少林寺拳法=古流柔術 中国の少林寺とは無関係に反論 少林寺拳法と中国武術の関係研究

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少林寺拳法の原型とは part1 記事をクリップするクリップ追加 2010/1/19(火) 午前 1:31 少林寺拳法 分析 練習用 0開祖宗道臣の著書からその原形を探ってみます。

>>▼拳法との出会いと本格的修行
>>満州で私が与えられた任務は、
>>関東軍の一部で計画されていた特殊工作の要員であった。
>>そこで私は仕事に必要な教育を受けるために、
>>道教の十方叢林(宗教専門学校)に連れて行かれ、
>>陳良という老師に身柄を預けられたのが法縁の始まりで、
>>老師の弟子となって行動を共にするようになったことが、
>>中国の武技としての拳法を学ぶ初縁となったのである。

>>陳老師は、秘密結社「在家裡」のなかで重きをなしていた人で、
>>嵩山少林寺に源を発する北少林白蓮拳の師父でもあった。
>>河南省登封県の出身で、義和団事件当時、
>>河南紅槍会の一隊を率いて活躍した頭目の一人であったが、
>>乱後、難を避けて潜行し、
>>辛亥革命後は一時北洋軍閥の流れをくむ呉佩孚将軍の下で行動されたこともあるが、
>>軍匪のような地方軍閥に嫌気が差し、
>>東北地区に新天地を求めて奉天に落ち着かれることになったそうである。


>>しかし、その当時の東北各地にも地方軍閥が割拠しているばかりでなく、
>>ロシアと日本の利権が錯綜していて、
>>一般民衆は塗炭の苦しみにあえぐ生活をしなければならなかったので、
>>老師は民衆の自警組織である在家裡に入り、
>>ある種の活動をされるようになったのだと言うことであった。

>>陳老師と起居を共にする合間に、
>>私は拳法の技を一つ二つと教わり、その微妙なコツを体得していった。
>>もちろんその当時は、
>>我が国で教えているような系統的な修行法でもないし、
>>技も体系的に整理されていたわけでもない。
>>技の名称もしても、意味もなければ、名も付けられていないものもあって、
>>しっかりと覚えるのに大変な苦労をした。
>>そこで私は、各種の技を教えられるごとに各技法を自分にだけわかるように、
>>日本流の名前を付けて整理して覚えたのである。


>>▼某重大事件と奥地大旅行
>>昭和三年六月四日、日本国内では、
>>真相を隠したまま「満州某重大事件」と呼ばれた張作霖大元帥の爆死事件が起きた。
>>満州の帝王といわれた張作霖の死を契機として、
>>中国東北の天地はにわかに風雲急を告げ、
>>東北を中国本土から切り離して独立政府を樹立させようという動きがにわかに活発となってきた。
>>その渦中にあって、私は陳老師とほか数名のものと一緒に、ある任務を帯びて、
>>全東北各地を大旅行することになった。
>>この大旅行が、私には二度目の法縁となって、
>>東北各地に存在していた秘密結社の頭目や師父と相知る機会に恵まれ、
>>残されていた各種の格闘技や拳技、
>>あるいは把式とか拿法と呼ばれていた捕技や角技を学ぶことの出来る千載一遇の好機となった。
>>そして後年私をこの道へ深入りさせる直接の動機になったのである。

>>当時の私は、体重十九貫(七十五キログラム)を超え、
>>身長五尺八寸(1・七五メートル)近くあり、
>>その上に力も多少あって、けんかも強かった。
>>その私が小柄な中国人り陳老師を尊敬し、師礼を怠らなかった態度がよかったのか、
>>それとも陳老師の顔のせいであったのかも知れないが、
>>在家裡のどの師父からも好遇され、一手二手ずつではあったが、
>>惜しみなく秘事を教えてもらうことが出来たので、
>>任務は難しく、厳しかったが、旅行そのものは決して苦しいことはなかった。……(後略)。


>>▼義和門拳の法統をつぐ
>>昭和七年三月、東三省が満州国として独立した後、
>>私は仕事の関係上、北京に移り、引き続き舞台裏の工作に従事することになった。
>>幸運にも、ここには陳老師の先師にあたる北少林義和門拳の師父、文太宗老師が隠棲されており、
>>陳老師の紹介で直弟子として入門することを許された。
>>文老師は、字を子明といい、陳老師と同じ河南省登封県の出身で、
>>若い頃近くの嵩岳に登り、少林寺の僧となって拳を学んだ人である。
>>清末の光緒十三年に、西欧諸国の中国侵犯を憂い、下山して秘密結社哥老会に入り、
>>義和門拳十九代師父黄龍伯の弟子となり、その跡目を継がれたの拳の名手であった。
>>文老師は、当時、北京の西直門外の竜王堂に隠棲されていたが、
>>七十歳をすぎてなおかくしゃくとして、識見、風格ともに立派な方であった。
>>私は師について、相対演武を主とする、
>>武技としての法形を最も多く残していた北少林義和門拳の秘技である龍系諸技と呼ばれる
>>三十六式の拿法や、五花拳という剛柔一体の投げや、順逆の捕り方を正式に学んだ。……(後略)。
(以上、少林寺拳法奥義 昭和五十年七月二十五日初版、昭和五十六年五月十五日八版 P.57~60より抜粋)


>>私が日本に移植している少林寺拳法の技術は、
>>私が学んだ中国の拳法そのままではない。
>>それに中国では過去のどの時代にも少林寺拳法の名で呼ばれたことはない。
>>一般には、武術とか国術、拳とか長拳、
>>六合拳、羅漢拳、把式、綿拳、擒拿、摔跤(シュアイジャオ)、
>>猴拳、花拳、少林拳、太極拳、
>>白蓮拳、義和拳、如意門拳、洪門拳等と呼ばれていたものであり、
>>これらの拳技のなかに共通する原理を見つけ出し、技系ごとに再編し、
>>なお私自身のの実戦的体験も加えて、これに理論の裏付けを行い、
>>仏伝正統の「行」として再興したものが日本の少林寺拳法なのである。
(同上 P.43より抜粋)


一手二手ずつ学んだものについての記述は秘伝少林寺拳法にあります。


>>私はこの旅を通じて、各地に生き残っていた数人の拳士に巡り会うことが出来た。
>>そしてその人たちの得意とする技を見せてもらったり、
>>教えを受けたりする機会を持つことが出来た。これは、私にとって何より大きな収穫であった。
>>しかし、これらの拳士は、ほとんどが老齢であり、知っている技もほんの二手か三手ぐらいで、
>>まとまったものは誰も持っていないと言ってもよかった。
>>ただ、当時奉天の遼陽県にあった、千山祖越寺の雪峰和尚の仁王拳だけは、
>>みごとなものだったので、しばらく滞在して教えを受けた。
>>香港の李姓の一家は、太極拳系の長拳と白打と称する白蓮系の拳を演じてくれた。
>>湖北の袁君は梅花拳というのを見せてくれたが、剛法のかんたんなものであった。
>>また、河南の杜先生は仏家拳というのを見せてくれたが、これはやはり体操であった。
>>河北の楊家派の拳は柔法が得意であったが、技がすくなく、単演がおもであった。
(カッパブックス 秘伝少林寺拳法 P.61より)

つづく。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/31100578.html

少林寺拳法の原型とは part2 記事をクリップするクリップ追加 2010/1/20(水) 午後 9:59 少林寺拳法 分析 格闘技 0前の記事から続き。

少林寺拳法では「組手主体」といって
相対演練を主として、単演による套路は体操として捉えています。
(現状の空手を考えればそれも当たらずとも遠からずですが)
天地拳や義和拳といった単演の短い套路は存在しますが、それは従という位置づけ。
そのため、柔道や空手の約束組手のように一法形(招式)ごとに技を掛け合います。

套路に比重を置かないことや発勁を声高に叫ばないことで、
少林寺拳法が全く中国との接点がない日本武道だと考える人もいるようですが、

八極拳の蘇昱彰老師は、
>>私は講習会の一週間で小八極を教え終える。
>>以前中国ではこの套路を三年かけて学んだ。
>>「ずいぶんほらを吹くなあ」と今では笑い話になってしまう。
>>これは仕方がない。
>>しかし、これは私が以前に三年間学んだのとは異なり、
>>一つの型を学んだに過ぎない。

>>では以前はなぜ三年間も掛けて学んだのか。
>>型の中に含まれた秘訣を学ぶからだ。
>>この招式を打ち出すのは何のためか、どのように用いるのか。
>>型の問題ではない。
>>こうした味わいや意味を練磨することができて、
>>初めて次の動作を教えるのだ。
>>今では仕方なく一気に教え、秘訣はあとに時間をかけてゆっくり教える。

>>したがって、学習の問題で最も重要なのは、
>>その先生が教えた秘訣を会得したかどうか、
>>拳に含まれた心法を会得したかどうかと言うことだ。
(福昌堂『武術』1991季刊冬号 P.15~16)

と証言しているように、
本来は一招式毎に学ぶのが本義だと思われます。

松田隆智先生が小八極の套路だけを学んで
日本で二年八ヶ月それだけを繰り返していたのは、
渡航上の都合だったということですし、

套路や発勁というワードの有無だけで
正邪を語るのは早計です。


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では、開祖が学んだ伝承はどんなものだったのでしょうか?

開祖の証言からわかることは、
龍系諸技と呼ばれる拿法三十六式、
相手の突きを捕って投げる五花拳、羅漢手という形で、
招式が存在していたということぐらいです。

この羅漢手。

羅漢と名の付く門派・套路は多いのですが、
文太宗(文子明)老師が少林僧だったので、
単純に考えれば少林寺に伝わる羅漢拳を指すはずです。

現在、少林武術保存整理班が伝えるのは羅漢十八手と羅漢拳二路(小羅漢・大羅漢)。

しかし、開祖は套路を体操と考えて、
一招式ごとに技を整理してしまっているので、
残念ながらどの技を指すかは分りません。

羅漢十八手対練を見てみましたが、
衣捕りの技はなく、
唯一、肩を持たれて肘を圧して攻める「僧縛虎・弓歩抓肩」が、
少林寺拳法の羅漢拳に属する上膊を捕られた時の技に近いです。
(天秤のような極め方ですが)

他にも、略十字小手に当たる「降龍手・擄手抓腕」や、
切小手に当たる「扭纏絲・小纏」が見受けられますが、
必ずしも擒拿の技に終始しているわけでなく、
打踢拿摔のバランスよく配合されています。

(この羅漢十八手対練は、
釈徳建などの少林僧が見せる羅漢十八手とは動きが違います。
どういう伝承になっているのか分りません。
ご存じの方は教えてください)


少林寺拳法では羅漢拳を衣捕りの技として分類していますが、
開祖が、なぜ衣捕りの技を「羅漢拳」と定義したのかわかりませんが、
何かそれに足る理由があったようにも思えます。
袖巻を羅漢拳第一とする何かが。

そこで、少林羅漢拳を見てみましたが
対打動画を発見できず、
衣捕りと言い切れるような特徴を見つけることはできませんでした。


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ただ、武林大会の中で
少林羅漢拳「甩袖」と言う名前で
相手の蹴り足を掬う技が紹介されていました。

これは、少林寺拳法で言う「虎倒」です。

少林寺拳法において、
払受蹴や十字受蹴などの中段への蹴りに対処する方法は、
三合拳に分類されています。

相手の中段廻し蹴りを掬う「虎倒」も三合拳でいいと思うのですが、
なぜか羅漢拳に分類されていています。

中段への攻撃に対して
蹴りで反撃するのが三合拳ですから、
掬って投げる技は除外しているのかも知れませんが、
関連性を考えてみる要素にはなります。

もちろん、この一事だけで少林寺拳法の羅漢拳が、
少林羅漢拳からの抽出技だと言い切れるものではありませんが。


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また、開祖は、
蒙古角力(モンゴル式シュアイジャオ)の中から集めたものを羅漢拳として新編集しました。

>>羅漢拳は龍系諸技や五花拳とともに北少林柔法の主系をなす重要な技系である。
>>技法はきわめて精妙であり、古式の羅漢手や把式、蒙古角力の中から集めたものを
>>羅漢拳として新編成したものである。(少林寺拳法奥義 P.230)

以前、背負い投げの対処法である裏投げをシュアイジャオの投げと対比させ、
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31024905_10?1263990821
その術理の共通性について書きましたが、
かなりシュアイジャオの要素が高いように思えます。

開祖は子供の頃に柔道をやっていたので、
表投や裏投は、柔道の背負い投げへの対処法だと思っていたのですが、
背負い投げは柔道の専売特許ではなく、
シュアイジャオにも揣と言う名前で存在していました。

また、シュアイジャオでは片襟を諸手で掴んで
送襟締のような形で組んで投げることがあるようですが、
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31084097_0?1263980905

http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31084097_1?1263980905
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31084097_2?1263980905


少林寺拳法ではそんな首締に対応する首締守法十字投も用意されています。

他にも四つに組んだ状態から投げる
四組腰投や四組内天秤という技が羅漢拳にまとめられていますが、
四つに組んで行われる内モンゴル相撲・シュアイジャオそのものずばりと考えた方が妥当でしょう。

少林寺拳法の羅漢拳を
明確に羅漢手とシュアイジャオに分けられるものでもないとは思いますが、
分類することで何か見えてくるかも知れません。

つづく。と、さらにそのつづき。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/31133797.html

少林羅漢拳の概要 開祖が言う古式の羅漢手とは?part1 記事をクリップするクリップ追加 2010/1/24(日) 午後 1:58 古式の羅漢手とは? 格闘技 0前の前の記事と、 前の記事の続き。

手元にある資料は80年代に出版された日本の書籍と
その頃の福昌堂『武術』だけなのでそれ以降に判明した情報は知りません。

とりあえず松田隆智先生著『少林拳術 羅漢拳 基本から戦闘技術まで』と、
ネットで拾える情報からまとめてみます。

色々な門派が羅漢と冠する套路を有していますが、
松田先生の著書の中では、
少林武術保存整理班が伝えるのは羅漢十八手と羅漢拳二路とのことでしたが、
羅漢拳三路の動画を見つけました。
これが、後年発見されたのか、新しく作られたものなのかは分りません。


<羅漢拳一路>

1童子拜佛 2交手单叉 3怀中抱月 4古树盘根 5转身枪手 6双摘档 7打虎式 8二起脚
9金鸡独立 10上歩順行 11雲頂连三捶 12小跨虎

2-1猛虎出洞 2-2上步登山 2-3探腰深望 2-4古树盘根 2-5斜步交花 2-6插花盖頂
2-7倒步双架棚 2-8撩手推山 2-9撤步连环拳 2-10龙折身

3-1卧地睡 3-2双推山 3-3旋風脚 3-4盘腿坐 3-4空手滚 3-5小开门 3-6二起脚 3-7打虎形
3-8猛虎出洞 3-9回头望月 3-10童子拜佛


松田先生の『羅漢拳』の中に記されていた拳譜は以下の通り。

羅漢拳古拳譜『少林拳術秘伝 (嵩山少林寺、素喜伝授、徳虔整理)』
1交手単岔 2懐中抱月 3古樹盤根 4伸手要銭 5双摘襠 6打虎 7ニ起脚 8金鶏独立 9上歩打順型
10連三捶 11小跨虎

12猛虎出洞 13上歩登山 14探腰深望 15古樹盤根 16斜歩交花 17插花盖頂
18倒歩双落棚 19単手撩 20 右手推 21撤両歩 22竜遮身

23臥地睡 24倒臥枕 25旋風脚 26盤腿坐 27空手滾 28双開門 29二起崩 30打虎型
31猛虎出洞 32竜遮身 33五花坐山




細かい名称や古拳譜に童子拝仏がなく、
動画の一路には五花坐山がないという違いくらいで、
動画の終わりにロールアップされている招式の名称から、
羅漢拳古拳譜は、少林羅漢拳一路だと言うことが分ります。



<羅漢拳二路>

1童子拜佛 2高捶 3低捶 4蹲桩捶 5翻身双扑地 6背心捶 7拐肘斜捶 8拧手踢腿 9黑虎钻档
10童子卸印 11切跨劈打 12翻身捣碓 13起落海底炮

2-1前踢腿 2-2后蹬腿 2-3拉弓式 2-4双栽葱 2-5倒反背 2-6餓虎撲食 2-7黑狍钻档
2-8抖手一捶 2-9跳步单叉 2-10起身板手 2-11旋'118;脚 2-12蹲桩式 2-13双分膝

3-1合腿 3-2地面抓 3-3迎面撤 3-4二起脚 3-5端锅 3-6上步拔葱 3-7掏腿入地捶
3-8单踢 3-9外摆莲 3-10猛虎出洞 3-11夯地捶 3-12蝎子尾 3-13五花坐山 3-14童子拜佛



<羅漢拳三路>

1童子拜佛 2単撩手 3蹲桩捶 4跳步单叉 5怀中抱月 6跳步单叉 7起身捶 8背后捶
9架起埵 10単砍手 11起身側踹 12丁歩一捶

2-1转身掌 2-2蹲桩双托 2-3拐肘 2-4扳捶 2-5下陽捶 2-6夯地捶 2-7后蹬腿 2-8左劈腿
2-9 卧地睡 2-10拉弓式 2-11双撅手 2-12下摘档

3-1左推掌 3-2揺身晃 3-3単插手 3-4推一掌 3-5撤二歩 3-6三推掌 3-7小束身
3-8里掃趟 3-9迎面撤 3-10二起脚 3-11五花坐山 3-12童子拜佛



小洪(紅)拳などの他の套路とも重複としている招式があるので、
どの套路が古くて元ネタになったのかは分りません。
少なくとも二路や三路より一路が古いはずですが、
少林寺拳法において、
羅漢拳を衣捕りと分類した開祖の解釈を紐解く
端緒とはなりませんでした。

しかし、

少林寺拳法として問題になるのは、
開祖が言う「古式の羅漢手」です。

開祖自身は、嵩山での修行経験が無くとも、
師の文太宗老師は少林僧でしたから、
"羅漢手"と言うからには、羅漢十八手を思い浮かべます。

達磨の作と言う体操としての先天羅漢十八手が存在して、
その羅漢十八手が羅漢拳の起源だとする説が広く流布されていましたが、
唐豪によって否定されました。

嵩山少林寺では、
この先天羅漢十八手とは別に羅漢十八手が存在します。

開祖が言う "古式" とは、どの套路からみて古式なのかは分りませんが、
文太宗老師が少林僧だった時代なら、
羅漢十八手が古式だったという認識だったのではないかという仮説が思い浮かびます。
(現在でも通説のようですが)


次は、釈徳建和尚の羅漢十八手と民間伝承の羅漢十八手をネットから拾ってみます。

つづく。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/31134723.html

2つの羅漢十八手 開祖が言う古式の羅漢手とは?part2 記事をクリップするクリップ追加 2010/1/24(日) 午後 4:17 古式の羅漢手とは? 格闘技 0前の記事の続き。

ネットで「羅漢十八手」が二つ散在します。
対練動画の「羅漢十八手」と「釈徳建大師が行う羅漢十八手」です。

それでは、「羅漢十八手対練」から。

<罗汉十八手对练>

招式の名称は以下の通りです。
1鷹掐嗉 2拗彎肘 3挎籃勢 4硬開弓 5架樑砲 6降龍手 7僧敲鐘
8巧紉針 9一條椽 10金勾掛 11扭纏絲 12掃盪/蕩腿 13披身錘 14踢毬勢
15鴛鴦腿 16劈柴勢 17僧縛/縳虎 18僧推門


松田隆智先生の『羅漢拳』に書かれている、
李侠(根生)が伝えた少林寺伝の羅漢十八手の招式名称は以下の通りですが、

<少林寺伝 羅漢十八手>
1軒轅跨虎 2仙人指路 3回頭望月 4童子拝仏
5梅鹿献花 6鴻雁展翅 7猿猴摘桃 8魁星点元
9高祖斬蟒 10王祥臥冰 11燕子汲水 12鯉魚翻身
13羅漢闘虎 14仙鶴晾翅 15悟空束身 16白蛇吐信
17弾射天狗 18緊哪武姿

名称が全く一致しません。

少林派の羅漢十八手なのかも知れませんが、
他にも少林僧の格好をしてこの套路を披露している動画もあり、
正直、全くわかりません。

ただし、以前書いた通り、
扭纏絲が切小手、僧縛/縳虎が上膊巻(or捕)と考えられますし、
略十字小手と酷似する"降龍手"の存在は、
少林拳(もしくは少林派)の擒拿が"龍系諸技"と言われていた可能性を示してくれますが、
こちらも開祖が衣捕りを羅漢拳と解釈・分類した理由を理解する端緒にはなりませんでした。


ならば、釈徳建大師の羅漢十八手が、
李侠が伝えた少林寺伝・羅漢十八手と一致するのかネットで拾ってみました。

<釈徳建大師 羅漢十八手>

1朝山拜佛 2斩手劈心掌 3亮翅斩手劈心掌 4拨拦连三掌 5斩手穿喉下劈掌 6托塔双推山
7霸王鞭伏虎掌 8扳面掌 9力贯千斤砸 10回身頂心肘 11火龙步斩手下劈掌 12撩手下插掌 13双摘裆
14双冲锤 15垫步连三锤 16回頂肘 17天地拳 18馬歩双摔掌 19白鹤亮翅 20仙人归洞显法像
21罗汉打虎 22归山拜佛


こちらも名称が一致しません。
なぜか二十二手になっています。

でも、羅漢打虎が羅漢闘虎のような気もしますし、
22手あっても朝山拝仏と帰山拝仏は同じものでしょうから、
ほかにも重複しているのでしょう。

李侠が伝えた少林寺伝・羅漢十八手はこちらなのかも知れません。


開祖が言う"古式の羅漢手"が、
羅漢十八手ならば、その用法が衣捕りの拿法として解釈されているかどうかが重要ですが、
用法まではネットで拾うことができませんでした。

その場でクニャクニャと捻るような身体の使い方からすれば、
少林寺拳法で上膊や袖を捕まれたときに巻き替えるための動作に近いですが、
<11,火龙步斩手下劈掌(火竜歩斬手下劈掌)>
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31136156_0?1264327515
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_30683974_9?1261138581
(少林寺拳法・羅漢拳第一「袖巻」 カッパブックス秘伝少林寺拳法より引用)

釈徳建大師が
心意把の用法を紹介されている動画や、
小洪拳の用法を紹介されている動画を見る限り、
なんでもかんでもクニャクニャたした身法で相手の攻撃を躱して
靠や股を掬う動作として解釈しているようにも思えます。

連発する劈掌もすべて打撃としてのみの解釈なのでしょうか?

釈徳建大師が、
羅漢十八手をどのように解釈しているのかが気になるところです。

つづく。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/31273290.html

まだまだあった羅漢十八手 開祖が言う古式の羅漢手とは?part3 記事をクリップするクリップ追加 2010/2/7(日) 午後 4:26 古式の羅漢手とは? 格闘技 0前の記事の続き。

まだまだありました羅漢十八手。

釈徳揚大師の羅漢十八手。

前に貼った徳建大師の羅漢十八手とはかなり趣きに違いがあり、
一見すると同じものには見えません。

徳揚大師は素喜和尚の弟子のようですが、
同じ嵩山少林寺の僧であっても既に伝系の違いがあるのでしょうか。


<釈徳揚大師の羅漢十八手>

1.起勢,2.預備式,3.夫子拱手,4.懐中抱月,5白虎洗臉
6.泥里剥葱,7.単風貫耳,8.泥里剥葱,9.推倒墻,

10.上歩泥里剥葱,11.上歩扳手,12.千斤砸,13.右蓬肘,14.左蓬肘
15.仙手摘茄,16.泥里剥葱,17.前打后肘(前打),18.前打后肘(后打),

19.転身野馬分宗,20.火竜式,21.竜行虎歩,22.前平后栽,23.前打
24.仙人帰洞,25.収式,26.意気還原


いくつかの招式を比較すると、
招式の出入りや順番、風格の違いがありますが、
基本的には同じものでした。
以下、<徳建大師の招式名称/徳揚大師の招式名称>との比較。

<童子拝仏/起勢~預備式>
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31272727_0?1265524053


<斩手劈心掌~亮翅斩手劈心掌/夫子拱手~懐中抱月~白虎洗臉>
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31272727_1?1265524053

<斩手穿喉下劈掌/泥里剥葱>
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31272727_3?1265524053

<托塔双推山/推倒墻>
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31272727_5?1265524053

<扳面掌/上歩扳手>
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31272727_7?1265524053

<力贯千斤砸/千斤砸>
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31272727_8?1265524053

<馬歩双摔掌/転身野馬分宗>
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31272727_12?1265524053

<火龙步~斩手下劈掌/火竜式>
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31272727_13?1265524053

<仙人归洞显法像/仙人帰洞>
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31272727_10?1265524053

<帰山拝仏/収式~意気還原>
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31272727_11?1265524053

他にも同じ動作があるのかも知れませんが、
とりあえずここまで比較してみました。


泥里剥葱と斩手下劈掌 そして袖巻徳建大師の斩手劈心掌→亮翅斩手劈心掌と、
徳揚大師の夫子拱手→懐中抱月→白虎洗臉、
そして、仙人归洞显法像と仙人帰洞も
かなり趣が違います。

しかし、
構成こそ違いますが、
徳建大師の斩手下劈掌と
徳揚大師の泥里剥葱は同じものであることはすぐに分ります。

そして、
徳揚大師の羅漢十八手にも
泥里剥葱が4回も出てくるので、

この "泥里剥葱" が
羅漢十八手の主要招式であることは間違いなさそうです。

さて、このブログでの本題は、
少林寺拳法ではなぜ、羅漢拳を衣捕りの技と定義したかということですが、

(少林寺拳法の羅漢拳の大部分が、
相手の手首をS字に曲げる羅漢拳第一・袖巻や、
相手の掌を上に向け手首をコの字に曲げる羅漢拳第二・袖捕のような、
"巻き"や"捕り"で構成されています。
しかし、そのような違いこそあれ、
相手に上膊(上腕)をつかまれようが、袖をつかまれようが、
巻きや捕りで相手の関節を極めようが、
体捌きは泥里剥葱と同一です。以上追記)

開祖が言う古式の羅漢手が、
羅漢十八手であったと考えれば、

この泥里剥葱(斩手下劈掌)が、
少林寺拳法・羅漢拳第一「袖巻」の原型になったのではないか?
そう思えてなりません。

<少林寺拳法開祖 羅漢拳第一・袖巻/徳建大師 火龙步~斩手下劈掌/徳揚大師 仙手摘茄~泥里剥葱>
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31272727_14?1266375322
(カッパブックス秘伝少林寺拳法より引用)

袖が泥の付いた青葱の皮で、
前腕が白い部分。

捲き込んで袖がめくれて白い前腕が見える。
泥里剥葱(泥の中の葱を剥く)は、こんなイメージ?!



