講道館柔道が最も恐れた男 田辺又右衛門敗れる?! 講道館総本山に殴り込み! 並み居る強豪を連続で破ったが最後に鬼の横山の腕を破壊するも横捨て身でノックアウト負け?

対訳 The Game of Ju-jitsu 柔術の勝負 -明治期の柔道基本技術-
谷 幸雄/三宅 タロー
創英社/三省堂書店
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対訳 The Game of Ju-jitsu 柔術の勝負 -明治期の柔道基本技術- ①



対訳『The Game of Ju‐jitsu』柔術の勝負 明治期の柔道基本技術 NEW

谷 幸雄 (著), 三宅 タロー (著), 内田 賢次 (監修)

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これはまたスゴイのが出版されました!
20世紀初頭にヨーロッパとアメリカを席巻した、谷幸雄と三宅太郎の"不遷流柔術"。その創始者の"拳骨和尚"武田物外和尚は、ウチの宗派(曹洞宗)では、「幕末を代表する名僧」として、宗史に残る存在なのです(でも「不遷流」という武術の創設者であることは、ほとんど知られていない)。


そして自分にとってはまた、運命的なものを感じさせる存在なのです。
この本、内容も驚愕的なモノ!

何回かに分けて書評書きます。
http://blog.livedoor.jp/shimizupg/archives/51992030.html


対訳 The Game of Ju-jitsu 柔術の勝負 -明治期の柔道基本技術-②


『The Game of Ju‐jitsu』を見て驚かされるのが、その技術体系の中心にあるのが、いわゆる「ポジショニング」であることです。
固め技が、(30秒間の)押さえ込みを狙ったものではなく、関節技・絞め技へのプロセスになっている。
写真が好例ですが、この固め技は、「マウント・ポジション」であって、「縦四方固め」ではない。
また、そこからの腕十字への変化など、現代のものとほとんど変わりがない。
このような、固め技、逆技、絞め技の他にも、オープン・ガードやクローズド・ガード、パスガードなど、ポジショニング全般に渡って、かなり詳細な解説がされているのです。

エリオ・グレイシー翁が「コンデ・コマ(前田光世)の教えていたのは柔道だった。グレイシー柔術は自分が創意工夫して考え出したものだ」とインタビューでいってましたが、少なくとも「ポジショニングの概念」というものは、コンデ・コマ以前から存在していたんだという。

また、この本によると、前田光世は海外雄飛以前に谷幸雄の道場で指導を手伝っていた時代があったらしく、また出国後も協力体制を取り続けていたそうで、「ポジショニングの概念」を谷幸雄から学んだ可能性が非常に高いのではないかと思います。
http://blog.livedoor.jp/shimizupg/archives/51992404.html


対訳 The Game of Ju-jitsu 柔術の勝負 -明治期の柔道基本技術-③


近年の、柳澤健氏(「1976年のアントニオ猪木」「日本レスリングの物語」など)らの研究によると、ヨーロッパの(サブミッション・レスリングという意味での)「キャッチレスリング」というのは、ヨーロッパ古来からのモノ 、ではないらしい。
そもそも「キャッチ」というのは、「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」の略、直訳すると「どこをつかんでもよい」という意味、要するにオリンピックで行われている「フリースタイル・レスリング」を表す言葉に過ぎないそうだ。

そして、おそらく、谷幸雄と三宅タロー来欧以前は、ヨーロッパの格闘技に、「関節技・絞め技」はほとんどなかったのではないかとのこと。

つまり、「サブミッション・レスリング」という意味での「キャッチレスリング」の技術は、もともと谷幸雄と三宅タロー由来ではないかとのこと。

その説をうなずかせるかのように、
例えば、

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アキレス腱固め




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ギロチン・チョーク

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ヘッドシザース










などなど、現代柔道にはなく、プロレスやサブミッション・レスリングで受け継がれている技がたくさんある。

(ヘッドシザース、というのは、近年のグラップリングや総合格闘技で使用されることはほとんどないが、初期の「シューティング」では、頚椎を決める「クルック・ヘッドシザース」という名称でよく使われた。カール・ゴッチ経由、キャッチレスリング経由の代表的な関節技のひとつだった。この本の解説を見ると「絞め技」ではなく「首への関節技」として解説されているので、おそらくそっちの方だと思う)

