イギリスにおける労働者階級の状態 フリードリヒ・エンゲルス  1845年に出版されたこの本を読もうと思ったのは、市場主義化、非正規化、ホームレス化がすすむ現在の経済社会は、ふたたび社会主義が興隆する前の資本主義に姿が似てくるのではないかと思ったからだ。なにものにも権利や保障、人権が守られないかつての資本主義にげんざいの社会は戻ろうとしているのである。ストライキや労働争議が頻発し、社会主義が勃興した資本主義の前夜にふたたび戻ろうとしているのである。歴史に学べということである。それにしても現在の労働条件の引き落としは、いったい歴史になにを学んできたのかという思いがする。
























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『イギリスにおける労働者階級の状態(上)』 フリードリヒ・エンゲルス
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イギリスにおける労働者階級の状態―19世紀のロンドンとマンチェスター (上) (岩波文庫)
 フリードリヒ・エンゲルス

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 書店で上巻が入手できなくて下巻から読みはじめたが、この本は上巻から読みはじめなければ、その感動はつたわってこないだろう。

 悲惨で壮絶な19世紀のイギリス労働者階級の住居や労働、暮らしがつづられており、エンゲルスの怒りや悲しみ、憐れみ、窮状を訴える声は感動的ですらある。「なんとかしなければ」、「どうにしかなければ」という気持ちがありありとつたわってくる名著とよべるほどの書物になっている。エンゲルスはとてもマルクスの脇役といった程度の人ではないと思った。

 マンチェスターやイギリス各都市の労働者の貧民窟やスラムの窮状が事細かに記録され、経済的になぜこうなったのか、アイルランド人はどのような壮絶な暮らしをしているのかといったことがつぶさに描かれ、このような「社会的殺人」を許すべきではないといったエンゲルスの怒りや哀れみがときには激情的に記される。

「中産階級(現代の用法とはちがうがブルジョワジーのこと)のねらいは――ことばではどういおうとも――労働の生産物を売ることができるかぎりは諸君の労働で私腹を肥やし、こうした間接的な人肉商売から利益をあげることができなくなるいなや、諸君を餓死にゆだねることにほかならないのだ」



 ブルジョアジーの利己性や非人間性を徹底的にエンゲルスは批判するのである。

「もとより餓死者はつねに少数にすぎない。だが、あすにはその列にくわわらないというどのような保証が労働者にあるのか。だれが労働者に地位を保証してくれるのか。……すすんで働く気があれば仕事は手に入ること、誠実、勤勉、節約、さらに賢明なブルジョアジーが労働者にすすめる多くの美徳が、すべて労働者にとって真に幸福への道であることを、いったいだれが労働者に保証してくれるのか。
……そしてあすもまだなにかがあるかどうかは、まったく他人まかせであることを彼らは知っている。風向きがかわれば、雇用者の気がかわれば、商売の景気が悪くなれば、一時的に抜け出すことのできた乱流のなかに突きもどされるかもしれず、そこへ巻きこまれると浮かびあがることはむずかしく、しばしば不可能であることを彼らは知っている。きょうは生きられても、あすも生きていられるかどうかはまことに不確実であることを彼らは知っている」



 労働者は雇用され労賃を得て生活の糧を得る存在でしかないから、雇用がなくなれば、いつ貧困や餓死の危険性にさらされるかわからない。イギリスのあちこちの都市では膨大な貧民窟が形成されている。労働者のだれもが等しくこのような境遇に陥るかもしれなかったのである。

「勤勉かつ有能で、ロンドンのあらゆる富者よりもはるかに尊敬に値する何千もの家族が、人間に値しないようなこのような状態にあるのだ、どのプロレタリアも例外なしにみな、自分のせいではなしに、またどれほど努力していても、同じ運命におちいるかもしれないのだ、とわたしは主張する。
……ただ泊まる場所だけでもある者はまだましである。……ロンドンでは、その晩どこに寝たらよいかわからない人が五万人、毎朝目をさます」



「これらの労働者は自分自身ではまったく財産をもたずに労賃で生活しており、労賃はほとんどつねにその日ぐらしの資である。単なる諸原子に解体した社会は労働者のことなど配慮しない。自分自身と家族の面倒を見ることを労働者にまかせてしまっておきながら、こうしたことを有効かつ継続的におこなうことのできる手段を労働者にあたえない。だからどの労働者も、もっともめぐまれた労働者さえも、つねに失業、つまり餓死の危険にさらされているのであり、また多くの労働者が飢えで死ぬのである」



「あるいはドイツ式にいえば、労働者は法律上も事実上も、有産階級の、ブルジョアジーの奴隷である。商品のように売られ、商品のように価格が上下するほどにも奴隷なのである。……需要が減少すると、価格も下落する。需要がひじょうに後退し、一定数の労働者が売れずに「在庫する」と、労働者はまさに滞貨する。そしてただ滞貨しているだけでは生きてられないので、労働者は空腹で死ぬのである。
……古代の正真正銘の奴隷身分とのちがいは、ただこんにちの労働者が自由であるように見えることだけである。それは労働者が一挙に売られず、一日ごと、一週間ごと、一年ごとに切り売りされるからであり、またある所有者が別の所有者に労働者を売るのではなくて、労働者が自分自身でそのような売りかたをしなければならないからである。それというのも、労働者がある有産者の奴隷ではなく、有産階級の奴隷であるためである」



