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ルワンダ虐殺





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ルワンダ虐殺


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ルワンダ虐殺(ルワンダぎゃくさつ、Rwandan Genocide)は、1994年にルワンダで発生したジェノサイドである。1994年4月6日に発生したルワンダ大統領のジュベナール・ハビャリマナとブルンジ大統領のンタリャミラの暗殺からルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧するまでの約100日間に、フツ系の政府とそれに同調するフツ過激派によって、多数のツチとフツ穏健派が殺害された[1]。正確な犠牲者数は明らかとなっていないが、およそ50万人から100万人の間[2]、すなわちルワンダ全国民の10%から20%の間と推測されている。

ルワンダ紛争の末期に発生。ルワンダ紛争は、フツ系政権および同政権を支援するフランス語圏アフリカ、フランス本国[3][4]と、主にツチ難民から構成されるルワンダ愛国戦線および同組織を支援するウガンダ政府との争いという歴史的経緯をもつ。ルワンダ紛争により、国内でツチ・フツ間の緊張が高まるとともにフツ・パワーと呼ばれるイデオロギーがひろがり、「国内外のツチはかつてのようにフツを奴隷とするつもりだ。我々はこれに対し手段を問わず抵抗しなければならない」という主張がフツ過激派側からなされた。1993年8月には、ハビャリマナ大統領により停戦命令が下され、ルワンダ愛国戦線との間にアルーシャ協定(英語版)が成立したが、その後もルワンダ愛国戦線の侵攻による北部地域におけるフツの大量移住や、南部地域のツチに対する断続的な虐殺行為などを含む紛争が続いた。

1994年4月に生じたハビャリマナの暗殺は、フツ過激派によるツチとフツ穏健派への大量虐殺の引き金となった。この虐殺は、フツ過激派政党と関連のあるフツ系民兵組織、すなわちインテラハムウェとインプザムガンビが主体となったことが知られている。また、虐殺行為を主導したのは、ハビャリマナ大統領の近親者からなるアカズと呼ばれるフツ・パワーの中枢組織であった。このルワンダ政権主導の大量虐殺行為によりアルーシャ協定(英語版)は破棄され、ツチ系のルワンダ愛国戦線とルワンダ軍による内戦と、ジェノサイドが同時進行した。最終的には、ルワンダ愛国戦線がルワンダ軍を撃破し、ルワンダ虐殺はルワンダ紛争とともに終結した。



目次 [非表示]
1 発生までの歴史的背景 1.1 ツチとフツの確立と対立
1.2 土地・食料・経済状況などの諸問題
1.3 ルワンダ紛争
1.4 組織的虐殺の準備
1.5 メディア・プロパガンダ
1.6 国際連合の動向
1.7 宗教界の動向

2 ハビャリマナ大統領の暗殺から虐殺初期まで
3 ジェノサイド 3.1 虐殺
3.2 ルワンダ虐殺下の強姦
3.3 ジェノサイド下におけるトゥワ
3.4 ジェノシデール

4 国際社会の対応 4.1 国際連合ルワンダ支援団の動向
4.2 フランスの動向
4.3 アメリカの動向

5 ルワンダ愛国戦線の再侵攻と戦争終結宣言
6 余波 6.1 政治的展開
6.2 経済的展開と社会的展開
6.3 ルワンダ国際戦犯法廷
6.4 追悼施設
6.5 メディアと大衆文化

7 修正主義への批判
8 ルワンダ虐殺を扱った映画作品 8.1 洋画
8.2 日本語に翻訳されたもの 8.2.1 ドキュメンタリー


9 ルワンダ虐殺を扱った文学作品 9.1 小説

10 脚注
11 出典・参考文献 11.1 英語資料
11.2 ドイツ語資料
11.3 日本語資料
11.4 日本語関連文献

12 関連項目
13 外部リンク


発生までの歴史的背景[編集]





ハム仮説(英語版)の提唱者、ジョン・ハニング・スピーク。
ルワンダ虐殺は部族対立の観点のみから語られることがあるが、ここに至るまでには多岐に渡る要因があった。まず、フツとツチという両民族に関しても、この2つの民族はもともと同一の由来を持ち、その境界が甚だ曖昧であったものを、ベルギー植民地時代に完全に異なった民族として隔てられたことが明らかとなっている[5]。また、民族の対立要因に関しても、歴史的要因のほかに1980年代後半の経済状況悪化による若者の失業率増加、人口の増加による土地をめぐっての対立、食料の不足、90年代初頭のルワンダ愛国戦線侵攻を受けたハビャリマナ政権によるツチ敵視の政策、ルワンダ愛国戦線に大きく譲歩した1993年8月のアルーシャ協定(英語版)により自身らの地位に危機感を抱いたフツ過激派の存在、一般人の識字率の低さに由来する権力への盲追的傾向などが挙げられる[6][7]。さらに、国連や世界各国の消極的な態度や状況分析の失敗[8]、ルワンダ宗教界による虐殺への関与[9]があったことが知られている。以下にこれらの各要因について説明する。

ツチとフツの確立と対立[編集]

詳細は「ツチとフツの起源」を参照

「ルワンダの歴史」を参照

19世紀にヨーロッパ人が到来すると、当時の人類学により、ルワンダやブルンジなどのアフリカ大湖沼周辺地域の国々は、フツ、ツチ、トゥワの「3民族」から主に構成されると考えるのが主流となった。この3民族のうち、この地域に最も古くから住んでいたのは、およそ紀元前3000年から2000年頃に住み着いた、狩猟民族のトゥワであった[10]。その後、10世紀以前に農耕民のフツがルワンダ周辺地域に住み着き、さらに10世紀から13世紀の間に、北方から牧畜民族のツチがこの地域に来て両民族を支配し、ルワンダ王国下で国を治めていたと考えられていた[11]。

この学説の背景の1つに、19世紀後半のヨーロッパにおいて主流であった人種思想とハム仮説(英語版)があった。当時の人類学の一つの考え方では、旧約聖書の創世記第9章に記された、ハムがノアの裸体を覗き見た罪により、ハムの息子カナンが「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」[12]と、モーゼの呪いを受けたという記述に基づき、全ての民族をセム系・ハム系・ヤペテ系など旧約の人物に因んだ人種に分けていた。ハム仮説とは、そのうちのハム系諸民族をカナンの末裔とみなし、彼らがアフリカおよびアフリカ土着の人種であるネグロイドに文明をもたらしたとする考え方である[13]。ルワンダにおいて、「ネグロイド」のバントゥー系民族に特徴的な「中程度の背丈とずんぐりした体系を持つ」農耕民族のフツを、「コーカソイド」のハム系諸民族に特徴的な「痩せ型で鼻の高く長身な」牧畜民族のツチが支配する状況は、このハム仮説に適合するものとされた[14]。また、民族の"識別"には皮膚の色も一般的な身体的特徴として利用され「肌の色が比較的薄い者が典型的なツチであり、肌の色が比較的濃い者が典型的なフツである」とされた[15]。19世紀後半にこの地を訪れたジョン・ハニング・スピークは、1864年に刊行した『ナイル川源流探検記』においてハム仮説を提唱した。しかし近年では、この民族はもともと同一のものが、次第に牧畜民と農耕民へ分化したのではないかと考えられている。その理由として、フツとツチは宗教、言語、文化に差異がないこと、互いの民族間で婚姻がなされていること、19世紀まで両民族間の区分は甚だ曖昧なものだったこと、ツチがフツの後に移住してきたという言語学的・考古学的証拠がないことがあげられる[16][17]。





アフリカの委任統治領。10がルアンダ・ウルンディ。
19世紀末にヨーロッパ諸国によりアフリカが分割され、この地域が1899年にドイツ帝国領ルアンダ・ウルンディとなると、ドイツはハム仮説に従いツチによるルワンダ王国の統治システムを用いて間接統治を行い、周辺地域の国々を平定して中央集権化した[18]。その後の1919年、第一次世界大戦でドイツが敗れたことで、アフリカ各地のドイツ領は国際連盟委任統治領として新たな宗主国へ割りふられ、ルアンダ・ウルンディはベルギーの支配地域となった。ベルギーはこの国の統治機構を植民地経営主義的観点から積極的に変更し、王権を形骸化させ、伝統的な行政機構を廃止してほぼ全ての首長をツチに独占させたほか[19]、税や労役面で間接的にツチへの優遇を行った[20]。また、教育面でもツチへの優遇を行い、公立学校入学が許されるのはほぼ完全にツチに限られていたほか、カトリック教会の運営する学校でもツチが優遇され、行政管理技術やフランス語の教育もツチに対してのみ行われた[21]。さらに1930年代にはIDカード制を導入し、ツチとフツの民族を完全に隔てられたものとして固定し[22]、民族の区分による統治システムを完成させることで、後のルワンダ虐殺の要因となる二つの民族を確立した。このIDカードはルワンダ虐殺の際に出身民族をチェックする指標の1つとなった。





1962年独立以降のルワンダの地図。
第二次大戦後、アフリカの独立機運が高まってくると、ルアンダ・ウルンディでも盛んに独立運動が行われた。宗主国であったベルギーは国際的な流れを受けて多数派のフツを支持するようになり、ベルギー統治時代の初期にはハム仮説を最も強固に支持していたカトリック教会[23]もまた、公式にフツの支持を表明した[24]。ベルギーの方針変化には、急進的な独立を求めるツチに対するベルギー人の反発や、ベルギーの多数派であるフランデレン人がかつて少数派のワロン人に支配されていた歴史的経緯に由来するフツへの同情、多数派であるフツへの支持によってルワンダを安定化する考えがあったとされる[25]。これらの後押しもあり、後にルワンダ大統領となるグレゴワール・カイバンダやジュベナール・ハビャリマナらを含む9人のフツが、ツチによる政治の独占的状態を批判したバフツ宣言と呼ばれるマニフェストを1957年に発表し、その2年後の1959年には、バフツ宣言を行ったメンバーが中心となりパルメフツが結成された。

そんな中、1959年11月1日の万聖節の日にパルメフツの指導者の1人であったドミニク・ンボニュムトゥワがツチの若者に襲撃された。その後、ンボニュムトゥワが殺害されたとの誤報が流れ、これに激怒したフツがツチの指導者を殺害し、ツチの家に対する放火が全国的に行われた。そしてツチ側も報復としてフツ指導者を殺害するという形で国内に動乱が広がった[26]。なお、この1959年の万聖節の事件が、民族対立に基づいてフツとツチの間で行われた初の暴力であり[27]、この事件に端を発した犯罪への「免責」の文化が、ジェノサイドの原動力であるという説もある[28]。当時、ベルギーの弁務官であったロジスト大佐はフツのために行動することを表明し、フツを利するために行動した[29]。さらに、1960年には普通選挙を開催し、フツの政治的影響力を拡大させた[30]。なお、選挙の投票所にはフツが陣取っており、ツチの有権者に対する脅迫が行われていたことが知られている[31]。

1961年にはルワンダ国王であったキゲリ5世の退位と王制の廃止が決定され、同年10月にグレゴワール・カイバンダが共和国大統領となった。このフツ系のカイバンダ政権は、近隣諸国に逃れたツチによるゲリラ攻撃に悩まされた背景もあり[32]、フツ-ツチ間の対立を政治利用し、暴力的迫害や政治的な弾圧を行った[33]。なお、1959年から1967年までの期間で2万人のツチが殺害され、20万人のツチが難民化を余儀なくされたことが知られている[34]。1973年、無血クーデターによりカイバンダ政権が倒され、ジュベナール・ハビャリマナが新たな政権を発足した。ハビャリマナ政権は前政権党のパルメフツの活動を禁止し、自身の政党にあたる開発国民革命運動による政治運営を行った[35]。さらに、1978年には開発国民革命運動の一党制を憲法で確立した[36]。軍や政権中枢における権力の基盤としてハビャリマナ大統領夫妻の血縁関係者や同郷出身者からなる非公式な組織のアカズが構築された。ハビャリマナ政権下ではツチに対する迫害行為の状況は幾分か改善したものの、周辺国へ逃れた難民の問題や、クウォーター制によるツチの社会進出制限の問題は残った。1980年代には、ルワンダ国外で難民として暮らすツチは60万人に達していた[37]。

隣国のブルンジもまた、ルアンダ・ウルンディとしてルワンダとまとめて扱われていたため、同様のフツとツチ間の問題が生じることとなった。1962年の独立以降、ブルンジ虐殺(英語版)と呼ばれる2つの虐殺事件が1972年と1993年に発生した。1972年のツチ兵士によるフツの大量虐殺事件と[38]、1993年のフツによるツチの虐殺事件である[39]。

土地・食料・経済状況などの諸問題[編集]

「ルワンダの経済」および「ルワンダの地理」を参照

1960年代から1980年代初頭にかけて、ルワンダは持続的な成長を遂げ続けたアフリカの優等国であった。しかしながら、1980年代後半には主要貿易品目であったコーヒーの著しい値崩れなどを受け経済状況は大きく悪化し、さらに1990年に行われた国際通貨基金の構造調整プログラム(英語版)(ESAF)により社会政策の衰退、公共料金の値上げを招き[40]、状況の一層の悪化を導いた。その結果、失業率の悪化や社会格差による貧困などの諸問題が噴出し、特に若者を中心として不満を募らせるようになった[41]。

また、ルワンダは国土の比較的狭い国であったが、「千の丘の国」と呼ばれる平均標高の高い土地のために温暖気候に属しており人の居住に適し、土地が肥沃で自然環境も豊かなことで知られていた。しかし、1948年に180万人であった人口が1992年には四倍を超える750万人にまで増加し、アフリカで最も人口密度の高い国となり、農地などの土地不足の問題が発生するようになった。加えて人口の増加により食料不足の問題が生じ、国民の6人に1人が飢えに苦しむ状況となった[42]。国民の多くは数ヘクタールにも満たない狭い農地で生産性の低い農業に頼った自給自足の生活をしており、市場に売却する余剰食料を十分に生産できなかった(先進国では数%の農業従事者が他の国民のための食料を生産している)。そのため日頃から生活の糧となる土地をめぐって争いが頻発していた[43]。

ルワンダ紛争[編集]

詳細は「ルワンダ紛争」を参照





ルワンダ紛争時のルワンダ愛国戦線司令官であり、現ルワンダ共和国大統領のポール・カガメ。




1992年2月のテオネスト・バゴソラ大佐の日記。市民自己防衛計画の仕組みが記されている。
1959年以降、周辺国へ逃れた多数のツチ系難民は、1980年頃に政治的組織や軍事的組織として団結するようになった。ウガンダでは1979年にルワンダ難民福祉基金が設立され、翌1980年に同組織が発展する形で国家統一ルワンダ人同盟が結成された[44]。ウガンダ内戦(英語版)(1981年 - 1986年)における反政府組織であり、最終的に勝利を納めた国民抵抗運動 (NRM) に参加した者も多く、1986年時点で国民抵抗運動の約2割がツチであった。しかしながら、内戦の初期から国民抵抗運動に参加していたツチらは相応の高い地位を得たものの、ヨウェリ・ムセベニウガンダ大統領のルワンダ難民問題に関する姿勢の変節などにより、強い失望を受けた。そのため、1987年になると新たにルワンダ愛国戦線を結成し、ルワンダへの帰還を目指すようになった。

1990年から1993年までの期間、アカズからの指示を受けたフツにより、雑誌の『カングラ』が作られた。この雑誌はルワンダ政府に批判的なツチ系の雑誌『カングカ』を真似たものであり、政府への批判を一応は行いつつも、主たる目的はツチに対する侮蔑感情の煽動であった[45]。また、この雑誌のツチに対する攻撃姿勢は、植民地時代以前の経済的優遇を非難することよりも、ツチという民族そのものを攻撃することが中心であった。同誌の設立者であり編集者でもあったハッサン・ンゲゼは、数々の煽動的報道で知られており、特にンゲゼの書いた「フツの十戒」はフツ・パワー・イデオロギーの公式理念と呼ばれ、学校や政治集会などの様々な場で読み上げられた。1992年には、ハビャリマナ大統領の宥和的姿勢に反発した権力中枢部により、極端なフツ至上主義を主張する共和国防衛同盟 (CDR) が開発国民革命運動から分離する形で結成された。また同年には、開発国民革命運動の青年組織としてインテラハムウェ(「共に立ち上がる(or 戦う or 殺す)者」を意味する)、共和国防衛同盟の青年組織としてインプザムガンビ(「同じ( or 単一の)ゴールを目指す者」を意味する)が設立された。後にこの両組織はルワンダ虐殺で大きな役割を果たす民兵組織となる。なお、共和国防衛同盟はルワンダ愛国戦線との間にアルーシャ合意を結ぶことを強く反対した結果、1993年8月に成立した同協定と、協定に従い設立された暫定政権から排斥された。このフツ過激派政党である共和国防衛同盟をアルーシャ協定(英語版)から排除する方針にはハビャリマナ政権と国際社会の反対があったものの、ルワンダ愛国戦線がこれを強固に主張したため最終的に排斥される形となった[46]。

1993年にはアルーシャ協定(英語版)に従い、停戦による哨戒活動のほか武装解除と動員解除を支援する目的で、国連平和維持軍が展開された。同年3月時点の報告書によれば、1990年のルワンダ愛国戦線による侵攻以降、1万人のツチが拘留され、2000人が殺害されたことが判明している状況であった。1993年8月、国連軍の司令官であったロメオ・ダレール少将は、ルワンダの状況評価を目的とした偵察を行った後に5000人の兵員を要請したが、最終的に確保できたのは要請人数の約半分にあたる2548人の軍人と60人の文民警察であった[47]。なお、この時点のダレールは、ルワンダでの任務は標準的な平和維持活動であると考えていた。

組織的虐殺の準備[編集]

近年の研究では、ルワンダ虐殺は非常に組織立った形で行われたことが明らかとなっている[48]。ルワンダ国内では、地域ごとに様々な任務を行う代表者が選出されたほか、民兵の組織化が全国的に行われ、民兵の数は10家族あたり1人となる3万人にまで達していた。一部の民兵らは、書類申請によってAK-47アサルトライフルを入手でき、手榴弾などの場合は書類申請すら必要なく容易に入手が可能であった。インテラハムウェやインプザムガンビのメンバーの多くは、銃火器ではなくマチェーテやマスといった伝統的な武器で武装していた。

ルワンダ虐殺当時の首相であったジャン・カンバンダは、ルワンダ国際戦犯法廷の事前尋問で「ジェノサイドに関しては閣議で公然と議論されていた。当時の女性閣僚の1人は、全てのツチをルワンダから追放することを個人的に支持しており、他の閣僚らに対して"ツチを排除すればルワンダにおける全ての問題は解決する"と話していた」と証言している[49]。カンバンダはさらに、ジェノサイドを主導した者の中には退役軍人であったテオネスト・バゴソラ大佐やオーギュスタン・ビジムング少将、ジャン=バティスト・ガテテといった軍や政府高官の多数が含まれており、さらに地方レベルのジェノサイド主導者であれば、市長や町長、警察官も含まれると述べた。

メディア・プロパガンダ[編集]

研究者の報告によれば、ルワンダ虐殺においてニュースメディアは重要な役割を果たしたとされる。具体的には、新聞や雑誌といった地域の活字メディアやラジオなどが殺戮を煽る一方で、国際的なメディアはこれを無視するか、事件背景の認識を大きく誤った報道を行った[50]。当時のルワンダ国内メディアは、まず活字メディアがツチに対するヘイトスピーチを行い、その後にラジオが過激派フツを煽り続けたと考えられている。評論家によれば、反ツチのヘイトスピーチは「模範的と言えるほどに組織立てられていた」という。ルワンダ政府中枢部の指示を受けていたカングラ誌は、1990年10月に開始された反ツチおよび反ルワンダ愛国戦線キャンペーンで中心的な役割を担った。現在進行中のルワンダ国際戦犯法廷では、カングラの背景にいた人物たちを、1992年にマチェーテの絵と『1959年の社会革命を完了するために我々は何をするか?(What shall we do to complete the social revolution of 1959?)』の文章を記したチラシを製作した件で告発した(このチラシにある1959年の社会革命時には、ツチ系の王政廃止やその後の政治的変動を受けた社会共同体によるツチへの排撃活動の結果、数千人のツチが死傷し、約30万人ものツチがブルンジやウガンダへ逃れて難民化した)。カングラはまた、ツチに対する個人的対応や社会的対応、フツはツチをいかに扱うべきかを論じた文章として悪名高いフツの十戒や、一般大衆の煽動を目的とした大規模戦略として、ルワンダ愛国戦線に対する悪質な誹謗・中傷を行った。この中でよく知られたものとしては「ツチの植民地化計画 (Tutsi colonization plan)」などがある[51]。

ルワンダ虐殺当時、ルワンダ国民の識字率は50%台であり[52]、政府が国民にメッセージを配信する手段としてラジオは重要な役割を果たした。ルワンダの内戦勃発以降からルワンダ虐殺の期間において、ツチへの暴力を煽動する鍵となったラジオ局はラジオ・ルワンダとミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョン (RTLM) の2局であった。ラジオ・ルワンダは、1992年3月に首都キガリの南部都市、ブゲセラ (Bugesera) に住むツチの虐殺に関して、ツチ殺害の直接的な推奨を最初に行ったラジオとして知られている。同局は、コミューンの長であったフィデール・ルワンブカや副知事であったセカギラ・フォスタンら反ツチの地方公務員が主導する「ブゲセラのフツはツチから攻撃を受けるだろう」という警告を繰り返し報道した[53]。この社会的に高い地位にある人物らによるメッセージは、フツに"先制攻撃することによって我が身を守る必要がある"ことを納得させ、その結果として兵士に率いられたフツ市民やインテラハムウェのメンバーにより、ブゲセラに暮らすツチが襲撃され、数百人が殺害された[54]。また、1993年の暮れにミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、フツ出身のブルンジ大統領メルシオル・ンダダイエの暗殺事件についてツチの残虐性を強調する扇情的な報道を行い、さらにンダダイエ大統領は殺害される前に性器を切り落とされるなどの拷問を受けていたとの虚偽報道を行った(この報道は、植民地時代以前におけるツチの王の一部が、打ち負かした敵対部族の支配者を去勢したという歴史的事実が背景にある)。さらに、1993年10月下旬からのミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは「フツとツチ間の固有の違い、ツチはルワンダの外部に起源を持つこと、ツチの富と力の配分の不均一、過去のツチ統治時代の恐怖」などを強調し、フツ過激派の出版物に基づく話題を繰り返し報道した。また、「ツチの陰謀や攻撃を警戒する必要があり、フツはツチによる攻撃から身を守るために備えるべきである」との見解を幾度も報じた[54]。1994年4月6日以降、当局がフツ過激派を煽り、虐殺を指揮するために両ラジオ局を利用した。特に、虐殺当初の頃に殺害への抵抗が大きかった地域で重点的に用いられた。この2つのラジオ局はルワンダ虐殺時に、フツ系市民を煽動、動員し、殺害の指示を与える目的で使用されたことが知られている[54]。

上記に加え、ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、ツチ系難民を主体としたルワンダ愛国戦線のゲリラを、ルワンダ語でゴキブリを意味するイニェンジ (inyenzi) の語で呼び、同ゲリラが市民の服装を着て戦闘地域から逃れる人々に混ざることに特に注意を促していた。これらの放送は、全てのツチがルワンダ愛国戦線による政府への武力闘争を支持しているかのような印象を与えた[54]。また、ツチ女性は、1994年のジェノサイド以前の反ツチプロパガンダでも取り上げられ、例えば1990年12月発行のカングラに掲載された「フツの十戒」の第四には「ツチ女性はツチの人々の道具であり、フツ男性を弱体化させて最終的に駄目にする目的で用いられるツチの性的な武器」として描写された[55]。新聞の風刺漫画などにもジェンダーに基づくプロパガンダが見られ、そこでツチ女性は性的対象として描かれた。具体的な例として「ツチの女どもは、自分自身が我々には勿体ないと考えている (You Tutsi women think that you are too good for us)」とか「ツチの女はどんな味か経験してみよう (Let us see what a Tutsi woman tastes like)」といった強姦を明言するような発言を含む、戦時下の強姦(英語版)を煽るような言説が用いられた[55]。ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、堅苦しい国営放送のラジオ・ルワンダと異なり、若者向けの音楽を用いた煽動にも力を入れていた。シモン・ビキンディによるフツの結束を訴えた曲、『こんなフツ族は嫌い』が代表的な作品として知られている[56]。

同様のメディア・プロパガンダにより、隣国のブルンジでも1993年10月21日にツチ系の民族進歩連合に所属するフツのフランソワ・ンゲゼ率いるツチ中心の軍部によるクーデターでフツのンダダイエ大統領が暗殺された。フツによるブルンジ虐殺(英語版)が発生し、約2万5千人のツチ系市民が殺害され[57]、約30万人が難民化し[要出典]、非難を浴びたンゲゼが退陣してツチのキニギ臨時政権が樹立され、民主政治への復帰を果たすものの、ブルンジ内戦(英語版)(1993年 - 2005年)と呼ばれる長期の報復合戦に突入した。

国際連合の動向[編集]





国際連合ルワンダ支援団の司令官であったロメオ・ダレール将軍。
1994年1月11日、カナダ出身の国際連合ルワンダ支援団 (UNAMIR) の司令官ロメオ・ダレール少将は、匿名の密告者から受けた4箇所の大きな武器の貯蔵庫とツチの絶滅を目的としたフツの計画に関して、事務総長とモーリス・バリル少将にファックスを送信した。ダレールからの連絡では、密告者が数日前にインテラハムウェの訓練を担当した同組織トップレベルの指導者であることが記されていたほか、およそ以下のような内容が含まれていた[58]。
軍事訓練の目的はインテラハムウェの自衛ではなく、キガリに駐屯するルワンダ愛国戦線の大隊と国際連合ルワンダ支援団のベルギー軍を武力で刺激することである。
インテラハムウェの筋書きでは、ベルギー兵とルワンダ愛国戦線をルワンダから撤退させるつもりである。
戦闘によってベルギー兵数人を殺害すれば、人数や武装的に平和維持軍の要となっているベルギー軍全体が撤退すると考えている。
ベルギー軍撤退後に、ツチは排撃されるだろう。
インテラハムウェの兵1700人が政府軍キャンプで訓練を受けている。
これまでは、マチェーテ(山刀)やマス(多数の釘を打ち付けた棍棒)といった伝統的な武器が主流であったが、AK-47などの銃火器が民兵組織の間で普及しつつある。
密告者自身やその同僚はキガリに住む全てのツチをリスト化するように命じられた。その目的はツチの絶滅である可能性があり、例えば我々の部隊であれば、1000人のツチを20分間で殺害することが可能である。
ハビャリマナ大統領は過激派を統制し切れていないのではないだろうか。
密告者はルワンダ愛国戦線と敵対しているが、罪のない国民を殺害することには反対である。





ルワンダ虐殺当時に国連平和維持活動局のPKO担当国連事務次長であったコフィー・アナン。
ダレールは、国際連合ルワンダ支援団部隊による武器貯蔵場所を制圧する緊急の計画を立案し、この計画が平和維持軍の目的に適うものであると考えて、国連に持ちかけた。しかし、翌日に国連平和維持活動局本部から送られた回答では「武器庫制圧の計画は、国連安保理決議第872号にて国際連合ルワンダ支援団に付与された権限を越えるものである」として、ダレールの計画は却下された。ダレールの計画を却下したのは、当時国連平和維持活動局のPKO担当国連事務次長であり、後に国際連合事務総長となるコフィー・アナンであった[59]。なお、国連はダレールの計画を却下した代わりとして、ハビャリマナ大統領に対してアルーシャ協定(英語版)違反の可能性を指摘する通知を行い、この問題に関する対策の回答を求めたが、それ以降密告者からの連絡は二度となかったという。後に、この1月11日の電報は、ジェノサイド以前に国連が利用可能であった情報がどのようなものであったかを議論する上で、重要な役割を果たした[60]。翌月の2月21日には、過激派フツにより社会民主党出身のフェリシアン・ガタバジ (Félicien Gatabazi) 公共建設大臣が暗殺され、さらにその翌日には報復として共和国防衛同盟のマルタン・ブギャナ (Martin Bucyana) が殺害されたが、国際連合ルワンダ支援団は国連本部から殺人事件を調査する許可を得られず、対応できなかった。

1994年4月6日、ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、ベルギーの平和維持軍がルワンダ大統領の搭乗する航空機を撃墜、あるいは撃墜を援助したとする非難を行った。この報道が後にルワンダ軍の兵士によりベルギーの平和維持軍の10人が殺害される結果に結びついた[61]。

国際連合から国際連合ルワンダ支援団へ下されたマンデート(任務)では、ジェノサイドの罪を犯している状態でない限りは、国内政治への介入はいかなる国の場合でも禁じられていた。カナダ、ガーナ、オランダは、ロメオ・ダレールの指揮の下、国連からの任務を首尾一貫して提供したが、国連安全保障理事会から事態介入に必要となる適切なマンデートを得られなかった。

宗教界の動向[編集]