<追記>
開祖の経歴に関して懐疑的にならざる得ないのは、
恒林和尚と会ったことについての記述が原因ですが、
こうやって技術的に見ていくと、
やはり源流に嵩山少林寺の技術を感じてしまいます。
開祖の言に依れば、
文太宗(文子明)老師が少林僧だったということで、
義和門拳や少林寺拳法が、
北少林を冠に付けて名乗っているのですから、
昔も今も、"少林派" であるのは間違いありません。

それ以上でもそれ以下でもないのでしょう。

つづく。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/31359568.html

少林派としての少林寺拳法 記事をクリップするクリップ追加 2010/2/16(火) 午前 0:36 古式の羅漢手とは? 格闘技 0前の記事からの続き。

少林寺拳法の羅漢拳が、
古式の羅漢手や摔跤の衣捕りから再編したということから、

羅漢十八手の主要招式である泥里剥葱が、
少林寺拳法の羅漢拳第一「袖巻」になったという仮説を展開しました。


その追記として、

>>開祖の経歴に関して懐疑的にならざる得ないのは、
>>恒林和尚と会ったことについての記述が原因ですが、
>>こうやって技術的に見ていくと、
>>やはり源流に嵩山少林寺の技術を感じてしまいます。
>>開祖の言に依れば、
>>文太宗(文子明)老師が少林僧だったということで、
>>義和門拳や少林寺拳法が、
>>北少林を冠に付けて名乗っているのですから、
>>昔も今も、"少林派" であるのは間違いありません。

>>それ以上でもそれ以下でもないのでしょう。

と書きましたが、若干補足します。


この恒林和尚が亡くなったのは、
1923年大正十二年(民国十二年)。

開祖が嵩山少林寺を訪れたのは、
1936年昭和十一年 秋。

これが開祖の経歴に懐疑的にならざる得ない原因で、
少林寺拳法が中国武術と何の関係もないとする否定派の論拠として
唯一、客観的なものですが、
それも、開祖が嵩山少林寺を訪れていないとする論拠にはなり得ますが、
少林寺拳法が中国武術の影響を受けていないとする論拠にはなりません。

また、開祖が全く訪れていないとするのにも若干の疑問が残ります。

日本少林寺拳法連盟が1979年に訪中した際の様子を、
「少林拳士の里帰り。日本少林寺拳法連盟訪中団」と題して、
曽慶南という中国人の記者が『人民中国』に書いた記事には、

>>『宗道臣先生、お久し振りです。覚えていらっしゃいますか』
>>『おお……』宗氏も驚きと、喜びで、すぐには声も出ないようだった。
>>この長老は、釈徳禅といい……

とあると、開祖が講話の中で紹介しています。(丸廉より抜粋)


徳禅和尚が、開祖を覚えていたと言う記事です。


否定派には、

曽慶南記者の書いた記事自体を否定する客観的論拠が必要ですが、

曽慶南記者の記事や徳禅和尚の言を否定する確固たる論拠があるのでしょうか?


私自身、

この『人民中国』の記事そのものを読んだことはありませんが、

とともに、また、曽慶南記者の記事や徳禅和尚の言を否定する材料もありません。


泥里剥葱が、

羅漢十八手の招式として存在していたことで、

開祖が羅漢十八手を「古式の羅漢手」として認識していたと窺えるので、

少林寺拳法が、

少林羅漢十八手(古式の羅漢手)に影響を受けた

"少林派" として捉えるには充分であると感じています。


もちろん、それでは、

開祖が少林寺を訪れたことの客観的論拠にはなり得ませんが、

徳禅和尚が覚えていたのであれば、

それも肯定的に捉えたいと思っています。


では、

開祖が嵩山少林寺を訪れたのが事実であれば、

開祖があった人物は、誰だったのか?

時期的に考えれば、

淳朴和尚が1929年~1938年まで当家和尚だったようなので、

そのころの知客僧(接待役の僧)が応対したと思うのですが、

残念ながらその人物を特定できる材料はありません。

その人物が特定され、傍証になり得る記録が発見されることを願っています。

当時の知客僧が釈徳禅和尚であり、
そのため開祖のことを覚えていたとのこと。『少林寺拳法五十年史 正史』(p.475)より


つづく。


未読ではありますが、
『可能性の種子達』茨城高萩道院長・作山吉永先生著には、
1979年に開祖とともに嵩山を訪れた際の随行録を書かれているようです。

興味のある方はどうぞ。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/31395151.html

少林寺拳法の原型 古式の羅漢手について まとめ 記事をクリップするクリップ追加 2010/2/20(土) 午前 4:16 古式の羅漢手とは? 格闘技 0古式の羅漢手とは羅漢十八手であり、
その中の"泥里剥葱"が羅漢拳第一・袖巻である!と、
少林寺拳法の原型とは part1から手順を追って見てきましたが、
門外漢の方には説明不足の感じがあるので
更に補足説明していきます。

少林寺拳法の原型がはっきりしているのは、
古式の羅漢手と蒙古角力(モンゴル相撲)です。

>>羅漢拳は龍系諸技や五花拳とともに北少林柔法の主系をなす重要な技系である。
>>技法はきわめて精妙であり、古式の羅漢手や把式、蒙古角力の中から集めたものを
>>羅漢拳として新編成したものである。(少林寺拳法奥義 P.230)

「少林寺拳法の羅漢拳」とは、

>>衣捕りというのは、文字通り、衣服をつかむことである。
>>少林寺拳法では、こういう場合に、
>>つかんだ相手の手の逆をとって押さえたり、
>>投げたりするのであり、
>>その法形を羅漢拳と呼んでいるのである。(秘伝少林寺拳法P.226)

モンゴル相撲に関節技がないことから考えれば、
「少林寺拳法の羅漢拳」に分類されている関節技は、
古式の羅漢手から集めたものが多いはずです。

そこで、"羅漢拳"というキーワードから、
このブログでも「嵩山少林寺に伝わる少林羅漢拳」の動画を見てきましたが、
「少林寺拳法の羅漢拳」の原型を特定できるものはありませんでした。

ただ、釈徳揚大師の羅漢十八手の動画中の説明でも解るように、
羅漢十八手が小羅漢(少林羅漢拳一路)、少林大羅漢(二路)、少林羅漢拳三路、
少林羅漢拳三十六式、羅漢短打、羅漢一百零八式、羅漢三百六十式など、
かなり多くの套路に変化したというのが現在の嵩山少林寺での認識です。

つまり、"古式" と羅漢 "手" いうキーワードから、
「羅漢十八手」 に行き着きます。


少林寺拳法では、

抜き技(解法)の法形(招式)を竜王拳と分類して、
竜王拳第一・小手抜き、

相手が手首や腕を掴んでくるのに対して関節を極める法形を
龍華拳第一・逆小手として、

それぞれの系統の基本技を"第一"と呼んで分類しています。

つまり、少林寺拳法の羅漢拳では、
「羅漢拳第一・袖巻」が基本形です。

そして、少林寺拳法の羅漢拳の大部分が、
相手の手首をS字に曲げる羅漢拳第一・袖巻や、
相手の掌を上に向け手首をコの字に曲げる羅漢拳第二・袖捕のような、
"巻き"や"捕り"の名前が付いた関節技で構成されていますが、
相手に上膊(上腕)をつかまれようが、袖をつかまれようが、
実際の体捌き(身法)は同じ動きで行われます。

それが、羅漢十八手に見る"泥里剥葱"と同一の身法でした。
(釈徳建大師系では斬手下劈掌)。

<少林寺拳法開祖 羅漢拳第一・袖巻/徳建大師 火龙步~斩手下劈掌/徳揚大師 仙手摘茄~泥里剥葱>
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_31272727_14?1266375322
(カッパブックス秘伝少林寺拳法より引用)

この泥里剥葱は、
十八手しかないはずの羅漢十八手中で4度も繰り返される主要招式です。
つまり、基本形です。

宗道臣先生の師匠である、
文太宗(字は子明)老師は、若い頃嵩山少林寺の僧でしたから、
古式の羅漢手という言い回しで、
羅漢手の基本形として泥里剥葱を指導したであろうという仮説が成り立ちます。

では、なぜ、泥里剥葱という名称が伝わらなかったのか?
という疑問にぶち当たりますが、
現代の嵩山少林寺でも名称の違いがあり、
釈徳揚大師系では「泥里剥葱」ですが、
釈徳建大師系では「斬手下劈掌」と呼ばれていて統一されていません。

このような実情について宗道臣先生は、

>>昔から中国では拳法各派とも秘密主義を採り、
>>各門派共技術をかくすためにそれぞれ独自の立場で、
>>特種な名称や番号などを附して、部外者に解らぬようにしていた為に、
>>その名称は難解であり、その組織と修行の方法は複雑で困難を極めていた。
>>名称についても一例をあげると、義和門で鶴翼煽灯と名附けている打手技の一種を、
>>白蓮門系では白蛾飛翔と云って居り、又、法形の名称にしても、
>>白虎献掌とか鳳風単舞或いは双龍出海、
>>餓虎擒羊等と云う難解で而も意味の不明な名称がつけられて居る。
>>名称と内容が何等の関係もなく存在し、
>>その上法形を組織している各種の技法に、
>>とてつもない奇想天外な名がつけられているのであるから、
>>専門家でもその全部を記憶している人はまれであったのが実状である。
>>著者(宗道臣)は修行当時から、毎日教えられる各種の技法に対して、
>>自分で解り易いように日本式の名をつけて、記憶して行ったので、
>>どうやらこの複雑難解な少林寺拳法の組織と技法をこなすことが出来たのである。
(少林寺拳法教範より)(丸廉より抜粋)


各招式に日本式の名前を付けて、

解りやすく整理していったと言うことですので、

系統毎に分類した法形(招式)の基本形を"第一"とし、


羅漢拳第一・袖巻として"泥里剥葱"を配置したのではないのか?

というのが、私の仮説です。


長々書いてきましたが、
開祖が原名を書き残している招式の数も少なく、
袖巻に関して原名は残されていません。

つまり、これを客観的に証明する材料はありません。

人物やその技を類推できても証明する術がないのは公相君と同様ですが、

私自身の中で、

少林寺拳法が嵩山少林寺の技術に影響を受けた少林派の拳法であると捉えるには、

これで充分だとも思っています。


以上、今までの重複となりましたが、まとめてみました。

(終わり)

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/31486062.html

義和門拳について 記事をクリップするクリップ追加 2010/3/2(火) 午前 2:14 義和拳とは? 格闘技 0文太宗老師の経歴から考えれば、
当然、義和団の拳法と言う意味で
義和門を名乗っていたであろうと考えられます。

この義和拳は、
梅花拳との関係性が語られることが多く、
梅花拳が義和拳として名乗っていたのは事実のようです。

確かに梅花拳には擒拿が多くあり、
柔法が多い少林寺拳法が義和門拳と称していた時代に、
何らかの影響を与えていた可能性は否定できませんが、
だからといって、梅花拳=義和拳=少林寺拳法と結論づけるには早急すぎます。

まず、
>>湖北の袁君は梅花拳というのを見せてくれたが、剛法のかんたんなものであった。
(カッパブックス 秘伝少林寺拳法 P.61より)

と開祖が記しているように、
梅花拳と自身が学んだ義和門と同じものという認識はしていなかったようです。

それに義和拳と言われていたのは、梅花拳だけではありません。

義和団の乱は、
仇教事件が度々起こっていた中で、
暴行犯をかくまった山東省のドイツ系キリスト教会を
襲ったことがきっかけとなった排斥運動で、
山東省の武術門派がその勢力になったというのが定説。

その中核になったのが梅花拳であるようですが、
山東省には梅花拳だけではなく螳螂拳もあり、
その他の門派も盛んな地域です。
その地域性から言っても
その門派の血気盛んな若者たちが排斥運動に関わったことでしょう。

また、それらの中にも梅花を冠する門派や套路があり、
技術的にも互いに影響を与えていたと考えるべきでしょう。

それでは、
少林寺拳法の原型になった義和門拳に
梅花拳の影響はあるのでしょうか?

少林寺拳法では剛柔一体の招式を「五花拳」に分類しています。

この場合の剛柔一体とは、相手の突きを掴んで投げる技を意味します。

この五花拳は、さらに、
紅花、梅花、白蘭、牡丹、桃花の5つに分けられています。

第一系 紅花…上受投類
第二系 梅花…片手投類
第三系 白蘭…閂投類
第四系 牡丹…仏骨投類
第五系 桃花…天秤投類 に分類されています。

少林寺拳法では梅花拳という言い回しはしませんが、
唯一、この分類に「梅花」という名前を使います。

第二系・梅花の片手投げとは、合気道で言う四方投げです。
八卦掌でも同種の投げ方は見られますが、
片手投げも四方投げ同様にいくつかの入り方があり、
その幾つかのパターンを梅花としてまとめています。

古式の羅漢手を探っていて感じたのですが、
半月首投げも剛柔一体の投げ技にも関わらず、
五花拳ではなく羅漢拳に分類されていますし、
相手の中段直突きを捕って投げる小手投げは龍華拳です。

少林寺拳法は法形(招式)のみを残して、原型になった套路を廃してしまいましたが、
原型になった套路には比較的忠実に分類しているような気がします。

なので、五花拳の「紅花、梅花、白蘭、牡丹、桃花」という名称と、
それに符合する招式を有している套路を特定できれば、
義和門の原型が分かるはずです。

梅花拳の成拳や拧拳を見る限りでは、
逆小手のような擒拿や挟倒(蟹挟み)のような摔法の分量が多い。
ただ、少林寺拳法の挟倒は羅漢拳に分類されていますし、
梅花拳の閂投げ風の用法も見つけましたが、
それは、少林寺拳法では五花拳の白蘭に分類されるもの。

片手投が梅花拳にとって象徴的な招式かは解りませんでした。

それに、梅花拳の名称は、
梅の5つの花瓣を象徴した五勢の架子(=立ち方。大勢、順勢、拗勢、小勢、敗勢)に由来していて、
残念ながら、五花との関連性を直接臭わせるものではありません。

梅花拳以外には、
少林拳の姿勢に五花坐山(坐山勢)というのがあったり、
少林五花連環拳という套路があったりするのですが、
これもやはり関連性を疑わせるものではありませんでした。

ただ、山西省にはそのものズバリ「義和拳」を名乗る門派があります。

それは、中国武術・武術博物館/中国武術大辞典によると、
>>伝えによると義和団の頭領の一人張義が伝えた物とされる。
>>この拳は手、眼、身、法、歩、精、神、気、力、功の運用を重視する。
>>張義はかって山西省平定県一帯で義和団を組織した時、この拳を教えたであろうと思われる。
>>それ故山西省平定県一帯で流行した。
>>義和拳には徒手套路が1~5段有る、
>>器械套路には風火圏1~6段、義和六合刀1~8段、斉眉花棍1~6段などが有る。
>>拳と器械の套路は、動作内容が構成が整い力が有る、
>>剛柔がそろい、活発で変化が多い。拳勢は外形を強調せずただ打つ事を求める。とあります。

山西省平定県文化体育局 武術社火には、
>>义和拳据传由义和团所属的头領之一张义所传,
>>张义曾到本县张庄一带组织义和团。
>>拳种主要代表人物张庄的郭忠孝,其曾祖父即为张义之高徒。

また、ここに
>>85年10月 张庄武术运动员郭忠孝参加全国武术观摩交流大会,
>>其参赛的义和拳和日月風火圈,双获第三名。という文を見つけました。

そこで、福昌堂『武術』86'1月号の85年観摩交流大会の記事を確かめてみましたが、
蟋蟀拳というめずらしい拳術の記述はあっても、
義和拳や郭忠孝老師についての記述はありませんでした。
もしかしたら五花の名が付く套路や招式が存在するのかも知れませんが、
福昌堂の直接取材ではなく『当代体育』と『中国体育』の特約記事なので詳細は分かりません。

とりあえず、ネットに上がっている動画だけは貼っておきます。

<義和拳>

動画を見る限りでは関連がないように思えますが、
一見するだけでは同じものと気付かない釈徳建と釈徳揚の羅漢十八手の例があるので、
少林寺拳法と関係ないと言い切るためには少し材料が足りません。
せめて、招式名称が解ればいいのですが……


その他の可能性を探して「五花」で検索を掛けると、

やたらと出てくるのが四川の景勝地・五花海。


そこで、ひっかかることがあります。

義和門第十九代師父・黄龍伯老師の存在です。

開祖の師匠である文太宗老師は、
>>清末の光緒十三年に、西欧諸国の中国侵犯を憂い、下山して秘密結社哥老会に入り、
>>義和門拳十九代師父黄龍伯の弟子となり、その跡目を継がれたの拳の名手であった。
(少林寺拳法奥義 昭和五十六年五月十五日八版 P.57~60より抜粋)

とあるように、
哥老会で黄老師に弟子入りしています。

黄老師の出身地は書き残されていないので、
黄老師がとこで義和門拳の原型を受け継いだのかは分かりませんが、
この哥老会は、四川を中心にした結社であったようですから、
義和門拳の原型の伝承地域は四川周辺なのかも知れません。

そこで、さきほど検索にヒットした五花海。

藻類や沈殿する植物などで
湖面の色が五色に変わることから付いた名前のようですが、
このイメージで五花拳が、
紅花、梅花、白蘭、牡丹、桃花と命名されたのではないかと妄想がふくらみましたが、
五花海の五花が紅花、梅花、白蘭、牡丹、桃花である形跡は見つけられませんでした。

他に、四川と五花で検索すると、四川峨眉派の五大支派、
黄陵派、点易派、青城派、鉄佛派、青牛派で五花というのも検索にヒットしました。

義和門拳が北少林を冠している少林派なので峨眉派は関係ないと思いますが、

五花という言い回しは、四川省辺りでは常套句なのでしょうか?

そもそも中国語では「五花八門」が十人十色という意味の熟語のようですが、

五花には五行という意味もあり、古代の陣形の意味もあるようです。

「五行」という道家の言い回しを嫌って五花としているのでしょうか?

それとも単純に、十人十色・様々な支派という意味だけで使っているのでしょうか?

どんどん謎が深まって、
あらぬ方向へ進んでしまっている気もしますが、
とりあえず頭の中を整理する意味で書いてみました。

(つづく)

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/31677601.html

梅花拳について 記事をクリップするクリップ追加 2010/3/21(日) 午後 5:23 義和拳とは? 格闘技 0前の記事では、

義和門拳の原型を探って、
可能性を峨眉派にまで広げてしまいましたが、

まずは、歴史上、義和拳と呼ばれた梅花拳についてもう少し探ってみようと思います。



梅花拳が義和団を構成した主要門派であったことに間違いはないようですが、

>>湖北の袁君は梅花拳というのを見せてくれたが、剛法のかんたんなものであった。
(カッパブックス 秘伝少林寺拳法 P.61より)
と開祖が記しているように、

梅花拳と御自身が学んだ義和門や白蓮門と同じものという認識はしていなくて、
直接的な関係性を明確に示すものはありませんでした。

ただ、その歴史的背景から考えると、
全く関係がないとも言い切れないのも事実。

そこで、もう一度、その技術から見直して見たいと思います。

梅花拳の成拳では、逆小手のような捕り方をしています。
イメージ 14















<少林寺拳法・龍華拳第一・逆小手>
イメージ 9イメージ 10イメージ 11イメージ 12イメージ 13


イメージ 1
イメージ 2
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イメージ 4
(追記: 梅花拳では、外摆や卷腕 、外瓣と呼ばれているようで、
成拳という套路に出てきます。
少林寺拳法でも、逆小手は龍華拳第一として、逆技としては初めに習うものです。)

しかし、これは、梅花拳のみならず、
擒拿を行う門派にとってはコンパルソリー。
だから、梅花拳=少林寺拳法とは言い切れる要素にはなりません。

梅花拳の成拳ような対打形式の套路では、
技の始まりと終わりがわかりにくいので、燕子杰老師の講解の様子を。
2:00秒頃には、逆小手のような捕り方から逆手投へ移行する技や、
4:18秒頃には、半月返しというか、燕返し+掬い首投げのような技も見られます。

この半月返しや燕返し、
少林寺拳法では白蓮拳として分類しています。

少林寺拳法の白蓮拳は、全部で6種類あり、
相手の攻撃を受けた手でそのまま反撃する段反攻の技の総称なのですが、
梅花拳のその技にかなり近いものです。

<少林寺拳法・白蓮拳>
第一系 燕返
第二系 千鳥返
第三系 半月返
第四系 払受段突
第五系 水月返
第六系 三日月返

白蓮門は、白蓮教系の宗教結社に
その名称を由来するものであろうと考えるのですが、
義和拳は白蓮教系の拳法であったという説もあり、
義和団というつながりの中で、
義和拳、白蓮拳はそれぞれ影響し合っていたのではないかと考えます。

教範にも、
>>名称についても一例をあげると、
>>義和門で鶴翼煽灯と名附けている打手技の一種を、
>>白蓮門系では白蛾飛翔と云って居り、 とあります。

梅花拳にも、
両手で受けて返す燕返し風の技を繰り返す動画もありますが、
イメージ 6イメージ 7イメージ 8


<少林寺拳法・白蓮拳第一系・燕返>
イメージ 5
(この後、カカト落しを行うのは青坂先生独自のもの。
右内受け→右手刀までが燕返。
その後の連反攻は、左中段逆突き→右上段突き→右回し蹴りが一般的。
秘伝少林寺拳法では、左中段突き→左逆蹴り→右下受け→右待蹴りの連反攻で紹介されています)

少林寺拳法 白蓮拳第一系・燕返しの原名は飛燕。

現在では、鶴翼煽灯や白蛾飛翔が、
少林寺拳法のどの法形の原名なのかも分かりませんし、
これらの名称が梅花拳に存在するかどうかも分かりません。
それに、やはり、この手の技も梅花拳の専売特許ではありません。

ですから、断定的なことは何一つ言えないのですが、
全く関係性を否定するわけにもいきません。

今日も混迷を深めるだけとなってしまいましたが、
頭の中を整理するために、とりあえず。

(つづく)

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/31710663.html

梅花拳と白蓮拳 梅花拳の刈足 記事をクリップするクリップ追加 2010/3/25(木) 午前 0:44 義和拳とは? 格闘技 0前の記事の続き。

義和団は白蓮教を軸にした関連性で考えなければならないと思うのですが、
ジェット・リーの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』で見られるように、
中国では白蓮教はやはりカルト扱いなのでしょうか?

宗教が愛国主義や排斥運動に加わってしまうと、
テロ行為を正当化してしまうのは古今東西変わりませんが、
それに荷担した事実がダークイメージに繋がるのか、
義和や白蓮と名の付く門派にはなかなか検索がヒットしません。
蓮花拳はあっても白蓮は拾えませんでした。

この曹州梅花拳のサイトから抜粋すれば、
>>冠县分支三辈弟子杨四海,以义和拳邪教被清庭捕拿。
>>山东分支三辈弟子王伦是清水教起义领袖。
>>南宫县三辈弟子李存仁、魏学宗、简七、王三、严龄等是白莲教起义成员。
>>义和团领袖赵三多(梅花拳十四世)于光绪22年发动义和团起义。とのこと。

開祖は梅花拳と、
自身が学ばれた義和拳や白蓮拳を同一のものだという認識はなかったようですが、
白蓮教の拳術と言う意味であったであろう
少林寺拳法の白蓮拳には、
その歴史から梅花拳の影響を少なからず感じてしまいます。

梅花拳を見てみると、
少林寺拳法の白蓮拳と同じような段反攻(受けた手で反撃する)が見受けられることは
前回の記事で触れましたが、
梅花拳の招式には少林寺拳法・白蓮拳第二系"千鳥返" で見られる刈足が多くあります。

<少林寺拳法・白蓮拳第二系・千鳥返>

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少林寺拳法の一般的な演武では、
千鳥返しでの足刀刈りぐらいしかしませんが、
少林寺拳法には、
脚刀刈り・後踵刈り・足刀刈り・内足刀刈り・足底刈りの5種類の刈足があります。

一方の梅花拳の成拳や拧拳をみるとかなりの分量を占めています。


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千鳥返そのものズバリというものではありませんが、
6系しかない少林寺拳法の白蓮拳では、
この刈足を行う千鳥返しは第二系に置かれていて大きなウエイトを占めます。

う~ん……

白蓮を冠する梅花拳の支派でもあれば
この仮説も成り立つのですが……

(つづく)

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/31745957.html

文聖拳は梅花拳の支派か? 記事をクリップするクリップ追加 2010/3/29(月) 午前 2:57 義和拳とは? 格闘技 0前の記事からの続き。

梅花拳の支派で義和や白蓮を冠しているものはないか
調べてみたのですが検索にはヒットせず。
そこで、
>>冠县分支三辈弟子杨四海,以义和拳邪教被清庭捕拿。にある、
「杨四海」を検索していたら、文聖拳に行き当たりました。

>>清乾隆年间,山东冠县杨四海将文圣拳传嘉祥县的杜宏信。
>>后杜宏信返回家乡广授文圣拳技艺

またの名を五歩架、神拳と言うようですが、
その五歩架という名前には梅花拳の五勢の影響を感じますし、
神拳とよばれた義和拳の支派ではなかったのか?という疑問が生まれます。

ただ、この文聖拳。
福昌堂の『武術』84年秋7号の、
蘭州で行われた中国武術観摩大会の特集記事で、
副評議長だった李徳印老師が出場した門派の中から、
>>私の印象に残ったのは、まず山西の「功力拳」と
>>山東の文聖拳です。
>>功力拳は長拳に属する拳法で、
>>文聖とは孔子を指します。少林拳に属します。とあります。

孔子と白蓮教。
う~ん……思想的に一致しません。

もうひとつ気になるのは、
楊四海を楊士海と表記しているところもあり、
本当に同一人物なのかという疑問も残ります。

それに、
>>将赵匡胤所习的老洪拳和文功静坐法相结合,发展演变为文圣拳。
とあるように、その源流は老洪拳としているようです。

文聖拳を伝えた揚四海が
梅花拳の三輩弟子の楊四海と同一人物なら、
文聖拳は梅花拳の支派と捉えることも出来ますが、
確定的なことは言えません。


少林寺拳法の立場から見た場合、
上膊巻や切小手(小纏)、龍投風の投げも見られます。
<少林寺拳法・龍投げ>                    <文聖拳>
イメージ 1ただし、それらはけっして文聖拳特有のものでもなく他の門派にも見られるもの。
厳密には文聖拳の龍投げは逆小手からではなく、
小纏や推手からの連絡技ですし、
それが梅花拳にもあるのかは定かではありません。

文聖拳が梅花拳の支派だったとしたら、
少林寺拳法の源流もこのように名前が変わってしまっている可能性もあり、
見つけるのは至難の業です。う~ん……

(つづく)


(追記)
http://www.wushu2008.cn/archiver/?tid-69764.html に依れば、
どうやら楊四海と楊士海は同一人物のようです。
また、文聖拳の創始者・刘奉天は、八卦教の創始である刘佐臣と同一人物とのこと。

動画で文聖拳を演じている老師のブログも発見したのでついでに。
ブログによれば孔子との絡みも土地柄らしいですが、
楊士海が生まれた山东省冠县には孔村があって梅花拳との関係性も深いようです。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/31745979.html

五花拳「紅花」は紅拳? 記事をクリップするクリップ追加 2010/3/29(月) 午前 3:23 義和拳とは? 格闘技 0前の記事からの続き。

義和団を検索していて、
大刀会が紅拳と呼ばれていたことを知りました。


中国山東省冠县のHPから
>>阎书勤(1860~1900),
>>冠县梨园屯(今属河北省威县)人,
>>冠县义和团运动的主要组织者和领导者。
>>家贫寒,习练红拳,武艺高强。
>>1893年(光绪十九年),与同称“十八魁”的高元祥等人一起,
>>武力护卫拆毁天主教堂后在其址上建起的玉皇庙,反对洋教。
>>又联合梅花拳首领赵三多,组成义和拳。


閻書勤は紅拳の人らしく、
義和拳のルーツは梅花拳のみならず、
紅拳の関連性も調べなければならなくなりました。

そこで紅拳で検索してみたら、紅花炮という套路があるようです。


その動作の意味までは分かりませんでしたが、
そこでふと思ったのが、
少林寺拳法・五花拳の「紅花」。

五花拳の「紅花」は上受け投げ類をまとめたものです。








この上受け投げは、
相手が裏拳打ち下ろしで攻めてくるものに対して、
上受け突きをしてそのまま掴んで投げるというもの。


ハタと思いつき、福昌堂『武術』84年秋7号を読み返してみました。
それは『紅拳、八極拳の深奥』という記事で、
安天栄老師が紅拳の特徴について語っています。
>>その特徴としては、まず「撑斬為母、尽八法之変」ということあげられます。
>>これが第一の特点です。
>>この言葉の意味は、"撑"すなわち"架打"と、"斬"すなわち"劈打"を中心とし、
>>その他の八つの手法を組み合わせて変化に富んだ攻撃を行う、ということです。


この架打は上受け突きのことを指し、

劈打は鉄槌(掌拳)での打ち下ろしを指します。

まさに上受け投げの攻防の概念そのものです。

ですが、動画中の套路を見ても
撑补式(弓歩架打)や上受け突きのような馬歩架打を見つけることはできても、
上受け投げそのものを見つけることが出来ませんでした。
しかし、尽八法之変とあるように、
当然、拿法や摔法への変化も考えられます。

現状では、全く客観的な根拠はないのですが、
紅花は紅拳で、梅花が梅花拳、そのほかの牡丹、白蘭、桃花も、
義和団に関係したなんらかの門派を示していて、
その特徴的な技術を集めて五花(=五つの門派の拳)としたのではないか?
という仮説がふつふつと沸き上がってきます。

ただ、未だに梅花拳で片手投げが拾えていないので、
この説で押し切るわけにも行かないのですが、なんだか近づいているような気もしています。

(つづく)

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/31765844.html

五花拳は剛柔一体という分類ではなかった !? <梅花拳の片手投> 記事をクリップするクリップ追加 2010/3/31(水) 午前 3:17 義和拳とは? 格闘技 0
前の記事からの続き。

なぜ、五花拳は、
「紅花」「梅花」「白蘭」「牡丹」「桃花」に分類されているのか?

