朝鮮半島からの強制連行は太平洋戦争以前にも存在していた! 豊臣秀吉の朝鮮出兵! 薩摩だけでも三万七〇〇余人! 日本の奴隷貿易 奴隷狩りの実態

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No.33 - 日本史と奴隷狩り [本]

No.22, No.23 の「クラバートと奴隷」では、スレイヴ(奴隷)の語源がスラヴ(=民族名)である理由からはじまって、中世ヨーロッパにおける奴隷貿易の話を書きました。そこで、中世の日本における奴隷狩りや奴隷交易のこともまとめておきたいと思います。


山椒大夫


日本における「奴隷」と聞いてまず思い出すのは、森鷗外の小説「山椒大夫」です。この小説は「人買い」や「奴婢(奴隷)」が背景となっています。以下のような話です。


陸奥の国に住んでいた母と2人の子(姉が安寿、弟が厨子王)が、筑紫の国に左遷された父を訪ねていきます。途中の越後・直江の浦(現在の直江津)で人買いにつかまり、母は佐渡の農家に売られ、2人の子は丹後・由良の山椒大夫に売られます。2人の子は奴婢として使役されますが、姉は意を決して弟を脱出させ、自らは入水自殺します。弟は国分寺の住職に救われ、都に上って関白師実もろざねの子となります。そして丹後の国守に任ぜられたのを機に、人の売買を禁止します。そして最後の場面で佐渡に旅し、鳥追いになっていた盲目の母と再会します。

物語のはじめの部分において、二人の人買いは親子三人を拉致したあと「佐渡の二郎」は母親を佐渡へ売りにいき「宮崎の三郎」は安寿と厨子王を、佐渡とは反対の方向へ海づたいに買い手を探して南下します(宮崎は今の富山県の地名)。その南下の様子を「山椒大夫」から引用すると、次のとおりです。



こうして二人は幾日か舟に明かし暮らした。宮崎は越中、能登、越前、若狭の津々浦々を売り歩いたのである。

しかし二人が穉おさないのに、からだもか弱く見えるので、なかなか買おうというものがない。たまに買手があっても、値段の相談が調ととのわない。宮崎は次第に機嫌を損じて、「いつまでも泣くか」と二人を打つようになった。

宮崎が舟は廻り廻って、丹後の由良の港にきた。ここには石浦という処に大きい邸やしきを構えて、田畑に米麦を植えさせ、山では猟かりをさせ、海では漁すなどりをさせ、蚕飼こがいをさせ、機織りをさせ、金物、陶物すえもの、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山椒大夫という分限者(注:金持ち)がいて、人ならいくらでも買う。宮崎はこれまでも、よそに買手がない貨しろものがあると、山椒大夫が所へ持ってくることになっていた。

港に出張でばっていた大夫の奴頭やっこがしらは、安寿、厨子王をすぐに七貫文に買った。


森鷗外「山椒大夫」より


この小説の主題は、物語の山場での「安寿の自己犠牲」だと思いますが、背景となっているのは「人商人」「人身売買」「奴隷(奴婢)」の存在です。上の引用でも明らかなように、宮崎の三郎のような「人商人(=人身売買を行う商人)」が存在し、それが定常化していて、奴隷を買う者も定常的に存在したというのが、この小説が成り立つための重要な背景となっているのです。

もちろん小説はフィクションなので、この通りのことがあったわけではありません。しかし鷗外は日本における「山椒大夫伝説」をもとに、歴史小説としてこの物語を書きました。特に、仏教の教化と普及のために説教僧が町々・村々を廻って語り伝えた「説教節」の定番である「さんせう大夫」がもとになっています。「さんせう大夫」の結末は小説と違って、山椒大夫が厨子王の報復によって実の息子にのこぎりで首を切られて死に、その息子も民衆に処刑されるという「勧善懲悪」のストーリーのようです。つまり、勧善懲悪のための説教節ということは、物語の成立の背景である中世の日本において「人商人」や「人身売買」「奴隷(奴婢)」が、説教節を聞く村人や町人にとって、少なくとも不自然でない程度に事実としてあったと推測できます。


人商人


説教節だけでなく、平安時代から室町時代にかけての謡曲・お伽草紙・古浄瑠璃には「人商人」による拉致・誘拐や人身売買をテーマにしたものが多数あります。この時代、実態として「人商人」や人の売買が存在したようです。

日本の歴史を振り返ってみると、大化の改新以降の律令制においては「奴婢」と呼ばれた奴隷が存在し、その売買も認められていました。また明治・大正時代まで続いた遊女や娼婦の場合のように「人身売買スレスレの雇用契約」もあったわけです。

しかし一般的に人身売買は国禁であり、平安から鎌倉時代にはそれを禁じる法令が何度も出されました。もちろん飢饉のときに親が子供を売るようなことはあったわけで、黙認されたケースもあったようです。しかし原則的には人身売買は違法です。ましてや人を拉致・誘拐して売るのは犯罪です。このような誘拐のことを「かどわかす(拐かす)」と言いました。古くは「かどわかす」に「略」の字をあて、人を誘拐して売ることを「略売りゃくばい」などとも言いました。「山椒大夫」に描かれているのは、まさにそういった状況です。しかし実態としてあったにしろ、それはれっきとした犯罪なので「人商人」の活動は記録には残りにくいわけです。

一方「有事」の時、つまり戦争の時には、人を奴隷として略奪・拉致し売買することは容認されていたし、戦争の手段として行われていました。それを記録した公的文書、武士の日記、私的な記録文書もたくさん残されています。世界の歴史だけでなく日本の歴史においても「戦争は奴隷の最大の発生源」だったのです。

以降は、日本の戦国時代における「奴隷狩り」「奴隷売買」の話です。


雑兵たちの戦場


戦国時代における「奴隷狩り」や「奴隷売買」を詳述した本として、藤本久志・立教大学名誉教授の『新版 雑兵たちの戦場 - 中世の傭兵と奴隷狩り - 』(朝日選書。2005)があります。以降は、この本の内容から奴隷狩り・奴隷売買の部分を紹介します。


新版 雑兵たちの戦場.jpg
【新版】 雑兵たちの戦場
中世の傭兵と奴隷狩り
(朝日選書 777)

カバーは「大坂夏の陣図屏風」左隻(部分)
奴隷狩りの様子が描かれている
まず本のタイトルになっている「雑兵」ですが、雑兵とは「身分の低い兵卒」を言います。一般に戦国大名の軍は次の4つの階層から成っていました。

①武士

  100人の軍があったとして、武士は10人たらずが普通だった。

②侍

  悴者かせもの、若党、足軽などと呼ばれる。武士に奉公し、主人とともに戦う。侍は武士のことではない。

③下人

  侍の下。中間ちゅうげん、小者こもの、あらしこ、などと呼ばれる。戦場では主人を助けて馬を引き、槍を持つ。

④百姓

  夫ぶ、夫丸ぶまるなどと呼ばれる、村から駆り出されて物を運ぶ人夫。


雑兵とは②③④を言っています。この雑兵の視点からみた戦場を記述したのが「新版 雑兵たちの戦場」です。


戦場における「濫妨狼藉」と「苅田」


我々が暗黙に思い浮かべる戦国時代の「戦場」というと、NHKの大河ドラマに出てくるものが代表的です。そこでは大名を総大将とし、家臣団が戦争を指揮し、武士が戦うという姿です。もちろん雑兵は武士の手足となって矢を放ったり、鉄砲を撃ったり、突撃したり、物資の輸送にあたります。このような戦場のイメージは、①武士の視点からみた戦場、ないしはNHK大河ドラマ視点の戦場です。

しかし②③④の雑兵の視点からみた戦場は違った様相になります。その代表が、戦争の一部として行われた「濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)」と「苅田(かりた)」です。

戦国時代の戦争では、城を攻める時にはまず雑兵が敵国の村に押し入り、放火、略奪、田畑の破壊をするのが常道でした。濫妨とは略奪を意味します。何を略奪するかというと、人と物です。物は農民の家財、貯蔵してある穀物、牛馬などです。濫妨はまた「乱取り」とか「乱妨取り」、「乱妨」とも呼ばれていました。狼藉とは暴力行為です。従って「濫妨狼藉」は現代用語の「乱暴狼藉」とは少し意味が違うので注意が必要です。

田畑の破壊・作物の略奪を苅田と言いました。小早川隆景たかかげの戦術書『永禄伝記』は、大名・毛利元就の戦法を伝えたものと言われています。その「攻城」の項に「苅田戦法」が記述されています。苅田戦法の結果はどうなるのか。「新版 雑兵たちの戦場」で藤本さんは次のように記述しています。



春先なら苗代の早苗やまだ青い麦が荒らされ、夏なら実った麦は奪われ、田植えのすんだ田も荒らされ、秋なら熟した畠作や稲が奪われ、冬にも収穫を収めた倉や家が焼かれ、穀物が奪われる。ことに3~5月には、実った麦をねらう「麦薙ぎ(むぎなぎ)」が、また7~9月には実った稲を狙う「稲薙ぎ(いねなぎ)」が集中した。


「新版 雑兵たちの戦場」(37ページ)


