アドルフに告ぐ 「・・・・戦後40余年が過ぎ、だんだん戦争の忌まわしさを伝える人間がいなくなりつつあります。当時の状況を体験として、つぶさに知っている人間は、若い人たち、子どもたちに〝戦争〟のほんとうの姿を語り伝えていかなくては、また再び、きな臭いことになりそうだと、ぼくは不安を抱いています。〝正義〟の名のもとに、国家権力によって人々の上に振りおろされた凶刃を、ぼくの目の黒いうちに記録しておきたいと願って描いたのが『アドルフに告ぐ』なのです。・・・・・ぼくが、アニメーション映画に力を注いできたのも、一つには、この軍国主義による映画の効用を逆手に取って、夢や希望に眼を輝かすことのできる子供たちに育ってもらいたいからなのです。・・・・・いかに教育がすさまじい力で子どもの柔らかい心身に食い込むかを、ぼくは若い人たちに知ってもらいたい。・・・・・」















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「アドルフに告ぐ」と手塚治虫


用事があって久しぶりに宝塚に行ったついでに、手塚治虫記念館に寄ってみた。たしか子供たちを連れて訪れて以来だから、もう20年以上になるだろうか。

戦後70年というので、たまたまマンガ「アドルフに告ぐ」が記念展示されていた。建物の外観はきちんと整備されていて、少しも劣化していないように見える。

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正面外観
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正面・「火の鳥」オブジェ

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正面階段 「ブラック・ジャック」のレリーフ

入場してみると、なんと館内は撮影O.K.という。懐かしさと嬉しさで、さっそくスマホであれこれ撮らせてもらった。

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リボンの騎士

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火の鳥

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天井にもリボンの騎士や鉄腕アトム

「アドルフに告ぐ」は、原画も陳列されていたし、同作品についての手塚のインタビューなども掲示されていて、大いに参考になった。この作品は、1983年1月から1985年5月まで、『週刊文春』(文藝春秋社)に連載された。
私はすでに社会人だったが、連載当時は読んでいない。手塚作品としては、晩年(1989年没)の歴史長編マンガだという。
このジャンルでは他に、手塚の曽祖父が登場する「陽だまりの樹」(幕末維新期の歴史長編漫画)があったと思う。これも力作だった。

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アドルフ・ヒトラー

手塚治虫は昭和3年生まれの、いわゆる「戦中派」で、私の両親のすぐ下の世代(両親は大正末)だ。少し早く生まれた私の父の様に、学徒兵として嫌々出征しなくて済んだが、そのぶん、戦時下の勤労奉仕とか空襲とかを体験した。そして手塚自身によれば、その戦争経験がその後の人生に決定的な意味を持っていた。
勤労奉仕で大阪の工場にいたときの経験を、以下の通り語っている。

「・・・・その日、ぼくは工場の監視哨、つまり火の見やぐらの上で、敵機の来るのをずっと見ていたのです。・・・・・ところが、6月の大空襲のときには、・・・・雲の間から突然B29の大編隊が見えた。びっくりしました。警報が鳴ると、防空壕に入れという指令になっているのですが、下に降りる暇がないので、そのまま見守っていました。大編隊は突然、焼夷弾の雨を空中にパッとまいたのです。淀川近辺の民家や工場めがけて大量にばらまいたのです。
・・・・・ぼくは「おれはもういしまいだ!」と思って、監視哨の上で頭をかかえてうずくまりました。すると、ぼくのすぐ横を焼夷弾が落ちていき、ぼくがうずくまっている横の屋根に大穴が開いて、焼夷弾が突き抜けていったのです。下はたちまち火の海です。・・・・
当時は防空演習といって、・・・・バケツリレーをして、火を消す訓練をしていました。ほんとうにばかばかしい訓練です。しかも、そんなものはまったく用をなさない。とにかく瞬間的にあたりは火の海になりました。
・・・・焼夷弾はひじょうに小さな筒ですが、何百メートルも上から落とされますから、その加速度たるやたいへんなもので、防空壕の屋根を突き抜けて落ちてしまいます。そこで爆発するのです。・・・・・
人の頭から足まで突き抜けてしまうぐらいのすさまじい勢いです。・・・・ぼくは逆上して、火を消すことも忘れ、一散に工場を駆け抜けて淀川の堤防へ出ました。・・・・
ところが、その堤防をめがけて無差別の何トン爆弾というやつが落ちたのです・・・・、死体の山です。・・・・・それを見ているうちに、現実の世界ではないのではないか、もしかしたら夢を見ているのではないか、あるいはぼくはもう死んでしまって、地獄なのではないかという気が一瞬したのです。そのくらい恐ろしい光景でした。・・・・」
(岩波新書「ぼくのマンガ人生 大阪大空襲」52項~59項」 手塚治虫著1997年刊)

まさに九死に一生を得たのだった。勤労奉仕で大阪の軍需工場に動員されていたときの体験だ。
このあと、手塚は長時間歩いて宝塚の自宅まで戻るのだが、空腹をかかえて帰る途中でおにぎりを分けてくれた心優しい農家も、その後すぐに空襲で完全に亡くなっていたという。
戦争の悲惨さ、残酷さを改めて訴えることが、このたびの展示のテーマなのだろう。偶然とは言え、良いタイミングで出会ったものだと、感心しながら時間を忘れて展示物に見入った。

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手先の不器用な私は、ついぞマンガを描こうとなどと思ったことはないが、同級生には手塚作品を一生懸命に真似していた者もいた。私たちの世代にとって、手塚治虫のマンガは絶大な影響力を持っていた。私などはストーリーの面白さだけに惹かれて読んだものだが、改めてこの「マンガの神さま」の偉さ、その歴史的な役割の大きさに感銘した。
大学の一期上の先輩が「手塚治虫って、たんなる漫画家じゃないな。あれは哲学者だよ。」と述べていたことを思い出す。この先輩の念頭にあったのは、長編作品「ブッダ」だったのだと思う。



終戦の日については、こんなことも述べている。

「・・・・・・工場が焼けてしまったので、することがありません。学校も空襲にあったし、どうしようもないものですから、家でマンガを描いていました。・・・・・
そうして8月15日。何か知らないけれども、ラジオの中からボソボソと天皇陛下の声が聞こえてきます。何を言っているのだかわからないけれど、とにかく『全国民がんばれ』とでもおっしゃっているのだろうと思って、聞き流していました。しかし、まわりがやけに静かなのです。昼から鳥の声も聞こえないぐらい静かになってしまった。これは何かおかしい。外に出てみたら、だれ一人歩いていない。しーんとしている。異常なのです。・・・・・
8月15日の夜、阪急百貨店のシャンデリアがパーっとついている。・・・・一面焼け野原なのに、どこに電灯が残っていたかと思えるほど、こうこうと街灯がつき、ネオンまでついているのです。・・・・・
『ああ、生きていて良かった』と、そのときはじめて思いました。ひじょうにひもじかったり、空襲などで何回か『もうだめだ』と思ったことがありました。しかし、8月15日の大阪の町を見て、あと数十年は生きられるという実感がわいてきたのです。ほんとうにうれしかった。ぼくのそれまでの人生の中で最高の体験でした。」
(同書「ぼくの戦争体験」62項~65項)

このとき、17歳くらいのことだろう。
この述懐は、私自身の両親、叔父、叔母をはじめ手塚と同世代の戦争経験者の話と比べてみても、非常によく共通している。とてもみじめな敗戦だったが、大きな解放感があったようだ。
戦争を知らない我々以降の世代との決定な違いと言っていい。今では、もはや戦争のリアリティーそのものが希薄になっている。

そして「アドルフに告ぐ」は、そんな手塚治虫が、自らの戦争体験をどうしても後世に残そうとしたのだという。

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今から30年前、手塚はこうも述べている。

「・・・・戦後40余年が過ぎ、だんだん戦争の忌まわしさを伝える人間がいなくなりつつあります。
当時の状況を体験として、つぶさに知っている人間は、若い人たち、子どもたちに〝戦争〟のほんとうの姿を語り伝えていかなくては、また再び、きな臭いことになりそうだと、ぼくは不安を抱いています。
〝正義〟の名のもとに、国家権力によって人々の上に振りおろされた凶刃を、ぼくの目の黒いうちに記録しておきたいと願って描いたのが『アドルフに告ぐ』なのです。・・・・・
ぼくが、アニメーション映画に力を注いできたのも、一つには、この軍国主義による映画の効用を逆手に取って、夢や希望に眼を輝かすことのできる子供たちに育ってもらいたいからなのです。・・・・・
いかに教育がすさまじい力で子どもの柔らかい心身に食い込むかを、ぼくは若い人たちに知ってもらいたい。・・・・・」
(手塚治虫 ガラスの地球を救え48項~52項)

