中国史上最も有名な武術家は李書文ではない!李書文と八極拳は中国本土ではマイナーで中国本土では黄飛鴻が最も有名な武術家で中国人ならだれでも知っている! 実は中国本土では八極拳はマイナーで拳児で格下扱いの洪家拳こと洪拳の方が断然メジャーだったりする!ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ

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黄飛鴻





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黄飛鴻


プロフィール


出生:
1847年8月19日
(清道光27年7月9日)

死去:
1924年4月28日(民国13年3月25日)
中華民国の旗 中華民国広東省広州市

出身地:
清の旗 清広東省広州府南海県西樵嶺西禄舟村

職業:
武術家、医師

各種表記


繁体字:
黄飛鴻

簡体字:
黄飞鸿

拼音:
Huáng Fēihóng
Wòhng Fèihùhng(粤ピン音)

和名表記:
こう ひこう

発音転記:
ウォン・フェイホン(広東語)
フアン・フェイホン(北京語)

ラテン字:
Wong Fei-hung
Huang Fei-hung
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黄 飛鴻(こう ひこう 繁体字: 黃飛鴻; 簡体字: 黄飞鸿; ピン音: Huáng Fēihóng ; ウェード式: Huang Fei-hung, Wong Fei-hung; 粤拼: Wòhng Fèihùhng)は清末民初の武術家、医師である。元の名は黄錫祥、字は達雲、幼名を黄飛熊と名乗る。原籍は広東省広州府南海県(現・仏山市)西樵嶺西禄舟村、嶺南武術宗師であり名医。

中国最後の王朝・清朝末期の時代に活躍した武術家で、中国近代史上では最大の英雄とされる。



目次 [非表示]
1 年譜
2 武歴と評価
3 無影脚
4 映画世界一 4.1 黄飛鴻と香港映画の関係

5 その他


年譜[編集]
道光27年(1847年) 広東南海で生まれる。
咸豊3年(1853年) 5歳で父の黄麒英から武術を習い始める。
咸豊9年(1859年) 父とともに佛山、広州、順徳など各地で武術を演じる。棍の達人を破り”少年英雄”の名を得る。
咸豊10年(1860年) 13歳のとき、佛山豆豉巷で武術を演じているとき広東十虎の鐵橋三の高弟林福成の弟子となり、2年間学び鐵綫拳や飛鉈を習得する。
同治2年(1863年) 広州に移り住み「寶芝林」館主となって第七甫で労働者たちに武術を教え始め、この後は見世物の武術を演じなくなった。
同治4年(1865年) 広州の野菜、果物、魚の三組合から武術教練を依頼され、武術を教える。
同治5年(1866年) 西樵官山で盗賊団に遭遇して一人で数十人の盗賊団を撃退する。
同治6年(1867年) 西洋人が企画した「素手で猛犬を倒せたら賞金」の賭けに挑戦し無影脚で瞬殺、その名を轟かせる。
光緒14年(1888年) 黒旗軍の劉永福に武術教官に招かれ、劉永福より「醫藝精通」の額を贈られる。
民国13年(1924年) 広州城西方便医院で逝去。

武歴と評価[編集]





仏山黄飛鴻紀念館の入口
父であり「広東十傑」の1人に称された武術家・黄麒英(ウォン・ケイイン)の息子で、父より南派少林拳の一派である「洪家拳(こうかけん)」を叩き込まれ父と共に修行の流転旅を続ける少年期を送るが、その技は13歳の時点では既に道場主に匹敵するほどの完成度であり「少年英雄」と称される。

成長した飛鴻は父と共に各地で武者修行を続けるが、同治2年(1863年)父の死に伴い、父が経営していた漢方薬局兼拳法道場である宝芝林の跡目を継ぐ。欧米列強の進出に伴い荒れる時代を予測して農民たちに武道を教え、自警団を率い民間レベルで治安の混乱を防いだ。やがて官軍や警察などにも同様に洪家拳を教授し、動乱時代の国の治安維持に尽くした人物として現在も評価が高い。

彼の伝えた武技は虎拳(伏虎拳、工字伏虎拳)、鉄線拳、十毒手、梅花拳、梅花十字拳、夜虎出林、二龍争珠、三箭拳、五郎八卦棍、胡蝶子母刀、飛鉈など多岐にわたり、高級技法として五形拳(龍形・蛇形・虎形・豹形・鶴形と金行・木行・水行・火行・土行の陰陽五行を相克させた拳法)と十形拳(龍・蛇・虎・豹・鶴・獅・象・馬・猴・彪)を学ぶ。飛鴻は中でも「虎形拳」を大変得意とし武術仲間から「虎痴」とあだ名されるほど多用したと言われる。また父・黄麒英伝の五郎八卦棍や少林五虎の1人・鉄橋三(本名:梁坤)の弟子「林福成」から学んだ鉄線拳を練習すると、屋根瓦が震えるほどの剛強な呼吸法だったと言われる。

