日本史の教科書には日清戦争や日露戦争を 日本の現代化の中に位置づけていますが、当時の日本人が日本の現代化を達成できたと 考えた理由は「ヨーロッパの国々と同様に日本も中国をアヘンで食い物にできるようになった」 からなのです。このような観点は日本史の教科書にはでてきません、つまり日本史の教科書、あるいは 世界史の教科書はこの点で完全に嘘をついている、あるいは捏造をしているのです











http://mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/KuiperBelt.htm
以下、一連の頁は 2006 年秋頃から 2010 年頃までに書いたものです。 それ以後は、時々ミスタイプの修正や、追加をしていますが、元の文章の内容を変更していません。

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新聞と嘘、あるいは誤報道

-- 目次 --

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1.前書き ◦追加:戦前における日本の新聞記事の捏造に関して
◦追加:日本は何故、日中戦争をしたか ◾第二次大戦前の日本の産業構造
◾中国では誰が麻薬を購入したか ?
◾経済の破綻
◾どの程度満州国は麻薬に依存したか、あるいは犠牲者の数は ?

◦追加:日露戦争に関して
◦追加:第二次世界大戦における死亡者数
◦追加:原爆投下が是非とも必要であったこと
◦追加:マンハッタンプロジェクト
◦追加:原爆のみが残酷であるか
◦追加:南京大虐殺の犠牲者数が 30 万人と考えてよい根拠 ◾ 追加:南京大虐殺の時点で南京城に余剰の人口がいたとするもう一つの根拠
◾ 追加:南京城における食料補給に関して上限があることの根拠

◦追加:中国や東南アジアにおける犠牲者はどのようにして死亡したか ?
◦追加:日本の国旗に関しての訂正
◦追加:慰安婦問題に関して
◦追加:慰安婦問題に関して、その 2

2. 冥王星とカイパーベルト








3. 野口英世






4. 戊辰戦争



5. 明治維新 --- 誰が活躍したか ?



6. 地震と耐震建築 --- 日本は先進国であったか ?


7. 鉄の製造





8. アヘン帝国 --- 汚れた歴史













9. アヘン帝国の土壌



10. 産業革命














11. 硫黄島の戦い






12. 鉄の歴史










13. もう古くなった記事のこと





14. 水俣病









15. 最近のこと
















1. 前書き

新聞にはよく嘘が書かれています。ここではそんなことをまとめてみることにしました。 私は英字新聞を購読しています。一つが IHT (International Herald Tribune) で もう一つが The Japan Times です。2 つも朝刊を購読しているのは妙に見えますが、 大昔は Asahi Evening News を購読しており, これが IHT に変化したため、妙なことに なっているわけです。The Japan Times と IHT はかなり毛色が違っていることがわかったので 以後、両方を購読しております。

日本語の新聞に関してはインターネットで読んだり、食堂で読んだりしており、 購読はしていません。英字紙の内容と比較して、随分変なことになっていることに 気がつくことがあります。ここではこのようなことを紹介したいと思います。

読売新聞  朝日新聞  毎日新聞  日経  産経

私はこれ以外に、インターネットで英語ニュースも見ており。その上での判断です。 (以下のページには Video へのリンクがあり、画面は大きくないですが、ちゃんと TV ニュースを 見ることができます。個々のニュースは数分ですが連続して見ることができ、とても 長時間楽しめます。日本の新聞社、テレビのホームページにある動画ニュースなど比較にならないほど立派で、 しかもタダです。)

• CBS 
• Yahoo News
• Buisiness with Reuters - International Herald Tribune

なお、このページでは英語版の Wikipedia の絵をダウンロードして使用しています。 絵を使用している箇所には元の画像への直接のリンク、 あるいは画像が掲載されているページへのリンクがあります。 英語版の Wikipedia の絵は使用に若干の条件があります。 これに関してはリンクをたどって説明を読んでください。絵によって使用条件が違いますから注意してください。 使用条件によってはコピーライトに抵触します。

ある程度、本文を書いてから、前書きを少し付け加えることにしました。 特定の報道機関が嘘の報道をすれば、そのうち誰かが嘘に気が付きます。 しかし、「冥王星とカイパーベルト」で触れるように、日本の全ての報道機関が、異口同音に 嘘の報道をしており、また教科書にも嘘が述べられていました。従って、嘘が伝えられていることに 気が付いた日本人は恐らく皆無であったと思われます (但し、天文学関係の学者、研究者は嘘が伝えられていることを 知っていたはずです)。しかもこの場合には、冥王星が惑星から 陥落するまでの 1 年間もの間、日本の全ての報道機関が恣意的に嘘の報道をしているのです。 だから、これは何らかの意図があったものと思われます (はっきりした理由は私にはわかりません)。個々の新聞記者、あるいはテレビの記者が 何も知らずに報道したことはあったかもしれませんが、報道組織としては当然のことながら外電に 目を通していたはずで、組織としては嘘であることを承知の上で報道していたはずです。

色々書いていくうちに、これが今に始まったことではなく、戦前からあったことに気が付くことになりました。 「アヘン帝国 -- 汚れた歴史」でこのことに触れますが、前書きでも触れたほうがよいと考え、 かいつまんで整理しておくことにします。 まず「アヘン帝国」とは「日本」のことで、「英国」のことではありません。 戦前の「日本」は大量に麻薬を中国に持ち込みますが、 当時の日本の新聞、ラジオはどのように報道したであろうかと、 そのうち疑問になってきました。「日本を経由した麻薬」で述べますが、インターネット上で 当時の「報知新聞」の「社説」を発見してしまいました。 その当時も日本には「英字紙」があり、こちらの方では、正確な情報が伝えられていたようです。 しかし、「報知新聞の社説」は「英字紙」の記事を真っ向から否定する内容でした。 しかし冷静に読み取れば「英字紙」の方が信頼性があることがすぐにわかります。 つまり「報知新聞の社説」は「捏造」です。 当時の日本の全国紙、放送局 (NHK の前身である東京放送局も当然ここに含まれます) は 日本が国家として汚いことをしていても、「捏造報道」で帳尻を合わせていたのであろうと 断言できることになりました。 しかも日本の報道機関はすべて歩調を合わせて捏造したと考えて差し支えないようです。

麻薬のことに関しては「日本が麻薬で儲けている」という点を誰も認めたくなかったため、 まったく同じようにして「捏造報道」に徹したのでしょう。 戦局が不利になった場合には報道管制がしかれますが、それ以前に、 もともと日本の報道はジャーナリズムと呼べるような代物ででなかったと断言できることになりました。

ここまで書いて、しばらくの間「アヘン帝国」のことはそのままにしていたのですが、 時間が経過するにつれ、頭の中で整理ができてきました。英語版の Wikipedia ではアヘン戦争のことを

1. 第一次アヘン戦争 (1839-1842), 中国と英国の間の戦争
2. 第二次アヘン戦争 (1856-1860), 中国と英国、フランス、ロシア、米国の間の戦争 (但し、米国、ロシアは 軍隊を派遣しなかった)

と書いています。日本語の Wikipedia では第一次アヘン戦争を単にアヘン戦争と呼び、 第二次アヘン戦争をアロー戦争と呼んでいます。

さて第二次アヘン戦争からしばらくして、日清戦争 (1894-1895) の結果、下関条約が 締結されます。これには台湾などの領土に関することがありますが、 関連して締結された通商条約では日本はアヘン戦争の勝利国と同じ立場を得ることになりました。 これは英語版の Wikipedia に書かれていることです (Treaty of Shimonoseki - Wikipedia)。 つまり日本は中国に自由に麻薬を持ち込めるようになったのです。 少し考えてみればわかることですが、戦勝国の日本が中国と条約を結べば、 それは、それ以前の条約 -- アヘン戦争の勝利国と中国が結んだ条約 -- の 類似となるのに決まっています。これは当たり前です。

当然のことながら日清戦争以前から (ヨーロッパ各国の真似をして) 日本は中国、朝鮮、台湾にアヘンを 密輸していたはずですから  「日清戦争」を第三次アヘン戦争と呼ぶほうが 事態をより正しく理解できると思います。

中国の側から見れば、19 世紀から「アヘン戦争」が繰り返し、何度も勃発し、 第二次大戦が終了するまで続き、当初は対戦国がヨーロッパの国であったものが、 そのうち日本だけになってしまったと考える方が理解しやすいと思われます。日本史の教科書には日清戦争や日露戦争を 日本の現代化の中に位置づけていますが、当時の日本人が日本の現代化を達成できたと 考えた理由は「ヨーロッパの国々と同様に日本も中国をアヘンで食い物にできるようになった」 からなのです。このような観点は日本史の教科書にはでてきません、つまり日本史の教科書、あるいは 世界史の教科書はこの点で完全に嘘をついている、あるいは捏造をしているのです。

日中戦争に関しての日本史、世界史の教科書の捏造は巨大なものですが、それにもまして 産業革命に関しても捏造をしています。こちらの方もまさるとも劣らないくらいな巨大な嘘です。 本来産業革命には蒸気エンジンを使用して、色々なことが機械化されたから産業革命なのです。 19 世紀英国には蒸気エンジンを使用したパワーショベル (蒸気ショベル), ロードローラー (蒸気ローラー), 農業用のトラクター (蒸気トラクター) が登場し、しかもごくありきたりなものになっていたようです。 20 世紀初頭の日本にはおよそこのようなものはありませんでした。 にもかかわらず、20 世紀初頭に英国と同様に日本でも「産業革命」 が遂行されたとされています。従って、これも完全な捏造と呼ぶべきです。 また世界史の教科書における「英国の産業革命」の記述も、そもそもこの「日本史における」捏造を前提にした上での 捏造と思われます -- 嘘を隠蔽するために別の嘘が必要となる。 この嘘はどうやら、日中戦争がアヘン戦争の延長線上にあることを隠蔽するためのものではないかと 思われます。戦費を麻薬の儲けでまかない、しかも麻薬の儲けでインフラ整備をしたこと (当然ここには鴨緑江の水豊ダムが入るはずです) を隠すために、20 世紀初頭に 日本で産業革命が遂行されたとして、ごまかしているのでしょう。

日本語の産業革命という言葉には嘘が満ち満ちています。 第二次大戦中にタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道 (いわゆる「死の鉄道 -- death railway」)が建設されますが、 このときはすべて手作業です。象も使ったようですが機械は使用していません。 熱帯のジャングルの中での作業ですからとても犠牲が多くなりました。 (これは最初から予測されたはずですから、この工事を強行した人たちは殺人犯です。) 有名な話ですが、産業革命という言葉を前提にすれば、これはありません。 (追加:産業革命以後には鉄道建設に蒸気ショベルを使用するのが普通で、 この時の連合軍の捕虜たちは 100 年以上昔の時代遅れの作業を強制された。) 熱帯における土木工事としては、これ以前に米国によるパナマ運河の建設があります。 このときには 102 台の蒸気ショベルが投入されています。 これが本当の産業革命です。もしも日本が 20 世紀初頭に産業革命を遂行していたのであれば、 泰緬鉄道の建設には機械力を投入できていたはずです。 あるいはそもそも産業革命が遂行されていたのであれば、断じて戦争をすることはなかった。 少なくとも日中戦争はしなかったはずです。

追加 : 戦前における日本の新聞記事の捏造に関して

戦前の報知新聞の捏造記事のことに関して触れましたが、神戸大学の 新聞記事文庫 は随分と充実してきたようで、これ以外にも随分捏造記事の存在を調べることができそうです。 検索にはかなり時間がかかりそうですが、とりあえず少々見つけました。

残存阿片焼棄  支那の阿片禁止と日本 (大阪毎日新聞 1919.1.7(大正8))

の記事では「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」の記事のことに触れています。 記事が長いので「モルヒネ」で検索しないと該当箇所が表示されません。記事の末尾に書かれていることです。 「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」の記事は 当時のニューヨーク・タイムズにも引用された記事で、私も本文中で引用しています。 何度も部分的に翻訳したので、結局全訳しました。次をご覧ください。これと大阪毎日新聞 (現在の毎日新聞) の 記事を比較してみてください。

1919 年、2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事

ニューヨーク・タイムズに掲載されたのが 2 月 14 日ですから、大阪毎日新聞に掲載された 1 月 17 日より後です。 ともかくも、「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」の記事が随分反響を呼んだ記事であることがはっきりします。 書かれていることは「アヘン帝国」日本によりどのようにして、大量の麻薬、とりわけモルヒネが中国大陸に持ち込まれているかに 関することです。この「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」の記事に関して 大阪毎日新聞は何も根拠にせずに単に「荒唐無稽」と片付けています。 しかし新聞記者は当時、台湾にも朝鮮半島にも日本のモルヒネ工場があることは 重々承知しているはずで、そこで大量にモルヒネが生産されていることなど常識であったはずです。 また「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」を原文で読むことができるのであれば 「下関条約」等の本当の内容を理解することができたはずです。 従って、大阪毎日新聞は 1919 年 1 月 7 日に意図して捏造記事を掲載したと考えてよいと思われます。

例えば、次の記事を見れば日本本土でアヘンが栽培できたことがわかります。 しかも薬用だと思えるようなふざけた書き方をしている。 届け出をすれば「薬用アヘン」が栽培できるなどということは基本的に話がおかしい。狂っている。

阿片令愈施行  届ければ栽培が出来る (大阪朝日新聞 1919.2.20(大正8))

大量にアヘンやモルヒネが薬用として必要となることはなく、 この新聞記事はあからさまに日本政府の麻薬犯罪の手助けをしていることになります。

次のような記事もあり、この記事では日本がアヘン、モルヒネを中国に持ち込んでいることを 確かに認めています。

阿片モルヒネの密貿易  (其根本禁絶) (読売新聞 1921.2.24(大正10))

しかし「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」の記事を前提にすると、 モルヒネは郵送で中国に持ち込まれており、郵便局の協力なしでは不可能なのです (この協力の際に当然モルヒネの持ち込み料、つまり関税を支払っている)。 またアヘンに関しては中国の港における日本の海関の協力、あるいはアヘンの関税を支払って 中国にアヘンを持ち込んでいるのですから、読売新聞の記事は笑止千万なのです。 密貿易というよりは正規の手続きを踏んで、税関を通しているのです。 但し、その税関の管理をするのが日本人であるだけなのです。 この記事を書いた記者も重々事情に通じていたはずで、 アヘン、モルヒネの関税が日本政府の収入になっていることぐらいはすぐにもわかるはずです。 「密貿易」としていることこそが捏造記事なのです。 しかし、あまりにあからさまな嘘なので煮ても焼いても食えない。

以上から、戦前の報道機関は「アヘン帝国日本」のアヘン事業に関しての、 よりよき協力者であり、支持者であったと言うべきなのです。 無論ここには NHK の前身である東京放送局が含まれているはずです。

東京放送局の初代総裁は後藤新平で、 後藤新平は麻薬の利益でインフラ整備をした人ですから、多分東京放送局にも 麻薬の利益が投入されているはずです。 従って、 どのような放送がされたのかは推して知るべしです。

麻薬に関しての戦前の報道はあまりに人を食った捏造をしていると考えてよいと思います。 いずれにせよ、独立の報道機関としての組織は戦前の日本には存在しなかったと言ってよいと思います。

追加 : 日本は何故、日中戦争をしたのか ?

「アヘン帝国」のことや「産業革命」の章を読んでもらえれば、何ゆえ日本が中国と戦争をしたのかの 理由はわかると思うのですが、一応、ここでまとめておくことにします。

第二次大戦前の日本の産業構造

戦争をすれば国が疲弊します。本来必要である社会的なインフラなどに国の予算が流れずに、 その代わりに武器弾薬などに予算が流れますから、これは当然なことになります。 だから大規模な戦争をすれば、軍事産業は潤うことになりますが、社会全体としては 景気は悪くなります。これは常識的なことです。 ところが、奇妙なことに、日清戦争、日露戦争においては、日本の景気がよくなります。 だからありえないことが起きているのです。 この特殊な状況は次のように説明する以外にはありえません。


1. 日本軍は戦地で麻薬で儲ける
2. 武器弾薬の必要性から、獲得された資金が軍事産業に流れる
3. これが他の産業に波及して、景気がよくなる

無論ある程度の国家予算が戦争遂行のために使用されたことは当然でしょうが、 それよりも麻薬の収入がはるかに大きいはずです。 膨大な戦費はほぼ麻薬の売り上げでまかなわれていたはずですから、 これは当然の結論です。

「日清戦争」、「日露戦争」で日本の景気がよくなるのは、麻薬の収入によっているわけで、 従って、産業構造はとても「いびつ」で「脆弱」なものであったことになります。

中国では誰が麻薬を購入したか ?

第二次大戦前の日本の農家は、現金収入があまりなかったことはよく知られていることだと思います。 その理由は、農家が農産物を出荷することが困難であったからです。 江戸時代の年貢は米でしたが、明治になってから税金は現金で支払わなければならなくなり、 このため、明治時代には、自作農が極端に減って小作農となってしまいます。 これは農産物を現金化することが困難であったことを如実に示す事実です。 従って、第二次大戦前の日本の農家は手持ちの現金はほとんどなかったのではないかと思われます。

ところが、第二次大戦前の中国の農民は、貧しいことには変わりはないようですが、 銀の形で貯蓄をしていました。日本はほとんど山岳地帯で、山道ばかりしかありませんが、 中国では恐らく、荷馬車が通れるような道が縦横にあったのではないかと思います。 少なくとも、農作物を現金化することが日本よりも容易であったと思われます。 なお中国南部には縦横に運河がありますから、農作物の輸送はとても簡単であったはずです。 だから、第二次大戦前の中国では農産物を現金化することが容易で、 従って、農民は貯蓄をすることができていた。

中国の農民が持っていた銀は、英国による「アヘン戦争」を誘発したものです。 日本では道路網の未整備から農産物の現金化が困難で、そのため 日本の農民は中国の農民のように貯蓄は持っていなかったであろうと思われます。 従って、ヨーロッパの国々が日本にアヘンを持ち込む危険性は随分少なかった であろうと思います。中国が狙われたのはその富によるのです。農民たちが個々に 持っている「お宝」はそれほど多くはなかったと思いますが、全体としては 巨万の富であったはずです。


注意
1. 無論都市部でも麻薬は売れますが、大半が農村ですから、 そこがターゲットになってないと、売り上げは増えないことになります。
2. 辛亥革命後は、貨幣は紙幣に変わったのではないかと思いますが、 第二次大戦前の中国の農民は銀を持っていたのです。 関東軍はこれをよく知っていた。 貯蓄をするときは銀の形の方が信頼できたのか、あるいは先祖伝来の貯蓄が 銀であったのかに関してはよく知りません。
3. 江戸時代までの貴族、侍にしてみれば農民たちから絞るとることは正義であったわけですが、 明治以後は日本の農民たち (= 兵隊) の力を借りて、貴族、侍たち (= 当時の日本の支配者層) が 麻薬によってアジアの農民たちから絞るとることが正義となったのです。

経済の破綻

「満州国」ができるのは 1931 年で、これは 1929 年に起きた世界恐慌の 2 年後のことです。 日本が中国侵略をしたのは日本の経済が破綻したためです。 日本の経済はきわめて「いびつ」で「脆弱」であったため、 米国のように自力で世界恐慌の荒波を乗り切ることができなかったのです。

2008 年 9, 10 月に世界経済の破綻が目前に迫ったのかの感がありました。 これを見ていると、1929 年の世界恐慌がどのようなものであったのか、 感覚的に理解できることになりました。 世界の経済があっという間に枯渇していく状況はぞっとするようなことです。 経済的に進展している国の方が被害の度合いが少なく、 またこのような国々では国が大規模な資金を市場に投入することが でき、被害を少なく抑えることができることも見ることになりました。 経済的に発展していない国では随分大変なことになるようです。

1929 年の世界恐慌のときにどのようなことがおきたのでしょうか ? 日本にもまともな輸出品があり、これは「生糸」でした。 主に米国向けで、女性用のストッキングの原料です。 世界恐慌の結果米国の女性はストッキングをあまり買わなくなり、 その結果、「生糸」の輸出が半減します。 このあたりまでは、現在の経済的に未発展な国と同じことになります。


注意
1. 産業革命の結果、米国の市民は比較的豊かとなり、多くの女性が絹のストッキングを 身に着けるようになり、日本から米国への輸出が増え、これが日本の表の経済を 支えてきました。日本の輸出品の主だったものはこの生糸の輸出だったのです。 これが世界恐慌で半減し、あとで復活することはありませんでした。 だから表の経済だけでは輸入できるものは半減したことになり、 日本はお陀仏になったのです。
2. 日本経済に比べて、米国経済はうまく行ったようです。しかし、私はこの点に関して 歴史教科書を鵜呑みにしています。歴史教科書の指摘することは いわゆるニュー・ディール政策で、公共事業です。 これが本当に正しかったのかどうかは熟知していません。 しかしこの時期、米国が大変であったことに関してはある程度の認識を持っています。 世界恐慌は何とかクリアーしても、あとで世界大戦に日本が参戦したことにより、 米国は戦争に応じるために、巨額の債権を発行しなければなりませんでした。 これで米国が滅びるといわれた時があったのではないかと思います。 しかし、私としてはこの時期、日本がしていたことを前提にすれば、日本が先に滅びたことは望ましく その復興に期待することがより正しかったのではないかと思います。

歴史の教科書に書かれていることはここまでですが、 日本の場合には更に未曾有の破局がおきかけていたのです。 世界恐慌の結果、世界的に価格が暴落したものがあります。麻薬です。 景気が悪くなって麻薬中毒ですら麻薬を買えなくなったためです。 日本の経済は麻薬に依存していましたから、これで対処の方法がなくなることになります。 麻薬の売れ行きを増やすための経済政策などあるはずがない。 その結果、直接的には関東軍が「ひぼし」になりかかったのです。

しかし満州を支配してしまえば、より多くの農民を麻薬中毒にすることができます。 麻薬が蔓延していても、麻薬に手を出していない農民の方が多かったと思いますが、 直接の支配下において有無を言わせず中毒にしてしまえば、不足となった 収入源を補うことができたのです。 こうしなければ、関東軍は消滅の危険に直面したであろうことは火を見るよりも明らかです。

関東軍の目的としたものは中国の農民たちの「虎の子」だったのです。 これが日中戦争の目的でした。


注意
1. 日本の領土が増えれば、世界恐慌のせいで国内で青息吐息であった企業が そこに進出をして多少息を吹き返すことはできたでしょう。 しかし、関東軍としては、運転資金がなくなればすぐにでも自分自身の存続の問題に直面することになります。 現地調達の宿命です。 だから関東軍としての直接の目的は中国の農民たちの「虎の子」に他なりません。 資金難に陥った暴力団のようなものです。日本史の教科書ではこの時期を「世界恐慌と軍国主義の台頭」 と言って表現していますが、これは正確な言い方ではありません。関東軍は一般の人を無差別に 麻薬中毒にしようとしたわけで、このような一般市民に対しての無差別な攻撃のことを現在では「テロ」 と呼びます。従って「世界恐慌とテロリズムの台頭」という言い方の方が当時の日本を適切に表現する 言葉です。この点に関しても日本史の教科書には嘘がある。
2. 日中戦争が世界恐慌の結果であることを日本人の多くが認めているのではないかと思います。 その理由は 2008 年に起きた世界的な不況が始まった頃、欧米の政治家、あるいは英字紙の報道では随所で 1929 年の世界恐慌と比較をしていました。ところが日本の政治家や邦字紙の報道では 1929 年の 世界恐慌の時点との具体的比較をせず、むしろ無視をしていたのです。つまり、満州侵略、日中戦争が 世界恐慌の結果であることをちゃんとよく理解しているため、具体的な比較をすることが できなかったのです。まともな経済政策などせずに麻薬に頼ったことをよく知っているから、 経済的な比較ができないのです。

3. 当時の中国の農民の持っていた「虎の子」の目的を書き忘れていました。 この「虎の子」は通常は断じて手につけてはいけない金なのです。 これは飢饉の時のみに手をつけることができる金なのです。 従って、正常な状態では農民から、この「虎の子」を絞るとることは断じて不可能で、 どうあっても完全に麻薬中毒にする必要があったのです。 しかし、農民たちの最後の「虎の子」まで搾り取ってしまえば、 また別の犠牲者を求める必要が出てきます。

満州国の建国のために麻薬が必要であったと考える向きがありますが、 こう考えるよりは、麻薬の価格が暴落して、関東軍の収入が激減し、これを補うために、より大量の麻薬中毒を 作る必要性から満州国が建国されたと考える方が自然です。 つまり国を作るために麻薬の収入が必要であったと考えるよりは、 麻薬の収入を増やすために (あるいは麻薬の収入が落ち込んだため) 支配地を増やしたのです。 これを示唆する事実があります。満州国に投入された麻薬の売人は朝鮮人です。 つまり朝鮮半島では麻薬で絞るとることがじり貧となったため (当然これは世界恐慌が引き金となっています)、 満州国に新天地を求めたのです。 また、その後南京にも侵略をしますが、直後に大量に投入された麻薬の売人は満州国の 麻薬の売人なのです。 満州における麻薬の儲けが少なくなったため、麻薬の売人が移動したと考える方が自然です。 はっきりしている点は、大量に麻薬を投入しても、そのうち利益がじり貧と なり、その時点で新天地が必要なのです。麻薬によって骨の髄までしゃぶりとるようなことをすれば当然こうなります。 1937 年の 7 月 7 日の盧溝橋事件から日中戦争の幕が開きますが、 これは関東軍による大々的な麻薬テロの開始なのです。 従って「日中戦争の原因は満州における麻薬の儲けがじり貧となったため」であると考えて差し支えないと思われます。

4. 日本語の Wikipedia ( 満州国の経済) には『総額26億円を投資する「満州産業開発5カ年計画」』のことが記載されていますが、 これの原資は麻薬です。また産業開発と称するものは軍事産業で、武器弾薬の製造に他なりません。 武器弾薬の製造は満州を支配し、中国への麻薬の浸透を図ることを目的とするものですから、 満州国は国というよりは「麻薬売り上げ機関」と考える方が適切です。 また満州国にあった肥料工場はモルヒネの原料を提供できたはずですから、 何から何まで麻薬尽くしであったことになり、満州国にとって良いことは何もなかったのです。 また満州国にあった工場、鉱山はそのすべてが廃液などを垂れ流しており、 その跡地は深刻な土壌汚染を被ることとなり、死の大地と化したようです。

世界恐慌の余波は第二次大戦まで続いているのです。関東軍は農民から絞る取る「虎の子」が 枯渇すれば、また新天地を目指して、そこで再び「虎の子」を搾り取ったのでしょう。


追加
序文に、「日本は何故、日中戦争をしたのか ?」を 付け加えている前後に、田母神航空幕僚長の懸賞論文の話が報道に載りました。 「日本は侵略戦争をしたわけではない」との内容のようで、 アパグループによる懸賞論文であったとのことです。 事情が不明でしたが、2008 年 11 月 20 日の Japan Times に記事が載り、かなり 事情がはっきりすることになりました。まとめると 1. アパグループと安倍晋三は深いつながりがあり、 アパグループの推薦から、安倍晋三総理が田母神を航空幕僚長に抜擢したらしいこと
2. 田母神はロジスティック部門などを歴任しただけで、 航空幕僚長に抜擢される理由がほとんどなく、 田母神の歴史観の理由から抜擢されたらしいということ
ちょっと半信半疑になりましたが、次の頁を見つけました。
アパグループ - Wikipedia

どうも、確実なようです。アパグループには耐震偽造問題も 関係しており、それにも安倍晋三が関連しているようです。 安倍閣僚は「靖国閣僚」で占められていたことも、Japan Times で 指摘しており、紛れもない事実のようです。しかし、耐震偽造問題まで関連しているとは....

もう少し、思い出したことがあるので付け加えます。この事件の直後に、どこかの邦字紙で小さな記事を 読んでおり、それによるとアパグループは自衛隊との契約で随分儲けているようです。 これを前提にすると、自衛隊は特定の業者に儲けさせ、その利益を特定の政治家に還元させるようなこと をしているとも考えられます。田母神はロジスティック部門の担当でしたから、これが可能な立場で あったはずです。あるいは自衛隊が組織としてこのようなことをしているのかもしれません。 歴史観の問題よりも、金による結びつきのほうが大きいのかもしれません。

どの程度満州国は麻薬に依存したか、あるいは犠牲者の数は ?

満州国の硬貨にはケシの花が描かれているそうで、 満州国の経済 (?) は基本的にアヘンに依存しているように思え、 最初は満州国の財政にどれほど麻薬の売り上げが占めていたのか調べようとしました。 今では正確な数値を覚えていないのですが、満州国の予算の 10 % 以内ぐらいであることが どこかのページで書かれていました。私が「アヘン帝国」で書いてあることを読めば、 これはおかしいと思うはずです。そんなに少ないはずがない。 「満州国におけるアヘンの専売制」のみを問題とすると、この間違いに陥り、 どこかおかしいが理由が不明な状況になります。 原因は極めて明白で、関東軍の収入は満州国の予算に含まれていないからです。 だから、「満州国におけるアヘンの専売制」は一方で存在しているが、関東軍は独自に麻薬を売っているはずなのです。 だから問題は「満州国の予算」+「関東軍の予算」の中に占める麻薬の売り上げがどれだけであるかを 調べないといけないのです。おそらくこのデータは存在していない。 従って、何らかの推論をせざるをえません。

そこで、これに近い状態の国 (?) を考えます。 日本は内モンゴルにも傀儡政権を作りますが、この場合には、関東軍は軍事的に深く関与していないと 思われ、内モンゴルの傀儡政権の予算に占める麻薬の売り上げあたりが参考値になります。 これは 20%~30% です。また本文中で「アヘンの専売制」に関連して触れた個所で、 オランダ領東インド (現在のインドネシア) における 1914 年の政府の総収入における アヘンの収入の割合は 10 % を少々超える程度であることが判明します。 ヨーロッパの植民地では陸軍を積極的に投入していません。 これは補給で困るためです。だからヨーロッパ人の植民地支配には海岸地帯の拠点地域のみを 支配することが多いはずで、従って、 内陸部まで多量の陸軍を展開した旧日本軍の方法はとっていないのです。 補給の困難さを関東軍は現地調達で克服しました。 つまり麻薬です。従って 「満州国の予算」+「関東軍の予算」に占める麻薬の売り上げの比率は、 オランダ領東インドの 10 % をはるかに超えていたはずで、内モンゴルの比率の 20 %~30 % 程度では ないでしょうか ? あるいはこれより多いかもしれません。


注意
別の面からの議論も補足します。非常に広い地域を継続的に軍事力だけで支配することが可能でしょうか ? しかも陸軍だけでこれが可能でしょうか ? このようなことに関して、随分以前にどこかで記事を何度も読んだ気がします。 結論は単純で、これは単に不可能なのです。一時的な支配は可能でしょうが、財政的な理由から不可能となります。 多量に陸軍を投入すれば、国家予算の何割かが軍事費として必要となり、それが継続するようなことがあれば 財政破綻するからです。 一つには多分、ベトナム戦争で泥沼状態になった時に、米国が (空軍の代わりに) 更に大量の陸軍を投入すれば勝機があるのでは ないかという議論に対する反論ではなかったかと思います。(無論英字紙に書いてあったことです。) あるいは、植民地時代のヨーロッパ諸国がしたことの解説であったのかもしれません。 従って、原理的に不可能なことを日本が満州国でしたことになります。 ゲリラが頻々と発生するはずですから、軍隊の規模も非常に大きくする必要があり、 財政的負担が計り知れないものとなるはずです。 だから軍事力で満州を支配下に置くためには 満州国の予算の何割かに相当する財政的基盤が必要となるはずなのです。 これが麻薬の売り上げで処理されたはずですから、その儲けは巨大なものであったことになるはずだ、と言いたいのです。
以上は直接の麻薬の売り上げです。しかし、更に問題があります。麻薬の売り上げがもたらす波及効果です。 例えば、関東軍は麻薬の売り上げで軍事物資を手に入れようとするはずです。 軍事工場ができていればこれにより、軍事工場は利益を手に入れることができ、法人税の形で満州国の 収入となるはずです。波及効果も含めて考えると税収は 2 倍にはなるはずですから、結局、 「満州国の予算」+「関東軍の予算」における広い意味の麻薬の儲けは 50 % を越えたと考えてよい と思われます。

以上のように膨大な儲けが麻薬によって提供されたはずなのです。 従って、その犠牲者の数はけたたましく多かったはずなのです。 私が書いた文章の中では、麻薬中毒の比率がはっきり書かれているのは、 南京の場合のみです。南京城が陥落して、直後に南京大虐殺が起きますが、その後数カ月には、 南京市民に占める麻薬中毒の数は全人口の 1/8 に達しました。これはまず間違いのない数値です。 最初はとても多いとは思いましたが、全員ではないと考えました。 しかし、これは間違っていたのです。関東軍が麻薬中毒にしようとしたのは家計を支えている人です。 彼らが現金を持っているからです。扶養家族を麻薬中毒にしても骨のずいまでしゃぶれないからです。 具体的には職場の給料が麻薬で支払われた時があったのです。南京は都会ですから、 多くは雇用者で職場を通じて麻薬中毒にされた。もしも 4 人家族であれば、家計を支えている人 全員を麻薬中毒にすれば全人口の 1/4 となります。子供の数が多く、年寄りも扶養家族に入っていれば、 1 家族当たり 8 人であっても不思議ではありません。ともかくも南京では、各家族の家計を支えた人 をほぼ全員を麻薬中毒にしたのです。(無論中国の支配者層はここには入っていない。)

では満州や朝鮮半島の場合はどうだったのでしょうか ? 上のような具体的な数値が登場しません。 ここには欧米系の人がいなかったからなのです。とりわけ、朝鮮半島に関しては 当時は欧米系の人がおらず、おそらくすべてが秘密になった。 少なくともインターネット上の英文の記事で確認できることはほとんどありません。 但し、満州国が建国された後で、何千人もの朝鮮の麻薬の売人が満州国に登場しますから、 朝鮮半島も麻薬漬けであったことがはっきりするまでです。 欧米系の人たちは、香港などの植民地がありますから、中国南部に住んでいた人もいると思います (宣教師を含む) が 中国北部の満州に関しては訪れることはあったにせよ、そこに住むことはなかったはずです。 南京の場合には欧米系の人たちの目の前で 事件が展開されたから広く知られることになったのですが、 満州国や朝鮮半島の場合にはこれがなかった。 だから詳しい目撃情報は残っていないのです。

よしんば残っているにせよ、色々隠蔽されている可能性があります。 例えば、日韓併合の後に朝鮮半島ではアヘンは禁止されています。こう聞けば、朝鮮半島には 麻薬中毒がなかったと思ってしまいそうですが、単にモルヒネが代わりとなっただけなのです。 どのような形で隠蔽されているか想像できませんが、関東軍が南京でしたことは、 それが最初であったはずがないのです。 しかし、満州は都会ではなく、住民は大半が農民です。 だから南京のように効率よく麻薬中毒を作れなかったかもしれません。 しかし、いずれにせよ各家族の家計を支える人を全員麻薬中毒にしようとしたのに他ならないはずなのです。 そうでなければ満州国における膨大な麻薬の収入がありえないためです。

満州国は一応アヘンの専売制をしいたわけで、恐らく台湾などと同じように、 登録さえすれば麻薬を購入できたのかもしれません。この登録者から麻薬中毒者の数が 判明するのかもしれませんが、台湾でも麻薬中毒の登録者は、登録していない中毒者と 同じくらいの人数であったそうです。だから、公式の麻薬中毒者の数は信頼できません。 それと、もう一つ問題があります。 専売制ですから、一応儲けは満州国政府の国庫に納まるはずですが、 こうではなかったはずです。関東軍も独自に資金源が必要で、これは満州国政府とは 独自に存在しなければなりません。つまり独自の麻薬の販売です。従って、これは満州国のアヘンの 専売制に矛盾しているように見えます。 (麻薬の儲けの調停をしたのがニキサンスケと思われます。 麻薬に関しての方針を決めたのは満州国政府ではありえないのです。 ニキサンスケに関しては本文参照のこと。) 満州国は傀儡政権ですから表面的なことでは何も判断できないのです。 では、どの程度の麻薬中毒者がいたのかですが、南京の場合には 1 割を超えていましたが、 これよりは少ないであろうと思われますが、1 割をそれほど下回ることはないと憶測します。 もしも、これよりかなり下回ることがあれば必ずや強制的に麻薬中毒を作ったはずだからです。 (関東軍の発想に焦点を合わせた憶測です。)

追加 : 日露戦争に関して

2009 年 12 月 9 日の Japan Times に日露戦争に関しての共同通信の記事が載りました。 恐らくインターネットで日本語の記事が読めるはずだと考えて、ヤフーで 検索したところ同じ記事が見つかりました。但し Japan Times の英文の記事の方が 長く書かれていました。

日本、ロシア主戦派の同盟案黙殺 日露戦争直前、新史料発見

このリンクはそのうち消えると思われますから、冒頭の部分を引用させてもらいます。


日露戦争開戦1カ月前、ロシア側の主戦派の一人と考えられていた 政治家が戦争を回避しようと日露同盟案を準備しているとの情報を得ながら、 日本政府が黙殺していたことを示す新史料を、和田春樹東大名誉教授が7日までに発見した。 日露戦争についてはこれまで、 作家司馬遼太郎氏が小説「坂の上の雲」で論じた「追いつめられた日本の防衛戦」とする見方も根強く、 日露戦争前史を見直す貴重な発見と言えそうだ。