苅田の目的は「麦や稲を奪い取る」「敵国を兵糧攻めにする」「敵国の村々を脅かして味方につける」などでした。被害にあう農民は悲惨な状況になるわけですが、これが戦争の実態だったようです。


奴隷狩り


日本史と奴隷狩りというテーマなので、以降は濫妨(=略奪)の中の「人の略奪・奴隷狩り」に焦点を絞りたいと思います。

「人の略奪」は、戦国時代の各種記録で「人を捕る」「生捕る」「人取り」などと記述されています。生け捕られた人は、もちろん成人男子もいますが、女や子供がかなりの割合を占めていました。

略奪した人をどうするのか。一つは、町人や富農の下人として強制労働に従事させます。それはもちろん略奪した雑兵の下人という場合もあったでしょうが、「山椒大夫」のようにニーズのあるところに売るわけです。売買には商人(人商人)も介在しました。また後で紹介しますが、外国へも転売されたのです。

一部の生け捕られた人は、親族などが身代金を支払って身柄が返却されました。これはもちろん身代金を支払えるほど裕福な階層ということが前提です。身代金の授受にも「人商人」や海賊が介在して手数料を稼いだようです。


戦国の奴隷狩り・九州


戦国の各地の奴隷狩りの実態です。ます九州の島津藩ですが、著者の藤本さんは島津藩の家臣が書いた『北郷忠相日記』『蒲生がもう山本氏日記』『北郷時久日記』などにみられる戦闘の記録を分析して、次のように書いています。



こうした島津軍の戦闘の記録で、いま注目したいのは、「人を捕る」「生捕る」という記事の多いことである。そのうち「敵三人打取り・・・・・・一人生捕る」というように、同じ戦場で「打取り」(戦闘で首を取る)と対になった「生捕り」は、捕虜になった兵士たち(戦争捕虜)のようでもある。

だが「男女・牛馬、数知れず取る」「人を取ること四百人余り」という数多い男女の略奪、それに「童子一人生捕る」「人三人かどい候」という小さな生捕りは、とても戦争捕虜とは思えない。なお「下々の者(が)壱人取る」とか、「足軽七人、したの者三人取る」というのをみると、戦場の人取りの主役もその犠牲者も、下層の雑兵や人夫に集中していた気配がある。
(18ページ)


同じ九州ですが、肥後の小大名であった相良氏の年代記『八代日記』に記録された戦争の様子も分析されています。



「取る」「生取る」など人取りの表記は島津方の日記によく似ており、累計二一四四人にのぼる。しかも生取りの数は戦死者(打取り)よりも明らかに多い。まるで、敵は殺すよりむしろ生かして捕らえよう、としているかのようである。

戦場で人といっしょに奪った牛馬の数も多く、また海へ漁に出た者や山で薪取りをする者までも生け捕っている。戦いの規模もみな小さい。「夜討」とか「伏草」というのは、夜の闇にまぎれた忍びの工作をいい、正規軍の正面きった城攻めというより、雑兵たちの仕掛けた、略奪目当てのゲリラ戦、というふうである。
(20ページ)


戦場における人取りが日常的に行われていたことがうかがえます。


戦国の奴隷狩り・武田藩


甲斐・武田藩の軍書である『甲陽軍鑑』にも、雑兵たちの乱取りの記述が数々出てきます。『甲陽軍鑑』には武田信玄が上杉謙信と戦った北信濃の戦場が記述されていますが、その内容の解説です。



北信濃に進出した武田軍は、信越国境の関山(新潟県妙高市)を越え、春日山城(上越市)近くまで進入し、村々に火を放ち、どさくさに紛れて女性や児童を乱取りし、生捕った越後の人々を甲斐に連れ帰って、自分の召使い(奴隷)にした、という。「越後の者をらんどり」、「らんぼうに女・わらんべを取り」の、乱取り・乱妨の被害は女性と児童に集中していた。

なお『甲陽軍鑑』が、この作戦で武田軍は越後を占領こそしなかったが、略奪に大成果をあげた、それもみな信玄の威光のお陰だ、と力説しているのも見逃せない。戦国の戦争には、明らかに乱取り目当ての戦争もあり、大名さえ強ければ、それは思いのままであった。
(28ページ)


『甲陽軍鑑』には雑兵たちの乱取りを非難する記述があります。しかし、乱取りそのものを否定しているわけではありません。戦いの勝ち負けそっちのけで乱取りに熱中するのは困る、と言っているのです。戦闘を妨げない限り乱取りは勝手、というのが当時の通念だったようです。雑兵たちに恩賞があるわけではありません。彼らを軍隊で活用するには、戦いの無い日には「乱取り休暇」を設け、敵城が落城したあとは褒美の略奪を解禁した・・・・・・藤本さんはこう解説しています。


戦国の奴隷狩り・上杉藩


では、一方の上杉謙信はどうだったのか。謙信は武田信玄との戦いだけでなく、関東から北陸一円を戦場としました。永禄9年(1566)2月、上杉軍が関東に遠征し、常陸の国の小田城を攻め落としたときの様子が文書に記録されています。



小田氏治の常陸小田城(茨城県つくば市)が、越後の長尾景虎(上杉謙信)に攻められて落城すると、城下はたちまち人を売り買いする市場に一変し、景虎自身の御意(指示)で、春の二月から三月にかけて、二十~三十文ほどの売値で、人の売り買いが行われていた、という。折から東国は、その前の年から深刻な飢饉に襲われていた。
(35ページ)


上杉軍の人取りは、小田城だけでなく、常陸の筑波の城や上野の藤岡城でもあったとの記録があります。小田城の例のような「城下での人の売買」は「人商人」の介在を強く示唆しています。

以上、島津、肥後、武田、上杉の事例をあげましたが、このほか『新版 雑兵たちの戦場』には、紀伊や奥羽の事例が掲げられています。戦争における奴隷狩りは全国的な現象だったようです。


食うための戦争


戦国時代の戦争における濫妨(略奪)の大きな要因は、戦争が「食うため」「略奪が目当て」という側面を強く持っていたからです。上杉謙信の出兵の記録が分析されています。謙信は関東、北信濃、北陸へ20回以上にわたって出兵していますが、その出兵時期を調査すると2つのパターンが浮かび上がります。晩秋に出兵して年内に帰る「短期年内型」と、晩秋に出かけて戦場で年を越し春に帰る「長期越冬型」です。



北信・北陸など、国境を越えてすぐの近い戦場では、ほとんどが作荒らしか収穫狙いの短期決戦であった。それに比べると、春日山から遠い関東の戦場は、秋の収穫狙いから、冬季の出稼ぎ型(口減らし型)の長期戦争が多かった。
(96ページ)


上杉謙信の出兵には明らかな「季節性」があるのです。北陸はともかく、北信濃や関東への出兵は武田氏や北条氏といった強豪が相手です。いくら謙信と言えども「自分の都合のよい時だけに出兵する」ことなど、本来は無理なはずです。にもかかわらず上杉軍に見られる「戦争の季節性」は端境期(はざかいき)の「飢え」と深い関係がある、と(新潟出身の)藤木さんは分析しています。二毛作の出来ない越後では、春から畠の作物がとれる夏までが食料の端境期であり、深刻な食料不足に直面しました。これを乗り切るための「冬場の口減らし」は切実な問題であり、そのための出稼ぎが関東への出兵だった・・・・・・、というわけです。雪のない関東に出兵すれば、補給がなくても濫妨で食いつなげる。出兵した軍隊の分の食料は「助かる」わけです。一種の「公共事業」ですね。もっとも、軍が敗北して壊滅状態になったのでは元も子もありません。しかし謙信は強かった。謙信が越後の人々から英雄視されたのは当然だと考えられます。

冬場に雪に閉じこめられる越後だけでなく、作物の凶作による飢饉や、戦争の苅田による農地の荒廃により「食うこと」は戦国時代には極めて切実な問題でした。戦争には「食うための戦争」という側面が強くあるのです。


秀吉の天下統一と人身売買の禁止(天正18年 1590)


秀吉の天下統一は、今まで述べた濫妨狼藉と人の売買に終止符を打ち、戦争の惨禍を絶つという大きな意味がありました。秀吉は平定した土地に「人身売買の禁止令」を次々と出していきます。天正18年(1590)に奥羽に出された秀吉令は、


① 人の売り買いはすべて停止せよ。
② 天正16年以後の人の売買は無効。したがって、買い取った人は元に戻せ。
③ 以後、人の「売り」「買い」はともに違法。

という内容です。戦場と人の売買は同時に封じ込めないと平和にはならなかったのです。

天正18年(1590)の北条氏滅亡と奥羽地方平定を最後に、日本から戦場はなくなりました。しかし「秀吉の平和」が日本全国を覆ったまさにその瞬間、朝鮮出兵の大号令が出されたのです。


朝鮮での奴隷狩り(文禄元年-慶長3年 1592-1598)


朝鮮出兵(文禄・慶長の役。1592-1598)の大本営は、肥前・名護屋城(佐賀県唐津市)にありました。常陸・佐竹軍に従軍した武士が、名護屋城に到着して見たものを国元に書き送った書簡が残されています。それによると



朝鮮の戦場では勝ち戦が続き、戦場で生け捕られた男女が日ごと名護屋の港へ送りここまれている。自分もそれを確かに見た。首を積んだ船も来ているそうだ。
(59ページ)


