殺人の追憶  この映画で執拗に描き出されるのは、この時代の韓国の警察組織の末端の、拷問と証拠捏造による犯人でっち上げが常態化したかのような、ありさまである。デモや運動家に対する苛酷な弾圧と、民間防衛本部による夜間灯制が繰り返される社会の雰囲気のなかで、警察の強権的な体質は強固だった。















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殺人の追憶





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殺人の追憶


各種表記


ハングル:
살인의 추억

漢字:
殺人의追憶

発音:
サリネ・チュオク

英題:
Memories of Murder
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殺人の追憶

살인의 추억

監督
ポン・ジュノ

脚本
ポン・ジュノ
シム・ソンボ

製作
チャ・スンジェ
ノ・ジョンユン

出演者
ソン・ガンホ
キム・サンギョン
パク・ヘイル

音楽
岩代太郎

撮影
キム・ヒョング

編集
キム・ソンミン

配給
韓国の旗 CJエンタテインメント
日本の旗 シネカノン

公開
韓国の旗 2003年5月2日
日本の旗 2003年11月9日(TIFF)
日本の旗 2004年3月27日

上映時間
130分

製作国
韓国の旗 韓国

言語
韓国語
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『殺人の追憶』(さつじんのついおく)は、2003年の韓国映画。



目次 [非表示]
1 概要
2 キャスト
3 スタッフ
4 脚注
5 外部リンク


概要[編集]

軍事政権下で比較的治安のよかった1980年代に発生し、10人の犠牲者を出した華城連続殺人事件を元にした戯曲の映画化作品[1]。なお、実在の事件を題材にしているが原作は戯曲であり、映画はあくまでフィクションである。現実の事件とは状況や関連人物の背景にも相応の差異がある。

第40回大鐘賞で最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀主演男優賞(ソン・ガンホ)を受賞。

キャスト[編集]


役名

俳優

日本語吹替

パク・トゥマン ソン・ガンホ 山路和弘
ソ・テユン キム・サンギョン 小山力也
チョ・ヨング キム・レハ 後藤敦
シン・ドンチョル ソン・ジェホ 伊井篤史
ク・ヒボン ピョン・ヒボン 大塚周夫
ペク・グァンホ パク・ノシク 岡野浩介
パク・ヒョンギュ パク・ヘイル 石田彰
カク・ソリョン チョン・ミソン 藤貴子
チョ・ビョンスン リュ・テホ 長島雄一
その他の声の吹き替え:幸田夏穂/東地宏樹/片岡身江/小島幸子/岩田安生/棚田恵美子/立石凉子/佐々木睦/永井誠/中澤やよい/本田貴子/鈴木貴征/上田陽司/白熊寛嗣/浅井晴美/平田絵里子/樋口真/鈴木里彩

スタッフ[編集]
監督: ポン・ジュノ
脚本: ポン・ジュノ、シム・ソンボ
プロデューサー: チャ・スンジェ、ノ・ジョンユン
撮影: キム・ヒョング
照明: イ・ガンサン
編集: キム・ソンミン
助監督: ハン・ソングン
音楽: 岩代太郎
制作: サイダス
配給: CJエンタテインメント
日本での配給: シネカノン

脚注[編集]

1.^ 当時の韓国警察は反政府勢力の抑圧などの公安対策に傾倒し、刑事事件の捜査や犯罪の抑止といった本来の任務を軽視していたとの見方もある。

外部リンク[編集]
アミューズソフトエンタテインメント「殺人の追憶」
殺人の追憶の作品紹介など
殺人の追憶 - allcinema
殺人の追憶 - KINENOTE
살인의 추억 - AllMovie(英語)
살인의 추억 - インターネット・ムービー・データベース(英語)

執筆の途中です この項目は、映画に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。

http://www.sakawa-lawoffice.gr.jp/sub5-2-a-255satujinnnotuioku.html

洋画04年NO38

「殺人の追憶」
                    2004(平成16)年4月15日鑑賞<梅田ブルク7>
監督:ポン・ジュノ
パク・トゥマン(ファソン郡警特捜本部所属/担当刑事):ソン・ガンホ
ソ・テユン(ソウル市警所属/応援担当刑事):キム・サンギョン
チョ・ヨング(ファソン郡警特捜本部所属/担当刑事):キム・レハ
新捜査課長(ファソン郡警特捜本部所属):ソン・ジェホ
元捜査課長(ファソン郡警特捜本部所属(解任):ピョン・ヒボン
ギオク(ファソン郡警特捜本部所属/女性警官):コ・ソヒ
ソリョン(パク刑事の恋人/元看護婦):チョン・ミソン
ペク・クァンホ(焼肉屋の息子/第1の容疑者):パク・ノシク
チョ・ビョンスン(ファソン村人/クリスチャン/第2の容疑者):リュ・テホ
パク・ヒョンギュ(工場勤務員/第3の容疑者):パク・ヘイル
シネカノン配給・2003年・韓国映画・130分

