柔道家村井顕八が大東流合気の武田惣角を絞め落とし合気道の植芝盛平を投げ飛ばす!

奥山龍峰旅日記 (1981年)
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http://www2.odn.ne.jp/meiqbudokan/mori14.html

◎柔道家村井顕八氏の実像は?
<敬称は略させて頂きます>

村井顕八は生没年不明。八光流誌『護身道』から僅かにその雄姿(八光流師範として演武をしている写真)と、村井のその後を物語るエピソードをいくつか拾う事が出来る。
以下、村井のエピソードを箇条書きにて紹介する。

①北海タイムスという地元新聞に武田惣角の記事が掲載された際、小樽高商の柔道部を背負っていた村井が、札幌にある惣角の宿舎を訪れ、得意の首〆で惣角を〆落としている。
※新聞紙上で惣角が柔道の悪口を言ったのが出来事の発端。『奥山龍峰旅日記』に記載有。
②その後、講道館本部付きとなった村井は、当時、同じく五段だった三船久蔵とも対戦、首〆で三船を〆落としている。その後、三船に義兄弟を強要し、契りを結んだと云われている。
※当時の三船は、自分を〆落とせる者はいない、と豪語していたそうである。
③植芝盛平と棒術対柔道の試合を行う。植芝は狭い場所で思うように棒を操れず村井五段に投げられる。
④村井、八段の折り、嘉納治五郎館長に段位を返上。単身満州に渡り馬賊の頭領となる。終戦の年の二月、銀行を通して東京の留守宅に二百万円もの巨額の金を送金している。
※当時の小学校の校長の月給が百五十円前後の時代。後に、平和条約の発効後、政府が海外送金の補償をする事となったので、宙に浮いていた大金は奥山龍峰を保証人に立てる事でその一部が村井の元に戻された。
⑤昭和三十年頃八光流師範となる。九十歳位まで板橋区で健在。(昭和三十年代末?)

●講道館柔道有段者として記録が残っている可能性が有る。又、大きな大会・公式の試合結果などの記録が発見されれば、氏の実力を客観的に推測出来る筈である。

●上記、①②③は村井本人が奥山龍峰に語ったものである様だ。つまり、客観的証拠が無く、証人もいない。
●④⑤は事実である事を奥山龍峰が確認し、客観的にその事実が証明されている。

★考察

『奥山龍峰旅日記』の初版は昭和三十三年。当時、武田惣角の名を知る者は現在よりも可成り少なかった筈。
武田惣角の名声と武勇伝、大東流合気柔術が広く知られる様になったのは、昭和50年以降。松田隆智氏の著作や合気ニュース等の影響が大きい。
当時、村井氏が惣角翁を〆落とした事を公言しても、その名声に箔が付く事は無かったであろう。従って、しばしば言われる、村井氏の「売名行為」という見方は的外れ。
現在、惣角無敗伝説を信じる者は多い。
「惣角が柔道に負けるワケがない」という見方は、晩年に不自由な躰で巨躯の柔道高段者と立ち会い、これを破った事が新聞に掲載される等の事実があった事にもよる。
今日、柔道というと、細かいルールに制約された中でチマチマとポイントを稼いで相手に勝つ、いわゆるスポーツ柔道のイメージが強いが、惣角の時代にはコンデ・コマ=前田光世の様な実戦柔道家も多く存在した筈である。
村井は明らかに他流試合を苦にしない実戦柔道家タイプであろう。後の名人三船十段とも互角以上の勝負を展開し、八段まで昇段した事が事実であるとすれば、その技量は前田光世に匹敵、或いは凌駕するのではないだろうか。


【記述の追加 H19.11.4】
村井の生年は明治22年(1889年)11月8日であることが後日判明した。
戦時中、つまり50代の半ばで既に講道館柔道八段であって、しかも、6歳年上の名人三船久蔵と同時期に五段であったという事実から、氏の並外れた技量が推測出来る。

【追記】H26.5.6

今回、『柔道年鑑』によって村井氏の段位について検証を試みた。
(『柔道年鑑』は国立国会図書館のサイトで閲覧出来ます)

●大正11年
村井顕八=三段
三船久蔵=六段
●大正14年
村井顕八=三段
三船久蔵=九段
●昭和14年
村井顕八=三段
三船久蔵=九段

ネット上では大正11年から昭和14年までの検証しか出来ないが、村井氏の講道館段位に関しては「三船氏と同時期に五段だった」というのは、明らかな間違いである。
三船氏が大正11年からたった3年で9段に昇段している事から、村井氏が昭和14年以降八段にスピード昇段した可能性もゼロではないと思うのだが・・・ネット上では検証不可能。

村井氏の段位については、今後も検証を継続して行きたいと思う。

    ↓写真は村井氏80歳代の雄姿

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E9%A1%95%E5%85%AB

村井顕八





移動先: 案内、 検索


村井 顕八(むらい けんぱち、或いは むらい あきらはち[1]、明治22年(1889年)11月8日?‐没年不明)は、北海道出身の柔道家(最終段位は八段)、後に八光流柔術に転じ師範となった。

旧制中学在学中に柔道参段を取得、明治末期、村井が北海道小樽商業高等学校の生徒だった頃、同校の柔道部に所属する傍ら、柔道場を開き指導していた。この頃、『小樽新聞』と『北海タイムス』に掲載された武田惣角の対談記事の中で、惣角の柔道を貶す発言が記されていたのを読み、札幌の惣角の宿泊先に行って詰問した。その場でも惣角が柔道を侮る発言をしたため、惣角と試合を行い、前絞めで上から惣角を絞め落とした。惣角は顕八戦以降、肌身離さず体中に武器を携帯するようになり、家族にも妄りに体を触らせることはなかったという。

その後、講道館に移った村井は三船久蔵(村井・三船とも当時は五段)と試合を行い、これも首絞めで勝ったという。

これらの試合について、のちに師の奥山龍峰(八光流開祖)が緘口令を布いたので、『奥山龍峰旅日記』で明らかにされるまで公表されなかった。

村井はその後に北米や、後世グレイシー柔術が発祥する南米に柔道を普及するなど八段まで昇段したが、段位を返上して講道館を辞去した。戦後、八光流柔術に入門し、昭和30年頃に師範を允許され、昭和33年には近々の渡仏、普及を予定していたという。

脚注[編集]

1.^ フランス語サイトに於ける日本の代表的な武道家十六名

参考文献[編集]
奥山龍峰 『奥山龍峰旅日記―八光流武勇伝』 八光塾本部、1958/1981。
奥山龍峰 『八光流雅懐編 護身簡法十八か条手解き』 八光塾本部。
鶴山晃瑞 『図解コーチ 合気道』 成美堂出版、1981。

http://www.daitouryu.com/japanese/column/jujutsu/col_shime.html

ページ >> 技法体系 >> 柔術 >> 藤下がりと絞業 >>


素手で敵を制することを目的とした剣の裏技


■ 藤下がりと絞業 ■
(ふじさがりとしめわざ)

 絞業の終局の目的は、敵の頚に絞め痕を残さず、仮死状態にして生け捕る事を目指したものである。しかし、一般に人間を絞殺死に至たらしめる場合、紐や電気コードやナイロンストッキング等が用いられ、被害者の頸には必ずその絞め痕が残る。絞殺は頸を絞めることによって呼吸困難に陥らせ、あるいは頸動脈を圧迫して血液の循環を疎外し、脳壊疽を起こさせるのがその目的であり、脳の酸欠状態に加え、壊疽が発生して脳が活動を停止することがその死因である。そして絞殺死体には絞め痕がくっきりと頸に残る。