前の記事では、義和団という繋がりから、
「紅花」は紅拳由来ではないかという仮説を立てました。

今回は「梅花」です。

義和団を構成した主要門派が梅花拳であることについて触れてきましたが、
少林寺拳法で梅花を冠する五花拳・片手投げに、
その影響があるのかを探っていきます。

<少林寺拳法・五花拳「梅花」=片手投>
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<梅花拳-背摔>
この梅花拳の背摔は以前から知っていましたが、
少林寺拳法の片手投げとは入身転身の方向が逆なので、
直ちに同じものと考えるわけにはいかずにいました。

ですが、梅花拳の特徴を探る内に、
投げそのものよりも、
<梅花拳-背摔>の動画で刁住腕部と表記されている動作部分が
梅花拳にとっては重要な招法なのではないかと思えてきました。

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刁住腕部は、相手の腕を引っ掛けて固定するという意味のようで、
その正式な招式名称までは分かりませんでしたが、
この動作は成拳でかなりの頻度繰り返されます。
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このまま相手のアゴを押し上げる招式に移行していますが、
入り方は途中まで片手投と同じです。

ここで梅花拳の基本を押えておかなければなりませんが、
梅花拳には名前の由来になったほど重要な五勢があります。
それを行歩で行うと八方歩と呼ばれ、
この八方歩によって近づいてファーストコンタクトをするのが基本戦法のようです。

百度百科の梅花拳の項から拾えば、
>>梅花拳是没有固定的拳术套路。它的基本拳路称为“架子”。
>>“架子”的构造就很特殊,它有五个基本的拳势称为“桩步五势”,它们在练习时要静止站桩。
>>此外就是运动变化迅速的“行步”。
>>“桩步五势”和“行步”的练习要在拳场中走遍东西南北各个方向也称为“四门八方”。
>>这种串连起来的拳路可按一定路线周而复始的循环练习。
>>初学者可以先学基本的和变化简单的,
>>随著功力加深和练功时条件的不同再不断补充和不断变化各种拳势和动作。
>>梅花拳的对练拳路“成拳”除了必须要在“四门八方”各个方向上练习外,
>>它的抓拿摔打的动作和拳势皆可以因人而异,随时编造。……というように、
八方歩は、基本の五勢を応用したもののようですから、
この八方歩でのファーストコンタクトが梅花拳の基本概念そのものを表しているとも言えます。

翻って少林寺拳法の「梅花」を考えれば、
「梅花」とは投げ技そのものを指すのではなく、
この腕の捕り方が「梅花」なのではないかと感じてきました。

少林寺拳法の五花拳は、
通常、剛柔一体(相手の突きを捕って投げる)の技という分類のされ方ですが、
実際には、自分から相手の腕を捕りに行く仕掛け技が多くあります。

片手投げはその代表ですが、
五花拳の半分近くは仕掛けと捕まれた状態から始まります。

剛柔一体の柔法として分類するのであれば、
小手投げや半月首投げ等の相手の突きを捕って投げる技も五花拳に分類されるべきですが、
そのような分類はされていません。

開祖は、元ネタの義和門拳の五花拳に忠実なまま分類しているのではないかと思えます。

前の記事で展開したように、
「撑斬為母、尽八法之変」を基本とした紅拳の影響を受けて
上受投げ類を「紅花」としたのではないかという流れで考えれば、

元ネタの義和門の五花拳は、
剛柔一体としての分類したのではなく、
捕り方で分類したのではないかという仮説が浮かび上がります。

「紅花」は、
上受投げ類と分類して、上受突(馬歩架打)で相手の劈打を捕る。
(撑斬為母、尽八法之変を基本とする紅拳の影響)

「梅花」は、
自分から捕りに行ったり、相手に捕まれたりの違いはあれど、
相手の腕を右対右、もしくは左対左で外や内へ振るように捻って捕る。
つまり、この部分。
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梅花拳では、このような手法で相手に近づくようですが、
この記事を書いているうちに、
ようやく片手投げと同じ方向に入り身転身をしている動画を発見しました!
<Youku 梅花拳対打より>
イメージ 14イメージ 15イメージ 18イメージ 19イメージ 20イメージ 21イメージ 22イメージ 23イメージ 16イメージ 17裏拳を合せるような動作が余計に感じるかも知れませんが、
梅花拳の五勢(架子という定歩套路)を活歩でそのまま行っているようです。
若干背負い投げ気味ですが、
この動画を発見して、かなり梅花拳と少林寺拳法が近づいたように感じます。

さて、その他の五花拳についてですが、

「白蘭」は、閂投類という分類で、
これはそのまま、閂という捕り方で分類したものです。
白蘭も剛柔一体の投げ技だけで構成されているわけではなく、
自ら仕掛けて捕る片手閂投げがはじめに配置されています。
(閂投類は、森道基先生が言うところの、
フロントダウン系の片手閂投と、
バックダウン系の押え閂投が同じ分類に括られているので、
投げ方で区分することも出来ません)

その考え方に則れば、
「牡丹」の仏骨投類や「桃花」天秤投類も、
投げ方そのものではなく、
相手の仏骨や肘関節を捕って投げにいたる直前までが、
「牡丹」や「桃花」なのではないか?と思えてなりません。

少なくとも、
そう考えれば、五花拳の中に仕掛けと剛柔一体の投げが共存しても
分類上の齟齬がありません。

そして、そのプロセスを特徴とする
義和団に属した門派が五花(五つの門派)として存在するのではないか?という
都市伝説並みの私の仮説にも幾分かの信憑性を帯びてきます。
(全く、白蘭、牡丹、桃花の見当はつきませんが……)

(つづく)


<追記貼付>
イメージ 26開祖の片手投げは、
必ずしも床に膝をついて表現するわけでもないので、
膝をつくか、つかないかが、
梅花拳の背摔との大きな違いになるわけではありません。
(カッパブックス秘伝少林寺拳法より)

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/31808493.html

文聖拳も義和拳と呼ばれていた !!! 記事をクリップするクリップ追加 2010/4/4(日) 午前 4:48 義和拳とは? 格闘技 0もうすでに
「文聖拳は梅花拳の支派か?」と題した記事に
リンクを追記しておきましたが、

(追記。文聖拳の起源は八卦教・劉佐臣(後に劉奉天と改名)。
梅花拳三輩弟子・楊四海(士海)が、
八卦教の八大弟子のひとり郜雲龍の离卦文武功法(文聖功)をのちに継承して、
文聖功を発展、加えて离卦義和拳(門)を創る。
それが杜恒信によって継承されて杜家拳と名乗り、
さらに杜家と自身の祖父から学んだ宋伝平によって文聖拳と名称を定められたようです。
(中华国术论坛's Archiver【经典拳书】文圣拳 から引用。以上追記。)

文聖拳は、楊士海によって离卦義和拳(門)と称していたようです。
文聖拳は、老洪拳を源に挙げているようですが、
楊士海(四海)は梅花拳の三輩弟子でもあったようなので、
その技が似通っていても当然ですが、擒拿や関節蹴りにその影響を感じます。



さて、少林寺拳法との比較ですが、

冒頭の膝受波返し風の技はかなり近いのですが、
イメージ 1

靠や按など少林寺拳法には無い技も多いです。


しかし、擒拿のパートは、
逆手投げ、切小手、上膊巻、追記にも貼った龍投げ、肩打投などと、
かなり似通っていて興味深いものが多いです。

<少林寺拳法・逆手投> <文聖拳> <梅花拳 燕子杰老師>
イメージ 3(講談社スポーツシリーズより引用)

<少林寺拳法・龍投げ>                    <文聖拳>


<少林寺拳法 上膊巻>                   <文聖拳>
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龍投げが逆小手ではなく切小手(小纏)からの連絡だったり、
小纏の掛け手が上からだったりと、細かいところは違うのですが、
梅花拳の擒拿よりも、より少林寺拳法寄りな気がします。

ただ、少林寺拳法には、
元ネタになった義和門拳の招式名称があまり残っていないので
客観的証拠としてそれらが同じものかどうかは解りません。

少なくとも文聖拳は、
義和拳と呼ばれた門派であるので、
他の門派に同じような技があるのとは訳が違い、
義和拳と呼ばれていた門派に同様の技が存在することだけは証明されました。

かなり近いところまで来ている気がしますが……う~ん


(いくつかクリアにしなければならないポイントととして、

楊士海(四海)の弟子たちの、

どの系譜に黄龍伯老師や文太宗(子明)老師が存在するのか?

義和拳由来の招式群である五花拳が存在する系譜は?等

証明しなければならないものがありますが、

楊士海が義和拳と名乗り始めたキーパーソンであることは間違いないので、

ここを辿れば、少林寺拳法との接点が見えてくるはずです)

つづく。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/31997982.html

楊四海以外の義和拳の伝系 記事をクリップするクリップ追加 2010/4/24(土) 午後 11:46 義和拳とは? 格闘技 0前の記事の続き。

楊四海が捕まった3年後の乾隆46年には、
直隷省南宮県にも、李存仁、魏学宗、簡七、王三、厳齢らによって
義和拳を名乗る伝系が現われたことが、
高宗実録乾隆48年11月壬寅の条文に記されています。

これらの人物を楊四海同様に
梅花拳の三輩弟子に名前を連ねている中国側のブログがあり、
それを証明する拳譜が実際に存在するのかは分かりませんが、
系譜の中には組み込まれているようです。

楊四海や、その後、義和団を蜂起する、
梅花拳の趙三多との関係性が気になるところです。

また、趙三多は、閻書勤とともに蜂起するのですが、
この閻書勤は以前にも触れたとおり、紅拳の人。

文聖拳の言い伝えでは、
楊四海は、郜雲龍の离卦文武功法(文聖功)をのちに継承して
文聖功を発展、加えて离卦義和拳(門)を創るわけですが、
郜雲龍(郜難国)は宋太祖三十二式長拳に精通していて、
それが紅拳と呼ばれていたという話もあるようなので、
紅拳との絡みは、閻書勤以前からあるのかも知れません。

他にも、気になるのは、
八卦拳の始祖(訂正記事有り)である馮克善が、
文聖拳の歴史に組み込まれていることです。
董海川の八卦掌の起源を考える上で
八卦拳はよく登場するのですが、
离卦義和拳から文聖拳に到る伝系は色んな意味で鍵になりそうです。
その話は、いずれまた。

つづく。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/31998241.html

文聖拳の摔跤と少林寺拳法の羅漢拳 記事をクリップするクリップ追加 2010/4/25(日) 午前 0:10 義和拳とは? 格闘技 0前の記事のつづき。

「文聖拳も義和拳と呼ばれていた !!!」と題した記事でも
技術的な比較はしてみましたが、
今回は少林寺拳法の羅漢拳との比較です。

少林寺拳法の羅漢拳は、
>>古式の羅漢手や把式、蒙古角力の中から集めたものを
>>羅漢拳として新編成したものである。(少林寺拳法奥義 P.230)と言うように、
蒙古式摔跤が組み込まれています。

少林寺拳法奥義(P.43)においては、
単純に"摔跤"という表記もしていますが、
上記のように蒙古角力ともあるので、
開祖が内蒙古を地誌調査していた時期に
身につけたものだと思っていました。

しかし、文聖拳でも、
内功跤法として摔跤(シュアイジャオ)が兼習されているようです。


<少林寺拳法・外巻落>                  <文圣拳传承推广人的BLOG 传统中国跤术より引用>
イメージ 1(講談社スポーツシリーズより引用)

<少林寺・志村先生と藤井先生・肩車> <文聖拳>
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<文聖拳の肩打投風の返し技>
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<少林寺拳法・裏投 > <文聖拳 Youtube Wenshengquanより引用>
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今までも摔跤との比較は度々繰り返してきましたが、
(『少林寺拳法の原型とはpart2』、『朝青龍の腕捻り 摔跤の拿腕弹拧子 少林寺拳法の小手巻返』参照)

楊四海の代、もしくは、それ以前から
摔跤を兼習する伝統があったのであれば、
すでに离卦義和拳で摔跤が兼修されていた可能性が出てきます。

楊四海は清朝の文武進士だったようなので、
満州族の朝廷である清朝が奨励した摔跤を
身につけていて当然ではあるのですが、
离卦教から脱会した杜恒信以降に摔跤の兼習が始まったのであれば、
楊四海の离卦義和拳には摔跤の兼修がなかった可能性が高くなります。

実際はどの世代から兼修が始まったのでしょうか?

う~ん……
ブログも開設されていて窓口はあるので、
文聖拳の門人の方々に直接聞けばいいのでしょうが、
中国語が出来ないので、どうにもなりません。

中国武術マスコミに直接取材をお願いしたいところですが、
それを担う媒体がなくなってしまったのは残念です。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/32075315.html

まだまだあった義和門 記事をクリップするクリップ追加 2010/5/4(火) 午後 0:06 義和拳とは? 格闘技 0前の記事からの続き。

今まで見てきた文聖拳は、
義和団成立以前の清朝乾隆年間に発生した
楊四海の義和拳から伸びる伝系ですが、
以前書いたように、
義和団の乱以降に伝わった
山西省平定県の張義の義和拳もあるようですから、
義和団の乱以前と以降に出来た義和門を名乗る門派は、
区別して考えなければなりません。
(もちろん両者に何らかの繋がりがある場合も考えられます)

そして、また見つけました義和門。

短器械の演武だけなので、
文聖拳と似ているかどうかは分かりません。


元のページには、簡単な紹介がありますが、
まだ、4世ぐらいの若い門派のようなので、
義和団以降の成立だと思うのですが、
その伝承を見ても楊四海の義和拳との繋がりもわかりません。
また、直隷省南宮県に発生した
李存仁、魏学宗、簡七、王三、厳齢らの義和拳との繋がりもわかりません。

文聖拳のように若い門派でも、
その実、清朝乾隆年間からの伸びる伝承もあり、
義和団以降の成立とするにはまだ早すぎるので、
ちょっと注目しておきたいと思います。

この他にも、
中国百度で義和門で検索を掛けたら、
護身拳と名を変えた義和門もあるようですが、
その動きまでは分かりませんでした。


それにしても、
最近まで日本ではその存在すら分からず、
無いと言い切ってしまう人までいた義和門でしたが、
次々と様々な義和門の存在が判明してきます。

文聖拳の王安林老師のブログが2007年、
その伝系を拾ったのページが2009年。
上の動画も最近のアップロード。

現代の中国ナショナリズムの高まりとともに
義和団の拳士が愛国主義者として認識されはじめて、
中国側のネット環境の充実ともに義和門を名乗る拳師たちが
ぽつぽつと外に出てくるようになりました。

開祖の伝系を探るには喜ばしいことですが、
多少心配なことがあります。

開祖によれば、
>>昭和3年6月4日、
>>満州の帝王といわれた張作霖大元帥の爆死事件を転機として、
>>関東軍の対満工作はいちだんと積極化し、
>>一部では清朝の再興が真剣に考えられるようになってきた。
>>とうぜん旧清朝関係者の引き出しや、
>>反張作霖分子の組織作りが行われることになり、
>>私たち機関員は各地を大旅行することになった。(秘伝少林寺拳法P.58)

そこで特務機関が目を付けたのが「在家裡」。
その在家裡の中で陳良や文太宗と知り合って
開祖は教えを受けたということなのですが、
それはつまり、開祖が学んだ拳師たちが、
戦時中には日本側の協力者だった可能性を物語ってしまいます。

もちろん、
このブログで取り上げてきた義和拳を伝系の中に持つ門派は、
直接開祖と繋がりがあったわけではないので、
日本側の協力者ではありませんが、
もし開祖と関わりのあった拳師たちが判明したら、
彼らに漢奸(売国奴)としての汚名を着せられてしまうかもしれません。

こうやって開祖と関わりのあった義和門を明確にしようとすることが、
はたして良いことなのか悪いことなのか……

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/32542025.html

開祖の武道歴について 五花拳にこだわる理由 記事をクリップするクリップ追加 2010/6/30(水) 午前 4:12 義和拳とは? 格闘技 0ここで、開祖の武道歴について、
私の認識をはっきりさせておきます。

まずは、著作物から開祖の武道歴を引用します。

>>私が引き取られることになった父方の祖父は、
>>満鉄の調査部に籍があり、右翼の大立者、頭山満氏や黒龍会のの内田良平氏とも親交があり、
>>いつも日本と大陸の間をいそがしく走りまわっていた。
>>武道家としても多少名を知られており、剣道範士号を武徳会から送られているだけではなく、
>>槍術や柔術にもくわしく、ひまがあるときには、私を相手にして、これらを教えた。
(東京書院 少林寺拳法奥義P.55)

>>当時奉天(現在は中国遼寧省の瀋陽)にいた父方の祖父は、満鉄調査部の嘱託をしており、
>>同郷の右翼の大立て者頭山満翁や内田良平氏(おなじく右翼の大物)と親交があった。
>>そのせいか、家には年中浪人のような連中がつぎつぎやってきて泊まっていった。
>>祖父はときどきいなくなることがあって、どんな仕事をしているのか、
>>ちいさい私には分からなかった。
>>しかし、柔道もやり、槍と古流柔術の免許を持っていた祖父は、
>>ひまがあるときには、私に柔道や古流を教えてくれた。
(カッパブックス 秘伝少林寺拳法P.49~50)

>>日本の武道の修行法は、楽しむという境地とは、ほど遠いものも多いようである。
>>私は、柔道を習うまえには、小学校の五年ごろから剣道を習っていた。
>>しかし、習うといってもその練習は、毎日毎日、上級生に竹刀で殴られることばかりであった。
>>とくに教えてくれるというようなこともなく、
>>殴られながら、すこしずつ、しぜんに会得していったと言ってもよかった。
>>強いやつには絶対勝てなかったので、殴られにかよったようなものである。
>>私が、剣道を二年間習って残ったものは、寒稽古で上級生に下手な横面を打たれて、
>>鼓膜を破ったことだけだった。
>>それから私は柔道に専念した。しかし、これもあとになって考えると、
>>やはり毎日投げられてばかりいて、手を取って教えてもらうというより、
>>投げてもらいにかよったようなものである。

>>むかしの武術は、もっと極端なことをやっていたようである。
>>これは、私の祖父が若いときに古柔術の一派である不遷流を習っていたころの話である。
>>首を絞められて落ちる(絶息する)ことを防ぐ練習をさせられたことがあったそうである。
>>それはどんなことをするのかというと、毎日首つりをやるのだという。……(後略)
(カッパブックス秘伝少林寺拳法P.32~33)

10歳のときに実の父方の祖父である宗重遠に引き取られて、
確かに、柔術を祖父から教えてもらっていたようで、
これが柔術源流説を補強してしまっていますが、

文章を素直に読めば、
本格的にやっていたのは、剣道と柔道です。

そして大正15年の翌年の夏(1927年)、祖父が亡くなり、
昭和三年(1928年)中国において白蓮拳の陳良老師と知遇を得ます。
開祖は明治44年(1911年)生まれですから、17歳のときです。

陳良老師や、各地の拳法、シュアイジャオなどの老師から二、三手教えを受けながら、
文太宗老師に引き合わされて義和門を継ぐことになります。

今まで、義和拳の存在が知られておらず、
福昌堂『武術』においても、
読者の投稿の形で少林寺拳法の源流について疑念が掲載されました。
その多くは、松田隆智先生が浸透させた発勁の有無に起因するものでした。

本来、中国武術では、
合理的な動きによって打撃力を発生させるメカニクスを勁と表現しているだけなので、
本義において、勁のない武術や格闘技は存在しないはずですが
誌上でも神秘化して特別なものとして扱っていたので、
これが常識化されて現在も尾を引いています。

その後、福昌堂『武術』86年10月号特集「少林拳のすべて」と言う記事において、
>>日本にも少林寺拳法と名の付く武道もありますが、
>>技術的には中国の少林拳と共通性はなく、
>>どちらかというと日本武道の影響が濃いようです。という文章までが載ります。

これが『武術』編集部が直接した完全否定です。

また、
昭和二十三年11月16日丸亀でおこなわれた
奥山龍峰先生の八光流の直伝会に一度だけ参加した事実があり、
その経緯は、『奥山龍峰旅日記』載っていますが、
(くわしく引用している西郷派大東流合気柔術のサイトがあるので、
そちらで確認して頂くとして)
その経緯が分からないまま噂だけがネットの発達とともに拡がると、
少林寺拳法柔術源流説が半ば定説化してしまいます。

ただ、仕方ない面もあって、
既に亡くなっていたはずの恒林和尚と会っていたとする記述や、
当時、義和拳を確認できなかったことなど、
福昌堂にも少林寺拳法を少林拳と共通性はないとして
否定的に扱うそれなりの理由があったと思われます。

このブログで取り扱っている
義和拳を源流に持つ文聖拳の存在が認識されたのも、
1983年より始まった中国武術遺産発掘作業においてです。

以前の記事で書いたように、
福昌堂の『武術』84年秋7号の、
蘭州で行われた中国武術観摩大会の特集記事で、
副評議長だった李徳印老師が出場した門派の中から、
>>私の印象に残ったのは、まず山西の「功力拳」と
>>山東の文聖拳です。
>>功力拳は長拳に属する拳法で、
>>文聖とは孔子を指します。少林拳に属します。とあります。

少林寺拳法を完全否定した『武術』は86年10月号なのですが、
実は、次ぎの11月号において、
松田隆智先生が書いた「まだまだある中国人も知らない中国拳法」という記事に
こんな記述があります。
>>(……前略)
>>各地で新発見された拳法
>>以上、ざっと日本であまりしられいない名拳、奇拳を紹介したが、
>>広大な国土に多くの民族が同居する中国には、まだまだ多くの知られざる拳法や武術が、
>>各地に棉々と伝えられている。
>>ここ数年の間に伝統武術大会や武術資料発掘班の調査によって登場したものに、
>>新疆地方の分手八快、八歩転、三連手、排子手、伏地捶、覇玉肘、二展目子、撕拳。
>>甘粛省の山門拳、登州母子、山西省の八服拳、二十四趟捶、弓力拳、山東省の公儀拳、文聖拳。
>>江西省の小金練、大雀拳、十路扣、江蘇省の二紅拳、西涼拳。
>>湖南省の巫家探力、岩鷹拳、などがあり、
>>また、武術刊行物に小策打、七刑拳、屠竜拳、闇少林、大非拳、七心套子、三十六春秋、
>>空門拳、跋跎蛇拳などの名が見える。
と記事は締められています。

つまり、福昌堂の「武術」が、
少林寺拳法を否定して扱った当時の文聖拳に対する認識は、
中国内外においてもこの程度のもので、
ごく最近まで文聖拳の義和拳との関連性については知るよしもありませんでした。

また、義和拳については、
1987年7月号の「チャイニーズ・トワイライト」という記事で、
一般的に知られる義和団の乱の内容に触れたくらいで、
套路や拳譜などに触れた記事ではありませんでした。
(90年代に入ってから福昌堂『武術』を買わなくなったので、
その後、どの様に取り上げられていたかは不明です)

その間、さらに迷走して、
その他の似ている日本武道に源流を求める人もいました。
単純に似ているということがその論拠なら、

少なくとも開祖が明確に接点を謳っているものを
その比較の俎上に挙げなければなりません。

2年間学んだ剣道や、その後に専念した柔道、
祖父から手ほどきを受けた不遷流は比較対象になり得ますが、

その最たる義和拳を知らずに導き出した結論には、
何の客観性もありません。

既に少林寺拳法と文聖拳の技術比較したとおり、
その技術的な共通性は見受けられます。

日本武道源流説を唱える人のように
似ていることだけを論拠とするならこれだけでも充分なはずですが、
それだけでは客観的な証拠にならないことは心得ているつもりです。

少林寺拳法は、
義和拳や白蓮拳をもとに様々な拳法や摔跤などを整理統合して作ったものですから、
どの技が義和拳由来で、どの技が他の拳法由来なのか分けにくいのですが、

明確に義和拳由来といえるのは五花拳なのです。

>>北少林義和門拳の秘技である龍系諸技と呼ばれる三十六式の拿法や、
>>五花拳という剛柔一体の投げや、順逆の捕り方を正式に学んだ。
(東京書店 少林寺拳法奥義P.60)

>>義和門拳の秘芸と言われる竜華拳や五花拳、羅漢拳……
(カッパブックス 秘伝少林寺拳法P.65)

とあるように、
龍華拳を龍系諸技と呼ばれる三十六式拿法と表現したり、
羅漢拳を表記しているものもあれば
順逆の捕り方としてまとめて表現する場合もあり、
表現がマチマチで、どこからどこまでを義和拳の範疇にするべきか、
更に、現在、羅漢拳は古式の羅漢手と摔跤を整理統合しているので、
必ずしもその由来を明確にすることはできないのですが、
五花拳が義和門由来であることは終始一貫して表現されています。

つまり五花拳を有する義和拳の伝系が見つかれば、
それは客観的な証拠となります。

以前の記事を見て、
何かこじつけているかのように感じる人がいるかも知れませんが、
このブログで五花拳にこだわる理由はそこにあります。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/32679992.html

まだまだあった義和門 part2 記事をクリップするクリップ追加 2010/7/18(日) 午前 9:37 義和拳とは? 格闘技 0以前の記事では、
山東省淄博地区に流伝している斉和平老師の義和功を見つけましたが、

今回は、同じ地域である
山東省淄博市武術協会副主席の楊玉亮老師。

楊玉亮老師は、
日本でもおなじみ混元太極拳・馮志強老師のお弟子さんでもあるようですが、
義和拳も修めていらっしゃるようです。

その套路名を抜粋すると、
>>八極架、行功、長拳、溜腿、劈砸錘、青龍錘、一百単八梅花錘、
>>単刀、双刀、鉄鞭、楊門粘杆梨花槍、五行対劈刀、双?破槍、白手奪槍、
>>鉄鞭破槍、単刀進槍、白手奪鉄鞭、攔門撅等等。 ということです。

以前の記事で見つけた斉和平老師の義和功では、
>>羅漢功単練、七星錘対練、難功靠、燕青脱銬、
>>短器械“攔馬橛”、独門練功(弔膀、挑打,等等)…

比較してみると、
攔門撅と短器械の攔馬橛が同じものである可能性はありますが、
套路名称に関しての共通するものはないですねぇ……

套路の名称は別でも、同じものである可能性もあるので
実際の動きを比較してみないと何とも言えません。う~ん……

また、楊玉亮老師の義和拳には、
劈砸錘や梅花錘の名前が見られます。

名前だけから推測すれば、
"劈砸"錘には、撑斬(架打と"劈打")を母と為す紅拳との関係を疑えますし、
"梅花"錘には、"梅花"拳との関係が疑えます。
(現時点では、全く客観的根拠はありませんが……)

もう一つ気になるのが、
楊玉亮老師の先生である、高長榮老師の存在です。

高姓といえば、
文聖拳の系譜の中に高道远と改名した郜添麟が存在するのですが、
何か関係があるのでしょうか?

