伝説のビリーライレージムとビリーライレー











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全員集合!ビリー・ライレーの誕生日

投稿日時: 2014年12月2日

この写真は1962年頃のビリー・ライレーの誕生パーティーでのものです。

ビリー・ライレー・ジムいわゆる「蛇の穴」ですね。

右から数えて3人目、一番前に座っている方がライレー。左隣が奥様。その左が伝説的存在のビリー・ジョイス。

ところで、2列目の左から3人目。カメラをにらみつけているように映っている方。誰でしょう。ビル・ロビンソン?いいえ、当時のロビンソンはもっともっと若いです。

実は、ロビンソンのお父さん。ロビンソン自身はインドに遠征しダラ・シンとやっていた時期なので映っていません。

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「プロレス千一夜」ビリー・ライレー (注)を加えました。

投稿日時: 2015年6月9日















(1) 生年とその場所 (2) 没年 (3) デビューもしくは最古の試合記録 (4) 引退もしくは最終試合(現役の場合は割愛)

(1) 1896年5月、イギリスのレイ出身

(2) 1977年9月7日

(3) 1913年5月【ウィガン英、おそらく】ビリー・ライレー対トム・ボーリング

(4) 1958年11月18日【ウェイクフィールド英】ビリー・ライレー対エミール・フォイ

ただし、頻繁に試合に出ていたのは、1947年の暮れまでである。

billyriley

いったい、ビリー・ライレーって、どのように知られているのであろうか?

英語版Wikipediaで「Billy Riley」で調べることができるものの、内容的にはプアである。

日本語版には出てこない。「ビリー・ライレージム」ならあるのだが。

かように、ビリー・ライレーは、ジム運営者として名前だけは知られている。が、さて、どんな人物なのかというと、案外知られていない。確かに記録は少なく、それゆえ、謎の人物となってしまっている。

昨年、イギリスで「Billy Riley – The man,the legacy」なる書籍がDr. Stephen GreenfieldとMike De Courcyとの共著で出版された。ここでは、それを参考に「Billy Riley基礎知識」としゃれこんでみる。

ライレーがジム運営者として有名なのは理由がある。それは我が国のプロレス史で伝説的な存在となっているカール・ゴッチやビル・ロビンソンを輩出したからである。しかし、ライレーにはジム運営者以外にもいくつかの顔がある。

・レスラーとして

前記、(3)最古の試合記録はあくまでも判明しているものである。このとき、ライレーは17歳。しかし、実際に「プロ」と呼べる試合に出たのは、その3年前、14歳のときであった。

いわゆる「産業革命」は18世紀、イギリスはランカシャー州のマンチェスターでの毛織物産業から起こった。マンチェスターで「産業革命」が起こった理由のひとつに、燃料たる石炭がマンチェスターから西北西に30kmの都市、ウィガンで取れたことにある。

ウィガンの娯楽の一つがレスリングだった。

観客はギャンブルとして金を掛け、勝者には賞金が与えられた。ライレーの最初の試合はそんな感じだったらしい。本人の話では、初めて賭けレスリングに出たのは14歳のとき、相手は若い炭鉱夫だという。14歳といえば、1910年頃である。

ライレーはジム運営者として有名だ。が、この頃はジムに通う生徒であった。ライレーが通ったのは、19世紀から続くポップ・チャーノック・ジムである。

このジムはライレー以外に、40年代後半から60年代まで活躍したアーサー、ジャック、クリフのベルショウ3兄弟を輩出した。アーサーは、ライレーの一番弟子ともいえるビリー・ジョイスをプライベートマッチで膝を負傷させて破ったことがある強豪である。ちなみに、ウィガンからほど近いゴルボーン出身の「爆弾小僧」ダイナマイト・キッドの中学時代の担任の姓はベルショウ。3兄弟と血縁にあった。

14年、第一次世界大戦が勃発した。その時期、イギリスでは「興行」どころではなく、また、戦勝国でありながら大戦後のイギリス経済も壊滅状態で興行記録は少ない。それもあってか?ライレーは22年から23年にかけて、半年、アメリカに遠征に出ている。

