縄文人 アイヌ 琉球人はバイカル湖畔からやって来た 弥生人 本土日本人は朝鮮半島からやって来た 日本人はバイカル湖畔と朝鮮半島からやって来た

http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/page2.html

日本人の起源と系統について







  私たちは古代の歴史の流れの延長線上にいる。古代の歴史は私たちの過去の歴史であると同時に、未来への正しい道案内人でもある。古代の歴史を正しく知ることは、未来を正しく生きるために必要な要素である。そして古代を正しく知るためには、さらにその過去、日本人の起源にまで遡って考えなければならないのである。


  日本人とは本土日本人、アイヌ、琉球人の総称である。かつては日本人は単一民族だという考え方が主流であったが、現在では混血説が主流であり、またそうであろうと私は思う。
  近年「日本人の起源」についての研究は、人類学・考古学のほか遺伝学などの分野からのアプローチも多くみられ、最近ではDNAなどの遺伝子研究からその起源や系統がかなりの精度で推定できるようになってきた。
  そこでこういった最近の研究成果をもとに、日本人の生い立ちを通観してみることにする。(日本人の祖に直接関係すると思われる時代以降)



①  約2万年前、東南アジア(スンダランド)にいた古モンゴロイドがナイフ型石器を持って北上し、日本列島に渡来した(ナイフ型石器の分布より 竹内均氏による)。

②  約1万4千年前、バイカル湖畔にいた新モンゴロイド的特徴を持った古モンゴロイドが、湧別技法による細石刃を携えサハリン経由で北海道に渡来した(細石刃の分布より 竹内均氏による)。

③  ②の人たちと同起源でバイカル湖畔に定住しなかった人たちが朝鮮半島まで南下し、そこでしばらく定住した後、1万2千年前頃から一部の人たちが日本列島(北海道を除く)に渡来するようになった。これが縄文人(アイヌ、琉球人の祖先を含む)である。

  約1万4千年前サハリン経由で北海道に入ってきた人たちは細石刃文化を持っていた。しかし縄文文化の中には細石刃の伝統は残らなかったというから、縄文人は細石刃を持った人たちの直系の子孫とは考えられない。縄文人となった人たちの多くは、サハリン-北海道経由以外のルートで渡来したものと考えられる。分子人類学の尾本惠市氏は、縄文時代の考古学的資料のほとんどは日本列島への北方からのヒトの移住を示している、という。これらのことを総合すると、縄文人は初めのうちは朝鮮半島から渡来した北方系の人たちがほとんどだった、ということになる。

④  ③で朝鮮半島に南下してきた人たちのうち、日本に渡来した集団は少なくとも三つあった(この縄文人は北方起源である)。一つは旧石器時代人と混血あるいは旧石器時代人を吸収した集団であり、一つはアイヌの祖先となった集団であり、一つは琉球人の祖先となった集団である。

  安本美典氏はアイヌ語と朝鮮語との関係は日本語と朝鮮語との関係よりも近いという。またアイヌ語が朝鮮語と分離した時期は1万年前から5千年前までの間だという。一方宝来聰氏の遺伝子の研究からは、アイヌと琉球人は1万2千年前に分かれたことがわかっており、これらのことからアイヌと琉球人は日本列島に渡る前からすでに別々の集団として存在していたことがわかる。

⑤  1万2千年前頃から日本列島に入ってきた人たちは、東日本、特に関東・中部地方に住んだ。

  山内清男氏によれば、縄文文化の遺跡の8割は東日本に集中し、西日本は2割にすぎないという。小山修三氏の人口推定によれば、人口密度が高いのは関東・中部地方である。

⑥  6千年前頃から照葉樹林帯地域の人たちが日本列島に渡来するようになった。

  佐々木高明氏は、縄文文化は基本的には東アジアのナラ林帯の自然を背景に形成され発展した文化だとするが、西日本の地域は縄文時代の比較的早い時期から東日本とは明らかに異なる文化志向があったという。その要因は照葉樹林文化の影響が6千年前頃から西日本に及んだことにあり、日本の伝統文化の特色のうち多くのものがこの文化に由来するという。
  南方系縄文人の渡来は照葉樹林文化をもたらし、水田稲作など弥生時代以降の日本の伝統的文化受け入れの基礎をつくったのである。

⑦  紀元前5、4世紀頃、江南にいた倭人が水稲耕作技術を持って朝鮮半島南部、九州西北部へ渡来した。

  紀元前473年、呉が越に敗れ滅んだ。鳥越憲三郎氏は、敗れた呉の人たちは海に出て朝鮮半島中・南部へと上陸し辰国を建て、後の弁韓加耶の倭人の一部が九州北部に稲作を伴って渡来した、という。呉の人たちが朝鮮半島に辰国を建てたというのは疑問視する人も多いが、呉の滅亡という歴史的異変によって、江南の人たちが水稲耕作技術を持って朝鮮半島南部や九州北部に渡来したというのは大いにありうることだと思う。『魏志』倭人伝に出てくる「貫頭衣」は、現在でも雲南省のワ族、タイのラワ族、ミャンマーからタイ西北部にかけて分布するカレン族の女性が着ていることが鳥越氏の現地調査でわかっている。
  江南の倭人文化である高床式住居、神社の原初的形態、しめ縄、鳥居などは、現在の日本文化の特色となっているものであり、倭人が江南から渡来したものであることは否定できない。中国正史も『漢書』地理志以来、日本列島の倭人を記録している。