 しかし頸に絞め痕を残さずに、死亡させたり、あるいは仮死状態に至たらしめる方法がある。これが柔術でいう「絞業」である。その絞業の中でも、他に群を抜いて特異なものが大東流合気之術で用いられる「藤下がり」である。藤下がりの「藤」は藤の花に由来し、業を掛けられた者の顔色が藤の花のような色に変化することから、この技法名称の由来に至った。

 さて、この絞業は一旦絞め落すと、その「蘇生術」(口伝)を知らない限り、敵を蘇生させる事は難しい。こうした状態を長時間放置すれば、死に至たらしめるからである。
 絞業は、蘇生術と背中合わせの表裏一体であり、その瀕死の状態から蘇生させるのは、絞業以上に高度な技術が要求される。

 また、この絞業に平行して研究されたものが、「頸固(くびがため)」の業であり、この業は敵の頸椎を固めた後に、この部分を「外す」という動作が加えられて完成する。この業は、敵の第三頸椎から第五頸椎を頸固する事で、第一頸椎と第二頸椎を外す業であり、頸動脈に圧迫を与えて敵を失神させる業である。
 これらの業は、現在大東流を研究している愛好者も意外に知らない業であり、この業を充分研究しておかなければ、敵を侮(あなど)って敗れる事がある。また、寝技から強引に持ち込む絞め技や頸固、腕固や脚固もそれから逃れる術を獲得しておかなけばならない。

 合気の特徴は、己の想念によって敵を呑み、その呑み込むイメージが、何処までも連続されていなければならない。この想念が途切れた時、名人は、名人と雖も、敵に心の裡側を見透かされ、たかが白帯風情の素人にも敗れる事がある。
 
 惣角あっさりと寝技と絞技に完敗しいるのである。
 『奥山龍峰旅日記』には、この場でのことを克明に書かいる。

 後に惣角は当時の反省として、村井氏を何処までも素人扱いして敗れた、痛恨の思いから、次の一節を残している。

 これが惣角の言う、「油断あれば、どんな達人でも、素人に敗れる。音無きに聞き、姿なきを見る。一見して相手を制し、戦わず勝ちをえる事が《合気》の極意なりき」であった。
 この事は、鶴山晃瑞著『図解コーチ・合気道』(成美堂出版)の冒頭にも記されていたが、いつの間にかこの本(大東流を説明した格調高い本であったが……)は絶版になってしまった。
 強気と、気位で押し切った惣角であったが、こうまで言わせるのは、余程自分自身に、侮りがあった事の反省であろう。
 この後、惣角はこの出来事の反省として、衣服に刃物を隠し(これは著者が曾て武田時宗先生から直接聞いた話である)、万一の場合はこれを用いるという作戦に出たという。

 そして奥山龍峰師は同書の中で、惣角の白河(福島県南部)での武士崩れの人足と、口論から喧華をし、「斬るに斬ったり三十六人」という一節で、「惣角は柔の人ではなく、剣の人であった」と述べている。
 つまり龍峰師の解釈によれば、剣や、その他の刃物を持たせれば、強いが、素手ではそんなに大した事が無かったと締め括っているのである。
 確かに、現実にもそんな人がいる。著者の経験から、素手では大した事はないのであるが、刃物を握らせると、突然、人が変わって獰猛になり、手がつけられないという人は、確かに居るものである。

 当時柔道五段の猛者でありながら、八光流にも属していた村井氏は、師匠である奥山龍峰師から「この事は絶対に他言するな」と口止めされるが、これは後になって『奥山龍峰旅日記』に詳しく記され、事の次第が漏洩する事になり、「大東流は、柔道の足許(あしもと)にも及ばぬ」という評論がなされる事になる。


大東流の絞業



▲大東流の絞業


 柔術は絞業による殺法を、組打(組討ち)の中で古くから研究してきた。同時にこれは入身から入る絞業へと発展する。入身から入る絞業の代表的なものは「藤下がり」であり、絞められて頭部が藤の花のような紫色になることからこの名称がついた。

 入身から入る絞業については、植芝系合気道や大東流柔術(一般には大東流○○会と名乗る団体)には絞業がないが、大東流が幕末の戦闘を下地として編纂して来た経緯から考えると、当然素肌武術といえども、絞業は存在していなければならない。生け捕った敵を、最初から絞業の形になるように研究されたのが、大東流独自の絞業である。

 多くの武道や古流柔術は某かの形(特に寝技)に持ち込んで、そこから絞業を掛けるのが普通であるが、大東流の絞業は、最初から絞めるか、一旦入身で取り込んで絞め業を掛ける業が編み出されている。
  例えば「襷絞め」とか「藤下がり」といわれる絞業である。これ等の業は、投げ、倒し、抑え込んで、絞めに入るという業ではない。一気に絞め落とすか、一旦入身に取り込んで技を掛けるようになっている。


藤下がり



▲藤下がり


 今、多くの大東流愛好者は、武田惣角の武勇伝にロマンを追い求め、あたかも自分が惣角になり切ったような錯覚を抱いて、それを練習しているのでは有るまいか。
 しかし惣角の足跡を訪ねると、その代書人として八光流柔術の創始者・奥山龍峰師や、生長の家初代会長の谷口雅春師らが居る。こうした人たちは、武田惣角と云う人物を単に誰もが惣角に対し、驚嘆し、没頭し、魅せられて傾倒していった人たちとは異なり、武田惣角像を側面から厳しい観察眼で見て居た人たちである。したがって武勇伝中に出てくる連戦連勝の事実とは異なり、負けがあった事も認めているのだ。

 大東流は「合気力貫」が出来て、初めて要をなす。これが出来ずに、単に柔術百十八箇条を暗記するように使えても、あるいはその他の高級技法が使えても、その業に持ち込む迄のプロセスが大事であり、合気を掛けずしてこれ等の技法は存在しない。
 また合気が存在しなければ、大東流を如何に持ち上げ、贔屓目にして考える惣角の武勇伝の押され、その凄さを自分に置き換えて錯覚してみたところで、所詮絵に描いた餅である。

 そして大東流百十八箇条は、ストリートファイトを考えた場合、既に時代遅れの所が有り、「骨董品の域」を否めない。
 こうした骨董品の域をでないと言う、現代の珍現象は、一部の傲慢なひと握りの大東流指導者が、登録商標に大東流を登録する等して、独占し、横領しているという観が否めない。

 大東流並びに西郷派大東流を志す各位は、現代のこうした珍現象に振り回される事なく、真摯な目で「合気」の実態を見つめ、その成就に日夜努力すべきである。
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コメント

No title

 はじめまして、武田惣角の故郷会津を取材して4作目、歴史小説「合気の武田惣角」を書いた池月映です。
 柔道家村井氏の絞め技に武田惣角が敗れた話は奥山氏の文献に語られているのですが、疑問も多い。
①二人の試合は誰も見ていない。
②奥山氏が村井氏に聞いたとしても、この著書には松平容保が惣角の裁判に出席したとか、格闘事件が白川郷など、荒唐無稽な記述がある。
③惣角は山形の三上富治、秋田の児玉高慶など日本トップクラスの柔道家を子供扱いで破っている。
④合気の技には絞め技を外し、相手を無力化する技術もあり、合気とは何かということが分かっていないのではないでしょうか。
⑤村井氏も立ち合い者がいて再戦すればよかっと思います。武術家は自分が一番強いと威張りたがる傾向があり、話が一人歩きしている感じがします。

2015年|12月|12日|21:45 |from 池月映| URL 【編集】

No title

はじめまして
コメントありがとうございます
村井先生VS武田先生の絞め落としエピソードですが

奥山先生だけでなく直接の弟子の鶴山先生も描かれていますので信憑性は高いかと思われます
息子の武田時宗先生にも言われていたことだというわけですし
それが嘘だというのならば武田側は村井を法律で名誉棄損で訴えればよいだけの話ですし
試合を申し込んで懲らしめればいいだけの話です

それを一切行わなかったのはそれが事実だと見られてもしょーがないですね

あと
惣角先生が柔道の専門家を子ども扱いしたという話ですが

せーぜー惣角先生が手首握らせてそれで合気上げしたとかそんな程度のエピソードとかいうのが
実態ではないでしょうかね?