ントラマ教会(Ntrama Church)では、5000人もの避難民が、手榴弾で、マチェーテで、銃で、あるいは生きたまま焼かれて虐殺された。聖堂には現在も毛布や子供の靴、犠牲者の遺骨の一部が散乱し、祭壇には頭蓋骨が残されている。
ルワンダ虐殺がジェノサイドへと至った動機としては、宗教対立などの要因はさほどなかったとされる。しかしながら上でも述べたように、ルワンダにおいてカトリック教会はツチとフツの対立形成に大きな役割を果たした。19世紀末から第二次世界大戦頃の植民地時代において、カトリック教会はハム仮説に基づくツチの優位性を植民地行政官以上に強く主張したが[62]、その一方で1950年代後半以降はフツ側に肩入れし、多くのカトリックの指導者がジェノサイドへの批判を行わず、多くの聖職者が虐殺に協力した。ルワンダ虐殺に協力した一般住民の多くが「ツチの虐殺は神の意思に沿うものである」と考え、カトリック教会も虐殺に加担したと看做されている[63]。虐殺終結後のルワンダ国際戦犯法廷では、ニャルブイェ大虐殺に関与した司祭のアタナゼ・セロンバ(英語版)など複数の宗教指導者らが告発され、有罪判決を受けている[64]。

ヒューマン・ライツ・ウオッチは、ルワンダの宗教的権威者、特にカトリックの聖職者は、ジェノサイド行為に対する非難を怠ったと報告し[65]、カトリック教会は「ルワンダでは大量虐殺が行われたが、これら虐殺行為への参加に関して教会は許可を与えていない」と主張している[64]。1996年にローマ教皇であったヨハネ・パウロ2世は、カトリック教会としてのジェノサイドへの責任を否定している[66]。

その一方で、1994年以前は1%程度であったイスラム教徒がルワンダ虐殺の終結後から大幅に増加しており、2006年には8.2%となったことが知られている。これはルワンダ虐殺時のカトリック教会の行動により同宗教への信頼性が大きく揺らいだことと、イスラム教は虐殺に参加せず避難民の保護を行ったことにより、イスラム教のイメージが大きく改善した影響であると考えられている。ルワンダでは現在のところイスラム原理主義は確認されていない[67]。

ハビャリマナ大統領の暗殺から虐殺初期まで[編集]

詳細は「ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件」および「ルワンダ虐殺における初期の出来事」を参照





1994年4月6日に航空機事故で死亡した、ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領。ハビャリマナの死がルワンダ虐殺の始まりのきっかけとなった。
1994年4月6日、ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の搭乗する飛行機が、何者かのミサイル攻撃を受けてキガリ国際空港への着陸寸前に撃墜され、両国の大統領が死亡した。攻撃を仕掛けた者が不明であったため、ルワンダ愛国戦線と過激派フツの双方が互いに非難を行った。そして、犯行者の身元に関する両陣営の意見は相違したまま、この航空機撃墜による大統領暗殺は1994年7月まで続くジェノサイドの引き金となった。





キガリにて、過激派の襲撃を受けて国際連合ルワンダ支援団のベルギー人職員が殺害された事件の記念施設。
4月6日から4月7日にかけて、旧ルワンダ軍 (FAR) の上層部と国防省の官房長であったテオネスト・バゴソラ(英語版)大佐は、国際連合ルワンダ支援団のロメオ・ダレール少将と口頭で議論を行った。この時ダレールは、法的権限者のアガート・ウィリンジイマナ首相にアルーシャ協定(英語版)に基づいて冷静に対応し、事態をコントロールするよう伝えることをバゴソラ大佐へ強く依頼したが、バゴソラはウィリンジイマナの指導力不足などを理由に拒否した。最終的にダレールは、軍によるクーデターの心配はなく、政治的混乱は回避可能であると考えた。そしてウィリンジイマナ首相を保護する目的でベルギー人とガーナ人の護衛を送り、7日の午前中に首相がラジオで国民に対して平静を呼びかけることを期待した。しかし、ダレールとバゴソラの議論が終わった時点でラジオ局は既に大統領警備隊が占拠しており、ウィリンジイマナ首相のスピーチは不可能であった。この大統領警備隊によるラジオ局制圧の際、平和維持軍は捕虜となり武器を没収された。さらに同日の午前中、ウィリンジイマナ首相は夫とともに大統領警備隊により首相邸宅で殺害された。この際、首相邸宅を警護していた国際連合ルワンダ支援団の護衛のうち、ガーナ兵は武装解除されたのみであったが、ベルギー小隊の10人は武装解除の上で連行された後、拷問を受けた後に[68]殺害された[69]。





国際連合ルワンダ支援団のベルギー人職員が殺害された事件の記念施設の外観、銃弾の跡が数多く残されている。
この事件に関しては、2007年にベルギーブリュッセルの裁判所において、ベルギー兵の連行を命じたベルナール・ントゥヤハガ(英語版)少佐が有罪判決を受けた[70]。首相以外にも農業・畜産・森林大臣のフレデリック・ンザムランバボ(英語版)や労働・社会問題大臣のランドワルド・ンダシングワ(英語版)、情報大臣のフォスタン・ルチョゴザ(英語版)、憲法裁判所長官のジョゼフ・カヴァルガンダ(英語版)、前外務大臣のボニファス・ングリンジラ(英語版)などのツチや穏健派フツ、あるいはアルーシャ協定(英語版)を支持した要人が次々と暗殺された[71]。このジェノサイド初日の出来事に関して、ダレールは自著『Shake Hands with the Devil』にて以下のように述べている。



私は軍司令部を召集し、ガーナ人准将のヘンリー・アニドホ(英語版)と連絡を取った。アニドホはゾッとするようなニュースを私に伝えた。国際連合ルワンダ支援団が保護していた、ランドワルド・ンダシングワ(自由党の党首)、ジョゼフ・カヴァルガンダ(憲法裁判所長官)、その他多くの穏健派の要人が大統領警備隊によって家族と共に誘拐され、殺害された……(中略)……国際連合ルワンダ支援団は首相のフォスタン・トゥワギラムングを救出し、現在はトゥワギラムングを軍司令部で匿っている[72]。

上記のように、共和民主運動の指導者であったフォスタン・トゥワギラムングは、国際連合ルワンダ支援団の保護を受けて暗殺を免れた。トゥワギラムングはウィリンジイマナ首相の死後に首相就任すると考えられていたが、4月9日に暫定大統領となったテオドール・シンディブワボが首相として任命したのはジャン・カンバンダであった。ルワンダ紛争終結後の1994年7月19日、トゥワギラムングはルワンダ愛国戦線が樹立した新政権で首相へ就任した。

ジェノサイド[編集]





ルワンダ虐殺の犠牲者の頭蓋骨




ルワンダ虐殺の犠牲者の遺体
『大量虐殺の社会史』によれば、ルワンダ虐殺はしばしば無知蒙昧な一般の住民がラジオの煽動によってマチェーテ(山刀)や鍬などの身近な道具を用いて隣人のツチを虐殺したというイメージで語られているが[73]、これは適切な見解とは言い難い。ジェノサイドへ至るまでには、1990年以降の煽動的なメディアプロパガンダや民兵組織の結成、銃火器の供給、虐殺対象のリストアップなど、国家権力側による非常に周到な準備が行われていた。この国家権力側による準備と、対立や憎悪を煽られた民衆の協力によって、およそ12週間続いた期間のうち前半6週間に犠牲者の80%が殺害されるという、極めて早いペースで虐殺が行われた[74]。その結果、与野党を含めたフツのエリート政治家の多くが、紛争終結後の裁判によりジェノサイドの組織化を行った罪で有罪とされている。

虐殺[編集]

1994年4月7日に開始されたジェノサイドでは、ルワンダ軍やインテラハムウェ、インプザムガンビといったフツ民兵グループが、組織的行動として捕らえたツチを年齢や性別にかかわらず全て殺害した。また、フツ穏健派は裏切り者として真っ先に殺害された。フツの市民は虐殺に協力することを強いられ、ツチの隣人を殺害するよう命令された。この命令を拒んだものはフツの裏切り者として殺害された。大半の国が首都キガリから自国民を避難させ、虐殺初期の時点で同国内の大使館を放棄した。状況の悪化を受けて、国営ラジオのラジオ・ルワンダは人々に外出しないよう呼びかける一方で、フツ至上主義者の所有するミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンはツチとフツ穏健派に対する辛辣なプロパガンダ放送を繰り返した。国内各地の道路数百箇所では障害物が積み上げられ、民兵による検問所が構築された。大々的にジェノサイドが勃発した4月7日にキガリ内にいたダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーは保護を求めて逃げ込んでくるツチを保護したが、徐々にエスカレートするフツの攻撃を止めることができなかった。この時、フツ過激派はミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンの報道を受けて、ダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーも標的の1つとしていた。4月8日、ダレールはニューヨークへ、フツ過激派を虐殺行為へ走らせる推進力が同国の民族性であることを暗示した電報をニューヨークへ送っている。また同電報には、複数の閣僚を含む政治家や平和維持軍のベルギー兵が殺害されたことも詳述されていた。ダレールはまた、この現在進行中の虐殺行為が極めて組織立ったもので、主に大統領警備隊によって指揮されていると国連に報告している。

4月9日、国連監視団はギコンド(英語版)のポーランド人教会にて多数の児童が虐殺されるのを目撃した(ギコンド虐殺(英語版))。同日に、高度に武装化した練度の高い欧州各国軍の兵士1000人が、ヨーロッパ市民の国外避難を護衛するためにルワンダ入りした。この部隊は国際連合ルワンダ支援団を援護するための滞在は一切行わなかった。9日になると、ワシントン・ポスト紙が同国駐在員を恐怖させた事件として、国際連合ルワンダ支援団の職員が殺害された事実を報道した。4月9日から10日にかけて、アメリカのローソン駐ルワンダ大使と250人のアメリカ人が国外へ避難した。





ニャマタ虐殺記念教会に展示されている頭蓋骨。
ジェノサイドは速やかにルワンダ全土へ広がった。虐殺の過程で一番初めに組織的に行動したのは、国内北西部に位置するギセニ県(現西部州)の中心都市、ギセニの市長であった。市長は4月6日の夜の時点で武器の配布を目的とした会合を行い、ツチを殺すために民兵を送り出した。ギセニは暗殺されたハビャリマナ大統領の出身地であるほかアカズの拠点地域でもあり、さらに南部地域がルワンダ愛国戦線に占領されたことから数千人のフツが国内避難民として流れ込んでいたため、反ツチ感情の特に激しい土地となっていた。なお、4月6日から数日後にはブタレ県内を除いた国内のほぼ全ての都市で、キガリと同様のツチやフツ穏健派殺害を目的とした組織化が行われた。ブタレ県知事のジャン=バティスト・ハビャリマナ(英語版)は、国内で唯一ツチ出身の知事で虐殺に反対したため、彼が4月下旬に更迭されるまでは大規模な虐殺が行われなかった[75]。その後、ハビャリマナ知事が更迭されてフツ過激派のシルヴァン・ンディクマナ(英語版)が知事に就任すると[75]、ブタレでの虐殺が熱心に行われていなかったことが明らかとなったため、政府は民兵組織のメンバーをキガリからヘリコプターで輸送し、直ちに大規模な虐殺が開始された[75]。この際に、旧ルワンダ王室の皇太后であり、ツチの生ける象徴として国民から慕われていたロザリー・ギカンダがイデルフォンス・ニゼイマナの命令により射殺されている。なお、更迭されたハビャリマナ知事も大統領警備隊によって数日後に殺害された[76]。





ムランビ技術学校は現在記念館となっており、虐殺犠牲者の遺体展示を行っている。
4月下旬にはキブンゴ県のニャルブイェ(英語版)においてニャルブイェ大虐殺が発生し、およそ2万人が虐殺された[77]。この虐殺は、フツ出身の市長シルヴェストル・ガチュンビチ(英語版)の勧めを受けて多数のツチが市内にあったニャルブイェカトリック教会へ逃れたが[77]、その後市長は地元のインテラハムウェと協力し、ブルドーザーを用いて教会の建物を破壊し[78]、教会内に隠れていたツチは老若男女を問わずにマチェーテで叩き切られたり、ライフルで撃たれて大半が虐殺されるという経過で行われた。地元のカトリック司祭であったアタナゼ・セロンバはルワンダ国際戦犯法廷において、自身の教会をブルドーザーで破壊することに協力したため、ジェノサイドと人道に対する罪で有罪となり、無期懲役の判決を受けた[78][79][80][81]。その他では、約2000人が避難していたキガリの公立技術学校 (École Technique Officielle) を警護していた国際連合ルワンダ支援団のベルギー兵が避難民を放置して4月11日に撤退した結果、ルワンダ軍とインテラハムウェによって避難民の大半が虐殺された事件(公立技術学校の虐殺)が発生している[82]。この事件は2005年に『ルワンダの涙』として映画化された。

犠牲者の大半は自身の住んでいた村や町で殺害され、直接手を下したのは多くの場合隣人や同じ村の住人であった。民兵組織の一部メンバーにはライフルを殺害に利用した者もあったが、民兵は大半の場合マチェーテで犠牲者を叩き切ることで殺害を行った。犠牲者はしばしば町の教会や学校へ隠れているところを発見され、フツの武装集団がこれを虐殺した。一般の市民もツチやフツ穏健派の隣人を殺すよう地元当局や政府後援ラジオから呼びかけを受け、これを拒んだ者がフツの裏切り者として頻繁に殺害された。『虐殺へ参加するか、自身を虐殺されるかのいずれか』[83]の状況であったという。また、ラジオやヤギ、強姦の対象となる若い娘といったツチの"資産"は、虐殺参加者のために事前にリストアップされており、殺害する前後に略奪もしばしば行われた。また、キガリ近郊の女性議員の1人は、ツチの首1つにつき50ルワンダフランを報酬として与えて、ツチの殺害を奨励していたという[84]。各地に構築された民兵組織による検問では、ツチやツチのような外見を持つものが片っ端から捕らえられて虐殺された。多くの場合で、犠牲者は殺害される前に略奪され、性的攻撃や、強姦、拷問を受けた[1][85]。川や湖は虐殺された死体で溢れ、または道端に積み上げられたり、殺害現場に放置された[86]。また、1992年にはフツ至上主義の政治家であったレオン・ムゲセラはツチの排斥を訴え、ツチをニャバロンゴ川を通じてエチオピアへ送り返すよう主張したが、1994年4月にこの川は虐殺されたツチの死体で溢れ、下流のヴィクトリア湖の湖岸へ幾万もの遺体が流れ着いている[87][88]。





ムランビ技術学校で虐殺された犠牲者の頭蓋骨。
ハビャリマナ大統領が暗殺された4月6日からルワンダ愛国戦線が同国を制圧する7月中旬までのおよそ100日間に殺害された被害者数は、専門家の間でも未だ一致が得られていない。ナチス・ドイツが第三帝国で行ったユダヤ人の虐殺や、クメール・ルージュが民主カンボジアで行った虐殺と異なり、ルワンダ虐殺では殺害に関する記録を当局が行っていなかった。ルワンダ解放戦線からなる現ルワンダ政府は、虐殺の犠牲者は107万1000人でこのうちの10%はフツであると述べており、『ジェノサイドの丘』の著者であるフィリップ・ゴーレイヴィッチ(英語版)はこの数字に同意している。一方、国連では犠牲者数を80万人としているほか、アフリカン・ライツ(African Rights)のアレックス・デ・ワール(英語版)とラキヤ・オマー(英語版)は犠牲者数を75万人前後と推定し、ヒューマン・ライツ・ウォッチアメリカ本部のアリソン・デフォルジュ(英語版)は、少なくとも50万人と述べている。イージス・トラスト(英語版)の代表であるジェイムズ・スミスは、「記憶する上で重要なのは、それがジェノサイドであったことだ。それは男性、女性、子供全てのツチを抹殺し、その存在の記憶全てを抹消しようと試みたのだ」と書き留めている[89]。

ルワンダ政府の推定によれば、84%のフツ、15%のツチ、1%のトゥワから構成された730万人の人口のうち、117万4000人が約100日間のジェノサイドで殺害されたという。これは、一日あたり1万人が、一時間あたり400人が、1分あたり7人が殺害されたに等しい数字である。ジェノサイド終了後に生存が確認されたツチは15万人であったという[90]。また、夫や家族を殺害され寡婦となった女性の多くが強姦の被害を受けており、その多くは現在HIVに感染していることが明らかとなっている。さらに、数多くの孤児や寡婦が一家の稼ぎ手を失ったために極貧の生活を送っており、売春で生計を立てざるを得ない女性も存在している(詳しくはルワンダにおける売春を参照のこと)。

虐殺に際しては、マチェーテや鍬といった身近な道具だけではなく、AK-47や手榴弾といった銃火器もジェノサイドに使用された。ルワンダ政府の公式統計と調査によれば、ルワンダ虐殺の犠牲者の37.9%はマチェーテで殺されたという。このマチェーテは1993年に海外から安価で大量に輸入されたものであった。また、犠牲者の16.8%はマスで撲殺された[91]。キブエ県は虐殺にマチェーテが用いられた割合が大きく、全体の52.8%がマチェーテにより殺害され、マスによる犠牲者は16.8%であったとされる[92]。





ニャマタ虐殺記念教会にて。
ルワンダ虐殺では莫大な数の犠牲者の存在とともに、虐殺や拷問の残虐さでも特筆すべきものがあったことが知られている。ツチに対して虐殺者がしばしば行った拷問には手や足を切断するものがあり、これは犠牲者の逃走を防ぐ目的のほか、比較的背の高いツチに対して「適切な身長に縮める」目的で用いられた。この際、手足を切断された犠牲者が悶え苦しみながら徐々に死に至る周囲で、多数の虐殺者が犠牲者を囃し立てることがしばしば行われたという[93][94]。時には犠牲者は自身の配偶者や子供を殺すことを強いられ、子供は親の目の前で殺害され、血縁関係者同士の近親相姦を強要され、他の犠牲者の血肉を食らうことを強制された。多くの人々が建物に押し込まれ、手榴弾で爆殺されたり、放火により生きたまま焼き殺された。さらに、犠牲者を卑しめる目的と殺害後に衣服を奪い取る目的で、犠牲者はしばしば服を脱がされ裸にされた上で殺害された。加えて多くの場合、殺害されたツチの遺体埋葬が妨害されてそのまま放置された結果、多くの遺体が犬や鳥といった獣に貪られた[95]。アフリカン・ライツが虐殺生存者の証言をまとめ、1995年に刊行した『Rwanda: Not So Innocent - When Women Become Killers 』には、


ナタでずたずたに切られて殺されるので金を渡して銃で一思いに殺すように頼んだ,女性は強姦された後に殺された,幼児は岩にたたきつけられたり汚物槽に生きたまま落とされた,乳房や男性器を切り落とし部位ごとに整理して積み上げた,母親は助かりたかったら代わりに自分の子どもを殺すよう命じられた,妊娠後期の妻が夫の眼前で腹を割かれ,夫は「ほら,こいつを食え」と胎児を顔に押し付けられた―[96]。

といった報告が数多く詳細に収録されている[97]。このほか、被害者の多くがマチェーテや猟銃、鍬などの身近な道具で殺害されたことから、生存者のその後の日常生活においてPTSDを容易に惹起する可能性を指摘する声もある[98]。

ルワンダ虐殺のさなかに虐殺を食い止め、ツチを保護するための活動を行っていた人々もおり、ピエラントニオ・コスタ(英語版)、アントニア・ロカテッリ(英語版)、ジャクリーヌ・ムカンソネラ(英語版)、ポール・ルセサバギナ、カール・ウィルケンス(英語版)、アンドレ・シボマナ(英語版)らによる活動がよく知られている。

ルワンダ虐殺下の強姦[編集]

1998年、ルワンダ国際戦犯法廷は裁判の席で「性的暴行はツチの民族グループを破壊する上で欠かせない要素であり、強姦は組織的かつツチの女性に対してのみ行われたことから、この行為がジェノサイドとして明確な目的を持って行われたことが明らかである」との判断が下された。つまり、ルワンダにおける戦時下の強姦をジェノサイドの構成要素の1つと見なされたのである。[99]。しかしながら、組織的な強姦や性的暴力の遂行を明確に命じた文書は見つからず、軍や民兵の指導者が強姦を奨励したり命令したり、あるいは強姦を黙認したという証言のみが示された[55]。ルワンダ虐殺における強姦は、女性に対する残虐さの著しい度合いや、強姦が非常に一般的に行われるといったツチ女性に対する性的暴力が煽られた原因として、組織的プロパガンダの影響が他の紛争下の強姦と比較して際立っていると指摘されている[100]。

ルワンダの国連特別報告者、ルネ・ドニ=セギ (René Degni-Ségui) による1996年の報告では、「強姦は命令によるもので、例外はなかった」と述べられている。同報告書はまた「強姦は組織立って行われ、また虐殺者らの武器として使用された」と指摘している。これは虐殺犠牲者の数と同様に強姦の形態から推定できる。先の報告書では、少女を含むおよそ25万から50万のルワンダ人女性が強姦されたと記している[101]。2000年に行われたアフリカ統一機構主催のルワンダ国際賢人会議 (Organization of African Unity’s International Panel of Eminent Personalities on Rwanda) では、「我々は、ジェノサイドを生き残ったほとんどの女性が、強姦もしくは他の性的暴力の被害に遭った、あるいはその性的被害によって深く悩まされたことを確信できる」との結論が出された[101]。強姦の犠牲者の大半はツチ女性であり、未成年の少女から高齢の女性まで幅広く被害に遭ったが、一方で男性に対する強姦はほとんどなかった[55]。また、穏健派フツの女性もフツの裏切り者とされて強姦された。男性に対する性的暴行例は少ないが、殺害時の拷問として男性器の切断が多数行われ、この切断した性器が群衆の前で晒される事もあった[55]。ルワンダ虐殺下における強姦を主体となって行ったのはインテラハムウェなどのフツ民兵らであったが、大統領警備隊を含む旧ルワンダ軍 (RAF) の兵士や民兵のほか、民間人による強姦も行われた[55]。2008年にはルワンダ法務省により、「フランス兵はツチ女性に対する強姦を複数行った」とする声明が出されているが[102]、これについては現在のところ実証されていない。

ジェノサイド下におけるトゥワ[編集]

ジェノサイドにおけるトゥワの役割に関する研究は未だ進んでいない。この原因としては、1994年時点のトゥワの人口がおよそ3万人とルワンダの1%弱でしかなかった点と、トゥワの社会的地位が低かったことが挙げられる[103]。推計によれば、トゥワの3分の1が虐殺で死亡し、3分の1が近隣諸国で難民と化したとされる[104]。また、トゥワは虐殺の犠牲者となった者も多くいた一方で、民兵組織に参加して加害者となった者も存在した。しかしながら、ルワンダ虐殺への参加の程度は未だ明らかとなっていない[105]。ゴーレイヴィッチの『ジェノサイドの丘』によれば、トゥワはツチ女性への強姦に民族的侮蔑の意味を与える目的で、強姦要員として民兵に加えられていたという[106]。

ジェノシデール[編集]

詳細は「ジェノシデール」を参照

ジェノシデールとは、ルワンダにおいてはルワンダ虐殺に参加した者を指す言葉である。このジェノシデールの人数は研究者によって大きく異なり、約1万人とする説から約300万人とする説まで存在しているが、多くの場合でこれらの数字は憶測に基づいたものであった[107]。2006年に報告された実証的研究によれば、1件以上の殺人を行ったジェノシデールの数は、17万5000から21万人であると推定されており、これは当時のフツ成人の7-8%、フツ成人男性の14-17%に相当する値である[108]。2000年の時点では、拘留され被告人となっているジェノシデールは11万人であったが、2006年にはガチャチャ裁判の進行などにより約8万人となった[109][110]。ジェノシデールの大多数は男性であり、女性は全体の3%程度である[111]。国家レベルから地域レベルに至るまで、ジェノシデールは社会のあらゆる階層の人々から構成されており、このジェノシデールを煽動・指揮していたのは政治、軍事、あるいは行政の有力者らであった。ジェノシデールの大半は普通のルワンダ男性であり、教育、職業、年齢、子供の数など、何ら特異性のない一般的な社会集団から構成されていた[112]。この一般的なジェノシデールは比較的教育水準が低い若者が多かったのに対し、煽動や指揮を行っていた者たちは比較的教育水準が高く、社会的地位の高い者が多かったことが報告されている[113][114]。

国際社会の対応[編集]

国際連合ルワンダ支援団の動向[編集]





国際連合安全保障理事会の会議場。
詳細は「国際連合ルワンダ支援団」を参照





キガリの学校の黒板に残されていた落書き。国際連合ルワンダ支援団司令官の"ダレール"の名 Dallaire と、国際連合ルワンダ支援団キガリ州司令官のリュック・マーシャル(英語版)の名 Marchal、そして骸骨が描かれている。
国際連合ルワンダ支援団 (UNAMIR) の活動は、アルーシャ協定(英語版)の時点から後のジェノサイドに至るまで、資源も乏しいこのアフリカの小国の揉め事に巻き込まれることに消極的であった大多数の国連安全保障理事会メンバーにより妨げられ続けられた[115][116]。そんな中でベルギーのみが国際連合ルワンダ支援団に対し確固としたマンデートを与えることを要求していたが、四月初旬に大統領の警護を行っていた自国の平和維持軍兵士10人が殺害されると、同国はルワンダでの平和維持任務から撤退した[117]。なお、ベルギー部隊は練度も高く、装備も優れていたため、同国の撤退は大きな痛手となった。国際連合ルワンダ支援団側は、せめて同部隊の装備をルワンダへ残していくよう依頼したが、この要求も拒絶された。

その後、国連とその加盟国は現実から著しく外れた方針を採り始めた。国際連合ルワンダ支援団のロメオ・ダレールは以前から人員増強を強く要求しており、ジェノサイドがルワンダ各地で開始された4月半ばの時点にも事態収拾のための人員要求を行ったが、これらは全て拒否された。さらに、虐殺が進行している最中に、ダレールは国連本部から"国際連合ルワンダ支援団はルワンダにいる外国人の避難のみに焦点を当てた活動を行うよう"指示を受けた。この命令変更により、2000人のツチが避難していたキガリの公立技術学校を警護していたベルギーの平和維持部隊は、学校の周囲がビールを飲みながらフツ・パワーのプロパガンダを繰り返し叫ぶ過激派フツに取り囲まれている状況であったにもかかわらず、同施設の警護任務を放棄して撤収した。その後、学校を取り囲んでいた武装勢力が学校内へ突入し、数百人の児童を含むおよそ2000人が虐殺された。さらに、この事件から4日後には、安全保障理事会は国際連合ルワンダ支援団を280人にまで減らすという国連安保理決議第912号を決定した[118]。その一方で国連安保理は同時期に起こったボスニア紛争に対して積極的な活動を行っていた。ルワンダの平和維持軍削減を決めた国連安保理決議第912号を可決したのと同じ日に、ボスニア内における安全地帯防衛の堅持を確認した国連安保理決議第913号を通過させたことから、差別的観点からヨーロッパをアフリカよりも優先させたとの指摘がなされている[119]。

ダレールは国連から与えられた停戦監視のみを目的とするマンデートを無視して住民保護を行い、4月9日には国連平和維持活動局本部から「マンデートに従うよう」指示を受けたが、その後もマンデートを無視して駐屯地に逃れてきた避難民を保護した[120]。しかしながら、平和維持軍人員の完全な不足とマンデートから積極的な介入行動を行えず、目の前で殺害されようとする避難民を助けられず[121]、平和維持軍の増員と強いマンデートを望むダレールの要求は拒絶された。

1999年、ルワンダ虐殺当時のアメリカ大統領であったビル・クリントンは、アメリカのテレビ番組のフロントラインで、"当時のアメリカ政府が地域紛争に自国が巻き込まれることに消極的であり、ルワンダで進行していた殺戮行為がジェノサイドと認定することを拒絶する決定を下したことを後に後悔した"旨を明らかにした。この、ルワンダ虐殺から5年後に行われたインタビューにおいて、クリントンは「もしアメリカから平和維持軍を5000人送り込んでいれば、50万人の命を救うことができたと考えている」と述べた[122]。





アメリカの国連大使であったマデレーン・オルブライト。
4月6日にハビャリマナ大統領が死亡した後、新たに大統領へ就任したテオドール・シンディクブワボ(英語版)率いるルワンダ政府は、自国への国際的な非難を最小限にするために活動した。当時のルワンダ政府は安全保障理事会の非常任理事国であり、同国の大使は「ジェノサイドに関する主張は誇張されたものであり、我が政府は虐殺を食い止めるためにあらゆる手を尽くしている」と主張し、その結果として国連安全保障理事会はジェノサイドの語を含む議決を出さなかった[123]

その後の1994年5月17日になって、国連は「ジェノサイド行為が行われたかもしれない」ことを認めた[124]。この5月半ばには、既に赤十字により50万人のルワンダ人が殺害されたとの推定がなされていた。国連は大部分をアフリカ国家の軍人からなる5500人の兵員をルワンダへ送ることを決定したが[125]、これは虐殺勃発以前にダレールが要求したものと同規模であった。兵員増強の可否に関して5月13日に投票で決定する予定であったが、アメリカのマデレーン・オルブライト大使の活動により4日間引き伸ばされ、17日まで投票が延期された[123]。さらに国連はアメリカに50台の装甲兵員輸送車の提供を求めたが、アメリカは国連に対して輸送費用の650万ドルを含む計1500万ドルをリース費用として要求した。結果として、国連部隊の展開はコスト面や装備の不足などを原因として遅延し、5月17日に国連でアメリカが主張した通りに非常にゆっくりと展開した[126][123]。