さらに獅子舞の名手としても知られ、その技術の高さから「獅子王」という称号も持つ。

民国13年(1924年)没。

仏山市の中心地区にある祖廟の隣接地に「佛山黄飛鴻紀念館」が作られ、家族の紹介や関連映画、粤劇、武侠小説に関する展示などが行われているほか、演武や獅子舞が披露されている。

無影脚[編集]

彼の代表的な(伝説的な)技として有名なのが「無影脚」。正式な技の名称ではないがその素早さは疾風の如く、地面に足の影さえ映る暇もないほどだったことからこの名で称された素早い連続足技である。もともと足技主体の北派少林拳の一種の燕青拳の技だったが、飛鴻は北派の武術家・宋輝堂と自分が伝承してきた洪家拳の技の1つ「鉄線拳」とこの足技を交換教授して会得し、以後は自分の代名詞となるほどに磨き上げていった。

無影脚についての公式な試合記録は数点現存しているがいずれもその脅威の速度と破壊力に言及しており、足技においては「彼以前も以降もない」とされている。

例えば同治6年(1867年)に香港で英国人実業家が見せ物として企画した「猛犬を素手で倒せたら賞金」というイベントに成り行きで参加しているが巨大な闘犬によって多くの挑戦者が大怪我を負う中、飛鴻の恐るべき速度の蹴り技によって一瞬で犬は絶命したと当時の記録に残されている。

映画世界一[編集]

飛鴻の没直後から、中国各地の新聞や雑誌などで黄飛鴻の伝記小説や武勇伝が盛んに連載されたことを機に一気に飛鴻の伝説は広まる。彼を題材とした映画は、第二次世界大戦後である民国38年(1949年)に制作された『黄飛鴻傳上集・鞭風滅燭』(関徳興(クワン・タッヒン)主演。關は武術家でもあり、粤劇の人気舞台俳優だった)が最初であるが以降おびただしい数の飛鴻映画が製作され、2007年現在までに香港で製作された飛鴻を描くカンフー映画は84本にのぼり、これは同一題材で製作された映画の数としては現在世界最多でギネスブックに掲載されている。彼を主人公にした作品で日本でも著名なものは、『ドランクモンキー 酔拳』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズなどがある。

黄飛鴻と香港映画の関係[編集]

飛鴻の弟子の1人であり彼の片腕とされた武術家・林世榮(ラム・サイウィン)の弟子、すなわち飛鴻の孫弟子にあたる劉湛(ラウ・ジャーン)の息子が劉家良(ラウ・カーリョン)である。飛鴻直系と言われる洪家拳を父から学んだ劉家良はその完成度の高さから「洪家宗師」と称されるが、もともと父が武術家としての傍らアクション映画に端役で出演していたことから映画関係にも明るく、やがてショウ・ブラザースを始め数多くの香港映画界でカンフー映画の武術指導を手がけ、自身も多くに出演するなどして香港カンフー映画の隆盛を支えた。なお前述の新聞等で連載された飛鴻の小説の作者・朱愚斎も、本来は林正榮の弟子の武術家である。

その他[編集]

日本の作家東城太郎も、黄飛鴻を主人公とした活劇小説を3冊刊行している。また、梶研吾によるシャーロック・ホームズを主人公とした小説『バトル・ホームズ』シリーズの2巻にも、黄飛鴻が登場する。 又、一説によれば黄飛鴻は、1848年の8月18日生まれとあり、享年75か76とある。これは、「大図解」カンフーの必殺技や「決定版」中国武術最強の必殺技FILEと言う名の本によるもの。台湾のゲームメーカーIGSが発売した対戦格闘ゲーム『形意拳』は黄飛鴻をモチーフとしているが、日本で発売されたバージョンでは全て架空の人物名に改変されている。

http://www.geocities.jp/hajon_in/once-upon-a-time-in-china.html

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ







さて、今回はジェット・リー(リー・リンチェイ)の代表作ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナシリーズである。

え?ブルース・リーが「燃えよドラゴン」でジャッキーが「酔拳」ときたんだからリンチェイならまず「少林寺」だろうって?
まぁ、順番から行けばそうかもしれないし、実際「少林寺DVD BOX」も持ってるんだけど
こっちの方が好きなんだもん。
まぁ、いずれ「少林寺シリーズ」の方はレビューします。