Japan Times に載った英文の記事の方が少し長く色々解説が付いています。 但し、英文の記事は 1 点間違えています。 日本が 1910 年から 1945 年まで朝鮮を占領したとしているからです。 実際は、日露戦争の時には満州が戦場とはなりましたが、朝鮮半島は日本軍の通り道であり、 日露戦争が終わった後もこの軍隊は朝鮮から撤退しなかったのです。 (「アヘン帝国 -- 汚れた歴史」を参照)


注意
1. 日露戦争の時に、日本軍が朝鮮半島を占領し、日露戦争後も撤退しなかった事実は 日本語の資料では探しにくい可能性があります。 これを想定していなかったので、最初は調べるのに随分大変でした。 一端、これに気が付くと、簡単に英文のページで検索できるようになりました。 なお、日本史の教科書には、日露戦争直後に日本が朝鮮を保護国化する事実が書かれているはずで、 これが日本軍が朝鮮半島から撤退しなかった事実を暗に示しています。
2. 日韓併合のことは日本語のホームページで登場するのみと言ってよいと思います。 英語圏のページでは、「日露戦争の時に日本軍が朝鮮半島を占領し、日露戦争後も撤退しなかった」と書いてあるだけで、 日韓併合のことを書いてあるページはほとんどないと思います。 日本の軍隊の占領下で、日本が占領下の国との条約を結んだにせよ、 およそ条約といえるはずがない。そんなことを歴史的事実と称するのであれば、 これは歴史学者による歴史の捏造に他なりません。だから日本史の教科書もこの点で捏造している。 正しい認識は「日本の軍隊は日露戦争の開始時点で朝鮮半島の占領を開始し、太平洋戦争の終了時まで占領し続けた」です。
3. 記事全文を読めばわかりますが、ロシア側の同盟案はロシアが満州を取り、 日本が朝鮮半島を取るものです。日本側としてはこんな和平案など論外だったようです。 戦争に駆り立てられたのではなく積極的に侵略した。

いずれにせよ、日露戦争の開始時点で、朝鮮半島は日本軍の支配下に置かれたのです。 もともと朝鮮半島の支配にクレームをつける可能性のあったのは中国とロシアでしたが、 中国は日清戦争で排除され、次いで日露戦争によりロシアが排除され、 日本は朝鮮半島を完全に支配したのです。 日韓併合は表面上の帳尻合わせなのです。 日本の朝鮮半島の支配は日露戦争に始まり、太平洋戦争の敗北で終了したのです。

以上の点を合わせて考えると、日清戦争、日露戦争は朝鮮を日本の支配下に置き、 ひいては満州を影響下におくための戦争であったことが とてもはっきりします。防衛戦であるはずがない。

英文の方の記事では司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」(および NHK ドラマ) のことにも触れ、 この本ではロシアが日本を戦争に駆り立てたと主張していると続けています。 素直に考えれば、日清戦争、日露戦争が日本の朝鮮支配、ひいては中国を侵略する意図から起きたことは明らかです。 朝鮮半島を麻薬漬けにすれば、随分儲かったでしょうから、この点からも 防衛の戦いなどではなかったことは明白なことです。

もう一点興味ある事実があります。共同通信は日本中の新聞社に配信しているはずです。 また各新聞はホームページで自社の新聞に掲載した記事を無料で読めるようにしています。 そのため、適当なキーワードで検索すれば、上の共同通信の記事が検索されるはずです。 10 社未満の新聞社がこれでヒットしました。見てみるとどれも地方紙です。 だから、結論として全国紙 (読売、朝日、毎日など) は共同通信の記事を握りつぶした。 また NHK のニュースでも取り上げられることがないことは明白だと思います。 これが公共放送の実態なのです。

追加:第二次世界大戦における死亡者数

次の図は World War II casualties - Wikipedia (第二次世界大戦における死亡者) にあるグラフを日本語化したものです。 赤が軍人、橙色が民間人、赤+橙色が全死亡者数 (単位は 100 万人)、 青色は 1939 年における人口数に対しての死者の比率 (%)。

中国でどういうことが起きていたのか非常にはっきりします。 民間人の死者が非常に多い。



目盛の数は死者の数を表しており、% の方の目盛りの単位が少し不明。 だから傾向のみを表していると思ってください (歴史家によっても評価が違いますが、 日本の場合には軍人の死亡者はおよそ 200 万人で、全死亡者の比率は全人口の 3.78 % です) なお、中国、インドネシア、仏領インドシナの場合は戦争によってもたらされた飢餓と病気による死者も含んでいるようです (最近は犠牲者の数をこのように計算するようです)。 なお、ビルマにおける死者には当然「死の鉄道」の建設に従事した人が含まれています。 (ビルマは英国領でしたから仏領インドシナには属していない。)

この表からわかることは、自国が戦場になれば民間人の死亡者が極端に増えることが わかります。また、日本には核爆弾が投下されましたが、 それによる死者はほとんど問題にならないくらい少ないことがわかります。 中国、インドネシア、インドシナにおける民間人の死者は日本と比べると信じられないくらい 多いのです。


注意
1. これを書いている最中にふと気が付いたことがあります。 「南京大虐殺」の時や「死の鉄道」の建設時には食糧不足だったのですが、 これには共通の原因があるのではないかと思ったためです。 当時の輸送網は現在の輸送網ほど発展していないので、 人口が増えればすぐにも食糧不足になるはずです。 日本軍は現地調達ですから、これではどこへ行っても、 その場所で食糧不足となるはずです。 (そのため、通常は軍隊の移動時には自前の食料を持参することは鉄則で、これは常識です。災害援助の場合も同様です。) ビルマ以外の東南アジアの国でこのようになった実例があるはずです。 調べてみると次のページがヒットしました。
The Battle for Singapore
日本軍によるシンガポール陥落の話です。 思った通りで、3 年半に及ぶ日本の支配下で食糧が極端に不足したようです。 これでは、戦闘の巻き添えを食わないにせよ、 東南アジアでは日本軍が存在すれば、必ず食糧難になることが必定です。 また、日本軍は東南アジアにおいて、欧米の各国よりは、はるかに麻薬に依存した支配体制を築いたのは 間違いないと思われます。食糧確保と連動しているためです。また「南京大虐殺」のことを思い出せば、 食料不足から民間人を虐殺したことがあっても少しも不思議ではない。
2. もっと別の観点から議論する必要もあります。 そもそも昔の国は多くが食料に関して、自給自足でした。 つまり、供給可能な食料により、全人口が決まります。 このような国に、10 万人の軍隊が登場し、食糧を調達するとします。 そうすれば、10 万人分の食料が不足します。 極端な食料の配給制になるか、10 万人が餓死するかのいずれかです。 おそらくどちらも起きるでしょう。 シンガポールでは配給の食料では飢えをしのぐことができず、闇市ができ、食料の値段が暴騰します。 従って、これは貧しい人にとっては事実上の死刑を宣告されることになるのです。 東南アジアの至る所でこれが起きた。さらに付け加えれば、「死の鉄道」では日本兵も飢えに苦しみますが、 シンガポールでは地元の人が飢餓に苦しむ中で、日本兵はまともに食事を取ることができていた。 従って、日本軍は憎悪の対象であり、日本軍は治安維持に大いに力を注ぐ必要があった。
3. 10 万人の食料が不足するようなことは、大規模な地震の時にはよくあることです。 つまり食料を持参していない 10 万人の軍隊が侵略すれば、 震災と同じようなことになる。 私の勤務先は非常に小さな国立大学です。 学内で数十人から数百人ぐらいの集会がある場合には、 恐らく弁当を持参することを注意しているはずです。 周囲に食堂やコンビニがほとんどないためです。 ずっと昔のセンター入試の時に、弁当を持参していない受験生がいたようで、 そのときはコンビニのサンドイッチやお弁当がすっかりなくなって戦争騒ぎのように なったことを覚えています。 こうなると、日本軍が侵略する時に、侵略地に食糧倉庫のようなものがあれば、 飢えをしのげるはずですが、なにもない場所に侵略したら食料は一切手に入らないはずです。 食糧倉庫がありそうなのは都会です。 田舎に食料はありそうに見えますが、収穫をすればすぐに出荷し、 自分たちに必要な食料を残すだけだと思います。もしもこのような箇所に出兵すれば どうなるのでしょうか ? 軍票で食糧を購入しようにも誰も売ってくれないはずです。 手元にあるのは自分たちが食べる食料だけだからです。結果は目に見えています。 食糧目当ての強盗殺人です。南京大虐殺では 30 万人が殺されます。 これは余剰の人口を殺害して食料を手に入れるためだと思われますが、 その進撃途上でも 50 万人を殺害しています。この場合には食糧を手に入れるための 強盗殺人と思われます。
4. 「第二次世界大戦における死亡者数」を追加したのは 2010 年の夏に読売新聞で
第二次大戦で米国が核爆弾を日本に投下したのは間違いで、オバマ大統領は日本に謝罪すべきではないか
との記事を読んだことが直接のきっかけでした (上記の内容を前提とすれば読売新聞の記者はまともじゃない)。 2011 年の 4 月に再び読み返してみると、 そのとき、気が付かなかったことを思い出すことになりました。 「アヘン帝国 - 汚れた歴史」を書いた時は、 日本の敗戦に至るまでの日本政府による麻薬犯罪をできる限り調べることを目的としたのですが、 そのとき「南京大虐殺」のことも色々知るハメことになりましたが、これは当面棚上げにしたのです (的が絞れなくなりそうだったためです) 。 最後になって「南京大虐殺」のことも追加で書き、原因が食料不足によるとほぼ断言できると書きましたが、 その時は、すでに目を通していた別のページの内容を忘れていたのです。およそ次の内容です。
日本軍が南京城を攻め落とした時に、南京市の高官が日本軍に「南京市では 30 万人の食料が不足している。 食料を援助してもらいたい」と懇願した。
この結果起きたことは、日本軍による南京市民の大量虐殺でした。 懇願した南京市の高官は絶望的な事態に気が付いたはずなのです。自分が 30 万人分の食料が不足していることを しゃべらなければ、30 万人が殺されるようなことにはならなかったはずなのです。 日本軍を信用したことを深く後悔したと思います。(日本軍は信用してはならなかったのです。そして類似のことが 東南アジア全域で起きたはずなのです。) あとは推測ですが、この内容をマンチェスター・ガーディアンの新聞記者に情報提供したのです。 従って、日本軍によって差し押さえられた「30 万人殺戮の電信文」はそもそも 世界に訴えるマンチェスター・ガーディアンの記事だったのです。だから食糧不足が虐殺を生んだことは明らかなのです。
追加:この新聞記者による回顧録のようなものもあり、かなり有名な本だと思います。 この本を読めば全てが書いてあるはずです。実際に何が起きたのかは余りに明らかで、議論の余地がありません。

5. 太平洋戦争直後、日本は食糧不足に直面します。 この原因は、戦前の日本は現在の北朝鮮のように食糧増産をしようとせず、 戦争ばっかりしていたからです。中国大陸や東南アジアから日本人が帰国すると、 人口が増え、食糧が賄い切れなかったのです。 そう考えると、戦前の日本人は中国、東南アジアなどで食糧の搾取をすることにより、 食糧を確保できていたことになります。 著しい食糧不足は、戦前の日本にはなかったのですが、 これは他国に飢えを押し付けていたためです。これができなくなって、 第二次大戦直後に今度は日本人が飢えた。


追加

最近は第二次大戦中の日本の戦争犯罪のことを書いた日本語のページが随分増えており、 東南アジアでも日本軍による虐殺があったことが確実にわかることになりました。 こうなると、考えが少し進むことになります。「日本軍ははたして何も考えずに現地補給に徹しようとしたか?」、 「食糧が手に入りにくい場所があることは想定しなかったのか?」。 こうなることは当然すぐにも思いつくことです。 だから、これは最初から想定していたはずです。解決方法は人口を減らすための虐殺、 あるいは食糧目当ての強盗殺人しかないことはあらかじめわかっていたことです。 現地補給を前提にすれば必ずこうしなければならないことがあることは 目に見えています。しかし、これは司令官の一存でできることでしょうか? このように考えれば、あらかじめ了解されていたことが明白です。 しかも、麻薬政策に関しては日本政府の了解事項でしたから、 食糧不足の場合には『人口を減らすための虐殺、あるいは食糧目当ての強盗殺人』は日本国政府の了解事項 あるいは命令と考えるのが自然です。

この状況は次の点からも明らかです。「アヘン帝国」/「南京大虐殺」の中で触れていることですが、 日本軍が南京に進軍途上で 50 万人の民間人を虐殺する話が登場します。 これを当時の駐独大使である東郷茂徳が米国の駐独大使に豪語しているのですが、東郷茂徳が独断でこの話をするわけがありません。 日本国政府の指示でこの話を持ち出したのに相違ないのです。従って、日本国政府は日本軍による『食糧目当ての強盗殺人』を 十二分に理解しているのです。ではこれはいつ始まったことなのでしょうか? 恐らく日清戦争、日露戦争に始まっている。あるいは明治維新に始まっていると言う方が正解だと思います。 (大規模な戦争にならなくても小規模な小競り合いはいくらでもあったはずです。) 皆殺しにしてしまえば、ほとんど証拠が残らないので「食料の現地調達」が始まった時点でこれが登場していると考えるべきなのです。 そして何十回、あるいは何百回も虐殺が起きた。おそらく虐殺された人の累計を考えれば 南京大虐殺が -- 30 万人という数が -- 取るに足らない問題のように思われるはずです。(2011 年 9 月)

『食糧目当ての強盗殺人』が実際はもっと古くからあるのかもしれません。 あるいはそう思っている人がいた可能性があります。 子供の時に、読んだのか聞いたのかの記憶がないのですが、日本軍による中国、東南アジアへの侵略と、 日本武尊 (やまとたけるのみこと) の東征とを比較していたからで、この時も食糧は現地補給なのです。 だから、日本軍は神と同じことを繰り返しているわけで、 少なくとも日本が戦争に負けるまでは『食糧目当ての強盗殺人』は神のなせる業であって英雄なのです。 そして、この事実を重々承知している国会議員がいるはずです。これが靖国神社に参拝をする本当の理由だからです。 (2011 年 9 月、再度追加)

日本国政府は別の点から「食糧目当ての強盗殺人」をせざるを得なかった可能性があります。 戦前の日本は食料に関して自給自足でした。つまり食料の生産効率が極めて低く、 余剰の食料がなかったのです。この状況で軍隊を大きくし、軍事産業を育てようとします。 そうすると、食糧不足となることは目に見えています。 例えば農民を無理に兵士にしたり、軍事産業に従事させれば食糧を生産する人の数が不足します。 これが現在の北朝鮮で起きていることです。 こういう状況になれば、補給なしに戦地に兵士を送り出すことにより食糧不足が多少は改善されるはずです。 しかし、農業人口は減りますから、口減らしのために更に農民を兵士として戦地に送ります。 そうすると、またまた食料の供給が減ることになります。あとは破局になるまで続くだけ.... これは明治維新から始まっているのです。 食料増産のことを歯牙にもかけなかった明治維新は破局の始まりだったのです。 このような自己矛盾からの脱出はすべてをチャラにして食糧増産から始めないといけないのです。 これは敗戦があって始めて可能であったのです。 (少し明白となったので再度追加、2011 年 9 月)

再度付け加えます。戦前の日本は現在の北朝鮮と全く同じように極端な食糧不足に陥っていたことが明白になると、 いつこれが顕著になったのかと考えることになりました。おそらく日露戦争の時です。 このとき日本軍は朝鮮半島から撤退をしませんでした。最初は単に朝鮮半島の併合を目指したものだと 考えたのですが、このとき撤退はあり得なかったのです。日本に撤退をすれば、食糧不足となるため 軍隊を解散し、兵士は農業に復帰せざるをえないはずだからです。 産業国でもない日本が大きな陸軍を持つことができるようになったはずですから、 これは断じて選択肢には入らない。 もう一度、撤退せざるを得ない状況になります。世界恐慌の時です。このとき朝鮮半島に駐留する軍隊の 一部にせよ、撤退すれば、日本国内における食糧不足となるため、撤退した軍隊は解散をざるをえません。 従って選択肢は満州侵略しかなかったのです。 日本の陸軍は随分大きくなりますが、その食料はすべて外国で略奪した食料によって賄われているのです。 そして、この軍隊は絶対に日本に撤退させることはできないのです。撤退すれば日本国内で食糧不足となるからです。 つまり、当時の日本は現在の北朝鮮とおなじように極端に食糧不足なのですが、 他国の食料を強奪することによって、それが顕在化しなかっただけのことなのです。 日本の敗戦と同時に、アジア各国にいた日本軍は日本に戻らざるを得なくなりますが、 彼らはすぐにも自分たちの食料をまかなうために農業に復帰したのです。こうしなければならないのです。 従って戦前の日本は国内における極端な食料不足をアジア各国に押し付けることによって生計をたてていたのです。 そしてこれによる被害者が膨大な数になったのです。 (2011 年 9 月)

このような状況を前提にすれば、 米国が第二次大戦末期に日本に核爆弾を投下したことは当然正当化してしかるべきだと思います。 もしも、核爆弾を投下しなければ、犠牲者は中国、インドネシア、 インドシナで増え続けたことでしょうから、 この状況では核爆弾を投下しないことは人間性に対しての背信行為に他ならないと思われます。

追加:原爆投下が是非とも必要であったこと

第二次大戦末期に日本に原爆を投下したのは日本による「本土決戦」を阻止するためでした。 これは子供の頃色々と聞かされていたのですが、最近では新聞記者の方で事情を知っていない人 が多く、何もかもが風化されて、原爆投下が間違いであったかの記事しかなくなりつつあるようです。 本土決戦がどのようなものであったのかは

松代大本営跡

を読めば事情が理解できます。 沖縄陥落の後、日本は大本営を松本に移転して、本土決戦をすることが現実的なものとなっていたのです。 新聞も NHK も徹底抗戦論、本土玉砕論の一色、あるいはむしろ扇動していたと思います。

少し話を脱線します。核兵器には大陸間弾道弾のような戦略核兵器がありますが、 これとは別に戦術核兵器があります。 日本に投下されたのは戦術核兵器です。戦略核兵器は実際に使用することがほとんどなく、 核軍縮のようなことで問題とされたのは最近に至るまでもっぱら戦略核兵器の方でした。

戦術核兵器の方はこれとは別に、米国とロシアが常に温存していました。 これは当初はほとんど問題にもされず、核軍縮の対象になっていませんでした。 そのうち大抵の核兵器は通常兵器で代替が可能となって行きますが、 一部の戦術核兵器には極めて重大な用途がありました。 それが明らかになったのは、 同時テロ以後、ビン・ラーデンが潜んでいると思われるアフガニスタンの洞窟の破壊のために 特殊な爆弾 -- 岩盤貫通用の爆弾 -- が使用された時点です。 英字紙では デイジーカッターと称していたと思うのですが、 日本語のウィキペディアには少し違うことが書いているので、英字紙の記者が間違えたのかもしれません。 呼び名はどうであれ、岩盤貫通用の爆弾は以前は核爆弾でないと無理でアフガニスタンの 戦争の頃にようやく通常爆弾で可能となったのだと思います。これは英字紙に書いてありました。

米国もロシアも戦術核兵器を温存していたのは、 核爆弾に岩盤貫通能力があるからなのです。 これがないと、地下深くに設営された防空壕を破壊できないからなのです。 広島、長崎に核爆弾が投下されたのは、この時点で米国が岩盤貫通用の爆弾を 手に入れたことを誇示するためだったのです。 (単に殺傷能力だけを問題とすれば、焼夷弾を多量に使う方が効果があり、核爆弾は無用の長物です。) 広島、長崎のどちらでもはるか上空で爆発させていますから、 随分広範囲に被害が広がりましたが、地表に近い所で爆発させれば、 地上に大穴があいたはずなのです。 素人から見た場合には単に新型爆弾ですが、 軍人から見れが、これで松本大本営の意味が完全になくなったのです。 これにより、日本には「本土決戦」のオプションがなくなり、 無条件降伏に追い込まれたのです。 大本営にしてみれば平民がどれほど殺されようと問題ではなかったはずですが、 大本営や皇居の安全な避難場所がなくなったのです。 人々の苦しみを救うために無条件降伏をしたのではありません。 支配者の安全な避難場所がなくなったためです。 昭和天皇が 玉音放送で述べていることは口から出まかせなのです。 単に核爆弾のせいで松本大本営が意味を失ったため白旗を掲げただけなのです。

核爆弾の目的は最初から岩盤貫通能力にあったのかもしれません。 日本が地下要塞にたてこもることは目に見えていたので、 核爆弾の製造はどうあっても必要で、 しかもその能力を大本営に誇示する必要があったのでしょう。 もしも、核爆弾の製造が遅れ、松本大本営が機能を開始していたのであれば、 最初に投下されたのは松本大本営であったはずです。

こうした状況はある程度知らされていたのですが、 私も少しずつ忘れかけているようです。「本土決戦」ともなれば日本人の全人口の 半分以上は死んでも不思議ではないので、いずれかの時点で核爆弾を投下すべきであったと思います。 どれだけ多くの平民が殺されようと一顧だにしないような大本営や天皇に、安全な避難場所が なくなったことを示すことによって始めて無条件降伏を引きだすことができたのだと思います。 一方、中国や東南アジアでのむごい状況を考えれば直ちに核爆弾を投下すべきでした。 多くの人命を守るためにはこれ以外に選択肢はなかったのです。 又一方で日本の報道という報道が 戦争を扇動していたのですから (これはまともな報道とは到底言えない)、 これしかないじゃないですか。 むしろ、原爆の投下により、日本人は新聞や NHK の魔力から一時的にせよ、解放されたのではないでしょうか ?

また日本が戦争に突入したのが麻薬の利益のためだけですから、 当時の日本は、どのような観点からもまともな国家とみなすことはできません。 しかもこのような国の理由により、犠牲者が膨大に増え続けていたとすれば、どうすればよいでしょうか ? 現代でもかっての日本ほどひどい国はない。

なお戦術核の核軍縮は進んではいません。 岩盤貫通能力を備えた通常爆弾は米国だけが開発しただけで、 ロシアはまだ持っていないためです。ロシアはまだ核爆弾の持つ岩盤貫通能力に固執しているのです。 これが明らかとなったのはオバマ大統領が核軍縮に戦術核を含めようとして、 ロシアに蹴られたせいです。 最近の日本語の新聞記事でこのことを少しだけ触れていましたが、 英字紙ではもう少し大きく取り上げていました。

例年 8 月になると広島の原爆のことが新聞記事となり、ふとまた思い出したので付け加えました。 (2013 年 8 月)

追加:マンハッタンプロジェクト

どのようにして、米国は核爆弾を開発することになったのでしょうか ? 核爆弾の研究を手がけたのは、ドイツが一番最初で、 対抗上、英国も研究を手がけます。 米国も一応研究には着手しますが、あまり熱意を入れていませんでした。 これが変化したのは真珠湾攻撃 (1941 年 12 月) によっています。 核爆弾の開発として知られるマンハッタンプロジェクトは 1942 年 - 1946 年の間続きました。

もしも米国が戦争に参加すれば、太平洋戦線とヨーロッパ戦線のどちらにも参加しなければならなくなります。 これには膨大な戦費が必要となります。 日本は中国と太平洋戦線の 2 つの戦線を戦わなければなりませんが、 中国における戦争は現地調達という名の略奪ですから、 予算的な負担はほとんどありません。 太平洋戦線における戦費のみが問題となります。 日本政府はこれを十分に承知して真珠湾攻撃を敢行したのです。

昔、真珠湾攻撃をしたときに、直前に米国に対して「宣戦布告をした」と教わりましたが、 最近これが嘘であることに気が付きました。 電信が米国の日本大使館に送信されたのは真珠湾攻撃の直前かもしれませんが、 暗号化されているので解読することに時間がかかり、 実際に米国政府に手渡されたのは真珠湾攻撃が開始された後でした。 解読に時間がかかることはあらかじめすぐわかることで、 米国から日本への電信文の処理に関しても同様であったはずですから、 この時間差は意図したものと考えて差し支えがありません。 だから、真珠湾攻撃は意図的に「宣戦布告」をせずに実施したのです。


追加
1. 「宣戦布告」の電信文が米軍により傍受されていても、解読するにはやはり時間がかかるため、 真珠湾攻撃を事前に察知することはいずれにせよ不可能であったことでしょう。
2. 日本が米国を攻撃したのは経済制裁により、原油を手に入れることができなくなったからで、 これは日本による中国侵略が原因でした。 中国侵略の基本的な目的は「ヤクの利益」ですから、 アヘン帝国日本は「ヤクの利益堅持」のために米国を攻撃したことになり、 「ヤクの儲け」こそが「国益」だったのです。 「ヤクの儲け」こそが日本の経済をささえていたからです。

事実がどうであるにせよ、日本政府が真珠湾攻撃よりも前に宣戦布告をしていると 言い張れば、これは水掛け論になります。 いずれにせよ、これで米国は太平洋戦線とヨーロッパ戦線の両方で戦うことを 余儀なくされ、それまでは反戦一方の議会の全面的な協力が得られることになりました。 しかし米国にとって、これは非常に不利な戦いでした。 最も問題となるのが戦費です。 2 箇所で戦争をするのですから、通常の 2 倍必要となります。 そのため、なるべく早く戦争を終結しないといけなくなります。 だから、新型爆弾の製造計画を本格化したのです。 核爆弾が作られる原因を作ったのが日本の卑劣な真珠湾攻撃なのです。 極めて卑劣ですから、誰もが必死になったのでしょう。わずか数年にして核爆弾ができてしまいました。

基本的には戦費は国債でまかなうことになります。 次の表が、1931 年から 1946 年までの米国政府の 収入と支出です。単位は 10 億ドルです。 (この表は Series E bond - Wikipedia に掲載されているものです。)




収入

支出

赤字

累積赤字

1939 6.6 9.4 2.9 48.2
1940 6.9 9.6 2.7 50.7
1941 9.2 14.0 4.8 57.5
1942 15.1 34.5 19.4 79.2
1943 25.1 78.9 53.8 142.6
1944 47.8 94.0 46.2 204.1
1945 50.2 95.2 45.0 260.1
1946 43.5 61.7 18.2 271.0

マンハッタンプロジェクトに必要であった予算は、当時の価格で 20 億ドル (今日の貨幣価値では 220 億ドル) であったそうです。 だから、1946 年の累積赤字の 1 割弱です。 1946 年の累積赤字は現在の貨幣価値では 11 倍すればよいようですから、 現在の貨幣価値ではほぼ 3000 億ドルとなり、 1 ドル 100 円とすれば日本円にして 30 兆円になります。 2006 年における日本の国債発行残高 671 兆円で、 そのときの日本の税収入は約 50 兆円だそうです (この内容は 日本国債 - Wikipedia による) 。 現在の日本政府の赤字の方がよりけたたましいのですが、 税収との比率を考えると当時の米国の比率の方が分が悪いです。

国債の信用不安が起きるとどうなるか、ということは最近のギリシャの報道 (2010 年) で知ることになりました。 だから、当時の米国は戦費の工面でタイトロープを渡っていたことになり、 なるべく早く戦争を終結する必要があった。 しかし、これは別に米国だけの事情でもなく東南アジアの国々にしても同様であったのです。 もしも、核爆弾を投下しなければ、戦争はずっと長期にわたったことは火を見るよりも明らかです。 米国にとっても都合が悪いし、他の国々にとっても事情は同様であったと考えるべきです。

核兵器の根絶という話もありますが、ある意味で楽観できる面があります。 核兵器を保持し続けると困る点は、何十年かに一度、必ず更新しなければなりません。 新規に作るよりも廃棄が問題となります。 だから余剰の核兵器はそのうちなくなります。 しかし、北朝鮮のように新規に核兵器を持つようなこともありますから、 恐らく完全な根絶は難しいと思います。

核兵器は何十年かに一度廃棄処分にしないといけなく、 必要経費の負担が膨大となりますが、これは毒ガスについても あてはまります。第二次大戦中に日本が中国で製造した毒ガスを 現在、日本が処理しなければならない羽目になっています。 中国における毒ガスは実地に、こっそりと使用したと考える方が自然ですから、 日本は第二次大戦中における非人道的な武器の使用に関して他国を攻める立場にはない。 もっとも、より多くの人を救うと言う点からは、 第二次大戦における米国の核爆弾の投下は人道的観点も持ち合わせている。

もう一点付け加えるべきです。 当時の日本の報道は 「100 人切り」を英雄扱いしていました。 日本人はこれに拍手喝さいしていたのです。 報道にあおられていた、あるいは洗脳されていたとは言え、 このような行為を英雄とみなす人たちは非あらずとは言えないと思います。 少なくとも、まったくの無実とは言えない。 しかし、このような状況にせよ、あくまでも原爆投下の責任を更に追及するのであれば、 罪を問うべきなのは当時の報道 (朝日、毎日、読売、NHK) に他なりません。米国大統領ではありません。 報道こそが、戦争をあおり、世論を誘導したのですから。


追加
この一連のページは 2010 年より前に書いて放置しており、 「マンハッタンプロジェクト」と「「第二次世界大戦における死亡者数」は 2010 年の 8 月に 付け加えています。この理由は 2010 年の 8 月に読売新聞が
第二次大戦で米国が核爆弾を日本に投下したのは間違いで、 オバマ大統領は日本に謝罪すべきではないか
との記事があったためです。戦争を扇動し続けたのが報道 (朝日、読売、毎日、NHK (東京放送局)) であったことは 明白なため、これが筋違いであること書きたかったらです。 その後 3013 年の 8 月にまた新聞記事の理由から「原爆投下が是非とも必要であったこと」 を挿入しました。読めばわかるように原爆投下がなければ、報道 (朝日、読売、毎日、NHK (東京放送局)) の理由から、 戦争が継続されたはずで、その結果、人口は半減し、復興があり得なかったことが明白です。 (2013 年 8 月)
日本の報道は事あるごとに「東京空襲」のことをさも多大な被害が出た事件であるとしていますが、 「東京空襲」の犠牲者の数は中国、東南アジアの犠牲者の数と比べると、取るに足らないという事実を 日本の報道は何も述べていはいない。つまり現在でも洗脳報道は継続しているのです。

追加:原爆のみが残酷であるか

2013 年 8 月に久しぶりにページに追加しましたが、 読売新聞に「広島平和記念資料館」の話が載っていたので、 もう少し追加しておきます。

一般に戦場の光景の描写はとても気持ち悪いもので、 日本の新聞には詳細な描写がありません。 日本人の記者は安全な場所で記事を書いているからかもしれません。 一般に、英字紙には凄惨な描写があります。 大量虐殺のような場合に現場に居合わせなくても、 目撃者がいれば、目撃者によるむごたらしい証言が掲載されることが多いです。

例えば「南京大虐殺の犠牲者数が 30 万人と考えてよい根拠」の中で、 「重機関銃があれば大量虐殺が可能であること」を書きますが、 これは英字紙で読んだ記憶があったからです。 重機関銃による銃創は、被弾箇所が手足以外の場所であれば、 止血の方法がありません。これも実際見たことがあればとてもむごいことがわかり、 正視できるものではないようです。(日常的にこのような光景を目にすれば戦闘から解除されても 正常な心理状態にもどらないことが多々あるようです。) 手足のみ被弾した場合には軍医がいれば命を取りとめる可能性があります。 これもこのようなシーンを目撃すればもう少しリアルに表現できるはずですが、 あらすじだけ述べることにします。 まず、丸く結んだタオル (もしくはロープ) のようなものが必要です。 あまり大きい輪ではなく、腕ないしは足が入り、ある程度ゆとりがあるようにします。 これを被弾箇所から心臓に近い部分に挿入し、今度は太い棒をタオルに通して、 テコの原理で締め上げます。十分に締めあげられるように輪は少し大きめでないといけません。 ここまですれば一応止血が完了します。この作業は秒単位で実行する必要があります。 そうでないと出血多量で死に至るためです。 しかし、まだこれでも不十分なのです。血が通わなくなった場所は すぐにも壊死が始まるからです。だから血が通わなくなった場所はノコギリで切断する必要があります。 骨を切断する必要があるので、このノコギリは軍医の必需品です。 モルヒネで麻痺させてから、骨を切断するのですが、 このシーンもリアルな描写があるととても気持ち悪くなります。 切断を終えれば始めて「治療」が完了で、運が良ければ一命を取りとめます。 これが野戦病院で行われることです。 私はこの光景を自分の目で見たわけではありません。 実際にこれを目撃した人であれば、この凄惨な状況を実にリアルに表現してくれます。

以上は重機関銃による銃創から運よく救われる話です。 重機関銃による大量虐殺の場合の話ではありません。 太平洋戦争の渦中で凄惨な光景が繰り広げられたのは、 日本よりもむしろ中国、東南アジアにおいてなのです。 原爆のみが残酷なわけではない。

日本語版の Wikipedia の項目

南京大虐殺紀念館

でははっきり述べていませんが、 展示品の中には 犠牲者が埋められていた土地をそのまま切り出して、断面を見せているものがあり、 ここにおびただしいばかりの石化した骨が見えます。。 以前に、IHT (= International Herald Tribune) に写真が掲載されていたのでよく覚えています。 白黒の写真でしかなかったのですが、慄然としたことを覚えています。このような骨の山は掘ればいくらでもでてくるそうです。

追加:南京大虐殺の犠牲者数が 30 万人と考えてよい根拠

1週間ほど前に、河村名古屋市長の発言があり、更には石原東京都知事の発言があり、 どれも南京大虐殺がなかったものとしていました。 更には今日 (2012 年 3 月 1 日)、毎日新聞 (インターネット版) がアホな記事を載せていました。 このページは 2010 年頃に追加するのをやめていたのですが、もう一度追加することにします。

犠牲者の数が何故 30 万人前後で、それを下回ることがないであろうという点は、 事実を列挙して議論することは徒労となります。 反論する人は事実を認めないためです。ここではそのようなことを使用せずに 単に次の点から議論します。
1. 日本軍は北京から南京まで進撃するが、食糧を持参していなかった。
2. 南京には城壁があり、その中には常時二十数万人の人が生活しており、 これが食料を確保できる上限の数である。

日本軍が北京から南京まで進撃する時、真っ先に何が起きるか ? 世界の紛争国を見ていると常識的にわかることは、これにより大量の難民が出る。 北京から南京までの距離が 1000 km 程度なので、難民の規模は数百万人程度のものとなる。(現代人の常識!) 難民はどこへ逃げるか ? 一番簡単なのは南京城に逃げ込むことです。 しかし、入りきれない。従って逃げ込めることが可能な人のみが逃げ込んだ。 逃げ込んだ人たちにしてみればこれは実に幸運なことであった。 逃げ込める可能性があるのは南京城内に親類などがいる人たちです。 これで一家族で住んでいた場所に二家族以上住むことになる。 短期間であればこれでも可能で、三十万人近くの人が逃げ込んだと考えてよい。 逃げ込める上限の数の人が逃げ込んだ。

南京城を攻め落とした日本軍は平和的に食糧確保ができなかったはずですから、何かをした。 食糧目当ての強盗殺人しかないことは目に見えています。 30 万人殺すことが不可能であるかも知れないという議論があるようで、 最初はこの議論に振り回されていましたが、そのうち簡単に殺せることに 気が付きました。小学校や中学校の校庭には千人ぐらいが集まることができます。 つまり、少し広い広場に千人ぐらいの人間を集めることは極めて容易です。 この広場は周りが壁で囲まれて逃げ道のないものでないといけません。 ここで重機関銃を掃射すれば簡単に全員を殺せます。(これは大量虐殺の普通の方法で、現在でもこの方法が使用される。) 重機関銃の弾丸は口径が大きいので簡単に人間の体を貫通し、人が密集していれば、 1 発で数十名は簡単に殺せるはずです。口径が大きな弾丸が人間の体を貫通すると、 弾丸が入る場所と出る場所が爆発したような具合になり、体組織がぐちゃぐちゃになります。 こうなると臓器に損傷がなくても確実に出血死です。だから数分間重機関銃を掃射して、 あとほったらかしにすれば、千名程度が簡単に死に絶えます。

だから重機関銃があれば何週間もかけて、三十万人ぐらいの民間人を殺すことは造作もないことです。 どういう名目で、千名程度を広場に集めたのか ? これは決まっています。『食糧を配布するから、 家族全員で広場に集まれ』とでもすれば十分です。これによりある地区の住民を皆殺しにしてから、 無人の家の食料を強奪した。 余剰の人口がなくなるまで、これを続けた。 これをするために日本軍は犠牲者の数を一々数えたか ? そんなことをするわけがない。 暴騰していた南京城の食料の価格がもとの値段に戻るまで殺し続けた。 食料の価格は難民のせいで、高騰しきっていたはずですから、これが元の値段に戻るためには、 人口が元の人口を下回ることがないといけないし、余剰の人間に日本軍も入る。 食料の価格が下がれば、あとは住民を麻薬漬けにして、食糧確保を平和裏に行うことができ、 日本軍としては、これでハッピーエンドであった。

余剰の人口がそれほど多くなければ、別のオプションがあります。 日本軍は必要な食料を確保して、残りを配給にする。これはシンガポールで取った手段です。 シンガポールの場合は実際は、配給が非常に少なく、闇市ができたそうですが、 それでも形だけでも配給にすることができた。 南京の場合には余剰人口が多すぎ、型式的にも配給にすることができなかった。 この点から考えても、常時の人口の倍をはるかに超える人口がいた。

以上から、ほとんど予備知識なしに、あるいは物的証拠がなしでも、三十万人殺しがあったことが確実となります。 つまり陪審員による裁判では確実に司令官が有罪となる。あるいは、これは日本政府の了解事項であったはずですから、 これだけでも、天皇は死刑に値する。

東京裁判のことはよく引き合いに出されていますが、 この裁判は戦争犯罪を裁く法廷としては随分寛容に処理され、 しかも非常に速く結果を出してしまっています。 これは、ソビエトの理由からです。 (ソビエト以外の) 連合国は『毒 (戦争犯罪者) を以て毒 (ソビエト) を制した』のです。

明治維新の時に日本は英国やフランスの援助を受けています (軍事教練など)。 これはロシアの南下を阻止することが目的で、 第二次大戦後もそのような立場に変化がなかったことになり、 日本における戦争犯罪者を完全に裁いたわけではなく、まったくその逆なのです。 型式的な処分があったまで....。

第二次大戦後、日本において「国旗」と「国歌」を変更する話が登場しています。 これは当然「汚れた歴史」から解放されたかったからです。(どれほど薄汚いかに関しては私もよく知ってはいませんでしたが.. ) しかし、無論反対する人の方がいたし、こちらの方が勢力があった。 理由は明白で、東京裁判が極めていい加減に、形式的に処理したたため『毒 (戦争犯罪者)』 が居残り続けたためです。もしも仮にまともな「戦争裁判」がなされていれば、 『毒 (戦争犯罪者)』を一掃できたでしょうが、連合国にとってはソビエトの『毒』の 方がもっと重要なことであった。 「戦争裁判」は通常随分長期間になるのが普通ですが、東京裁判だけはすぐに終わった。 必然的な理由があったのです。

追加:南京大虐殺の時点で南京城に余剰の人口がいたとするもう一つの根拠

南京城は密閉されていますから、新規に家屋を作ることができなかったはずです。 従って、ここで生まれた人の多くは成長した後は城の外に出なければならなかったはずです。 つまり、城外に住んでいるが、実家が南京城にある人が多かったはずです。 中国は日本と類似の生活習慣があり、盆や正月の時には実家に帰る習慣があると思います。 従って、日本軍の進撃によって、南京城に逃げ込んだのは、このような人たちがまず考えられます。 南京城には食糧の供給で上限があるはずですが、年に 2 度の短い期間であれば、 食糧不足の危険もあまりないはずです。だから南京城は盆や正月の時と同じようなことになった。 しかし短期間であれば問題がないことも長期になれば重要な問題となったはずなのです。

これを付け加える理由は南京城がそれほど簡単に出入りできたわけではないと思われるからです。 それは、南京城だけは日本軍によって陥落するまでは、麻薬中毒がいなかったからです。 従って、麻薬の売人は南京城に自由に出入りできなかった。だから、特別な人のみが出入りを許されていた。 人が大勢ここに集まる典型的な実例が盆と正月のはずで、 この時には例えば南京で生まれたことがわかれば入城を許可されるというようなことがない限り、 古い習慣との両立があり得ないためです。 盆と正月の時には家族がどれだけ増えていたのか想像ができませんか ? この点からも南京城が陥落した時に、城内には通常の人口の倍以上がいたと、 自然に断言できないでしょうか ?