<はじまりは1986年、若い女性の変死体の発見から>
 1986年10月、ソウルから約50km南にある華城(ファソン)という名の農村で、コンクリートの蓋で覆われた用水路の中に、手足を縛られて拘束されたうえ、頭部にはガードルを被せられた若い女性の変死体が発見された。既に腐敗していたが、鑑定の結果、強姦されていることが判明。さらにその数日後、第1事件現場の近くで同様の手口による連続強姦殺人事件が発生した。これが、その後1991年までの6年間に10人の女性が殺害される事件のはじまりだった。

<現地捜査本部の捜査は?>
 現地に設置された特別捜査本部では、捜査課長(ピョン・ヒボン)を中心に、地元のパク・トゥマン刑事(ソン・ガンホ)とチョ・ヨング刑事(キム・レハ)が必死にこの事件を捜査。「俺は人を見る目がある」と自信たっぷりのパク刑事は「叩き上げタイプ」で、「捜査は足でするもの」と信じ込んでいる。また相棒のチョ刑事はかなり強暴型(?)。殴り、蹴りによる「自白獲得」は当然のこと(?)と思っている様子で、これはちょっと恐い・・・。
 そんな中、パク刑事の恋人ソリョン(チョン・ミソン)の情報等から、パク刑事は、被害者につきまとっていた焼肉屋の息子ペク・クァンホ(パク・ノシク)を逮捕し、これを強引に尋問。弁護士の私の目から見れば、これはいくらなんでも無茶な取り調べだが・・・。

<マスコミ公開(?)の現場検証>
 今日は、容疑者のクァンホの立ち会いの下で、「被害者役」の刑事も参加させての「現場検証」。なぜかここには、たくさんのマスコミが来ていたが、これは、捜査側に筋書きどおりクァンホに「実演」させる自信があったため、得点を稼ごうとして、あらかじめマスコミに情報を流していたため。しかし途中からはクァンホの父親も割り込み、「俺の息子は犯人じゃない!」とふれ回る始末。そのため結果は悲惨なものに。クァンホは「筋書き」どおりの「指示説明」をしないうえ、父親の出現もあって、マスコミ注視の中で現場検証は大混乱・・・。その結果、クァンホは証拠不十分で釈放せざるをえなくなり、事件は迷宮入りの様相を呈してきた。挙げ句の果てに、捜査課長も解任だ。

<インテリ刑事の登場>
 こんな現地捜査本部に、ソウル市警から派遣されてきたのがソ・テユン刑事(キム・サンギョン)。彼は4年生大学卒で英語もオーケーのインテリ刑事。捜査本部が容疑者とみていたクァンホは犯人じゃない!と断言し、現場検証は恥をかくだけだと進言。
 そんなソ刑事は、当然叩き上げのパク刑事とは最初から意見が合わず、いつもケンカ。そして、「人を見る目」で容疑者を絞り込み、自白偏重思考の強いパク刑事に対し、「書類は嘘をつかない」と信じるソ刑事は、捜査資料を丹念に読み込み、2つの事件の共通点を必死に探していた。

<新任捜査課長の登場>
 このソ刑事の合理的推論法を新任の捜査課長(ソン・ジェホ)も採用。しかし当面の共通点は、被害者が2人とも独身の美女であったことの他、①雨の日の犯行であったこと、②被害者は赤い服を着ていたこと、だけ。しかしそこに強力な助っ人が・・・。
 それは捜査本部に所属する唯一の女性警官ギオク(コ・ソヒ)。彼女は新たに発見された3人目の被害者を含めて、事件のあった日には、必ずラジオのFM放送で『憂鬱な手紙』がリクエストされ、流されていたというのだ。これは偶然か、それとも、犯人にたどり着くための重要な共通項なのか・・・?
 新任の捜査課長とソ刑事はこの線に沿って科学的な裏付け捜査に奔走しようとしたが・・・。

