3月下旬、4月から紙面が新しくなりますという宣伝の中に、佐伯啓思がコラムを担当するという予告が何度も出ていた。1面の右に顔写真を出して大きく告知していて、嫌でも目に入ってしまう。朝日の読売化を象徴する一事であり、憂鬱に塞ぎ込んだが、見なきゃいいや、黙殺に徹しようという気分でその場を済ませていた。精神衛生に悪いから無視して忘れるにかぎる、意識するまい、話題にはするまいという処理で流した。しかし、反動右翼の巨魁たる佐伯啓思のコラム登場は、私が思っていたほど甘い事態ではないことが判明した。この佞悪な男は、戦略を携えて朝日に登壇してきたのだ。私は、単に朝日が読売色を深めるための象徴的な動きとしてこの不愉快な人事を捉えていて、つまり、佐伯啓思が邪悪な名誉欲を満足させるために朝日のコラムニストの地位を得たのだろうぐらいに軽く考えていた。そうではなく、具体的な奸計の狙いがあり、左から「憲法改正」に賛同する動機と論拠を作り、左から護憲派を切り崩す狙いで、朝日でキャンペーンを張るべく用意周到に出撃してきたのだ。狡猾で猛毒のシナリオが仕組まれていたのである。4/3の佐伯啓思のコラムと4/7の池澤夏樹の論稿は、主張としてぴったり符牒が合う。それは、朝日の読者である左派に対する「改憲のススメ」の説教に他ならない。





















http://critic20.exblog.jp/23915623/
池澤夏樹の転向 - 「新聞記者、ジャーナリズムの転向から始まる」

.

今年の朝日の憲法記念日の社説は、果たしてどのような内容になるのか、今から気を揉んで仕方がない。「安倍政権と憲法 - 平和主義の要を壊すな」と題した昨年の社説は、閣議決定による9条の解釈改憲に対して反対意見を表明したものだった。昨年のこの時期は集団的自衛権の政局の真っ最中で、マスコミ各紙の中で朝日は反対の論陣の先頭に立ち、リベラルの旗手らしく果敢にペンで戦っていた。柳澤協二や阪田雅裕などを連日紙面に出して反対世論の醸成に努め、また、石破茂と安倍晋三との鬩ぎ合いを暴露して永田町の抗争に介入するなど、一昨年の秘密保護法の攻防のときの東京新聞の活躍を思わせる獅子奮迅ぶりだった。今から思えば、編集部の中は相当な緊張状態にあったはずで、内部の右派と左派の暗闘の中で、左派がギリギリの足場で突っ張っていて、この政局の勝利に賭けていたフシがある。結局、7/1の閣議決定を阻止することはできず、朝日は政争に敗れた格好になり、右派が反動のバネで猛然と巻き返し、堰が決壊したように、1か月後の従軍慰安婦の誤報訂正の事件へと流れ込む展開になる。右派が編集部を支配し、紙面が大きく変わり、読売と全く変わらぬ編集と論調になった。その濁流がさらに勢いを増していて、とめどない朝日の右傾化となっている。

3月下旬、4月から紙面が新しくなりますという宣伝の中に、佐伯啓思がコラムを担当するという予告が何度も出ていた。1面の右に顔写真を出して大きく告知していて、嫌でも目に入ってしまう。朝日の読売化を象徴する一事であり、憂鬱に塞ぎ込んだが、見なきゃいいや、黙殺に徹しようという気分でその場を済ませていた。精神衛生に悪いから無視して忘れるにかぎる、意識するまい、話題にはするまいという処理で流した。しかし、反動右翼の巨魁たる佐伯啓思のコラム登場は、私が思っていたほど甘い事態ではないことが判明した。この佞悪な男は、戦略を携えて朝日に登壇してきたのだ。私は、単に朝日が読売色を深めるための象徴的な動きとしてこの不愉快な人事を捉えていて、つまり、佐伯啓思が邪悪な名誉欲を満足させるために朝日のコラムニストの地位を得たのだろうぐらいに軽く考えていた。そうではなく、具体的な奸計の狙いがあり、左から「憲法改正」に賛同する動機と論拠を作り、左から護憲派を切り崩す狙いで、朝日でキャンペーンを張るべく用意周到に出撃してきたのだ。狡猾で猛毒のシナリオが仕組まれていたのである。4/3の佐伯啓思のコラムと4/7の池澤夏樹の論稿は、主張としてぴったり符牒が合う。それは、朝日の読者である左派に対する「改憲のススメ」の説教に他ならない。