しかし、このワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナシリーズは全部で3作(天地黎明、天地大乱、天地争覇)
あるため、全部を事細かに解説するときついので、全体のシリーズとしてレビューしたい。

主役のリンチェイ(どうも「ジェット」ってのはしっくりこないので、こっちで呼びます)が演じているのは、
ジャッキーが「酔拳」で演じたものと同じく、中国の英雄「黄飛鴻」です。
ジャッキーはおふざけ黄飛鴻を演じたけど、リンチェイの黄飛鴻はモロ正当派。
「強く」「正義感があり」「自分に厳しい」
とお堅いヒーローを演じています。

とにかくこのシリーズを通して、まぁ、リンチェイ黄飛鴻が強いこと強いこと。
負けることはおろか、まともに殴られることすら殆どありません。
おそらくこれは「黄飛鴻は武術の超達人で、彼にかなう者などいなかった」という前提が
こういうヒーロー像を生み出してしまったのではないだろうか。
しかし、実はこの大前提は映画を見る側からすれば非常にマイナスに働いてしまうのである。
だってそうでしょう?始めっから勝つと思って見ていたら緊張感も何もあったもんじゃない。
ヒーローが悪者に負けそうになってこそ、観客は「がんばれ!負けるな!」と感情移入をしてくるのだ。
スーパーマンやウルトラマンだって、一旦は負けそうになるもんです。
そして最後にヒーローが逆転して「やったー!!」となるのが普通であろう。

しかし、このリンチェイ黄飛鴻は殆ど負けそうになることがない。
ではどうやって、観客に緊張感を持たせていたのか。
それはズバリ「バランス」である。

この3作において非常に共通するのが「不安定な場所での戦い」である。
1作目では、ラストにイム師範と穀物工場のはしごの上で戦い、
2作目では白蓮教祖と机をくみ上げた台座の上で戦い、
3作目では中盤油のまかれた床で戦うし、ラストもやぐらの上で戦う。
まともに地面の上で戦っている場面が非常に少ないのが分かると思う。
つまり、武術の実力で黄飛鴻を越えるキャラが出ることはなく、それだと黄飛鴻が楽勝で敵に勝ってしまうので、
黄飛鴻を不安定な場所に置き、観客の「ヒーローが危ない!」という気持ちを煽っているのだ。
でも、敵も足場が不安定なので結局黄飛鴻が勝つんだけどね。




さて、簡単に3作を紹介しておこう。
●1作目「天地黎明」
中国には徐々に西洋化の波が押し寄せ、中国人を奴隷として使おうと企むアメリカ人や中国を統治しようとする
イギリス、また地元のチンピラ等も絡んで来る中、黄飛鴻が悪人を次々に倒していくというもの。
道場破りよろしく、黄飛鴻に戦いを挑むイム師範も現れ、黄飛鴻はどう戦うのか!?
と言った内容。
クンフーシーンが一番多いのはこの作品だと思う。
クンフーがみたいならこれを見ましょう。

●2作目「天地大乱」
世は外国人排斥運動のまっただ中。
1作目とは反対に今度は外国人が中国人に攻められている。
その中心となっているのがカルト教団の「白蓮教」
そして、そんな世の中をまっとうにしようとする中国の雄「孫文」率いる「革命派」
革命派を捉えようとしている「朝廷側」
そして何よりも人命を優先する黄飛鴻。
これらが複雑に絡み合う非常に見応えのあるストーリー。
1作目よりはクンフーシーンは少ないが、アクションの切れは上がっている。
全3作の中で最も評価の高い作品。
2度、3度と見ると実に念入りに作られた作品と分かる。オススメっす。

●3作目「天地争覇」
父親に結婚の許しを貰いに行ったところ、獅子舞大会に巻き込まれる黄飛鴻。
(あれ?1行で済んじゃった。)
そんなわけないだろうと思うでしょう。
いや、実際に見ると細かい複線はあるにしろ、大筋はほんとにこれだけなんですよ。
2作目に比べるとどうしても見劣りしてしまいますし、ワイヤーアクションもなにか、
ひねりすぎって感じがしてしまうんですよね。
アクションを見て、「スゲー!」っていうより「んなわけないやん」っていう思いが先に来てしまうのです。
獅子舞をみるのが好きだというかたはどうぞ。(いるのか?)




