カール・マルクス著書より

http://page.freett.com/rionag/marx/thf0.html
マルクスのオリジナル版

フォイエルバッハに関するテーゼ


1

これまであったあらゆる唯物論(それにはフォイエルバッハのものも含まれるのだが)の主要な欠点は、事物や現実や感性が客観あるいは観照という形式のもとでだけとらえれていて、人間的な感性的行動、すなわち実践として、主体的にはとらえられていないということである。それで、行動的側面は、唯物論とは対比的に、観念論--それはは自ずと現実の感性的な行動そのものを知り得ないのであるが--から説明されてきた。
フォイエルバッハは感性的な--思考対象から現実に区別された対象を欲したのである。しかし彼は人間的行動自身を客観的な行動としては理解しなかった。それゆえ、彼は「キリスト教の本質」の中で、ただ理論的態度だけを本来の人間的なものとみなし、実践をさもしいユダヤ人的な形態でのみとらえ固定化し続けたのである。したがって、彼は「革命的な」「実践的-批判的な」行動の重要性を理解しなかったのである。

2

人間の思考が客観的な真実に到達できるかどうかという問題は--理論の問題ではなくて、,実践的な問題なのである。実践において、人間は真実、すなわち現実と力を、彼の思考が現世のものであることを証明しなければならない。思考--実践から遊離した--が現実的か非現実的かについての論争は、純粋にスコラ的な問題なのである。

3

環境と教育の変化についての唯物論的学説は、環境が人間によって変えられ、教育者自身が教育されなければならないことを忘れているのだ。それで、この学説は社会を二つの部分--うちの一方を社会の上に超然と高める--に分けざるをえない。
環境の改変と人間の行動あるいは自己変革とが一致することは、革命的な実践としてのみとらえることができ、合理的に理解できるのである。

4

フォイエルバッハは宗教的自己疎外、すなわち呈示された宗教的世界と現世的世界への世界の二重化という事実から出発する。彼の仕事は、宗教的世界をその世俗的基礎へと解消することにある。しかし世俗的基礎がそれ自身から際だって見え、自身を雲のなかに独立した王国として確立するということは、この世俗的基礎の自己分裂と自己矛盾からのみ説明されるべきである。世俗的基礎自身はその矛盾のままに理解され、同時にまた実践的に革命されなければならない。こうして、例えば地上の家族が聖なる家族の秘密として暴かれた後では、今度は前者自身が理論的に、また実践的に破壊されなければならない。

5

フォイエルバッハは抽象的思考には満足せず、直観に訴えかける。しかし彼は感性を実践的な人間的-感性的な行動としてとらえることはなかった。

6

フォイエルバッハは宗教的本質を人間的本質に解消する。しかし、人間的本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。現実には、それは社会的な諸関係の総体なのである。
フォイエルバッハは、この現実的な本質の批判に携わろうとはせず、それゆえ無理矢理に
1.歴史的経過を捨象し、宗教的心情をそれ自身にたいして固定化し、抽象的な-孤立した-人間的個人を前提とし
2.本質を、単に「類」としてのみ、内的な、無言の、多くの個人をただ自然に結びつける普遍性としてのみとらえることができるのだ。

7

フォイエルバッハは、それゆえ、「宗教的心情」自身が社会的な産物であること、そして彼が分析している抽象的個人が、現実には特定の社会形態に属することを見ない。

8

すべての社会的生活は本質的に実践的なのである。理論を神秘主義に誘い込むあらゆる神秘は、人間的な実践のなかで、そしてこの実践の理解のなかで、合理的に解決されるのである。

9

観照的な唯物論、すなわち感性を実践的行動として理解しない唯物論が到達しうるのは、せいぜい個々の個人と市民社会の直観である。

10

古い唯物論の立脚点は市民社会であり、新しい唯物論の立脚点は人間的社会あるいは社会化された人類なのである。

11

哲学者たちは世界を単にさまざまに解釈しただけである。問題なのは世界を変えることなのである。

http://page.freett.com/rionag/marx/mcp.html

共産党宣言
カール・マルクス/フリードリッヒ・エンゲルス:著
永江良一 :訳

この文書は
Karl Marx / Friedrich Engels :
Manifeto of The Communist Party (1848)
the English edition of 1888, translated by Samuel Moore n cooperation with Friedrich Engels
を日本語訳したものです。
翻訳はMarxists.Org. Internet Archiveのテキストに基づいています。

2002年07月20日 暫定訳公開

©2002 Ryoichi Nagae 永江良一
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この翻訳は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(帰属 - 同一条件許諾)の下でライセンスされています。
ご指摘、ご教示などありますれば永江良一まで



目次
共産党宣言 I.ブルジョワとプロレタリア
II.プロレタリアと共産主義者
III.社会主義的および共産主義的文献 1.反動的社会主義 A.封建的社会主義
B.プチ・ブルジョワ社会主義
C.ドイツ社会主義あるいは「真正」社会主義

2.保守的社会主義またはブルジョワ社会主義
3.批判的‐ユートピア的社会主義と共産主義

IV.様々な現存の反対党と比較した共産主義者の立場



共産党宣言

ヨーロッパにはお化けが出ます。共産主義というお化けが。古きヨーロッパのすべての権力が、このお化けを祓うため、神聖な同盟に加わっています。教皇とツァー、メッテルニヒとギゾー、フランスの急進派とドイツの密偵。

権力の座にある対抗派から共産主義だと罵られなかった政府反対党がどこにあるでしょうか。自分たちより進歩的な反対党にも、反動的な敵対者にも、共産主義という烙印を押すような非難を投げ返さなかったような反対党がどこにあるでしょうか。

この事実から二つのことが帰結します。
1.共産主義はヨーロッパのすべての権力からすでに一つの力だと認められているということ
2.共産主義者は公然と、全世界の面前に、その見解、その目的、その性向を公表し、共産主義のお化けというお伽話に党自身の宣言で対抗するのに最適な時期だということ
この目的のために、さまざまな国籍の共産主義者がロンドンに集い、次の宣言を起草し、英語、フランス語、ドイツ語、フラマン語、デンマーク語で出版することにしたのです。



第1章 ブルジョワとプロレタリア

これまで存在したあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史です。

自由人と奴隷、ローマの貴族と平民、領主と農奴、ギルドの親方と職人、一言で言えば、抑圧者と被抑圧者が不断に対立しあい、中断することなく、ときには暗に、ときには公然と闘ってきたのですが、この闘いは大規模な社会の革命的な再編成で終るか、さもなければ、あい闘う階級がともに没落して終ったのです。

歴史の初期の時代には、社会はさまざまな階層、社会的な地位の多様な序列へと複雑に編成されていました。古代ローマでは、貴族、騎士、奴隷がいましたし、中世には、封建領主、封臣、ギルドの親方、職人、徒弟、農奴がいました。そしてこうした階級のほとんどすべてにわたって、さらに副次的な序列にわかれていたのです。

封建社会の没落から出現した現代のブルジョワ社会は、階級対立を終らせたのではありませんでした。それは、古いものにかえて、新しい階級、新しい抑圧状態、新しい闘争形態をつくりあげたにすぎません。

私たちの時代、ブルジョワジーの時代は、けれども、次のようなはっきりした特徴をもっています。それは階級対立を単純化したということです。社会は全体としてますます、敵対する二大陣営に、互いに直接対抗する二大階級、ブルジョワジーとプロレタリアートに、分かれていくのです。

中世の農奴から、初期の都市の特許市民が生まれました。こういう市民から、ブルジョワジーの最初の構成部隊が発展してきたのです。

アメリカの発見と喜望峰の回航は、勃興するブルジョワジーに新たな大地を開きました。東インドと中国の市場、アメリカの植民地化、対植民地貿易、交換手段と全般的な商品の増大は、商業や航海術や工業に、前代未聞の衝撃を与え、それによって、ぐらつく封建社会の革命的要素を急激に発展させたのです。

封建的な工業の体制では、工業生産は閉鎖的なギルドによって独占されていたのですが、新しい市場の増加する要求にはもはや十分ではありませんでした。工場制手工業がそれにとってかわったのです。ギルドの親方は、工業制手工業の中産階級に押しやられ、異なるギルド集団間の分業は、それぞれ個々の作業場内の分業の前に姿を消しました。

その間、市場はずっと成長を続け、需要は増加し続けていました。工場制手工業でさえ不十分となりました。その結果、蒸気と機械が工業生産を革命的に変えたのです。工場制手工業に巨大な近代工業がとってかわり、工業の中産階級に工業の百万長者、工業の軍隊の全軍の指導者、つまり近代的ブルジョワがとってかわったのです。

アメリカの発見は世界市場への道を開いたのですが、近代的工業はこの世界市場を確立したのです。この世界市場は商業、航海術、陸上交通にはかりしれない発展をもたらしました。この発展がこんどは工業の拡大に反作用しました。工業、商業、航海術、鉄道の拡大に比例して、ブルジョワジーは発展し、その資本を増やし、中世から受け継いだあらゆる階級を背景に押しやったのです。

こうして私たちは、近代的ブルジョワジーそのものが、長い発展コースの産物として、そして生産と交換の様式の一連の革命の産物として、どんなふうに生じてきたかを見てきました。

ブルジョワジーの発展の各段階には、それに対応したこの階級の政治的進歩が伴ってきました。ブルジョワジーは封建貴族支配下での被抑圧階級、あるいは中世的なコミューンの武装した自治的な連合でした。この場合は独立した都市共和国(イタリアやドイツのように)であり、そして前の場合は君主制のもとでの課税されうる「第三身分」(フランスのように)だったのです。その後、工場制手工業本来の時代には、半封建的君主制や絶対王制において貴族に対する平衡力という役割を果たしました。事実、大君主制一般の礎石となったのです。そしてブルジョワジーはついに、近代的工業と世界市場を確立して以来、近代的代議制国家において、独占的な政治支配を勝ち取ったのです。近代国家の執行権力とは、ブルジョワジー全体に共通する問題を管理する委員会にすぎないのです。

ブルジョワジーは、歴史的には、もっとも革命的な役割を演じてきました。

ブルジョワジーは、支配力を握ったところではどこでも、あらゆる封建的で家父長的で牧歌的な関係を終らせました。それは、人をその「当然な上位者」とつないでいる色とりどりの封建的絆を容赦なくひきちぎり、人と人の間に、むきだしの自己利益以外の、冷淡な「現金払い」以外のいかなる関係も残しませんでした。宗教的情熱や騎士道的熱狂や俗物的感傷の天上的な陶酔は、自分中心の打算の氷のように冷たい水の中で溺れ死にさせられたのです。ブルジョワジーは人格的価値を交換価値に解消してしまい、数多くの取り消されない特に許された自由のかわりに、ただ一つの良心なき自由、自由交易を据えたのです。一言でいえば、宗教的で政治的な幻想で覆いかくされた搾取を、むきだしの、恥知らずで、直接的で、粗暴な搾取と取り換えたのです。

ブルジョワジーは、それまであがめられ、尊敬をこめた畏怖をもって見られてきたあらゆる職業から、その後光をはぎ取りました。医者、僧侶、詩人、学者を、自分たちの賃労働者に変えてしまったのです。

ブルジョワジーは家族から感傷的な覆いを引きはがし、家族関係をただの金銭的関係にしてしまいました。

中世においては活力が荒々しく示されることを、反動家たちはたいそう賞讃しているのですが、それをぴったりと補完しているのが怠惰なのらくら生活であることを、ブルジョワジーは暴いたのです。ブルジョワジーはまっさきに、人間の活動がどんなことを成し遂げられるのかを示しました。エジプトのピラミッド、ローマの水道、ゴチック式の大聖堂をはるかにしのぐ驚異を成し遂げ、以前の民族移動や十字軍がみんな色あせるような遠征に乗り出したのです。

ブルジョワジーは、たえず生産用具を革命的に変え、そのことによって生産関係を革命的に変え、それにより社会関係全体を革命的に変えることなくしては、生存することができません。それとは反対に、古い生産様式をその形を変えることなく保持することが、それ以前のすべての産業階級の第一の生存条件でした。たえず生産を革命的に変え、間断なくあらゆる社会状態をかき乱し、果てしなく不安定にし動揺させ続けることが、ブルジョワ時代をそれ以前のあらゆる時代から区別する特徴となっています。古めかしく敬うべき偏見や意見をひきずった、あらゆる固定し堅く氷ついた関係はさっさと廃止しされ、新しく形成された関係はみんな固定化するまえに古くさいものとなってしまうのです。あらゆる堅牢なものが溶けて霧散し、あらゆる聖なるものが世俗のものとなり、人はついには自分たちのほんとうの生活状態および仲間との関係に、醒めた感覚で直面せざるをえなくなります。

自分たちの生産物のためのたえず拡大する市場に対する必要性から、ブルジョワジーは地球の全表面を駆り立てられます。ブルジョワジーはどこにでも巣をかけ、どこにでも住み着き、どことも関係を確立しなければならないのです。

ブルジョワジーは、世界市場の開発を通して、どこの国でも生産と消費に世界主義的性格を与えます。反動家にははなはだお気の毒ですが、ブルジョワジーは産業の足元から、それがよって立っていた国民的基盤を掘り崩しました。古くからあった国民的な産業すべては破壊されてしまったか、あるいは日々破壊されています。そうした産業は新しい産業に押しのけられ、新しい産業を導入することはすべての文明諸国の死活問題となっています。産業はもはやその土地の原料を使うだけではなく、はるか遠く離れた地域からもってきた原料を使い、その生産物は国内だけでなく、世界のいたるところで消費されるのです。その国の生産物で満足していた古い欲望にかわって、満足させるには離れた土地や風土の生産物が必要な新しい欲望があらわれます。古い局地的で国民的な隔離と自足にかわって、あらゆる方面との交易が、諸国民の普遍的な相互依存があらわれるのです。そして物質的生産と同じことが、知的生産においても生じます。個々の国民の知的創造は共有の資産となります。国民的な一面性や偏狭さはますます不可能となり、多くの国民的な局地的な文学から、一つの世界文学があらわれるのです。

ブルジョワジーは、あらゆる生産用具を急激に改良することで、限りなく便利になった交通手段によって、あらゆる国民を、たとえもっとも野蛮であっても、文明へとひきいれるのです。商品の安い価格は、野蛮人のひどく頑固な外国人嫌いも屈伏させる重砲隊なのです。ブルジョワジーはあらゆる国民に、滅亡を覚悟し、ブルジョワ的生産様式の採用を強制し、そのど真中にいわゆる文明を導入すること、すなわちブルジョワそのものになることを強制します。要するに、ブルジョワジーは自分の姿に似せて世界を創造するのです。

ブルジョワジーは農村を都市の規則に服従させました。ブルジョワジーは多数の都市をつくりだし、農村人口に比べ都市人口を著しく増加させ、そうやって人口のいちじるしい部分を農村生活の白痴状態から救い出したのです。農村を都市に依存させたのと同じように、ブルジョワジーは野蛮および半野蛮な国を文明国に、農業国をブルジョワ国に、東洋を西洋に依存させたのです。

ブルジョワジーは、人口、生産手段、財産の分散した状態をだんだん廃止していきます。人口を密集させ、生産手段を集中し、財産を少数の手に集めてしまいました。このことの必然的結果は政治的中央集権でした。ばらばらの利害、法律、政府、課税制度をもつ独立した、ないしゆるく結び付いた地方は、集まって一つの政府、一つの法体系、一つの国民的階級利害、一つの国境、一つの関税をもつ一つの国民となったのです。

ブルジョワジーは、その百年に満たない支配の間に、先行する世代のすべてを合わせたよりも、もっと大規模な、もっと膨大な生産力を作り出しました。自然の力を人間に服属させること、機械、工業や農業への化学の応用、蒸気船、鉄道、電信、全大陸を耕作のために掃き清めること、河川を運河とすること、魔法で地から涌き出たような全人口、以前のどの世紀も、社会的労働のふところにこのような生産力がまどろんでいるということを、予想すらしませんでした。

そこで、わかったのは、ブルジョワジーが立脚している土台である生産手段と交換手段は、封建社会の中で生まれたということです。こういう生産手段と交換手段の発展がある段階になると、封建社会の生産や交換がおこなわれてきた諸条件、農業と工場制手工業の封建的組織、要するに、封建的所有関係は、既に発展している生産力とはもはや両立できなくなり、足枷となりました。こういう関係は粉々に粉砕しなけれなならなくなり、粉々に粉砕されたのです。

そういう封建的関係があったところには、自由競争が入り込み、それとともに、それに適した社会的および政治的制度と、ブルジョワ階級の経済的および政治的支配があらわれたのです。

同じような運動が私たちの目の前で進行しています。ブルジョワ的生産関係、交換関係、所有関係をもつ近代的ブルジョワ社会、このように巨大な生産手段や交換手段を魔法のように呼び起こした社会は、自分の呪文で呼び出した地下世界の力をもはや思うようにできなくなった魔法使いのようです。ここ数十年の歴史は、近代の生産条件に対する、ブルジョワとその支配の生存条件である所有関係に対する、近代の生産力の反乱の歴史にほかなりません。周期的にぶり返しては、ブルジョワ社会全体を審判に付し、度重なるごとに激しくなっていく、商業恐慌のことをあげておけば十分でしょう。こういう恐慌では、今ある生産物だけでなく、これまでに作り出された生産力の大部分が、周期的に破壊されるのです。こういう恐慌では、以前のどの時代でも馬鹿げている思われたような疫病、過剰生産という疫病が突発します。社会は突然、一時的な野蛮状態に逆戻りし、まるで飢饉とか全般的荒廃戦争であらゆる生活手段の供給が途絶えたかのようになり、工業も商業も破壊されたように見えます。なぜでしょうか。あまりに文明化しすぎ、あまりに生活手段が多すぎ、あまりに工業も商業も発達しすぎたからです。社会が自由にできる生産力は、もはやブルジョワ的所有の条件を促進しようとはせず、反対に、生産力はこういう条件には強力になりすぎ、生産力は足枷をかけられるのですが、生産力が足枷を乗り越えるとたちまち、ブルジョワ社会全体に混乱をもたらし、ブルジョワ的所有の存在を危機にさらすのです。ブルジョワ社会の条件は、それが作り出す富を容れるのには狭すぎるのです。ではブルジョワジーはこの恐慌をどうやって乗り越えるのでしょうか。一方では、大量の生産力を強制的に破壊することによって、もう一方では、新しい市場を獲得し、古い市場をさらにいっそう掘りつくすことによってなのです。言うなれば、もっと広範囲でもっと破壊的な恐慌への道を開くことによって、恐慌を避ける手段を縮小することによってなのです。

ブルジョワジーが封建制を打ち倒すのに使った武器が、今ではブルジョワジーそのものに向けられているのです。

ブルジョワジーは自分たちの死をもたらす武器を鍛えただけではありません。その武器を使いこなす人々、近代的労働階級、プロレタリアを生み出したのです。

ブルジョワジー、つまり資本が発展すればするほど、プロレタリアート、すなわち近代的労働階級も発展します。労働者の階級は、仕事が見つかるかぎり生きていき、そしてその労働が資本を増やすかぎり仕事を見つけるのです。この労働者たちは、自分自身を切り売りしなければならないので、他の売り買いされる品物と同じく、商品であって、その結果、あらゆる競争の転変にさらされ、あらゆる市場の変動にさらされるのです。

機械の利用が拡大したことや、分業のおかげで、プロレタリアの労働は個人的性格をすべて失い、その結果、労働者にとっての魅力をすべて失ってしまいました。労働者は機械の付属物になり、労働者に求められるものは、もっとも単純で、もっとも単調で、もっとも簡単に習得できるコツだけになります。だから労働者の生産費用は、ほとんど、自分の維持や自分の種族の繁殖に必要な生計手段に限られます。しかし商品の価格は、したがって労働の価格も、その生産費用に等しいのです。それだから、労働の嫌悪感が増せば増すだけ、賃金は減少します。そのうえ、機械の利用と分業が増大するにつれ、労働時間の延長によるにせよ、一定の時間に強いられる労働の増加や機械の速度の増加等々によるにせよ、労苦の負荷も増加するのです。

近代的工業は、家父長的な親方の小さな作業場を、産業資本家の大工場に変えました。工場の中にひしめく労働者の大群は、兵士のように組織されます。産業軍隊の兵卒として、労働者たちは完全に階層化された将校や軍曹の指揮下に置かれます。労働者はブルジョワ階級の、そしてブルジョワ国家の奴隷であるというだけではありません。日々刻々、機械によって、監督者によって、とりわけ個々のブルジョワ工場主自身によって、奴隷化されているのです。この専制が利得はその究極目標であるとあからさまに公言すればするほど、それはいっそうみじめで、有害で、苦々しいものとなっていきます。

手作業の労働の熟練と力作業が少なくなればなるほど、言い換えると、近代的工業が発達すればするほど、男の労働は婦人労働にとって代わられます。年齢と性別の違いは、労働者階級には区別するだけの社会的妥当性をもはや持っていないのです。すべてが労働の用具であって、年齢と性別によって使用する費用が多少するだけなのです。

工場主による労働者の搾取が終って、労働者が現金で賃金をうけとるとすぐに、ブルジョワジーの他の部分、家主、小売店主、質屋等々が労働者に襲いかかります。

中間階級の下層、つまり小商い人、小売店主、一般に引退した商工業者、手職人、農民はだんだんとプロレタリアートに落ちぶれていきます。その理由の一部は、その小さな資本が近代的工業を営むには規模的に不十分で、大資本家との競争で圧倒されるからですが、一部にはその特殊化した技能が新しい生産様式によって無価値なものになるからです。こうしてプロレタリアートは人口のあらゆる階級から補充されるのです。

プロレタリアートは様々な発展段階を通過していきます。その誕生とともにブルジョワジーとの闘争が始まります。最初は個々の労働者によって、次には一つの工場の労働者たちによって、次には一地域の一業種の工員によって、彼らを直接搾取している個々のブルジョワとの闘いが行われます。彼らはその攻撃を、ブルジョワ的生産条件にではなく、生産用具そのものに向けます。彼らは自分たちの労働と競争している輸入品を破壊し、機械を打ち毀し、工場を焼払い、中世の職人という消え去った地位を力ずくで復活しようと努めるのです。

この段階では、労働者はまだ全国に散らばったまとまりのない集団をなしているだけで、お互いの競争で分裂してしまいます。もし労働者が団結してもっと緊密な団体をつくったとしたら、それは彼ら自身の能動的な団結の結果ではなくて、ブルジョワジーの団結の結果なのです。ブルジョワ階級は、自分たちの政治的目的を達成するためには、全プロレタリアートを動員せざるえず、しかもまだしばらくの間はそうすることができるのです。だから、この段階では、プロレタリアはその敵と闘うのではなく、その敵の敵と、つまり絶対王制の残り滓、土地所有者、非産業ブルジョワ、プチ・ブルジョワと闘うのです。こうして歴史的運動全体がブルジョワジーの手の中に集中され、獲得された勝利はどれもブルジョワジーの勝利となるのです。

しかし工業の発展とともに、プロレタリアートは数において増加するだけはなく、もっと大きな集団へと集中され、その力は増大し、その力をますます感じるようになってきます。機械が労働の違いを消し去り、ほとんどいたるところで賃金を同じ低い水準に引き下げるにつれて、プロレタリアートという階層内の様々な利害と生活条件はますます一様化します。ブルジョワの間の激化する競争と、その結果生じる商業恐慌は、労働者の賃金をますます動揺させます。機械のますます進む改良は、非常に急速に発展し、労働者の生計をますます不安定にします。個々の労働者と個々のブルジョワとの間の衝突は、二つの階級の間の衝突という性格をますます帯びていきます。その結果、労働者はブルジョワに対して徒党(労働組合)を組み始めます。労働者は賃金率を維持するために協力しあうようになります。こういうたまに起きる暴動に前もって備えるために、労働者は永続的な結社を創設するのです。そこかしこで闘争は突如として暴動にまでなるのです。

ときには労働者が勝つことがあっても、一時のことにすぎません。その闘いの本当の果実は直接的な成果の中にあるのではなくて、絶えず拡大していく労働者の団結の中にあるのです。この団結は近代的工業が生み出した、異なる地域の労働者を互いに接触させてくれる、改良された交通手段によって促進されるのです。同じ性格を持つ、多くの地方的な闘争を、一つの国民的な階級間の闘争に結集するには、この接触こそが必要だったのです。しかし、どんな階級闘争も政治的な闘争です。中世の都市民が、みじめな街道を使って、数世紀もかけて達成した団結を、近代のプロレタリアは、鉄道のおかげで、数年で達成するのです。

こうしたプロレタリアを階級へと組織化し、結果として政党へと組織化することは、労働者自身の間の競争によって、繰り返し無に帰します。しかしこの組織化は、たえず何度も復活し、そのたびにより強く、より堅固に、より広大になっていくのです。この組織化は、ブルジョワジー自身の間の分裂を有利に使って、労働者の特定の利害を法的に承認するよう迫ります。こうしてイギリスでは十時間労働法が実施されたのです。

概して、古い社会の階級間の衝突は、さまざまなやり方で、プロレタリアートの発展の進行を促進します。ブルジョワジーは自分たちが、絶えず続く戦闘に巻き込まれているのに気がつきます。最初は貴族政治と、後には、工業の進歩と利害が相反しているブルジョワジー自身の一部と、そして常時、外国のブルジョワジーと戦闘しているのです。こういう戦闘のすべてで、ブルジョワジーはプロレタリアートに訴えかけて、その助力を求めざるをえないのですが、そうやってプロレタリアートを政治の闘技場へとひきずり込むのです。だからブルジョワジー自身がプロレタリアートに、自分たちの政治的また一般的な教育の諸要素を供給し、要するに、プロレタリアートにブルジョワジーと闘う武器を提供するのです。

さらに、既に見てきたように、支配階級の全般的な部隊がプロレタリアートに突き落とされ、あるいは少なくとも生存条件を脅かされています。こうしたことも、プロレタリアートに啓蒙と進歩の新しい要素を供給するのです。

最後に、階級闘争が決定的な時期に近づくと、支配階級内部で進行してる分解過程、実際には古い社会の全領域で進んでいる分解過程は、暴力的でどぎついまでの性格を帯び、支配階級の小さな一部が自ら結び付きを離れ、革命的階級、その手に未来をつかんでいる階級に加わってきます。それはちょうど以前に貴族の一部がブルジョワジーの側についたように、今やブルジョワジーの一部が、特に、歴史運動の全般を理論的に理解したブルジョワ理論家の一部が、プロレタリアートの側につくのです。

今日、ブルジョワジーと対峙しているあらゆる階級の中で、プロレタリアートだけが正真正銘の革命的階級なのです。その他の階級は、近代工業に直面して、没落し最終的には消え去ります。プロレタリアートは近代工業の特別なもっとも重要な産物なのです。

下層の中間階級、つまり小工業者、小売店主、職人、農民、こういう人たちはみな中間階級の分派としての存在を消滅から救おうとしてブルジョワジーと闘います。したがって革命的ではなく、保守的なのです。それどころか反動的なのです。というのも、彼らは歴史の車輪を逆に回そうとするからです。もしたまたま彼らが革命的なら、それは自分たちがプロレタリアートへと移行するのが差し迫っていることを考慮してそうしているのです。したがって現在の利害ではなく、将来の利害を守っているのであり、自分たち自身の立場を捨てて、プロレタリアートの立場に立っているのです。

「危険な階級」、社会の屑、古い社会の最下層から投げ出される、なすがままに腐敗していく群衆は、ときにはプロレタリア革命によって運動に投げ込まれることもあるけれど、それ以上に、その生活状態から買収されて反動的陰謀の道具になりやすいのです。

プロレタリアートの状況では、古い社会全般の生活条件は既に実質的に窮地に陥っています。プロレタリアは財産を持たず、妻や子との関係はもはやブルジョワ的家族関係と共通するものはありません。近代的な産業労働、近代的な資本への服属はイギリスでもフランスでもアメリカでも同じで、プロレタリアから国民的性格の痕跡を一切はぎとるのです。法律、道徳、宗教はプロレタリアにとってはブルジョワ的偏見であり、その背後にはブルジョワ的利害が待ち伏せしているのです。

支配権を握ったこれまでの階級はみんな、社会全般を自分たちの専有状態に服属させることで、既に獲得した地位を護り固めようとつとめました。プロレタリアは、自分自身の先行する専有様式を、それだからまたあらゆる先行する専有様式を廃絶することなしには、社会の生産力の主人とはなることができません。プロレタリアは確保し護らなければならないような自分のものを一切持っていません。その使命は、これまでの個々人の財産の保全や保障をすべて破壊することなのです。

これまでの歴史的運動というのはみんな、少数者の運動か、少数者の利害のための運動でした。プロレタリアの運動は、大多数者の、大多数者の利害のための、自覚的で独立した運動なのです。現在の社会の最下層であるプロレタリアートは、公的社会におおいかぶさる全階層を空中に跳ね飛ばさなければ、身動きすることも、起き上がることもできません。

内容は違うけれど、形式上は、プロレタリアートのブルジョワジーとの闘争は、まずは国民的闘争です。個々の国のプロレタリアートは、もちろんなによりもまず、その国のブルジョワジーと片をつけなくてはならないのです。