私も合気は富木先生からレスリングの史上最強のレジェンド笹原正三が手首のグリップ外しのノウハウを教わったり
柔道の天才阿部 謙四郎が植芝盛平から教わるなど
合気には大変実用的なものがあると思います

ただし寝技を知らない素人は寝技を知っているグラップラーにしてやられるのは当然というか常識です

例として寝技を全く知らないアメリカ拳法のフルコンタクトプロ王者ベニーユキーデが
ホリオングレイシーに寝技に持ち込まれてボコボコにされたなど
そんな例は腐るほどあります

それらの敗因は多くの相手が寝技の対処を全く知らなかったからです

どのような合気の名人だろうと発勁の使い手だろうと寝技知らなきゃボコボコにされます

ですから村井先生のエピソードが事実だとしてもなんの不思議でもないと思いますよ

私は 

実際に合気関係者が戦った
リアルファイトとか見たことないので彼ら合気関係者の強さも正直疑わしいですしね

2015年|12月|13日|19:00 |from 西田大作| URL 【編集】

合気の武田惣角

 勝ち負けにこだわるのですね。当時村井氏の年齢と段位がよくわからない。正直いって奥村氏と村井氏の誇大宣伝は否定できない気がします。
 惣角ほどの人物が寝技に持ち込まれるとは考えにくい。仮に惣角が油断して負けたとしても、鬼の首を取ったかのように書いたりするのは格闘家としてどうなんでしょう。寝技を研究していなかったという指摘はあるとしても、その後の柔道家には村井氏のようなエピソードがあるのでしょうか。
 惣角に敗れた三上富治や児玉高慶は講道館のトップに勝っている。100キロ以上の体重ですよ。多くの柔道家と対戦して村井氏だけに負けたというのは理解しがたい。武田時宗氏も認めたとすることも、どこに欠陥があったのか不明ですね。胴上げ潰しか抜き合気の技で相手を無力化できるのに使わなかったか。使う暇がなかったのかわかりませんが、信じがたい。月刊「武道」に大東流琢磨会が合気之術を紹介していますので参考になると思います。

2015年|12月|19日|17:38 |from 池月映| URL 【編集】

No title

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E4%BD%9C%E6%AC%A1%E9%83%8E

三上富治(後、山形県警の師範となる。京都武徳殿で磯貝一、永岡秀一に勝ったこともある。また大東流合気柔術の武田惣角の弟子となった。)

http://www.ink.or.jp/~ykumagai/kendou/kazunokenndou.htm
武道の父児玉高慶について


 私が平成9年から11年までの3年間鹿角市立花輪第二中学校に勤務した機会に、大正から昭和初期にかけて、この学区の小枝指地区で全国的に名声をはせ、また、父親の熊谷良勝やその兄の乳井義博氏が子どもの頃に剣道練習に通ったという児玉道場についてまとめてみました。


 鹿角は、古くから尾去沢・小坂鉱山を中心に栄えた地区で、その豊かさに伴い剣道・柔道が大いに花を開いた歴史が残されております。

 
 小枝指村(現在の鹿角市花輪 小枝指地区)にあった児玉道場は、明治26年児玉猪太郎によって建立されました。














 その後、子息の児玉高慶氏(上写真)が館主を引き継ぎました。高慶氏は、相撲取りを思わせるような巨漢で、なおかつ大きな情熱を以てこの道場を発展させました。そして、小枝指村の大地主であったこともあり、金に糸目を付けずにこの道の振興につとめたことから、大正後半から昭和初期にかけて「村の作男も四段の腕前、日本一の武道の村」として全国的に有名になり、県の内外から入門するもの、実に千二百人余、有段者百数十名を数えたと記録されております。
 
 高慶氏は、この道場を引き継ぐに当たり、自分の技術向上のため、19歳の時に柔道の神様と謳われている加納治五郎氏が創立した講道館に入門し修業に励みました。また、22才の時には、昭和の剣聖と言われた高野佐三郎と日本を二分したもう一人の剣聖であった有信館本館の中山博道先生に師事、柔道と剣道の両道の修業に励み、共に五段の免状を授与されました。
 なお、中山博道氏や加納治五郎氏は、何回かこの児玉道場を訪れ、門下生に指導したと記録されております。右の写真は中心の中山博道先生を囲んで門下生の高慶氏(右端)が写っております。




 その後、大正十四年御前試合(昭和天皇摂政宮殿下当時)が実施され、全国各地から推薦された剣士が多数招集され、熱い戦いを繰りひろげられました。その中で、あれが秋田の児玉高慶かといわしめられる程の戦いを示し見事勝利を飾りました。

 しかし、無理がたたってか、人生これからという昭和4年6月、若干42歳にして高慶氏は病魔によりこの世を去り、結果として道場は閉鎖になってしまいました。その後の昭和28年に児玉高慶の門下生が師の功績を後世まで伝えるべく小枝指 円福寺境内に彰徳碑を建立しました。なお、その精神は現在まで脈々と受け継がれております。

   参考文献、秘録児玉道場(高瀬博編著)
http://blog.livedoor.jp/kazuno2008/archives/50759087.html

武道の父


ゆ~きやこんこん、あ~られやこんこん。いやあ、本当によく降るな。春の雪解けはまたまた先になりそう。こんにちは、八豚親父です。

八豚親父をはじめ、ここ鹿角は故郷をこよなく愛する人々でいっぱい。今回はそんな、故郷を愛した偉人について紹介するよ。

武道の父「児玉高慶(こだまこうけい)」氏。
児玉高慶 001
























































簡単に児玉高慶氏について紹介。
1888~1929。鹿角市花輪小枝指地区の地主の家に生まれ、私費を投じて道場「済美館」を経営、指導にあたる。柔道・剣道共に5段の腕前。柔道においては柔道の神様と謳われている加納治五郎氏が創立した講道館で修行。剣道は昭和の剣聖と言われた高野佐三郎と日本を二分したもう一人の剣聖であった有信館本館の中山博道先生に師事。それぞれから免状を受けている。門弟は1200名以上にもなり、有段者も百数十名。「村の作男も有段者」と言われており、当時、全国紙にて「日本一の武道村」という紹介をされた。児玉高慶 010



門弟たちと













児玉高慶 007



柔道訓練









児玉高慶 006


剣道訓練











大正14年、宮内省剣道特別試合(当時最も格式高い大会。出場資格は5段以上。)にて昭和天皇摂政宮殿下の御前で勝利を納め「あれが秋田の児玉か」と三度も言わしめたとされている。身長170㎝、体重120㎏の巨漢であった。
しかし子どもの頃は身体が小さく病弱で、尋常小学校の入学も2年遅れていた。それを心配した父が道場を開設し、高慶を鍛えたとされている。
児玉高慶 002







































これは手と足に米俵を1俵ずつ、それに背中に3俵担いで(合計約450㎏!)道場の周りを3周したときの写真。日々の鍛錬により心と体を鍛えていたんだ。実は八豚親父はこの小枝指地区のすぐそばに住んでいて、小さい頃から話を聞かされていたんだ。小学校にも大きな写真が飾られていて。今は道場はもう無いんだけど友達のおじいちゃんとかは門下生だという人もいるんだ。