☆中国文化における獅子舞
ちょっと書きましたが、このシリーズでは獅子舞がよく出てくるんですよね。
1作目のオープニングも獅子舞からだし、3作目では獅子舞大会がもろに話の大筋だし。
リンチェイは他の「阿羅漢」でも獅子舞やってるし、ジャッキーも「ヤングマスター」で獅子舞してます。
私はよく分からないけど、中国でこの手のシーンが上映されてる時って盛り上がってるんだろうか?
だれか知ってたら教えてほしい。

☆音楽
音楽が実にいいですね。
テーマソングなんて、歌詞が最高です。
「男なら自分を鍛えよ」ってとこが好きです。
BGMも良いですね。
特に2作目のラストで孫文が旗を広げるところのBGMが一番好きです。
是非聞いてみて。

☆リンチェイの体術
最後になりましたが、このシリーズの一番の魅力は間違いなくこれです。
とにかく素晴らしいの一言。
蹴り、突き、さばき、構え どれをとっても「美しい」です。
1作目の戯劇舞台の前で敵に取り囲まれ、棍を構えるリンチェイはそのたたずまいだけで、実に画になります。
ダンスで言えばジャッキーの体術は「ブレイクダンス」
リンチェイの体術は「バレエ」ってな感じでしょうか。 ついみとれてしまいます。
是非見てみて。




とまぁ、長々と解説してきましたが、このワンチャイシリーズってこれ以降いっぱい作られてるんですよ。
でもリンチェイが主役張ってるのはこの3作と外伝のワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカです。
「ワンス~アメリカ」は見てないのでどんな作品か分かりませんが、他の香港映画サイトでの評判はあまり
よろしくないみたいなので購入する予定はいまのところないです。

ひとつくらい何か見てみようと思うなら、2作目がオススメです。
もちろん全部みても面白いですけどね!

http://takeichi3.exblog.jp/18020803

黄飛鴻の真実。。。




中国の武術家の中で、最も多く映像化されている≪黄飛鴻≫
実際の彼は、本当に映画と同じようなヒーロー的存在だったのか?を検証している番組です。





黄鴻飛は、実際、映像で見られるような人物だったのか?
その容貌は、彼を演じた役者たちのようにカッコよかったのでしょうか?
ネットで黄飛鴻の写真を探すと、必ずこの一枚に出会います。言い伝えによると、これは黄が唯一残した写真と言われています。ですが、意外なことに、ある人が「これは黄ではない」と言い出しました。これは一体どういうことでしょう。

この写真は、仏山にある黄飛鴻記念館に展示されているもの。
黄飛鴻の伝承者が、「これは黄飛鴻ではなく、彼の息子黄漢熙の中年期写真」と、意義を唱えました、
四番目の妻莫桂蘭が、生前にいつも「黄漢熙が黄飛鴻に一番似ていた」と言っていたと。。。

黄飛鴻の写真は戦火で全て焼けてしまったので、妻の手元には彼の写真は残ってはいませんでした。
ある時、香港の雑誌記者が訪れ、黄飛鴻の容貌について莫桂蘭に尋ねた時に、彼女が取り出したのは黄漢熙の写真~「黄飛鴻の生前の様子に一番似ているものです」~記者は、立ち去る時にこの写真を借りて行きました。

その後、雑誌記者に問題が発生。この写真は行方不明となってしまいました。
黄家の人々は雑誌社に写真の行方を問い合わせましたが、「無くなった」というばかり。
この写真、2001年に黄飛鴻唯一の写真として出現、記念館に飾られました。

黄飛鴻の第四夫人莫桂藍によると、黄飛鴻は大柄で三尺六寸のシャツを着ていたと。。。
このような体格が、映画の中の見栄えのよい黄飛鴻とは異なっています。

見かけ以外に、映画と実際の黄飛鴻と異なるところは?
映画の中で見られるように武芸に秀でて強かったのでしょうか?
又、義侠心に溢れていたのでしょうか?彼の側にには、十三姨はいたのでしょうか?

黄飛鴻は、霍元甲、大刀王五、薫海川、燕子李三等と肩を並べて「清末十大高手」と言われています。

仏山黄飛鴻記念館に収蔵されている彼の年表を見てみましょう。ここに記録されています。
黄飛鴻、原名黄錫祥字達雲、1847年農歴7月初9広東仏山に出生。
1853年より父黄麒英より武術を学び始める。
1859年父に随いて、広州順徳一体で見世物を生業とする。

仏山は広州から車で半時間ほどの距離。昔から水路交易で栄えていました。
広東、北、西~三つの地域からの物流交易の中心地だったこともあり、当時は四大名鎮のトップ。
経済が発展していたので、余所者の芸人たちも稼ぐことができました。そして、経済の発展に伴って、ボディーガードなど警護が必要になって⇒仏山周辺には武術を学ぶ人が多く、黄飛鴻が生まれた清末の仏山は習武が最も盛んになっていました。

