司馬史観 ネトウヨの歴史修正主義は同一のもの! 坂本龍馬は剣の達人は司馬遼太郎の詐欺 大嘘!

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龍馬は本当に剣の達人だったのか 〜坂本龍馬の真実〜

by フリードリヒ · 2015年6月1日


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龍馬は本当に千葉道場で修行したのか

坂本龍馬に関する多くの史料が、嘉永6年(1853年)4月に、龍馬が江戸に上り、千葉道場に入門したとしています。

この点、神田お玉ヶ池にある千葉周作の玄武館とするものもあれば(『汗血千里駒』、『阪本龍馬』、『阪本龍馬』など)、桶町にあった弟の千葉定吉の道場とするものもあります(『維新土佐勤王史』、『雋傑坂本龍馬』、『坂本龍馬海援隊始末』など)。

もっとも、嘉永6年当時、桶町に千葉道場がなかったことが明らかとなっており、龍馬が通ったとすれば、新材木町の道場ということになるそうです。

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龍馬は、安政3年(1856年)、再び江戸に向かい、二度目の剣術修行に励んでいます。
大千葉の門人であった清河八郎が、安政4,5年ごろの在籍者309人の名前を記録した、『玄武館出席大概』という史料に、龍馬の名前が見られるのですが、もっとも、これすらも、出稽古に参加したという記録に過ぎず、必ずしも正規の門人の名簿というわけではなさそうです。
「有名な大道場のスポーツイベントに、ゲストとして参加した」、といったものであった可能性はかなり高そうです。

なんだかんだで、もろもろの情況証拠から、龍馬が『小千葉』と呼ばれた定吉の道場に通ったことは確実視されていますが、それを裏付ける確固たる直接の史料はじつは今日に至るまで発見されていないのです。
結構びっくりでしょ。

佐久間象山

他方で、史料から明らかなのは、龍馬が松代藩士で洋楽家の佐久間象山道場に入門していたことです。

小説や映画の影響で、龍馬といえば「撃剣家」というイメージが強いのですが、実は龍馬が本当に学ぼうとしたのは、洋流の砲術だったのでした。

龍馬は剣の達人ではなかった

一般に坂本龍馬は、北辰一刀流免許皆伝、桶町千葉道場の塾頭という経歴でもって、幕末を代表する剣の実力者であったとするのが、最近の小説やTVドラマ、マンガでは一般的です。

しかし、本当に坂本龍馬は剣の達人だったのでしょうか?

そもそも、どこの道場で学んだのか、どの程度の腕前だったのか、いろんな点が曖昧な坂本龍馬ですが、それを北辰一刀流の達人としたのは、司馬遼太郎です。


ほどなく、北辰一刀流の最高位である大目録皆伝を得、桶町千葉の塾頭になった。年、二十三歳である。(竜馬がゆく)



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しかし、たとえば前述の清河八郎は、嘉永4年に千葉道場に入門し、一年後に初目録、9年後に中目録免許を取得しています。

清河八郎

この清河ですら、通常よりはるかに早い期間で免許まで取得したとされています。
龍馬が、二度目の江戸修行で大目録まで取得したというのは、あまりに非現実的な話となってしまうわけです。

また、「皆伝」とは、本来一子相伝で後継者に伝えられるものです。道場の後継者ではない龍馬に与えられることはありえません。

司馬遼太郎は、どうしても龍馬を幕末の剣豪にしたかったため、話を盛ってしまったのでしょう。

なお、安政5年(1858年)正月に、千葉定吉が龍馬に与えたとされる「北辰一刀流長刀兵法目録」という史料があります。
しかし、この史料は昭和38年(1963年)に、当時の高知県知事がシカゴ在住の高知出身者から買い取ったといういわくつきのものなのです。
この資料の真贋はともかく、仮に正しいものだとしても、そこに書かれている文面から、免許や目録といったものというよりもどちらかというと短期講習会の修了証書のようなものだということです。
しかも、目録の対象は長刀であって、太刀などではない点も気にかかります。

龍馬が北辰一刀流の達人であったというのは、どうも真実味がないということになりそうです。

幻の剣術大会

安政4年(1857年)10月3日に、鍛冶橋の土佐藩邸で、藩主山内豊信の御前にて剣術大会が行われたというエピソードがあります。
審判員は神道無念流の斎藤弥九郎、鏡新明智流の桃井春蔵、北辰一刀流の千葉栄次郎ら5人で、出場者には桂小五郎、上田馬之助、海保帆平ら当代一流の剣客が参加したとされています。龍馬も試合に出場しており、島田駒之助なる人物と対戦して勝利を収めています。