八豚親父も格闘技を習っていたことがあるんだけど、児玉先生から習ってみたかったな。

武道の腕前とともに人々からの尊敬を集めていた理由はもう一つあるんだ。それは、人柄。これほどの達人になっても、決して驕ることなく、全ての人々に親切だったとされているんだ。村長も務めていて人々に責を押し付けることなく、とてもよく人々の声を聞いてくれたとされています。
「年貢はいつでもいいよ。辛くなったらいつでも言ってくれ。」
味噌を分けてもらえませんか。「うんうん。持って行け。」

こんなエピソードも。ある日歩いていると後ろから悲鳴が聞こえた。振り返ると牛が興奮して暴れまわっている。高慶氏はそれを見ると、両腕を大きく広げ牛を押さえつけると、マンホールの穴へ牛を落とした。このことについて雑誌にてインタビューされると「たまたま牛が小さかったからです。」と謙虚な発言しかしなかった。

武道の達人であり、人格者でもあったんだね。
そんな児玉高慶先生の教え。八豚親父も心に刻んで生きたいと思います。

一、声を出せ


一、礼儀を正せ


一、実行しろ

http://www2u.biglobe.ne.jp/gln/88/8891/8891onko/jinbutsu/j01/jinbutsu-06.htm

 
鹿角の近代人物伝
 




…… 武術の指導者、児玉道場主 ……
△児玉高慶   明治二十一年(1888)~昭和四年(1929)
 大正十四年五月、摂政宮殿下(昭和天皇)御臨席のもとに、宮内省において剣道特別 試合が催された。決勝に進んだのは山岡鉄舟の高弟で京都武術専門学校長西久保弘道と 児玉高慶であった。
 高慶は、日本一の剛剣と称された西久保得意の体当たりをはじきかえし、必勝の諸手 突きで優勝の栄冠を手にした。御台覧の殿下が「あれが秋田の児玉高慶か」と、三度も 仰せられたということである。
 
 児玉高慶は明治二十一年九月九日、豪農猪太郎の長子として柴内村小枝指に生まれた 。幼少のころは身体が弱く、小学校も一年遅れて入学するほどであった。父猪太郎は、 由緒ある武家の総領として心身を鍛えなければならない、と邸内に道場を建て、福永清 風・工藤祐将を招いて師とした。後、戊辰戦争で鬼桂オニカツラと恐れられた南部藩指南役桂 菅七郎を師に迎えている。
 
 平元小学校卒業後花輪高等小学校に進んだが、十三歳で父の急死にあい、後は専ら家 庭教師について勉学した。病弱だった身体も体重三十四貫(一二七キロ)、鋼鉄のよう な偉丈夫に鍛えあげられた。十六歳で上京し、学業の傍ら芝の町道場で修業し、十九歳 で加納治五郎の講道館に入門、二十二歳の時、中山博道の有信館に学び、柔剣道とも五 段精錬証となった(没後柔道教師を贈られる)。
 
 帰郷後、全く私費をもって児玉道場を開設し、青少年の指導に当たったが、秋田県内 外から名声を慕って入門する者が多く、実に千二百余名に及んでいる。その中の有段者 は百数十名を数え「村の作男も四段、日本一武道村」と報道された。かつて両手足に米 一俵ずつ、三俵を背負い、道場を二回りしたと伝えられている。氏は温厚篤実、単なる 武道の師に止まらず、広く人材を養成し、社会教育に 資すること大なるものがあった。
 昭和四年四十二歳の若さで急逝したが、長生きをしていたら、日本一の剣士となった ことであろう。
 
 夫人寿子は、石川寿次郎海軍中佐(日露戦争で戦死)の一人娘で、中山博道に師事し 、神道夢想流杖術の錬士となり、花輪・大館高等女学校において、杖術を指導した人であ る。

http://common3.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/115/115_042.html
碑の周辺(第29回)

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児玉高慶先生碑(花輪町小枝指)

天覧試合 諸手突きのお見事   ~"作男も四段・日本一の武道村"を築く~

◆りんごの里は剣の村

 晩秋の鹿角は、リンゴの里であった。ふじ、スターキングなどのとりいれがほとんど峠を越し、果樹園のすみに山と積まれた箱の積み出しに、おおわらわを呈していた。
 花輪町柴平地.区は、なかでも鹿角リンゴのメッカとして知られる。むかしこの村里には、もう一つ全国に知られた名物があった。"児玉道場"――そしてその余慶は「作男も四段の腕前」の評判をとり、日本一の武道村と称されたものである。

 花輪から国道二八二号線を十和田方向へ逆戻りしてゆくと、右にゆく枝道があり「小枝指(こえさし)入口」と書かれた粗末な案内板が立つ。そこを折れ、花輪線の無人踏切りを渡るとほどなく、小枝指の部落にたどりつく。
 児玉道場は、かつてここにあった。児玉家はいまは没落してなく、他人の手に渡った屋敷跡には、当時のおもかげをしのばす土蔵が残るだけである。


◆南部藩郷士の血筋

 坂道をのぼったところに、小枝山隆昌寺があった。坂が急で山門からはほとんど青空しかみえない。その青の一隅をわずかに掃いたような雲の白が流れるカンバスの上を、落葉を焚く一条の煙がよぎっていた。
 梵妻(だいこく)さんがせっせと境内を掃いていた。本堂わきの崖っぷちに一本の杉があり、その根方に里芋が散らばって乾されていたが、軽く目礼して杉の前の碑にカメラを向けようとすると、女の人はあわててその芋を片付けてくれた。

 <武道之父児玉高慶先生碑>

――平らべったい石を磨いた碑の面には、楷書とも隷書ともつかぬ風格ある字体でそう刻まれてある。
 昭和二十七年十月、高慶の二十七回忌に際し、郡内に住むかつて高慶の門人だった人たちが追善武道大会を催して師恩をしのび、その時の発議により二十八年五月に成ったものである。裏面の漢文で書かれた撰文の末尾に<門下一同叩頭九拝>と彫ってあった。
 かつて児玉道場に寄宿した高慶の剣友笹島武男の撰文は

<児玉家鹿角之豪族也>

で始まる。児玉家は徳川吉宗の時代、享保年間(一七一六~三六)からの旧家といわれ、のち南部藩桜庭氏(毛馬内)の給人にとりたてられた。百八十石の、郷士といった格である。自作田数町のほか小作数十を抱え、部落の西端れに砦のような大邸宅を構える大分限者でもあった。


◆"虚弱児"を克服

 児玉高慶は、明治二十一年九月九日、重陽の節句の佳日に、猪太郎、シノの長男として生をうけた。後年の一二〇キロもの巨体からは、とうてい想像も出来ぬほど、幼時は虚弱な子で、このため小学校へも遅れて九歳のときにあがっている。
 父猪太郎は、家門を継ぐべき長子の弱体に心を痛め、鍛錬の手段として武道を仕込むことを考えた。高慶が小学校へ入学した年、ちょうど日本は清国との戦争に勝ったので、その記念も兼ねて屋敷内に道場を建てた。これが児玉道場の始まりである。
 武具はもちろん、道産子の馬や当時やっと流行しだした鉄輪の自転車なども運動用として高慶に買って与えた。
 先生は猪太郎自身で、高慶やまだ幼い弟の敏朗までが竹刀を握らされ、はては作男や小作入の子弟まで道場に集められた。二、三年して熱が昂じると、花輪警察署長を退職した福永清風を招いて道場に住まわせ、いよいよ本格的な剣道の稽古が始まったのである。