今日、虐殺があった場合に犠牲者を数えることができるのはまれだと思われます。 このような場合には統計学を使用するのが普通です。サンプルから全量を推測するわけですが、 これは非常に正確で、現代の我々の生活では至る所で活躍しています。 虐殺の犠牲者の数とは違いますが、選挙速報では誰も疑問に思っていないはずです。 当選確実となれば、間違いはありません。しかし、南京城の場合には出入り口には検問があったことが 確実で、実際の人口を把握していた可能性の方が大きいです。 だからいずれにしたって、殺害された犠牲者の数は容易に決定できるはずです。 この数値を決定することは不可能であると主張する歴史学者は統計学も否定していることになります。

追加:南京城における食料補給に関して上限があることの根拠

南京城の食料は最初は荷車のようなもので城内に持ち込んでいたと考えたのですが、 これは水運によっていることに気が付きました。港があるからです。 しかし、これは十分ではなかった。燃料が枯渇していますから、エンジン付きの船は使用できません。 従って、帆船によって城内の補給をまかなった。南京城が建設された時は帆船による補給を前提にして 都市設計がされているはずです。 エンジン付きの船舶を使用すれば、かなり補給が増大することが確実ですが、 帆船しか使用できない以上、南京城がデザインされた時以上の補給能力がない。 従ってデザイン時における人口よりも多くの人口を長期間維持することは不可能なはずです。 もしも仮に、東京の食料の補給を帆船で賄わなければならなくなれば、東京の人口は江戸の人口まで 激減せざるを得ません。

食糧以前に燃料が枯渇していたことの根拠には戦車が登場しないことがあります。 北京から南京までの距離が 1000km 程度で、もしも戦車が使用できたのであれば、 進撃はずっと速かったはずです。日本軍の戦車は対人兵器でしかありませんが、 戦車を使用できたのであれば、北京から南京までの進撃に数ヵ月もかかるはずがない。 当然、中華民国政府も戦車を保有していたと考えるべきで、 こちらも戦車を使用してはいない。だから日本に対しての欧米による原油の輸出制限が実施される以前から、 中国においては燃料が枯渇していた。 従って、日本に対しての原油の全面的な輸出制限が実施されるはるかに以前から、 部分的な輸出制限が存在していたのに相違ないのです。 これはイランからの原油の輸入制限と同じようなものです。

追加:中国や東南アジアにおける犠牲者はどのようにして死亡したか ?

第二次世界大戦における民間人の死亡者数は「追加:第二次世界大戦における死亡者数」から 随分多いことがわかり、最初はどのようにして死亡したのか原因がわかりませんでした。 グラフの 1 目盛りが 200 万人ですから、中国では 1600 万人の民間人の犠牲者があり、 インドネシアでは 400 万人の民間人の犠牲者があります。 日本が第二次世界大戦に参戦するのが 1941 年 12 月の真珠湾攻撃ですが、 日中戦争は 1937 年の 12 月から開始しています。日本が無条件降伏をするのが 1945 年ですから、 日本において、日中戦争は太平洋戦争のおよそ 2 倍の期間があり、これから判断をすると、 日中戦争における犠牲者数は太平洋戦争における犠牲者の 2 倍と考えて差し支えないはずです。 つまり日中戦争における中国の民間人の犠牲者は 3200 万人程度と考えてよいはずです。 このような大量の犠牲者はどのようにして生じたのでしょうか ?

日中戦争だけのことを問題にすると原因が分からなくなりますが、 もう少し一般的に考えればこれは明らかです。現代では世界で紛争が勃発した時、 国連では戦争自身のことよりも 難民のことが問題とされます。犠牲が起きるのは難民たちが餓死することによっているからです。 従って、国連による食糧援助がすぐにも開始され、 膨大なロジスティクスが起動を開始します。 10 万人の水と食料の補給は震災の場合に登場しますが、 これだけでも信じられないような努力が必要です。 しかし難民の場合には数百万人規模となり、水と食龍の補給には 気が遠くなるくらいの巨大なロジスティクス・マシンが必要となります。 これは常識で誰もが知っていることです。 この常識を日中戦争に当てはめれば、おのずと事態が明らかとなります。

日本軍が北京から南京までの 1000 km を進撃する際には、 数百万人ぐらいの難民が生じたことは間違いない。 これは現代の常識です。 ましてや、食糧を全く保持していない日本軍は、 食糧目当ての強盗殺人しかしないでしょうから、 人々が着の身着のままで逃亡したはずです。 この難民はどうなるでしょうか ? 助けたくてもどうにもなりません。 規模が大きすぎるからです。従って、大半が餓死をした。 国際的支援がなければ、必ずこのようになる。これも現代の常識です。 南京大虐殺だけのことを問題とする傾向しかありませんが、 北京から南京までの進撃により、難民が生じ、この大半が犠牲となったのであれば、 犠牲者の数は数百万人となります。

紛争による犠牲者の内訳でもっとも多いのが難民が餓死することによっていることと、 そして太平洋戦争が始まる前で、もっとも戦闘が激しかったのが、 北京から南京への進撃であることを考えれば、 この時点で大量の難民が生じ、そして大半が餓死をしたと考えるのが 現代における最も普通の考え方です。

食料を持参していない日本軍による食糧目当ての強盗殺人はおそらくほとんど目につかなかった。 街道沿いには餓死者の遺体が累々としていたでしょうから、 死体が目に入るのが普通の世界となっていたはずです。 「日本軍は勇猛果敢だよ」などという台詞は冗談にもなりゃしない。

追加:日本の国旗に関しての訂正

「アヘン帝国」において、麻薬商人 (?) たちのトレードマークを「日の丸」の旗としていましたが、 これは間違いであることに気がつきました。英語で flag of rising sun とあったので、 単に「日の丸」の旗と思ったのですが、 旭日旗の間違いでした。 朝鮮半島、中国で麻薬商人の旗として知られた (恐れられた) ものです。 「アヘン帝国」日本あるいは「暴力団帝国」日本を象徴する旗です。この旗の下に、 日本は国家として、 膨大に多くの人々を麻薬漬けにして搾り取っていったのです。

何箇所、間違えているのかわからなくなっているので、ここで訂正をしておきます。(2013 年 8 月)

2014 年 7 月に韓国の「ワン・ピース展」がマンガに登場する旭日旗の理由から中止になりました。 この背景は「アヘン帝国」を読んでいただければ理由が明白です。 アジアの人にとり旭日旗はナチ・ドイツの ハーケンクロイツと同じ意味だからです。 ハーケンクロイツはドイツは使用することが法律で禁じられているのに関わらず 同等の旭日旗は日本で堂々と使用されている。日本人は気が変じゃないかと思う。 (2014 年 7 月追加)

追加:慰安婦問題に関して

「慰安婦」に関しては、以下のページでは取り上げていません。 これは当時の日本軍内部の問題で、 英文のインターネットの資料では調べることができるはずがないためです。 1, 2 週間前に読売新聞が自宅の郵便受けに印刷物を 配布しており、そのままにしていたのですが、ふと中身を少し見てやろうかと考え、封を切ると

朝日「慰安婦」報道は何が問題なのか

という冊子が入っていました。ここには「民間業者が慰安婦を集めていた」ことが記述され、 「民間業者」が日本軍と結びついていたか否かを問題としています。 朝日新聞がどのように報道したとか、 朝日新聞が誤報であるとしたことや、読売新聞の議論などはあまり興味を 持っていないのですが、私はこの「民間業者」とは何を指しているのかが、直ちにわかってしまったので、 これに関して追加したいと思います。これは「アヘン帝国」の記述を読めば、 すぐわかる事実ですが、ずいぶん長くなってしまったので、ここで別に整理します。 説明が少し長くなりますが、我慢してください。

関東軍には軍人以外のグループが常に随行していました。 彼らは麻薬の売人達でした。 しかも関東軍と麻薬の売人達は不可分の関係でした。 関東軍の一兵卒は軍票で給料をもらっており、これで自分たちの食料などを調達したと思われます (現地調達の一つの方法、食料に関しては食料倉庫を差し押さえる手もありますが、 一兵卒が個々に軍票を使用したことは間違いありません。)。 軍票とは日本銀行が発行する日本の本物の紙幣のことですが、軍票には 「日本の紙幣と交換できない」との一文が記載されている点が違うのみです。 本物の日本の紙幣とほとんど同じですが、これで買い物をするためには、 この紙幣が価値を持っていないといけません。これを可能とするために、 関東軍に随行する麻薬の売人達は軍票以外では麻薬を購入できないようにしたのです (関東軍の命令)。 また軍票が広く流通するには、麻薬中毒が随分多くいないといけません。

関東軍はある場所に侵攻する前に、あらかじめその場所の人々を麻薬漬けにしています。 これは当然のことながら、麻薬の売人達による準備作戦です。 (南京侵攻の場合には例外的にこれができませんでした。) だから、麻薬の売人達は関東軍の次の侵攻場所をあらかじめ教えられ、 その場所の人々 (中国軍も含む) を麻薬漬けにする下工作をしているのです。 これにより中国軍を弱体化する重大な役目も担っている。 そして頃合いを見計らって (勇猛果敢な ?) 関東軍が侵攻することになり、弱体化していた 中国軍を撃破して目的としていた地域を支配下に置きますが、 この時までに住民たちには麻薬が蔓延しており、軍票が完全に使用できる状態になっています。 関東軍は軍票のみを合法的な通貨として使用する命令を与えていますが、 この命令だけでは軍票が通貨として流通することを保証するわけでなく、 軍票が価値あるものとされるためには何らかの別の条件 -- この場合には麻薬の 蔓延が必要となるのです。 (きわめて薄汚いやり方です。) 自明なことですが、麻薬の売人達は関東軍のために敵地の偵察もしているはずで、 彼らは関東軍と一心同体なのです。 また関東軍も麻薬の売人も共に麻薬の利潤を追求する点ではお仲間で、 この点からも 2 者は一心同体なのです。 しかし麻薬で商売をするような人たちは暴力団 (あるいは犯罪者集団) と呼ぶべきで、 犯罪者組織が関東軍と協調行動をとっているのです。


注意
1. アヘンのみでは簡単に麻薬中毒にできません。少し時間がかかります。しかし ヘロインを浸み込ませたタバコ ( ゴールデンバット) を吸わせればすぐにも麻薬中毒になるようです。 これは関東軍が採用した手段ですが、軍人は直接これに関与せずに、 関東軍の指示のもとに麻薬の売人達がこれをしたと思われます。
2. 通常、軍隊には補給部隊があり、これは戦闘部隊と同じ、もしくはそれ以上の規模になります。 中国における日本軍には補給部隊がなく、その代替に「麻薬の売人」が麻薬を売っていたのです。 これにより「麻薬の売人」達は補給部隊の役目を担い、 また敵地も偵察しと思われますから、偵察部隊の役割を果たしていたわけです。 補給部隊の仕事にせよ、偵察部隊の仕事にせよ、これらはれっきとした軍務です。 従って、彼らを「民間人」と呼ぶのは正確ではありません。
3. 関東軍による侵攻の多くが偶発的に勃発したこととされていますが、これは嘘です。 その理由は関東軍の戦闘方法にあります。関東軍にとって侵攻するまえに目的とした場所で麻薬を蔓延させるという 下工作が必要だからです。もっとも実際にこの任務を遂行したのは麻薬の売人達です。 地域住民あるいは中国兵に麻薬を蔓延させるには かなりの時間が必要で、しかもこの準備作戦なくしては関東軍が侵攻することはありえないためです。 従って、関東軍の侵攻の前に必ず準備期間が必要となるため偶発的に戦闘が勃発することはありえないのです。 恐らく、南京侵攻はただ一つの例外と思われます。この時には大量虐殺により、 余剰人口を減らし、制圧後に (職場を通じて) 地域住民の働き手をほとんどすべて麻薬中毒にした。

ではなぜ麻薬の売人達は関東軍の言うことを聞いていたのでしょうか ? 無制限に大量の麻薬を手に入れることができたのは関東軍だけだからです。 彼らにとり関東軍は金のなる木だったのです。また逆に関東軍にとっても 麻薬の売人は金のなる木だったのです。

以上のように関東軍に随行する麻薬の売人達と関東軍は不可分の関係を持っており、 麻薬の売人達は直接軍事行動に関与していませんが、軍事行動にかかわる重要な 作戦を担っており、彼らなくしては関東軍は存在することができなかったのです。 そのため、麻薬の売人達には関東軍の護衛が常についており、 やりたい放題のことができたのです。 但し、敵陣に侵入して麻薬を販売する場合には単独行動をとったと思われます。


注意
1. 関東軍が麻薬の売人と共同行動することは、 当然のことながら、東京政府の了解があったはずで、 むしろ命令といった方が正しいと思われます。 現地調達を可能とするためには、あるいは軍票に価値を与えるためには麻薬の売人との共同行動が 必要となるからです。このような現地調達の方法に始めて東京政府が気が付いたのは 日清戦争のときで、以後、延々と第二次大戦で敗北するまで東京政府が採用し続けた 腐りきった政策なのです。
2. 麻薬の売人達が関東軍の威光を借りて、やりたい放題のことをしたことは 英文のページに記載がありましたが具体的なことに関しては記憶がありません。 しかしこれが明らかになることになりました。 慰安婦の徴集がこれに該当するようです。

さて慰安婦を集めていた民間業者とは、どのような人たちのことであるか、 この段階で自明なことになります。「民間業者」とは関東軍に随行する麻薬の売人達で、 彼らはまともな人たちではなく、暴力団 (あるいは犯罪者集団) であることが自明で、彼らこそが慰安婦を連れまわしていたのです。 唯の民間業者が戦地を護衛なしに行動することは自殺行為ですが、 麻薬の売人達には常に関東軍の護衛が付いており、戦地であれ、あるいは関東軍の支配地であれ自由に行動がとれたのです。 彼らは地域住民にはひどく恨まれていたでしょうから、関東軍の護衛なしでは 関東軍の支配地域でも満足に自由行動をとれなかった可能性もあります。 いずれにせよ彼らは関東軍と一心同体であることにより、多くの権限を手に入れているのですから 「民間業者」が独自に慰安婦を集めたか否かを問題にすることは基本的に無意味です。 混乱に輪をかけているのは暴力団 (あるいは犯罪者集団) を「民間業者」と呼んでいることにあります。 当時の中国の法律でも麻薬は犯罪です。(勇猛果敢な ?) 日本軍が無法状態を作り出して、 麻薬を蔓延させただけなのです。 そして、その過程で日本軍が犯罪者集団と手を組んだのです。 これは当然、東京政府の了解事項と考えるべきです。読売新聞の冊子は さらにアホなことを書いているようです。

傷ついた日本国首相の威厳

との表題の説があります。 これを問題とすること自身が日本の歴史をわかっていない。 第二次大戦の時の日本の首相は東条英機で、彼こそが日本の 麻薬政策を最終的に更に強化しようとした人です。 つまり日本の歴史では総理大臣こそがかって実施された麻薬政策の立案者で、 その実行者であったと考えてよいのです。あまりに馬鹿げているので読売新聞の冊子には 目を通すことができなくなりました。 (2014 年 10 月)

追加:慰安婦問題に関して、その 2

繰り返しになるかもしれませんが、もう少し続けることにします。

関東軍は (軍事的にも) 麻薬の売人達と不可分な関係にあるのですが、 読売新聞の冊子によれば、麻薬の売人達は民間人として扱われていることが わかります。 このようになっているのは軍隊が直接麻薬を扱うことを避け、 民間人が勝手に麻薬を売っているという形式を取りたかったからだと思われます。 しかし、現実的には麻薬の卸の元締めには日本政府の意向を代表する人がおり、 これにより麻薬の売人達を統率するピラミッド構造があったというべきです。 (つまり日本国政府が主導する広域暴力団めいた組織があり、 関東軍の各部隊に付随する麻薬の売人達は広域暴力団の 下部組織の構造をとっていたはずです。) そして、満州およびそこから派生する戦線の麻薬の卸の総元締めには「岸信介」のような人がいた。 従って、慰安婦問題は岸信介のような人の制御下にあったと考えるのは 妥当なことであり、岸信介がニキサンスケの中のマーチャント (商人、merchant) と呼ばれた人 (麻薬関連の実務担当) であったことからも自明なことになります。 麻薬の売人達は暴力団がするような、あくどい仕事は何でも手を出していたと考えた方がよく、 慰安婦問題が出てきたのは、これだけにまとまって生き証人がいるからではないかと思う。 例えば人身売買のようなことがあっても不思議ではなく、 問題とされたことがないのは単に証人がいないからだけだとしても不思議ではない。 麻薬の売人達は極悪非道な人間たちで関東軍とその点で同列であった。

時代により、あるいは場所により、岸信介のような立場をとった人は、 他にもいると思われます。(麻薬の売人達を統制下に置くには 彼らに回す麻薬の量で簡単に操作できる。言うことを聞かなければ 彼らに回す麻薬を減らせばよい。こうすると麻薬の売人が付随する戦闘部隊も 打撃を蒙るため、部隊の司令官も要求に応じるはずです。) いずれにせよ麻薬の売人達の行動を制御できた人は 岸信介のような人しかなく、このような人の行動には日本国政府の意向が強く 反映されたのに相違ないのです。 従って、慰安婦問題も日本国政府の掌握下にあったと言ってよいと思われます。 しかしこれを野放しにした。麻薬の儲けの方が優先度が高かったからでしょう。 当然のことながら、これは民間の問題ではなく、関東軍、ひいては日本国政府の 問題であったはずです。

しかし、このように考えると少し別の観点があることがわかります。 話が飛躍するように思えるかもしれませんが、1980 年代以前には 議員 (とりわけ国会議員) は暴力団組長との密接な関連を誇示し、 これにより政治家としての本分を全うしているかのような発言が報道されていたと思います。 ある国会議員は「普通の人など人間的に信頼できるわけでなく、 暴力団組長こそが人間的に信頼できるのだよ」とも言っていたと思います。 このような歴史的事実は関東軍と暴力団との密接な関連を強く示唆するものです。 世襲の国会議員はずいぶん多くいますが、数世代前には暴力団と密接に結びついていたのです。 国会議員が靖国神社に参拝するのであれば、彼らは我々に暴力団に敬意を払うべきである と主張するようなものです。

暴力団撲滅運動は古くから日本にありますが、いつごろこれが現在のような形態を とることになったのでしょうか ? 欧米人が金銭問題の決着をつけるために随分と裁判をしていましたが、 1970 年代の日本の報道 (全国紙) はこれを随分と否定的に報道していました。 報道によれば、暴力団こそが金銭問題の決着に有益であり、 欧米人は何もわかっていないとしていました。

しかし流れが変わります。1980 年代に野村証券がロンドン支店を開設し、 半年ぐらいはまともな状況にあったようですが、 直後に英国の著名な新聞 (ガーディアンと思うがはっきり記憶にない。) が、 第 1 面のすべてを割いて野村証券が暴力団と密接な関連を持っていることを 報道しました。 この事実は英字紙 (多分 Japan Times) に大々的に報道され、 私はショックになりました。 邦字紙でも報道されていましたが、扱いはきわめて小さく、 しかも冷やかなもので、金融機関が暴力団と接点を持たずに金銭問題を 解決できるわけでがないではないかとの考えがにじみ出ているようでした。 しかし、この報道後に野村証券のロンドン支店には一切客がこなくなり、 ロンドン支店が東京本社に泣きついたそうです。 これで、野村証券が暴力団との関連を断絶せざるを得なくなったとのことです。 これは日本の報道にとっては予想外のことではなかったかと思われますが、 これを機に日本の企業と暴力団の関連が徐々に薄まっていく機運が 生じたのだと思います。 つまり日本における暴力団撲滅運動を開始したのは -- あるいはこれを可能としたのは -- 日本人によるものではなく、いわゆる外圧であったのです。 このような事実も関東軍と暴力団との深いつながりを示唆するものです。

もう一つ付け加えましょう。1960 年代ごろの邦画では (私は見たことがありませんが) 常に暴力団 (当時はヤクザと呼んだ) は正義であり、警察は悪であったようです。 芸人たち (主に歌手) は暴力団組長を「親分さん」と呼び、 『地方公演が成功したのは「親分さん」のおかげ』と発言していることが報道されていました。 彼らは暴力団組織を全面的に肯定していたのです。 また歌 (演歌 ?) などでも暴力団礼賛の歌が随分多かったと思います。 この当時、もてはやされた人でいまだにコンサートを開いている人もいるようです (北島三郎)。

以上を集約すると昔の日本人は暴力団を正義と受け止めているのです。 この代表例が「清水の次郎長」です。彼が正義の人と呼ばれたのは 明治維新の時に日本国政府に貢献したからのようです。 この点から、明治政府は暴力団を重要視していたと判断できます。 これが関東軍と結びつく麻薬の売人につながっていくような気がします。 (軍に専従する麻薬の売人は日清戦争や日露戦争の時から存在していると思われます。 これが明治維新以来の富国強兵なのです。) 古い世代の日本人は暴力による統制を是とし、これを正義と呼んでいたのです。(2014 年 10 月)





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3. 野口英世

これも、かなり前にさかのぼります。しかし 21 世紀にはなっていたと思います。 ほぼすべてが AP の記事で、色々報道された内容を思い出すことから順に書き下したものです。 英字紙の報道は最近では、インターネットの検索で傍証を得ることができますが、 これに関しては無理でした (私の検索の仕方が下手なのかもしれません)。しかし、AP の記事は随分と色々と数多くあったので、 一応信じることができると考えています。

なお日本ではこのようなことは報道されることはないと思います。 報道が積極的に嘘をついているというようりは、むしろ消極的な嘘をついているというべきです。 日本の報道はこれで「国民の知る権利」を守っていると称しているようです。

医療による黄熱病の根絶 --- これが詐偽

英字紙に載った AP の記事は次のようなものです。 WHO (= World Health Organization, 国連世界保健機関) の通達から始まっています。

「医療による黄熱病の根絶」を目的とした医師の集団が 資金の供給を製薬会社、医療機関などに依頼しているが、これは 詐欺であるから協力しないようにと、WHO が世界中の関連する民間企業、公的機関、国 に文書で通達したそうです。

何ゆえ詐偽であるのか、ということを先に説明する必要があります。 昔、第二次大戦前に「医療による黄熱病の根絶」を目指した医者の集団がアフリカにいました。 当時はアフリカはヨーロッパの植民地でこそありましたが、 今日のような内乱につぐ内乱ということはありませんでした。 植民地ではありましたが、徐々にアフリカの人たちの生活レベルが向上していったようです。 ともかくも、「医療による黄熱病の根絶」を目指した医者たちの 活躍が功を奏したかのように徐々にアフリカで黄熱病の発生が少なくなっていきました。 これはとてもすばらしい話で、彼らは祖国で英雄扱いされることになりました。 一人ではなく、何名もいたそうです。

しかし、事情は激変することになります。第二次大戦後、 アフリカはヨーロッパから独立しますが、すぐ間もなく、どの国も内乱状態になってしまい、 その結果、黄熱病が再び活発となり、現在では手に負えないくらいになっています。 「医療による黄熱病の根絶」はないのです。ただ蚊の発生を防止するだけでよいのです。 生活レベルが向上し、衛生的な環境になれば、蚊の発生を防ぐことができ、 「黄熱病を根絶」することが可能となるだけなのです。 少し冷静になって考えればもともと「医療による黄熱病の根絶」はまぎれもない詐偽に他なりません。

当然のことながら WHO は 「医療による黄熱病の根絶」を目指した医者たちを英雄視しないようにと、 各国政府に依頼したそうです。その結果ヨーロッパ各国はこれに応じ、 「黄熱病」がらみの英雄はヨーロッパからは姿を消しました。 WHO としては「医療による黄熱病の根絶」を 目指す医師たちは詐欺師にほかなりません。 しかし、これは偏見を持たずに考えれば当たり前のことだと思います。

では、ここで問題になります。「詐欺師」達は何を考えて、そうしようとしているのか ? アフリカに住んで何の得があるか、です。最近は日本人もよく知っていることですが、 後進国ではわずかなお金でもとても価値が高くなります。 つまり、治療行為と称して、お大尽(おだいじん)の生活を送ることができるためです。 これも AP の記事で指摘してあったことです。 アフリカのジャングルには電気もガスもありませんが、下男や下女がいれば困ることは ないはずです。

日本政府は WHO の要請には応じなかったようです。「野口英世」が 千円札になったのはこの頃だったと思います。WHO の文書は逆効果だったようで、 この頃から「野口英世」が「復権」してしまったかのようで、小学校の国語の教科書にも 登場するようになったようです。 もう少しはっきりと言ったほうがよいようです。私は WHO の通達の理由から、恣意的に 「野口英世」を千円札にしたりしたのだと思っています。

アフリカは戦争だらけになってしまっていますが、WHO は色々考えているようで、 黄熱病を防ぐための一つの方法として DDT の散布を考えているようです。 「ぼうふら」の発生を防止することが「黄熱病の根絶」のための唯一つの方法です。 DDT は強烈な消毒薬で、日本でも第二次大戦後に大量に使用されましたが、 大量に散布すると人間に危険になるようです。そのためいつの間にか欧米のみならず日本でも使用が 禁止されています。WHO が考えているのは、少量の DDT の散布のようです。 これでも効果がかなり長時間続くため、DDT の危険性と、黄熱病の危険性を はかりにかけて、どの程度であれば効果的でかつ安全であるかということが 調べられていると英字紙で報道されていました。

黄熱病は昔からアフリカで蔓延していたか ?

昔、ずっと子供のときに教師が野口英世のことに関連して「アフリカ人は頭が悪いからジャングルに住んでいるのだ」 とふざけたことを言ったのを覚えています。

誰もすき好んでジャングルに住むはずないじゃないですか。 どうしてこうなったか、これは英字紙で何度も読むことになって、覚えてしまいました。 まず、ヨーロッパ人たちの侵略で、アフリカが植民地化されます。 ヨーロッパ人たちは奥地まで侵略していません。大抵は海岸地帯、川沿いの地域に 限定されていました。 そのため、アフリカの人たちは、ヨーロッパの侵略者から逃げる為に、 暮らしやすい場所からジャングルに 移動するしかありませんでした。これが最初の悲劇です。 ジャングルに逃げ込むことによって黄熱病の危険が出てきました。 当時のアフリカには文字があったとも言われています。 その痕跡がすべて消えたのもこの頃です。


注意
1. どこで読んだのか記憶にありませんが、 戦艦による艦砲射撃が侵略の重大な手段で あったと思います。 小火器のみでは少ない兵士で広大な土地を完全に 支配下に置くことが困難であったためです。 日本の幕末の「薩摩と英国」、「長州と英国」の戦争では英国側は艦砲射撃しかしなかったことを思い出してください。
2. 植民地時代に戦艦の役割が重要であったことは、映画にも出てきます。 英字紙の記事を読んだあとで、たまたま映画を見たのですが、 この映画の中でアフリカの植民地時代の財宝を探す話が登場します。 探し当てるのは砂漠に埋もれた当時の戦艦でした。 これは植民地時代に川があったことを意味し (従って砂漠ではなかった)、 また略奪に戦艦を使用したことを意味していると思います。 英字紙の記事を読んだ後だったので、映画の背景が 史実にある程度忠実であることがわかりました。

二度目の悲劇は奴隷狩りです。主にアメリカで労働力とし奴隷を使用するようになり、 そのため、アフリカ各地で奴隷狩りが横行することになります。 奴隷商人たちは、ヨーロッパの植民者たちよりはずっと内陸まで手を伸ばして奴隷狩りを したようです。これで更にアフリカの人たちがより奥地に逃げ込むことになります。 従って、より黄熱病の危険が増えました。 黄熱病を蔓延させるきっかけを作ったのはヨーロッパ・アメリカの侵略者たちです。 その中の一部の人たちが「医療による黄熱病の撲滅」と称したことは、 暴力団による慈善事業のようなものです。

第二次大戦後はアフリカ諸国は独立こそしましたが、内乱ばかりになり悪循環の連続になりました。 その結果、アフリカの人たちは更にジャングルの奥に逃げることになしました。 これが第三の悲劇です。 これでよりいっそう黄熱病の危険が増えました。

AP の記者は「これは先進国、あるいは人類にとって非常に危険なことである」 と書いています。ジャングルの奥地に行けば行くほど、 黄熱病のみならず、まだ見ぬ未知の病原菌 があるからです。エボラなどはこの実例の一つで、 戦争の難民たちがジャングルの奥へ奥へと避難するにつれ、 非常に危険な病原菌が次から次へと発見されたようです。 ジャングルで怖いのは、猛獣がいるよりも何よりも、 未知の病原菌がいる可能性があるからです。しかも人類が一旦未知の病原菌と 接触すれば、瞬く間に世界に広がる可能性があります。この一例として AP の記者は エイズをあげていました。


参考
上の説明は少し不十分です。病原菌には宿主がいます。 宿主が死ねば、病原菌も死ぬことになります。そのため病原菌が生存するには 共存できる宿主がいなければなりません。これがジャングルの中にいるのです。 蝙蝠かもしれないしサルかもしれません。そのため、もともとの宿主が死滅しない限りは 病原菌の根絶はありえません。危険なのはこのような宿主と人間界が接点を持つことです。
ヨーロッパ人が侵略する前は、黄熱病はほとんど ほとんど問題とならなかった可能性のほうが大きいようです。 現在、黄熱病が激増しているのは、アフリカの人たちが更にジャングルの奥で 生活するようになり、そのため、更に衛生状態の悪い場所に住まざるを得ないためです。 ずっと昔はこうではなかったわけです。 わずか、数百年の間に残酷な変化があったことになります。


参考
医療だけによって救うことができる人がどれだけいるでしょうか ? アフリカで死ぬ原因でもっとも多いのが餓死です。栄養失調になると、 真っ先に影響を受けるのが子供たちです。手足がものすごく細くなって、腹が膨れてしまっている 子供たちをテレビで見ることがありますが、この状態になると栄養を自分で吸収できなくなり、 放置すればまずまちがいなく死ぬそうです。確かに治療することができます。 病院があればベッドの数ほどの子供たちを救うことができます。しかし、難民がでた場合には 死に直面する子供たちの数は 100 万人以上になります。医療のみではほとんど無益です。

しかし、栄養失調状態になった子供たちを救う手段が最近できたようです。 以前であれば、牛乳にミネラルなどを調合した特別な食事を与える方法がありましたが、 この方法では、非常に衛生状態のよい病院のような場所でしか調合できませんでした。 このような特別食を作っている会社がフランスにあります。難民が発生した場合に 赤十字に特別食を納品して稼いでいる会社ですが、これだけで生計を立てています。 この特別食の困難な点は牛乳と混ぜることにあります。 牛乳を保存するための冷蔵庫も衛生的な水も必要になります。 難民キャンプではほとんど手に入らないものです。 それでなんとか、工夫しようとして 牛乳の変わりについにピーナッツバターと混ぜることに気が付きました。 21 世紀に入ってからのことです。その製品を plumpeanuts と呼びます。plump と peanuts の合成語です。plumpeanuts は袋に入っており、常温で保存できます。これを一日 2,3 回子供に 食べさせます。最初は骨と皮になってしまった子供が同じ状態のまま 2 週間ほど 続くそうです。それがある日、突然肌に赤みがさし、ほほもふっくら (plump) した 状態になります。(この変化はとても劇的なようで、母親が泣いて喜ぶとのことでした。) これが plumpeanuts の名前の理由です。一食 数十円ぐらい かかるだけです。100 万人の子供たちを救う可能性が、この時点で出現したことに なります (数十億円かかりますが、原理的には可能になったのです)。これは AP の記事でした。言葉使い方も非常に美しく、ちょっと感動しました。 インターネットで調べたところ、この記事は全世界に反響を呼んだ記事であった とのことでした。

この例からもわかるように、医療が有効であるにせよ、医療のみからでは、物理的に 人々を救うことが不可能なことの方が多いようです。


捏造された英雄達

「医療による黄熱病の根絶」を目指した医者たちは詐欺師ですが、それ以前に捏造された英雄達でした。 ヨーロッパ人はアフリカ侵略を正当化するためにアフリカを「暗黒大陸」(dark continent) と 称し、自分たちが文明をアフリカにもたらしたのだと主張したのです。その一環として 「医療による黄熱病の根絶」を目指した詐欺師達を英雄扱いしたのです。 実際のところ、アフリカに暗黒をもたらしたのはヨーロッパの侵略者に他ならなかったにもかかわらず、です。

ヨーロッパ人の侵略以前のアフリカには文明がありました。 これも AP の記事の受け売りですが、説得力があります。 ヨーロッパの近代化は中世の地中海貿易に始まります。 単純なことですが、貿易によって地中海の北側が繁栄すれば、 当然のことながら、地中海の南側も繁栄していたのです。 今日、広大なサハラ砂漠があるため、当時の状況を推し量ることが 困難ですが、サハラ砂漠が広大になったのはそれほど古い話ではありません。

ヨーロッパの侵略者達がアフリカの「図書館」を破壊したのだと AP の記者が書いています。 この「図書館」がどのようなものか判断できませんが、例えば日本の「金沢文庫」の ようなものではないかと思います。「図書館」を破壊したヨーロッパの兵士達は 文盲であったようですから非常に馬鹿たらしいことです。これで書物がすべて破壊され、 アフリカが「暗黒大陸」となり、すべてが闇にほうむられました。しかし、少し前に 当時の書物が大量に発見されたとの記事もありました。 解読には随分時間がかかることでしょう。もう誰も読めないのですから。

ここまで来ると、ヨーロッパ人は全員が納得するわけでもないようです。 誰も納得しないというほうが正しいかもしれません。 日本にも第2次大戦までの日本によるアジアへの侵略を正当化する人たちが いるのと同じです。 以上の一連の記事は歴史の見直しというようなことから書かれているのだと思います。 なお、AP の記事ではヨーロッパの具体的な国名を一切挙げていませんでした。 多分、意図してそうしたと思います。ヨーロッパがアフリカに対してした仕打ち を一般論として批判するためにこうしたのだと思います。


注意
1. 社会的なインフラをが破壊されてしまえば、どうなるのでしょうか。 アフガニスタンの状況を見ていると、ある程度の文明があるにせよ、 社会的なインフラが完全に破壊されてしまうと石器時代に戻ると思われます。 これがアフリカにおきたことだと思います。
2. 今日の日本は随分社会的なインフラが整備されており、江戸や明治時代の 人達とは比べようがないくらいに衛生的な環境に住んでいます。 病院も上下水道などと同様に社会的なインフラの一つではありますが、 医療のみが病気の根絶に重要であるというわけではないと思います。
3. アフリカが植民地化された時代にヨーロッパの軍隊がアフリカで何をしたか、 ということを本国の人たちは必ずしも知っていたわけではないと思います。 「暗黒大陸」という言葉はすべてを隠蔽するために使用されたはずです。 第二次大戦が終了するまでの日本とアジアの関係と同じようなことではないかとも 思います。

中世に至るまでは、ヨーロッパもアフリカも大して違いがなかったのではないかと思います。 しかし、ジンギスカンの侵略からヨーロッパに火薬が伝えられ、やがて武器が登場することとなり、 それが決定的な違いとなってアフリカが暗黒化したのです。

アフリカの文字に関して -- 追加

前項までが思い出して書いたもので、正確さに欠ける点があるかもしれません。 2007 年の 8 月 8 日付けの IHT にアフリカにおける古いテキストに関しての記事が載りました。

場所はマリ共和国のトンブクトゥ (あるいは ティンブクトゥ, Timbuktu) です。 ここには現在数百年以上前からの本、写本が大量に残っているそうです。 また、ここにはヨーロッパ人がほとんどおとずれていないようなので、前項で述べた 図書館の破壊と関連がないようです。(AP の記事が間違っていることもあるので正確なことは 不明です。) しかし、アフリカに書き言葉の歴史があること を指摘することはきわめて重要だと思われるので IHT (= International Herald Tribune) の 記事から少し引用することにします。


古代の本がトンブクトゥの家々に何世紀もの間、ひそかに大量に保存されていました。 IHT は family library (先祖伝来の文庫 ?) と呼んでいます。 南アフリカ共和国はここに図書館を立てる計画を持っています。 更に、欧米や中東の政府や慈善団体はトンブクトゥ市の family library に何百万ドルもの 資金をつぎ込んでいるそうです。

このようなことがおきたのは、1990 年代後半にハーバード大学のアフリカ学の Henry Louis Gates Jr. が テレビのドキュメンタリー シリーズで写本のことに触れたことがきっかけだそうです。 歴史を振り返ることにしましょう。

トンブクトゥは 11 世紀に貿易の拠点として建設され、後に巨大なマリ帝国の首都となり、 その後, アフリカが植民地化される前の巨大な Songhai 帝国の支配下におかれました。 (サラセン帝国の理由からのようですがトンブクトゥにはスペインの影響もあるそうです。) トンブクトゥはその当時の貿易の拠点として栄えます。北からはサハラを通る隊商のルートがあり、 塩、布、香料が持ち込まれ、西アフリカからは金、奴隷がニジェール川を通って持ち込まれた。

地中海や中東からは本や写本が持ち込まれ、トンブクトゥではアラビア語や土着の言葉 (Songhai 語、Tamashek 語) などで書かれて本が売買されました。 トンブクトゥには Sankore 大学があり、最盛期には 25000 人の学者がいたとのことです。 しかし 1591 年に Songhai 帝国はモロッコからの侵略者によって滅びてしまい、新しい支配者は 学者たちを迫害したため、学者たちは本とともに逃亡することになりました。

現在残っているのはこの当時の本です。

アフリカが少しづつ発展するにつれ、今まで知られていなかった歴史が明らかになっていくようです。 英語版、日本語版の Wikipedia のいずれにもこの大量の本ことは記載されていません。 トンブクトゥが 1990 年に世界遺産に指定されたことに関してはどちらにも載っています。

• Timbuktu (英語版の Wiki)
• トンブクトゥ (日本語版の Wiki)

学習指導要領 -- 追加

最近、新聞を読んでいるときに「野口英世」が小学校の学習指導要領に登場していることに気がつきました。

過去の学習指導要領

を調べてみると、平成元年の小学校の社会の指導要領に登場し、現在に至っているようです。

色々考えて「医療による黄熱病の根絶」を目的とした医師の集団が どのようなものであったのかを追記することにしました。 英字紙を読んでいくうちに自然に考えるようになったことです。

少し焦点がぼけるかもしれませんが、フランシスコ・ザビエルたちの 話をします。ザビエルは東洋でキリスト教の布教をした宣教師の一人です。 宣教師たちの資金源はどこにあったのでしょうか ? 常識的に考えると ヨーロッパ人たちの心のよりどころであるキリスト教の布教ですから いくらでもスポンサーがいると思えますが、彼らが資金的援助および物質的援助を受けたのは キリスト教の布教の理由からではありません。彼らの本来の役目はスパイでした。 訪れる国々に関しての詳細な報告書を書いているのはその理由からです。 また地図でも手に入れればそれもスポンサー (ポルトガル ?) に送っているのです。 宣教師たちの布教活動には多額の資金と、物質的援助が必要で そのためにはそれ相応のことをしなければいけなかったのです。


注意
宣教師たちの報告に基づいて、その国を植民地にするか否かの決定が下されました。
では「医療による黄熱病の根絶」を目的とした医師の集団たちは どうだったのでしょうか ? 彼らの崇高な目的のためにはスポンサーが いくらでもいたのでしょうか ? ザビエルのことを思い出せば、 いくらでもスポンサーがいると考えるほうが無理な話です。 見返りに何かをしなければなりません。 黄熱病の薬はとても高価であったことは当然で、それ以外にも 医療のためには色々な物資が必要となります。しかもジャングルの奥地ですから、 輸送に関しても問題となります。そのため 膨大な経費が必要であったことはほとんど確実です。 この状況では、彼らの役目はほぼ限定されます。つまり原住民の監視です。 不穏な動きがないかどうかを調べる役目です。 その片手間に医療があったと考えるほうが自然です。

資金はもともと当然のことながら、アフリカから略奪した物資でまかなわれていたと 考えるべきで、現地の人はこれを歓迎したでしょうか ?