⑧ 北東アジアで寒冷適応し朝鮮半島に南下していた新モンゴロイドが、倭人の渡来より少し遅れて日本列島にやって来た。彼等は7世紀末には現在につながる日本人の中心的存在となった。

  1953年、九州佐賀県の三津永田遺跡と山口県土井ヶ浜遺跡で弥生人骨が多数発掘された。この弥生人は長崎市深堀遺跡、五島列島浜郷遺跡・松原遺跡から発掘された弥生人骨に比べ、身長が高く面長で顔はのっぺりしていた。深堀遺跡・浜郷遺跡・松原遺跡の弥生人は縄文人に近く、三津永田遺跡・土井ヶ浜遺跡の弥生人は北アジアの集団に近いという。
  九州の縄文人は照葉樹林帯から渡来した人たちであり、倭人と同じ南方系であり、縄文人に近い弥生人というのは南方系で、倭人か倭人と九州縄文人との混血であると考えられる。北アジアの集団に近い弥生人は、北東アジアで寒冷適応し朝鮮半島に南下し、さらに日本列島に渡来した新モンゴロイドであると考えられる。ただこの時代は中国正史にみるように、九州では倭人がこれから全盛期を迎えようとする時期であり、この新モンゴロイドの存在はまだそれほど大きくはなかったと考えられる。
  尾本惠市氏は近隣結合法という方法で、遺伝マーカーの23種類の遺伝子座のデータを用いて、世界の25集団間の遺伝的系統関係を類縁図にした。それによると、北東アジア群に本土日本人、アイヌ、コリアン、チベット人、モンゴル人の5集団が入る。尾本氏の、この23種類の遺伝子座のデータを用いた研究による成果は、かなり信頼してよいものと私は判断している。現代の本土日本人は北東アジア系であるとみる。
  660年百済が滅び、668年には高句麗が滅び、これらの国の人たちが多数日本に亡命してきた。『日本書紀』後の史書には渡来人の記録はあまりみられない。772年の坂上苅田麻呂の上表文に、高市郡内は8、9割までが「檜前忌寸」である漢氏族(百済の氏族)によって占められていた、と書かれているのは応神朝からの継続を意味しているのであり、畿内ヤマトの中心地は7世紀の終りにはほとんどが渡来系氏族で占められていたことが伺われる。このころから日本は確実に北東アジア系渡来人の国になっていき、尾本氏の研究成果を合わせれば、日本はそれ以来北東アジア系の国としてあり続け現在に至った、と考えることができるのである。 


  私が通観した日本人の生い立ちは以上のようであるが、これに関して少し補足説明をしなけれならない。それは縄文人の南方起源説についてである。
  埴原和郎氏の「二重構造」説もその一つで、南方系の縄文人が住んでいる日本列島に、朝鮮半島から九州北部へ北方系の弥生人がやって来て、縄文人は北と南に分断され、日本列島の北と南には南方系縄文人のアイヌと琉球人が残った、というものである。埴原氏の説は人骨の形状を中心としたものであるが、遺伝子などの研究成果もその裏づけとしている。
  HB肝炎ウィルスの分布(南北分断)、ATLウィルスのキャリアの分布(南北分断)、耳あかの乾湿の分布(湿系の南北分断)、マウスのヘモグロビンβ鎖のP型の頻度(南北分断)、歯の大きさ(縄文人は南方系に多くみられるスンダドント)なども 縄文人を南方系とみる一つの要素であるが、しかし一方、松本秀雄氏はGm遺伝子の研究により、日本人は旧石器時代からずっと北方系の単一民族である、といっており、その研究結果は相反している。この相反する結果をみると、それらのデータが遺伝子に関係するものであっても、単一要素によるデータだけでは、その起源を云々するのは難しく、それをもとにその起源を判断することは非常に危険なことであると認識せざるを得ない。その一要素においては正しくても、ほかの一要素においては正しくないかもしれないのである。宝来聰氏はミトコンドリアDNAの研究により、縄文人と東南アジア人の一部の人は共通の遺伝的起源を持っていることを明らかにしたが、東南アジアから縄文人の祖先が日本に渡来し縄文人になったことを必ずしも示すものではない、と慎重である。これは研究上正しい姿勢である。宝来氏が対象とした縄文人は6千年前頃のものであり、照葉樹林帯地域から日本に渡来した人たちだった可能性もある。したがって、埴原和郎氏の「二重構造」説における南方起源説や、そのほかの一要素からみた縄文人の南方起源説には、こういった照葉樹林帯地域から渡来した縄文人の影響があることも考慮する必要がある。試料の条件と多くの試料の多くの要素から得られたデータが重要なのである。
  日本人の起源と系統を語るときには、単一要素ではなく複数要素が絡み合うデータをとりあげて、その結論づけは慎重に行わなければならない。そんな中で、尾本氏が多くの遺伝子データを以て結論づけた、現代の日本人は北東アジア系である、ということについては、宝来氏の日本人と韓国人の遺伝距離がゼロであるという研究結果と併せて、私は認めてよいと思っている。


 



※訂正・修正 2009.07.20





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