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 花輪高等小学校に進んだ十三歳のとき、父が急逝し、高慶は中退して家督を継ぐ。かれは自宅に家庭教師を雇って勉強、かたわら剣道は旧南部藩指南役で鬼桂とおそれられた桂菅七郎正勝(戸田流、のち桂流を創始)や天心一刀流の工藤友太郎祐勝を道場に招いて、おこたらずに精進を続けた。
 そして花輪町の小旧島治右衛門道場へも通って、ますます腕を磨いた。


◆柔、剣道の二刀流

 明治三十九年、十九歳のとき初めて上京、この時は剣道にあらず、講道館の門を叩いて加納治五郎に柔道の教えを乞うたり本格的な剣道修業はそれから三年ののちで、有信館本部長中山博道についた。
 いっぽう郷里の道場は、日露戦勝記念、御大礼記念と、そのつど増改築され、最後は八十坪もの大きなものとなった。
 はじめ興武館、のち済美館と改め、一般には児玉道場の名で親しまれたが、この道場に学んだものは県内外を問わず千二百名もの多きにのぼり、しかも百数十名の有段者を生んだ。
 高慶は講道館、有信館での修業から帰ったのちも、毎年のように上京しては両館を訪ねて稽古を欠かすことがなく、柔道、剣道とも五段に昇進、教士(柔道は死後に追授)の称号を許されていた。
 高慶の戦歴のうちもっともはなばなしく伝えられるのは、大正十四年五月、宮内省における摂政宮殿下(今上陛下)の御前試合で、まず陸軍戸山学校の教官加藤文一に勝ち、ついで山岡鉄舟の高弟と令名をはせた京都武専校長・日本武徳会副会長西久保弘道(のち東京市長)を極意の諸手突きで破ったことであろう。
 西久保は体重一〇二キロ、その巨体をもってする体当りを十八番として荒技が怖れられていたが、高慶はそれを上廻わる一二八キロでがっちり受け止めたばかりか、逆にはじき返して相手のひるむところを諸手突きの早技に倒したのである。


◆必殺!突きと俵返し

 その突き技は、幼時から乗馬や自転車乗りで養われた巧徴柔熟な体質と運動神経とに備わったものであろう。あの巨体で鉄棒の大車輪までこなしたというから、当時としてはウルトラCの技倆の持ち主といえる。
 高慶の家の土間の栗の五寸角の柱は、かれが日常木刀で突きの稽古台としたため穴だらけとなり、四回も取替えたとか、道場の柱もことごとくささら立っていたという。
 なにしろ怪力ぶりは、両足に玄米一俵ずつ下駄のようにはき、三俵背負ったうえ両手に一俵ずつぶら下げて道場を二周できたとか、中山博道と神田を散歩していたとき素手で暴れ牛を取りおさえたとか、当時の雑誌「キング」に挿話が紹介されて有名になったものである。
 石黒敬七の『柔道千畳敷』には、敬七の実見として、大正十年ごろ高慶が講道館の紅白試合で、俵返しという秘技をもって同格の三段数人を続けざまに投げ飛ばしたことが書かれている。
 俵返しはまったく高慶の独創で、うつ伏せになっている相手のからだを頭の方からまわって抱きあげ、自分から倒れつつ相手を真うしろへ二メートルも投げつけるという技であった。

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 その人となりを撰文は

<…先生天成風ぼう不尋常体胖如山神円似玉剰気品高雅勢位亦高貴修文遠深練武周到…>

と綴っている。
 高慶はひとり武道奨励ばかりではなく、村のためにつくした功績もまた大きい。長く村会議員をつとめ、自費で道路普請をしたり、水火の罹災者を救済しとくに学校教育のために惜しまず財を投じた。
 小作人に対しても寛大で、小作料はどこの地主よりも格段に安かった。盆踊りには豪華な賞品を出し、村の盆踊りというよりは児玉の盆踊りとして近庇の人気を集めた。その他手届師や芝居の芸人を招いて娯楽にとぼしい村の人たちを慰め、有益な講演会なども催した。
 道場の寒稽古では、精勤者に毛布など当時の農民の家庭には思い及ばぬ賞与を与え、試合の賞品も豪華だったことから、いきおい武道に興味をおぼえる人が多くなり、これが"鹿角の剣道"振興の因となった。


◆鹿角と山口流の剣

 かつて少年剣道といえば、県南では角間川(昭和十年に全国優勝)と角館、北では花輪が全県の覇をきそったものだった。花輪がとくに強く「鹿角の白ばかま」と勇名をとどろかせた。
 鹿角の剣道は、さかのぼれば児玉高慶の師でもあった小田島治右衛門、さらには山口流をこの地にもたらした越中浪人西田猪助に突きあたる。この方面の研究は、無形文化財あかね染・紫根染を継承している花輪町駅前の栗山文一郎氏がくわしいが、氏の語るところによれば―
 文化年間(一八〇四~一八)に流浪の西田猪助(山口流皆伝八代目)が尾去沢の山相家川口氏に逗留中、川口家から毛馬内城下へ養子に行った浅沼郷左衛門とその友人勝股善左衛門(九代を継承)とに伝えたのが山口流剣法が鹿角に定着した始まりという。
 いっぽう花輪の南部藩中野氏の給人に関右平太があり、この人に一男三女があったが、一子良助は修業中に見込まれて岩手県七戸在浄法寺の名家に養子にいったため(のち相馬大作の片腕となって津軽候狙撃事件に加わった)、娘に勝股善左衛門の弟久米之助を迎えて右平太を継がせた。この関右平太がやがて山口流十代目となって道場を開いたのである。
 右平太の道場より出た俊才が小田島治右衛門であり、上京して神田お玉ガ池の千葉周作の道場振武館に三年間学び、帰郷して小田島道場を開いた。子陽之功は四十歳で没したが、榊原健吉の高弟とうたわれ、父子二代の剣豪、治右衛門は明治末期に花輪町長もつとめている。


◆門を出ずる俊才

 高慶は小田島道場晩期の門弟といえる。そして高慶の門からは、かつて全国高専剣道大会で個人優勝をなしとげた横田政行八段範士、日本大学主将として活躍した斎藤貞治七段、昭和十三、四年ごろ宮崎での神宮大会教士の部に出場し、惜しくも決勝で敗れたが実力日本一とうたわれた元二高師範の乳井義曜(よしてる)八段範士などそうそうたる剣客が巣立っている。
 また柔道では佐藤金之助八段を筆頭にロサンゼルスに渡って彼地で猛老ぶりを発揮した太田節三や佐藤信作、加藤庄一などの高段者を生んだ。
 弟高則はじめ親類一統でも巨漢児玉仁太、児玉正則(五女節子の婿)など有段者があり、嗣子高寿は東京高師出身で四段を許されている。
 高慶は昭和四年十月十五日、脳溢血のため急逝した。享年四十二歳、葬儀にはわざわざ東京から恩師中山博道も参列した。法名武教院天巌高慶宗道居士。
 なお夫人寿子は十和田町毛馬内出身で、日清戦争前夜、清国人になりすまし情報活動に挺身して殉難した烈士石川伍一の弟寿次郎(海軍中佐・日露戦争で戦死)の一人娘である。したがって作家石川達三とはいとこの間柄である。
 まれにみる女丈夫であり、高慶の死後は夫の衣鉢を継ぐべく中山博道に師事して神道夢想流杖術の皆伝を受け、杖術錬士として戦時中は花輪や大館の女学校、そして婦人会などで教えた。
 東京で老後を養っていたが、本年十一月に天寿をまっとうし不帰の人となった。


http://9315.teacup.com/amazon/bbs/47
惣角が函館を去ったのち、東北6県を巡遊し、各地で大東流を教えた。惣角の噂は更に
高まった。柔道界の強豪として京都武徳殿の柔道大会で、講道館の代表である永岡秀一、
磯貝一の二人を破った山形の三上富治や、日本一の強豪と言われ、米7俵(420キロ)
をぶら下げて歩く豪傑で秋田の児玉高慶などを一蹴したのである。