国際連合ルワンダ支援団(UNAMIR)は1994年7月にルワンダ愛国戦線が勝利を納めた後、同年5月時点で可決済みであった国連安保理第918号に従って人員数を5500人へ増強し(UNAMIR 2)、1996年3月8日までルワンダで活動した[127]。一方で司令官であったダレールは、虐殺の発生を事前に知りながら防止できなかったこと、虐殺期間中も積極的な活動を行えなかったことに対する自責の念から任務続行が不可能となり、虐殺終結後の1994年8月に司令官を離任した。その後、カナダに帰国後もうつ病やPTSDに悩まされ続けていたという[128]。また、帰国後に出演したカナダのテレビ番組では以下のように述べた。


私にとって、ルワンダ人の苦境に対する国際社会、とりわけ西側諸国の無関心と冷淡さを悼む行為はまだ始まってもいない。なぜなら、基本的には、非常に兵士らしい言葉遣いで言わせてもらえば、誰もルワンダのことなんか知っちゃいないからだ。正直になろうじゃないか。ルワンダのジェノサイドのことをいまだに覚えている人は何人いる? 第二次世界大戦でのジェノサイドをみなが覚えているのは、全員がそこに関係していたからだ。では、ルワンダのジェノサイドには、実のところ誰が関与していた? 正しく理解している人がいるかどうか分からないが、ルワンダではわずか三ヵ月半の間にユーゴスラヴィア紛争をすべてを合わせたよりも多くの人が殺され、怪我を負い、追放されたんだ。そのユーゴスラヴィアには我々は6万人もの兵士を送り込み、それだけでなく西側世界はすべて集まり、そこに何十億ドルも注ぎ込んで解決策を見出そうと取り組みを続けている。ルワンダの問題を解決するために、正直なところ何が行われただろうか? 誰がルワンダのために嘆き、本当にそこに生き、その結果を生き続けているだろうか? だから、私が個人的に知っていたルワンダ人が何百人も、家族ともども殺されてしまった――見飽きるほどの死体が――村がまるごと消し去られて…我々は毎日そういう情報を送り続け、国際社会はただ見守っていた…[129]。

この発言を行った後の1997年9月、ダレールはベルギーの平和維持軍兵士10人が殺害された件についてベルギー議会で証言を要求されたが、コフィ・アナン国連事務総長により証言は禁じられた[130]。それから3年後の2000年、ダレールは公園でアルコールと睡眠薬を大量服用して自殺を図るが、昏睡状態のところを発見され死を免れた[128][131]。

フランスの動向[編集]





ルワンダ虐殺当時のフランス大統領であったフランソワ・ミッテラン。
イギリス人作家のリンダ・メルバーン(英語版)は、当時のフランス大統領フランソワ・ミッテランが、ルワンダ愛国戦線の侵攻をフランス語圏国家に対するイギリス語圏の隣国による明確な侵略とみなしていたことを、近年になり公開されたフランスの公文書を調査した結果から明らかとした[132]。この文書内でルワンダ愛国戦線は、英語を話す"ツチの国家"の樹立と、アフリカにおけるフランス語圏の影響力を削ぎつつ英語圏の影響力を拡大することを目的とした、ウガンダ大統領を含む"イギリス語圏の陰謀"の一部であると論じている。メルバーンの分析によれば、フランスの政策はルワンダ愛国戦線の軍事的勝利を避けるためのものであり、この政策は、軍人、政治家、外交官、実業家、上級諜報員などの秘密ネットワークにより作られたという。ルワンダ虐殺時に行われたフランスの政策は、議会にも報道機関にも不可解なものであったことが知られている[132]。





空港周囲の蛇腹形鉄条網を整備するフランスの軍人。ルワンダからの避難民の救援活動を行う多国籍軍の活動の一環。
6月22日、国連部隊の展開が進む兆しが一向になかったことから、国連安全保障理事会は国連安保理議決第929号を議決し、ザイールのゴマへ駐留するフランス軍に対して、"人道上の任務としてルワンダへ介入すること"と、"同任務の遂行に必要であれば、あらゆる手段を使用して良いこと"を承認した[133]。フランスは、自国とフランス語圏のアフリカ諸国を中心とした多国籍軍を編成し、ルワンダの南西部全域へ部隊を展開した。このフランス語圏からなる多国籍軍は、ジェノサイドの鎮圧と戦闘行為の停止を目的としてトルコ石作戦(人道確保地帯)と呼ばれるエリアを確立した。しかし、虐殺で中心的な役割を果たしたジェノシデールや虐殺に関与したフツ過激派が、この地域を介してザイール東部地域などの近隣諸国へ逃亡するのを手助けする結果となった。さらに同作戦によって1万人のツチが救われた一方で、数万人が殺害されたという。フツ過激派はしばしばフランス国旗を用いてツチをおびきよせて殺害したり、フランス軍が救助を行うためにその場で待機させていたツチを殺害したことが知られている[134]。トルコ石作戦は、フツ過激派を援護するものであったと、駐フランス大使でルワンダ愛国戦線出身のジャック・ビホザガラ(英語版)は非難している。ビホザガラは後に「トルコ石作戦はジェノサイド加害者の保護のみを目的としていた。なぜならば、ジェノサイドは"人道確保地帯"の中ですら行われていたのだ」と証言している[135]。

2006年11月22日、フランスの裁判官ジャン=ルイ・ブリュギエール(英語版)は、1994年4月6日に起きた航空機撃墜によるルワンダ大統領ジュベナール・ハビャリマナとブルンジ大統領シプリアン・ンタリャミラ、および3人のフランス人乗組員が死亡した事件の調査結果から、ポール・カガメ現大統領を含むルワンダ愛国戦線の指導者9人に逮捕状を発出した。なお、カガメは現職国家元首として不逮捕特権があるとされたため、国際逮捕状が発行されたのはルワンダ国軍参謀総長であったジェームス・カバレベ(英語版)などのカガメ大統領を除いた8人であった[136]。カガメ大統領は嫌疑を否定し、この嫌疑は政治的な動機で主張されたものであるとフランスを非難し、同月中にフランスとの外交関係を断絶した。その後、カガメは公式に"ジェノサイドにおけるフランスの関与を告発する"ことを目的としたルワンダ法務省職員からなる委員会の結成を命じた[137]。このルワンダ政府による調査が政治的な性質を帯びていることは、調査期間中の報告がカガメ大統領にのみ行われていたことと、調査結果の公式な報告がブリュギエール判事の件から1年後にあたる2007年11月17日であったことからも明らかであった。ルワンダの司法長官であり調査委員会委員長のジャン・ド・デュ・ムチョ(英語版)はこの日、「委員会は現在、"この調査が妥当かどうかをカガメ大統領が判断し、宣言を行うことを待つ"状態である」と述べた[137]。それから1年後の2008年7月、カガメ大統領は「欧州裁判所がルワンダの当局に対して発行した逮捕状を撤回しなければ、フランス国民をジェノサイドの嫌疑で起訴する」と脅し、またスペイン人裁判官フェルナンド・アンドレウ(英語版)によるルワンダ軍将校40人に対する起訴についても撤回を要求した[138][139][140]。さらに翌月の2008年8月5日、カガメ大統領の命令により調査委員会は調査結果報告書を公開した。この報告書では、フランス政府がジェノサイドの準備が行われていたのを察知していたこと、フツ民兵組織のメンバーへの訓練を行ってジェノサイドに加担したことを非難し、さらに当時の大統領であったミッテランや大統領府事務局長であったユベール・ヴェドリーヌ、首相であったエドゥアール・バラデュール、外務大臣であったアラン・ジュペ、大統領首席補佐官であったドミニク・ガルゾー・ド・ビルパンらを含む、フランスの軍人および政治関係者の33人がジェノサイドに関与したとして非難を行い、この33人は訴追されるべきであると主張した[102][141][142][143][144]。 上記内容に加えてこの報告書では「フランス軍の兵士自身もツチやフツ穏健派の暗殺に直接関与しており……(中略)……フランス軍はツチの生存者に対し、何件もの強姦を行った」と主張されていたが、後者の強姦に関しては実証が行われていない[141]。この件に関しBBCは、フランスの外務大臣ベルナール・クシュネルの、フランスのジェノサイドに関する責任を否定する一方で、フランスは政治的な誤りを犯していたとするコメントを報道した[141]。また、BBCはルワンダによる調査レポートの動機を徹底調査し、以下のように解説した。


調査委員会の責任者は、ルワンダ愛国戦線のためというよりもむしろ1994年に権力を握ったポール・カガメ大統領に権威をもたらす目的で、世界の人々にジェノサイドへの関心を持たせ続けることに鉄の決意を示している。近年ルワンダ愛国戦線により主張されている不愉快な疑惑は、1994年の虐殺当時とその後に行われたとされる戦争犯罪に関するものである。ヒューマン・ライツ・ウォッチのアリソン・デフォルジュが「ジェノサイドと戦争犯罪は異なるものだ」とカガメ大統領に伝えたところ、このルワンダ愛国戦線指導者は「彼ら(戦争犯罪の)犠牲者にも正義がもたらされるのだ」と答えた、とフォルジュは述べた[145]。

ルワンダにおける国連への信用失墜と、1990年から1994年までのフランスの不可解な政策、さらにフランスがフツを援助し虐殺に関与したという主張を受けて、フランス政府はルワンダに関するフランスの議会委員会(英語版)を設立し、幾度かに分けて報告書を公開した[146]。





ニコラ・サルコジ大統領はルワンダを訪問し、「フランスはジェノサイドの時に"誤り"を犯した」との認識を示した。
特に、フランスのNGOシュルヴィ(英語版)の元代表フランソワ=グザヴィエ・ヴェルシャヴ(英語版)は、ジェノサイドの期間にフランス軍がフツを保護したことを非難し、議会委員会設立に大きな役割を果たした。同委員会が最終報告書を提出したのは1998年12月15日であった。この報告書では、フランス側と国連側双方の対応が曖昧かつ混乱していたと実証されていた。またトルコ石作戦に関しては、介入時期が遅すぎたことが悔やまれるものの、作戦の遂行は、事態に対し何ら反応しなかった国連や、介入に反対したアメリカ政府やイギリス政府の対応よりもましであったことに留意すべきとした。さらにルワンダ軍や民兵組織の武装解除に関しては、フランス軍の明瞭かつ体系的な活動が行われ、さまざまな問題を抱えつつも部分的には成功したことを実証したが、一方で虐殺当時にルワンダ愛国戦線の将軍であったポール・カガメにとっては十分に早いとは言えなかったことも明らかとなった。なおこの調査では、フランス軍がジェノサイドに参加した証拠や民兵に協力した証拠、あるいは生命の危機に瀕したルワンダの人々を故意に見捨てた証拠は1つも見つからなかった。加えてフランスは、ルワンダが必要としていたが国連とアメリカが拒否した援助任務、例えばジェノサイドを煽動するラジオ放送を妨害するなどの多様な任務を行い、部分的には成功を収めたことを実証した。この報告書は最終的に、"フランス政府はルワンダ軍に関する判断ミスを犯したが、これはジェノサイドが始まる以前の期間のみであった"とし、この他の更なる過ちとして、
ジェノサイドの開始時点でその脅威の規模を図り損ねたこと。
アメリカやその他の国による国際連合ルワンダ支援団の人員数の切り下げを自覚することなしに、同組織へ過度に依存したこと。
効果のない外交。

があったとした。本報告書は最終的に、フランスはジェノサイドが始まった時点でその規模を抑えられる最大の外国勢力であったが、より多くの措置をとらなかったことが悔やまれた、と結論とした[146]。

その後、2010年にはフランスのニコラ・サルコジ大統領がルワンダを訪問し「フランスはジェノサイドの時に"誤り"を犯した」との認識を示したが、謝罪は行わなかった[147][148]。これに対しカガメ大統領は、2カ国間の国交正常化と、新たな関係の構築への期待を述べた[149]。さらに2010年3月にフランス当局は両国大統領の会談を受けて、同国に亡命中のアカズの一員でありルワンダ虐殺の責任者の1人、アガート・ハビャリマナ元ルワンダ大統領夫人を拘束し、尋問を行った[150]。

アメリカの動向[編集]





ルワンダ虐殺当時のアメリカ大統領であったビル・クリントン。
アメリカ政府はジェノサイド以前からツチと提携を行っており、これに対しフツは、ルワンダ政権の敵対者に対するアメリカの潜在的な援助に懸念を増していった。ルワンダ出身のツチ難民でウガンダの国民抵抗軍将校であったポール・カガメは、1986年にルワンダ愛国戦線をツチの同志と共同で設立し、ルワンダ政権に対する攻撃を開始した後に、アメリカ合衆国カンザス州レブンワース郡のレブンワース砦へ招かれ、アメリカ陸軍指揮幕僚大学で軍事トレーニングを受けた。1990年10月にルワンダ愛国戦線がルワンダへの侵攻を開始したとき、カガメはレブンワース砦で学んでいる最中であった。侵攻開始からわずか二日後、カガメの親しい友人でルワンダ愛国戦線の共同設立者であったフレッド・ルウィゲマ(英語版)が側近により射殺されたため[151]、カガメは急遽アメリカからウガンダへ帰国してルワンダ愛国戦線の司令官となった[152]。1997年8月16日のワシントン・ポストに掲載された南アフリカ支局長であるリン・デューク(Lynne Duke)の記事では、ルワンダ愛国戦線がアメリカ軍特殊部隊から戦闘訓練や対暴動活動の訓練などの指導を受ける関係が続いていたことが示唆されていた[153][154]。

1993年まで、世界の平和維持活動を積極的に行っていたアメリカであったが、ソマリア内戦へ平和維持軍として軍事介入を試みた結果、モガディシュの戦いにてアメリカ兵18人が殺害され、その遺体が市内を引き回された映像が流されたため、アメリカの世論は撤退へと大きく傾き、その後のアメリカの平和維持活動へ大きな影響を与えた。1994年1月には、アメリカ国家安全保障会議のメンバーであったリチャード・クラーク(Richard Clark)は、同年5月3日に成立することとなる大統領決定指令25(PDD-25)を、公式なアメリカの平和維持ドクトリン(政策)として展開した。

その結果としてアメリカはルワンダ虐殺が行われていた期間にルワンダで軍を展開しなかった。アメリカ国家安全保障アーカイブの報告書は「アメリカ政府は後述する5種類の手段を用いたことで、ジェノサイドに対するアメリカと世界各国の反応を遅らせることに貢献した」と指摘する。その手段とは以下のようなものであった。
1.国連に対し1994年4月に、国連部隊(国際連合ルワンダ支援団)の全面撤退を働きかけた。
2.国務長官であったウォーレン・クリストファーは5月21日まで"ジェノサイド"の語を公式に使用することを認めず、その後もアメリカ政府当局者が公然と"ジェノサイド"の語を使うようになるまでにはさらに3週間待たねばならなかった。
3.官僚政治的な内部抗争により、ジェノサイドに対するアメリカの全般的な対応が遅くなった。
4.コスト面と国際法上の都合から殺害を煽る過激派によるラジオ放送のジャミングを拒否した。
5.アメリカ政府は誰がジェノサイドを指揮しているか正確に知っており、実際に指導者らとジェノサイド行為の終了を促す話し合いを行ったが、具体的な行動を追及しなかった[155]。

アメリカが"ジェノサイド"の語の使用を頑なに拒んでいたのは、もしルワンダで進行中の事態が"ジェノサイド"であればジェノサイド条約の批准国として行動する必要が生じるためであった。6月半ば以降に"ジェノサイド"の語が使用できるようになったのは、フランス軍を中心としたトルコ石作戦が開始され、また虐殺も収まりつつあったことでアメリカが事態に対応する必要性が低下したためであるとの指摘もある[156]。

ルワンダ愛国戦線の再侵攻と戦争終結宣言[編集]

詳細は「ルワンダ紛争」を参照





ルワンダ愛国戦線の侵攻ルート。
アルーシャ協定(英語版)によりキガリへ駐屯していたルワンダ愛国戦線の大隊は、大統領の搭乗する飛行機の撃墜を受け、キガリからの脱出と北部に展開するルワンダ愛国戦線本隊との合流を目的とした軍事行動を即座に開始した[157]。また事件翌日の4月7日に、ルワンダ愛国戦線は"大統領機の撃墜は大統領警備隊によるものである"として全軍に対してキガリへの進軍を命じた[133]。その結果、ルワンダ政府軍とルワンダ愛国戦線による内戦と、フツ過激派によるジェノサイドが7月初頭まで続くこととなった。そのため、海外の報道員にはジェノサイドが行われていることがすぐには分からず、当初の頃は内戦の激変期として説明されていた。そんな中でBBCニュースのキガリ特派員であったマーク・ドイル(英語版)は、1994年4月下旬点でこの入り組んだ事態の説明を行おうと試み、以下のような報道を行った。


ここで2つの戦争が行われていると解釈して頂かなくてはなりません。それは武力戦争とジェノサイド戦争です。この2つは関連しておりますが、一方で別個のものでもあります。武力戦争は通常通りの軍隊同士によるもので、ジェノサイド戦争は政府軍と政権を支持する市民の側に立った政府に関係する大量虐殺です[158]。

ルワンダ愛国戦線は1994年7月4日に首都キガリおよびブタレを制圧し、同月16日には政府軍の最終拠点であったルヘンゲリを制圧、その二日後の18日にカガメ司令官が戦争終結宣言を行った。これはハビャリマナ大統領の暗殺からおよそ100日後のことであった。

余波[編集]





トラックにて運び出された難民キャンプの死亡者。




ザイールのキャンプに給水支援を行う多国籍軍。




1994年、ザイールにおける難民キャンプの写真。
虐殺に「加担あるいは傍観」した約200万のフツが、殺害や家への放火といったツチによる報復を恐れてルワンダ国外へ脱出し[159]、大部分がザイールで、一部がブルンジ、タンザニア、ウガンダで難民となったが、難民キャンプの劣悪な環境により、コレラや赤痢といった伝染病が蔓延して数千人が死亡した[160]。アメリカは1994年の7月から9月にかけて、オペレーション・サポート・ホープ(英語版)として難民キャンプの状況改善を目的とした食料や水、生活必需品の空輸による援助や、空港整備などを行ったほか[161][162]、多国籍軍による支援活動も行われた。また、1994年に難民キャンプが結成されると、その後すぐに200以上のNGOが現地で活動を行い、1996年までの期間に10億ドル以上が難民支援に支出された[163]。

このルワンダ難民キャンプ支援には、日本の自衛隊が国際平和協力法に基づいて自衛隊ルワンダ難民救援派遣として派遣された。1994年9月、2度に渡るルワンダ難民支援のための調査団の派遣と緒方貞子国連難民高等弁務官からの要請を受け、日本政府はルワンダ難民支援の実施計画と関連する法令を閣議決定し、翌月の10月2日から12月23日までザイール及びケニアで活動を行った[164]。

なお、ザイールを含め各地の難民キャンプには旧ルワンダ政権の武装集団が紛れており、ルワンダ解放軍(ALiR)を結成してルワンダ愛国戦線率いる現ルワンダ政府に対し攻撃を行ったため、ルワンダ政府はローラン・カビラ率いるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) と手を結び、傘下のザイール東部に暮らすツチ系民族のバニャムレンゲに軍事訓練・共同作戦を行った。1996年10月にローラン・カビラ率いるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合が叛乱を起こして第一次コンゴ戦争が勃発すると、ザイールの南北キヴ州などにある難民キャンプは、ルワンダ軍、ブルンジ軍、およびコンゴ・ザイール解放民主勢力連合の兵士らによる攻撃の対象となった。その翌月の11月にルワンダ政府が難民の帰国を認めたため、同月中に40万から70万もの難民がルワンダへ帰国した[165]。さらに1996年12月の終わりには、タンザニア政府の立ち退き活動により50万を超える難民が帰国した。その後も旧ルワンダ政権側の流れを汲む過激派フツ系の後継組織が2009年5月22日までコンゴ民主共和国東部に存在していた。

政治的展開[編集]

ルワンダ愛国戦線は1994年7月に軍事的勝利をおさめた後、ルワンダ虐殺以前にジュベナール・ハビャリマナ大統領が設立した連立政権と同様の連立政権体制を構築した。挙国一致内閣と呼ばれるこの内閣の基本的な行動規範は、憲法、アルーシャ協定(英語版)、各政党の政治的宣言を基礎に置いていた。旧政権与党であった開発国民革命運動は非合法化された。また、新たな政党の結成は2003年まで禁止された。さらに政府は民族、人種、宗教に基づく差別を禁止し、出身民族を示すIDカードの廃止を行ったほか、女性の遺産相続権限の許可や女性議員の比率増加を目的としたクウォーター制の導入といった女性の権利の拡大、国民の融和などを推進している[166]。なお上記のクウォーター制導入により、ルワンダ政府は2010年3月時点で女性議員の割合が56%と世界で最も高いことが知られている[167]。

1998年3月、アメリカ大統領のビル・クリントンはルワンダを訪問し、同国のキガリ国際空港の滑走路へ集まった群衆に対し、「我々は今日、我々アメリカと世界各国が出来る限りのことをせず、また、発生した行為を抑えるための行動を十分に行わなかった事実も踏まえた上でここへ訪れました。」と述べ[168]、さらに虐殺当時のルワンダに対し適切な対応を行わなかった点に関して自身の失敗を認め、現在では"クリントンの謝罪" (Clinton's apology) として知られる謝罪を行った[169]。もっとも、この謝罪はその後に発生した国際紛争や虐殺の抑制には何ら影響を与えなかったと言われるが[170]、ルワンダ国内ではジェノサイドの企てに対する国際社会からの強い叱責と受け止められ、同国民に肯定的な驚きを与えた[171]。

ルワンダは大規模な国際的援助を受け、政治改革を行った上で、外国人と地元投資者による投資の促進や、農業生産力の向上、国内民族の融和促進といった課題に取り組んでいる。2000年3月にパストゥール・ビジムング(英語版)が大統領を辞職するとポール・カガメがルワンダ共和国大統領へ就任した。2001年3月にはルワンダ虐殺以後初となる秘密選挙形式の地方選挙が行われた[172]。また、2003年8月には初の複数候補者による大統領選挙が、同年9月から10月にかけて上院・下院の議員選挙が行われ、結果として大統領選挙でカガメが当選し、議員選挙ではルワンダ愛国戦線が過半数を獲得した。その後、2008年9月にも下院議員選挙が行われ、ルワンダ愛国戦線が勝利を納めている[166]。現在は、大規模な難民の帰還による人口の急増や[173]、過激派フツ武装勢力によるゲリラ攻撃への対処、および近隣のコンゴ民主共和国で1996年から2003年にかけて行われた第一次コンゴ戦争および第二次コンゴ戦争とその後の余波への対処などに取り組んでいる[174]。

経済的展開と社会的展開[編集]





1961年から2003年にかけてのルワンダにおける人口動態。(出典は国際連合食糧農業機関である。)




首都キガリに暮らす孤児。
ルワンダに樹立された新政権が直面した問題には、近隣諸国に暮らす200万人以上の難民の帰還[173]、国内の北部地域や南西部地域で行われている旧ルワンダ政府軍やインテラハムウェなど民兵組織の戦闘員とルワンダ国防軍間の停戦[174]、中長期的な開発計画の迅速な立案などがあった。ルワンダ虐殺下の犯罪行為により刑務所へ収容される人数の増大も将来的に差し迫った課題であり、1997年末の時点で収容者は12万5千人にまで達したことから[175]、刑務所内の劣悪な環境や刑務所の運用コストが問題となった。

さらにルワンダ虐殺下における強姦被害者らは、社会的孤立(強姦に遭うことは社会的汚名とされるため、強姦された妻から夫が去ったり、強姦された娘は結婚の対象外とされたりした)や、望まぬ妊娠や出産(一部の女性は自身で堕胎を行った)、梅毒、淋病、HIV/AIDSといった性行為感染症への感染といった、長期に渡る甚大な被害を受けた[100]。ルワンダ虐殺問題の特別報告官は、未成年の少女を含む25万から50万の女性が強姦され、2000人から5000人が妊娠させられたと推定している[101](ルワンダにおけるHIV/AIDSも参照のこと)。ルワンダは家父長制社会であり、子供の民族区分は父親から引き継がれることから、ルワンダ虐殺における強姦被害者の多くはツチの父親を持つ女性であった[100]。 ルワンダの再建にあたり大きな問題となっているのは、強姦や殺人、拷問を行った者と同じ村で、時には隣人として暮らすという事実である。個人個人が虐殺に関与したにせよしなかったにせよ、ジェノサイド直後のツチにとってフツを信頼することは非常に困難であった。

ルワンダのジェノサイドは、未成年のトラウマという形でも社会に甚大な影響を残すこととなった。ユニセフの調査によれば、ルワンダ虐殺当時、子供の6人中5人は流血沙汰を目撃したとされる[176]。また、10代の若者約5000人が虐殺に関与した嫌疑で2001年まで拘留されていた[177]。拘留による教育の欠如や、模範とすべき親世代との隔絶は、未成年に好ましくない影響を及ぼしたと考えられる。また、これらの未成年が家族の下に戻る際にはしばしば問題が生じる。家庭の経済的な問題やジェノサイドへ関与したことに対する恐怖から、多くの場合で少年らは家族から拒絶されるのである[178]。

ルワンダ国際戦犯法廷[編集]





ルワンダ国際戦犯法廷の建物
詳細は「ルワンダ国際戦犯法廷」および「ジェノシデール」を参照

1994年11月8日、国連安保理決議第955号によりジェノサイドの責任者とされる政府や軍の要人を裁くための国際法廷が設置が決定され[179]、1995年2月22日の国連安保理決議第977号により法廷はタンザニアのアルーシャに設置されることが決定された[180]。なお、ルワンダ新政府は国内で裁判を行おうと考えていたが、国連はこれを拒否して代わりにユーゴスラヴィア国際戦犯法廷の下にルワンダの文字を付け加えた[181]という背景から、ルワンダ新政府は国連で同法廷設置に反対している。その後、実際の運用が始まったのは1996年5月30日のことで、公立技術学校の虐殺などに関与したインテラハムウェ全国委員会第二副議長のジョルジュ・ルタガンダ(英語版)がジェノサイドおよび人道に対する罪により起訴されたのが第一号となった[182]。同年8月7日にはルワンダ国内でも虐殺に関与した現地指導者や一般住民を裁くための法律が成立し、1990年1月1日から1994年12月31日までの行為が対象とすることが決定された[179][183]。その後、コンゴ民主共和国からの大量の難民の帰還を受け、1996年12月からルワンダ虐殺の裁判を手探り状態で開始した[184]。

さらに2001年には、政府は9万人を超える留置者へ対応するため、ガチャチャ(英語版)として知られるルワンダの一般住民による司法制度を開始した。このガチャチャは、膨大な数の囚人数を減らすこと、民族の融和を国際社会に強調すること、4つの犯罪区分のうち最も重罪となる虐殺扇動者(カテゴリ 1)を除く犯罪者(カテゴリ 2, 3, 4)を大幅に減刑し、早期に釈放することで政権支持基盤を確保する目的があるという[185][186]。ガチャチャについては、本来は窃盗などの事件を解決するための和解が目的であり、重罪を処理する制度ではないため、効果が疑問視されてもいる[187]。

かつては国連とルワンダとの間で死刑の是非をめぐって緊張関係を招いたが、2007年にルワンダ政府が死刑廃止を決定したことでこの問題は大筋で解決した[188]。しかしその一方で、虐殺生存者の多くは死刑の廃止に反対している[189][190]。

アルーシャ法廷では開始から10年間で判決に至ったのはわずか20人に過ぎない。2003年には、2008年末までに一審を終わらせ、全裁判を2010年までに完了するため、ハッサン・ブバカール・ジャロウ(英語版)がルワンダ国際刑事裁判所の主席検察官として4年間の任命を受け[191][192][193]、2007年には2010年まで任期が延長された[194]。

2008年12月18日の木曜日、国防省官房長であったテオネスト・バゴソラ(英語版)が人道に対する罪で有罪となり、国連の裁判官であるエリック・モーセ(英語版)により無期懲役の判決を受けた[195]。同法廷はさらに、1994年4月7日に暗殺されたアガート・ウィリンジイマナ首相およびベルギーの平和維持部隊員10人の死は、バゴソラに責任があることを認定した。

追悼施設[編集]