もっとも、この試合の勝敗表が残されていますが、異なる史料に記述がないことや江戸にいない人物が出場していることから、後世の創作であることが判明しています。

さらに、安政5年(1858年)10月、桃井春蔵の士学館で千葉家を招いた剣術大会が催されたとされています。
最強との呼び声が高い練兵館の木戸準一(桂小五郎)は、数番を制して向かうところ無敵の快進撃を続け、決勝戦にて龍馬と立ち合うことになりました。

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10本の勝負は互角で、11本目に木戸が得意の上段で打ち込んだところを、龍馬は諸手突きを決めて勝利したとされています。

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この話は武市半平太が小南五郎右衛門に宛てた手紙にあるのですが、当時桂小五郎は木戸準一を名乗っておらず、また、武市・龍馬は土佐に帰国していることから、偽書であることは疑いようがありません。

『竜馬がゆく』『お〜い!竜馬』を始め、多くの映画やマンガ、小説などでは、この2つの幻の剣術大会をごちゃまぜにして、龍馬の青春時代のハイライトとして必ず取り上げるのですが、上記の通り、いずれも事実とは認められていません。



というわけで、坂本龍馬は剣の達人であったというのは、どうやら小説やドラマの中だけの話ということで決着しそうです。
実際に、後に寺田屋や近江屋で襲撃された際の対応をみても、剣豪というイメージからは程遠いことは明らかでしょう。
幕末は剣豪たちが血飛沫を上げて斬り合った時代です。
みんなのヒーローである龍馬も剣豪であって欲しいという人々の願望が結集した結果なのかもしれません。

しかし、坂本龍馬という人物は、剣が強かったから歴史に名を残しているわけではありません。
英雄・坂本龍馬は剣の達人であろうとなかろうと、魅力的な偉人であったことには変わりはないと思っています。



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歴史学者曰く、坂本龍馬が好きだと言う人間は信用してはならない




昨日、加来耕三さんという歴史学者の講演を聞いた。

多分増田をみるような輩でその講演を聞いたのは俺くらいだと思う。

会場は老人ばっかりだった。

「歴史に学び、未来を読む」というのがその講演の題。ちょっと壮大な感じだが、内容はというと常識的に物事を考えることが大事だ、というすごく地に足のついた話だった。

歴史にロマンを求めるのは現実を無視することだとして、NHK大河ドラマを強烈にDisっていた(龍馬伝は80%嘘で、篤姫は200%嘘だとか。残念ながら平清盛への言及はなかった)。

一番笑ったのは龍馬への言及。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は昔の講談本だかなんだかを下敷きにしていて、あくまで創作なので「龍馬」ではなく「竜馬」表記にしているのだが多くの日本人はあれを本当だと思って誤解しているという。

話をばくっと要約すると、龍馬は子供の頃勉強ができなくて大きくなっても寝小便をしていて、唯一剣術に才があったという話になっているが、頭が悪くて剣術に秀でている人間がどうして剣術指南とかにならずに日本初の株式会社を作ったり薩長同盟を仲介したりしているんだ。人間はある日突然人が変わったように優秀になったり馬鹿になったりはしない、常識で考えれば龍馬は勉強が得意なタイプの人間だったと考えるべきだ。だいたい龍馬は暗殺されるとき左手に拳銃、右手に刀を持っていたが拳銃を打ち尽くして弾切れになったあと刀を抜かずに拳銃を振り回したと伝えられている。どうして剣術の達人が刀を抜かずに拳銃を振り回すんだ。というわけで巷で伝えられている龍馬のイメージは作られたものである。

大学で教えていると(加来先生は奈良大学の先生だそうです)毎年必ず龍馬かぶれが一人くらいいるが、みんな悲しいくらいにワンパターンで、「先生、おれは今はバカですが将来はビッグになるかもしれませんよ」などと言う。今日の次に明日があるんであって、今日バカな人間は明日もバカなのだからこつこつ積み重ねなければしょうがないと説くが伝わらない。坂本龍馬が大好きと言う人間は信用してはいけない。

…ということで俺は歴史に疎いのでふんふんそうなんだという感じで聞いていたのだが坂本龍馬に関する結論だけは以前からの俺の認識と一致していた。「坂本龍馬が好きだと言う人間は信用ならない」歴史にロマンを求めて現実を見ない人間である。そう、例えば孫正義みたいな。←結局これが言いたかった。


http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/08/2324.html

幕末の思想5 司馬史観の嘘、歴史小説家の罪

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現代日本人の抱く幕末像を形成したのは、『竜馬がゆく』をはじめとした司馬遼太郎の小説によるところが大きい。
前回の記事「吉田松陰は単なるテロリストにすぎない」にあるように、単なるテロリストにすぎない吉田松陰が偉大な思想家・教育者であるかのように捏造されたのも、司馬遼太郎の小説が一役買っている。
ところが、この司馬史観は事実に反することが明らかにされている。

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『原田伊織の晴耕雨読な日々(第二幕)』「維新の“真犯人”;水戸藩の狂気(其の六 水戸の公家かぶれと司馬史観の罪)」