とのことなのです。藤木さんは



敵の首は大名の手柄として秀吉の首実験に備え、戦功を認めてもらうためであったが、男女の生捕りは海賊商人たちの船に積まれ、名護屋・呼子よぶこの一帯に広がる舟入りから、名護屋の町へ歩かされていたのであろう。
(59ページ)


と解説しています。

朝鮮の戦場における濫妨狼藉は相当のもので、たとえば島津軍の兵は船を使って川伝いに奥地まで入り込み、苅田や乱妨を働いていた、と本にあります。石田三成は島津義弘に島津軍の逸脱ぶりを警告したほどです。しかし、ほかならぬ秀吉自身が「捕まえた朝鮮人の中から腕利きの技術者や女性たちを選び出して献上せよ」という命令を出していました。秀吉も日本軍の大がかりな奴隷狩りを見越して、その一部の召し上げようとしていたわけです。


秀吉の命令の「腕利きの技術者」ということで思い出されるのが、島津軍に捕えられて薩摩に連行された朝鮮の陶芸職人たちですね。薩摩焼のルーツです。薩摩焼の窯元の一つである沈壽官家は現代まで15代続いています。

朝鮮の戦場における奴隷狩りをまとめて、藤木さんは以下のように説明しています。



一五九八年のイエズス会による奴隷売買者破門令の決議は、こう告発していた。日本人が無数の朝鮮人を捕虜として日本に連行し、ひどい安値で売り払っている、とくに長崎一帯の多くの日本人は、ポルトガル人に転売し巨利をあげるために、日本各地を廻って朝鮮人を買い集め、また朝鮮の戦場にも渡って、自ら朝鮮人を略奪した、と。

日本の国内で朝鮮人を買い、外国に転売した奴隷商人やその斡旋人は、戦場で活躍した兵士たちか、長崎の商人たちであった。イエズス会の宣教師が「日本人は計り知れぬほどの朝鮮人を捕虜にし、彼らを日本に連れ帰った後、捨て値で売り払った」と書いていたのは、このことであった。また一五九六年度、長崎発のフロイスの年報も、朝鮮から連行されて長崎に留まっている、多数の男女に布教したが、その数は一三〇〇人以上にのぼった、と記していた。その頃、長崎や平戸は世界有数の奴隷市場として知られていた。
(65ページ)



朝鮮の戦場から連行された人々の運命を追って、大作『文禄・慶長役における被擄人の研究』を著した内藤雋輔しゅんぽ氏によれば、奴隷狩りはとくに朝鮮南部の諸州に集中し、侵略初期の文禄(壬辰)戦より、末期の慶長(丁酉)戦の方が十倍もの惨状を呈し、略奪連行された人々は、島津領の薩摩だけでも三万七〇〇余人はいた、との見方もあるという。
(66ページ)


徳川幕府の重要な外交課題は朝鮮との復交であり、数万にのぼった被虜人の返還問題でした。しかし正規の外交ルートで故郷に返されたのは、朝鮮側の正史(李朝実録)や各種記録を合わせても7500人程度だったようです。

朝鮮出兵をもう一度振り返ると、秀吉は日本から戦場を駆逐したとたんに、朝鮮侵略をはじめているわけです。このことの重要な意味について藤木さんは次のように書いています。



秀吉の平和というのは、国内の戦場にあふれていた巨大な濫妨エネルギーに、新たなはけ口を与えることで実現され、それと引き替えにして、ようやく国内の戦場を閉鎖することができた。だから秀吉は、名誉欲に駆られ、国内統一の余勢をかって、外国に侵略に乗り出したというより、むしろ国内の戦場を国外(朝鮮)に持ち出すことで、ようやく日本の平和と統一権力を保つことができた、という方が現実に近いことになるだろう。
(206ページ)



大坂の陣(慶長19年-20年 1614-1615)


秀吉が死に、関ヶ原の合戦があり、時代は江戸時代になりました。しかし徳川幕府が天下を支配するようになって以降も戦争がありました。もちろんそれは、大坂冬の陣と夏の陣です。



江戸初期の村人にとっても、戦争は魅力ある稼ぎ場であった。慶長十九年(1614)冬、大坂で戦争が始まる、という噂が広まると、都近くの国々から百姓たちがとめどなく戦場の出稼ぎに殺到しはじめていた。
(106ページ)


『新版 雑兵たちの戦場』のカバー絵になっている「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵。重要文化財)には、町なかで兵士が人や物の略奪を働く場面が克明に描かれています。兵士たちの具足には「葵の紋」もあります。徳川軍そのものが奴隷狩りをしていたわけです。

大坂夏の陣図屏風(部分).jpg興味深い文書があります。幕府は戦争が終わった後の「落人改あらため令」の中で、大坂より外で略奪した人を解放し返せ、との命令を出します。この幕令をうけた蜂須賀軍は、ただちに自軍の奴隷狩りの実状を調査し、その結果を「大坂濫妨人ならびに落人改之帳」という文書にして幕府に提出しました。この文書によると、略奪された人の数は、



男 女 計
奉公人 17 33 50
町人 29 47 76
子ども 35 16 51
合計 81 96 177


です(奉公人は「武家の奉公人」の意味)。これを見ると、成年男子は全体の4分の1に過ぎず、明らかに女と子供が多数を占めています。

蜂須賀軍は「自軍の人取りはすべて戦場の行為であり、合法だ」と主張していて、それを証明するのが「濫妨人改之帳」を提出した狙いでした。蜂須賀軍の戦場での人取りだけでこの数字です。全幕府軍の戦場・戦場外での人取りの総計は、相当の数にのぼったと推定されます。

大坂の陣が終わった直後にも、徳川幕府は「人身売買の停止令」を出しました。人の略奪や人の売買が日常の街角に持ち込まれていたからです。それを抑え込んでこそ平和が実現できたのです。


秀吉の奴隷問答(天正15年 1587)と奴隷貿易


時代を少しさかのぼります。戦国時代の日本国内と朝鮮における奴隷狩り・奴隷売買は、その帰結として「奴隷貿易=海外への奴隷の輸出」を引き起こしました。16世紀の日本には、いわゆる南蛮人が多数来日し、船舶の往来も激しかったからです。

秀吉は天正15年(1587)年の4月にに南九州の島津氏を降し、全九州を平定します。そして6月に博多に軍を返すと、日本イエズス会・準管区長、ガスパール・コエリョに対し「ポルトガル人が多数の日本人を買い、奴隷としてつれていくのは何故であるか」と詰問します。コエリョはその事実を認めつつも「ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人がこれを売るからだ」とつっぱねました(1587年のイエズス会・日本年報による)。



秀吉の平和の下で、日本の人身売買が初めて深刻な外交問題として論じられたことになる。その秀吉の言い分を『九州御動座記』がこう代弁していた。


伴天連ばてれんら・・・・・・日本仁にほんじんを数百、男女によらず、黒舟へ買い取り、手足に鉄のくさりを付け、舟底へ追い入れ、地獄の苛責かしゃくにもすぐれ、・・・・・・見るを見まねに、それを所(九州)の日本仁、何れもその姿を学び、子を売り親を売り妻女を売り候由、つくづく聞召きこしめし及ばれ・・・・・・

バテレンは、日本人が人を売るからポルトガル船が買うのだと言い、秀吉は、バテレンやポルトガル船の奴隷商売を日本人が真似ているのだ、と反論する。いずれにせよ、現実に九州の領主たちやバテレンと結託した黒船が、日本から数多くの男女を買い取っては、東南アジアに積み出していたのは事実であった。後段は「子を売り親を売り妻女を売り」と、貧しさゆえの子女の身売りを連想させるが、前段はむしろ「日本仁を数百、男女によらず、黒舟へ買い取り」と、男女の大がかりな海外流出ぶりを示唆している。
(41ページ)


ポルトガルの日本貿易において、奴隷は東南アジア向けの重要商品だったのです。


No.22「クラバートと奴隷(1)スラヴ民族」と、No.23「クラバートと奴隷(2)ヴェネチア」で、ヨーロッパにおいて非キリスト教徒のスラヴ民族が奴隷の供給源になった歴史を書きました。最初は中央ヨーロッパ、その次は黒海沿岸のスラヴ民族です。しかし大航海時代を経てヨーロッパ人が世界に拡散すると、奴隷の供給源も世界に拡散していった。非キリスト教徒に満ち溢れていた世界は、キリスト教布教の対象であると同時に奴隷の供給源となった。その一つが、ヨーロッパからみた東の果て(極東、Far East)の日本だった、というわけです。

ポルトガル国王は「日本人奴隷の輸出が布教の妨げになる」というイエズス会からの訴えに基づいて、1570年3月12日(元亀元年)に日本人奴隷取引の禁止令を出します。また、それ以降もたびたび禁止令が出されます。イエズス会も1596年に、日本人奴隷を輸出したものは破門にすると議決しました。

これらのことは裏を返すと、各種の禁令にもかかわらず奴隷貿易が続いていたことを示しています。そもそもイエズス会自身が、もともと日本から少年少女の奴隷を連れ出すポルトガル商人に公然と輸出許可の署名を与えていたのでした。