<混乱する捜査方法>
 ソ刑事の「推論」が気に入らないパク刑事。だからこちらも「オレ流」で必死の捜査。その方法の第1は、現場に犯人の陰毛がなかったことから、「犯人は無毛症の男」と推論し、身銭を切っての銭湯通い。第2は、これも自ら高い費用を支払って、よく当たるという占い師のもとへ。何ともご苦労なこと・・・?
 苛立ち、消耗していくパク刑事を支えるのは、その恋人のソリョンだが、ラスト近くでは遂に、「刑事みたいな仕事は早く辞めたら」とアドバイスせざるをえなくなったほど刑事という職業は大変・・・?
 この事件は混迷し、今でも犯人は挙がっていないとのこと。そう、この映画が描くこの事件とこの犯人捜しのドラマは、実はつくりモノではなく、韓国で現実に発生した、連続猟奇強姦殺人事件(ファソン連続殺人事件)を題材としたものなのだ。

<第2の容疑者は?>
 第2の容疑者は、夜中1人で犯行現場にきて、懐から女性の下着を取り出して地面に置き、これを見ながらマスターベーションをするファソン村に住む中年のおじさんのチョ・ビョンスン(リュ・テホ)。占い師の予言によって現場に潜んでいたパク刑事とチョ刑事。そして独自の推論で現場に来ていたソ刑事は、一斉にこの男に飛びかかり、逃げていく男を取り押さえたが・・・?

<第3の容疑者は>
 第3の容疑者は、ソ刑事の独自の捜査によるもの。女子学生からの情報によって、ソ刑事は「自分も被害にあったが、犯人の顔を見ないように、何をされても目をつむっていたから助かった」という女性と出会うことに。そしてその女性が1つだけ覚えているのは、「私の口をふさいだ犯人の手が女の手のように柔らかかった」ということ。だがこれは重要な情報。この情報により、第2の容疑者の手を見ると・・・。「こいつは犯人じゃない!」と断言するソ刑事に対しパク刑事は怒り狂い、2人は大乱闘・・・。しかしそんな中、ラジオでは『憂鬱な手紙』が流れ始め、その上ちょうど雨が降り始めた。必ず今夜次の犯行が起こる・・・?そう確信したとおり、また新たな被害者が・・・。
 FMラジオへの『憂鬱な手紙』のリクエストのハガキによって、そのリクエストした男が判明した。その男は工場に勤務するパク・ヒョンギュ(パク・ヘイル)。ヒョンギュは、昨年9月からこの工場で事務仕事を開始した。そしてそれ以降連続殺人事件が発生。そのうえ、ヒョンギュの手は女の手のように柔らかかった・・・。

<第1容疑者クァンホは実は目撃者?>
 犯人はヒョンギュに違いないと確信するパク刑事とソ刑事だが、証拠がなくては話にならない。ここで思い出したのが、現場検証におけるクァンホの指示説明。犯人の供述としては確かに中途半端だったが、目撃したことを語っているとすればつじつまが合う。そのことに気付いたパク刑事とソ刑事は直ちにクァンホのもとへ。しかしパク刑事からひどい目にあわされていたクァンホはおびえて逃げていく。これをなだめ、「お前は女が殺されるところを見たんだな?」と質問すると、クァンホはこれにうなづいた。しかし「犯人の顔は?」と迫って写真を示すと、混乱したクァンホから、はっきりとした回答はない。苛立つパク刑事とソ刑事は強引に回答を求めたため、クァンホは再び逃げ出し、その挙げ句に、列車にひかれて死亡してしまうことに・・・。

<ヒョンギュの取り調べは?>
 ヒョンギュが犯人であることはまちがいない。そう確信したパク刑事とソ刑事は、その尋問を進めていくが、それをブチ壊したのが強暴派のチョ刑事。被疑者へのこれ以上の暴力や拷問は絶対にダメと捜査課長から言われていたにもかかわらず、ノラリクラリとしたヒョンギュの回答に苛立ったチョ刑事は、ヒョンギュに対して飛び蹴りを・・・。これでは、まともな取り調べができるはずがないのは当然。

<決め手は精液のDNA鑑定のはずだったが・・・>
 決め手はやはり科学捜査。現場に残された被害者の服に付着していた精液を採取することに成功したため、これとヒョンギュの精液が一致すれば、ヒョンギュを犯人と断定することは可能、というわけだ。しかし残念ながら韓国にはDNA鑑定をする能力や施設がないため、アメリカに依頼しなければならない。そのため、鑑定結果が出るまで一時ヒョンギュを釈放し、その監視を続けることに。
 なお弁護士としてひと言つけ加えれば、ヒョンギュの精液の提供(強制的採取?)は、実は法的手段としてはきわめて難しいもの。よほどの容疑が固まらなければ、被疑者が拒否した場合、強制的にその精液を採取するなどということは不可能に近いもの。しかし1980~90年代の韓国の犯罪捜査では、暴力や拷問を含めてそれぐらいのことは容易だったのかもしれないが・・・?
 期待に胸をふくらませて待った鑑定結果は・・・?