では「医療による黄熱病の根絶」を目的とした医師の集団たちは 非常に危険な立場にあったのかという点です。アフリカの人たちは この医師の集団が基本的には自分たちから略奪したものを原資にしていたことは ちゃんとわかっていたはずです。資金洗浄的なことはあるでしょうが、 これが前提です。しかし、おそらくこの医師の集団たちはかなり安全であったと 思われます。その理由は彼らが医師だからではありません。 当時、ヨーロッパの国々はどのようにして植民地で自国民の安全を守ったのでしょうか ? 軍隊を広大な植民地全体には展開できません。そのかわり、ヨーロッパの国々は 植民地で自国民が殺されるようなことがあれば、その報復として、 集落を皆殺しにしたのです。こうなると恐ろしくて手が出なくなります。 これと類似の状況は日本史にも登場しています。「生麦事件」です。 生麦村で英国人が薩摩藩士に殺されたときに、英国海軍はその報復として、 薩摩を砲撃します。日本史では「英国海軍」が本国の命令を無視して 薩摩を攻撃したとされていますが、このときの英国海軍の方法は 植民地ではごく普通の方法であったと思います。1 人殺されれば 報復として何百人も殺さないといけないのです。それで始めて 自国民の安全が保障されるためです。

そのため「医療による黄熱病の根絶」を目的とした医師の集団たちの身の安全は ある程度確保されていたはずです。つまり現地の人たちは内心は恐れていた。 野口英世の場合も基本的には同じであったはずです。 ジャングルで黄熱病が発生すれば何万人もの犠牲者が出たはずで、 一つの診療所ぐらいでは処理は不可能であったはずです。 多くの人は侵略者たちの手先に治療されて欲しいとは思わなかったはずです。 実際に治療のために診療所に行ったのは極めて少数の人たちであったことでしょう。 「医療による黄熱病の根絶」を目的とした医師の集団たちの立場は到底人道的な 立場とはいえないのです。

もう一点付け加える必要があります。それは私が子供のときに小学校で野口英世の 話がどのように語られていたのかという点です。野口英世の話があれば必ずアフリカ人蔑視の 話が付きまとっていました。「医療による黄熱病の根絶」を目的とした医師の集団たちが ヨーロッパで語られたのと同様に日本でも野口英世の話が語られたのだと思います。 常に白人優位主義 (white supremacy) が前面に押し出され、日本人も白人の立場なのだ と小学校の教員が力説していたと思います。決して、人道的なことが語られていたのでは ありません。基本的に人種差別が語られていた。



http://mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

  ページの最終校正年月日 : 03/05/2012 04:12:39

アヘン帝国 --- 汚れた歴史

「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。 一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945)


追加
最初はここに書かれている内容は少し理解できなかったのですが、以下の内容を書き上げたあとで 再度読んでみると、色々よくわかるようになっていました。ほんのわずかな内容紹介ですが、 読み直してみると、私が以下に書いたことはほぼこの本に書いてあるであろうと確信を持ちました。 但し、これは研究書のようで、日本の帝国主義を研究している修士、博士課程の学生に適当であると、 締めくくっていますから、原書を読もうとする意気込みはさすがに持ち合わせていません。 なお、この本で使用されている資料は、出版されているものもありますが、 出版されていないものもあり、出版されていない文書は多くが日本の外務省の記録文書のようです。
私も英文のページから簡単に理解できることを整理しようと思いこの記事を書くことにしました。 「満州帝国とアヘン」という標題で書き始めたのですが、 満州以外のアヘンの話も関係することになり、結局「アヘン帝国」と変えることにしました。 なお、しばらくして英文のページだけでは底をついたので、日本語のページも調べることになりました。

先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。 しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。 「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。 中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。 しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうが よいくらいです。


注意
次のページで、英国の東インド会社が 1793 年にアヘンの売買に専売制を 導入したことが記されています。
Opium throughout history

なお、以下ではインターネット上で読める英文のページを少しずつまとめていますが、 全体で矛盾していることがあるかもしれません。 内容が多岐にわたり、紆余曲折があるため関連性があるページを部分的にまとめることぐらいしかできていません。 また日本軍とアヘンに関しての英文の書籍は随分沢山あるようですが、これに関しても目を通しているわけではありません。


注意

「アヘン帝国」の前半を書き終えようとした頃に、次のページを 見つけました。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516

このページには色々なページにリンクが張ってあります。 このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。あとあと見るように、日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。 しかし、アヘン帝国日本による「麻薬テロ」と呼ぶほうが雰囲気が出ているような気がします。 東京裁判では日本の「戦争犯罪」の大半が隠蔽されているようで、これは共産圏との 対決の理由からであったようです。 例えば「731部隊」のことが「東京裁判」で取り上げられなかったのは 人体実験の資料を手に入れるための米国による取引とされていますが、 ひょっとすると日本を「共産圏」に対する砦とするために協力者を確保する意図があったのかもしれません。

また上記のページには「1820 年においてさえ、世界の GDP の 1/3 が中国で生産されていた」 と言っています。中国がとても豊かな国であったため、世界中から狙われたのでしょう。 最後には日本だけに食い物にされますが ....

日本を経由した麻薬

日本は中国に麻薬を蔓延させますが、他国の麻薬を中国に持ち込んでいたこともあります。

Japan as an Opium Distributor (アヘンの販売業者としての日本)

の中で、筆者は 1919 年 2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事を引用しています。この記事の主要部は、「アヘン帝国の興隆 -- 台湾」 の箇所で触れることにします。今はこの記事の中ほどで書かれている部分を引用するのに留めます。


カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。


追加
1919 年 2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事は全文を読むことになりました (「アヘン帝国の興隆 -- 台湾」を参照)。そこで、わかったことですが、 このとき持ち込まれたアヘンは中国の広域に持ち込まれたようです。該当箇所を引用すると

強調しなければならない点は、このアヘンは日本に輸入されたのではないことである。 神戸港で積み替えられただけで、ここから日本が支配する鉄道で済南まで運び込まれ、 山東省を通り抜けて、上海、揚子江流域に持ち込まれた。
この鉄道は恐らく、第一次大戦でドイツの租借地である青島を制圧したときに あわせて支配したのでしょう。日本は麻薬の密貿易のために鉄道をよく利用していたことが はっきりします。
「アヘンの販売業者としての日本」の筆者は 1919 年 3 月のプトナム・ウィール (Putnam Weale) による記事を引用しています。


否定することが出来ない点は、(中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) いまや 20 トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

訳注: 「海関の日本人弁務官」(Japanese commissioners of Maritime Customs) の正確な意味 (あるいは役目) は知りませんが、前後関係から大体はわかります。日本からの輸出品は 中国における日本の税関を通すだけでよかったのです。このようなことが 可能となったのは、日清戦争の結果、下関条約で締結された日本と中国の通商条約 (不平等条約) の結果です。日本が中国と締結した通商条約は、アヘン戦争の勝利国が中国と締結した通商条約と 類似のものです。この件に関しては
Treaty of Shimonoseki - Wikipedia (下関条約 - 英語版 Wikipedia)
をご覧ください。(英語版の Wikipedia では第一次アヘン戦争と 第二次アヘン戦争を総称してアヘン戦争と呼んでいますが、日本語版の Wikipedia は前者を単にアヘン戦争と呼び、 後者をアロー戦争と呼んでいます。) 日本政府の許可さえあれば、日本人は中国に麻薬を持ち込むことが でき、(これはとてもよくないことですが) ヨーロッパの国々と対等になったのです。 しかし、この記事が書かれた頃は欧米各国が中国の麻薬から手を引いており、しかも桁違いに大量の モルヒネを日本が中国に持ち込んでいますから、 とても風当たりが強くなったのです。

追加
1919 年 2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事には次のことも書かれています。 中国における港ごとで事情が少しずつ違っているようです。

更に、青島の場合には、条約によって中国海関の独占的権利が日本政府に委譲され、 日本政府が興味を持てば、密貿易であれ、そうでなかれ、税関が関与することがなく 遂行することができた。1905 年 12 月 2 日の条約の第三条 -- これは 1915 年 8 月 6 日 の条約で永続的なものとなったが -- 日本政府の証明書があれば、青島に上陸する物資は 税関の検閲を受ける必要がなかった。このようにして、アヘンの非合法な輸入のみならず、 武器の不正な輸入の道を開いたのである。
1905 年は日露戦争の「ポーツマス条約」の年ですが、 関連して中国と条約を締結しているようです。 1915 年は「対華21ヶ条要求」の年ですが、日付が少し違っています。 但し関連して結ばれた条約があるようですから、基本的には「対華21ヶ条要求」 と思ってよいと思います。
更にマクドナルドによる本

A. J. Macdonald, Trade Politics and Christianity in Africa and the East, M.A., formerly of Trinity College, Cambridge, 1916
(表題の訳 : アフリカと東洋における商業方針とキリスト教)

から次のように引用しています。この本が 1916 年に書かれた本であることに注意します。


アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。 中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。.... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
1911 5.5 トン
1912 7.5 トン
1913 11.25 トン
1914 14 トン


訳注: 上の文章では日本政府も麻薬の規制をしているかのように表現していますが、 これはないです。本の著者もそこまで理解していなかったのでしょう。 Japan as an Opium Distributor (アヘンの販売業者としての日本) は The opium monopoly (アヘンの専売制) の記事の一部です。直前で The indian opium monopoly (インドのアヘンの専売制) についても触れています。インドからのアヘンの輸出量に関しての表がありますが残念なことに少し不鮮明です。 しかし、この表に関連してなされている議論は紹介することができます。 1913 年には英国はインドから中国にアヘンをほとんど持ち込まなくなりますが、 1911 年からアヘンが日本に輸出されていることを最初に指摘しています。また同時に 1910 年から アヘンが英国に輸出されていることも指摘しています。つまり、筆者は上のモルヒネは インドのアヘンを加工したもので、それを日本に輸出したものだと暗に言っているのです。 この場合、英国も日本もどちらも悪い奴なのです。
更には次のようにも述べています。。


新聞 (The Japan Advertiser) によると、中国におけるモルヒネの取引は新局面を迎えた。 最近の主なアヘンの販売業者は日本人で、製造業者は英国人であったというプトナム・ウィール (Putnam Weale) の 話を引用し、更に次のように続けている。モルヒネは英国から日本へ大量に輸出されていたが、この麻薬を英国から 輸出することが許可制となったため、日本への出荷は 1917 年の 600,229 オンス (17 トン) から、 1918 年にはその 1/4 となった。 別の新聞 (The Japan Chronicle) は絶対的に信頼できる情報からの話として次のように伝えている。 それによると、1919 年の最初の 5 ヶ月には米国から神戸に 113,000 オンス (3.2 トン) のモルヒネが届き、 神戸港で中国行きの船に積み替えられた。 この数値は全てではなく、単に (The Japan Chronicle が) 実際に知っている量であるとのことである。 ポール・S・ラインシュ (Paul S. Reinsch) 博士は、アメリカの中国駐在の公使をやめたあとに、 中国で販売することを目的としたモルヒネの出荷を止めるためにどのようなこともすると述べ、 さらにこれは中国への麻薬を売ることを禁止した国際条約に対する挑戦であると述べた。


注意

1. ジャパンタイムス (The Japan Times, 創業 1897 年) は自社の歴史を

Our Company
に書いていますが、それによると 1940 年に The Japan Advertiser (Tokyo) と The Japan Chronicle (Kobe) を吸収したと書いています。 だから、上で述べていることは、まさしく日本で発行された英字新聞に掲載された記事です。 この記事に限らず、あちこちで引用されているのは、中国、日本などの英字新聞に載った記事、 あるいは記事を載せていたジャーナリストに関連するものが多いようです。 一々詳しく調べるのが大変なので、そこまでしていませんが、 今回に関しては、たまたまかすかな記憶があったので The Japan Times のホームページを調べました。

The Japan Times は朝日新聞ほどは歴史がありませんが、日本で最初に発行されたのは 英字新聞です。その真似をして、日本の新聞ができました。 その意味ではジャーナリズムとしては英字紙の方がはるかに伝統があります。


2. 興味ある記事があるので、それも引用します。1919 年 1 月 15 日 (大正 8 年) の 報知新聞の社説です。社説では 私がここで引用しているような英文の記事に関して、日本政府が関係してはいないと勝手に決め付けています。 日本政府の許可なくしては、神戸港での積み替えや、満州への密輸が不可能です。 とても大量の麻薬でこっそり持ち込むことができるような代物ではありません。

支那に於ける阿片モルヒネ密輸入 : 社説

日本ではこのようにしか報道されなかったのです。これは神戸大学の 新聞記事文庫 で見ることができる昔の新聞です。日本は太平洋戦争に突入してから、報道管制が敷かれたとされていますが、 それ以前からまともな報道をしていないのです。報知新聞はあからさまな嘘を社説で主張したのです。 端的に言えば日本の全ての報道は、 中国における日本軍の「麻薬テロ」の積極的な協力者というべきであり、 組織として A-級戦犯というべきです。 残念なことに現在でもこれは変化していないと思います。


「アヘンの販売業者としての日本」を書いた人は、「ウィール (Weale) は英国人で、そのため日本のことばかりを責めているが、 売った奴 (カルカッタのアヘンの場合であればインド政府、ひいては英国政府、モルヒネの場合であれば 英国政府、米国政府) にも責任があるのではないか」と書いています。


1. 国際条約とは 1912 年におけるハーグの国際条約のことです。詳しいことは次をご覧ください。 1. THE HISTORY AND DEVELOPMENT OF THE LEADING INTERNATIONAL DRUG CONTROL CONVENTIONS
2. International Opium Convention - Wikipedia
3. 万国阿片条約 - Wikipedia
日本語版の Wikipedia の記述から、1912 年に条約が調印されましたが 「ドイツの提案により即時の批准を求める物ではなく、大半の国は批准しなかった」のですが、 第一次世界大戦の終了により、ベルサイユ条約 (1919 年 6 月) で各国が批准することになります。 ドイツが条約の批准を遅らせましたから、ドイツも麻薬で儲けていたことが確実です。
2. あとで見ることになりますが、1919 年の「ニューヨークタイムス」の記事には、 モルヒネは日本で製造されるようになったと書いてあります。しかし、上の記載を見ると 1919 年にも日本は米国から輸入しています。モルヒネが不足したためのようです。
3. 日本においてモルヒネが最初に製造されたのは星製薬 (星製薬 - Wikipedia) による製造 (1911 年) が最初のようです。 しかし、この段階ではまだ大量生産がおこなわれていなかったようです。日本語のホームページでは 中々事実関係がはっきりしませんが、ともかくも色々検索すると
星新一:人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫) (文庫), Amazon.co.jp

の内容に関連する記述があちこちに見えます。 この作品は星新一 (小説家、SF 作家) が、父・星一の星製薬創業・発展期における苦闘を描いた作品とのことです。 ですから当然内容は美化されたものです。例えば

1. アヘンの闇
2. クロカル超人の面白半分日記

にその内容の一部が紹介されています。これはブロッグですぐにも消えてしまいそうなリンクですが少なくとも次がわかります。 星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

読者のページ~2005年4月~

にも、星新一の上の作品が紹介されており、 それによると、1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

ドイツ製のモルヒネ製造装置は満州にも登場します。大体、モルヒネの大量生産装置を売る奴も買う奴も まともな人間ではないのですよ。

少しだけ疑問があります。星一がいつモルヒネの大量生産を 始めたのかという点です。日本語のページで何度も検索し、次を見つけました。

31-1165 W64-4 (PDF)

これによると、「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。朝鮮では 1914 年にアヘンが禁止され、モルヒネがとって代わっています (この点に関してはあとで言及します) が、これは欧米のモルヒネではないかと思います。

4. 「営口」は遼東半島の付け根にある港町です。
満州国の地図 (日本語)


上の話がいつ頃のことか、少し年表を見てみましょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。 しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

あとあと見るように 1911 年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。 絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia

があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。




注意
もともと南満州鉄道は中国領を走るロシアの鉄道でしたが、 日露戦争の結果日本がロシアから譲渡されたものです。 この点を理解するためには、もう少し背景を述べる必要があります。 もともと極東ロシアは外満州 (外満州 - Wikipedia) と呼ばれ、後に満州と呼ばれた場所 (内満州) と 合わせた地域は中国領でした。 しかし 19 世紀中ごろにロシアの侵略により外満州がロシアの領地になります。 さて日清戦争の結果、中国の弱体ぶりが露呈され、その結果、中国はヨーロッパ各国から 色々むしりとられます。 日清戦争 -Wikipedia によると 1. ロシアは旅順と大連
2. ドイツは膠州湾 (青島)
3. フランスは広州湾
4. 英国は九竜半島 (香港)
を手に入れます。更にロシアは内満州を事実上の自国領とするために、鉄道を建設したのです。 日露戦争の結果、日本はこのロシアの権利を譲り受けました。 中国領における外国の鉄道という非常に奇妙な事実は、従ってロシアの中国侵略から生じたものです。 しかしだからといって日本の中国侵略が合法化できると言えるものでもありません。
アヘン帝国の興隆 -- 台湾

ここでは次のページからの引用を中心にまとめます。 このページはとても短いので、書いてあることが正しいかどうか すこし考える必要があります。

Korean Opium for Japan's Wars (日本の戦争のための朝鮮のアヘン)

このページに書かれていることは、 第二次大戦前の朝鮮と台湾におけるアヘンに関しての状況、及び関連している日本人の名前 (主に軍人) です。 まず台湾に関する記述ですが、少し翻訳します。



日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。

当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、 日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。

日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。 この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ? 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。


ここで少し脱線して、英語版の Wikipedia に掲載されている製造業の国別生産高の 相対比率のグラフ (1750 年-1900 年) をご覧ください。 日本の生産高は相対的にはほとんど増えていません。この間むしろ減っているくらいです。 (だから、日本は実のところ産業革命に乗り遅れたのです。) また米国が 1830 年頃、まったく 0 に等しかったにもかかわらす1900 年頃に世界一になっていることがわかります。 ドイツもかなり増えています。

オリジナル : Image: Graph rel share world manuf 1750-1900
このグラフに、日本語名を挿入して次のグラフを作成しました



次のページも製造業の国別生産高の相対比率のグラフ (1880 年-1938 年) ですが、残念なことに日本は含まれていません (ここに掲載されている国よりは低かったことが確実)。 1938 年に米国が世界の 30 % を生産しているのがわかります。

Relative Shares of World Manufacturing Output 1880-1938

最初のグラフを見ると、19 世紀になって英国は日の出の勢いとなっており、アヘン戦争などしなくても よさそうに思えます。どういうことがおきたと思いますか ? 19 世紀に入ると、 英国には比較的豊かな市民が増え始めます。この人たちは中国製の陶磁器、茶を購入し始めます。 現在の米国と似たようなことがおき、一般市民は輸入品ばかり購入するようになったのです。 この結果、英国から更に大量の銀が中国に流出することになるのです。英国のみならず、欧米がすべて このようになります。つまり産業革命の結果、一過的には英国は赤字に転落するのです。おとろしや.... もうしばらくすれば、例えば日本は明治以後に英国から機械をじゃかすか購入し始めますから、英国としては これでよくなることになります。日本は欧米に追いつくために必死になりますが、差がつくばかりとなります。


もとの話に戻りましょう。台湾に関しては、

Japan as an Opium Distributor (アヘンの販売業者としての日本)

にも記述があります。台湾が麻薬に関しての拠点であったことを示しています。 この中で、筆者は1919 年、2月14日のニューヨークタイムスに掲載された記事を引用しています。 モルヒネに関連する記事ですが、少し長めに引用します。(翻訳です。)


1919 年、2月14日のニューヨークタイムスの記事


去る12月21日の North China Herald 誌のレポーターは

「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けている
と断言している。
もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない
(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)

と記述し、更に次のように述べています。



南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。 中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。 日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。 大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。

(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、 中国本土で活発に活動していたことを意味します。現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。


追加

最初これを書いた時は色々なことが不明だったのですが、 その後下関条約で締結された通商条約で、日本がアヘン戦争の勝利国と同じ待遇を得たことに気がつきました。 それで色々なことが明らかとなりました。
1. 最恵国待遇と治外法権
日本語版の Wikipedia (下関条約 -- Wikipedia) では、日本は「最恵国待遇」を得ることになったとしか書いてありません。 そこで英語版の Wikipedia (Extraterritoriality (治外法権) - Wikipedia) を調べたところ事情がはっきりしました。以下その部分的な翻訳です。


治外法権で歴史的に最も有名なものは恐らく、いわゆる 不平等条約の下で 19 世紀の中国と日本における ヨーロッパ国籍者に関連するものである。 第一次アヘン戦争の結果、南京条約で中国に治外法権が押し付けられた。 とりわけ、上海は 2 つの治外法権の領域である「国際居留地」(International Settlement) と「フランス居留地」(French Concession) があったため、外国人の活動の中心地となった。 この治外法権は公的には第二次大戦後にようやく終了したのである。

日本は「最恵国待遇」の名の下に、1858 年に締結された米国、英国、フランス、オランダそして ロシアとの条約で治外法権を押し付けられた。 しかしながら、1894 年にロンドンで調印された「日英通商航海条約」を通じて 西側諸国との不平等状態の改善に成功した。

中国における非外交官の治外法権は 20 世紀の様様な時に終止符を打っている。 ドイツとオーストリア・ハンガリーは中国が第一次世界大戦で連合国側についたときに 治外法権を失っている。ソビエトは 1924 年に中国における権限を放棄し、 米国と英国は 1943 年に権限を放棄し、イタリアと日本は 第二次大戦で中国と戦争状態となったため権限を放棄し、 最後にフランスは 1946 年に権限を放棄した。

要するに、この時代に「最恵国待遇」を得ることは、その国で「治外法権」であることを意味していたのです。

「日英通商航海条約」は 1894 年 7 月 16 日です。この直後に日清戦争が勃発し、 1895 年 4 月 17 の下関条約では、今度は日本が不平等条約を中国に押し付けることになります。 日本は「不平等条約」の被害国であると同時に加害国であるのです。 この「不平等条約」によって中国で麻薬を売ることができたのですから、 この事実は日本史の教科書では述べられることはないと思います (歴史の捏造)。

2. 日本の郵便局と麻薬
2008 年 3 月 18 日のインターナショナル・ヘラルド・トリビューン (IHT) の記事で 「ニューヨーク・タイムズの 1923 年までの記事がニューヨーク・タイムズのホームページで無料で読むことができる」 とあったので、早速探してみることにしました。 1919 年 2 月 14 日の記事は、ニューヨーク・タイムズの過去の記事の中から、"North China Herald" で 検索するとすぐに見つかります。 次の最初が検索で出てくるトップページ (記事の最初の部分), 2番目が記事全部です (PDF)。
◦ CHARGE THAT JAPAN AIDS OPIUM TRADE
◦ 本文 (PDF)

ここには今まで出てこなかった部分があります。少し引用します。事情が非常によくわかります。


中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。 中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。
ニューヨーク・タイムズの記事は随分引用したので、全文を翻訳することにしました。
1919 年、2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事


ニューヨークタイムスの記事に登場する場所の地図を描いてい見ると次のようになり、 海岸地帯に近いところはほとんど日本の麻薬が浸透していたことがわかります。 (地図は Wikipedia の地図から作成しました。)



外満州 - Wikipedia (極東ロシア) に 「1918 年から 1922 年までの間、日本軍は シベリア出兵に伴い、短期間ではあるが外満州と内満州 (いわゆる満州) とをあわせて支配した」とあります。 ニューヨークタイムズの記事は日本軍のシベリア出兵の頃に書かれたものです。 従って、日本軍は出兵するたびに麻薬を持ち込んでいることが非常にはっきりします。 つまり、日本軍は軍事行動を取れば必ず麻薬を持ち込んだようです。 軍事費の捻出のために他ならないようです。

台湾からもモルヒネを持ち込んでいますが、 「日本を経由した麻薬」で述べたように、台湾にはすでに星製薬のモルヒネ工場があります。 ここで製造されたモルヒネが中国になだれ込んだと考えて差し支えないようです。 極めて大量のモルヒネを星製薬が製造したことはほぼ確実です。 従って、モルヒネが痛み止めなどの医療目的ではなく「麻薬」として製造しているということを ちゃんとよくわかっていたと思います。

大連、青島経由のモルヒネはどこで製造されたものでしょうか ? 日本でモルヒネが出来るようになったにもかかわらず、アメリカからモルヒネを購入して中国に 持ち込んでいますから、この可能性もあります。 しかし、次の「アヘン帝国の興隆 -- 朝鮮」で、第一次大戦の終わる頃には朝鮮で大量のモルヒネが生産され、 これが満州を経由して中国で売りさばかれていたことがわかります。


注意
1. North China Herald は英国人のホンリー・シアマン (Honry Shearman) 等が 1850 年 8 月 1 日 に上海で創刊した新聞です。1864 年 7 月に North-China Daily News が創刊されると、 North China Herald は週刊になり、土曜日に刊行され、 North-China Daily News の補足の 形を取ることになります。そして 1941 年に太平洋戦争が勃発したときに廃刊となりました。 1919 年 5 月 4 に始まる「五四運動」 (The May 4th Movement) について書かれたページ
The May 4th Movement
でも North China Herald の記事を引用しています。かなり影響力があった新聞のようです。
2. モルヒネはアヘンから製造しますが、
Morphine - Wikipedia
によれば、製造過程で sulphuroic-acid が必要であると書いてあります。 これはタイプミスで硫酸 (sulphuric-acid) ではないかと思います。更に 水酸化アンモニウム (ammonium-hydroxide, アンモニア水) もしくは炭酸ナトリウム (sodium-carbonate) が必要です。当時、このような物質は化学工業地帯以外では入手できなかったと思います。 つまり、モルヒネ工場は化学工業地帯にあり、しかもアヘンの生産地に近い場所にあった。 ドイツ製の機械があればモルヒネの大量生産ができたようですから、原料さえあればよい。
3. (追加) あとで読み直してみると、言葉足らずであった点に気がつきます。 硫酸と水酸化アンモニウムは化学肥料の工場でできます。化学肥料の工場を作れば、 そこに住んでいる人たちにとって見ればとてもありがたい話ですが、モルヒネ製造の原料ともなりますから これは諸刃の刃であることになります。

もう少し上の文章からわかる点があります。「ヤクの運び屋」は麻薬中毒の可能性が高いです。 (今回色々と英文のページを探しているうちに常識になりました、) そこから判断すると、このページが書かれた頃台湾ではモルヒネが流通しており、モルヒネ中毒が 増えていたことがわかります。一般に「アヘン」の消費が少なくなったからといって 「麻薬の根絶」に近くなるわけではありません。「中毒地帯」では「アヘン」 の代わりに「モルヒネ」や「ヘロイン」の消費が増えることがあり、一般にはこうなる場合のほうが 多いようです。 従って上の文面だけから、この記事が書かれた頃「台湾」では「アヘン」の代わりに 「モルヒネ」が取って代わろうとしていることが非常に高い確率で断言できます。

何ゆえ、ここまで書いたのかというと、日本語の Wikipedia を調べているときに 「後藤新平」 ( 後藤新平 - Wikipedia) という人物に行き当たりました。「後藤新平」は台湾で「阿片漸禁策」 を取り、「アヘン」を成功裏に根絶したと書かれていました。 単に「アヘン」の代わりに「モルヒネ」になっただけと考えるほうが自然です。 日本語の Wikipedia では後藤新平が台湾総督府民生長官となったのが 1898 年で、 1906 年に南満州鉄道の初代総督となったとしています。 ニューヨークタイムスの新聞記事は 1919 年です。 従って、台湾においては麻薬の撲滅はおよそありえなかったであろうと断言して 差し支えないと思われます。 麻薬中毒は横行していたはずであり、日本国政府の金の卵の一つであったと想定されます。 素直に判断すれば「後藤新平」は台湾を食い物にする政策を提唱したのです。 個人的な事実ですが、子供のときに、終戦まで台湾にいた人から「台湾には 麻薬中毒が多かった」という話を聞いた記憶があります。

あとで「後藤新平」のことに関していくつかの記述を見つけました。「アヘン帝国」の一番最初に引用した本の紹介ページ

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945)

では、元の本から次のように引用しています。


1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。一時期アヘンの売り上げは台湾政府の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

「御用紳士」とは何のことか意味が不明ですが、日本の統治に協力をした 台湾人のことではないかと思います。 少なくともこの文章から日本語の Wikipedia の「後藤新平」の記述が不正確であることがわかります。 また本の著者であるジェニングスは 「二反長 (にたんおさ) 音蔵 (おとぞう)」のことも書いているようです。 変わった名前の日本人で、漢字がわからず閉口しましたが、何度かトライして 正確な漢字にたどり着きました:

二反長音蔵 - Wikipedia

これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

後藤新平の阿片商売

によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は


そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

注意: ここの一九八五年も一八九五年のミスタイプです。
としています。このことに関しては別のページ
読者のページ~2005年4月~
(このページでは「二反長半」による「音蔵」の伝記などを参考にしています。)

にも言及があり信頼できると思われます。しかも、このページには次のようなことも記されています。


 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

Opium throughout history

には次のような記述があります。


1878 年に英国は、アヘンの消費を削減する目的で「アヘン法」(Opium-Act) を 成立させた。新制度の下では、アヘンの売却は、登録された中国のアヘン喫煙者、 登録されたインドのアヘン食者に限定された。一方、ビルマではアヘンの喫煙は 厳格に禁止された。

訳注: インドではアヘンを食べたようです。

従って、台湾における「アヘンの専売制」は まさしく英国が植民地でしていたことの真似に他ならないことがわかります。 また文中で中国のことが出てきますが、これは中国における英国の植民地 (上海、香港など) の ことを指しています。また「アヘンの専売制がアヘンの消費の削減に役に立つ」などという、 ふざけた論理は英国の主張の受け売りであることも明白です。

もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから


台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、 「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ? 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。


注意
一般に通常の方法では、植民地はもうかりません。 一応これは一般的によく知られた話だと思うのですが、念のため その一つの例を挙げることにします。 ジブラルタル - Wikipedia は現在でも英国の植民地です。かなり以前の英字紙で英国はジブラルタルをスペインに 返却したいらしいと書いてありました。往時はここは戦略上の拠点だったのですが、 近年は、英国政府からすると金食い虫になっており、領有権を手放すほうが経済的に 得策であるようでした。しかし、住民投票の結果は英国領であること望む声が多かったのです。 英国領であるほうがよい生活ができるからのようですが、逆に言えば英国からすると 経済的な損失となるようです。
最後に、ニューヨークタイムスの記事で思いつくことを色々列挙します。
1. 一般に、日本語の Wikipedia では、第二次大戦に関する記述はとても不自然です。 「阿片漸禁策」によって、麻薬の根絶ができるわけがありません。 しかし、ここに述べているようなことは日本の報道では一切否定されることが目に見えています。 後藤新平は東京放送局 (のちの NHK) の初代総裁 (1924 年) になったようですから、とりわけ NHK はあくまでも否定するはずです。


2. 1912 年のハーグにおける国際条約 ( 万国阿片条約 ) について、一点付け加えます。 第一条では加盟国は「生アヘンの生産と流通を制限するための効果的な法律ないしは規則を制定する」 ことが義務付けられているようです。日本もその条約の加盟国であったため、見かけ上は条約を遵守する立場で あったはずです。従って「アヘン専売法」にせよ「阿片漸禁策」にせよ、見かけ上は麻薬抑制を目的としたもので あるとされたはずです。
3. 青島はドイツの租借地でしたが、第一次世界大戦が始まるとすぐに日本に占領されます。 ニューヨークタイムスの記事から判断すると、その直後から青島経由で、モルヒネを中国に 持ち込んでいたと考えるほうが自然なようです。 従って日本軍は占領すればすぐにも麻薬の活動を開始した。 一方でドイツは各国が万国阿片条約の批准を遅らせるようにしむけています。 従って、ドイツも麻薬で儲けていたと考えるほうが自然で、 そのため青島はドイツの麻薬ルートであった可能性があります。従って青島占領と共に日本がその麻薬ルート を引き継いだと考えることもできます。無論規模を拡大したことは言うまでもないことです。
4. ここで引用されているニューヨークタイムスの記事はとても有名なようです。他でも引用されています。
The Japanese Drug Supply (日本の麻薬の供給)


アヘン帝国の興隆 -- 朝鮮

以下述べることには「興亜院」が登場します。例によって年表を付け加えます。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1919 ベルサイユ条約
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1922 日本は中国に青島を返還
1920 年代 中国北東部で日本の商人たちが麻薬取引
1929 世界恐慌
1931 満州事変
1932 満州国設立
1933 国際連盟から脱退
1936 興亜院の設立
1939 里見機関の設立
〃 独、ポーランド侵入
1941 真珠湾攻撃
1945 日本の降伏

