運もよかったと思う。ただ、本番での集中力、本番の強さはあったと思う。 翌日、パブで先生に結果報告。私にしては、予想以上の成績だったので、先生も驚くのでは?
と思っていたが、とくにそんな様子も無く、淡々と「よくやった。」と言ってくれ、また延々と「まだまだ頑張らなくては。」と思わせるような熱い話を聞かされた。 試合にはあまり興味がなく、自分から「出たい!」と思うこともなかった。ただ、先生から「出ろ。」と言われた時に、「はい。」と言うだけだった。このころから、私はキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを武道的に捉えていた。「ビリー・ジョイスのような達人になりたい、そして最終的にはビリー・ライレーになりたい。」といつも思っていた。







     ◇ウィガンでの生活





私はパブの2階に住んでいた。朝に掃除のお手伝いなどをして、家賃を安くしてもらっていた。その他にも、節約のため、ジムで寝袋で寝たり、少し離れた牧場で、キャンピングカーの中で生活していたこともあった。
しかし、何度もウィガンに来て、長く滞在すればするほど、友達も増え、力を貸してくれる人もたくさん現れ、経済的にも本当に助けられた。しまいには、一軒家を数ヶ月間無償で借りていたこともあった。

就労ビザはなかったので、仕事はしていなかった。昼間は、週2、3日、パートタイムスチューデントとして、大学の英語の授業を受けていた。様々な国から、様々な年代の人がいた。


ロイ・ウッド先生の外回りの仕事のお供をすることもよくあった。 早朝から遠くの町へ出かける時は、なぜかいつも誘われた。私はとくに何もすることはなく、助手席に座って、先生の話を聞いているだけである。 しかし、この時いつも、前日の練習の悪かったところを指摘され、アドバイスをたくさんしてもらっていた。先生と一緒にいる時は、常に練習なのだ。

また、昼間は、初めてジムに来たときに、ロイ・ウッド先生に連絡を取ってくれた、目の不自由なバリー・ジャクソンさんと過ごすことも多かった。
バリーさんは、ジムの前にある畑を借りていたので、畑仕事のお手伝いをしたり、一緒にグリーンハウスを作ったこともあった。

あとは、ジムで一人で筋トレ、掃除をしていた。日本の「道場」と違い、ジムを使っているみんなで、常にきれいにしておこうという概念がない。
ジムの掃除は、自分の仕事だと思っていたし、なにより自分がきれいな清潔なマットで毎日練習したかった。上履き・下履きの区別のないイギリスなので、 日本では上履きになる、レスリングマットが汚いのは、正直言って、かなりイヤだった。

週2日、午後2時頃にジムの近くの小学校に先生と指導に行っていた。 倉庫から、マットを運び、体育館に敷いて、1時間弱の練習だ。
子供を教えるのは本当に大変だ。なかなか言うことを聞いてくれない。しかし、自分が練習しているときとは違い、先生の指導の仕方を見て学ぶことに集中できた時間だった。 先生が仕事でどうしても行けないときは、私一人で指導することもあった。

夜はもちろん練習。子供のクラスの時は、となりのウェイトルームでウォーミングアップしたり、他の人と技の練習をする。
子供のクラスが終わると、大人のクラス。いつも人数は少ないが、その分中身の濃い練習だった。

パブの2階に住んでいたが、私はお酒は飲めない。でも、英語の勉強のためにも下に降りて、みんなと話をしたり、ラグビー、サッカーの試合を大型スクリーンで見たりしていた。イギリスでラグビーは、サッカーに次ぐ人気スポーツで、1990年代当時、ウィガンはリーグトップチームだったということもあり、パブでの試合観戦時の盛り上がり方は凄かった。ウィガンのシャツを着て、ラグビー会場にもよく足を運んだ。

お世話になっていたパブの売りは、オーナーが弾くオルガン生演奏でのカラオケで、私もビートルズなど歌っていた。


ロイウッド先生もこのパブに週2日ほど来る。ホントによく飲むが、酔っぱらうことはない。 いろいろな話をするが、結局は、一方的に熱くレスリングの話を聞かされる。 しかし、この時間が大好きだった。布団に入る前に「このレスリングを極めてやる!」と熱く思わせてくれるこの時間が。

結局、1993年から1997年まで5回ウィガンに行き、毎回4~6ヶ月間滞在した。本当にかけがえのない貴重な体験をたくさんさせてもらった。

定職もつかずに、こんなふうに過ごした21歳~26歳。 もちろん、こんなことしていていいのか?と将来を不安に思い、悩むこともよくあった。自分のやっていることを、人に話すのが恥ずかしく、いやな時期もあった。

でも、最終的には「一度きりの人生、これをやらずにどんどん年を取っていくことのほうが不安ではないか。」 と思うようになった。
読み返せば、’95、’96年頃の日記にやたらと書いてある 「いつの日かビリー・ライレーになりたい。」 という言葉 - 何があっても絶対に辞めないという 本当の“覚悟” ができるまで何度も書き続けた。
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第6章  ウィガン訪問者



   





    ◇SWS



レスリングの関係で、ウィガンを訪問した日本人は、古くは柔術家・谷幸雄までさかのぼる。1900年初頭、ビリー・ライレーがまだ子供の頃の話である。

その後もキャッチ・アズ・キャッチ・キャンは、地元ウィガンでは、半世紀以上ものあいだ繁栄を続ける。

第二次大戦後の1951年(昭和26年)、日本にプロレスがアメリカより輸入され、力道山の活躍で、大人気スポーツとなる。

カール・ゴッチ、ビル・ロビンソンが来日し、日本でも、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリング、ビリーライレージムの名は知れ渡るが、不思議なことに、現地ウィガンと日本のプロレスの直接的な関わりは全くなかった。
1989年(平成元年)の週刊ゴングのビリーライレージムの記事が、日本人が現地に出向いて取材した初めてのものだったのではないだろうか?
同時期に、日本の女子プロレスラーがウィガンを訪問していたらしいが、私は詳しくは知らない。

私が1993年に、ウィガンを訪問する以前、メガネスーパーのプロレス団体・SWSから若松氏が視察、ビリー・ジョイスさん、ロイ・ウッド先生を訪ねている。その数ヵ月後に、ロイ・ウッド先生は来日し、横浜のSWS道場で、若手選手を中心にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを指導している。

当時47歳であったが、技を披露するだけでなく、実際にスパーリングも行っている。地元ウィガンでは子供相手には教えることができなかった、サブミッション(関節技)の指導もしており、ロイ・ウッド先生も日本で、“蛇の穴” 復活の期待もあったようだ。


イギリスのプロレスは廃れていたが、日本では、武藤敬司・橋本真也・蝶野正洋の闘魂三銃士、三沢光晴・ジャンボ鶴田の世代闘争、大仁田厚のデスマッチプロレス、そしてUWFなど、プロレス大ブームが再燃しており、SWSも大きな団体で報酬もかなりのものだったはずだ。
ロイ・ウッド先生も、ウィガンで何人か有望なアマチュアのトップ選手に日本でのプロ転向を勧めていたりしていた。
しかし、残念ながらロイ・ウッド来日は、これ1回に終わっている。

なにはともあれ、このSWSのロイ・ウッド日本招聘が、私のウィガン行きの大きなきっかけとなった。感謝である。
SWSがなければ、ロイ・ウッドが来日していなければ、この記事がなければ、今の私はない。





     ◇日本人記者

私がウィガン滞在中に、週刊プロレスの記者が一度ウィガンを訪ねて来られた。20代前半だった私より、年は少し上の方だったと思う。とにかく日本語で会話ができるのが嬉しかった。インターネットがなかった当時、日本の情報は一切わからず、そういったことを聞けるのが楽しく、印象深い出来事の一つだ。


また、文化・習慣の違いから、関西人である私にとっては、イギリスではツッコミたいこと満載であった。しかし、イギリス人にとっては、当たり前のこと。 溜まっていたツッコミたいネタを一気に聞いてもらえた。

たしか、泊まるところも手配してあげたり、友達から自転車を借りてきてあげて、ライレージムの跡地に案内したりした。ジムではビデオカメラで練習を撮影されていた。あとで、日本の実家にそのビデオテープを送っていただいた。これが、私のウィガンでのスパーリングが映っている、唯一のビデオである。

ロンドンなどの大都市、ケンブリッジ、オックスフォードなどの学問の街とは違い、ウィガンで日本人に出会うことは、ほとんどなかった。観光客も来ない。ウィガンに来る日本人は、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリング目当ての人だけである。やはりここは、レスリングの街、キャッチの聖地なのだ。