秀吉はコエリョと激論した直後の天正15年(1587)6月18日、有名な「バテレン追放令」を出します。この内容は


◆ バテレンの追放
◆ キリスト教への強制改宗の禁止
◆ 神社仏閣の打ち壊しの禁止

が骨子ですが、その第10条は


◆ 日本人奴隷の海外禁輸、および国内での人身売買の禁止

です。「バテレン追放」の理由は「キリスト教への強制改宗」「神社仏閣の打ち壊し」とともに「日本人奴隷の海外輸出」というわけです。


東南アジアの日本人奴隷と傭兵


奴隷だけでなく、16世紀から17世紀初頭にかけて大量の日本人が東南アジアに渡りました。この時期、東南アジアではスペイン・ポルトガルと、オランダ・イギリスが激突していたわけで、日本は傭兵や武器の供給基地となっていたのです。

東南アジアに渡った日本人は「おそらく10万人以上にのぼり、住み着いた人々もその1割ほどはいた」と推定されています。その日本人を「分類」すると、一つは自ら海を渡った人たちで、海賊、船乗り、商人、失業者、追放キリシタンなどです。二つめは西欧人に雇われて渡海した人で、伝道者、官史、商館員、船員、傭兵、労働者です。三つめが奴隷や捕虜です。

日本人傭兵は東南アジアでの戦争や抗争に大きな影響をもちました。有名なのは山田長政ですが、彼は日本では徳川方の小大名・大久保氏に仕えた駕籠をかつぐ下僕だったようです。それがシャムの内乱に雇われ、日本人傭兵隊をひきいて活躍し、最後は毒殺されました。

本の中で、スペイン領であったフィリピンの様子が紹介されています。



一五九二年(文禄元)、マニラ市外の日本町区域に隔離さされた日本人奴隷や傭兵たちは、一六〇三年(慶長八)中国系住民の大暴動が起きたときには、四百~五百人が総督に雇われて、その鎮圧に駆使され、先住民の反乱の抑えにも利用され、自らも暴動をくり返すようになっていた。一六二〇年代のマニラ近郊に住む日本人は、実に三千人にも達していた、という。
(271ページ)


スペイン・ポルトガルが日本人傭兵を駆使していたことは、



イエズス会のカブラルは、すでに一五八四年(天正一二)、日本人を雇い入れて中国を武力で征服しよう、「彼らは打続く戦争に従事しているので、陸・海の戦闘に大変勇敢な兵隊」だ、とスペイン=ポルトガル国王に提案していた。
(270ページ)


との記述でも分かります。


キリスト教を布教するはずの神父が中国征服とその方法論を国王に提案するのも、ずいぶん変な話なのですが、当時の宣教師の一面が如実に現れています。中国は「征服しないとキリスト教が広まらない国」と判断したのでしょうか。神の恩寵を中国人に与えるために征服しよう、という論理でしょう。

スペイン側だけでなく、オランダ側も大量の日本人傭兵を使っていました。日本の平戸商館はオランダ(東インド会社)の軍事行動をささえる東南アジア随一の兵站基地であり、さまざまな軍事物資が平戸から積み出されていたのです。最大の主力商品は銀です(世界遺産・石見銀山を思い出します。No.30参照)。それ以外に、武器・弾薬、銅・鉄・木材・食料・薬品などです。

元和6年(1620)の末、オランダとイギリスは連合して新たに「蘭英防禦艦隊」を結成し、平戸を母港とします。翌年(1621)の7月、両国の軍隊は、台湾の近海で捕らえた日本行きのポルトガル船とスペイン人宣教師を幕府に突き出します。そして幕府に「マニラ(スペインの拠点)・マカオ(ポルドガルの拠点)を滅ぼすために、二千~三千人の日本兵を派遣してほしい」との要請を出すのです。


秀忠令(元和7年 1621)


幕府は英蘭の日本兵派遣要請を拒否します。そして拒否しただけでなく、幕令(秀忠令)を出します。その骨子は


① 人身売買の停止
男女を買い取って異国へ渡海することを停止せよ。
② 武器輸出の停止
武具の類を異国へ渡してはならぬ。
③ 海賊の停止
海上における海賊行為をやめよ。

です。

①は、傭兵に陽には触れていません。しかしオランダ側が作った秀忠令のオランダ語訳には「雇用であれ人身売買であれ」と詳しく記載されています。幕府の意図は人身売買と傭兵による日本人の海外流出の阻止であり、オランダ側もそう受け取ったわけです。

当時の東南アジア情勢を考えると、日本は極めて危険な状況にありました。日本は戦争物資と傭兵の補給基地になっていたからです。特定の外国の依頼で「公式に」出兵したりするものなら、その敵対国からの日本侵略の口実を作ることにもなります。幕府の出兵拒否と秀忠令は、日本が新たな戦乱に巻き込まれるリスクを無くすための当然の処置でしょう。

オランダはこの秀忠令に困惑し、回避しようと努力したようです。しかし、平戸がある松浦藩は外国船の臨検をはじめ、武器を押収しました。秀忠令は実行され、日本人奴隷の海外流出はようやく止まりました。戦国期から続いた「公然の」人身売買も最終的に終りを迎えたのです。

幕府が鎖国に踏み切り、それを完成させるのは、秀忠令から18年後(寛永16年 1639)です。


「奴隷狩り」から見る日本史


これ以降は『新版 雑兵たちの戦場』を読んだ感想です。戦国時代の「奴隷狩り」の実態をみると、その後の、


◆ 秀吉による天下統一
◆ 人身売買の禁止
◆ 鎖国(=人の往来を禁止し、交易を中国・朝鮮・オランダに限定する)
◆ 徳川幕府による社会の安定と国内平和の維持

という歴史経緯の重要性が理解できたような気がしました。

大名同士が戦争で争い「濫妨狼藉」や「苅田」を繰り返していたのでは、農地は荒廃し、農村からは人が奴隷となって流出します。その流出は、奴隷船によって海外にまで及びます。奴隷にならないまでも農地が荒れると食べていけなくなり、農民は浮浪民化し、都市に流入して社会不安を引き起こすでしょう。「人商人」が暗躍し、犯罪が多発し、それがまた社会不安を助長する。

この状況は悪循環となり、各藩の経済力にダメージを与えるでしょう。そうなれば藩の財政も苦しくなるし、日本全体の国力も低下します。天下統一の大きな意味は「戦場を日本から無くし、濫妨狼藉の負のスパイラルを断ち切り、人民の生活を安定させ、国力を回復する」ということではないでしょうか。おりしも東南アジアでは欧米の列強が争っていて、その火の粉は日本にも降りかかりつつあります。統一と安定は必須の事項でした。

その後の徳川幕府は、藩の集合体という「日本のかたち」を前提として、戦国状態に再び戻るのを避けるための徹底的な施策をとったのだと思います。その例ですが、秀吉の刀狩り・鉄砲狩りからはじまり、江戸時代は「武装解除社会」ないしは「軽武装社会」になります。

武士の命は刀と言いますが、刀は戦争の雌雄を決するものではありません。刀は戦闘の最後の接近戦や白兵戦のためのものです。戦争で重要な武器は長槍であり、弓矢などの「飛び道具」であり、戦国時代以降はもちろん鉄砲です(その後、大砲になる)。優秀な戦国武将は鉄砲を徹底的に利用しました。



1600年の関ヶ原の戦いを頂点とする戦争では、東西両軍合わせて約6万丁の鉄砲が動員されたというから、おそらく日本全体では10万丁に近い鉄砲があったと推定される。その当時、ヨーロッパ最大の陸軍を誇ったフランス王の軍隊には、鉄砲は1万丁しかなかったというから、全ヨーロッパを合わせても、日本一国に及ばなかったであろう。

(堺屋太一『日本とは何か』講談社 1991)


江戸時代直前の日本は世界有数の武装社会だったわけです。それが江戸時代になると一転して鉄砲を捨てて「武装解除社会」「軽武装社会」になる。あれだけ短期間で高度に発達した鉄砲鍛冶の技術も、急激に失われていきました。武士の刀は自衛のための武器と考えるべきでしょう。江戸期における「武士」とは、武器を自衛のための最低限のものにとどめ、「士 = 教養や徳のある立派な人間」として生きる、ということだと思います。

この状況は、戦場の再来をなくしたいという、戦国期の反動ではないでしょうか。江戸時代の意味は、戦国期の「雑兵の視点からみた戦場」の実態を知ることによって理解が進むと、この本を読んで思いました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93

ポルトガル人による日本人などのアジア人の奴隷貿易





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ポルトガル人による日本人などのアジア人の奴隷貿易(ポルトガルじんによるにほんじんなどのアジアじんのどれいぼうえいき)では、主に16世紀以降のポルトガル人による日本人などのアジア人の奴隷貿易について述べる。ポルトガルにおいては古くから奴隷制が存在し、古代ローマ、ウマイヤ朝など時代を通じてそのあり方が変化してきた。15世紀以降の大航海時代になると、黒人を奴隷とする大西洋奴隷貿易が盛んになるが、ポルトガル人のアジアへの進出に伴い、アジア人を奴隷とする奴隷貿易も行われるようになっていった。