これは非常に重要なメッセージだと思った。いなむしろ、今日こそ手塚の不安がますます現実感を持つ状況に入っているのではないだろうか。教育の国家主義化、反動化が最も危険だと思う。
そう考えながら、改めて「アドルフに告ぐ」を読んで見た。そして何回も「そう、その通りだ!」と共感した。
私は改めてこの「マンガの神さま」のメッセージを噛みしめた。

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漫画「アドルフに告ぐ」とゾルゲ事件(1)


手塚治虫は晩年の大作「アドルフに告ぐ」について、こうも述べている。

「・・・・『アドルフに告ぐ』は、ぼくが戦争体験者として第2次世界大戦の記憶を記録しておきたかったためでもありますが、何よりも、現在の社会不安の根本原因が戦争勃発への不安であり、それにもかかわらず状況がそちらのほうへ流されていることへの絶望に対する、ぼくのメッセージとして描いてみたかったのです。
もう戦争時代は風化していき、大人が子供に伝える戦争の恐怖は、観念化され、説話化されてしまうのではないか。虚心坦懐に記録にとどめたいと思って『アドルフに告ぐ』を描きました。なかでも、全体主義が思想や言論を弾圧して、国家権力による暴力が、正義としてまかり通っていたことを強調しました。・・・・」
(ぼくのマンガ人生 手塚治虫 岩波新書 1997年 p92~93)

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手塚治虫記念館特別展示「アドフルに告ぐ」

この時点で、手塚は「戦争体験が風化」して、ふたたび戦争が勃発するのではないかという「不安」を述べ、「それにもかかわらず状況がそちらのほうへ流されていることへの『絶望』」とまで、強い表現で戦争への危機感を訴えていることに注目したい。そこには、経験したものでないとわからない実感があるのだろう。
それからまもなく20年近い年月が経た今日、もしも手塚が生きていたら、今日の世界状況、アジア情勢、日本国内の政治情勢をどう受け止めるだろうか。
昭和の終わりにまるで符節を合わせるように、亡くなったことが今更ながらに惜しまれる「マンガの神様」だったとつくづく思う。

周知の通り、漫画「アドルフに告ぐ」は、第二次世界大戦前後の日本及びドイツでの全体主義・軍国主義の時代を背景にしている。「アドルフ」というファーストネームを持つ3人の男達(アドルフ・ヒットラー、アドルフ・カウフマン、アドルフ・カミル)の物語を主軸として、「ヒトラーがユダヤ人の血を引く」という機密文書を巡って、2人のアドルフ少年の友情が巨大な歴史の流れに翻弄されて破綻していく回転劇。

そのなかで、作者自身の分身という「狂言回し役」の新聞記者をはじめ、実に多様な実在、架空の人物を登場させ、それぞれの数奇な人生を描いた作品だといわれている。
ともかく面白いから、ついついストーリーだけにはまってしまい、手塚治虫の問題意識を見逃してしまう。

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アドルフ・カウフマン

  ヒトラーがユダヤ人の血を引くのではないかという、一時流行した言説にヒントを得て、マンガならではの表現の融通性を十分生かし、虚実織り交ぜた面白おかしい物語展開。

もちろん、ヒトラー「ユダヤ人説」は、今日では学問的にはほとんど否定されているようだ。600万人ものユダヤ人を虐殺したという、ナチスの本家本元の張本人にユダヤ人の血が流れているというのだから、世界が引っくり返るような突飛な着想が刺激的だった。

これは「火の鳥」で「騎馬民族説」を採用した手塚の手法にもあてはまるが、一時世間で話題になった言説を、マンガならではの柔軟なストーリー展開に生かしたからだろう。手塚自身も認めていることだが、その面白さは、言葉で表現すれば「ナンセンス」な話しが、マンガだからこそ許されていて、それが創造性を獲得した。
ただし、面白さだけで満足してしまっては、もったいないなとも思う。

この物語では、ヒトラーの出生にかかわる「超秘密事項」をつかんだ共産主義者と、これを抹殺しようとするナチスの諜報関係者との壮絶な暗闘を日本とドイツを舞台に描いた。そこに歴史上の実在人物も含めて様々な個性の登場人物を織り込むことがでいた。そしていかにも手塚マンガらしい、起伏に富んだストーリーの面白さで人気を博した。

それに、手塚マンガの場合は悪役でも憎めない「可愛げ」があるのだ。柔らかい円を基調にした人や動物の描き方にその秘密があるように思うが、やはり根本的には、作者の育った宝塚の自然、そして比較的恵まれた家庭環境などが反映しているように思う。だから、かなり深刻なテーマを扱っているのだけど、そこにほっと救われる優しさがあるのではないだろうか。また、そう感じる工夫が意図的に挿入されている。

「アドルフに告ぐ」は今改めて読んで見ても、現代史を学ぶひとつの恰好の入門手引ではないかと思われる。そのうえで、あの時代の「真実」を更に自分なりに掘り下げていけばいいのだろう。

ヒトラーの秘密を暴露する出生証明書類を巡る角逐は、やがて当時の日本でゾルゲを頂点とする国際スパイ組織にまでたどり着くやに見えた。そこからソ連に送られれば、ヒトラーには致命的なダメージとなるだろう。ソ連だけではない。アメリカもフランスもこの情報を欲しがる。
その秘密をゾルゲに渡そうとする地下活動家と、これをなんとか阻止したいゲシュタポや特高刑事たちの、息詰まる壮絶な暗闘に思わずはまった。

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手塚治虫記念館に展示されたゾルゲ

その試みは、惜しくも実現直前で官憲によるスパイ組織の一世摘発のため実現しないのだが、特高にスパイ容疑で捕捉され尋問を受けるゾルゲがスパイとしての身上を白状する場面が第25章に描かれている。

ゾルゲが逮捕され自白する様子を描いているのだが、私にはやや唐突な印象を覚えた。いわゆる「ゾルゲ事件」が余りにも大きな背景があって、おそらく紙幅の制限で描ききれていないのが惜しい。

昭和16年10月18日、東条英機を首班とする内閣が成立した、まさにその日にゾルゲたちは逮捕された。そして、10月24日に東京拘置所の取調室で、とうとうゾルゲは自白。その場で大泣きする様子を手塚は克明に描いた。
ここに至るまでの「ゾルゲ事件」の経過は、別にもうひとつ大きな「物語」になりそうだ。

そこでいろいろ調べて見ると、まずこの自白のときのゾルゲの振る舞いは、確かに資料をもとに描いたようだ。
孫引きになるが、秦郁彦著「昭和史の謎を追う 上」(文芸春秋社刊 1993年)を引用すると、
「・・・・つまり、1941年秋のゾルゲは、『進も地獄、退くも地獄』という窮地に追いつめられていたわけだが、彼は死の直前までソ連と国際共産主義への忠誠を捨てず、毅然とした態度で通した。吉河検事は、逮捕から一週間後に東京拘置所の2階教誨室で彼が告白した瞬間の情景を次のように回想している(三国一朗『昭和史探訪』)。」

・・・・ゾルゲは下を向いて「紙をくれ」と言った。また、「鉛筆をくれ」と言った。渡してやると、その小さな紙片に書きました。自分で。「自分は1926年いらい国際共産主義者であった。今でもそうである。」とドイツ語で書いて、その紙を僕のほうへ投げるように差し出してきた。これはゆるぎない自白ですよ。
ぼくはびっくりしてゾルゲを見た。と、ゾルゲはいきなり上着を脱いで床に叩き付けて「負けた、はじめて負けた」と言って、こんどは机に手をついてワイワイ泣くんです。・・・・・・

Hero of the Soviet Union secret agent Richard Sorge.
Richard Sorge.