    ◇BUSHIDO


BUSHIDO とは、高田延彦をエースとする、UWFインターナショナルの試合が、1995年に定期的にイギリスで放映されていたときの番組名である。 3月にその番組の関係で、UWFインターナショナルから 宮戸優光さん、安生洋二さんがイギリスを訪問された。
この頃、アメリカにいたビル・ロビンソンが、UWFインターの選手をコーチするなどしており、 宮戸さん、安生さんもビリーライレージムの話や、ウィガンの “伝説の最強レスラー”ビリー・ジョイスの凄さを散々聞かされていたようだ。 そこで、ロンドンでの仕事のあと、わざわざウィガンまで訪ねてこられた。 また、この数ヶ月前にも、UWFインターのブッカーだった笹崎伸司さんもジムに視察に来られていた。

ビリー・ジョイス宅、ロイ・ウッド宅訪問、ジムで練習を見学され、夜はパブでご一緒させてもらった。翌日には、ウィガンを離れられた。
私もビリー・ジョイス宅に同行させていただいたが、宮戸さんが、ビリー・ジョイスさんと握手をする際、「ビリー・ジョイスの手が一瞬消えた!」と驚かれていた。これは、達人のマジックだろうか。
ビリー・ジョイスを知る人たちから、いかに信じられないような高度な技術を持った選手だったかを聞いていれば、「手が一瞬消えた」 と錯覚を起こさせるくらいのことをしていたとしても、何ら不思議ではない。


その後、UWFインターナショナルは崩壊し、1997年、PRIDEのリングでの、高田延彦 対 ヒクソン・グレイシー の世紀の一戦へと続く。
宮戸さんは、表舞台から身を引かれ、1999年に東京でキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのジムを設立することになる。





    ◇無我

同じく1995年の夏には、新日本プロレスの藤波辰爾さんもウィガンを訪問された。私はこの時は、ウィガンにはおらず、日本にいた。
日本から取材や、プロレス関係者が来るとなると、ジムはその日だけ、何十人ものたくさんの練習生でにぎわう。以前にも書いたように、ジムは月謝制ではなく、練習に来る度にワンコイン置いていけばいいというシステムだったので。
でも実は、ちゃんと定期的に通ってた大人の練習生はそんなに多くはなかった。あと、ロイ・ウッド先生の生徒ではなく、普段は別のジムで練習しており、そんな日だけロイ・ウッド先生の所に来るというのがほとんどだった。

藤波さんは、所属していた新日本プロレスとは別に、同年10月に「無我」というクラシックスタイルのプロレス興行を始め、ウィガンからロイ・ウッド先生と数名の選手招いて、大会を開催された。

「無我」は大阪を拠点としており、私も練習に参加、試合にも同行させていただいた。また、試合前のリング上で、地元の子供たちに、ランカシャー・レスリングを体験してもらうという企画もあり、少しお手伝いも許可していただいた。藤波さんは、噂どおりの「紳士」であった。私のようなオマケにも、丁寧に優しく接してくださった。

その後1年ほどの間に、何度かロイ・ウッド先生も来日し、私も日本にいる時は合流させていただいた。少しでも先生から学べるチャンスを逃したくはなかった。 そういえば、難波駅のトイレでも熱血指導が始まったのを覚えている。「あ、そうだ。昨日の練習、お前のやったのはちがう!」  手を洗う前だった。 ホントに所構わず始まるのである。

この「無我」の関係で、ウィガンに日本人の選手が行き、ロイ・ウッド先生の元で練習することもあった
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第7章  伝説の最強レスラー



   





    ◇ビリー・ジョイス伝説



この人のことを知る者は誰もが、口を揃えて 「間違いなく最強」 と言う。ウィガンで生活していて、ビリーライレージムOBの方々などから、いろいろ昔話を聞く機会も多かった。
“プロレスの神様”カール・ゴッチ、“人間風車”ビル・ロビンソンでさえ、ダントツで最強レスラーと断言する“ビリージョイス” ― 神業的な技術だったに違いない。私は、実際にビリー・ジョイスさんの試合やスパーリングを見たことがないので、あくまでも想像だが、数々の証人から聞いた話をまとめると、こういうことだ。

まず凄く脱力している。手首をとられても、握られている感じがしないくらい力が入っていない。そして自分が攻撃を仕掛けても全てが裏目にでる。
ビリー・ジョイスの頭を捕らえたと思えば、次の瞬間には、その頭を捕らえた自分の腕が取られている。 足を掴めば、それは自分が足を取ったのではなく、次の瞬間には足で腕を取られていることになる。
倒されて、立ち上がれば、「立てた」と思った瞬間にまた倒される。
力ずくでねじ伏せられるのではなく、何が何だかわからないがいつの間にかやられている。
まさに達人だったのだと思う。

ロイ・ウッド先生も 「何をやっても勝てないと思った。」 といつも言っていた。しかし、二人の年齢差は、二回り近くある。ロイ・ウッド先生が、25歳の時でも、ビリー・ジョイスさんは、40代後半だったはず。やはり体力勝負ではなく、通常では考えられない想像を絶する技術を持っていたに違いない。

また、ビリー・ジョイスは、初めから何でもすぐにこなせた、いわゆる天才レスラーではなかったらしい。
むしろ、若い頃は、ビリー・ライレーにいつも怒られてばかりいたそうだ。それが、ある時 “何か” を掴んだかのように、急激に強くなり始めたということだ。

ビリー・ジョイスの達人ならではの秘話は数多くある。いろいろな所で語られているが、日本では“プロレスの神様”と呼ばれたカール・ゴッチを子供扱いにしていたのは有名な話だ。もちろん、現地ウィガンでもカール・ゴッチは優れたレスラーとして記憶されている。しかし、ビリー・ジョイスがあまりにもズバ抜けて凄すぎるのだ。


そしてその凄さは、ビリー・ジョイスを知る者にとっては鮮明に、強烈に、脳裏に、体に染み付いているのだろう。 驚かされたのが、ウィガンでロイ・ウッド先生をはじめ、ライレージム出身の方たちから聞いた話は、30年以上、ウィガンを離れていた、後に私が学ぶことになる、ビル・ロビンソン先生の話と完全に一致するのだ。ビリー・ジョイスの技術の細部、さらには特定の試合の展開、詳細まで。

どんな人物だったのか?家庭を大事にする人だったので、遠征などにはほとんど出かけず、地元ウィガンの人以外で、彼を知る者は少ない。日本には、昭和41年に国際プロレスに一度来日を果たしたが、こういった遠征は非常に珍しいことだった。

私が自宅にお邪魔した際、大切に保管されていたその時の思い出の写真や品々を見せてもらった。 家族思いの、優しいお爺さんだった。

しかし、ことレスリングに関しては、やはり頑固一徹な人であった。こんなことがあった。
 - ある日ロイ・ウッド先生が、ビリー・ジョイスさんにジムでの練習生の指導をお願いした。寒いイギリスでの練習、私はたっぷりウォーミングアップをしたいので、いつも30分くらい早めに行く。ジムに着くと、エアロビクスのクラスが行なわれていた。レスリング以外の時間は、他の人や団体に場所を貸すことがあった。 私は、隣の部屋でアップしていると、ビリー・ジョイスさんが現れ、軽く挨拶をした。

しばらくして、ロイ・ウッド先生が来て、「ボブ(ビリー・ジョイス)は来ているか?」と私に尋ねた。「さっき来ましたけど、見当たらないのですか?」と答えて、探しに行こうとした。

ロイ・ウッド先生は、「そうゆうことか。もういい、わかった。もう帰ったよ。」   私「???」

ビリー・ジョイスさんは、エアロビクスを見て帰ったのだ。レスリングを見に来て、いいレスリングが見られないのなら、その場を去る - そういう人だったらしい。 例えレスリングの練習中に来たとしても、ダメな技や動きを見たなら帰ってしまう。指導はできない、しない人なのだ。結局、私がビリー・ジョイスさんをジムで見かけたのは、この時だけだった。

     

    ◇達人の技


ジムに来て、当時のトップレスラー達を休みなしで、一人で次々に相手にしていく。 休憩しながら、代わる代わる立ち向かってくる何人ものレスラーを相手に、何十分もスパーリングを続ける。みんな息があがっているところを、たいして汗もかかずに帰って行く。