斉和平老師の義和功の系譜にも
高擎莲という高姓の老師が存在しています。

単純にその地域に良くある名字なのでしょうか?

高姓が山東省淄博地区の義和拳伝承の鍵を握りそうですが、
同じ地域で義和拳を名乗る門派にもかかわらず、
これだけ違いがあるのはどうしてなのか?

以上のように何らかの関連性を感じながらも、
なぞだらけの "義和門" です。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/33514331.html

二郎拳も義和拳と関係があるのか? 記事をクリップするクリップ追加 2010/11/12(金) 午前 0:30 義和拳とは? 格闘技 0
義和拳の資料を探っていて、
清稗類鈔に義和拳が触れられているのを見つけました。

清稗類鈔は、小説からも寄せ集めて作られたものらしいので、
どの程度、正確な話なのかはわかりませんが、資料として抜粋してみます。

>>義和拳,一名義和團,源於天理教,亦以卦為符號,起於山東堂邑縣,舊名義和會。
>>光緒己亥、庚子間,東撫捕之急,遂潛入直隸之河間府景州、獻縣。
>>乾字拳先發,坎字繼之。
>>坎字拳蔓延於滄州、靜海間,白溝河之張德成為之魁。
>>設壇於靜海屬之獨流鎮,稱天下第一壇,遂為天津之禍。
>>乾字拳由景州蔓延於深州、冀州,而淶水,而定興,而固安,以入天津、京師。
>>坎字拳為林清之餘孽,乾字拳為離卦教郜生文之餘孽,故皆尚紅。
>>其後有黃色一派,則乾字拳所創也。
>>坎字、乾字,授法各殊。
>>坎字拳傳習時,令焚香叩拜後,植立而仆,仆而起,跳躍持械而舞。

光緒己亥~庚子(1899~1900)の義和団の頃の話なので、
乾隆43年(1778)に捕らえられた楊四海から時代は下りますが、
乾字拳は離卦教の郜生文の残存分子が為したようですから、
離卦教の楊四海との繋がりが考えられます。

そこで、乾字拳を検索したのですがヒットしませんでした。
しかし、坎字拳を検索したら、二郎拳がヒットしました。

なぜ、この二郎拳が、
坎字拳と表記しているのかわかりませんが、
二郎拳の創始は水滸伝の登場人物の武松とされ、
にわかには信じがたい伝説を有しています。
起源そのものに義和拳との関わりを示すものはありません。

しかし、離卦教の首領であった馮克善が、
戳脚とともに二郎拳を教授していた話があります。

戳脚も武松が創始となっていて、
水滸伝中の『武松 酔って蒋門神を打つ』で登場した玉環歩・鴛鴦脚が、
実際の招式として存在します。

螳螂拳や少林門の元ネタになった十八門派には
"林沖の鴛鴦脚"として存在するのですが、
水滸伝が書かれた時代によって登場人物の得意技に違いがあるのかも知れません。

フィクションで系譜を補強したのか、
フィクションを補強するために実際の拳種から描写したのかわかりませんが、
ノンフィクションの世界では、
馮克善によって二郎拳と義和拳が絡み始めるようです。

義和団研究の第一人者・佐藤公彦教授によれば、
八卦教(天理教)は、乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌の八卦に分けられ、
それぞれが支部のような独立した形態を為していたようなのですが、

佐藤教授指摘の通り、義和拳を語る上では、
八卦教教主・劉佐臣から伸びる8つ(八卦)の宗教的伝系を
縦軸として考える必要があります。

藍簃外史・靖逆記によれば、離卦教の馮克善と坎卦教の牛亮臣が、
「我々ニ人離坎を交宮して、各々習えば其の習う所可なり」として
技術交流もしたようなので、横の繋がりもあったのでしょう。
坎字拳と呼ばれる二郎拳があるのであれば、
坎卦教の牛亮臣との技術交流の中で伝えられた系譜の可能性も考えられます。

坎字拳が蔓延したのは河北省滄州から天津・静海県にかけて。
そこで河北省滄州の武術協会のHPを見たら、
>>二郎拳法,流传于沧境东南盐山、南皮、东光等县。
>>其拳法之命名,并非假托二郎神之名,因其拳械套路均以对练为主,故名二郎。

二郎拳法、滄州境の東南、塩山、南皮、東光などの県に流伝。
その拳の命名は、まったく二郎神の名にかこつけたわけではなく、
その拳と器械(武器)の套路どちらも対練を主と為す、故に二郎と名付ける。とあります。

二郎拳十一代伝人・王玉山は、
「二郎拳はすなわち2人対練の拳。二郎門の器械も対練を重視する」として、

少林寺拳法の"組手主体"と同じような考え方があるようです。

義和拳と関連のある梅花拳の
成拳や拧拳という套路も対練を基本にしていますが、
義和拳には"対練主体"という考え方があったのでしょうか?

少林寺拳法側の視点から考えればかなり興味深いです。

それに、この王玉山老師の伝系では、
三十六拿法と三十六破法を合せた七十二把擒拿法を有しているようです。



少林寺拳法の原形について開祖は、
>>私は師について、相対演武を主とする、
>>武技としての法形を最も多く残していた北少林義和門拳の秘技である龍系諸技と呼ばれる
>>三十六式の拿法や、五花拳という剛柔一体の投げや、順逆の捕り方を正式に学んだ。……(後略)。
(以上、少林寺拳法奥義 昭和五十年七月二十五日初版、昭和五十六年五月十五日八版 P.57~60より抜粋)

三十六や七十二といった数字は大した意味はなく一般的によく使われる総称なので、
三十六式拿法という名称があるからと言って、
これが少林寺拳法の原形だと声高に言えるわけではありませんが、
しかし、二郎拳も梅花拳同様、擒拿を重視していることだけはわかります。

この王玉山老師の弟子からは抗日の英雄・節振国を出しているようですから、
王玉山の伝系と少林寺拳法との直接の関わりは薄いと思います。

ただ、動画を見てみると、
技を一つ一つ極めずに流して対練しているので見過ごしやすいですが、
擒拿に関して言えば、少林寺拳法に似通った技もあり、
天秤を捕る技が印象的です。

<少林寺拳法 五花拳 逆天秤> <二郎拳>
イメージ 1
<少林寺拳法 五花拳 天秤投>           <二郎拳 仙人換影>   
イメージ 3
    <少林寺拳法 送巻天秤>
イメージ 2
ついでに天秤以外に似ているものもひとつ。
  <少林寺拳法 巻小手>
イメージ 4

馮克善との関係を考えれば、
滄州武術協会のHPにあるように第八代伝人・崔笠以前の系譜が
書かれていないのも気になります。

そして、以前の記事で動画を貼った
山西省平定県の張義伝の義和拳と見比べると、二郎拳の一路長拳と似ています。
当初、この義和拳は、太祖長拳や秘宗拳に似ているので
長拳の支流ではあろうと思っていましたが、二郎拳では一路長拳が乾字と呼ばれているようです。

<義和拳> <二郎拳 一路長拳>













この義和拳と似ている太祖長拳は宋太祖三十二勢長拳を元にしているのですが、
二郎拳で一路長拳を乾字と称しているのであれば、
乾字拳も宋太祖三十二勢長拳を元にしている門派である可能性があります。

>>二郎八路长拳以八卦方位命名,一路长拳为“乾”字,取拳打四方之意とあるので、
必ずしも各八路がそれぞれ乾字拳や坤字拳などの八卦の門派を反映しているわけではないのでしょうが、

清稗類鈔でも、乾字拳は、
離卦教の郜生文の残存分子ということですが、故皆尚紅と続くので、
これは梅花拳ではなく、多分、紅拳なのでしょう。

そして、前記した清稗類鈔には続きがあって、
>>乾字拳則令閉口伏地,少頃則白沫滿口,口呼神降矣,亦起躍,持械而舞。
>>又有震字,則山東王中之遺孽,中於乾隆時被戮。
>>坤字拳不詳所自。
>>震字拳見諸永定河南岸,坤字拳見諸京西,從者蓋鮮。
>>惟坎字、乾字勢最大,即庚子之分擾京津者也。
>>若輩恆自稱為神拳,降神召眾,號令皆神語。
>>傳習時,令人伏地焚符誦咒,堅合上下齒,從鼻呼吸,及躍起,輒操刀而舞,
>>力竭乃止。

つまり、光緒年間の義和団の中には、
乾字拳、坎字拳、震字拳、坤字拳が存在したことがわかります。

少林寺拳法でも、過去には、
五字拳(乾・坤・離・震・坎)なるものが存在したようですが、
勉強不足でどんなものであったのか知りません。

この五字の門派と現存する拳種を特定できたなら、
私の五花拳の仮説に何らかの筋道がつくかも知れません。

このほかにも、
嘉慶年間に河北省・故城県で、
葛立業という人物が伝習した"義和門拳棒"と言う名称が
那彦成奏疏の記録に残っているようですが、
現在、どの様な拳種として保存されているのかが気になるところです。
(追記:抗日の英雄とされる節振国は山東省武城県・劉堂村、現在の河北省故城県・趙行郷・劉堂村出身。
二郎拳をどこで学んだのかが気になります)

義和門の全貌を知るにために注視しておくべき門派がまた増えました。

つづく。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/33661820.html

義和門 開祖の認識 記事をクリップするクリップ追加 2010/12/4(土) 午前 2:28 義和拳とは? 格闘技 0どうしても少林寺拳法の源流を探る上で、
開祖の認識がどんなものであったのかを知らなければならないので
『復刻版 拳法教範 初版』の"拳法の流派"の項を引用させていただきたいと思います。

<<拳法の流派>>
>>達磨大師によって伝えられた易筋行として寺僧の間に伝承されている間は、
>>分派的な流れは無かったのであるが、行としてよりも、武術として有名になりかけた頃から、
>>地理的、人為的環境の変化に従って、種々の特徴をもつ拳法が出現し初め、
>>一種の流派が出来たのであると考えられる。

>>然しながら中国では、日本のように小異を立て、我流を立てるようなことは、行なわれて居らず、
>>我国柔術諸流のように、三百年の間に二百数十もの流派が、
>>派生しているような不自然なことはないのである。

>>流派名も主として部外者が、彼の拳は某門であると云って居るので、
>>自ら流派名を立てているのはほんの二、三あるだけである。

>>主なるものは、内家拳法と云われる山門の拳より派生した、
>>北少林と南少林に大別された二大流派だけであり、
>>少林寺号を冠せざるものは武当山の張三峯を祖とする太極拳と、
>>五台山の僧眞宝を祖とする韶霊寺拳法位である。
>>しかし、この両派とも北少林よりの分派であって、独自のものではないのである。

>>少林寺を名乗る流派では、宋朝の太祖になった、趙匡胤を祖とする北少林の正統である、
>>少林寺義和門と白蓮門及び如意門の三派が最も大きいものである。

>>此の中の義和門派は、剛柔一体であり、宗門の行としての形態を一番よく伝えて居る。
>>白蓮門は徒手格闘に長じ、如意門は拳棒をよく使う特徴をもっている。

>>南少林の系統では、鶴之法、猿之法、虎之法等と呼ぶ動物拳があり、
>>それぞれの動物の闘法を取り入れた特徴をもっている。
>>地方によっては拳法と云わず、把式、搏丁、白打、摔跤等と呼んでいる所もある。

>>琉球の唐手は、最近こそ師範者の名をとったりして、
>>種々の流名を立てているが、大正頃迄は昭霊流と少林流の二派しかなく、
>>形の名称も多く中国名であったのを見ても、中国拳法の分派であることは否定できないようである。

>>尚、此の他蒙古のラマ拳や朝鮮の拳法、皆中国拳法の分派であって、
>>それぞれの民族性に適合するように変化したものである。

>>私が伝える北派少林寺拳法と云うのは、
>>少林僧堂義和門廿代の師家、文老師直伝の義和門拳を主として、
>>これに龍華会の陳良老師より伝えられた白蓮拳と、
>>四川の王老師より伝法せる如意門の拳棒を統合して整理再編したものである。
(以上 『拳法教範 初版 復刻版』 P.17~18より)

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まずは、開祖が義和門に対して
どういう認識をしていたのかを拾ってみると、

>>少林寺を名乗る流派では、宋朝の太祖になった、趙匡胤を祖とする北少林の正統である、
>>少林寺義和門と白蓮門及び如意門の三派が最も大きいものである。……とあります。

義和門が、宋の太祖を祖としているということ、
つまり、宋太祖三十二勢長拳を基にしている門派であることを明確にしています。

離卦教の郜雲龍は、師父である八卦教主・劉佐臣と共同で研究して、
文功(焼香・叩頭・持誦・呪語・調息など)と武功(拳法)を合一したようなのですが、
この郜雲龍が精通していた拳法というのが宋太祖三十二式長拳であったようです。

これは開祖の解説と符合します。

しかし、義和門と白蓮門、如意門の三派が最も大きいものとしているのは、
現在日本国内で流布している中国武術の常識から考えると違和感を覚えます。

開祖は在家裡に潜り込んだので
周りは基本的に義和団絡みの拳師ばかりでしょうから、
このような認識になったのではないかと思えるのですが、

ここ最近、義和拳がどんなものだったのかを探っていて、
梅花拳、紅拳、二郎拳、三晃膀大鴻拳、文聖拳などと関連があることを知り、
その梅花拳と紅拳が主要門派として構成した義和団の乱(1900年)が、
数万人規模に上ることを考えれば、あながち間違っていないとも思えます。

開祖が中国で陳良老師から拳法を学び始めた昭和3年(1928年)から
終戦で引き上げてきた昭和21年(1946年)までの時期ならば、
実際に義和団の乱に参加していた拳師ばかりでしょうから、
その認識が強くて当然でしょう。

開祖の認識を考察するに当たっては、
当時の中国の状況を考慮に入れなければなりません。

>>流派名も主として部外者が、彼の拳は某門であると云って居るので、
>>自ら流派名を立てているのはほんの二、三あるだけである。

これに関しても現在の感覚では違和感を感じますが、
文脈から見れば、部外者が彼の拳は某門であると云って居るだけであって、
~門と呼ばれている門派が2、3だけしかないと言っているわけではないようです。

『秘伝少林寺拳法』や『少林寺拳法奥義』には、
開祖が関わった門派名を幾つも列挙しているので、
あくまでも、自ら流派名を立てているのが2、3あると言っているようです。

もちろん、
自ら流派名を立てていたのが本当に2、3だけしかなかったかは疑問符がつきますが、
部外者が傍から見て、あれは、~家拳、~氏拳、~門拳などと呼ぶ習慣があるのも事実です。

また、
>>主たるものは、内家拳法と云われる山門の拳より派生した、
>>北少林と南少林に大別された二大流派だけであり、……とありますが、
この認識も現在の常識からみると間違っているように感じます。

清朝時代に書かれた『王征南墓誌銘』に内家と外家という表現が出てくるようですが、
これは道教側(武当派)から見て内家、それ以外が外家という意味です。
仏教では仏の教えは内道、それ以外の教えは外道として、
それぞれが自分の側を "内" と表現するのですが、
まあ、これは、開祖の誤認でしょう。

ただし、義和門は、儒・釈・道の三教合一の八卦教を縦軸としているので、
誤認する要素は多分にあったように思います。

また、太極拳に関してですが、
>>少林寺号を冠せざるものは武当山の張三峯を祖とする太極拳……とありますが、
これも、現在の常識とは懸け離れています。
現在では、陳家溝の陳卜、陳王廷が創始、王宗岳が伝えた等の説があります。

張三峯説を否定したのは唐豪が有名ですが、
唐豪が少林派と武当派を論じた『少林武当考』を著わしたのは、1930年。
現在では唐豪の説の方が一般的ですが、資料収集に陳家溝に赴いた唐豪が、
陳鑫が書いた『陳氏太極拳図説』を、陳鑫の甥・陳椿元から見せられたのもこの年。
(その後、唐豪が河南省国術館館長・関百益に『~図説』を世に出すように薦め、関が買い取って出版)

松田隆智先生の『陳家太極拳入門』によれば、
>>陳家太極拳から分かれ出た楊家太極拳や呉派太極拳は、
>>早くから北京や上海などの大都市に伝えられたことにより、
>>各地に広まって多くの人に伝えられていったが、
>>源流の陳家太極拳は長い間にわたって、
>>河南省陳家溝に居住する陳姓の一族のみに伝えられ、
>>1928年に陳家溝17世の陳発科先生(1887~1957)が北京に出て公開するまで、
>>多くの武術家は知るものが少なかった。(はじめにより)

太極拳が肺病治療法と呼ばれて流行り始めるのが1920年(大正9年)頃で、
陳発科が北京に出て陳家太極拳を披露したのが1928年(昭和3年)。

陳家溝での歴史は明朝末(1644年)頃まで遡れるようですが、
中国国内で一般的に認知されるようになるのは、
大正9年頃から昭和3年頃にかけてと、意外に最近の出来事です。

そして陳発科が表舞台への登場した1928年は昭和3年。
開祖・宗道臣が陳良老師に出会って拳法を始めた年です。

中国国内に於いても、
陳家太極拳が認識されるまでには、それ相応の時間がかかったでしょう。

開祖が終戦で引き上げてきたのは昭和21年(1946年)6月、
少林寺拳法教範の初版は昭和27年(1952年)8月の発行で、
中国との国交正常化したのは昭和47年ですから、
国交が無い間に入ってくる情報は断片的なものでしょう。

陳発科の弟子の顧留馨・沈家楨『陳家太極拳』発刊されたのは1963年(昭和38年)。
こちらは輸入によって手に入れることは出来たようですが、
松田隆智先生の『陳家太極拳入門』が昭和52年(1977年)に出るまでは、
やはり日本国内において太極拳は体操というのが一般的でした。

そして、昭和57年(1982年)に創刊された福昌堂『武術』によって、
武術として太極拳が認知強化され始めます。

現在でも、福昌堂の『武術』で書かれたことが
日本国内の中国武術の常識として刷り込まれて、
良くも悪くも、私自身にも、その影響が廃刊後も続いています。

少林寺拳法が中国武術と何の関係もないと論ずる方々同様に、
一度刷り込まれた認識を新たにするのが難しいことは、
いつの時代でも同様ですが、

当時の国交の状況も相俟って、
開祖も自身が触れてきた中国武術に関する認識を新たにすることなく
昭和55年(1980)に亡くなってしまったのではないでしょうか。

しかし、義和拳を探っていく中で、
離卦教と結合した梅花拳が離卦義和拳となった話、
宋太祖二十三勢長拳を源とする紅拳や相対演練主体の少林派二郎拳(坎字拳)、
それらが義和門や義和団を構成した主要門派であったことを知れば知るほど、
開祖が義和拳の実情を知る立場にいたことを補強してくれます。

そして、少林寺拳法を否定した『武術』編集部もまた、
義和拳については、裏付け捜査をせずに情報を発信してきたことがわかってきます。

否定するにしても、
義和拳がどんなものであったかという裏付けを取る作業は残されたままです。

当時、編集に携わっていたY編集長やI編集長には、
まずは、佐藤公彦先生へのインタビューや連載依頼から始めて、
概要をまとめた"義和拳"の検証が必要でしょう。

それに義和門のように
宗教と拳法が結合した拳教の歴史は、
門派の伝播を知る上でも意味があります。

例えば二郎拳は、孟村八極拳にも影響を与えています。
二郎拳の代表的招式である二郎担山は、孟村八極拳に組み込まれています。

二郎拳が伝播している塩山県は、孟村回族自治区のお隣。
地図で見ると徒歩圏内。過去には同じ行政区だったこともあるようです。

回教は一神教ですから八卦教が入り込む隙はないと思えますが、
技術的な流入は大いにあるようです。

ほかにも滄州武術協会のHPに依れば、
白猿通背拳には、二郎拳や八卦拳という套路の名が見られます。

北京の白猿通背拳は、
回族の拳法として有名ですが、

滄州の白猿通背拳には、
離卦教教主・馮克善が関わったと考えられる八卦拳や二郎拳が
套路として流伝しているようです。

日本でおなじみの門派を理解するのためにも
"義和拳"は避けては通れないようです。


次回は、もう少しだけ初版の拳法教範から引用させて頂いて、
初期の少林寺拳法の演武形の分類から、
義和門がどんなものだったのか考えてみたいと思います。

その後で、少林寺拳法に見る
宋太祖三十二勢長拳の影響について考えてみたいと思います。

つづく。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/33713460.html

演武形から探る義和門・白蓮門 記事をクリップするクリップ追加 2010/12/12(日) 午後 9:04 義和拳とは? 格闘技 0前の記事の続き。

『復刻版 拳法教範 初版』の演武形之系統は、
義和門系、白蓮門系、如意門系の3つに分けられて、

・義和門系は、
黄卍拳(三合拳・独銛拳・卍字拳・天地拳・竜王拳・鶴立拳)、
五字拳(乾字拳・坤字拳・離字拳・震字拳・坎字拳)、
五花拳(梅花拳・白蓮拳・紅花拳・蘭花拳・牡丹拳)に分けられて、

・白蓮門系は、
龍華拳(黄龍拳・飛龍拳・黒龍拳・打虎拳・伏虎拳)と
羅漢拳(羅漢拳・金剛拳・摩利拳・仁王拳・八相拳・明王拳)の2つ。

・如意門系では、
拳棒(紅槍伝・柳条伝・如意伝・金剛伝・龍虎伝)と分類されています。

現在の演武系では、
いずれが義和門系か白蓮門系かという分類はされておらず、
仁王拳・天王拳・地王拳・三合拳・鶴立拳・白蓮拳
龍王拳・龍華拳・羅漢拳・金剛拳・五花拳にまとめられています。


義和門系で無くなっているのは、
黄卍拳と言う分類です。

現在でも三合拳・天地拳・竜王拳・鶴立拳は存在していますが、
卍字拳と言う名称は消滅して、紅卍の形は存在していています。
初版にも、独練之形の演武系として卍の形は存在しているので、
分類上の違いかも知れません。

また、法器(武器法)の独銛拳が黄卍拳に分類されていたようです。

そして、残念なことに、
義和拳との直接の関係性を示すはずの五字拳という分類も廃されています。

現在の五花拳は、
紅花・梅花・牡丹・白蘭・桃花に分けられていますが、
5つの分類が、~拳という名称で呼ばれていて、
さらに、白蘭が蘭花拳という名称だったようで、
桃花の代わりに、なぜか白蓮拳が義和門系に組み込まれています。

白蓮拳ならば白蓮門系に組み込まれて良いはずですが理由はわかりません。
単なる誤植なのかもしれませんが、

しかし、初版を復刻した少林寺拳法連盟は、
>>本書の復刻に当たっては、
>>発行時に著者によって付せられた正誤表に基づく文字を訂正するなど、
>>必要最小限度の改訂にと止めた。……と前書きに書いています。

そうだとしたら、誤植の可能性が低くなるのですが、

白蓮教は八卦教の元になった宗教で、義和門は八卦教の拳教なので、

後ちの改訂版の教範にあるとおり、
>>名称についても一例をあげると、
>>義和門で鶴翼煽灯と名附けている打手技の一種を、
>>白蓮門系では白蛾飛翔と云って居り、 …………

というように、
明確な区別はしにくいのかも知れません。

ただ、誤植については
復刻後も残されたままなのではないかと思う部分もあります。

目次には"五花八陣体構えの基本"とあるのですが、
巻頭の写真には、"少林寺拳法体構えの基本(六花陣および八陣の中から常用のもの)"
というキャプションが付いています。

う~ん……五花拳に白蓮拳が列挙されているのは、やっぱり誤植かなぁ……???


さて、その構えについてですが、
現在では、白蓮八陣・義和九陣の2つに大別されて、

それぞれ、
白蓮八陣(合掌・開足中段・卍・乱れ・八相・待気・逆待気・合気)、
義和九陣(結手・一字・仁王・中段・下段・逆下段・伏虎・立無想・横無想)に分けられています。

しかし、
昔は、それぞれ、
六花陣(合掌・卍・乱れ・八相・待気・合気)、
八陣(結手・一字・仁王・中段・下段・伏虎・立無想・横無想)とされています。

六花陣に開足中段構え、逆待気構え、
八陣に逆下段構えが新たに加えられていますが、
独練之形として振子単撃や振り子連撃が既にあったようなので、
開足中段構えを配置し直しただけで基本的な分類は変わらないようです。

また、六花八陣の構えは括弧付きで列挙されていて、それぞれ、
・合掌(紅花)・卍(白蓮)・乱れ(蘭花)・八相(桃花)・待気(梅花)・合気(李花)。
・結手(金剛)・一字(地蔵)・仁王(仁王)・中段(不動)・下段(龍珠)・伏虎(伏虎)・立無想(破軍)・横無想(流陣)。

巻頭写真の下段構えは、
現在の下段構えとは違っていて、下十字受け風の構え方。
そのキャプションは竜王陣となっていますが、本文中では "龍珠" というキャプションです。
>>竜王陣というのは、現在の少林寺拳法で下段構えと呼んでいる体構えである(少林寺拳法奥義 P.108)
とあるので、括弧内が元の名称のようなのですが、
龍珠は竜王陣の別称なのか、誤植なのか?疑問が残ります。

もう一つの疑問として、
現在の白蓮八陣に分類される構え方に明記されている
紅花、白蓮、蘭花、桃花、梅花、李花という名称ですが、
白蘭が蘭花に、牡丹が無く、李花が加わっている違いはあるものの、
これらの分類は五花拳に見られるもの。
五花拳ならば義和門に分類されるはずですが、
現在では、なぜか白蓮八陣に分類されています。

これは、義和門に白蓮拳を分類しているのと関連があるのでしょうか?