http://blog.livedoor.jp/shimizupg/archives/51992411.html



対訳 The Game of Ju-jitsu 柔術の勝負 -明治期の柔道基本技術-④


谷・三宅の師匠の、不遷流四代目・田辺又右衛門に関する記述が、すさまじくおもしろい。

例えば、「常胤流」との異名もとった、講道館随一の寝技の達人・小田常胤によるものでは。



~講道館が始まった当時には、いまだいろいろな昔からの流派が残っておりまして、新しくできた講道館柔道を妬み各流派の人達が、機会さえあれば、やっつけてやろう、二度とたつこと出来ないようにひどい目にあわせてやろうと、意気込んでおり、頑張っていた恐ろしい時だったのであります。
(中略)ある時、関西を代表して他流試合を申し込んだ者があったのであります。その姓名はここに申し上げずに置きます。体はスンナリしており、一目見たところでは柔道家とは思われないような人でありましたが、巴投げという技から関節技、手の逆に入る一手は天下一品でありました。彼はどんな敵でも負かさずにおくものか、講道館柔道など聞いてあきれる。一番勝負を申し込んで、こっぴどい目に遇わせてやり、金看板を外してやろうという固い決心で、身体中は血に溢れておったのであります。どんな方法を取ってでも避ける事が出来ない事になって、とうとう勝負をしなければならないことになりました。その時分元気であった数人の選手が彼と勝負をやりましたが、彼が得意技の腕ひしぎという一手に、機関銃の前に立たされた用に将棋倒しに、皆が瞬きする間に枕を並べてやられてしまい、ただただボンヤリして、顔を見合わせてこの上どんなになるかと、気づかっておりました。
唯最後の望みは横山(※作次郎、当時の「講道館四天王」の一人)八段との一戦それだけでありました。審判官は嘉納師範でありました。この勝負でもし負けたとしたら、それこそ講道館の金看板は外さねばならなかったほど、それほど大切な勝負でありました。
(中略)横山八段は、傷められた残りの他の一本の手で、彼をひっ捕まえるが早いか、先生得意中の得意技、横捨て身技にてついに相手を打ち止めたのであります。彼はあまりに早いのとあまりに見事なのに身体をそわす事も出来ずに、強か腰をうって立つ事が出来なくなってしまいました。
(中略)今日のように講道館が立派になり、盛んになったかどうか、この一戦は考えれば考える程、血のにじむような、面白いのも通り過ぎて悲しい、むごたらしいみじめな勝負でありました。後世になりまして、鬼横山と皆から恐れられほめられることになったのも、この辺から出たのかもと考えられます。~




横山八段との対戦というのは、ここで初めてみました。というか、他の文献にみられる田辺の道場破りの顛末というのは、ここで語られているものとは、ちょっと違います。

それはともかくとして、田辺又右衛門のフェイバリット・ホールドというのが、今でいう「引き込み腕十字」であることが興味深い!

他にも「足挫き(アキレス腱固め)を得意にしていた」「足絡み(ヒールホールド、とほぼ同じ)を得意にしていた」「帯や裾に足をかけるのを得意にしていた(現代ブラジリアン柔術でよく見られる戦法。柔道にはない)」

など、武術家、っていうより、すんごい現代的な「グラップラー」そのものじゃないか、っていう!!!!!

http://blog.livedoor.jp/shimizupg/archives/51992552.html


対訳 The Game of Ju-jitsu 柔術の勝負 -明治期の柔道基本技術ー⑤


僕は一応曹洞宗侶のはしくれなんですが、武田物外"拳骨和尚"というのは、歴史上の人物というか、あまり現実感を感じないんですよね。

しかし、いろいろ調べると、不遷流四代目・田辺又右衛門実父の三代目・田辺虎次郎と、第一次長州征伐の調停役を依頼され、願書をしたためて朝廷に奉呈したというエピソードがあったりする(物外和尚は勤皇の志士と交流があったと言われ、新撰組・近藤勇と立ち会い、勝ったという伝説もある・・・,それは眉唾ですが)。
このとき、何の沙汰もなかったため、田辺に願書を持たせて直訴させという。そのため田辺は捕えられたが、願書の上呈には成功、孝明天皇に召されて、直接に願書の意を奏上する機会を得たとのこと。