スパーリングをしても、体には全く力が入っていなく、 相手の力を利用して技をかける。常に「脱力」だったのだろう。
しかし、ロイ・ウッド先生がポツリとこんなことを言っていたのを覚えている。
「もし、力比べをしたとしても、ビリー・ジョイスが一番強かったんじゃないかなぁ…」  さらに、ビル・ロビンソン先生からも、こんな話を聞いたことがある。 「ビリー・ジョイスに思いっ切り掴まれた時は、タコの吸盤に吸いつかれたかのように、絶対に離れなかった。」

最悪、力勝負しても勝てるという気持ちの余裕があったからこそ、脱力できたのだろうか?  力がなくても、同じことはできるのだろうか?  力が強かったというより力の使い方、出し方か?   どういう感覚だったのだろうか?
試合映像などはどこにも残っていないと思われる。
例え、映像が残っていたとしても、見えないものかもしれない。見た目の技だけではない、感覚的な “何か” があったはずだ。     

ビリー・ジョイスは、あくまでも一人のレスラーでしかない。ビリーライレージムの経営面や、指導面には全く関与していない。 人に教えることはなかったという。 なので、その達人の技を教わった人はいない。 相当なレベルに達しない限り、達人から学ぶことは許されなかったということだろうか。しかし、ビリー・ジョイスさんから学べる機会があった。

それは、ロイ・ウッド先生とビリー・ジョイスさん宅を訪問する時。これが唯一、達人が自らの技を見せてくれる時だった。
ビリー・ジョイスさんが現役のころは、他人に技を教えることなどなかった。先生は、70歳を過ぎていたビリー・ジョイスさんの健康を気遣い、よく訪れていた。
そして同時に、昔は決して聞くことができなかった達人の技の極意を聞き出したかったのだと思う。

「お前はホントにラッキーなやつだなぁ! ボブ(ビリー・ジョイス)に技を見せてもらえるのは、俺とお前くらいのものだよ!」 といつも私に言っていた。 しかし、ロイ・ウッド先生も、ビリー・ジョイスさんと椅子に座って技の話をしているだけでなく、二人で実際に私の体を使って実演しながら話ができるので都合がよかったのではないだろうか。

二人で一つの技について長々と話をしていたのを覚えている。ビリー・ジョイスさんは達人にしか感じられなかった “何か” を話していたのだと思うが、またまた残念ながら当時の私の英語力では、理解できなかった。

ただ、ビリー・ジョイス宅で見せてもらったいくつかの技の “形” だけは、私のランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリング技術ノートに、「From ビリージョイス」 と書かれて残っている。これらの技には共通の特徴がある。それが達人の技の発想なのでは? と私なりに考え続けていることはある。









    ◇達人を目指して


私は、1993年にウィガンに初めて行って以来、ビリー・ジョイスのような 「ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングの達人になりたい!」 と思ってきた。

「ビリー・ジョイスさんは、どんな感覚だったのだろう?この感じは近いかな? いや、これは全然ちがうだろうなぁ...」 などと考えながら練習をしてきた。 ビリー・ジョイスさんは、2000年に亡くなられた。
おそらく今は、ロイ・ウッド先生、ビル・ロビンソン先生の2人にしかわからないことだと思う。

いくら考えてもわからないことだが、これだけはハッキリしている - ひたすら考え続け、ひたすら練習を繰り返す。
私にもビリー・ジョイスのような達人になれる可能性があるとすれば、それが唯一の方法だと思う。

“ビリー・ジョイス” 私には一生かかっても到底辿りつけない領域かも知れないが、それを目標に鍛錬を続けるのみ。 できるかどうかはわからない。しかし、できるかどうかを知るためにも、やり続けるしかない。

いつか、ロイ・ウッド先生、ビル・ロビンソン先生に、私のスパーリングを見てもらい、「そう! ビリージョイスのスパーリングと同じだ!」と言わせたい。それが、自分が達人になれたかどうかを知る方法であり、ビリー・ライレーの技術が完全な形で継承されていることの証明になり、先生たちへの恩返しでもある。
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第8章  ビル・ロビンソン先生



   





    ◇スネークピットジャパン

1999年、週刊ゴングで衝撃のニュースを見た。
元UWFインターの宮戸優光さんが、「UWFスネークピットジャパン」というジムを東京で開き、ビル・ロビンソンをヘッドコーチとして迎えるというのだ。本流のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを日本で学べることになる。
ビル・ロビンソンは、昭和40年代に日本のリングで活躍していた際、コーチもしていた。しかし、プロの若手選手の指導であって、一般の人に教えていたのではない。
UWFスネークピットジャパンは、一般の会員が、あのビル・ロビンソンから直接指導を受けられるということだった。


もっと情報が欲しくて、それに関するニュースに敏感になった。 ある日、ケーブルテレビの格闘技番組で、そのジムの映像が流された。ビル・ロビンソンが指導しているシーンだった。
ビル・ロビンソンが教えているのは、私がウィガンでロイ・ウッド先生から一番最初に教わったことだった。 これは、まさにウィガン独特の首の取り方である。

「やっぱり同じだ!」
今思えば、失礼極まりない話だが、私はビル・ロビンソンがどういったことを教えているのかをよく知らなかった。
雑誌などでもコーチとして取り上げられることは少なかったし、ビリーライレージムを代表するレスラーとはいえ、ウィガンを離れ、30年ほど経っていた。 しかし、世界のどこで戦っていようが、ビリー・ライレーのレスリングを頑なに守り続けているのだ。   東京へ行く - 即決だった。





    ◇宮戸氏との再会



すぐにでも東京へ引越しようと思ったが、とりあえず一度見学に行くことにした。宮戸さんには、この4年前にウィガンでお会いしていた。覚えていてもらっているかどうかわからないが、挨拶もしたかった。


UWFスネークピットジャパンのオープンから1ヶ月後くらいのことだった。

東京へはあまり行ったことがなかったが、ウィガンにロイ・ウッド先生を訪ねて行った時と違い、言葉も通じる、住所もはっきりわかっている。開館時間もわかっている。当然、簡単に辿り着けた。

ジムに入れば、宮戸さんがおられた。

「すみません、見学させていただきたいのですが...」と言うと、


「すみませんが、今日はこれから設立パーティーで、練習はありません。改めて来てもらえませんか。」 と返ってきた。

私は、「京都から来ました。あの... 実は一度ウイガンでお会いした者です!」 と続けた。

宮戸さんは、「あぁ、あの時の!ひょっとしたら、そのうち来るんじゃないかと思っていたよ。」 と、覚えてくださっていた。 そして親切にも 「じゃあ、せっかくだから参加していって。」 と言っていただいた。

パーティー開始まで、まだ時間があり、ジムのロビーで一人ポツリといた。宮戸さんは、他のスタッフらと準備に忙しく、私はとくにすることも、話し相手もいない。

ウィガンで、ロイ・ウッド先生に初めて会ったときと同じような状況だった。
ロイ・ウッド先生の職場で、従業員が仕事をしている中、先生が来るのを一人オフィスでただ待っていた、あの時と。





   ◇ロビンソンテスト



しばらくして、ビル・ロビンソンがジムに入ってきた。しかし打ち合わせなどで、忙しいようだ。突然やってきて、厚かましくもパーティーに参加させてもらえるようになった私が、話かけられる雰囲気ではなかった。
パーティーが始まり、挨拶など一通り終わり、飲食が始まり、場が砕けてきた。ようやくビル・ロビンソンと初対面するチャンスが来た。


まずは自己紹介、「ウィガンに行ってロイ・ウッドに習っていました。」と言うと、
意外にも、「誰だそれは?」と返ってきた。

「え?」 と思ったが、ロビンソン先生は、ロイ・ウッド先生より5歳上である。 しかし、よくよく考えれば、5歳差といっても、当時ロビンソン先生がメキメキ頭角を現し始めていたプロ選手で、かたや高校生くらいの年齢。あまり記憶にないのも当然かもしれない。

それでも、写真を見せるとすぐに思い出し、「あぁ、思い出したぞ。ロイ・ウッドだな。俺がウィガンを去る頃に上達してきたやつだ。ロイ・ウッドともう一人いたなぁ...誰だっけ? そうだ、スティーブ・ライト!そうか、今はロイが教えているのか。」

レスリング関係の写真だけでなく、ウイガンの街の写真なども見せると、懐かしそうに見てくれた。

しかし、意外と会話がはずまない。仕方がない、ビル・ロビンソンほどの人になると、「○○さんの友達です」 「○○さんの親戚です」 などと言って近寄ってくる面倒臭いファンもたくさんいるだろう。 私もその一人だったはず。