目次 [非表示]
1 概要 1.1 アジア人の奴隷
1.2 マカオおよび中国沿岸部における奴隷交易
1.3 奴隷の取扱い
1.4 奴隷制の禁止

2 脚注
3 参考文献
4 関連項目
5 外部リンク


概要[編集]

アジア人の奴隷[編集]

ポルトガル人が日本人に1543年に初めて接触したのち、16〜17世紀を通じ、ポルトガル人が日本人を日本で奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけるという大規模な奴隷交易が発展した[1][2]。多くの文献において、日本人を奴隷にすることへの抗議とともに、大規模な奴隷交易の存在が述べられている[3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。王であったセバスティアン1世は日本人の奴隷交易が大規模なものへと成長してきていたため、カトリック教会への改宗に悪影響が出ているのではないかと懸念し、1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した[13][14]。

日本人の女性奴隷は、日本で交易を行うポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、黒人水夫に対しても、妾として売られていた、とポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラ(Luís Cerqueira)が1598年に書かれた文書で述べている[15]。日本人の奴隷はポルトガル人によってマカオに連れて行かれ、そこでポルトガル人の奴隷となるだけでなく、一部の者はポルトガル人が所有していたマレー人やアフリカ人の奴隷とさせられた[16][17]。

豊臣秀吉は自国の民である日本人が九州において大規模に奴隷にされていることを大変不快に感じ、1587年7月24日にイエズス会の副管区長のガスパール・コエリョに手紙を書き、ポルトガル人とタイ人とカンボジア人に命じ、日本人を買い付けて奴隷にすることを中止し、インドにまで流れ着いた日本人を連れ戻すよう言い渡した[18][19][20]。秀吉はポルトガル人とイエズス会をこの奴隷交易について非難し、結果としてキリスト教への強制改宗が禁止された[21][22]。

文禄・慶長の役で捕虜として日本に囚われていた数万人のうち一部の朝鮮人もまた奴隷としてポルトガル人に買い付けられてポルトガルに連れて行かれた[23][24]。 歴史家は、秀吉はポルトガル人による日本人奴隷売買に立腹し激怒したが、同時に秀吉自身も日本における朝鮮人捕虜の大規模な交易に関わっていたことを指摘している[25][26]。

ポルトガルの首都リスボンには少なくとも1540年には中国人の奴隷がいた複数の記録がある[27]。現代の歴史家によると、中国人が初めてヨーロッパを訪れたのは、ポルトガル人侵入者におそらく中国南部の沿岸で奴隷にされた中国人の学者がポルトガルに連れて行かれた1540年(あるいはその数年後)という。その中国人はポルトガルの歴史家ジョアン・ド・バロス(João de Barros)に購入され、共に中国語の文書をポルトガル語に翻訳する作業に従事したという[28]。

16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[29]。1562年10月23日に記録された遺書には、エヴォラに住んでいたドナ・マリア・デ・ビリェナ(Dona Maria de Vilhena)という金持ちの上流階級の婦人のアントニオという名前の中国人奴隷についての記載がある[30][31][32][33][34][35][36][37][38][39][40][41][42][43]。アントニオはエヴォラにおいて男性の奴隷に付けられた3つのありふれた名前の1つだった[44]。D. マリアは彼女が保有していた奴隷の中で特に彼を用い、彼女のために仕事を言いつけていた。それはアントニオが中国人だったからである[45]。D. マリアが保有していた15人の奴隷のうち、中国人奴隷が1人、インド人が3人、改宗イスラム教徒が3人であったことは彼女の社会的な地位が高かったことを表している。なぜなら中国人奴隷、改宗イスラム教徒奴隷、インド人奴隷は奴隷のうちで評価の高いものであり、黒人奴隷と比べて高価であったからである[46]。彼女が死んだ時、D. マリアは12人の奴隷を彼女の意思と遺言により自由の身分にしており彼らに合計1万〜2万ポルトガルレアルのお金を遺している[47]。マリア・デ・ビリェナの父親は上流階級の男性で探検家のサンチョ・デ・トバル(Sancho de Tovar)でありソファラの提督であった。彼女は二回結婚し、一回目の結婚相手は探検家のクリストバン・デ・メンドンサ(Cristóvão de Mendonça)であり、二回目はディーウの提督のシマン・ダ・シルベイラ(Simão da Silveira)であった[48][49][50]。

中国人の子供たちはマカオで誘拐され、まだ幼いうちにリスボンで売り払われた[51][52]。フィリッポ・サッセッティ(Filippo Sassetti)はリスボンの大規模な奴隷集落において、大部分の奴隷がが黒人だったものの、いく人かの日本人、中国人の奴隷を見かけたと報告している[53][54][55][56][57]。

ポルトガル人は中国人や日本人などのアジア人奴隷をサハラ以南アフリカ出身の奴隷よりもずっと「高く評価していた」[58][59]。ポルトガル人は知性や勤勉さといったものを中国人や日本人奴隷の特質であると見なしていた。このことが奴隷としての高い評価に繋がった[60][61][62][63]。

1595年にポルトガルにおいて中国人及び日本人奴隷の売買を禁ずる法律が制定された[64]。

マカオおよび中国沿岸部における奴隷交易[編集]

16世紀以降、ポルトガルは中国の海岸部に交易のための港と居住地を確保しようとした。しかしながら基地を確保しようとする初期のこのような活動は、例えば寧波や泉州において行われたが、中国人に壊滅させられてしまった。引き続いて今度はポルトガル人入植者が暴力的な侵入を行い、略奪をし、しばしば奴隷狩りを行った[65][66][67][68][69]。 ポルトガル人のこのような振る舞いに対する不満が中国側の省の長官に届き、ポルトガル人の居住施設の破壊とその居住者の一掃が命じられた。1545年に、6万人の中国兵がポルトガル人が住み着いていた場所を急襲し、1,200人の居住者のうち800人が殺害され、25艘の船と42艇のジャンクが破壊された[70][71][72][73]。

マカオでは、ポルトガルの初期植民地時代にあたる17世紀中葉までに、約5千人の奴隷が居住していた。さらに2千人のポルトガル人と、増え続ける中国人がおり、中国人は1664年には2万人に達した[74] [75]。 奴隷の数はその後数十年の間に千人から二千人へと減少した[76]。ほとんどの奴隷はアフリカ出身であった。しかしアジア一帯からの出身の奴隷も含まれていた。すなわち、中国人、日本人、マレー人、インドネシア人そしてインド人である。そのほとんどが女性で、多くはポルトガル人の現地妻となっていた[74] [77]。

1622年6月24日、オランダ共和国がマカオの戦い(Battle of Macau)においてマカオを攻撃した。目的はこの地域をオランダ領にすることであった。オランダ軍はコルネリス・ライエルスゾーン(Kornelis Reyerszoon)隊長に率いられた800名の強力な侵略軍であった。数的に劣勢であったポルトガル側はオランダ軍の攻撃を撃退し、攻撃が繰り返されることはなかった。ポルトガル側の大多数はアフリカ人奴隷であった。そしてわずか2〜30人のポルトガル人の兵士と司祭が支援したが、この戦いの犠牲者の大多数はアフリカ人奴隷であった[78] [79] [80] [81]。敗北の後、オランダの総督のヤン・クーンはマカオの奴隷たちについて「我々の民を打ち負かし追い出したのは彼らだ」と述べている [82] [83] [84] [85]。 1800年代の清朝の時期に、イギリス領事は、ポルトガル人が未だに5〜8歳の子どもを人身売買していると記している[86] [87] [88]。

1814年に嘉慶帝が大清律例・礼律・祭祀の「禁止師巫邪術」の項に1つの条文を付け加えた。これは1821年に改訂が行われ、1826年に道光帝によって公布された。その条文により、ヨーロッパ人、すなわちポルトガル人キリスト教徒で、キリスト教への改宗を反省しない者については新疆にあるイスラームの都市に送り、奴隷の身分にするとされた[89]。

奴隷の取扱い[編集]

ポルトガルへの輸送の途上では、奴隷たちは縛られ、手錠・南京錠および首輪によってお互いにつなぎ合わされた[90]。ポルトガル人の所有者らは、奴隷たちが死なない限り、奴隷を鞭で打ったり、鎖で縛り付けたり、高温に熱した蝋や脂肪を奴隷の皮膚に注ぎかけたり、好き放題のやり方で奴隷に罰を加えた[91]。 ポルトガル人は奴隷が自分の財産であることを示すために人間用の焼き印も用いていた[92]。

奴隷制の禁止[編集]

奴隷交易を非難する声は大西洋奴隷貿易が行われたかなり初期から挙がっていた。その期間のヨーロッパにおいて奴隷制に対する非難を行った初期の人物の1人がドミニコ会のガスパル・ダ・クルス(Gaspar da Cruz)(1550- 1575)であり、彼は奴隷交易業者たちの「自分たちはすでに奴隷にされていた子供らを「合法的に」買っただけだ」という言い分を退けた人物である[93]。

