ディレクターズカット版 明治の柔術家 柔道家 小泉軍治の動画 この時代に七大柔道にも残っていなかったニーインザベリーが実践されていることに驚きです



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http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/1-f616.html

小泉軍治伝(1)




 小泉軍治(1885―1965)は英国に帰化した日本の実業家・武道家である。彼は1918年(大正7年)にロンドンで武道会を設立して柔術家谷幸雄(1880―1950)を師範として雇用した。
 ウィキペディア英語版のGunji Koizumiを見てみよう。http://en.wikipedia.org/wiki/Gunji_Koizumi

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 柔道を教える小泉軍治。http://judoinfo.com/mayer.htm

 Gunji Koizumi(小泉軍治、1885年7月5日――1965年4月14日)は、G.K.の愛称で知られたが、柔道を英国に紹介して「英国柔道の父」として知られた。彼はイングランドにおける日本武術協会のさきがけとなるBudokwai武道会を創立した。小泉は英国柔道協会の設立を助け、欧州柔道連盟を創立した。彼は柔道八段であった。1965年、小泉の自殺は世界の柔道界に衝撃を与えた。

 小泉は1885年(明治18年)6月8日に茨城県コマツカ・オオアザ村(?)に生まれた。ここは東京の北20マイルに位置し現在は首都圏に含まれている。彼は小作農である小泉周吉と妻かつの次男であった。兄は千代吉、妹はいくであった。1887年、12歳の小泉は学校で剣道の修業をはじめた。また彼は米国滞在経験のある近所の人に英語を習った。次男として彼は自分で農地を開くか他家に養子に行くしか選択肢がなかったが、どちらも好まなかった。1900年7月、15歳になる直前に彼は東京に出て政府の電信技師養成所に入った。1901年、彼は天神真楊流のタゴ・ノブシゲの下で柔術修業を開始した。電信技師の資格を得て彼はしばらく東京で働いた後に朝鮮の鉄道に就職した。1904年には山田信勝について修業した。小泉は電気を研究するために渡米することを決意した。彼は上海、香港、シンガポール、インドを経由して途中働きながら、まず英国に向かった。シンガポールではアキシマ・ツネジロウについて修業した。
 1906年5月4日に彼は蒸気船ロムズフォード号に乗って北ウェールズのモスティン港に着いた。そこからリヴァプールに行きカラ・アシカガ柔術道場で師範となった。その後ロンドンに出て、元バーティツの師範であった上西貞一がピカデリー・サーカスで開いていた柔術道場で教えた。この期間に彼はロンドン工芸学校や英海軍志願予備隊でも教えた。数ヶ月後彼はニューヨークを目指して出発し1907年5月に到着した。ここでニューアーク公共サービス鉄道会社に就職した。数年後米国の生活に満足できず英国に戻った。彼はロンドンのヴォクソール・ロードで電気会社を設立しようとしたが資本が足りなかった。1912年1月、彼はロンドンのイーバリーストリートに漆器製作所を設立した。1918年には自分で費用を出してロンドンに武道会を設立した。武道会では英国人に柔術、剣道などの日本武術を教えた。小泉はバッキンガム宮殿の裏手にあるロウワー・グローブズナー・パレスに建物を確保し、武道会は1918年1月26日に開設された。(続く)

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 ロンドンの漆器製作所における小泉軍治。1921年9月17日。

2011年10月28日付記 
ウィキペディアで議論があるようですね。当ブログ筆者としては自分の訳文(原文がウィキペディアの場合に限る)に著作権を主張するつもりはありません。利用は自由。原英文にも著作権などないのが「ウィキペディアの原則」であると理解しておりますが、いかがですか。

(シャーロック・ホームズの『六つのナポレオン』ではドイツ人ゲルダー氏が石膏像製作所を経営していて、彼が一時雇ったイタリア人の職人が犯罪に関係するのだった。第一次大戦前の英国は外国人が小規模の事業を興すのに好都合だったようだ。『六つのナポレオンの不思議』http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/1-473a.html 参照)