キガリ虐殺記念センター




同センターの壁には犠牲者の名前が記されている
ルワンダでは1995年以降、海外からの援助を受けて全国各地でジェノサイドの記念施設が設立された。ルワンダでは毎年、4月7日からの一週間はルワンダ虐殺の追悼の週として、全国各地の施設で式典や慰霊祭が行われ、喪に服し、記憶し、反省し、学び、二度と虐殺を繰り返さないための誓いが立てられる[196]。2004年、この追悼記念施設の中心となるキガリ虐殺記念センターがルワンダの首都キガリで開館した。このセンターは約25万人が滞在可能な宿泊所を備える大規模な施設である。一部の施設は2005年時点でも建設中であった[197][198][199]。ルワンダには現在、7箇所の中央記念施設と約200箇所の地域の記念施設が存在している。これらの記念施設は、ルワンダ虐殺の期間に多数の人々が虐殺された場所に設置されている。





ニャマタ虐殺記念館入り口
これらの記念施設は、その政治的な目的性や様々な矛盾から非難を受けている。多くの記念施設では、ジェノサイドを否定したり平凡化することを防止するために[200]数百人分の遺体や遺骨が展示されており、これらが大規模な暴力行為が行われたという具体的な証拠となっている。しかし、虐殺犠牲者の遺体を公開する行為は特に国内外からの非難を呼んでいるほか、この展示行為は"遺体は可能な限り迅速かつ目立たないように埋葬を行うべき"とするルワンダの伝統的な方針に反している、記念施設に埋葬されるのが専らツチのみでフツが排斥され差別されているなどの問題が存在している。フツもルワンダ内戦や難民化などにより多くの被害を受けたにもかかわらずほとんど省みられることがない点に関して、多くのフツが怒りを感じている。さらに、現在のルワンダ政府は、ルワンダ虐殺の記念館を開発協力資金の勧誘の手段として利用しているとの指摘もあるが、その一方で国際援助機関が虐殺記念館の設立や維持に援助を行うことで、1994年4月から7月までの消極的な姿勢をとったことに関して国際社会が感じるやましさを埋め合わせているという面も存在している[201]。

メディアと大衆文化[編集]





2007年の映画、"Shake Hands with the Devil"の撮影風景。




自身の勤務するホテルに避難民を匿って命を救ったポール・ルセサバギナ。




オテル・デ・ミル・コリンの正面口。
ルワンダの専門家であり、1994年のルワンダ虐殺をジェノサイドとして最も早くに断言したアリソン・デフォルジュは、1999年にルワンダ虐殺の報告書として『Leave None to Tell the Story: Genocide in Rwanda』を出版した[202]。同報告書の内容はヒューマン・ライツ・ウォッチのホームページ[3]にて閲覧可能である。また、国際連合ルワンダ支援団司令官であり、最も著名なジェノサイドの目撃者となったロメオ・ダレールは、2003年に『Shake Hands with the Devil: The Failure of Humanity in Rwanda』を共著で発行し、その中で自身の体験したうつ病やPTSDについて記述した[203]。この"Shake Hands with the Devil"は2007年に映画化された。さらに、国境なき医師団代表者の1人でありルワンダ虐殺を体験したジェームズ・オルビンスキー(英語版)は"An Imperfect Offering: Humanitarian Action in the Twenty-first Century"を執筆した。

映画評論家から絶賛を受け、2004年度のアカデミー賞やゴールデングローブ賞にノミネートされた『ホテル・ルワンダ』は、キガリのホテルオテル・デ・ミル・コリンの副総支配人であったポール・ルセサバギナが、一千人以上の避難民をホテルに匿い命を救ったという体験に基づいた物語であり[204]、この作品はアメリカ映画協会による感動の映画ベスト100の第90位にランクインした。2006年にはルセサバギナの自伝となるAn Ordinary Man(邦題『ホテル・ルワンダの男』)が発行された。2006年には、ジェノサイドの生き残りであるイマキュレー・イリバギザ(英語版)が、自身の体験をまとめた手記、Left to Tell: Discovering God Amidst the Rwandan Holocaust (邦題『生かされて。』)を刊行した。この本では、イリバギザが牧師の家の狭く湿ったトイレに他の7人の女性とともに隠れ、91日間に渡る虐殺の日々を奇跡的に生き抜いた様が描かれている。

アリソン・デフォルジュはルワンダ虐殺から11年目となる2005年、ルワンダに関して扱った2本の映画に関して「50万人を超えるツチが命を奪われた恐怖への理解を大きく進めた」と述べた[54]。2007年にメディア・フォーラム「ポリス」のディレクターとして知られるチャーリー・ベケット (Charlie Beckett) は、「どれだけの人が映画"ホテル・ルワンダ"を見たのだろうか? 皮肉にも、今や大多数の人々はこの映画によってルワンダに触れるのである」と評した[205]。

パンク・ロックのバンドランシドが2000年に発表したアルバム(en:Rancid (2000 album))収録曲Rwanda は、ルワンダ虐殺を題材としている。

修正主義への批判[編集]

1994年のルワンダ大虐殺における事実関係については、歴史学的論争の争点となっているが[206]、否定的見解を示す論者はしばしば否認主義として非難される[207]。フツに対するカウンター・ジェノサイド(counter-genocide)に従事したツチを非難する内容を持つ"ダブル・ジェノサイド"(double genocides)論[208]は、2005年にフランス人ジャーナリストのピエール・ペアン(英語版)により出版されたBlack Furies, White Liars内で提唱され議論を呼んだ。これに対し、ペアンの書籍内で"親ツチ派圧力団体"の活発な会員として描かれたジャン=ピエール・クレティエン(英語版)は、"驚くべき歴史修正主義者の情熱"としてペアンを批判している[209]。

ルワンダ虐殺に関する修正主義者として非難された人物としては、カナダ人ジャーナリストのロビン・フィルポット(英語版)が知られている[210][211]。フィルポットはルワンダ虐殺に関する権威として知られるジェラルド・キャプラン(英語版)により、2007年に『グローブ・アンド・メール』紙の記事で「1994年に多数の人々が両陣営によって殺害されたことを以て、ジェノサイドを実行した者とその対象となったものが道徳的に等しい」と評された。キャプランはさらに「旧ルワンダ軍と過激派フツ民兵による、100万人の無防備なツチに対する一方的な謀略ではなかった」とするフィルポットの主張を非難し、「フィルポット氏は、主張が証拠と完全に矛盾していることが明らかになって以降、真実を否定する揺るぎない決意により、もっぱら噂や推測から構成される支離滅裂で奇妙な主張を量産している」と述べている。

ルワンダ虐殺を扱った映画作品[編集]

洋画[編集]

ルワンダ虐殺の関連映画(英語版)を参照のこと。

日本語に翻訳されたもの[編集]
ホテル・ルワンダ
ルワンダの涙
ルワンダ虐殺の100日(英語版) - 映画祭等で上映。
愛の叫び 〜運命の100日〜(英語版)
ルワンダ 流血の4月(英語版) - 映画祭等で上映。

ドキュメンタリー[編集]
記憶の守人たち (Keepers of Memory) - 映画祭等で上映。
元PKO部隊司令官が語るルワンダ虐殺 (Shake Hands With the Devil:The Journey of Roméo Dallaire) - ロメオ・ダレールの体験をもとにしたドキュメンタリー。サンダンス映画祭国際ドキュメンタリー部門観客賞。
BS世界のドキュメンタリー<シリーズ飽くなき真実の追求> ルワンダ 仕組まれた大虐殺 ~フランスは知っていた~ 原題:Earth Made of Glass、制作:Clover & a Bee Films (アメリカ 2010年)
真相が謎に包まれてきたルワンダ大虐殺が、ツチ人とフツ人の民族対立により突発的に起きたものではなく、当時の政府により用意周到に準備され、フランスが武器供与や軍隊派遣などで便宜を図り、計画を後押ししていたとを公にし告発する内容。


ルワンダ虐殺を扱った文学作品[編集]

小説[編集]
曽野綾子 『哀歌』 毎日新聞社 2005年

脚注[編集]

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67.^ Zum Verhalten der Muslime während des Völkermords und zur gewachsenen Bedeutung des Islam in Ruanda nach 1994 siehe insbesondere Alana Tiemessen, Genocide. Siehe ferner Rainer Klüsener, Muslime, hier besonders S. 60–91.
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出典・参考文献[編集]

英語資料[編集]

ルワンダ虐殺の参考文献(英語版)を参照のこと。
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ドイツ語資料[編集]
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日本語資料[編集]
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日本語関連文献[編集]
吉岡逸夫 『漂泊のルワンダ』 牧野出版、2006年3月。
レヴェリアン・ルラングァ 『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』 山田美明訳、晋遊舎、2006年12月。
アニック カイテジ 『山刀で切り裂かれて ルワンダ大虐殺で地獄を見た少女の告白』 浅田仁子訳、アスコム、2007年9月。
イマキュレー・イリバギザ スティーヴ・アーウィン 『生かされて。』 堤江実訳、PHP研究所、2006年。
服部正也 『ルワンダ中央銀行総裁日記 増補版』 中公新書、2009年11月。

関連項目[編集]
ホロコースト
指揮官の責任(英語版)
ルワンダに関するフランスの議会委員会(英語版)
戦争および災害による死亡者数の一覧(英語版)
ルワンダの宗教(英語版)
キベホの聖母
キベホ虐殺(英語版)
モガディシュ・ライン(英語版)

外部リンク[編集]

ウィキメディア・コモンズには、ルワンダ虐殺に関連するカテゴリがあります。

ウィキバーシティにルワンダ虐殺に関する学習教材があります。
Through My Eyes Website Imperial War Museum - Online Exhibition
Amnesty International Online Documentation Archive: Rwandawebarchive log
Voices of Rwanda: The Rwanda Testimony Film Project A populous oral history archive dedicated to filming video testimonies of Rwandans
Rwandan Genocide Background from the Human Rights Watch
Rwandan Overview. Committee on Conscience: Rwandan Genocide. United States Holocaust Memorial Museum
United Nations International Criminal Tribunal for Rwanda.
Leave None to Tell the Story: Genocide in Rwanda
上野友也研究室 "人道的介入の事例 : ルワンダ"
ルワンダ共和国大使館 "ルワンダの歴史"
国連難民高等弁務官事務所 "アフリカ難民の現状 ルワンダ"
アムネスティ・インターナショナル日本 "ルワンダの大虐殺後の国際社会の動きは? 〜「特別法廷」から常設の「国際刑事裁判所」へ〜"
『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会(現:応援する会)『ルワンダの歴史』 2006年01月10日。




カテゴリ: ルワンダ虐殺

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20050226

2005-02-26 『ホテル・ルワンダ』は現実版『ドーン・オブ・ザ・デッド』だCommentsAdd Starsonota88nessko

TomoMachi2005-02-26

昨日は選挙の票読みと同じ方法でアカデミー賞の予想をしたけど、

「じゃあ、あんた自身はどれがいいんだ?」と思う人がいるかもしれない。

主演男優賞に限っていうと、『ホテル・ルワンダ』のドン・チードルが素晴らしかった。


『ホテル・ルワンダ』は現実版『ドーン・オブ・ザ・デッド』だ。

映画はルワンダで激しく抗争していた政府(フツ族)と反政府軍(ツチ族)の休戦協定が締結された日から始まる。

主人公はルワンダでも最高級のベルギー資本のホテルのマネージャーのポール。

高級な服を着た客が高級な酒と高級な葉巻を楽しむ高級ホテルで働く主人公は、いつものように仕事を終えて自宅に帰る。

しかし、おかしなことにカーラジオからは呪いのような不気味な歌以外に何も聴こえてこない。

家に着くと真っ暗で誰もいない。

遠くから銃声が聴こえる。

ここから映画が終わるまで銃声は一度も止むことはない。

その日、ルワンダ大統領が何者かに暗殺され、これをツチ族の仕業と考えた多数派のフツ族はツチ族皆殺しを始めた。

これが犠牲者百万人と言われるルワンダ大虐殺の始まりだ。

詳しくは柳下くんが訳した『ジェノサイドの丘〈上〉―ルワンダ虐殺の隠された真実』参照。

ポールはフツ族だが妻はツチ族だったので近所のツチ族の人々と共に隠れていたのだ。

ここからポールたちのサバイバルが始まる。

ポールのホテルが『ゾンビ』のショッピングモールとなるのだ。

ホテルは駆け込み寺となり、1200人もが逃げ込んでくる。

ある朝目覚めると昨日までの隣人が殺人鬼と化して襲って来るという恐怖はゾンビと同じだが、ゾンビよりも凶悪なことに、フツ族はAK47やRPGやマチェットで武装している。

撃ちあっても勝ち目はない。

そこでポールは優秀なホテルマンとしての手練手管を駆使し、賄賂や海外とのコネやありとあらゆる知恵を絞って戦い抜く。

監督は北アイルランドの内戦を経験したテリー・ジョージなので隣人同士が殺しあう恐怖を知っている。

ルワンダは国民の半分がカソリックだが、教会も虐殺の現場になり、殺される側も殺す側もキリスト教徒だ。白人の宣教師がツチ族の子供を見捨てて自分だけ逃げる場面もある。

将軍の一人は結構インテリで趣味もいいのだが、それでも民族浄化に加担する。

国連平和維持軍のニック・ノルティに助けを求めても「我々はピースキーパーであって、ピースメイカーじゃない」と言われる。

白人のカメラマン(ホアキン・フェニックス)が虐殺の現場をビデオに収める。ポールが「これで世界の人々がこの映像を見て、何かしてくれますよね」と言うとホアキンは「この映像を見て、『恐ろしいね』と言って、何事もなかったようにディナーを食べるだけさ」と答える。

男は皆殺しにされ、美しい女性達は巨大な檻に集められ、性奴隷にされる。

ポールは最初、自分の家族を守るために隣人が民兵に殴打されるのを見てみないフリをするが、なりゆきで人々を救うハメになっていくところが「シンドラーのリスト」よりもリアルだ。

国連からも見放され、水や食料も尽きかけて、いつ皆殺しになるかわからない状況でも、ポールはプロのホテルマンらしく、綺麗にヒゲを剃り、ビシッとネクタイを締め、まったくいつもと同じように振舞う。

誰も見ていないところでは重責に耐えかねて嗚咽して崩れ落ちるけれども。

もはやこれまで、と思ったポールは愛妻に「奴らに虐殺される前に子供達をその手で殺してやってくれ」と嘆願する。


ドン・チードルはポール・トーマス・アンダーソンやソダーバーグ監督の映画の常連だから心ある映画ファンならご存知だろう。

「ブギーナイツ」ではオーディオマニアでカントリーソング好きの黒人というありえない役で笑わせ、「ラッシュアワー2」では麻雀屋を経営する中国系黒人という役で笑わせ、コメディ演技が上手かったが、この映画では一人の平凡な男が武器を使わずに知恵だけで暴力や政治に立ち向かう姿を見せてくれる。

平凡なところがいいのだ。映画会社はデンゼル・ワシントンやウェズリー・スナイプスやウィル・スミスをポール役に欲しがったそうだが、彼らはヒーローだ。絵空事の戦いしかできない。この連中が主演してたら、マシンガンを掴んで敵をバンバン撃ち倒すトンデモ映画になってたかもよ。

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20050616
2005-06-16 「ホテル・ルワンダ」の日本公開についてCommentsAdd Star



「ホテル・ルワンダ」は、日本公開がないそうです(『Invitation』その他の雑誌の担当者から聞きました)。


 で、日本での公開を求めるドン・チードルのファンの人から「何か方法はないか」という問い合わせを受けましたので、いろいろ考えたことを綴って返事を送りました。

 他にもっとうまい方法があるかもしれないし、考えていることに間違いがあるかもしれないので、ここで自分の手紙を公開します(間違いがあれば修正していきます)。




町山です。

メールありがとうございます。


「ホテル・ルワンダ」の試写があったことは柳下くんから聞きました。

この映画はライオンズゲイトという日本に配給会社を持たない会社の製作なので、まず試写を行って、劇場関係者がそれを観て、どこかが上映したがれば、配給会社が引き受けるということだったようです。

しかし、劇場がどこも食いつかず、流れたということです。


ルワンダの虐殺が百万人近くに達した理由はいろいろありますが、ひとつには他の国が「どうせ野蛮人同士の殺し合いさ」と無関心だったことにあると言われています。

ところが、それが映画になっても、日本では「どうせ誰も関心ないさ」と思われ続けているわけです。


こういうことはよくありまして、ブエナ・ビスタが「エド・ウッド」を持っていたときも、劇場関係者のための試写が行われました。僕と柳下はエド・ウッドの本を作っていた関係で入れてもらいました。

コメディですから僕らは爆笑の連続でしたが、劇場関係者はクスリともしてませんでした。

字幕がついてないからです。


上映後、劇場関係者たちが「わからんね」「誰も興味ないよ」などと言ったのがはっきり聞こえました。

わかるわけないだろ! 

あんたらはエド・ウッドのこと知らないんだから!

とにかく「エド・ウッド」はオクラになりました。

もちろん、彼らはプロだから何の予備知識もなく、セリフなしで見ても面白そうな映画かどうか判断できる、と言い張るかもしれません。

しかし、後になぜか有楽町のシネ・シャンテの人がこの映画を気に入って上映すると、「エド・ウッド」はシャンテの記録を打ち立てたのです。


その記録を破ったのはたしか「ギャラクシー・クエスト」だったと思いますが、あの「ギャラ・クエ」も2年もオクラになっていたのです。

理由は知りませんが、アメリカではヒットしたこの映画を公開しなかったのは、おそらく劇場関係者が「わからない」と言ったからではないでしょうか。


このように劇場主が個人的に映画を気に入って上映してくれる劇場は他に渋谷のシネマライズなどがありますが、そういう劇場は数が少ないので、インデペンデント映画やアート映画がそこに集中し、予定がずっと先までいっぱいになっているそうです。


上映が決まるにはいろいろな事情があると思いますが、とにかく劇場が「うちが引き受ける」と言えば、上映の可能性はいっきに大きくなるでしょう。

劇場側が引き受けるためにはまず動員数があるていど読めないとなりません。そのために署名運動は有効だと思います。

どのくらいの署名が必要かはわかりませんが3万人くらいあれば理想的じゃないでしょうか。単純に入場料を計算すると5000万円を超えられるわけですから。

実際に署名運動でオクラから復活した映画はいくつもあります。

たとえば今は誰でも知っているザ・フーの『トミー』もそうで、

僕も中学のとき、署名集めに参加しました。


劇場はどこがいいかというと、日本にいないので劇場に詳しくないのですが、ラピュタやアップリンクといった小さい劇場ならやりたがるかもしれません。

しかし、劇場が小さすぎると、予想できる動員数とその映画の値段とがバランスが取れないために、配給会社は引き受けないでしょうが。


配給会社については、ライオンズゲートの映画は日本に特定の配給会社がありません。

クロックワークス、ムービーアイ、キネティックス、ファントムフィルム、トルネード・フィルム(叶井くんの会社)などのインデペンデント系にあたってみてください(連絡先はHPを検索して調べてみてください)。

僕からも知り合いをちょっとたきつけてみます。


もうひとつの方法はルワンダ大使館か国連、ユニセフなどの資金協力で、一般試写会を開くことです。

それで、熱心なファンは見ることができますし、それで話題になれば一般上映にもつながるでしょう。


もうひとつの方法は地方の映画祭で、招待することです。

地方の映画祭は自治体から資金援助があるので、その予算でフィルムを招待することができます。


字幕入りのプリントを焼かないとならない、という問題は、裏技で解決できます。

①デジタル・プロジェクターでスクリーンに字幕をオーバープロジェクトする。

これは僕も前に東京ファンタでやってみましたが、うまくいきました。

字幕の翻訳をする人へのギャラをどうするか、ということはご心配なく。ボランティアで僕もできますし、柳下君にも手伝ってもらえると思います。


②映画自体をデジタルで上映する。

一般試写ということなら、映画会社から許可をもらい、プロモーションのため、ということでデジタルのデータを借りるのです(DVDはもうアメリカで発売されています)。

それなら字幕をつけるのはもっと簡単です。

ただし、この場合は入場料を取ることが著作権上、難しくなると思います。


今、思いつく方法をざっと挙げてみました。

署名運動は必要になってくる気がします。

不明の点はお知らせください。

また、何かわかったらお伝えします。

「売春窟に生まれついてBorn Into Brothels」も日本でやるといいなあ

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060114
2006-01-14 「ホテル・ルワンダ」と「帰ってきたウルトラマン」CommentsAdd Starwaterless66nmshy342killbill2



土曜日に封切られた『ホテル・ルワンダ』、初日は満員御礼だったようです。


よかったと思う反面、「本当にわかってるのかな?」とも思う。

『ホテル・ルワンダ』を観て、「アフリカは悲惨だな。先進国が何かアフリカのためにしてやれることはないか」と思うのは、間違っている。

この映画は、そういう風にも作ることはできたが、テリー・ジョージ監督(アイルランド人)はそう作らなかった。

国際社会や政治の問題としても描かなかった。

最初のシナリオにはルワンダの虐殺の全体像が、あの『トラフィック』にも似た群像劇の手法で書き込まれていたが、監督はそれをバッサリ切って、その代わりに、主人公ポール一人に焦点を絞った。

多数派のフツ族でありながら少数派ツチ族の虐殺に加担せず、ツチ族1200人をかばい通した一人の男、ポール・ルセサバギナさんという男の生き方を見せる映画として完成させた。


わかりやすく言ってしまうと、

「アフリカのことは置いといて、とりあえず、これを観た一人一人が各人の生きている場所で隣人を愛してください。



一人一人がポールさんになってください。普段の日常から。それが始まりです」



ということですよ。


ところが「この映画を観たってアフリカは救えない」とかトンチンカンなことを言ってる人もいるんだよ。困ったもんだ。



孤立無援のポールさんを最後まで支えたのは、愛国心でもキリスト教の教えでもなく、ホテルマンとしての、接客業としての職業倫理だった。

つまり「どんな客も差別しない」ということ。接客業では、店内に入ってきた人を、たとえ客でなくても、どんな服装をしていようと、どんな人種だろうと、基本的にお客様として取り扱うよう教育される。もちろん「他のお客様のご迷惑になる」時は出て行ってもらうこともあるが、「追い出す」のではなく「お帰りいただく」わけだ。

ルワンダは国家をあげて虐殺を推進し、キリスト教教会でも虐殺が行われた。

国家や民族や宗教が、隣人への差別と憎悪を押し付ける時(戦争時はたいていそうだ)、

ポールさんは職業の倫理だけに従うことによって、多数派から独立した判断を貫いた。


『帰ってきたウルトラマン』に「怪獣使いと少年」というエピソードがある。

川崎の工業地帯の河原に一人の老人と少年が住んでいた。

少年は孤児で老人に拾われたのだ。

老人は実は昔、たまたま地球にやってきた友好的な異星人で、そこで暴れていた怪獣を超能力で地中に封じ込めた。

しかし近所の人々は老人と少年を「日本人じゃねえな」と差別し、

少年がパン屋にパンを買いに行っても「お前らに売るものはねえ!」と追い返されてしまう。

そして、ついに近所の住民たちは、異人である老人を恐れるあまり、逆に襲撃し、殺してしまう。


長い間、このエピソードは川崎に住む朝鮮人労働者をモデルにした話だと思われてきたが、

実は脚本家の上原正三氏は沖縄出身で、東京や大阪の工業地帯で暮らす出稼ぎの沖縄人労働者をモデルにして、このエピソードを書いた。

言葉や風俗の違う沖縄人労働者は朝鮮人と同じように日本人から差別され、沖縄名ではアパートなども借りられなかった。実際、襲撃される事件も起こった。


パン屋に追い返された少年がとぼとぼ歩いていると、後ろからパン屋で働く少女が走って追っかけてきて、「はい、パンです」とパンを売ってくれた。

みんな、僕を差別してるのに、

「どうしてパンを売ってくれるの?」 

少年が驚くと、少女はにっこり笑って言う。

「だって、あたし、パン屋だから!」


ポールさんも、なぜ自分の命もかえりみずに1200人を救うことができたのか? と問われたら

「私はホテルマンだから」と答えただろう。

仕事をまっとうする、どんな状況でもそれを貫くことがどれだけ難しいことか。


ポールさん自身は英語版DVDの付録で『ホテル・ルワンダ』を見た人に求めることとして次のように言っている。

「ルワンダを教訓にして、この悲劇を繰り返さないで欲しい」

つまり、ルワンダへの寄付ではなくて、あなた自身の生きる場所でルワンダの教訓を活かせ、と言っている。


この映画の虐殺は「たまたま」ルワンダで起こったが、「アフリカ版『シンドラーのリスト』」と言われているように、このような虐殺はアフリカ、いや「後進国」だから起きたのではない。

世界中のどこでも起こるし、これからも起こるだろう。

そもそも『ホテル・ルワンダ』の監督テリー・ジョージはアフリカへの関心からではなく、北アイルランドで生まれ育ち、カソリックとプロテスタントの殺しあいの板ばさみになって苦しんだ自分をポールに投影して、この映画を企画した。

だからルワンダよりもポール個人に焦点を絞った。

つい、この間も「先進国」であるオーストラリアで群衆がアラブ人を無差別に襲撃する事件が起こった。ボスニアの民族浄化もついこの間のことだし、関東大震災の朝鮮人虐殺からもまだ百年経っていない。もちろんアメリカでもヘイト・クライム(差別による暴力・殺人)は起こり続けている。


『ホテル・ルワンダ』という映画が観客に求めているのは、アフリカへの理解や、国際社会の対応よりもまず、

観客一人一人の中にある排他性、つまり「虐殺の芽」を摘むことなのだ。

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060225
2006-02-25 『ホテル・ルワンダ』なんか何の役にも立たない!  この人を見よ!CommentsAdd Starzeroringo (green)masayashi15nobushi-i517



こんなものにリンクされて、ものすごく脱力した。

http://blog.livedoor.jp/mahorobasuke/archives/50487989.html


僕は『ホテル・ルワンダ』を日本で公開してもらうために、いろいろ尽力してきましたが、あの映画を観た後でも、こんなことを書く人がいるのを見ると、絶望的な気持ちになります。

この人は、僕が『ルワンダ』のパンフに関東大震災の朝鮮人虐殺事件について書いた意味がわからないようなので、もう一度書きます。


このルワンダの事件を、遠いアフリカの出来事として観ても意味がない。

虐殺は、どこの国でも起こってきたし、これからも起こり得ることであって、

私たちは誰でも、人を差別して迫害する、虐殺の種を秘めているんだということを自覚し、

ルワンダみたいな状況になった時、ポールさんのように行動できる人間にならなければ。


ところが、この人は、虐殺の種を抱えている自分に全然気づいていない。

このような人がルワンダと同じような状況に置かれた時、虐殺を止める側に回るとは非常に考えにくいです。映画を観てもこれだから。

というか、この人は、自分がやってることは、ツチ族虐殺を煽っていたルワンダのラジオと同じなのに、まるで気づいていない。


僕が例として朝鮮人虐殺を挙げたのは、もちろん日本の観客に虐殺が他人事だと思って欲しくないからで、それには日本で起こった例を挙げないと意味ないでしょ?

別に朝鮮人じゃなくてアイヌや沖縄人の例を挙げてもよかったし、

トルコによるアルメニア人虐殺でもいいし、ユーゴでの民族浄化や、

アメリカでのインディアン虐殺、NYのアイルランド人虐殺、ニューオリンズでのイタリア人虐殺、アイルランド系労働者による中国人鉄道工夫虐殺、日系人収容や今も続く黒人へのヘイトクライム、

それにもちろんナチスによるユダヤ人虐殺でもいいのです。

先日、オーストラリアでアラブ人に対する集団暴行事件があったばかりだし、

どんな国でも、それこそ韓国でも起こりうるし、中国でもどこでも、誰でも虐殺に加担する加害者になる危険性を秘めています。

人を差別し虐殺するのは日本人や特定の民族ではなく、まさにこの人のような人が原因なのです。

韓国や中国で反日反日と騒いでる連中は、きっとこの人と同じ種類の人間なんでしょう。


まあ、それはいいとして、面倒くさいですが、わざわざこっちにリンクまでして挑発しているので、答えてみます。

まず、この人が書いていることを箇条書きにしてみます。

①関東大震災時の朝鮮人虐殺は、「説」であって事実ではないらしい。

②ルワンダは同じ国民同士であって、朝鮮人は外国人だから引き合いに出すのはおかしい。

③当時の日本には朝鮮人は虐殺されるほど大勢いなかったはずだ。

④朝鮮人は戦後、日本人に悪いことをしたから大震災の時、虐殺されても当然だ。

⑤外国人は日本に来て住んではいけない。

⑥アメリカに住んでいる僕は韓国に帰るべきだ。


この人、ちゃんと国民の義務である中等教育を受けたのでしょうか?