プロレタリアートの発展のもっとも一般的な諸段階を描写するなかで、私たちは現存する社会で荒れ狂う、多かれ少なかれ隠された内乱を跡づけて、内乱が公然たる革命を勃発させ、ブルジョワジーの暴力的打倒が、プロレタリアートの支配の基礎を築くところにまで、到達しました。

既にみてきたように、これまで、あらゆる社会形態は、抑圧階級と被抑圧階級の対立に基礎を置いてきました。しかし、ある階級を抑圧するためには、少なくとも奴隷的生存を続けることができるだけの条件が、その被抑圧階級に保証されなければなりません。農奴制の時代に農奴はコミューンの成員にまで成り上がり、同じように、プチ・ブルジョワは、封建的絶対主義の軛のもとで、なんとかブルジョワへと発展したのでした。反対に、近代的労働者は、工業の進展とともに勃興するのではなくて、自身の階級の生存条件はますます沈み込んでいくのです。労働者は貧困者となり、貧困状態は人口や富の発展よりも急速に発展します。そしてここに、ブルジョワジーがもはや、社会の支配階級であり、自分たちの生存条件を支配的法則として社会に押しつけるには、不適格であることが明らかになるのです。ブルジョワジーはその奴隷制の奴隷に生存を保証する能力を欠き、奴隷から養われるかわりに、奴隷を養わなくてはならないような状態にまで奴隷を落とさざるをえないのだから、支配するには不適格なのです。社会はもはやブルジョワジーのもとで生きていくことができません。言い換えると、ブルジョワジーはもはや社会と両立できないのです。

ブルジョワ階級の存在と支配の本質的条件は、資本の形成と増大です。そして資本の条件は賃労働です。賃労働はもっぱら労働者の間の競争を当てにしています。ブルジョワジーは不本意ながら工業の進歩の促進者なのですが、この工業の進歩は、競争による労働者の孤立を、結社による革命的連携で置き換えます。だから近代工業の発展は、ブルジョワジーの足元から、ブルジョワジーが生産し生産物を専有してきた基盤そのものを取り除きます。ですからブルジョワジーが生産したものは、なによりもまず、自分の墓掘り人なのです。ブルジョワジーの没落とプロレタリアートの勝利は、等しく避けられないことなのです。



第2章 プロレタリアと共産主義者

共産主義者は、全体としてのプロレタリアとどんな関係に立つのでしょうか。共産主義者は、他の労働者党に対立する別の党をつくろうとはしていません。 共産主義者は、全体としてのプロレタリアートの利害とは別の、異なる利害を持ってはいません。

共産主義者は、なにか自分たちの分派的原理を掲げ、それでプロレタリア運動を形作ったり、型にはめたりしません。

共産主義者は、次の点でだけ、他の労働階級の党から区別されます。(1) さまざまな国のプロレタリアの国民的闘争では、共産主義者は国籍から独立した全プロレタリアートに共通の利害を指摘し、前面に押し出します。(2) ブルジョワジーにたいする労働階級の闘争が通過するさまざまな発展段階で、共産主義者はいつでもどこでも、全体としての運動の利害を体現します。

だから、共産主義者は一方では実践的には、どこの国でも労働階級の党のもっとも進んだ、決然とした部分であり、他のすべてを押し進める部分なのです。また一方では理論的には、プロレタリアートの大多数より、プロレタリア運動の進む道筋や条件、究極の一般的成果をはっきりと理解している点で優っています。

共産主義者の当面の目的は、他のどのプロレタリア党とも同じものです。プロレタリアートを階級に形成すること、ブルジョワ覇権の打倒、プロレタリアートによる政治権力の奪取なのです。

共産主義者の理論的結論は、決して、あれこれの自称普遍的改革者が発明し発見した着想や原理に基づいたものではありません。

共産主義者は、ただ単に、現存する階級闘争から、まさに私たちの目前で進行している歴史的運動から生じている現実的関係を、一般的用語で表現しているだけなのです。 過去のすべての所有関係はずっと、歴史的条件の変化の結果生じる歴史的変化を受けてきました。

例えば、フランス革命は、ブルジョワ的所有の側について、封建的所有を廃止しました。

共産主義の著しい特徴は、一般に所有を廃止することではなく、ブルジョワ的所有を廃止するところにあるのです。しかし近代のブルジョワ的私的所有は、階級対立に、少数者による多数者の搾取にもとづく生産と生産物の専有のシステムの、最後の、最も完成された表現なのです。

この意味で、共産主義者の理論は、私的所有の廃止という唯一つの文に要約できるかもしれません。

私たち共産主義者は、人間の自分自身の労働の果実として財産を個人的に獲得する権利を廃止したがってると非難されます。そういう財産があらゆる個人の自由、活動、独立の基礎であると言われているのです。

苦労して得た、自分で獲得した、自分で稼いだ財産!あなたが言っているのは、小職人の、小農民の財産、ブルジョワ的所有形態に先立つ所有形態のことではないでしょうか。そんなものは廃止する必要がないのです。工業の発展が、既に広範囲に破壊しまったし、また今でも日々破壊しているのです。

それとも、あなたは近代的なブルジョワ的私的所有のことを言っているのでしょうか。

しかし、賃労働は労働者になんらかの財産を作り出しているでしょうか。そんなことは決してありません。それは資本、つまり賃労働を搾取し、新たな搾取のために賃労働を新たに供給するという条件の下でしか増加できないような財産を、作り出すのです。所有は、現在の形態では、資本と賃労働の対立にもとづいているのです。この対立の両側面を検証してみましょう。

資本家であることは、生産においては、純粋に個人的な地位にではなく、社会的地位につくということなのです。資本は集団的な産物であって、社会の多くの成員の団結した行為によってだけ、結局のところ、社会の全成員の団結した行為によってだけ、動かすことができるのです。

だから、資本は個人的な力ではなくて、社会的な力なのです。

だから、資本が共有財産に、社会の全成員の財産に変えられると、それによって個人的所有が社会的所有に変わることはありません。変わるのは所有の社会的性格だけなのです。所有はその階級的な性格を失うのです。

さて、賃労働を見てみましょう。

賃労働の平均価格は最低の賃金、つまり労働者としてただ生存するのに絶対必要な生計手段の量なのです。だから、賃労働者が自分の労働によって専有するものは、むき出しの生存を引き伸ばし、再生産するのに足るだけのものでしかありません。私たちは、この労働の産物の個人的専有を廃止しようという意図は毛頭ありません。そういう専有は、人間の生活を維持し再生産するためであって、それによって他人の労働を意のままにするような余剰をのこさないからです。私たちが廃絶したいのは、この専有の惨めな性格なのです。というのは、この専有の下では、労働者はただ資本を増大させるためだけに生き、支配階級の利害が必要とするかぎりでだけ、生きるのを許されているのですから。

ブルジョワ社会では、生きた労働は蓄積された労働を増大させる手段にすぎません。

共産主義社会では、蓄積された労働は、労働者の存在を広げ、豊かにし、促進するための手段にすぎません。

だから、ブルジョワ社会では、過去が現在を支配し、共産主義社会では、現在が過去を支配します。ブルジョワ社会では、資本が自立していて個人的特徴をもっているのに、生きた人間は隷属的で個人的特徴をもたないのです。

そして、こういう状況を廃止することを、ブルジョワは個人性と自由の廃止とよぶのです。そのとおり。疑いもなく、ブルジョワ的な個人性、ブルジョワ的な自立性、ブルジョワ的な自由の廃止をねらっているのです。

現在のブルジョワ的生産条件のもとでは、自由とは自由交易、自由な売買のことです。もし売買が消えてしまえば、自由な売買もまた消えます。自由な売買についてのこういう話は、自由一般についての我がブルジョワジーの「勇ましい言葉」と同じく、意味があったとしても、中世の制限された売買、束縛された交易と対比してだけ意味があるので、売買を、ブルジョワ的な生産条件を、ブルジョワジーそのものを共産主義的に廃止することに対抗するときには、意味をなしません。

あなたは、私たちが私的所有を廃止しようと意図していることに、ぞっとするでしょう。しかし、あなたの現存する社会では、人口の十分の九にとっては、既に私的所有は廃止されているのです。私的所有がこの十分の九の人の手には存在しないということによってだけ、少数者に私的所有が存在するのです。だから、あなたは、私たちが所有形態を廃止しようと意図していることを非難しますが、それは社会の大多数はなんの所有もないということを存在の必要条件としている所有形態なのです。

要するに、あなたは私たちがあなたの所有を廃止しようと意図していることを非難してるのです。まさにそのとおり。それこそが私たちの意図するところなのです。

労働がもはや資本や貨幣や地代へ、独占することのできる社会的力へと変えられなくなる瞬間から、すなわち、個々人の所有がもはやブルジョワ的所有へ、資本へと転化できなくなる瞬間から、個人性が消えうせるとあなたは言っているのです。

だから、あなたは「個人」という言葉でブルジョワしか、中間階級の財産所有者しか意味してないことを告白せざるをえません。こういう人格は、確かに邪魔にならないよう取り除き、存在できないようにしなければなりません。

共産主義は誰からも社会の生産物を専有する権限を剥奪しはしません。こういう専有を使って他人の労働を服属させる権限を剥奪するだけなのです。

私的所有の廃止については、すべての仕事がやめになり、全般的な怠惰に陥るだろうという異議が唱えられてきました。

この異議にしたがうなら、ブルジョワ社会はまったくの怠惰によってとうの昔に破滅しているはずです。というのは何でも手に入れられる人たちは、働かないのですから。この異議の全体は、もはや賃労働がありえないのなら、資本は存在しないという同義反復の、別の表現にすぎません。

物質的生産物の共産主義的生産様式と専有様式に対して言い立てられる異議は、同じように、知的生産物の 共産主義的生産様式と専有様式に対しても言い立てられます。ブルジョワにとっては、階級的な所有が消滅することが生産そのものが消滅することであると同じように、階級的な文化の消滅はあらゆる文化の消滅と同一視されるのです。

文化を失うことをブルジョワは悲しみますが、その文化は大多数にとっては、単に機械としてふるまうための訓練にすぎません。

しかし、自由だの文化だの法律だのについてのあなたのブルジョワ的な概念という基準を、私たちが意図するブルジョワ的所有の廃止に当てはめようとするのなら、私たちと論争するのをお止めなさい。あなたの考えそのものが、あなたのブルジョワ的生産やブルジョワ的所有の条件の所産でしかないのです。それは、あなたの法律学が、全員に対する法となったあなたの階級の意志、つまり本質的な性格や傾向があなたの階級の経済的存在条件によって決定されている意志にほかならないのと同じなのです。

自分本位の思い違いから、自分たちの今ある生産様式と所有形態から出現した社会形態を、あなたは永遠に続く自然法則、理にかなった法則に変えているのです。それは生産の進歩のなかで現れては消えていく歴史的関係であるのに。あなたはこの思い違いを、自分たち以前のあらゆる支配階級と共有しているのです。古代的所有の場合にははっきり理解できたこと、封建的所有の場合には容認できたことが、自分たちのブルジョワ的所有形態の場合は、もっともなことに、容認できないのです。

家族の廃止!共産主義者のこの破廉恥な提案には、最過激派でさえ、かっとなります。

現在の家族、ブルジョワ家族は、どんな基礎のうえに立っているのでしょうか。資本のうえに、私的利得のうえに。その完全に発展した形態では、こういう家族はブルジョワジーの中にしか存在しません。しかしこういう状況は、プロレタリアのあいだには実質上家族が存在しないことや、公の売春に補完されているのです。

この補完物が消え去れば、当然のことながら、ブルジョワ的家族も消え去るでしょう。そして資本が消え去れば、このどちらも消え去るでしょう。

あなたは、親による子どもの搾取を止めようと求めたかどで、私たちを咎めるのですか。この罪については、私たちは有罪だと認めます。

しかし、家庭教育を社会教育で置き換えると、最も神聖な関係が破壊されると、あなたは言います。

そこで、あなたの教育だ。教育もまた社会的であり、あなたが教育する社会的条件によって、つまり学校等々の手段による直接的であれ間接的であれ社会の介入によって決定されているのではないでしょうか。共産主義者が教育における社会の介入を発明したのではありません。ただそういう介入の性格を変え、支配階級の影響から教育を救い出そうとしているだけなのです。

近代工業の作用によって、プロレタリアのあいだの家族の絆が粉々に引き裂かれ、その子どもが単なる商売上の品物や労働用具に変えられるにしたがって、家族や教育についての、親子の神聖な相互関係についてのブルジョワ的たわごとは、ますます不愉快なものになります。

しかし、おまえたち共産主義者は女性の共有を導入しようとしていると、ブルジョワジー全体が声をそろえて叫びます。

ブルジョワジーはその妻を単なる生産用具としか見ていません。生産用具は共同で使われるべきだと聞くと、当然、全員の共有になるという運命が、他のものとおなじように、女性にも降りかかるという結論にならざるをえないのです。

ブルジョワは、本当のねらいが単なる生産用具という女性の地位の廃止だということに、気づきさえしないのです。

他の人たちには、共産主義者が公然としかも公式に確立しようとしている(とブルジョワが称している)女性の共有に対する、我がブルジョワの高潔な憤慨ほど馬鹿げたものはありません。共産主義者は女性の共有を導入する必要なんかないのです。女性の共有はほとんど大昔から存在していたのです。

我がブルジョワは、公娼は言うにおよばず、自分たちのプロレタリアの妻や娘を自由にするだけでは満足せずに、お互いの妻を誘惑することを大いに楽しむのです。

ブルジョワの結婚とは、実際には妻を共有する制度であり、したがって、共産主義者を非難できることといえば、高々、共産主義者は見せかけ上は隠されていた女性の共有を、公然と合法的なものとして導入しようと求めているということだけなのです。他の人たちにとっては、現在の生産制度が廃止されると、その制度から生じている女性の共有、つまり公的であれ私的であれ売春も廃止されるしかないことは、自明のことなのです。

共産主義者はさらに、祖国と国民性を廃止しようと望んでると非難されます。

労働者には祖国はありません。持ってもいないものを、取り上げることなどできません。プロレタリアートは、なによりもまず、政治的支配権を獲得し、国民の支配階級にまで成り上がり、自分自身が国民にならなければならないのですから、その言葉のブルジョワ的な意味とは違いますが、それ自身はなおも国民的なのです。

人々の間の国民的差異や対立は、ブルジョワジーの発展のおかげで、商業の自由のおかげで、世界市場のおかげで、生産様式とそれに対応した生活条件の一様化のおかげで、日々ますます消え去っていきます。

プロレタリアートの支配は、こういった差異や対立をもっと消してしまうでしょう。少なくとも支配的な文明諸国の団結した活動は、プロレタリアート解放の第一条件の一つなのです。

ある個人が他の個人に搾取されることが終るにしたがって、ある国民が他の国民に搾取されることも終ります。国民の中での階級間の対立が消えるにしたがって、ある国民が他の国民と敵対することも終りを迎えるでしょう。

宗教的や哲学的見地から、一般的にイデオロギー的見地からなされる共産主義にたいする非難は、まじめに検討するには値しません。

人間の観念や見解や概念、要するに人間の意識が、その物質的生存条件や社会的関係や社会生活の変化に応じて変化することを理解するのに、深い洞察力が必要でしょうか。

観念の歴史が証明してるのは、物質的生産が変化するのにしたがって、知的生産はその性格が変化するということでしかありません。どの時代でも、支配的な観念は支配階級の観念でした。

社会を革命化する思想について語られるときは、古い社会の内部に新しい社会の要素が作り出されており、古い思想が解消していくのは、古い生存条件が解消していくのと同じ歩調ですすむという事実でしかありません。

古代社会が断末摩の苦しみにあったとき、古代の宗教はキリスト教に制圧されました。18世紀にキリスト教思想が合理主義思想に屈したとき、封建社会はその当時は革命的だったブルジョワジーと死闘を演じていました。宗教の自由とか良心の自由という思想は、ただ単に、知識の領域で自由競争の支配を表現したものにすぎません。

「確かに」とみんなは言うことでしょう。「宗教的、道徳的、哲学的、法的な思想は歴史的発展の中で変わってきた。しかし宗教、道徳、哲学、政治学、法律というものは、いつも変化を切り抜けて生き残った」と。

「その上、自由、正義というような、どんな社会状態にも共通する永遠の真理があるのだ。しかし共産主義は永遠の真理を廃絶し、あらゆる宗教、あらゆる道徳を、新しい基礎のうえに作り上げるかわりに、廃絶するのだ。だから、共産主義は、あらゆる過去の歴史的な経験に反して、ふるまっているのだ」と。

この非難は結局どういうことになるのでしょうか。過去のあらゆる社会の歴史は、階級対立の発展にあり、この対立は異なる時代には異なる形態をとってきたと言うことにです。

しかし、どんな形態をとろうと、過去のあらゆる時代にはひとつの事実が共通しています。すなわち、それは社会のある部分が他の部分に搾取されるということです。それで、過去の時代の社会意識が、どんなに多様性や変化をみせようと、ある共通の形態、あるいは一般的思想の範囲内を揺れ動いてきたのは、驚くことではありません。それは、階級対立が全面的に消滅しないかいぎり、完全に消え去ることはありえないのです。

共産主義革命は、伝統的な所有関係とのもっとも根本的な断絶です。その発展が、伝統的な思想とのもっとも根本的な断絶を含んでいることは、驚くことではないのです。

しかし、共産主義にたいするブルジョワの異論については、これまでにしましょう。

これまで見てきたように、労働階級による革命の第一歩は、プロレタリアートを支配する地位にまで持ち上げ、民主主義の闘いに勝利することです。

プロレタリアートは、その政治的支配力を使って、ブルジョワジーからすべての資本を徐々に奪い取り、あらゆる生産用具を国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手中に集中し、生産力の総量をできるだけ急速に増大させるのです。

もちろん、最初は、これは所有権に対する、またブルジョワ的生産条件に対する、専制的な侵害なしには、達成できません。だから、この方策は経済的には不十分で支持できないものに見えますが、運動が進むにつれて、自らを凌駕し、古い社会秩序をさらに侵害することを余儀なくし、生産様式を全面的に変革する手段として、避けようのないものとなるのです。

こういう手段は、もちろん国が違えば、違うものとなるでしょう。

とは言っても、最先進の諸国では、次のことはかなり一般的に当てはまるでしょう。
1.土地所有の廃止と地代の公共目的への充当。
2.重度の累進課税。
3.相続権の全面廃止。
4.すべての国外移民者と反逆者からの財産没収。
5.国家資本をもち、排他独占的な国立銀行による、信用の国家の手中への集中。
6.通信輸送手段の国家の手中への集中。
7.国有の工場および生産用具の拡大。共同計画にしたがった荒廃地の耕作化と一般的な土壤改良。
8.全員に対する平等な労働の義務化。産業軍、特に農業のための産業軍の創設。
9.農業と工業の結合。農村部へのもっと平等な人口分散による、都市と農村との区分の段階的廃止。
10.公立学校での全児童に対する無料教育。現在の形態での児童の工場労働の廃止。教育と産業生産活動との結合、等々。

発展が進むにつれて、階級の区分が消滅し、あらゆる生産が全国民の広範な結合の手の中に集中されてくると、公的権力はその政治的性格を失うでしょう。本来そう呼ばれる政治権力とは、単に他の階級を抑圧するためのある階級の組織化された権力にすぎません。プロレタリアートは、ブルジョワジーとの闘争の期間は、諸情勢の力で、自分たちを一つの階級として組織化ぜるをえなかったのであり、革命という手段によって、自分たちを支配階級とし、こうして古い生産条件を払拭するならば、次にはこういう条件が整いしだい、階級対立および階級一般の存続条件を払拭し、それによって階級としての自らの支配を廃止するでしょう。

古いブルジョワ社会、その階級と階級対立に代わって、私たちは、各人の自由な発展が全員の自由な発展の条件となっているような団体をもつことになるのです。



第3章 社会主義的および共産主義的文献

1.反動的社会主義

A.封建的社会主義

近代ブルジョワ社会に対抗してパンフレットを書くことは、その歴史的地位からいって、フランスとイギリスの貴族階級の使命でした。1830年7月のフランス革命でも、イギリスの選挙改革運動でも、こうした貴族階級はまたしても憎むべき成り上がり者に屈したのでした。それ以来、深刻な政治的闘争は、全く問題とはならなくなりました。できることといえば、文筆の戦いだけでした。しかし文筆の領域でさえ、王政復古時代を求める古い標語は、不可能となったのです。

共感を呼び起こすためには、貴族階級は見かけ上は自分たちの利害を忘れ、搾取されている労働階級の利害だけに基づいた、ブルジョワに対する告発状を作成しなければなりませんでした。こうして貴族階級は新しい主人に対する風刺詩を歌い、来るべき破局についての不吉な予言をその耳に囁くことで、恨みを晴らしたのです。

こうして、封建的社会主義が生まれたのです。それは半ば悲哀詩であり、半ば諷刺詩でした。半ば過去の残響であり、半ば未来の威嚇でした。同時に、その苦く、機智に富んだ、辛辣な批評は、ブルジョワジーのまさに心の奥底をうったのでした。しかし近代の歴史の進展をまるで理解できず、その効果はいつも滑稽なものでした。

自分たちの回りに人々を糾合しようと、貴族階級は旗印としてプロレタリアの施し袋を前面で打ち振りました。しかし人々は、時にはそれに参加したものの、その体の背面に古い封建的な陣羽織を見て、不遜な大笑いをして見捨てたのでした。

フランスの正統王朝派の一分派と「若きイギリス」の一統がこの見世物を演じたのでした。

封建主義者は、自分たちの搾取様式がブルジョワジーの搾取様式とは違うことを強調しては、自分たちが全く違う、今では時代遅れの状況と条件の下で搾取してきたことを忘れ去ります。自分たちの支配の下では、プロレタリアートは決して存在しなかったことを示しては、近代ブルジョワジーが自分たちの社会形態の必然的な所産であることを忘れ去るのです。

結局、封建主義者はその批判の反動的な性格をほとんど隠すことがないので、彼らのブルジョワに対する主要な告発は次のようなものになるのです。すなわちブルジョワ体制の下では、古い社会秩序というその根も枝も切り払われる定めの階級が発展するということに。

封建主義者がブルジョワジーを厳しく非難することは、ブルジョワジーがプロレタリアートを創り出したことではなくて、革命的プロレタリアートを創り出したことなのです。

だから、政治的な実践では、封建主義者は労働階級に対するあらゆる矯正施策に参加し、日常生活では、非常に非難めいた文句にもかかわらず、産業の木から落ちた黄金の林檎を拾おうとかがみ込み、羊毛やビート砂糖やジャガイモ酒精の交易に目が眩んで、真理や愛や名誉を売り渡したのです。

牧師はずっと土地所有者と手を携えてきたので、牧師社会主義は封建社会主義になってしまいます。

キリスト教的禁欲主義に社会主義的色合いを施すことほど簡単なのことはありません。キリスト教は私的所有に対し、結婚に対し、国家に対し、熱弁をふるって攻撃したのではなかったでしょうか。キリスト教はこういうものにかえて、慈悲と清貧を、独身生活と肉の禁欲を、修道院生活と母なる教会を説いて回ったのではなかったでしょうか。キリスト教社会主義とは、貴族階級の不平不満を聖化するのに使われる聖水にすぎないのです。

B.プチ・ブルジョワ社会主義

封建的貴族階級は、ブルジョワジーが破滅させた唯一の階級ではありませんし、近代ブルジョワ社会という環境の中で生存条件が衰え消えうせた唯一の階級でもありません。中世の正市民と小農地所有者は近代ブルジョワジーの先駆者でした。工業的にも商業的にもあまり発展してない国では、この二つの階級はまだ、勃興するブルジョワジーと並んで成長しています。

近代文明が十分に発展した国では、プチ・ブルジョワという新しい階級が形成され、プロレタリアートとブルジョワジーの間を揺れ動きながら、ブルジョワ社会の補完物としてたえず新たに復活します。この階級の個々の成員は、競争の作用で絶え間なくプロレタリアートの中に投げ込まれ、また、近代工業が発展するにつれ、自分たちが近代社会の独立した部分としては完全に消滅し、工場でも農業でも商業でも、監督者や農場管理人や店員にとってかわられる瞬間が近づきつつあることを理解さえしているのです。

フランスのような、人口の過半数を農民が占めている国では、ブルジョワジーに対抗してプロレタリアートの側につく著述家は、当然にも、ブルジョワ体制を批判するにあたって、農民やプチ・ブルジョワの尺度基準を使い、こういう中間階級の立場から労働階級の権利を擁護してきました。こうしてプチ・ブルジョワ社会主義が生まれました。シスモンディが、フランスだけでなくイギリスでも、この学派の頭目です。

この社会主義の学派は、近代的生産条件の矛盾を極めて鋭く分析しました。それは経済学者の偽善的な弁解を暴きたてました。機械と分業の破滅的効果、資本と土地の少数者への集中、過剰生産と恐慌を、議論の余地もないほどに明らかにし、プチ・ブルジョワと農民の避けがたい没落、プロレタリアートの悲惨、生産の無政府状態、富の分配のはなはだしい不平等、国民間の産業殲滅戦、古い道徳的絆や古い家族関係、古い国民性の解体を指摘してきたのです。

しかし、この形態の社会主義は、その積極的な目標では、古い生産手段と交換手段を復活し、それとともに古い所有関係と古い社会を復活することか、あるいは近代的な生産手段と交換手段を、そういう手段が爆砕してしまったか、きっと爆砕するにちがいない古い所有関係の枠組の内部に閉じ込めようと切望するのです。どちらの場合も、それは反動的でかつユートピア的なのです。

この社会主義の臨終の言葉は、工場にはギルドの団体を、農業では家父長制的関係を、なのです。

最終的には、強固な歴史的事実が自己欺瞞の酩酊効果を追い払うと、この社会主義の形態はみじめな憂鬱症の発作に終ったのでした。

C.ドイツ社会主義あるいは「真正」社会主義

フランスの社会主義的,共産主義的文献は,権力の座についたブルジョワジーの圧迫の下で生まれ、この権力に対する闘争を表現したものだったのですが、それがドイツに紹介されたのは、ちょうどドイツでブルジョワジーが封建的絶対主義と闘争を始めたときでした。

ドイツの哲学者や哲学志望者、才人たちは熱心にこういう文献に飛びつきました。ただ、これらの著作がフランスからドイツに持ち込まれたとき、それといっしょにフランスの社会条件が持ち込まれたのではないことを、忘れていただけなのです。ドイツの社会条件に触れると、このフランスの文献は、直接の実践上の意義をすべて失い、純粋に文献的な様相だけを帯びるだけとなりました。こうして、18世紀のドイツ哲学者にとって、フランス第一革命の要求するものは、「実践理性」一般という要求以外の何ものでもなく、革命的なフランス・ブルジョワジーの意志という言い方は、彼らの目には、純粋意志の法則、そうあるべき意志の法則、真に人間的意志一般の法則を意味したのでした。

ドイツの学識者の世界は、新しいフランス思想をドイツの古めかしい哲学的良心と調和させること、あるいはむしろ、自分たちの哲学的見解を捨てることなく、フランス思想を接合することから成り立ったていたのです。

この接合は、外国語を習得するのと同じやり方で、つまり翻訳によって行われたのです。

古代の異教世界の古典的著作が書かれた手稿の上に僧侶がカトリックの聖者の馬鹿げた伝記を書いたことは、よく知られています。ドイツの学識者は、世俗的なフランスの文献を使って、この過程を逆にしました。彼らは、フランスの原文の下に、自分たちの哲学的たわごとを書いたのです。例えば、フランスの貨幣の経済的機能の批判の下に「人間性の疎外」と書き、フランスのブルジョワ国家批判の下に「一般者というカテゴリーの廃止」と書いた等々。

フランスの歴史的批判の背後にこういう哲学的文句を導入することを、彼らは「行為の哲学」、「真正社会主義」、「ドイツ社会主義科学」、「社会主義の哲学的基礎付け」等々と呼んだのでした。

フランスの社会主義的、共産主義的文献は、こうして完全に骨抜きになりました。そして、ドイツ人の手の中で、ある階級の別の階級との闘争を表現することを止めたので、「フランスの一面性」を克服し、真の要求ではなくて真理という要求を体現している気になったのです。つまり、プロレタリアアートの利害ではなく、どの階級にも属さず、なんら現実性をもたず、哲学的幻想という茫漠とした領域にしか存在しない、人間一般という人間の本性の利害を、体現しているというつもりだったのです。

このドイツ社会主義は、生徒の宿題を真面目に厳粛に引き受け、香具師同然のやり方で自分の貧弱な手持ち商品を誉めそやし、そうこうするうちに次第に衒学的な無邪気さを失ったのです。