 こんにち表立って労働者が奴隷であるということがいわれることは少なくなった。このエンゲルスのことばを聞いていると、こんにちでもなにひとつ条件が変わっていないことに気づかされる。自由であるようにみえ、みずからが商品として売り出すがゆえに気づかないだけという。

 アイルランド人は低賃金で最貧困の生活を余儀なくされている。いったら、今日の日本にとって低賃金の中国や東南アジアのような存在であり、アメリカの低賃金労働をささえる移民たちのようなものである。19世紀に「世界の工場」とよばれたイギリスのような先進国でも、すぐ足元には膨大な低賃金の貧困層を抱えなければならなかったのである。

彼らはぼろいをまとい、すさんだ笑いをうかべ、腕力と堅固な背中さえあればよい仕事だったら、なんでもするかまえである――ジャガイモしか買えないような賃金で。……彼は豚小屋犬小屋であればどこでも満足しきって眠り、納屋に腰をすえ、ぼろ服を着ている。……サクソン人はこのような条件で働くことができず、失業することになる」



労働者の欠点はおおむねすべて、享楽欲に自制がなく、先見の明に欠け、社会秩序への適合が十分でないこと、要するに目先の享楽をもっと先の利益のために犠牲にすることができないことに帰せられる。
……過酷な労働と引き換えに、わずかな、そしてきわめて肉欲的な享楽しか買いとることができない一階級が、こうした享楽にわれを忘れてはならないというのであろうか? だれも教育の面倒を見てくれず、ありとあらゆる偶然に左右され、生活状態の安定をまったく知らない一階級が、どういうわけで、なんのために、先見の明を働かせ、「まともな」生活を送り、一瞬の好機から利益をえるかわりに自分たちにとって、また自分たちの永遠の動揺と変転を繰り返す地位にとって、またひじょうに不確実であるずっと先の享楽を考えろというのであろうか?」



 つねに下層に属する者たちは社会から批判される。しかしそのような批判される性向はすべてほかの社会の成員たちが用意し、おとしめた入れ物であるのだが、そこに落としこんでおきながら、自分たちはなにひとつ知らず、かれらの性向ゆえにそこに落ち込んだと非難されるのである。

「……それは個人の行為とまさに同じように殺人である。……殺人とは思えないような殺人というだけのことである。殺人犯の姿が見えないからであり、全員が殺人犯でありながら、それでいてだれも殺人犯でないからであり、いけにえの死が自然死に見えるからであり、そしてこの殺人は作為犯というよりも不作為犯だからである。



 エンゲルスは労働者を貧困や飢餓に追い込むことを「社会的殺人」と名づける。社会のすべての成員が労働者階級を社会的に殺していると突きつけるのである。もしわれわれの社会でもホームレスや餓死者が存在するのなら、私たちも知らず知らずのうちに殺人に手を貸していることになるのである。

「労働者のあいだで見られる堕落のもう一つの原因は、労働が罰であることである。自発的な生産活動がわれわれの知る最高の喜びであるならば、強制労働はもっとも過酷で、もっとも屈辱的な苦痛である。毎日朝から晩まで気の進まぬことをしなければならないことほど、ぞっとすることはない。
……いったいかれらはなんのために働くのか。……彼らが働くのはかねのため、労働そのものとはまったくなんの関係もないことがらのためである。
……そのうえ、ひじょうに長時間、休みなしでまったく単調な作業をつづけるので、彼らに人間的な感情がまだ少しでもあれば、これだけでも労働は最初の数週間ではやくも苦痛とならずにはいないのである。分業は強制労働の動物化作用をさらに何倍にもする」



 これはこんにちでも変わらない分業社会の陰鬱にならざるをえない労働の本質であるだろう。単調で意味がなく、目的は生活の資であり、労働自体ではない。私たちは生活の必要のためにますます自分のためではない労働に生活を奪われなければならないのである。

「このような家父長的関係のもとでは、ブルジョアジーは労働者に反抗される心配がまずかなったからである。ブルジョアジーは労働者を心ゆくまで搾取し、支配することができたし、彼らに賃金のほかに、かねのかからない多少の親切と、おそらくは少しばかりの利益をあたえれば、おろかな民衆から服従と、感謝と、好意をお返しに受けとった。
……自分の雇主から一歩離れて、雇主とは私的利益を通じての、かねもうけを通じてのつながりしかないことが明白になったとき、ほんのささいな試練にさえ耐えられなかったみせかけの愛着が完全になくなったとき、このときはじめて労働者は自分の地位と利益を認識しはじめ、自立的発展をはじめた。このときはじめて労働者は、自分の思想や、感情や、意思表示の上でも、ブルジョアジーの奴隷であることをやめた」