Korean Opium for Japan's Wars (日本の戦争のための朝鮮のアヘン)

における、朝鮮に関する記述に移りましょう。書いてある内容は以下の通りです。



朝鮮北部ににおけるアヘン畑に関してはほとんど報道されていない。 (日本による) 占領下では 朝鮮の北部で農民たちは強制的にアヘンを生産させられていたが、 これは中国における「アヘン作戦」のためであった。 この秘密の「アヘン作戦」は 日本の公式な組織である「興亜院」 (China Affairs Board) の命令のもとに 東京政府の国策として完全に承認されて実施された。

訳注 : (1) アヘン畑というよりケシ畑というほうが正確ですが、原語でアヘン畑 となっています。雰囲気がよく出ていると思います。
(2) 原語では China Affairs Board となっていますが、興亜院 のことと思われます。これはあとで確認できました。 (「Japan Times に載った記事、その 1」をご覧ください)


興亜院は中国における占領地の政治、経済、文化面の責任を取った。 興亜院は近衛文麿 (Prince Konoye) と 当時の戦争、海軍、経済、外交に関連する省の代表によって運営された。 日本のアヘン取引は中国人の抵抗する意思を弱体化し、そして 日本の軍事、経済進出の資金を提供することを目的とした。
訳注 : 「アヘン取引」という訳語はよくないかもしれません。原語は「opium trafficking」で、 ずっと犯罪色が強いような気がします。

アヘンの生産地は現在の北朝鮮のようです。 現在の北朝鮮による麻薬の輸出と何らかの結びつきがある可能性があります。 「興亜院」は昭和 13 年 (1938 年) にできた組織で、 「政務・開発事業を統一指揮する為に設けられた」ようです。 従って、それ以前から「アヘン作戦」は実施されていたと考えるほうが適切で、 「朝鮮」においては日韓併合の直後からこのような活動があったと考える方が自然です。

日本語の Wikipedia によると、興亜院の長は総裁で内閣総理大臣が兼任しています。従って「アヘン作戦」 は日本国政府の方針です。

さて「アヘン作戦」とはどのようなものなのでしょうか ? 上で引用したページには 記述がありませんが、色々な英文のページから判断するとつぎのようなものです。


1. 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)
2. これでアヘン中毒を蔓延させます。
3. ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
4. 占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。
5. これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。

これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

最近では暴力団もあまり表立って、こんなことをしませんが、 麻薬中毒にしておいてから搾り取るのは基本的に暴力団の手口です。 だからこれは「麻薬テロ」です。そして、これが日本国政府の国策であったようです。 従って、当時の日本は「国」とは呼べないと思います。むしろ「暴力団」と呼ぶべきで、 「戦争」によって「占領地」が増えるというよりは、 「暴力団の抗争」によって「麻薬取引の縄張り」を広げるものであったと言ってよいと思います。 その意味からは「興亜院」は暴力団の組事務所の規模を大きくした組織で、 当時の日本の内閣総理大臣は「暴力団組長」と考えたほうが事実に近いと思います。

「アヘン帝国」の最初に引用した本の紹介ページ

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945)

には「朝鮮」に関することも記述していることに気がつきました。付け加えます。


朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。


注意
1. 1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。
2. 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。 ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。 おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。
3. 1929 年頃から、日本は朝鮮でモルヒネ使用を抑制しようとしたと書いてあります。 しかし本当の意図がそうであるか否か少し疑問です。 1929 年は世界恐慌が起きた年で、これ以後世界的に麻薬が売れなくなり、価格が下落するためです。 1932 年に満州国ができ、中国侵略が開始されるのもこの世界恐慌の影響だと思われます。 あとでわかりますが、このときに満州国では数千人以上の朝鮮人の麻薬の売人が投入されます。 すると、満州帝国が設立された頃、麻薬の活動の中心地を 朝鮮から満州に移動したようです。 しかし、麻薬中毒が一瞬にして消えうせることはありえませんから、 朝鮮内部でもある程度の麻薬の活動が残ったと思われます。

4. 朝鮮のモルヒネが中国で売りさばかれたことに関して次も注意する必要があります。

対華21ヶ条要求 - Wikipedia (1915 年)
これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。 この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。


少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)

朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。


日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。

つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

1905 年に日本が朝鮮を保護国にしたという記述は次にも見られます。

朝鮮の歴史 - Wikipedia

この件に関しては次も参考にする必要があります。

桂・タフト協定 - Wikipedia
(米国がフィリッピンを手に入れ、日本が朝鮮を手に入れる。日米間の秘密協定)

アヘン帝国の勝利 -- アヘン撲滅運動とその敗北

最初は次のページ

The Tarnished Crusades (汚れた聖戦)

の最初の部分だけ読んで記述していましたが、このページに書かれていることは とても多く、簡単に判断できないことに気がつきました。 全部に目を通そうとすると、とても大変なので、最初の主だった箇所を翻訳することだけにすることにします。



1906 年、中国政府はアヘン撲滅運動を開始し、アジアにおける麻薬取引の進展に関して、 3番目の大きな流れが開始された。英国政府が公認してきた麻薬取引がついに消えうせ、一時的にではあるが、 徹底的に (アヘンが) 消えうせた。しかし、アヘンが希少となるにつれ、 そしてそのため金を使いまくる麻薬中毒者が代替物を渇望し、更には病気の治療で探し求める者が増えるにつれ、モルヒネ、 ひいてはその派生物であるヘロインが登場することとなった。 また、中国のアヘンの供給が一時的に停止したため、東南アジアの麻薬取引のパターンが変化した。

1906 年の皇帝の布告により、10 年間で中国のアヘン問題を撲滅することが発表された。中国の外交官である Tang Shao-yi は、彼自身がアヘン中毒から社会復帰した人であり、すでに 1904 年に英国政府と交渉を 始めていた。英国帝国政府は 1908 年に有効となる条約を締結し、インドから香港、中国へのアヘンの 輸出を徐々に減少することに同意した。 しかしながら。多くの英国政府の官僚は -- とりわけインドを支配していた官僚は -- この決定に心から歓迎したわけではなく、効果的な撲滅運動に関しての中国の決意と能力に疑念を表明し続けた。 中国で (アヘンを) 製造するようになってからは、インドの (アヘンの) シェアが減少し、 アヘンはもはや、中国貿易で重要なものではなくなっていた。しかしインド政府はまだ中国にアヘンを売ることによって 年間 300 万ポンドの収入を手に入れていた。インドの経済省の言い分では

もしも、我々が長年の間甘受しつづけた収入を犠牲にしてまで、中国政府に協力することを 要請されるのであれば、我々としても、我々の利益となるように極力配慮し、我々に不都合とならないような 方策を取る事を要求する権利を持つ。

英国帝国政府は、中国政府が外国のアヘンを差別するような方法を取るのであれば断固反対をすると主張した。 この事実は、英国は、政府の利益のための「アヘン専売」の技を完全なものとしていたが、 中国政府が、輸入したアヘンあるいは国内で産出したアヘンを統制し、削減することを目的にして 「アヘン専売」を導入することに、断固として反対したのである。 撲滅運動が開始された年には、中国がアヘンの販売を制限したため、 アヘン商人たちが怒り狂ってわめきたてた事件が随分あった。アヘン商人たちが英国政府の官僚の庇護を受けている点に関しては ほとんど変化がなかったのである。

アヘン撲滅運動は 1911 年の革命以前に中国政府が取り組んだ 全ての改革の中で最も成功したものであった。 非常に多くのアヘン屈が閉鎖され、そして多くの場合に、地方官僚は効果的に行動して、(ケシの) 栽培を除去した。 撃退運動が力を強め、(アヘンの) 供給が少なくなると、結果として価格が高騰した。 儲けることを視野において、英国は、インドから中国への輸出を制御することはせずに、単に削減することを 同意したのみであった。 この違いは明白で、インドからの輸出は 1907-1911 年において、実際は若干増加したのである。

にもかかわらず、英国政府の態度には変化が起きていた。 1909 年、上海で国際会議が開かれ、植民地支配の国に対してアヘンの貿易を中止するように 圧力が加えられた。 英国政府の官僚たちは、中国の (アヘン) 撲滅運動が効果を示していることの証拠を提供し、 より懐疑的な同僚たちも無視することができなくなることになった。 インド政府でさえ、アヘン商人たちの不満をあびせかけられていたものの、もっと急速に禁止することに あまり反対しなくなっていった。

訳注: 1909 年の上海の国際会議に関しては THE HISTORY AND DEVELOPMENT OF THE LEADING INTERNATIONAL DRUG CONTROL CONVENTIONS を参照のこと。 万国阿片条約 - Wikipedia には「万国阿片委員会」として紹介されています。

その結果、1911 年に中国と英国はインドのアヘンを輸出することに関して、より厳しい制限を加える 2番目の条約を締結した。更に、英国と中国の合同の視察で、域内における (アヘンの) 生産が 中止された省に関しては、英国のアヘンは排除された。 1911 年から 1915 年にかけて、中国のほぼすべての省から、少々性急な視察があるにせよ、ないにせよ、 外国のアヘンが消えうせた。インドから密輸されるアヘンが少々表面化することは あったが、大規模な公的な (アヘンの) 貿易は終に終焉を迎えたのである。

利用できるアヘンの量を削減することに伴い、中国の撲滅運動は大量のモルヒネの 登場を招くこととなった。このモルヒネはヨーロッパにおいて中東のアヘンから精製されたものであった。 モルヒネはアヘンの主要な麻薬成分であるが、モルヒネ中毒の危険性に関してはすぐには 気づかれることがなかった。1880 年代には中国におけるヨーロッパの宣教師は、アヘン中毒の 治療のためにモルヒネを使用し、「イエスのアヘン」と名前が付けられていた。1902 年に至るまで 中国へのモルヒネの輸出には制限が加えられなかった。.....1903 年以降、重税が課せられ、 流通が地下にもぐった。

撲滅運動の最中に、モルヒネは治療法としても麻薬としても使用された。 モルヒネはアヘンの喫煙者よりも発見が難しかった。 もっと重要な点は、モルヒネはアヘンよりもずっとよく効き、密輸するのにとても簡単であったため、 極端に安かった。1909 年、英国政府の化学者はモルヒネを飲み込めば、アヘンの喫煙と同じ麻薬効果がある -- しかし 10 分の 1 の値段で -- と報告している。 中国の中毒者はモルヒネを飲み込んだり、吸ったりすることを好んだが、注射器を使えばもって安くなった。 注射器では 1 オンスのモルヒネは 1000 回分 から 2000 回分になる。しかしながら、一般に、 中国で最も貧しいものが麻薬を注射器で摂取した。

最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

......中略 .....

中国は一つの国ではなくなった。北京で中国政府を主張する政府 (軍閥、warload) がいくつも現れ、 ますます弱くなり、ただ名前のみとなっていった。 軍隊には資金が必要であった。1918 年における見せかけの政府は、 よく儲かるアヘンの取引の復活を奨励した。.... 中略 .......

英国領インドが、中国市場へアヘンを輸出することを停止することについに余儀なく同意したが、 東南アジアの他の植民地の「(アヘンの)専売」に (インドのアヘンを) 売ること、および 東南アジアの他の植民地の「(アヘンの)専売」が (中国に) 輸出することに関しては このような制約が課されてはいなかった。 そのため (アヘンの) 商売が繁盛した --- 中略 --- 植民地国家が麻薬の取引に関しての国際的な非難を無視できなくなったとき、 政府の (アヘンの) 専売はアヘンの制御のためであると宣伝され、 公的に推し進めることによって、利益を得続けたのである。 ---- 以下略 ----

上の話に続いて、辛亥革命後の中国各地の軍閥 (warload) の話、上海のヘロイン、外国人が果たした役割、 蒋介石の話などが続きます。あまり長くなるのでここらでおしまい。


追加
文中で出てくる Tang Shao-yi の漢字表記は 唐紹儀 のようです。
1. Tan Shaoi - Wikipedia
2. CAMPAINS: China Man - Time

これは中国の側から見た事件の姿です。日本の側から見れば、麻薬王(二反長音蔵、後藤新平、星一) あるいは製薬会社の策謀が見えるだけなのですが、...いずれにせよ、アヘン帝国が中国の 「アヘン撲滅運動」に勝利したことになります。「このとき歴史が動いた」のです。

Opium throughout history

によれば、1843 年にエジンバラのアレクサンダー・ウッド (Alexander Wood) 博士が モルヒネを注射器で摂取する方法を発見したとのことです。 最初は、医療目的であったようです。上の記事と比較すると「モルヒネを注射器で摂取する方法」 はすぐには広まらなかったようです。注射器を大量生産していなかったためかもしれません。

syringe - Answers.com

によると、注射器の大量生産は 19 世紀後半に始まるようです。

英国は、インドのアヘンを中国領には持ち込まなくなりましたが、 植民地 (上海、香港) などではアヘンの専売制を続けています。

アヘン帝国の支配構造

「満州帝国」(manchukuo) と「アヘン」(opium) を AltaVista で検索すると色々なページが検索されます。 例えば、

Annotated Bibliography Part 6

ここには次の本が引用されています。 (題目は「日本とアヘンの脅威」とでも訳すべきです。)

Merrill, Frederick T. Japan and the Opium Menace.
New York: Institute of Pacific Relations and the Foreign Policy Association, 1942.

この記事の一部を翻訳します。これは 1938 年の 5 月初旬の日本軍の占領下における中国中部のアヘンの事情に関して まとめた部分です。 完全に事態を把握できていないので、うまく翻訳できませんが、 恐るべきことが起きていたことがはっきりします。

記事の翻訳をする前に少し予備知識が必要です。 1937 年 12 月に日本軍が南京を占領し、その直後、かの有名な南京大虐殺がおき、 数ヶ月後の1938 年 3 月 28 日に南京に傀儡政権

中華民国維新政府 - Wikipedia

が設立されています。記事の内容はこの 1, 2 ヶ月後のことで、中国中部と言っているのは南京の傀儡政権の統括する地域 (江蘇省、浙江省、安徽省 + 南京市、上海市)のことでしょう。

Wikipedia の地図から作成した地図



また記事の中では、麻薬が大連と天津から輸入されたとしています。日本語版の Wikipedia によると北京に傀儡政権

中華民国臨時政府 (北京)

が 1937 年 12 月 14 日に成立したとあります。英語版の Wikipedia には統括地域は

河北省、山西省 + 北京市、天津市 + 一部の内モンゴル

とあります。ここに天津市が含まれていることに注意します。以上で予備知識はおしまいです。記事の内容に移りましょう。


1. 中国政府によって設置されたアヘン撲滅のための 政府部局が日本人もしくは日本人によって 設置された傀儡政権の干渉によって事実上機能が停止した。
2. アヘン、ヘロイン及びその他の麻薬の輸入が 完全に自由になった。 ありとあらゆる大量の麻薬が -- とりわけ日本の支配下にあった大連と天津から -- 輸入された。
3. アヘンとその他の麻薬は問題としているすべての地域に 自由に配布され、例えば南京のように、 それまではまったくアヘンが見られなかった地方や都市で公然と 取引されるようになった。
4. アヘンの専売事業は、日本人と朝鮮人のアヘン組織の系列に 集約された。彼らは日本政府及び傀儡政権と親密な関係により、きわめて強力であった。 新たに組織化された中国のアヘン組織は、 一つの都市全体 -- 例えば蘇州市 -- の麻薬ルートの統括をまかされた。
訳注   訳しにくいので「アヘン組織」としましたが、原語は opium ring です。opium は「アヘン」で、ring は「ギャング」の 意味です。だからこれは「アヘンを扱っている暴力団」の意味です。

5. アヘンや他の麻薬の末端の売人には、中国の最も低い身分に 属し、日本の植民地である上海にいた者が採用された。 彼らの多くは犯罪者であった。 この麻薬販売の特徴点は、売春婦をしばしば雇ったことにある。 売春婦たちには中国籍のものも日本籍のものもおり、 また日本兵によって連れまわされて破綻した中国の女性もいた。
訳注   日本籍のものには、台湾人も朝鮮人も含まれることに注意してください。

6. 日本によって設置された傀儡政権は麻薬取引の 収益を公然とアヘン窟のライセンス料として徴収したり、 支配的なアヘン組織からの上納金として獲得した。 多くの中国人の地方官僚は麻薬売買に直接関与することで 報酬を得た。
7. アヘンやその他の麻薬は、中毒していない人や 麻薬摂取をしたくない人にも強制的に摂取させた。 アヘン摂取に関してのプロパガンダ (訳注  健康によいなどのでまかせ) があり、 中国の労働者は頻々として麻薬の形で給料の一部を受け取っていた。
8. このような事態の結果、アヘンと麻薬の消費は急激に増大し、 麻薬中毒が広範囲に広がることとなった。

この記事からわかることは、日本政府は麻薬を売るために、 日本や朝鮮の暴力団組織を使って麻薬ルートを作り、麻薬の直接の売人は 中国の暴力団を使ったことがわかります。上の記事には直接「暴力団」とは 書いてありませんが、麻薬の売買を常日頃から手がけている人たちを使ったことが 明白で、日本語ではこのような人は暴力団と呼ばれると思います。 (英文のページには「ヤクザ」の記述も見られますが、最近の日本語では「ヤクザ」 とはあまり言わずに「暴力団」と言っていると思います。)


注意
あとで、わかりますが満州では何千人もの朝鮮人がアヘン屈で働かされていました。 従って、ほぼ確実に、満州の売人たちが中華民国維新政府の統治下に投入されたようです。 麻薬の売人は麻薬中毒になる可能性が多いです。そのため、直接日本人を売人にすることはなかったようです。

追加
満州の売人たちが投入されて理由は、つぎのように考えると説明ができます。 まず世界恐慌により麻薬の価値が下がり、 朝鮮半島の麻薬の売人と関東軍の収入が激減し、 その結果、満州に進出し、満州国が設立されます。 このとき、朝鮮半島の麻薬の売人は関東軍と行動を共にします。(こうしないと飯が食えない) しかし、満州国においては農民たちの骨の髄まで絞るようなやりかたで、 麻薬で絞りたてますが、おそらくこのようなことをすると社会全体が貧しくなり、 結果として、麻薬の売れ行きがじり貧となる可能性があります。 また世界恐慌後も麻薬の単価がどんどん下がった可能性もあります。 こうなると再び、麻薬の売人と関東軍の収入が減ることになり、 新天地を求めて、日中戦争を吹っ掛けた可能性があり、 占領地で再び満州でしたことと同じことを繰り返そうとしたと考えられます。 麻薬の単価が下がっていれば、よりひどいことをしなければならなかった可能性があります。
また各「暴力団」は一つの (都) 市を縄張りとして与えられていることがわかると 思います。したがって、今日の広域暴力団の下部組織に類似しています。

最初に、この記事を読んだときは愕然としましたが、よく考えてみれば当たり前で あることがわかりました。末端の麻薬の売人はギャングないしは暴力団です。 普通の人が麻薬の売人にはなれませんから、これは当たり前です。 通常、商品の流通過程では「卸」があって「小売」があります。 末端の麻薬の売人は「小売」です。「卸」になることが出来る人は普通の人でしょうか ? まず間違いなくギャングないしは暴力団で、当然、広域暴力団の構造と似ることになります。 末端の売人は中国人に売るのですから、中国人の方がよいですが、「卸」の売人は、一応誰でも儲けたいですから 日本人ということになりそうです。これも広い意味の日本人 (朝鮮人、台湾人) でよいはずです。

文中には日本人、朝鮮人が登場しますが、これは恐らく麻薬の産地の理由からです。 あとで見るように、満州における麻薬の産地は熱河省と吉林省です。

天津は熱河省に近いので、文中に登場する天津経由のアヘンは熱河省のアヘンのようです。 あとで見るように満州には何千人もの朝鮮人がアヘン屈で働かされていましたから、 麻薬の「卸」を担っているのが日本人であっても朝鮮人であっても不思議ではありません。

さて大連経由の麻薬はどうでしょうか ? 近くには吉林省があり南満州鉄道で結ばれています。 しかし、今まで見てきたように北朝鮮にはアヘンの産地がありました (場所は不明ですが、モルヒネなどの 理由から、あるとすれば、鴨緑江南部の重化学工業地帯の近くです)。 しかし、満州国ができてから以後は麻薬の活動の中心地が、朝鮮から満州に移動したようですから、 多分、吉林省の麻薬だと思われます。


注意
国と暴力団とのかかわりは、それほど不自然ではありません。 現在の北朝鮮のことを思い出してください。北朝鮮は麻薬を輸出していますが、 その日本における窓口が北朝鮮系の暴力団であることはよく知られていることです。 このため北朝鮮系の暴力団は資金面で祖国に貢献していることになります。 この点から第二次大戦前および戦中の日本は現在の北朝鮮と似ているといえるかもしれません。
アヘン帝国の支配者たち

この項目は、「満州国」に関するもので、直前の「アヘン帝国の支配構造」は「中国中部」に 関するものです。最初にこれを書いたときは地理的な違いに気がつかずに書いていました。 しかし、どの地域でも末端の麻薬ディーラーは中国人のようです (当然ギャング、あるいは暴力団)。 そして、中間に「卸のディーラー」がいます。「アヘン帝国の支配構造」では、これも (朝鮮もしくは日本の)「暴力団」です。 常識的には「満州国」の「卸のディーラー」も暴力団であったと考えるほうが自然です。以下これを前提にします。

事実をまとめるために、もう一つの記事を引用します。英語版の Wikipedia で 色々調べているうちに、1 週間以内に途中で次の記事の内容が変わりました。

Economy of Manchukuo (満州国の経済)
アヘンに関する箇所はこのページの下の方にあり、次をクリックすると該当箇所に行きます。
Economy of Manchukuo (満州国の経済のアヘンの項)

最初はこの記事にアヘンの内容が記載されて いませんでした。少し妙だと思ったのですが、色々調べていくうちに記事の内容が 基本的に変化しました。現在のページにはアヘンのことが記載されています。 但し「この記事が正確かどうかに関しては議論がある」(The factual accuracy of this article or section is disputed.) の一文が付けられていて、以前のページにリンクが張ってあります。 (追加:2009 年 10 月にはこれは消えています。正しいと判断されたようです。) 以前のページには今述べたように英語圏では常識化している満州帝国のアヘンの記述がありませんから、 現在のページの方が信頼性があると思われます。 決定的な個人名が登場します。少し紹介をします (翻訳)。 1932 年の 3 月 1 日に満州国ができていることを予備知識にしてください。



1932 年 の 11 月には組織化されたアヘンの専売があり、 三井財閥が、さもこれが国内における麻薬の多量の消費を抑える目的のためとか称して、アヘンを栽培していた。 固定された栽培地が熱河省と吉林省の北西に設定された。 1934-35 年の間の栽培面積は 480 平方キロメートル、1 平方キロメートルあたり 1.1 トンを生産していたと評価されていた。 また、多くの非合法の栽培もされ、非常によく儲かるため、この危険な麻薬を効果的に抑制することに障害となった。 秘密の日本人の商人のグループである "Nikisansuke" が関与した。

このグループは以下から構成されていた。 (訳注 : 英文の Wikipedia 内にリンクが張ってあって日本語表示があるものは日本語表示もつけています。)
1. Hoshino Naoki(星野 直樹) (noted Japanese Army thinker)
2. Tojo Hideki (東条 英機) (Japanese Army politician and leader in nation)
3. Kishi Shinsuke (Merchant and right-wing supporter)
4. Matsuoka Yosuke (松岡 洋右) (Japanese Army follower and foreign affairs minister)
5. Aikawa Gisuke (Japanese Chairman of Manchukuo Zaibatsu)
6. Kuhara Fusanosuke (Right-wing thinker)

専売は、1 年あたり 2000 万円から 3000 万円の利益を生み、満州国の産業発展に資金供給をした。

軍隊は兵士によるアヘンと麻薬の使用を禁止したが (これを破れば、日本の市民権を剥奪された)、 劣等種族の士気をくじくために使用することには許可を与えた。

関係者の一人である星野 直樹は満州国のアヘン専売局の儲けを抵当にして、 日本の複数の銀行から多額のローンを取り決めた。 別の当局者によれば、満州国の分も含め中国全体の麻薬の収入は日本軍によって年間 3 億円と評価されている。

類似の、アヘン専売制は日本が支配したアジア全体にあった。
1. アヘンの産地は以下の通りです。




以下は英語版 Wikipedia の 満州国の地図 の縮小図です。日本語で書かれた地図です。


2.「商人」(merchant) は少し変なのですが、あとで別の理由が判明します。 「Japan Times に載った記事、その 4」をご覧ください。 しかし、次のように考えてもよいです。ギャング映画でギャングのボスがマーチャント(merchant、商人) と呼ばれていれば、 ほとんど確実に「ヤク」を扱っている奴のことです。 映画ではギャングたちはビジネス(buisiness、仕事) という言葉もよく使います。これは「ヤク」の取引です。 英語は使われる局面で意味が基本的に変化してしまいます。今、麻薬の話をしています。裏世界の話です。 だから、この場合にマーチャント(merchant、商人) は特別な意味を持つことになるのです。

秘密の日本人の商人のグループの "Nikisansuke" とはいったい何のことでしょうか ?

私立PDD図書館、百科辞書、「に」

には次のような解説があります。


「にきさんすけ」(ニキ三スケ) とは

満州の実力者のことで、東条英機・星野直樹の「二キ」と、 鮎川義介(ヨシスケ)・岸信介(ノブスケ)・ 松岡洋右(ヨウスケ)の「三スケ」

としてあります。「満州の実力者」と書いていますが、 実のところ英文の Wikipedia のニュアンスからは「アヘンの流通の独占」を目的としたグループと読み取った方がよく、 「ヤクの帝王」と呼ぶほうがふさわしい人たちです。 英語版の Wikipedia の方は一名多く、日本語表示から「岸信介」 が入っていることがわかります。英文のほうは読みが正確でないのではっきりしませんでしたが、 これでようやく事実が明らかとなりました。

これが、満州における麻薬の下部組織を統括する中枢であったようです。 すなわち、日本軍の支配する満州における麻薬の流通組織は 今日の広域暴力団とよく似ており、その中枢が「ニキサンスケ」であったわけです。

冷静に考えると「暴力団」と「軍隊」の間の垣根が低く、 「政府」と「暴力団」の垣根も低い非常に異常な世界です。 「軍隊」や「政府」の発想も「暴力団」にきわめて近く、むしろ国ごと広域暴力団であったと 言ったほうが的を得ているような世界ではないでしょうか ?

日本が占領した「他のアジア」の国でも麻薬の専売制があったことから判断をすれば、 「大東亜共栄圏」とは実のところ「アジアの人々をヤク漬け」にすることを 目標としたものであったことになります。

「ニキサンスケ」の記述は

The Japanese Drug Supply (日本の麻薬の供給)

にも見られます。ここでは次の本から引用しています。

John G. Roberts, Mithui: Three Centuries of Japanese Buisiness, Weatherhill, New York, 1991
(表題の訳,  三井 : 日本のビジネスの 3 世紀)

表題の「ビジネス」には皮肉が込められています。三井はまっとうな「ビジネス」をしていたときも あるが、裏世界の「ビジネス」をしていたときもある、と言っているのです。 引用されている箇所を、ここでもそのまま引用します。



星野により設立されたアヘン専売局により、 アヘンは満州国政府の重要な収入源であった。 それに先立つ 100 年前の中国の別の場所で英国がしたことの例にならい、 関東軍は社会の抵抗を弱めるためにアヘンを使用し、 更に満州国と中国の占領地で意図的に麻薬中毒を奨励した。

新たに麻薬中毒を作る方法はモルヒネを含んだ薬の配布、あるいは 人気のあったタバコ「ゴールデンバット」の特別仕様 -- 吸い口に少量のヘロインを含んだもの -- の配布であった。 これらの色々な麻薬は、三井やそれ以外の商社がきわめて 合法的にアヘン専売局に提供していた。その結果 不幸な犠牲者に幸福感をもたらすとともに ニキサンスケの悪党たちにも幸福感を与えることとなった。 なぜなら、これにより年間 2000 万円から 3000 万円の収入が 得られ、満州国の産業開発の資金源となったためである。 (これは 1948 年の東京裁判で提示された証言に基づいている。)

東京裁判の証言では更に、星野は満州国のアヘン専売局 の儲けを留置権の形で抵当に設定し、日本の (複数の) 銀行から 多額のローンを取り決めた。別の当局者は 満州を含む中国における麻薬化政策からの収入は 日本軍によって年間 3 億円と評価されていると言っている。

アヘンの専売制を導入したのはどうやら英国が最初のようです。 「ニキサンスケ」とか、3 億円の収入とかいったものは 東京裁判での証言に基づくものであることがはっきりしました。なお、上のページでは 「2 キ 3 スケ」では 4 人の「スケ」をあげており、 英語版の Wikipedia の記述と同じになっています。

更に又、次の本からも引用しています。

Violet Sweet Haven, Gentleman of Japan : A Study in Rapist Diplomacy, Ziff-Davis, New York, 1944

これもそのまま引用することにします。



占領地で野火のように広がっていく 危険な中毒を放置することが、薦められることであるかどうかを東京の自由主義者が 問題にしたとき、この考えは直ちに踏みにじられてしまった。 儲けが絡んだ場合のよくある話であった。 ハルビンや大連の麻薬工場は三井および Suzuki 銀行によって 資金が提供され、ドイツ製の機械が設置された。

... 1931 年の満州占領時に、日本は、より速く利く麻薬、ヘロインと モルヒネを導入し、中国人をより速く堕落させた。 侵略の結果日本軍にわかったことは、 アヘンを吸っている中国兵は真っ先に降伏し、 奉天の麻薬常習者は一般市民の中で、もっとも問題がないことであった。

日本の傀儡政権である満州は、今日、世界中の合法的なアヘンの供給の 20 倍を生産しており、 真珠湾攻撃の前には、その一部が米国で高値で売られた。 この金で、日本は中国とそして我々と戦うための銃器を購入した。

日本帝国軍は、まだ満州に残っていたアヘン禁止法を停止して、 百姓たちに通常の穀物の代わりにケシを栽培することを強制した。 百姓たちが拒否をすれば、生アヘンが生産された場合に相当する 地税が課せられ、応じることがなければ土地を失うことになった。

日本の将軍達は自分たちにとってアヘンが利益あるものにするだけではなく、 実際には百姓たちが麻薬中毒となるように強制したのである。 アヘンパイプでは、あまり事が運ばないことにいらだって、 将軍たちはハルビンや大連に生アヘンをヘロインやモルヒネに 変える工場を開設した。

日本人が支配するアヘン屈で仕事をさせるために 朝鮮の麻薬の売人を何千人も引きずりこんだ。 まもなくして、豊かな店 (rich store) の 3 倍ものアヘン屈ができることになった。 危険な「白い麻薬」のために、百姓たちはより金をはたき、 より貧乏となった。 売人たちは「新しい種類のタバコ」を最も安いタバコよりも安く売ったり、あるいは無料で配った。 このタバコは最も哀れな人の間で人気が出ることになった。これはお買い得品などではなかった、 それにはヘロインが詰まっていたからだ。そして、麻薬中毒がこの地域全体に吹き荒れることになった。


注意
1. 文中の「Suzuki 銀行」は何のことか不明です。鈴木商店 のことかもしれません。しかし「鈴木商店」(あるいは「鈴木財閥」) は満州国ができるまえに (世界恐慌で) 消滅しています。あるいは上で述べている麻薬工場は満州国が設立される前に出来ているのかもしれません。 しかし
The History of Corporate Ownership in Japan (PDF)
によると鈴木財閥のグループには銀行がなく、資金はグループに属していない台湾銀行に依存しています。 また最盛期には鈴木財閥は大量の小麦を満州から英国に輸出していますから、 何らかの関連があったのかもしれません。
2. 朝鮮から、麻薬の売人を導入していますが、これは、朝鮮にも麻薬が蔓延していたことを意味します。 しかも、何千人もの麻薬の売人を導入できたということは、 朝鮮における麻薬の浸透状況もかなりひどかったことを意味しています。 従って、満州国において「麻薬の儲け」が満州国の産業開発の資金源になる以前に、 すでに朝鮮半島でも同様であった可能性が高いようです。 日本は朝鮮のインフラ整備に多額の資金を投与したようですが、 おそらくほぼ確実にこれは麻薬のもうけであったと思われます。


追加
3. 日本が満州を占領したのは世界恐慌によって、麻薬の価値が暴落し、 その結果関東軍の収入が底をついたためと考えることができます。 麻薬の価値が暴落し、麻薬の売人たちの収入と共に関東軍の収入も激減したのです。 そのため、関東軍の満州進出とともにヤクの売人も満州に進出することになったようです。

満州では満州国が成立する以前に、麻薬工場があっても不思議ではありません。 次の理由です。

対華21ヶ条要求 - Wikipedia (1915 年)

この条約の第 2 号の 2 で日本が満州で工場建設をする自由が与えられました。 また第 2 号の 3 で日本人が満州を自由に往来する権利が与えられました。 日本人の中には当然朝鮮人が含まれます。従って、朝鮮のヤクの売人は 自由に満州を往来できたことになります。

最後にこのページでは日本の麻薬プログラムの代表選手を列挙しています。これも付けておくことにしましょう。 (原文には、肩書きや、捕虜収容所で残虐行為にかかわったなど色々書いてありますが、日本語に訳すのが至難なので、麻薬に関連するコメントのみを つけてあります。) 氏名は日本語の Wikipedia へのリンクとなっています。 この人たちの経歴には麻薬とかかわったことが一切載っていません。注意して (あるいは疑いを持って) 経歴を読めば、どれだけドス黒いことが起きていたかがわかります。

麻薬プログラムの代表選手

土肥原賢二 - Wikipedia 満州の軍の麻薬取引に深くかかわった
板垣征四郎 - Wikipedia  
木村兵太郎 - Wikipedia  
東條英機 - Wikipedia  
賀屋興宣 - Wikipedia 占領軍の出費の資金繰りのために
中国人に麻薬を売ることを早くから提唱した。
小磯國昭 - Wikipedia  
南次郎 - Wikipedia  
鈴木貞一 - Wikipedia 日本の中国における麻薬取引にかかわった。

論理的事実から断言できること

「アヘン戦争」の結果、アヘンが中国になだれ込みますが、 麻薬中毒の結果、中国の人々の健康が蝕まれます。しかし実際はこれは重要視されていないようです。 問題となるのは、この結果「銀」が中国から大量に流出したことです。 この理由から中国は英国と交渉して、インドからのアヘンの流入に規制をかけようとしたのです。

アヘン (日本語版の Wiki)

によれば、明治維新後に日本国内でアヘンの規制がおきているようですが、最大の問題点は 人々の健康ではなく、金、銀の流出が問題であったと思われます。当時の貿易は 通常は銀で、密貿易であれ、対価は銀です。国内に銀がなくなれば何も輸入できなくなります。 そのため麻薬の輸入はどうあっても防ぐ必要があったのです。

麻薬中毒になれば、ちょっとした病気でも死ぬ可能性が増えますし、冬が越せなくなることも あるようです。事実、中国では多くの中毒患者が死亡したようです。しかし、当時の感覚では 人が死ぬことさえあまり問題とされていないようで、単に銀が国外に流出しないように することの重要性の方が高かったようです。

では、アヘンの輸出に関してはどうであるかという点ですが、 道義的な問題を意識することなく、平気でしたであろうと思われます。 しかもこうすれば貴重な銀が手に入ります。 いつ頃から、日本は中国にアヘンを輸出していたのでしょうか ? 日清戦争の戦場を思い出してください。


1. First Sino-Japanese War - Wikipedia
2. Image:First Chinese Japanese war map of battles.jpg (オリジナルの地図)
日清戦争の軍隊の移動と交戦図 (英語版 Wikipedia の縮小図)

日本は艦船を朝鮮半島、遼東半島、台湾などに展開し、 戦争で勝利を得ています。これは簡単でしょうか ? そこが、日本にとって自分の庭のようであれば、 非常に簡単なはずです。日本の艦船は当時の貿易 (あるいは密貿易) 上の理由から、海路にとても習熟していたと 考えるほうが正しいと思います。そうでなければ、とても戦争をするなど無理な話です。 当時の日本の艦船が移動したルートは恐らく貿易ルートであったと考えるべきです。 つまり、日本は朝鮮半島、遼東半島、台湾などと貿易 (あるいは密貿易) をしていたと判断したほうがよいと 思います。では何を輸入していたか ? これはいくらでもあると思います。 問題は何を輸出していたのかです。輸入だけして、輸出をしないことは有り得ません。 すぐに銀が枯渇します。

ここで、なぜアヘン戦争が起きたのか、その原因を述べる必要があります。 19 世紀前半になっても、世界中でもっとも豊かな国は中国でした。つまり、何でもある国です。 この国から輸入したいものがいっぱいあります。(絹、陶器、おそらくありとあらゆるものです。 ヨーロッパに持っていけばいくらでも売れます。) ところが、英国は中国に何か売るものが あったでしょうか ? 英国は産業革命により、繊維製品が安く生産できるようになっていましたが、 これは木綿です。中国には絹があります。木綿など買うはずないじゃありませんか ? その他、産業革命の結果色々なものが英国でできるようになりましたが、ほとんどどれも 豊かな中国で売れるはずもなかったものです。東インド会社はそのため慢性的な赤字でした。 そしてついにアヘンに手を出したのです。そしてその結果戦争となりました。