封建的貴族階級と絶対君主制に対するドイツ・ブルジョワジー、特にプロイセン・ブルジョワジーの闘い、つまり自由主義運動は、ますます真剣になりました。

この闘争により、「真正」社会主義は、政治運動に社会主義的要求を突き付け、自由主義に対し、代議制政府に対し、ブルジョワ的競争、ブルジョワ的出版の自由、ブルジョワ的立法権、ブルジョワ的自由と平等に対して伝統的な破門状をたたきつけ、大衆には得るものは何もなく失うものだらけだと説教をするという、長く待ちわびた機会を得たのでした。ドイツ社会主義は折よくも忘れていたのです。自分たちがその馬鹿馬鹿しいこだまであるフランスの批判というのは、近代的ブルジョワ社会が、対応する経済的存在条件とそれに適合した政治体制を伴って、存在していることを前提条件にしており、それを獲得することこそが、ドイツで今進行中の闘争の目的であることを。

牧師、教授、田舎紳士、役人を従えた絶対主義政府にとっては、、ドイツ社会主義は恐ろしいブルジョワジーに対する都合の良い案山子の役割を果たしたのです。

この同じ政府が、ちょうど同じ時期に、反抗するドイツ労働階級に服用させた、鞭と銃弾という苦い丸薬の後では、この社会主義が甘い口直しでした。

この「真正」社会主義がこのように、ドイツ・ブルジョワジーと闘う兵器として政府に仕えている間、それは同時に反動的利害、ドイツの俗物の利害を直接代表するものでした。ドイツでは、プチ・ブルジョワ階級は、16世紀の残り滓で、それ以来、絶えず何度もさまざまな形で現れますが、それが現状の現実的社会基盤なのです。

この階級を保存することは、ドイツの現状を保存することなのです。ブルジョワジーの産業的および政治的支配は、一方では資本の集中から、もう一方では革命的プロレタリアートの勃興から生じた確かな破壊力で、この階級を威嚇するのです。「真正」社会主義はこの両者を一石二鳥でやっつけると思えました。この社会主義は疫病のように蔓延したのです。

修辞の花を刺繍し、病的感受性の滴に浸した思索的な薄物の衣、ドイツ社会主義者がおのれの惨めな「永遠の真理」、その骨と皮ばかりの全身を包み込む、超越的な衣のおかげで、こうした公衆の間では、その商品の売上は驚くほ増加しました。そしてドイツ社会主義の方は、プチ・ブルジョワ俗物の大仰な代弁者という自分たちの天職を、ますます認めたのでした。

ドイツ社会主義は、ドイツ国民を模範的国民、ドイツの小俗物を典型的人間だと宣言しました。この模範的人間の不埒な言行のどれにも、隠された、高潔な、社会主義的解釈が施され、その本当の性格とは全く反対の性格が与えられました。この社会主義は、共産主義の「獣じみた破壊的」傾向に直接立ち向かい、あらゆる階級闘争に対するこの以上はないような公平な軽蔑を述べることさえしたのです。ごく少数の例外を除いて、現在(1847年)ドイツで出回っているいわゆる社会主義的、共産主義的出版物はみな、この汚らわしく気力を失わせるような文献という領域に属しているのです。



2.保守的社会主義またはブルジョワ社会主義
ブルジョワジーの一部は、ブルジョワ社会が継続して存続することを確実にするために、社会的不平を取り除きたいと考えます。

この分派には、経済学者、博愛主義者、人道主義者、労働階級の状況の改良家、事前運動組織者、動物愛護協会会員、狂信的な禁酒運動家、想像できるかぎりのありとあらゆる人知れぬ改良家が属しています。その上、この形態の社会主義は、完全な制度にまでなってしまいます。

こういう形態の一例として、プルードンの貧困の哲学を引き合いにあげておきましょう。

社会主義的ブルジョワは、そこから必然的に闘争と危険が生じるのに、その闘争と危険のない、近代的社会条件の利点をすべて求めます。彼らは現存の社会状態から革命的で分解させる要素を除いたものが欲しいのです。彼らが求めるのは、プロレタリアート抜きのブルジョワジーなのです。ブルジョワジーは当然ながら、自分たちの支配する世界を最高のものと思い描きます。そしてブルジョワ社会主義は、この心地の良い概念を多かれ少なかれ完全なさまざまな制度にまで発展させるのです。プロレタリアートにこういった制度を運営し、それによって社会的な新エルサレムへとまっすぐ行進するよう求めることで、この社会主義は実際には、プロレタリアートが現存社会の束縛のなかに留まり、しかもブルジョワジーに関する憎悪に満ちた考えを捨て去ることを求めているだけなのです。

この社会主義の第二の、より実践的だが、やや体系性に欠ける形態は、政治的改革ではなくて、物質的生存条件や経済関係の変化だけが労働階級に有益であることを示して、労働階級の目に映るあらゆる革命運動の価値を引き下げようとします。この形態の社会主義は、物質的生存条件の変化が、ブルジョワ的生産関係の廃止だということを、そしてこうした関係の存在が継続することに基づいている行政的改革ではなく、革命だけが影響を及ぼす廃止であることを、決して理解しません。だから改革は資本と労働の関係にはいっさい影響せず、せいぜいブルジョワ政府の費用を削減し、その行政業務を単純化するだけなのです。

ブルジョワ社会主義は、演説という形をとった時、しかもその時だけ、適切な表現を獲得します。

自由貿易、労働階級のために。保護関税、労働階級のために。監獄改良、労働階級のために。これがブルジョワ社会主義の遺言であり、唯一真面目な意味を持つ言葉です。

この社会主義は次の成句に要約できます。ブルジョワはブルジョワである、労働階級のために。

3.批判的-ユートピア的社会主義と共産主義

ここで私たちは、どの近代の大革命でも、バブーフその他の著作者のような、プロレタリアートの要求を表明してきた文献をみてみましょう。

プロレタリアートが自分たちの目的を達成しようとした最初の直接的試みは、封建社会が打倒された全般的な動揺期になされましたが、まだプロレタリアートが未発達な状態であったこと、またその解放のための経済的条件がなかったことによって必然的に失敗しました。この条件はやっと作り出されようとしており、差し迫ったブルジョワ時代だけが作り出すことができたのです。こうしたプロレタリアートの最初の運動に伴う革命的文献は、必然的に反動的な性格を持っていました。それは普遍的禁欲主義と社会的平等化を、最も粗野な形で説いたものでした。

社会主義的で共産主義的な制度、特にいわゆるサン・シモン、フーリエ、オーエン他の制度は、上に述べたように、プロレタリアートとブルジョワジーの間の闘争がまだ未発展の初期の時代に、出現しました。(「第1章 ブルジョワとプロレタリア」を参照)

こういう制度の創設者たちは、実際、優勢な社会形態のなかに、分解していく要素の作用だけでなく、階級対立をも見ていました。しかしプロレタリアートは、まだ幼年期で、歴史的主導権も独立した政治運動も欠いたままの階級という哀れな状態だったのです。

階級対立の発展は工業の発展と歩調を合わせて進むのだから、彼らが階級対立を見出した経済状況は、プロレタリアートの解放の物質的条件をまだ与えるものではありませんでした。だから、彼らはこういう条件を作り出すはずの新しい社会科学、新しい社会法則を、捜し求めたのです。

歴史的な行動は彼らの個人的発明行為に屈し、歴史的に作り出された解放の条件は空想的な条件に屈し、プロレタリアートの徐々に進む自発的な階級組織化は、これら発明家が特に工夫した社会の組織化に屈すべきだというのです。彼らの目には、将来の歴史は分解されて、布教活動と彼らの社会計画を実施する実践活動になってしまいます。

彼らの計画を作成するにあたっては、意識的に最も被害を被っている階級である労働階級の利害に注意が払われます。彼らには、最も被害を被っている階級としてだけ、プロレタリアートは存在しているのです。

階級闘争が未発達な状態と彼ら自身のとりまく環境は、こういう種類の社会主義者に、自分たちがあらゆる階級対立のはるか上空に超然としていると思い込ませることになります。彼らは社会のどの成員の生活状態も改善したいのです。たとえ最も恵まれた者であってもです。だから、彼らはいつも、階級の区分なく、全社会に訴えかけます。いや、それどころか好んで、支配階級に訴えかけるのです。一度彼らの制度を理解すれば、それが最善の社会状態の最善の計画であることがわからないことなど起こりえないのです。

だから、彼らはあらゆる政治的活動、特に革命的活動を拒絶します。平和的手段で目標を達成したいと思い、必然的に失敗せざるをえない小実験により、また実例の力によって、新しい社会的福音への道を切り開こうと努めるのです。

こういう未来社会の空想画は、プロレタリアートがまだ極めて未発展な状態で、自分たちの地位について空想的な概念しかもっていなかった時代に描かれ、社会の全面的再構築に対する、この階級の最初の本能的な切なる願いに対応しているのです。

しかし、この社会主義的、共産主義的出版物にはまた、批判的要素も含まれています。それは現存する社会のあらゆる原理を攻撃します。だから、それは労働階級を啓蒙するための最も有意義な素材に満ちています。その中に提案されている実践的手段、都市と農村の区別の廃止、家族の廃止、私的営利企業の廃止、賃労働の廃止、社会調和の宣言、単なる生産管理への国家機能の転換、こういう提案はすべて階級対立の消滅だけを示しています。この時代には、階級対立はまだ生じたばかりで、こういう出版物では、最初期の、はっきりしない、不明瞭な形態でしか認識されていません。だから、こういう提案は純粋にユートピア的性格を帯びているのです。

批判的、ユートピア的な社会主義と共産主義の意義は、歴史的発展と逆比例します。近代的階級闘争が発展し、明確な形をとるにつれて、闘争からはなれたこの空想的な立場、階級闘争にたいするこの空想的攻撃は、あらゆる実践的価値と理論的正当性を失います。だから、この制度の創設者が、多くの点で革命的であったとしても、その弟子たちは、どの場合も、単に反動的な宗派を作るのです。彼らは、その先生のもともとの見解に固執して、プロレタリアートの進歩的な歴史的発展に対立するのです。だから、彼らは熱心に変わることなく、階級闘争を和らげ、階級対立を調停しようとします。彼らは今でも、自分たちの社会的ユートピアの実験的実現を、孤立した「ファランステール」の創設を、「国内移住地」の確立を、新エルサレムの小型版である「小イカリア」の建設を夢見ており、こうした空中城郭の実現のために、ブルジョワの感情と財布に訴えるしかないのです。しだいに、彼らは上に描いた反動的保守的社会主義者のカテゴリーに落ちこみ、こういう社会主義者との違いは、より体系的な衒学と、自分たちの社会科学の奇跡的効果への狂信的で迷信的な信念だけということになるのです。

だから、彼らは労働階級側のあらゆる政治活動に激しく反対します。彼らによれば、こういう活動は新しい福音に対する盲目的不信の結果にすぎないからです。

イギリスのオーエン主義者とフランスのフーリエ主義者は、それぞれ、チャーチストと改革主義者に反対するのです。



第4章 様々な現存の反対党と比較した共産主義者の立場

第2章では、共産主義者と、イギリスのチャーチストやアメリカの農地改革派のような現存する労働階級党との関係を明らかにしました。

共産主義者は当面の目的を達成するためや労働階級の一時的利害を強要するために闘います。しかし現在の運動ではまた、運動の未来を代表し、気にかけてもいるのです。フランスでは共産主義者は、保守的ブルジョワジーや急進的ブルジョワジーに対抗して、社会民主主義者と同盟していますが、しかし大革命から伝統的に受け継いだ空文句や幻想については、批判的立場をとる権利を保持しています。

スイスでは、共産主義者は急進派を支持しています。しかしこの党が一部はフランス的な意味での民主社会主義者、一部は急進的ブルジョワという対立する要素から構成されていることを、見落としてはいません。

ポーランドでは、共産主義者は国民解放の第一条件として農業革命を主張する党を支持しています。この党は1846年のクラカウ反乱を引き起こした党です。

ドイツでは、共産主義者は、ブルジョワジーが、絶対君主制、封建的地主階級、プチ・ブルジョワジーに対抗して、革命的にふるまっている限りで、ブルジョワジーと共闘しています。

しかし、共産主義者は、労働階級にブルジョワジーとプロレタリアートの間の敵対について、できる限りはっきりと認識することを教え込むことを、一瞬たりとも止めません。それは、ブルジョワジーが支配権を手にすると必然的に導入するにちがいない社会的、政治的条件を、ドイツの労働者がただちに、ブルジョワジーに対する多くの武器として、使えるようにしておくためであり、ドイツで反動的階級が没落したら、直ちにブルジョワジーそのものとの闘争を始めるためなのです。

共産主義者はその注意を主にドイツに向けています。それはドイツが、ヨーロッパ文明のもっと進んだ状態の下で、また17世紀のイギリスや18世紀のフランスよりももっと発展したプロレタリアートをもって行われるブルジョワ革命の前夜にあるからです。それにまた、ドイツのブルジョワ革命は、その後直ちに引続くプロレタリア革命の序曲でしかないからです。

手短に言うと、共産主義者はどこでも、現存する社会的、政治的秩序に対するあらゆる革命的運動を支持するのです。

こういう運動のすべてで、共産主義者は所有問題を、その時それがどんな発展度合にあろうとも、それぞれの運動の主要問題として、前面に立てます。

最後に、共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義政党との同盟と協調に努めます。

共産主義者は、その見解や目的を隠蔽することを、軽侮します。共産主義者は、その目的があらゆる現存する社会条件を暴力的に打倒することによってだけ達成できることを、公然と宣言します。支配階級は、共産主義革命に恐れおののけばよいでしょう。プロレタリアは束縛の鎖以外に失うものはありません。プロレタリアには勝ち取るべき世界があるのです。

すべての諸国の労働者は、団結しよう!
http://page.freett.com/rionag/marx/CSF0.html

フランスにおける階級闘争 前文
[トップへ] [目次] [次へ]

前文

1848年から1849年にいたる革命の年代記は、わずかな章を除けばどの重要な章にも、革命の敗北!という表題がついてしまう。

これらの敗北において屈服したのは革命じゃない。屈服したのは、はっきりした階級的反目には至っていない社会関係の結果である革命以前の伝統的付属物--2月革命以前の革命党がとらわれていた人物や幻想、概念、計画といったものだった。革命党は、2月の勝利ではなくて一連の敗北によってのみ、これらのものから自由になることができたんだ。

言い換えると、革命が着実に前に進んだのは、革命の直接の悲喜劇的な成果じゃなくて、強力で団結した反革命を創り出すことによって、転覆党をほんとの革命党に成熟させる闘いの対抗者を創り出すことによって、なんだ。

このことを証明することが、以下のページの課題だ。

http://page.freett.com/rionag/marx/CSF1.html


フランスにおける階級闘争 第1部
[トップへ] [目次] [前へ] [次へ]

第1部 1848年6月の敗北

7月革命の後で、自由主義者の銀行家ラフィットは、自分の仲間のオルレアン公を意気揚々とパリ市庁舎に先導しながら、ふと漏らした。「これからは銀行家が支配する」と。ラフィットは革命の秘密を漏らしたんだ。

ルイ・フィリップの下で支配したのは、フランスのブルジョワジーじゃなくて、その一分派、銀行家や株取引王、炭鉱・鉄鉱山・森林所有者、それと彼らに結びついている一部の土地所有者たち--いわゆる金融貴族たちなんだ。そいつらが玉座に座り、議会で法律を公布し、内閣の大臣からタバコ局の役職に至るまで公職を分配した。

本来の産業ブルジョワジーは公式反対派の一部をなしていた。すなわち議会の少数派に代表されていたにすぎなかったんだ。金融貴族の専制が混じりけなしのものになればなるほど、また1832年、1834年、1839年の暴動が血の海の中に溺れ死に、労働者階級にたいする支配が確かなものになったと思われれば思われるほど、その反対意見は断固として主張された。グランダンは、ルーアンの製造業者で、立法国民公会でも憲法制定議会でも、ブルジョワの反応のもっとも狂信的な手先だったけど、下院ではギゾーの最も激しい反対者だった。レオン・フォーシェは、のちにフランス反革命のギゾーにまで這い上がろうと無益な努力をしたんで有名なんだけど、ルイ・フィリップ時代の終わりには産業界のために、投機とその追従者にたいしペンの戦いを繰り広げていた。バスティアはボルドーと全ワイン生産者の名の下に、支配制度に対抗するようフランス中を扇動していた。

あらゆる色合いのプチ・ブルジョワジーと農民もまた、政治権力から完全に締め出されていた。最後に、公式反対派のなか、あるいは選挙有権者のまったく埒外には、上に述べた階級のイデオロギー的代表者と代弁者、彼らの学識者、法律家、医者等々、言い換えると彼らのいわゆる才能ある人々がいたんだ。

財政難を背負いながら、7月王政はその始まりから大ブルジョワジーに依存してたんだけど、この大ブルジョワジーへの依存が増大する財政難の尽きることのない源泉だったんだ。予算収支のバランスがとれないでは、すなわち国家の支出と収入とのバランスが確立しないことには、国家の統治を国民生産の利害に従わせることなど不可能なことだ。そして、国家支出を制限せずに--すなわち支配制度の多くの支持者の利害を侵害せずに--また税を再配分することなく--すなわち税負担のかなりの部分を大ブルジョワジー自身の肩に移動させることなしに、どうしたらこのバランスを確立できるんだ?

逆に、議会を通じて支配し法を定めてきたブルジョワジーの分派は、国家の負債に直接利害をもっていた。国家の赤字が実にその投機の主要な対象で、それが富裕になるおもな源泉だったんだ。毎年末には新たな赤字が生じ、4、5年おきに新しい借入れが起こった。そして新しい借入れの度に、金融貴族には国家を食い物にする新しい機会を与えられた。国家は人為的に破産の淵に立たされ続けた--国家は銀行家と不利な条件で交渉しなければならなかった。新しい借入れのたびに、株取引の操作をつかってその資本を国債に投資し、公金を強奪する機会がさらに与えられた。これが政府と議会の多数派が内々に通じていた秘密なんだ。一般に、国家の信用が不安定であることと国家の秘密を手に入れたことで、銀行家と議会や玉座のその共犯者たちは国債の相場を突然に、しかも異常に変動させることが可能だった。その結果はいつも多くの小資本家が没落し、大博打うちが驚くほど急に金持ちになることになった。国家の赤字はブルジョワジーの支配分派の直接利益となることだったから、ルイ・フィリップの治世の末期の臨時国家支出がナポレオン統治下の臨時国家支出の2倍以上になった理由は明らかだ。フランスの年平均の総輸出額が7億5千万フランにのぼる額を達成することはめったになかったのに、臨時国家支出は、実に年総額4億フランに達してたんだ。このようにして、国家の手を介して流れ出た莫大な金額が、さらに詐取的な荷渡し契約、贈収賄、横領、あらゆる種類の悪業を助長した。

借入れに関しては卸売りで実施された国家からのだまし取り行為は、公共事業では小売りで繰り返された。議会と政府との間の関係で生じたことは、個々の部門と個々の請負人との関係の中で倍加された。

鉄道建設を食い物にした支配階級は、同じようにして、国家支出一般と国家借入れを食い物にした。議会は国家に思いきり重荷を積み上げ、投機的な金融貴族に金の果実を保証した。下院のスキャンダルで誰もが思い出すのは、国務大臣を含む多数派の全員が、後に立法者として彼らが国の費用で実施した鉄道建設に株主として利害関係をもっていたことが偶然洩れた事件だ。その一方で、もっとも小さな財政改革も、銀行家の介入で暗礁に乗り上げた。例えば郵政改革。国家が、絶えず増え続ける負債の利子をそこから支払わなければならない収入源を縮小してもよいのか?とロトシルトが異義を申し立てたんだ。

7月王制とはフランスの国有財産を食い物にするための株式会社以外のなにものでもなかった。その配当は国務大臣、国会議員、24万人の有権者、およびその支持者たちに分けられた。ルイ・フィリップはこの仲間の指揮者--玉座に座ったロベール・マケール[1]だった。貿易、工業、農業、海運業、産業ブルジョワジーの利害は、引続き、この制度の中で危機にさらされ、不公平な扱いを受けなければならなかった。安上がりの政府というのが7月王制時代に産業ブルジョワジーが旗じるしに書いた言葉だった。

金融貴族が法を作り、国家の統治の首脳部におさまり、組織された公共機関をすべて指令し、現状を通じまた新聞を通じて世論を支配していたから、同じ堕落、同じ恥知らずな詐欺、同じ金儲け熱が、あらゆる分野で繰り返され、宮廷からカフェ・ボルニュ[2]に至るまでが、生産によってではなく、既に使える状態の他人の富を着服することによって金を儲けようとした。絶えずブルジョワ法自身と衝突しながら、不健全で気ままな欲望が歯止めなく主張された。特にブルジョワ社会の頂点では。--そこでは博打で得た富が当然にもその満足を強欲の中に探し求め、快楽は堕落したものとなり、金と汚辱と血がいり混じっていた。金融貴族はものを獲得するやり方でも快楽でも、ルンペン・プロレタリアートがブルジョワ社会の頂点に生まれかわったもの以外の何者でもなかったんだ。

そしてフランス・ブルジョワジーの非支配分派は叫んだ、「腐敗だ!」と。1847年、ブルジョワ社会のもっとも目立つ舞台の上で、ルンペン・プロレタリアなら決まって売春宿へ、救貧院や精神病院へ、法廷の被告人席へ、地下牢へ、そして絞首台へと送り込まれるような同じ場面が演じられていたとき、人民は叫んだ、「大泥棒を打ち倒せ!暗殺者を打ち倒せ!」と。産業ブルジョワジーはその利害が危機に晒されるのを見たし、プチ・ブルジョワジーは道徳的に憤慨し、人民の想像力は不快な思いをした。パリは「ロトシルト王朝」、「時代の高利貸王」といったパンフレットで溢れかえったが、それらは多かれ少なかれ機知をめぐらして、金融貴族の支配を告発し、罪の焼き印を押すものだった。

栄光は一文にもならない!いつもどこでも平和を!戦争は3%公債や4%公債の相場を下げる。証券取引所の仲買人のフランスはその旗じるしにこう書き付けていた。それで、その外交政策は一連の屈辱の中でフランスの国民感情の支持を失ってきた。この国民感情は、ポーランドの侵犯がオーストリアによるクラクフの併合という結果をもたらし、ギゾーがスイス分離戦争では神聖同盟側にたって積極的に介入したとき、いっそう激昂した。この疑似戦争でスイスの自由主義者が勝利を収めると、フランスのブルジョワ反対派の自信は高まり、パレルモの人民の流血の蜂起は、麻痺状態の大衆に電撃ショックのように働いて、偉大なる革命の記憶と情熱をよびさました。

この一般的な不満の爆発を最終的に加速し、暴動へ向かう気分を熟成したのは、二つの経済世界の事件だった。

1845年と1846年のジャガイモ病と穀物不作で、人民のあいだの一般的な不安が高まった。1847年の飢きんは大陸の他の地域と同じようにフランスでも流血の衝突事件をひき起こした。金融貴族の破廉恥な乱痴気騒ぎに対抗しての、絶対必要な生活物資を得るための人民の闘争。ビュザンセディエでは飢餓暴動の参加者が処刑され、パリではたらふく食った詐欺漢どもが王族のはからいで裁判を免れた。

革命の勃発を早めた二つ目の大きな経済的事件は、イギリスの全般的な商工業恐慌だった。すでに1845年秋には鉄道株の投機で大量の失敗がでるという前触れがあったんだけど、1846年の間は差し迫った穀物法の廃止といった一連の偶発事で引き延ばされていた。それがついに1847年秋にロンドンの食品卸商の破産となって恐慌が爆発した。それに踵を接して、地方銀行の破産、イギリスの工業地帯の工場閉鎖が続いた。この恐慌の余波が大陸でまだおさまらないうちに、2月革命が勃発したんだ。

経済的流行病がひき起こした交易と産業の荒廃で、金融貴族の専制はいっそう耐えがたいものになった。フランス全土でブルジョワ反対派は選挙法改革のための宴会運動で扇動した。それによって、議会の多数派を勝ち取り、証券取引所の内閣を覆そうとしたんだ。パリでは産業恐慌で、さらに次のような際だった結果が生じた。それは、現状ではもはや外国市場で商売が立ちゆかなくなった多数の製造業者や大貿易商が国内市場にむかったということなんだ。彼らが大きな店を開いたので、小商人や小店主が大量に破滅した。それでパリのブルジョワジーのこの部分にたくさんの破産がおこったし、だから彼らは2月革命のときには革命的な行動をとったんだ。周知のように、ギゾーと議会は改革の提案に明らかに挑戦的な対応をし、ルイ・フィリップはバロ内閣を決定したが遅すぎて、事態は人民と軍隊が白兵戦となるまでにいたり、軍隊は国民軍の消極的行動により武装解除され、7月王制は臨時政府に席を譲った。

2月のバリケードから出現した臨時政府の構成は、必然的に勝利を分かちあった様々な党派を映し出した。それは一緒に7月の玉座をひっくり返した様々な階級の妥協の産物以外のものにはなりようがなかった。でも、その階級の利害はお互いに相容れないものだった。そのメンバーの大多数がブルジョワジーの代表から構成されていた。共和主義的プチ・ブルジョワジーはルドリュ・ロランとフロコンが、共和主義的ブルジョワジーは「ル・ナシオナル」紙[3]の人々が、王党派的反対派はクルミョーとデュポン・ド・ロールが代表した等々だったんだ。労働者階級はルイ・ブランとアルベールというわずか二人の代表者しか持たなかった。最後に臨時政府のラマルティーヌ、これは最初はなんら現実の利害も、明確な階級も代表しなかった。それは2月革命そのもの、その幻想、その詩、その幻視的内容、その詩句をともなった共同の反乱であった。残りの部分はというと、この2月革命の代弁者は、その地位からいってもその見解からいっても、ブルジョワジーに属していた。

政治的な中央集権の結果、パリがフランスを支配するならば、革命の激震の時には労働者がパリを支配する。臨時政府の生涯の第一幕目は、しらふのフランスへ呼びかけることで、酔いしれたパリの圧倒的な影響力から逃れようとすることだったんだ。ラマルティーヌは、バリケードの戦士たちが共和国を宣言する権利にたいして、その権利はフランス人の多数派だけが持っているという理由で異義を唱えた。彼らは投票を待たなければならず、パリのプロレタリアートはその勝利を専横で汚してはならないというんだ。ブルジョワジーがプロレタリアートに許した唯ひとつの専横--それは闘うことだった。

2月25日の正午になってもまだ共和国は宣言されていなかった。一方ではすべての大臣職はすでに臨時政府のブルジョワ分子の間で、「ル・ナシオナル」の将軍、銀行家、法律家の間で配分されてしまっていた。でも労働者はこのとき1830年7月のようなまやかしにはのるまいと決意していたんだ。彼らは新たに闘いを開始して武力で共和国を勝ち取る準備ができていた。このメッセージを携えてラスペーユはパリ市庁舎に向かった。パリのプロレタリアートの名において、彼は臨時政府に共和国を宣言するよう命じた。もしこの人民の命令が2時間以内に実行されないときは、彼は20万人を率いて戻って来るというのだ。倒れた死体は冷えきっておらず、バリケードはまだ武装解除されていなかった。そして彼らに対抗できる唯一の武装勢力は国民軍だった。こうした状況の下で、国家政策の考察から生じた疑念や臨時政府が抱いていた良心上の法律的ためらいは突然消え失せてしまった。2時間という制限時間がきれる前に、パリの壁中を巨大な英雄的な言葉が輝やかしく飾った。フランス共和国!自由、平等、友愛!

ブルジョワジーを2月革命へと駆り立ててきた限定された目的と動機の記憶さえもが、普通選挙権に基づく共和国宣言によってかき消された。ブルジョワジーのわずかな分派というだけではなく、フランス社会の全階級が突然政治権力の領域に投げ込まれ、貴賓席や特別席や桟敷から出て革命の舞台の登場人物を演じるよう強制されたんだ!立憲君主制と一緒に、ブルジョワ社会と独立して対峙している国家権力という見せかけは消え失せ、さらに権力のこうした見せかけがひき起こしてきた一連の付随的な闘争全体も消えた!