「アドルフに告ぐ」では、あくまでヒトラーの秘密の出生書類をめぐる闘いがストーリーの主旋律なのでやむを得ないが、ゾルゲほどの大スパイが最後になって身もふたもなく大泣きしながら自白に至った経過について、その背景までは詳述できなかったのだろう。

既述したように手塚は「正義」の名のもとに残酷なユダヤ人迫害が行われ、戦争が正当化された時代の暗部を書き遺したのだが、ゾルゲもまた「正義」を信じて国際共産主義に身を賭したわけで、秦郁彦氏が突き放した指摘をしているように、その志が成就したとはいいがたい。むしろ無慚にも裏切られた可能性さえ高い。

自白では「日本の警察に負けた」無念さを嘆いているように見えるが、実はゾルゲ自身もまた「正義」と信じた世界観があえなく破綻したことを、ここで暗示しているように私には思えた。
ここは、もう少し自分なりに調べてみたいところだ。

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漫画「アドルフに告ぐ」とゾルゲ事件(2)


調べてみると、ゾルゲ事件関連については、これまでにも多くの出版物があったことを知った。

ゾルゲ事件の真相を明らかにしようという試みは、敗戦後から始まった。日本のような極東の島国で、ましてや昭和前期の息苦しい閉鎖的な軍国主義の時代に、こんなに国際的なスケールの大事件が勃発したことは前代未聞だった。そもそも、西欧から最も遠く離れた「世界史の隅」の日本列島には似つかわしくないテーマに見える。それだけに、多くの研究者の研究意欲を強く刺激した面もあるのだろう。

何しろ、ゾルゲを頂点とするいわゆる「国際諜報団ラムゼイ」の活動領域はソ連、ドイツ、中国、日本にわたり、当時の複雑な国際政治や国内情勢を舞台にしている。このため、多数の世界史的人物が登場して相互に絡み合う事案であるだけに、これまでに多様な角度から研究されてきたようだ。
素人としては、いきなり専門的な研究書に入るよりも、まずはとっつき易い映像でおおまかな流れを押さえてみようと、2003年の映画「スパイ・ゾルゲ」を見てみた。

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リヒャルト・ゾルゲ

篠田正浩監督がライフワークと位置づけた大作映画だ。
コンピューターグラフィックスを駆使して昭和初期の上海や東京の情景を描き、人気俳優も多数登場させて20億円もかけたという。そのわりに、どうも面白くない映画だというのが当時の大方の感想だったらしいが、私自身はもっと別の感慨を持った。

思うにこの映画は、事件の背景を可能な限りその時代の状況において理解させるための苦心作であったのだろう。
21世紀初頭の平和な日本で、あの時代のリアリティーを再現するためには、実際の記録映像も入れて、どうしても説明調にならならざるを得なかったのではないだろうか。わずか80年前後の過去だが、同じ国とは思えないほどに風景も社会も異なるからだ。何より観客の時代感覚が決定的に違う。

その説明にとらわれたのでやむを得ないのかもしれないが、多数の細切れ事象を繋ぎ合わせたぶん、ぶつ切れの物語の羅列となって、全体として俯瞰すると、単調に見えてしまうきらいは確かにある。
しかし、戦前の昭和史を系統的に学びたいと思ったので、私にはおおいに参考になった。

1931年(昭和6年)生まれの篠田正浩監督は、敗戦の年には14歳だから、いわゆる「戦中派」最後の世代。きっと「軍国少年」たるべき教育を一方的に注入され、過酷な戦災と気の抜けるような敗戦を多感な心に刻印したであろう。変わり身の早いおとなの世代ではない。
ちょうど、木下恵介監督の「二十四の瞳」に登場する子供たちにあたる世代ではないだろうか。同世代には子供のうちに戦争の痛ましい犠牲者になった人が多い。大人たちの愚かな「失政」や「不始末」のお陰で、一番被害を受けた世代ではないだろうか。
「鐘のなる丘」という、戦災孤児たちの美しくも悲しい歌もあった。私ですら、歌の意味を知ったのはだいぶ後だった。

映画の説明くささは、暗黒の昭和初期に生い立ち、戦争を運命的に体験した一人として、現代日本との大きな落差を、なんとか埋めようと考えたからなのではないだろうか。屈託のない、いまどきの若者に、なんとか自分の育った時代をわからせたいと。

監督よりもすこし上の戦中世代を両親に持つ私には、そう思える。

あの時代の場面設定なしでは、ゾルゲや尾崎の真実は描けないからだ。もちろん、この映画だけでその難問を十分に解決できたかどうかは、確かに議論のあるところだろう。

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映画「スパイ・ゾルゲ」から。ゾルゲと尾崎秀実

篠田監督はゾルゲと尾崎に相当な思い入れをしたようだが、割り切っていえば、歴史事実に則しつつも、それはあくまで監督が理解したゾルゲや尾崎秀実であるに違いない。

映画では尾崎もゾルゲも単なるスパイではなくて、明確な政治思想を共有する「同志」であった。ゾルゲはコミンテルン(共産主義インタナショナル)に尾崎を推薦もした。ゾルゲはもともと共産主義の組織活動家であり、尾崎は「協力者」。思想的に共鳴したからこそ、互いに生死を共有する統一戦線ができた。二人は日本の植民地主義や帝国主義戦争には反対であり、当時唯一の社会主義国ソ連邦を護ろうとと動いた人なのであった。

映画製作は、昭和3年生まれの手塚治虫が昭和の終わりに「戦争の再来」への危機感を強く意識して「アドルフに告ぐ」を描いた意図とも繋がるのではないだろうか。漫画では共産主義者や自由主義者が「アカ」と呼ばれて激しい弾圧を受ける場面があった。史実に基づいている。

私は、娯楽作品としてのこの映画自体の出来栄えを、高みにたって批評するよりは(もちろん素人の私にはその能力もない)、この世代の人々の歴史体験に思いを馳せるきっかけにしたほうが意味があると思える。

テーマのシビアさを考えると、物語の娯楽性だけでたやすく結論を決め込んでしまうと、大事な視点を見落としはしないか。
「アドルフに告ぐ」もとても面白い長編漫画だが、その中には手塚の平和への願いが込められている。

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篠田正浩監督

そう考えると、「尾崎検挙」ではじめた直後に、列強の植民地支配に苦しむ昭和初期の上海の情景にスイッチ・バックしたことはうなずける。まずは日本帝国主義による中国政策の失敗があったことを強調するためだ。

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上海で中国人デモを弾圧する日本軍(映画「スパイ・ゾルゲ」

列強に食い荒らされる上海の実情に立ち会ったアグネス・スメドレーと尾崎秀実が、抑圧される人々への共感からゾルゲにつながっていく過程を諜報団の始まりに設定したことには、監督のゾルゲ事件「解釈」が鮮明に反映している。

しかし、この時点ではまだ尾崎秀実はゾルゲの正体を知らなかった。
尾崎には朝日新聞の「シナ専門家」として、搾取され抑圧される「シナ人」への同情があった。当時は数少ない「シナ問題」分析のスペシャリストだった。
一方のゾルゲはソ連赤軍第4部の諜報員として、日本の中国侵略の意図を探る任務を担うこととなった。

やがて二人はそれぞれのルートで日本に入り、ゾルゲの要請にもとずいて再び情報を交換し合うようになる。日本の対ソ連政策を探るためだった。このとき、尾崎は上海でアグネス・スメドレーから「ジョンソン」と紹介を受けた人物が、実は国際共産主義者「リヒャルト・ゾルゲ」であることを知った。
尾崎は最後まで共産党員ではなかったかもしれないが、この時代、日本帝国主義への反対を志向すれば、事の成り行きとして、共産主義のシンパになる必然性があったのだろう。

事実、妥協的な社会改良案ではもはや時代の深い闇を突破できないほどに、日本の国家体制の矛盾は行き詰まっていた。
私はその主たる遠因は明治維新の「歪み」そのものにもあるように思うが、映画のテーマではないので、これは別途検討してみたい。

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尾崎秀実

尾崎自身は家族に累が及ばないように、妻子にも自分の正体を明かさなかった。考え抜いた上での処置だろうと思う。検挙後の特高の肉体的拷問に屈して自白をせざるを得なかったものの、絞首刑の最後まで信念の情報提供者であって「金も受け取らず、国民を売ってはいない」としていたことが描かれている。篠田監督としては、ここは絶対に譲れなかったのだろう。

一方のゾルゲは、青年時代にドイツ帝国の理想に憧れ、第一次大戦世界大戦に参加したものの、3度の負傷にまみれただけでなく、ウイルヘルム2世の帝国主義政策の現実に失望、世界革命をめざす共産主義に傾倒する。同時期のドイツにはコミュニストになった青年が多かったようだ。映画では、背景に理想主義的な「インタナショナル」の歌が流れ、雰囲気を表現している。
私自身も学生時代のアルバイト仲間でひとり、見事にインタナショナルを歌った友人がいた。理想主義的な印象だった。