注意
1. 英国と中国の貿易は広東を経由していました。 ここだけが唯一の入口でした。広大な中国から見ればごく一部の物資が貿易の対象となっただけです。 従って、英国からの輸入品を購入する可能性があるのは一部の富裕層で、木綿など 購入する可能性はありえませんでした。しかし、アヘンはすべての中国人が対象となりえます。 アヘン戦争の結果、中国の多くの港が開港されることになりますが、これでも英国製品は あまり売れなかったと思われます。
2. 今日、麻薬の摂取はよくないこととされ、どの国でも禁止されています。 しかし、これはハーグなどの国際条約の結果、国際的な啓蒙活動があったためであると思われます。 何でも自由なアメリカでは麻薬を禁止する法律を単独では作ることができず、 このハーグの国際条約をテコにして、ようやく法律を作ることができたのです。 麻薬を売ることが人の道に反すると考えるのは現代人の考えです。
3. 日清戦争以前に、日本の軍隊が朝鮮半島、遼東半島、台湾に麻薬を 密輸していたと次のように考えてもあたりまえです。北朝鮮の軍隊は日本に麻薬を密輸している話は 有名ですが、これは何のためにしているのでしょうか ? 諜報活動の一環と考えることもできますが、 いざ戦争が起きたときの日本上陸のための準備です。日清戦争以前に、日本の軍隊は、 朝鮮半島、遼東半島、台湾に上陸する作戦の準備をしているはずです。現在のようにレーダがなく、 また不審船が発見されても航空機で追跡するなどということは出来ませんから、確実に 上陸作戦の準備をしています。この際に経費が必要となりますから、麻薬の密輸もついでに 実行したことは火を見るよりも明らかです。麻薬は儲かりますから、一度手を染めれば、 あとで足を洗うことは出来ないと思います。
4. 欧米諸国は中国に麻薬を輸出しなくなります。これは無論麻薬に関しての国際条約の こともありますが、別の側面があります。輸出用に国内で麻薬を生産すると、結局 自国内に麻薬中毒が出現し、国内問題を抱えてしまいます。しかし植民地で生産をすれば、 この危険性があまりありません (無論植民地では麻薬がはびこる)。これは広く知られていたことではないかと思います。 日本も植民地ができれば、本土で麻薬を生産しなくなったのではないかと思います。

産業革命の先進国である英国ですら、豊かな中国に売れるものはほとんどなかったのです。 中国には何でもあったからです。では日本はどうでしょうか ? そう考えればもはや明白です。明治維新後、日本は中国、朝鮮、台湾と貿易 (あるいは 密輸) をすることになったはずです。このときは広東を経由していませんから、 富裕層を対象にした貿易 (密輸) ではなかったとは思われますが、 輸出品の中で多くの割合を占めたものがアヘンだと思われます。 どこの国 (現在の G8) も中国にアヘンを輸出していますから、日本も同様であったと思われます。 当初は国内でアヘンを生産し、その後、台湾、朝鮮、満州が日本に組み込まれていくにつれ アヘンの生産地が植民地に移動していったと考えれば、すべてつじつまがあいます。


追加
前にも引用しましたが
読者のページ~2005年4月~
によると台湾における「アヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていた」ようですから、 台湾ではケシは栽培されなかったようです。 外国 (インド・イラン・トルコなど) や内地におけるケシの栽培 (二反長音蔵) でアヘンを供給したようです。 この時期には麻薬を国内で生産すると、国内で中毒が蔓延する危険性を認識していなかったようです。
北朝鮮の軍隊が麻薬の密貿易に手を染めているようですから、 明治時代の日本の軍隊が麻薬の密貿易に手を染めていたと考えることはとても 自然ではないかと思います。


日本語版の Wikipedia のアヘンの項目 (アヘン - Wikipedia) の中の「日本におけるアヘン史」で


1879年(明治12年)5月1日には薬用阿片売買竝製造規則(阿片専売法)を施行した。 この法律において、政府は国内外におけるアヘンを独占的に購入し、許可薬局のみの専売とした。 購入は医療用途のみとし、購入者及び栽培農家は政府による登録制とした。 この専売制は日清戦争の戦需品として、政府に利益をもたらした。

と述べています。注目すべきはこの最後の行です。いかにも医薬品 (痛み止め) として、 アヘンが使用されたかのように見えますが、戦争で負傷兵の手当てをするのは日本軍です。 負傷兵の手当てのために、いくらアヘンを使用しても日本政府に利益が出るはずがありません。 むしろ損失となるだけです。 ですから、この最後の行は戦地でアヘンを売って儲けたと解釈する必要があります。 また「戦需品」と言っていますから、戦争をするための資金となったことも意味していると思います。 当然のことながら、日清戦争の準備のためにもアヘンが使用されたことは火を見るよりも明らかです。

Japan Times に載った記事、その 1 (興亜院と里見甫)

ここまでの内容を書き終えた後で、2007 年 8 月 30 日の The Japan Times に次の 4 つの記事が載りました。
1.Japan profited as opium dealer in wartime China (2007/8/30)
2.Opium King's ties believed went to the top (2007/8/30)
3.Japan followed West by drug-peddling in China (2007/8/30)
4.Narcotics trade boosted army scrip (2007/8/30)

以下この記事を 4 部に分けて紹介します。最初の記事は 1940 年頃の中国中部に関することで、 内容を理解するためには、当時の状況を理解する必要があります。最初は年表です。

1936 興亜院の設立
1937 日中戦争の開始
1938 南京占領、傀儡政権の設立
1939 里見機関の設立
〃 独、ポーランド侵入
1941 真珠湾攻撃
1945 日本の降伏

次は、中国中部における日本の支配に関することです。
1. 中華民国臨時政府 (北京) - Wikipedia 1937 年 12 月 14 日に北京に設立した傀儡政権 (河北省、山西省 + 北京市、天津市 + 内モンゴルの一部)
2. 中華民国維新政府 - Wikipedia 1938 年 3 月 28 日に南京に設立した傀儡政権 (、江蘇省、浙江省、安徽省 + 南京、上海)
3. 蒙古聯合自治政府 - Wikipedia 1939 年に内モンゴルに設立された傀儡政権

以上の傀儡政権は蒋介石の「中華民国」と対立するために、 1940 年にまとめられて、形式的に 中華民国南京国民政府 - Wikipedia (傀儡政権) が設立されます。もっとも国としての機能がなかったようです。

次の最初の地図は Wikipedia の熱河省の地図から作ったもので、 2 つめの地図は 英語版の Wikipedia (日本軍の占領地の地図) の地図を縮小したものです。



Japan Times の最初の記事は 日本人が書いた記事で、里見 甫 (さとみ はじめ) による (麻薬に関しての) 報告書が国会図書館で見つかったというものです。 この報告書は誰もが閲覧できるものです。 更に報告書は China Affairs Board (興亜院) に宛てたものであろうと書かれています。 (原文は, China Affairs Board の後ろに括弧をつけてローマ字で Ko-a-in と書いてあります。) 「アヘン帝国の興隆 -- 朝鮮」の項目で China Affairs Board は興亜院のことであろうと書きましたが、 これで裏付けられました。

この報告書が興亜院に対するものであると結論されたのは、 この文書に 1941 年 4 月 10 日付の及川源七 (興亜院の総務長官) 宛てのメモが付属していたためです。 (日本語版 Wikipedia の興亜院 の項目で「興亜院の人事」が書かれており、及川源七の名前が記載されています。)

興亜院の長は総裁で内閣総理大臣が兼任していましたから、これで日本政府が戦時下の中国における 麻薬取引に直接関与したことが文書で明らかになったことになります。

里見甫によるアヘン取引組織は「里見機関」として知られていますが、 Japan Times では Hung Chi Shan Tang と言っています。 これに関して Japan Times は次のように述べています。


「Hung Chi Shan Tang (里見機関) の概要」と題された文書は、上海に拠点を置く企業の歴史を明らかにしている。 この企業は、里見甫が代表となり、上海を含む日本の占領下の中国中部の支配的なアヘン取引業者であると思われ、 1944 年初頭まで活躍した。


Hung Chi Shan Tang (里見機関) は技術的には 「1938 年に南京に設立された日本の傀儡政権」によって特別に認可を受けた私企業である


Hung Chi Shan Tang (里見機関) が 1939 年に設立された理由の 1 つは、 「アヘン事業を日本の戦時統制下に置くことである」と里見甫が文書内で述べている。

また、文書に付属のメモの中で


「帝国政府の将来の利益のために (借り受けた) 資金を管理し、投資する」と里見甫が 誓約している

つまり、「里見機関」は完全に日本政府の統制の下にあり、日本政府のためのみの組織であることが 文書で裏付けられたことにもなります。

Japan Times の記事で、里見機関の扱った麻薬に関する記述を幾つか列挙します。


文書によれば 1941 年に Hung Chi Shan Tang (里見機関) は 600 万 liang あるいは 222 トンの アヘンを地方レベルの中国人ディーラーに売りさばいた。

訳注 : liang は昔の日本の重さの単位である「両」 (両 - Wikipedia) に相当するもののようですが、 地域によって若干重さが違うようです。

この記述からは、里見機関は直接中国人ディーラーに売りさばいたことになりますが、 「アヘン帝国の支配構造」で書いたことと食い違っています。 「アヘン帝国の支配構造」では、小売のディーラは中国人ですが、 卸のディーラは日本人もしくは朝鮮人です。 里見甫の報告書にはディーラがどこの国籍であるかという点は触れていないと思います。 よしんば、ディーラのことが記述してあっても、組織名であると思われます。 従って「アヘン帝国の支配構造」で記述した広域暴力団の組織はそのまま残っており、 これが里見甫の客であったと思われます。


里見はまた次のようにも報告している。 彼の企業は、モルヒネやコカインを中国の市場価格で直ちに売ることが出来、 市場価格は帳簿価格の倍である。

Japan Times では内モンゴルのアヘンに関して次のように触れています:



1937 年に設立された内モンゴルの傀儡政権は収入を増やすため、組織的にケシを栽培し、 取引をした麻薬取引業者の最大手が Hung Chi Shan Tang (里見機関) である。 1942 年にはアヘンの収益は当初予算の 28 パーセントにも達した。

里見は更に文書の中で「アヘンはモンゴル政府が外貨を獲得できる唯一つの物資なので、 我々は販路拡大に最大限の努力をした。」とも述べている。

Japan Times は里見機関が内モンゴルのアヘンに付け加え、イランからもアヘンを輸入し、 更に満州の熱河省からも輸入したことを述べ、次のように述べています。


1941 年に里見機関が売りさばいた 600 万 liang (= 222 トン) のうちで、 400 万 liang は内モンゴルのもので、 160 万 liang はイランのものである、 と文書で述べている。


注意
途端に内モンゴルのアヘンが登場して、少し違和感があります。 しかし、次のように考えると十分ありえることであることがわかります。 まず、満州の熱河省ですが、これはもともと内モンゴルでした。満州国を設立するときに 組み込まれたのです。従って、内モンゴルには熱河省と同じような場所があるはずで、 そこでアヘンが生産されても不思議ではありません。
英語版の Wikipedia の Economy of Manchukuo (満州国の経済のアヘンの項) では、1934-1935 の満州国では 1 平方キロ当たり 1.1 トンで栽培面積は 480 平方キロメールとしていましたから 生産量は 528 トン程度となります。それに比べると里見甫の扱ったアヘンはかなり少ないことになります。 上の記述で注意する点は、里見甫の扱っているアヘンが新規に設立された内モンゴルの傀儡政権、 およびイランのアヘンを扱っていることです。

1940 年に、南京の傀儡政権、北京の傀儡政権、および内モンゴルの傀儡政権 をあわせて、汪兆銘政権ができて、蒋介石の「中華民国」の向こうを張って まったく同じ名前の「中華民国」と称しました。国旗までまったく同じでした。 ややこしいので「中華民国南京国民政府」とも呼ばれているようです。 (但し、国としてのまとまった機能はあまりなかったようです。) 「満州国」ができたときに麻薬活動の中心を「朝鮮」から「満州国」へ移したようですが、 「中華民国南京国民政府」の樹立にあわせて、麻薬活動の中心を「満州国」から 「中華民国南京国民政府」に移そうとしたのかもしれません。

Japan Times の 2 つ目の記事では、里見甫と岸信介、あるいは広く政治家との関連を追及しています。 その中に次のくだりがあります。


「上海やそれ以外の都市からのアヘンの売り上げは直接東京に渡った。 調査の結果、東条内閣の時にはこのような金は内閣の秘密資金として割り当てられ、 国会議員の補助に使用された。これは戦後、日本と協力関係にあった 中国の指導者を裁くための南京裁判で Mei Sze Ping が書面で提出したものの中に記載されている。

里見甫は東京政府から金を借りて、里見機関を設立したようで、 その理由からも、また既存の麻薬の流通組織との摩擦を解消するために、 東京に金を提供したのかもしれません (ワイロ)。 一方で里見甫は新しいやり方を導入しようとしたようで Japan Times の最初の記事の中に次のようなくだりもあります。


モンゴルと満州国からのアヘンはすべて空輸され、昨年度、航空会社 (中華航空, Chinese Aviation Airway) に対する支払いは軍票で 300 万円に達した。

日本語の Wikipedia の「里見甫」の項目にはかなり嘘があります。「戦後はA級戦犯として起訴されるが無罪釈放。」 と書かれていますが、Japan Times の最初の記事には


東京裁判のときに里見は A 級戦犯として逮捕されるが、不明な理由から、起訴されることがなかった。

無罪釈放ではなく、裁判を受けていないのです。理由が明示されないまま不起訴処分となったのです。

Japan Times に載った記事、その 2 (アヘンの専売制)

Japan Times の 3 番目の記事に、アジアにおけるヨーロッパの植民地でも (満州国などと同様に) 財政の 10 % から 50 % がアヘンの売り上げで占められていたとしています。例えば英国領のインド、香港、シンガポール、 ポルトガル領のマカオ、オランダ領の東インド (現在のインドネシア)、フランス領のインドシナです。

このことは英文のホームページで独立に確認することになりました。 知りたかった点は第二次大戦ではインドシナ、インドネシアなどは日本が占領しますが、 ここでも日本軍は麻薬の専売制を導入するはずです。どのような形態をとっていたのか 調べようとしたことから、いくつかのページがヒットしました。その中のひとつに次があります。

Economic Histories of the Opium Trade (アヘン取引の経済史)、 ピッツバーグ大学、 Siddharth Chandra

ここでは、植民地の財政にアヘンの売り上げが計上されている国として、Japan Times で述べている ヨーロッパの植民地以外に日本領の台湾が挙げられています。(満州は必ずしも植民地でないので ここには含まれていないようです。) 指摘されている点をいくつか挙げることにしましょう。部分的な翻訳です。 英文が読める人は原文を読んでください。



19 世紀後半に世界中でアヘンの消費が増大します。しかしながら20 世紀初頭に倫理的な問題に関しての 議論が激しくなると各国は見かけ上は植民地および本国でのアヘンの消費量を削減する方向になります。 例えば、オランダは (植民地の) 東インドでのアヘンの製造と販売を自国の管理下におきます。 アヘン専売制度 (Opium Regie) と呼ばれる制度が導入されますが、これはフランス領のインドシナ の制度を真似たものです。これでオランダ領の東インドでアヘンの消費が削減できるかどうか 大いに疑問です。明らかに、アヘン専売制度の導入直後の 10 年間ではアヘンの売り上げは ずっと増え、政府に多大の利益をもたらしました。

引用しているページには表も掲載されています。それも引用することにします。 (価格は 100 万ギルダーです。インフレ補正はしていないとのことで、* がついているものに関しては、 アヘンと塩の専売の総計から計算したもので過小評価しているかもしれないとのことです。 表の出所に関してオリジナルの説明をご覧ください。)

オランダ領東インドにおける政府予算に占めるアヘン専売の寄与

年 A :アヘン
の収入 B :総収入 A/B (%) C :アヘン
の利益 C/A (%)
1914 35.0 281.7 13.5 26.7 76
1915 32.6 309.7 11.2 25.2 77
1916 35.3 343.1 10.8 28.4 80
1917 38.2 360.1 11.4 30.4 80
1918 38.8 399.7 10.2 30.1 78
1919 42.5 543.1 8.2 33.2 78
1920 53.6 756.4 7.5 41.6 78
1921 53.3 791.8 7.1 42.1 79
1922 44.2 752.6 6.2 34.5 78
1923 37.6 650.4 6.1 30.1 80
1924 35.3 717.9 5.1 28.1 80
1925 36.6 753.8 5.2 28.7 78
1926 37.7 807.9 5.2 29.1 77
1927 40.6 779.1 5.7 31.4 77
1928 42.8 835.9 5.7 34.6 81
1929 40.9 848.5 5.3 32.7 80
1930 34.5 755.6 5.3 27.1 79
1931 25.3 652.0 4.6 19.0 75
1932 17.3 501.8 4.5 12.3 71
1933 12.7 460.6 3.7 8.6 68
1934 11.1 455.2 3.2 7.2* 65*
1935 9.5 466.7 2.6 6.1* 64*
1936 8.9 537.8 2.2 5.7* 64*
1937 11.5 575.4 2.5 7.7* 67*
1938 11.9 597.1 2.6 8.0* 67*
1939 11.5 663.4 1.7 8.6* 75*
1940 11.7 --- -- 8.5* 72*

原文では更に次のように続けています。



しかしながら、1900 年から 1936 年のアヘンの消費量は、ずっと縮小しています。 このような統計量は
1. 専売制は実際にアヘンの消費を抑えることを意図したもの
2. 専売制はアヘン問題に取り組むのに有益であった
という議論に使用されている。実際のところ 1936 年が 参照の年に使用されたのは不運なことであった。1929 年に始まった 世界恐慌は 1936 年に至るまで -- とりわけ貿易に依存したアジアでは -- 影響があったためである。 世界恐慌における収入の激減と多くの経済における公的なアヘンの価格が 柔軟でなかったため、アヘン消費者の合法的アヘンの購買力が極端に落ち、 合法的アヘンの消費が激減することとなった。

更に原文では、上で引用した表から折れ線グラフを描き、1929 年から 1936 年までの グラフの部分に「世界恐慌」と記しています。 つまり、アジアでは 1929 年から 1936 年までを「世界恐慌」としているのです。

原文では、もう少し分析していますがこのあたりでやめることにしましょう。


注意
1. アヘンの専売のことを Opium Regie を呼んでいますが、普通の英語では Regie ではなく monopoly です。regie はフランス語です。
2. 最初にも述べたように、この項目を書く当初の目的は東南アジアが日本の支配下に置かれたときに どのようにして「麻薬の専売制」を導入したかを知ることが目的でした。 しかし、すでにヨーロッパの植民地である東南アジアでは「アヘンの専売制」が敷かれており、 日本による占領で変化した点は、アヘンが中国から導入されるようになったことぐらいであろう と結論することになりました。 一応、第二次大戦の日本の占領地ではどこでも麻薬がはびこっていたことの再確認になりました。 日本軍が行く所はアヘン屈ばかりができるのです。
3. 「アヘンの専売制」に関しては朝鮮半島のことが言及されていませんが、 これは朝鮮半島ではアヘンが禁止されていたためだと思われます。 アヘンは禁止されていましたが、非常に多くのモルヒネ中毒がいたはずです。


追加
1. 「アヘン取引の経済史」の著者の主張する所は 麻薬の専売制がアヘンの消費を削減したのではなく、 アジアで 1936 年まで続く世界恐慌がアヘンの消費を削減したのだと言っているのです。 1936 年までアジアでは世界恐慌が続いたのだ、という主張を吟味するために 日本のことを考えます。 日本における輸出品で当時中心となっていたものは「生糸」でこれ以外にめぼしいものがありませんでした。 「生糸」の輸出先は米国でした。 世界恐慌により「生糸」の輸出は半減し、元に戻らなかったのです。 そして真珠湾攻撃 (1941 年) により貿易が中断しました。 ですから、確かに表の経済では日本における世界恐慌は日本が米国に宣戦布告を するまで続いているのです。 米国からすれば女性が贅沢を控える程度のことではなかったかと 思われますが.....
2. 「アヘン取引の経済史」で述べていることは植民地政府が提供する合法的なアヘンのことで、 非合法なアヘンでは価格の暴落があったはずです。 世界恐慌の時に遼東半島や朝鮮半島に駐留していた関東軍はどうなったのでしょうか ? 朝鮮半島では、アヘンは非合法化され代わりに合法的なモルヒネが流通していたはずです。 このモルヒネの値段を下げなければ販売が激減し、 値段を下げても利益が激減するはずです。 一方、関東軍は、中国にもアヘンやモルヒネを輸出していたはずですが、 こちらは非合法なものですから需要供給の関係から売値が暴落したはずです。 ここで関東軍はにっちもさっちも行かなくなったはずです。 そのため、満州を領地に組み込み麻薬中毒を大量に作る必要が起きたと考えてよいと思います。 これが満州国ができた理由だと思われます。

Japan Times に載った記事、その 3(軍票)

Japan Times の載った記事には「軍票」のことにも触れています。これは当然触れないといけないのですが、 この「軍票」に関しては、英文のページから多くの事実を調べることができませんでした。 まず困るのが対応する英語です。「millitary yen」あたりが該当しそうなのですが、 Japan Times では「army scrip」と表現しています。そのためインターネットの英文検索では困難を極めることに なります。

Japan Times の記事を参照する前に、英語版の Wikipedia

Japanese military yen -- Wikipedia

書かれていることを引用します。香港に軍票が導入されたときの部分に関しての翻訳です。



1941 年 12 月 25 日に香港の英国殖民地政府が日本の帝国軍隊に降伏した後、 日本の新占領政府は翌日から軍票が香港の法廷貨幣であることを布告した。 日本の占領政府は香港ドルの使用を非合法化し、ドルを円に両替することに 最終期限を設定した。それ以後にドルを所持するものは拷問されることとなった。 軍票が 1941 年 12 月 26 日に始めて導入されたときの 香港ドルと円の為替レートは 2 対 1 であったが、1942 年の 10 月には 4 対 1 と なった。

ドルを手に入れて、日本軍は中立地帯であるポルトガル領のマカオで補給と戦略物資を購入した。

日本は 1944 年に戦争継続に絶望的な努力を払い、香港における日本の軍政府は更に 多くの軍票を流通させ、結果としてハイパー インフレーションを招くこととなった。

これで Japan Times の記事に戻ることが出来ます。記事では早稲田大学教授の Hideo Kobayashi の 意見を次のように引用しています。(翻訳がへたくそにみえますが、 日本語の英訳を再度日本語にするのはとてもやりにくいです。)



国会図書館で見つかった文書から明らかとなった点は、 1940 年代の蒋介石の yuan (元, 圓) に基づく法定貨幣から、 経済覇権を奪取して、軍票を助勢するためにアヘンを使用したことである。 軍票の価値を支えるためにアヘンが使用されたと言われていたが、 どのようにして運用され、どれだけ (アヘンが) 使用されたのか 始めて具体的に明らかとなった。

国会図書館で見つかった文書では里見甫が、アヘンの価格を「元」ではなく、(軍票の) 「円」に 変更したことを報告しており、これが上の議論の根拠を与えているようです。なお、蒋介石 政府の法定貨幣 yuan は漢字ではどのように書くのか少しわからないので可能性のある漢字 (元, 圓) を 列挙しています。軍票のことに関しては次も参考になります。

軍票

ここには「日露戦争・青島出兵・シベリア出兵・日中戦争・太平洋戦争に際して発行され、 日清戦争の時には印刷されたが発行されなかった」としています。 以下見るように、軍票は単独ではかなり危なかしいですが、麻薬とコンビを組めば、比較的に 安定するようです。従って、軍票が発行された場所には麻薬中毒が累々と存在したことになります。

色々なページを引用しましたが少し整理をする必要があります。 第二次大戦前の多くの国では紙幣の価値を保障するために金などと交換可能でした (金本位制, Gold Standard)。 ただ単に紙幣を印刷するだけではインフレになる可能性があります。 日本軍の占領下では、強制的に軍票を使用させたようですが、これだけでは紙幣の価値を 保障することが出来ません。 端的に言って日本の軍票は「金本位制」ではなく「アヘン本位制」を取ったと言えばわかりやすいでしょうか。 これが、Japan Times に掲載されている記事で述べていることです。 また、これは日本軍が軍票を使用し始めた当初からこうであったようです。

しかし、これが可能となるためには、占領下の住民がアヘン (あるいは広く麻薬) を価値あるものと しないといけません。従って、占領下で麻薬が蔓延していないと、軍票の意味がなくなります。 そのため、占領地で麻薬中毒がいなければとても困ることになります。 通常は日本軍は敵地を攻める前に、敵地で麻薬を蔓延させる下工作をしていますから、 占領と同時に軍票が効果を持ったことでしょう。 しかも軍票以外の (敵の) 貨幣 (yuan) では麻薬を購入できないようにでもすれば、 貨幣の移行は極めてスムースに行くはずです。しかし、いくら麻薬で価値を保障されていても あまりに軍票を乱発すれば、ハイパーインフレーションととなることが必定のようです。

通常、戦争では直接の戦闘員よりも補給 (logistic) に従事する非戦闘員の方が多くなります。 ところが明治以後、第二次大戦に至るまでの日本軍には補給らしい補給がなく、ほとんど現地調達です。 そのための軍票なのです。しかしこれはとても危険です。麻薬が浸透しておらず、しかも食糧事情が極めて悪化している場所を 占領しなければならないとしたらどうなるのでしょうか ? この話は「南京大虐殺」で述べることにします。


注意
日露戦争で軍票が使用されています。日露戦争では海戦もありますが、満州も戦場となっています。 ここで軍票が使用されたようです。従って、この際にも、麻薬が持ち込まれたはずです。 日露戦争 (1904-1905) のときは、まだ清国が存在していますが、 清国が麻薬撲滅運動を開始するのは 1906 年です。(日露戦争の終了の翌年にこの様な活動を 開始したのはひょっとすると日露戦争であまりに麻薬が蔓延したせいかもしれません。 英国も中国に協力しなければならなくなったのかもしれません。) 従って、日露戦争の時点では比較的容易に麻薬を売りさばくことができたはずです。 日本は戦争をする前に、その下工作として、戦場となる場所であらかじめ麻薬を蔓延させていますから、 この場合も同様であったと思われます。軍票と麻薬のコンビを組ませることが、 極めて有効であることに気がついたのは恐らく日清戦争のときだと思われます。 このときは、あらかじめ準備していなかったので間に合わなかったのでしょう。
Japan Times に載った記事、その 4(商人)

Japan Times の 3 番目の記事では次のように述べています。(翻訳)



英国は 1913 年にインドから中国へのアヘンの出荷を停止した。

そしてヨーロッパ各国と日本は 1912, 1925, 1931 年に開催された 3 つの国際会議 で署名をし、アヘン事業を政府の制御下に置き、段階的に縮小する義務を負うこととなった。

しかし、日本は中国北東部で日本の商人たちによるアヘンその他の麻薬の 取引を野放し状態にして抑制することがなかったため、 1920 年代の中ごろから英国に代わり、国際連盟 (League of Nations) で 国際的な非難の主要な対象となることになった。

少しややこしいので、この時期の前後の主な出来事をまとめます。

1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1920 年代 中国北東部で日本の商人たちが麻薬取引
1931 満州事変
1932 満州国設立
1933 国際連盟から脱退
1936 興亜院の設立
1938 南京占領、傀儡政権の設立
1939 里見機関の設立

Japan Times の記事の中の「中国北東部」と言っているのは満州、もしくはその周辺のことでしょう。 ここで気になる言葉があります。「商人」(merchant) です。 普通の言い方では「麻薬のディーラー」を「商人」とは呼びません。 このような書き方をしているのは、記事を書いている人が 色々下調べをした文献の中に「商人」(merchant) と書いてあったから、 そのままここに書いた可能性が大きいです。 英語では参考にした文献に書いてあるように記述するのが普通です。

「アヘン帝国の支配者」で説明をしたように 満州ではアヘンを独占的に扱う組織があり、 「ニキサンスケ」と呼ばれる「商人」のグループが流通部門を独占していたとされています。 これは英語版の Wikipedia に書かれていることでした :

Economy of Manchuko -- Wikipedia (満州国の経済のアヘンの項目 -- 英語版 Wikipedia)

従って、英語版の Wikipedia の「満州国の経済のアヘン」の項目における「商人」(merchant) が Japan Times の「商人」(merchant) に由来していると考えるほうがよいようですが、 この時点ではまだ満州国はできていません。 満州国が設立されれば、国内でアヘンの専売が始まるはずです。そのときアヘンの専売を 一手に独占する人たちも英語圏で「商人」(merchant) と呼ばれた可能性が高いと思われます。 そして、この人たちが「ニキサンスケ」であったと思われます。

英語版の Wikipedia の「満州国の経済のアヘン」の項目における「商人」(merchant) の 組織は満州国の設立以来あったはずです。 日本語版の Wikipedia の 鮎川義介 を読むと、鮎川義介は満州重工業開発株式会社の総裁で

当時の満州国の軍・官・財界の実力者、松岡洋右(満鉄総裁)、岸信介(産業部次長)、 東條英機、星野直樹らと並んで「2キ3スケ」とあだ名された。
としています。 日本語の Wikipedia で岸信介の経歴を調べると、

1936 渡満、満州国国務院実業部総務司長
1937 産業部次長 (「産業開発 5 ヶ年計画」)
1939 総務庁次長

満州国の産業が色々な意味でアヘンと結びついていたと考えれば、産業部次長の時が最もアヘンと近いようです。 「アヘンの権限を独占する組織の構成メンバー」は例えば次のようなものであったのではないでしょうか ? 満州国は傀儡政権ですから、表面的な肩書きは意味を持たず何らかの (アヘンを統括する) 裏の組織があったはずです。 (なお、星野直樹は満州国の建国以来から満州国の (裏の) 代表ですから、少し別格かもしれません。 また東条英機は総理大臣となりますが、満州国内にもアヘンを統治する組織は続いたはずです。)


秘密組織のメンバー (満州国のヤクの帝王たち)

1. 満州国の代表 (星野直樹)
2. 関東軍の代表 (東条英機)
3. 南満州鉄道 (満鉄) の代表 (松岡洋介)
4. 満州国財閥の代表 (鮎川義介)
5. 満州国国務院産業部次長 (岸信介)

何らかの意味でアヘンに関連しそうな組織名が出るように書いてみたのですが、 どうでしょうか。 岸信介は、実務担当と判断できそうです。英語版の Wikipedia の「満州国の経済のアヘン」の項目には 鮎川義介を満州国財閥の座長 (chair man) としており、更に もう一名 (Kuhara Fusanosuke) が入っています。これは久原房之助のようで、鮎川義介と 同じような立場の人です。財閥の代表が代わったのかもしれませんし、あるいは代表が 2 名いたときが あるのかもしれません。

英語版の Wikipedia の記述で、「ニキサンスケ」のメンバーの肩書きがカッコつきで 記入されています。そのなかに、「商人」(merchant) と記されているのは「岸信介」のみです。 恐らくは「岸信介」(あるいは産業部次長) が組織のただ一人の実務部門の担当者で、 直接麻薬に関連する可能性が極めて高かったのではないかと思います。


少し蛇足ですが、南満州鉄道で走っていた蒸気機関車は国内の蒸気機関車より、 とても速かったようです。特急アジアが最高時速 110 km で走っていたことが記されています。

瀋陽蒸気機関車博物館

には、最高時速 130 km の蒸気機関車も見ることが出来ます。 しかし

ドイツ国鉄05形蒸気機関車

を見ればわかりますが、05 002 型が 1930 年代に最高速度 200 km を記録しています。驚くべきことに、 これと同じシリーズの 18 201 型はまだ動くことができ、21 世紀に入って、最高時速 180 km を記録したそうです。次に説明があります。

Fastest Steam Locomotive

この下のほうに写真がありますが、次をクリックしても写真を見ることが出来ます。(うまくジャンプできなければ一旦元に戻って再びクリックしてください。)

18 201: The world's fastest currently operational steam locomotive
(18 201:現在稼動可能な蒸気機関車で世界最速)


追加
蛇足を書いた目的を書くことを忘れていました。 当時の日本の技術はトップクラスでは到底ないことを書きたかったのです。 満州の蒸気機関車は米国などの機関車のイミテーションなのです。 自力で開発したのではない。蒸気エンジンもエンジンなのです。 エンジンの製造は日本は不得手あったはずなのです。部品が多いせいです。 蒸気エンジンにせよ、ディーゼルエンジンにせよ、 構成部品の数が多ければ、 当時の日本は最先端の製品を作ることができなかったのです。 これは戦後にも反映し、日本はエンジン製造では欧米に太刀打ちできなかったはずなのです。 突破口は電車です。電気モーターは部品の数が多くないので、 高性能化することができ、新幹線ができたのです。 だからこちらの方が早く、新幹線よりはずっと後になって、自動車の製造で世界レベルとなることができたのです。
南京大虐殺

「アヘン帝国の支配構造」に書いたように戦争中における「日本政府による麻薬事業」 により「南京」における麻薬中毒が全人口の 1/8 に達しています。このような事態になる前に 有名な「南京大虐殺」が起きています。

狭い意味の南京には城壁があり、日本語の Wikipedia では南京城と呼んでいます。 これを含む行政区も南京 (南京特別行政区, Nanjin Special Municipality) と呼ばれています。 この広い意味での南京の行政区には当時 150~160 万人の人が住んでおり、 南京城の中には常時は 20~25 万人の人が住んでいたようです。 しかし南京城が落城したときには、ここにずいぶん大勢の人が避難していたようです。 1937 年 12 月 13 日のことでした。 戦争はこれで終結したかのように見えましたが、 その後 6 週間にのぼる日本軍による大量殺戮が開始されたのです。

2007 年 12 月 13 日は、南京大虐殺の 70 周年記念にあたり、 Japan Times にもこれに関連した記事が載りました。

Nanjing Massacre certitude: Toll will elude (南京大虐殺は確実 : 犠牲者の数で一致せず)

それによると、現在では「南京大虐殺」があったことに関しては 日本の歴史学者も認めているようですが、犠牲者の数で中国と 日本の歴史学者と大幅な開きがあるというものでした。 中国の公式な犠牲者の数は南京城内で 30 万人であり、 日本の歴史学者は、広い意味の南京の行政区で 1 万人から 20 万人を 超える程度とのことでした。 この記事はかなり偏見を持っており、 日本人が書いた記事であることは署名を見なくても明らかです。

偏見を持っているように感じたのは、次の点です。「日本軍の将校が 軍の規律を守らせることができなかった」とあった点です。 ここまで私が書いた内容を読めば関東軍には軍隊の規律がなかったことは 明白です。あるとすれば軍隊の規律などではなく暴力団の規律です。 戦争を吹っかける前に敵地に麻薬を蔓延させ、いざ占領すれば 大量の麻薬中毒を作るような組織が軍隊といえるはずもありません。 あったとすれば、暴力団の規律で、これはでたらめとなるのが必定です。

しかし、単にこのように述べるよりは、 英語版の Wikipedia で少しは南京大虐殺のことを調べる方がよいであろうと 思い少々時間をかけることにしました。

Nanking Massacre -- Wikipedia


中国と日本の間に、犠牲者の数で隔たりがあることも書いてありましたが、 Japan Times の報道ほど離れてはおらず、日本の歴史学者は犠牲者の数を 10 万人から 20 万人考えており、 日本、中国以外の歴史学者は 15 万人から 30 万人程度と考えていると指摘していました。 そのあとで 2007 年の 12 月の 12 日に、すでに公開されている米国の文書の中に 新たな文書が発見され、更に 50 万人の犠牲者が明らかになったと指摘していました。 これを最初に読んだのが一昨日 (2007 年 12 月 13 日) です。少し文脈が理解できずに何度も読んでいましたが、 そのうち、これにリンクが張られていることに気がつきました。次です。

U.S. archives reveal war massacre of 500,000 Chinese by Japanese army
(米国の公開公文書から日本軍により 50 万人の中国人が殺戮されたことが明らかとなった)

新華社通信 (Xinhua News Agency) のインターネット版です。 新聞記事 (2007-12-12 20:45:20 ) ですから そのうち読めなくなる可能性があります。少し詳しく引用します。基本的には 1937 年の南京占領に至るまで、日本軍は 50 万人の中国人を殺戮したというものです。 明るみに出されたのは 2 つの電信文です。



日本が南京を占領した翌日の 1937 年 12 月 14 日に、 米国の駐独大使であった ウィリアム・エドワード・ドッド (William Edward Dodd) は ベルリンからルーズベルト大統領に電信を送っており、 その中で次のように述べています。 「今日、極東からの報道は以前にもまして悪化し、日本軍の残虐行為に 関してのあなたと国務長官の発言を読みました。 当地における日本の大使は 2,3 日前に日本が 50 万人以上の中国人を 殺したことを豪語していました。」

もう一通の電信は、 1938 年 1 月 25 日、上海の米国領事であった クラレンス・E・ガウス (Clarence E. Gauss) が国務長官の コーデル・ハル (Cordell Hull) に宛てた報告で、その中で 同時期の南京周辺の都市にいた米国の宣教師によって目撃された 日本軍の残虐行為を述べています。

この 2 つの電信文は中国の歴史学者 Wang によって、 公開されている (おびただしい数の) 文書の中から 発見されたもののようです。 またこれは上海で出版されている Academic Monthly に掲載された論文に 述べられていることのようです。その中で Wang さんは「電信文から判断すると虐殺は南京に始まったのではなく、 日本軍が上海から南京への進撃途中に始まったことがわかる」としています。

新華社通信の記事の最後あたりで、電信文に出てくる日本の駐独大使は Shigenori Togo であると しています。漢字がわからなくて探すのがちょっと難しかったのですが東郷茂徳のようです :

東郷茂徳 (日本語版 Wikipedia)