池澤夏樹の「左折の改憲」については、ネットですでに議論されているし、ここで論理を紹介することはしないが、簡単に言えば、自主憲法制定論の左版である。この国の憲法は占領軍に与えられたもので、だから属国の憲法であり、そのため日米安保条約で基地を押しつけられても文句を言えない。主権国家として自ら改憲して憲法を制定し直し、真の独立国となって米軍基地を国内から一掃すべきだ、という主張である。別に池澤夏樹が言い始めた説法ではなく、過去にもどこかで聞いた覚えがある節回しだ。一見、正論に聞こえるが、こういう主張を今の政治状況の中で発するということの意味を考えると、裏にある黒い思惑を疑わざるを得ないし、きわめて危険な毒性を孕んだ言説だということは、護憲の立場の者なら誰でも本能的に察知できる。このように左側に改憲の論理的拠点ができると、改憲派は右と左の両側から護憲派を挟撃することができ、護憲派を少数派の政治表象に追い込むことが容易になる。その構図が出来上がると、護憲派は頑迷で固陋なアナクロ表象へと化学変化し、政治的正当性の説得力を著しく失う状況に至る。日本人というのは、自らの原理的立場を固持することが苦手で、空気を読んで皆と合わせようとする衝動が特に強いから、少数派で孤立することを嫌い、すぐに多数派に歩み寄って混ざろうとする。

そうした日本人の心的特性を巧妙に計算し利用して、改憲派たる右翼勢力は、これまで数かぎりなく延々と、護憲派の孤立表象を演出し強調する言論工作を行ってきた。そして、リベラルと目される言論人がその動きに与し、多くは(対価を得て)意図的に、ときに意図せず、右翼の世論工作に加担し協力してきた。推測するなら、朝日の編集部の中でプログラムが組まれていて、まず佐伯啓思にアドバルーンを上げさせ、池澤夏樹にそれに続かせ、世間の反応具合を窺った上で、次に準備している裏切り系リベラル文化人を繰り出して行くという寸法なのだろう。佐伯啓思と池澤夏樹の改憲論の論旨は滑稽なほど共通していて、そのキーワードは「主権回復」である。日本は正式な主権国家ではなく、主権国家でない国の憲法には正当性がないから、改めて自前の憲法を制定し直せという議論だ。改憲派の「釣り」の論法である。釣りは釣りだけれど、それが囮の餌だと知らない若い世代も少なくないから、改憲派は朝日という絶好の釣り場で、その釣りを試してみようという計略に出た。「主権回復」論を餌にした「左折の改憲」論は、まさに転向の道具であり、護憲派の中で動揺し始めた部分を転向に引き込む誘いの理屈である。理屈そのものに目新しさはなく、効力も特にないのだけれど、「リベラル」の朝日が釣り場に編成替えされた点がこれまでと決定的に違う。