ゾルゲはその類まれな頭脳とコミンテルンでの行動力を買われ、赤軍第4部の優秀な諜報員として地下活動に専念すべく上海に、やがて日本の動向を探るために東京へ派遣されて来たのだった。以後、足掛け8年の日本での諜報活動は、驚くべきことに天皇が臨席する「御前会議」のトップ・シークレットまで正確に捕捉していた。

尾崎は「シナ問題」に精通したジャーナリストとして、とうとう近衛首相の朝飯会の一員に推薦され、やがて満州鉄道調査部に入った。こうして帝国のハイレベルの情報に接する立場を得た。一方のゾルゲは、表向き日本の政治経済事情に通じる優秀な専門家、ジャーナリストとして高い評価を受けていた。更に、ナチの党員証まで取得、ドイツ大使との個人的な信頼を得てまんまと大使館内に一室を提供されるまでになった。
かくて二人は高度な国家機密を徴集し、密かにモスクワへ送る位置を得た。

当時の日本の政治的・軍事的動向は、ゾルゲと尾崎が収集した高度な情報と正確な分析、評価を経て、そのままモスクワに筒抜けだったというのだから驚く。ゾルゲによると、ロンドンやワシントンよりも日本の国内情勢に精通していたのは、実にモスクワだった。

この分かりにくい閉鎖的な極東の島国を、この時代に比類なき正確さで分析してみせたインテリジェンスは凄い。
しかもスパイ行為だけでなく、対ソ連戦争を回避するために、あえて情報操作まで行ったらしい。今日の水準から見ても、よくもこんな大胆不敵なことができたものだと思う。

アメリカ帰りの沖縄出身者宮城與徳(アメリカ共産党員)や天才的な通信技師タウンゼント、フランスの通信社員ヴーケリッチなど一騎当千の諜報員や技師がゾルゲの脇を固めた。
80年前、歴史も文化も言語も異なる極東の異境で、「外国人」たちが命懸けの国家的諜報組織を維持運営するなどということは、並みの能力でできるわざではないと思う。それほど「コミュニズム」が思想としての魅力を持ち、有能な人材を得た時代だったのだ。

漫画「アドルフに告ぐ」で問題になったヒトラー出生の秘密は、このゾルゲ諜報団(ラムゼイ)に今一歩で繋がる寸前だった、という設定だった。

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リヒャルト・ゾルゲ(手塚治虫記念館)

ゾルゲの最大の諜報目的はソビエト防衛のため、日本の「北進」(シベリア侵略)意図を正確に読み取ることだった。折からのナチスの台頭で、東西の二正面作戦の危険性を回避したいスターリンにとっては必須の情報だった。
息を飲むような緊張感の諜報活動によって、「独ソ不可侵条約」違反のドイツ軍が東部戦線に170~90個師団以上を集結しているというトップ・シークレットをいち早くモスクワに打電。さらにはABCD包囲網に閉じ込められ「対日禁輸」で石油の枯渇に悩む日本に、北進の意図がないと通信したものの、その貴重なゾルゲ情報は当初採用されなかったようだ。映画ではスターリンのゾルゲへの強い猜疑心が原因であったとされるが、このスターリンの歴史的判断ミスは専門家の間では今も謎とされる。同種の情報は、ドイツに潜入したスパイからももたらされていたにもかかわらず。

ゾルゲの帰国を心待ちにしていた妻も、ゾルゲをドイツのスパイと断じた当局から粛清されてしまった。この時代のスターリニズムの非道さはこのサイトでも記してきた。ゾルゲを派遣した人々も失脚・粛清されていた。
同時代人にゾルゲ自身は「おお法螺ふき」「大酒のみ」「女たらし」と酷評されることが多いが、8年もの過酷な諜報活動では、正常な神経ではいられなくて当たり前だと思える。

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映画「スパイ・ゾルゲ」特高の摘発

目的がほぼ達成された昭和16年秋、任務を完了しつつあったゾルゲたちは帰国準備の直前に特高に検挙された。まさに東条英機内閣の成立の日であった。カリフォルニア出身の宮城が捕まったことから芋づる式に挙げられたわけで、まさに一網打尽の摘発だった。

これについては、元共産党員の伊藤律の裏切り原因説などがあったが、今だに決着が着いていないようだ。
行方不明だった伊藤律が突然、亡霊のように再登場したときの騒ぎを憶えているが、なぜこの人物がそんなに話題になったのか、当時の私にはわからなかった。

更に、冷戦崩壊後から旧ソ連や東ヨーロッパの情報が濾出し始め、新たなゾルゲ像が発掘されてきているようだし、中国、特に上海での活動実態などの研究はまだ未開拓だという。規模の大きな事件なので、これからも新しい発見や分析が期待できるのだろう。
ゾルゲ自身についてもドイツとの「二重スパイ説」が根強くあり、映画の中でも尾崎はそれを疑っている場面がある。国家やイデオロギーを股にかけた諜報活動というのは、まことに微妙だと感じた。
まだ確定していない研究課題も多いようだ。

いずれにせよ世界革命を目的に生きてきたゾルゲは、自分の帰るべき祖国がすでにスターリンの「一国共産主義」に変貌していて、まさに秦郁夫氏が指摘するとおり「進むも地獄退くも地獄」の事態であることをはっきり認識しつつも、最後まで国際共産主義者としてその生を全うしたことになっている。

しかしゾルゲが忠誠を尽くしたソ連はもはやない。結局、さしも稀代の大スパイ・ゾルゲも時代に翻弄されたのだった。
だから篠田監督はその祖国ソ連が「開祖レーニン」とともに崩壊する記録映像を挿入した。

2.26事件の青年将校もまた同じ位相で描かれている。
この時代の日本の深刻な経済不況は今日の比ではない。都市では大学を卒業しても職にありつけない失業者があふれ、農村の疲弊は目に余る惨状だった。
ゾルゲやアメリカ共産党員の宮城與徳の眼を通して、当時の東北農村の悲惨きわまりのない貧困振りを描いた。
駅で外国人に物乞いする子供や、売春街に身売りをせざるを得ない貧しい家庭の子女は、同時にまた青年将校たちの肉親であり、「尊皇討奸」を掲げる決起将校たちの強い叛乱動機になった。多くの国民が共感同情した理由もそこにある。
しかし、体制側の政府要人たちは、そこに「コミュニズム」との類似性を察知していた。
天皇を奉じた彼らの純粋な命を賭したクーデターは、逆に天皇によってあっさりと「賊軍」と裁断されてしまう。決起将校に同情的な軍首脳は、かえって叱責を受けたくらいだという。

こうみると、漫画「アドルフに告ぐ」で、幼馴染ながら最後は命を懸けた果し合いをせざるを得なかった二人の「アドルフ」と同じ位相になっていることに気付く。
つまり、「国家」や「民族」、「イデオロギー」、あるいは「信仰」を「正義」と信じて命を懸けた人々が、まさにその「正義」の故に裏切られ、無残に死んでいった「悲劇」を描かざるを得なかったところにこそ、あの戦争の時代を経験した人々の深刻な経験があるのだろう。

そこには上から強制される「正義」への強い「不信感」があるように思う。一見平和で、史上最も繁栄したか見える戦後の日本。だがその底流には戦争を経験した世代の、深い「虚無感」が漂う理由がそこにあるのではないだろうか。
根本的な問題は置き去りにされてきた。

歴史認識問題が何よりも日本人自身の中で決着しないまま戦後70年の時が過ぎた。これは「蟻の兵隊」でも指摘した。
たまたま生き残れた喜びは同時に、無残に死んだ仲間への負い目と裏腹だったのかもしれない。私たち戦後生まれにとってのヒーローには「戦争」の影を背負った人が多いと思う。大鵬もそうだった。司馬遼太郎の問題意識もここにあったようだ。

そういえば、全国民注視の中、ルバング島から帰還した横井庄一さんの最初の言葉は、ハンカチを眼にあてながら「恥ずかしながら帰って参りました」だった。たまたま一緒にテレビを見ていた叔父が、「そっとしてやって欲しい」とポツリと述べたことを今も思い出す。

そういう視点でこの映画を観た。

https://hiroshia55.wordpress.com/2015/06/16/%e3%80%8c%e3%82%a2%e3%83%89%e3%83%ab%e3%83%95%e3%81%ab%e5%91%8a%e3%81%90%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%82%be%e3%83%ab%e3%82%b2%e4%ba%8b%e4%bb%b63/