また、物外和尚は明治維新が達成される直前に亡くなられているのにたいして、又右衛門は明治2年に、ちょうど入れ替わるかのように生まれているんですよね。

そういった時系列で考えていくと、物外和尚というのも、それほど大昔の人物でもないというか、ちょっと現実感を帯びて見えてくる。

田辺又右衛門というのは、後に武専(武道専門学校
)の師範になっているのですが。

実は、ウチの地区の柔道のパイオニアで、僕の母校の柔道部の創設者の故・鈴木輝雄先生は部専の出身で。
これもまた時系列を考えると(田辺又右衛門は昭和22年没)、鈴木先生も田辺又右衛門の指導を直接受けたこともあるのではないかと思うのですよ。

僕の母校の関高校というのは、かつては鈴木先生の指導下、「寝技の関高」と言われ、全国的に有名だったわけですが。

僕の得意技の「ループ・チョーク」https://www.youtube.com/watch?v=5LMupsy32zE&feature=youtube_gdata_player
というのも、実は母校に古~くから伝わる技で、おそらく武専由来だと思うのですよ(自分で改良してますが)。

すごく、歴史やら因縁やらを感じるのです。

http://blog.livedoor.jp/shimizupg/archives/51992604.html


"拳骨和尚"武田物外・怪力伝説


Wikipediaより転載です。



物外の逸話

雲水のころ

永平寺の学寮にいた頃の話である。ある朝、誰の仕業か、寺の釣鐘が下ろされていた。朝夕の行事の合図の鐘を鳴らすことができないため、困った雲水たちが総がかりで吊り直そうとしたが、鐘はびくともしない。そこへ物外がやってきて、「うどんをごちそうしてくれたら上げてやる」と言った。これを雲水たちが了承すると、物外は独りで軽々と鐘を持ち上げて、元の位置に釣下げた。「犯人」はむろん物外で、その後もうどんが食べたくなると、釣鐘を下ろしておいたという。永平寺には物外の手形のついた柱があり、指の痕が4本まで判然としていたと伝わる。
加賀の大乗寺では、「安芸の物外」といわれ、寺の柱を持ち上げて下に藁草履を履かせるなど、凝った悪戯をした。あるとき、寄食している雲水たちと役僧たちとで大喧嘩になり、これを取り鎮めるために寺の大旦那だった本多安房守が兵を差し向けた。しかし、兵の誰ひとりとして物外にかなう者がなく、片っ端から物外に本堂に投げこまれ、入り口の扉を閉められてしまった。大乗寺には3人がかりでないと動かないほどの大木魚があったが、このとき物外は独りでこれを投げつけて、割れ目を作ったという。この大木魚は現存する。
金沢滞在中、加賀前田家に新規召抱えになった、戸田流を創始した戸田越後守と力比べして決着がつかず、引き分けたという話が残る。勝負は橋の上で始まったが、橋の欄干が壊れて二人とも墜落した。しかし落下した河原でも組み合いが止まらず、河原の小石が十間から二十間も掘られたという。

江戸で

このころ、物外が浅草の古道具屋で碁盤を買ったという逸話がある。物外が碁盤を気に入り、「いくらだ」と尋ねると、店主は「一両二分でございます」と答えた。「いま金を持っていないから、後でもらいに来る。それまで他人に売らないでくれ」と物外が頼むと、店主は「何か、手付けでもいただければ」と催促した。「ああそうか、では」と物外は、碁盤を裏返して殴りつけた。「これならよかろう」。見ると、碁盤に拳骨の痕が付いていた。その後も物外は拳骨の痕のついた碁盤を何枚か残している。
同じころ、芝近辺に出没する三人組の辻斬りを懲らしめたり、刀のこじりが当たったことが原因で真剣勝負の決闘に及んだ会津、肥後の侍を調停したりしている。

物外の雨乞い

天保年中に日照りがつづいたとき、農民たちが物外に雨乞いを頼んだ。「よし」といって、物外は済法寺の鐘をはずして吉和村の海岸にかつぎ出した。二隻の船の間に鐘を繋いで海上に浮かべ、17日間昼夜を分かたず祈願した上で、今度は褌ひとつで鐘の竜頭に手をかけ、大喝して、二、三間も遠くの沖へ投げ込んだところ、沛然と雨が降り出したという。「物外さんの雨乞いは、効き目がある」ということになり、それからも日照りがあるたびに、物外は農民たちから雨乞いを頼まれるようになった。海中に投げ込まれた鐘はその後、漁師の網にかかって戻って来たが、鐘のイボが8個欠けていた。物外は「八大竜王が一個ずつ受納されたのだろう」といって村人を感心させたという。