するとなぜか、ロビンソン先生は、私にいろいろな質問をしてきた。まるでテストのように。

「ビリー・ジョイスの本名を知ってるか?」 (たびたび登場するが、ビリー・ジョイスは、ウィガンが生んだ最強レスラーで、“プロレスの神様”カール・ゴッチも全く歯が立たなかった。)

これは問題ない、「ボブ・ロビンソンです。」

「そうか、偉大なレスラーなんだよな?」

「最強です!」

「良いコーチだったのか?」

これは身をもって体験済み。 「いえ、偉大な選手ですが、指導はできません。」

私はこのテストに気づき、次はこちらから切り出すことにした。

そばにいた人に協力をお願いし、「いつもこんな感じだったそうです。」と、その人の手首を強く握るのではなく、ゆるゆるに包み込むように手首に触れ、「ビリー・ジョイスはこんなことをしていました。」と、ロイ・ウッド先生たちから聞かされていた、ビリー・ジョイスの技を見せた。

すると、ロビンソン先生の顔つきが変わった。一気に興奮し、 「おい、宮戸! コージ(通訳の流知美氏)!、こっちに来てくれ!」 と2人を呼びつけ、私には 「おい、今俺に見せたことを、この2人の前でもやれ!」 と言った。

ロビンソン先生は、常にビリー・ジョイスの凄さをたくさんの人に語ってきた。しかし、ウィガン以外では、ほとんどの人がその名前すら知らず、ビリー・ジョイスの話をわかる者がいなかったのだ。
宮戸さんと流さんには、「ほら、俺が言ってたことと、この初めて会う若者が、同じことしてるではないか!」 と嬉しそうに言っていた。 

もちろん私も全盛期のビリー・ジョイスを知っているわけではないが、、ビリー・ジョイスの凄さが、自分の知らないところで、私のような若者にも正しく伝えられていることを、ロビンソン先生は本当に喜んでくれたのだと思う。

そこからは、話は弾んだ。
「ウィガンは今、どうなっているんだ?」 「アーニーは? トミー・ムーアは? みんなどうしているんだ?」などウィガン情報を尋ねてきた。
そして、「いつまで東京にいるんだ? 明日、練習に来い。」と誘ってくれた。





   ◇スパーリング披露



日曜の昼だった。とにかく私は、ウィガンでロイ・ウッド先生から習ったことを存分に見せたかった。 自分が、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンを学んできたということを、ロビンソン先生に見てもらいたかった。

一人で何人かと続けてスパーリングした。リングに上げられ、他の練習生、宮戸さんにも見られている。ロビンソン先生は、椅子にどっしりと腰掛け黙ってリング内を見つめている。 還暦とはいえ、さすがに世界を股にかけ活躍してきたスーパースター、貫禄というかオーラというか、じっと見られているだけで何かすごく気が引き締まり、いい緊張感があった。

スパーリング相手は、数十分前に初めて会った人たち。同じくキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを追求していく仲間たちではあるが、私だけがよそ者のようで、他流試合のような感じもあった。

“らしい”技は出せたと思うし、ロイ・ウッド直伝のウイガンのサブミッション(関節技)、グロベットも決めることができたので、自分では、まずまず納得のいくスパーリングだった。
ロビンソン先生の目にはどう映ったかはわからないが、「これからも練習に来るのか?いつ引っ越してくるんだ?」 などと声をかけてもらった。

すぐにジムの近くに引っ越してきた。1999年6月のことだった。





   ◇コーチング



ビル・ロビンソン先生の教えは凄い。すごく細かい。本当にこの人の知識、技術は凄い。技をかけるときの目線、指先の方向、角度、体重のかけ具合、まさにサイエンティフィック・レスリング、フィジカル・チェスである。
技を失敗したときは、何が悪かったのか、なぜ失敗したのか考えさせられる。 その理由が、膝の曲げる角度であったり、足幅であったり、相手を掴む位置が微妙にズレていたり...本当にサイエンスなのだ。

正直、ビル・ロビンソン先生の凄さを形容する言葉が浮かばない。 果たしてこの世に、この人よりレスリングの経験・知識を持った人がいるのだろうか?  「レスリングの生き字引」 などといっても、それでも言い足らず、なんだか逆に先生の凄さがあせてしまう感じがする。


私がUWFスネークピットジャパンに入会したときは、まだオープンから2ヶ月程度ということで、私が一番このスタイルの経験があり、英語も出来たということで、通訳などのお手伝もさせていただいた。 また、ロビンソン先生は、この時すでに足がよくない状態で、自ら披露できない技もたくさんあった。そんなときにも私をよく使ってくれた。

ビル・ロビンソン先生の指導も本当に熱かった。 やはり “Do it again!” というのは口癖で、ロビンソン先生のそれは、ロイ・ウッド先生のものよりゆっくり、低い声で、重たく響いてくる。

そしていつでもどこでも始まる“熱血指導”も、やはりライレー流なようで、私にはすごく心地よかった。
練習時間以外でも、一緒に食事に出かけたり、新聞、食料品などのお使いもよく頼まれた。
ビル・ロビンソン先生のレスリング人生、日本での生活は、「人間風車ビル・ロビンソン自伝」 でたっぷりと語られているので、詳しくはこちらをご購入して読んでいただきたい。


  



   ◇最高の賛辞



ロビンソン先生には本当によく怒られもした。それでも、先生がビリー・ライレーから怒られていたのと比べたら、たいしたことはないだろうと思う。
やはり昔のほうが、もっともっと厳しかったはずだ。 ただロビンソン先生は、よかったときには、誉めることもしっかりとしてくれた。

ひとつロビンソン先生からの誉め言葉で忘れられないものがある。 一時期、とても体の大きな会員さんがいた。190cmを超え、細身ではあるが、身長からして体重もゆうに90kg以上はあっただろう。 手足も長く、パワーもあり、扱いにくかった。 内容に関しては覚えていないが、ある日のその人とのスパーリング後に、「お前が、トミー・ムーアとだぶって見えたよ。今日のお前のスパーリングを見ていて、トミーが大きな連中を負かしているところを思い出したよ。」 とロビンソン先生が言ってくれた。

トミー・ムーアとは、最盛期のビリーライレージムを支えた名レスラーの一人だ。 ビル・ロビンソン先生よりも少し先輩にあたる。
トミー・ムーアは体重こそ私より10kgほど重いが、身長は私と同じ170cmそこそこだった。当時のライレージムはヘビー級の大型選手が多かった。それでもトミー・ムーアは自分より遥かに体格で上回る相手たちにも、一歩も引かず持ち前の強いハートと、優れた技術でほとんどの相手を打ち負かしていた。

こんなある一日の一言をロビンソン先生は覚えていないだろうが、私にとってはロビンソン先生からもらった最高の誉め言葉だった。 ビリーライレージムを知る人物から、ビリーライレージムの名選手と比較されたのだから。
この頃、日記はつけていなかったが、あまりにも嬉しくて、このことだけは私の技術ノートに、書き留めてある。






     ◇学び方を学ぶ



ロビンソン先生との思い出も、ここでは語りつくせないほどある。レスリングの技術だけでなく、生き方、人生もたくさん教わった。
“Learn how to learn.” (学び方を学べ)は、私の座右の銘にもなっている。 「いつも考えなくてはいけない」ということを学んだ。失敗したときだけではない。成功したときも、考える。なぜ成功したのか?失敗したときと比べて、何がよかったのか?