漫画「アドルフに告ぐ」とゾルゲ事件(3)


たぶん中学1年のときではなかったかと記憶するのだけど、「自分は元特高だった」と自称されていたYという英語の先生がいた。
今思い出しても、元特高なのに英語の先生というのも面白いが、私たち戦後生まれの生徒は「特高」というものがどんなものかよく分からないので、漠然と聞いていただけだったが。

Y先生は「英語にはリズム感があるのだ」とおっしやって、机の上を鞭みたいなもので叩きながらリズムをとって「ジッシズ・ア・ペン」みたいな抑揚をつけた音感で発音練習を施された。
先生は確か頭髪が天然パーマで、元特高というだけあってなるほどいかつい相貌をされていたけど、普段は生徒に優しい教師であったと記憶する。お昼の給食も、私たち生徒とともに仲良く一緒に食べていた光景を思い出す。

ただし宿題をサボったり、授業中にいたずらをすると、丸い木の棒で太もものところを「ピシャリ」と叩く。これがなかなか上手くて、叩かれた跡が残らないのにとても痛い。先生は「殴り方」のうまさを自慢されていたが、あの棒は怖かった。なるほどこれが元特高なのかなと、思ったものだ。
「体罰」など考えられない今日だが、私たちのころはもっとのんびりした田舎の学校生活だった。

Y先生は授業の合間に「見ろ、日本語というのは遅れた後進国の言語だ。書くのにやたら時間のかかる漢字があって、その上にひらがな、かたかななんて七面倒な文字がある。それにくらべると、英語は24文字で済む。この時間の差で日本は戦争に負けたんだ。しっかり英語を勉強せい。」みたいな話をされたことがあった。私は勉強が嫌いだったが、こんな雑談はよく覚えている。
Y先生が本当に元特高だったのか、そして日本語がそんなに遅れた後進性言語なのかは、私にはわからない。
ただ、戦時中の「特高」という言葉のニュアンスが、なんとなく具体的に想像できた。



昭和16年10月、東条内閣発足のまさにその日に一斉摘発で逮捕されたゾルゲやそのグループも、おそらく相当酷い扱いを受けたのだろう。(ゾルゲたち外国人は警視庁外事課が取り調べた)
例えば、沖縄出身のアメリカ共産党員で画家の宮城與徳は取り調べの最中、2階の窓から飛び降り自殺を図ったものの、死ぬことができなくて結局すべてを自白した。密室の拷問には耐えられなかったからだろう。素朴で献身的な諜報員だったようだ。そこから芋づる式にグループ全員が摘発された。
映画の中で、宮城は尾崎秀実に共産党員になった理由を、アメリカでの東洋人差別に加えて、沖縄人であるために日本人からも差別されたからだと述べている場面がある。細かい点だが見逃せない。
今も「沖縄問題」は、なんら本質的な解決をしていない。ゾルゲ時代の話では済まない。

その尾崎も素っ裸にされて竹刀で滅多打ちに殴打される場面がある。この時代に「アカ」のレッテルを貼られて当局に捕まることは、恐ろしい運命が待っていた。暗い軍国主義時代に「思想犯」「非国民」として断罪され人道にもる迫害を受けた人々の名誉は回復しているのだろうか。思想の成否は別として、まず人間としての正当な人権の回復が必要だと思う。



漫画「アドルフに告ぐ」では、共産主義者でなくても、日本の戦争政策に反対の意見を持つ教育者や自由・平和主義の文筆家たちが次々に激しい弾圧を受けた。当局の過酷な追及を逃げ回り、中には自ら首を吊って自死する人々が描かれている。
戦前の昭和初期とは、そんな暗黒時代だったのだろう。

手塚治虫は「ガラスの地球を救え」でこう述べている。

「人間狩り、大量虐殺、言論の弾圧という国家による暴力が、すべて”正義”としてまかり通っていた時代が現実にあったことが、・・・・ついこの間の厳然たる事実だったのです・・・・」(光文社知恵の森文庫 48ページ」
手塚にとっては同時代の事実だった。

「ぼくたちは、この世の中が百八十度転換して、昨日までは”黒”だったものが、きょうは”白”と、国家によって簡単にすり替えられた現実を目のあたりにしている世代ですから、その恐怖をなんとしてでも伝えたかった。・・・」(同49ページ)

今の憲法で思想・信条の自由が規定されているということが、どれほど大切な歴史的意味を持つか改めて痛感する。ここはGHQに感謝しなくてはなるまい。

「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」
(日本国憲法第19条)

日本国憲法
さらに、もし日本がソ連に占領されていたらどうなっただろうか。
それは、映画「戦場のピアニスト」や「カティンの森」で見たポーランドの運命に近いものになっていたのではないだろうか。つまり冷戦終了までは、窒息しそうな息苦しい全体主義の時代が続いていた可能性が高い。

政治権力の奪取に偏った「革命思想」には、根本的な欠陥が胚胎するように思う。権力行使がすべてに優先され、その間に目的と手段がひっくり返るという倒錯現象を生み、一番肝心な「人間」が等閑視されたのではないか。かくて権力は暴力によって徹底的に自己を正当化する。
それが国家を悪魔的な「人間抑圧システム」へと変貌させた。

冷戦終結は資本主義の勝利というよりは、「欠陥品」社会主義の内部崩壊なのだろう。それこそ「歴史的必然」。
一言で言えば「人間」を見失ったからではないか。たぶん、科学的社会主義イデオロギーには、その「人間観」になにか致命的な欠損があるのだろう。

一方、もちろん様々な矛盾はあったが、ともかくGHQに占領され、「自由主義諸国圏」に入れてもらって来たことは、戦後日本人にとって僥倖だったと言ってよいと思う。



さて、第一次大戦中のドイツで真面目に祖国を信じて戦い、三度も「名誉の」負傷をするほど献身的に貢献したものの、帝国主義戦争の無意味さを痛感した青年ゾルゲは、野戦病院の看護師や医師から社会主義意を学び、1919年にドイツ共産党に入党する。
そしてコミンテルンの理想主義的な運動に参加した。思い込んだら徹底する性格が伺われる。
ちょうど中国では五・四運動の年だ。毛沢東や周恩来が歴史に登場する頃にあたる。朝鮮半島でも「三・一独立運動」が起こった。

しかし、こと志とは違ってゾルゲの前途は決して恵まれた道ではなかった。

スターリンの登場でコミンテルンは変質してゆく。そのためにゾルゲも、所属をコミンテルンから赤軍諜報部に移さざるを得なかった(1929年)のは不本意だったようだ。それでも理想を捨てずに最後まで頑張ったのだろう。もう、元には戻れない。
そのミッションは、とうとう極東の日本にまで到達した。

この弱肉強食の野蛮な帝国主義の時代、世界で唯一の社会主義国家は東西両国境をナチス・ドイツと日本軍国主義に挟まれ、存亡の際にあった。独ソ不可侵条約(1939年)、三国同盟(1940年)、日ソ中立条約(1941年)という具合に仁義なき合従連衡が続く。

ゾルゲは持ち前の智力・体力を尽くして、はるか極東の異国に自分の主宰する諜報組織を見事に作り上げた。それは余人の追従を遥かに許さぬ達成と言っても過言ではないだろう。歴史も文化も異なる島国で、日本軍の「北進」を阻止するための諜報活動にあたった。場合によっては情報操作まで試みた。
ゾルゲの行動を活写した力作として「引き裂かれたスパイ」(上下 ロバート・ワイマント著 新潮文庫 平成15年刊)は、とても読み応えがあって参考になった。

この作品の特徴は訳者・西木正明氏の「あとがき」によると

「現代史の研究家や、このジャンルで仕事を続けている作家にとってゾルゲ事件は情報の宝庫といっていい。ゾルゲ事件を調べることによって、悲劇的なあの戦争の実相に迫れるだけではなく、副次的にさまざまな事柄をあぶり出すことが出来るからだ。
・・・・・本書は、通常の意味での翻訳とはいささか異なる作業の結果生まれたことを、読者におことわりしておかねばならないだろう。
すなわち、翻訳者によって原作の一部が削除ないし加筆されているのだ。当然ながらこのことは、通常の翻訳とは異なり、内容そのものについても、翻訳者が責任の一端を担うことを意味している・・・・
ゾルゲの生涯を描くことは、すなわちあの時代を描くことだと、長い間このテーマをあたためてきた。ゾルゲが命懸けで守ろうとした社会主義の祖国も、今やない。いろいろな意味で、深い感慨を覚えさせられた作業だった。・・・・」