 なんだかこれは家族や夫婦の愛をいっていることのようにも思える。

 引用が長くなりすぎたが、この本はかなり心が揺さぶられる本であった。現代はこの時代のような飢餓が間近にあるような貧困は表面上はかなり払拭された。しかし日雇い労働者の町やホームレスの住居もたくさんあるのである。また社会主義や福祉国家が崩壊・衰退し、この時代のようなむき出しの市場主義に舞い戻る危険性がふたたびめぐってくる様相も呈してきた。過ちをくりかえさないためにこの本は忘れられてはならない歴史の真実をつたえているのである。

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『イギリスにおける労働者階級の状態〈下〉』 エンゲルス
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イギリスにおける労働者階級の状態―19世紀のロンドンとマンチェスター〈下〉 (岩波文庫)
フリートリヒ・エンゲルス

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 この岩波文庫は2005年秋に一括重版されたもので、書店では上巻がみつからずに仕方なしに下巻だけを読むことにした。岩波文庫でむかしもこんなことがあった。ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』という本を読みたくなったのだが、たしか書店でいくどか見かけたことがあるのだが、ちょうど絶版の時期らしく書店からことごとく消えていた。必死に探し回ってようやく見つけた思い出がある。

 1845年に出版されたこの本を読もうと思ったのは、市場主義化、非正規化、ホームレス化がすすむ現在の経済社会は、ふたたび社会主義が興隆する前の資本主義に姿が似てくるのではないかと思ったからだ。なにものにも権利や保障、人権が守られないかつての資本主義にげんざいの社会は戻ろうとしているのである。ストライキや労働争議が頻発し、社会主義が勃興した資本主義の前夜にふたたび戻ろうとしているのである。歴史に学べということである。それにしても現在の労働条件の引き落としは、いったい歴史になにを学んできたのかという思いがする。

 この本はひじょうに読みやすい。児童労働や長時間労働、労働疾病、貧困などの悲惨なイギリスの労働状況が、どちらかというと、これみよがしに列挙されている。社会主義をめざして資本主義を批判しているのだからとうぜんであろう。

 この時代に児童労働はとうぜんのようにおこなわれいて、長時間や残業はあたりまえで、子どもたちは不自然な姿勢をながくつづけることにより発育不全になる。そして工場主はそのような子どもたちを虚弱という理由で雇うことを拒絶するのである。鉄工業の研磨工などは金属片のちりを吸い込み、平均年齢は35歳や45歳におよばない。鉱山労働者も肺結核や喘息で40歳から50歳のうちに死んでしまう。爆発や労働疾病などで毎年1400人の命が奪われたといわれている。

 19世紀はイギリスが「世界の工場」といわれた時期である。そしてそのような国の工場では、現代の中国でもそうだが、壮絶な労働条件や労働環境でおおくの人が働いているのである。歴史的にも法律や権利が認められなかったこのころのイギリスはもっとひどいものがあったのである。

 ブルジョアジーの利益や貪欲さのためにプロレタリアートが犠牲になり、奴隷になっている図式はひじょうにわかりやすく、人々の怒りを駆り立てる誘引になる。そのような認識のもと、かずかずの労働争議やストライキ、社会主義運動がおこっていったのである。

 それにたいして現代日本の労働者はひたすらおとなしくなっている。保障や権利に守られ、年功賃金やあらゆる特典がつくという幸運な時代にめぐまれたからでもあるだろう。そのために右肩下がりの時代にリストラや非正規化、賃下げや長時間労働がおこなわれても、なんの批判も文句もいえないのである。守られて軟弱になった労働者はかつてのような過酷な資本主義に舞い戻っているげんざい、かつての人たちのように激しく怒り、抗議し、正当な権利を主張したり、勝ちとったりできるだろうか。われわれはふたたびこのような時代に戻っている、いや、すでにそのような時代であると覚悟したほうがいいのかもしれない。


「自分たちが状況に順応するのではなく、状況が自分たち人間にあわせなければならないことを、労働者は人間として宣言しなければならないからである」

「法律はブルジョワ自身がこしらえたものであり、ブルジョアの同意のもとに、ブルジョアの保護と利益のために発布されたものだからである」

「労働者は、法律とは自分たちにたいしてブルジョアがつくった鞭であることをあまりにもよく知っており、またあまりにもたびたび経験してきた。だから必要がなければ労働者は法律を気にかけない」

「そこではあらゆる教育が、支配的な政治と宗教にたいして、従順で、おとなしく、献身的であるように設定されているので、実際のところ労働者にとってそのような教育は、おだやかな服従と消極性と、自分たちの運命への黙従との、絶えざる説教だけである」



 このような話を聞いていると、私たちはあまりにもブルジョワとよばれる層に一体化し、かれらの利益に盲従しているのではないかという思いに駆られる。私たちは会社や経営者、または国家の利益に一体化してしまい、対立や利益が異なるのではないかという疑いもさしはさめなくなっているのではないかと思う。私たちの利益はかれらとほんとうの意味で同一なのか。

 国家や企業が若年層や労働者をどんどん切り捨て、見捨てるようになった現在、皮肉にも私たちはひた隠しにしていた牙をもう一度とりかえす契機を与えられることになったのかもしれない。そのような時代のほうが利益が同一だと思わされてきた時代より、私はまともだと思うのである。
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