ビル・ロビンソン先生は、ウィガンを離れた後、とくに誰か別のコーチに師事していたということはない。 ロビンソン先生の先生は、自分がどこにいようが、いつまでもビリー・ライレーなのだ。
「ビリー・ライレーがそばにいなくても、常にライレーの教えを思い出していた。わからないことがあっても、もしライレーがそばにいたら、きっとこうアドバイスしてくれただろうなと考えていた。」と私に語ってくれた。
「ビリー・ライレーの教えを守れば、きっとどんなことでも解決できるといつも信じていた。」 こうしてビル・ロビンソン先生は、世界で様々な格闘技の選手、様々な技術を持った選手と戦ってきた。どんな相手がきても、自信を持って対応してきた。

学び方を学べば、何歳になっても、どんな状況になっても成長していけるのだと思う。

ロビンソン先生からは、ビリーライレージムの昔話、ロビンソン先生が世界各地で繰り広げてきた激闘、武勇伝、世界のレスラーたちの実力、今だから話せる裏話、あの事件の真相、などなど本当にたくさんの貴重な話を、明け方まで居酒屋でよく聞かせてもらった。

結局、ロビンソン先生と宮戸さんには1999年6月~2001年10月までお世話になった。個人的な事情と、またお金を貯めてもう一度、長期間イギリスに行きたいという気持ちもあり、一旦京都の実家に帰った。
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第9章  6年ぶりのウィガン



   

   ◇変化

2003年、6年ぶり6度目の渡英をする。初渡英から10年が経っていた。 10年前と違い、インターネットもあり、日本との連絡も簡単。 ロイ・ウッド先生とも連絡を取っていたが、なかなか上手くいかず、結局どこに泊まるのかも決めていなかった。それでも、余裕だった。
ウィガンに友達もたくさんいるし、この時にはTOEIC900点も越えていて、もう言葉の問題もなかった。結局、現地に到着してから、友達に電話して数日泊めてもらった。


実は、ロイ・ウッド先生はこの頃、それどころではなかった。 奥さんのブレンダが難病におかされていて、2年間、家族交代でずっと看病という生活だった。 もうかなり危ない状態だった。話すことも出来ない。お見舞いに行っても、私を見て、一生懸命何か伝えたそうに手を握っただけだった。 とても辛かったが、私にはどうすることもできない。
ただ、レスリングの部分で、少しでも先生の力になれればと思っていた。

ロイ・ウッド先生はジムに顔を出す時間も短くなっていた。 以前は、先生と二人でやっていた小学校での指導も、他の人や、娘のアンドレアと行くことも多くなった。

練習に関しては、以前一緒に練習していた仲間は誰も、もうジムには通っていなかった。

1997年の高田延彦 対 ヒクソン・グレイシー以降、世界的にグレイシー柔術、総合格闘技が爆発的に流行しており、大人の練習生も増えてはいた。 レスリングの選手だけでなく、他の格闘技の選手も見学、練習に来ることもよくあった。とにかくこれまでと全く状況が違っていた。





    ◇別れの時


6月、家族の懸命の介護も虚しく、ブレンダが亡くなった。私は、喪服など持ってきていなかったし、借りる時間もなかったが、ジムの近所の教会で行われた葬儀に参列した。
式のあと、レセプションがあった。たくさんの人が集まった。 10年前に一緒に練習していた連中とも再会し、懐かしく、同窓会のような感じにもなった。

ウッド家は疲れていたとは思うが、覚悟はしていたようだった。 私は何と声をかけていいのかわからなかった。

しばらくして、先生は、ジムに復帰した。本当に辛い日々だったとは思うが、悲しみを癒してくれるのは、やはりレスリングに戻ることだったのかもしれない。

そんなある日、先生は、「これからまたジョギングをしたいので、付き合ってくれ」と私を誘ってきた。 先生は、現役引退後は、スパーリングこそはしていないが、健康のために走ったりして、常に運動はしていた。
しかし、この二年間、奥さんの看病で自分の時間をもてず、トレーニングをほとんどしていなかった。

夕方に近所の疎水沿いを、二人でジョギングという日々がしばらく続いた。
ある日突然、先生は 「あと一ヶ月だ。」と言い出した。
 「?」
そしてこう続けた  「一ヶ月後にお前とスパーリングしてやる!」

まさか... この時先生は60歳だった。 もちろんスパーリングなどもう十年以上もしていない。
奥さんの闘病生活、看病、そしてお別れ。- 何か先生も期するものがあり、けじめをつけたかったのかもしれない。 もちろん嬉しかったが、複雑な気持ちになった。





   ◇前哨戦

60歳の先生からの挑戦状を叩きつけられて以来、ことあるごとにこの会話になった。
例によって、先生の仕事のお供をする車の中でも、
「本当にやるんですか?僕は先生には適いませんが、 何年もスパーリングをしていない、先生の自爆が怖いです。」
「ハハハ、そうだな。でも、32歳のお前が、60歳のオレに負けるわけがないじゃないか。」
そんなやりとりが続いた。今思い返せば、心理戦だったかも知れない。
しかし、私はホントにやるのかも半信半疑だったし、それほど真剣に考えてはいなかった。

ある日の練習で、いつものように、先生は私を捕まえて、これからやる練習をみんなに説明する。
相手をがぶった(正面から相手に覆いかぶさるように首を取った)状態からスパーリングだと言って、先生が私の頭を捕らえ、スタート。

私はみんなに手本を見せるだけだと思ったので、軽い力でやっていたら、 先生が、「本気でやれ!」ときつくきた。 仕方がないので、私もムキになり、先生の技を返しにいった。
その瞬間である - あんな倒され方をされたのは後にも先にも、あの時だけだ。

相手に首を取られた状態で、返し技をするとき、私にはあるクセがある。それは、あまり好ましくないのだが、 私はどうしても自分より大きい相手とスパーリングすることが多いので、パワーの差を埋めるためにそれをしている。また、それは一瞬のことなので、誰も気づかない。
しかし、当然先生は、私のクセなどお見通しだ。
力まかせに転がされたり、反応が遅れたりして 「しまった!」 と思いながら、こかされることはある。

しかし、「あれ?なんで?なにがあったん?」と訳がわからないうちに、こかされ、天井を見上げていた。 鳥肌が立った。
先生は「してやったり」という感じだったと思う。
これまで、何百回と先生の技の受け役をやってきたが、こちらも力を入れて、スパーリングっぽい中で技を受けるのは初めてだった。
先生の“本当の技”、ビリーライレージムの選手の技を受けた気がした。その日、家に帰ってからもこのことは頭から離れなかった。

先生は相当な覚悟で私とスパーリングするつもりなのか? 今日もきっと技のタイミング、感覚を取り戻したかったのだろう。 もう駆け引きは始まっている。 今日みたいなタイミングで技がくれば、60歳の先生に本気で負けるのではないか? いや、それより先生が自分で大怪我したりしないだろうか?  この日から、スパーリングに対して真剣に考えるようになった。





   ◇最初で最後のスパーリング



その日は突然きた。
私は、ウォーミングアップを長くしたいので、いつもかなり早めにジム行く。 この日、先生も早く来て、ジムに入るなり「よしやるぞ!」 と言って、いきなり始まった。

何も考える間もなく、始まった。しかし、32歳で毎日キツイ練習をしている私が、60歳の先生に負けるわけにはいかない。
情けないスパーリングだった。技が掛かったときの強烈さは、十分にわかっているので、あまり冒険もできない。ひたすらやられないことと、生意気にも、怪我をさせないことに徹した、消極的な戦い方で、最悪のものだった。60歳という先生の年齢を考えると、おそらく最初で最後のスパーリングになることはわかっていたはずなのに... 何もしなかった。
しばらくすると、やはり先生は体がきつくなってきたのか 「OK」と言って3分ほどのスパーリングは終わった。

奥さんの死、何かを吹っ切ろうと、老体にムチを打ち、自分の人生であるレスリングにもどろうとする先生の気持ち、10年前何も知らずに先生をこの地に訪ねてきて、ここまできたこと。いろんな思いがこみ上げてきて、自然と涙が溢れてきた。
先生は、私に近づき、「いいか、これは練習なんだ、失敗を恐れず、積極的に技を練習するようにしなければいけない。」と言って、握手して終わった。
先生もいろいろな思いがあったかもしれないが、そんなことは一切見せず、あくまでもコーチとして、私との最初で最後の、このスパーリングを特別なものではなく、他の練習と同じように、ただの毎日の練習の一つとして扱った。
技術がどうのこうではなく、心の持ち方、毎日の練習の取り組み方を学んだ気がした。何も特別なものではない、どの練習も、どのスパーリングも、今日は特別な練習とかではなく、どんな状況、どんな相手でも、自分はぶれることなく、常に同じような気持ちで挑まなくてはならない。
全てが、長い長い修行の中の、大切な一部分である。






   ◇コーチ代行

試合のため、先生が数名の子供の練習生を連れて、1週間ほど南アフリカへ行く。大人の選手は行かないので、練習は通常どおりある。
出発前に、先生は私に、「留守の間、練習を頼むぞ。お前がやっておいてくれ」とジムを任された。 現地の人もたくさんいるが、私が代理のコーチとなり、いつも通り練習をやった。練習生の中でも、私がロイ・ウッド先生の一番古い生徒になっていたし、一番経験、知識もあるようになっていた。代理コーチに指名されても、当然といえば当然な状況ではあった。