また映画「スパイ・ゾルゲ」の篠田監督も次のように「解説」を寄せている

「・・・・すでに映画『スパイ・ゾルゲ』のシナリオは完成していて、製作の準備に入っていた。読了とともに、ワイマント氏の仕事を早く知っていたらと後悔したものである。ゾルゲ研究では最新の著作であることから、それまで先行した研究著作を上回る資料の発見、解釈の進展などが進み、私はある種の羨望さえ抱いたものである。・・・・リヒャルト・ゾルゲ事件を中心に据えなくては昭和の日本は見えて来ない・・・・・」

ゾルゲ引裂かれたスパイ

しかしその結末は、余りにも孤独で悲惨な最後を迎えたことになる。ときに46歳。

想像を絶する過酷な条件下での諜報活動で、身も心も荒んでゆくゾルゲ諜報団(リムゼイ)。頼みの綱の通信使クラウゼンも、夫婦ともに逃げ腰になってきた。身辺に迫る監視、尾行の恐怖に神経の休む暇もなかっただろう。ましてや閉鎖的な島国で、言葉の壁も大きい外国人だ。覚悟したこととはいえ、生身の人間、とうに限界点を超えていたことと思える。日本での諜報活動は、すでに8年を経過していた。

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ゾルゲの功績を讃える旧ソ連切手

しかも、もしも社会主義の祖国ソ連に帰ることができたとしても(そこには妻カーシャが待っていた)、スターリンの粛清にあうことがほぼ確実であった。鋭敏なゾルゲは充分それを自覚していたと思われる。
フルシチョフが回顧録で述べているとおり、ボルシェビキ革命の大多数の功労者がすでに抹殺されていた。

ちなみにフルシチョフ時代にゾルゲの名誉回復が行われ英雄に祭り上げられたのだが、「後の祭り」感は否めないし、それもまた権力者の「政治利用」に近い。
もともと社会矛盾の克服と理想世界の実現を描いて立ち上がり、命懸けで共産主義に飛び込んできた人々だけに、散々政治に利用された末路は悲惨だ。

切手になったゾルゲ

この間の事情は「国際スパイ ゾルゲの真実」(NHK取材班 下斗米伸夫 平成7年刊)が参考になった。
ロシアのマルクス・レーニン主義研究所元部長であったフィリソフ氏の証言を以下に引用しよう

「・・・・1920年代の終わり、コミンテルンによる国際共産主義運動は、スターリンの影響で政治方針を変化させていきました。・・・・・ゾルゲは、コミンテルンに導入された新しい方針に、反対の立場をとっていました。そして、1928年から29年にかけては、コミンテルンの議長だったプハーリンを筆頭に、そうした考えを持った人たちは、次々とコミンテルンから追い出されていったのです」(同書51ページ)

国際スパイゾルゲの真実_

特高の取り調べに対して、最後は大泣きして自白したというゾルゲの心境を想像するに、たんに日本の警察に負けたという以上の「敗北」を意味していたのではないか。

父はドイツ人、母はロシア人だった。両親の国どちらへも帰ることのできないゾルゲの末路は、縁もゆかりもない極東の異人たちの尋問と監獄、そして絞首刑だった。意地の悪いことに、これ見よがしにその日はソ連の革命記念日だったという。

私は自分が生まれ合わせた平和な戦後日本が、いかなる歴史的経過を経て今日に繋がったのか、父祖の時代を振り返って考えるときに、R・ゾルゲの数奇な軌跡がとても参考になると思った。
本当に気の塞ぐような暗い話だが、手塚治虫が言い残したように「ついこの間の厳然たる事実」だったのだ。

そして、今更ながらに「戦後体制」の有難さを噛みしめた。

https://hiroshia55.wordpress.com/2015/06/23/%e6%bc%ab%e7%94%bb%e3%80%8c%e3%82%a2%e3%83%89%e3%83%ab%e3%83%95%e3%81%ab%e5%91%8a%e3%81%90%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%82%be%e3%83%ab%e3%82%b2%e4%ba%8b%e4%bb%b6%ef%bc%94%ef%bc%89/


漫画「アドルフに告ぐ」とゾルゲ事件(4)


「国際スパイ ゾルゲの真実」(NHK取材班 下斗米伸夫 平成7年5月 角川文庫)は、ゾルゲ事件の真実に迫る名著だと思った。

特に独ソ戦(1941年6月22日)勃発前後から約半年の諜報戦は、まさに迫真の史実だったことがよくわかった。
不可侵条約(39年)を一方的に破棄したナチス・ドイツの、不意打ちともいうべき大侵略を西から受けながら、存亡の際に立ったソ連とスターリンの最大の関心事は東側の日本の出方だった。日本にどれくらいの「北進」の可能性があるかを探るゾルゲ諜報団の活動は、この時期まさにその真骨頂が発揮されたといって過言ではない。

日本自身の中にも、卑しいことながらドイツの攻勢を「好機到来」と見て三国同盟を根拠に「日ソ中立条約」を破棄して参戦すべきと公言する者がいた。あるいは、ナチスに食い荒らされて、ソ連が抵抗力を失ったあとでシベリヤを無傷で頂けば良いという、姑息な意見もあったようだ。
これが武士道の国とは思えないような、政治家や軍人がいたのだった。そこに繋がって金儲けした者もいた。

昭和16年秋、それまで荒波にもまれる小船のように翻弄された挙句、日本は南部仏印進駐に舵を切った。それは長引く日中戦争の始末に行き詰まり、ABCD包囲網に封じ込められ、まるで窮鼠猫を噛むがごとき最悪の選択だった。
今更言っても始まらないが、米英との軍事衝突は無謀際まりのない国策上の大失敗だった。こうして戦争指導者は何も真相を知らされていない全国民と、アジアの罪なき人々を一気に奈落へ突き落とした。
まさに地獄の始まりだった。

多くの日本人がのぼせて上がって自らを見失っていたとき、ゾルゲは的確に帝国日本の破滅を予測してモスクワに報告していたのだった。

ゾルゲの日本人妻・石井光子へのインタビューによると、この昭和16年10月4日、まさに逮捕の半月前、私服刑事が周囲を見張る銀座のレストランでゾルゲと光子にこんな会話があったという。

「・・・・日本がアメリカと戦争をするというのよ。・・・・私は、・・・・日本は日米交渉でうまくやるって言ってやった。・・・・・そうしたらゾルゲは、いや、・・・・日本は電撃戦やるって言ったの。私はそのとき、そうかなあ、と思ってたら、(その後)日本は本当に宣戦布告しないで戦争をやったものね。・・・・」

そして
「・・・・『アメリカはモノイイデキマス。絶対に日本は勝てない。やったら負け、必ず負ける』ってそう言ってた・・・・」とも証言している。

直後の17日、ゾルゲは逮捕された。
そして12月8日、日本は本当に真珠湾奇襲を敢行してしまった。

巻末に付された解説文を参照してみよう。

国際スパイゾルゲの真実

「・・・・ゾルゲは、単なるソ連のスパイというには巨大であり、スターリン体制と、天皇制国家、そしてナチス・ドイツの運命にかかわった人物として・・・・・多くの人物によって論じられてきた。」(p263 下斗米伸夫)

「・・・・このことは、ゾルゲ事件の一つの性格を物語る。とくにゾルゲや尾崎は情報を入手し、それを通報するというよりも、それ自体が情報源であるような存在だった・・・・」(p298  尾崎秀樹)

「・・・・ゾルゲは個々の情報をそのまま通報しているわけではない。今回公表されたKGB文書のラムゼイ報告を見ても明らかなように、ゾルゲは入手した情報を綜合し分析した上で、それぞれの答えを出していた。指令に応じたものだけでなく、独自の判断でとりあげた問題もある。三国同盟の締結、独ソ戦開始の時期、北進から南方への対外政策の切り替えなど、最高機密に属する情報が多く、しかもそれを正確につかんでおり、報告そのものは短文だが、その裏に秘められたゾルゲの的確な状況の把握が感じられる・・・。」(同 p307)

これらの解説は、この事件の規模の大きさとゾルゲの卓越したな情報戦を物語っている。

漫画アドルフに告ぐ

漫画「アドルフに告ぐ」では大阪憲兵隊長の子息でありながら「アカ」の地下活動に従事、父の部屋に入って軍事機密を接写して「ラムゼイ」に送る「本多芳男」が登場する。機密文書をこっそり高性能写真で撮るという行為は、実際にゾルゲがドイツ大使館で行ったことだった。