義和門教の元になった八卦教は白蓮教からの支派。
白蓮門の陳良老師は、義和門の文太宗老師の弟子でもあるので、
技術的にも接近している可能性がありますが、
そうだとしたら、五花拳に白蓮拳が分類されているのは、誤植ではない可能性があります。

う~ん……新たな疑問が生まれてしまいました。


一方の白蓮門系に話を移すと、
現在では、龍華拳と言う名称は残されていますが、
その他の黄龍拳・飛龍拳・黒龍拳・打虎拳・伏虎拳という呼び名はありません。

五字拳同様に、それらがどんなものだったのかは分かりませんが、
初版の巻頭写真には、飛び連蹴りが飛龍拳として、
相手が転がった状態から発した廻し蹴りを払受けする技が打虎拳として載っています。

現在では、龍華拳は柔法として分類されていますが、
当初は、剛法も含んだ法形群だったようです。

私が在籍した当時にも
飛び足刀蹴りを飛龍拳と呼ぶ習慣は残っていましたし、
現在では地王拳に組み込まれている伏虎地二という法形もあるので、
分類や名称が無くなったとしても、法形そのものは残っている可能性があります。

それと、気になるのは、
龍系諸技の母と呼ばれる竜王拳が義和門系で、
なぜか龍華拳が白蓮門系に分類されていることです。

"龍華"の意味が、
陳良老師が属していた龍華会由来のようなので、
元々は龍華拳と竜王拳は直接の系統ではないようです。

開祖は、
>>我が国で教えているような系統的な修行法でもないし、
>>技も体系的に整理されていたわけでもない。
>>技の名称もしても、意味もなければ、名も付けられていないものもあって、
>>しっかりと覚えるのに大変な苦労をした。(少林寺拳法奥義P.57~58より)
……とあるので、

龍系諸技とは、
龍と名が付く招式が散在していたと言う意味なのでしょう。
それらを体系的に整理して龍華拳を柔法としてまとめられたと思われます。


さらに、
現在では羅漢拳の分類は、羅漢拳1つに統一されていますが、
摩利拳、八相拳、明王拳が無くなっています。

摩利拳、八相拳、明王拳がどんなものだったのか分かりませんが、
水月への突きを誘う法形では八相構えになるので、それらが八相拳だった可能性もありますが、
八相構えが桃花と呼ばれていたようなので、何とも言えません。

そして、ここの分類に剛法の仁王拳が組み込まれていたようです。

カッパブックスの『秘伝少林寺拳法』によれば、
仁王拳は、千山祖越寺の雪峰和尚の伝授ということなので、
この雪峰和尚は、白蓮門の人なのか、仏教僧だから羅漢として組み込んだのか、
いくつかの疑問が出てきます。

そして、現在存在する、天王拳と地王拳という分類が見当たりません。

ただし、初版には、「連撃之基本」として、
手攻撃、手足攻撃、足攻撃の3つに分けられていて、

さらに、
・手攻撃(突天一之形・混天一之形・対天一之形・振天二之形・突天二之形・対天二之形・天三之形・混天三之形)、
・手足攻撃(天地連攻之形)、
・足攻撃(地一之形・地二之形・地三之形・地四之形・地五之形)に分けられています。

また、「連之形の基本」として、
単撃連攻、段撃連攻、連撃連攻の3つの分けられていて、

その連撃連攻には、
天一連之形、天二連之形、天三連之形、
地二連之形、地三連之形、天地連之形という分類もあります。

天一の天は、天王拳の天なので、手攻撃が、天王拳として、
地一の地は、地王拳の地なので、足攻撃が、地王拳として分配し直しただけのようで、
法形そのものは既に存在していたようです。

現在の分類では、
地王拳第一(順、逆)=順蹴地一・逆蹴地一、
地王拳第二=払受地二、
地王拳第三(順、逆)=順蹴地三・逆蹴地三。

また、前述の通り、
龍華拳から伏虎拳という名称はなくなっていますが、
現在の地王拳には伏虎地二という法形で組み込まれています。

初版の巻末には、
法形の名称や当時の科目表も掲載されていて、
名称の違いや、同じ名称の法形でも若干の違いがあるものもありますが、
主要な法形は、ほぼ、出揃っています。

原初の少林寺拳法が見えてきたので、
次は、当初予定していたように、
少林寺拳法の中に見る宋太祖三十二勢長拳について考えてみたいと思います。

つづく。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/33773444.html

跨虎勢 三十二勢長拳比較 記事をクリップするクリップ追加 2010/12/23(木) 午前 2:11 義和拳とは? 格闘技 0前の記事の続き。

少林寺拳法のルーツを知る上で、

>>少林寺を名乗る流派では、宋朝の太祖になった、趙匡胤を祖とする北少林の正統である、
>>少林寺義和門と白蓮門及び如意門の三派が最も大きいものである。(『初版 拳法教範』P.17)


この、宋の太祖・趙匡胤を祖とするという証言はかなり重要です。


嵩山少林寺で仏教と武術を学んだ経験のある趙匡胤が、
少林寺の焼き討ちを進言によって止めた話もあるようですが、

技術上の意味合いから考えれば、
福居和尚が集めた十八家の中に
太祖長拳が登場するところからが始まりでしょうか。

現在の嵩山でも
套路として、少林太祖長拳(少林長拳)と言うものが存在して、
基本的な套路として学ばれています。

その他にも
三十二勢長拳の別名として考えられる紅拳という名の付く、
小洪拳(小紅拳)、大洪拳(大紅拳)という基本套路がありますが、
これは、後に、大刀会に繋がる門派としての紅拳と同じものではありませんが、
宋の太祖三十二勢を基にしているので共通項があります。

そして、義和門においては、
離卦教教主・郜雲龍が精通していた拳法が、
宋太祖三十二勢長拳だったという話からリンクし始めます。

それが、梅花拳を身につけた楊四海に繋がり、
また、一方では、大刀会の紅拳に繋がるのですが、

それらが、嵩山と直接の関係があったかどうかはわかりませんが、
後の離卦教教主・馮克善が伝えたと言われる二郎拳のように、
慧豊和尚からの少林拳譜を有して少林派を名乗る門派もありますし、
滄州の太祖長拳には、順元和尚という雲遊僧によって伝えられたという話もあるので、
嵩山や少林僧を経由して伝わった可能性にも留意しなければなりません。

では、その三十二勢長拳がどんなものだったかというと、

紀効新書の拳経(リンク先は武備誌)には、

>>古今の拳家には宋太祖三十二勢長拳有り、また六歩拳、猴拳、囮拳有り、
>>名のある勢、それぞれ称する所有れども、実に大同小異なり。

……とあり、その後に三十二勢の挿絵と註釈が続けてられています。

これがそのまま宋の太祖長拳だったかどうかは議論の余地がありますが、
少なくとも宋の太祖三十二勢長拳がその骨格になっていることに間違いはないでしょう。

そして、陳家太極拳は、この三十二勢長拳を基に作られたと言われており、
共通する名称や招式が多数存在します。

太極拳と三十二勢長拳の比較検討は度々行なわれていますが、
同じように、少林寺拳法の剛法に、その影響がないか考察していこうと思います。

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まずは、跨虎勢について。

跨虎勢は、
門派として存在する太祖拳のみならず、
現在中国で行なわれている長拳系のデフォルトで、
華拳、査拳などにもよく見受けられます。

現在の中国武林も少林寺拳法同様に原名を廃して表現する傾向があり、
単純にその動作の特徴だけを捉えて虚歩亮掌とも呼ばれています。

門派としての紅拳(陝西紅拳)では裙攔勢と呼ばれるようですが、
張義の義和拳や二郎拳の長拳にも見受けられます。

<義和拳>    <陝西紅拳 大紅拳>      <二郎拳 一路長拳>
イメージ 1
一般的に開門式や収式に用いられることが多く、
その後に連絡技が続けられることは少ないのですが、

各門派の跨虎勢は、
軸足にする足が左右異なっていますから、
実際に使用するときの連絡技も異なってくるでしょう。

紅拳の裙攔勢は、
跨剣腿という招式に応用されていて、

跨剣腿は、一見すると、
少林寺拳法の下段返しにも見えるのですが、
<下段返=払受の後、順蹴りの返し蹴り(新極真・塚本徳臣選手の膝屈伸で蹴る内廻しと同じ)>

跨剣腿の用法は、
右亮掌を刁手にして相手の突きを掴み、
引き付けながら斧刃脚のように蹬歩して、
相手の外股を相撲で言う外無双(摔跤で言う手別)で払いながら、
下がった相手を順蹴り(端脚、高い蹬脚、擺脚にも見えますが)で返すという、
ちょっと複雑な技です。

実際の用法を見ると、
亮掌のはずが、刁手で表現されていますし、
勾手のはずの左の払い手も開手のままなので、
必ずしも套路通りではありません。


他の用法としては、
笠尾恭二著『少林拳入門』で紹介された
精武体育会の北派羅漢拳(捻手拳)では、
右花双譲歩(右花勢)という名称で行なわれていて、

>>型では右手を頭上に構えるが、もともとは左鈎手で相手の蹴りを払い、
>>右指尖で目をなぎ払う技であった。(P.143より)……とあります。


1つの招式を色々な形で汎用して
杓子定規に運用しないのが大陸的な解釈なのでしょうが、


そこで、原典の拳経を確認すると、

>>跨虎勢 那移発脚 要腿去不使他知。
>>左右跟掃一連施 失手剪刀分易。
イメージ 6























目的は、空手で言う下段払いと同じようですが、
挿絵から判断すると、元々は勾手ではないようですし、
用法の註釈にも"勾"の字も見当たりません。


三十二勢長拳を源にした跨虎勢であっても、
それぞれ意図することに違いが現われたのでしょうか?

少林拳の大洪拳(大紅拳)における小跨虎や
倒歩雲頂大跨虎、双震脚外擺蓮跨虎勢では、握拳です。

<大洪拳 小跨虎>
イメージ 5















<大洪拳第二路 双震脚外擺蓮跨虎勢> イメージ 4







































































































同様に三十二勢長拳を源にしているといわれる陳家太極拳では、
<陳家太極拳 老架一路:陳小旺老師> <杜傳 陳式太極拳 老架: 何宏財老師>
イメージ 3















































陳家溝19世・陳小旺老師の下歩跨虎は勾手ではなく、少林寺拳法同様に開手ですが、
陳家溝16世・陳延熙→杜毓沢伝の何宏財老師の下歩跨虎では、馬歩で勾手です。

また、この後、
陳小旺老師は、転身双擺蓮、
何宏財老師は、閃通背をはさんで転身双擺蓮に繋げるという違いがあります。


少林寺拳法の払い受けは、

空手の下段払いのように
払う手の運動方向と逆に体を捻って半身を切ることはなく、

陳小旺老師の跨虎勢のように、
体幹の纏絲と腕の纏絲を合致させる動きに近いのですが、

跨虎勢のように
左手だけを払い受けとして固定することはなく、
左右とも稽古します。

また、少林寺拳法の払受蹴りや下段返では、
亮掌のように頭上に片手を掲げませんし、勾手にもしません。


北派羅漢拳の右花双譲歩(右花勢)の右掌は、
指尖で目をなぎ払うものですが、

その他の長拳が亮掌としているので、
基本的にはディフェンスでしょう。

その実用性から考えれば、
跨虎勢が対処しなければならない攻撃として一番可能性があるのは、
長拳の中でも使用頻度が多い十字弾腿でしょう。

<査拳・五歩拳 十字弾腿>
イメージ 7














十字弾腿は前蹴りと突きを同時に繰り出す技ですが、
これも長拳のデフォルトなので、跨虎勢が想定するべき攻撃のひとつのはずです。

そう考えれば、
少林寺拳法でも同様の攻撃を想定している
払受地二と言う法形に辿り着きます。

払受地二の場合、
相手の攻撃は前蹴りではなく回し蹴り+逆突きですが、
これを打払受けと内受けで防ぎ、中段順突きを返します。
この2つの受けの併用した瞬間を定式にすると跨虎勢と似ています。

それで、なにげなく
カッパブックスの開祖の払い受け蹴りを見直してみたら、
イメージ 2

































開祖、左手を頭上に掲げて蹴り返しています。

払受蹴は、
左手を握拳に構えたまま蹴り返すように
教えられているはずですが、

なんでしょう、これ? 開祖の癖でしょうか?

受け技の手順だけを見れば払受地二ですが、
その左手は、払受地二の内受けと言うよりも上受け気味に挙げています。

相手の突きを警戒して挙げているだけなのでしょうが、
それこそが亮掌の意味のひとつなので、

どうも……開祖の原初の動きは、
より跨虎勢に近いものだったようです。



しかし、
義和拳と関わりのあった紅拳や馮克善も伝えた二郎拳は勾手なので、
勾手ではない少林寺拳法の払い受けを跨虎勢として認識するか否かは、
評価が分かれるでしょう。


そこで、次の記事では、
少林寺拳法における勾手の使われ方を見ていこうと思います。

つづく。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/34537346.html

陳良老師の経歴 記事をクリップするクリップ追加 2011/5/14(土) 午前 1:21 義和拳とは? 格闘技 0文太宗老師と陳良老師が、
八百屋だか魚屋だかで文盲だったという話があります。
開祖が知り合った当時の両師は、
還俗後、退役後なので職業は何でもよいのですが、
これが裁判で近親者から出た証言ということで、
開祖の証言した両師の経歴を否定する要因になってしまっています。

私は裁判記録を確認したわけではないので、
近親者がどの程度両師とつきあいがあって、
証言にどの程度精度があるものかはわかりませんが、
文老師の素性が、恒林和尚の件によって不確かなものとなってしまい、
それ以上の検証も進んでいないように思います。

裏をとる意味では、もう一方の陳良老師の経歴も検証する必要があります。

まずは,陳良老師の経歴を『秘伝少林寺拳法』から拾ってみます。
>>奉天(現在の瀋陽)へ着いてから、
>>かねて指定されていた鉄西街のM公司というところをたずねた。
>>ここは、南満鉄道線路の西側に日本人がつくった新市街である。
>>そしてそこで数日とめられたのち
>>特務機関の漢先生(日本人だが、こういうスパイ名を使っていた)が迎えに来て、
>>城外小西関にある道教の十方叢林に(宗教専門学校)のある太清宮につれていかれた。
>>そこでまえから機関と連絡のあった陳良老師に引き渡され、
>>機関の仕事でほうぼうへ潜行しやすいようにと、いやおうなしに坊主の弟子にされたのである。
>>……(中略)……
>>私が師事することになったこの陳老師は、
>>六十をすぎた小柄な人で、どこを見ているか分からないような冷たい目をしていた。
>>年のわりには精悍な感じの老人であった。師は日本語がかなり上手であり、
>>機関の人の話では、老師は、もと清朝の軍人で、
>>日本にもしばらく学んだことがあるとのことであった。(P.53より)

>>あとで陳老師から聞いたところによると、
>>このふしぎな技は、中国の古い武術で「拳法」というものであった。
>>そして、陳老師は、「在家裡」という秘密結社の師父(数千人の門徒を有する幹部)で、
>>少林寺に源を発する拳法の一派である白蓮門拳の師範であった。
>>義和団事件以後、地下に潜行されていたのだそうである。
(同上、P.57)

また、『少林寺拳法奥義』には、
>>陳老師は、秘密結社「在家裡」のなかで重きをなしていた人で、
>>嵩山少林寺に源を発する北少林白蓮拳の師父でもあった。
>>河南省登封県の出身で、義和団事件当時、
>>河南紅槍会の一隊を率いて活躍した頭目の一人であったが、
>>乱後、難を避けて潜行し、
>>辛亥革命後は一時北洋軍閥の流れをくむ呉佩孚将軍の下で行動されたこともあるが、
>>軍匪のような地方軍閥に嫌気が差し、
>>東北地区に新天地を求めて奉天に落ち着かれることになったそうである。
>>しかし、その当時の東北各地にも地方軍閥が割拠しているばかりでなく、
>>ロシアと日本の利権が錯綜していて、
>>一般民衆は塗炭の苦しみにあえぐ生活をしなければならなかったので、
>>老師は民衆の自警組織である在家裡に入り、
>>ある種の活動をされるようになったのだと言うことであった。(P.57より)

そして、『拳法教範 初版』には、
>>私が伝える北派少林寺拳法と云うのは、
>>少林僧堂義和門廿代の師家、文老師直伝の義和門拳を主として、
>>これに龍華会の陳良老師より伝えられた白蓮拳と、
>>四川の王老師より伝法せる如意門の拳棒を統合して整理再編したものである。( P.18より)

以上の引用から、
陳良老師を知る上で、いくつかのキーワードが浮かび上がってきます。

河南省登封県出身、元清朝軍人、呉佩孚、
白蓮拳、河南紅槍会、在家裡、龍華会、
日本への留学経験有り。
そして、開祖が身を寄せた頭山満を紐解くと
陳良老師の人物像が見えてきます。

開祖は、『秘伝少林寺拳法』の中で、
>>昭和三年六月四日(1928年)、満州の帝王と言われた張作霖大元帥の爆死事件を契機として、
>>関東軍の対満工作はいちだんと積極化し、
>>一部では清朝の再興が真剣に考えられるようになってきた。
>>とうぜん旧清朝関係者の引きだしや、反張作霖分子の組織づくりが行われるようになり、
>>私たち機関員は、各地を大旅行することになった。(P.58)

その活動の中で引き渡されたのが陳良老師なので、
単純に考えれば、陳良老師は、反張作霖であり、
元清朝軍人として旧清朝関係者の引きだしを
担っていた人物と言うことになります。

北洋軍閥の中では、
直隷派・呉佩孚と奉天派・張作霖の間で奉直戦争のように激しい覇権争いがあり、
陳良老師が呉佩孚将軍の下で行動していたということであれば直隷派だったと考えられます。
その時期の人脈をたどって反張作霖分子の組織作りをしていたのでしょう。

そして、その目的は、
>>東北を中国本土から切り離して独立政府を樹立させようという動きが
>>にわかに活発となってきた。その渦中にあって、私は陳老師とほか数名のものと一緒に、
>>ある任務を帯びて、全東北各地を大旅行することになった。(『少林寺拳法奥義』P.58)

>>それからは、私はまた師とともに満州建国の舞台裏でいろいろ働いた。(『秘伝少林寺拳法』P.62)

とあるように、"満州建国" にありました。

開祖がこのような人物と出会う契機になったのは、
頭山満の下に身を寄せたことで始まります。

この頭山満は、孫文が日本に亡命したときに後ろ盾となった人物のひとりで、
中心メンバーだった玄洋社は、アジア主義の政治結社であり、
中国革命の志士と深く関わりがあります。

この革命の志士である、
孫文の興中会、黄興の華興会、陶成章の光復会が合併した
中国同盟会が東京で成立されます。

この背景を設定にした『孫文の義士団』という映画も公開されていますが、
これらの人物は日本への留学によって結びつきます。

いわゆる「清国留学生」です。

留学制度は1896年から始まったようですが、
その後、清朝は1905年に科挙制度を廃止して、
留学者にはその修学度合いに応じ「抜貢」「挙人」「翰林」の身分を与えた為、
留学して政治・法律・軍事などを学ぶことが科挙に変わる登用制度になったようで、
当時は、公費・私費留学を含めて一万人近くいたようです。

開祖は、1975年3月25日に中国訪日青年代表団来日時に、
「清末の武挙人・陳良を師として拝した」と話していたようなので、
通常の科挙制度中での武郷試によって武挙人に成った人物と思われるのですが、
留学生の登用制度を活用した可能性もあります。

陳良老師が留学していたであろう期間は、かなり広く見積もっても、
清国の留学制度が始まった1896年から開祖が出会う1928年の間。
各大学には名簿が残っているかものしれないのですが、
ネットで拾えるいくつかの名簿を当ってみたものの、その範囲も狭く、
陳良老師の名前を見つけることはできませんでした。

一応 ここで、陳良老師がいくつか属していた結社のうち、
白蓮拳と関わりのありそうな紅槍会と
日本との関わりが出てくる龍華会についておさえておきます。

紅槍会は、河南、山東、直隷(今の河北)と山西南部に及び、
符咒によって「槍刀不入、弾打不傷」の金鐘罩を可能にして拳棒を習練する結社で、
大刀会の流れを汲む白蓮教の支裔として捉えられ、
その勢力は、数万、数十万とも言われていて、
ここからはたどり着けませんが、
陳良老師の拳法は白蓮拳と称していたので、
白蓮教を直接依教としていた紅槍会のグループで学んだ拳法だと推測しています。

紅槍会は、大刀会の流れを汲むので、
その拳も紅拳だったと考えられそうなものですが、
紅槍会を源とする前夏侯村の二郎拳のような例もあり、
また、八卦教を依教とする紅槍会もあるようなので、
一概には言い切れないところもあります。

ただし、以前書いたように
紅拳との関わりは乾隆年間の楊四海からあるので
何らかの技術的な影響はあると思われます。
(楊四海については佐藤公彦先生の『義和団の起源とその運動』に詳しく、
以前書いたブログの訂正と補足する部分があるので、それはいずれまた)

そして、龍華会についてですが、
百度百科の張恭の項から抜粋すれば、
光緒二十八年(1902年)前后,張恭と沈荣卿らが参加したのが反清会党・終南会において、
張恭が副会主に推挙され、終南会は“龍華会”と改め、
光緒三十二年,龍華会の中核は紹興大通学堂で学習し,光復会に参加。
光緒三十三年(1907年),秋瑾が準備した安徽省と浙江省での同時起義(皖浙起義)が失敗して、
張恭は日本へ逃亡。翌年上海で逮捕されます。

革命に身を投じた志士の中にも武術を修めている人は多いようで、
黄興と秋瑾は巫家拳の門人として数えられているようです。

龍華会が参加していた光復会が合併して中国同盟会が成立するわけですから、
頭山満との関わりが見えてくる組織であることは確かです。
そして、日本への留学経験があったといわれる陳良老師ですから、
この時期に中国同盟会と何らかの関わりがあったと推察しているのですが、
残念ながら、それを示す資料を拾うことは出来ませんでした。

ただし、龍華会は青蓮教や姚门教を源流としている話もあるので、
上記の推測が私の誤認で、全く別組織である可能性もあります。

というわけで、これらの線からは、
開祖の証言を裏付けるものを探し出せませんでした。

そこで、
>>辛亥革命後は一時北洋軍閥の流れをくむ呉佩孚将軍の下で行動されたこともあるが、……

という証言から検索をかけると、

中華民国北京政府授与将官全名録に陳良の名前を見つけることが出来ました。
>>1921年
>>1月5日:丁 锦授陆军中将。钱选青授陆军少将。
>>1月7日:孙 涵、贺中强、王大勋、陈 良授陆军少将。

中華民国北京政府とは、
辛亥革命によって清朝が崩壊した1912年から
1928年まで存在した中華民国政権の一つで、
所謂、北洋軍閥政府です。

辛亥革命は1911年で、開祖との出会いは1928年ですから、
1921年に陸軍少将であったのならば、
元清朝軍人で辛亥革命後に呉佩孚の下で行動されたという
開祖の証言の時期的には符合します。

『秘伝少林寺拳法』には、
>>私が師事することになったこの陳老師は、
>>六十をすぎた小柄な人で……とあるので、
仮に開祖が出会った1928年に60歳だったとすれば、
1868年の生まれで、
陸軍少将の陳良が陳良老師であれば、
少将を授かった時は53歳ぐらいということになります。

ただ、この中華民国北京政府授与将官全名録の出典がわからず、
この陳良が陳良老師かどうかは断定はできません。

そこで、中華民国、国民党、陳良で検索したのですが、
浙江省臨海県出身の陳良という人物にはヒットします。
しかし、その経歴を見れば、1921年に東京農業大学を卒業して、
その後、浙江省立第六師範(台州学院前身)で3年間教職だったようなので、
当然1921年に陸軍少将になることはできず、"1921年の陳良陸軍少将" とは別人です。

消去法で、ひとつの可能性を潰して、
"1921年の陳良陸軍少将"が、別に存在することが判ったこの時点で
地震が起こってしまい、これ以上調べが進んでいませんでした。

調べを再開して確認すると前の記事に貼ったリンク先は切れているようですが、
そこでは『中華民国史事日誌』を出典のひとつに挙げていたので、
その第一冊(1912-1925)(中華民国68年7月初版)を見てみたのですが、
(1)の改寧夏護軍使為鎮守使,以馬鴻賓任之から
(4)の公使團照會外交部,質問庫倫俄僑被虐 の事項までは記載がありましたが、
(5)の孫涵、賀中強、王大勳、陳良、授陸軍少將の条文がありませんでした。

どうもリンク先の方が中華民国北京政府授与将官全名録を出典にしているようで、
出典の手がかりが途絶えてしまい、手詰まり状態となっています。

北洋軍閥政府の陸軍少将に陳良という人物がいるのは確かなので、
開祖の証言を否定するにしても肯定するにしても、
1911年から1928年までに呉佩孚の直隷派に存在した陳良を
全て洗い出さなければなりませんが、
1921年の陳良陸軍少将の資料すらなかなか見つからずにいます。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/35024509.html

雍正年間の八卦拳棒 記事をクリップするクリップ追加 2011/8/21(日) 午後 11:28 義和拳とは? 格闘技 0残暑も過ぎて消費電力もおさえられているようなので、
公相君について間違った認識に基づいて書いた『小説公相君』を改稿したいのですが、

それ以前から懸案にしていた、
義和拳の歴史についての訂正と補足を
頃合いを見ながら少しずつ書いていこうと思います。

以前書いたように『義和団事件の起源とその運動』(佐藤公彦著)を手に入れていたのですが、
同著は、かなりの檔案に当たっていて、それはそれはすごい情報量です。

社会学の学術書なので当たり前と言えば当たり前ですが、
中国本土でも翻訳されていて義和団研究の一翼を担われています。

逆に日本の中国武術ファンの中で認知されていないのが残念です。

本来なら、佐藤先生に武術雑誌へ登場して頂いて、
義和拳へ対する認識を改める連載が望まれるのですが、
媒体があまり前向きではないようなので、
このブログで書いてきたことの補足と訂正の意味で、
いくつか同著から拾ってみたいと思います。

以前の記事では、
文聖拳の歴史から八卦教と義和拳の関係について書きましたが、
一旦、文聖拳を離れて、佐藤先生が集めた檔案資料から順を追って見ていきます。

八卦教と拳棒の最も古い記録は、

雍正6年(1728年)9月、
川陝総督・岳鐘琪の奏文<皇帝に申し上げる意見>に対する上論<皇帝の命令と指示>に、
>>「聞くに卦子匪類<八卦教徒の土匪のたぐい>は、
>>籍は江南の廬、鳳及び河南、山東、直隷、山(西)陝(西)地方に隷し、
>>その男婦はみな拳棒技芸を習い、馬騾<ラバ>を携帯して各省を遨游<漫遊>す」

その前年11月にも、
>>「さきごろより、常に拳棒の人あり、自ら教師と号し、徒衆を召誘し愚民を鼓惑す。
>>これらは多く游手好閑<ぶらぶら遊んで働かない>・本業を務めざるの流に係り、
>>而して強悍(強くて猛々しい)の少年これに従いて学習し、
>>営生<生計を立てる>の道を廃弛し、群居して日を終え、
>>気を尚び勝を角う……甚だしきは且つ教を行なうを以て名と為し、
>>劫盗竊賊<強盗と窃盗犯>を勾引して、地方を擾累<騒乱を続ける>する者あり」
< >内は私の註釈。

つまり、雍正5、6年(1727、1728年)には、
八卦教徒の土匪のたぐいが、江南、河南、山東、直隷(河北)、山西、陝西に存在して、
拳棒と宗教を行なうことを名目にして少年を集めて犯罪を行なっていると清朝は認識していて、

そして、嘉慶22年(1817年)8月初1日、陳預奏の中で、
震卦教教徒の侯位南の供述には、
>>「我ら八卦教主劉佐臣原籍河南、単県に居を寄せる」
とあり、劉佐臣は河南省から現在の山東省菏沢市単県に移住していて、

康煕44年(1705年)には、劉佐臣の息子・劉如漢(劉儒漢)が邪教犯として逮捕釈放され、
康煕56年(1717年)、河南蘭陽県の生員・李雪臣の神捶教事件にて、
劉佐臣は白蓮教の頭目として告発されます。

神捶教が具体的にどんなものだったかは不明なようですが、

その年の奏文には、
>>「山東省に当時、白蓮教、あるいは一柱香、そして天門、神拳などの教があって、
>>男女を煽惑、夜聚りて暁に散ずるのだ。とかつて聞いていた」
……とあって、