◇コメント欄のKs aka98氏のお勧めに従い(もう一つよく分からんのだけれど)

小泉軍治伝(1)(2)はウィキペディア英語版Gunji Koizumi(http://en.wikipedia.org/w/index.php?&oldid=451423257)の翻訳である(これはもう書いてある)。クリエイティブ・コモンズ - 表示-継承ライセンス 3.0( http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/)およびGFDL(http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html)の下で公開する(この文の意味がよく分からんけれど)。この翻訳について当ブログ筆者の権利は行使しない。 これでよろしいか。







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http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/2-7e00.html

小泉軍治伝(2)




 1919年には小泉は英国在住日本人に医療、雇用、住居を提供することを目的として共済会を設立した。小泉がこの会の事務局長になり、武道会内に事務局を置いた。1920年に嘉納治五郎がアントワープ五輪に選手団長として赴く途中、武道会を訪問した。このとき小泉と谷幸雄はしばらく協議して柔術から柔道に切り替えることを決めた。嘉納は二人に講道館2段を与えた。
 1922年に小泉軍治は東洋の漆器の専門家としてヴィクトリア&アルバート美術館の顧問に就任し、後に同館所蔵の漆器すべてのカタログを作成した。小泉は1925年に著書Lacquer work: A practical exposition of the art of lacquering together with valuable notes for the collectorを出版した。1932年には柔道4段に進んだ。

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[右から二人目の柔道着の男がG.K.小泉軍治。その左が谷幸雄。その左の眼鏡の男はイシグロ。石黒敬七であろう。]

 第二次大戦中も武道会での柔道の稽古は続けられたが、これは小泉軍治には大きな財政的負担を強いた。小泉の伝記を書いたリチャード・ボウエンによれば、この期間に「小泉は拘留されず行動に制限は受けなかった」という。1948年に小泉は6段に進んだ。彼は1948年7月24日の英国柔道協会設立を助けた。彼は同協会の初代会長に就任した。40年代末までに彼は事業から引退し英国における柔道教授に専念した。1951年には7段に進んだ。
 小泉は結婚してハナという名前の娘が一人いた。彼女は弟子のパーシー・セキネと結婚した。
 1954年9月19日に、小泉軍治は50年ぶりに日本に帰郷した。彼の妹や親戚とともに講道館館長の嘉納履正を初めとする柔道家たちが羽田空港で彼を迎えた。講道館は小泉を賓客として歓迎した。小泉は日本から英国に帰った。小泉は
Judo: The basic technical principles and exercises, supplemented with contest rules and grading syllabus (1958) 
My study of Judo: The principles and the technical fundamentals (1960)
 など、柔道に関する本を書いている。彼は1960年代も柔道を教え続けた。
 小泉が死去する前夜、弟子の一人チャールズ・パーマーは、いつもと様子が違うように思った。『ブラックベルト』誌の通信員ケイ・ツムラによれば、「いつものように笑ってお休みという代わりに彼はパーマーの手を握って「さよなら」と言った」という。1965年4月15日、小泉の自殺が発見された。彼は盛装して気に入りの椅子に坐り、ガスストーブを傍に置き頭にプラスティックの袋をかぶっていたという。
 小泉の死は柔道界に衝撃を与え議論が起きた。自殺は不名誉だとする者もいたが、彼の死は名誉あるサムライの死であるという者もいた。グラントが1965年に書いた伝記では小泉は死の前に八段に進んだとしているが、1982年のフロムとソームズの伝記では講道館から八段が追贈されたとしている。