2015年|12月|29日|13:57 |from 西田大作| URL 【編集】

No title

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E9%A1%95%E5%85%AB
村井顕八





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村井 顕八(むらい けんぱち、或いは むらい あきらはち[1]、明治22年(1889年)11月8日?‐没年不明)は、北海道出身の柔道家(最終段位は八段)、後に八光流柔術に転じ師範となった。

旧制中学在学中に柔道参段を取得、明治末期、村井が北海道小樽商業高等学校の生徒だった頃、同校の柔道部に所属する傍ら、柔道場を開き指導していた。この頃、『小樽新聞』と『北海タイムス』に掲載された武田惣角の対談記事の中で、惣角の柔道を貶す発言が記されていたのを読み、札幌の惣角の宿泊先に行って詰問した。その場でも惣角が柔道を侮る発言をしたため、惣角と試合を行い、前絞めで上から惣角を絞め落とした。惣角は顕八戦以降、肌身離さず体中に武器を携帯するようになり、家族にも妄りに体を触らせることはなかったという。

その後、講道館に移った村井は三船久蔵(村井・三船とも当時は五段)と試合を行い、これも首絞めで勝ったという。

これらの試合について、のちに師の奥山龍峰(八光流開祖)が緘口令を布いたので、『奥山龍峰旅日記』で明らかにされるまで公表されなかった。

村井はその後に北米や、後世グレイシー柔術が発祥する南米に柔道を普及するなど八段まで昇段したが、段位を返上して講道館を辞去した。戦後、八光流柔術に入門し、昭和30年頃に師範を允許され、昭和33年には近々の渡仏、普及を予定していたという。

脚注[編集]

1.^ フランス語サイトに於ける日本の代表的な武道家十六名

参考文献[編集]
奥山龍峰 『奥山龍峰旅日記―八光流武勇伝』 八光塾本部、1958/1981。
奥山龍峰 『八光流雅懐編 護身簡法十八か条手解き』 八光塾本部。
鶴山晃瑞 『図解コーチ 合気道』 成美堂出版、1981。

http://www2.odn.ne.jp/meiqbudokan/mori14.html
◎柔道家村井顕八氏の実像は?
<敬称は略させて頂きます>

村井顕八は生没年不明。八光流誌『護身道』から僅かにその雄姿(八光流師範として演武をしている写真)と、村井のその後を物語るエピソードをいくつか拾う事が出来る。
以下、村井のエピソードを箇条書きにて紹介する。

①北海タイムスという地元新聞に武田惣角の記事が掲載された際、小樽高商の柔道部を背負っていた村井が、札幌にある惣角の宿舎を訪れ、得意の首〆で惣角を〆落としている。
※新聞紙上で惣角が柔道の悪口を言ったのが出来事の発端。『奥山龍峰旅日記』に記載有。
②その後、講道館本部付きとなった村井は、当時、同じく五段だった三船久蔵とも対戦、首〆で三船を〆落としている。その後、三船に義兄弟を強要し、契りを結んだと云われている。
※当時の三船は、自分を〆落とせる者はいない、と豪語していたそうである。
③植芝盛平と棒術対柔道の試合を行う。植芝は狭い場所で思うように棒を操れず村井五段に投げられる。
④村井、八段の折り、嘉納治五郎館長に段位を返上。単身満州に渡り馬賊の頭領となる。終戦の年の二月、銀行を通して東京の留守宅に二百万円もの巨額の金を送金している。
※当時の小学校の校長の月給が百五十円前後の時代。後に、平和条約の発効後、政府が海外送金の補償をする事となったので、宙に浮いていた大金は奥山龍峰を保証人に立てる事でその一部が村井の元に戻された。
⑤昭和三十年頃八光流師範となる。九十歳位まで板橋区で健在。(昭和三十年代末?)

●講道館柔道有段者として記録が残っている可能性が有る。又、大きな大会・公式の試合結果などの記録が発見されれば、氏の実力を客観的に推測出来る筈である。

●上記、①②③は村井本人が奥山龍峰に語ったものである様だ。つまり、客観的証拠が無く、証人もいない。
●④⑤は事実である事を奥山龍峰が確認し、客観的にその事実が証明されている。

★考察

『奥山龍峰旅日記』の初版は昭和三十三年。当時、武田惣角の名を知る者は現在よりも可成り少なかった筈。
武田惣角の名声と武勇伝、大東流合気柔術が広く知られる様になったのは、昭和50年以降。松田隆智氏の著作や合気ニュース等の影響が大きい。
当時、村井氏が惣角翁を〆落とした事を公言しても、その名声に箔が付く事は無かったであろう。従って、しばしば言われる、村井氏の「売名行為」という見方は的外れ。
現在、惣角無敗伝説を信じる者は多い。
「惣角が柔道に負けるワケがない」という見方は、晩年に不自由な躰で巨躯の柔道高段者と立ち会い、これを破った事が新聞に掲載される等の事実があった事にもよる。
今日、柔道というと、細かいルールに制約された中でチマチマとポイントを稼いで相手に勝つ、いわゆるスポーツ柔道のイメージが強いが、惣角の時代にはコンデ・コマ=前田光世の様な実戦柔道家も多く存在した筈である。
村井は明らかに他流試合を苦にしない実戦柔道家タイプであろう。後の名人三船十段とも互角以上の勝負を展開し、八段まで昇段した事が事実であるとすれば、その技量は前田光世に匹敵、或いは凌駕するのではないだろうか。


【記述の追加 H19.11.4】
村井の生年は明治22年(1889年)11月8日であることが後日判明した。
戦時中、つまり50代の半ばで既に講道館柔道八段であって、しかも、6歳年上の名人三船久蔵と同時期に五段であったという事実から、氏の並外れた技量が推測出来る。

【追記】H26.5.6

今回、『柔道年鑑』によって村井氏の段位について検証を試みた。
(『柔道年鑑』は国立国会図書館のサイトで閲覧出来ます)

●大正11年
村井顕八=三段
三船久蔵=六段
●大正14年
村井顕八=三段
三船久蔵=九段
●昭和14年
村井顕八=三段
三船久蔵=九段

ネット上では大正11年から昭和14年までの検証しか出来ないが、村井氏の講道館段位に関しては「三船氏と同時期に五段だった」というのは、明らかな間違いである。
三船氏が大正11年からたった3年で9段に昇段している事から、村井氏が昭和14年以降八段にスピード昇段した可能性もゼロではないと思うのだが・・・ネット上では検証不可能。

村井氏の段位については、今後も検証を継続して行きたいと思う。

    ↓写真は村井氏80歳代の雄姿

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11146135546



大東流合気柔術は柔道より弱いんですか? 長文です。 私が残念に思うのは、何故...