追加
殺戮の件はそのうち米国も知ることになり、 そうなれば再び日本は非難されることになりますから、 東郷茂徳は、 自分の方から攻勢に出て、米国の外交をひっかきまわしたのでしょう。 これは日本政府の指示にもとづいているはずです。 つまり、この時点での日本政府は関東軍による 50 万人もの 中国人の殺戮を了解していたのです。
南京占領までに 50 万人を殺戮していますから、南京城内で 30 万人の犠牲者がいたという 中国の主張はまず間違いないように思われます。


なぜここまで大量の殺戮をしたのかが疑問でしたが、しばらく考えるうちに非常に自然な解答があることに気がつきました。 まず、Japan Times では、南京が落城したときに投降した数千名の中国兵は食糧不足から 殺戮されたと述べています。これに関しては、日本の歴史学者にも異論はないようです。 Japan Times は日本軍はそのとき、極端に食糧不足であったという点にも触れており、それが規律を 維持できなくなった理由であるとも述べています。それ以上に関して、実際の犠牲者の数で -- とりわけ 日本の歴史学者と中国の歴史学者で -- 一致を見ていないということを指摘しています。

ここでもう少し単純に考えることにします。常時は南京城内に 20~25 万人の人がいたとしましょう。 日本軍の侵略から、城内に逃げ込む人が現れるのが当然です。どのくらいまでの人が逃げ込めるでしょうか。 恐らく近郊には、城内にゆかりの人がかなりいるはずですから、逃げ込めるだけの人が逃げ込んだと 考えるのが普通です。日本の歴史学者には 50 万人の人がいたと考えている人がいるようです。 これを採用することにします。これで極めて深刻な問題が登場します。衛生上の問題もありますが、 水と食料です。 この状態で落城したとしましょう。水と食料の問題はこれで解決するでしょうか。 日本軍は軍票を乱発して、食糧問題を解決できるでしょうか ? 常時は南京城内に 20~25 万人しかいなかったのですから、その程度の人数分の 食料しか確保できないと考えてよいと思います。おそらく、この食料は近郊の農村から荷車などで 常時補給できる食料の上限であると思われます。今日、都会では職を手に入れることが出来れば いくらでも人口が増えます。(逆に職がなくなれば人口が減ってしまいます。) これが可能なのは 流通網が整備されているからです。南京は当時の蒋介石の中華民国の首都ですが、 物資の流通網は整備されていたとはいえないと思います。流通網が整備されていないから、 投降した数千名の中国兵を皆殺しにしたのです。食糧確保が出来なかったからです。 それでは、戦火を避けて南京城に逃げ込んでいた一般市民はどうでしょうか ? 南京城内に食料が登場すれば、この人たちが殺到したはずです。 いくら軍票があっても、食糧確保に極めて困難なことになっていたはずです。 しかも、南京は日本軍が占領下に置くまでに麻薬がなかった場所です。軍票があまり 意味を持っていなかった。

余剰の食料を手に入れるために、日本軍は余剰の住民をシステマチックに殺戮したのです。 これが最も簡単な説明だと思います。50 万人いる中で 30 万人を殺せば 20 万人が残ります。 これで余剰の食料を手に入れたのでしょう。上海から南京に至るまで同様な問題に直面し、 同じように極めてシンプルな解決を与えたと考えるほうがよいのではないかと思います。 あまりに短期間の間にあまりに大量の殺戮は困難ではないかという点が日本の歴史学者の論拠の ようです。しかし、日本の軍隊が飢餓状態にあったとすればそれも説明が付くのではないかと思います。


英語版の Wikipedia には南京大虐殺の生々しい写真が掲載されています。 以下にそれを掲載します。 写真は日本の新聞に掲載されたものもありますが、 コピーライトが (日本の法律に照らし合わせても) すでに消滅しているとのことです。


日本軍が南京に行進する写真、一般市民の恐怖がこれで開始されます。






松井石根の南京への入場。馬で入城していることに注意してください。燃料がなくなっており、距離がある場所からの食料の調達が不可能ととなっていることがわかります。食料の調達は南京城内でしかできない。




生き埋めにされる中国市民




Murase Moriyasu による「私の従軍中国戦線」から (著者の漢字名が不明), 死体だらけ




殺されて埋められる市民たち




首を切られた一般市民たち


英字紙などでは虐殺された人の写真をよく見ることがあります。 上の写真を見ると、公然と写真が撮影されていることがわかります。 殺戮を隠蔽するどころか、その逆なようです。 日本の歴史学者が言っているように軍隊の規律がとれなくなって、殺戮が起きたのではなく、 ほぼ確実にシステマチックな殺戮と考えるほうが正しいと思います。 またこのような写真が撮影された状況から判断をしても、南京城内で 30 万人もの犠牲者があったとする 中国の主張は納得できるものです。



百人の首を軍刀で切り落とした人は当時日本で英雄扱いされました。
首を切られた人たちはほぼ確実に一般市民です。




「南京大虐殺」に関しては次のページも参考になるようです。

Japanese Army's Atrocities -- Nanjin Massacre

このサイトには写真も掲載されています。英文の Wikipedia の写真と重複している部分があります。 次がそのトップページです。全部で 6 ページあります。「Next Page」と書いてあるボタンを押すと 次のページに移動し、「Previous Page」と書いてあるボタンを押すと、前のページに戻ります。 写真はクリックするとすべて大きなものが表示されます。(あまり見ないほうがよいです。悲しくなります。 主だった箇所にリンクを張るためにしているだけです。)

Japanese Army's Atrocities (page 1 of 6)


英語版の Wikipedia には「南京大虐殺のメモリアル ホール」(Nanjing Massacre Memorial Hall) の記述があります。この建物の入口には犠牲者の数 (300000) が記されています。 (日本の歴史学者はこの数値を目の敵にしています。) 12 月 14 日の IHT (= International Herald Tribune) には 新たに付け加えられた陳列物の写真がありました (Reuter)。犠牲者が埋められていた土地をそのまま切り出して、 断面を見せています。おびただしいばかりの石化した骨が見えますが、残念なことに写真をこのページに載せることが できません。

Nanjing Massacre Memorial Hall - Wikipedia

Image:Nj06.jpg - Wikipedia の縮小図



英語版の Wikipedia の「南京大虐殺」の最後に別の意味で興味ある写真があります。 マンチェスターガーディアン (Manchester Guardian) の新聞記者である ティンパレー (H.J.Timperley) はこの電信文を書きますが、 上海で差し押さえられ、日本の外務大臣の広田 弘毅により, 1938 年 1 月 17 日にワシントンの日本大使館に転送されます。 通信文は途中で米国により傍受され、解読されました。





この通信文の内容は 1994 年 9 月に NARA (= National Archive and Record Adrministration) により 出版されています。テキストの内容は


上海に数日前に帰ってきてから南京と周辺で日本軍が虐殺をしたという報道があり、これを調査した。 信頼できる目撃者の口頭による証言および非常に信頼できる人からの手紙から 日本軍がアッチラたちのやり方にも似た方法で行動をとり、また行動をとり続けていることの 確証を得ることになりました。最低限 30 万人もの中国市民が殺され、しかも冷血な 方法で殺された。強盗やレイプが横行している。しかもか弱い子供たちも対象となっている。 何週間も前に戦争が終わったのにもかかわらず市民に対する不条理な暴行が報道され続けている。 良心的な日本人は非常に恥ています。 南京における日本軍の非難すべき行動により、緊張感が高まり、 上海でも日本兵が凶暴に振舞う事件が起きている。 North China Daily の今日の報道ではとりわけ目まぐるしく変化する事件を 報道している。その事件では酔っ払った日本兵が女を手に入れることができず、 酒を要求し 60 才過ぎの 3 人の女性を撃ち殺し、何人かの一般市民を負傷させた。


追加
1. 大変なことを見落としていました。 「マンチェスター ガーディアン」とは昔の名前で現在は「ガーディアン」です。 日本の全国紙など及びも付かないような世界のトップクラスの新聞です。
The Guadian - Wikipedia
差し押さえられたのは恐らく「マンチェスター ガーディアン」に掲載される記事だったのです。 「ガーディアン」に掲載される記事は日本の全国紙などよりははるかに信頼されています。 従って、上の内容は決定的な意味を持ち、それだけでもって 30 万人の犠牲があったことが事実として世に受け入れられます。
2. 「マンチェスター ガーディアン」(あるいは「ガーディアン」) のように著名な新聞であれば、 情報提供者は南京政府の高官であった可能性があります。南京城への出入りは恐らく自由ではなく、 (日本軍のスパイが侵入することを防止するために) 身元検査でもしていたとが 確実で、城内の人口を把握していたことも確実だと思います。
3. また外務大臣がワシントンの日本大使館に電信を転送したというのであれば、 その内容の重要性、あるいは信ぴょう性も増すと考えることもできます。 つまり、電信の内容が真実で、その内容が米国にすでに知られているかもしれないという懸念から 日本大使館に注意を促したのだとも考えることができます。内容に根拠がないのであれば 外務大臣が転送するはずがない。


暗号を解読したことが出てきますが、これは「パープル暗号」であると思います。 1 年以上前の日本語の Wikipedia の「パープル暗号」の記事はとてもいいかげんなものでしたが、 最近とても良くなっていることに気が付きました。信頼できる内容です:

パープル暗号 - 日本語版 Wikipedia

「パープル暗号 (機械)」は第二次大戦中に日本の外務省が使用した暗号機械で、海軍によって提供されたものです。 海軍は数学者の「高木貞二」のアドバイスからこれを全面的に信頼したようです。 陸軍は別の暗号機を使用していましたが、暗号機を信頼しておらずあまり使用されることはなかったようです。

パープル暗号は戦争前から完全に解読されており、 電信による連絡はすべて内容が米国、英国に筒抜けでした。


参考

パープル暗号の解読はすさまじかったようです。これは戦況にも影響を与えています。 ノルマンジー大作戦が開始される前に、ドイツは連合軍によるノルマンジー上陸に備え、 ノルマンジーを要塞化しますが、その詳細な内容を当時のドイツの日本大使館に 教えています。そして、その詳しいデータがパープル暗号によって日本本国に送信されました。 英国がこれを傍受し、解読していました。このおかげで、ノルマンジー上陸作戦を具体化できた ようです。

しかしパープル暗号の解読は反面、米国の油断を招いたのではないかと思います。 真珠湾攻撃のとき日本軍は電信を一切使用しませんでした。


追加

現在では、日本語の Wikipedia のパープル暗号の項目には年譜まで付いています。 私が書いたノルマンジー大作戦のことと、年譜のことが若干矛盾しそうにも見えます。 日本語の Wikipedia には「フランス戦線の視察報告が解読される」と あり、ノルマンジー上陸作戦に貢献と書いてあるからです。 私が、どこかの英文の頁を読んだときには、解読されたのは 1 度ではなく、何度もです。 全部が全部解読されているのに性懲りもなく電信を送り続けているのです。 ちょろっと滑稽だったので、よく記憶しています。 最新鋭の機械を使っているつもりなのでしょう、膨大な電信文を送っており、 これが全部解読されていたのです。笑い話になりそうです。

英語版 Wikipedia のパープル暗号 に掲載されている写真の縮小版



第二次大戦中の米軍の暗号解読を担当したのは 「軍部安全保障局」 (Armed Forces Security Agency) でこれが戦後「国家安全保障局」(NSA = National Security Agency) となります。上のパープル暗号機は NSA もしくは付属の博物館に展示してあるものだと思います。 NSA のホームページの 下に Photo Gallery があり、 ここにエニグマ (独の暗号機) と一緒に写真が掲載されています。 パープル暗号はエニグマと同様に観光用に陳列してあるはずです。


追加 2

2008 年 9 月 29 日に、ワシントンからの共同通信の英語ニュースが Japan Times に載りました。 ほぼ同じ記事を次で読むことができます。

• Message in old cipher led to Adm. Yamamoto's death: U.S. documents+
• Message in old cipher led to Yamamoto's death: U.S. documents
ここに、JN25 という暗号が登場します。色々調べているうちに英語版 Wikipedia
Japanese naval codes - Wikipedia (日本の海軍の暗号)
に解説されていることに気が付きました。

パープルは海軍が外務省に提供した暗号ですが、 海軍自身は基本的に違う暗号を使用していたことがわかりました。JN は Japanese Navy (日本海軍) の頭文字で、JN25 というのは 25 番目の暗号の意味だそうです。 JN25 は時と共に随分変化したようで、 1941 年 12 月 7 日の真珠湾攻撃の直前に基本的に変化したそうです。 しかし、このバージョンの JN25 は 1942 年の 5 月末までには、十分に解読が進み、 アメリカによるミッドウェー海戦 (1942 年 6 月 4 日 から 7 日) の勝利を導いたようです。 暗号解析には IBM のタビュレーティングマシンも使用され、 また日本の公文書、書簡は紋切り型の決まり文句で始まっていたため、 クリブ (crib) と呼ばれる暗号解析の手法が可能であったようです。

•クリブ - 日本語版 Wikipedia
•Crib (cryptanalysis)

真珠湾攻撃以前の暗号文書は多くが手渡しで伝えられていたため、JN25 の解読率は 10% にも ならなかったようです。しかし、真珠湾攻撃以後非常に多くの暗号文が電信で送られたため、 1941 年の末には、暗号解析に十分な資料が手に入り、わずか 5 ヶ月で JN25 の解読に成功したことになります。

最初に引用した新聞記事では、山本五十六が前線視察することを通知する 暗号化された電信文 (1943 年 4 月 13 日付) が傍受、解読されて、 待ち伏せにあった山本五十六の飛行機が撃墜されて、戦死することが書かれています。 新聞記事にはこのとき使用された暗号はすでに、 旧式になっていて、旧式の暗号を使い続けたから、 山本五十六が戦死したのだと書いています。新聞には JN25E14 と書かれていました。後の 3 桁がマイナーバージョン を意味するのでしょう。 JN25 のバージョンは随分変化し、変化した直後は解読を最初からやり直さなければならなかったこと もあるようです。JN25 は結局 JN40 となるようですが、 こちらのほうは 1942 年の 9 月の日本のエラーから手がかりがつかめ、 1942 年の 11 月までには完全に解読できるようになっていたとのことです。 だから、暗号のバージョンを上げていたところで、山本五十六が 最後まで生き延びれたかどうかは、疑問ではないかと思います。

年表

非常にややこしいので、年表としてまとめることにしました。

  1793 英国の東インド会社が「アヘンの専売制」を導入
  1878 英国が中国の植民地およびインドでアヘンの登録制を導入
登録したもののみがアヘンを購入できる
(台湾の「阿片漸禁策」と同様にアヘンの消費を抑制するとしたふざけた主張)
明治12 1879 アヘン専売法
明治27 1894 日清戦争が開始
日清戦争中、日本はアヘンで多大な利益を得る
明治28 1895 日清戦争が終了 (下関条約)
台湾が日本の支配下
中国との通商条約で日本がアヘン戦争の勝利国と対等の立場 (不平等条約)
(日本も中国に阿片を持ち込めるような条約)
明治31 1898 後藤新平が台湾総督府民生長官
阿片漸禁策 (1878 年に英国が植民地で導入した方式と類似のもの)
見かけ上の論理とは別に単に麻薬で儲ける政策
明治37 1904 日露戦争 (1904-1905)
(軍票の使用開始)
明治38 1905 桂・タフト協定
(米国がフィリッピンを手に入れ日本が朝鮮を手に入れるための秘密協定)
日露戦争が終了 (ポーツマス条約)
日本が朝鮮を保護国化
明治39 1906 南満州鉄道 (満鉄)、日本の会社
(日本が恒久的な麻薬ルートの確保)
中国がアヘン撲滅運動開始
英国と中国間にインドのアヘンの持ち込みを停止することを目的とした協定を締結
明治43 1910 日韓併合
明治44 1911 英国と中国間に二度目の協定(インドのアヘン持込の段階的停止)
辛亥革命
大正元 1912 ハーグにおける万国阿片協定
大正 2 1913 英国によるインドから中国へのアヘンの持込が事実上終了
この頃、ヨーロッパのモルヒネが日本により中国及び朝鮮に持ち込まれる
英国のモルヒネはインドのアヘンを加工したもの
大正 3 1914 第一次世界大戦開始
青島占領 (日本が麻薬ルートの確保)
朝鮮でアヘンが禁止 (朝鮮はモルヒネ化)
この頃台湾にモルヒネ工場
大正 4 1915 対華21ヶ条要求
(この結果、ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承,
また日本人が南満州で自由に往来する権利と、工場などを作る権利を確保
麻薬の密輸に好都合となる)
大正 6 1917 朝鮮にモルヒネ工場
朝鮮のモルヒネが満州を経由して大量に中国に持ち込まれることとなる
大正 7 1918 シベリア出兵開始
シベリア出兵で日本は外満州 (極東ロシア) と内満州 (いわゆる満州) を占領
(広範囲の麻薬ルートを獲得)
台湾のアヘンの売り上げがピーク (800 万円以上)
大正 8 1919 ニューヨークタイムズの記事
(この頃日本のモルヒネが中国に怒涛のように乱入)
ベルサイユ条約 (第一次世界大戦終了)
(多くの国により万国阿片条約が批准される)
大正11 1922 シベリア出兵終了
中国へ青島返還
昭和 4 1929 世界恐慌
昭和 6 1931 満州事変
昭和 7 1932 満州国成立
星野直樹はアヘンの専売のために日本の銀行 (複数) から多額のローンを取り決める
満州国に朝鮮の麻薬の売人が大量に投入される
満州国が麻薬活動の中心となる
昭和 8 1933 リットン報告書、日本が国際連盟から脱退
日本に対する経済制裁成立せず (米国が国際連盟の一員ではなかったため)
昭和 9 1934 1934-35 年、満州におけるアヘンの栽培面積は 480 平方キロメートル、
1 平方キロメートルあたり 1.1 トン、1 年あたり 2000 万円から 3000 万円の利益
昭和11 1936 興亜院の設立
麻薬政策の一本化、内閣総理大臣が掌握
昭和12 1937 日中戦争の開始
南京占領
昭和13 1938 南京傀儡政権の設立
南京傀儡政権の下でアヘン、ヘロインなどの麻薬が大量に流通する
満州の麻薬の売人たちが大量に南京傀儡政権の領土に投入される。
昭和14 1939 里見機関の成立、(日本政府から資金提供を受ける)
里見機関は内蒙古のアヘン、イランのアヘンを持ち込む
昭和16 1941 真珠湾攻撃
昭和20 1945 日本の降伏
昭和23 1948 東京裁判



http://mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/section4F/kuiper_section4F.htm

  ページの最終校正年月日 : 12/18/2010 12:44:56

アヘン帝国の土壌

皇国史観

最初から色々な事実には気が付かないものです。 「アヘン帝国 -- 汚れた歴史」を書いていたときに、英語のページの随所に日本人が中国人を「劣等種族扱い」をしていることが 指摘されていたのですが、その本当の理由には気が付きませんでした。 最初は当時の日本人の方が多少とも現代化しているから、その理由かな... などとも 考えていました。しかし、時間がたつにつれ「皇国史観」という言葉が とても深い深層意識の中から浮かび上がってくることに気が付きました。 もうとうの昔に忘れてしまった言葉です。

「皇国史観」とはどういうものか、色々なところに説明があるでしょうが、 これは要するに



天皇は神 (あるいは現神 (あらがみ)) であって、日本は神の国である

ということです。「神の国」以外の人間は「劣等種族」なのです。だから平気で 強制的に麻薬中毒にして、絞る取るようなことをしたのです。また、こうすることこそが 神の僕 (しもべ) たる義務であり、「お国のため」なのです。

以前、アメリカで連続殺人の犯人 (serial killer) が殺人現場に



Call me God (私を神と呼べ)

というメッセージを残していたことを思い出しました。これは映画ではなく実際の事件です。 日本でもこの事件は報道されたと思いますが、このメッセージには触れていませんでした。 人を殺してばかりいると、自分が神にでもなったつもりになるのでしょうか ? 同じように



罪のない人たちを強制的に麻薬中毒にして、絞り取り立てる

ことは、神の領域に近くなるのかもしれません。 また自分たちが神の立場、あるいは神に近い立場であれば、 理不尽な行動は、より神としての自覚を与えたことになるのかもしれません。


注意
この「皇国史観」は日本人にとって、よかったものでしょうか 「皇国史観」は天皇に立場が近ければ近いほど、有利なのです。 より遠ければ、理不尽な犠牲が、より要求されます。 各地の歴史的な土木工事で、よく耳にするのが「人柱」です。 古 (いにしえ) の時代から、日本の技術力の頂点と称するものには 常に「人身御供」や「いけにえ」が付きまとっています。 「皇国史観」にもこの「いけにえ」が付きまとっていると考えるべきです。
英国の 2 度のアヘン戦争は、ビクトリア女王のときに起きています。 英国が中国にアヘンを輸出することに関して、ビクトリア女王は、 積極的に奨励した、とどこに書いてあったと思います。また当然儲けの一部もビクトリア女王に渡っていたと思います。

同じことは日本にもあてはまらないでしょうか ? 明治天皇のときに、英国と同じように日本でも 2 つの戦争 (日清戦争、日露戦争) を引き起こし、このどちらでもアヘンで多大な利益を獲得し、 それ以後は、日本によって更に多量の麻薬が中国に持ち込まれます。 上流階級 (上級士族、上級華族、皇族、天皇) は、すべて日本が中国を麻薬漬にして 儲けていることは承知していたでしょうし、またそれを奨励していたことは ほぼ間違いないはずです。 また英国と同様にそれで利益を得ていたことでしょう (無論麻薬の儲けの多くが軍費などにつぎ込まれますが、それだけで すむはずもないことは火を見るよりも明らかです)。 原動力は「皇国史観」にあります。 あるいは、むしろ中国、あるいはアジア全域を麻薬漬にすることこそ 「皇国史観」なのです。「大東亜共栄圏」という言葉もありますが、 「大東亜共栄圏」はむしろ「皇国史観」の派生事項です。


注意
興亜院を作ったのは近衛文麿であり、彼は貴族です。 興亜院は色々な機能があるように見えますが、基本的には「内閣総理大臣による麻薬取引の一元化」です。 従って近衛文麿は犯罪者です。日本語の Wikipedia の近衛文麿に「戦犯容疑」などと、たわけたことが 書いてありますが、戦犯容疑以前にただの犯罪者です。 アヘン帝国で貴族が果たした役割は極めて大きく、そして薄汚いのです。
「皇国史観」と言えば「右翼」のことを想起することが多いと思います。 この日本語の「右翼」を英語に翻訳するときには恐らく right wing (右翼) とは ならないと思います。right wing でもよいかもしれませんが、yakuza (ヤクザ) と するほうが普通だと思います。現代では日本語ではあまり「ヤクザ」という言葉を使用せずに 代わりに「暴力団」を使用するほうが多いので、結局、日本語から英語に翻訳し、 更に日本語に翻訳しなおすと、「右翼」は「暴力団」となります。


注意
英語の Yakuza は日本語の「マフィア」と同じような使い方をされ、 これは「スシ」などと同様に日常的に使用される英語です。 英語版の Wikipedia
Yakuza - Wikipedia (ヤクザ)
には、「ヤクザ」の一種として「右翼」が紹介されています。 戦前の右翼の資金源は麻薬で、また最近の右翼の資金源は「業界紙を強制的に購読させること」 にあるようですから、暴力団と考えて差し支えないと思います。区別すること自体がおかしい。
平民の場合はどうだったのでしょうか ? ある程度インテリであれば、新聞報道を信じたはずで、 よもや記事が捏造されているなどと考えたことはなかったはずです。 この「阿片帝国 --- 汚れた歴史」で紹介をした「報知新聞の社説」のような「捏造記事」があるとは 到底考えなかったと思います。 麻薬に関しては、色々な噂が飛び回っていたでしょうが、 その原動力が国家にあることに関しての直接的な認識は薄かったと思われます。

「皇国史観」の中核を担ったのは上流階級 (上級士族、上級華族、皇族、天皇)、 暴力団、右翼であったことは明白です。彼らこそが麻薬で儲けていたからです。 従って



中国、あるいはアジア全域を麻薬漬にすることこそ「皇国史観」である

ともう一度断言したいと思います。

日本の歴史の捏造 -- 皇国史観とのかかわり

日本の歴史は恐らく捏造だらけです。私は子供のときに、2 度にわたる「元寇」 (文永の役 (1274年), 弘安の役 (1281年)) で神風が吹いたから日本が救われたと、教わりました。しかしこれは嘘でした。

元寇 - Wikipedia

にも、「神風が吹いたから日本が救われた」とは書いていないと思います。しかし「神風」 に関しての日本語の Wikipedia の記述はさえないものになっています。 この件に関しては偏見を持っていない外国人の方が的確に理解しているようです。

順番に話をしないといけません。 しばらく前に、「元寇」のことを書いた英文のページに遭遇しました。 いまでは多分そのページがありません。そのときページ内から次の PDF ファイルに リンクが張ってあり、PDF ファイル自身は読むことができます。

In Little Need of Divine Intervention (PDF)

このファイルは、次の本の一部です。

Conlan, Thomas, In Little Need of Divine Intervention, Cornell University Press, 2001
(トーマス・コンラン, 神の助けなど必要ではなかった、コーネル大学出版、2001)

また、そのとき見ることができた電子版の「蒙古襲来絵詞」も次で見ることができます。(英文です。)

Scrolls of the Mongol Invasions of Japan

現存する「蒙古襲来絵詞」は色々修復された結果、もとの姿をとどめていないようで、電子版の「蒙古襲来絵詞」では、 後世にどのように補正されたのかを比較説明をしています。 上の本の著者が中心となっている「Scroll Project」(巻物プロジェクト) だそうです。

コンランの本の一部しか PDF で読めませんが、それでも背景が非常によくわかります。少し紹介することにしましょう。 「蒙古襲来絵詞」の作者である竹崎季長 (たけざきすえなが) に関して、コンランは本の中で 次のように書いています。


竹崎季長の物語の中では、お祈りばかりで、甲佐大明神を褒め称えることばかりですが、 竹崎季長は蒙古を打ち破ることにおいて、神の助けがあったとは言っていません。 「神風」という言葉は、元寇に関しての鎌倉幕府の文書にも同様に登場はしておらず、 13 世紀の朝廷に仕える人の日記にのみ見受けられます。

一般に文永の役では蒙古軍は 90000 人、弘安の役では 140000 人いたと されていますが、これはあまりに多い数値であるとコンランは述べています。 その根拠は史上最大と言われるノルマンジー上陸作戦の規模との比較です。 コンランはノルマンジー上陸作戦の連合軍は 156000 人としています。 英語版の Wikipedia (Invasion of Normandy - Wikipedia) では 100000 人としています。現在でも 100000 人を移動させようとすれば途方もないことが必要です。

実際の軍隊の人数を評価するのはかなりむつかしく、 コンランは、文永の役の蒙古軍は 2,3 千人、日本軍の方も同程度。 そして弘安の役の蒙古軍は 1 万人もいなかったのではないかと書いています。


注意
1. 地震等の天災で 10 万人規模の被災者があった場合の 水や食料の確保は信じられないくらい困難ですから 10 万人規模の軍隊が当時、洋上を移動すること自体 不可能であったと思います。
2. 元寇のときの日本軍の総数は色々不明なのですが、 日本の地方には参戦に割り当てられた侍 (or 御家人) の数が記録として残されているものがあり、 そこから、コンランは (日本各地への割り当てが均等であると仮定して) 日本軍全体の人数を推測しています。 日本軍のほうの人数が推測できれば、戦闘状況から蒙古軍の人数が推測できます。

文永の役に関しては、蒙古軍は大宰府まで到達していませんから、 九州制圧など、まったくありえない話で、 日本側としては神頼みをする必要がなかったのです。 従って、コンランが述べるように


撤退した蒙古軍が、その理由を台風のせいにした

と考えるほうが、よほど納得できます。

元寇 - Wikipedia

では、広橋兼仲の日記『勘仲記』に文永の役における蒙古軍の撤退に関して


伝聞として逆風が吹いたことを記されている

と書いています。この逆風が悶着を起こしそうですが (つまり台風めいたものかもしれない憶測を残す可能性がありますが)、 これも無論コンランの本の中で適切に評価され、 「逆風」だから「中国に帰るのに都合のよい風である」と書かれています。 直前に蒙古側の司令官が重傷を負っていますから、その理由から撤退したのに 相違ないのです。


注意
元は日本のみならずヨーロッパにも侵入しており、 元の戦闘方法はヨーロッパの歴史にも残っています。 コンランは、こちらの方も参考にしています。 またコンランが元寇のことに興味を持ったのは「神風特攻」に関連して、 本当に「神風」が吹いたかどうかに興味を持ったからのようです。
英語版 Wikipedia の 元寇防塁の 縮小図


文永の役の後に防塁が築かれ、これにより、 弘安の役には蒙古軍は博多に上陸さえできなくなります。 このときは台風が襲来したようですが、 台風が来なくても、そのうち蒙古軍の方の食料が尽きることが 目に見えていますから、「神風」と称するものではなかったことに なります。コンランは


13 世紀を通じて、日本が「神の国」であるとの信仰は、朝廷に仕える少数の人と 僧侶以外に広まっていたという証拠がない。

訳注   面倒なので priest を単に僧侶と訳しました。 寺以外に神社も入っていると思います。

とも書いています。どういうことかというと、 朝廷は蒙古軍を撃退するために、 異国調伏 (いこくちょうぶ) の祈祷をしたようです。 要するに、京都の朝廷は我々の祈祷が蒙古を撃退したのであって、 鎌倉幕府が撃退したのではないと、言ったのでしょう。

もっとも、蒙古側の方の資料にも負け戦の理由を 日本の朝廷の祈祷のせいにしています。 元 (蒙古) は日本のような辺地の弱小国を攻略できなかったことによって 面子を失いたくなかったのです。 だから、負け戦を朝廷の異国調伏の祈祷が引き起こした 超自然現象にしたのです。

いずれにせよ「神風」が吹いたという歴史はそもそも始めからなかったのです。 従って「神風特攻」などが歴史的な観点からは、はじめからナンセンスなのです。 しかし、明治以降「神風」が吹いたことが歴史的事実とされ、日本は「アヘン帝国」の道を歩むことになったのです。


注意
弘安の役の際に台風によって「元」の船が随分沈みます。 この話は「鉄の製造」/「日本の海軍は強かったのか ?」で述べた話と 矛盾するように見えます。中国の本来の外洋船であるジャンクであれば 簡単には沈みません。沈んだ船は高麗で作られた平底の船でジャンクでは ありません。経費節約のため安物ですませたようです。
外国人排斥 -- 皇国史観とのかかわり

ここで少し話を変えましょう。 ごく最近まで、英字紙には「日本人は人種差別主義者 (racist) だ」とよく書かれていました。 在日外国人からすると、理不尽な差別待遇があるからでした。 Japan Times には色々な記事が掲載され、日本人が判断しても 意外な事実が書かれていたと思います。

また外国人に不利益な法律の多くが在日朝鮮人をターゲットにしたものであることも 何度も書かれており、 恐らく日本の事情に詳しい人 --- 日本に住んでいなくても Japan Times の 購読者 --- であれば、常識的なことになっていたと思います。 しかも現在であれば、英語さえ読めれば、インターネットで世界中の誰もが Japan Times の記事を読むことができます。


注意
1. 「アヘン帝国」の後半で Japan Times に載った記事のことを紹介しましたが、 この記事は世界中の人が読んでいます。 随分多くのサイトが、この一連の記事にリンクを張っています。 そのようなサイトでは「現在では日本人もこのようなことを認めるようになったのだ」とも 書いていますが、およそこれは見当違いです。邦字紙はこれを記事にしなかったからです。


2. 日本で「在日朝鮮人をターゲットにした法律を作っていた」ということは、 日本人が、がちがちの「人種差別主義者」(racist) であったことのあらわれなのですが、 それを理解している日本人は極めて少ないと思います。

Japan Times の記事では、在日朝鮮人がターゲットとなっている法律にせよ、 十分に注意する必要がある (読者は欧米系を対象としていた) とも言及していたと思います。 またあるときには、警察官の職務質問を受けたときの応答の仕方にも アドバイスが書いてありました。 本国でしているような応対では絶対にダメでこれも十分に注意しないといけないと しており、日本の警察は令状なしに簡単に拘束できるとも言及していました。

「皇国史観」は現在では死語に近いと思いますが「外国人差別」という形で 戦後もずっと痕跡をとどめていたのです。


注意
このような記事が色々出た後で、国連の調査団が日本に訪れたと思います (21 世紀に入ってからのことです)。 わずか一日しか日本に滞在しませんでした。そのとき、どこかの大臣が 「1 日しか滞在しないのに、何もわかるはずがないじゃないか」と言っており、 それが全国紙でかなり大きな記事になっていました。 私は「発言した大臣も、これを記事にした全国紙も、ものすごくアホだ」と思いました。 英字紙に克明に書かれていることで世界中で誰もが読むことができるのに .... 調査をするにしても単に確認だけですむことです。 しかし、よく考えてみれば、邦字紙のほうは私が知っていることを承知の上で --- 英字紙にたたきまくられていることを承知の上で --- さも問題であるかのように記事にした可能性もあります。
私も外国人差別のことには詳しくありません。 Japan Times に載った外国人差別の記事では私の方が何も知らないことの方が 多かったです。しかし、現在ではかなり改善されていると思います。 外国人差別のことが新聞で書きまくられたからです。邦字紙ではないですよ、 英字紙によってですよ。

身近でも驚いたことがありました。 私は非常に小さい国立大学の教員をしています。 教員数が少ないですから毎年のように色々な委員をさせられます。 数年前には入試委員をしていました (21 世紀にはなっていました)。 このとき驚くべきことを知りました。日本には多くの朝鮮人学校があります。 この朝鮮人学校は日本の高校とはみなされていないことを始めて知りました。 国立大学の受験資格は



6 年 + 3 年 + 3 年

の教育を受けていること、という制約があります (どこの国からの留学生にも適用されているものです)。 このため朝鮮人学校の生徒は「大検」を受検しないといけないということでした。 韓国の高校を卒業した者は国立大学の受験資格があったので問題とされたのでした。

文科省からの通達により、各国立大学の自由裁量となり、本学では (確か、他の国立大学の真似をしたと思いますが) 朝鮮人学校の受験者からは その学校のカリキュラムと授業のシラバス (授業計画) の写しを提出してもらうこととし、 それを見て、入試委員会で受験資格があるかどうかを判断することになったのではないかと 思います (最終的には教授会で審議)。

しかしですね、韓国系の朝鮮人学校では韓国の高校と同じ教育がされているはずで 教科書も同じはずです。しかも韓国の高校を卒業していれば、日本の国立大学の 受験資格があるのです。やはり少しおかしい。

「皇国史観」による「外国人差別」の伝統は制度の中に組み込まれてしまっていて、 明示的に問題が提起されない限り、書類の山の中に隠蔽されてしまっているのだと いうことが非常にはっきりすることになりました。

私も元々の「皇国史観」は知りません。知るというよりは感覚的に 理解が難しいというほうが正解です。 「皇国史観」は現在のイスラム教の「原理主義」に近いのではないか とも思います。 イスラム教の「原理主義」も麻薬で儲けることがあるようで、しかも又 「自爆テロ」はかっての日本の「特攻」につながるもので かなりの共通点があるのではないかとも思います。

それにしたって、何も関連しない人を道連れにしなくても よいじゃありませんか。テロと言えば、日本の場合には「国家による麻薬テロ」 と言うべきですが、 古い時代の日本人に文句を言いたくなります。

最後にもう一つ付け加えるべきでしょう。 かっての「皇国史観」を残しているものがもう一つあります。 いわずと知れた「君が代」です。 あきれるくらいに「君が代」斉唱を強制している自治体があります。 「皇国史観」を前提にすると、これは問題がありすぎるのですが、 もうこのあたりでおしまいにすることにしましょう。


注意
ふと気が付いて、Altavista で「君が代」(kimigayo) と「アヘン」(opium) で検索してみました。 やはりヒットします。100 件ぐらいあります。「日の丸」も出てくる。出てくるのは現代の日本に関しての批判的なページです。 「アヘン帝国」を書き始めてから、いつのまにか「君が代」は「ヤクの歌」、「日の丸」は 「ヤクの旗」と言うべきだな、と思っております。


http://mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/section4H/kuiper_section4H.htm

  ページの最終校正年月日 : 11/25/2013 02:48:57

硫黄島の戦い

米国海軍文書「硫黄島の奪取」

「硫黄島の戦い」のことを調べようとしたのは、硫黄島の戦いでは艦砲射撃が ピンポイントであることを今まで色々と英文記事で読んでおり、本当にそうであったのかと 疑問になって調べようとしたことがきっかけでした。その最中に「米国海軍」の文書

Capture of Iwo Jima (硫黄島の奪取)

に行き当たり、読んでいくうちに、確かにそうであることに確信を持つことになりました。 (これは第二章の末尾にある複数の写真から明白です。) それと同時に、日本語の Wikipedia

硫黄島の戦い - Wikipedia

に書かれているようなことには随分と嘘がありそうだと気づき、深入りすることになり、結局「米国海軍」 の文書を全訳することになりました。次のリンクから中に入れます。


硫黄島の奪取
(米国海軍文書「Capture of Iwo Jima」(硫黄島の奪取) の翻訳)


追加
1. なお、この文書はもともと秘密文書です。いつ頃公開されたのかに関しては記載がありませんが、インターネットの 上で公開されるようになったのは 2006 年 10 月 13 日以後です。この文書に最初に気がついたのが、2008 年 10 月ごろです。 これは米国海軍の歴史センターの図書館で公開されています。 Capture of Iwo Jima からリンクをたどれます。私が最初に気がついた時には読める文書は多くなかったのですが 今ではものすごく増えており、本当の図書館みたいに変貌しています。第二次大戦のことはもとより、ずっと新しいことまで読むことができます。
2. この文書の用語で困る言葉があります。mortar は日本語では臼砲、迫撃砲の 2 種類の訳があります。 mortar の元々の意味は「臼」で、臼砲がその訳語に相当すると考えていましたが
臼砲 - Wikipedia
によると、日本語では区別しているようです。日本語では砲身の短いものを (臼のように見えるから) 臼砲と呼んでおり、 それ以外が迫撃砲のようです。英語では弾道が高いものを一括して mortar と呼んでいます。 「硫黄島の奪取」で日本軍が防御用に使用する mortar は敵から見えない位置から発射するもので、臼砲と訳す方が適切かもしれません。 但し、「硫黄島の奪取」で最もよく登場するものは「米軍」による mortar で、これは迫撃砲と訳すべきようです。 精度は高くありませんがとても連射性能に優れており、硫黄島の水陸両用戦では LCI に搭載された迫撃砲が非常に重要な役割を担います。 色々区別するのがややこしいので、mortar は一括して迫撃砲と訳しました。(誤訳であることに気が付いて grep で一括変換しました。)

この文書「硫黄島の奪取」から色々な事がわかります。 その中の幾つかを以下でまとめることにしました。

1.一枚の写真
2.米国海軍の大型艦船は何隻沈んだか ?
3.日本軍の大型の火器は効果があったか ?
4.何故、日本軍の文書がなかったのか ?
5.硫黄島の戦いの経緯
6.追加:第二次世界大戦における普通の砲撃の仕方

一枚の写真

単に、日本語版の Wikipedia に書かれていることに嘘が多いのではなく、 多分日本人は米軍の側から見た「硫黄島の戦い」をほとんど 何も知らない可能性があります。例えば、日本語の Wikipedia の載っている次の写真です。



この写真のキャプションには「迫撃砲および重砲の攻撃により擱座したLVT」とあります。 (LVT に関しては日本語の Wikipedia (LVT - Wikipedia) に解説があります。) また「第七章 その他」に詳しい解説が載っています。

写真を見れば物々しい戦争が行われたかのように見えますが、実は全然見当違いです。 米軍は上陸のときにものすごく苦しみます。日本軍の攻撃による被害も甚大なものですが、 むしろ波と砂浜のせいで随分苦しみます。硫黄島は天然の要害なのです。 大きなうねりのせいで、片っ端から小型船舶、上陸用舟艇が沈没します。 (日本軍による砲撃で沈没する船舶はそれほど多くはないようです。) 水陸両用車もキャタピラ付でないのは全部動けなくなります。キャタピラ付きの車両でも 動けなくなるものが続出します。硫黄島の砂浜は火山性の砂浜で見かけは締まっているように見えますが、 タイヤがすぐにもめり込み、砂浜から脱出できなくなります。これは砂というよりは火山灰と言う方が近いようで、 車両にとって蟻地獄なのです。 そして砂浜はゴミだらけとなります。 上の写真は、そのゴミだらけとなったありさまです。

おわかりでしょうか ? 一枚の写真の示している内容が基本的に違ってきてしまいます。 米国海軍の文書はとても興味を引くものです。

米国海軍の大型艦船は何隻沈んだか ?