臨時政府に共和国を押しつけ、そして臨時政府を介してフランスに共和国を押しつけることで、プロレタリアートは直ちに独立した政党として前景に踏み出したんだけど、同時に自分たちに対抗して競争に参加するようブルジョワ的フランス全体に挑戦したんだ。プロレタリアートが勝ち取ったものは、その革命的解放への闘いのための地歩であって、決してこの解放そのものを勝ち取ったんじゃなかった。

2月共和制が最初にしなければならなかったことは、むしろ、金融貴族だけなく、すべての有産階級が政治権力の領域に参加することを認めて、ブルジョワジーの支配を完成させることだったんだ。大土地所有者の大多数派である正統王党派は、7月王制が宣告した政治的無効から解放された。「ガゼット・ド・フランス」が反対派の新聞とともに煽動したのには理由があったし、ラ・ロッシュジャクランが6月24日の下院の議会中、革命の側にたったのも十分理由があってのことなんだ。名目上の財産所有者である農民はフランス人民の多数派をなしていたが、普通選挙によって彼らがフランスの運命の裁定者になった。2月革命は、その蔭に資本が隠れていた王冠を叩き落すことで、ついにブルジョワジーの支配をはっきりと目に見えるものにしたんだ。

労働者は7月のときにはブルジョワ王制を闘いとったように、2月のときにはブルジョワ共和制を闘いとった。7月王制が自らを共和制的制度に囲まれた王制と宣言したように、2月共和制は自らを社会的制度に囲まれた共和制であると宣言せざるをえなかった。パリのプロレタリアートが、またこの譲歩をさせずにおかなかった。

マルシュという労働者が、新しく成立した時政府は労働者に労働による生活を保証し、すべての市民に仕事を提供する等々の義務を負うという布告を押しつけた。だが、それから数日して、臨時政府が約束を忘れ、プロレタリアートのことを見落としているように見えたとき、2万人の労働者の群衆が労働を組織しろ!特別の労働省をつくれ!と叫びながら、パリ市庁舎に行進した。しぶしぶながら、しかも長い論争の末に、臨時政府は常設特別委員会を任命して、それに労働者階級の生活改善の手段を援助する任務を課した。この委員会はパリの職人のギルドの代表者から構成され、ルイ・ブランとアルベールが議長となった。リュクサンブール宮殿がこの委員会の会議場としてあてられた。こうして、労働者階級の代表者は臨時政府の所在地から追い出され、臨時政府のブルジョワ的部分が実質的な国家権力と統治の手綱をその手に独占して握ったんだ。こうして大蔵省や商務省や公共事業省と並んで、銀行や証券取引所と並んで、社会主義者のシナゴーグが建てられ、その司祭長のルイ・ブランとアルベールは約束の地を発見し、新しい福音を伝道し、パリのプロレタリアートに仕事を提供するという仕事を負ったんだ。いかなる世俗的国家権力とも異なって、彼らは一切予算を持たず、またその処置の実施権限をまったく持っていなかった。彼らはブルジョワ社会の支柱を頭突きを食らわして倒そうとするかのようだった。リュクサンブールが賢者の石を探している間に、パリ市庁舎では流通硬貨が鋳造されていた。

まあしかし、パリのプロレタリアートの要求は、ブルジョワ共和制を越え出たものである限り、リュクサンブールという雲みたいなもの以外の存在を勝ちとることはできなかったんだ。

ブルジョワジーと一緒に、労働者は2月革命を成し遂げた。彼らはブルジョワジーとならんで、自分たちの利益の増大を確実にしようとした。ちょうど、ブルジョワ多数派とならんで、臨時政府そのものに一人の労働者を入閣させたように。労働を組織せよ!しかし、賃労働、これこそが現存する、ブルジョワ的な労働の組織なんだ。賃労働なしには、資本もなく、ブルジョワジーもなく、ブルジョワ社会もない。特別の労働省!だが、大蔵省、商務省、公共事業省がブルジョワ的ば労働省じゃないのか?こうしたものとならんでいるプロレタリアートの労働省は、無力な省、かなわぬ望みの省、リュクサンブール委員会であるしかなかったんだ。労働者はブルジョワジーとならんで自分自身を解放できると考えていたのと同じように、他のブルジョワ諸国民とならんで、フランス国民という壁のなかで、プロレタリア革命を達成できると考えていた。しかしフランスの生産関係はフランスの対外貿易によって、世界市場でのその地位世界市場の法則によって、条件づけられていてるんだ。世界市場の専制君主であるイギリスを打ち倒すヨーロッパ革命戦争をせずに、どうやってフランスの生産関係を破壊できるというんだ?

社会の革命的利害が集中している階級は、立ち上がるとすぐに、それ自身の状況のうちに革命的活動の内容と材料を、直接見つけるものなんだ。すなわち打ち倒すべき敵と闘争の必要性がとれと命じる手段を見出し、それ自身の行動の結果がさらに彼らを駆り立てていくということになるんだ。自分の課題を理論的に調査したりはしないものなんだ。フランスの労働者階級はこのレベルまで達しておらず、まだ自分自身の革命を成し遂げる能力がなかったんだ。

産業プロレタリアートの発展は、一般に、産業ブルジョワジーの発展に条件付けられている。産業ブルジョワジーの支配の下でだけ、プロレタリアートは自分の革命を国民的革命に高めることのできる広範な国民的存在となり、そうすることによってのみ、プロレタリアート自身が近代的な生産手段を創り出すのだが、この生産手段はその数だけ彼らの革命的解放の手段となるんだ。ブルジョワ的支配だけが封建社会の物質的な根を引き抜き、その上でだけプロレタリアート革命が可能となる大地をならす。大陸の他の地域に比べると、フランスの産業はより発展しており、フランスのブルジョワジーはより革命的である。しかし2月革命は直接には金融貴族の打倒を目的としたものではなかったのか?この事実は産業ブルジョワジーがフランスを支配していなかったことの証拠なんだ。産業ブルジョワジーは、近代的産業がすべての所有関係を自分自身に適合させて形成するところでだけ、支配することができるし、そして産業は、国境というものがその発展に不適当なので、世界市場を征服できたところでだけ、こういう力をふるうことができるんだ。でもフランスの産業は大部分、国内市場に対する支配力さえ、多かれ少なかれ修正された法外な関税制度によってのみ、維持しているにすぎない。そうだから、フランスのプロレタリアートは、革命の瞬間には、パリではその力量を越えて突き進むよう刺激する現実の権力と影響力を持つにもかかわらず、フランスの他の地域では、分離し散在する産業の中心地に群がり集まりながら、圧倒的多数の農民とプチ・ブルジョワジーの中にほとんど消え失せてしまうんだ。発達した近代的形態での--決定的局面での--資本に対する闘争、すなわち産業賃労働者の産業ブルジョワジーに対する闘争は、フランスでは部分的な現象であって、2月革命の時代の後ではほとん革命の国民的内容を提供することができなかった。というのも、金融貴族に対する一般的蜂起には依然として、資本の二次的な搾取様式に対する闘争、すなわち高利と抵当に対する農民の闘争、卸売業者や銀行家や工場主に対する--一言でいえば破産に対する--プチ・ブルジョワの闘争が隠れていたからだ。パリのプロレタリアートが自分の利害を、社会そのものの革命的利害として強制する代りに、ブルジョワシーとならんでその増大を確保しようと努めたこと、三色旗に譲って赤旗を降ろしたことほど、理解しやすいことはない。革命の進行が国民大衆、つまりプロレタリアートとブルジョワジーの間にいる農民とプチ・ブルジョワを、この秩序に対して、資本の支配に対して立ち上がらせ、革命の主唱者であるプロレタリアートに加わざるをえなくなるまでは、フランスの労働者は一歩も前進できず、ブルジョワ秩序の髪の毛の一本にさえ触れることができなかった。労働者はこのような勝利を6月の恐ろしい敗北という代償によってだけ手に入れることができたんだ。

リュクサンブール委員会、このパリ労働者の創造物には、全ヨーロッパの演壇の上から、プロレタリアートの解放という19世紀の革命の秘密を暴露したという功績を認めなければならない。「モニトール」紙は、それまでは社会主義者の典拠不明な文書に埋もれ、ときおり、はるかかなたの半ば恐ろしく、半ば滑稽な伝説としてだけブルジョワジーの耳に届いていた「とっぴなうわ言」を公式に広めなければならなくなったとき、赤面した。ヨーロッパはそのブルジョワ的まどろみから驚いてとび起きた。そうだから、金融貴族をブルジョワジー一般と混同していたプロレタリアの頭の中でも、階級の存在そのものを否定するか、せいぜい立憲君主制の結果とみなしていたひとのよい共和主義者の想像の中でも、今まで権力から排除されていたブルジョワジー分派の偽善的文句の中でも、ブルジョワジーの支配は共和制の採用とともに廃絶されていたはずだったんだ。そのとき王党派はみんな共和主義者に変わり、パリの百万長者はみんな労働者に変わった。この想像上の階級関係の廃絶に対応する文句が友愛、普遍的な親睦と同胞愛なんだ。階級対立のこの心地よい捨象、矛盾する階級利害のこの情緒的和解、階級闘争からのこの空想的な超克、この友愛が2月革命のほんとの標語だったんだ。階級は単に誤解によって分かたれたにすぎず、6月24日には、ラマルティーヌは臨時政府を「異なる階級間に存在するこの恐ろしい誤解を取り除く政府」と名付けた。パリのプロレタリアートは友愛というこの寛大な陶酔に酔いしれていたんだ。

臨時政府としては、一旦無理強いされて共和制を宣言してしまうと、これをブルジョワジーと地方に受け入れてもらえるように、あらゆることをした。フランス第一共和制の流血テロは政治的反対に対する死刑の廃止によって拒否したし、新聞はあらゆる意見に開放されていた。--軍隊、裁判所、行政官庁はわずかな例外を除いて、相変わらず以前からの高官の手に握られたままだった。7月王制の大罪人は誰も責任を問われなかった。「ル・ナショナル」のブルジョワ共和主義者たちは王制時代の名前や衣装を共和制時代のものに取り換えて楽しんでいた。彼らにとって、共和制は古いブルジョワ社会の新しい舞踏会衣装にすぎなかったんだ。若い共和制はその主なメリットを人をおびえさせることにではなく、いつも自分がおびえることに、柔和な譲歩と無抵抗によって存在を認めさせ、抵抗を無害化することに求めた。国内では特権階級にたいし、国外では専制的強国にたいして、共和制は平和な性質を持つと声高に公言した。生きそして生かしめよというのがその公然としたモットーだった。それに加えて、2月革命の後すぐに、ドイツ人、ポーランド人、ハンガリー人、イタリア人が、それぞれの人民がその直面する状況にしたがって反乱を起こした。ロシアとイギリスは、後者は動揺しており、前者はおびえていて、準備ができていなかった。だから、共和制には面とむかった国民的な敵などいなかった。結果として、活力に火をつけ、革命の過程を早め、臨時政府を前に駆り立てるかさもなくば葬り去ってしまうような、大規模な対外紛争など全くなかった。パリのプロレタリアートは、共和制を自分たち自身の創造物とみなしていたが、当然ながらブルジョワ社会での共和制の確固たる地歩固めを促進する臨時政府の行為にはどれにも拍手喝采だった。彼らは、労働者と使用者との賃金争議の調停をルイ・ブランに任せたように、パリでの財産を保護するためコシディエールによる警察業務に喜んで従事した。共和制のブルジョワ的名誉をヨーロッパの目前で汚点なく保つことは、プロレタリアートの面目にかかわることであったんだ。

共和制は国外でも国内でもどんな抵抗にもあわなかった。このため共和制は武装解除された。その課題は、もはや世界を革命的に改造することではなく、自分をブルジョワ社会の諸関係に適合させることだけとなった。臨時政府がどんなに熱心にこの課題に取り組んだか、その財政方策ほど雄弁な証拠はない。

公的信用も私的信用も、当然ながら動揺していた。公的信用は、国家が金融界の狼どもの食い物になってくれるという確信をあてにしていた。ところが、古い国家は消えてなくなったし、革命は何よりもまず金融貴族にたいして向けられたものだった。最近のヨーロッパの商業恐慌の動揺はまだおさまっていなかった。依然として破産に破産が引き続いていた。

それで、2月革命が勃発する以前に、私的信用は麻痺し、流通は制限され、生産は停滞していた。革命的危機は商業恐慌を増幅した。で、もし私的信用がブルジョワ的関係の範囲全体--すなわちブルジョワ的秩序--においてブルジョワ的生産が触られることもなく、不可侵のままでいられるという確信に基づいているのなら、ブルジョワ的生産の基盤、すなわちプロレタリアートの経済的奴隷制を問題にし、証券取引所に対抗してリュクサンブール委員会というスフィンクスを設立するような革命はどんな影響を与えたんだろうか?プロレタリアートの蜂起はブルジョワ的信用の廃止だ。というのも、それはブルジョワ的生産とその秩序の廃止なんだから。公的信用と私的信用は、革命の強度を測ることのできる経済的体温計なんだ。信用という目盛が下がるほど、革命が引き起こす熱は高く、その生成力は大きいことになる。

臨時政府は共和制からその反ブルジョワ的な見かけを剥ぎとりたかった。それで、臨時政府はなによりもこの新しい国家形態の交換価値、証券取引所でのその相場を安定させなければならなかった。共和制の証券取引所時価相場とともに、私的信用も必然的に再び上昇したんだ。

王制から背負わされた債務を履行しないか、あるいはできなのではないのではないかという疑惑を払拭するために、共和制のブルジョワ的道徳と支払能力への信頼を築くために、臨時政府は子供じみているといわれるほどみっともない空自慢の手をうった。臨時政府は、法定支払日に先だって、国家債券者に5%、4.5%、4%利付き債券の利子を支払ったんだ。この政府が自分たちの信頼を買おうとして焦っているのを見て、ブルジョワの冷静さ、資本家の自信は突然よみがえった。

臨時政府の財政難は、手持ち現金の蓄えを奪いさる芝居じみた手では、当然ながら緩和されることはなかった。財政危機はもはや隠しようがなくなり、プチ・ブルジョワ、雇人、労働者が国家債権者の不意打ちの喜びの代価を支払わなければならなかった。

100フラン以上の金額は貯蓄銀行の預金通帳から引き出せないという布告が出された。貯蓄銀行に預金された金額は徴発され、布告によって無償還国債に変えられてしまった。このことは、もう既にいきづまっていたプチ・ブルジョワに共和制に対する反感を抱かせることになった。彼らは貯蓄銀行預金通帳の代わりに国債を受け取ったので、しかたなしに証券取引所に行ってそれを売り、こうして取引所の仲買人の手に我が身を直接引渡すよりほかはなかった。2月革命を起こしたのは、そいつらに対してだったのだが。

7月王制の下で支配した金融貴族は、その高教会を銀行にもっていた。証券取引所が国家信用を支配するように、銀行は商業信用を支配する。

銀行は、2月革命によってその支配ばかりか、その存在そのものも脅威にさらされたので、最初から、信用一般の欠如状態をつくりだすことで、共和制の信用を失墜させようとした。銀行は突然、銀行家、製造業者、商人の信用を停止した。この策略は直ちに反革命を引き起こすことにはならなかったので、必然的に銀行自身にはねかえってきた。資本家は銀行の金庫室に預けておいたお金を引き出した。銀行券の所有者は、それを金や銀に交換するため、支払い窓口に殺到した。

臨時政府は強行的に干渉することなく、合法的なやりかたで、銀行を破産に追い込むことができた。消極的なままで、銀行をその運命の手に任せておきさえすればよかったんだ。銀行の破産は、金融貴族、共和制のもっとも強力で危険な敵、7月王制の黄金の台座を一瞬にしてフランス国土から一掃してしまう大洪水であっただろう。そして一旦銀行が破産してしまえば、政府が国立銀行を設立し、国民信用を国民の統制に従わせるとしても、ブルジョワジー自身がそれを最後の苦肉の救済策とみなさざるをえなかっただろう。

臨時政府は、逆に、銀行券の強制的相場価格を固定した。それにとどまらず、すべての地方銀行をフランス銀行の支店に変え、フランス銀行がフランス全土にその支店網をはることができるようにした。その後、政府はフランス銀行と契約した借入れにたいする保証として、国有林を担保に入れた。こうして2月革命は、それが倒すはずだった銀行支配を直接強化し拡大したんだ。

その間、臨時政府は増大する赤字という悪夢に悶え苦しんでいた。政府は、むなしく愛国的犠牲を乞うてまわった。唯一労働者だけが政府に施しを与えた。頼みの綱は英雄的手段、すなわち新しい税金を課税することしかなくなった。だが誰に課税するんだ?証券取引所の狼どもにか、銀行王にか、国家債権者にか、金利生活者にか、製造業者にか?それは共和制をブルジョワジーの気にいらせるようなやり方ではなかった。一方ではあれほどの犠牲をはらい恥ずかしい思いをしながら、国家信用と商業信用を手に入れようとしてきたのに、もう一方でそんなことをすれば、それらの信用を危険にさらすことになる。しかし誰かがお金を差し出さなければならないんだ。じゃあ誰がブルジョワ的信用の犠牲となったのか?お人好しのジャック、つまりは農民というわけだ。

臨時政府は四種類の直接税について1フランにつき45サンチームの付加税を課税した。政府系の新聞はパリのプロレタリアートをまるめこんで、この税は主に大土地所有者、すなわち王制復古が与えた十億フランの所有者に科せられるんだと信じ込ませた。しかし実際には、この税はなによりもまず農民、すなわちフランス人民の大多数派を襲ったんだ。農民が2月革命の費用を支払わなければならなかった。彼らのなかから、反革命はその材料を得たんだ。45サンチーム税はフランス農民には死活問題だった。農民はこれを共和制の死活問題にした。この瞬間からフランス農民にとって共和制は45サンチーム税を意味することとなったんだ。そして彼らはパリのプロレタリアートに自分たちの負担で裕福に暮らす放蕩者を見ていた。

1789年の革命は農民から封建制の重荷を取り除けることから始まったんだけど、1848年の革命は農村の人々には、資本を危うくしないため、また国家機構の運用を維持するための新税の課税によって、自らを布告したんだ。

臨時政府がこうした面倒事をすべて片付け、国家を古い轍からひっぱり出す方法が一つだけあった。それは国家の破産を宣告することだったんだ。誰しも、ルドリュ-ロランが現在のフランス大蔵大臣の証券取引所のユダヤ人フルドのこの無遠慮な提案を義憤をもって拒絶したことを、その直後の国民議会で述べたことを思い起こすだろう。フルドは彼に知恵の木のリンゴを手渡そうしたというのに。

古いブルジョワ社会が国家にあてて振り出した手形を引き受けたことで、臨時政府はブルジョワ社会に屈伏したんだ。臨時政府は多年にわたる革命の負債を熱心に取り立てる債権者としてブルジョワ社会に立ち向かうかわりに、ブルジョワ社会の追い詰められた債務者となってしまった。政府は、ブルジョワ的諸関係の中でだけ果たすべき義務を果たすために、ぐらついているブルジョワ的諸関係を強固にしなければならなかった。信用は政府の生存条件となり、プロレタリアートにたいする譲歩、彼らにした約束は、はずさなければならない足枷となったんだ。労働者の解放は--ただ文句としてさえ--新しい共和制には耐えがたい危険なものとなった。なぜって、それは信用の回復にたいする終ることのない抗議であったから。信用というものは、現存の経済的階級関係を邪魔されることなく、問題もなく承認することに基づいているものなんだ。だから必然的に労働者は片付けてしまわなくてはならなかったんだ。

2月革命は軍隊をパリの外に追い払っていた。国民軍、すなわちさまざまな色合いのブルジョワジーが、唯一の軍事力をなしていた。しかし、国民軍は単独ではプロレタリアートに対抗できないと感じていた。そのうえ、粘り強く抵抗し、百にものぼるさまざまな妨害を設置したあとのことではあるが、徐々に少しづつ隊伍を開いて武装したプロレタリアの入隊を許さざるをえなくなっていた。その結果逃げ道はただ一つしかなかった。それはプロレタリアートの一部を残りに対抗させることだったんだ。

この目的のために、臨時政府は24個大隊の機動警備軍を編成した。各大隊は1000名の強健な、15歳から20歳までの青年から構成されていた。彼らの大部分はルンペン・プロレタリアートに属していた。それはあらゆる大都会にいる産業プロレタリアートとははっきり区別される群衆で、盗人やあらゆる種類の犯罪者の供給源で、社会の屑で生活しており、定職のない人々、無頼漢、宿無しの無籍者であって、その属する民族の文明化の度合によってさまざまではあるけれど、その賎民的性格を捨てることは決してないんだ。そして臨時政府が募集したような若い年頃には、総じて適応性にとみ、最も英雄的な行為や最も崇高な犠牲的行為も可能なら、獣のような山賊行為も最も卑劣な堕落行為もやりかねないんだ。臨時政府は彼らに日給1フラン50サンチームを支払った。つまりは彼らを買い取ったんだ。臨時政府は彼らに独自の制服を支給した。つまりは彼らを外見上で仕事着を着た労働者と区別したんだ。一部ではその指揮官に常備軍の将校が配属され、一部では指揮官にブルジョワの若い子息が選ばれたが、こいつらの祖国のための死とか共和国への献身といった大言壮語が連中を魅了したんだ。

こうしてパリのプロレタリアートは、自分自身の中から引き抜かれた、二万四千人の若い、強健な、向こう見ずな連中からなる軍隊に対峙させられたんだ。プロレタリアートはパリ中を行進する機動警備軍に歓声をあげた。彼らは機動警備軍をバリケードの先頭部隊だと思っていた。彼らはそれをブルジョワの国民軍に対比されるプロレタリアの護衛兵とみなしたんだ。彼らの誤りは無理もなかった。

機動警備軍とは別に、政府は自分の周りに産業労働者の軍隊を結集しようと決めた。恐慌と革命によって街頭に投げ出された十万人の労働者を、大臣マリはいわゆる国民作業場に登録した。この大げさな名前の下に隠されていたのは、23スーの賃金で労働者を退屈で単調で非生産的な土掘り作業に従事させることでしかなかった。戸外のイギリスの収容作業場--国民作業所とはこうしたものだったんだ。臨時政府は、その中に労働者自身に対抗する第二プロレタリア軍を作ったんだと信じていた。労働者が機動警備軍を誤解したように、今度はブルジョワジーが国民作業場を誤解した。彼らは反乱のための軍隊を創り出したんだ。

しかし、目的の一つは達成された。

国民作業場とはルイ・ブランがリュクサンブール宮殿で説いていた人民の作業場の名前だった。リュクサンブールに直接対抗して考案されたマリの作業場は、共通する名札のおかげで、スペインの召使笑劇顔負けの間違いの喜劇のきっかけを与えたんだ。臨時政府そのものがこそこそと、これらの国民作業場はルイ・ブランの発見だという噂をひろめてまわったが、国民作業場の預言者、ルイ・ブランが臨時政府の一員であったことから、この噂はいっそうもっともらしく見えた。半ば素朴で半ば意図的なブルジョワジーの混同の中で、またフランスやヨーロッパの人工的に作られた世論の中で、これらの収容作業場が社会主義が最初に実現したものだとされ、社会主義はそれと一緒にもの笑いの種となったんだ。

国民作業場は、その内容ではなくて、その呼び名によって、ブルジョワ的産業、ブルジョワ的信用、ブルジョワ共和制にたいするプロレタリアートの抗議を体現したものだった。だからブルジョワジーの全ての憎しみがそれに向けられたんだ。それと同時に、ブルジョワジーは、2月の幻想をおおっぴらに破るほど強くなるとすぐに、直接攻撃を仕掛けることのできる点を、国民作業場にみつけた。プチ・ブルジョワのすべての不満、すべての不快感も共通の標的、国民作業場に向けられていた。心底から激怒して、彼らは、自分たちの状況が日ましに耐えがたくなっているというのに、プロレタリアの怠け者が食い潰す銭の勘定をした。見せかけだけの仕事にたいする国家の扶助、それが社会主義だ!彼らはぶつぶつ不平をつぶやいた。彼らは自分たちの不幸の理由を国民作業場に、リュクサンブールの長演説に、パリを練り歩く労働者の行進に探し求めた。そして、破産の淵を希望を失ってうろついているプチ・ブルジョワほど、根拠も無しに言いたてられる共産主義者の陰謀を熱狂的に信じるものはいなかった。

こうして近づいてくるブルジョワジーとプロレタリアートの間の戦闘において、すべての利点、すべての決定的持ち場、すべての社会中間層はブルジョワジーの手中にあったが、ちょうどその時には、2月革命の波が高くあがってヨーロッパ大陸全土を襲い、新着の郵便が、今度はイタリアから、今度はドイツから、今度は東南ヨーロッパのはるか遠い地方からと、革命の新しい速報をもたらし、勝利の証拠を絶え間無く見せられて、人民は一般的恍惚状態に陥ったままだった。でもこの勝利はもう既に失われていたんだ。

3月17日と4月16日は、ブルジョワ共和制がその翼の下に隠していた大きな階級闘争の最初の小競り合いだった。

3月17日はプロレタリアートが曖昧な状況にあり、それで決定的行為ができないことをばらした。そのデモはもともと臨時政府を革命の道へと押し戻し、状況次第では政府のブルジョワ閣僚を排除するよう働きかけ、国民会議と国民軍の選挙を延期させるという目的のものだった。しかし3月16日に国民軍が代表するブルジョワジーが臨時政府にたいする敵対デモを企画した。彼らはルドリュ・ロランを倒せ!と叫びながら、パリ市庁舎に殺到した。それで人民は、3月17日には、ルドリュ-ロラン万歳!臨時政府万歳!と叫ばざるをえなかった。彼らはブルジョワジーに対抗して、ブルジョワ共和制を支持せざるをえなかった。この共和制は彼らには危機に瀕していると思われたんだ。彼らは臨時政府を服従させるかわりに強化した。3月17日はメロドラマの一場の中に消え失せた。そしてこの日、パリのプロレタリアートがその巨体を誇示したのにたいして、臨時政府の内外のブルジョワジーは彼らを叩き潰す決意を一層固めたんだ。

4月16日は臨時政府がブルジョワジーと同盟して工作した誤解だった。労働者が、国民軍参謀の自分たちの指名者を選ぶために、錬兵場と競馬場に多数集まっていた。労働者が武装して錬兵場に集結し、ルイ・ブラン、ブランキ、カベー、ラスペーユの指導のもとに、そこからパリ市庁舎に行進して、臨時政府を転覆し、共産主義政府を宣言しようとしてるという内容の噂が、突然パリ中を端から端まで雷光のような早さでひろまった。一般警報が鳴り響き--後にルドリュ-ロラン、マラスト、ラマルティ-ヌはその発案者の名誉を争った--一時間のうちに十万人が武器を手にし、パリ市庁舎は国民軍に完全に占拠され、共産主義者を倒せ!ルイ・ブランを、ブランキを、ラスペーユを、カベーを倒せ!という叫びがパリ中にとどろいた。夥しい数の代表者が臨時政府に忠誠を誓い、皆祖国と社会を救う準備をした。最後に、錬兵場で集めた愛国献金を臨時政府に渡そうと、労働者がパリ市庁舎の前に現れたが、ブルジョワのパリが周到に計画された模擬戦で自分たちの影を打ち破ったことを知って驚いたんだ。4月16日の恐るべき計画はパリに軍隊を呼び返す口実--これこそが不器用に上演された喜劇の本当の目的だったんだ--を与え、また地方の反動的連邦主義者のデモの口実を与えた。

5月4日に直接普通選挙で成立した国民議会[4]が招集された。普通選挙権は旧式の共和主義者があると思っていたような魔法の力を持ってはいなかった。彼らはフランス全体に、少なくともフランス人の多数派の中に、同じ利害、同じ分別等々を持つ市民を見ていた。これは彼らの人民崇拝だった。選挙は、彼らの想像上の人民の代わりに、現実の人民を、すなわち人民が分裂している様々な階級の代表者を白日の下へ連れ出した。なぜ農民とプチ・ブルジョワジーが、戦闘好きのブルジョワジーや王制復古にやっきとなっている大土地所有者の指導のもとに投票しなければならなかったかは、既に見てきた。しかし、普通選挙権が奇跡ではない--共和主義者のおえら方が思っていたような魔法の杖の働きはしないにしても、それは、階級闘争を束縛から解き放ち、ブルジョワ社会の様々な中間層に彼らの幻想と幻滅を急いで体験させ、搾取階級の全分派を国家の頂点に押し上げ、こうして彼らからまやかしの仮面を剥ぎ取るという、比べものにならない大きな利点があったんだ。これに対して、財産資格制選挙権をもった王制は、ブルジョワジーのある分派だけの体面を傷つけ、その他の分派は背景に隠れさせ、共通の反対派という後光で包んだんだ。

5月4日に招集された憲法制定国民議会は、ブルジョワ共和主義者、すなわち「ル・ナシオナル」の共和主義者が優位にたった。正統王朝派やオルレアン派でさえ、最初のうちはブルジョワ共和主義の仮面をつけてしか姿を見せようとはしなかった。プロレタリアートにたいする戦闘は共和制の名においてだけ行うことができた。

共和制の日付は2月25日ではなくて、5月4日から始まった。すなわち、フランス国民が承認した共和制は、ということなんだが。それはパリのプロレタリアートが臨時政府に押しつけた共和制ではなかったし、社会制度をともなった共和制でもなく、バリケード上の戦士たちの前に浮かび上がった幻でもなかった。国民議会が宣言した共和制、ただ一つの正統な共和制は、ブルジョワ秩序にたいして革命の武器を持つのではなく、むしろブルジョワ社会の政治的再構成、政治的再強化である共和制、一言でいえばブルジョワ共和制だった。この主張は国民議会の論壇上から響きわたり、その反響は共和主義的であれ反共和主義的であれすべてのブルジョワ新聞で見られた。

で、僕らが見てきたのは、実際の2月共和制はブルジョワ共和制でしかなく、またそれ以外のものではありえなかったこと、臨時政府は、それにもかかわらず、プロレタリアートの直接の圧力により、それが社会的制度をもつ共和制であると布告せざるをえなかったこと、パリのプロレタリアートは、空想や想像以外には、ブルジョワ共和制を乗り越えて進むことはまだできなかったこと、彼らが実際に行動するときは、どこででも共和制はブルジョワジーに役立とうとふるまったこと、プロレタリアートにした約束は新しい共和制には堪えがたい危険となったこと、臨時政府の全生涯の過程は、要約すればプロレタリアートの要求に対する絶え間のない戦いだったことなんだ。