済法寺時代

ある日、備後三原城主・浅野甲斐守が床の間の掛軸を変えるために絵師を呼んで絵を描かせた。絵師は太陽を背に羽ばたく一羽の雁を描いたが、甲斐守は喜ぶどころか「雁は群れをなして飛ぶもの。一羽で飛ぶとは謀反の兆しであり縁起でもない」と機嫌を悪くしてしまった。絵師も家臣も困り果ててしまったが、たまたま三原城へ参殿していた物外がその絵に「初雁や またあとからも あとからも」と賛を入れた。物外の賛を読んだ甲斐守の機嫌はたちまち直り、絵は無事床の間に飾られることになった。
嘉永元年(1848年)、文人画の名手として知られた貫名海屋が物外を訪問して力業を見せてもらいたいと頼んだ。物外は寺の裏の竹林に入り、素手で竹の枝葉をしごき落とし、指先で拉いで襷掛けし、門人と剣術をして見せた。次に、物外の腰に船のとも綱を巻き付け、4人の相撲取りにをこれを持たせて力の限りに引っ張らせたが、物外はビクともしなかったという。
同じころ、九州から武者修行者が済法寺へやってきた。和尚と対面してお茶を喫み、雑談をしていたところ、武士はいきなり手にした茶碗を鷲づかみにして、砕いてみせた。そこで物外が自分の茶碗を指3本で3度回し、指先で茶碗を微塵に砕いて見せたところ、武士は降参して帰った。
済法寺の門前に高さ2尺余、幅3尺、長さ7尺ほどの花崗岩の手水鉢がある。ある日、物外が中庭の掃除をしているとき、ひとりの武者修行者が訪ねてきた。「物外和尚は御在宅でござるか」と聞くので、またか、と面倒くさくなった物外は、「ただいま不在であります」と答え、左手で手水鉢の一角をもち上げ、右手の箒で石の下のゴミを掃き出した。見ていた武士は驚いて退散した。
尾道では、船着場の仲仕たちと賭をして、米俵16俵を一肩で担いだという。尾道から大坂に向かう荷船を海中で引き留め、舞子の浜まで引き上げて乗せてもらったという話もある。

近藤勇との対決

国立国会図書館近代デジタルライブラリー『物外和尚逸傳』(高田道見 明治37年)第十武藝 58ページ によれば、物外が京の町を托鉢中、新選組の道場を覗いていたところを隊士が目をつけ、からかい半分で強引に道場に連れ込んだ。ところが、物外は手にした如意で隊士たちを次々に叩き伏せてしまった。「やめろ、やめろ。君たちの手に負える坊様じゃない」と、見ていた近藤勇が出てきた。近藤が名乗って、竹刀での立ち合いを望んだところ、物外は「坊主に竹刀は似合わんでな。如意がいやなら、この椀でお相手つかまつろう」と、ずだ袋から托鉢用の木椀を二つ取り出した。新選組の近藤と聞いてなおこの反応に、ムッとした近藤勇、それならばと槍を取る。物外は右腕を正眼に突き出し、左腕は斜めに振り上げた。指先で一つずつ、木椀の糸底をつまんでいる。「さあ、どこからでも突いておいで」。いくら酔狂な坊主でも抜き身の槍を見れば震え上がるだろうと思っていた近藤のまなじりに、怒気が上ってきた。「ええ、口幅ったいやつだ」。大喝とともに槍をくり出すが、物外、ひょいと身をかわして、突き出された槍のけら首を木椀で挟み込んだ。近藤が引こうが、突こうが、動かばこそ。満身の力を込めて引っぱるところ、機を見て物外が木椀をはずすと、近藤は自分の力で二、三間も後ろへ飛ばされ、道場の床板に尻餅をついたという。



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お坊さんなのに、肖像画に鎖鎌wwww

※田辺が道場破りして横山に最後の最後に敗れたというエピソードですが
描いている人が講道館の小田常胤
ようするに講道館側の人ですんで
その辺は割り引いて見なきゃいかん気がします
なんせ講道館側の史料によると磯貝が田辺を失神寸前に追い込んでの引き分けだの描いていたわけですからねぇ…
その辺は福昌堂 極意 1997春号p20でも描かれています

逆に最近になって知られるところでは大阪の講道館支部で門下生全員をボコって嘉納治五郎本人に挑戦したエピソードとか
磯貝一が試合を途中放棄し無効試合になったという内容に関しては講道館側の史料では全く描かれてはいません(柳沢健さんとか濱田雅彦さんとかの研究で近年ようやく公開されました)

その辺はこずるいなぁ
って感じです
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