①は、どうも南京大虐殺と勘違いしてるようですが、関東大震災の虐殺に関しては、それを否定する見解など存在しません。これは当時の日本政府と警察が止めようとした事件だからです。

当時の日本政府や軍や警察は虐殺を必死で止めようとして、朝鮮人を救出して保護し、また虐殺をした日本人を逮捕しました。

刑事事件なので、ちゃんと警察に事実として記録が残っています(日本人や中国人も間違われて殺されています)。

被害者も加害者もかなり特定されていて、戦前の日本政府は被害者やその遺族に謝罪し、補償しています。


②この人は、朝鮮人は外国人だったと思っていますが、日韓併合の後なので、当時の朝鮮人は外国人ではなく、日本臣民でした。


それもあって、ルワンダにおける多数派で政府を支配しているフツ族による少数派ツチ族虐殺に最も近い例を日本史に探すなら、やはり震災時の朝鮮人虐殺事件を挙げるのが適切だと思いました。

ナチが政策として行ったホロコーストと違い、メディアに扇動された民衆が隣人をその手で殺したことだからです。


当時、少なくとも法律や政治的には、日本人と平等で、共存することが建前でした。

ですから、当時の日本政府や政治家や警察官や軍人には、同じ臣民を虐殺するなど許し難いことだ、と嘆き、怒り、それを国民に伝えようと、あらゆる手段を尽くして訴え、戦った人々がいました。

この人の「外国人は殺されても当然」といわんばかりの論調は、虐殺と戦った軍や警察の人々の努力を踏みにじり、八紘一宇の理想を無にする、まさに非国民としか言いようがないものです。


③この人は、強制連行の前には朝鮮人は日本にいなかったと思っていますが、

実際は一つの国だったので、震災前から韓国の人々は仕事を求めて日本に押し寄せていました。

貧しい植民地から豊かで進んだ宗主国に、職を求めたり勉強のために来るのは当たり前です。

プエルトリコ人はアメリカに、トルコ人はドイツに、アルジェリア人はフランスに、インド人はイギリスに移住し、今も住み、子孫を増やしています。それと同じです。

もちろん、それを虐殺していいわけがありません。


④この人は、第二次大戦敗戦後に関東大震災が起こったと思っていますが、

順番は逆で、大震災のほうが敗戦より22年も前です。

これは日本の歴史でしょう? 小学校でも習うでしょう?


また、第二次大戦直後の「三国人」も日本人を「虐殺」はしてません。


あと、「はだしのゲン」には金持ちになって日本人に厳しくする朝鮮人が登場しますが、彼は悪人どころか逆に主人公ゲンに対して最も優しい大人です。そしてゲンは朝鮮人を悪く言う日本人に対して「朝鮮の人をバカにするな」と怒る場面があります。


⑤うちの父が勉強のために日本に来たのは戦前で、韓国は日本だったので、当時の父は外国人でなく日本人でした。移住はもちろん合法でした。

それは僕が生まれる前のことで、赤ん坊は親を選ぶことはできないので、僕の父が韓国人であることに僕は何の責任もありません。僕が韓国系であることは僕の意志ではありません。

日本で生まれた韓国系・朝鮮系の人(今は半数を超えるでしょう)のすべてが、韓国・朝鮮系であることに対して何の責任もありません。望んでそう生まれた人は一人もいません。

きっと、この人は、幼い韓国・朝鮮系の子供にも「日本を出て行け」と言うんでしょう。


韓国については今まで行ったこともないし、言葉だけでなく歴史も文化も何もまったく教えられずに育った僕は(歴史については教養として自分で勝手に知ったけどね)、韓国にアイデンティティを持つことができませんでした。そういう韓国籍の人は大勢います。もちろん本人の責任ではありません。

父と母は中学の頃に離婚し、母は日本人なので、私は成人するとき日本人になることを選択し、日本国籍を取得しました。ちゃんと税金も払ってきました。

この僕を日本人でないとするこの人は、いったい何パーセントの血が入ってれば日本人だとするんでしょうか? 今の天皇陛下は「桓武天皇のお母様は朝鮮からいらっしゃいました」とご自分で仰っいましたが、天皇家はどうなるんでしょうか?


⑥いったいどうして? 理由がさっぱりわかりまへん。僕は日本国民なので憲法に定められている権利に従ってアメリカに移住し、両国に税金を納め、国民の義務を果たしていますがそれが問題なのでしょうか? 

あと、僕は今まで日本を批判したり、いわゆる反日的な発言というのはしたことないんで、何も帰れとか言われる筋合いはありません。

「ホテル・ルワンダ」上映に関して、このような傑作を公開しない日本の映画業界はおかしい!と書いたぐらいですね。


僕のように日本で生まれ育った韓国系の人に対して韓国に帰れというのは、アメリカの黒人にアフリカに帰れ、日系アメリカ人に日本に帰れと言うのと同じことです。

言われた人の気持ちを少しでも想像できませんか?


ところで、この人は道端や職場で偶然出会って好きになった人がたまたま韓国や朝鮮系の人だったらどうするんでしょうか?

そんなことは絶対にない、とでも思ってるんでしょうか?

この人の学校時代の友達や、職場や仕事先、それ以外の知り合いにも、お父さんやお爺さんが韓国や朝鮮系の人は絶対に、絶対にいるんですよ。

また、この人のように、人間を出自で差別する人を愛することができる異性はいるのでしょうか? 


もし、本当に、本当に日本人であることを誇りに思うならば、

虐殺を止めようとした日本の人々を見習ってください。

彼らこそ、日本民族の誇りではないでしょうか?

あと、せめて関東大震災と第二次大戦の順番くらいは知らないと非国民でしょ、義務教育で習うんだから。


で、これが先方の反応。はー。

http://blog.livedoor.jp/mahorobasuke/archives/2006-02.html

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060304
2006-03-04 「わかってもらえるさ」RCサクセションCommentsAdd Starkillbill2 (purple)laughclammbon (green)ikanosuke (green)hiront_at_nagoya (green)k-noto3 (green)setamise (green)setamise (green)setamise (green)shinic-t (green)sa-hiro50sherbet26



 今年のアカデミー賞で作品賞ほかにノミネートされている映画『グッドナイト&グッドラック』は、マッカーシー上院議員による「赤狩り」が吹き荒れる50年代を舞台に、政治的な傾向のあるマスコミ関係者が次々と社会主義者と決め付けられて弾圧されるなかで、マッカーシーに敢然と立ち向かったCBSのキャスター、エド・マローの勇気を描いている(詳細)。


 しかし、なぜ、今、50年も昔のことを映画に?


 製作・脚本・出演のジョージ・クルーニーは、赤狩りの恐怖のためにマスコミ関係者が政府批判を避けるようになった50年代が、対テロ戦争の下、マスコミがブッシュ政権を批判しなくなった現在の状況とが似ていると考え、ジャーナリストに本当の役割を思い出させるためにマローのことを映画化しようとしたのだ(クルーニーは大学まではキャスター志望)。

 この『グッドナイト&グッドラック』のシナリオをクルーニーと共同で執筆したグラント・ヘスロヴは、50年前の赤狩りに現在を象徴させる手法についてインタビューでこんな風に言っている。

http://clooneystudio.tripod.com/grantheslovinterview.html

「僕たちが参考にしたのは『るつぼ』でした。『グッドナイト&グッドラック』は僕らにとっての『るつぼ』です」

 『るつぼ』とは、50年代「赤狩り」の真っ最中に劇作家アーサー・ミラーが書いた戯曲で、17世紀にアメリカのセーラムで起こった魔女狩りを描いている。無実の者がある日突然、魔女だと決め付けられ、周囲の人々は自分が標的になることへの恐怖から魔女弾圧に加担する。ミラーはその劇を通じて、当時まさに猛威を振るっていた「赤狩り」もまた「魔女狩り」であると言おうとしたのだ。

 もちろん「魔女狩り」と「赤狩り」の間は200年以上離れているし、二つの出来事は事情も、状況も、理由も、何もかもまったく異なる。

 また、「赤狩り」と「現在の対テロ戦争」も50年以上は離れているし、事情も状況も理由も何もかもまったく異なる。 さらに、上記のような解説がなければ、『グッドナイト&グッドラック』を観た観客の多くは、これをただの歴史的事件として見るだけだろうし、『るつぼ』も同じことだ。実際、ヘスロヴは高校の頃は『るつぼ』の意味がわからなかったが、後から研究して知ったと言っている。


 同じくアカデミー作品賞・監督賞にノミネートされている『ミュンヘン』は、72年のミュンヘン五輪で選手団11人をパレスチナのテロリストに殺されたイスラエルが報復のためにパレスチナの政治運動家11人を暗殺しようとした実話を描いている。(詳細)

 

 しかし、なぜ、今、30年も前の事件を映画に?


『ミュンヘン』は、在りし日の世界貿易センターが墓標のようにそびえる姿で終わる(CGで73年当時の風景を再現したもの)。

 ここで、多くのアメリカ人は衝撃を受けた。そこまで二時間見せられた復讐劇が、なぜ、今、作られたのかわかったのだ。テロへの報復がたとえ正義であろうと、報復は新たな報復へと永遠に続いていくだけだということに(そう感じなかった人には唐突なだけだっただろう)。 

 監督のスピルバーグは『TIME』誌のインタビューで、「911テロとミュンヘン五輪襲撃との間には何の共通点もない」と強調しながら、にもかかわらず、「(世界貿易センタービル)を見せなければならなかったんだ」と言っている。http://time-proxy.yaga.com/time/archive/preview/0,10987,1137679,00.html




 惜しくもアカデミー賞候補にはならなかったが、批評家に絶賛された『ヒストリー・オブ・バイオレンス』は、30年前にギャングの殺し屋だった男(ヴィゴ・モーテンセン)が、正体を隠して小さな田舎町に住んでいたが、ふとしたことでギャングたちに見つかってしまい、平和な家庭を守るために再び殺戮を始める物語だ。(詳細)

「西部劇にはよくある話だよ。引退したガンマンが名前を隠して農民になろうとするが、ならず者たちに狙われて再び銃を取る」

 監督のデヴィッド・クローネンバーグは僕のインタビューでこう言った。

Even though the movie is not overtly political, it is still somewhat political.Viggo and I discussed the political overtones of the script, The question is this: is American foreign policy right now actually taken from old American western movies? If someone attacks you and your family, is any retaliation justified?

「この映画ははっきりと政治的ではない。にもかかわらず、やはりこの映画は政治的なんだよ。

主演のヴィゴ・モーテンセンと私は、この脚本の政治的含意について話し合った。(この映画が観客に喚起する)問いはこうだ。今のアメリカの外交政策は西部劇映画に影響されてるんじゃないか? 誰かが自分や自分の家族に危害を加えたら、どんな報復も正当化されるのか?」人間は、暴力の歴史を断つことはできないのか?


こんなことは最近の映画に限らない。

たとえばシェイクスピアは彼の時代よりも1500年以上昔のジュリアス・シーザーの史実を通して当時のイギリスの状況を批評した。

さらに、後世にその戯曲を読む者は、読む者が属する社会や時代に共通するものを物語の中に見出しながら読んでいくものだし、そういう風に読める作品だから残っている。

 


『ホテル・ルワンダ』を監督したテリー・ジョージは北アイルランド出身の白人である。


アイルランド人が、なぜ、アフリカの小国の民族虐殺を映画化しようとしたのか?


テリー・ジョージは、カソリックとプロテスタントの殺し合いの間に挟まれ、投獄されるなど苦難の青春時代を送り、映画作家になってからも、その抗争の間に挟まれた者を常に主人公にしてきた。その彼が『ホテル・ルワンダ』を映画化しようとした動機をインタビューで答えている。

http://www.bluntreview.com/reviews/terrygeorge.html

「私は宗派(派閥)の対立について特に経験がある。その対立がどのように操られるのかも身をもって知った。“異者”への脅威が普通の人々に恐怖を注入するんだ。たしかに、ルワンダの虐殺は北アイルランドとは規模もまったく違うけれど、それでも根っ子の部分ではやはり同じなんだ。分裂し、相手を征服しようとし、異者が自分の財産や自分の命を狙っているという恐怖を作り上げることだ」

 テリー・ジョージ監督も認めているようにルワンダの虐殺と北アイルランドのカソリックとプロテスタントの対立は、場所も、理由も、事情も、状況もまったく違う。関係ない。

 それでも、何もしていない人々をその属性によって殺そうとする、ということでは同じなのだ。


そして、ルワンダの虐殺と関東大震災での朝鮮人虐殺はたしかにまったく関係ない。

でも、僕は書いた。

「ルワンダは遠い世界の私たちとは違う人たちの話。私たちは虐殺なんかしない」と思う観客の皆さんのために。

パンフレットの文章の最後の最後にたった一行だけ。

スピルバーグが『ミュンヘン』の最後の最後にまったく物語と無関係な世界貿易センタービルを見せたように。


ポールさんは「ルワンダと同じような状況になったら、ルワンダの教訓を活かして欲しい」と願ったが、「同じような状況」であって「何から何までまったく同じ状況」とは言ってない。

すべての状況はそれぞれに違うに決まっているからだ。

だから「関東大震災の朝鮮人虐殺はルワンダ虐殺とは違う」と差異をあげつらうのは簡単だ。

太平洋戦争時の日系アメリカ人の強制収用やリンチだって事情や状況が違う。

トルコのアルメニア人虐殺も、ナチやロシアによるユダヤ人虐殺もみんなそれぞれに事情は違う。

だからそれぞれの違いを考えるのももちろん大切だ。

でも、動機や状況や歴史的背景がどう違おうと、恐怖によって多数派が少数派の異者を、それぞれの個人の行動の罪によってではなく、属性によって殺した、という事実は同じだ。

「大震災の場合は違う」と強調したい人は、「違うから悪くない」と言いたいのだろうか?

そうやって正当化するのなら、人は何度でも虐殺を正当化できる。

それでは、歴史からも、映画からも何も学べない。

「根っこの部分では同じなんだ」と、テリー・ジョージ監督は北アイルランドの経験を投影して『ホテル・ルワンダ』を撮った。ならばなぜ、それを関東大震災に投影してはいけないのか?


関東大震災で殺されたのが朝鮮人だったことはあまり重要ではない。

僕に韓国の血が流れていることともそれほど関係はない。

(僕に韓国の血が流れているからといって、「ルワンダ」の件を韓国人としての党派的発言だと考える人がいるようだが、僕は韓国民ではなく、日本国民だ。何かを考える時、僕はまず日本人としてしか考えられない。混血であるというアイデンティティがその次で、韓国系としてのそれは三番目だ。たまたま父親が韓国人だっただけで何の民族教育も受けてないのに、僕が韓国人として物を考えることができるわけないじゃないか。正直言って、僕は頼んだわけでもないのに生まれたら勝手に韓国の血だけ入ってて、その後何のフォローもされず、迷惑以外何も受けてないんだよ。そんな僕を韓国の手先と考えるのは太平洋戦争中にアメリカの日系人を「敵性分子」として収容所に入れたFBIと同じ考え方だ。僕にとって韓国というのはアメリカの黒人にとってのアフリカのようなものだと言えばわかるかな? なんたって僕は今の天皇陛下が大好きなんだぞ。わからない人にはわからないだろうが、日系人が真珠湾攻撃に迷惑したように、韓国や北朝鮮の狂った反日行動に一番迷惑しているのは僕のような存在なのだ。竹島なんて原爆でこの世から消してしまえばいいと思っている。あんな岩くれのために日本の韓国・朝鮮系が白い目で見られるなんてアホらしい。人は誰でも民族性や党派に当てはめて決め付けようとするが、関係ない人だっている。たとえば僕はイラク戦争やブッシュ政権に反対したので反戦リベラルだと決め付けられるが、そもそも僕が『宝島30』やってた頃、『噂の真相』から「新保守の黒幕」って叩かれてたの知らないの? 北朝鮮拉致や辛ガンスの告発も、まだ国やマスコミが否定していた1992年に既に僕が『宝島30』でさんざんやってたの知らないの? 『底抜け合衆国』を読んでもらえばわかるように、2000年の選挙では民主党のゴアにも反対だった。ずっと応援してきた大統領候補は共和党のジョン・マケインだ。『華氏911』には賛同したが、銃器を所持する権利は守るべきだと思ってて、三度のメシより銃が好きでしょっちょうバリバリ撃ちまくっている。僕はグローバリズムの悪い面を批判したが、だからといってグローバリズム絶対反対!というわけじゃなくて、いい部分はいいと思っている。インチキな金持ちは嫌いだけど資本主義は大好きで、自分はお金持ちになりたい。男女雇用機会均等と共稼ぎに賛成だが、夫婦別姓に反対だし、女性は優しいほうがいいと差別的なことを考えている。事によって意見なんかバラバラで矛盾だらけで、党派や民族に偏った思想なんかない。普通の大多数の人たちと同じようにね)。


 関東大震災の虐殺の原因は現在の日本での朝鮮人蔑視とも日韓併合とも直接はそれほど関係はない。当時の朝鮮人は日本国民であり、韓国と言う国は存在しない。少なくとも現在の韓国とは直接の関係はない。この事件はむしろ日本の中の少数民族問題として考えたほうがいい。

震災のパニックで、人々の恐怖心が朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマになっただけで、実は異者ならば、朝鮮人でなくても誰でも被害者になる可能性があったのだ。

重要なのは、テリー・ジョージの言う「根っこ」の部分、「異者への恐怖」そのものだ。

僕は、マスメディア(朝日新聞もだ)がデマを撒き散らし、見た目に違いがない隣人を殺したという点で、ルワンダの虐殺と関東大震災との共通点は多く、日本史上、最も「似たような」例だと思われたので結びつけた。歴史のすべての事件の事情はそれぞれに違うから差異があるのは当たり前だ。

もちろん、そのパンフが日本の観客向けだからそれを例に挙げたわけで、もしオーストラリアの観客向けなら、先日のアラブ人リンチ事件、アメリカなら……山ほどあるな、韓国、中国、それぞれの国の観客に対してはそれぞれの例を挙げて「誰にでもどこにでも起こり得る」と映画を遠い外国の出来事から身近に引き付けるための一言を書いていただろう。


しかし、実際「ルワンダはルワンダ。うちとは関係ない」と分けて考えたがる人がいっぱいいるわけで、期待するだけ無駄、と言う人もいる。

無駄だから言わなきゃいいのに、ということだ。 

スピルバーグは『ミュンヘン』作ったせいでユダヤの同胞から裏切り者呼ばわりされている。

ジョージ・クルーニーは『グッドナイト&グッドラック』でマッカーシーを再評価する右派メディアから袋叩きになっている。

彼らは商業的な娯楽映画を撮ってたほうが利口だと言われている。

僕もこんなこと書かないほうが利口だったかもしれない。

仕事やファンが減るだけで何も得しないのに韓国系であることを明らかにするのも、まったく利口なことではない。

ただ日本で公開される映画のことを褒めて金を稼いでいるほうがずっと利口だ。

しょせん映画なんてただの娯楽で、劇場を出ればみんな忘れるんだ。

『ホテル・ルワンダ』でルワンダの虐殺を撮影したカメラマンが言う。

「みんなこれをテレビで見ても『ひどいわねえ』と言うだけで、また何事もなかったように食事を続けるだけさ」

『ホテル・ルワンダ』を見ても「ひどいわねえ」と言うだけで、日本は関係ないと思うだけさ。

 人は決して歴史から何も学ばないのだ。

 だから、自分と自分の家族の生活だけ心配して、余計なことを書かないほうが利口かもしれない。


でも、やるんだよ。


『ホテル・ルワンダ』で最も感動的なシーンはこれだ。

ポールさんが、ついに国連軍から「君の家族だけ逃がしてやる」と言われる。

しかし、ポールさんはホテルに残ることを選ぶ。泣いて怒る妻子を先に逃がして。

それまでのポールさんはとにかく自分の家族を守ることだけに必死だった。家族愛なんて誰でも持っているものだ。しかし、家族を捨てて、他の人々のために残ると決心した時、彼は家族愛を超えた。だからあのシーンは感動的なのだ。


ポールさんと同じで僕らも映画作家も、政治家でも軍人でもない。

政治のことをいくらいっても床屋談義にすぎない。

パンフにも書いたとおり、テリー・ジョージ監督は、最初の脚本にあったルワンダの特殊な政治的事情に関する部分を大幅に切り捨てた。

そしてポールさんを世界中どこにでもいる人として演出し、時代や土地を超えて共通する普通の男がどうするか、という部分に絞って『ホテル・ルワンダ』を作った。

だから、僕らのような普通の人間にまず、できることは、自分たちが生きて生活する場で、将来虐殺が始まったら、扇動に乗らずに、ポールさんと同じように、自分では絶対に殺さない、と胸に誓うことぐらいだ。

でも、そういう人が世界中にいっぱい増えれば虐殺は減るだろう。


映画や芸術は政治や経済や軍事と違って世の中そのものを直接変えることはできない。

でも、個人個人の考え方は変えることができる、伝わらないことがほとんどだとしても、あきらめずにずっと続ければ少しずつわかってくれる人が増えてくる……愚直にも楽観的にもそう信じようとする気持ちによって映画や芸術は作られ続けていると思う。


スピルバーグもクルーニーもクローネンバーグも、自分と自分の家族の生活のために商業的な娯楽映画だけ撮ってりゃいいのに、無駄だと思っても映画に自分の考えを込め、それが人々に伝わるようインタビューで自分の意図を訴える。

表現が人の気持ちや考え方を変えると信じている。

なぜなら、彼ら自身が映画や小説や戯曲によって目を開かれ、表現者になったからだ。

自分が目覚めたように他の人も目覚めるかもしれないと思うから、無駄とは知りつつも表現することをやめることはできない。

そして僕の仕事は、彼らの意図を彼らの言葉を使って、観客にとって身近なものに結び付けて、観客に伝えることだ。

『ホテル・ルワンダ』のパンフレットでは、上記のテリー・ジョージ監督のインタビューの「ルワンダもアイルランドも根っこは同じだ」という言葉を引用してから大震災の虐殺の話へとつなげたほうが唐突な印象は和らいだかもしれない。でも唐突さでは『ミュンヘン』のラストシーンと似たようなものだと思うけどね。

しかし、最後にたった一行書いただけで朝鮮人への憎しみがぶわーっと沸き起こる人々を見ると、「やっぱりルワンダと変わらないじゃん」と言いたくなった。

でも、僕はブログに関東大震災の朝鮮人虐殺のことを書くとき、虐殺を止めようとした日本人のことばかり書いた。

それは、「日本人はひどいことをした」と断罪してもしょうがないからだ。

だって立場が逆なら朝鮮人が日本人を殺しただろう。どこの民族も虐殺をやってるわけだから。

80年前のことで今の日本人を責めても意味がない(責められた、と思った人は過剰反応したようだが、その人には自分が虐殺をするような人間だという自覚があるのかもしれない)。

僕は、それよりは「ポールさんみたいな人が実際に日本人にいたんだ」という事実を胸に刻んだほうがポジティブだな、と思ったからそう書いた。

そうやって虐殺を止めた日本人こそが本当の日本人だと信じたほうがポジティブだ。なぜなら僕が日本人だからだ。


クローネンバーグはインタビューでこんなことも言っていた。

「現実というのは一つではない。現実は人によって違う。人間は自分にとって現実だと信じたい現実しか信じない生き物だ。モラルも一つではない。自分に都合のいいようにモラルを解釈する。教会で『汝、殺すなかれ』という聖書の教えを奉じ、中絶に反対するキリスト教徒が同時に、戦争や死刑制度に賛成する。だから人類は殺し合いをやめることができないだろうと思う。でも、だからといって、殺し合いのない世界を想像することをあきらめてはいけないんだ。不可能なことを信じるのも、人間だけができることだから」

http://www.edu-kana.com/kenkyu/nezasu/no48/kikou1.htm


寄稿
関東大震災と朝鮮人虐殺
後 藤   周

 関東大震災 (1923年 9 月 1 日) は関東地方に大きな被害をもたらしました。 とりわけ横浜市は中心部が壊滅し、 市内95%が倒壊・焼失、 死者・行方不明者26,600人、 住民の92.4%が罹災する大災害となりました。 県庁、 市役所、 そして 7 つの警察署のうち 6 署が倒壊・焼失し行政は機能せず、 救援、 治安活動の最もおくれた地域でした。 このような状況の中で、 1 日夜には市南部の避難地では 「朝鮮人が襲ってくる」 という流言が生まれ、 朝鮮人虐殺が 2 日、 3 日と全市に拡大します。 流言から虐殺という動きは東京、 千葉、 埼玉など関東地方全域で起こり、 多数の朝鮮人が虐殺されました。 関東大震災の朝鮮人虐殺について、 できるだけ横浜の事実を見ながら考えてみたいと思います。

1. 朝鮮人虐殺の実相
 横浜には大震災の後に小学校で書かれた子どもたちの作文集が残っています。 そのうち南吉田第二小、 寿小、 石川小は学区を接しており、 火に追われた子どもたちはほぼ同一地域に避難しています。 横浜でもっとも早くデマの流れた中村町から根岸にかけての地域です。 作文は、 この地域の警察と人びとが一体となってむかった虐殺のようすを生々しく伝えています。 その幾つかを紹介します。 (朝鮮人のことを 「鮮人」 と書いている子どももいます。 蔑視を含んだ言葉で現在では使いませんが、 原文通りにしています。)

 南吉田第二小6年 1日夜、 稲荷山
 ワーワーという叫び声。 「朝鮮人だ」 「鮮人がせめてきた」 という声がとぎれとぎれに聞こえた。 あまりのおどろきにどうきは急に高くなった。 きん骨たくましい男の方たちはそれぞれ竹を切って棒にしたり、 ハチマキをしたりと用意にいそがしくなった。 …何百何千の山の上にいる人々は、 ただただ朝鮮人が来ないように神に願うほか道はありませんでした。 万一の用意にと女子供までも短い棒をもった。 そして今来るか来るかと、 私とお母さんはたがいにだきあって、 他の人々とすみの方へ息をころしてつっぷしていた。

 南吉田第二小6年 1日夜、 稲荷山
 おまわりさんが 「朝鮮人が刃物をもってくるから、 来たら殺してください」 と言って来ました。 ぼくはそれを聞いたとき、 びっくりしました。 ぼくは兄さんとナイフをもって竹林に行って、 まっすぐでじょうぶな竹をとって竹やりを三本こしらえてくると…

 寿小高等科1年 1日夜~2日朝:横浜植木会社、 唐沢交番 (寿署仮警察署)
  「私、 朝鮮人あります。 らんぼうしません」 といいながら、 私たちにむかっていく度も頭をさげておじぎをしました。 そこへおおぜいの夜警の人が来て…いくら何をされても朝鮮人は一言も話さなかった。 しらべていた人が 「おい、 しかたがねえから警察のだんなの前でお話しろよ」 そういいながら、 おおぜいでよってたかってかつぎあげて門の方へと行ってしまった。 翌朝…寿警察の前をとおりこそうとすると、 門のなかからうむうむとうめき声が聞こえてきた。 私はものずきにも昨夜のことなど、 けろりとわすれて、 門のなかに入った。 うむうむとうなっているのは五、 六人の人が木にしばられ、 顔などはめちゃめちゃで目も口もなく、 ただ胸のあたりがぴくぴく動いているだけだった…         
 石川小高等科2年 2日朝:自宅 (相沢付近)
 …明け方である。 巡査が来て、 今、 桜町方面へ十五、 六人の鮮人が、 松明をつけて残家を焼きつくすと言っておしよせたから用心せよ、 と言って走った。 さあ、 それからと言ふものは、 米がないからじゃがいもをゆでて腹をこしらえ、 大事な物は皆かくし、 又、 極大切な物は持ち、 家はくぎ付けにして来るのをまった。

 寿小高等科1年 2日朝:山元町の交番
  「朝鮮人が交番にしばられているから見に行かないか」 と大きな声で言っていました。 …朝鮮人は電信にゆわいつけられてまっさおな顔をしていました。 よその人は 「こいつはにくらしいやつだ」 と竹棒でぶったので、 朝鮮人はぐったりと下へ頭をさげてしまいました。

 寿小高等科1年 2日朝:横浜植木会社付近
 道のわきに二人ころされていた。 こわいものみたさにそばによって見た。 すると、 頭はわれて血みどろになって、 しゃつは血でそまっていた。 みんなは竹の棒をつっついて 「にくたらしいやつだ。 こいつがゆうべあばれたやつだ」 と、 さもにくにくしげにつばきをはきかけていってしまった。

2. 作文から読み取れること
(1) 人々が 「朝鮮人襲撃」 のデマを信じこみ、 恐怖と憎悪のなか武器をもって虐殺にむかったようすがわかります。 朝鮮人が襲ってくることは実は 1 件もなかった、 その事実が大震災後も伝えられていないこともわかります。 作文は震災の半年後に書かれたものですが、 虐殺への反省や自覚はありません。 「外人が我々のいる所へ来てあばれるなんて、 腹立たしい。 そこへ来て、 鮮人だと聞いてなおさらくやしい。 我が国でありながら、 ああ、 殺してもものたりない」 と書いている子どももいます。
(2) 警察官が朝鮮人襲撃や放火のデマを人々に告げていることや捕らえられた朝鮮人が交番へ連行され、 交番に殺された朝鮮人がしばられていたことを子どもたちは証言しています。 自警団は警察の指導の下に組織されたものもありますし、 少なくとも警察の公認、 黙認のもとに武器を手に取り虐殺にむかっています。 これが 「天下晴れての人殺し」 という意識を民衆に持たせていきます。