<さらに増えた被害者>
 ヒョンギュへの24時間監視・尾行は容易なことではない。ちょっと目をはなした隙に、ヒョンギュは部屋を抜け出し、バスに乗ってしまった。そしてまずいことに、ここで雨が降り始めた。その結果・・・?
 今度の被害者は、ソ刑事に貴重な情報を提供してくれた女子学生。さすがに冷静なソ刑事も怒りに震えた。そしてそれを決定的にしたのが、DNA鑑定の結果・・・。ソ刑事は自らの手でヒョンギュを殴り倒し、挙げ句の果てに拳銃まで抜いたが・・・?

<弁護士としての目で見ると・・・>
 前述のように、この映画は、韓国で1986年から1991年の間に現実に発生した10件の連続強姦殺人を題材としたもの。そして犯人検挙に執念を燃やす2人の刑事と容疑者とされた3人の男の姿を中心に描いた骨太の人間ドラマ。その意味では大いに見ごたえのある映画。
 しかし、弁護士としての目で憲法や刑事訴訟法に定められた適正手続や被疑者の権利の保護の視点からいうと、この映画の捜査方法には大いに問題がある。まず、強暴派(?)のチョ刑事は論外。また、パク刑事の自白獲得手段や現場検証での指示説明の「演技指導」も無茶苦茶。ソ刑事はさすがインテリだけに合法的だが、第3の容疑者について、DNA鑑定が思惑どおりの結果が出なかったときの暴力沙汰は、他の刑事と同様に無茶苦茶。
 なお、DNA鑑定のための第3の容疑者ヒョンギュからの精液提供も、本来はほとんど不可能に近いはず。したがって、このような「違法」な捜査によって証拠を固めて起訴したとしても、裁判所は違法収集証拠によって有罪を認定することはできないとして、無罪になる可能性が高いはずだ。もっとも、これは日本の憲法や刑事訴訟法を前提とした場合の話であり、韓国の刑事訴訟法制度のもとではどうなるのかは知らないが・・・。

<何とも虚しい結末だが・・・>
 警察の捜査能力ってこんなもの・・・?そう思わざるをえないし、大きな無力感を覚えざるをえないのが、この映画を観た後の実感。もちろんこの「ファソン連続殺人事件」の犯人は未だ検挙されていない。映画のラストは、刑事を辞めて今は実業家となっているパクが、犯行現場を通りかかった際、思い出(?)の用水路をのぞき込んでいるところ。これを不思議そうに見ていた女の子の質問に答えるパクだが、女の子から、同じようにそこをのぞき込んでいたおじさんがいたことを指摘されて思わず・・・?

<骨太の映画の評価は?>
 この「ファソン連続殺人事件」を題材とした映画は、韓国では『シュリ』(99年)、『JSA』(00年)、さらには『マトリックス』シリーズ(99年、03年、03年)を超える560万人を動員し、2003年興行収入NO.1を記録したとのこと。また、第40回大鐘賞「韓国のアカデミー賞」作品賞、監督賞、主演男優賞、照明賞の各賞を受賞した、とのこと。
 現実に起こった連続強姦殺人事件をテーマとして映画を製作することはすごく難しいことだと思うが、刑事たちの執念と容疑者とされた男たちの苦悩ぶりがリアルに、かつ緊張感をもって描かれた本当に骨太の立派な作品。雑誌や新聞の評論をみても、絶賛する声がほとんどであることも十分うなずける。
 またこの映画が韓国で大ヒットしたため、この「ファソン連続殺人事件」への関心が急速に高まり、特集が組まれたり、市民運動が起きているとのこと。「時効の壁」もあるが、多くの有力情報が提供され、犯人検挙となることを願わずにはいられない。もっとも弁護士としての目で見れば至るところに見られる「自白偏重」の「違法捜査」には目にあまるものがあり、それは大きな声で指摘したいところだが・・・。それを横において一観客としては、上映期間のラスト直前のレイトショーでやっとこの映画を観ることができて大満足。
                                  2004(平成16)年4月16日記