尚、この時期に南アフリカで試合をしたのという記録がある。が、それはおよそ10年後のものが誤って伝えられたものである。この時期、ライレーは英国ミドル級王者、ライレーの体重は、148ポンド、約67キロであった。

アメリカでは、ピンキー・ガードナーから世界ミドル級王座を取って(注)、そのおよそ10年前、ライレーをコーチしたウェイノ・ケトネンに奪われた。ケトネンは11年にイギリスに遠征したことがある。その時、ライレーはケトネンのコーチを受けている。ということは、このアメリカ遠征は、ケトネンの手引きによるものであろう。

1920年代、アメリカの主流はエド・ストラングラー・ルイス、ジョー・ステッカー、スタニスラス・ズビスコ。彼らはヘビー級のレスラーだった。ルイス、ステッカー、ズビスコに知名度で及ばないものの、中軽量級にも猛者は多かった。

具体的には、ライトヘビー級のアド・サンテル、クラレンス・イークランド、テッド・ザイ、ピート・ソーヤー(後のレイ・スティール)。ミドル級のガードナー、ケトネン、ガス・カリオ、ウォルター・ミラー、ボブ・マイヤース。ウエルター級のジャック・レイノルズ、マティ松田。

(注)ピンキー・ガードナー:当時のアメリカの世界王座は、各階級ともいくつかのバージョンがあり、また、20年代前半の王座変遷史は「パズルのピースが埋まっていない」状態である。http://www.wrestling-titles.com/world/world-m.htmlによると、ガードナーはライレーに敗れる前年の1921年にウォルター・ミラーに世界ミドル級王座を奪われている。となると、ガードナーはライレーがに敗れた際に、ミラーから王座を奪い返していたか、ライレーが取った王座自体がでっち上げだったかどちらかである。

ライレーとの対戦があってもおかしくなかった、アド・サンテル。サンテルは講道館柔道に挑戦するため大正10年に来日している。
—ライレーとの対戦があってもおかしくなかった、アド・サンテル。サンテルは講道館柔道に挑戦するため大正10年に来日している。

20年代、プロボクサーの試合数は、現在に比べ桁違いに多い。それに比べ、プロレスラーの試合数が多かったのは現在と同じことであった。それゆえ、ミドル級のレスラーはその前後の階級の者と闘うことも少なくなかった。

つまり、半年しかアメリカにいなかったライレーが、もっと長期滞在していれば、サンテルやスティールなどとの対戦もあったかもしれないのである。ライレーは前記中軽量級の猛者の輪に入りかけたところで英国に帰ってしまったのであった。

英国に帰ったライレーの23年から30年までの試合記録は不明である。



30年12月15日、新団体「オール・イン・ワンプロモーション」がロンドン(会場はオリンピア)とマンチェスター(会場はベルビュー)同日興行により旗揚げされた。オール・インは「新団体」というよりも、イギリス初の団体らしい団体である。

オール・インは新ルールを導入した。アメリカでは取り入れられていた「ギブアップ」を決まり手にしたのだ。それまで、イギリスのプロレスは基本的にピンフォールを奪い合う競技だったのである。尚、アメリカにおいても「ギブアップ」決着の歴史はピンフォールに比べて浅く、11年にシカゴでロシアのジョージ・ハッケンシュミットがアメリカのフランク・ゴッチに敗れた際にも、後の世ならギブアップするところを、関節技の激痛に耐えられず、自ら肩をついたらしい。

ライレーは英国ミドル級王者としてオール・インのマンチェスターでの興行に参戦、ブルドッグ・ビリー・ガノンを破った。尚、この試合はメインエベントでは、バート・アシラティ(ビリー・ジョイスやビル・ロビンソン以前の英国ヘビー級の伝説的な存在)がエイソル・オークリー(後にヘンリー・アースリンガーを引き継ぎ、オール・インを経営した)を破った。