3. なぜ、 朝鮮人虐殺は起こったのか
 第一に、 政府・行政の動きがあります。 大災害に際して、 正しい情報を伝え、 人々に冷静な行動を呼びかけて安全をはかるのが政府の役目です。 ところが、 政府は当初はデマを肯定し、 朝鮮人への警戒を呼びかけました。 例えば内務省警保局長から各地方長官 (知事のこと) 宛の電報があります。 東京の電信所が壊滅したため、 2 日午後伝騎により船橋海軍送信所へ送られ 3 日午前 8 時15分に打電されたものです。 「東京附近の震災を利用し、 朝鮮人は各地に放火し、 不逞の目的を遂行せんとし、 現に東京市内に於て爆弾を所持し、 石油を注ぎて放火するものあり。 既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、 各地に於て充分周密なる視察を加へ、 鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加へられたし。」  次に、 出動した軍隊、 警察の行動があります。 当初はデマを信じての治安行動ですから軍隊による虐殺、 警察官が自警団と一緒になって虐殺を引き起こしています。 従来から軍隊の虐殺証言はありましたが、 1993年に始まった松尾章一氏たち研究者の東京都公文書館、 防衛省防衛研究所図書館、 国立公文書館の史料発掘によって関東戒厳令司令官 「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」 が発見され、 東京、 千葉の軍隊による虐殺が軍の史料によって明らかにされています。
 横浜の場合も 2 日に上陸した海軍陸戦隊は、 朝鮮人放火などのデマを肯定する報告を送っていますし、 加賀町署とともに 「不逞者防圧」 に出動したとあります。 寿小の作文では、 兵隊が 「朝鮮人と戦うために来たのだ」 と言ったと書かれています。 また先にあげた震災作文のように、 警察によるデマの肯定、 伝播があったことは明らかです。
 このような政府・行政の動きの背後に朝鮮支配という絶対的な敵視・敵対関係がありました。 朝鮮の支配があり、 民族運動への弾圧があり、 それが朝鮮人への強い恐れと警戒となったのです。 大災害による治安の不安が、 軍隊による虐殺、 警察による自警団の組織化と民衆による朝鮮人虐殺を生み出したのです。
 最後にデマを信じ虐殺にむかった民衆の問題があります。 目の前にいたのは朝鮮から仕事を求めて来ていた出稼ぎの朝鮮人労働者です。 地震に逃げ惑い火に追われた同じ被災民でした。 その実像とかけ離れたデマを容易に信じたのはなぜでしょう。
 日本の朝鮮支配がありました。 植民地となったため朝鮮の農民は土地を失い生活が苦しくなり、 日本へ働きにきました。 差別のため日本人よりも低い賃金で建設現場や工場で働きました。 きびしい状況の中にあってもけんめいに働き生活をしていました。
 多くの日本人はこのような朝鮮人の姿を理解できませんでした。 日本語のしゃべれない出稼ぎ労働者に対しては無関心でした。 植民地の人びとと見下し、 べっ視しました。 また、 独立運動を見て危険な人びとと警戒し、 恐れもしました。 無関心・無理解、 べっ視や何をするかわからない危険な人びとと見る偏見や差別が、 デマを広げ虐殺をひきおこしました。 偏見や差別が人を殺す、 関東大震災の虐殺はこうして広がったのです。

4. 朝鮮人虐殺から学ぶこと
 デマが広がり虐殺が激しく行われた 2 日、 3 日、 少数ですが朝鮮人を守った日本人がいます。 その多くは土木請負業、 木賃宿営業など日頃から朝鮮人労働者と接していた人々です。 また、 田島町助役の栗谷三男や鶴見警察署長大川常吉がいます。 大川署長のことは地元の佐久間権蔵の 「日記」 や当時町議だった渡辺歌郎の手記 「感要漫録」 の発見によってその朝鮮人保護の経過が明らかになりました。
 朝鮮人、 中国人約400名を警察署に収容保護した大川は、 朝鮮人追放を叫ぶ町民を粘り強く説得しています。 「恐るべき朝鮮人」 「憎むべき朝鮮人」 「悪魔」 とまで言って追放を要求する町議たちに確かな事実を示して、 「デマを信じるな。 彼らは鶴見で働く労働者であり、 あわれな被災者だ」 と反論し説得に成功します。 そして、 町の有力者、 町議たちの協力によって、 警察署の朝鮮人を襲おうとする町民の動きを止めます。 警察官という立場からであっても朝鮮人の親方たちとの日常のかかわりは、 この人たちを殺してはならないという強い思いとなって、 迫害される朝鮮人を守りぬいたのです。
 関東大震災の朝鮮人虐殺は繰り返してはならない重い歴史事実です。 それは政府・行政の朝鮮人の抵抗運動に対する恐怖、 警戒から生まれました。 その背後に日本の朝鮮支配という絶対的な敵対関係がありました。 そして、 日本の民衆は目の前の朝鮮人労働者の存在に無関心でした。 かかわりが薄く、 関心のないところには理解は生まれず、 蔑視や偏見が育ちます。 そして、 朝鮮人労働者の実像からかけ離れたデマを容易に信じ、 虐殺へとむかったのです。
 私たちが学ぶこと、 それは平和な国際関係 (敵対する国や民族をつくらない)、 社会のマイノリティへ関心をもつこと、 かかわりの大切さ、 理解、 そして、 正しい理解を実現する勇気、 人々を説得する力です。
  「たとえ自分の身を犠牲にしても朝鮮人を保護するのは、 それが私の警察官としての責任であり、 また人の道に従うことだからです」 当時の史料 (中島司 「震災美談」 1924年 7 月) が伝える大川常吉のことばです。

  

(ごとう あまね 在日外国人相談センター・信愛塾理事)

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 『鉄の暴風』の取材背景
 戦後四十一年にあたって               沖縄タイムス 1986年8月15日「文化面」

       梅澤隊長“生死”の誤記 - 太田良博


                                                     homeへ
       「解せぬ真相表明の遅れ」

 四十一年自「八月十五日」(終戦記念日)がめぐってきた。「戦争にはよい戦争というものはなく、平和にわるい
平和というものはない」という言葉があるが、あらためて、かみしめでみることにする。
 天災や疫病は、戦争にくらべるとなんでもない。天災や疫病は戦争のように、人間性まで破壊することはないからである。しかも、戦争は、人工的な災害である。けっして避けられないものではない、戦争はご人間が知性的に破産した結果としておこされるものである。そのとき、人間の理性は後方におしやられ、、前面には盲目愛国心がでしゃばってくるのである。「愛国心」は、悪党の最後の避難場所である」(サミエエル・ジョンソン)という極言もあるが、戦争を始めるのは「悪党」と見ていいだろう。

 戦争は、悲惨なものにちがいないが、またバカげたものでもある。戦争の繕果、だれがトクをするかということをとくと考えてみたら、そのことがわかるはずである。戦争でトクをするのは、けっして、「国のために」犠牲になったり、いわゆる「義勇奉公」したりした人たちではない。戦後の日本財界を支配している三井、三菱などを例にとってみても、戦争によって利を得るものは決しで国民とか民衆ではない。戦争の置土産は、とにかく公平なものとはいえないのである。それから戦争は「国のだめ」という名目でたたかわれるのだが、その「国」とはなんなのか。いまにして思えば、「国」なるものの実態は、じつは、当時の軍閥であり、その軍閥に牛耳れた政府であるにすぎなかた。そして、政府が「国」の名でおしつけた戦争で、まず犠牲になったのは、弱い立場にあった人たちである。
 沖縄戦が、そのよい例である。軍の犠牲よりも、住民の犠牲が大きかったし、とくに、慶良間列島では権力をもった軍人が「集団投降」し、弱い立場の島の住民が「集団自決」に追いこまれるという事態が生じたのである。どういう議論があるにせよ、ともかく右の事実が存在したことは争われないのである。

 その慶良間の戦闘だが「鉄の暴風」のなかの座間味島の戦記で、同島の隊長であった梅沢少佐に関する部分には誤記があった。「不明死を遂げた」と記録された、その梅沢元少佐が、現に生存していることが、あとでわかったのである。「鉄のの暴風」のその部分(同署四十一ページ未尾)は、1980年7月15日刊行の第九版から削除してあるが、その誤記の責任者は、じつは、当時、沖縄タイムスの記者であった、この私である。 ここで、梅沢氏と沖縄タイムス社には深く詫びるほかはない。しかし、あの誤記は、故意によるもの、あるいはネツ造によるものではない。 そのことは、自分の良心にちかって言える。 あれは座間味の戦争体験者の座談会をそのまま記録したものであって、梅沢隊長の消息については、あの「誤記」のような説明を私はうけたのである。 正直なところ、梅沢隊長が降伏したことを島の人たちは知らなかったらしい。 ただ、「誤記」のようなウワサがあったようである。あの小さな島で、しかも、当時、一番重要であった人物が、その後どうなったかも知らないほど、島の人たちはすべての情報から遮断され、孤立した状況のなかにおかれていたことがわかる。 『鉄の暴風』執筆当時、私としては、島の人たちでさえ知りえなかった事実をさぐり出すほどの余裕は、当時の私にはなかったのである。「生きている」のに「死んだ」と報じられたことを梅沢氏は抗議しているようだが、「おれは死んではいない」「投降したのだ、そしてこの通り生きているではないか」という意味の抗議なのだろうか。

 それにしても、と私は思う。 というのは『鉄の暴風』の初版が出されたのは1950年の6月15日である。 あれから三十余年間、タイムスが自主的に「誤記」の部分を削除するまで、梅沢氏は自分の所在さえ知らせていないようだし、「誤記」訂正の申し入れもしていないという。 『鉄の暴風』の版元が自ら削除してから6年も過ぎて、なぜいまごろから「真相」を明かすのだろうか。 その辺の梅沢氏の心情は不可解というしかない。
 それから、集団自決を命令したのは自分ではなく、村の責任者だといった弁明もしているようだが、その村の責任者たちはぜんぶ自決してしまっている。死んだ人たちに、そうした責任をかぶせるやりかたには、すなおについていけない。「兵隊-取り除くぺき時代錯韻だね」と皮肉屋のバーナード・ショウは、吐きすてるように言っているが、兵隊が不要になる時代はいつくるのやら。一

 仲が悪いとされる犬と猫が、仲良くだわむれている光景をテレビの画面でたびたびみたことがあるが、同類同属が殺し合うのは動物の世界にはないのではないか。人間は「万物の霊長」などと自賛しているが、はたして、そうだろうか、そんな疑問をもたざるをえない。                                (おおた・りょうはく)

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 「戦争への反省」  太田良博著作集③より抄録 (『琉球新報』一九六一年三月二五日~四月八日連載)

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 (管理人・注)
 少々長い論文であるが、「鉄の暴風」の執筆者の一人で、慶良間の戦記部分を担当した太田良博が1961年3.25~4.8に琉球新報紙上に発表した、太田自身の「沖縄戦への考え方」を述べた論考を掲載する。

 曽野綾子が初めて沖縄を訪ねたのは、この論考発表の数ヶ月前、同じ61年の初頭だと思われる。曽野は、「新沖縄文学」42号で、61年に今東光・中村光夫らと一緒に「文春講演会」のために、初めて沖縄をたずねたと書いている。
太田はこの「戦争への反省」の中で、テレビ放送でこの講演会を見て、中村光夫の一言から、沖縄戦について重要なヒントを得たとしている。面白いもので、同じ番組で、後に天敵となる曽野綾子の講演も見たといっている。

 私が、この長い論文を掲載する理由は、この太田良博の沖縄戦の捉え方に大きな共感を持つからである。
「姫百合部隊」の少女らや住民などの、膨大な人数の戦死は「価値ある戦死」などではなく、国軍のエゴイズムの道連れにされた「無駄死に」であったと断定している点にである。沖縄の人間が1961年当時に、このような考え方を公表することは珍しい事だったのではないだろうか。それより以前に、沖縄を訪問した大宅壮一が「飼いならされた忠誠心」だと揶揄論評して、犠牲者遺族の激しい怒りを買っていた。太田はその大宅壮一を非難していない。追い詰められて自決した牛島中将以下、沖縄守備軍を激しく非難している。
 このように、太田良博は、沖縄戦の実相を的確に捉えているように思われる。だが、太田は手放しで評価できない部分を少なからず持っている作家に思われる。この論文でも、「天皇」は本土決戦を避ける決断を下すという英断を為した、と讃えている。ともあれ、曽野綾子とのからみもあって、読み応えある論文だと思う。   
                            


       戦争への反省  1

              太田 良博


1.「ひめゆりの塔」は犠牲の象徴

沖縄本島の南部は、激戦地として知られている。外来のお客さんは、きまって南部の戦跡を巡拝する。それが、ならわしのようになっている。南部戦跡は、観光名物の一つになっている。沖縄戦の最大の激戦地が南部地区であったと宣伝されているのである。いまでは、沖縄の南部といえば、「戦場」という言葉を連想し、沖縄戦の戦場といえば、南部地区を連想するほどである。それが常識のようになっている。

 中には、沖縄戦は、南部においてのみ戦われたように考えてるものもいるようである。南部沖縄は、住民にとって、たしかに苦しい戦場にはちがいなかった。犠牲の最も大きかった場所であった。しかし、沖縄戦の最大の激戦地は、南部ではなく、沖縄島の中部地区であった。中部地区は、現在、ほとんどが、米軍施設のある場所で、いわゆる基地がそこに集まっている。戦場の名残りはぬぐいさられている。荒涼とした戦場の面影が、そのまま残されているのは、南部である。「南部」と「戦場」の、概念的なむすびつきが、そこから生ずる。南部は、ほんとの意味の戦闘の場所ではなかった。そこでは、戦闘らしい戦闘は行われていない。戦闘が南部の各所で行われたとしても、それは、日本軍の散発的な抵抗であり、米軍側から言えば、一種の掃討戦であった。

 戦闘の後始末といったものであった。日本の敗残兵を追って、米軍は戦場を掃除して歩いたのである。本格的な戦闘は中部地区で行われ、首里の軍司令部が陥落してからは日本軍による組織的抵抗は終わったのである。つまり沖縄戦の主戦場は中部地区だったのである。中部地区では、軍隊と軍隊の戦闘が、正面から戦われた。戦場が南部に移ってからは、日本軍は住民にまじって敗走するだけで、そこでは、前線と銃後、戦闘員と非戦闘員の区別がなくなった。住民にとっては、この南部戦場が最悪の地獄だった。戦争の惨状と住民の犠牲が、その極に達したのである。住民の立場からみて、最大の激戦地は南部地区であったのだ。しかし、ほんとは、沖縄戦において南部の戦場は、無抵抗の住民が、いたずらに無駄死にした場所であって、激戦地でも、主戦場でもなかったのである。その証拠には、米軍側の兵員の犠牲は、ほとんど中部地区で払われている。南部戦場は、住民の体験を通して、最大の戦場として印象されたのである。

 南部に戦場が移ってからは、すでに戦闘は峠を越しており、末期的様相を呈していた。ただ、住民の側から主観的にみて、南部は最大の戦場だったのである,沖縄戦は、沖縄島の全域で行われた。北部の山中でも、戦闘があったし、住民は苦しい体験をした。ただ、南部の戦場が住民にとって、沖縄戦の象徴的な場所として残るようになったのである。そして、南部の戦場は、いくつかの戦跡で、さらに、象徴されるようになった。その象徴の中でも、「ひめゆりの塔」が代表的なものになった。
 その「ひめゆりの塔」は、われわれに何を物語っているだろうか。それは、沖縄戦が、いかに、住民を無駄死にさせた戦争であったかということを物語っているのである。そこに、「ひめゆりの塔」の象徴的な意味がある。「ひめゆりの塔」は、戦争の悲惨を教え、平和への希いを新たにさせる象徴として立っている。戦争の中で、人はいかにいたずらな犠牲を払わされるものであるかということを、われわれに教えてくれるのが、「ひめゆりの塔」によって象徴される沖縄島南部の戦場である。「ひめゆりの塔」の少女たちの死は美しい犠牲であったと思うのはかえって、思想的に危険である。彼女らの死が、ほんとに無駄死であったと悟るところに、「ひめゆりの塔」のほんとの意味がある。そこから、戦争に対する憤りや反省が生まれてくるのである。彼女らの死の意義を否定することによって、われわれは、戦争の意義をも否定することができる。

 彼女らの死に何かの意義をみとめようとすることは、かえって彼女らの死を肯定することになり、ひいては、戦争そのものを肯定することになる。「彼女らは、無意味な死に方をしたのだ。彼女らは、無意味な超国家主義、軍国主義の中で教育され、それを信じて死んだのだ!」それだからこそ、われわれとしては、その事実の中に戦争と平和の意味を発見しなければならぬ。「ひめゆりの塔」をして、戦争と平和の問題を解く、カギたらしめねばならない。また、「ひめゆりの塔」は、女子学生の犠牲の象徴であるばかりでなく、何万という非業の死を遂げた住民の象徴でもある。


無意味に人間を殺す

時とともに、われわれは、戦争に対する鮮烈な印象を失ってゆく。戦争犠牲に対して、鮮烈な印象を経験するのは、むしろ外来のお客さんたちである。
われわれは、日とともに戦争を忘れつつあるが戦争がもたらしたものが何であるか、そのほんとの意味をまだわかっているとはいえない。ちょっと古い話になるが、大宅壮一氏が、沖縄にきて、いろんなことを言って騒がれたことがある。「大宅放言」が住民の間で物議をかもした。ことに、「ひめゆりの塔」の少女たちの死を、彼は無駄死と言った。この一言で、彼は、こちらで人気を失った"この「放言」に、たいていの沖縄人は憤慨したようである。

 しかし、戦争が無意味なものであるということを深く認識しているのは、「ひめゆりの塔」の少女たちの死を無駄死と言い切った大宅氏であるか、それとも大宅氏の「放言」に憤慨した人たちであるのか、考えてみる必要がある。
遺族の立場からすれば、戦争の犠牲者となった肉親の死を無駄だったとは考えたくないであろう,それが、当たり前の人情である。しかし、その当然の人情に安住しては、戦争のほんとの意味が発見できない。戦争の犠牲となった同胞や肉親の死を無意味だったと考えることは、たしかに苦痛である。しかし、戦場の犠牲者の死を無意味と観るところに、実は、意味があるのであって、彼らの死が、われわれに貴重な反省をうながすのである。彼らの死が無駄な死ではなかった、尊い犠牲であったとするなら、何のために無駄な死ではなかったのか、どういう対象に対して尊い犠牲であったのか、という疑問がでてこなければならない。

 戦争犠牲者の死を肯定し、有意義とするところからは、何の意味もひき出されてこない。戦争犠牲に対する、割り切った肯定的な考え方は、戦争に対する反省の不十分から生ずる安易な考え方である。戦争をほんとに憎む気持ちは、そこからはでてこない。
                                                    ー(中略)ー

 波打際の洞窟司令部

私が復員して、沖縄に帰って来たのは、終戦の翌年であった。さらにその翌年私は、知念の丘にあった、沖縄民政府の財政部で仕事をするようになった。
もう、十数年前になる。
ある日民政府の職員たちと、南部戦跡を見に行ったことがある。たしか、トラックを一台か二台つらねて行ったのだが、同行した人たが誰々であったか、忘れてしまったし、ピクニックのつもりだったのか、戦跡をわざわざ見るためだったのか、それとも、調査か何か、お役所の仕事で、私は、ただ一緒につれて行ってもらったのかもよくおぼえていない。
あのころは、私たちの意識の中で、戦争の記憶が生々しかった。私は沖縄戦の体験者でないので、ぜひ、 戦場の跡を見ておきたかった。摩文仁岳に上った。
その後、そこは一度も訪れていない。日本軍司令部の最後の陣地があった所である。陣地跡の洞窟の入口になっているという崖の斜面をのぞいてみた。ちかくに、牛島司令官と長参謀長の墓があった。自分の上っている、その足下に、ほんとに、二人の将軍の遺体が埋められているのか、と思った。表面をセメントでぬりたくって、お粗末な墓碑が立ててある。
                                      ー(中略)ー
 しかし、考えてみると、この粗末な墓が、当時は、破格の待遇だったのだ。島尻の山野には十数万の遺骨が野ざらしにされている。
この摩文仁の岩山に立って、二つの相反する感想が、私の心に浮かんだ。
私が、ここにきて、甚だ意外に思ったのは、洞窟司令部の位置である。そこは、沖縄の最南端である。ということだけなら、その前から聞いて知っていた。が実際、来てみて全く、意外だった。南端の意味が、切実にのみこめた。島の南の端なら、海に近いところであるとは、かねて考えていた。しかし、司令部の位置が、こんなに海に近い所とは創造もしていなかった。ここは、もう、波打際ではないか。

海は、すぐ真下である。こんなところまで、司令部は退ってきたのか,こういう例は、めったにあるものではないぞ、と思ったのである。日本の戦史にも、外国の戦史にも、例のないことではないだろうか、と考えたのである。それは、現場を見たときの直感であった。波打ち際で切り死にしたという感じである。戦えるところまで戦い、徹底抗戟し、最後まで降伏せずに、死を選んだという壮烈、悲壮、果敢であるとの感慨である。頑強に抵抗し、手を切られ、足を切られても、頭だけで噛みつこうとしたのだ。司令部だけになっても、一つの戦闘単位として、行動したのだ。そのはてに、それこそ矢弾つきて、司令官は、軍人としての最高のの責任をとったのだ ―― 。
しかし、次の瞬間、まったく別の感想におそわれた。司令部が波打際の近くにあるというのは、考えてみると、おかしい。
その司令部は、大隊や連隊単位の司令部ではない。旅団や師団のさらに上級にある、いわば、軍団の司令部である。沖縄守備軍最高司令官の戦闘指揮所なのである。

それが、島の南端の、ちっぽけな岩山のしかも、海を前にした洞窟内にある。これは、もはや戦闘ではない。こんな戦闘指揮所というのはないのだ。小隊や中隊の指揮所なら、ともかく、最高司令官が、ここまで退却して、戦闘が指揮できるはずはない。すでに、司令部は司令部としての機能を失っている。司令部という概念からははるかに遠い存在になっている。なるほど、敵を前面にしたときは、最高司令部は、最後方で、指揮をとるのが普通である。敵前近く司令部が進出するばあいでも、その周囲には、幾層にも、部隊が配置されて、司令部は、味方戦力の部厚い壁の深層に位置するはずである。司令部は戦闘力の中心点であるべきである。敵が周囲におるときは、司令部の位置は、周囲に戦闘力をはりめぐらした、その中心点にあるべきはずである。 
     
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戦争への反省 2 

     太田 良博
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 牛島司令官の死

 あの、南の岩の果てまで、よくも戦い続けたという感慨と、逃げられるところまで落ちのびて、窮地に追いこまれたあげく、司令官は「死」以外に、事態から逃れる術がなかったのではないか、という疑問がぶつかり合った。その疑問は、未解決のまま、自分は持っていた。
更に、そういう戦場のモラルを深く追求してみようという気持ちが起こらなかったので、あのときのままの素朴な形で、疑問はのこされた。いや、その疑問は、いつか日常生活の中で、忘れられていた。
その後、摩文仁を訪れたことはないが、あのとき、私が、そういう疑問をなぜ追求しようとしなかったか、それには、もう一つの理由があった。摩文仁岳の上々しい戦場に立つと、まだ砲煙の香いがし、追いつめられた人たちが生死の境をさまよう姿が、生々しいイメージとなって、脳裏に浮かんだ。

 しかし、そういうものを忘れさせるほどの強烈なある感情に、私はとらわれていた。
それは、戦場とは、最も対照的な感情だったが、今でも、忘れ得ない印象となって思い出される。私が同行した人たちは、みな沖縄戦の体験者であったが、ピクニックのような気持ちで、摩文仁岳のあちこちを歩きまわっていた。時々、笑い声を立てて明るい表情をしていた。戦争の暗い影など、どこにもなかった。
自然は、もっと明るかった。快晴の天気で、野の色も、海の色も実に、あざやかだった。とてつもなく明るい空からは、柔らかく、温かく、ふんだんに、春の光りがそそいでいた。空気が、春で、無限にふくらんでいるようだった。これほど、ぜいたくに、光の洪水をあびたことはなかった。すべてが、平和で、静かだった。私たちをとりまく自然は、甘い叙情のようなものを、いっぱいふくんでいた。

 平和はこんなにすばらしいものであるかと、胱惚とさせられるような瞬間であった。
 牛島司令官の墓から、遠くないところに、平坦な広っぱがあり、岩石の上に、草が青々としげり、その向こうで、太平洋の波が、遠くまでキラキラと輝いていた。私は、生きていることの美しさと、自然のすばらしく、やさしい表情に感動してしまった。心のヒダヒダまで明るく照らし出されるような、その明るさ。
清潔で、甘い空気!
私は、ひとつの草むらをみつけて腰を下ろし、波の輝きをいつまでもみつめていた。
二十代の青春を、軍隊と戦争の中で失い、運命にうちひしがれたように帰ってきた故郷はさらに過酷な運命の試練をうけていた。そして、沖縄戦の断末魔の声をきくような、この摩文仁岳の上に立ってみると、自然は何という美しい表情をしているのだろう。まるで信じられないくらいである。悪夢を見たあとのようなおどろきとやすらぎがひたひたと私をひたした。
これが、ほんとの生命だ。生きることは、こんなに美しいことなのだ。戦争は、ウソのように、忘れられ、自然は、無関心に、平和でやさしく、人間をつつんでた。太平洋の波の輝きをみているうちに、ある感動で、私は感傷的にさえなっていた。

 なにか、私は、大きな問題を考えているようだった。ひとくちにいえば「戦争と平和」の問題である。この生々しい戦場で、この皮肉とも思われる平和な自然に包まれて日本の軍司令部が最後まで戦ってここまできたのか、あるいは逃げられるところまで逃げて、この岩の一隅で、軍司令官は自決したのか、といった疑問は、「平和と戦争」の問題の前では、はなはだ小さいものだった。しかし、その問題は余りに大きく、ナゾであった。私はそこで、ただ、感傷し、感動し、切れ切れに思考しているにすぎなかった。このときの強烈な感動も、そのままの形で、いつの間にか、私の心の中で、色あせていった。それは、それ以上のものにならなかったのである。
おおげさにいえば、論理に発展しなかったのである。
やがて、戦場を忘れた生活の中で十余年がすぎた。
はからずも、摩文仁岳の一日を思い出したのは、次の事情からである。
私は、家でテレビをみていた。

 文春講演会が放送されていたのである。
 中村光夫氏が、あることを言いかけたとき、私は思わず、ハッとして椅子に坐ったまま、上体をのり出した。摩文仁の軍司令部跡を見たときの印象に話が及んだとき、中村氏の口から、こんな言葉が出てきた。
「軍司令部が、あんなところにあることに、自分は疑問を感ずる。あの戦場で、住民をたくさん死なせていて、司令官は死ねばそれで責任がすむのか。あきらかに、あれは、作戦の失敗である。作戦で「イロハ」ともいうべき失敗をしている……」
それは、私が聞く初めての言葉であった。これまで、誰からも、こういう言葉を聞いたことがなかった。また、書かれたのを読んだこともなかった。牛島司令官は、立派な軍人として偶像化され、住民は、尊敬こそすれ、非難する者はいなかった。批判の対象にしなかった。

軍部を象徴する暗いエゴイズム

「なんでも、疑ってみることが大切だ。権威を無批判に肯定してはいけない」という意味のことを、曽野綾子さんが講演したあとだった。 戦闘員だけでなく、多くの住民の生命や財産を失わせた戦争の最高責任者である司令官に対して、住民の中からひとつも批判の声が聞かれないのはどうしたことか。
第一に、軍人としての牛島は尊敬されている。
 事に彼の最後が、悲壮だったからである。
 私は、かつて摩文仁岳で感じた疑問を誰にも話したこともなければ、書いたこともなかった。自分が長いあいだ抱いてきたのと同じ疑問を、中村氏の言葉にみつけて、私は、中村氏の次の言葉を待った。なにか、つっこんだことをいうのではないか。例の疑問を、はっきりと解明するような言葉を期待したのである。
ところが、中村氏の講演は、別の話題に移ってしまった。ただ、ひどくまずい作戦をしたものだということだけで話は切れてしまった。
その後、中央公論社から出た岡本太郎氏の「忘れられた日本」という本を読んだ。「沖縄文化論」という副題のついた本で、いろんな人が批評していてたいへん評判がよい。
この本の十七ページから十九ぺージにかけて、こんなことが書いてある。すこし長いが、引用することにする。