また、芳男が機密文書をもうひとりの地下活動家に手渡す場面がある。互いにまったく見知らぬ地下活動家どうしだが、予め所定の書店の店先でお互いの「暗号」を交わす。
芳男の合図は「私はこの本をとてもおもしろく読みました。一番おもしろいのは25ページです。」、相手は「おれは73ページが一番おもしろいと思うね」と応じている。
これで互いの了解工作は完了して、その直後に芳男はしおりに入れた写真のネガを書籍にはさんで渡す。例のヒトラーの出生書類だ。

これは、実は獄中で書いた「ゾルゲの手記」(みすず書房 現代史資料1962年)に類似の記述があるので、これを手塚治虫が読んでヒントを得たのだろうと思われる。

たとえば、手記の中でゾルゲはこう記している
「・・・・彼ら(伝書使)との連絡は、モスクワと打ち合わせたうえで行われた。連絡の場所、日取り、面会方法に関する条件などすべて無線で打ち合わせるのであった。伝書使とわれわれがお互いを知らない場合は、特別な標識、合図の言葉、お互いを確認するための一連の文句を無線で打ち合わせて決めた・・・・」と、具体的ないくつかの事例を挙げている。

このゾルゲの手記は、獄中で書き残されたもので、冒頭に
「左に掲ぐるはゾルゲの取調に当り、本人に作製せしめたる手記にして独逸大使館関係コミンテルン及日本に派遣された経緯、支那時代、諜報活動関係、連絡方法、其の他6項目に亙り、其の内容は今後の検挙取締上熟読玩味すべきものあり。」
と解説文のあることから、ゾルゲ事件の取調官や裁判関係者に資料として提供されたものであることがわかる。

当然ながら獄中の被疑者であるゾルゲ自身も、その意図を充分認識しており、自分の置かれた状況を鋭敏に考量したうえで書いたに違いない。
この手記がどう取り扱われれるか、きっとあらゆる可能性を想定しながら慎重に作成したのであろう。
おそらく、彼はこの手記がたんに当面する裁判記録としてだけではなくて、自分自身のいわば「人間記録」として後世に残ることをも予測していたはずだ。

だからゾルゲの人となりを再現する上で、とても興味深い第一級の資料だ。そう考えてこの手記を、それこそ「熟読」することには、今日の時点でも大いに意味があるように思った。

切手になったゾルゲ
旧ソ連で切手になっをたゾルゲ

歴史的な背景を確認しながらその人生を詳細に追うことは、第1次大戦から第2次大戦に至る「戦争と革命の時代」20世紀を、リヒャルト・ゾルゲに沿って学ぶことにもなると思われる。
そして、ゾルゲ評価の分かれ様はまた、第2次大戦後から今日までの現代史を読み解く、それぞれの史観や政治的立場の違いに由来するのだろう。

それほどにゾルゲの存在は大きい。

https://hiroshia55.wordpress.com/2015/06/30/%e6%bc%ab%e7%94%bb%e3%80%8c%e3%82%a2%e3%83%89%e3%83%ab%e3%83%95%e3%81%ab%e5%91%8a%e3%81%90%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%82%be%e3%83%ab%e3%82%b2%e4%ba%8b%e4%bb%b65%ef%bc%89/


漫画「アドルフに告ぐ」とゾルゲ事件(5)


昭和18年9月29日東京刑事地方裁判所第9部の判決文を読んでいて、興味深い文面に気づいた。

この判決でリヒャルト・ゾルゲは死刑判決を受けているが、判決理由の冒頭にわざわざ大袈裟な表現で
「被告人は嘗て『カール・マルクス』が『第一インターナショナル』を創設したる当時其の書記として活動したる『アドルフ・ゾルゲ』の孫にして・・・・」
とあるのには、この時代の雰囲気が感じられて興味深い。

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みすず書房 現代史資料

まるで、極悪人「カール・マルクス」の直系の血を引くおどろおどろしき悪漢の一族、といった描き方なのだ。なにか時代劇の捕り物の口上のような始まりなのだが、この事件当時の日本の治安当局が共産主義者をどう見ていたかを雄弁に物語っているように思われる。
言葉つきも、いかにも権力者顔なのだ。

では、同じ資料の中に収録されているゾルゲの手記をあったってみよう。ゾルゲは本当にいわば「悪の血筋」なのだろうか。

みすず書房 1962年刊の「現代史資料 ゾルゲ事件1」には(一)と(二)に分かれて手記が収録されていて、同書の解説によると

「・・・・本文テキスト(一)は、内務省警保局偏『昭和17年中に於ける外事警察の概況』の512-35ページに拠る。本文の最初にある特高警察の前書によれば『左に揚ぐるはゾルゲの取調に当り、本人に作製せしめたる手記にして、・・・・・その内容は今後の検挙取締上熟読玩味すべきすべきものあり』と書かれているが、おそらく本テキストは、1941年10月18日検挙されたゾルゲの、ほぼその一週間後27日月曜日(毎日9時より3時まで)より開始された司法警察官に対するき供述の内容を基として、特高警察が内部用にサム・アップし、手記の形式に整えたものではないかと想像される。従って本テキストは判決のさい証拠として採用されていない。・・・・真に手記というべきものは本書にリヒアルト・ゾルゲの手記(二)として掲載されているもので、ゾルゲが検事に対し、自らタイプして提示したものである・・・・・」
とある。

つまり手記は二つ残っていて、(一)は
「・・・司法警察官の訊問調書が本書に収録されていないために、この時期のゾルゲの供述は、本テキストによって知るほかない。」性質の資料であって、取調べ書記の内容を反映しており、(2)については
「1941年10月以降、ゾルゲ自身がタイプで打った原稿(ドイツ語)に基づくものである。生駒佳年氏(当時東京外語教授)によるその邦訳全文は1942年2月、司法省刑事局刊『ゾルゲ事件資料』(2)に前半を、1942年4月司法省刑事局刊『ゾルゲ事件資料』(3)に後半が印刷され、政府の関係者に配布された。・・・・・」ものという。
また、「生駒氏の訳された日本文は英訳されて、1951年8月のアメリカ下院非米委聴問会において、証拠書類として提出された・・・・」(いずれも同書)
とあるが、別途後述するように、戦後冷戦期のマッカーシズム時代に占領軍GⅡのウイロビーにも「利用」された。それは、冷戦を反映して共産主義の恐ろしさを宣伝するためだった。そのためハリウッドは「冬の時代」を経験した。

ゾルゲ事件担当検事であった吉河光貞氏が1949年2月19日、極東軍GⅡの命によって提出した供述書によると

「1941年10月私は東京地方裁判所検事局に勤務を命じられていた検事でありました。・・・・・当時東京拘置所に拘禁されておりましたリヒャルト・ゾルゲに関し、検事の取調を行うよう命ぜられました。私は取調を1942年5月まで行いました。・・・・・取調べの進行中、リヒャルト・ゾルゲは、すすんで私に対し、彼の諜報行動の全体のアウトラインに関する記述を作製の上、提出したいと提議しました、この提案によって、リヒャルト・ゾルゲは私の目前で検事取調室において、ドイツ語でその供述を作製しました・・・・その供述の1章または1節のタイプが終わると、ゾルゲは私の前で読み、私のいる前で、削除や追加をしたのち、私の方へ手渡したのです・・・」
吉河氏の述べるところによると、氏自身ドイツ語も英語も不十分だったが、ゾルゲは話がむつかしくなるので通訳を取調べに入れることには反対したという。そこで吉河検事は不十分ながら辞書の助けをかりながら手記や訊問調書をゾルゲとともに合作したという。原文はドイツ語なのだろう。
そして、取調べのおわたったあと生駒氏が正式の通訳に採用され、日本語翻訳文を作製したものらしい。ドイツ語の記述についても異論ないかどうかゾルゲに訊ねたうえでゾルゲの署名を付した。
このときのドイツ語の唯一の原文テキストは司法省の戦災で亡失しているが、訊問調書の写しは保存されていて、戦後アメリカ占領軍によって没収されたという。
ただし、この手記が起訴の材料にまでなるとは、ゾルゲ自身は書くとにきは知らなかったらしい。

このときの「言葉の壁」が、取調べに大きな困難を与えたことも興味深い。ゾルゲに通訳として接した生駒氏が後年に貴重な回想を残している。
「・・・・・本来ならば検事の取調べと予審廷での訊問は別の通事を用いなければならないのだが、その時は他に人がいなかった為再び私が通事を依頼される仕儀となった・・・・」(同現代史資料)