その他にも、遠くからジムの見学や練習にやって来る選手たちの相手も私がするようになっていた。今は21世紀、昔のように道場破りという感じではなく、フレンドリーな交流である。とはいえ、スパーリングとなると一歩も引くことはできない。ジムを代表して戦っている感覚だった。

10年前、日本から突然、「ランカシャーレスリングを受け継ぎたいです。」 と、おしかけてきた私が、臨時ではあるが、今、ここでコーチ役をしたり、ジムの門番役をしている。 不思議な感じがした。 人生、本当にどうなるかわからないものだなと思った。





   ◇レスリングマット



話は少し前後するが、先生とのスパーリングの前、こんなことがあった。

ウィガンからほど近いところで格闘技ジムを経営している友人から、私にセミナーの依頼があった。
総合格闘技の流行で、地元ランカシャー伝統のレスリングが見直されるようになり キャッチ・アズ・キャッチ・キャンにも注目が集まり始めていた。 彼は、以前にもランカシャーレスリングの継承者を名乗る者にセミナーをやってもらったが、どうも胡散臭かったらしい。
そこで、どうしてもロイ・ウッド先生に本物を見せてもらいたかったのだ。 しかし、彼は先生がこういった類のセミナーをしないことを知っていた。それなら、せめてそのロイ・ウッドの弟子に...ということで、私に話がきた。

そのことを先生に相談すると、想像はしていたが、いい顔をしなかった。先生は、私が他のジムで練習することや、指導することを嫌っていた。 しかし、最終的にはお前の好きなようにしろと言われた。

その友人にはお世話になっていたので、やりたかった。 そして、もう一つ別の理由があった。 恥ずかしい話だが、ちょうど金銭的に余裕がなく、そろそろ帰国しようと思っていた。しかし買いたいものがあった。 ジムのマットの一部が、ボロボロになっていたので、先生が南アフリカに行っている間に張り替えたかったのだ。

その友人は、予想していた以上にいい報酬を提示してくれて、先生の意に反し、結局セミナーをさえてもらうことにした。言い訳ではないが、これでキャッチ・アズ・キャッチ・キャンに興味を持ち、真剣に習いたいと思ってくれる人が増えれば、それはいいことではないかと思った。

子供の練習生の保護者の一人、モーリスが全て手配してくれて、新しいマットを購入し、休日に2人でマットを張り替えた。先生がアフリカ遠征から帰ってくる前に作業は終わった。
そして、先生が帰国する前に、私はウィガンを去った。 自分の買ったものが、これからずっと使ってもらえると思うと嬉しくなった。次いつここに戻って来るかわからない。でも、このレスリングマットは、ずっとここに残って、先生と練習生のために役立ってくれるに違いない。
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第10章  ライレージム京都



   

   ◇自分の練習場所



最後にイギリスを離れてから、3年が経っていた。私の練習場所は、近所の個人トレーニングジムと、近所の山、そしてスパーリングは、空手道場・京都成蹊館だった。ここの館長には大変お世話になっていた。競技こそ違うが、格闘技に対する姿勢など、非常に共感でき、いつもいい刺激をもらっていた。
このころ総合格闘技で活躍するプロ選手も数名所属していて、いつも内容の濃い練習をさせてもらっていた。
ただ、私は、昼過ぎから夜遅くまでの仕事をしていて、みんなが集まる時間に合わせるのが難しかった。

そのうち、いつでも自由に練習できる自分の道場が欲しくなってきた。 そして、これからもキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを続けていくなら、いつかは純粋にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンだけをする道場が必要だと思うようにもなってきた。 総合格闘技、柔術が主流になってきているが、時代の波に流されずに、ウィガン伝統の技術だけを追求していくために。
道場経営で、利益が生まれるなどとは思ってもいない。むしろお金は出て行く一方で、トントンならラッキーだろう。
それはわかっていたので、迷いはかなりあった。
しかし、いつかはやらなければいけないことだとも思った。これは、自分の修行である。自分の習い事の授業料なのだ。 そう考えれば、気持ちは楽になった。

初めてイギリスに行った時もそうだったではないか。行く前は不安だらけだった。でも、一歩踏み出せば何とかなる。
ぶれない気持ちがあれば、きっとやれる。


ようやく決心し、2006年12月、近所に倉庫を借り、マットを敷いて練習場所を作った。 誰も知る人はいないが、純粋な、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングの道場が、京都市山科区に誕生した。








      ◇命名

 道場設立から4ヶ月後、2007年4月末、ロイ・ウッド先生から突然の連絡があった。 翌週、日本に旅行に行くので京都で会おうというものだった。 3年半ぶりの再会。 まずは、観光に行った。京都観光の定番、清水寺、祇園界隈、二条城などを案内した。この時、初めて自分の道場のことを、先生に打ち明けた。
 「実は...数ヶ月前に、家の近所に倉庫を借りて、ジムを作ったんです。」
すると、 当然のように 「 ぜひ見せてくれ。」 とのことだ。 せっかくなので、成蹊館の連中にも来てもらい、その日の夜に、先生に、私のキャッチ・アズ・キャッチ・キャン道場を見てもらった。

先生は、「ちょうど同じくらいの狭さだ。ビリーライレージムみたいだなぁ。ジムの前の道も舗装されていないし。」
そう、この時代にあってホントに不便で何の設備もない、ただの倉庫にマットを敷いた練習場所であるが、「ビリーライレージムみたい」という言葉は、私にとっては嬉しい限りである。


先生は、特別に急遽指導をしてくれた。予想はしていたが、どんどん熱が入っていき、またまた熱血指導が始まった。
成蹊館の選手にも体験してもらえて、よかったと思う。 この時、先生は64歳。しかし、立ったところからブリッジしたり、選手を持ち上げたり、投げたり、自ら技を披露して、みんなを驚かせていた。

練習後、先生が宿泊していたホテルへ戻り、バーで少し話した。 私は、これは絶好の機会だ!と思い、先生に、「私のジムに名前をつけてください。」と頼んだ。
4ヶ月間、しっくりいく名前も思いつかなかったので、とくに名前も決めずにいた。仲間内でも、みんな 「松並さんとこ」で通じていたので、放置していた。

「う~ん、そうだなぁ...」 と、先生はしばらく考えた後、「“ライレージム京都” はどうだ?」 と言った。
まさか!...最高の名前ではあるが、畏れ多くも、自分からそんな名前は名乗れない。私は2回も「ホントにいいんですか?ホントですか?」と聞き返してしまった。
先生は「もちろんだ!」と言ってくれたので、私は決意を固め、「ありがとうございます!そうさせて頂きます。」 と有難く頂戴することにした。

この話の第1章でも詳しく述べている、伝説の “ビリーライレージム”。その名前を受け継ぐことになってしまった。 ビリー・ライレーの後継者から直接、命名してもらった。

家に帰ってからも眠れなかった。「ライレージムが復活してほしいと思っています。ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングを受け継ぎたいです。」 とロイ・ウッド先生の所へ突然押しかけて行ってから、早や16年。 この言葉が現実になってきたような気がした。

不思議なことに全ていいタイミングで物事が起こっていった。倉庫を借りることに躊躇していて、先生が来日したこの時に、自分の道場がなければ、「ライレージム京都」 は誕生しなかっただろう。

しかし、これがゴールではない。やっとスタートラインに立ったのかもしれない。大変なのはこれからだ。こんなにも重たい名前を頂いたのだから、責任は重大だ。 自分がそんな大事な名前を名乗れるほどのレベルでないのは、自分でも充分承知している。また、先生からもそう見えるだろう。

しかし、私は自分がこれから先もいつまでも、このキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを追求していくということも、わかっている。先生もきっと、私のこれまでのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンにかける姿勢、態度などを見て、こいつなら、いつかやってくれるだろう という期待を込めて言ってくれたのだと思う。 だから有難く名乗らせてもらう。 そして、その名前に恥じないようなジムにするというのが、これからの私の使命だと思う。



    

 

         ◇ニアミス



翌日、私は仕事を空けることができず、先生の観光に付き合うこともできなかった。そして、先生は東京へ向かった。成田から帰ることになっていたので、残りの日本滞在は、東京観光を楽しまれた。
この時、私にまた突然の連絡があった。今度はビル・ロビンソン先生からだ。ロビンソン先生は、日本を離れ、アメリカで故障箇所の腰の手術、療養生活をしていたが、久しぶりに日本に戻ってくるというのだ。
聞けば、ロイ・ウッド先生が日本を離れる日に、到着するらしい。二人のフライト時間を確認すると、空港で二人が会うことが可能なのだ。

以前の章でも話したが、ビル・ロビンソン先生は、ロイ・ウッド先生の先輩である。ロビンソン先生は、若くしてウィガンを離れ、名プロレスラーとして世界中で活躍してきた。以来、ウィガンに里帰りしたのは、母親が亡くなったときの数日間だけで、約30年もの間、ウィガンのかつての仲間とは誰とも会っていない。
この時、二人を再会させられるのは私しかいなかった。私は、Eメールでロビンソン先生と、宿泊先のホテルへの電話・ファックスでロイ・ウッド先生とマメに連絡を取り、二人を再会させる作戦を進めた。もう数日しかないので、仕事は、仮病で休んで東京に行こうと決めていた。


しかし...直前で、残念な知らせがアメリカのロビンソン先生から届いた。悪天候のため、しばらく飛行機が飛びそうにないというものだった。
二人とも本当に楽しみにしていたし、再会させるという大役を務められるということで、私もとても興奮していたのに...