こんな環境下、黄飛鴻は12,3歳の頃から頭角を現し始めました。
少年黄飛鴻が大人たちを打ち負かしていく魅力に多くの人々が集まってきました。

映画≪少年黄飛鴻之鉄馬≫の中、街中で売芸をしている場面があります。
黄飛鴻と父の生活は決して楽ではありませんでした。彼の父は広東十虎の一人。仏山でも有名な武林高手でしたが、父子は街角で芸を売ることで生計を立てていました。12歳の黄飛鴻は、毎日、父と共に見世物をする場所を探しては芸を売っていました。黄飛鴻の武術レベルは、どれほどだったのでしょう?

ある日、黄飛鴻が表演を終えたばかりのところ、一通の挑戦状を受け取りました。
挑戦状を書いたのは、かなり腕利きの武術家≪鄭大雄≫。鄭自身も街角で芸を売っていましたが、黄飛鴻の人気が高かったので、面白くなかったのでしょう。そこで、小さな子供に対して挑戦状を送ったのです。彼らは、どんな風に競ったのでしょう?

黄飛鴻の三代伝承者余志偉の記述によると、
鄭大雄という有名な拳師と戦った時、鄭は釣魚棍を持って来ました。利益が絡んでいたため、彼は棍を持って黄飛鴻に挑んできたのです。

父親の黄麒英は黄飛鴻に鄭と戦うように促しました。
その時、黄飛鴻が戦った棍法は洪家四象標龍棍。棍を振り翳すや否や、鄭大雄を打ちのめしていました。この戦いは、黄飛鴻の名を高めました。その日、仏山の人々は、少年の名を記憶に刻みました。この事実が、幼かった黄飛鴻の功夫が優れていたことを語っています。

その後、彼の功夫がレベルアップする出来事が。
黄飛鴻の功夫は、彼の父親から伝えられました。黄麒英は、広東の陸阿采から学び~陸阿采は洪熙宮の師弟で、洪熙官の武芸をものにして南拳王と称されていました。彼が黄麒英に伝えたのは虎鶴双形拳。ですので、黄飛鴻が学んだのは、南少林派の武功。

ある日、黄飛鴻親子が表演場所を探していた時に、仏山豆鼓巷付近で一人の老人が売芸しているのに出くわしました。縄に鉄の錘をつけて振り回し~その素早い動きから、一目で武林高手だというのは分かりました。

その武功に魅入られた黄飛鴻。
その時、脇道からいきなり駆け出してきた人がいました。老人は縄を引き戻そうとしましたが間に合わず、頭に当たってしまい、傷を負わせてしまいます。周りの人々は、即座に老人を捕まえて警察に連れて行こうとしましたが、黄飛鴻親子が急いで怪我人に駆け寄って手当をしたので、事なきを得ました。

この、飛舞鉄錘を表演していた老人は≪林福成≫という鉄橋三の高弟。
鉄橋三もまた広東十虎の一人。親子の行動に感謝した林福成は、黄飛鴻に鉄線拳と飛鉈などの絶技を教え~一年後、これを学び終えた黄飛鴻の武芸は更にアップ。父ですら敵わなくなっていました。

改めて、黄飛鴻の武功は?
ここに何冊かの拳譜があります。どれも黄飛鴻の絶技です。双飛鉈、鉄線拳、虎鶴双形拳、工字伏虎拳、四象標龍棍、五郎八卦棍、、、




四番目の妻、莫桂藍によると、黄が得意としていたのは虎鶴双形拳と飛鉈。
彼の虎鶴双形拳は、黄飛鴻が学んだ各派の拳を基本に彼が改良したもの⇒黄飛鴻独自のものとなって、広く世界に伝わっていきました。

残っている拳譜は、黄自身で書いたものではなく、死後に弟子たちが整理したものです。。
よく聞く、彼の絶技≪仏山無影脚≫は、実際にあったのでしょうか?