馬歩沖拳と馬歩衝捶が同じ動作を表すように、拳と捶は同義語なので、
「神拳などの教」と「神捶教」を同義と捉えて考えると、

つまり、
八卦教の始祖である劉佐臣が白蓮教の頭目として告発されていたことから、
八卦教は、白蓮教、一柱香、天門、神拳などを、その別称としてみられていて、
康煕44年(1705年)~雍正6年(1728年)までには、
劉佐臣の原籍である河南から移住先の山東にかけて
拳棒と結びついた宗教として広まっていた証拠であると提示されています。

以上、『義和団の起源とその運動』のP.41を丸々まとめてみましたが、
まだ、この段階では「八卦教の拳棒」が「義和拳」とは呼ばれておらず、
この後、義合拳、義和拳、義和門と呼ばれるものが出てくるのですが、
それは、また日を改めて、現在行なわれている拳種と共に考察していこうと思います。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/35147493.html

王倫の清水教起義と義和拳邪教 記事をクリップするクリップ追加 2011/9/18(日) 午後 0:45 義和拳とは? 格闘技 0義和拳の通年史を知らずに
ネットの情報を拾い読みながら書いていたので、
『義和団の起源とその運動』を読んで
色々と訂正しなければいけないことがあるのですが、
今回も同著から引用させて頂きながら、

先ずは、
なぜ義和拳が邪教として取り締まりの対象になったのかを
おさえておこうと思います。

義和団の乱(1900年)が起こる光緒年間より200年近く前の、
康煕44年(1705年)~雍正5,6年(1727,1728年)には、
すでに八卦教教徒が劫盗竊賊を勾引して地方を擾累する邪教として
認識されていたことは前述の記事通りですが、

義和拳が清朝から本格的な取り締まりの対象となる転機は、
乾隆39年(1774年)に山東省寿張県(今の山東省陽谷県 東南)で、
清水教の王倫が起義(武装蜂起)したことが大きく関わります。

清水教とは、
>>毎村果して賊目数人有りて鎗棒を教習し、
>>水一甌飲めば四十九日食わざる可しと声言す。
>>因りて其教を名けて清水と為すと云ふ。

>>拳棒を以て兗東の諸邑に教授し、
>>陰かに白蓮教を用いて人を誘いて煉気し、
>>気を煉ずれば飢え半月なるも死なざる可しと云ふ。
>>其法、十日不食を以て小功となし、八十一日不食を以て大功となす。

>>私はかつて悪心により害心疼病したので、
>>党家店の王倫の医治を求めました。後に病が好くなり、
>>そこで夫劉煥は彼の教に入り、運気不吃飯を学んだのです。

とあるように断食・拳棒・煉気を中心とする白蓮教の支派です。

王倫起義とは、
教内への取り締まりの動向を掴んだ王倫が、
乾隆39年8月28日に劉煥や孟燦といった手下を寿張県城内に侵入させ占拠。
知県(県の最高長官)である沈斉義を殺害。
さらに9月3日には陽穀県城、4日には堂邑県城内へ侵入。
官吏たちを殺害し、7日には臨清までも攻め、
最終的には29日に王倫が立てこもった楼に自ら火を放って
焚死したという大規模なテロ事件だったのですが、

この清水教と八卦拳や義合拳と呼ばれる拳棒との関係が、
供述や後年の周辺証言を合わせた中で明らかになってきます。

>>張百禄の母舅の孟二(孟燦)、
>>(河南省)遂平に行くに太康を過ぐること有り。
>>かれ(張百禄の堂叔<=父のいとこ>張洪功)曾て投じて師と為し、
>>八卦拳を学習し並びに運気訣を授く(乾隆39年)

>>李之貴の供によるに、
>>……わたくしは幼時に外祖の趙良俊について七星紅拳を学んだ(乾隆39年)
この李之貴は寿張県趙家孤堆の者で、
王倫の徒弟だった胞姪(兄弟の子)の李贊一が之貴の名を教内に登録、
運気的法子を教えたという。

>>入教して賊に従うこと及び義合拳を学ぶ{情事なし(乾隆39年)}。
>>臨清城南数処は皆な異夥拳教、実は王綸(倫)の拳教なり(嘉慶19年)

>>温県人 馮彦は、逆犯・王倫の手下人・李翠の徒弟なり
>>……義合拳を学習する(嘉慶21年)

>>李萃<=李翠>(温県人)は、かつて臨清人・李浩然に従いて師と為し、
>>白蓮教を伝え受けて義合拳と改名し、
>>即ち同県人 郭景順とともに徒を招き教を教え、呪を誦えて拳を習う。
>>乾隆34、5年より今に至るまで
>>孔伝新、潘二、褚文等の各犯先後入教し、均しく邪党に係る。
とあるように、

王倫の手下である孟燦は、八卦拳をおこない、
同じく手下である李翠が、白蓮教を伝え受けて義合拳と改名したことがわかります。

つまり、白蓮教の拳棒の中に、八卦拳、義合拳が存在してたことが確認できます。

では、その義合拳と義和拳の関係はというと、

乾隆48年(1783年)、直隷省南宮県魏家庄の魏玉凱が、
>>同村の「業約の李存仁、および魏学宗、簡七、王三、厳齢等は、
>>山東の王倫とともに、みな高口地方の李姓の徒弟で、
>>従前より白蓮邪教で、拳脚を演習し、四十六年の後にまた義和拳と改め、
>>各人は倶に縄鞭を蔵有している」と北京で訴えている

魏玉凱本人は八卦教徒ではなく、
隣村で白蓮教徒として収徒していた簡七の話を聞いていたので、
トラブルのあった李存仁を誣告で陥れようとして、
それに絡めて邪教として訴えたのが真相のようで、
そのため義和拳の事情についての精度はあまり高くないと思うのですが、
簡七が乾隆46年の後に義和拳と名称を改めていることは確認できます。

一方、とばっちりを食った簡七。
取り調べを受けた息子の簡成は、
その拳は小紅拳だったと証言していますが、
実際に簡七は、寧晋県高口村の李成章の弟子で、
この李成章は収元教(八卦教)兌卦長。
簡七は、邪教犯として処刑されてしまいます。

また、李成章の弟子には于聞という人物もいて、
于聞の孫・于柱水によれば、
>>……祖(父)の于文すなわち于聞、またの名は于洪升は、
>>在りし日に白蓮教を習い並た義和拳を学んでいた。

という証言があるので、
李成章は義和拳を伝習していた。

つまり、義合拳=義和拳と呼ばれていたことを示しています。

その李成章の拳種はどんなものだったかといえば、
路遥教授の現地調査に依れば、
高口村は、かつて有名な武術村で、伝わっていたのは六合拳。

その套路は六種あって、大架、大紅、小紅、蔡拳など<あと2つの記載なし>。
そのうち、大架の別称が六趟拳、六歩拳、六歩架子と呼ばれていたとのこと。

簡七の小紅拳は、この六合拳の小紅であったかもしれず、
義和拳は六合拳の別名だった可能性が指摘されています。
(この六合拳の動画や拳譜は拾えませんでしたが、考察については別の機会にして)

乾隆39年の王倫起義が人々に大きなインパクトを与えた中で、
乾隆48年の魏玉凱が義和拳邪教と誣告したわけですが、
その5年前の乾隆43年にも楊四海が義和拳邪教として訴えられています。

次の記事では今まで書いてきた楊四海について訂正していきます。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/35150497.html

楊四海について訂正 記事をクリップするクリップ追加 2011/9/18(日) 午後 11:54 義和拳とは? 格闘技 0前の記事から続き。

『義和団の起源とその運動』は、楊四海についても詳しく、同著を参考にしつつ、
『義和団檔案資料続編』(下冊)に記載された檔案の原文とあわせて、
ここで訂正していきたいと思います。
(なお、原文の翻訳は翻訳ソフトを助けに私が訳したものなので、
間違っている可能性が大いにあります。ご了承ください)


楊四海が義和拳邪教として訴えられた経緯について。

乾隆43年(1778年)に直隷省と山東省を行商で行き来していた山西省壺関人・張九錫が、
河南の治水工事において銭文での加派が厳しいことと
内黄県での搶奪について訴えたのですが、
これはお上に聞き入れてもらうために
元城県の馬畹滋とその息子、姪孫である馬惟芳から又聞きした、
直隷省元城県隆化村の童国林と山東省冠県碗児庄の楊四海が
義和拳邪教を立てて収徒しているという話を、
訴えに織り交ぜたのが真相とのことで、

>>據張九錫供;
>>我所控義和拳邪教,因三十二、三年上我在元城、冠縣一帶做小買賣時,
>>就聴得傳説,元城、冠縣有人収徒教習拳棒,名義和拳。
>>那時我没有在意,也不曾打聴他們姓名。
>>到三十九年十月間,我販堿到元城縣小灘地方馬畹滋店内住歇,
>>與馬畹滋并他兒子及他姪孫馬惟芳説聞,堤及義和拳的。
>>馬惟芳説,他們龍化荘有隣居童國林,向日教習拳棒,
>>自從王倫事後,官府査拿教習拳棒的人甚緊,如今害怕,也不敢収徒了。
>>還説有翟貫一也住龍化荘,是童國林同學弟兄,也収徒弟。
>>翟貫一的子姪倶各考武,現在請的是山東冠縣武生楊姓教學弓箭。
>>那楊姓武生的父親名叫楊四海,
>>也是拳棒教師,都是義和拳教内的人。

馬惟芳から又聞きしたことには、
・直隷省元城県龍化荘のとなりで童国林が拳棒を教習。
王倫起義のあと取り締まりが厳しく収徒はしていない。
・同じ荘の翟貫一(翟治元)も、童国林と兄弟弟子で収徒していた。
・翟貫一の子と姪(中国語では甥の意)は、武科挙を受けた者で、
現在山東省冠県の楊という姓の武生(武科挙の院試通過者)に弓箭を教えている。
・その楊姓武生の父の名は楊四海と呼ばれている。
かれも拳棒教師で、皆、義和拳教内の人。


楊四海への聴取では、
>>現年六十四嵗、本名 楊治明、於四十一年捐納監生。
>>……三兒子楊玉忠,年二十七嵗,是三十五年進的武生。

息子(三男)の楊玉常は乾隆35年の武生であったようですが、
本人は捐納の監生であって、武進士ではなかったようです。

この取り調べでは、
>>伊父楊樹財在日,原會拳棒,
>>不過防身,並没有収徒歛銭。
>>係跟着同縣的黄有義學的、黄有義已經死過多年了,並没有兒子。
>>伊小時曾跟著他老子學過一著半著,老子死過三十多年,
>>伊開燭酒鋪買賣度日,並不知義和拳名色。

楊四海の父・楊樹財は在りし日、もとより拳棒が出来たが、
身を防いだに過ぎず、収徒歛銭はまったくない。
同県の黄有義について学んでいたが、黄有義が死んで年月が過ぎ、黄有義には子どももいない。
小さいときに父について一手や半手は学んだことがあるが、父親が死んで三十多年、
ろうそくと酒の商売をしていて、義和拳の名前なんてまったく知らない。

その親戚や交友関係へ詳細な訪察を加えると、
>>復密差幹弁四路暗訪,
>>並在伊親戚友朋内細加訪察,
>>訪出冠縣人李鳳德、劉宗尼二名,倶係楊四海表姪,拘拏到案。
>>據李鳳德供出,幼時曾向楊四海學拳。
>>劉宗尼曾見楊四海比架勢。

楊四海の表姪である李鳳德が実際に楊四海から拳を学び、
劉宗尼が楊四海の架勢比べを見たことがあるという供述から嫌疑が深まります。

楊四海が再び取り調べを受けたときには、
>>隨提楊四海面加質訊,
>>楊四海始不能抵頼實係向伊父學會打拳,
>>名呌紅拳,非義和拳名,實無収徒教拳情事。

父親の楊樹財から"紅拳"は学んだが、
義和拳という名前ではなく、収徒教習の事実はないと供述。

ここで、楊四海と紅拳との関わりは明確になりました。

>>因復嚴加詰訊,伊父楊樹財豈無教徒之事?
>>據供:其父已死三十多年,並未教徒弟。
>>惟有堂邑縣許家堤口人許萬功,從前與伊父同夥販羊,常在一處,
>>所以教過他,他已經死過了,他兒子現在名呌許文泰。
>>其餘實在没有別的徒弟。當傳許文泰到案,訊據供亦相同。

楊四海の父・楊樹財が徒弟を取っていないかったかという疑惑に対して、
楊四海の供述に拠れば、
父はすでに死んで三十多年、けっして徒弟を教えていない。
ただ、堂邑縣の許家堤口人・許萬功は、以前、父と羊を販っていて常に一緒にいた。
だから彼に教えたことはある。彼はすでに死に、彼の子は現在、許文泰と呼ばれている。
そのほか別の徒弟は実在しない。
許文泰に出廷するように伝え、訊問するに供述とまた同じだった。

再び訪察が加えられて、
>>有鄰境邱縣人楊士增曾會打拳,拘案審訊。
>>據楊士增供認:曾向本縣杜科村李八十學了兩著梅花拳,
>>李八十久已死過,後做買賣,久不習練了。各等供。

隣境邱県人・楊士増はかつて打拳することが出来、とらえて訊問する。
楊士増の供認に拠れば、
かつて当県杜科村に向かい李八十に両著梅花拳を学んだ。
李八十はすでに亡くなって久しく、あとは商売をしていて、久しく習練していない。と供述。

この供述だけを見る限り、
楊四海と梅花拳との関わりは、楊士増も一緒に捕まった話以上のものは見られません。

そこで、以前書いた記事を読み返すと重大な間違いがありました。
梁山梅花拳の伝承にも楊四海が関わっていると書きましたが、
梁山梅花拳の動画の中で、"名 楊四海"と思ってみていたのですが、
よく見ると、"楊" の字が "揚" でした。
これは人名ではなく、「名揚四海」(名声が天下に知れ渡る)という成語でした。
よって、梁山の梅花拳には、楊四海は関わっていません。
またもや、大失態です。
中国語の知識や歴史について理解がないまま解釈してしまっているので、
たびたびこのような間違いを犯しています。
ここに訂正してお詫び申し上げます。

誤解の原因は、楊四海を、梅花拳の楊炳から数えて冠県3輩弟子と
表記しているサイトがあったので、
梁山へも影響を与えていたと早合点して思い込んだままでいました。

その楊四海の梅花拳での系譜について調べたいところですが、
『義和団事件の起源とその運動』には平郷・広宗県梅花拳拳譜は記載されていますが、
楊炳の弟子に関しては詳しい記載はなく抜け落ちています。
なので、梅花拳上の系譜が判然としません。

また、楊四海が農民起義領袖と表現しているサイトもあるのですが、
『義和団事件の起源とその運動』には農民起義を起こしたという話の記載もないので、
これもまた判然としません。

ネット検索すると、河北の三河縣起義で楊四海という人物がヒットするのですが、
順治5年(1647年)5月24日、
西沽(天津)の楊四海が自ら明熹宗(天啓帝)太子と称して起こした反乱のようなのですが、
義和拳邪教として訴えられた楊四海は、
乾隆43年(1778年)に64歳だったので1714年生まれということになり、
三河県起義の楊四海とは別人です。

義和拳邪教と訴えられた楊四海とその周辺人物への刑罰は、
>>應請將該犯發極邊烟瘴充軍,
>>至配所杖一百,折責安置。
>>卽其子煬玉常,雖供止教翟中武弓箭,
>>伊若不誇揚其父會拳,
>>則元城之馬惟芳等何由而知楊四海會拳?
>>則楊玉常亦斷非安分人,
>>應與曾經舉拳之李鳳德、楊士増等三名俱杖一百,流三千里。
>>劉宗尼、許文泰並未學拳,
>>應與無干之地鄰人等均予省釋。
>>仍嚴飭該地方官力行查拏拳棒之徒,
>>母少懈弛,以安良善。

文聖拳の歴史でも、
>>杜恒信慕杨士(四)海之名,
>>只身一人河北投师,学艺一年,
>>由于奸人所陷杨士海被缚并充军发配到西藏,
>>杜恒信回家后带足盘缠随师一起到西藏,
とあって杜恒信は楊四海の西藏(チベット)への充軍という流刑についていった話になっています。

文聖拳や梅花拳の拳譜に登場する楊四海は、
三河縣起義の楊四海と混同されているような気もします。う~ん……
文聖拳や梅花拳で扱われる楊四海について新たな疑問が湧いてしまいました。


それでは、義和拳邪教の楊四海が、本当に義和拳と関係がなかったかというと、

その後、乾隆51年の元城県を襲撃して兵備道・熊恩紱を殺害した
「段文経・徐克展事件」というのが発生するのですが、
八卦会の徐克展は、面識の無かった離卦教教首である翟貫一(翟治元)に
援軍の約束を取り付けるため手紙を送ったが、翟貫一は現われなかったと供述しています。

八卦教内でも離卦教教首であったという認識の翟貫一、
その子とその甥が楊四海の三男に弓箭を指導していたので、
楊四海たちの自供を鵜呑みには出来ないと佐藤先生は考えられているようです。

また、文聖拳の歴史では楊四海を楊士海とも表記していて、
なんとなく楊士増との混同があるのではないかとも思えるのですが、

その楊士増は、 平郷・広宗県梅花拳拳譜の中で、
義和団の乱で義和団を構成した領袖のひとりである趙三多(第14輩)の
6世前の第8輩として記載されていて、系譜からみても、
義和拳との関係を考慮に入れなければならない要素のようです。

迷宮に迷い込んだ気分ですが、
杜恒信は、まず出身地の山東嘉祥県井庄の井家について六歩架を学んでいるようなので、
八卦教と関わりを持つと考えられる大鴻拳の六歩架と
文聖拳を比較しておきたいとは思うのですが、

それ以前に、
義和拳は宗教結社として長い歴史の中で伝播しているので、
八卦教としての部分を説明して共通認識にしておかなければ、
大鴻拳の六歩架も、光緒年間に起こる義和団の乱も分かりにくいことがあるので、
次は馮克善が登場する天理教起義の中でそれを見ていきたいと思います。

つづく。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/35423303.html

少林寺拳法は義和門坎字拳 記事をクリップするクリップ追加 2011/11/20(日) 午後 10:54 義和拳とは? 格闘技 0
前の記事からの続き。

予定していたように、
義和拳は宗教結社として長い歴史の中で伝播しているので、
八卦教としての部分を説明して共通認識にしておかなければ、
大鴻拳の六歩架も、光緒年間に起こる義和団の乱も分かりにくいことがあるので、
馮克善が登場する天理教起義の中で見ていこうと思っていたのですが、
情報量が多すぎて、思いのほか時間がかかってまだ書けていません。

義和拳が形成された古い時代から追って書いていたのですが、
『月刊 秘伝』で少林寺拳法の連載が一月号からはじまるようなので、
連載の方向性に触れる部分かどうかは分かりませんが、
書こうとしていたアウトラインだけはここに記しておきます。

光緒年間の義和団から遡るのは、
少林寺拳法の原形に直接関わる核心だけに、
古い時代からもっと丁寧に書きたかったのですが……

では、本題です。

少林寺拳法の原形について開祖は、
北派少林寺拳法会の機関誌の創刊号と第二号の「北派少林拳法解説」で、
少林寺拳法の沿革や由来が書かれていました。

創刊号は1949(昭24)年11月25日、第二号は1950年1月22日付けで
丸亀精版会社の印刷で発行されて『少林寺拳法五十年史 正史』(P.79)に
その要旨が載っていますが、そこから抜粋すると、

>>大別して南派と北派に区分して呼称し、
>>内部で云う場合にのみ其の伝承系統名 例えば
>>義和門坎(かん)字拳とか、離字拳、乾字拳或いは如意門、白蓮門、
>>陳の拳とか師の名前をつけて呼んでいるのであります。
>>……(中略)……
>>この北派の内でも山東、河北地区に勢力のあった秘密結社白蓮教の一派で
>>義和団事件で有名な拳匪の乱の義和門坎字拳の老師黄竜伯の拳は
>>其後竜華会や紅卍会、青幇等の幹部の中に伝承され
>>門外不出の技法として今日に至っているのであります。
 
>>此の拳の特徴は形の演武を主体とせず対敵動作を主体とした組手闘法を演錬し
>>"拳法に先手なし"の訓言を技法に生して「後の先」を取ることに専念している点であります。

>>(中略)私は任務上、黄氏の坎字派の拳の継承者である文太宗老師と
>>特別の関係にあって知遇を受け、師号を許されたのですが、
>>之は私の拳技上達によるものではなく、
>>多分私が与えた恩恵に対する謝意からであろうと存じているのであります。

このように、少林寺拳法の原形は、義和門坎字拳です。

では、その坎字拳がどの様なものであったのかと言えば、

以前取り上げた清稗類鈔には、
>>義和拳,一名義和團,源於天理教,
>>亦以卦為符號,起於山東堂邑縣,舊名義和會。
>>光緒己亥、庚子間,東撫捕之急,遂潛入直隸之河間府景州、獻縣。
>>乾字拳先發,坎字繼之。
>>坎字拳蔓延於滄州、靜海間,白溝河之張德成為之魁。
>>設壇於靜海屬之獨流鎮,稱天下第一壇,遂為天津之禍。
>>乾字拳由景州蔓延於深州、冀州,而淶水,而定興,而固安,以入天津、京師。
>>坎字拳為林清之餘孽,乾字拳為離卦教郜生文之餘孽,故皆尚紅。
>>其後有黃色一派,則乾字拳所創也。
>>坎字、乾字,授法各殊。
>>坎字拳傳習時,令焚香叩拜後,植立而仆,仆而起,跳躍持械而舞。

坎字拳は、滄州に於いて蔓延、靜海間、白溝河の張德成がこれの魁。
靜海屬の獨流鎮に於いて壇を設立、天下第一壇と称する。遂いに天津の禍と為る。とあり、

坎字拳は、直隷(河北省)の張徳成が設立した天下第一壇が始まりで、
滄州から静海、天津へと拡大しています。

佐藤公彦著『義和団の起源とその運動』を参考にすれば、
光緒25年(1899年)5月末の坎字団の壇口は天津だけでも六十余ヶ所、
人数は一万四千前後と言われているようで、その他の地域も合せると膨大な数です。

黄龍伯老師の情報は少なく、
出身地も、どの壇に属していたのかも分からないので特定は出来ません。

また、これだけの波及を見せているので
各壇で行なわれていた拳種そのものも特定できないのですが、

黄龍伯老師の出身地や壇が分かれば、
現在その地で盛んに行なわれている拳種ぐらいは分かるので、
何らかのヒントにはなるのですが……

少林寺拳法側のどこかに重要視されずに放っておかれた古い資料や
証言が存在するのかも知れませんが、残念ながら分かりません。

そこで、清稗類鈔にある

>>坎字拳為林清之餘孽,……には、

坎字拳は、林清の残存勢力が為したとあるので、

天理教起義を起こした林清と同じく首謀者である馮克善、李文成など
その周辺で行なわれていた拳種を一つずつ拾いながら、
古い時代から追って、義和拳の理解を高め、
坎字拳のみ為らず、現在乾字門との関係を見せる拳種も紹介しつつ、
それらの拳種の遺伝子が少林寺拳法の中に息づいているのかを見ていこうというのが、
書こうとしていたアウトラインなのですが、
残念ながら今年中には終わりそうもありません。

つづく。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/35436521.html

少林寺拳法は義和門坎字拳 part2 記事をクリップするクリップ追加 2011/11/24(木) 午前 0:01 義和拳とは? 格闘技 0
前の記事からの続き。

義和拳を理解するには説明しなければならないことだらけで、
中国語資料を読むのに苦労してパニックっていますが、
少林寺拳法は坎字拳絡みなので、そこだけに限定して拾ってみます。

まずは、清稗類鈔の記述、
>>坎字拳蔓延於滄州、靜海間,白溝河之張德成為之魁。
>>設壇於靜海屬之獨流鎮,稱天下第一壇,遂為天津之禍

にある、坎字拳の魁となった張徳成について。

張徳成の基本的な部分は、リンク先のウィキペディアに任せますが、

補足程度に佐藤公彦著の『義和団の起源とその運動』から拾ってみます。

<『固安県志』巻四 故実志>
>>光緒二十五年冬に義和拳の乾・坎の邪術を習う者が山東から避難してきて伝え、
>>宣教師・教民を仇殺せよと唱えて神術を誇ったので愚民が糾合された。

>>それよりさきに、新城県の沈各庄で村民が教民と団地をめぐって板家窩では舗房をめぐって、
>>それぞれ教民を訴訟で争っていたが、知県が教会寄りの裁定を下し、それに屈せざるを得なかったために、
>>ここがまっさきに義和拳の神術を習ってその憤怒をはらそうと受容したのである。

>>この沈各庄の張德成、板家窩の王成德(王德成、もと傭工)は、「畿南拳匪の魁」となり、
>>王成德(德成)は大衆に推されて大師兄に、甄家碼頭の鮑玉如が二師兄となった。

>>わが(固安)県の拳術は実は鮑玉如が伝えるところによる。

>>つまり、新城県東南郷の沈各庄、板家窩の義和拳が固安県に波及してきたというのである。
>>そのはじまりをなした新城県沙口甄家碼頭の義和拳は、
>>ここの張兆禧と張兆和が山東に行って義和拳の老師を招いてきて村に設壇したもので、
>>それを知った近くの板家窩がこの老師を招いて舗壇=設壇したのだという。
(p.561~562)


清稗類鈔には、白溝河の張徳成とあり、
固安県志には、沈各庄の張徳成とあり、その出身地は諸説あるようですが、

>>調査によると趙張村だという。(廖一仲編『義和団運動史』一二三頁。)
>>「かれは、一八九九(光緒二十五)年すでに独流鎮で義和拳と連携をもち、
>>その後、家に帰って拳廠をたてて徒弟をあつめ、この地の義和団首領となった。」
>>独流鎮に天下第一団を設立したのは二十六年四月のことだ。という
>>(李文海等『義和団運動史史事要録』一二一頁)
(p.638~639)

地図を見ると白溝河と趙張村は3、4キロほどの距離のようなので大きな違いはありませんが、
すでに独流鎮に義和拳そのものは存在して、団を設立したのはその後ということになります。

このように、
山東から老師を招いて河北に設壇することもあったり、
必ずしも張徳成が始まりとも言えないのですが、

開祖の証言にある、
>>この北派の内でも山東、河北地区に勢力のあった秘密結社白蓮教の一派で
>>義和団事件で有名な拳匪の乱の義和門坎字拳の老師黄竜伯の拳は
>>其後竜華会や紅卍会、青幇等の幹部の中に伝承され
>>門外不出の技法として今日に至っているのであります。

と言うことから考えれば、
少林寺拳法の原形は、山東から河北にかけての坎字拳にあったということになります。

もちろん、ただちに黄龍伯老師と張徳成を結びつけるわけにはいきません。

『義和団の起源とその運動』(p.546)に依れば、
>>光緒二十五年夏衡水県人の張承芝が寧津の柴胡店閻集一帯に来て、
>>義和拳乾字大師兄と称し、神術によって不死身になれ、洋人を滅ばすことが出来ると宣伝し、
>>村人たちに受け入れられて“爐”を設立して拳場を開いた。
>>張承芝が最初で、その後、
>>冬に南皮県路罐の藩荣祚が長官鎮の南の各村に坎字団を組織したのをはじめ、
>>二十六年春にかけて五つの派が組織された。