沖縄見学の手始めはしかし、ここを訪れる誰でもがまず案内されるコースだ。ときどき激しくふきつけ、降ってはやむ雨の中を、南部の戦跡、島尻地方を一周することになった。ここは太平洋戦争の最後の激戦地であり、まだ癒えない傷痕が深く残っている地域だ。
有名な「ひめゆりの塔」「健児の塔」「魂塊の塔」などを見た。大地にぼかっと暗くあいた宕穴や、珊瑚礁をめぐらす荒い磯に迫って、高々と突っ立った岩石の下の鍾乳洞。そこで降伏することもゆるされず、無数の若い娘たちや少年たちが自決し、あるいは惨殺された。白い腕、脚、首がちりぢりに飛び、地底の暗闇にうもれたイメージはむごたらしい。
当時この戦いを生きぬいた友人から、いかに絶望的で無意味な戦い方をしたか、このあたりの地形に即して戦況の説明を聞きながら廻って行くと、もはや過ぎ去ったこととはいえ、あまりにも愚劣な悲劇に言葉も出ない。
これらの戦場を一眼に見おろす、いちだんと高い荒い岩山の上、あそこで司令官、牛島中将が最後に自決したのだなどと聞くと、とたんにムラムラする。
情況はすべて知らされず、ほとんど盲目だった無数の島民や兵隊達をかりたて、一発射てば直ちに干発のお返しがくるという、手も足も出ない圧倒的な敵に対して,為すこともなく退き、追われて来た。最南端の海岸ぶちの洞窟にたてこもり、なお大日本帝国の軍人精神の虚勢に自らを縛り、鼠のように死んで行った。とことんまで叩きつぶされていながら、そして目の下に自分らのおかした惨憎たる無意味な破局を眺めながら、ついに最後まで虚栄の中に、反省もなく「帝国軍人らしく」自刃した。――彼個人がどんな立派な人格の持ち主だったか、それは知らない。だがその軍部を象徴する暗いエゴイズム。――私は嫌悪に戦慄する。
旧日本軍隊の救い難い愚劣さ、非人間性、その恥と屈辱がここにコンデンスされている。これはもっともっと叫ばれてよい問題だ。
島民も兵隊も、こんな小さい島で飢と疲労と恐怖にぎりぎりまで追いつめられ、なお戦いつづけなければならなかった。いったい人間的にそんな義理あいがあったというのだろうか。彼らの中には、何とかして生きぬこうと、見えない対岸に向かって大海を泳ぎだし、力つきて溺れた者が無数にあったという。想像をこえた、絶体絶命の恐怖感である。
彼らの運命はまことに気の毒だと言うほかない。ところで、もしあの時、軍部が夢みていた本土決戦などというものが本当に実現されていたとしたらどうだったろう。血迷った狂信の末期現象はとうてい想像することのできない地獄絵巻を展開したに違いない。
内地ではとかくアメリ力の軍政下にある島民生活の悲惨さがクローズアップされる。私も自由と民族的プライドを奪われている彼らの顔がどんなに暗いか、そういうアクチュアリティをも観察しなければと思っていたが、しかしこの戦跡を見ていると、はるかに日本人が日本人に対しておかした傲慢無比、愚劣、卑怯、あくどさに対する憤りでやりきれない。
私は人間が死ぬなんて、たいしたことだとは思わない。そんなことに馬鹿騒ぎするヒューマニズムをむしろ腹から軽蔑している。しかしこういう事実を中心とした卑劣、不潔さは絶対に許せないのだ。

私は、ここにも共鳴者を発見した。
岡本氏の言葉は、義憤し、興奮している。かなり、私の考えが、はっきりと、まとまってきた。しかし、自分なりの疑問がやはり残っている。忘れかけていた問題になにか答を出してみたくなった。    (おおた・りょうはく) (『琉球新報』一九六一年三月二五日~四月八日連載)

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戦争への反省 3 
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      太田 良博  

八重瀬岳が最後の線

 彼(牛島)は最初から死を覚悟していたはずである。彼は死に場所と、死の時期を求めて、島尻の南端まで、おちのびたのだ。彼の「死に場所」と「死の時期」、それは、単に彼個人の問題をこえた、重大な意味をもつものである。
 軍人、作戦家、あるいは人間としての彼を云々する場合も、彼の「死に場所」と「死の時期」は、看過できない要件になる。ことに軍人は「死にぎわが大切」といわれる。

 しかし、それよりも、重要なことは、司令官の「死」が、事実上、戦闘行動にピリオドを打ったということである。
 沖縄戦は、牛島司令官が自決した日を以て、終わったことになっている。あらゆる戦闘行動が、そのときにストップしたのである。司令官が一日、死をのばしたら、戦闘は一日のび、司令官の決心が一日早かったら、戦闘は一日早く終わっていたはずである。米地上部隊の追撃と、艦砲射撃をうけて、何十万の人間が、あの狭い南部地区で、生死の間を右往左往していた状況と、司令官の「死」をむすびつけて考える必要がある。刻一刻、おびただしい犠牲者がでる。一日戦闘がのびれば、犠牲者は数千ふえ、一日早く戦闘が終われば、それだけ犠牲者がへるという、急迫した状況である。
 それは、南部地区に限ったことではない。中部・北部地区でも、戦死餓死者は続出している。

 こういう状況の中で、司令部は司令官を守り、司令官は「死の場所」と「死の時期」を選ぶために、島の南端まで、退却をつづけたのである。
 戦闘はつづいていたが、それは、無駄な抵抗であって、軍事的に意味のあるものではなかった。作戦上、まったく無価値な抵抗にすぎなかった。
 組織的な戦闘力を維持しつつ、作戦上の予定の行動として、後退するのが退却である。退却は、反撃のための準備であるべきである。ところが、南部戦線に後退した日本軍の残存生力は、組織的戦闘能力を失ない、各個バラバラとなり、指揮系統は寸断、断絶し、敗残兵の形で住民にまじって、右往左往していたにすぎない。
 組織的に戦闘力をととのえ、無意味な抵抗でも、最後の一戦を花々しく交え、玉砕を辞せずというなら、住民と兵員を地域的に区別し住民区と戦闘区域を対抗軍に通告し、戦闘体勢を整えるべきである。
 司令部には、その気持ちはなかったのである。
 司令部が摩文仁に後退する前、八重瀬岳の陣地で、各部隊長を集めての最後の作戦会議があり、オブザーバーとして、島田知事も出席した。
 その席上、島田知事は、「戦闘力のない住民は、全部、知念半島に移し、そこを無防備地帯とし、米軍に通告すること」を、主張したが、軍首脳は、その主張をききいれなかった。
 軍民一体という思想であろうか。身に寸鉄をおびぬ住民、老幼男女は、かくして、砲火にさらされたのである。司令官と日本軍は、何万、あるいは「十何万の住民を、死の道連れにしたのだ。
 住民は無理心中を強制されたのだ。路傍で、母はたおれ、幼児はその乳房にすがって泣き、足を切られた男は泥の中をはい、腹を血にそめた若い女が「水を」「水を」と叫び、傷ぐちには生きたままウジが湧き、新しい死体は戦場の至るところに、重なり、ころがり……。

 その中で、司令官を守り、司令官は、自らの「死に場所」と「死の時期」を求めて、どの兵員よりも、どの住民よりも、遠く、南の果て、波打際の岩山までおちのびたのである。
 そのほかは、戦場に、砲火の中に置きざりにされたのである。
 司令部だけが、最後をかざるための最も安全な場所まで辿りつくことができたのである。南部島尻一帯の地形をみればわかる。あとは、平坦で、どこにもかくれる場所はない。
 摩文仁岳は、もう、戦闘を指揮するというような場所ではない。
 素人でも、それはわかることだ。司令部が、波打際まで逃げて、士気を鼓舞できるはずがない。
 あの岩山の洞窟からどうして、命令を出したり、各部隊との連絡ができるのか。無線連絡――以外にない。しかし、命令を出そうにも、戦うべき、まとまった部隊とてはなく、兵員は敗残兵と化している。
八重瀬岳の線で戦闘体制を整えるチャンスがあったかも知れないがそれをしなかった。
外国の司令官なら、首里司令部の陥落のときに、降伏か自決か最後の処置をきめたにちがいない。日本軍による組織的抵抗は、首里戦線で終わったのである。
本格的戦闘はそこで終わり、勝敗は、はっきりしたのである。それからは、無意味な戦争で、いたずらに住民を犠牲にした。
降伏を考えない日本軍は八重瀬岳まで退った。私は、八重瀬岳が、師団以上の最高指揮所としては、いきつく、最後の線ではなかったかと考える。

沖縄は捨て石だった

 摩文仁司令部内でも、犠牲者はでている。洞窟を守る兵隊が殺されており、沖縄の若い女子職員が、何名か手榴弾で自決している。司令官に殉死した格好になっている。
 すぐ目の前で、無駄死を司令官たちは見ている。そのあとで、自決している。司令部の女子職員の自決が、心理的に、司令官たちの決意をうながしたかも知れない。
参謀や高級将校の中から、どしどし逃げる者がでた。
 北部に突破して、北部にいる部隊の指揮をとるとか、戦況を大本営に報吉するとか、いろいろの理由をつけて、摩文仁の洞窟から、離脱している。住民の死体は、海岸線にも、うようよ浮いている。
 そして、糸満漁夫など、米艦船のびっしりとりまく海上をクリ舟をこぎ、何々参謀をのせて与論島などに渡す。冒険に生命をかけて、逃げる手つだいをする。憤激せずにはいられない喜劇である。
 ここに、ひとつの疑問がある。
 司令官は、大本営の指揮をうけている。大本営からは、一日も長く持ちこたえろと命令されたかも知れない。そうなれば、軍の中央部は、沖縄住民を、まったく犠牲にしても、本土決戦の日をのばそうとしたことになり、沖縄は捨て石だったことになる。本土決戦になったら、おそらく、民は軍の犠牲になったにちがいない。沖縄戦はその縮図である。その縮図が本土で拡大されなかったのは、日本国民にとって幸いであった。
 沖縄戦は、日本の県内でたたかわれた最初にして最後の戦争となったのである。
 こういう不運な戦争の最高責任者となった牛島中将の立場は気の毒である。牛島中将より、さらに、軍中央部で、戦争を計画した責任者の中にも、現在、ピンピン生きている人たちがいる。個人としての牛島さんは、どうということはない。軍人らしい軍人であったといえる。

 しかし、私が問題にしたいのは、その軍人らしい軍人であり、その典型を牛島さんの生死にみるのである。
 かつての陸軍イデオロギーのエゴイズム。
 軍人のプライドと面子を保持するためには、いかなる犠牲にも無関心であった、石のような愚かさ――。
 牛島司令官は、陸軍士官学校長でもあった。日本陸軍の中でも典型的な軍人である軍の中核体となる将校は、そこで、薫陶をうけ、イデオロギーを身につけるのだ。       (おおた・りょうはく) (『琉球新報』一九六一年三月二五日~四月八日連載)

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戦争への反省 4
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     太田 良博

【後記】
 牛島司令官の死は、悲壮である。しかし、死にあたっての人間的な悩みは感じられない。陸軍省への打電文で、自分の責任をわびている。しかし、上司に対してわびているのである。自分の行動に対して、上司がどう考えるかということが何より気がかりだったようにとれる。
軍人官僚の心理である。敗けても名誉はたもちたい。―反面、死んだ住民に心からすまないとは思っていったにちがいない。辞世の句に、それがにおわされている。
「枯れゆく島の青草」という言葉である。天皇が国民を民草と呼んだごとく、彼は沖縄の住民を「青草」と詠んだ。高いところから慈愛を込めた言葉である。しかし、そこに人間性にねざした愛情は感じられぬ。
自分の最後の心境をのべたいがために、摩文仁まで退ったかも知れないが、その心境には悩みはなく坦々たるものである。死を決意してよくねむったのである。
古武士の面影というものである。

敗戦の責任を上司にわびた牛島司令官は、「たまがえり、たまがえりつつ、み国まもらぬ」の歌で責任をカバーし、自らなぐさめている。
また、「島の青草」の枯れたのを惜しみながら「み国の春によみがえるであろう」と、簡単に自責をのがれている。
あれだけの住民が戦野に死体をさらしたことを、この軍人は草が枯れたぐらいにしか惜しんでない。
―枯れた草は、よみがえらないのである。住民が死んだあとには、かえって、ほんとの草が、青々としげっているだけである。摩文仁岳の高いところから戦野をみおろしている牛島司令官の霊(もし霊というものがあれば)は、その青草をみて、枯れた草がよみがえったのだとでも考えているのだろうか。
*   *   *
本土からいろんな有名人がきてきまって戦跡をみる。
新たな涙をさそう。その涙で、われわれの感情は新鮮にむちうたれる。
あべこべである。
われわれは、いつか戦争を忘れてしまっている。体験したのは我々である。忘れやすいというか、たくましく生活をきずきつつあるというべきか。
本土のお客さんは、また、きまって、琉球の古典舞踊をみせられる。私自身、あの舞踊をみて、これはいったいとういうことかと考える。
あの、むごたらしい戦争をへてなお優雅で静かな古典芸能が生きつづけている。
戦争のイメージと、この舞踊はどうしてもむすびつかない。
「戦争と平和」のように。

むすび

 沖縄戦で、兵や住民がたくさん自決している。戦場の自殺心理に二通りあると思う。
 降伏する勇気がなくて、敵に殺されるよりは、と極度の恐怖心から、絶望に追い込まれて自殺する場合と、降伏を恥として自殺する場合の二つである。戦場で、死ぬ必要のない場合、死に追いこまれる心理の呪ばくに、みながかかっていた。兵隊だけでなく、住民もたいてい手榴弾をもっていた。それは、戦闘用ではなく、自決用としてである。
 米軍が降伏を勧告すると、一人の将校がでてきて、みなと相談するから、しばらく待ってくれと壕の中に消え、しばらくすると「君が代」の合唱が聞こえ、轟然、手榴弾の爆発音が、それにつづいたという話。喜屋武の海岸で、兵隊に殺してくれとせがむ女学生、誰も彼も死神にとりつかれ、死を急いでいたような感じである。降伏がこわくて死ぬ、降伏を恥として死ぬ、いずれにしても、当時は、死が戦場における最高の倫理だったのである。降伏がこわいという場合も、敵だけがこわいだけでなく、降伏を軽蔑する味方の心理がこわかったのである。

「一死報国」「生きて虜囚の恥かしめをうけず」
 これが、白空局の時代精神であり、この精神に殉じたわけである。敗戦の恥を忍ぶよりは、一億玉砕を、と叫んだ軍部の考え方だった。
「何でも死ねば、それで事がすむのだろうか」と、当地での文春講演会で、中村光夫氏がのべていたこの問いは、大切である。
 「 死んでおわびをする」ということがよく言われる。
 「私のくびをさし上げてもよい」と言って誓う。死ぬことで何でも解決するという思想である。
他人にどんな迷惑や、害をあたえても自分が死ねば、それで「おわび」になると考える。死への逃避で責任は回避される。そうだろうか。なるほど、死んだ人を相手に責任を問うことはできない。しかし、これは、道徳の問題である。日本の天皇制は、今後問題になるだろうと思われるが、終戦のときの天皇の態度はよかった。
「自分はどうなってもよい。忍びがかたきを忍んで、生きる道を考えようではないか」と、軍部の主戦論をしりぞけて、国民に将来の道をひらいてくれたことに人間的な親愛感がもたれる。
無理心中に国民を引きずりこもうとした軍部の手から、国民は解放されたのである。
西欧人は、戦えるだけ戦って、戦いが無駄だとわかると、降伏するのを恥としない。
考えが合理的である。
「最後の一兵まで」という言葉が外国にもある。これは、最後の一兵まで戦って、敵に損害をあたえるということで、やはり、戦闘効果ということを頭においている。日本人は、玉砕である。敵をたおさなくても、自決することで、虜囚の恥をうけず、死して護国の鬼となるのである。

牛島司令官の陸軍省への電文には、やはり、死して護国の鬼とならん、ということが言われている。他の軍人も、その気持ちで自決した。そして、立派な死だけが美しいものとなる。牛島、長両将軍は「死をみること帰するが如き」態度で死んだので、尊敬される。
東条大将は、自決をやりそこなって、往生際がわるいと非難される。立派に生きることより以上に立派に死ぬことが大切とされた。しかし「死ねばすべて、ことがすむ」という考えかたは、それでいいのだろうか。どんなことをしても死んだら「おわび」ができるのだろうか。「死ぬ気持ちでやったら、どんなことでもできる」ともいう。果してそうだろうか。何でも死とむすびつけて考えるが「死」と「生」は別物である。
生きて何かをやるためには、生きることの意味を知らなくてはならない。死ぬ気持ちだけあれば、何でもやれると考えるのは、変である。
山ロ少年が浅沼さんを殺して自殺した。それで、山ロ少年の行動は立派だというのも出るし、浅沼殺害が帳消しになったように思うものもいる。
浅沼さんの死と、山ロ少年の死とは別物である。浅沼さんの生と、山ロ少年の生が別物であったように、山ロ少年の死と浅沼さんの死はまったく無関係である。
 山ロ少年は「死んで世間におわび」したわけだ。自己犠牲で、殺人行為に解決をつけたわけだ。彼も死んで護国の鬼となるつもりだったのかも知れない。
「愛なくして、なんの英雄ぞや」
ロマン・ロランの言葉である。

人間への、生存への愛情のないヒロイズムは、狂沙汰である。
死んでおわびができるなら、死んだらすべて責任がまぬかれるなら人間はどんな無責任なことをするかわからない。みんながそんな考えをもつとしたら、世の中は、こわくなる。他に害や迷惑をあたえることと、自らの死とは無関係である。自殺行為だけでは、何事も解決しない。生きていたときの行為は、その影響は、それでは消えない。
「立派に死ぬ」ことだけを、最高道徳と考えた旧軍隊の理念にひきずられて、沖縄戦は、悲劇的な結果を招いた。住民が無駄死したのである。死んだ人たちは、当時の最高理念に殉じたのだが、生きることはもっと意味があるということを知ることによって、彼らの無駄死は、ほんとに惜しまれるのである。―       (おおた・りょうはく) (『琉球新報』一九六一年三月二五日~四月八日連載)
                                                        (以下略)
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生理がとまる (太田良博著作集③「戦争への反省」より) (未発表原稿)

            太田良博(おおた・りょうはく) ホームへ

 沖縄では、戦争が終わって、しばらく、一年か二年というものは、ふだんの生活のなかで、あまり戦争のことが話題にのぼらなかったように思われる。戦争の話がまったくなかったわけではないが、おおかたは、戦争のことは話したくないというふうに思われた。戦争で生き残った人たちにとって、「生き残った」ということだけで、それが、大変な意味をもっていた。
 そして、新しい生活が始まっていた! その生活が、過ぎた戦争よりはるかに重要な意味をもっており、戦争は、むしろ、思い出したくない、早く忘れてしまいたい悪夢だったようだ。新しい生活が始まった、といっても、それは幕舎の中の生活であり、前途に、いくらかでも輝やかしい希望があったわけでもない。沖縄が、これからどうなっていくのか、誰にも、はっきりした青写真があったわけではない。
 「いつになったら畳の上に寝られるような生活がくるだろう」と、漠然と考えられていた時代であった。子供たちは、いわゆる「馬小屋教室」で、ちゃんとした教科書もない授業を受けていた。しかし、それは、なんと言っても「新しい生活」だった。「新しい生活」、つまり、それは、「平和」そのものであり、それだけで、大きな意味があった。その意味にしがみつくだけで、せい一杯だった。戦争の体験は、誰の頭のなかでも整理されていなかった。戦争を思い出すことは、「平和」の意味にやっとしがみついている生活の糸をぷっつり切るようなものだった。

 ことに女は、戦争の話をやりたがらなかった。こんな話を聞いたことがある。ある若い女性は、誰かが戦争の話をするのを聞いただけで、その晩は、熱発して、なにかにうなされるような状態になるということだった。
 また、「一生、結婚はしたくない」と言う娘もいた。その娘が、沖縄の戦場で、どんな体験をし、どんな光景を見てきたか知らないが、戦場の現実が彼女の心に深い傷をのこしていることはたしかである。いやしがたい人間不信というか、ことに、性愛の対象として男性をみる口マンがうちかれるほどの衝撃をうけたことが考えられる。その娘が、その後、結婚したかどうかは聞いていないが、戦場でうけた心の傷は、一生、心の傷としてのこるにちがいない。
 戦争が終わって四年ほどたったある日、ある女たちの集まりのなかで、こんな話を聞いた。ふと、ある若い女性が、自分は戦争中はもちろん戦争がすんでからもしばらく生理がなかった。八ヶ月ぐらい生理がとまった、と言い出した。すると、別の女性は十ヶ月生理がなかったと証言した。
 はじめ、そのことが自分には信じられなかった。沖縄戦のすごさをこれほど伝える言葉はないように思われる。

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豊見城海軍壕 (太田良博著作集③『戦争への反省』 Ⅰ沖縄戦の諸相より)

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太田良博

    (管理人注:本論文は未発表原稿で、執筆年代不明だが、S30年代半ばかと思われる。)

 沖縄戦で住民は足手まといであった。それで、東条内閣は昭和十九年七月七日、サイパン玉砕の翌日の閣議で、奄美大島以南の南西諸島の老幼婦女子を本土と台湾に避難させることを決定した。沖縄県から本土に八万人、台湾に二万人の疎開が予定されたが、結果は、九州に六万人、台湾に約二万人が送り出された。沖縄にはなお四〇万人以上の住民がいた。島内疎開は、県外疎開が終わつてから実施するとの軍や県当局の方針は、結果的には失敗だった。米軍は、時間的余裕をあたえなかったのである。

 沖縄島内の疎開についで、軍が県当局に要請した事項は、
  (1)六〇才以上の老人及び国民学校以下の小児を昭和二十年三月末までに疎開させる。
  軍は北行する 空車輌及び機帆船をもつて疎開を援助する。
  (2)その他の非戦闘員は、戦闘開始必至と判断する時機に、軍の指示により一挙に北部に疎開する。
  (疎開事務は、名護の東江国民学校内にある国頭地方事務所が担当)

 島内疎開は、激戦が予想される沖縄本島の中・南部の非戦闘員を、比較的安全と予想される北部山岳地帯に疎開させることだが、その実施時期より早い三月二十三日にアメリカの機動部隊がやってきて、翌二十四日からは砲撃を開始した。その砲撃下で、中部南部の住民を北部の山中に疎開させた。
 疎開させたというより、疎開の号令をかけたといったほうがよい。
 予定されていた輸送機関は、住民移動のために一つも使われなかった。そのため、住民の大部分は、中・南部の戦場に放置されてしまった。住民の一部が、疎開のかけ声に応じて、各個別々に徒歩で移動したにすぎない。あわてふためいた軍は、住民の疎開移動どころではない、空いた車輌や機帆船などを、住民移動のために提供するという計画などふっとんでしまった。
 最初北部に一〇万を疎開させる予定だったが、やっと二万だけが、徒歩で北部に向かった。北部疎開といっても、受け人れ地での計画は何もない。北部の山岳地帯に、たくさんの人間が移動したら直ちに食糧に窮するのはわかり切ったことだが、その準備がまるでない。北部各村の役場に連絡して疎開民をおしつけているが、役場が疎開民の生活の面倒までみられるはずがない。北部疎開といっても山の中に放ったらかされたようなものだった。住民は山羊小屋よりみじめな、押せば倒れるような「疎開小屋」に住むことになった。

 とにかく砲弾に追われて、南部から北部山中への避難が、米軍上陸の前夜まで、連日連夜続き、軍の作戦行動と交錯し、道路上の混雑がはなはだしかった。
 県当局は国頭の各村に収容を割り当てたといっても、疎開地域の指定にとどまり、とても地方農村として、都会地から流れてきた多数の疎開民の面倒はみておれない。また設営班を設けて避難小屋の設営を実施したが、それも雨露をしのぐにも事欠くていどのものだった。また、避難民のための食糧をいくらかき集めても、軍が輸送力を独占し、住民の食糧輸送に使用させないのでは、避難民の生活を保障するだけの食糧は集めることができない、というのが簡単に説明できる実情であった。
 いわば戦場予定区域の沖縄島、中・南部から住民は、何の準備もないまま北部山中へ追いやられたのである。そこには、飢餓が待っていた。作戦中における、北部での餓死者続出の惨状は、米軍上陸時の無統制な北部移動の結果であった。
 住民の食糧は戦災を予想して各地に分散貯蔵してあったのを、敵上陸までにトラックや荷馬車でいくらか北部疎開地へ輸送されたものの、とても二万の疎開民をささえることはできなかった。北部山岳地帯の疎開地は、戦闘期間、分離孤立したまま自活を余儀なくされたが、疎開者のほとんどが老幼婦女子であったのと、未知の土地での食糧確保の困難が多くの栄養失調死を招いた。
 民間の車両もほとんど軍に徴用されていたので、疎開民の移動は徒歩でおこなわれた。
 空襲下、幼い子供をつれた女たちが、持てるだけの荷物をもち、子供の手を引いて七〇キロから一〇〇キロの道を、泥にまみれ、雨に打たれながら北部へ歩いて行った。
 しかし、ここにただ一つの例外があった。
 住民の北部移動で、小禄に陣地のあった海軍部隊だけは、手持ちの全トラックを総動員して小禄村民の疎開輸送にあたった。小禄村民だけは、この特別待遇で助かったのである。食糧も持てるだけ持てた。
 これは、住民の島内疎開で、軍が協力した唯一の例外であった。

 小禄の海軍部隊は、作戦でも特異な立場におかれた。
 敵の重囲下におかれ、兵力や武器弾薬、食糧の支援がどこからもなかった沖縄守備第三十二軍の作戦を「孤島苦の作戦」とすれば、小禄飛行場を死守して潰減した海軍部隊は、その中でも、さらに孤立無援の状態におかれていた。
 沖縄方面根拠地隊(大田実海軍少将)は、大本営陸海軍部の「陸海軍中央協定」に基づく、「南西諸島作戦二関スル現地協定」によって、米軍の沖縄上陸とともに、第三十二軍司令官牛島満中将の指揮下にはいり、地上戦闘を実施することになった。
 海軍部隊の兵力は約一万であったが、もともと海上護衛隊との地上連繋部隊であったので、地上戦闘装備は、甚だ劣弱であった。
 小銃は各隊とも兵員の三分の一しかなく、その他は木柄、鉄尖の槍を持っていた。機銃は、航空機用を地上旋回銃に改造したものが多く、手榴弾各人二、三発、急造爆雷約二、〇〇〇個のほかに、小禄地区には高射砲一四門などがあっただけである。
 その上、中部戦線の陸軍主力、第六二師団が潰滅状態に陥り、米軍の南下を妨げずに、戦線が首里前面の沢シ、前田まで圧迫されてきた五月中旬、斬込隊要員として、陸戦隊約二、五〇〇名と、軽兵器の約三分の一、迫撃砲の大部分が沖方根(沖縄方面根拠地隊)、つまり小禄の海軍部隊から抽出されて、陸軍の指揮下にはいったため、海軍残存兵カと、その装備はさらに劣弱化した。
 五月二十一日、軍首脳部は、もはや組織的防禦力を維持することができない限界点に来たと判断して、首里撤退を討議した。
 爾後の作戦について、首里を死守、知念半島へ後退、喜屋武方面へ後退の三案が検討されたが、これは、どの地点を最後の墓場にするかという、いわば玉砕会議であった。各師団、それぞれ、戦術的、あるいは心情的立場から意見をのべたが、沖方根(海軍)だけは「別に意見はない」との態度をとった。

 思うに、戦闘主力の陸軍さえ、壊滅的打撃をうけて戦力が著しく低下しているとき、さらに装備劣弱な陸戦隊としては、何処で戦うのも同じで、ただ陸軍の足手まといになってはいけないという考えがあったと推定される。
 五月二十二日タ刻、牛島軍司令官は喜屋武方面に後退を決意、軍司令部の一部は、同夕刻、直ちに、八重瀬岳南方四キロにある摩文仁海岸の洞窟司令部予定地に先遣隊として出発した。
 「軍は残存兵力をもって波名城、八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里の線以南、喜屋武方面地区を占領し、努めて多くの敵兵力を牽制抑留するとともに、出血を強要する。陸正面においては、八重瀬、与座の両高地に全力を投入して抗戦する」との計画をたて、海軍部隊の部署としては、
 「軍占領地域の中央部地区に位置し、軍の総予備となる」と指示した。
 つまり、陸軍各隊の補充要員ということで、独立した作戦行動は、期待されないことになった。
 撤退については、「企画を秘匿しつつ現戦線を離脱し、一挙に喜屋武方面陣地に後退することを主義とするが、有力な一部を各要線に残置して、地域的持久抵抗を行う。第一線主力の撤退時機はX日(五月二十九日予定とする」との方針が示された。

 海軍部隊は、二十六日、与座岳の南二キロの真栄平に移動した。真栄平は、軍展開地域のほぼ中央部に当り、撤退指示に基づき、予備兵力の位置として適当だと判断したようである。
 撤退に際し、携行困難な重火器類の大部は破壊された。
 ところが、この撤退が、「過早後退」として問題になった。軍の退却計画では、海軍部隊の撤退は、六月二日ころと予定し、軍から命令することになっていたのに、海軍部隊は命令電報を誤解した、とされている。
 軍は、この状況を知って驚き、五月二十八日、小禄の旧陣地へ戻るよう海軍部隊に命令した。沖方根司令官大田少将は、命令を誤解していたことを知って、直ちに小禄の旧陣地に復帰した。
 この週早後退と旧陣地復帰は、大田司令官にとって、海軍の名誉に関する重大問題として、深刻にうけとられたようだ。
 命令の誤解がどうして起こったか。
おそらく、X日(二十九日)プラス三日を、マイナス三日ととったとすれば、軍が予定したといわれる六月二日を、五月二十六日と誤解したことが考えられる。