伝承者の言葉を。。。
「無影脚。私が思うに~武術家たちの誰かがつけた称号。影が無いなんて有り得ない」⇒無影脚という絶技は無かったようです。

黄飛鴻の獅子舞の腕前が見事だったのは事実です。。
彼が活躍した年代には、多くの武術館で舞獅子を行っていました。武術館同士の戦いも、拳ではなく舞獅子(=実力と功夫)で対応していました。

映画の中の黄飛鴻は、優雅で生活には困っていないような感じですが、実際は?
かなり浮き沈みがあった様子。経済状態も余裕があったとは言い兼ねます。
チャンスは、二回ありました⇒広州水師武術教錬⇒最初の高潮期⇒軍に武術を指導する傍ら、自身の武術館も開きました。

その暮らしは十三年後の1886年に父親が亡くなるまで続き~その後に軍から退いて、接骨医館≪宝芝林≫を開きます。その時、黄飛鴻は三十歳に満たない年齢でした。

黄飛鴻の医館が有名だったのは、映画からも窺えます。
宝芝院⇒教育を受けていなかった黄飛鴻は、店の名前を考えましたが、なかなか思い浮かばずにいましたが、折よく、弟子の一人が進学試験に合格~祝いに贈った一対の掛幕に書かれた「宝剣謄霄漢 芝花遍上林」という言葉の中の文字を組み合わせて店の名前としたのです。

黄飛鴻の医療技術は?
本を読むのが嫌いだった彼の医療技術が高かったはずはないと言う人もいますが、、、
1888年、黒旗軍リーダー劉永福の怪我を治したという事実が残っています。
馬から落ちて、治療が困難と言われている部位を痛めた劉永服は、宝芝院の医師の腕がいいと聞きいて赴いた。黄飛鴻は、「一週間ほど入院していれば直る」と~喜んだ劉永服は、≪医芸精通≫と記した桟を贈りました。

劉永福は、黄飛鴻を軍医及び武術教錬として迎えます=彼の医術と武術のいずれもレベルが高かった。

その後、日中戦争が始まり、劉永福と共に黄飛鴻も台湾に向かいます。
台湾の日々についての記載はありませんが、彼の人生の中で第二の高潮期だったことでしょう。
その後、日中両国が馬関条約を交わしたことにより、広州に戻ってきますが、帰国してからは意気消沈して、店前に「武芸功夫難以伝承、千金不伝求師莫等」と記した紙を貼り~武術を教えることはなく、静かな生活を送るようになります。

映画、≪黄飛鴻≫で見る彼の身辺には、流行の衣装を身に纏った美女≪十三姨≫が登場しますが、実際にはそんな人物は存在していません。

黄飛鴻は、四回結婚しています。
初めは、1871年。24歳の時に父の勧めで結婚しましたが、結婚の三か月後に病死。
二度目は、49歳の頃。二度目の妻は、四人の子供を産んで病死。三度目の妻は、二人の子供を産んで病死。

六人の子供を抱えて~時代は、社会情勢が不安定だった辛亥革命前⇒稼ぐのは簡単ではない⇒黄飛鴻伝記には、60~70歳の黄飛鴻は、生活費を稼ぐために、あちこちに出かけて舞獅子表演をしていたと記されています。

三人の妻が共に病死~その後は誰も彼に新しい妻を紹介しなかった⇒ここまで、十三姨の姿は見当りません。



では、第四夫人の莫桂蘭は?
莫桂蘭と黄飛鴻は、どのように知り合ったのでしょう?

1911年端午節、64歳の黄飛鴻が梅花桩の上で表演している時に布靴が脱げ、下で見ていた19歳の莫桂蘭に当たりました。気が強かった彼女は、梅花桩に飛び乗ると黄飛鴻に平手打ちを浴びせました。自分が打たれるとは思っていなかった黄飛鴻は、咄嗟に莫桂蘭の手を抑え~ですが、相手が少女だと知ると、その手を緩めて謝ったのです。

その後、莫桂蘭の叔父が黄飛鴻に詫びを入れるために訪れました。こんな風に二人は知り合ったのです。
何度か会ううちに互いの理解は深まって~叔父は結婚を勧めましたが、黄飛鴻は妻を不幸にすることを避けようと、莫桂蘭を妾として家に入れたのです。

黄飛鴻の周辺には十三姨の存在は見当たりませんでしたが、莫桂蘭がその原型なのでしょうか?

伝承人の意見では、、、
実際的に大きな違いがあります。映画の十三姨は、とてもモダン。写真は撮るし、スカートを穿いているし~桂蘭の恰好はありきたり。

清末の滅亡、民国建立~などと激動の時代を生きた黄飛鴻。
そして、広州は革命運動が頻発していた地域。彼の一生も又、落ち着かないものでした。

その後の内戦期に店を火災で失い、気力喪失。
病に罹って~寝込んだまま、半年後の1925年農歴3月25日に78歳で死亡。当時、葬儀費用もまかなえないほど貧しくなっていて、弟子たちがお金を出し合って広州白雲山麓に葬りました。

http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/hk1-4.htm

黄飛鴻(ウォン・フェイフォン)
 今さら言うまでもないだろうが、実在の人物である。


 1847年、清朝時代の中国広東省生まれ。
この1847年という年は日本で言えば幕末、ペリー来航(1853年)前夜、欧米の艦隊が南シナ海・東シナ海へ向け大挙押し寄せていた時代である。
当時の中国は1840年に起こったアヘン戦争によりイギリスの勢力下に入り、1844年にはフランス、アメリカの圧力により開国を迫られている。
1851年には民衆が大蜂起する太平天国の乱が起き、まさに動乱の時代。