http://www.geocities.jp/shinsuke_0126/tuioku.html

『殺人の追憶』 監督 ポン・ジュノ 2003年


顔とトンネル、表層と深層


 『殺人の追憶』は、凄惨な連続殺人事件を扱っているが、金田一シリーズや最近人気の名探偵コナンのように犯人探しの謎解きが主題ではない。かといって、『羊たちの沈黙』のレクター博士のようにカリスマ的ダークヒーローが登場するわけでもない。が、にもかかず、連続殺人事件をテーマにして、しかも犯人が見つからないのに、どうしてこれほど見事な映画を撮りえたのか。もしくは見事な映画たりえたのか。
  それは、この作品の持つ〝重さ〟がひとつの連続殺人事件を超えて、人間の持つ暗闇へと見るものを否応なく導くからだ。
  この物語は前半と後半で明らかな温度差を持つ。それは対照的とも呼べる温度差だ。前半は熱帯気候と評せるほどに気の抜けた二人の刑事、パクとチョ刑事の捜査方法を描写する。といってもそれは捜査という言葉さえも、使うに抵抗を感じるようなひどいものだ。少しでも怪しい人物がいれば警察署に連行し、地下の部屋で拷問まがいの行為で自白を強要する。ソウルから捜査協力に来たソ刑事も早くから登場するが、彼らの操作方法に口を出すわけでもなく黙考に励んでいる。

  一方、極寒に急変する後半は、さらにエスカレートする犯行に、パク刑事はギャグのような捜査方法を改め、ソ刑事もようやく本格的に動き出す。それに伴い浮上する最有力の容疑者、また捜査のはじめから疑われていたクァンホの事故死など、〝軽〟から〝重〟へのストーリー展開のシフトチェンジが矢継ぎ早になされる。

  この温度差はひとえにパク刑事とソ刑事の対照的な行動からくるのだが、この対照性が徐々に薄まり、やがて逆転する瞬間を迎える。この瞬間こそがこの映画の真の主題であり、〝重さ〟につながってくる。

  それは物語のラスト、顔見知りの女子学生の死を知り、やり場のない感情を抱えたソ刑事は最有力容疑者のヒョンギュを暗いトンネルの前に連れ出し、銃を突きつけて自白を強要する。その姿はまさに以前のパク刑事の姿の二重写しだ。まずここで立場の転換性が示されるのだが、監督のポン・ジュノは、さらに恐ろしい立場の転換を示唆する。それが、犯人視点のカットだ。
  物語中、二度この視点のカットがある。ひとつは工場へ向かう女性を襲う場面で草むらから犯人=われわれが彼女を見るカットが挿入され、ひとつは最後の被害者である女学生を襲う場面で、通りがかったもう一人の女性とどちらを襲うか一瞬迷うカットだ。この(犯人視点の)カットは犯人と観客との同化を強制する作用があり、犯人の心を覗いた自分に嫌悪感が渦巻く瞬間でもあるのだが、逆に言えば、ポン・ジュノはあえてそうしたカットを挿入することで、犯人とわれわれとの境界をぼやかしている。
  つまり、パク刑事とソ刑事と犯人と自分と。誰がどの立場になってもおかしくはないのだ、という転換性だ。そして、そうしたポン・ジュノの洞察は顔とトンネルに現れる。

  とにかくこの作品は顔がよく映される。顕著なのはパク刑事の捜査方法だ。「俺の目を見ろ」といって、相手の顔を覗き込んで犯人かどうか決めるという原始的ともいえないやり方だ。これは顔という表層からの人間判断だが、物語の最後、ヒョンギュに試みて、その表層の判断を放棄する言葉をこぼす。「おれにはもうわからない」と。

  一方、トンネルは強いメタファーを帯びて存在する。最有力容疑者のヒョンギュがその中へ消え、事件が迷宮入りしてしまったように、闇が深く、曲がりくねって、出口への光は少しもみえない。その深層性は人間の心に通じる奥深さと畏怖を備えている。それは、果たして犯人は誰なのかといった疑問を超え、われわれの心の中にも、犯人に通じる狂気や残虐性が眠ってはいまいか、われわれが犯人の側に立ちうる可能性はなかったかという、心の中にある不可解な多面性と可能性を垣間見せるのだ。