司馬遼太郎氏は「桜田門外ノ変」(水戸藩の武士による大老井伊直弼の暗殺)については大変な罪を犯している。司馬氏は、すべての暗殺を否定すると断言する、その同じ舌で「ただ、桜田門外ノ変だけは「歴史を進展させた」珍しい例外」であると断じ、このテロを高く評価するのだ。驚くべき稚拙な詭弁だと言わざるを得ない。「歴史を進展させた」という一言で、司馬氏がどういうスタンスで幕末史を語っているかが明白に顕れている。
司馬氏には、人物で言えば三つの過ちがある。
坂本龍馬(司馬氏は「竜馬」という表記で逃げ道を作っている)、吉田松陰、勝海舟の三人を高く評価した点である。司馬史観というものがあってその核に「桜田門外ノ変」とこの三人の存在があるとすれば、司馬史観とは大いなる罪を犯していると言わざるを得ない。そして、それは創作された虚構に過ぎない。

「司馬史観」


「司馬史観」とは、司馬遼太郎の一連の作品に現れている歴史観を表した言葉で、端的に言えば「合理主義を重んじる」ということが前提としている。
具体的には「明治と昭和」を対置し、「封建制国家を一夜にして合理的な近代国家に作り替えた明治維新」を高く評価する一方で、昭和期の敗戦までの日本を暗黒時代として否定している。そして、合理的で明晰な思考を持った人物たちを主人公とし、明治という時代を明るく活力のあった時代として描いた。
かくて、戦前のすべてを悪しきものとして否定する進歩史観が猖獗を極めた戦後日本にあって、司馬作品のみならず司馬史観もがもてはやされたのは容易に理解できるところである。

それに対して副島隆彦氏は、明治維新について、理想に燃える下級武士が単独で近代革命を成し遂げたとする司馬遼太郎によるいわゆる司馬史観を否定し、イギリスが当時覇権を争っていたロシア帝国の勢力拡大を防ぐため、岩倉具視、坂本龍馬らのスパイを育成・使役することによって親イギリス政府を作るという世界戦略の一環であったと主張している。
『人民の星』「ライシャワー史観打ち破れ 維新革命の真実ねじまげる」によると、司馬遼太郎が持て囃されたの背後にはアメリカの戦後対日政策があり、『竜馬がゆく』もライシャワー駐日大使の『日本史』やマリアス・ジャンセンの『坂本龍馬と明治維新』の日本史観を受け継いだものだという。