 黄飛鴻の父は広東十虎にも数えられたウォン・カイヤン(黄麒英)という人物。
父の黄麒英は、ボランティアで広東将軍所統兵団の武術インストラクターをするほどの人物。「宝芝林」という名前の漢方薬局店と拳法の道場経営で生計を立てていた。
そんななか、黄飛鴻は父や広東十虎のリーダー、リク・アーチョイ(鐵橋三)から南派少林拳の洪家拳を英才教育されたのである。


 黄飛鴻は「鉄線拳」「五形拳」「十字拳」など独自の拳法を創出、とくに「無影脚」という技は“影が出来ないほど早い蹴り”と言われるくらい凄い技だったという。
晩年は清朝「黒旗軍」の総教頭や民軍総教練などをつとめ、1924年に77歳で没している。


 この黄飛鴻を国民的英雄に仕立て上げたのは、彼の弟子だったズー・ユザイ(朱愚斎)だ。
ズー・ユザイは小説家で、黄飛鴻の一生を小説にして新聞や雑誌で連載したところ大人気となったのが、そもそもの始まりである。
 この小説のヒットにより、他の作家や小説家達も黄飛鴻に関するものを書くようになり、次々と彼の偉業が掘り起こされていった。
クワン・タッヒンが主演した第1作目の『黄飛鴻傳・鞭風滅燭』は、ズー・ユザイの小説を多少誇張はしているものの、ほぼ史実に基づいた内容だったようだ。


 なお、日本で見ることが可能な主な黄飛鴻映画は以下のとおりである。


 ジャッキー・チェン主演
『ドランク・モンキー 酔拳』
『酔拳2』


 サモ・ハン・キンポー主演
『燃えよデブゴン7』


 リー・リンチェイ主演
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明』
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱』
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地争覇』
『ラスト・ヒーロー・イン・チャイナ 烈火風雲』


 ウィン・ツァオ主演
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ4 天地覇王』
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ5 天地撃攘』


 アラン・タム、レオン・カーファイ主演
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ外伝 天地笑覇』

http://www.eurus.dti.ne.jp/~nemoto/pages/Others/won.htm






広東省南海の人、1847年生まれ。黄飛熊とも。父の黄麒英は「広東十虎」の一人に数えられた武術の達人。黄麒英は息子には学問を修めさせたいと当初は武術を教授しなかったというが、十二歳頃には家伝の拳法をほぼ修得し、さらに黄麒英の師である陸阿采、また林福成、鐵橋三に師事したとされる。

 



広東十虎 鐵橋三、王隠林、蘇乞兒、鐔済筠、黄麒英、鐵指陳、蘇黒虎、黄澄可、鄒泰、黎仁超
東莞三傑 莫清嬌、皮碟、王老佐
少林五老(五雄) 五枚尼姑、白眉道人、憑道徳、至善和尚、苗顕
少林三雄 方孝玉、方美玉、方世玉
少林四侠女 苗翠花、陸阿采、方永春、紅小雲
少林八傑 陸飛鵬、竜彪、尚志、謝福、李錦綸、洪熙官、胡恵乾
少林七奸 李流芳、陳景昇、高進忠、宋承思、方魁、馬雄、白安福






流派は南派少林洪家拳で、始祖・洪煕官の直系の弟子。素早く的確な蹴り技は「無影脚」と賞された。「無影脚」はもともと女性武術家の技であったが、その夫である宋輝鏜から洪家鉄線拳の型と交換で教わったといわれる。

  鉄線拳は鉄橋三の創始した型であるが、鉄橋三の高弟・林福成が仏山の街頭で演舞中、誤って見物人に怪我を負わせてしまった際、治療を助けた黄飛鴻に感謝して伝授したとも。

黄飛鴻は、広東一の獅子舞の名手として知られ、「獅王」と称された。若い頃は広東第五連隊と広東民兵軍の総裁をつとめ,晩年は広州の西關仁安街で父の創立した医局兼武術道場の寳芝林を経営。革命の混乱で寳芝林が焼失した翌年の24年、病を得て城西方便病院にて没し、広州観陰山の山頂に葬られた。




 

 