 事件から十数年を経たパクは、はじめの犠牲者を発見した側溝を覗いてみる。もちろんそこには何もないが、少女からつい最近犯人らしき人物がここに来たらしいことを聞いて顔を画面(観客)に向ける。彼の顔に何を見るか。それはわれわれに投げ出されたポン・ジュノからのメッセージでも ある。




text by 山崎慎介

目次へ
http://d.hatena.ne.jp/yukutaku/20130605/1370445320

NO.38 殺人の追憶 ポン・ジュノ




韓国の天才監督ポン・ジュノが贈るハードボイルド重喜劇「殺人の追憶」

1980年代に発生し、10人の犠牲者を出した華城連続殺人事件を元にした戯曲の映画化作品。
第40回大鐘賞で最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀主演男優賞(ソン・ガンホ)を受賞した。

それにしても韓国映画の暴力描写は恐ろしい!!
若干、ネタバレあります。

くわばら、くわばら…。



映画「殺人の追憶」

1986年10月23日、ソウル南部の農村で手足を縛られた若い女性の無惨な変死体が発見される。
また数日後には、同様の手口で2人目の犠牲者が出た。

さっそく地元の刑事パク・トゥマンら捜査班が出動。
だが、懸命な捜査も空しく、一向に有力な手掛かりが掴めず、捜査陣は苛立ちを募らせる。
その上パクと、ソウル市警から派遣されたソ・テユン刑事は性格も捜査手法もことごとく対称的で2人はたびたび衝突してしまう。

こうして捜査は行き詰まり、犠牲者だけが増えていく。
そんな中、ついに一人の有力な容疑者が浮上してくるのだが…

(あらすじ by allcinema)

Memories of Murder (the best Japanese trailer)


ものすごいリアリティにビビる。
全盛期の今村昌平に通じるものがある。
アジアに土着している何かなのだろうか。

ちなみに、本作に韓流イケメンは出て来ない。
主役のソン・ガンホは、何処からどう見てもオッサン。
作品の中でも田舎のデタラメな刑事がはまり役。
直感と暴力で犯人探しをするため、しょっちゅう冤罪が起きる。

そんな中、ソウルからエリート刑事が派遣されてくる。
ソ・テユン刑事(キム・サンギョン)は大学出で性格も紳士然とし、捜査手法もむちゃはせず、客観的データに基づいて行動している。
ふたりのでこぼこっぷりがおかしい。

この二人の対比が、この映画の見せ場。
田舎のあか抜けない刑事と都会から来たエリート刑事が、ひとつの事件をきっかけにお互いの文化や思想がクロスオーバーされてゆく。

特に面白いのが、エリート刑事が事件が進むにつれ、自分の感情を抑えきれなくなり、田舎の刑事にいさめられるシーン。
ミイラ取りがミイラになってしまった感はあるが、人間的な感情がほとばしることの美しさを痛烈に感じることができる。

とはいえ、本作の真のテーマは「この国の持つ暴力性」だ。
事件そのものだけではなく、女性への暴力、国家権力の暴力、上司の部下への暴力、が所かまわず行われる。
そこには、韓国という国の持つ負の側面があぶり出されている。

物語の伏線として、人を足蹴にすることが得意な暴力刑事が、容疑者への暴力の最中に反撃され足を切断するハメになるシーンがある。
まさに自業自得とはこのことだ。

ポン・ジュノは警告しているのだ。
このような「暴力がまかり通る社会が正しいと思ってはいけない」と。

結局、犯人は見つからない。
かなり、いいとこまで追いつめたはずだが逃げられた。
そこには、数限りない暴力の爪痕だけがのこされた…

数年が経ち、田舎の刑事はまともなサラリーマンとなった。
仕事の途中で昔、女性の死体が見つかった田んぼを通りかかる。
ふと、立ち止まって、あの時と同じように死体のあった下水道を覗き込む。
そこには何も無い。

そのとき、地元の小学生の少女が通りかかる。
最近同じように水道管を覗き込んだ男がいるという。
その男は、昔自分がしたことを思い出して覗き込んだという。

元田舎刑事はとっさに尋ねる「顔を見たか?」と。
少女は答える「見た」と。
元田舎刑事は尋ねる「どんな顔をしていたか?」と。
少女は答える「よくある普通の顔をしていた」と。

そうだ!それが犯人だ!
この国の何処にでもいるような普通の男たち。
暴力で何かを支配しようとするこの国の男たち全員。
それが真犯人だ!とポン・ジュノは言っているのだ!!