結局ロイ・ウッド先生は、朝に日本を離れ、ロビンソン先生は予定より半日遅れで、同日の夜到着した。私は仮病で欠勤せずに済んだが。

二人の再会は、2011年に、ロビンソン先生がイギリスで、キャッチレスリング・セミナーを行った際に、ロイ・ウッド先生を訪ねて、ようやく実現した。その後二人から話を聞いたが、ビリーライレージムの昔話が延々と続き、止まらなかったそうだ。もう、他の方たちは他界されていて、お互いにとって唯一、 自分たちの青春時代、ビリーライレージム時代を語り合える相手なのである。







    ◇ロビンソン先生の言葉

5月に東京に行きそびれたが、近いうちにロビンソン先生に会いに行こうと思った。そして9月に、約6年ぶりにUWFスネークピットジャパンを訪れた。宮戸さんや、かつて一緒に練習していた人たちとも再会でき、とても楽しい時間を過ごさせていただいた。プロ選手も誕生しており、私がいたころよりも、練習生、練習内容ともにレベルが上がっていた。いい刺激をもらい、私のライレージム京都も、もっともっと頑張らなければと改めて思った。

ロビンソン先生に、私のジムのことも報告し、直筆のメッセージも頂いた。何を書いてくれとお願いしたわけではないが、やはり 「学び方を学べ」 という言葉だった。京都に帰ってから、拡大コピーし、ジムの壁に貼った。上の、「◇命名」 の中の写真に見られるように、 「Learn how to learn」 という言葉を、すでに道場訓として自分で書いて貼っていた。それが、有難いことに “ビル・ロビンソン直筆” になった。





これだけではなく、その後、心構え的な言葉がたくさん書かれた、感動のメッセージが届いた。練習生みんなが読めるように日本語にも訳して、壁に貼っておけとあった。


ロビンソン先生が、ウィガンを離れても常にビリー・ライレーの教えを守り続けているように、私も壁に貼ってあるロビンソン先生の教えを、毎日毎日、いつまでも読み続け、守り続けていく。
http://rileygymkyoto.is-mine.net/road-to-rgk11.html
第11章  ロイ・ウッド認定



   

   ◇セミナーの謎



2011年の暮れあたりからだろうか。ロイ・ウッド先生の娘、アンドレアがたびたびメールで、ウィガンでのレスリングの状況を知らせてくれた。彼女は、以前は弁護士をしていたが、2003年に母親ブレンダが亡くなった後は、ロイ・ウッド先生のレスリングの手伝いに力を注いでいた。
キャッチの聖地ウィガンで本格的に、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリング再興の計画を立て、着実に進んできているという。
アメリカでは巨大スポーツにまで発展したUFCをはじめとする総合格闘技の普及により、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの技術を持った選手が活躍するなどして、その名前も再び世界に広まっていた。
しかし、当然、名前が広まれば、いろいろな問題もでてくる。実際には、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンを知らない者が、キャッチ・レスラーを名乗り始めたり、数日間セミナーを受けただけで、継承者と言い始めたりする者も出てくる。


キャッチ・アズ・キャッチ・キャンを正しく認識してもらえるように、ロイ・ウッド先生も積極的にセミナーを開催し始めていた。そして、2012年11月に、大きなセミナーを開催するので、ぜひ参加してくれと、私に招待状が届いた。


しかし、アンドレアとのメールのやり取りだけでは、どうしても理解できないことがあった。
私が知る限り、ロイ・ウッド先生は絶対にセミナーなどをする人ではない。定期的に一緒に練習することのない人に教えたりすることはない。私にもいつも、「誰にも教えるな。」 と言っていたし、第9章にも書いたように、私が他のジムで練習するのを本当に嫌がっていた。
以前、私も先生に 「普及のためにセミナーをたくさんやって行きましょう」 と提案したこともあった。しかし、もちろん即行で却下された。 
先生も、もう69歳。技術を後世に残していくため、いろいろ心情の変化もあったのだろうか...
とにかく会って話して、どういうことなのか聞きたかった。

9年ぶりにウィガンに行った。マンチェスター空港にアンドレアが迎えに来てくれていた。 ウィガンへ行く高速道路は夕方のラッシュアワーで混んでいた。久しぶりの再会で話は弾んだ。 私は早くセミナーの謎を解きたかった。

「どういうこと?あれだけ不特定多数の人に技を見せるのを嫌がってた人やのに。」

すると、アンドレアは 「うん。もちろん今でも嫌がってるよ。」

「え?どういうこと?」

「私が全部やらせてるの!」


アンドレアは、 父親のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンが正しい形で、広まっていき、伝わっていくように、計画し、きちっと組織化していた。そしてライセンス制を導入し、厳しい審査基準も作り、本当にピュアな、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの普及に取り組んでいた。今回、そのライセンスの審査を初めて行うという。
そして、かつてこの地で盛んだった、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングの試合を、約50年ぶりに当時のルールで行うという。

全てアンドレアが企画、管理、実行している。ロイ・ウッド先生はそれに従い、これまでどおり選手を指導しているだけなのだ。アンドレアの情熱、実行力にはホントに頭が下がる。素晴らしい。


謎は解けた。 やはり父親は、かわいい娘には逆らえないということだ。






  ◇19年前の練習

ここで、本格的修行を始めたのは19年前、私が22歳のときである。 そして今は私も41歳になった。
当然、体の故障箇所もあるし、体力的にはキツくなっている部分もある。
まぁ、しかしそんなことはお構いなしに、20代のときにやっていた練習と同じことをやらされるのはわかっていた。
例によって、息をあげっぱなしの練習。私が少し遅れると、先生は20代の練習生と私を競わせ、「しっかりついていけ、遅れるな!」 と檄を飛ばした。


「もう40歳になったから...」などと言い訳ができるはずがない。なにせ、69歳になった先生ではあるが、まだ自ら技のデモンストレーションを行い、みんなに手本を見せているのだから。
「さすがにその技はちょっとやめたほうが...私が代わりにやります。」と何度か言いかけたが、そんな生意気なことも言えなかった。
仮に言ったところで、「これぐらい、まだまだできるぞ!」と、ますます先生の闘志に火を点けてしまうことは明らかだ。

しかし悪い予感は的中した。ある技の練習中、みんなにお手本を見せ終えると、先生は肩を押さえてうずくまってしまった。みんな心配して駆け寄るが、先生は「大丈夫だ。練習を続けろ。」と言った。 でも、どうやら肩が動かない様子だ。肩がはずれてしまったのだ。
全員でなんとかすぐに病院へ行くよう説得した。


こんな状態でも、「痛い」などと一言もいわない。表情も変えない。「助けてくれ」とも言わない。ホントにいくつになってもタフな人だなと改めて思った。午前に起こったことで、予定されていた夜の練習は、先生は大事をとって安静にしていた。というか、娘のアンドレアに強制休養させられた。

翌日、三角巾に腕を吊るして、先生はジムに現れた。私や、他の経験豊富な者に練習を任せるつもりだったはずだが、じっとしていられるわけがない。 先生の指導が始まり、どんどん熱くなり、しまいには三角巾を邪魔だと言わんばかりに取って、また自ら技を見せ始めた。本当になんて元気な69歳のおじいちゃんなのだろう。
そしてみんなには、「おい、あとで怒られるから、娘には絶対に言わないでくれよ!」と頼みこんでいた。