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戦後進駐軍に接収されたあとの「巣鴨プリズン」

この当時の日本で、ドイツ語を母国語とする外国人を取調べ、裁判にかけることがいかに困難な作業であったかを彷彿させると同時に、故郷から遠く離れた極東の異国で、言葉も満足に通じないなか、刑事被告人として極刑も想定しながらの孤独な獄中生活を送ったゾルゲの心中も思いやられる。

ところで本題にもどって、ゾルゲが祖父の思想的影響をどれだけ受けていたかというと、この手記を読む限り、そうはいえない。
たとえば手記(二)第3章 「ドイツ共産党員としての私の経歴」(同現代史資料214項)を紹介すると

「1914年から1918年にわたる世界大戦は、私の全生涯に深刻な影響を与えた。・・・・私はこの戦争だけでりっぱに共産主義者になったものとおもう。・・・・・」とあるし、肝心の祖父については
「・・・・私は、祖父が労働運動に尽くしていたことを知っていた。そして父の考えは祖父の考えとはまるで正反対だったことも知っている。・・・・」
と客観的な記述があるが、そのこととゾルゲが共産主義を主体的に選んだこととの因果関係は読み取れない。

判決文そのものは、そのあと事細かな罪状を大量かつ克明に書き連ねていて、読んでいても飽きるほどだが、そこは役人仕事でおそらくゾルゲの証言を正確に逐次反映した内容なのだろう。しかし、ゾルゲと取調べ側との間には神経戦にも似た取引があって、それ相応の妥協や合意はもちろんあったようだ。更には日本側でも固有の国内事情があって、特に軍部の憲兵隊と内務省管轄の特高警察との縄張り争い、反目も指摘されている。こうした複雑な状況の中での「国際諜報団」は摘発され、取調べを受け、そして裁判、判決と進んだのであったのだ。
最終的に上告棄却は昭和19年1月。

特高側も最初からゾルゲや尾崎のような大物が網にかかると想定していたわけではなかった。日本人共産主義者を虱潰しに取り締まり検挙しているうちに、芋づる式に宮城にたどり着いた。ところが宮城が取調べ室の2階から飛び降り自殺をはかるにおよび、事案の大きな展開がはじめて予想されたようだ。そして当初の想定外となる大掛かりな国際ネットワークにたどり着いたようだ。

検挙(41年10月)後の司法省の発表は翌1942年6月16日で、ゾルゲや尾崎の検事調書が済み、証拠堅めが成ったあとだった。国民一般に周知されたのはこれが初めてだった。

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その中の司法内務両当局談には
「国際諜報団事件については、捜査当局の不眠不休の努力の結果やうやくその全貌を明白ならしめ、不逞組織を根柢より覆滅することを得たのであるが、大東亜戦争の開始に先立ち、これを検挙することを得たについては真に関係当局の労を多としなければならない・・・・」(同542項)
「・・・当局としては、今次事犯の経験に鑑み、この種不逞分子に対する取締を一層強化しその徹底を図ると共に・・・・」(同)と記している。
そして「・・・・上層部その他の有識層の各位において、軽々に国際的秘密事項に関する論議をなし不識の間に秘密事項を察知せられるが如きなきやう格段の自粛自戒を切望してやまない・・・」(同543項)
といった具合に取り締まり方の権威をもって居丈高に関係者を恫喝している。剥き出しの権力意思だ。

ともかくいきなり「不逞組織」であり「不逞分子」と決めつけて憚らない。しかも「治安維持法違反」の罪科を適用するために、国体変革や私有財産制を否定する革命運動と強引に関連付けた恣意性があるのではないかという印象は否めない。そもそもゾルゲの諜報活動はソ連のための行動であって、日本共産党の非合法活動と直接の連携はない。また、ソ連当局からは、ゾルゲたちは現地共産党と連携することは厳しく禁じられていたと手記でも予審でもゾルゲは述べている。
それにゾルゲの身分は、すでにコミンテルンからははずれていた。スパイ行為だから「国防保安法」や「軍機保護法違反」「軍用資源秘密保護法」違反に問われることはゾルゲたちも覚悟のうえだろう。しかし、日本の共産主義革命を取り締まる「治安維持法」違反で外国人を裁くのは、やや無理筋を感じる。手記を見てみよう。

「・・・・かくして、コミンテルンから分離された結果、私に課せられた任務の性質にははっきりした変化が認められた。私は、中国及び日本の共産党とは一切の交渉を禁ぜられ、勝手に会うことは勿論、彼らを援助することも許されなかった・・・・」(同141項)
「・・・・組織上私がモスクワとそんな関係にあるかという点については、私には何らの説明を与えらなかった。従って、私は一体どんな機関に所属しているのか不明であった。また、私の方からも敢えてこの点について尋ねてみることをしなかった・・・・私がいろいろと考えてみた結果得た結論は・・・・党の最高部、従ってソヴィエト政府の最高部で使用されたことは確かである・・・・」(同142項)
「・・・以上を要約するとこういうことになる。
私は、日本におけるスパイ団の長として直接、かつ専らソヴィエト共産党中央委員会との間に関係を持っていた。なお、私の仕事の技術面と若干の諜報活動については赤軍の第4本部にも属していた。前にも述べたように、コミンテルンと私の関係は単に間接的なものにすぎなかった。・・・」(同143項)
微妙な言い回しながら、日本における共産主義革命には直接関与していないと、はっきり述べているのである。

しかし、ソ連赤軍の配下であることだけを衝かれると憲兵隊にまわされかねない。特高がこの事件をあくまで自分たちの縄張りで裁こうとした思惑が「治安維持法」適用にはあったのだろう。当初取調べにあたった警察庁外事課の大橋部長の証言では、ゾルゲも憲兵に捕まると、いきなり銃殺になるのではないかと恐れたから、特高の説得に応じたのだという。手記はこうした事情を反映した「合作」なのではないだろうか。

この段階では、まだゾルゲは助かる可能性に希望を持っていたようだ。確かにスパイではあっても同盟国のドイツ人であり、ドイツ側がどうでるか不明であったし、肝心のソ連とも日ソ中立条約を結んでいるので、その動向も含めてゾルゲにはまだ充分な可能性があると思えたのだろう。
かつて上海では蒋介石政府のもとで「ヌーラン事件」といって類似の事例があったが、最終的にソ連の干渉でスパイは国外退去というかたちで命拾いしている。
しかしその後のソ連のゾルゲ事件への態度(まったく無視だった)や、国際関係の展開過程と戦時下の日本という異常な条件の中では、不幸にしてゾルゲの願いは叶わなかった。
こうして刑は確定した。

「 本件上告はこれを棄却す。  昭和19年1月20日

大審院第一刑事部」

いずれにせよ、手塚治虫の傑作漫画「アドルフに告ぐ」に描かれた、「アカ」と呼ばれた人々に対する残酷な人権侵害は、こうした政情の中で堂々と正当化された暗黒時代だった。治安維持法は拡大解釈され、共産主義者以外の人々も容赦なく罪に落とした。戦争に反対する人は無論、政府の政策に疑問を表明する人はたちまち「アカ」として残虐な取り締まりを受け、その家族は「非国民」として社会から葬り去られた。国家神道に従わない宗教も徹底的に弾圧された。
「自由」が完全に窒息していた。

この判決文冒頭の表現や司法内務当局発表文も、そうした社会状況を反映しているのであろう。亡くなった叔父がよく「・・・大正生まれは本当に(歴史の)被害者で損だった」と問わず語りに話してくれた言葉を思い出す。

同書巻末の「歴史の中での『ゾルゲ事件』」によると、

「・・・・1941年10月ゾルゲら検挙の報は、日本の支配層に電撃のように伝わった。それは、厖大な流言の洪水を招いた。・・・・・一般の人民は、つぎの司法省の発表まで、何も知らされることがなかった。それは、検挙の翌年1942年6月16日・・・」とあり、更に
「この発表ののち、敗戦まで日本国民がゾルゲ事件についてふたたび聞くことはなかった。ゾルゲの刑死したのは、1944年11月7日、ロシア革命記念日であったが、その発表は行われなかった。・・・・」とある。

戦時中の国民には、なにも本当のことは知らされていなかった。戦争指導者の責任は絶対に免れない。わずか70数年前のことだ。その時代に生きた手塚治虫は、確かに歴史の酷い真相を語り残していたのだと思った。



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