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dekiaioyaziさん

2015/5/3007:47:28
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大東流合気柔術は柔道より弱いんですか?
長文です。
私が残念に思うのは、何故、負けた後、素手で対抗する技を研究するのでなく小刀を隠し持つという方向に向いたかです。

曾(かつ)て

大東流の名人と謂われた武田惣角は、柔道の絞技によって敗れた事実がある。大東流の愛好者は惣角の華々(はなばな)しい連戦連勝の武勇伝ばかりに翻弄されて、正しい武田惣角の武術的伎倆(ぎりょう)を判断する眼を失っているが、惣角の武勇伝の裏には今から述べるような負け試合もあったという事を十分に心得ておくべきである。

曾て武田惣角が、敵対する柔道家の若者を軽く見て、無慙に、寝技持ち込まれ最後は絞業で落とされるという失態を招いた事があった。この事は、八光流柔術初代宗家であった奥山龍峰(おくやまりゅうほう)師が、その著書『奥山龍峰旅日記』の中に記している。

昭和初期、『小樽新聞』は掲載記事の中に「大東流の大武田、小樽に来る!」と大見出しで報じ、武田惣角の武術歴の偉業を大々的に賛(たた)え、トップ記事に載せた。そして新聞社主催で対談する予定が組まれた。その時、惣角と対談したのが当時柔道五段で、小樽に柔道場を構えていた村井顕八(八光流門人)という小樽商高に通う若者であった。

惣角は負け知らずの得意満面な傲慢(ごうまん)で、散々「柔道は踊である」と詰った上で、「柔道など辞めて、貴殿も大東流をやれ。柔道は踊でないか」と促し、更に詰ったのである。しかし村井氏はこれをキッパリと撥ねつけ、「何故あなたは柔道を詰るのか」と詰めよった。そして憤激(ふんげき)した村井氏は「一手、お手合わせを」と、教授を願う事になったのである。

惣角は、村井氏から忽(たちま)ち衿頸を掴まれ、引き倒されて、あっさりと寝技に持ち込まれ、惣角は大東流の秘術の限りを尽くして悪戦苦闘し、この難を必死に逃れようとしたが、力及ばず、無慙にも絞め落とされて気絶してしまうのである。連戦連勝を自称していた武田惣角も、ここではあっさりと寝技に敗れてしまうのである。

『奥山龍峰旅日記』には、この場で無慙(むざん)に敗れた惣角の無態(ぶざま)が克明に書かれている。しかしこの無態(ぶざま)な負け方は、大東流愛好者には報じられる事がなく、惣角は何処までも百練百勝の英雄として、その武勇伝に記されている。作家・津本陽氏の『鬼の冠』にも、この事は出て来ない。総ていいとこどりである。

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ベストアンサーに選ばれた回答



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husky51120さん
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2015/5/3009:11:29
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負けたのなら、弱いのでしょう。事実ならしょうがない。

無様だろうが、なんだろうが、武田先生の価値は不変。武道の大天才。
(いわゆる現代で言う人格者ではない・・ただ、当時の生死を見つめた武士の生きざまであろうことは容易に想像できる)

大東流の価値も不変。世界に誇るべき日本の武道。
おそらく大東流修行者も、何も感じないだろう。

先生は、本来は剣術家。
大東流は、攻撃用の武道ではない・・・多分先生は剣術の裏ワザとして、やられていたと想像する。

奥山某は、直弟子ではない。そんな人間が現場を見たのか?まして自分がやっている武道の宗家が敗れたことを克明に綴る・・・・どんな神経だ?
そういう人間だから勝手に?独立するのだろう。即席師範を大量に生みだして・・・商売人ですな。

2015年|12月|29日|14:15 |from 西田大作| URL 【編集】

No title

コメントの返信が遅れてしまい申し訳ありません
まず三上先生にしろ児玉先生にしろ
柔道剣道の歴史に残るトップの先生方だったこと

しかし村井先生は柔道史に残るような実績は残していないから武田惣角先生に勝った云々は嘘だ

というのが池月映さんの主張のようですが

まず三船久蔵先生が絞め落とされたエピソードいうのは三船久蔵の裏エピソードが描かれた琥珀の技という本でも描かれています

よってその絞め落とした張本人が村井先生である可能性も否定できないわけです

柔道の世界に身を置いたり柔道の世界に詳しくなければわからないでしょうが
寝技の強さは柔道において有名無名関係ないですよ
無名の七帝柔道家が柔道日本一の寝業師とも言われた
高木長之助先生相手に足を超えさせなくてイライラした高木先生が立って勝負しろとかキレちゃったり

無名でも寝技の強いのは各大学にはゴロゴロいますよ
コブラ会の出花 崇太郎選手は七帝柔道記でも有名なエリート大学の道都大出身で小室宏二先生も一目置く寝業師なんかもその一人で柔道から柔術に転向したばっかの白帯の頃からスパーで当時日本の柔術の重量級トップの一人相手にボコボコにして勝っていましたからねぇ

ですから無名の人だから武田惣角先生に勝てないいうのは間違いです
ハッキリ言って有名な柔道家よりも寝技だけなら強い柔道家なんてゴロゴロいます

2015年|12月|29日|14:50 |from 西田大作| URL 【編集】

No title

あと私自身は中国武術や古流柔術 大東流始めとする合気武道に関して大変興味があり色々書物を読んだり映像を見たり
ネットとか資料で色々調べていますが
まず合気関連のエピソードには中国武術や古武道もそうですが実に胡散臭いエピソードが多い

好きだから敢えて言いますが
中国武術の王向斎がボクシングの世界王者を天井にめりこませたり(爆)
合気道の植芝盛平が大陸の戦場で弾丸をかわしたと自伝で主張したり(もしそれが本当なら中国大陸で出口王仁三郎と一緒に無様に捕虜として捕まっていたりしたりするのは何でや)
などなど

どう見てもフカシやろ
いうようなトンデモエピソードばっかです

武田惣角のエピソードも実態はトップの柔道家相手に合気のノウハウを使ったいうのも
試合ではなく合気上げとかをトップ柔道家相手に実演して見せたいおうのが事実ではないでしょうか?

そもそも村井先生の話が嘘なら武田惣角先生にしろ彼の息子である時宗先生にしろ植芝盛平先生 三船久蔵先生にしろ否定すればいいだけの話ですし
名誉棄損で訴えるなり当人に試合を申し込めば良かっただけの話です

よって私は村井氏の話が嘘だとは思えませんしあり得る話だと思うわけです

ちなみに私はヒクソングレイシーが大好きですが
サンボの試合で負けたりレスリングの試合で反則負けしたりしたりしている事実を事実として認めています

だって事実だし本人も認めているんですもの(笑)

2015年|12月|29日|15:10 |from 西田大作| URL 【編集】

No title

武田惣角先生のエピソードも実態はこんな感じなんでは?

http://cgi.linkclub.or.jp/~komai/jiujitsu/column/n_kata/brazil_n_kata2.html
7月30日その1  オーランドカニ ヨガセミナー
オーランドカニ。それはただの物真似師。時々ヒクソンの師匠にもなるそうな。本職はヨガマスターである。見かけはどこにでもいるマンドリル。

先週今週と4回のカニセミナーを受講した。30分ほど座学で心得を学び、後は延々とエクササイズのようにオーランドの動きをまねる。その動きは、猿、猫、トラ、蛇、酔っぱらい、目の見えない人、犬、カニ、など多岐にわたる。

猫とトラの違い。特に、トラの動きは圧巻で、餌を捕り損ねてがっかりするトラ、あきらめの悪いトラ、捕れなかったのをごまかすトラ、すねて寝るトラなど、本当に柔術に役に立つ動きが満載であった。

受講生の10人くらいの中で体が一番小さい俺を指さして、「おい俺を投げて見ろ。俺はグラビティーセンターを自由に操ることができ、投げられることはない。ヒクソンも俺を投げることはできなかった。」と言うので、軽いタッチで一本背負いをしてみたら、思いっきり吹っ飛んで床で痛そうにしていた。なんなんだこのオッサンは?アレッシャンドリを見ると、おいおい、本気出しちゃだめなんだよ馬鹿者。と、・・・流呼吸法のおっさんのようなことを言いたそうだった。実際アレッシャンドリはオーランドに俺を持ち上げて見ろと言われ、本気を出せば天井にたたきつけることもできるはずだが、「う、重い、重すぎる」とおおぼらを吹き、その場に倒れ込んでいた。