 また、「海軍部隊は現陣地のほか、有力な一部をもって長堂(津嘉山南西一キロ)西方高地を占領し、軍主力の後退を援護する。後退の時期は、全般の作戦推移を考察し、軍司令官が決定する」との指示があるが、「沖縄根拠地連合陸戦戦闘概報第八号」の中で、大田司令官は、「二十五日、第三十二軍命令二ヨリ斬込隊九組ヲ出発セシメ、津嘉山警備隊長ノ指揮下二人ラシム」と報告しているので、おそらく、右の軍命令を以って、海軍主力の撤退命令と解釈したのかも知れない。
 なぜなら、海軍主力の撤退時機については明示されてなかったからである。
 かくて旧陣地復帰後の海軍部隊は、小禄地区に取り残され、孤立することとなった。
 六月二日、米軍約四〇〇名が真玉橋を通って豊見城に侵入してきた。海軍部隊は、守備背面から侵入した、これらの敵を撃退したが、六月四日、水陸両用戦車約一〇〇輌、兵員約六〇〇の強力な米軍部隊が小禄の海岸正面から上陸してきた。
 そこで、腹背から米軍の攻撃をうけることになった。陸戦隊員は、強力な敵に対して、夜間の艇身斬込みで対応した。
 海軍部隊が小禄陣地を固守することは、このとき全軍の作戦にとって、無意味であった。六月五日、牛島司令官は、海軍部隊に、南部への後退命令を摩文仁から出したが、大田司令官は、「海軍は既に包囲せられ、撤退不可能のため、小禄地区で最後まで闘う」旨の電文で南部後退を拒絶した。

 瀬長島の海軍砲台が米軍を脊射して、海軍主力の戦闘に協カする中で、六日タ、「戦況、切迫セリ、小官ノ報告ハ本電ヲ以テ此処二一先ヅ終止符ヲ打ツベキ時機に到達シタルモノト判断ス、御了承アリ度」と、軍司令部に打電した。
 その後も約一週間、海軍は戦闘を続行している。
 このときの戦闘の激しさを、米軍は次のように記録している。

   沖縄駐屯の海軍の全兵力は一万。だが、正規の海軍軍人は、その三分の一たらずで、
  その他は大部分現地召集や防衛隊員であてていた。そして設営隊、航空隊、海上艇身
  隊、その他の部隊要員からなる根拠地隊も、陸上の訓練をうけたのはお義理程度の申
  しわけ的な訓練でしかなかった。ニ、三百人たらずで、しかも、その訓練というのも、
  俄仕込みのものであった。

   首里戦線陥落の後、日本軍が小禄半島の防衛にでたのは、気まぐれといってもよい
  ほど、まったく偶然の機会からであった。
   残りの海軍はそのまま前線に配属された。残りの海軍はそのままま第三七魚雷整備
  隊などは、兵の方が小銃の数より三倍も多いしまつで、五月の末まで首里、与那原戦
  線で戦い、完全に壊滅させられてしまったのである。
   小禄半島における十日間の戦闘は、十分な訓練もうけていない軍隊が、装備も標準
  以下、しかもいつかは勝つという信念に燃え、地下陣地に兵力以上の機関銃をかかえ、
  しかも米軍に最大の損害をあたえるためには、そこでよろこんで死につくという日本
  兵の物語りであった。

   日本軍の防衛線には、手薄なところというのはなかった。海兵隊が進めば進むほど、
  それは機関銃や二〇ミリ、四〇ミリ高角砲に向かって進むようなもので、遅々として
  渉らなかった。これは小禄ではどの戦線でも、おなじことで、第四海兵連隊も第二十
  二海兵連隊も同様に織烈な砲火をあびていた。

  小禄の十日間の戦闘で、海兵隊の損害は、死傷者数一千六百八名。これは第三水陸
  両用軍が首里戦線で、日本軍との戦闘でこうむった被害に比べると、はるかに大きか
  った。

                      (『日米最後の戦闘』外間正四郎訳より)

 海軍は海軍独自の方法で戦ったわけである。
 六月六日夜、大田司令官は海軍次官あてに打電した。

  沖縄県民ノ実情二関シテハ、県知事ヨリ報告セラルベキモ、県ニハ既二通信力ナク、
  三十二軍司令部モ、又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付、本職、県知事ノ依頼ヲ受ケ
  タル二非ザレドモ、現状ヲ看過スルニ忍ビズ、之ニ代ッテ緊急御通知申上グ。
  沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来、陸海軍方面トモ、防衛戦闘ニ専念シ、県民ニ関シテハ、
  殆ド顧ミルニ暇ナカリキ。然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ、県民ハ、青壮年ノ全
  部ヲ防衛召集ニ捧ゲ、残ル老幼婦女子ノミガ、相次グ砲爆撃ニ家屋ト財産ノ全部ヲ焼
  却セラレ、僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難、尚、砲爆撃下ヲ
  サマヨイ、風雨ニ曝サレツツ、乏シキ生活ニ甘ジアリタリ。
  而モ、若キ婦人ハ率先、軍ニ身ヲ捧ゲ、看護婦、炊事婦ハモトヨリ、砲弾運ビ、艇身
  斬込隊スラ申出ルモノアリ。
  所詮、敵来リナバ、老人子供ハ殺サルベク、婦女子ハ後方ニ連ビ去ラレテ毒牙ニ供セ
  ラルベシトテ、親子生別レ、娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ。
  看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ、衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ共ニサマ
  ヨウ、真面目ニシテ、一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ。
  更ニ、軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ、自給自足、夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住民地区ヲ
  指定セラレ、輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ。
  之ヲ要スルニ陸海軍、沖縄ニ進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約ヲ強要セラレ
  テ御奉公ノ一念ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ(解読不明)(ママ)報ワレルコトナクシテ、本戦闘ノ末
  期ヲ迎エ、沖縄島ハ実状形容スベクモナシ。一木一草、焦土ト化セン。糧食六月一杯
  ヲ支フルノミナリト謂フ。
  沖縄県民、斯ク戦ヘり。
  県民ニ対シ後世、特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

 この電文が、のちに沖縄県民を泣かせたのである。
 これを、参謀次長と第十方面軍司令官にあてた牛島軍司令官の訣別電報と、比較してみ
る。
 六月十八日、摩文仁の洞窟司令部から打電した、軍司令官の電文はつぎの通りである。

  大命ヲ奉ジ挙軍醜敵撃滅ノ一念二徹シ、勇戦敢闘以後ニ三ヵ月、全軍将兵鬼神ノ奮戦
  力闘ニモカカワラズ、陸海空ヲ圧スル敵ノ物量制シ難ク戦局マサニ最後ノ関頭ニ直面
  セリ。麿下部隊本島進駐以来、現地同胞ノ献身的協力ノモト二鋭意作戦準備二邁進シ
  来タリ。敵ヲ迎ウルニアタッテハ帝国陸海軍航空部隊ト相呼応シ、将兵等シク皇土沖
  縄防衛ノ完壁ヲ期シタルモ、満、不敏不徳ノ致ストコロ事志ト違ヒ、今ヤ沖縄本島ヲ
  敵手ニ委セントシ、負荷ノ重任ヲ継続スル能ハザル二至レリ。
   上、陛下ニ対シ奉り、下、国民ニ対シ、真ニ申訳ナシ。事ココニイタレル以上、残
  存手兵ヲ提ゲ、最後ノ一戦ヲ展開シ、阿修羅トナリテ最後ノ奮戦ヲナサン所存ナルモ、
  唯々重任ヲ果タシエザリシヲ思イ、長恨干歳ニ尽キルナシ。
  最後ノ決闘ニアタリ、スデニ散華セル麿下将兵ノ英霊ト共ニ皇室ノ弥栄ヲ祈念シ奉り、
  皇軍ノ必勝ヲ確信シツツ、全員アルイハ護國ノ鬼トナリテ敵ノ我ガ本土来冠ヲ破催シ、
  アルイハ神風トナリテ天翔り必勝戦二馳セ参ズベキ所存ナリ。戦雲碧々タル洋上、尚
  小官統率下ノ離島各隊アリ、何卒宜敷ク御指導賜り度、切ニ御願ヒ申上グ、ココニ従
  来ノ御指導、御懇情ナラビニ作戦協力ニ任ゼラレタル各上司ナラビニ各兵団ニ対シ深
  甚ナル謝意ヲ表ス。ハルカニ微衷ヲ披歴シ、以テ訣別ノ辞トス。

 右は、整った文章である。しかし、それは、あくまで「儀式の文章」である。それとくらべて、海軍の大田実少将の電文は、文脈が乱れている。しかし、それは文章といったものではない。文章をこえた血の叫びといったようなものである。

 六月十一日、沖縄方面根拠地司令部の七四高地は、包囲攻撃をうけた。
 このとき、大田司令官は、摩文仁の第三十二軍参謀長あてに、「敵後方ヲ撹乱又ハ遊撃戟ヲ遂行ノタメ、相当数ノ将兵ヲ残置ス、右、将来ノタメ一言申シ残ス次第ナリ」と通報している。
 大田司令官は、敵の包囲攻撃をうけた司令部陣地から、遊撃戦を命じて、多数の部下将兵を脱出させたのである。
 これは一見なんでもない処置のようであるが、ここに、大田司令官の面目が躍如としている。「敵後方ヲ撹乱又ハ遊撃戦ヲ遂行ノタメ…」というのは、いちおう筋の通った理由である。だが、「相当数ノ将兵ヲ残置ス」というのが、ほんとの目的である。
 「残置」とは、司令部と一緒に玉砕させずに、兵力を残しておくという意味だが、何の装備もない兵隊を、敵の戦車や銃火器の犠牲にしたり、ただ自決を命じたりする方法をあえて取らなかった、そのための処置である。
 住民の話によると、戦争の末期に、小禄を死守するはずの海軍陸戦隊員が南部戦場に溢れてきた。中には五〇の坂に手のとどく老兵も相当おり、武器を持たないで、海軍用のビスケットを背負袋に一杯詰めていた、ということである。
 つまり、大田司令官の「残置」という処置で、小禄陣地を脱出してきた兵隊で、その大半は現地召集兵であった。
 「右、将来ノタメ一言申シ残ス次第ナリ」とは、これらの兵たちが脱走兵と誤解されないようにとの配慮であったわけだ。それは、敢闘せよ、だが生きられるなら生きよ、という配慮であったと解釈してよいようにおもわれる。
 そして、司令部の中核となる幹部要員だけが、司令部壕で自決を遂げたのである。

 六月十一日夜、大田少将は、牛島司令官あてに、「敵戦車群ハ、我ガ司令部洞窟ヲ攻撃中ナリ、根拠地隊ハ、今十一日二十三時三十分、玉砕ス。従前ノ厚誼ヲ謝シ、貴軍ノ健闘ヲ祈ル」旨、訣別電を打った。
 いま、大田海軍少将とその幕僚たちが自決した豊見城村の海軍壕は、戦跡名所の一つとなって、訪れる人があとを絶たない。 (おおた・りょうはく)

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沖縄大虐殺 (太田良博著作集③『戦争への反省』より)

             太田良博
                                                  ホームへ
 
   (管理人注:未発表原稿で執筆年代不明、沖縄の日本復帰〔1972年〕直後かと思われる)        
                                                 
 沖縄戦では、日本兵による住民虐殺が、これまでいろいろ問題にされてきた。だが、米軍による虐殺は、戦争の名目の下にほとんど問題にされていない。もちろん、戦場とはいえ、不当な虐殺は問題にされるべきであり、それが日本軍によってなされた行為であれ、米軍によるものであれ、とくに区別されるべきではない。ただ、日本兵による住民虐殺だけが問題とされ、米軍には不当な虐殺行為がまったくなかった、米軍による殺人行為は、戦闘行為の一部であった。「戦争だから仕方がなかった」という考えかたは考えなおしてみる必要がある。
 沖縄戦における住民の犠牲は、その正確な数字はつかめていない。調査によって、多少の誤差があるが、とにかく、十数万とみられている。もちろん、死んだ人の数である。沖縄戦で死んだ住民は、すべて「戦死者」となっている。この「戦死」という言葉には問題がある。「戦闘の結果、死んだ者」と解釈されるからである。だが、住民の多くは、「殺さなければ、殺される」という戦場の急迫した相対関係のなかで殺されたのではないことは、住民の大半がどういう状況のなかで殺されたか、という事実を知れば、明らかである。

 沖縄戦で最大の激戦は、首里の軍司令部が陥落するまでの期間で、とくに浦添や首里地区は、地形がすっかり変わるほどの砲弾をうけているが、その期間での、住民の被害はそれほど大きくはない。みんな洞窟のなかにかくれていたからである。日本軍は、その戦闘で壊滅的な打撃をうけ、首里陥落とともに、日本軍の組織的抵抗は終わっている。軍司令部が沖縄南端の摩文仁丘に移動した時点から、日本軍は、指揮系統も滅裂で、いわば、その実態は、敗残兵の集団としか解釈のしようのないものだった。これらの敗残兵は、洞窟のなかにかくれていた住民のなかにまぎれこんだのである。米軍から見れば、首里を捨てて南部に敗走した日本軍を追っての戦闘は、残敵掃討戦でしかなかった。

 この残敵掃計戦で、住民の大半が殺されたのである。それが、正当な戦闘行為によるものでなかったことは、住民がまったく無抵抗の状況のなかでおこなわれたという事実だけで立証できるのである。住民はみんな穴のなかにかくれていたのである。その洞窟に向かって、拡声器で「出てこい」とがなる。こわくて出て行かないと、火炎放射器で焼き払ったり、ガス性の特殊爆弾を投げ入れて殺したりする。また、住民が安全な場所を求めて、南へ、南へと移動する。洞穴を出て、つぎの洞穴に移ろうとする,すると、偵察のへリコプターの指示で艦砲の集中砲火を浴びる。住民と兵の見さかいがなく、とにかく、地上に動くものはすべて標的にされた。沖縄戦で、南部を最大の激戦地とするのはまちがいで、南部の戦場は、勝ち誇った米軍による一方的な大虐殺の場所であったのである。首里陥落で、勝敗はすでに決定的であり、米軍のやり方次第では、あれだけの住民の犠牲はなくてすんだはずである。とにかく住民の犠牲の大半が、日本敗残兵に対する掃討戦のなかで生じたということに、沖縄戦を考える場合の新たな視点をおくべきである。この沖縄島南部戦場における米軍の行為は、もし本土上陸作戦がおこなわれた場合の、戦闘様相の予兆ともなりえたもので、また、実際に、その後のべトナム戦争で再現されたものである。沖縄戦で、米兵に不当に殺された話はいくらでもあるが、これまでの戦記や証言集で、その視点から編集されたものはない。反米、親米に関係なく、事実は事実として記録すべきである。

 また、終戦から日本復帰にいたる米軍政時代における米兵の犯罪による住民の犠牲も、記録すれば大変な量にのぼるだろう。日本兵による住民虐殺は、限られた事件とはいえ、「友軍」と信じていた日本兵による犯行だっただけに、住民の不信と怒りが強烈なものとなったのである。沖縄住民が、戦争に対して、米軍基地や自衛隊の存在に対して、ぬぐい去れないある感情をいだいていることは、沖縄戦の実態を知れば、うなずけることで、この感情は、国防の論理だけではいやされないものである。
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『鉄の暴風』     悲劇の離島  (1950年刊行『鉄の暴風』の改訂版・【1980年】より)             

       一、集 団 自 決
                                                  ホームへ 
          1   

 設営隊の球一六七〇部隊(約一個大隊、兵員一千人)が引揚げてから、慶良間列島の渡嘉敷島には、陸士出身の若い赤松大尉を隊長とする、海上特攻隊百三十人と、整備兵百二十人、島内の青壮年で組織された防衛隊員七十人、設営隊転進後配備された朝鮮人軍夫約二千人、それに通信隊員若干名が駐屯していた。この劣勢な戦力に、男女青年団、婦人会、翼賛壮年団員などが参加した。三月二十五日、未明、阿波連岬、渡嘉敷の西海岸、座間味島方面に、はじめて艦砲がうち込まれ同日、慶良間列島中島の阿嘉島に、米軍が上陸した。これが沖縄戦におげる最初の上陸であった。

 渡嘉敷島の入江や谷深くに舟艇をかくして、待機していた日本軍の船舶特攻隊は急遽出撃準備をした。米軍の斥候らしいものが、トカクシ(ママ)山と阿波連山に、みとめられた日の朝まだき、艦砲の音をききつつ、午前四時、防衛隊員協力の下に、渡嘉敷から五十隻、阿波連から三十隻の舟艇がおろされた。それにエンジンを取りつけ、大型爆弾を二発宛抱えた人間魚雷の特攻隊員が一人ずつ乗り込んだ。赤松隊長もこの特攻隊を指揮して、米艦に突入することになっていた。ところが、隊長は陣地の壕深く潜んで動こうともしなかった。出撃時間は、刻々に経過していく。赤松の陣地に連絡兵がさし向けられたが、彼は、「もう遅い、かえって企図が暴露するばかりだ」という理由で出撃中止を命じた。舟艇は彼の命令で爆破された。明らかにこの「行きて帰らざる」決死行を拒否したのである。特攻隊員たちは出撃の機会を失い、切歯扼腕したが、中には、ひそかに出撃の希望をつなごうとして舟艇を残したのもいた。それも夜明けと共に空襲されて全滅し、完全に彼らは本来の任務をとかれてしまった。翌二十六日の午前六時頃、米軍の一部が渡嘉敷島の阿波連、トカクシ(ママ)、渡嘉敷の各海岸に上陸した。住民はいち早く各部落の待避壕に避難し、守備軍は、渡嘉敷島の西北端、恩納河原附近の西山A高地に移動したが、移動完了とともに赤松大尉は、島の駐在巡査を通じて、部落民に対し「住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集結せよ」と、命令を発した。さらに、住民に対する赤松大尉の伝言として「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」ということも駐在巡査から伝えられた。

 軍が避難しろという、西山A高地の一帯、恩納河原附近は、いざという時に最も安全だと折紙をつけられた要害の地で、住民もそれを知っていた。
 住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日のタ刻までに、大半は避難を終え軍陣地附近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入口に立ちはだかって「住民はこの壕に入るべからず」と厳しく身を構え、住民達をにらみつけていた。あっけにとられた住民達は、すごすごと高地の麓の恩納河原に下り、思い思いに、自然の洞窟を利用したり、山蔭や、谷底の深みや、岩石の硬い谷川の附近に、竹をきって仮小屋をつくった。
 その翌日、再び、赤松大尉から、意外な命令が出された。「住民は、速やかに、軍陣地対近を去り、渡嘉敷に避難しろ」と言い出したのである。渡嘉敷には既に米軍が上陸している。それに二十八日には、米軍上陸地点においては、迫撃砲による物凄い集団射撃が行われていた。渡嘉敷方面は、迫撃砲の射撃があって危険地帯であるとの理由で、村の代表たちは、恩納河原に踏みとどまることを極力主張した。

 同じ日に、恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。
「こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する」というのである。
 この悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わずかに五日目だった。米軍の迫撃砲による攻撃は、西山A高地の日本軍陣地に迫り、恩納河原の住民区も脅威下にさらされそうになった。いよいよあらゆる客観情勢が、のっぴきならぬものとなった。迫撃砲が吠えだした。最後まで戦うと言った、日本軍の陣地からは、一発の応射もなく安全な地下壕から、谷底に追いやられた住民の、危険は刻々に追ってきた。住民たちは死場所を選んで、各親族同士が一塊り一塊りになって、集まった。手榴弾を手にした族長や家長が「みんな、笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手糟弾の周囲に、ニ、三十人が集まった。
 住民には自決用として、三十二発の手瑠弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。

 手瑠弾は、あちこちで爆発した。轟然たる不気味な響音は、次々と正谷間に、こだました。瞬時にして、――男、女、老人、子供、嬰児――の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は、互いに梶棒で、うち合ったり、剃刀で、自らの頸部を切ったり、鍬で、親しいものの頭を、叩き割ったりして、世にも恐ろしい状景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも、同時に起り、恩納河原の谷川の水は、ために血にそまっていた。
 古波蔵村長も一家親族を率いて、最期の場にのぞんだ。手瑠弾の栓を抜いたがどうしても爆発しなかった。彼は自決を、思いとどまった。そのうち米軍の迫撃砲弾が飛んできて、生き残ったものは混乱状態におち入り、自決を決意していた人たちの間に、統制が失われてしまった。そのとき死んだのが三百二十九人、そのほかに迫撃砲を喰つた戦死者が三十二人であった。手瑠弾の不発で、死をまぬかれたのが、渡嘉敷部落が百二十六人、阿波連部落が二百三人、前島部落民が七人であった。
 この恨みの地、恩納河原を、今でも島の人たちは玉砕場と称している。かつて可愛い鹿たちが島の幽遠な森をぬけて、おどおどとした目つきで、水を呑みに降り、或は軽快に駈け廼ったこの辺り、恩納河原の谷間は、かくして血にそめられ、住民にとっては、永遠に忘れることのできない恨みの地となったのである。

 恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査も一緒だったが、彼は、「自分は住民の最期を見とどけて、軍に報告してから死ぬ」といって遂に自決しなかった。日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した。

 恩納河原の集団自決で志を得なかった、渡嘉敷村長は、途方に暮れてしまったが、軍陣地に行った。村民も知らず知らずのうちに、また軍陣地の近くにい(虫偏に胃という字)集していた。赤松は村民の騒々しい声を耳にして再び壕から姿を現わし「ここは軍陣地だ、村民が集まるところではない、陣地が暴露するぞ」と荒々しくどなりつけた。しかたなく住民は、日本軍陣地をはなれて谷底に降り、三日間飲まず喰わずでさ迷った。乾パンや生米を噛り、赤子には生米を噛んで、その汁を与えたりした。水だけ飲むこともあった。張りつめていた気力が、急に体から抜け、山峡の道を歩む足はふらふらと浮いていた。迷い歩いたあげく、住民はふたたびもとの恩納河原に集結した。無意識のうちにみんなの足がそこに向いて行った。あの忌わしい自決の場所、しかしそこには食糧がいくらか残っていることを誰も知っていたからだ。村民はそこで一応解散した。その頃列島海峡には、飛行艇約百五十隻が常駐、駆逐艦二隻、艦載機二〇機ばかりを搭載した小型空母一隻が周辺に屯していた。巡洋艦は時々、タ刻にやってきて食糧を補給したりして、直ぐどこかへ引返した。輸送船は絶えず海峡に出入していた。とにかく 大小の艦船総数約一三〇隻が、慶良間海峡には常時碇泊していた。艦隊は、昼間は海峡に碇泊して戦闘準備をしたり、本島攻撃に出たりするが、夜間は日本の特攻機を避けて、大型艦船はどこがへ忽然と消えて行った。昼間海峡の艦船からはレコード音楽が拡声機を通じてはっきりと流れてくる。小高い所からは通信兵の手旗信号が望められる位の近距離にあった。細長い沖縄本島の遥か残波岬から、 喜屋武岬に至る対岸は、舷を列ねた鉄の浮城に囲ぎょうされている。そして本島攻撃の艦砲の音は数秒おきに轟いて、この小さい島を揺るがせていた。四月一日頃、渡嘉敷島に上陸していた一部米軍は一応撤退し、それからは毎日、午後になると舟艇二、三隻でどこかの海岸に上陸し、島の様子を偵察しては即日引揚げるのだった。

 そのころから渡嘉敷島住民は漸く平穏を取りもどした。空襲もなかった。弾も落ちなかった。米軍からしばし放任されていたのである。しかし死にまさる住民の困苦は降伏の日までつづいた。住民はいよいよ飢餓線上を、さまよわねばならなくなったのである。
 それに、米軍に占領された国頭の伊江島から、伊江島住民が二千余人、渡嘉敷島の東端の高地に、米軍艦によって送られて来た。島の農作物は忽ちにして喰いつくされ、人々は野草や、海草や、貝類を、あさって食べるようになった。その間赤松大尉からは独断的な命令が次々と出された。四月十五日、住民食糧の五〇%を、軍に供出せよという、食糧の強制徴発命令があり、違反者は銃殺に処すという罰則が伝えられた。
 住民の食糧の半分はかくして、防衛隊員や朝鮮人軍夫等により陣地に持ち運ばれた。
 日本軍は食糧の徴発命令のほかに、家畜類の捕獲、屠殺を禁じ、これも違反者は銃殺刑に処す、ということであった。

 ある日のこと、既に捕虜になっていた伊江島住民の中から、若い女五人に、男一人が米軍から選ばれて、赤松の陣地に降伏勧告状を持っていくことになった。彼らは渡嘉敷村民とは隔絶されていたため島の内情がわからない。それで白昼堂々と白旗をかかげて、海岸づたいに赤松の陣地に向った。彼らは日本軍陣地につくと直ちに捕縛されて各自一つずつ穴を掘ることを命ぜられた。それがすむと、後手にしばられて、穴を前にして端坐させられた。赤松は彼らの処刑を命じて、自らは壕の中にはいってしまった。日本刀を抜き放った一人の下士官が「言いのこすことはないか」と聞いた。彼らは力なく首を横に振った。三人の女が、歌を、うたわせてくれと言った。「よし、歌え」と言いおわらぬうちに女たちは荘重な「海ゆかば」の曲をうたった。この若い男女六人は遂に帰らなかった。 それから渡嘉敷島の住民で、十五、六歳の少年二人が日本軍によって銃殺された。二人の少年は思納河原の玉砕のときに、負傷し、人事不省に陥ったが、のちに意識を取りもどして、彷徨しているうちに、米軍にとらわれ、降伏勧告のために赤松の陣地にやられたのが、運のつきであった。彼らは、自決の場所から逃げ出したという理由と、米軍に投降し、米軍に意を通じたという理由で処刑されたのである。
 その他防衛隊員七人が命令違反のかどで斬られ、また島尻郡豊見城村出身の渡嘉敷国民学校訓導大城徳安は注意人物というので、陣地にひっぱられて、斬首された。

 日本軍の将校をのぞいては、島におるものは、兵も、民も、やせさらばえて、全神経を食物に集中するようになっていた。老人たちは、栄養失調でつぎつぎにたおれた。また食糧をあさって山野をさまよっているうちに、日本軍の斬込みに備えて、米軍が、山中の所々に、敷設した地雷に、ふれて死ぬものも少なからずいた。その間、舟艇を爆破されて、特攻出撃の機会を失っていた決死隊の少尉達は、赤松隊長と離れてそれぞれ別行動をとり、五、六人宛の決死隊を組んで独断で、ときどき上陸してくる、米軍の監視兵のところに、斬込みに行ったりして、地雷にふれ、迫撃砲の餌食となって相ついで戦死した。
 こんな状態が七月までつづいた。住民の食生活はいよいよ苦しくなった。じりじりと死の深淵に追いやられていくのを、坐視するに忍びず、遂に島の有志たちは集団投降の決意を固めて、十三日には七十人はかりの住民が投降した。
 それから渡嘉敷村長が米軍の指示に従い村民を壕から誘い出して、どしどし投降させた。

 七月十五日、米軍機から日本軍陣地の上空にビラが散布された。それにはボツダム宣言の要旨が述べられ、降伏は、矢尽き、刀折れたるものの取るべく賢明な途だ、という意味のことが書かれてあった。十七日には、防衛隊員が全部米軍に降伏し、十九日に到って初めて、日本軍は山の陣地を降りた。知念少尉が軍使として先頭に立ち、次いで赤松大尉以下が武装して米軍指定の場所に向った。彼は蒼白な顔をしていたが態度はあくまでも鷹揚だった。
 渡嘉敷国民学校跡で、渡嘉敷島の日本軍と、米軍との、降伏に関する最後の会談がなされた。その会談には、民間側からは只一人、国民学校の宇久校長が参席した。会談中、赤松大尉は、通訳のもどかしさを叱りつけたりした。会談は終った。日本軍の部隊降伏と武装解除ということになった。降伏式は、紳士的な方法で行われた。一人一人が武器を差し出して米軍に渡した。
 かくして、本島作戦と切離されていた渡嘉敷島戦線は、独特の様相と、経過を示しつつ、沖縄島の降伏におくれること一ヵ月近くの七月十九日に終幕した。

      2

 渡嘉敷島とともに座間味島は慶良間列島戦域における、沖縄戦最初の米軍上陸地である。 座間味島駐屯の将兵は約一干人余、一九四四年九月二十日に来島したもので、その中には、十二隻の舟艇を有する百人近くの爆雷特幹隊がいて、隊長は梅沢少佐、守備隊長は東京出身の小沢少佐だった。海上特攻用の舟艇は、座間味島に十二隻、阿嘉島に七、八隻あったが、いずれも遂に出撃しなかった。その他に、島の青壮年百人ばかりが防衛隊として守備にあたっていた。米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。しかし、住民が広場に集まってきた、ちょうど、その時、附近に艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手瑠弾を抱いて自決した。その数五十二人である。
 この自決のほか、砲弾の犠牲になったり、スパイの嫌疑をかけられて日本兵に殺されたりしたものを合せて、座間味島の犠牲者は約二百人である。日本軍は、米兵が上陸した頃、ニ、三カ所で歩哨戦を演じたことはあったが、最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降した。 
 梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきものと二人と不明死を遂げたことが判明した。
                 (注:最後の一行(斜字)は1980年改定版で削除された。)  (太田良博【おおたりょうはく】執筆)
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