大西洋奴隷貿易が行われた初期の時期から、国王はアフリカ人以外の奴隷貿易を止めさせようと考えていた。ポルトガル人に珍重された中国人奴隷の取引は[59]中国当局の官吏の要請に応じる形で取り組まれた。もっとも彼らは一般的に行われてもいたマカオや中国領内における人々を奴隷化する行為について特に反対していたわけではなかったが[94]、何回かに渡って奴隷を領外に運びだすことを止めさせようと試みられた[95]。1595年にポルトガルで民族的に中国人である奴隷の売買を禁止する布告が出された[52][94][96]。そして1744年に清の乾隆帝が中国人の取り扱いを禁止した。さらに1750年に繰り返して命令を出した[97][98]。しかしこれらの法律は奴隷貿易を完全に止めさせることはできず、16世紀には少人数の中国人奴隷がポルトガル南部のポルトガル人奴隷主によって所有されており(29〜34人)[要出典][52]、1700年代まで続けられていた。アメリカ大陸の植民地では、ポルトガル人は中国人、日本人、ヨーロッパ人及びインディアンを砂糖のプランテーション農場で奴隷として働かせるのを中止した。[いつ?] それはアフリカ人奴隷に限定された。[要出典]

ポルトガル本土およびポルトガル領インドにおけるあらゆる形態の奴隷制の廃止はポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョの布告を通じて1761年に行われた。続いて1777年にマデイラで行われた。大西洋奴隷貿易はイギリスの圧力の結果、1836年にはポルトガルおよび他のヨーロッパ勢力にとって確実に違法なものとなっていた。しかしながらアフリカのポルトガル植民地においては奴隷制が確実に廃止されたのは1869年であり、米国およびイギリスとの奴隷交易の抑制のための協定に続くものであった。1822年にポルトガルから独立したブラジル帝国では、奴隷制は最終的に1888年に廃止された。

脚注[編集]

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2.^ “Europeans had Japanese slaves, in case you didn’t know…”. Japan Probe. (2007年5月10日) 2014年3月2日閲覧。
3.^ HOFFMAN, MICHAEL (2013年5月26日). “The rarely, if ever, told story of Japanese sold as slaves by Portuguese traders”. The Japan Times 2014年3月2日閲覧。
4.^ “Europeans had Japanese slaves, in case you didn’t know…”. Japan Probe. (2007年5月10日) 2014年3月2日閲覧。
5.^ Nelson, Thomas (Winter 2004). Monumenta Nipponica (Slavery in Medieval Japan). Vol. 59. Sophia University.. p. 463.
6.^ Monumenta Nipponica: Studies on Japanese Culture, Past and Present, Volume 59, Issues 3-4. Jōchi Daigaku. Sophia University. (2004). p. 463 2014年2月2日閲覧。.
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8.^ Kwame Anthony Appiah, Henry Louis Gates, Jr., ed (2005). Africana: The Encyclopedia of the African and African American Experience (illustrated ed.). Oxford University Press. p. 479. ISBN 0195170555 2014年2月2日閲覧。.
9.^ Anthony Appiah, Henry Louis Gates, ed (2010). Encyclopedia of Africa, Volume 1 (illustrated ed.). Oxford University Press. p. 187. ISBN 0195337700 2014年2月2日閲覧。.
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14.^ Monumenta Nipponica: Studies on Japanese Culture, Past and Present, Volume 59, Issues 3-4. Jōchi Daigaku. Sophia University. (2004). p. 463 2014年2月2日閲覧。.
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参考文献[編集]
Dias, Maria Suzette Fernandes (2007), Legacies of slavery: comparative perspectives, Cambridge Scholars Publishing, p. 238, ISBN 1-84718-111-2

関連項目[編集]
奴隷貿易
人買
バテレン追放令
千々石ミゲル
からゆきさん
ポルトガル海上帝国

外部リンク[編集]
日本人女性人身売買考
Studies on Slavery コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷
日本人奴隷の謎を追って  サンパウロ 日本語新聞
戦国時代ごろ、ポルトガルが日本人を奴隷として売買していたらしい。このことについて掲載のある資料はないか。 | レファレンス協同データベース | 国立国会図書館

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jesukyo/iezusukaico/zinshinbaibaico.htm
日本人女性人身売買考



 (最新見直し2009.6.27日)

【「日本人女性人身売買考」】
 「豊臣秀吉の『伴天連(ばてれん)追放令』」で触れたが、ここで改めて「日本人女性人身売買」について考察する。

 豊臣秀吉側近の軍記作者にして「九州御動座記」の著者であるの大村由己は次のような文面の手紙を遺している。
 「…今度、伴天連ら、能時分と思い候て、種々様々の宝物を山と積み、いよいよ一宗繁昌の計賂をめぐらし、すでに後戸(五島)、平戸、長崎などにて、南蛮航付きごとに完備して、その国の国主を傾け、諸宗をわが邪法に引き入れ、それのみならず、日本仁(人)を数百、男女によらず、黒船へ員い取り、手足に鉄の鎖をつけ、舟底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、そのうえ牛馬を買い取り、生ながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手づから食し、親子兄弟も礼儀なく、ただ今世より畜生道のあリさま、目前のように相聞え候。見るを見まねに、その近所の日本仁(人)いずれもその姿を学び、子を売り、親を売り、妻女げどうを売り候由、つくづく聞こしめされ、右の一宗御許容あらば、たちまち日本、外道の法になるべきこと、案の中に候。然れば仏法も王法も捨て去るべきことを歎きおぼしめされ、添なくも大慈大悲の御思慮をめぐらされ候て、すでに伴天連の坊主、本朝追払の由、仰せ出され候……」

 (「株式日誌と経済展望」氏の2006.8.25日付け「NHKの大河ドラマの「功名が辻」は単なるホームドラマ」より転載)

 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ42」のTORA氏の2006.1.27日付け投稿「日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?」、くじら氏の2009.5.10日付け投稿「Re: 日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?」を参照する。

 「島原半島最南端、口之津港が火薬一樽と交換に売られていった少女の積出港でした。火山灰土壌で米がとれぬ同地の農民にとり、過酷な領主からの取り立てを逃れる手段として、悲しい選択をせざるを得なかったのでした。南蛮船渡来の地として知られる口之津港は、キリスト教が戦国時代のこの国で一番最初に根付き、大半の領民はキリスト教へと改宗、熱心に信仰を守っていました。その後、秀吉の九州征伐、宣教師の国外追放令を経て、キリスト教禁止令が出され、さらに鎖国政策がとられ貿易の利がなくなると、そのしわ寄せはすべて領民にかかります。この世に生きる希望を断たれた人々はついに島原の乱を起こし、三万七千人もの人々が燃え盛る炎のなか命を絶たれるに至りました。口之津歴史資料館では戦国時代から近代にまで続く人身売買の歴史を垣間見せてもらえます」。  


 徳富蘇峰の「近世日本国民史」の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
 「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、 獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし」。

 山田盟子氏は、「ウサギたちが渡った断魂橋」(新日本出版社)のP26-27文中で次のように記していると云う。
 「 ……肌の白いみめよき日本の娘らが、秘所をまるだしにつながれ、弄ばれているのは、奴隷らの国にまで、日本の女が転売されていくのを、正視できるものではない。われわれのみた範囲で、ヨーロッパ各地で五十万ということはなかろう。ポルトガル人の教会や師父が、硝石と交換し、証文をつけて、インドやアフリカにまで売っている。いかがなものだろう」。

 山田盟子氏の「ウサギたちが渡った断魂橋」は、  「天正遣欧使節」の次のような遣り取りを記していると云う。


 「(ミゲルを名乗った有馬晴信の甥の清左、マンショを名乗った大友宗麟の甥の祐益らは、)行く先々でおなじ日本人が、数多く奴隷にされ、鉄の足枷をはめられ、ムチうたれるのは、家畜なみでみるに忍びない」、「わずかな価で、同国人をかかる遠い地に売り払う徒輩への憤りはもっともなれど、白人も文明人でありながら、なぜ同じ人間を奴隷にいたす」。

 すると大村純忠のさしむけた少年マルテーは、「われらと同じ日本人が、どこへ行ってもたくさん目につく。また子まで首を鎖でつながれ、われわれをみて哀れみをうったえる眼ざしは辛くてならぬ……肌の白いみめよき日本の娘らが、秘所をまるだしにつながれ、弄ばれているのは、奴隷らの国にまで、日本の女が転売されていくのを、正視できるものではない。われわれのみた範囲で、ヨーロッパ各地で五十万ということはなかろう。ポルトガル人の教会や師父が、硝石と交換し、証文をつけて、インドやアフリカにまで売っている。いかがなものだろう」。

 これら人売のことでは、ポルトガル王のジョアン三世から、ローマ法王庁に、「ジパングは火薬一樽と交換に、五十人の奴隷をさしだすのだから、神の御名において領有することができたら、献金額も増すことができるでしょう」という進言があり、イエズス会からの戦闘教団が、一五四一年四月七日、八年をかけて喜望峰まわりで日本へと着いたのだという。


 これにつき、「天正遣欧使節記」(デ・サンデ著/雄松堂書店)は、上述のミゲル、マンショ、・マルチノ(マルテー)の発言につき、意味内容が多少異なる形で次のように記している。