というように、藩荣祚という人物が坎字団を設立したり、

同著(p.132~133)に依れば、
>>光緒二十五・六年に山東直隷交界地区各県において活動していた義和拳の中には、
>>八卦教伝統を受け継いでいたと思われる乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌の各卦集団がみられたし、
>>また「中字門(中央戊已土、中央離卦教系統であろう)も存在した。
>>山東省濱州、霑化、陽信、利信、蒲台などの各県は靳盛然の「乾」字拳会が主流で、
>>海豊県には「巽」字拳会、
>>冠県十八村には「坎」字拳会、
>>恵民、商河、済東、済陽、鄒平、章邱県には「離」字拳会、
>>楽陵には「兌」字拳会があった。
>>これらの拳民は、八卦旗を掲げたり「黄布頭巾に乾字と八卦印布をかいた」りしている。
>>(『山東義和団案巻』斉魯書社,一九八〇参照)

というように、
山東省冠県十八村(実際には曲周県や南宮県、邱県などにある飛地で24ヶ村から成り立つ)に
坎字拳会は存在していました。

黄龍伯老師の出身地が分からないので、
どこで学んでどこの壇と関係していたのか特定は難しいのですが、

しかし、少なくとも、
他の乾字団・坤字団・離字団・震字団の四字は除外して考えられます。

中国では現地調査も行なわれていて、
『天津義和団調査』や、『义和团资料丛编 山东义和团调查资料选编』では、
壇員への聞き取り調査によって、
義和拳や大刀会、義和団が名乗った神拳と関係のあったいくつかの拳種なども挙げられています。

また、林清の天理教起義の翌年(嘉慶19年)の証言に見られる、
>>[臨清州民・張麟……の供に拠るに山東・直隷毗連の地方、近年荒歉に遭うに因りて、
>>邪教が間に乗じて愚民を誘惑し、もって搶案はなはだ多きに到る。]
>>其の首たる者[韓固村に王七,王八あり]……等、均しく被搶の家の証す可きもの有り。
>>首たるの人みな拳教に係り、
>>梅花拳、異夥(義和)拳、二狼拳、大紅拳、金龍照(金鐘罩)等の名あり、
>>従前に白蓮教が滋事(王倫叛乱のこと-筆者)し、衆くの拳教これに羽翼と為る。
>>……(香城古人の長槍劉四は徒弟三千を有し、梅花拳教に有り、それ異夥教各教に呂金照、……あり……]
>>臨清城南数処はみな異夥拳教なり[ただ金龍照(金鐘罩)ははなはだ訪査し難し、亦の名を五祖拳教という。]
『義和団の起源とその運動』(p.79)

臨清州民・張麟が何者なのかは記載がないので分かりませんが、
梅花拳、義和拳、二郎拳、大紅拳、金鐘罩(五祖拳教)などの多くの拳教が、
白蓮教を支える役割をしていたことは分かります。

これが林清の天理教起義(嘉慶18年/1813年)の翌年の証言と言うことを考えれば、
当時の拳教に対する基本的な認識だったと考えられます。

これらの拳種と義和団の乱(1900年)の紅拳、梅花拳などの拳種が共通することを考えると、

>>坎字拳為林清之餘孽,乾字拳為離卦教郜生文之餘孽,
坎字拳は林清の残存分子が為し、乾字拳は離卦教の郜生文の残存分子が為した、
とする清稗類鈔の文章が理解出来ます。

乾字拳や郜生文に関して書くと話が長くなってしまうので、また別の機会にしますが、

黄龍伯老師の義和門坎字拳が、五花拳を有していて、尚かつ、
>>此の拳の特徴は形の演武を主体とせず対敵動作を主体とした組手闘法を演錬し
>>"拳法に先手なし"の訓言を技法に生して「後の先」を取ることに専念している点であります。

というように、すでにこの時代には単練形式の套路ではなく、
対練を主体と為したものであったことが分かりました。

陝西花拳の五花拳という単練套路がYoutubeにアップされていますが、
その招式動作に紅拳の小紅拳で見られる盘头花子や裙拦势があることからすれば、
紅拳の系列に五花拳と言う名を付けたものが存在する可能性が考えられます。

拡大解釈すれば、
やはり、義和拳系列の拳種に五花拳という名を冠するものがあるのではないかと思えてきます。

もちろん、陝西花拳の五花拳は単練套路であり、
少林寺拳法の五花拳は、対練を主体と為しているので、
直接、少林寺拳法の五花拳と同じものではありませんし、
動画を見ても招式として共通性があるとも思えませんが、
以前記事にしたとおり、紅拳との関連性を考える上で、一つの要素になります。

紅拳や梅花拳、
坎字拳と名乗る二郎拳に見られる三十六拿法との共通性は書いてきましたが、
坎字拳が林清の餘孽であることを考えれば、
黄龍伯の拳が義和門坎字拳であると言う開祖の証言は、
それらの拳種と少林寺拳法の関連性を疑うべき紐帯となるのではないでしょうか?

また、
>>義和門坎字拳の老師黄竜伯の拳は
>>其後竜華会や紅卍会、青幇等の幹部の中に伝承され
>>門外不出の技法として今日に至っているのであります。
とあって、
文太宗(子明)老師とは別系統の伝承が残っている可能性もあります。

黄龍伯と言う名前が、
本名なのか?通名なのか?字(あざな)なのか?分かりませんし、
出身地も分からない状態では捜し出すのは厳しいのですが、
これに関しては、中国側の情報発信待ちです。


P.S.
他にも欲しい情報はいくつかあって、
陳良老師の字(あざな)は何という名前だったのか?
また、開祖が自然門の万籟聲老師に教わったことがあると話したとされる香港の雑誌記事について
ご存じの方がいらっしゃったら教えてください。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/35567382.html

独り相撲なのか 記事をクリップするクリップ追加 2011/12/29(木) 午前 4:06 義和拳とは? 格闘技 0全く気付いていませんでしたが、
ふと、少林寺拳法のトップページを見てみると、
2011/10月付けで「少林寺拳法と中国少林武術の違いについて」と言う記事があって、
>>(前略)……少林寺拳法と中国の少林武術・少林拳は目的も技法体系も異なったものです。……と。

確かに直接の絡みは、
伝法允可の簡単な儀式を嵩山でやったくらいなので、そうではあるんですが、
古式の羅漢手について技術の類似性を書いている身にとっては、
……なんとなくですが、ハシゴを外された気分がします。

今も、いちばん資料が残っている可能性がある1921年の陳良陸軍少将の名前が
民国檔案史料の陸軍部職員録に載っていないかさがしてみましたが
掲載人数が少なく、その名前は見つけられず。

これは陸軍部職員録がメインの資料ではなく、
中央軍事機関及びその主官任免についての資料なので、
陈姓の字面だけを追って最後まで流し読みしましたが、やはり見つけられず。

その見ている資料は、
南京にある第二歴史檔案館の檔案に依っているようなのですが、
そこでは、中華民国政府時代の檔案史料が集められて、
公開もされているので、当時軍人であった陳良老師の何らかの資料はありそうな気はしますが、

……なんだか独り相撲をとっている気分です。


私は、義和拳の流れを汲む文聖拳について知ってしまったがため、
行き掛かり上、義和拳とはなんぞやというテーマに取り組んではいますが、
元拳士と言う立場でもあり、一人で熱くなる必要性もないのですが、
なんでしょう、今の感情をうまく表現できる言葉が見つかりませんが……

少林寺拳法の源流については、
裁判沙汰ににもなったように叩かれ続けたまま嵩山との友誼を強調するだけで、
結局何の解決にもなっていないのは相変わらず。

このブログでは、
それなりに当りを付けているつもりでいましたが、

本山が本腰を入れているような気配もなく、

それ以前に、少林寺拳法連盟のサイトには中文すらないようですし、
本山は、中国側へ情報を求める意識が薄いのでしょうか?

陳良の名をさがして檔案史料を求めにいくもよし、
中国政府との繋がりを生かして照会してもらうもよし、
本山には何らかのアクションを起こして欲しい。

と、思っても、この思いすら独り相撲なのでしょうが。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/36663280.html


少林寺拳法は義和門坎字拳 part3
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2012/12/13(木) 午後 11:09
義和拳とは?
格闘技
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これは、開祖が証人に立った裁判の速記録を読んだ上での記事ですが、
私としては終結した裁判の内容に立ち入るつもりはなく、
義和門拳がどんなものだったかを探求するために、
義和門拳に関連しそうな部分を抜粋して前の記事にテキスト化してみました。
デリケートな内容は抜粋していませんが、
わざわざ拡散させる必要もないのでファン限定にさせて頂きます。
全文を知りたい方は公開されている速記録をネットで拾ってください。



さて、
開祖の証言は基本的に出版された本に書かれていることと変わりありませんが、
より明確になったこともあります。



被告代理人の「何という拳法をやられるんですか」という尋問に



開祖は『少林寺拳法奥義』で書かれているように
北少林義和門拳の秘技である龍系諸技と呼ぶ三十六式の拿法の説明や
日本流の名前をつけたことを説明しようとするのですが、



>>いや、そんなことは聞いてないんですがね。
>>どういう何という拳法をやっておられたかということを聞いているんです。
>>--義和拳と言ってられました。義和門拳と言っておられました。



と、速記録からもイニシアチブをとられてしまった印象がぬぐえず、
不信感を抱かれている人ならば、疑心を増幅させるものですが、



開祖の独自の命名によって原名がどこからどこまでなのかわからなくなってしまっていたので、
逆に、こういう証言は調べる上でありがたいのです。



ここで判明したのは、
義和門拳とは、開祖が名付けたわけでなく、
文太宗老師が言われていたと証言したことです。



それで、この証言が、どこに係ってくるかと言えば、



以前指摘しておいた
那文毅公奏議にある「故城県葛立業義和門拳棒伝習預知逆情一件」という一文です。



この那文毅公奏議とは、直隷總督だった那文毅公(文毅は諡号)が、
林清が起こした天理教の反乱<嘉慶18年/1813年>の関係者を捜査して皇帝に上げた報告書のことで、



『那文毅公奏議 第四十二 七~十頁』の嘉慶20年(1815年)11月初三日付けにあるのですが、
(追記:リンク先の表記は三十九ですが中身は四十二巻です)



佐藤公彦著『義和団の起源とその運動』P.25~26より、その前後の訳を引用しておきます。



>>明末以来の石佛口 王姓の大乗教清茶門とその伝播を摘発したが、
>>遺孽<残存勢力>を残さないように上諭を奉じたので、
>>河南省滑県で天理教教匪を処理したこともあり、
>>自分の知っている事を報告します。



>>(1)滑県で蜂起した連中は震卦教で、東方震王老爺門下と称した。
>> 王老爺とは、乾隆37年に罪を犯し処刑された山東省渮沢県人・王中である。



>>(2)北京の林清の徒党は坎卦教で、北方元上坎宮孔老爺門下と称した。
>> 孔老爺とは王中の事件で処刑された孔万林である。



>>(3)大乗教、金丹八卦教、義和門、如意門などの教が摘発されたが、
>> それらはみな南方離宮頭殿真人・郜老爺門下と称した。
>> 郜老爺とは乾隆36年に罪を犯し処刑された河南省商邱県人・郜生文のことである。
>> <頭殿とは透天の音訛>



>>(a)嘉慶16年に摘発された鉅鹿県民の孫維儉らが、
>> 呉二瓦罐の伝える好話教すなわち離卦教を大乗教と改名して活動していた事件。



>>(b)嘉慶17年に大乗教の散会首<=支部長>が復興を計った事件。



>>(c)孫維儉大乗教事件の大会首・李経が獄中から同教徒と連絡を取って
>> 天理教反乱に対応しようとした事件。



以上を処理して、



>> 八卦教内の首要犯である張九成、楊遇山、宿元謨、劉坤、
>> 河南の離卦教首・郜生文の孫 郜坦炤、劉功らを捕らえ処理。



その他、離卦の一教でなおいまだ改悔しない事件として以下の9件。



>>[一] 安平県で捕えた離卦教を伝習していた楊俊らでは、
   首先伝教の呉二瓦罐の子で少当家と称していた呉洛雲とその頭目の路運を究出した一件。



>>[二] 交河県で一柱香離卦教を伝習していた斉聞章らから十王経巻を捜出した一件。



>>[三] 滄州の呉久治、路老らが佛門教を伝習していた一件。



>>[四] 青県の季八、葉幅明らが義和門教を伝習していた一件。



>>[五] 青県の辺二が白陽教を従習し逆情(反乱)を預知していた一件。



>>[六] 景州の葛錫華らが離卦教を従習し逆情を預知していた一件。



>>[七] 祁州の邢士魁らが如意教を伝習し、作っていた氏名登録総冊を捜獲した一件。



>>[八] 故城県の葛立業が義和門拳棒を伝習し逆情を預知していた一件。



>>[九] 青県の尤明らが義和門離卦教を伝習している一件を訪獲しました。



>> これらは教名は別とはいえ、ともに離卦教の子孫徒党であり、
>> ……奏明し、それぞれを処分し記録にとどめてあります。




これらの文章は、見出しを挙げただけで、
葛立業の詳しい報告は『名文毅公奏議 第三十八巻』七十三貢に書かれていますが、
(追記:リンク先の表記は三十五巻ですが中身は三十七~三十八巻です)



この「 故城県の葛立業が義和門拳棒を伝習し逆情を預知していた一件」は、



河北省故城県では義和拳が義和門拳棒とよばれていた事実が明示されたものです。



この拳棒の意味についておさえておきますが、
拳(=拳法)と棒(=棍などの器械<武器> )という意味で、
転じて熟語としては武術を意味する言葉です。



直訳すれば、義和門拳棒とは、義和門の拳と棒という意味です。



開祖が証言したとおり中国においては、
四川の八大門派(僧門拳、岳門拳、趙門拳、杜門拳、洪門拳、化門拳、字門拳、会門拳)のように
~門拳と呼ぶ習慣があって、開祖も中国で学んだ拳法の一つに洪門拳を挙げていましたが、
文太宗老師が属していた哥老会は四川で大きな組織を誇ったようなので、
そちらの人たちの間での言い回しかと思っていたのですが、



以前書きましたが、
初期の北派少林寺拳法会時代の機関誌にある「北派少林拳法解説」に、



>>大別して南派と北派に区分して呼称し、
>>内部で云う場合にのみ其の伝承系統名 例えば
>>義和門坎(かん)字拳とか、離字拳、乾字拳或いは如意門、白蓮門、
>>陳の拳とか師の名前をつけて呼んでいるのであります。
>>……(中略)……
>>この北派の内でも山東、河北地区に勢力のあった秘密結社白蓮教の一派で
>>義和団事件で有名な拳匪の乱の義和門坎字拳の老師黄竜伯の拳は
>>其後竜華会や紅卍会、青幇等の幹部の中に伝承され
>>門外不出の技法として今日に至っているのであります。



というのを読んでみて、
少林寺拳法の原形は、山東から河北省にその勢力のあったことを知りました。



つまり、「故城県葛立業義和門拳棒伝習預知逆情一件」という一文は、
少なくとも河北省には義和門拳という言い回しがあったということを物語っています。



ただし、離卦の一教でなおいまだ改悔しない事件の一つとして挙げられているので、
故城県の葛立業は離卦教です。



ですから、坎字拳(坎卦)であった少林寺拳法の直接の源流ではありません。



しかし、嘉慶年間の天理教の反乱(1813年)から
光緒年間の義和団の乱(1900年)まで87年の時間経過があり、



以前引用して書いたように、河北においては山東省からの流入や義和団の設壇が乱立して、
義和門拳棒と呼ばれていた故城県の葛立業とそれらがすべて直接の関係があるわけではありません。



しかし、義和門拳という言い回しが存在している地域で、
坎字拳を洗い出すことが出来たら、
少林寺拳法の源流である黄竜伯老師の坎字拳に近づけるのではという期待が生まれます。



もし黄竜伯老師の坎字拳が設壇しているとしたらこの村かもという、
徳川埋蔵金を見つける確率ぐらいのうっすらとした見当はつけてみたのですが、
その地域への現地調査の記録は見当たらず、
結論から言えば、直接黄龍伯老師に迫れる資料は見つけられませんでした。



ではありますが、まずは史実に基づいて
義和門拳棒の葛立業がどんな人物であったのかを明確にすることで、
その周辺地域を洗い出して、さらに清稗類鈔に見る坎字拳が波及した地域を
佐藤公彦著『義和団の起源とその運動』や
路遥・程〈肅欠〉著『義和団運動史研究』などから引用させてもらったのちに、
現時点での私の認識を展開していこうと思います。



つづく。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/36753148.html


故城県の義和門拳棒
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2013/1/14(月) 午後 5:28
義和拳とは?
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前の記事の続き。



では、義和門拳棒の葛立業の周辺人物を明らかにしながら、
その周辺地域を洗い出してみます。



この葛立業は、馮克善を師事した宋躍漋の周辺に出てくる人物なのですが、



まずは、馮克善ついて再びおさえておきますが、
松田隆智先生の『八卦掌』(日東書院)で
取り上げられていた人物であることは以前書きました。



>>董海川以前に"八卦拳"という名の拳法は存在していた。
>>すなわち清代の書『藍簃外史・靖逆記』
>>嘉慶丁巳(1797)山東済寧人の王祥は馮克善に拳法を教え、
>>克善は尽く其の術を得る。
>>庚午(1811)春、牛亮臣が克善の拳法の中に八歩の有るを見る。
>>亮臣曰く「尓の歩法は八卦に似る」
>>克善曰う「子は何を以てこれを知るや?」
>>亮臣曰う「我が習う所は坎卦」
>>克善日う「我は離卦なり」
>>亮臣日う「尓は離なり我は坎なり、
>>我々ニ人離坎を交宮して、各々習えば其の習う所可なり」と



今回は、その前後を抜粋してみます。



前の部分と少し抜けている箇所には、



>>馮克善河南滑縣人少猛鷙有膂力,
>>曾從滑縣朱召村人唐恒樂習武伎,善騎射,尤精鎗法,
>>嘉慶丁巳,有山東濟寧人王祥,教克善拳法,
>>克善盡得其術,徒手博撃数十人,無敢近者,
>>庚午春二月,其僚壻滑縣庫書牛亮臣見克善拳法中有八方歩……



馮克善は河南滑県人で、若くして勇猛で体力もあり、
かつて滑県朱召村人・唐恒楽から武技を習う。よく騎射し、槍にもっとも精通。
嘉慶丁巳(1797年)山東済寧人の王祥は馮克善に拳法を教え、
克善は盡く其の術を得る。数十人と徒手で搏撃すれば、あえて近づく者無し。
庚午(1810年)春2月、その相婿である滑県庫書の牛亮臣が克善の拳法の中に八方歩の有るを見る……



と繋がって、その後ろには、



>>壬申夏四月,滑人有霍雲方者,慕克善名,
>>請之往山東德州,與宋躍漋比拳,
>>躍漋遇克善,自以為弗如,
>>命其子宋王林與之角,又弗如遠甚,
>>躍漋遂師事之,入離卦教,
>>嗣後,亮臣子牛文成,濬縣人李文成,滑縣人熊自華,張九成,
>>倶師事克善,自華,九成等又各授其徒,
>>黨羽漸多,衆遂奉克善為離卦頭目,
>>癸酉春正月,牛亮臣招克善,見林淸于宋家莊,約起事二月,
>>克善往德州,會宋躍漋,旋偕宋王林復屬,其調遣滑兵,克善歸以悟亮臣,
>>亮臣曰如約秋九月林淸至滑,諸賊衆大會于道口,歃血飲酒,誓告師期,
>>三皇之僭號,淸與文成欲分割燕豫,克善欲據德州以扼南北,……
<『藍簃外史・靖逆記』巻五,五から>



要約すると、
馮克善は山東省德州へ行き、宋躍漋と比拳。
その子、宋王林とも角力して、
宋躍漋はついに馮克善を師事し、離卦教に入る。
牛亮臣の後を嗣いだ子の牛文成、濬県人・李文成、滑県人・熊自華、張九成
ともに馮克善に師事し、それぞれが勢力を拡大して、馮克善は離卦教頭目に奉られる。
牛亮臣は馮克善を招いて、宋家庄にて林清と接触、反乱を起こすことを約束するのですが、
賊たちは道口に集まって、出兵の日を誓い、
三皇と僭號した林清と牛文成は燕(河北省)と豫(河南省)を分割し、
馮克善は德州を占拠しその南北(山東省)をおさえようとしたことが書かれています。



そして、首謀者・林清は自らを天皇、李文成は人皇、馮克善は地皇の三皇と称して、
清朝嘉慶帝が秋の狩りで留守の際に手薄になった紫禁城を攻撃して
侵入してしまうテロ事件を起こします。



これが天理教(八卦教)起義(反乱)です。



その天理教起義との関わりについて取り調べを受けた内容について、
『名文毅公奏議 第三十八巻』七十三貢に書かれているのですが、
(リンク先は三十五巻と表記されてますが中身は三十七~三十八巻です)



登場人物が多すぎて繁雑ですが、
佐藤公彦著『義和団の起源とその運動』を参考に、
箇条書きでざっくり書いておきますが、
とりあえず、ここでは、その活動地域に注目して下さい。



葛文治: 景州(現在の河北省景県)に居住。老天門教の劉坤の武門の徒弟。義合拳脚を伝習。



葛立業: 故城県青罕荘人。葛文治は葛立業の族叔祖。



    葛文治の徒弟・馬十の家で葛文治に拝師。



   「故城県葛立業伝習義和門拳棒預知逆情一案」を供述。



劉坤: 霍応方に拝師。



霍応方: (霍雲方)。河南滑県城東の桃源村に祖籍。
   
    嘉慶10年に故城県押窩村に転居後、村の呉振升ら11人、
   
    並びに劉家窩村人の劉坤を誘い徒弟にした。



    嘉慶17年4月に馮克善を挙薦。



郭維正: (郭為貞、郭維畛、郭為畛)。袁七禿子について六趟拳を学ぶ。



    嘉慶3年に李修正に拝師し離卦教に入教。宋躍漋と比武して知り合い。



呂福: 郭為貞に拝師。離卦門教と称して、あわせて義和拳を伝授。



馬十: 景州の葉良に拳棒を学ぶ。のちに宋玉林(宋王林)について拳棒を学ぶ。



劉元: 宋躍漋の妻の弟。入教し、宋に拳棒、八卦歌訣を学ぶ。



宿元謨: 籍は景州。劉坤と共に山東恩県の李洛秀に学ぶ。



    先後して蘇洛俊、劉坤に拝師。



李洛秀: さきに老天門教を習い、劉坤と宿元謨に拳棒を教えたが既に病死。



    その後、劉坤は霍応方に拝師。



宋躍漋(宋躍隴): 景県焦馬庄人。李盛徳、宋八胡子と共に離卦教頭・郭為貞から拳棒を習う。(李盛徳の供述)



周添喜(周得謙): 李盛徳と共に郭為貞から拳を学ぶ。



宋樹徳: 周得謙から六趟拳と白陽教を学ぶ。



つまり、郭為貞の孫弟子にあたる宋樹徳であるから、その拳法は六趟拳であった確率が高い。



任四: (任万立)冠県人。陰陽拳を伝える家柄。李二の師。宋躍漋の子・宋玉林の供述。



李二: 恩県人。馮彦の師。<宋玉林の供述>



馮彦: 恩県人。王倫の徒弟・李翠から拳棒を学ぼうとしたが、実際には孔柄から太子拳を学び、
       次男・馮士杰と共に習教を否定。宋躍漋とも知り合いではないと否定。
       長男の馮子奇は任四の誘いにより離卦教に入教。流刑。
       宋躍漋の子・宋玉林は、始めは恩県人の謝化元から拳棒を習ったが、
       父の宋躍漋の拳棒は馮彦より伝下したものに係ると証言。



http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_36505247_0?1358173695



馮克善は、山東省徳州で宋躍漋を引き込み、
徳州のとなりの河北省景州(現在の景県)、故城県にも及んでいました。
193
故城県、景県、徳州の3つの地域が隣接していることがわかります。
中国では市の下に県が属しているので、
徳州を検索すると複数の県を含む南北に拡がった地図が表示されますが、
かえってここから克善欲據德州以扼南北しようとするイメージができます。



この、徳州、故城県、景州の3つの地域が馮克善の勢力地域でした。




さて、ここからが本題です。



少林寺拳法に対する批判として、
義和拳は義和門拳とは表現しないなどというものが存在していますが、



義和門拳棒という言い回しは、
故城県には存在していて、それには景州、德州が関わっていることがわかります。



四川の八大門派のように、"~門拳"という言い回しは存在しているので、
個人的には、義和門拳という言い回しにこだわる必要性があるとは思えないのですが、



逆に、これが特有の言い回しならば、
この地域の義和拳が、義和門拳と呼ばれていた可能性となります。



馮克善は離卦教頭目なので、
坎字拳(坎卦)であった少林寺拳法の直接の源流ではないのですが、



この地域では、
天理教起義(1813年)から光緒年間の義和団の乱(1900年)までの87年間に、
義和門拳という言い回しが土着のものとなっていた可能性が見出せるわけです。



ということで、次は、光緒年間に、
この故城県、景県、徳州に存在した義和拳を挙げていきます。



つづく。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/36978226.html


光緒年間の河北景州、棗強、衡水地区の義和拳
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2013/4/7(日) 午前 0:13
義和拳とは?
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ブログを書くのが億劫で未だに満足いく形で書き上がっているわけではないのですが、
とりあえず書いているところまでUPしておこうと思います。
資料の読み込みも不足しているので間違いに気付いたら追記していこうと思います。




前の記事では、義和門拳棒という言い回しは、
故城県には存在していて、それには景州、德州が関わっていることがわかりました。



四川の八大門派のように、"~門拳"という言い回しは存在しているので、
個人的には、義和門拳という言い回しにこだわる必要性があるとは思えないのですが、



逆に、これが特有の言い回しならば、
この地域の義和拳が、義和門拳と呼ばれていた可能性となります。





義和拳は、いずれの時代も
事件を起こしたことによって記録されたものが残っているだけで、



義和門拳棒は嘉慶年間の天理教起義に関わっていて、
老天門教(八卦教 離卦)の系統にあったものでしたが、



光緒年間では、外国人の排斥運動として教案事件(キリスト教徒襲撃)を起こした記録が主なものです。



ちょうど尖閣問題で日本企業がターゲットにされたように、
西洋列強の象徴としてかなりの数のキリスト教教会が焼かれて、
教民(中国人のキリスト教徒)を襲撃して略奪する事件が繰り返されます。



この地域で大きなものでは朱家河教堂惨案と呼ばれる惨殺事件などもあって、
結局、官軍によって鎮圧、逮捕、処刑。拳場も解散させられます。



ここでは、それらの事件については詳しく書き起こしませんが、
その事件の中で大きな影響を及ぼした2つの系統が存在しました。



ひとつは棗強、故城、衡水で活動した王慶一の義和拳で、



もうひとつは景州、阜城一帯において活動した晤修(武修)和尚の義和拳です。



簡単に箇条書きしておきます。




王慶一 : 
棗強県張家屯人。康馬郷藩庄の張姓の者を師として光緒二十二年頃から拳棒を練習。
二十四年の冬に「五祖神拳」をたてた。
「乾字」「文的」に属す。
「助清滅洋」を掲げて活動。近くの胡仁屯にも拡大。
景州河渠鎮に拳廠を建てる。その後、故城県大月庄に拳廠を建てる。
景州宋門鎮にも設廠。