国民議会では全フランスがパリのプロレタリアートを裁いた。議会は直ちに2月革命の幻想と決別し、ブルジョワ共和制を、そしてブルジョワ共和制以外のなにものでもないことを、きっぱりと宣言した。議会はすぐに自分たちが任命した執行委員会から、プロレタリアートの代表、ルイ・ブランとアルベールを排除した。議会は特別の労働省という提案を否決し、大臣トレラの「問題は今や労働を以前の状態にもどすことだけだ。」という声明を拍手で受け入れた。

でもこれだけでは十分でなかったんだ。2月共和制はブルジョワジーの消極的支持のもとで労働者が勝ち取ったものだった。プロレタリアは当然自分たちが勝利者だと思ったし、勝利者の傲慢な要求を持ち出していた。彼らを路上で降伏させなければならなかったし、ブルジョワジーとともに戦うのではなく、ブルジョワジーに対して戦うならすぐに、彼らは打ち破られてしまうということを示さなければならなかった。2月革命が、社会主義的な譲歩をして、ブルジョワジーと連合したプロレタリアートの王制に対する戦いを必要としたように、共和制を社会主義的な譲歩から分離させ、ブルジョワ共和制を公式に支配勢力として仕上げるには、第二の戦いが必要だった。ブルジョワジーは、武器を手にして、プロレタリアートの要求を退けなければならなかった。ブルジョワ共和制の本当の誕生の地は、2月の勝利ではなく、6月の敗北なんだ。

5月15日にプロレタリアートが国民議会に押し入って、革命的な影響力を取り戻そうと無駄な努力をして、自分たちの精力的指導者をブルジョワジーの獄吏に引き渡しただけに終ったとき、彼らは決定を早めさせることになった。こんな状況は終らせなくてはならない!こういう叫びとともに、国民議会は無理矢理にでもプロレタリアートを雌雄を決する闘争にひきずり込もうという決意をぶちまけたんだ。執行委員会は人民集会禁止等々というような一連の徴発的な布告を出した。労働者は、憲法制定議会の論壇上から直接、徴発され、侮辱され、嘲笑されたんだ。でも本当の攻撃点は、見てきたように、国民作業場だった。憲法制定議会は緊急にこれらの作業場を執行委員会に指示したが、執行委員会は自分たちの計画が国民議会の指令として宣言されるのが聞こえてくるのを待つばかりになっていたんだ。

執行委員会は、表向きは土掘り作業の建設のためと称して、日給を出来高給に変更したり、パリ生まれでない労働者をソローニュへ追い出したりして、国民作業場への入場をもっと難しくすることから手をつけた。労働者が我に帰り、仲間に知らせたように、こうした土掘り作業は単に追放を粉飾する修辞的決まり文句にすぎなかった。ついには、6月21日には「モニトール」紙上に、すべての未婚の労働者を国民作業場から強制的に排除するか軍隊に入隊させるよう命じた布告が出た。

労働者には選択の余地はなかった。彼らは餓死するか戦端をひらくかしかなかった。6月22日に彼らは激烈な反乱で答えたが、そこで近代社会を分裂させている二つの階級の間の最初の大戦闘が闘われたんだ。それはブルジョワ的秩序を保持するか絶滅させるかの闘いだった。共和制をおおっていたヴェールはずたずたに引き裂かれたんだ。

周知のとおり、労働者たちは、前例もないほど勇敢でしかも巧みに、指導者もなく、共通の計画もなく、手段もなく、大抵は武器さえ持たずに、五日間にわたり、軍隊を、機動警備軍を、パリの国民軍を、そして地方から流れ込む国民軍を抑え続けた。周知のとおり、ブルジョワジーは彼らが被った死ぬ程の苦しみを三千人以上の捕虜を虐殺するという前代未聞の蛮行で埋め合わせたんだ。フランスの民主主義の代議士どもはどっぷりと共和制のイデオロギーに浸かりこんでおり、数週間もたってから6月の戦闘の重要性をうすうす感じとる始末だった。彼らは自分たちの幻想的な共和制を夢散させた硝煙で麻痺していたんだ。

6月の敗北のニュースが僕らにもたらされたときの最初の印象を、新ライン新聞に載せた言葉[5]で述べることをお許しいただきたい。


執行委員会、この2月革命最後の公式の遺物は、こうした重々しい事件の前で幽霊のように消え失せた。ラマルティーヌの花火は、カヴェニヤックの焼夷弾に変わった。

友愛、一方の階級が他方の階級を搾取している敵対する階級の友愛、2月に宣言され、パリの建物の正面に、すべての牢獄に、すべての兵舎に大きな文字で書き付けられたこの友愛--この友愛はその本当の、混じりけの無い、散文的な表現を、内乱に、もっとも恐ろしい様相の内乱に、労働の資本家に対する戦争に見出したんだ。この友愛が6月25日の晩、パリの窓の前で燃え上がったんだ。そのときブルジョワジーのパリは美しく照らし出されていたというのに、プロレタリアートのパリは焼け、血を流し、断末魔の呻き声をあげていた。

この友愛はブルジョワジーとプロレタリアートの間に親密な利害関係がある間だけ続いたんだ。1793年の古い革命の伝統にしがみつく物知りども、ブルジョワジーに人民への施しを乞い、プロレタリアートというライオンをあやして寝かせているかぎり長々と説教をし恥を晒すのを許された社会主義の空論家、王冠をかぶった頭以外は、古いブルジョワ的秩序をそくりそのまま維持したがる共和主義者、たまたま内閣更迭のかわりに王朝の転覆という課題を課せられた王朝反対派、お仕着せを脱ぎ捨てたいわけではなく、単にそのスタイルを変えたいだけの正統王朝派、こうした連中が人民がその2月革命を闘った同盟者だった。......

2月革命は素敵な革命、普遍的共感の革命だ。なぜって、この革命の中で王制に抗して噴き出した対立は、まだ未発達で穏やかにまどろんだようなものだったから。なぜって、その背景を形作った社会的闘争は、かりそめの存在、言い替えれば語句の上の存在をかち取っただけだから。6月革命は醜い革命、不快な革命だ。なぜって空文句が事実に席を譲ったから。なぜって、共和制が、怪物の頭から保護し隠していた王冠を叩き落して、その頭をむき出しにしたから。

秩序!それがギゾーのときの声だ。秩序!ワルシャワがロシア領になったとき、ギゾー派のセバスティアニはそう叫んだ。秩序!フランス国民議会と共和派ブルジョワジーの残忍な反響カヴェニャックはそう叫んだ

秩序!彼のブドウ弾はプロレタリアートの体を引き裂きながら、そう鳴り響いた。

1789年以来フランスのブルジョワジーの多くの革命のどれひとつとして、現存する秩序を攻撃したものはなかった。というのも、どの革命も、階級支配、労働者奴隷制、ブルジョワ的制度は保持したのだから。たとえこの支配とこの奴隷制の政治的形態がたびたび変化したにせよ。6月暴動はこの制度を攻撃したんだ。6月暴動に災いあれ!

6月に災いあれ!この言葉がヨーロッパ中に響きわたる。

パリのプロレタリアートはブルジョワジーによって無理矢理6月暴動へと追い込まれた。このことはその非運に注目すれば十分納得できる。暴動を起こす差し迫った公然とした必要があって、プロレタリアートは力づくでブルジョワジーを転覆する闘いに係わるよう駆り立てられたわけでもないし、プロレタリアートがこの課題を成し遂げるだけの力があるというわけでもなかった。モニトール紙は次のことを公に知らせるべきだった。共和制がプロレタリアートの幻想に恭しく礼をする儀式をみている時は過去のものとなり、プロレタリアートの敗北だけが、その地位をわずかでも改善しょうとすることは依然としてブルジョワ共和制の中ではユートピア、現実的なものとなることを求めるとすぐに犯罪となるようなユートピアであるという真実を、彼らに納得させたんだということを。形式上は熱狂的だが内容としてはかなり制限されブルジョワ的ですらあるような要求、その譲歩をプロレタリアートはなんとか2月革命から引き出したかった要求にかわって、ブルジョワジーの打倒!労働者階級の独裁!という革命的闘争の大胆なスローガンが現れた。

プロレタリアートの埋葬地をブルジョワ共和制の生誕の地とすることによって、プロレタリアートは無理矢理ブルジョワ共和制が国家としての純粋な形態で現われさせたが、それは資本の支配と労働の隷属を永続させることを自らの目的とするものだった。目の前にいつも、傷だらけの、和解できない、勝てそうもない--勝てそうもないのはその存在がブルジョワジー自身の生活の条件だからだ--敵をかかえているので、ブルジョワ的支配は、あらゆる束縛から解放されると、直ちにブルジョワ的テロリズムに変わらざるをえなかった。プロレタリアートがしばらくの間舞台から追いたてられ、ブルジョワジーの独裁が公式に承認されると、ブルジョワ社会の中間層、プチ・ブルジョワと農民階級は、彼らの地位が耐えがたくなればなるほど、またブルジョワジーとの敵対関係が激しくなればなるほど、ますます密接にプロレタリアートに追従せざるえなくなった。彼らはその悲惨の原因を以前はプロレタリアートの台頭にあると思っていたように、今ではその敗北にあると思うようになったんだ。

6月反乱が大陸中でブルジョワジーの自身を高揚させ、ブルジョワジーが人民に対抗して公然と封建王制と同盟する原因になったとすれば、この同盟の最初の犠牲者は誰だったのか?それは大陸のブルジョワジー自身だった。6月の敗北は、大陸のブルジョワジーがその支配を確立し、人民を、半ば満足で半ば不満のまま、ブルジョワ革命の最低の段階にとどめ置くことを妨げたんだ。

最後に、6月の敗北はヨーローッパの専制的列強諸国に、フランスは国内で内戦を行うことができるには、国外では如何なる代償を払っても平和を維持しなければならないという秘密を暴露した。こうして民族独立の闘いを開始した人民は、ロシア、オーストリア、プロシアの強大な権力に引き渡されたが、同時にこうした国民革命の運命はプロレタリア革命の運命に従うものとなり、その外見上の自主性、大社会革命の独立性を奪い取られた。労働者が奴隷のままであるかぎり、ハンガリー人もポーランド人もイタリア人も自由ではありえないんだ!

ついには、神聖同盟の勝利とともに、ヨーロッパはフランスにおけるどんな新しいプロレタリア反乱も世界戦争と同時に起こるような状態になった。新しいフランス革命は直ちに国土を捨て去って、ヨーロッパ全土を征服するだろう。その上でだけ、19世紀の社会革命は完成することができるんだ。

こうして、6月の敗北だけが、フランスがヨーロッパ革命の主導権を握ることができるすべての条件を作りだした。6月の反乱者の血に浸されてはじめて、三色旗はヨーロッパ革命の旗--赤旗となったんだ。

そして僕らは叫ぶ。革命は死んだ!革命よ永遠なれ!と。

http://page.freett.com/rionag/marx/CSF2.html
フランスにおける階級闘争 第2部
[トップへ] [目次] [前へ] [次へ]

第2部 1848年6月から1849年6月13日まで

1848年2月25日はフランスに共和制をもたらしたが、6月25日はフランスに革命を強制した。そして革命は、2月以前は政府形態の転覆を意味していたのに、6月以後はブルジョワ社会の転覆を意味した。

6月の戦闘はブルジョワジーの共和主義的分派が指導したので、勝利とともに政治権力は必然的にその取り分となったんだ。戒厳状態により、さるぐつわを噛まされたパリは彼らの足元に無抵抗となり、地方では道徳的戒厳状態が支配し、ブルジョワジーは威嚇的で残忍に勝利におごり昂ぶり、農民は野放しに財産熱に狂奔していた。だから、下からの危険は全くなかったんだ。

労働者の革命的な力の崩壊は同時に民主的共和派、すなわちプチ・ブルジョワジーの意味での共和派の崩壊であった。それは、執行委員会ではルドリュ-ロランが代表し、憲法制定国民議会では山岳党が代表し、新聞では「レフォルム」が代表していたものだった。ブルジョワ共和派と共に彼らは4月16日にプロレタリアートに対して陰謀を企て、6月事件でもブルジョワ共和派と共にプロレタリアートと戦った。プチ・ブルジョワジーはその背後にプロレタリアートがいるかぎりでだけ、ブルジョワジーに対して革命的態度を維持できるのだから、その背景があってこそ一勢力として人目を引いていたのに、こうして彼らはその背景を自分自身で吹き飛ばしたんだ。プロレタリアは退散した。ブルジョワ共和派は、臨時政府と執行委員会の時代にはしぶしぶと心のうちでは留保つきでプチ・ブルジョワ共和派と結んでいた見せかけの同盟を、公然と破棄した。同盟者としては鼻であしらわれ、追い払われながら、彼らは三色旗派の卑屈な取り巻きにまで落ちぶれた。彼らは三色旗派から何の譲歩も引き出せなかったが、三色旗派が、そしてそれと共に共和制が、反共和主義ブルジョワジー分派によって危機にさらされていると思われるといつも、三色旗派の支配を支援しなければならなかった。最後に、これら反共和主義分派、オルレアン派と正統王朝派は、最初から憲法制定国民議会の少数派だった。6月事件の前は、彼らが敢えて対応するにも、ブルジョワ共和主義の仮面を被るしかなかった。6月の勝利のおかげで、一瞬だけブルジョワのフランス全体がカヴェニャックに自分たちの救い主を感じとった。それで6月事件直後に、反共和主義政党がその独立を取り戻したときも、軍事独裁とパリの戒厳状態のせいで、彼らはすごく臆病に用心しながらしか、その触角を出せなかったんだ。

1830年以来、ブルジョワ共和主義分派の著述家、代弁者、才能と野心のある連中、代議士、将軍、銀行家、弁護士は、パリの新聞「ナシオナル」のまわりに結集していた。この新聞は地方にも地方新聞を持ってたんだ。「ナシオナル」の常連たちが三色旗共和制の王朝だった。そいつらが今や空席となった国家公職--閣僚、警視総監、郵政長官、知事、軍の高級将校の地位--を直ちに手にいれた。執行権力の頂点には連中の将軍カヴェニャックが立っていた。連中の編集長マラストは憲法制定国民議会の常任議長となった。同時に彼は司会役として、自分のサロンで、まともな共和制の栄誉を讃えた。

革命的なフランスの著述家たちでさえ、かつてのように、共和主義的伝統を畏敬して、王党派が憲法制定国民議会を支配していたという誤った信念を強調してきた。実際は反対に、6月事件後は憲法制定公民議会は依然として専らブルジョワ共和主義を代表していた。そして、議会の外で三色旗共和主義の影響力が崩れ去るにつれて、この側面はますますはっきりと強調されたんだ。問題がブルジョワ共和制の形式の維持についてなら、議会は自由裁量で民主的共和主義者から得票したが、問題ががその内容についてとなると、話ぶりさえ王党派のブルジョワ分派ともはや区別がつかなくなったんだ。なぜって、ブルジョワジーの利害、その階級支配と階級搾取こそが、ブルジョワ共和制の内容をなしてたんだから。

この最後は死んだのでも殺されたのでもなく、腐ってしまった憲法制定議会の生涯と業績の中で実現されたのは、このように王党主義ではなくブルジョワ共和主義だったんだ。

憲法制定議会が支配してた全期間にわたり、それが前舞台で国家という荘厳な出し物を演じていたあいだ中、舞台の背後では途切れること無く犠牲祭が上演されていた。つまりひっきりなしに軍事法廷は捕らえられた6月反乱者に判決を言い渡し、あるいは審理もなしに国外に追放したんだ。憲法制定議会は、6月反乱者の場合は犯罪者を裁いているのではなく、敵を一掃しているんだいうことを、認めるくらいの機転は持っていた。

憲法制定国民議会の最初の行為は、6月および5月15日の事件、およびその時期の社会主義的ならびに民主的政党の指導者の果たした役割を調査する委員会を設置することだった。その調査の直接の狙いはルイ・ブラン、ルドリュ-ロラン、コシディエールだった。ブルジョワ共和主義者はこのライバルたちを除きたくて、苛立っていたんだ。彼らがうっぷん晴らしを任せるには、オディロン・バロ氏ほどの適任者はいなかった。こいつは王党反対派の前主席で、自由主義の化身、真面目ぶった無能者、徹頭徹尾浅薄な奴で、王朝のために復讐するだけでなく、自分が首相になるのを妨げたというので、革命家に仕返しせずにはいられなかった男なんだ。これが彼は情け容赦無いことの確かな保証だ。だから、このバロが調査委員会議長に任命されたんだ。そこで彼は2月革命に対する完全な訴状を作り上げた。それは要約すると次のようなものである。3月17日デモ、4月16日陰謀、5月15日襲撃、6月23日内乱!彼はなぜ、その博覧強記の犯罪学的調査の手を2月24日にまで伸ばさなかったんだろう?「ジュルナル・デ・デバ」紙は調査した。その結果は、すなわちその日はローマの建国の日にあたるからというんだ。国家の起源は神話のなかに消え去る。神話は信じるものであって、論議するものではないんだ。ルイ・ブランとコシディエールは法廷に引き渡された。国民議会は5月15日に着手した自分自身の浄化という作業を完了した。

臨時政府が作り、グショーが再び取り上げた、抵当権課税の形での資本課税案は、憲法制定議会で否決された。一日の労働時間を10時間に制限する法律は、はねつけられた。負債拘留はもう一度導入された。フランス人の大部分である読み書きのできない者は陪審員の任務から排除された。なぜ選挙権から排除しなかったのか?新聞は再び保証金を預けなければならなかった。結社の権利は制限された。

6月事件のとき、パリのプチ・ブルジョワ--カフェやレストランの主人、居酒屋店主、小商人、小売店主、手職人等々--ほど熱狂的に財産の保全と信用の回復のために戦った者はなかった。小売店主たちは団結してバリケードに向かって行進し、通りから店にはいる交通を回復しようとした。でも、バリケードのかげにはお客と債務者が立っており、バリケードの手前には店の債権者がいた。で、バリケードは打ち倒され、労働者は粉砕されて、勝利に酔った店主が急いで店に戻ってみると、財産の救い主、債権の公式代理人が入口を塞ぎ、脅しの通告を手渡したんだ。不渡りの約束手形!支払い日を過ぎた家賃!支払い期限を過ぎた借用書!破滅した店!破滅した店主!

財産の保全!でも彼らが住んでいる家はその財産ではなかった。彼らが営んできた店はその財産ではなかった。彼らが扱ってきた商品はその財産ではなかった。彼らの商売も、彼らが食事をとる皿も、彼らが眠るベッドも、もう彼らのものではなかったんだ。財産を保全しなければならなかったのは、まさに彼らからだったいうわけなんだ。家を貸している家主のために、約束手形を割り引いた銀行家のために、現金を前貸しした資本家のために、これら小売商人に商品販売を委託した製造業者のために、これら手職人に原料を信用貸しした卸売業者のために。信用の回復!でも信用は再び強さを取り戻し、自分が力強く嫉妬深い神であることを示したんだ。信用は支払いができない債務者を妻子もろとも部屋から追いたて、彼の見せかけだけの財産を資本に引き渡し、債務者自身を債務監獄に投げ込んだ。この監獄は、6月の反乱者の死体のうえに再び威嚇するようにその頭を持ち上げていたんだ。

プチ・ブルジョワが怖きながら知ったことは、労働者を打ち倒したことで、自分たちが抵抗することもないまま、債権者の手にに引き渡されたことだった。プチ・ブルジョワの破産は、2月以来慢性的にだらだら進行し、表面上は見過ごされてきたのだが、6月以降はおおっぴらに宣告されたんだ。

プチ・ブルジョワを財産の名の下に戦場に駆り出すことが重要であった間は、彼らの名ばかりの財産は激しく責めたてられることもなかった。今やプロレタリアートとの大問題が片付いたので、今度は食料品屋のささいな問題も片付けることができるようになったんだ。パリでは支払い期限を過ぎた手形が2千百万フラン以上にのぼり、地方でも百万フランを超えた。7千のパリの事業所の経営者が2月以来家賃を支払っていなかった。

国民議会は政治的犯罪の調査を2月に遡って実施したが、今度はプチ・ブルジョワが2月24日時点での民事負債の調査を要求した。彼らは大勢で証券取引所のホールに集まり、支払い不能が専ら革命が引き起こした不景気によるもので、2月24日時点では商売が順調であったと証明できる商売人を代表して、商事裁判所の命令で支払い期間を延長すること、適当な割合での支払いによって債権者の支払い要求を強制的に放棄させることを、脅迫するようにして要求したんだ。法案としては、この問題は国民議会で和解協約という形で取り扱われた。議会は動揺したが、そのとき突然、同じ時に反乱者の妻と子供数千人がサン・ドニ門で恩赦請願の準備をしているという知らせがはいった。

6月の亡霊がよみがえったので、プチ・ブルジョワは震え上がり、国民議会は冷酷さを取り戻した。和解協約、この債務者と債権者との和解解決策は、もっとも本質的な点を否決された。

こうして、国民議会内でプチ・ブルジョワの民主主義的代表がブルジョワの共和主義的代表に撃退されてずいぶんたってから、この議会内の仲間割れは、債務者であるプチ・ブルジョワが債権者であるブルジョワに引き渡されるという、ブルジョワ的な、現実経済的な意味を得たんだ。プチ・ブルジョワの大部分はすっかり没落し、残った者たちも、資本の完全な奴隷になるという条件でだけその商売を続けることができたんだ。1848年8月22日には国民議会は和解協約を否決した。1848年9月19日には、戒厳状態の最中にルイ・ボナパルト公とヴァンセンヌの囚人で共産主義者のラスペーユがパリの代議士に選出された。一方ブルジョワジーは高利の両替商でオルレアン派のフルドを選出した。つまりすべての側から同時に、憲法制定国民議会に対して、ブルジョワ共和主義に対して、カヴェニャックに対して宣戦布告したんだ。

パリのプチ・ブルジョワの大量破産が、その直接の犠牲の範囲をはるかに超えた余波を生じ、またしてもブルジョワ的商業を震憾させたこと、その一方で、国家の欠損が6月反乱の出費でさらにふくれ上がり、また国家収入が、生産の停滞、消費の制限、輸入の減少によって落ち込んだことを示すのに議論の余地なんかないだろう。カヴェニャックと国民議会は新たな借入れ以外に頼る手段がなかったが、それでさらにいっそう金融貴族の隷属することになった。

プチ・ブルジョワは裁判所の命令による破産と清算という6月の勝利の果実を得たが、一方カヴェニャックの親衛隊である機動警備軍の褒美は娼婦の柔らかい腕だった。そして「社会の若い救い手」である機動警備軍は、まっとうな共和国の主人役と吟遊詩人の二役を同時に演じた三色旗の騎士、マラストのサロンでありとあらゆる敬意を受けたんだ。そうしているうちに、機動警備軍への社会的えこひいきと不相応な高給に、軍隊は苦々しい思いを募らせ、一方ではルイ・フィリップ治下で、ブルジョワ共和主義が、その新聞「ナシオナル」を通じて振りまき、軍隊や農民階級の一部を惹きつけてきた社会的幻想は、すべて一度に消え失せてしまった。カンヴェニャックと国民議会が北イタリアで、イギリスと共同して、この地域をオーストリアに売り渡すのに果たした仲介役--統治下のこの一日が「ナシオナル」が果たしてきた18年にわたる反対派という地位を無に帰したんだ。「ナシオナル」の政府ほど国民的でない政府はなかったし、イギリスに依存した政府はなかった。そして、ルイ・フィリップ時代には「ナシオナル」はカトーの格言「カルタゴは絶滅すべし」を日々言い替えて生き延びてきたのに、この政府ほど神聖同盟にへつらったものはなかった。しかも、「ナシオナル」はかつてはギゾーのようなやつにウィーン条約破棄を要求していたんだ。歴史の皮肉から、「ナシオナル」の前外交問題編集者バスティードがフランスの外務大臣となり、自分の記事の一つ一つを自分の急報文書で反駁してまわるはめになった。

しばらくの間、軍隊と農民階級は、軍事独裁と同時に、フランスにふさわしく対外戦争がはじまり栄光がもたらされるのだと信じていた。ところが、カヴェニャクはブルジョワに対する剣の独裁ではなく、剣によるブルジョワの独裁だった。そこで必要な兵士は憲兵だけだった。カヴェニャックは、その古くさい共和主義に忍従した厳しい顔つきの下に隠れて、そのブルジョワ的職務の卑屈な条件を退屈そうに甘受していた。お金は主人を持たない!カヴェニャックも、またおおむね憲法制定議会も、この古い第三階級の選挙スローガンを、ブルジョワジーは王を持たない、その支配の真の姿は共和制だという政治的言葉に翻訳して、理想化したんだ。

そして憲法制定国民議会の「偉大な組織的作業」とは、この形態を仕上げること、共和主義憲法をつくることだった。キリスト暦を共和暦に改名し、聖バーソロミューを聖ロベスピエールに改名しても風や天候になんの変化も生じなかったと同じように、この憲法がブルジョワ社会を変えることはなかったし、変えるはずもなかった。憲法が衣装を取り換えることだけに留まらなかった点は、現実にある事実を記録したことだ。こうして憲法は共和制という事実、普通選挙権という事実、二つの制限された立憲議院にかわる単一の最高権をもつ国民議会という事実を、厳かに記録したんだ。こうして憲法は、不動で責任の無い世襲王制を、変わりやすく責任のある選挙王制、つまり任期4年制の大統領制に置き換えることで、カヴェニャックの独裁という事実を記録し法制化したんだ。こうして憲法は、国民議会が5月15日と6月25日の恐怖を味わった後に自分自身の保安のために慎重に大統領に付与した非常特権という事実を、基本法にまで持ち上げた。憲法制定で残ったのは術語上の作業だった。古い王制の機構から王党派的ラベルは剥され、共和主義的ラベルが貼り付けられた。以前の「ナシオナル」の編集長で、今や憲法の編集長となったマラストは、この学術的な作業を、そこそこの手腕で、やってのけた。

地下の鳴動がまさに足もとで土地を吹き飛ばす火山の噴火を告げていた時に、土地の所有関係をもっと確実に統制しようと地籍調査をしていたチリの役人がいたというが、憲法制定議会はこのチリの役人に似ていた。理論上は憲法制定議会はまちがいなくブルジョワジーの支配を共和主義的に表現する形式を確定したが、現実にはあらゆる打開策の廃止によって、簡単に言えば強制力によって、つまり戒厳状態によってだけ自分を維持していたんだ。議会は憲法制定作業にはいる2日前に戒厳状態の延長を宣言した。以前は、革命の社会的過程が休止点に到達し、新しく形成された階級関係が確立して、支配階級の対立しあう分派が妥協点を頼みに、互いに闘争を続けながらも力尽きた人民大衆を支配から排除しておけるようになるとすぐに、憲法が作られ採用されたものなんだ。しかしこの憲法は、それとは反対に、まったく社会革命を認定したものではなく、むしろ革命に対する旧社会の一時的勝利を認定したものだった。

6月事件以前に作られた憲法の第1次草案にはまだ労働の権利が含まれていた。これはプロレタリアートの革命的な要求を要約した、最初の不器用な方策だった。それが公的扶助の権利に変えられたが、何らかの形で貧困者を扶養しない近代国家などあるんだろうか?労働の権利は、ブルジョワ的意味では、不条理なもの、みじめで非現実的な望みなんだ。しかし労働の権利の背後には資本に対する支配力があり、資本に対する支配力の背後には生産手段の専有が、つまり生産手段を団結した労働者階級の支配下におくことが、したがって賃労働と資本およびその相互関係の廃止がある。「労働の権利」の背後には6月反乱があったんだ。憲法制定議会は革命的プロレタリアートを事実上法の埓外に置いたが、原理としてプロレタリアートの方策を、法の中の法である憲法から排除しなければならなかった。つまり「労働の権利」に破門を言い渡さなければならなかったんだ。だがそれにとどまったわけではない。プラトンがその共和国から詩人を追放したように、議会はその共和国から累進税を永久追放した。とはいえ、累進税は現存の生産関係の範囲内で多少なりとも実施できるブルジョワ的手段だっただけでなく、ブルジョワ社会の中間層を「まっとうな」共和主義に縛り付け、国家負債を減らし、反共和主義的なブルジョワジー多数派を牽制する唯一の手段でもあったんだ。

和解協約に関しては、三色旗共和主義者は実際上プチ・ブルジョワジーを大ブルジョワジーの犠牲とした。彼らはこの一度きりの事実を、累進税の法的禁止によって原則にまで持ち上げたんだ。彼らはブルジョワ的改革をプロレタリア革命と同列に置いた。だがそれでは、どの階級が彼らの共和国の大黒柱として残るのだろうか?大ブルジョワジーだ。だが大ブルジョワジーの大多数は反共和主義者だった。彼らは「ナシオナル」の共和主義者を、古い経済生活関係を再び強固にするためにこき使ったが、一方ではこの再度強固になった社会関係を、これに対応する政治形態を復活させるのに利用しようと考えた。早くも10月初めには、カヴェニャックはルイ・フィリップの前大臣だったデュフォールとヴィヴィアンを共和国の大臣にせざるをえないと感じていた。自分の党の脳なしの潔癖家は不平をいったり、怒鳴りつけたりしたんだが。