 「レオ ちょうどよい機会だからお尋ねするが、捕虜または降参者はどういう目に遭わされるのだろう。わが日本で通例やるように死刑か、それとも長の苦役か。

 ミゲル キリスト教徒間の戦争で捕虜となったり、やむをえず降伏する者は、そういう羽目のいずれにも陥ることはない。つまりすべてこれらの者は先方にも捕虜があればそれと交換されるとか、また釈放されるとか、あるいはなにがしの金額を支払っておのが身を受け戻すのだ。というのも、ヨーロッパ人の間では、古い慣習が法律的効力を有するように決められ、それによってキリスト教徒は戦争中に捕われの身となっても、賤役を強いられない規定になっているからだ。だがマホメット教徒、すなわちサラセン人に属する者に対しては、別の処置が取られる。これらの者は野蛮人でキリストの御名の敵だから、交戦後も捕えられたまま、いつまでも賤役に従うのである。

 レオ そうすると、キリスト教徒なら、その教徒間では戦争中に捕虜となっても、賤役に従えという法律に拘束される者は一人もないわけだな。

 ミゲル そうしたことで市民権を失った者はただの一人もない。それはまた今もいったように、古来の確定した習慣で固く守られている。それどころか、日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。そのうえ、われわれとしてもこのたびの旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、道義をいっさい忘れて、血と言語を同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、こんな安い値で手放すわが民族への激しい怒りに燃え立たざるを得なかった。

 マンショ ミゲルよ、わが民族についてその慨きをなさるのはしごく当然だ。かの人たちはほかのことでは文明と人道とをなかなか重んずるのだが、どうもこのことにかけては人道なり、高尚な教養なりを一向に顧みないようだ。そしてほとんど世界中におのれの慾心の深さを宣伝しているようなものだ。

 マルチノ まったくだ。実際わが民族中のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫って行かれて売り捌かれ、みじめな賤役に身を屈しているのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。単にポルトガル人へ売られるだけではない。それだけならまだしも我慢ができる。というのはポルトガルの国民は奴隷に対して慈悲深くもあり親切でもあって、彼らにキリスト教の教条を教え込んでもくれるからだ。しかし日本人が贋の宗教を奉じる劣等な諸民族がいる諸方の国に散らばって行って、そこで野蛮な、色の黒い人間の間で悲惨な奴隷の境涯を忍ぶのはもとより、虚偽の迷妄をも吹き込まれるのを誰が平気で忍び得ようか。

 レオ いかにも仰せのとおりだ。実際、日本では日本人を売るというような習慣をわれわれは常に背徳的な行為として非難していたのだが、しかし人によってはこの罪の責任を全部、ポルトガル人や会のパドレ方へ負わせ、これらの人々のうち、ポルトガル人は日本人を慾張って買うのだし、他方、パドレたちはこうした質入れを自己の権威でやめさせようともしないのだといっている。

 ミゲル いや、この点でポルトガル人にはいささかの罪もない。何といっても商人のことだから、たとえ利益を見込んで日本人を買い取り、その後、インドやその他の土地で彼らを売って金儲けをするからとて、彼らを責めるのは当らない。とすれば、罪はすべて日本人にあるわけで、当り前なら大切にしていつくしんでやらなければならない実の子を、わずかばかりの代価と引き換えに、母の懐から引き離されて行くのを、あれほどこともなげに見ていられる人が悪い。また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガル追うから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。さればといって、日本人がこういう賤役に陥るきっかけをみずからつくることによって蒙る汚点は、拭われるものではない。したがってこの罪の犯人は誰かれの容赦なく、日本において厳重に罰せられてよいわけだ。

 レオ 全日本の覇者なる関白殿Quambacudonoが裁可された法律がほかにもいろいろある中に、日本人を売ることを禁じる法律は決してつまらぬものではない。

 ミゲル そうだ。その法律はもしその遵守に当る下役人がその励行に眼を閉じたり、売手を無刑のまま放免したりしなかったら、しごく結構なものだが。だから必要なことは、一方では役人自身が法律を峻厳に励行するように心掛け、他方では権家なり、また船が入って来る港々の長なりがそれを監視し、きわめて厳重な刑を課して違反者を取り締ることだ。

 レオ それが日本にとって特に有益で必要なこととして、あなた方から権家や領主方にお勧めになるとよい。

 ミゲル われわれとしては勧めもし諭しもすることに心掛けねばなるまい。しかし私は心配するのだが、わが国では公益を重んずることよりも、私利を望む心の方が強いのではなかろうか。実際ヨーロッパ人には常にこの殊勝な心掛けがあるものだから、こうした悪習が自国内に入ることを断じて許さない。それはそうと、このあたりで以前の話に戻ることにしてはどうだろう」。

 (「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」の2006.3.13日付け「[日本人奴隷]50万人もの日本の若い女性がキリシタンや大名によって売り飛ばされた」という証拠の史料はなかなか見つかりませんでした」より転載)


 TORA氏が「阿修羅空耳の丘43」の2006.1.27日付投稿「日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?」、 2006.3.6日付投稿「明治から大正にかけて、30万人もの日本の若い女性が売られたり騙されたりして、海外に売られていった」で採りあげている。出所は「株式日記と経済展望」で、出典は「日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし」のようである。これをれんだいこ流に意訳整理する。

 鬼塚英昭氏の著「天皇のロザリオ」(P249~257)は、次のように述べている。

 「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

 キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

 『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

 日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。

 数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。その勇気があれぱの話だが」。


 かなり護教的な論調で解説しているが、奴隷売買に言及している。


 (注)「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」の2007.9.4日付けの「[日本人奴隷]日本人奴隷の売買を禁じた秀吉の発令(?)は「バテレン追放令」ではありません」によれば、冒頭の「秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録」は不正確で、実際は「秀吉の九州出兵の記録であるところの、大村由己の『九州御動座記』」が正しいとのことである。

 なお、日記氏は、「火薬一樽につき日本娘50人」の根拠は明らかでないとして次のように述べている。
 さらに、「火薬一樽につき日本娘50人」と似たようなフレーズ・テキストは、この世に存在する書物としては、『天皇のロザリオ』中以外には、存在が確認できませんでした。「記録は省かれています」も何も、あったもんじゃありません。

 れんだいこ主宰の「人生学院掲示板№2、703」の「出入りの住人」2008.10.22日付け投稿「「日本人女性人身売買考」について」の指摘を受け、書き直しさせていただいた。謝謝。

 2008.10.22日 れんだいこ拝

 鬼塚氏の指摘は、若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ(四人の少年の意)」(天正少年使節と世界帝国)P.414~417」でも裏付けられている。若菜氏は、徳當蘇峰「近世日本国民史豊臣時代乙篇P337-387」からの引用で次のように述べている。但し、肝腎の「火薬一樽につき日本娘50人」の記述を省いている。
 「植民地住民の奴隷化と売買というビジネスは、白人による有色人種への差別と資本力、武カの格差という世界の格差の中で進行している非常に非人間的な『巨悪』であった。英雄的なラス・カサスならずとも、宣教師はそのことを見逃すことができず、王権に訴えてこれを阻止しようとしたがその悪は利益をともなっているかぎり、そして差別を土台としているかぎり、けっしてやむものではなかった」(p.416〉。

  この説明の後、売られた女性たちの末路の悲惨さを記している。かなり婉曲に触れていることになる。

 秀吉は、準管区長コエリヨに対して次のように命じている。
 「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」。

 2002.7.9日付北國新聞の「バテレン追放令」も当時の「宣教師達による日本人女性人身売買」について触れている。豊臣秀吉のバテレン追放令第10条の「日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止」を紹介し、次のように述べている。
 「バテレン船で現実に九州地方の人々が外国に奴隷として売られていること―などが分かる。秀吉の追放令は、ある意味で筋の通った要求だった」。

 日本の娘などがキリシタンによって奴隷として売りさばかれた史実は、さまざまな文献資料によっても証明されている。日本の歴史教科書では、秀吉のキリシタン弾圧は教えても、日本女性が奴隷としてキリシタンたちが海外売りさばいた事は教えていない。高山右近などのキリシタン大名が出てくるだろうが、娘たちを火薬一樽で娘50人を売った事などはドラマには出てこない。それでは、秀吉がなぜキリシタン弾圧に乗り出したかが分からない。ましてや宣教師のザビエルなどが改宗ユダヤ人であることなどと指摘する歴史教科書はない。


【「株式日記と経済展望」氏の「日本人女性人身売買考」】
 これらを踏まえて、「株式日記と経済展望」氏は次のようにコメントしている。

 今年のNHKの大河ドラマは山内一豊が主人公ですが、信長、秀吉、家康の時代のドラマです。また同じNHKでは「そのとき歴史は動いた」と言う番組でも戦国時代のことをよく取り扱います。その中で秀吉とキリシタンの関係を扱ったものがありましたが、日本の娘などがキリシタンによって奴隷として売りさばかれた事は扱わなかった。

 この事は、さまざまな文献資料によっても証明されているから事実なのですが、日本の歴史教科書でも、秀吉のキリシタン弾圧は教えても、日本女性が奴隷としてキリシタンたちが海外売りさばいた事は教えないのはなぜか。そうでなければ秀吉がなぜキリシタン弾圧に乗り出したかが分からない。

 ましてや宣教師のザビエルなどが改宗ユダヤ人であることなどと指摘するのは歴史教科書やNHKなどでは無理だろう。しかしこのようなことを教えないからユダヤ人がなぜヨーロッパで差別されるのかが分からなくなる。彼らは金になれば何でもやるところは現代でも変わらない。