俺が投げる光景を見ていた早川氏は、投げられながらも必死にバックに回ろうなどと無駄な抵抗をしながら、顔はあ、しまった、と言う表情を浮かべ、投げられてから苦し紛れに亀になろうとするも、俺の非情な袈裟固めにあい、涙を流して時間を戻そうとしていたそうな。これくらい瞬時に考えることができれば、君も茶帯だ。オーランドは若く見えるが実は65才で、俺は若作りのおまえが悪いを感じた。

その日以来、挨拶でよく抱き合うのだが、なぜか俺にだけはぶっちゅーとキスをしてくれる。ありがとう。

なお、最終日も同じように俺を指名して、懲りずに同じようにテイクダウンしろと言ってきたが、心得た俺は軽いタッチでバックを取ってさしあげた。オーランドは涙ぐんで俺にブッチューとキスをした。俺にはプロレスはできない。

又、最終日のカニのアジトでの秘密練習風景をばっちり隠し撮りし、持ち帰ろうと思ったら、あほのビンセントがおお、それはムービーかすげえなと、よけいなことを言うのでみんなが集まってきた。俺は観念して、すまん、秘密練習を撮影してしまったと言うと、うおお、こんな小さいのにムービーが撮れるのか?売ってくれ。こんなにメモリーが小さいのか?などと、おれのMPEGカメラに驚いているだけだった。なお、このムービーをパソコンに転送するソフトを買ってないので、他に何か取りたい物があったら消してしまうでしょう。その前に液ップGOZO塩田さんから連絡有ると良いんだが。

などといろいろな4日だったが、全体として得る物はあったと考える。ははは。いや、でも、オーランドの動きはとても柔らかく、うまく消化できればマジで良いかもね。

2015年|12月|29日|15:16 |from 西田大作| URL 【編集】

No title

あと
売名行為とよく言われますが
大東流と武田惣角が現在の様に有名になったのは
あくまで後年です

奥山竜峰旅日記が世に出たのは

1958年

です
この頃
大東流は世界的に隆盛を誇る植芝盛平の合気道とは違い知っている人はかなり少ないですよ

私の知る限り
大東流とか武田惣角が現在のように有名になったのは

松田隆智さんが世に出したロングセラー

謎の拳法を求めて

以降です

他にも合気道関係者でも富木謙二先生の日本合気道協会が出している本とかで大東流が合気道の源流だということを紹介したり(合気道教室とか講道館護身術とか 他の合気道関係者は何故か大東流を無視していましたね)
それと鶴山 晃瑞先生の図解コーチ 合気道1982年というタイトルで大東流の本が初めて世に出たくらいで

それまで大東流自体はマイナーな存在で武田惣角関連の本が出たのも松田隆智の

謎の拳法を求めて 1977年

よりもずっとずっと後です

結構この時の謎の拳法が求めてを読んで
中国武術とか大東流に走った人が多いですねぇ

1985年に岡本正剛先生とかが大東流の本
スポーツライフ社の大東流合気柔術という本を世に出したりした頃から大東流の修行人口が増えてきたんですけど

奥山さんの本が世に出た時は大東流の道場も武田惣角の存在も合気道の一部みたいな認識で大東流の修行者自体少なかったわけでしょう

だから現在の様に有名になった時期なら売名行為といえるでしょうが
1958年という無名の頃の時代に描かれた本が売名に値するかどうかは正直疑問です

八光流も大東流も当時は合気道と違い全くの無名の存在だったわけですしね

2015年|12月|30日|01:04 |from 西田大作| URL 【編集】

No title

すいません
私の記憶間違いでした
高木長之助先生ではなく元谷金次郎先生でしたね
七大柔道部の選手相手にパスガード出来なかった高名な寝業師 寝技日本一と呼ばれた先生いうんは
さっきゴン格の片づけしてたら
元谷金次郎先生のインタビューあったんでそれでようやく思い出しました

http://8142.teacup.com/newawa/bbs/3016
僕等の同学年では、北大矢田。東北檜垣。京大一谷の3人が足が利く第一人者でした。

しかし、甲斐は、矢田とは2回。一谷とも1回試合をして、いずれも一本勝をしています。
実際、甲斐が出場した3大会を通じて、
彼をを引き込んで正対して足を利かせて守ったのは、檜垣ただ一人だったと思います。
(大体、立って組手でさばくか、亀で守るか、足を絡んで守るかのパターン)

檜垣君とは同学年ということもあり、仲良くなりたかったのですが、
東北とはあまり縁が無く、つながりが持てなかったのが残念です。


ついでだから、もうちょっと余談を続けます。
昨日発売されたゴンカクの木村政彦の連載に、
元谷金次郎八段(大阪府警察)の寝技の強さが書かれています
(全日本選手権大会準優勝、全国警察選手権大会優勝、数々の国際大会でも活躍・・・・)

しかし、京都大学を平成元年に卒業された中林さんという方は、
元谷先生と寝技乱取りをされて、足すら越えさせなかったそうです。
元谷先生も「もう一本」「もう一本」と5~6本続けて乱取りされたそうですが、
どうしても足が越えれず、最後は
「守ってるばかりじゃなくて、攻めてこんかい」とおっしゃって
乱取りを止めたそうです。

もう、こんな話、信じられんけどね。相手は95kgもある当時寝技最強と言われた方だよ。
中林さんは普通の大学生なのに。
こんな話を聞くと、自分のふがいなさが情けなくなるね。20年も何やってんだろう
(一応書いておきますが、この話は、僕の記憶違いとかがあるかも分かりません。
 まあ、この連載はその程度のものだと思ってお読み下さい。それはお願いしておきます。
 後々、ちゃんとまとめる時が来たとしたら(来ないと思いますが)、
 この連載に書いた事項はちゃんと関係者に確認しますし、引用も許可を取りますが。
 今は、まあ、下書きというか、放談みたいなものだと思って下さい)

2016年|01月|02日|18:50 |from 西田大作| URL 【編集】

合気の由来

ご無沙汰です。合気の由来がわかりました。国会図書館が公開した気合術の4文献に、気合と合気の説明があります。「活殺自在気合術」と、大東流合気武道、武田時宗遺稿集の内容は合致しています。広義的に気合も合気も差はない。気合は有心気合(掛け声)、合気は無心気合(無声)とあります。惣角は気合で博徒親分を倒し、合気を柔術に取り入れて、触れるだけ、触れる前に相手を無力化したことになります。修験道は口伝の掟があって、惣角は合気の意味さえ教えない。ほとんどの武術家は合気は何なのか分からなかった。文献は2年前にネットで見れるようになった。昔から修験や忍者が修行していた。故郷の会津坂下町郷土学習副読本の武田惣角は私の説(易者)に訂正されました。時宗遺稿集の全文を見る機会があり、真実が明らかになりました。現在、津本陽氏「深淵の色は」(佐川幸義)はネット公開中が参考になるでしょう。

2017年|10月|20日|15:27 |from 池月映| URL 【編集】

No title

>中国武術の王向斎がボクシングの世界王者を天井にめりこませたり(爆)

天井の話は国内の武術家相手の話でボクサーは前腕が触れた瞬間倒されたという話だったはず
捏造してけなしても何のダメージにもならんでしょうね

>武田惣角のエピソードも実態はトップの柔道家相手に合気のノウハウを使ったいうのも
>試合ではなく合気上げとかをトップ柔道家相手に実演して見せたいおうのが事実ではないでしょうか?

つまり村井氏も武田氏に寝技を実演してみせただけということですね

2017年|10月|27日|00:15 |from -| URL 【編集】

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