三色旗憲法はプチ・ブルジョワジーとのどんな妥協も拒み、新しい政府形態に新しい社会要素まったく付け加えることができなかったのに、一方では、あわてて古い国家のもっとも頑固で小うるさく、狂信的な擁護者から構成された団体に、伝統的な不可侵性を取り戻そうとした。憲法は、臨時政府が問題視していた判事を罷免できないことを、基本法に持ち上げた。憲法が退位させた一人の王は、これら罷免できない適法性についての審問官として再び何十という数で甦った。

フランスの新聞は、多方面からマラスト氏の憲法の矛盾、たとえば、国民議会と大統領という二つの主権者が並存している点等々を分析した。

しかし、この憲法の包括的な矛盾は次の点なんだ。それは、憲法が社会的奴隷状態を永続化しようとしている諸階級--プロレタリアート、農民、プチ・ブルジョワジーに普通選挙権によって政治権力を持たせていることだ。また、この憲法は、旧来からの社会権力を是認している階級、すなわちブルジョワジーからは、その権力の社会的保障を奪ってるんだ。この憲法はブルジョワジーの政治的支配を民主主義的な条件の中に押し込めたが、こうした条件はいつでも、敵対階級が勝利しブルジョワ社会の基盤そのものを脅かすことを助長するんだ。憲法は、最初のグループには政治的解放が社会的解放へと進まないよう求め、もう一方のグループには社会的復古から政治的復古にまで戻らないよう求めたんだ。

こうした矛盾でブルジョワ共和主義者が狼狽することは、ほとんどなかった。ブルジョワ共和主義者が欠くことのできないものであるのをやめ、そしてただ単に革命的プロレタリアートに対する旧社会の対抗者としてだけ不可欠の存在となるにつれ、その勝利の数週間後には、政党の地位から同人仲間の地位にまで転落した。そしてブルジョワ共和主義者は憲法を大きな陰謀として扱ったんだ。彼らが憲法で制定しようとしたのは、なによりもまず、この同人仲間の支配なんだ。大統領は引き延ばされたカヴェニャックで、立法議会は引き延ばされた憲法制定議会となるはずだった。彼らは人民大衆の政治的権力を見かけだけの権力に縮小し、またこのまがいものの権力をうまくあやつって、絶えずブルジョワジー多数派が6月事件のディレンマ、すなわち「ナシオナル」の王国か無政府の王国かというディレンマに陥いったままにしておくことがことができたらと望んでいた。

憲法制定の作業は9月4日に始まり、10月23日には終了した。9月2日に憲法制定議会は憲法を補足する基本法が制定されるまでは解散しないと決議した。にもかかわらず、憲法制定議会の活動が一巡し終るずっと前の12月4日には、そのもっとも独特な創造物である大統領を出現させることに決めた。それほど確かに憲法のホムンクルスは、母親の息子だと認めていたんだ。予防措置として、2百万票を獲得した立候補者がいなければ、選挙は国民から議会の手に移るものとされていた。

無駄な措置だった!憲法が実施された最初の日は、憲法制定議会が支配する最後の日となった。投票箱の奥底には死刑判決が入っていた。憲法制定議会は「母親の息子」を探していて、見つけたのは「叔父の甥っ子」だったんだ。サウルのカヴェニャックは百万票を得た。だがダビデのナポレオンは6百万票を獲得した。サウルのカヴェニャックは6倍以上の差で打ち負かされたんだ。

1848年12月10日は農民反乱の日だった。この日からはじめてフランス農民の2月が始まったんだ。農民が革命運動に参加したことを表しているしるし、すなわち不器用な狡猾さ、無頼な素朴さ、間の抜けた尊大さ、計算ずくの迷信、痛ましい茶番、巧妙だが愚かしい時代錯誤、世界史的な悪ふざけ、文明人の理解力では判読できない象形文字--こういうしるしは文明の中の野蛮を代表する階級の人相をまぎれもなく表していた。共和制は自身を徴税人でもって農民階級に知らせたんだが、農民階級は自身を皇帝でもって共和制に知らせた。ナポレオンは、1789年に新たに生まれた、農民階級の利害と想像力を余すことなく体現した唯一の人物だった。共和制の正面にナポレオンの名前を書き付けることで、農民階級は外国には戦争を、国内にはその階級利害の貫徹を宣言したんだ。農民にとってはナポレオンは人物ではなくて綱領なんだ。旗をおし立て、太鼓を打ちラッパを吹きならして、彼らは投票所へと行進し叫んだ。税金はもうたくさん、金持ちをやっつけろ、共和制をやっつけろ、皇帝万歳!と。皇帝のうしろには農民戦争がひそんでいたんだ。農民が選挙で倒した共和制は金持ちの共和制だった。

12月10日は現存の政府を打倒した農民のクーデタだった。農民がフランスから一つの政府を奪い去り、一つの政府を与えたこの日以来、農民の目はじっとパリを見据えていた。一瞬の間革命劇の活動的なヒーローとなり、もはや農民を不活発で根性なしの合唱隊へと押し戻すことはできなかった。

その他の階級も、農民の選挙での勝利が完全なものとなるのを助けた。プロレタリアートにとって、ナポレオンの選出とは、カヴェニャックの免職、憲法制定議会の転覆、ブルジョワ共和主義の棄却、6月の勝利の終了という意味だった。プチ・ブルジョワジーにとっては、ナポレオンは債権者に対する債務者の支配を意味した。大ブルジョワジーの多数派にとっては、ナポレオンの選出は、しばらくの間革命に対抗するのに利用したが、その一時的地位を憲法上の地位に固定しょうとしたとたん我慢できないものになったブルジョワ分派と公然と決裂することを意味した。この多数派にとって、カヴェニャックのかわりにナポレオンというのは、共和制のかわりに王制、王制復古の始まり、意味ありげにオルレアン朝をほのめかすこと、スミレのかげのユリを意味した。最後に、軍隊は機動警備軍に対抗し、平和なのどかさに反対し、戦争に賛成してナポレオンに票を投じたんだ。

こうして新ライン新聞が言ったように、フランス中でもっとも単純な頭の男が、もっとも多種多様な意味を持つことになった。この男は何者でもなかったので、自分以外のすべてのものを意味することができた。一方で、いろいろな階級が口にするナポレオンという名前の意味が様々に違っていようと、投票用紙にこの名前を書くと言うことは、「ナシオナル」の党を倒せ、カヴェニャックを倒せ、憲法制定議会を倒せ、ブルジョワ共和制を倒せと言うことだったんだ。大臣デュフォールは憲法制定議会で公然と、12月10日は第二の2月24日だと明言した。

プチ・ブルジョワジーとプロレタリアートは、カヴェニャックに反対投票し、またその投票をまとめて、憲法制定議会から最終決定権をもぎとるために、一団となってナポレオンに投票した。といっても、この二つの階級のもっと進歩的な層は独自の候補を立てたんだが。ナポレオンは、ブルジョワ共和制に反対して連合したすべての党派の集合名詞だった。だが、ルドリュ-ロランとラスぺーユは、前者は民主主義的プチ・ブルジョワジーの、後者は革命的プロレタリアートの固有名詞だった。ラスペーユへの投票は、プロレタリアやその社会主義的代弁者が大声でそれを言っていたんだけど、その票数分があらゆる大統領制への抗議、すなわち憲法そのものへの抗議なんだ、その票数だけルドリュ-ロランに反対なんだという単なる示威活動だった。これがプロレタリアートが、独立した政党として、民主主義的政党から分離したことを宣言した最初の行動だったんだ。一方この民主主義的政党、つまり民主主義的プチ・ブルジョワジーとその国会での代表である山岳党[6]は、ルドリュ-ロランの立候補を大真面目で取り扱った。彼らは大真面目にやることで、もったいぶって自己欺瞞する癖があるんだ。それ以後、これが独立した政党として、プロレタリアートに対抗して行った最後の試みだった。共和主義的ブルジョワ政党だけでなく、民主主義的プチ・ブルジョワジーとその山岳党も、12月10日に打ち負かされた。

フランスは今や山岳党とならんでナポレオンまで持つことになったが、このどちらも、そいつらが名を借りてきた偉大な本ものの生気の無い戯画にすぎないという証拠もあがったんだ。皇帝帽をかぶり鷲の印をつけたルイ・ナポレオンは昔のナポレオンのみじめなもじりだが、1793年から借りた文句を使い、煽動家の恰好をした山岳党も同じように昔の山岳党のみじめなもじりだった。こうして伝統的な1793年の迷信が剥ぎ取られると同時に、伝統的なナポレオンの迷信も剥ぎ取られたんだ。革命はそれ自身の本来の名前を勝ち取ったときだけ、その真価を発揮するんだし、現代の革命的階級、産業プロレタリアートが優位にたって革命の前面に現れたときだけ、革命はそうなることができるんだ。12月10日は、人を馬鹿にした農民の冗談で古い革命の古典的な類似性が大笑いのうちに突然打ちきりになった日というだけでも、山岳党は言葉も出ないほど驚き、分別を失ったと言えるんだ。

12月20日にカヴェニャックはその職を退き、憲法制定議会はルイ・ナポレオンを共和国大統領と宣言した。12月19日、その単独支配の最後の日に、憲法制定議会は6月反乱者の大赦動議を否決した。判決なしに1万5千人の反乱者を国外追放に処した6月27日の布告を無効にすることは、6月の戦闘そのものを無効にするという意味になるのでないか?というんだ。

ルイ・フィリップ最後の大臣オディロン・バロがルイ・ナポレオンの最初の大臣になった。ルイ・ナポレオンは、自分の支配を12月10日からではなく、1804年の元老院布告から起算したように、その内閣を12月20日からではなく2月24日の勅令から起算する総理大臣を見つけ出した。ルイ・フィリップの正統の継承者として、ルイ・ナポレオンは古い内閣を温存することで、政体の変化を緩和しようとしたんだ。この内閣は、そのうえ使い古しになるほど時間を経てなかった。なぜって、それは生まれて何かにとりかかるだけの時間もなかったんだから。

王党派のブルジョワ分派の指導者どもが、ナポレオンにこの人選を進言したんだ。この古い王朝派的反対派の党首は、無意識に「ナシオナル」の共和派への移行に関与したが、完全に意識してブルジョワ共和制から君主制への移行に関与するほうが、ずうっと適役というもんだ。

オディロン・バロは、いつも大臣の椅子を争って無駄な努力をしていたが、まだ疲れ果ててはいない、一つの古い反対派政党の党首だった。矢つぎばやに革命はすべての古い反対派政党を国家の頂点に投げ上げ、そうすることで自分たちの過去の文句を、行動だけでなく言葉によってさえ否定し否認しなければならくなり、最後には人民により歴史の糞だめに一緒くたに投げ込まれ、結合して胸の悪くなるような混合物と化したんだ。そしてこのバロ、このブルジョワ自由主義の化身、18年間にわたり精神の恥知らずな愚鈍さを肉体のもったいぶった態度の陰に隠してきた男が、やらなかった背信行為はなかった。ときに現在のアザミと過去の月桂樹とのあまりの違いに自分自身驚くことがあっても、鏡をちょっとみれば、大臣らしい落ち着きと人間らしいうぬぼれを取り戻せた。鏡の中から彼を照らし出していたのはギゾー、バロがいつも羨み、いつもバロを屈伏させてきたギゾーその人、だがオディロンのオリュンポスの神のような額をしたギゾーだった。バロが見過ごしたのはマイダス王の耳だったんだ。

2月24日のバロは、12月20日のバロではじめて明らかになった。オルレアン派でヴォルテール主義者のバロと組んだのは、正統王朝派でジェズイットの文部大臣ファローだった。

数日後、内務大臣職がマルサス主義者のレオン・フォーシュに与えられた。法律、宗教そして政治経済学!バロ内閣はこのすべてを含んでおり、加えて正統王朝派とオルレアン派の連合体でもあった。ただボナパルト派だけが欠けていたんだ。ボナパルトはナポレオンたらんとする熱望をまだ隠したままだった。というのもスルークはまだトゥサン・ルヴェルチュールの役を演じてなかったからだ。

「ナシオナル」の一党はすぐに、これまで占めてきた高級役職を解任された。警視総監、郵政長官、検視総監、パリ市長は以前の王制の手下どもに占められた。正統王朝派のシャンガルニエはセーヌ県国民軍、機動警備軍、正規軍第1師団の統合最高指令部を受け持った。オルレアン派のビュジョーはアルプス軍最高指令官に任命された。こういう役職の変更はバロ政権のもとでは中断されることなく続いた。バロ内閣が最初にやったのは、昔の王制期の行政機関の復活だった。公務の場面はすぐにかわった。舞台装置も、衣装も、台詞も、役者も、エキストラも、だんまり役者も、プロンプターも、政党の位置も、劇のテーマも、葛藤の内容も、場面全体がかわったんだ。ただ世界の創造以前からある憲法制定議会だけがもとからの位置に留まったままだった。だが国民議会がボナパルト、ボナパルト=バロ、バロ=シャンガルニエを任命したときから、フランスは共和主義的憲法の時代から制定された共和制に時代へと足を踏み出したんだ。じゃあ、制定された共和制では、憲法制定議会はどこに身を置けばいいのか?大地が創造された後では、その創造者にはどんな場所もなくて天上に逃げ込むしかないんだ。憲法制定議会はその前例にならうと決まったわけではなかった。国民議会はブルジョワ共和主義者の党の最後の聖域だった。執行権力のレバーがすべて議会の手から奪いとられれば、議会から憲法を制定する全能の力が失われるんだ。議会の最初の考えは、それまで占めてきた主権者の地位を維持し、そこから失地を回復しようというものだった。バロ内閣を「ナシオナル」派の内閣に置き換えてしまえば、すぐに王党派のやつらは行政府を明け渡し、三色旗派の連中が意気ようようと返り咲くだろうというんだ。国民議会は内閣を転覆しようと決意したが、内閣そのものが攻撃の機会を差し出した。それは憲法制定議会がでっちあげようとしたのよりずっとましなものだった。

農民にとってルイ・ボナパルトは「もう税金はまっぴら!」という意味だったことを思い出して欲しい。ボナパルトは大統領に椅子に6日間すわり、そして7日目の12月27日、彼の内閣は塩税の温存を提案した。この税の廃止は臨時政府が布告していたんだ。塩税はブドウ酒税とともに、古いフランスの財政制度のスケープゴートであるという名誉を分けあっていた。特に田舎の連中の目にはそう映っていたんだ。バロ内閣が農民が選出した人の口から吐かせるには、塩税の復活!という言葉ほどその選挙民についての皮肉のキツイ風刺はなかった。塩税とともに、ボナパルトは革命の塩を失ったんだ。つまり農民反乱のナポレオンは幻のように消え失せ、王党派ブルジョワの陰謀という大いなる未知のものだけが残ったというわけだ。で、バロ内閣が意図もなしに、この無神経なほど粗雑な幻想破壊の法令を大統領の最初の政府法令にしたわけではなかろう。

憲法制定議会は、それとしては、しきりに内閣を転覆する二重の機会を捕らえようとしており、農民の選んだ候補者に対抗して、自分たちが農民の利害の代表者になろうとした。議会は大蔵大臣の議案を否決し、塩税を以前の額の3分の1に減税し、そうすることで国家負債を6千万増やして5億6千万にし、この不信任投票の後は静かに内閣の辞職を待ったんだ。それほどまでにわずかしか、議会はとりまく新しい世界も自分の地位が変化したことも理解していなかった。内閣のうしろには大統領がいて、大統領のうしろには、多くが憲法制定議会への不信任票を投票箱に投じた6百万人がいた。憲法制定議会は国民に不信任票をお返しした。お馬鹿の応酬!議会はその投票にはもう法的裏付けがないことを忘れてた。塩税の否決によって、ボナパルトとその内閣が憲法制定議会を終りにする決断を固めただけのこととなった。憲法制定議会の後半生の全期間続く長い決闘が始まったんだ。1月29日、3月31日そして5月8日が、この危機の大きな事件の日であり、6月13日の先触れだった。

例えばルイ・ブランのようなフランス人は、1月29日を立憲制の矛盾、つまり普通選挙で生まれた主権をもち永続的な国民議会と、言葉の上では議会に責任を負うが、実際上はそれだけではなく、同じように普通選挙で支持された大統領との間の矛盾が吹き出した日だと解釈した。大統領はそれに加えて、百に分けられ国民議会の個々のメンバーに分散された全投票をその人格に統合しており、また全執行権力を完全に手中に収めていて、国民議会は単に道徳的力として、この権力を監視してるだけなんだ。1月29日をこんな風に解釈することは、演壇上や新聞紙上やクラブ内での闘争の言葉を闘争の実際の内容とごっちゃにしている。ルイ・ボナパルトが憲法制定国民議会に対抗しているということは、一つの一面的な立憲的権力が別の一面的権力に対抗しているということ、つまり執行権力が立法権力に対抗しているということではなかった。それは制定されたブルジョワ共和制自身がブルジョワジーの革命的分派の陰謀とイデオロギー的要求に対抗しているということだったんだ。この分派は共和制を樹立したのだが、今ではその制定された共和制が復活して王制のように見えることに気づいて驚いており、今や力ずくで憲法制定の期間を、その条件、その幻想、その言葉、その人物もろとも延長させたがっていて、成熟したブルジョワ共和制がその完成した独自の形式で出現するの防ごうとしていたんだ。憲法制定国民議会を代表していたのが、今は議会に逆戻りしてしまったカヴェニャックであったように、ボナパルトは、まだ彼と離縁していない立法国民議会、つまり制定されたブルジョワ共和制の国民議会を代表していた。

ボナパルトが選出されたことは、一つの名前の場所にその多様な意味が書き込まれ、その選出が新しい国民議会の選挙で繰り返されることによってだけ、説明可能なのもになることができた。古い国民議会の権限は12月10日の選挙で無効になった。こうして、1月29日に顔を突き合わせていたのは、同じ共和制の大統領と国民議会なのではなかった。それは出来上がろうとしている共和制の国民議会ともう出来上がっている共和制の大統領だった。つまりは共和制の生活過程の全くちがう時期を体現した二つの権力だったというわけなんだ。一方はブルジョワジーのうちの小さな共和主義分派で、彼らだけが共和制を宣言し、市街戦と恐怖政治で革命的プロレタリアートから共和制をもぎ取り、憲法の中に共和制の理想的な基本特徴を起草することができたんだ。もう一方はブルジョワジーのうちの全ての王党派的集団で、彼らだけがこの制定されたブルジョワ共和制を支配し、憲法からイデオロギー的飾りをはぎ取り、立法と統治によってプロレタリアートを服属させるのに不可欠の条件を実現できたんだ。

1月29日に起こった嵐は1月まる一ヵ月の間にその諸要素を集めていた。憲法制定議会は不信任投票でバロ内閣を辞職に追い込もうとしていた。一方では、バロ内閣は憲法制定議会に、自らに最終的な不信任票を投じて、自殺を決意し、自分自身の解散を命じたらどうだと提案した。1月6日には、無名議員の一人ラトーが内閣の命令で、憲法制定議会にこの動議を出した。だがこの議会は8月に憲法を補完する一連の基本法をすべて制定するまでは解散しないと決議していたんだ。内閣支持者のフロドは、無遠慮にも議会に向かって「混乱した信用を回復するために」議会の解散が必要なのだと宣言した。議会は臨時的な段階を引き延ばし、バロとともにボナパルトに異義を唱え、ボナパルトとともに制定された共和制に異義を唱えたとき、議会は信用を混乱させなかったのか?オリンポスの神であるバロは、共和主義者に10ヵ月もお預けを食ったあげくに、やっと転がり込んだ首相の職が、わずか2週間楽しんだだけで再び奪われそうなのを見て、狂えるローランとなった。バロは、この哀れな議会に対峙して、ひどい暴君ぶりを発揮した。彼の一番穏やかな言葉というのが「議会には未来はない。」というものなんだ。そして実際、議会は過去だけを代表していた。「議会は、共和制の地固めに必要な制度を共和制に提供する能力がない。」と彼は皮肉っぽく付け加えた。実際、無能なんだ!議会のプロレタリアートに対するひときわ激しい対立がなくなると同時に、議会のブルジョワ的エネルギーもついえたが、議会が王党派と対立するとともに、議会の共和主義的な活力も新たに甦ったんだ。こうして議会は、議会がもはや理解できなくなっているブルジョワ共和制を、対応する制度でブルジョワ共和制の地固めをすることは、2重の意味で不可能だった。

ラトーの動議と同時に、内閣は国中に請願の嵐を呼び起こし、憲法制定議会の頭上にはフランスの隅々から毎日、多かれ少なかれ頭ごなしに解散し遺言状を作るよう求める恋文が舞い込んだ。憲法制定議会のほうでも、議会の存続を求める反対請願を呼び起こした。ボナパルトとカヴェニャックの間の選挙合戦は、国民議会の解散の是非を問う請願合戦として復活したんだ。この請願は12月10日の遅ればせの論評というべきものだった。この世論喚起活動は1月中続いた。

憲法制定議会と大統領の間の衝突で、議会はその起源である総選挙にまで遡って引合いに出すことができなかった。というのは、抗議は議会から普通選挙権に向けられたものだったからなんだ。議会は規則に基づいて制定されて権力を根拠とすることができなかった。なぜかというと、合法的権力に対する闘争が問題だからだ。議会は1月6日と26日に再度試みたような、不信任投票によって内閣を倒すことができなかった。というのも内閣はその信任を問うてはいなかったんだ。たったひとつ可能性が残っていた。それは反乱だ。反乱の戦闘力は国民軍の共和主義者の部分、機動警備軍、革命的プロレタリアートの中心部分、それにクラブだ。6月事件の英雄だった機動警備軍は、12月にはブルジョワジーの共和主義分派の組織された戦闘力をなしていた。それはちょうど6月以前に国民作業場が革命的プロレタリアートの組織された戦闘力をなしていたのと同じである。憲法制定議会の執行委員会が、もはや我慢できなくなったプロレタリアートの要求を終らせなければならなくなったとき、国民作業場に残酷な攻撃を向けたの同じように、ボナパルトの内閣は、もはや我慢できなくなったブルジョワジーの共和主義分派の要求を終らせなければならなくなったとき、機動警部軍にその攻撃を向けたんだ。内閣は機動警部軍に解散を命じた。半数が首になって街頭に投げ出され、残り半数は民主主義的方針ではなく王制的方針で組織され、給料も正規軍の並みの給料にまで引き下げられた。機動警備軍は6月の反乱者と同じ位置にあることに気づき、連日、新聞には機動警備軍が6月事件での咎を認め、プロレタリアートにその許しを乞う公開の告白が掲載された。

ではクラブはどうなのか?憲法制定議会がバロに代って大統領に異義を唱え、大統領に代って制定されたブルジョワ共和制に異義を唱え、制定されたブルジョワ共和制に代ってブルジョワ共和制一般に異義を唱えたその瞬間から、2月革命の構成要素の全てが必然的に憲法制定議会のまわり集まってきた。つまり現存する共和制を打倒し、暴力で過程を逆行させて、それを自分たちの階級利害と原理に適った共和制へと変えようとする全ての政党が集まってきたんだ。炒り卵はかき混ぜる前の状態になり、革命運動の結晶体は再び液状となり、争奪の的である共和制は再び2月革命の時期の無規定な共和制になり、共和制をどう規定するかはそれぞれの政党に留保されたんだ。しばらくの間、政党は再び以前の2月の位置をしめたが、今度は2月の幻想を持ってはいなかった。「ナシオナル」の三色旗共和派は再び「レフォルム」の民主主義共和派を頼り、彼らを議会闘争の最前面に主役として押し出した。民主主義共和派は再び社会主義共和派を頼った。1月27日に公表綱領は彼らが和解し団結したことを告げたんだ。そして彼らはクラブで彼らの反乱の背景を準備していた。政府系新聞は正しくも「ナシオナル」の三色旗共和派を復活した6月反乱者として扱った。彼らはブルジョワ共和制の先頭にいることに固執して、ブルジョワ共和制そのものに異義を唱えたんだ。1月26日に大臣フォーシェは結社権についての法案を提出したが、その第1条には「クラブを禁止する。」とあった。彼はこの法案を直ちに緊急に討議するという動議を出した。憲法制定議会はこの動議を否決し、1月27日にはルドリュ-ロランが230人の署名を付けて、憲法違反により内閣を弾劾する提案を提出した。こうした行動が審判者すなわち議会の多数派の無力を無神経に暴露することになり、あるいはこの多数派そのものへの告発者の無力な抗議でしかないような時期に内閣を弾劾すること、これは当世の山岳党がこれ以降危機が頂点に達する度に出した革命の切札だった。哀れな山岳党!この党は自分の名前の重みで潰れてしまったんだ。

5月15日に、ブランキ、バルブ、ラスペーユたちが、パリ・プロレタリアートの先頭にたち、憲法制定議会の議場に無理矢理押し入って議会を粉砕しようとしたことがあった。バロは、同じ議会に自主的解散と議場閉鎖を申し渡したくなったとき、その議会に対し道徳的5月15日を用意したんだ。同じ議会が5月事件の被告に対する審問をバロに委任していたが、今やバロが議会の前に王党派のブランキ然として現れ、議会がバロに対抗しようとクラブや革命的プロレタリアートやブランキ党に同盟者を探し求めていたまさにその時、情け容赦のないバロは、5月事件の囚人を陪審法廷からはずして、「ナシオナル」の党が発案した高等法院に引き渡すという発議で議会を苦しめた。大臣職を追われるかもしれないという激しい恐怖が、どうやってバロみたいな奴の頭からボーマルシュに匹敵するような妙手をたたき出したのか驚くべきことだ。さんざん迷ったあげくに、国民議会は彼の発議を受け入れた。5月の襲撃犯にたいしたときは、議会もその正常な性格を取り戻したんだ。

憲法制定議会が大統領と内閣に対して反乱に駆り立てられたするなら、大統領と内閣は憲法制定議会に対してクーデタに駆り立てられた。なぜなら彼らには議会を解散する法的手段がまるでなかったのだから。だが憲法制定議会は憲法の母であり、憲法は大統領の母だった。クーデタによって、大統領は憲法を廃却し、その共和制的な法的資格も消してしまうことになる。そのときは帝制的な法的資格を引っ張り出すしかなくなるが、しかし帝制的な法的資格はオルレアン朝の法的資格を呼び起こし、このどちらの法的資格も正統王朝の法的資格の前では青ざめてしまう。オルレアン派の政党がまだ2月の敗者にすぎず、ボナパルトがまだ12月10日の勝者でしかなくて、この両者が共和派の簒奪に自分たちの同じように簒奪した王制的資格を対置するしかなかった瞬間には、合法的共和制の没落はそのまるっきりの正反対のもの、正統王朝派の王制を頂上に押し上げることしかできなかった。正統王朝派はこの瞬間の好機に気がついて、公然と陰謀を企てた。彼らはシャンガルニエ将軍が自分たちの僧侶であることを期待できた。プロレタリアのクラブでは赤色共和制が差し迫っていると公然と告知されていたように、正統王朝派のクラブでは白色王制が差し迫っていると公然と告知された。

巧い具合に鎮圧された暴動があれば、内閣はすべての困難から脱出できるだろう。「合法は我が死」とオディロン・バロは叫んだ。暴動が起これば、公共の安全を口実に、憲法制定議会を解散し、憲法自身を守るために憲法を侵害することができるだろう。国民議会でのオディロン・バロの粗暴な態度、クラブを解散する素振り、大騒動で50人の三色旗派の知事を罷免し王党派で置き換えたこと、機動警備軍の解散、シャンガルニエが機動警備軍の隊長を冷遇したこと、ギゾーのもとでさえ不可能だったレルミニェ教授の復職、正統王朝派の大言壮語の容認、こうしたことすべてが蜂起の挑発だった。しかし蜂起はなりをひそめたままだった。待っていたのは内閣からの合図ではなくて、憲法制定議会からの合図だったんだ。

ついに1月29日が来た。この日はラトーの動議の無条件否決を求めた(ドローム県選出の)マティュの動議が採決される日だった。正統王朝派も、オルレアン派も、ボナパルト派も、機動警備軍も、山岳党も、クラブも、この日はみんなお互いに、うわべの敵に対しても、うわべの同盟者に対しても、陰謀を企てていた。ボナパルトは馬に乗って、コンコルド広場で一部の軍隊の閲兵を行なったし、シャンガルニエは戦略作戦の演習をやって見せた。憲法制定議会は議事堂が軍によって占拠されたのを知った。すべての矛盾する希望、恐れ、期待、興奮、緊張、陰謀の中心であるこの議会、ライオンのように勇敢な議会は、今までで一番世界精神に近づいたその時、一瞬たりともひるみはしなかった。議会は、自分の武器を使うことを恐れるだけなく、対抗者の武器を壊さないでおくことに義務を感じる戦士のようだった。議会は死を笑いとばしながら、自分の死刑宣告に署名し、ラトーの動議の無条件否決案を否決した。議会は、自分自身が戒厳状態にあって、憲法制定活動を制限したんだ。この憲法制定活動はパリの戒厳状態という枠組を必要としていたのにね。議会は翌日、内閣が1月29日に議会を驚かせたことの調査を開始して、自分にふさわしいやり方で復讐した。この陰謀の大喜劇の中で、山岳党は「ナシオナル」の党に抗争の触れ役として使われることになってしまい、革命的エネルギーも政治的判断力もないことが明らかになった。「ナシオナル」の党は、ブルジョワ共和制が始まったばかりの時期に持っていた独占的支配権を、制定された共和制でも引続き維持しようという最後の試みを行なったんだ。その試みは座礁した。