 なぜこのような事実が歴史として教えられないかと言うと、やはりGHQなどによる歴史の改ざんが行なわれて、キリスト教や白人などへのイメージが悪くなるからだろう。もちろんキリシタン大名などの協力があったから日本女性を奴隷として売りさばいたのだろうが、彼らは日本人の顔をしたキリシタンだった。

 おそらく大河ドラマでも高山右近などのキリシタン大名が出てくるだろうが、娘たちを火薬一樽で娘50人を売った事などはドラマには出てこないだろう。しかしこのようなことがキリスト教に対する日本国民のイメージが悪くなり、キリスト教は日本ではいくら宣教師を送り込んでも1%も信者が増えない。かつてキリスト教は人さらいをした宗教と言うDNAが埋め込まれてしまったのだろう。

 歴史教科書などではキリスト教弾圧を単なる異教徒排斥としか教えていませんが、信長にしても秀吉にしてもキリシタンに対しては最初は好意的だった。しかし秀吉に宣教師たちの植民地への野心を見抜かれて、だんだん危険視するようになり制限を設けたが、神社仏閣の破壊や日本人を奴隷として売りさばく事が秀吉の怒りに触れて弾圧するようになったのだ。

 現代にたとえれば竹中平蔵などがキリシタン大名として宣教師たちの手先となって働いているのと同じであり、日本の銀行や保険会社などを外資系ファンドなどに売りさばいてしまった。戦国時代に日本の娘を奴隷として売りさばいたのと同じ行為であり、竹中平蔵は高山右近であり、アルメイダのような改宗ユダヤ人が日本乗っ取りを狙っている。(「日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?」)


 戦国時代のことは資料も限られたものしかないから、正確な事はわかりませんが、キリシタン追放令の10条に日本人を南蛮に売り渡すのを禁止している事からも、日本の若い娘が大勢連れ去られて売春宿に売られていたようだ。あとは天正少年使節団などがヨーロッパの各地で日本女性が売春婦として働かされていることなどが記録として残っている。

 このように戦国時代も明治大正時代も大勢の日本女性が売春婦として売り飛ばされたのですが、現代の日本人としては認めたくない事実なのだろう。(「明治から大正にかけて、30万人もの日本の若い女性が海外に売られていった」)


 現代人が明治大正の貧しい時代のことを知らないのは、明治以降の日本の歴史を詳しく教えないからであり、テレビや映画などで描かれる明治大正の貧しい農家の様子を知る事は難しい。小林多喜二の「蟹工船」などの小説やプロレタリア文学などの作品などを読めば当時の貧しい農家の様子は分かるのですが、女は女郎として売られ、男は人夫として売られた。

 からゆきさんと呼ばれた海外に売り飛ばされた日本の若い女性は20万にとも30万人とも言われますが、多くが20歳足らずで病気などで亡くなった。親たちはどのような事情で子供を売り飛ばしたのか分かりませんが、当時の貧しさを知らなければ親を責める訳にもいかないでしょう。しかしこれほどの大勢の女性が海外に売られたのに多くの人がこの事を知らない。

 だから戦国時代といわれた100年余りの間に50万人もの日本の若い女性がキリシタンや大名によって売り飛ばされたと言う事も大げさな話ではないのでしょう。しかし株式日記を読んだ読者にはこれを「既知外テキスト」として切り捨てる人もいる。私はデタラメを書いているつもりはないのですが、それほど現代の日本人は日本の歴史を知らないのだ。(「明治から大正にかけて、30万人もの日本の若い女性が海外に売られていった」)


http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html





 コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷
__Column : Japanese Slaves in the Age of the Middle Passage

(Sorry, Japanese language only)

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 天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。

 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

 日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。
 秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」といった記述に、当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。
 ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。
 しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。--奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう。

池本幸三/布留川正博/下山晃共著
『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』
人文書院、1995年、
第2章コラム、pp.158-160 より転載

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からゆきさん





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サイゴン在住のからゆきさん
仏領インドシナの切手やサイゴンのスタンプが押されている
からゆきさん(唐行きさん)とは、19世紀後半に、東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のことである。長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身の女性が多く、その海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。「唐」は、漠然と「外国」を指す言葉である。



目次 [非表示]
1 概要
2 からゆきさんの労働条件
3 関連文献
4 脚註
5 関連項目
6 外部リンク


概要[編集]

からゆきさんとして海外に渡航した日本人女性の多くは、農村、漁村などの貧しい家庭の娘たちだった。彼女たちを海外の娼館へと橋渡ししたのは嬪夫(ピンプ)などと呼ばれた斡旋業者、女衒たちである。代表的な女衒として長崎出身の村岡伊平治がいる。こうした女衒たちは貧しい農村などをまわって年頃の娘を探し、海外で奉公させるなどといって、その親に現金を渡した。女衒たちは彼女たちを売春業者に渡すことで手間賃を得た。そうした手間賃を集めたり、投資を受けたりすることによって、みずから海外で娼館の経営に乗り出す者もいた。

こうした日本人女性の海外渡航は、当初世論においても「娘子軍」[1]として喧伝され、明治末期にその最盛期をむかえたが、国際政治における日本の国勢が盛んになるにつれて、彼女らの存在は「国家の恥」であるとして非難されるようになった。1920年の廃娼令とともに海外における日本人娼館も廃止された。多くが日本に帰ったが、更生策もなく残留した人もいる。

第二次世界大戦後、からゆきさんの存在は「戦前日本の恥部」として一般に知られることは少なかったが、1972年の山崎朋子『サンダカン八番娼館』の出版によって広く知られるようになり、以後、からゆきさんについてのルポルタージュや研究書が現れた。

からゆきさんの主な渡航先は、シンガポール、中国、香港、フィリピン、ボルネオ、タイ、インドネシアなどアジア各地である。特に当時、アジア各国を殖民支配していた欧米の軍隊からの強い要望があった所へ多く派遣された。 また、さらに遠くシベリア、満州、ハワイ、北米(カリフォルニアなど)、アフリカ(ザンジバルなど)に渡った日本人女性の例もある。

20世紀後半、逆に日本に渡航し、ダンサー、歌手、ホステス、ストリッパーなどとして働いた外国人女性は「ジャパゆきさん」と類似した呼称で呼ばれた。

からゆきさんの労働条件[編集]

からゆきさんとして有名な北川サキの、大正中期から昭和前期のボルネオの例では、娼婦の取り分は50%、その内で借金返済分が25%、残りから着物・衣装などの雑費を出すのに、月20人の客を取る必要があった。「返す気になってせっせと働けば、そっでも毎月百円ぐらいずつは返せたよ」というから、検査費を合わせると月130人に相当する(余談だが、フィリピン政府の衛生局での検査の場合、週1回の淋病検査、月1回の梅毒検査を合わせると、その雑費の二倍が娼婦負担にさせられていた)。

普段の客はさほど多くないが港に船が入ったときが、どこの娼館も満員で、一番ひどいときは一晩に30人の客を取ったという。一泊10円、泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった。

現地人を客にすることは好まれず、かなり接客拒否ができたと見られる。しかし、月に一度は死にたくなると感想を語り、そんなときに休みたくても休みはなかったという。

関連文献[編集]
村岡伊平治 『村岡伊平治自伝』、南方社、1960年(復刻版、講談社、1987年、ISBN 978-4061840379)
山崎朋子 『サンダカン八番娼館 - 底辺女性史序章』、筑摩書房、1972年(ISBN 978-4480810267)
矢野暢 『「南進」の系譜』、中央公論社<中公新書>、1975年
森崎和江 『からゆきさん』、朝日新聞社、1976年(朝日文庫、1980年、ISBN 978-4022602350)
倉橋正直 『北のからゆきさん』、共栄書房、1989年(ISBN 4-7634-1005-9)
倉橋正直 『からゆきさんの唄』、共栄書房、1990年(ISBN 4-7634-1009-1)
山谷哲夫 『じゃぱゆきさん - 女たちのアジア』、講談社文庫、1992年(ISBN 978-4061853225)
倉橋正直 『島原のからゆきさん - 寄僧・広田言証と大師堂』、共栄書房、1993年(ISBN 4-7634-1012-1)
白石顕二 『ザンジバルの娘子軍』、社会思想社、1995年(ISBN 978-4390115339)
山田盟子 『波よ語っておくれ - 北米からゆきさん物語』、リトルガリヴァー、2001年(ISBN 978-4947683502)

脚註[編集]

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1.^ その稼ぎが資本となりまたその人数が日本人の進出の手がかりともなって、娘子軍と言われた。

関連項目[編集]
ジャパゆきさん
人身売買
日本人墓地
女衒
人買
売春
慰安婦 - 日本の慰安婦
棄民
南進論
サンダカン八番娼館 望郷 - からゆきさんを題材にした映画。
羅紗緬
日本の売買春
ポルトガル人による日本人などのアジア人の奴隷貿易

外部リンク[編集]
からゆきさんの小部屋
ヤンゴンの日本人墓地
からゆきさんの唄
南洋及び東洋に於ける賣笑婦 日本娘子軍の發展 『姦淫及び売笑婦』沢田順次郎著 (新興社, 1935)
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