世界で最も多くの映画の主人公になった人としてギネスブックにも記載されている(らしい)。最初の映画化は没後25年を経た1949年。

映画監督の胡鵬が友人の呉一嘯と香港を訪れた際、ふと目にした新聞に、黄飛鴻の孫弟子・朱愚斉が書いた黄飛鴻小説が掲載されていた。そこには呉一嘯が黄飛鴻直系の弟子だとの記述が。呉一嘯は朱愚斉の創作だと否定したが、黄飛鴻の物語に興味を持った胡鵬は映画化を企画。

こうして作られた映画が、監督・胡鵬、脚本・朱愚斉、主演・關德興の記念すべき黄飛鴻映画第1作「黄飛鴻傳上集・鞭風滅燭」である。以来、次々と關德興版黄飛鴻電影が世に送り出され、黄飛鴻は香港の英雄となった。 


 

<黄飛鴻の生きた時代>



黄飛鴻の生きた時代は、太平天国の乱から日清戦争、辛亥革命、中国共産党発足とまさに中国近代史の激動期。同時代人には、ワンチャイ2の主要人物の一人・孫文、ワンチャイ3に登場する李鴻章のほか、袁世凱、魯迅らがいる。阿片戦争の林則徐とはほぼ入れ違い。 





林則徐


李鴻章

魯迅



孫文













 

<ワンチャイ映画の時代設定>

 

 ワンチャイ4・5の冒頭では「劇中歴史人物、事件、乃作演義式演繹、非正史所載」と断られているが、ワンチャイ映画には黄飛鴻を始め実在の人物が登場し、歴史上の事件が背景になっていることも多い。ワンチャイ映画の時代設定を推察してみると・・・




 ワンチャイ1


製作当時のインタビューを見ると、徐克は1875年と設定していた模様。冒頭、これから遠征に出ようとする劉永福が登場するが、彼がベトナム防衛の功を認められ、その私設軍であった黒旗軍が正規政府軍として編入されたのが1884年のこと。

劉永福(1837~1917)
広東省人。太平天国革命に参加した後、ベトナムで黒旗軍を編成しフランスの侵略に対抗。清朝はこの抵抗運動に呼応し官軍を派遣、清仏戦争が勃発した。1885年の天津条約により清朝はベトナムの宗主権を放棄したが、劉永福はその後も日本の台湾領有や21ヶ条要求に抵抗する運動を展開した。


ワンチャイ2

冒頭で下関条約に反対するデモが背景に描かれており、1895年に設定されていることは明らか。

ワンチャイ3~5

この3作は時間的にほとんど連続しており、まずワンチャイ3では、ワンチャイ2の後かつ李鴻章が存命であることから、1895年から1901年の間と考えられるが、そのワンチャイ3の直後の話であるワンチャイ4のラストで八ヶ国連合軍の北京入城が言及されているので、1900年の事と特定できる。

 ワンチャイ4は、3のラスト・獅王争覇戦の直後から始まるので、やはり1900年の出来事。ちなみに4では義和団の女子別働隊とも言われる「紅灯照」が取り上げられているが、史実ではこの「紅灯照」が北京に出現したのは1900年6月と言われている。

 続くワンチャイ5も、4の最後からほとんど連続しているので、遅くとも1901年頃の設定だろう。余談ながら5に登場する海賊の親父は張保仔という実在した海賊だが、実際には1822年に死んでいる。張保仔の生年は不明だが、存命ならこの時点で100歳を超えていることは間違いないところ。

 さて、上記の推定年代が正しいとした上で、黄飛鴻の年齢を考えてみると、ワンチャイ1の時点では28歳。これは当時の李連杰の年齢とほぼ同じ。
 
 ワンチャイ1と2はほとんど連続しているような印象を受けるが、実はワンチャイ2は1から20年後の話であり、黄飛鴻は既に50歳に近いことになる。この時孫文は30歳前で、映画から受ける感じとはかなり異なり、黄飛鴻の息子といってもおかしくない年齢であった筈。

 まぁそれを言うならば、ワンチャイ3で初お目見えする黄飛鴻の父・黄麒英は既に40年近く前に死んでいる筈なのだが・・・・。ここらへんが「非正史所載」の所以か。








 

 




南海省西樵の人。子供の頃から生活のために武術を見せたり教えたりしていたが、それを見た陸阿采が武道家としての素質を見込み養子とし、唯一の弟子として五郎八卦棍という棒術の極意を伝授したとされる。黄麒英の成人後、陸阿采は武術を捨て医術の勉強をしていたといい、黄麒英も兵隊に武術を教えるかたわら生活費の足しにと薬草店を開き、これが後の寳芝林である。





























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