まあ、ご託はともかく、エンターテイメントとしても一級品。
本作が好きな方は、ポン・ジュノの「グエムル」は当然にしても、
「オールド・ボーイ」「チェイサー」「息もできない」なども必見!!

韓国映画のレベルの高さを伺い知れる傑作!


映画「殺人の追憶」Blu-rayが出るよ!

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20050310/p1
2005-03-10



■[映画]『殺人の追憶』CommentsAdd Star

以前から見たいと思っていた韓国映画『殺人の追憶』を、ようやく劇場で見ることができた。

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この映画は、去年のキネマ旬報のベストテンでは、『ミスティック・リバー』に次いで外国映画部門の第二位にランクされていた。実際に見て、たしかに犯罪映画としても、またある国のある時代における人々と社会のあり方を描いた「人間ドラマ」としても、第一級の作品だと思った。

また、『ミスティック・リバー』と対比しても、色々なことを考えさせる。

ストーリーについては、すでに多くのところで語られていると思うし、上のURLにも詳しく書いてあるので、ここではあまり触れない(でも、以下の文は滅茶苦茶ネタバレです)。


映画のはじめに、この映画が、民主化運動の激しかった86年から91年までの時期に、韓国のある農村で起きた実際の連続強姦殺人事件の顛末を題材にしたものであるという説明がスクリーンに映される。これは、日本語版だけのものだろうか。たしかに日本の観客にとっては、この説明が付されていることによって理解が大きく助けられる部分が、この作品にはあるとおもう。


80年代後半の日本から見た韓国

この時期というのは、88年にソウルオリンピックが行われるなど、韓国が経済発展の時代に突入した時代というイメージが、ぼくにはあった。韓国の民主化運動というと、70年代の激しい動きや、80年に起きた光州事件などの印象ばかりが強く、この時期には一区切りついていたように思っていたのだが、そうではなかったらしい。

なぜこんな思い込みをしていたかというと、日本のその時代が、もう完全に経済一色の時代になっていたからだろう。ぼく個人の記憶としても、ぎりぎり光州事件までは、テレビや新聞の扱いにしても、社会の雰囲気の面でも、韓国の学生運動や朝鮮半島の情勢を日本のそれと重ね合わせてとらえることが出来ていたように思う。それは、薄い重ね合わせ方だったが、なんとなく「ああ、あちらでもやっている」とか、「あっちはどうなってるのか」とか、よく見えない隣の土地のことを気にするような感じがあった。

村上龍に『海の向こうで戦争が始まる』という題の小説があったけど、ちょうどその言葉のような感じで、ぼんやりとだが想像することができそうな感じがあった。これは、いまの「韓流」ブームの気安さとは違うものだ。あの同質性の感じはなんだったのだろう。


ここはロマンティックな要素を極力除去してかんがえると、アメリカを軸にした政治的・軍事的な相互関係のなかに二つの国が共にとりこまれて存在しているという現実が、80年ごろまではまだしも実感できていたということだと思う。

その実感が80年代に入って失われていった理由は、70年代から80年代中ごろにかけて日本での「民主化運動」にあたる可能性をもつものが徹底的に押さえ込まれていったということもあるが、それと同時に日本が経済的にアメリカより優位に立ったことによって「アメリカの影」を日本人が意識しなくなったことが大きかったのではないか。「バブル経済」の政治的・社会心理的な効果は、絶大であったと思う。

時代の変容と自己への迷い

いずれにせよ、この映画の舞台となった80年代後半には、日本では、この韓国の社会に対するある意味で実感的な感じは、まったく消えていた。もう、経済のことしか見えなくなっていた。

その頃、韓国では実際には民主化運動が依然として戦われ、農村では連続殺人事件が、遅々として捜査が進まないなかで発生していたのだ。

この映画で執拗に描き出されるのは、この時代の韓国の警察組織の末端の、拷問と証拠捏造による犯人でっち上げが常態化したかのような、ありさまである。デモや運動家に対する苛酷な弾圧と、民間防衛本部による夜間灯制が繰り返される社会の雰囲気のなかで、警察の強権的な体質は強固だった。

そのために、この連続殺人事件の捜査は難航を極めるはめになるのだが、印象深いのは、民主化運動の漸進的な勝利によって警察のこうした体質が批判にさらされるようになって、現場で拷問や捏造を行ってきた末端のしかも(農村部の、学歴の低い)刑事たちが、上層部によってトカゲの尾のように切り捨てられていく哀れな姿の描写である。一つの時代の社会の体制の末端で歯車として非人間的な役目を負わされ、時代の変化と共に切り捨てられていく人々の悲哀と憤懣を、この作品は見事に描き出している。