19年前と変わらない練習内容だった。先生も私も、年齢という数字は少しが増えたが、それ以外は変わっていなかった。





   ◇認定書


月曜から金曜までの5日間、午前・午後・夕の三部構成の、とてもハードな練習、セミナーだった。スパーリングももちろんあった。
しかし、多くの参加者は途中で体がもたなくなり、練習を休んだりしていた。私は、体力的には問題なかったが、腰がきつくなってきていた。それでもなんとか全てこなすことができた。そして、私にはコーチングの試験なども課された。 

5日間のセミナーの最後に、先生のスピーチがあった。私と、もう一人ロイ・ウッド先生のもとで長く練習しているイアンを、The Snak Pit ロイ・ウッド公認コーチ第一号に認定するというものだった。そして同時にライレージム京都が、公認ジム第一号となった。


先生は、大勢のセミナー参加者たちの前で、私との思い出を話し始めた。 19年前日本から突然やってきたことから、私が買ったレスリングマットの話まで。最後はちょっとウルッとしてしまった。








     ◇半世紀の時を経て

2012年11月10日土曜日、ウィガンで50年ぶりに、純粋なキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合が行われる。「純粋な」というのは、近年キャッチ・レスリングと銘打った大会が日本、北米などでも行われたりしているが、それらは明らかに100年前イギリスで盛んだった、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとは異なる。
総合格闘技から打撃技を省いたものが、キャッチ・レスリングと思われがちだが、全く違う。 もちろん、それをキャッチだと言ってやっていくのは個人の自由だが。そもそもキャッチ・アズ・キャッチ・キャンでは、柔術・総合格闘技のように、自ら下になり、背中をマットにつけて戦うことなどない。

今回の大会は、基本、当時と同じルールでということだが、ビリー・ライレーが活躍していた頃と比べ、現代ではどうしても変えざるを得ない部分が3点 あった。
まず、制限時間。 かつては無制限、もしくは選手・マネージャー同士、プロモーターでその都度決めることもあった。しかし現在では、これは無理。15分1本勝負となった。
次に、壁を使った攻撃の禁止。昔は相手を壁にぶつけるなどもしていたらしいが、体育館の破損にもつながるので、これも絶対無理。
もうひとつはコスチューム。昔はトランクス1枚でやっていたが、傷口からの感染症の予防のためにも、今はなるべく肌の露出はさけたいところ。
下はスパッツ、上半身はラッシュガード着用となる。 この3点以外は、当時のルールのままとのこと。

フリースタイルレスリングの大会の中で、実験的にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合が5試合組まれた。
決着方法に関する大きな違いは、キャッチには、フリースタイルと同様、相手の両肩をマットにつければ勝ちというピンフォールと、 フリースタイルにはないサブミッション(関節技)で、相手からギブアップを奪う方法がある。

50年間閉ざされていた幕を開けるという大役を任された。

相手は、22歳で私より15キロほど重いグレッグ。彼は6年間ロイ・ウッド先生のもとで練習しており、若いがしっかりした技術を持っていた。
5日間一緒に練習して、彼とが一番 「キャッチらいしい試合」 ができると感じていた。 だから、体重差はあるが、戦わされることは予想していた。

フリースタイルルールなら勝つのは難しいが、15分1本勝負、ポイントなしなら、なんとかなるだろうとは思っていた。
予想通り、グレッグはガンガン攻めてきた。力強さを感じた。きついが、凌ぎながらカウンターを狙って、チャンスを待っていた。ずっと決定的な技こそかけさせないが、コントロールはされていた。フリースタイルルールならポイントを取られ続けてテクニカルフォール負けになっていただろう。

チャンスは意外と早く訪れた。グレッグが私の足首の関節を極めにきた。「来た!」と思い、私はカウンターを取り、逆に彼の足を締め上げた。かなり手ごたえはあったが、グレッグはすぐにはギブアップしなかった。さらに締め上げると、少しバキバキと音がした。グレッグがギブアップした。膝も痛めた。

50年前に行われた、聖地ウィガンでの最後のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合、ビリー・ジョイス対ベルショウの一戦。 この試合を最後に、キャッチの幕は閉じていた。
そしてこの日、私とグレッグの試合で、再び幕が上がった。 奇しくも、私とグレッグの勝負を決した攻防は、50年前のビリー・ジョイス対ベルショウ戦のそれと全く同じものだったという。 この手でそれができたことを嬉しく思う。





    ◇20年目にして思うこと


「私は日本から来た、プロレスファンで、ランカシャーレスリングを習いたくて来ました。ビリーライレージムを復活させて欲しいと思っています。今回は数日後に日本に帰りますが、またここに戻ってきて、長期滞在して習いたいです。ランカシャーレスリングを受け継ぎたいです。」


1993年5月、ロイ・ウッド先生に初めて会ったときに伝えた言葉。
当時、ロイ・ウッド先生、周りの人たちは、この私の言葉をどう思っていただろうか?  「何を言ってるんだ?」と思われていただろうか?

20年前には、想像もできなかった。 あの、“人間風車”ビル・ロビンソンからも指導を受けられること、自分のジムを持ちロイ・ウッド先生から直接、「ライレージム」の称号を与えられること、ロイ・ウッド認定のキャッチレスリングコーチになること、自分が、聖地ウィガンでの50年ぶりのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合を戦い、勝利したこと。 
私は本当に幸運の連続だったと思う。 あのときの自分の言葉を守ろうとしながらも、自然の流れにまかせてやってきただけなのに。

20年は長かったようにも感じるし、思い返せばあっという間だったような気もする。

ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリング - 私の人生、私の生き方そのものである。

なぜこれを選んだのかはわからない。べつに何でもよかったのかも知れない。 音楽でも、絵画でも、他のスポーツでも、何でもいいのかも知れない。  ただ、一つのことを追求していくことが強さだと思う。

結局は、心を鍛えているだけなのかも知れない。自分の肉体を使って、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングを通じて心を鍛えている。 だから何歳になっても終わらない。 そして、やればやるほど、これまで自分がいかにわかっていなかったかに気づく。

ロイ・ウッド先生のインタビューでこんな言葉があった。 「私の得意技であるグロベット、30年経ってもまだ完成したとは言えない。」
先生が47歳のときの言葉だ。

よく聞くような言葉だ。でも、本当にそうなんだなと、42歳になり、あの時の先生の年令に近づきつつある今、実感している。
そして、20年前に先生が言ってくれた、「何があってもあきらめない強い心を持て!」 その意味もようやく理解でき、実感できていると思う。

ビル・ロビンソン先生にもいつも言われていた 「必ずできる、できると思え、できると信じろ!」
ロビンソン先生の、この言葉をずっと聞いているうちに、 私はいつからか、自分は優れたキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのレスラーだと思うようになった。 それは自惚れることではない。自分が受けた教え、自分を強くするために誠心誠意、一生懸命に指導してくれた偉大な先生たちを信じることである。  自分の受けた指導は最高のものであると。 自分のような者でも優れたレスラーにしてくれるほど偉大な先生なんだと。

私のライレージム京都は、もちろんビリーライレージムの全盛期とは、今はとても比較すら出来ないほどのレベルだ。
しかし、いつかビリーライレージムを越えるようなジムにしたい。本当にライレージムと名乗るにふさわしくなるまで、諦めず。失敗しても、何度でも何度でもやり続けるしかない。
ビル・ロビンソン、ロイ・ウッド 二人の偉大な先生の “Do it again.”  という言葉を常に思い出しながら、いつまでも。







    ◇おわりに

このように自分のことを書くのは、小っ恥ずかしいことであるし、何もインターネットで公開するようなものではないと思っていた。
現に、周りの人に勧められて、ブログで始めたこの 「ライレージムへの道」 ではあるが、やはり本人はそれほど乗り気ではなく、2008年6月に開始したものの、5年経っても終わせることができなかった。
しかし、それを読んで、ライレージム京都を訪問してくれた人も何人かいた。 私と同じ年で、当時40歳にして愛知県から、本気でキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを学びに来てくださった人もいる。京都に1年間住み、本格的に学ばれた。
私自身も、いろいろなものから影響を受け、21歳の時にイギリスへと旅立った。何が人の人生を変えるかはわからない。

自分が発信することによって、それを読んだ人だけではなく、また自分自身にも何か起こるかもしれない。
そして、私が学んできた ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリング にも何か起こるかもしれない。そう考えるようになって、この私自身の体験を書き上げました。


最後まで読んでいただきありがとうございました。  ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリング に興味を持たれましたら、
ライレージム京都までご連絡いただければ幸いです。   また新しい何かが起こるのを楽しみにしています
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