以後、ライレーは英国ミドル級のトップとしてリングに上がり続けた。

・ジムのコーチ、経営者として

ライレーが、俗に「蛇の穴」といわれるジムを開設したのは第2次世界大戦終了直後である。日本ではゴッチやロビンソンを輩出したことでこのジムは有名である。

が、イギリスで画期的だったのは、62年1月の段階で、7階級あるジョイントプロモーション版英国王座の半数をこのジム出身者が占めたことで有名なのである。ジョイントプロモーションとはオール・インに対抗して、48年に作られたプロモーターのカルテル。当時のイギリスではメジャーな存在である。

当時の各階級の王者は、具体的に、ヘビー級がビリー・ジョイス、ミッド・ヘビー級がノーマン・ウォーシュ、ライト・ヘビー級がアーニー・ライレー(息子)、ヘビー・ミドル級がエリック・テイラー(五輪メダリスト)、ミドル級がトミー・マン、ウェルター級がジャック・デンプシー(本名トミー・ムーア)、ライト級がメルウィン・リス。

このうち、ジョイス、アーニー、デンプシー、リスがライレー・ジムの出身者であった。
・プロモーターとして

ライレーがプロモーターだったのは、記録から判断するに、60年代のこと。オール・イン時代のライレーのライバルであるジャック・アザートンとの共同経営で、その名も「ライレー・アンド・アザートン・プロモーション」。ジョイントプロモーションに加盟していた。国際プロレスや新日本プロレスに来日したことがあるジョニー・イーグルスや、バレーシューズで試合をする未来日の強豪リッキー・スターらがここのリングに上がった。

私がアザートンの名を知ったのは、もう十数年前、ダイナマイト・キッド自伝を読んだ時だ。

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キッドによると、

「俺のデビューは75年。インディーのジャック・アザートンのリングだった。数ヵ月後、メジャーのジョイント・プロモーションにジャンプした」。

ジョイント・プロモーションは60年代においてはプロモーターのカルテルであった。が、70年代は傘下だったデール・マーチン・プロモーションを買収したクラブトリー兄弟の団体を意味した。エースは兄弟のうち次男のビッグ・ダディだった。

つまり「ジョイント」の名をクラブトリー兄弟が独占したことで、アザートンのリングはインディーになってしまったのだ。

そのキッドだが、ライレー・ジムの出身だという話がある。しかし実際には1週間ばかり通っただけで、他のジムに移っている。よって「出身者」といえるレベルではない。ところが、デビューするにあたってアザートンのリングに上がっているのである。

75年当時、ライレーが未だアザートンの共同経営者であったかどうかは不明だ。もし共同経営者でなかったとしても、ライレーがキッドの上がるリングを斡旋した可能性もある。また、先に述べたように中学時代のキッドの担任は、ジョイスのトレーニングパートナーだったアーサー・ベルショウと血縁にあった。必ずしもライレーの弟子とはいいきれないキッドとライレーの因縁。このあたりが歴史研究の面白いところだ。が、これは単なる偶然か?

いや、ライレーが育ち、ジムを作ったウィガンが、炭鉱地帯であったことでランカシャー流レスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン→フリー・スタイルの原型)を発祥させ、そんな地域社会があったからこそ、英国ランカシャー地方(ウィガン、マンチェスター、ゴルボーンなど)はライレーを、ロビンソンを、キッドを生んだ、ということであろう。決して偶然ではない。

文中に示した以外の参考文献:「ウイガンにあった黒い小屋」(那嵯涼介、Gスピリッツ8所収)

Billy Riley Celebration

(写真説明)ウイガンの地域社会を思わせるこの写真は1962年頃のビリー・ライレーの誕生パーティーでのもの。

右から数えて3人目、一番前に座っている方がライレー。左隣が奥様。その左が伝説的存在のビリー・ジョイス。ところで、2列目の左から3人目。カメラをにらみつけているように映っているのはビル・ロビンソンではない。そのお父さんである。ロビンソン曰く、

「俺はインドに遠征しダラ・シンとやっていた時期なので映っていない!」
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