米国賛美の「開国で近代化」論
「開国で近代化」論は、米日反動が教育をつうじ商業マスコミをつかい、小説やドラマなどあらゆる手段で四六時中ふりまいてきた。昨年から今年にかけても、各地で「開国・開港一五〇年」の催しが鳴り物入りでやられ、NHKは大河ドラマ『篤姫』で開国が正当であったとえがき、来年は『龍馬がゆく』の二番煎じを、莫大なカネをつぎこんで制作し放映するとやっきになっている。
ライシャワー先頭に振まく
この「日本は開国で近代化した」という論調は、米日反動が戦後の日本で、とりわけ六〇年「安保」反対の空前の斗争以後、労働者、人民の斗争を鎮静化し、日本の一部の文化人、知識人、労働官僚を買収し、親米思想に転換させるためのもので、とくにアメリカの駐日大使ライシャワーが先頭きっておこなった日本での思想工作の重要な構成部分であった。
この歴史観の核心は、「開国が近代化をもたらした」すなわちペリー来航が日本近代化の発端であるとして、アメリカのおかげで日本は進歩したとおもわせることにあった。
六一年に、「親日で東洋史・日本史の最高権威者の一人」というふれこみで駐日大使としておくりこまれたライシャワーは、第二次大戦中に、アメリカが対日作戦遂行のためにつくった陸軍日本語学校の設立にかかわり、日米開戦以後は、日本軍の暗号解読のための研究所の設立や、日本敗戦後の対日占領政策を決定する国務省の会議にも参加し、天皇制を戦後はアメリカの傀儡としてつかうこと、したがって天皇を戦争犯罪人のリストからはずし、東条英機ら一部軍部中枢に責任をなすりつけるうえで重要な役割をはたした。
来日したライシャワーは労組幹部、知識人、文化人の切り崩しに狂奔し、「古典的マルクス主義」との対決をさけびながら、労働貴族の育成に力をいれ、労働運動のブルジョア化をやっきに促進した。
当時の大統領ケネディの「平和戦略」は、反米の革命的な斗争を破壊するために、ソ連を頭とする現代修正主義を、日本においては「日共」宮本修正主義を起用したが、そのケネディの日本での手代がライシャワーであった。
明治維新観を歪曲する攻撃
ライシャワーのイデオロギー面からの攻撃の、一つの重点は明治維新観の歪曲であった。かれは、さまざまな場で明治維新にはじまる「日本近代一〇〇年」の栄光をたたえた。しかし、それは近代化はアメリカによってなしとげられたものとねつぞうすることであった。
はやくも六一年には、『思想の科学』(一一月号)の特集「明治維新の再検討」や『中央公論』(六二年一月号)での「明治維新の意味」と題した討議というかたちで、明治維新の論議が組織され、そこに登場した知識人たちは共通して「人民が歴史の推進力だという見方をしりぞける」論調をおしだし、人民が米日反動との斗争にたちあがらないように画策した。
このような「ケネディ・ライシャワー路線」を、大衆・通俗小説で日本人民のなかにふりまいたものが、司馬遼太郎の『龍馬がゆく』にほかならなかった。この小説は、ライシャワーが駐日大使として着任した翌年の六二年六月から、親米・反共の『産経新聞』が夕刊に連載をはじめたものである。
司馬の『龍馬がゆく』は、アメリカの日本史研究者であるマリアス・ジャンセンの『坂本龍馬と明治維新』(六一年発表)を参考にしている。マリアス・ジャンセンはライシャワーの弟子であり、ライシャワーの著作『日本史』の歴史観をうけついだ。司馬の歴史小説、とりわけ幕末維新をえがいたものは、ライシャワーを源流とする「日本は開国で近代化した」「個人英雄が歴史を動かす」という歴史観を忠実にとりいれた。
「外圧」を礼賛する『日本史』
ライシャワーが一九四六年に出版し、その後も加筆してきた『日本史』で展開されている明治維新観は、どんなものであろうか。そのまえがきでは、つぎのように要約している。
「科学技術面でのヨーロッパの台頭は、突如として雷雨のごとく世界を吹き荒れ、その結果、日本も孤立をゆるされなくなった。……列強の支配から逃れる唯一の方途は、自らも西欧の科学技術をできるだけ速やかに採用することであった」
「長年にわたる日本一流の政治、社会、経済機構を一変させたのは、このような過程における喫緊事としてであった」
本文中では、こういっている。
「やがて、内部的に弱体化していた幕府の体制は崩壊し、新しい日本の誕生のための地ならしが行われることになるのだが、その起動力になったのが、この外国からの圧力なのであった」と。
ライシャワーの弟子のマリアス・ジャンセンも、師匠のライシャワーのこの近代化論史観(日本は開国をつうじて近代社会に変革したという論)にそって日本研究をやり、その史観から『坂本龍馬と明治維新』を書いた。
当時、坂本龍馬を研究対象にした学者はすくなく、しかも龍馬の手紙やエピソードなどおりこんで本にしてアメリカで発刊したのは、これがはじめてのものだった。
公武合体派の龍馬もちあげ
ジャンセンは、「日本のように、欧米人が征服の目的なくやって来て伝統的な社会と衝突したところでも」と、欧米列強が日本を植民地化するために、やってきたことをかくした。
ジャンセンは坂本龍馬を、おなじ土佐の郷士であった革命家・中岡慎太郎に対立するタイプとして、意識的にえらびだした。中岡についてジャンセンは「長州の軍事組織の保護下に自分自身の部隊をつくるにいたる」といい、高杉晋作のつくった奇兵隊のもとで、農民町民に依拠して幕藩体制の打倒をめざした革命家としての中岡を否定している。
そしてかれは、「明治新政府の最初の綱領となる」「独自の一体系をあみだすことに力をよせ」たと坂本龍馬をもちあげ、「われわれは、同時代の政治教育を典型的に現わす思想と行動の流れの発展をみることができよう」と、公武合体派であった坂本龍馬を「時代の典型」として売りこんでゆこうとたくらんだのである。
 それが司馬遼太郎の下敷きとなった。
だが、米日反動が必死にふりまいた、このような反動的な維新観はいまやうちくだかれようとしているのである。

明治維新、あるいは近代化とは何だったのか?
その答は「共同体に立脚した江戸幕府と、共同体を破壊した明治国家」で提示されている。
すなわち、共同体の破壊と金貸し支配国家への転換である。
司馬遼太郎は『坂の上の雲』などで「日本海軍は優秀で、陸軍は無能」と謳っているが、これも、実はアメリカの手先であった旧海軍(米内光政や山本五十六)があたかも戦争に反対した平和主義者のごとく喧伝することに繋がっている。
『るいネット』「海軍の米内光政、山本五十六はロックフェラーの手先1」
とりわけ戦後は近代化や合理主義が手放しで礼賛されてきた。しかし、それは金貸し支配の進行であった。
このように歴史事実を歪曲し大衆的に流布する上で、司馬遼太郎や阿川弘之をはじめとする歴史小説家が果たした役割(罪)は大きいと言わざるを得ないだろう。
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