池澤夏樹はどうして転向したのだろう。客観的に見れば、それが転向であることは歴然で、憲法の遵守を願う市民を失望させる醜い裏切りであることは明白だ。まさか、金銭で買収されたということはあるまい。ここで想起するのは、丸山真男の『自己内対話』での1956年の言葉である。「知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリズムの転向から始まる。テーマは改憲問題」。この丸山真男の寸言は、辺見庸が2001年に連載していたサンデー毎日のエッセイで紹介され、『永遠の不服従のために』の本の中に『裏切りの季節』というタイトルで所収されている。この秀逸な小論の作品については、9年前と5年前のBlogでも論じた。60年前の過去の言葉だけれど、今日を射抜いた至高の指摘であり、丸山真男の慧眼と思想家としての普遍性に誰もが圧倒されて息を呑む。丸山真男というのは常にこうなのであり、半世紀以上前の文章を読んで目の前に立ち上がるのは、いま進行中の生々しい日本の現実政治なのだ。政治学の見地から、もう一つ、関連して丸山真男の議論を説明する必要があるだろう。この寸言をもう少し展開した論文がある。1952年の「『現実』主義の陥穽」だ。知識人の習性という問題に踏み込んで、「現実」に順応し屈服してしまいがちな知識人の内面の弱点を分析している。

「私は特に知識人特有の弱点に言及しないわけには行きません。それは何かといえば、知識人はなまじ理論を持っているだけに、しばしば自己の意図に副わない『現実』の進展に対しても、いつの間にかこれを合理化し正当化する理窟をこしらえ上げて良心を満足させてしまうということです。既成事実への屈服が屈服として意識されている間はまだいいのです。その限りで自分の立場と既成事実との間の緊張関係は存続しています。ところが本来気の弱い知識人は、やがてこの緊張に堪えきれずに、そのギャップを、自分の側からの歩み寄りによって埋めて行こうとします。そこにお手のものの思想や学問が動員されてくるのです。しかも人間の果てしない自己欺瞞の力によって、この実質的な屈服はもはや決して屈服として受け取られず、自分の本来の立場の『発展』と考えられることで、スムーズに昨日の自己と接続されるわけです。嘗ての自由主義的ないし進歩的知識人の少なからずは、こうして日華事変を、新体制運動を、翼賛会を、大東亜共栄圏を、太平洋戦争を合理化して行きました。一たびは悲劇と言えましょう。しかし再度知識人がこの過ちを冒したら、それはもはや茶番でしかありません。私達の眼前にある再軍備問題においても、善意からにせよ悪意からにせよ、右のような先手を打つ式の危険な考え方が早くも現れています」(未来社 『現代政治の思想と行動』 旧版 P.179-180)。

この最後の一文の「再軍備」を「改憲」に置き換えたらどうだろう。丸山真男が喝破しているとおり、おそらく、池澤夏樹は改憲をめぐる緊張に堪えきれず、自分の方から先取りして、改憲を合理化する論拠を組み立て、現在と改憲後の将来の自己満足(自己正当化の安住の地)を得ようとしているのだ。これまでずっと護憲で論陣を張ってきた文化人たちは、改憲という現実を突きつけられることによって、言わば敗北を刻印され、思想的敗者の立場に立つことになる。その恐怖と焦躁と煩悶があり、精神的苦悩から逃れようとして、文化人たちは先の地平を模索するのであり、正しいことを言っていたのに負けたという屈辱を負うのではなく、自分が予想し提言したとおりになったという(予言者としての)未来の成功の境地を得ようとするのだ。丸山真男の言う知識人の心の弱さの習性とは、具体的にこういう心理メカニズムだと思われる。悪い方に転んだ現実の結果と、その悪夢を見越した上で妥協策を提言した過去が、その知識人の「正当性」を担保する形になるのだ。もし、現実に改憲がされ、改憲を支持する世論が多数になった社会に至ったときは、池澤夏樹は「先見の明のある知識人」という評価になり、左翼リベラルももっと早くから池澤夏樹の提案に即き、「積極的改憲論」(左折)に打って出ていればよかったという認識になるだろう。池澤夏樹が転向者として責められるのは、もっとずっと先の、中国との戦争が終わった後になるに違いない。

再度、丸山真男の時空を超えた寸言の呟きの前に立とう。「知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリズムの転向から始まる。テーマは改憲問題」。
スポンサーサイト

| 未分類 | コメント(0)

コメント

非公開コメント

トラックバック

http://kimuramasahiko.blog.fc2.com/tb.php/2719-0a3ad66b