http://blog.livedoor.jp/masuda_toshinari/archives/51364173.html



柔道は総合格闘技として海外に広まり、それがMMAとなっていま逆襲されているのだ。石井慧vs吉田秀彦戦で考える。


前に書いたように、石井慧vs吉田秀彦の試合結果は柔道界にとって衝撃的だったはずだ。

▼(過去記事1)
驚異的な進歩を見せるMMAを正視しない柔道界は危機的状況にある。

▼(過去記事2)
吉田秀彦が引退したら柔道界は喜んで迎え入れるべき。

柔道界の今までの常識からいけば、吉田が石井に勝つなどということは1パーセントも考えられないからだ。

それが勝ってしまった。

しかし、現在のMMA(Mixed Martial Arts=日本語でいういわゆる総合格闘技)自体が、もともと100年も前に世界に広まった柔道が、ブラジリアン柔術となり、ヴァーリトゥードとなり、MMAとして競技化されたものなのだから、ある意味、先祖返りした孫(MMA)に、現在進行形で起こっていることがわかっていない保守的で排他的な祖父(柔道)が敗れたようなものである。

最近ではタックルまで実質禁止されてしまったのだから、柔道の実戦力の退歩はとどまるところをしらない。逆にMMA(総合格闘技)は進化し続けているのだから、石井が吉田に敗れたことを柔道界はきちんと総括してほしい。

一昔前、よく異種格闘技戦のことになると持ち出された理論がある。

「それはバスケットとサッカーとどちらが強いかというのと同じで馬鹿げている」

しかし、格闘技は球技とは違うのだ。

できるだけルールの制約を少なくすれば戦えるのだから。

他の格闘技より弱い格闘技に修行者が集まるわけがない。柔道をベースにした護身術をきちんと練り直して修行者に教えるべきだ。

いま発売中の「ゴング格闘技」の連載「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」では、ちょうどこの柔道が海外へ渡る場面を詳しく書いている。

自分的には、今号で紹介したなかで最も面白い写真は、小泉軍治と大野秋太郎がイギリスで柔道の街頭デモンストレーションをしている場面である。

大野秋太郎と小泉軍治

このファイトスタイル自体が、つまり大野秋太郎が寝た姿勢から攻撃するスタイルは講道館柔道にはないスタイルである。

大野は、ただの守りではなく、足首を持って何らかの技を狙って攻めている。

しかも面白いのは、彼らのはく下衣が膝の下の部分で紐で結ばれていることだ。

これは寝技専門だった高専柔道(今の七帝柔道)の選手たちが試合中に相手に裾を持たれて守られないよう工夫した下衣だ。

彼らが高専柔道の下衣を海外で着た理由は、実戦では寝技戦が多くなることを、グレイシー以前に理解していたからだろう。

つまり、この1枚の写真を見るだけで、いかに海外に渡った当時の柔道家たちが他流自体をたくさん経験し、その強さを実証することで柔道を広めていったのかわかる。

柔道は、当時、世界最強の総合格闘技だったからこそ世界に広まったのだ。

木村政彦は投技では青竜刀の切れ味を持つ大外刈りが有名だが、実は高専柔道の超弩級選手で寝技に絶対の自信を持っていた。だからこそエリオ・グレイシーの寝技を完封しえた。

そして打撃技対策も必要と考え、剛柔流空手と松涛館空手、それからボクシングも修行している。投技、寝技、打撃技、まさに総合格闘技ではないか。

木村は常に他流試合を想定していたのだ。

今の柔道は原点を忘れてしまっている。

他の格闘技に敗れる格闘技(柔道)に人が集まるわけがない。

柔道の始祖、嘉納治五郎講道館長も実は柔道をMMA(総合格闘技)にしようとして創設した。連載中の「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」に書いているように、パンチや蹴りなどの打撃技も入れた護身術として考えていたのだ。

現在の打撃技なしのルールは嘉納が試合ルールを作るときに実験的に投げ技のみのルールを作って、いつか打撃技も採用するために空手やボクシングを研究し、模索していた。それが昭和13年の急逝でそのまま理想を実現する前に実験的ルールがいまも流用されているのだ。

このことを知っている柔道関係者はほとんどいない。

本気でこの遺志を受け継いでいたのは木村政彦先生とその師匠牛島辰熊先生だけであろう。

だからこそ原点回帰を目指す石井慧の心意気を応援したいのである。石井はまだまだ若い。可能性は無限にあるのだ。

増田俊也
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