1月危機には憲法制定議会の存続が問題となったが、3月21日の危機には憲法の存続が問題となった。1月には「ナシオナル」党の顔ぶれが問題だったのに、3月にはその理想が問題となったんだ。ご立派な共和主義者は、自分たちのイデオロギーの高揚感を、統治権力の世俗的享受よりも安値で手放したことは、指摘するまでもない。

3月21日には結社の権利に対抗するフォーシェの法案、クラブ禁止法案が国民議会の審議日程にのぼった。憲法第8条はすべてのフランス人に結社の権利を保証している。だからクラブの禁止は明らかな憲法違反だが、憲法制定議会自身はその最も神聖なものの冒涜を公認しようというんだ。だがクラブは革命的プロレタリアートの集結点であり、陰謀の拠点なんだ。国民議会自身がブルジョワジーに対抗する労働者の団結を禁じたことがあった。そしてクラブなるものは、全ブルジョワ階級に対抗する全労働者階級の団結、ブルジョワ国家に対抗する労働者国家の形成にほかならないのではないか?クラブはそれぞれがみなプロレタリアートの憲法制定議会であり、それぞれがみな戦闘準備の整った反乱部隊ではないのか?憲法が何をさておき制定すべきものは、ブルジョワジーの支配なんだ。だから憲法のいう結社の権利は、明らかにブルジョワジーの支配、すなわちブルジョワ的秩序と調和する結社のことだけを意味している。理論上の体裁から憲法が一般的な用語で表現されているとすれば、政府と国民議会は、特殊な場合に憲法を解釈し適用するために存在しているのではないのか?そして共和制の創始期にはクラブが戒厳状態で実質上は禁止されてたとすれば、秩序だった制定された共和制ではクラブを法律で禁止されるべきではないのか?三色旗共和派は、この憲法の散文的な解釈に対抗するには、憲法についての大げさな言葉遣いしか持ち合わせていなかった。三色旗共和派の一部、パニュエル、デュクレール等は内閣に賛成票を投じ、それによって内閣は多数票を得たんだ。大天使カヴェニャックと教父マラストに率いられた他の三色旗派は、クラブ禁止条項が通過したあと、ルドリュ-ロランと山岳党とともに、特別委員会室に退いて、「協議会を開いた。」国民議会は麻痺し、もはや定数割れに陥った。よい頃合でクレミュー議員が委員会室で、そこから道はまっすぐ街頭に続いており、いまはもはや1848年2月ではなく1849年3月なんだってことを思い出させたんだ。「ナシオナル」の党は突然納得がいって、国民議会議場に戻った。その背後では、山岳党がまたもや、かつがれた。山岳党はいつも革命熱に悩まされ、同時にいつも憲政の可能性をつかもうとしながら、未だに革命的プロレタリアートの前面に立つより、ブルジョワ共和主義者の背後にいる方が居心地がよかったんだ。こんなふうに喜劇は演じられた。そして憲法制定議会自身が、文字通りの憲法に違反することが憲法の精神を適切に実現する唯一のやり方だと布告したんだ。

処理しなければならない問題点として残っていたのは、制定された共和制のヨーロッパ革命に対する関係、つまりその外交政策だけとなった。1849年5月8日、異例の興奮が憲法制定議会を覆っていた。憲法制定議会の生存期間はあと数日で終るところに来ていた。フランス軍によるローマ攻撃、ローマ人によるその撃退、フランス軍の政治的不名誉と軍事的恥辱フランス共和国によるローマ共和国の卑劣な暗殺、つまりは2代目ボナパルトの第1回イタリア出征が審議日程にのぼっていた。山岳党はまたもや取っておきの切札を使った。ルドリュ-ロランは、憲法違反のかどでお定まりの内閣弾劾案を、そしてこの度はボナパルト弾劾案をも、大統領のテーブルに置いたんだ。

5月8日の動機は後に6月13日の動機として繰り返された。そこでローマ遠征について明らかにしておこう

早くも1848年11月の半ばには、カヴェニャックは教皇を保護し、船に乗せてフランスに連れてくために、チヴィッタ・ヴェッキアに戦艦隊を派遣した。教皇はご立派な共和国を聖化し、カヴェニャックの大統領当選を確実にしようというんだ。カヴェニャックは教皇で坊主を、坊主で農民を、農民で大統領職を釣り上げようと思ったんだ。カヴェニャックの遠征は、その直接の目的は選挙広告だったんだけど、同時にローマ革命に対する抗議と威嚇だったんだ。そこにあるのは、萌芽とはいえ、教皇に味方したフランスの干渉だった。

教皇を支持して、オーストリアやナポリ王国と連携して行なわれた、このローマ共和国にたいする干渉は、12月23日のボナパルトの内閣の第1回閣議で決定された。内閣にはファローがいたが、それは教皇をローマに、しかも教皇領ローマにということを意味していたんだ。ボナパルトはもはや、農民の大統領になるために教皇を必要としてはいなかった。だが大統領の農民を保持するには、教皇を保持しておくことが必要だった。農民が信じやすいことが、ボナパルトを大統領にしたんだ。農民は信心をなくせば信じやすくなくなるし、教皇がいなくなれば信心をなくす。それに連合したオルレアン派と正統王朝派がいる。彼らがボナパルトの名のもとに支配していたんだ。王が復位する前に、王を聖化する力が復活しなくてはならない。彼らの王党主義はさておいても、教皇の世俗支配に服する古きローマがなければ教皇はなく、教皇がなければカトリック教はなく、カトリック教がなければフランスの宗教はなく、宗教がなければ古きフランス社会はどうなってしまうのだろう?農民が天上の財産にたいして持つ抵当が、ブルジョワが農民の財産にたいして持つ抵当を保証しているんだ。だからローマ共和国は財産権への、ブルジョワ的秩序への攻撃であり、6月革命みたいに恐ろしいものなんだ。フランスで再び確立されたブルジョワ支配には、ローマの教皇支配の復活が必要なんだ。最後に、ローマの革命家を叩くことはフランスの革命家との同盟を叩くことになる。制定されたフランス共和国の反革命階級の同盟は、必然的にフランス共和国と神聖同盟との、オーストリアとナポリとの同盟で補完された。

12月23日の閣議決定は憲法制定議会に秘密ではなかった。1月8日にルドリュ-ロランはそれについて内閣に質問したが、内閣はこれを否定したので、国民議会は通常の議事日程を進めたんだ。議会は内閣の言葉を信用したのか?知っての通り、議会は内閣不信任投票をするのに、1月まる1か月を費したんだ。だが嘘をつくのが内閣の役割の一つなら、その嘘を信じるふりをして、それによって共和国のうわべの面目を保つのは国民議会の役割の一つなんだ。

そうこうするうちにピエモンテは破れ、カルロ・アルベルト王は退位した。そしてオーストリア軍はフランスの門戸をノックした。ルドリュ-ロランは激しく説明を求めた。内閣は、それは単に北イタリアでカヴェニャックの政策を継続したのであり、カヴェニャックは単に臨時政府の、つまりルドリュ-ロランの政策を継続したってことを立証した。このときは内閣は国民議会からの信任票を得て、サルディニアの領土保全とローマ問題についてオーストリアと平和裡に交渉をすることを支援するために、北イタリアの適当な場所を一時的に占領することを承認されたんだ。知っての通り、イタリアの運命は北イタリアの戦場で決まる。したがってローマはロンバルディアやピエモンテと一緒に陥落するか、さもなくばフランスがオーストリアに宣戦し、そうすることでヨーロッパの反革命勢力に宣戦するかのどちらかだった。国民議会はバロ内閣を昔の公安委員会と思ったのか?それとも自分を国民公会と思ったのか?なぜこの時期に北イタリアの一地点の軍事占領なのか?この見え透いたヴェールがローマにたいする遠征を隠していたんだ。

4月14日、ウディノ指揮下の1万4千人がチヴィッタ・ヴェッキアに向かって出航した。4月16日、国民議会は内閣に、地中海の干渉艦隊の3ヵ月の維持費として120万フランの支出限度を承認した。こうして議会は内閣にローマに干渉するあらゆる手段を与えたが、オーストリアに干渉させているようなポーズを取っていたんだ。議会は内閣のやっていることは見ずに、内閣の言っていることを聞いていただけなんだ。こんな信仰はイスラエルの民にも見あたらない。憲法制定議会は、制定された共和国が何をしなければならないか知ろうともしない態度になっていたんだ。

ついに5月8日に喜劇の最後の一場が上演された。憲法制定議会は内閣に対し、イタリア遠征を本来の目的に戻すよう至急手段を講じるよう求めた。ボナパルトはその晩「モニトゥール」紙に、ウディノをべたぼめした手紙を掲載した。5月11日には、国民議会はこの同じボナパルトとその内閣に対する弾劾議案を否決した。山岳党はこの欺瞞の網を引き破るかわりに、議会の喜劇を悲劇的にうけとめ、その中でフキエ・タンヴィルの役どころを演じようとしたが、国民公会から借りてきたライオンの皮の下から、本来のプチ・ブルジョワの子牛の皮をうっかり見せなかったか!

憲法制定議会の後半生というのは、次のように要約できる。1月29日には王党派のブルジョワ分派が自分が制定した共和制の当然の上席者だと認めた。3月21日には憲法を破ることが憲法を実現することだと認めた。5月11日には、大げさに宣言したフランス共和国と闘争している諸民族との消極的同盟というのが、フランスとヨーロッパの反革命との積極的同盟のことなんだと認めた。

このみじめな議会は自ら満足した後、舞台を降りたが、それは一歳の誕生日である5月4日の2日前、6月反乱者の恩赦動議を否決した日だった。その権力は千々に砕かれ、人々からはひどく憎まれ、ブルジョワジーの手先だったのに、ブルジョワジーからは拒絶され、虐待され、馬鹿にしたように傍らに投げ捨てられ、その後半生には前半生を否認せざるをえず、共和制的な幻想を奪い取られ、過去には偉大な業績を上げることもなく、将来には希望もなく、生きたまま少しずつ死にながら、憲法制定議会は頻繁に6月の勝利を思い起こしては何度も経験しなおし、断罪されたものをたえず繰り返して断罪することで自分自身を肯定することでだけ、自分の骸を生き返らせることができたんだ。6月の反乱者の血で生きながらえる吸血鬼め!

憲法制定議会は、6月反乱の費用、塩税の廃止、黒人奴隷制の廃止に対してプランテーション所有者に支払った補償金、ローマ遠征の費用、酒税の廃止によって増加した国家負債を、そのあとに残した。この酒税の廃止は、もうすでにこの議会のご臨終というときに決定されたんだ。議会は、笑っている相続人に支払わないと面子の立たない博打の借りを押しつけて満足げな、意地悪じいさんだった。

3月がはじまるとともに、立法国民会議の選挙への煽動が始まった。2つの主要グループが対立していた。秩序党と民主社会党つまり赤色党である。この両者の間に憲法の友がいた。この名のもとに「ナシオナル」の三色旗共和派は政党として目立とうとしていたんだ。秩序党は6月事件の直後に結成されたのだが、ブルジョワ共和派の「ナシオナル」の連中を振り払うことができた12月10日以降に、オルレアン派と政党王朝派が連合してひとつの政党になったという存在の秘密が明らかになった。ブルジョワ階級は2つの大きな分派に分かれいて、それがかわるがわる、復古王政のもとでは大土地所有者が、7月王政のもとでは金融貴族と産業ブルジョワジーが権力の独占を維持してきた。ブルボンとはその一方の利害が優勢な影響力をもっていることを表す王朝名だったし、オルレアンはもう一方の利害が優勢な影響力をもっていることの王朝名だったんだ。共和国という名前のない王国が、どちらの分派もお互いの競争をやめずに同等の権力をもって共通の階級利害を維持することのできる唯一の国だった。ブルジョワ共和国が完成され、明確に表現された全ブルジョワ階級の支配以外の何ものでもないのなら、それは正統王朝派に補完されたオルレアン派の支配にして、オルレアン派に補完された正統王朝派の支配、復古王政と7月王政の総合以外の何ものでもないだろう。「ナシオナル」のブルジョワ共和派は、経済的基盤に立脚したブルジョワ階級の大きな分派をなんら代表していなかった。彼らは、二つのブルジョワ分派が自分たちの特殊な体制しか理解しなかったのに比べ、王政の下で、ブルジョワ階級の一般的体制、つまり名前のない共和国という王国を主張したという重要性と歴史的権利しか持ってはいない。この共和国を彼らは理想化し古代風の唐草模様で飾りたてたが、何よりもまず自分たちの仲間の支配を歓呼して迎えたんだ。「ナシオナル」の党が、自分たちが創設した共和国の頂上にいる連合した王党派のことを述べようとして、困惑していくなら、これら王党派もそれにおとらず自分たちの連合した支配という事実を勘違いしていた。彼らは、分派のそれぞれを別個に見ればそれ自身は王党派であるのに、その化学的結合の産物は必然的に共和派となること、白の君主制と青の君主制は互いに中和して三色の共和制になるしかないことが理解できなかった。革命的プロレタリアートとそれを中心としてますます結集していく中間諸階級との対立に強いられて、自分たちの連合した力をかきあつめ、この連合した力の組織を保持するために、秩序党のそれぞれの分派は、他方の復古欲と傲慢な信念に抗して、共同支配すなわち共和的形態のブルジョワ支配を主張するしかなかった。こうして、これら王党派は、最初のうちはすぐにも復古することを信じたけれど、後には憤激し共和制へのひどい悪口を言い立てながらも、共和制を保持し、ついには共和制でだけお互いを辛抱できるのだと告白し復古を無期延期したんだ。共同支配を亨有すること自体が、それぞれの分派を強化し、一方が他方に従属すること、すなわち君主制を復古することをますます不可能にし、気が進まないものにした。

秩序党はその選挙綱領の中でブルジョワ階級の支配を、すなわちその支配の生存条件:財産、家族、宗教、秩序の維持を率直に表明した。当然にも、秩序党は自分たちの階級支配とその階級支配の条件を、文明の支配として、物質的生産の、そして生産から生じる社会的交易関係の必要条件として言い表していた。秩序党は自由になる金と資源をたくさん持っており、フランス中に支部を組織し、古い社会のイデオロギー吹聴者をことごとく雇いれ、現在の政府権力の影響力を思うがままに駆使し、プチ・ブルジョワと農民からなる全大衆の中に無給の家来衆の一軍隊を持っていた。プチ・ブルジョワと農民はまだ革命運動には加わっておらず、財産持ちのお偉方を自分たちの哀れな偏見の代表者と見ていたんだ。この党は、全国にわたる無数の小王たちに代表されており、自党の候補者を拒否することを反乱として罰することもできれば、反抗的労働者、扱いにくい農場労働者、召使、事務員、鉄道従業員、筆耕者、市民生活で彼らに従属しているすべての役人を解雇できた。最後に、そこここで秩序党は、共和主義的な憲法制定議会は12月10日のボナパルト政府がその奇跡的力を発揮するのを防いだという妄想を、そのままにしておくこともできた。秩序党に関連してボナパルト派にはまだふれていなかった。ボナパルト派はブルジョワ階級の重要な分派ではなく、年老いた迷信的な廃兵と若く不信心で幸運を求める兵士たちの寄せ集めだった。秩序党は選挙に勝ち、立法議会に最大多数を送り込んだ。

連合した反革命的ブルジョワ階級に対抗して、すでに革命的になっていたプチ・ブルジョワジーと農民階級の一部は、当然ながら革命的利害の大立物である革命的プロレタリアートと連合せざるを得なかった。議会でのプチ・ブルジョワジーの民主的代弁者、つまり山岳党がどんなふうに議会での敗北によってプロレタリアートの社会主義的代弁者のほうへ追いやられ、議会の外では、現実のプチ・ブルジョワジーがどんなふうに和解協約やブルジョワ的利益の無慈悲な強制や破産によって現実のプロレタリアートのほうへ追いやられたかは、既に見てきた。1月27日には山岳党と社会主義者は自分たちの和解を祝い、1849年2月の大宴会では連合活動を繰り返した。社会党と民主党、労働者の政党とプチ・ブルジョワの政党は連合して社会民主党、つまり赤色党をつくったんだ。

フランス共和国は、6月事件に続く苦悶でしばらく麻痺していたが、戒厳状態の解除以来、つまり10月14日以来、ずっと続く熱病のような興奮状態にあった。まずは大統領職をめぐる闘争、ついで大統領と憲法制定議会の間の闘争、クラブ存続をめぐる闘争、ブルジェの裁判--この裁判は大統領や連合した王党派、体裁のよい共和主義者、民主的山岳党、プロレタリアートの社会主義空論家の小さな姿に比べ、プロレタリアートの本物の革命家を大洪水だけが社会の表面に残していくような、あるいは社会的大洪水の魁としてだけ現れるような原始の怪物のように見せたんだ--、選挙の煽動、ブレアの殺害犯の処刑、あい続く新聞への訴訟、警察活動による宴会運動への政府の暴力的干渉、王党派の横柄な挑発、ルイ・ブランとコシディエールの肖像さらし物事件、制定された共和制と憲法制定議会との中断することのない闘争--この闘争は瞬間毎に勝利者を敗北者に、敗北者を勝利者に変え、たちまちに政党と階級の立場、その分離結合を転変させた--、ヨーロッパ反革命のすばやい進展、栄光に満ちたハンガリーの戦い、ドイツでの武装蜂起、ローマ遠征、ローマ直前でのフランス軍の不名誉な敗北--この運動の渦の中で、この社会不安の苦悩の中で、この革命的情熱と希望と失望の劇的な干満の中で、フランス社会のさまざまな階級は、自分たちの発展段階を、以前は半世紀単位で計っていたのに、今では週単位で計らなければならなかった。農民と地方の相当な部分が革命化した。農民がナポレオンに失望しただけではなかった。赤色党は彼らに名目にかわって内容を、幻想ばかり減税にかわって正統王朝派に支払われた10億フランの返還を、抵当の調整を、高利貸の廃止を公約した。

軍隊自体が革命熱に感染した。ボナパルトに一票投じたのは、勝利に一票投じたつもりだったのに、ボナパルトがくれたのは敗北だった。軍隊がボナパルトに票を投じたのは、うちに革命の偉大な将軍の才を秘めた小伍長[訳注:ナポレオン一世のこと]を得るためだったのに、ボナパルトがよこしたのは、教練には厳格だが我が身を守る伍長を内に秘めた大将軍連だった。パリや軍隊や地方の大部分が赤色党すなわち山岳党に票を投じ、この党が圧勝ではないけれど、勝利の凱歌をあげるにちがいないことは、疑いもなかった。山岳党党首ルドリュ-ロランは5つの県で選出されたが、秩序党のどの指導者も、また本来のプロレタリアの部分に属するどの立候補者もこのような勝利をおさめた者はいなかった。この選挙が民主社会党の秘密を明らかにする。一方でプチ・ブルジョワジーの議会でのチャンピオン、山岳党がプロレタリアートの社会主義的空論家と連合せざるをえなかった--プロレタリアートの方はは6月の恐るべき肉体的敗北によって理論的勝利で再起するしかなく、しかも残る諸階級の発展を通して革命的独裁権を手に入れることもできず、自分たちの解放を説く空論家、社会主義的セクトの創設者の腕の中に身を投げるしかなかったんだ--が、他方では革命的な農民、軍隊、地方は山岳党に追随し、こうして山岳党は革命陣営の主人にして指導者となり、社会主義者との合意を通して、革命党内の対立を消し去った。憲法制定議会の後半期には、山岳党は共和主義熱を代表し、臨時政府時代や執行委員会時代や6月事件の頃の罪を、忘却のなかに葬り去っていた。「ナシオナル」の党が中途半端な本性のため王党派内閣によっておとしめられていったのにしたがい、「ナシオナル」派の全盛期には無視されていた山岳党は革命の議会代表として台頭し認められるようになったんだ。事実「ナシオナル」の党は、野心的性格と理想主義的たわごと以外に、他の王党的分派に対抗できるものは何ももっていなかった。反対に、山岳党はブルジョワジーとプロレタリアートの間で揺れ動くする大衆、物質的利害を民主的制度に求める大衆を代表していた。だから、カヴェニャックのような連中やマラストのような連中に比べると、ルドリュ-ロランと山岳党は本当の革命を代表していて、この重要な状況という意識から、革命的エネルギーの表現が、弾劾案を提出したり、威嚇したり、大声をはりあげたり、嵐のように演説したり、言葉の上でだけの極論をはいたりといった、議会での攻撃に制限されればされるほど、ますます勇気を奮い起こしたんだ。農民はプチ・ブルジョワジーとほぼ同じ位置付けにあって、多かれ少なかれ同じような要求を持ち出していた。だから社会の中間階層は、革命運動へと駆り立てられれば駆り立てられるほど、ルドリュ-ロランに自分たちの英雄を認めるようになったんだ。ルドリュ-ロランは民主的プチ・ブルジョワジーの立役者だった。秩序党に対抗するには、半ば保守的で半ば革命的な、今ある秩序の全くもってユートピア的な改革者を、まずは先頭に押し立てなかればならなかったんだ。

「ナシオナル」の党、「それでもやはり憲法の友」、断固たる共和主義者は、選挙で完全に敗北した。そのごくわずかが立法議会に送り込まれた。この党のもっとも名の知られた指導者たちは舞台から姿を消した。編集長にしてまっとうな共和国のオルフェウス、マラストさえも。

5月28日に立法議会が招集された。6月11日には5月8日の衝突が繰り返され、ルドリュ-ロランは山岳党の名で、憲法違反のかどで、すなわちローマ砲撃のかどで、大統領と内閣への弾劾案を提出した。憲法制定議会が5月11日に弾劾を否決したのと同じように、6月12日に立法議会は弾劾案を否決した。しかし今度はプロレタリアートが山岳党を街頭へと駆り出した。でもそれは市街戦ではなく、ただの街頭行進だった。山岳党が運動の先頭にたったのは、運動が敗北し、1849年の6月が1848年の6月の下劣であるとともに馬鹿馬鹿しい戯画であることを思い知るためだったと言っておけば十分だろう。6月13日の大後退をしのぐのは、秩序党が間に合わせにつくり出した偉大な人物シャンガルニエのさらに大げさな戦闘報告だった。社会の各時代はそれぞれの時代の偉大な人物というものが必要なんだ。そしてそういう人物が見つからなければ、エルヴェシウスが言うように、それを発明するものなんだ。

12月20日には制定されたブルジョワ共和制の半分だけ、大統領だけがあった。5月28日には残り半分の立法議会によってそれは完成した。1848年の6月には制定されつつあったブルジョワ共和制がプロレタリアートに対する言語に絶する戦闘で、1849年6月には制定されたブルジョワ共和制がプチ・ブルジョワジーとのお話しにならない喜劇で、歴史の出生名簿にその名を刻んだ。1849年の6月は1848年の6月の天罰だった。1849年6月に打ち破られたのは、労働者ではなかった。打ち倒されたのは、労働者と革命の間に立っていたプチ・ブルジョワジーだったんだ。1849年6月は、賃労働と資本の間の流血の悲劇ではなく、債務者と債権者の、牢獄の場面ばかりの悲嘆劇だった。秩序党は勝利し、全能となった。そこで今や自分が何ものか示さなければならなくなった。

http://page.freett.com/rionag/marx/CSF3.html
フランスにおける階級闘争 第3部
[トップへ] [目次] [前へ] [次へ]

第3部 1849年6月13日の結果

12月20日には立憲共和制のヤヌスの頭はまだその一方の顔、ルイ・ボナパルトのはっきりしない、平板な容貌の執行権力だけを見せていた。1849年5月28日にはそれは第二の顔、立法権力の顔、王政復古と7月王政の乱痴気騒ぎがあとに残した傷だらけのあばた面を見せた。立法国民議会とともに、立憲共和制、すなわちブルジョワ階級の支配が制定される共和的な統治形態、したがってフランスのブルジョワジーを形作っている二大王党派分派の共同支配、正統王朝派とオルレアン派の連合、秩序党という事態が完成したんだ。こうしてフランス共和国は王党派連合の所有物となったのだが、一方ヨーロッパの反革命勢力連合は三月革命の最後の避難所に対する全般的十字軍に一斉に乗り出したんだ。ロシアはハンガリアに侵攻し、プロイセンはドイツ国憲法を守ろうとする軍隊にたいして進撃し、ウディノはローマを砲撃した。ヨーロッパの危機は明らかに決定的転回点にさしかかっていた。全ヨーロッパの目はパリに向けられ、パリじゅうの目が立法議会に向けられていたんだ。

6月11日ルドリュ-ロランは演壇に立った。彼は演説をぶったのではかった。内閣にたいする非難をあけすけに、飾り立てずに、事実に即して、集中的に、力強く述べたんだ。

ローマへの攻撃は憲法にたいする攻撃であり、ローマ共和国への攻撃はフランス共和国への攻撃なんだ。憲法第5条には「フランス共和国はいかなる国民にたいしても武力を行使しない。」とある。だが大統領はフランス軍を使ってローマ人の自由を攻撃している。憲法第54条は行政府が国民議会の同意なしには宣戦布告することをいっさい禁止している。憲法制定議会の5月8日の決議は内閣にローマ遠征をもともとの使命に迅速に合致させるようはっきり命じていた。したがって憲法制定議会は内閣にローマにたいする戦争を禁じているのだ。しかるにウディノはローマを砲撃している。このようにルドリュ-ロランは、憲法そのものをボナパルトとその閣僚にたいする告発の証人としてもちだしたんだ。国民議会の王党派の多数派にたいして、この憲法の護民官はつぎのような威嚇的宣言を投げつけた。「共和主義者はどんな手段を講じても憲法尊重を求めるだろう。たとえ武力に訴えてでも!」と。「武力に訴えてでも!」という言葉は山岳党から百倍もの谺となってかえった。多数派はこれに凄まじい喧噪で答えた。国民議会議長はルドリュ-ロランに静粛にするよう命じたが、ルドリュ-ロランは挑戦的な言葉を繰り返し、最後にボナパルトとその閣僚の弾劾動議を議長に提出した。361対203の票決で国民議会はローマ砲撃問題を打ち切って、次の議案へと移った。

ルドリュ-ロランは国民議会を憲法によって打ち破り、大統領を国民議会によって打ち破れると信じていたんだろうか。

確かに、憲法は諸外国の国民の自由にたいする攻撃を一切禁じていたが、しかしフランス軍がローマで攻撃していたのは、内閣によれば、「自由」なのではなくて「無政府の専制」なんだ。山岳党は憲法制定議会でさんざん経験してきたにもかかわらず、憲法の解釈は憲法を作った者によるのではなく、憲法を受け入れた者によるのだということをまだ理解していなかったのか。憲法の言葉遣いはその現実味のある意味づけで解釈されるべきであり、ブルジョワ的意味づけが唯一の現実味のある意味づけなんだということ。僧侶が聖書の真正な解釈者であり、判事は法律の真正な解釈者であるように、ボナパルトと国民議会の王党派の多数派が憲法の真正な解釈者であること。このことが理解できなかったのか。普通選挙から新たに生まれた国民議会は、死んだ憲法制定議会の遺言状の条項に束縛されていると感じなければならないんだろうか。その憲法制定議会の意志などオディロン・バロが、まだ生きているうちに踏みにじったというのに。ルドリュ-ロランが5月8日の憲法制定議会の決議を引用したとき、彼は同じ憲法制定議会が5月11日にはボナパルトとその閣僚にたいする彼の最初の弾劾動議を否決し、大統領と大臣たちを無罪放免とし、こうしてローマ攻撃を「憲法に適っている」と認可したこと、彼はすでに出された判決に抗議を出したにすぎなかったこと、最後には彼は共和主義的憲法制定議会から王党派的立法議会に訴えたことを忘れてしまったのか。憲法そのものは、特別条項で各市民に憲法防護を求めることで反乱に救いを求めている。ルドリュ-ロランはこの条項に基いていたんだ。しかし同時に憲法を護るために公的権力が組織されてはいないのか、それに憲法侵害というのは、憲法に基づく一つの公的権力が別の憲法に基づく公的権力に反対する瞬間にはじめて始まるのではないか。だが共和国の大統領と共和国の大臣たちと共和国の国民議会は極めて円満に同調していたんだ。

山岳党が6月11日に試みたことは、「純粋理性の範囲内の反乱」つまり純粋に議会的な反乱だった。議会の多数派は、人民大衆の武装蜂起におびえて、ボナパルトと内閣の中で、自らの権力と自らが選出されて意義を破壊するだろうというんだ。憲法制定議会も、バロ-ファルー内閣の罷免を執拗に求めたとき、ボナパルトの選出を無効にしようと試みたのではなかったか。