張継貞 : 
張家屯人。王慶一の徒弟。



孫五(王老占) : 
胡仁屯人。王慶一の徒弟。



周某 : 
山東荏平県のひよこ売り。光緒25年春に棗強県流常鎮の鎮武場に拳場をひらく。



劉長年 : 
流常鎮。師は王慶一。



二麻瞼 : 
仝庄。師は王慶一。



葫芦和尚 : 
景州から衡水留仲鎮の玉皇廟へ。そこの苗和尚と徒弟に神霊、邪法、金鐘罩を伝える。



渠成江(渠五爺) :
武秀才。留仲鎮の受け入れ先。留仲鎮に拳場設立。
以後、衡水県城内では胡鳳鳴、
北庄にも場子を設立して郭老芝(文秀才)が先生にあたる。
曹家にも場子を設立して陳奎元が先生に当たる。
その後、村西姑子廟にも場子設立、これらの四つの場子は渠五爺が管する。



郗樹芳 :
渠成江の師兄を受け入れ、宋門鎮に義和拳を設立。



牛貴選(牛六爺) :
杜橋鎮での受け入れ先。申庄、南門里に拡がる。宋門鎮からの受け入れ。「乾字門」「文的」。
同じ杜橋鎮の南(岔道口村,郭庄,古路庄)にある晤修和尚の「武的」とは別系統。



杜橋義和拳(宋門鎮から郗樹芳を招く)
杜老九 : (大師兄)
張慶林 : (二師兄)
三春  : (三師兄)申庄。張慶林の親戚。
牛啓元(牛六爺の子)と牛奎元が先生として当たる。



景県杜橋鎮岔道口村での義和拳の頭目に劉盛義、それから張玉山、祝丙均、彼らは禹城で学ぶ。
鋪場子は東昌府の徐明露。大頭は牛六爺、牛二慶、大師兄の朱老純、二師兄には朱懐德、周殿清。






晤修(武修)和尚 :
冀州城の開院寺住持。
阜城では南から来たと言われ(阜城県東南小庄人)、山東から来たとも言われる。
阜城県肖村(後に武邑県に編入)の石塔寺の祥安和尚とその弟子・成章と瑞章を徒弟とする。



趙汝子(趙斌) : 
阜城県臨鎮村。武挙人。晤修和尚を連れてきて西大廟に場子を作る。
晤修は「扶清滅洋」を唱え、十戒を授ける。
趙斌と息子の趙英武らは「伝神助教滅洋共和義和団」の旗を立てる。



門英 : 
門村の門文傑と郭奎村が晤修和尚を連れてきて場子を設ける。



魏福田 : 
景州劉八庄。清軍の哨長だった人物で、曹五爺(曹観瀾)とともに趙汝子と晤修を招いて拳場を設立。



舜三和尚 : 
阜城県八里屯。老爺廟(関帝廟)。
舜三は阜城県肖村(後に武邑県に編入)に行って晤修に要請。
十数人義和拳を学ぶものがいて、耿振楚、楊貴参らは字を識っていて、
義和拳の中では彼らが先生として当たっていた。




<系譜は未完成なのですがとりあえず>
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e0/58/alphabethankakueisuji/folder/1175293/img_1175293_36978160_0?1365259956




阜城県門村は晤修和尚を連れてきて操練場を作りましたが、



>>咱村的義和拳都是“離”字門、紅包頭、“離”字是征南的。
>>聴説小営村(八里公社)的義和拳都是花包頭、是“坎”字的、“坎”字是征北的。
>> 阜城県門村、門文屯、85歳 1966年2月 (『義和団運動史研究』P.404)



晤修の系統である阜城県門村の門分屯は、
自分の村の義和拳はみな“離”字門と言っている一方で、



>>俺这里属“乾”字门,信神迷信,都是文的。
>>练拳时,手拿单刀或枪头子各站一方。
>>晤修和尚和成章和尚所領的一部是別一門、他們是武的、練起拳来互相打架。
>>郭庄、古路庄、岔道口都属老和尚这一門。
>>乾字門的義和拳起来后、都推牛六爺為領頭的。
>>景県杜橋公社前杜橋村、孫連加、78歳、1966年2月(『義和団運動史研究』P.404)




孫連加の証言では、
景県杜橋村は乾字門に属して神や迷信を信じ、みな文的で
晤修和尚と成章和尚が所領する一部は別の一門で武的だったと証言しています。



義和拳においては文功と武功を分けて組織する場合があり、
武的とは、主に武術などの武功を練功する武場で、
文的、文場とは、文功(坐功、念呪、煉気など)を主に行なうことをいうのですが、



なんだか言い回しがはっきりしなくて、
晤修の別の一門も乾字門だったと考えて良いものなのか疑問なのですが、
これが乾字門であったなら、
同じ晤修和尚の系列であっても離字門と乾字門が存在した可能性となります。




また、この時代の故城県の離卦教としては、
「僧武修和尚供出係八卦教、故城所獲僧大貴供出離卦教……」『義和団の起源とその運動』(P.133)



故城県でつかまえられた大貴和尚が離卦教だったと供述しています。



ただし大貴は「山東恩県人、朱灯紅師弟」と、
その師は山東省恩県の人物と供述しているのですが、



一方、王慶一も同じ朱灯紅の流れを汲んでいるのですが、王慶一は乾字門。



この朱灯紅と嘉慶年間の離卦教との関係は不明で、



同じ系統に属していると考えられても、教派は別であったりするので、
わたしのなかでも未だに整理できずにいます。



そして、義和門坎字拳であった少林寺拳法の源流を捜す立場からは、
この地域での坎字についての記述が少なく、



阜城県門村の門文屯の証言にある小営村の坎字、



衡水留仲鎮の王老芝は義和団員で自分の村は坎字で武的だったと証言しているくらいです。



つまり留仲鎮には乾字と坎字があったということになるのですが、
留仲鎮での坎字についてはそれ以上詳しい現地調査もされていないので分かっていません。



とにかく、結論を導き出すには資料の絶対量が足りないのですが、
天理教起義の時代の残り香(葛文治・葛立業の義和門拳棒)が土着的に存在していた可能性が感じられます。



156



少林寺拳法の原形である坎字拳を捜すには、
それらの地域から当たらないとダメでしょうが、



少し気になることがあります。





ここから先は『月刊ムー』なみの都市伝説的お話ですが、



開祖の裁判記録で、
>>それで、私が師事しました陳良老師が白蓮拳と称されたり
>>それから竜華拳と言われたこともあれば、技の中にですね、
>>文老師がそれを総称して義和門拳というふうに私たちは聞いているわけです。



という証言があります。



ここで問題にしたいのは竜華拳です。



開祖は教わった拳師が所属した結社ごとに分類して命名した節があり、
陳良老師は竜華会の所属でもあったようなので、
竜華拳もそれにちなんだ開祖の命名かもしれないと思っていましたが、



少なくとも開祖の命名ではないことがわかりました。




陳良老師が竜華会の拳法という意味で自ら命名した可能性も高いのですが、



ここでは別の可能性を挙げておこうと思います。




龍華會という名前は天理教起義の天理教の改名前の名称として那文毅公奏議にも登場します。



龍華はその名残かとも思うのですが、
陳良老師の竜華会とは時代が違うので当然別のものです。



なのでその可能性としては薄いのですが、



もう一つの可能性として気になる“場所”があります。



それは中国河北省衡水景县にある龙华镇(龍華鎮)という地名です。



190



この地域の義和団は、906県道付近の村で大きな事件を起こしているのですが、



地図を見ると906県道が南北に流れ、391省道と交わる地点に龍華鎮は存在しています。



景州と故城を結ぶ906県道と、衡水と徳州を結ぶ391省道で結ばれる交通の要所です。



景州、棗強、衡水地区の義和団も当然使用しているはずの道路ですが、
龍華鎮は歴史資料には登場していませんし、現地調査も行なわれていません。



いたるところに義和団はあったという証言があるわりに、
この交通の要所に拳場がないのも不思議です。



もしかしたら竜華拳は、龍華鎮にある龍華村の拳法という可能性はないだろうか?



黄龍伯はそこの出身ということはないだろうか?……と、



徳川埋蔵金を赤城山で探すTBS『ギミアブレイク』の糸井重里的推理をしております。




つづく。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/37057698.html


1921年の陳良陸軍少将はどこへ?
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2013/5/7(火) 午後 11:11
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ゴールデンウイークは、
ここ二、三ヶ月の強風で破損した自宅の軒天や瓦の漆喰の修繕に追われてしまって
用意していたブログ記事もまともに仕上げていないのですが、
とりあえず簡単に書いて置いたものを挙げておきます。





これはネットで公開されている開祖の裁判記録の乙第62号證にある会話です。



>>永尾光容(宗道臣と共に昭和二五年頃拳法の道場をはじめた人物)と谷口光昭との対談の録音内容
>>谷口氏「そしたら、一手一手中国で習ったというような。ぜんぜん関係ないんですか。」
>>永尾氏「当時、中野師範は鉄道保安官をしていました。鉄道関係、乗っていくだけですね。
     ですから陳とか文という人に習ったと言うんですが、当時の奥さんはよく言ってました。
     あんなぜんぜんそういうことはなかった。陳というのは商人の名前だろうということですわ、奥さんは。…(後略)…」





永尾氏や当時の奥さんが嘘を言っているとは思いませんが、



以前の記事も書きましたが、



このニュアンスだと、多分商人の名前だろうという推量の感じでしかなく、



当時の奥さんが、陳と言う人物と面識があったのか明確ではありません。




もし面識があったとしても、



陳良の経歴で問題になるのは軍人であったか否かであって、



開祖と結婚生活していた当時に陳良がどんな身分であっても、



ここでは大きな意味を持ちません。




できるならば、



面識の有無や、



陳が商人であったとしてもその前の経歴を知っているのか、



どの時期から知っているのかを知りたいのですが、




破綻した結婚生活というデリケートな関係の中での証言と言うことは省いても、




永尾氏が当時の奥さんから聞いた伝聞ということもあり、



残念ながら証言の精度としては少々落ちる証言でした。





また、聞き手の谷口光昭氏は、



極真と少林寺の間に具体的な揉め事に発展するきっかけとなった人物なので、



少林寺に否定的な言説さえ獲れれば目的を達成できたでしょうからその精度も求められません。






一方で、現在では陳良という人物が



1921年に陸軍少将として存在していた事実もネットの発達と共に分かってきましたが、



>>1921年
>>1月5日:丁 锦授陆军中将。钱选青授陆军少将。
>>1月7日:孙 涵、贺中强、王大勋、陈 良授陆军少将(陳 良 陸軍少将)。




しかし、その素性がなかなか分かりません。




他の資料を求めて『中華民国歴史上的20大派系軍閥』を見てみたのですが、



ざっと目を通してみても1921年の陳良陸軍少将の名前を見つけることが出来ませんでした。




これには、



古くは1896年から、



最も新しいもので1947年の各軍閥ごとの編制序列が示されて、



「陳良」の名前は、(P.426)の国民党軍中央軍機構編制序列1946年6月-1947年6月中に



聯合后勤総司令部・副総司令に名前が出てきますが、




これは、例の、もうひとりの陳良で、1921年に東京農業大学に卒業した人物なので、



1921年の陳良陸軍少将とは別人です。




よって、1921年に陸軍少将となった陳良の名を見つけることは出来ませんでした。




ちなみに、同じ日に陸軍少将となった孙涵、贺中强、王大勋をこの資料の中で捜してみると、




川軍第3軍が国民革命軍23軍に改編されて



>>国民革命軍第23軍編制序列
>>(1926年10月)
>>軍長・劉成勛
>>-第1師・師長・劉国孝
>>-第2師・師長・陳鳴謙
>>-第3師・師長・孫涵
>>-辺防軍・司令・羊清泉
>>-辺防軍・司令・賀中強
<『中华民国历史上的20大派系军阀』 张明金,刘立勤主编 解放军出版社 P.145より>




1921年に陳良と一緒に陸軍少将となった孫涵、賀中強は川軍(四川軍)であったようですが、



王大勛と陳良の名前がこの資料の中に見当たりません。




ただ、ネットで検索すると王大勛は、
1932年革命に参加,紅四軍連長に任命,1932年病故とあります。



これが1921年に陸軍少将になった王大勛と同一人物かは分かりませんが、
同一人物であれば1932年に共産党の中国工農紅軍の連長になったことになります。
この人物はこの人物で、共産党?革命参加の年に病卒?と気になる経歴ですが、



残る陳良だけがその後の消息が分かりません。




開祖が出会った昭和3年(1928年)頃には軍籍から離れているようですから、



1921年に陸軍少将となった陳良の名が1928年以降に軍編制序列の中にあったら、



それは陳良老師とは別人と言うことになりますが、




見つけられないことで、逆にこの人物が陳良老師である可能性を強めてくれます。




ただ、しっかりとした裏取りをしなければ精度を欠いてしまうのは同じ事ですから、



これで1921年の陳良陸軍少将が直ちに陳良老師であると言うつもりはありませんし、



私は事実が知りたいだけなので、違っていたとしても受け入れますが、



直接の資料になかなかたどり着けてないので、この調べは、ほぼ、とまった状態です。




アンチの立場を取る方々にしても、まずは、この1921年の陳良陸軍少将をクリアして頂きたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/37167067.html


長尾(永尾)証言の疑心暗鬼
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2013/6/22(土) 午前 0:36
義和拳とは?
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以前の記事の続き。



長尾(永尾)光容氏(第一期生)が組織を離れた理由についてどうこう言うつもりはありませんが、
ここでは義和拳に関しての問題点に絞ってみます。




>>谷口「先生がが少林寺拳法の門に入られたのはいつですか」



>>永尾(長尾)「昭和二五年ですね」



以下箇条書きで整理すると、



昭和二九年 長尾氏の父が玄洋社関係で、末永操(節)に
      「うちの息子(光容)が中国の拳法をやっているというような事で紹介してくれたんです」
      
      長尾「それで私自身が(末永の)米寿の祝いで少林寺の拳法を披露したわけなんです」



      末永「どうもお前がやっているのは中国の拳法ではない。
         中国に少林寺拳法というものはない。
         少林寺とか何々拳という拳の名前は残っておるけれども
         少林寺拳法というものはない。
         それにお前のやっている構え方も中国の拳法の構えにはない」
      
      長尾氏は疑問点を感じ、どういうところが違いますかと聞くと、



      末永「中国は拳と棒です。この拳と棒を上手にこなす人間が拳士である。
         お前が言う師匠中野道臣という人も棒をやられるか?」
      
      長尾「まだ見ておりません」



      末永「それはおかしいのう。必ず棒と拳はついてくるもんだ」



      長尾氏は、師事していた中野氏には悪いんですけれども、
           そこで自分で真実を分りたいという気持ちから末永節を師事。



      末永が持ってきた褚民誼の本を見ると、
      構えも違えば開祖と言っていることとも違う。
      



>>長尾「何々のセイという構えがありますが、日本では構えということになるんですが、
>>このセイというのも一つ一つが攻防が入れられた徒手空拳の型となっているのです。
>>中野さんのはただ上段・中段・中段構え・上段構えを勝手にしとりますけど、
>>これは意味もなければ何もないという点の誤解点があったわけなんです。
>>それでまあ私としては、なんとしても真実を知りたいと言うので
>>一番最初、中国の棒を習いだしたわけなんです」
        
多分、セイは勢のことだと思いますが、
少林寺拳法では法形として勢は存在しているので誤認識でしかありませんが、



ここで明確にされたのは、昭和25年に入門した長尾氏は、
末永節に指摘される昭和29まで少林寺拳法を中国の拳法として認識していたこと。



この証言はテープから起こされたもので何か他のものを間違って録音して、
抜けている部分があるようですが、末永節から棒を習いだした話の後、



>>長尾「ま第一、ここの拳法の技は私ら第一期でしたからね、一緒にこしらえていったり、
>>あの技にしようか、この技にしようかというてこしらえたんです。
>>その時はここで講習会等をしていましたからね。
>>私は当時拳法の歴史と一緒に生きてきたと思っていますから
>>古い書籍なんかこの間も整理してましたら、
>>ノートに技の基本的なものなんかこしらえた後がやっぱりありますね」



>>谷口「そうすると一番初めのは、中国の名前はもちろん……後で知ってたわけですか、
   宗道臣さんて方は」



>>長尾「あの方はあの方のおじいさんは竹の内サントウ流の、あの道場を持っていたんです。
>>おじいさんがしばらくの間夫婦が苦労しましてね。お母さんが天理教におられてね、
>>それで全部寄附してしまったりして本当に困っていた時代があるらしいんですね。
>>それ以後おじいさんに育てられた時代があるんですね。よく話してました。
>>うちのじいはイッパイ飲んだら気持ちようやって、
>>呑まんかったらくしゃとしとるんやと云ってましたから、
>>当時の技の中に竹の内流の技の系統があるのはおじいさんの影響です。
>>それから母親が天理教だったんで、
>>現在の組織の中に天理教的なイズムがあるのもその血の中にあるんじゃないですか。
>>それで、当時こうしなきゃいけない、宗教的にしなきゃいけないと言ったのも私自身でしたし、
>>……ですから戦犯ですな、私は、そういう意味から言いましたらね」



と、谷口氏の「開祖は中国の(拳法の)名前は後で知ったのか」という質問には答えず、



意図的なのか無意識なのか長尾氏の微妙な印象操作が始まり、
開祖の祖父の宗重遠が竹内三統流の道場を持っていたと言う話をして、
そして、宗教的にしなければいけないと言ったのは長尾氏本人だという主張しています。



>>長尾「森実君自身入れたのも私でしたからね、
>>ここへ流れてきていたのを少林寺拳法に紹介して、ハハハ……。
>>それから当時の組織作りのほとんどは私が参謀でしたからね、
>>宗教的でなかったらいけないというような、武道ではいけない、
>>昭和二二、二三年頃でしたからね、武道だけでは誤解されるし、
>>将来は新興宗教の教団でなきゃいけないというのが一つの考え方になって
>>武道と少林寺拳法というのはお寺から出たんだから、
>>それでいいじゃないかという安易な気持ちからこのように発達していったのですね。



>>谷口「一番始めは黄卍教団とか、そういうふうな名称で……」



>>長尾「あれは、黄卍ホウエといいまして、支那にあるでしょう。
>>その目的が地縁・血縁・バイエンて云うんです。
>>そういうふうな組織作と結束ということをやかましくいう点と、
>>中野師範が人間的に孤独な人でしてね。
>>向うから引揚げてくる時に或程度事故を起こしたらしいんです。
>>前の奥さんも言ってました。ご存知ですか」



>>谷口「いえ、聞いてないですけど……」



>>長尾「そういうこともあったりしましてね、ひどく孤独性の強い人でした。
>>ともかく今から事業は人の結束がなければいけないと
>>終戦直後のああいう状況の中でいつも言われとったですね。
>>そういうふうな思想の中に拳法が方便として使われていったんじゃないですか」



>>谷口「そしたら、少林寺拳法というその前は北派少林拳とか、」



>>長尾「いや、黄卍教団の時は私が委員長をしてましてね。
>>結局、中野師範が陰にかくれて私が総責任者という立場を取っていましたんですね。
>>ほんの一時期です。ほんの一、二年もないぐらいです。
>>その当時の文献はほとんど焼き捨てたと言ってましたね。
>>古い時代のパンフレットなんかあるかもしれませんがね。



>>谷口「できたらお願いしたいんですね。法に紹介して、ハハハ……」



谷口氏の「少林寺拳法は、その前に北派少林拳を名乗っていたのか」と言う質問には答えず、
やはり自分が主導的役割を果たした印象を与えます。



その後、元奥さんの話の後、
開祖が昭和23年に一度だけ受けた八光流の講習会の話を持ち出します。



>>谷口「講習会に、丸亀ですか」
>>長尾「丸亀です。きました時に八光流をおじいさんとやっていた技とかわらない、
>>竹の内流の技とかわらないということで、そしたらそう云うふうな技をやろう。
>>当時、柔道三段でしたからね。中野師範は、
>>だからそういう風な柔道系統なものと八光流なんかと組み合わせてやったら
>>何かおもしろいんじゃないかと、
>>それで、当時の少林寺拳法とはぜんぜん無関係だったと私はそう思います。
>>当時は文献見ましたら、逆技なんか、こう取ったらこう取れるとか、
>>例えば手ひとつでもこうした技もあるんじゃなですかというと、
>>そしたら、それも入れようかと言って入れた覚えがございます。



長尾氏の話では、開祖は竹内三統流と変わらないからそういう技をしようと言っていただけですが、
これが八光流源流説にすり替わります。



そして、道場で相手がこう来たらどうするんですかと言う良くある風景が、
ここでも自分が主導的立場だった話に。



さらに問題の部分が続きます。



>>谷口「それから、あの一番始めはギワ拳第一ぐらいから始めたのですか。」



>>長尾「ギワ拳?」



>>谷口「ギワ拳、ありますね」



>>長尾「ギワ拳の第一段階、あれはずっと後ですよ。
>>あれができたのは四年も五年も後ですよ。それから型なんか始めはできていませんよ。
>>私なんか初めて入ったらこれぐらいの部屋でね。中野師範と私だけでね、逆小手をやった」



義和拳が後付けのような印象を与えていますが、



これは形としての義和拳第一が後でまとめられた話をしているだけです。



しかし、この乙第62號證では、
>>八光流と竹の内流を組み合わせて作ったもので、
>>少林寺拳法とは全く無関係であること。
>>義和拳と云いだしたのも四、五年も後であること。



という論拠として出しています。



これは完全な曲解で、



長尾氏は、一番始めに昭和25年の入門と証言していますが、



北派少林寺拳法会の機関誌の創刊号と第二号の「北派少林拳法解説」、
1949(昭24)年11月25日、第二号は1950(昭25)年1月22日付け(丸亀精版会社印刷)に、
少林寺拳法は北派少林拳法と名乗っていて、その原形が義和門坎字拳であったことは既に書かれています。



それに、長尾氏も少林寺拳法が全く中国拳法と関わりが無いとも思っていず(証言の引用行が前後しますが)、



>>長尾「逆が入って、抜きが入って、それから徒手格闘になります。
>>だから半年ぐらいは逆専門にやらして後は徒手格闘、
>>ついたり、けったり、それも連系統が多かったですね。
>>連系統はどこから出たかというと、
>>やっぱり支那の拳法の中で二連、三連の技を見てたんだろうと思いますね。
>>だから見よう見まねだったですね。突いたり、けったりの組み合わせは中野師範がやったですね。
>>それからあの方の組織作りがうまい方だから次々と組織化しましたね。
>>だから自分の頭の中でこしらえたと言っても過言じゃないんじゃないですか。」



「やっぱり支那の拳法の中で二連、三連の技を見てたんだろうと思いますね」と証言。



そもそも、昭和29年に末永節に話を聞くまで、
少林寺の拳法、中国の拳法として理解していたと自身で証言しているのですから。



そして谷口氏は、開祖が書籍の中で祖父・宗重遠が修めていたとする不遷流のことを聞きます。



>>谷口「あのカッパブックスの中にフセン流のおやじはフセン流を継ぐとあるんですが、
>>これはフセン流を習ったということでしょうけれども、竹の内サントウ流の方がま、色々習っていたんでしょうか」



>>長尾「フセン流もやはり習っとるんでしょう。フセン流というのはね、やっぱりフセン和上、
>>あの人から出たという宗教的ムードの中に出てるんで、それでその流派を好んだじゃないですか。」



長尾氏の証言は、ここにきてあやふやな印象です。



ほかにも問題点はありますが、
文字数制限で書けないので全文はネットで検索して頂くことにしますが、



印象としては、長尾氏もウソは言っていないと思います。



肝心なところは答えないで、疑念から出た憶測を話しているだけ……。

http://blogs.yahoo.co.jp/alphabethankakueisuji/38649131.html


竜王堂ってどこだろう?
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2015/4/25(土) 午前 10:45
義和拳とは?
格闘技
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去年のゴールデンウィーク前に書いて上げそびれていた記事です。
来週上げようと思っていましたが、このブログも今をもって放置することになると思います。
落ち着いたら再開するとは思いますが、
コメントも釣りのコメントを含めて放置しておくのでご了承下さい。






では、本題の竜王堂について。



>>文老師は、字を子明といい、陳老師と同じ河南省登封県の出身で、
>>若い頃近くの嵩岳に登り、少林寺の僧となって拳を学んだ人である。
>>清末の光緒十三年に、西欧諸国の中国侵犯を憂い、下山して秘密結社哥老会に入り、
>>義和門拳十九代師父黄龍伯の弟子となり、その跡目を継がれたの拳の名手であった。
>>文老師は、当時、北京の西直門外の竜王堂に隠棲されていたが、
>>七十歳をすぎてなおかくしゃくとして、識見、風格ともに立派な方であった。
>>私は師について、相対演武を主とする、
>>武技としての法形を最も多く残していた北少林義和門拳の秘技である龍系諸技と呼ばれる
>>三十六式の拿法や、五花拳という剛柔一体の投げや、順逆の捕り方を正式に学んだ。……(後略)。
(以上、少林寺拳法奥義 昭和五十年七月二十五日初版、昭和五十六年五月十五日八版 P.57~60より抜粋)





文老師が、当時隠棲されていた北京の西直門外の竜王堂って、どこだろう?と思い、



竜王堂で検索すると、オリンピック公園にある龍王堂と八大処公園の竜王堂がヒットします。




西直門は、故宮紫禁城の西側。



西直門外といえば、現在の北京市・西城区・西直門外大街(西外大街)を指すと思いますが、




オリンピック公園は故宮の北側にあるので、西直門外ではありません。




八大処公園の竜王堂は、故宮の西側にはありますが、



西直門外大街からはかなり離れています。



(グーグルのルート検索で、西直門外大街の端にある北京動物園からは15キロ)




中国では堂を廟と表現することもあるので、



龍王廟なら何かヒットするかと思って検索したら、



いくつか故宮の西側にある龍王廟が拾えました。




北京植物園内にある龍王廟(ここも北京動物園からは徒歩で約15キロ)。




門頭沟区・京浪島文化体育公園を臨む三家店村にある龍王廟。




更にその西、門頭沟区・西落坡村にある龍王廟がヒットします。




このうち、三家店村の龍王廟そばにある関帝廟鉄錨寺には坎字団がいたそうです。




一瞬ここかとも思いましたが、さらに西直門外からは遠い(北京動物園から徒歩で23キロ)ですし、



文老師が属していたのは、哥老会。



義和門坎字拳の黄龍伯老師から義和門主を受け継いではいましたが、



直接、坎字団に所属していたわけではありません。




そこで、もういちど、西外大街付近をさがすと、



北京動物園の前で西外大街が終わりますが、



そこを過ぎて、湖のある紫竹院公園の北西に广源閘というせきがあり、



近くに「广源闸及龙王庙」という碑がある「紫金観」という、



海淀区重点文物保護単位(文化財保護)に指定されている廟があり、



ここも、龍王廟のようです。



距離的にも、西直門外大街の北京動物園から2.8キロの位置。




今のところ、この紫金観が候補として一番可能性があると考えています。





「紫金観 北京」でGoogle検索すると、



石段がある紫金観の画像が出てきますが、



今一度、現状を確かめるため、「紫金观 北京」百度で图片(画像)検索すると、



周りの木々だけでなく、石段や左右の獅子か狛犬?香炉が無くなっている画像も出てきます。



文化財として保護されているわりに、周辺の開発によってかなり影響を受けているようです。



文太宗老師や従者だった河北出身の張文成の子孫が竜王堂の保護に関わっていれば良いのですが、



この開発状況では期待薄。



他にも西直門外大街の中に別の龍王堂(廟)があるかも知れませんが、



少林寺拳士の皆さんで中国旅行の予定がある方は、



北京動物園へ行ったついでに足を伸ばしてみるのもいかがでしょうか。
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