この映画は、まさに時代の変容ということ、あるいは変容の時代というものを主題にした作品であるともいえるだろう。

映画のクライマックスで、ソン・ガンホの演じる中年の刑事が、有力な容疑者の青年(パク・へイル)に投げかける、「俺にはもうわからん」という台詞は、この事件の真相に関してだけ言われている言葉ではないだろう。

これまで自分が信じてきたものの虚偽と、これからやってくる時代の不透明さ(サイコ的な犯罪と容疑者)とのはざまで、信じられるもの、確固たるものがすべて失われた深い闇のなかで、一筋の光に希望を託そうとするように、目の前の一人の若者に投げかけられたその次の言葉は、「メシは食ってるのか」だった。この一言に、この映画のメッセージのすべてが集約されているといってもいいだろう。

黒澤の『野良犬』と、『殺人の追憶』

ところで、この映画を見た日本の映画監督阪本順治は、「黒澤明の孫が、韓国に生まれた」という賛辞を述べたという。

おそらく、黒澤の傑作『野良犬』のことが念頭にあったのだろう。ぼくも、とらえどころのない犯人を追い求める刑事たちの人間像の力強い描き方に、あの作品を思い出さずにはいられなかった。

1949年に作られた『野良犬』と、『殺人の追憶』が共通しているのは、追う側と追われる側とが、急激な時代の変容がもたらす混沌のなかで、どこか重なり合い、ときには交じり合いさえするような危うい姿である。『野良犬』の三船敏郎は、戦場での体験を経て、自分が追いかけている当の犯人が、自分自身であってもなんら不思議はなかったのだという、奇妙な思いから逃れることができない。この切迫した迷い、同一性の混乱のようなものは、三船が木村功を捕えて野原の中に倒れこむ伝説的なシーンで頂点に達する。

一方、『殺人の追憶』でも、犯人を追うソン・ガンホ、キム・サンギョンの二人の刑事は、共に自分自身が精神的な危機に見舞われていき、その混乱のなかで二人の刑事は対照的な自己回復の道を選ぼうとすることになる。それが、あのトンネルのシーンだとおもう。


だが、さらにこうも思うのだ。『殺人の追憶』では、事件は結局迷宮入りする。映画の最後では、ソン・ガンホが警官を辞めてビジネスマンとなり、妻や子どもたちと平凡な家庭を築いている2003年現在の姿が描かれる。彼はあるとき、15年前に自分が死体を発見した現場を偶然通りかかって、再び、すでに忘れていたであろうあのときの「深い闇」、自分と社会に対する迷いに直面することになる。その迷いの生々しさを提示して、この映画は終わっている。

一方、『野良犬』でも、最後の場面で入院している志村喬を見舞った三船は、再び自分と社会に対する深い迷いを口にする。志村が、秩序は取り戻され社会はかならずいい方向に前進するという希望を口にするところで、あの映画は、やや曖昧に終わっていた。

韓国のことはともかくとして、1949年以後の日本の場合、三船が体現していたあの自己への迷いの生々しさ、真実さは、果たして維持されたであろうか。トンネルの中に銃弾を放ったキム・サンギョンのように(あれは、わざと的を外したということかもしれないが)、この国の社会では不幸な「自己回復」が行われ、人間が体制の外で生きる可能性の芽は、摘み取られ埋められてしまったのではなかったか。

ぼくがいま、自分自身に向かって問いたいのはそのことである。


はじめに書いた80年代の話に戻って言うと、ぼくが生きた80年以後の時代では、それまでかすかに見えていた、韓国と日本という二つの社会のつながりが、なぜ見えなくなったのか。その空虚さに抗議したい気持ちがぼくにはある。

自分が生きてきた時代の大半において、いや全部かもしれないのだが、ある時期以降は特に、当然目の前に見えているべき現実が隠されてしまったということがあり、その喪失の感覚は、ぼく自身の生が持つ喪失や空虚さとどこかで重なっている気がするのだ。

ぼくが、韓国の映画をよく見るのは、自分にとっての失われたものを探す手がかりが、そこにあると直感しているからだと思う。

『野良犬』の三船が木村功に感じていたように、その失われた何かは、ここ(自分)ではなくあそこ(相手)にある。ぼくにはそう思えるのだ。
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