国民公会の時代からだと、突然、多数派と少数派の関係を完全に変えるような議会内反乱のお手本がないわけではなかった。昔の山岳党が成功したのに、今の山岳党にできないということがあろうか。それに目下の関係がそういった企てに不利とも思われなかったんだ。パリの大衆の不満は驚くほど高まっていたし、軍隊は、選挙での投票からみると、好意的に政府を支持しているとは思えなかった。立法議会の多数派そのものは、地歩を固めるにはまだ日が浅く、加えて老紳士から構成されていた。山岳党が議会内反乱に成功したなら、国家の指揮権は直接その手に帰しただろう。民主主義的プチ・ブルジョワジーは、それ自身としては、いつものように、戦闘が頭上の雲のなかで国会の亡霊の間で戦われるのを見ることに熱烈であった。最終的には、民主主義的プチ・ブルジョワジーとその代表である山岳党はともに、議会内反乱によって、プロレタリアートの束縛を解いたりせず、せいぜい遠景にその姿を見せたりするだけで、プロレタリアートを危険にならないように利用して、ブルジョワジーの権力を打破するという大目標を達成しようと思ったんだ。

6月11日の国民議会の票決のあとで、山岳党の数名の党員と労働者秘密結社の代表のあいだで会合が開かれた。秘密結社の代表はその晩にも攻撃を開始するよう迫った。山岳党は断固としてこの計画を拒否した。山岳党はなんとしても主導権を手からすべり落すまいとしたんだ。その同盟者は敵と同じように胡散臭かった、それも当然だった。1848年6月の記憶は、パリのプロレタリアートの隊列のあいだでいつもより激しく沸き立っていた。それにもかかわらず、彼らは山岳党との同盟に縛りつけられていた。山岳党は大部分の県から代表を出しており、軍隊内でも影響力を強め、国民軍の民主主義的部分に裁量権を持っていて、背後には小店主たちの精神的支持があった。プロレタリアートにとっては、この瞬間に山岳党の意志に反して革命を始めることは、そうでなくてもコレラで多くの犠牲が出ており失業でかなりの人数がパリから追い出されているというのに、この絶望的闘争に駆り立てる状況もないままに、1848年の6月事件を無益に繰り返すこと意味していた。プロレタリアの代表者は唯一つの合理的なことをした。彼らは山岳党にその身を危険にさらすという義務を負わせた。つまり弾劾議案が否決されれば議会内闘争の境界線を踏み越えるという義務を負わせたんだ。6月13日の一日中、プロレタリアートはこれと同じ懐疑的な様子うかがいの態度をとりつづけながら、民主主義的国民軍と軍隊とのあいだで真剣に戦われる後戻りのきかない乱戦がおこるの待っていた。そしてそうなれば戦闘に飛び込み、革命を設定されていたプチ・ブルジョワ的目標を越えて推し進めようとしていたんだ。勝利した場合には、すでに組織されていたプロレタリアのコミューンを公的政府と並び立てようというんだ。パリの労働者は1848年6月の血にまみれた学校で学んできたんだ。

6月12日に、大臣ラクロス自身が立法議会に弾劾議案の討議を直ちに進める動議を提出した。前夜のうちに政府は防衛と攻撃のためのあらゆる手段を講じていた。国民議会の多数派は反抗的な少数派を街頭に追い出す決意を固めていた。少数派自身はもはや後へは退けなかった。骰子は投げられた。弾劾議案は377票対8票で否決された。投票を棄権した山岳党は、憤概しながら「平和的民主主義」の広報本部、デモクラティ・パシフィーク紙の発行所へと殺到した。

大地から引き離されると大地の息子の巨人アンタエオスの力が失なわれるように、議事堂から引き離されると山岳党も力を失なった。立法議会の構内ではサムソンであった山岳党も、「平和的民主主義」の埒のなかではただのペリシテ人となった。長々と、騒々しくてとりとめもない論争が続いた。山岳党はあらゆる手段を使って無理にでも憲法に敬意を払わそうと決意した、「ただ武力だけは使わずに」。この決意を「憲法の友」の宣言と代表団が支持した。「憲法の友」というのはナシオナルのお仲間の残党、ブルジョワ共和派が自分たちを呼んだ名前なんだ。その残った議員のうち6名が弾劾議案の否決に反対票を投じ、残りの全員は賛成にまわったというのに、またカヴェニャックは自分のサーベルを秩序党の裁量に任せたのに、この連中の大きな議会外の一団は、政治的な賤民という地位から抜け出し、民主党の隊列に加わる機会を貪欲にとらえた。彼らは民主党の本来の盾持ちに見えなかっただろうか。この民主党は、その盾のかげに、その原理のかげに、つまり憲法のかげに身を隠していたんだ。明け方まで山岳党は産みの苦しみを味わっていた。そして「人民への声明」を産みおとした。この声明は6月13日の朝に、二つの社会主義系新聞の多少なりとも恥ずかしげな場所に掲載された。この声明は大統領、内閣、立法議会の多数派は「憲法を逸脱した」と宣告し、国民軍、軍隊そして最後に人民に「蜂起せよ」と呼び掛けていた。「憲法万歳!」が声明の押したてたスローガンだったが、それは「打倒革命!」しか意味しないスローガンだった。

山岳党の憲法擁護の声明に同調して、6月13日にはプチ・ブルジョワのいわゆる平和的デモンストレーションがおこなわれた。それはシャトー・オーからブールバールを通る、総勢三万人の街頭行進で、おもに非武装の国民軍だったが、秘密労働者結社のメンバーも混っていた。行進しながら「憲法万歳!」と叫んだが、行進の参加者自身が機械的に、冷ややかに、ばつが悪そうに叫び、雷鳴のように轟くかわり、両脇に押し寄せた人々に皮肉にも投げ返された。この混声合唱には胸に迫る音調が欠けていたんだ。そして行進が「憲法の友」の会議場を曲がると、雇われた憲法の伝令使が屋上にあらわれ、さくらの連中の被る帽子を打ち振って、すばらしい肺から大声をあげた。「憲法万歳!」の叫び声が巡礼たちの頭上に霰のように降りそそぐと、行進参加者は一瞬この状況喜劇に圧倒されたようだった。ご存知のとおり、行列がルー・ド・ラ・ペの終点に到着すると、ブールバールでシャンガルニエの竜騎兵と迫撃兵にまったく非議会的に出迎えられ、たちまち四方八方へと追い散らされ、6月11日の議会での武力への訴えを実行しようとして、「武器をとれ」という叫び声をわずかばかり背後に残したんだ。

山岳党の大多数はルー・デュ・アザールに集まっていたが、平和的行進が暴力的に追い散らされ、ブールバールで非武装の市民が殺されたというこそこそとした噂が流れ、街頭の騒動が大きくなっていることが、暴動が間近かに迫った報せだと思い、四散してしまった。議員の小集団の先頭にたっていたルドリュ-ロランは、山岳党の面目を保った。パレ・ナシオナルに集結したパリ砲兵隊に護られて、彼らは国立工芸学院に向った。ここで国民軍の第5軍団と第6軍団が到着することになっていたんだ。しかし山岳党はそれをむなしく待っていた。この慎重な国民軍は自分たちの代表者を見殺しにした。パリ砲兵隊自身が人民がバリケードに身を投じるのを妨げた。混沌とした無秩序がいかなる決定も不可能にした。前線部隊は銃剣をつけて進軍した。数人の議員が捕縛されたが、その他の者は逃げ出した。こうして6月13日は終ったんだ。

1848年6月13日が革命的プロレタリアートの反乱とするなら、1849年6月13日は民主的プチ・ブルジョワの反乱であった。この二つの反乱のどちらも、それを担った階級の典型的に純粋な表現だった。

ただリヨンでは執拗な流血の衝突となった。ここでは産業ブルジョワジーと産業プロレタリアートが直接対決しており、労働運動は、パリのように、一般的な運動に包括されておらず、規定されていなかったので、 6月13日は、その影響で本来の性格を失ったんだ。騒動が起ったその他の地方では、それが燃え上がることはなかった。それは冷たい雷の閃光だった。

6月13日に立憲共和制の第一期が終った。この第一期は1849年5月28日に、立法議会の召集をもって正規に始まったんだ。この序章の時期の全般を通して、秩序党と山岳党の、大ブルジョワジーとプチ・ブルジョワジーとの騒々しい闘争で満ちていた。プチ・ブルジョワジーはブルジョワ共和制の確立に無益に抵抗してきたが、以前にはブルジョワ共和制のためにプチ・ブルジョワジー自身が臨時政府でも執行委員会でも陰謀を企み、6月事件の際には熱狂的にプロレタリアートと闘ってきた。6月13日はプチ・ブルジョワの抵抗を打ち砕き、既成事実として連合王党派の立法権上の独裁を確立したんだ。この瞬間から国民議会は秩序党の公安委員会にすぎなくなった。

パリは大統領、閣僚、国民議会の多数派を「告発状態」に置いたが、彼らはパリを「戒厳状態」に置いた。山岳党は、立法議会の多数派は「憲法の埒外」にあると宣告したが、憲法侵害という理由で、多数派は山岳党を高等法院に引渡し、まだ生命力のある山岳党にすべてを禁じたんだ。山岳党は削減されて頭も心臓もない胴体だけになった。少数派は議会内反乱を試みるまでになったが、多数派は自分たちの議会専制主義を法律に持ち上げた。多数派は新しい「議事規則」を制定し、その規則で演壇の自由を無に帰し、国民議会議長に議事規則を侵害する議員を譴責、罰金、俸給停止、議員資格の一時停止、監禁によって処罰する権限を与えた。多数派は山岳党の胴体の上に、剣ではなく棒を吊した。山岳党の議員の残りは、多数派のおかげで集団退去をするという名誉を得た。そういう行為は秩序党の分解を早めたことだろう。対立という見せかけさえも秩序党をもはや一緒にしておかなくなった時点で、その党はもともとの構成部分に分解しただろう。

民主的プチ・ブルジョワは、議会での権力を奪われると同時に、パリ砲兵隊と国民軍の第8、9、12軍団の解散によって軍事力も奪われた。一方では、大型金融家の軍団が6月13日にブールとルーの印刷所を襲撃し、印刷機を破壊し、共和派の新聞の事務所をめちゃめちゃにし、勝手に編集者や植字工、印刷工、発送係、使い走りを逮捕したが、国民議会の壇上からは激励する承認を受けた。フランス全土で、共和主義の疑いのある国民軍の解隊が繰り返された。

新しい出版法、新しい結社法、新しい戒厳令が出され、パリの監獄はあふれかえり、政治亡命者は放逐され、「ナシオナル」紙の範囲を超えるような新聞は発行停止となり、リヨンとその周囲の五つの県は軍事専制の残忍な迫害のなすがままとなり、至るところで裁判がなされ、公務員の軍隊は、これまでたびたび追放されたが、再度追放された。こういうことは、勝利した反動派の不可避の、いつも繰り返される常套亊で、6月事件の虐殺と国外追放のあとで、これに言及する意味があるのは、パリだけでなく、地方に対しても、またプロレタリアートだけでなく、とりわけ中間階級に対しても、それが指令されたからにすぎない。

戒厳令布告を政府の裁量のもとにおき、新聞をしっかり封じ、結社の権利の無効にする弾圧諸法に、国民議会の立法活動は、6月、7月、8月の間かかりっきりとなった。

しかし、この時期を特徴づけているのは、勝利を実際上利用するというより原理的に利用していることであり、国民議会の議決ではなくて、こういう議決に先立つ基盤であり、事実ではなくて文句、文句よりもその文句を活気づける調子や身ぶりだった。王党派的心情を臆面もなくあけすけに述べ、共和制を軽蔑して貴族ぶって侮辱し、王政復古の目的について媚びたように浅薄なたわごとをしゃべり散らすこと、要するに共和主義的礼儀作法を自慢げに破ることが、この時期の特徴的な調子と色合いだった。憲法万歳!というのは6月13日の敗北者の閧の声だった。だから勝利者は立憲的な、すなわち共和制的な言辞を弄する偽善行為からは免れていた。反革命はハンガリー、イタリア、ドイツを支配しており、彼らは王政復古がもうフランスの戸口にまで来ていると信じたんだ。秩序党の諸分派の儀礼長どもの間では、その結果、「モニトゥール」紙上に自分たちの王党主義を掲載し、王政時代にたまたま犯した自由主義的罪を告白し、後悔し、神と人の前で許しを乞うという競争がまきおこった。国民議会の演台で二月革命が国家的災難であったと宣言されなかった日はなく、どこかの正統王党派の地方のまぬけ貴族が自分は共和制を認めたことは一度もないともったいぶって宣わなかった日はなく、また七月王政の卑怯な脱走者や裏切者の誰かがルイ・フィリップの博愛主義やその他の誤解が邪魔立てしなければ実行したはずの遅れ馳せの英雄的行為を語らなかった日はなかった。二月事件で消散すべきものは、勝利者の度量の大きさではなく、王党派の自己犠牲と節度であった。ある人民の代表は二月の負傷者の救援に当てられた資金の一部を市守備隊に振り向けるよう発議した。彼らだけがその時期に祖国から褒賞を受けるに値するからというのだ。別の議員はカルーセル広場にオルレアン公に捧げる騎馬像を建てようとした。ティエールは憲法を汚れた紙切れとよんだ。オルレアン派の新聞紙上には、正統王朝派による正統王制にたいする陰謀にたいする悔悟が繰り返し掲載され、正統王朝派は非正統王朝的な王制に抵抗することで、王制一般の転覆を早めたことで我が身を責めた。ティエールはモレにたいする陰謀を悔い、モレはギゾーにたいする陰謀を悔い、バロはこの三人全員にたいする陰謀を悔いた。「社会民主共和国万歳!」というスローガンは非立憲的だと宣告され、「共和国万歳!」というスローガンは社会民主的であるとして起訴された。ウォーターロー戦闘記念日に、ある議員は「プロシアの侵攻は革命的亡命者のフランス入国ほど恐くはない」と言明した。リヨンおよび近隣県で組織されたテロリズムについての抗告にたいしてバラゲェ・ディリエは「赤色テロより白色テロは好ましい」と答えた。そして議会は共和国や革命や憲法に反対し、王制や神聖同盟を支持する警句が演説者の口か漏れると、気が狂わんばかりに拍手喝采したんだ。ささいな共和主義的な形式、例えば議員に市民と呼びかけるいったものに違反することは、秩序の騎士たちを夢中にさせた。

http://page.freett.com/rionag/marx/vpp.html
価値、価格そして利潤
Value, Price and Profit
労働者への演説
エレノア・マルクス・エーヴリング Eleanor Marx Aveling 編

著:カール・マルクス Karl Marx
訳:永江良一


序文

この論文が読み上げられた状況は、この作品の始めのところで説明されています。この論文はマルクスの生前には一度も公刊されたことはありません。これはエンゲルスの死後に彼の論文の間から発見されました。この論文は、マルクスの多くの特徴の中でも、二つのことをよく示しています。それは彼のアイデアの意味を劣等生にも解りやすいものにしたいという忍耐強い意欲と、またそのアイデアの並外れた明晰さです。部分的な意味で、この巻は資本論第一巻の要約です。私たちの中の何人もの人が第一巻を分析し単純化することを試みましたが、おそらくあまり成功はしていません。実際、機知に富む友人の解説者が、今求められているのはマルクスについての私たちの説明のマルクスによる説明だとほのめかすしまつです。私は学生に社会主義を理解させるのに一番良い本のシリーズは何かとよく尋ねられます。これは答えるのが難しい質問です。しかし、提案すれば、第一にエンゲルスの「空想から科学へ」、次にこの本、資本論の第一巻、そして学生版マルクスということになりましょう。私がこの作品の準備に果たしたちょっとした役割は、草稿を読み、英語風の表現にするのにちょっと提案し、作品を章に分けて、各章に名前をつけ、ゲラを校正したくらいです。作業の残り全部は、最も重要な部分まで、表題ページに名前を載せている彼女がやりました。この巻は既にドイツ語に翻訳されています。

エドワード・エーヴリング Edward Aveling


目次
   前置き
 1.生産と賃金
 2.生産、賃金、利潤
 3.賃金と通過
 4.供給と需要
 5.賃金と価格
 6.価値と労働
 7.労働力
 8.剰余価値の生産
 9.労働の価値
10.利潤は商品をその価値で販売して得られる
11.剰余価値を分解した異なる部分
12.利潤、賃金、価格の一般的関係
13.賃金を引き上げるあるいは下落に抵抗する試みのおもなケース
14.資本と労働の間の闘争、そしてその結果


前置き

市民の皆さん。
本題に入る前に、事前にちょっと意見を述べさせてください。今大陸ではストライキが大流行し、賃上げをもとめる叫びが一斉にあがっています。私たちの総会でもこの問題が出てくることでしょう。あなたがたも、国際協会の指導者として、この優先問題に判断を下さなければなりません。私としては、だから、たとえあなたがたの忍耐を厳しい試練にさらすとしても、事態に十分論じておくことが私の義務だと考えたのです。

もう一つ前もっていっておきたいのは、ウェストン君に関することです。彼は、彼の考えるところの労働階級のためを図って、労働階級には最も人気がないことは彼も知っている意見を、あなたがたに提案しただけでなく、公にも支持してきました。道徳的な勇気のこのような発露には、私たちは皆、敬意を払うべきです。私の論文の率直なスタイルにもかかわらず、結論においては、私が彼の論考の底にあるアイデアと思われるものには同意しているのだが、しかしその現在の形式では、理論的には間違っており、実践的には危険であると考えざるを得ないのだということを、わかって欲しいと思います。それでは直ちに私の前にある課題に取り掛かりましょう。


1.生産と賃金

ウェストン君の議論は、つまるところ二つの前提によっています。第一には、国民生産の総額は固定されたもの、数学者がいうところの一定の量あるいは大きさであること。第二には、実質賃金、つまり購入できる商品の量で測定した賃金は、固定されたもので一定の大きさであること。

さて、彼の最初の主張は明らかに誤っています。毎年毎年、生産物の価値も総量も増加していること、国民労働の生産力は増加していること、そしてこの増加した生産物を循環するのに必要な貨幣総額は連続して変化していることに気がつくでしょう。年の終わりに真実であること、そして異なる年を互いに比較して真実であることは、その年の平均的な各日にも真実なのです。国民生産の総量あるいは規模は連続的に変化します。それは一定の大きさなのではなく、変化する大きさなのであり、また、人口の変化は別として、資本の蓄積と労働の生産力の連続的変化のゆえに、そうであるにちがいありません。もし今日一般的な賃金率に上昇がおこると、その隠された効果がなんであれ、この上昇は、それ自身では生産の総額を直接に変えるわけではないことは、完全に正しいでしょう。最初の場合は、物事の現存している状態から進行しているわけです。しかし、もし賃金が上昇する前に国民生産は可変であり、固定されてないのなら、賃金上昇後もそれは継続して可変で固定されていないでしょう。

しかし国民生産の総額が可変でなくて固定であると仮定しましょう。その時でさえ、我が友ウェストンが論理的帰結と考えたものは、依然として理由のない主張なのです。もし私がある与えられた数、たとえば8をもっているとすると、この数の絶対的限界は、その部分がその相対的な限界を変えるのを妨げるものではないのです。もし利潤が6で賃金が2ならば、賃金が6に増え利潤が2に減っても、合計の数量は依然8のままです。生産額が固定されていることは、決して賃金の額が固定されていることを証明しているのではありません。この時我が友ウェストンはどのようにしてこの固定性を証明するのでしょうか?それを主張することによってです。

しかしもし彼の主張を認めたとしても、二つの道が開かれているのですが、かれは一方の方向にだけ押し進めています。賃金の総額が一定の大きさならば、それは増加することも減少することもできません。もしそのとき、労働者が一時的な賃上げを強制することが愚かしい振舞いなら、資本家が一時的な賃下げを強制することも、同じくらい愚かしい振舞いなのです。我が友ウェストンは、ある状況の下では、労働者が賃上げを強制できることを否定しないが、しかしその総額は当然にも固定されているので、反作用がついてくるに違いないと言っているのです。その一方で、彼はまた資本家が賃金下げを強制できること、そして実際、継続的に賃下げを試みていることを知っています。賃金の不変性という原理にしたがえば、その場合にも前と同様、反作用がついてこなければなりません。労働者は、したがって、賃金を下げようという試み、あるいは行為に反作用して、適切に振舞うでしょう。彼らは、したがって、適切にも賃上げを強制しようとします。なぜなら、賃下げに対する反作用はどれも賃金を上げようという行動だからです。賃金の不変性というウェストン君自身の原理にしたがえば、労働者は、したがって、ある状況の下では、賃上げのために団結し闘争しなければならないのです。もし彼がこの結論を否定するならば、彼はこの結論がでてきた彼の前提をあきらめなければなりません。彼は、賃金の総額は一定の量であると言わずに、それは上げることはできず、また上げてはならないにもかかわらず、資本家が下げたいときはいつでも、下げることができるし、下がらなければならないと言わなければならないのです。もし資本家があなたに肉の代りにじゃがいもを、小麦の代りにオート麦を食わせたいと思うなら、あなたは経済学の法則として彼の意志を受け入れ、服従しなければならないのです。例えばアメリカ合衆国の賃金率がイギリスより高いように、もしある国の賃金率が他の国より高いならば、この賃金率の差異をアメリカの資本家の意志とイギリスの資本家の意志の差異によって説明しなければなりません。この方法は確かに、経済現象の研究だけでなく、他のあらゆる現象の研究を極めて単純なものにするでしょう。

しかしそのときでさえ、私たちは問うでしょう。なぜアメリカの資本家の意志はイギリスの資本家の意志と違うのだろうかと。そしてこの疑問に答えるには、意志の領域を越えて進まなければなりません。ある人が、神はフランスではあることを望まれ、イギリスでは別のことを望まれるのだと言うかもしれません。私が彼にその意志の二重性の説明を求めると、彼は厚かましくも、神はフランスではある意志を、イギリスでは別の意志を持とうと望まれたからだと答えるのでしょう。しかし、我が友ウェストンは確かに、このようなあらゆる推論を完全に否定したような議論をする人とは、とても思えません。資本家の意志は確かにできるだけ多くを得ようというものです。私たちがしなければならないのは、彼の意志について語ることではなくて、彼の力を、その力の限界を、その限界の特徴を探求することなのです。


2.生産、賃金、利潤

ウェストン君が私たちのまえで読み上げた演説を簡単に要約してみましょう。

彼の推論のすべては結局次のようになります。もし労働者階級が資本家階級に貨幣賃金の形で4シリングのかわりに5シリングを支払うよう強いるならば、資本家は商品の形で5シリングの値打ちのものかわりに4シリングの値打ちのもので応じてきます。労働者階級は、賃上げ前には4シリングで買えたものに5シリング支払わなければならなくなります。しかしなぜこれが真実なのでしょうか?なぜ資本家は5シリングにたいして4シリングの値打ちのもので応じるだけなのでしょうか?なぜなら賃金の総額は固定されているからです。なぜ賃金は4シリングの値打ちの商品に固定されているのでしょうか?なぜ3や2やその他の額ではないのでしょうか?もし賃金の総額の制限が、資本家の意志や労働者の意志といったものとは独立に、経済法則によって決まっているのなら、ウェストン君がしなければならなかった最初のことは、その法則を述べそれを証明することでした。さらに彼は、どの瞬間にも現実に支払われている賃金の総額がいつも必要とされる賃金の額と正確に対応しており、決してそれから逸脱しないことを証明すべきでありました。もし、その一方で、賃金の総額のあるあたえられた制限が、資本家の単なる意志、あるいは彼の貪欲さの制限に基づくのならば、それは恣意的な制限です。そこに必然的なものは何もありません。それは資本家の意志によって変えられるかもしれませんが、また、それゆえに、資本家の意志に反して変えられるかもしれないのです。

ウェストン君は彼の理論を説明するのに、数人の人が食べる、ある量のスープをいれた椀を例に出し、スプーンの幅を広げたからといって、スープの量は増えないと、皆さんにいいました。彼は私にこの説明がかなり愚かしい[原文spoony]であると気づかせてくれたのです。それで私はメネニウス・アグリッパが使った喩をちょっと思い出しました。ローマの平民がローマの貴族と衝突したとき、貴族のアグリッパは彼らに、統治体の貴族という腹が平民という手足を養っているのだと言ったそうです。アグリッパは、ある人間の腹を満たすことで、別の人間の手足を養えることを示すことはできませんでしたが。ウェストン君の場合は、労働者が食う椀が国民労働の全生産物で満たされており、労働者が椀からもっととるのを妨げているは、椀の狭さでもその中身の乏しさでもなく、彼らのスプーンの小ささであることを、忘れているのです。

どんな発明によって、資本家は5シリングにたいして4シリングの価値しかないもので応じることができるのでしょうか?彼が売る商品の価格を上げることによってです。商品の価格上昇およびもっと一般的に価格変動は、商品の価格自身は、資本家の単なる意志にだけ依存しているのでしょうか?あるいは、反対に、その意志に影響を与えるある状況が必要なのではないでしょうか?そうでなければ、市場価格の高下、絶え間のない変動は解明できない謎となります。

労働の生産力にも、使われている資本と労働にも、生産物の価値が評価される貨幣の価値にも変化がなく、賃金率にだけ変化があると仮定したとき、賃金の上昇がどうやって商品の価格に影響できるのでしょうか?これらの商品の需要と供給の間の実際の比率に影響を与えることによってでしかありません。

全体として考察したとき、労働者階級がその収入を必需品に使うし、また使わざるを得ないということは、全く正しいことです。賃金率の一般的上昇は、したがって、必需品にたいする需要を引き上げ、結果的にその市場価格を引き上げるのです。これらの必需品を生産している資本家は、上昇した賃金を、その商品の上昇した市場価格で埋め合わせます。必需品を生産していない他の資本家は度うなるのでしょうか?それらが小さいものだと思ってはいけません。国民生産の三分の二が人口の五分の一--ある下院議員は最近それは人口の七分の一にすぎないと言っていますが--によって消費されいることを考えると、国民生産のどんなに大きな部分が贅沢品という形で生産されているか、あるいは贅沢品と交換されているに違いないこと、必需品自身のどんなに大きな量が従僕、馬、猫等々に浪費されているに違いないことがわかるでしょう。もっとも、浪費は、私たちが経験から知っているように、常に必需品の価格上昇によってかなり制限されるのですが。

さて、必需品を生産していない資本家の立場はどうなるのでしょうか?賃金の一般的上昇の結果起こった利潤率の下落を、その商品の価格の上昇で埋め合わせることはできません。なぜなら、その商品の需要が増加するわけではないからです。彼らの収入は減少し、この減少した収入から、価格の高騰した必需品の同じ量にもっとたくさん支払わなければなりません。しかし、これがすべてではないのです。その収入が減少したので、彼らは贅沢品にあまり金を使わなくなり、したがってそれぞれの商品に対するお互いの需要は減少します。この減少した需要の結果、その商品の価格は下落します。こうした産業部門では、したがって、利潤率が、単に賃金率の一般的上昇に単純に比例してではなく、賃金の一般的上昇、必需品の価格上昇、および贅沢品の価格下落の複合した率で下落するのです。異なる産業部門で使われる資本の利潤率のこの差異はどんな結果をもたらすのでしょうか?まあそれは、理由はなんであれ、異なる生産分野で平均利潤率に差異が生じるときはいつも起こる結果なのですが。資本と労働は儲けの少ない部門から儲けの大きい分部門へと移転し、この移転の過程は、ある産業部門の供給が増加した需要にみあうだけ上昇し、別の産業部門では減少した需要にしたがって供給が落ち込むまで続きます。この変化の効果で、一般利潤率は異なる部門間で再び均等化するのです。撹乱全体はもともと異なる商品の需要と供給の比率の単なる変化から生じたものなので、原因がなくなれば、効果も止まり、価格はもとの水準に戻り均衡します。賃金上昇の結果生じる利潤率の下落は、いくつかの産業部門にとどまらず、一般的に起こります。私たちの仮定にしたがえば、労働の生産力にも、総生産額にも変化はなく、ただ与えられた生産額がその形態を変えただけです。生産の必需品という形で存在する部分は大きくなり、贅沢品の形で存在している部分が小さくなるのです。あるいは、同じことなのですが、海外の贅沢品と交換され、そのもともとの贅沢品の形で消費される部分が小さくなります。あるいは、またまた同じことになりますが、国内生産で海外の贅沢品ではなく、必需品と交換される部分が大きくなるのです。賃金率の一般的上昇は、したがって、市場価格の一時的な混乱の後、商品価格の永続する変化を残さずに、利潤率が一般的に下落する結果となるだけです。もし私が以上の議論ですべての超過賃金が必需品に使われるものと仮定しているとおっしゃるのなら、ウェストン君の意見にもっとも有利な仮定をしたまでだと答えておきましょう。もし超過賃金が以前は労働者が消費しなかったような品物に使われるとしたら、その購買力の実質増加は証明する必要もないでしょう。
スポンサーサイト

| 未分類 | コメント(0)

コメント

非公開コメント

トラックバック

http://kimuramasahiko.blog.fc2.com/tb.php/2728-15a4696b