硫黄島上陸日を D デーと呼び、1 日前を D マイナス 1, 1 日後を D プラス 1 のように呼びます。 硫黄島上陸作戦の直接の準備は D マイナス 3 に始まり、D マイナス 1 に至るまで 上陸準備のための砲爆と偵察が実施されます。 D マイナス 2 の 9938 時にペンサコラが北東の海岸沖で砲火を浴びます。 ペンサコラには航空機が搭載されているので、小型船ではなく、前後関係から 駆逐艦ではないかと思います。このときは砲撃戦となりますが、一応ペンサコラは 無事なようです。

D マイナス 2 の 1100 時から 1145 時の間に東海岸沖の上陸用舟艇が、かなり被害を受けます。 これは米軍が上陸を開始しようとしていると日本軍が誤解して、 ありったけの火器で反応したことによります。 このとき駆逐艦とおぼしきロイツも被弾しています。司令官が重症を負いますが、船は 無事なようです。 (以上は「第一章 語り」の 1-13 の記述)


追加
D マイナス 2 に日本軍は米軍が上陸しようとしていると誤解して、ありったけの火器で反応したことは、 日本軍が事情を何も知らなかったことによることを意味しています。 実際の上陸作戦ではおびただしい数の上陸用舟艇が殺到します。しかし、D マイナス 2 ではわずか数隻の 上陸用舟艇が岸辺に近づいただけです。 これで激しく反応したことは米軍の上陸作戦に関しての予備知識を持っていなかったことを意味しています。 哀れですが、これでは素人です。 硫黄島の海岸防衛用の大砲の操作をしたのは全くの素人だと考えて差し支えがない。
これ以外では D デーに至るまでに大型艦船が被害を受けたとの記述はないようです。 しかし D プラス 2 の夕闇に 50 機ほどの日本軍の航空機による攻撃があり、 自殺機に攻撃されて、護衛空母のビスマルク・シーが沈没します。 このとき乗船した将校 124 名、乗組員 836 名のうち生存できたのは、 将校 100 名、乗組員 513 名です。(以上は「第一章 語り」の 1-8 の記述) 本文では何名が戦死したのかの記述がないので

(124 - 100) + (836 - 513) = 347 名

が、ほぼ行方不明として処理されたと思われます。 一方「第六章 ロジスティック」の 6-9 に「海軍の戦闘による死傷者のまとめ」で詳細な記述があり、 「空母と護衛空母」の行方不明が 362 名としてあり、これが上記の 347 名に極めて近いことがわかります。 またこれ以外には 100 名を超えるような行方不明者がありません。 大型艦船が沈没するような場合、行方不明者が多量に出ることが想定されますから、 硫黄島作戦で沈没した米国海軍の大型艦船は護衛空母のビスマルク・シーのみであろうと 結論できます。

日本軍の大型の火器は効果があったか ?

D マイナス 3 よりも以前に高々度からの爆撃が数ヶ月続きますが、これではほとんど 日本軍の砲陣地などを破壊できなかったようです。日本軍の陣地は非常に小さく、鉄筋コンクリートで 固めており、しかもカモフラージュされていた。

しかし、D マイナス 2 の夕方には上陸海岸である東海岸を射程距離に収めている大砲の位置が確認されたようです。 写真撮影の結果ですが、これは D マイナス 2 に東海岸を偵察していた上陸用舟艇が ありったけの火器で攻撃を受けたことと関係しているかもしれません。 全部で 5 箇所の陣地が確認されました。 そのため、D マイナス 1 にこれらの陣地を破壊するために、 アイダホとテネシーに十字砲火が命令されています。 これは「第一章 語り」の 1-14 に記述されていることです。 結果がどうなったのかに関しては直接記述がありません。 「第六章 ロジスティック」の 6-10 に上陸隊の死傷者の詳細なデータがあり、 D デー (2 月 19 日) の戦死者が 76 名となっています。 その後の上陸隊の戦死者が毎日 200 名近くありますから、 D マイナス 1 における十字砲火によって、東海岸を射程距離においている大砲が破壊されたことが 確実です。


注意

アイダホとテネシーは戦艦であると思われます。 2 隻に十字砲火の命令が出た点から判断すると、この時ようやく戦艦が 陸の大砲の射程距離に入ったのだと思われます。 もしも、どちらかの艦船が沈没しないまでも大破しただけでも米国海軍の文書に登場するはずです。 従って、この点から判断しても守っていた日本軍に砲撃に卓越した人が少なかったと思われます。

これを裏付ける事実があります。D デー以後はできるだけ近距離から大砲の陣地を 破壊する命令が出ます。しかも、このときは十字砲火ではありません。 つまり、アイダホとテネシーの攻撃に対しての反撃がお粗末であったから、 意を強くして、至近距離からの砲撃に切り替えたのに相違ないのです。

追加: D デーにおける米軍の戦死者は多くはないですが、負傷兵は随分沢山います。 この中には大型の迫撃砲による負傷兵もいるはずです。 迫撃砲の位置確認は難しいので米軍の上陸時にはまだ多くが生きていたはずです。 しかし、浜辺を直接狙える大砲はなかったことは確実です。 迫撃砲は狙いが正確ではありませんが、大砲は狙いが正確で、もしも大砲が生きていれば、上陸用舟艇を何隻も撃沈できたはずで、 この場合には米軍に大量の戦死者が出たはずです。 上陸作戦は同時に多くの上陸用舟艇で一斉に浜辺に上陸を目指しますが、 これは上陸用舟艇が少々撃沈されても大多数の上陸隊が無傷で上陸できれば作戦が成功であるからです。 しかし、守る側からすれば大砲が生きていれば、何隻かは必ず直撃で撃沈できるはずで、 この場合には上陸軍の中に多量の戦死者が出たはずです。

また「第一章 語り」の 1-15 では

着目するに値する点は、浜辺の拠点が一旦確保されてからは、 我々の攻撃隊における死傷者 (casualties) の大多数は 激しくて正確な小火器 -- 小型の迫撃砲や手榴弾を含む -- によるものであったことである。

と書かれていますから、大型の火砲による戦死者は、それほど多くなかったことになります。

海から見える陣地に関しては古典的な直接の的打ち (まとうち) で破壊できます。 海から見えない陣地に関しても海軍による砲撃が効果があります。 この場合には上空から偵察機が、着弾を観測していないと意味がありません。 しかし、この目的のための専用の部隊があり、陣地の位置さえわかれば破壊することが 可能となります。


注意
偵察機が着弾を観測するためには、砲弾の弾道を目で追う必要があり、 発射の指示は偵察機で観測をする人が出します。また着弾するまでにかなり時間がかかるので、 偵察機は島の反対側から侵入する必要があり、ターゲットは上空から視認できる場所でないといけません。
以上のようにして、ほぼすべての大砲を破壊することができますが、 原理的に破壊することが不可能な場所があります。 これは崖の途中に設置された迫撃砲で、海から見えなければ海からの攻撃が不可能で、 また航空機による爆撃も難しいようです。 このような場所は、海兵隊が破壊しなければならなくなったようです。

「硫黄島の戦い」で米軍は 6000 名もの犠牲者を出しますが、 これは重砲によるよりは「小火器」によるものなのです。重砲では一旦使用すれば、その存在がばれてしまいます。 (口径の大きな砲では爆薬による白煙が立ち昇ります。) こうなると戦艦の艦砲射撃の餌食となるのは時間の問題となるようです。日本軍の重砲は極めて小さな防御施設に 隠匿されており、艦砲射撃の直撃を食わなければ、十分に持ちこたえられるようです。 これがまたたく間に破壊されていくようですから、硫黄島における艦砲射撃の精度はきわめて高いようです。

非常に精度が高いと思われる理由をもう少し説明します。 日本軍の陣地は分厚い鉄筋コンクリートでできていて、 土砂でこれが覆われていたようです。土砂はカモフラージュの目的もありますが、 砲爆から守る目的もあったのではないかと思われます。 そのため、攻撃するには最初に砲爆でこの土砂を引き剥がさないといけません。 これが随分と手間が食うようです。 更に、その上に戦艦の主砲の直撃を何発も食らわさないと破壊できなかったものもあったようです (あるいは全部こんな具合であったのかもしれません)。 しかし陣地が発見されれば、瞬く間に破壊されていったようですから、艦砲射撃の精度は 極めて高かったと断言できます。このようなことがなされたことは次のような写真を見れば明らかです。 これは破壊された大砲の陣地で、第二章の末尾に掲載されている写真の一つです。


土砂が丸くはぎとられており、何十発もの砲弾が正確に同じ位置に着弾している。


注意

硫黄島戦争はもうレーダーができているときです。そのため、ターゲットを目視して艦砲射撃を することはすでに時代遅れとなっています。 この時代遅れの攻撃をせざるを得なかったのです。司令官たちは不愉快極まりなかったようです。 この目視による艦砲射撃を「至近距離」 (point blank range) と呼んでいます。 拳銃のような場合には「至近距離」 (point blank range) は銃口を相手の体に突きつけるような場合で 絶対にはずさない距離です。 硫黄島における目視による艦砲射撃では、弾道はほぼ直線で、的が静止していれば、はずすはずがないのです。

波による揺れのことが問題となりそうですが、硫黄島でどのようにしたのかに関しては知りません。しかし、 非常に古い時代には例えば次のようにしていました。どこで読んだのか記憶がないので正確には言えませんが、 しくみは非常に単純です。 まず甲板に垂直に立てられた柱のようなものが必要です。 もう一つ、上部からおもりをつるした糸が必要です。船が波によってゆっくり揺れますが、 柱と糸が平行になったときに発射します。この方法では連続的に発射することはできませんが、 少なくとも、原理的には (海が荒れない限り) 波による揺れは問題となりません。 しかし硫黄島ではこのようなことをする必要さえなかったのかもしれません。 弾道がほぼ直線ですから、ターゲットが照準に補足できたときに発射するだけかもしれません。

もう少し付け加えましょう。上陸から 12 日目あたりには、海軍の出番はほとんどなくなり、 「海軍としては穏やかな日」となります。この時点での上陸隊の戦死者は 2000 名程度です。 この時までに、ほとんど日本軍の大砲、迫撃砲は破壊されたはずで、これで正規戦としての硫黄島の戦争は 決着が付いているのです。だからこれ以上戦うのは無益です。 これ以後の日本軍の死者は、硫黄島の司令官あるいは日本政府によって殺されたと考えるべきです。


注意
1. この文書では、海兵隊の活躍はあまり書かれていません。 海兵隊によって破壊される陣地も随分あったようですが、残念ながら詳細に関してはほとんど記述がありません。 この文書は一般的な報告書からの抜粋で、一般的な報告書では個々の戦闘は問題とされないようです。
2. しかし、一つだけ意外な点があります。険しい場所では 戦車は「装甲つきのブルドーザ」の後ろについていく以外に方法がなかったようです。 米軍にとって最後のよりどころが「装甲つきのブルドーザ」とは、まことに意外な事実でした。
これを最初に書いた時には、ブルドーザは道を作りながら前進するだけと思ったのですが、 それ以外にも用途がありそうです。内陸部には地雷原があったはずで、地雷探知機で地雷を探すこともできますが、 恐らくこれをしているとスナイパーの狙撃を受ける可能性の方が大きくなります。 そのような場合には、ブルドーザで土砂を押し出してしまえばよいのです。地雷が爆発しても ブレード (排土板) で爆風を避けることができますから、これで地雷原を強行突破できるはずです。 日本軍はあちこちに堀や地雷原を設置しているはずですが、これがほとんど意味を持たない。

[追加] この文章はかなり以前に書き上げたものですが、2011 年の 4 月に意外なことに気が付きました。 福島第一原子力発電所の事故で、自衛隊が戦車を持ち込み、これに排土板を装着して、 発電所のがれきを処理しようとしました。これは実際には行われなかったのですが、 硫黄島における「装甲つきのブルドーザ」は極めて効果的であったことが確認できました。 「装甲つきのブルドーザ」の発展形が「戦車に排土板を装着可能」とすることだからです。 これがあれば、塹壕をいくら掘ってもまるで無意味だからです。現代の自衛隊はそれをきわめてよく理解している。

3. 米軍の死傷者に関して付け加えておくほうがよいことがあります。 一般の戦闘員に関しては死傷者は随分いますが、 死傷者の比率がダントツに高いのは衛生兵です。彼らは危険を顧みずに負傷した米兵を 救助しようとしたためです。この点に関しては恐らく日本で語られる硫黄島戦争では 一言も言及されていないはずです。戦死者に含まれる衛生兵の比率は随分高いはずです。 米兵を撃ち倒しても、とどめをささずに放置すれば、そのうち衛生兵が飛び出してくるはずですから、 この場合は狙い打ちできます。こんなことがあったのではないかと思います。

上陸後 16 日頃から海軍は硫黄島から撤退を始めます。仕事が残っていないからです。 しかし、硫黄島の上陸隊の戦死者は最終的には 4500 名程度に膨れます。 どのような戦争であったかが、これで非常に良くわかります。ゲリラ戦です。 正規戦はほとんどなかったのです。小型武器による日本軍の不意打ち攻撃のみが 一貫してあっただけです。大型兵器では日本軍は太刀打ちできなかった。 米軍の艦砲射撃の精度を理解していなかった可能性の方が大きいと思われます。

またもう一つほぼ確実と思われる点があります。 硫黄島を守る日本軍の中に砲撃に卓越している人が少なかったのではないかと 思われる点です。一つには米国海軍の文書の至るところで砲撃が「正確であったり、 不正確であったり」して随分ムラがあるようにみえるためです。 「神風特攻」の操縦士は実際には飛行機を飛ばせるようになればすぐにも 戦地に送られたような人です。 (これは「同時テロ」の犯人像と極めてよく似ています。 彼らはかろうじて旅客機を操縦してビルに激突させることができただけです。) これと同様に硫黄島の日本軍の多くは満足に砲撃訓練を受けていなかったのではないかと 思われます。どっちみち死ぬためです。

艦砲射撃よりは航空機による爆撃の方が効果があると思っている人がいるようですが、 これは間違いです。航空機による低空爆撃を実施できるのは対空砲火を沈黙させた後です。 曳光弾などのトレーサーを使用すれば弾丸の軌跡を目で追えますから、 対空砲火の高度に降下すればすぐにも撃ち落される危険がでてきます。 米軍の文書の中では艦砲射撃と航空機による爆撃を同時に実施することで対空砲火の危険を 回避できることが判明したと書かれています。 但し、大砲が航空機を撃ち落す危険があるので相互の連携はかなり難しくなります。 艦砲射撃を同時に実施すると、対空砲火の精度がずっと悪くなり、航空機がかなり低空に侵入でき、 破壊効果がずっと改善したことが書かれています。

航空機による低空飛行は対空砲火がある場合にはずっと危険なのです。昔、ベトナム戦の最中にベトナム軍の女子中学生が ライフルで低空飛行するジェット戦闘機を何度も撃ち落としたことがあります。 これは嘘みたいな話ですが本当にあったことで、以後米軍のジェット戦闘機は低空飛行をしなくなりました。 英字紙に載っていた話です。

何故、日本軍の文書がなかったのか ?

「第四章 諜報」の 4-2 に日本軍の文書が全然残っていなかったことが 最高司令官によって指摘されています。最高司令官は全然見当が付かず、 的外れな推論をしています。

本文中の訳注にも記載していますが、これは「沖縄で集団自決の命令を書いた文書が残っていない」 ことと密接な関連を持っています。 「玉砕命令は戦争犯罪になるかもしれないから書いた記録が残されなかった」ということは 半世紀前私が小学生だったときには常識でした。

現在文書が残っていない以上そのような命令があったわけがないなどと言う 歴史学者がいることや、それが当然であるかのように主張する記事が 2008 年の 11 月頃に産経新聞に 掲載されていました。そのときは以上の事実を思い出さなかったのですが、 米国海軍の文書を訳している間に思い出すことになりました。 当時の大本営のやり方はとても卑劣なのです。 平気で玉砕命令を与える一方で、いざ降伏せざるを得ない場合に自分たちの保身を 考えていたのです。


注意
1. もっとも「玉砕命令は戦争犯罪になるかもしれないから書いた記録が残されなかった」との言質は 大本営に対しての賛辞と共に語られていたと思います。 この点は少しはっきりしないのですが、多分「天皇が戦争犯罪で裁かれないようにしたのだ」 と述べていたのだと思います。第二次大戦中に日本人は天皇の名のもとに 日本人を余りに大量に殺していますから、 その点から戦争犯罪とみなされると自認していたのではないかと思います。
2. 歴史学者、あるいはそれを引用して論を展開している産経新聞ですが、 「書かれていることのみこそが事実である」ことを前提にしています。これは正しいでしょうか ? 例えば、ワイロを受け取った政治家は領収書を書くでしょうか ? もしも、 書かれたことのみが事実であれば、ワイロで有罪となる政治家は一人もあるはずがありません。 誰もワイロの領収書を書くはずがないためです。通常記述された証拠はないと思われます。 有罪となるのはそれ以外の根拠からです。
3. 書かれていることは事実でしょうか ? 封建時代には支配者の批判は書くことができませんでした。 陰陽道の安倍清明を思い出してください。彼は天気予報もしていますが、 常に的中したそうです。これは記述された歴史です。それに反して、現代の気象庁の 予報は外れてばかりです。記述された歴史からは、現在の気象庁は安倍清明に到底及ばないのです。 どうしてこうなるのでしょうか ? 封建時代では偉い人の言っていることは常に正しく、 断じて批判してはならないからなのです。 現代では、気象予報は大体当たっているようにも見えますが、批判する人の方が多いため、 予報は全然当たっていないのです。 産経新聞の言い分では「昔の人は偉かった」であり、「陰陽道」が「気象庁」に取って代わるべきである との論を提示しているのに他なりません。
4. 書かれた歴史の代表的なものに「古事記」、「日本書紀」があり、 ここでは天皇は神です。書かれたことが事実であれば、天皇は今でも神のはずで、 病気にもならないし、死ぬこともないはずです。 「古事記」、「日本書紀」に書かれていることが事実であれば、天皇は生物学的に人間ではないはずなのです。 これは長いこと日本の学問分野の原点になっていた笑止千万なことなのです。

第二次大戦中にドイツではユダヤ人が多く殺されました。 日本では日本人によって多くの日本人が殺されました。 どちらも殺人に他ならないのです。 ドイツではナチを美化するような発言をすればそれだけで犯罪であり、実刑判決です。 これは言論の自由の埒外のことなのです。 残念なことに、日本ではこれとちょうど逆なことなっており、靖国議員が大手を振っている始末です。 本来、第二次大戦中に日本がした犯罪行為を美化することは犯罪とみなすべきなのです。 硫黄島の玉砕命令を出した大本営は犯罪者であり、 栗原中将も犯罪者であるとみなすべきなのです。


追加
2008 年の 11 月頃に出た産経新聞の記事では、 当時沖縄に在留した日本軍の将校らしき人が、「玉砕命令などなかった」、 「日本人が日本人を殺す命令を出すわけないじゃないか」 などのたわけたセリフを言っていたことを思い出しました。 少し話がそれそうですが、私が小学生の頃に読んだ子供向けの「古事記」、「日本書紀」 に言及する必要があります。人殺しの話ばっかしだったことを覚えており、 二度と読まなくなりました。天皇、貴族、侍は支配者で外国から来たわけで、八咫烏 (やたがらす) の助けを受けて侵略し、 日本人殺しをすることによって、日本国を作るわけです。これが建国の精神なのだと思います。 天皇、貴族、侍は建国の時以来の支配者で、従って農民を搾取する権利を持っていると主張したのです。 このようなことが直接「古事記」、「日本書紀」に書かれていたわけではなかったと思いますが 関連してこのような話を読んだというべきです。 このような世界では日本人殺しは美徳であり、英雄であり、神となる資格を得るのです。 殺しばっかしやっていた大国主命は神々しい神なのです。 このような話は最近はほとんど影をひそめましたが、以上のようなことは、 国学、ひいては日本の学問分野の原点であったと思っています。 どこかの田舎の美術館で見た大国主命の絵は多分戦前に描かれたもので、 これは返り血で真っ赤に染まった姿でした。 これが日本人殺しの神々しい神の姿なのだと思います。
追加 (2012 年 1 月) 天皇、貴族、侍が建国以来の支配し者であると言う考えは「古事記」、「日本書紀」よりは、 むしろ江戸時代の国学や頼山陽の「日本外史」などにあるのではないかと思い至りました。 蘭学に対抗して日本の独自性を主張する学者達が「尊王攘夷」など誘発し、明治維新となり、天皇が神となり、そしてアヘン帝国が成立したのです。 この一連の負の連鎖は密接に結びついており、逃れることができない袋小路を意味しています。 明治には農民たちは自作農から小作農に転落し、しかもまだ頻々として飢饉が続いていたはずです。 第二次大戦後までは日本政府は農業を改善しようとはせず、 江戸時代と同様に 10 年に 1 度は必ず飢饉に見舞われていたはずです。 しかし、これは歴史から抹殺されており、戦前の日本が現在の北朝鮮と非常によく似た世界であったという 認識が失われてしまっているようです。 また国学などもイスラム教の原理主義とダブって見え、 日本軍の姿もタリバンとダブって見えます。どちらもアヘンを生産させている。 誰もがこの点を言及しないのはとても不思議です。

明治維新の時も多くの外国人の援助がありましたが、日本が独自の道を歩み始めると、 これは破局しかないことになったのです。太平洋戦争の敗北で、基本的な方針転換が起き、 これも外国人に依存しています。マッカーサーの農地解放は一大転換をもたらし、 1960 年代の日本における本当の意味の産業革命を誘発したのです。 だから、日本人はどうすればよくすることができるかを全く知らなかったのです。

これは次のように考えても明らかです。明治維新は上からの改革で、 天皇、貴族、侍が現代化のために農業の改善が必要とは考えるはずがなかったからで、 このような考えは従って外国人の手によるものでなければならなかったのです。

硫黄島の戦いの経過

硫黄島の戦争はかなり長引きますが、 輸送機が空港で運航を開始する 3 月 2 日には すでに大勢が決まっていたというべきです。

海兵隊が退却するのはかなりあとにはなりますが、 空港が安全に利用できるようになれば、抵抗勢力が はびこっていようとどうだろうと、大勢には関係しないといってよいと思います。 「硫黄島戦争」の大本営による目的が日本本土の防衛であるのであれば、 米軍が硫黄島の空港を自由に利用できるようになった時点で 硫黄島の防衛は意味を失います。3 月 2 日に第一空港が開港する時点で、 沖縄戦の準備ができたことになります。異常なのはこのあとも無益な抵抗が続く点です。

なお、時刻は日本標準時ではありません。1 時間引けば日本標準時になります。 戦死者の数は上陸軍だけのもので、海軍は含まれていません。 また数値は累積数です。より詳細は「第六章 ロジスティック」の 6-10 を ご覧ください。

日付 事項 上陸軍
戦死者
D マイナス 3 2 月 16 日 • 準備砲爆、機雷などの探索
 
D マイナス 2 2 月 17 日 • 準備砲爆、機雷などの探索
• 米軍が上陸開始と日本軍が誤解して
ありったけの火器で反応
上陸用舟艇が被害、ロイツ (駆逐艦 ?) が被弾
• 東海岸を射程距離に置く大砲陣地の確認
(5 箇所)
 
D マイナス 1 2 月 18 日 • 東海岸を射程距離に置く大砲陣地の破壊,
アイダホとテネシーの十字砲火
 
D デー 2 月 19 日 • 0600 時に真っ暗闇の海上に攻撃軍が終結
(レーダー航行装置を使用)
• 0900 時に東海岸に上陸
• うねりと寄せ波により、多くの小船舶が難破、
浜辺がゴミだらけとなる
• 夜間ハラッシュの開始
76
D プラス 1 2 月 20 日   264
D プラス 2 2 月 21 日 • 日本軍の航空機による攻撃
護衛空母ビスマルク・シーの沈没、
サラトガが大破
426
D プラス 3 2 月 22 日   不明
D プラス 4 2 月 23 日 • 悪天候のため水上、陸上の弾薬が枯渇
870
D プラス 5 2 月 24 日 • 天候が好転し、浜辺掃除が進展、弾薬の補給
1021
D プラス 6 2 月 25 日   1195
D プラス 7 2 月 26 日   1347
D プラス 8 2 月 27 日 • 硫黄島に水上機の到着、探索救援活動、
1556
D プラス 9 2 月 28 日 • パラシュートによる補給開始
1616
D プラス 10 3 月 1 日 • パラシュートによる郵便物の投下
1845
D プラス 11 3 月 2 日 • 西海岸からの荷揚げの開始
• 輸送機が空港で運航を開始
2005
D プラス 12 3 月 3 日 • 任務の解除と撤退の開始
(日本軍の砲陣地がほぼ破壊)
2278
D プラス 13 3 月 4 日   2468
D プラス 14 3 月 5 日   2620
D プラス 15 3 月 6 日   2715
D プラス 16 3 月 7 日 • タスク・フォース 54 が保養のため
ウルシーに行くように 命ぜられる。
2869
D プラス 17 3 月 8 日 • 水上機基地が役目を終了
3055
D プラス 18 3 月 9 日 • タスク・フォース 51 の解散
• 夜間空母エンタープライズが退却
3191
D プラス 19 3 月 10 日   3315
D プラス 20 3 月 11 日 • 残りの全ての護衛空母が退却
3488
D プラス 21 3 月 12 日   3653
D プラス 22 3 月 13 日   3765
D プラス 23 3 月 14 日 • 0930 時に硫黄島で公式に米国国旗が掲揚
3878
D プラス 24 3 月 15 日   4112
D プラス 25 3 月 16 日 • 中部の飛行場が運用を開始
• 日本軍の組織化された抵抗の終了 (1800 時)
4206

海兵隊が完全に退却するにはまだもう少し時間が必要ですが、 3 月 17 日には日本帝国を爆撃した帰途の B 29 が硫黄島に緊急着陸しますから、 この時点で硫黄島は完全に米軍に組み込まれたことになります。

3 月 26 日の累積戦死者は 4590 名となります。3 月 3 日には大勢がすでに決しており、これ以後の日本軍、米軍の犠牲はまことに 不毛であるといわざるを得ません。

追加:第二次世界大戦における普通の砲撃の仕方

硫黄島において米軍がした砲撃 (ピンポイント) は非常に特殊な砲撃で、 一般的なものではありません。 第二次世界大戦中に米軍が採用した一般的な砲撃に関しては

M. キャンベル-ケリー/W.アスプレイ著:コンピュータ 200 年史、海文堂出版、ISBN 4-303-71430-5
(原書、M.Campbell-Kelly, W. Aspray, Computer, a history of the information machine)

に解説があります。次のように述べています。



1942 年には、ムーア・スクールは計算作業でフル回転をしていた。 建物の地下室では “アニー” という愛称で呼ばれた微分解析機が休みなく動いていた。 同じ在校生はこれについても “我々はたまにアニーを見ることを許されたが、 シャフト、ギヤ、モーター、サーボなどが複雑に絡み合った巨大な迷路にはいつも圧倒されたものだ” と述べている。その同じ建物の中で、100 人の女性コンピュータたちも卓上計算機を使いながらまったく 同じ仕事に従事していた。

これらすべての計算作業はどれも、新しく開発された火砲や従来の大砲を近代戦で 使うための “射撃表” の作成を目的としていた。始めて射撃をする者でもすぐに気づくが、 遠くの目標を撃つときにはそのまま狙うのではなく、 目標より少し上を狙わなければ命中しない。 発射された砲弾は、最初は上に上がり、なかほどで最高点に達したあと、 今度は目標に向けて落下するというように、放物線を描いて飛ぶからである。 だが射程が 1 マイル (約 1.6 km) かそれ以上になる第二次世界大戦の兵器の場合、 カンに頼ったり親指を立てて狙いを定めるやりかたでは通用しなくなった。 そんなことをしたら目標に命中させるまでに何十発もの弾をムダにしなければ ならないだろう。 この場合は考えなければならない変数があまりにも多いからだ。 飛んでゆく砲弾は前からと横からの風、砲弾の形、気温、さらにはその地点での 引力などの影響を受ける。 そこでたいていの火砲では、砲手にはポケットに入るような手帳サイズの射撃表が 渡されていて、目標までの距離がわかればその表から大砲の仰角や方位角が 決められるようになっていた。 もっと進んだ火砲では “管制装置” が備えられていて、砲手がデータを入力すると 自動的に狙いが定まった。この場合、手作業であろうと管制装置を使おうと、 同じ射撃表が事前に作られている必要があった。

典型的な射撃表には約 3000 種類の弾道データが収められている。 1 つの弾道を計算するには、7 つの変数を持った常微分方程式を 計算する必要があり、 それには微分解析機で 10 分から 20 分かかった。 休みなしに計算してもこの表を完成するのに約 30 日はかかる勘定になる。 同じように考えて、1 人の女性が卓上計算機を使って 1 つの弾道を計算するのに 1 日か 2 日 かかる。 したがって 3000 通りの弾道を計算するには、100 人の計算チームを 使っても約 1ヵ月はかかった。効率的な計算手段がないことは、 続々と開発される新しい火砲を戦線に配備する上で大きなネックになっていた。

「微分解析機」はアナログコンピュータです。詳細は上の本を参照してください。

ムーア・スクール (Moore School) は ENIAC 誕生の地でもあります。弾道計算があまりに大変なので、 電子式コンピュータの開発を目指したのです。

ENIAC 誕生50周年記念物語 ~その歴史を追って~

上の文に出てくる射撃表は firing table の訳です。 「射表」とも訳するようです。次のページの「弾道理論」を選ぶと、左のメニューに登場します。 (フレームにはリンクを張れないので、1 つ上のページにリンクを張りました)

桜と猫の砲術講堂 - 射撃理論初級編 - 目次

少し違うことが書いてあります。 例えば「コンピュータ 200 年史」には砲弾の形のことを触れていますが、 上のページにはこれがありません。 だから米国の方が弾道計算のための、より精密なモデルがあったことになります。 「射撃理論初級編」の作者は難しいことを書いていますが、「コンピュータ 200 年史」の方に 簡単に書かれていることが正しければこちらの方が非常に適切な書き方をしています。 その理由は常微分方程式を解く必要があると書かれているからです。 簡単な微分方程式であれば、決まった方法があって解くことができますが、 一般的な常微分方程式に関しては「解の存在と一意性」が知られているのみで、解は数式の形では得られません。 従って、いずれにしても計算機の力を借りないとだめなのです。 (検索エンジンで「常微分方程式 計算機」 を検索するといっぱい出てきます。) 人力でこれを処理したのですから驚くべきことです。

「射撃理論初級編」のページの作者が恐らくご存じないことだと思いますが、ballistic calculation (弾道計算) を英文のページで検索すると、 めちゃくちゃ多くのページがヒットし、これはほぼ弾道計算のソフトウェアの宣伝ページです。 以前は PC のソフトが圧倒的でしたが、最近は iPhone やスマートフォーンに対応したソフトが登場します。 米国では武器は個人が所有でき、弾道計算ソフトが簡単に利用可能なのです。 弾道計算をするには幾つかのパラメータをセットする必要がありますが、 その中で市販されている非常に多くの銃弾の一つを選択する必要があります。(すべての銃弾には対応していないようです。) 従って、弾道計算には砲弾の形がわかるか、あるいは一定でないといけないのです。 非常に多くの弾道計算ソフトがあることから判断をすると、 精度が非常に高く、人気があるのだと思われます。 「硫黄島の奪取」には砲弾が標準化されている話が登場するので、 現代の市販の弾道計算ソフトよりは簡単なものであったはずです。

日本にも (ペンシルベニア大学電気工学部の) ムーア・スクールの女性コンピュータと同じように第二次世界大戦中に弾道計算した人もいたようです。 東大の理学部の先生が計算していたようです。


追加
第二次大戦中に東大の理学部の先生が弾道計算をしていたこと記述したページは今では消えていますが、 少し意外なことに気が付きました。 米国では女性たちに計算をさせることができたのは、簡単な計算に分割して、それをさせたはずです。 これは当たり前ではなく、 計算機に計算をさせる場合と同じになります。計算機も基本的には単純な計算しかできないので、 「女性コンピュータ」の場合と同様になります。必要なものはアルゴリズムです。 つまり第二次大戦中の東大の先生はアルゴリズムという概念を知らなかった。
色々、見てみると、第二次世界大戦において、 米国の方が日本よりはるかに弾道計算を重要視していた気がします。 レーダにより、距離測定が容易になったためではないかと思います。 日本にもレーダはあったようですが、米国よりは随分遅れていた。

弾道計算に関して、もう一点述べておく必要があります。 それは弾道計算が有効であるためには、砲弾、ないしは弾丸の製品むらがあってはならないことです。 製品むらがあれば、発射するたびに弾道が変化してしまうためです。 ジェット戦闘機の機関砲は照準を合わせると自動的に弾道計算がおこなわれるはずです。 この計算はジェット機の速度変化を反映しないといけないはずなので、 ずっと計算が大変でしかも瞬時に計算できないといけない。 現代の機関砲は 1 秒間に何十発も発射され、砲弾は極めて均一に製造されているはずです。 品質管理は日本では戦後のことですから、第二次大戦中に弾道計算をすることは 日本にとってあまり意味がなかったことかもしれません。





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6. 水俣病

水俣病の記事を読んだときはずっと昔で私はまた小学生でした。 従って、英字紙との比較などできませんが、新聞が随分いい加減な、そして下劣な報道をすることを 初めて知ったときでした。英語版の Wikipedia には「水俣病」の項目があり、 ここに報道は被害者に好意的であったと書かれています。これは嘘といったほうがよいと思います。 執筆者に日本人がいることは確実で、口からでまかせを書いているというべきです。


注意
最近新聞に「水俣病」に関しての記事が出ていました。 かっての報道のことをよく知っていますから、もっと別な箇所 -- 英文の Wikipedia -- でも読んでやろうと思いました。しかし、ここに嘘が書いてあることに気がつきました。 少し大変でしたが、色々記憶をたどって以下を書くことにしました。
最初に何故、「水俣病」に関心を持ったのかを述べる必要があります。

何故、関心を持ったのか ?

私は小学校 3 年ぐらいまでは都会地域に住んでいました。 その後、地方都市に引越しをしました。どこであるかは問題ではありません。 そこで私は川が赤、緑、黄色などの原色の色に染まっていることを目撃しました。 染色工場が廃液を未処理で垂れ流していたためです。 大事件ではないかと思って新聞を読んだのですが、そんなことは 一切報道されていませんでした。ともかく川はものすごく汚くて、 見ていると吐き気がするくらいひどいもので、 とても不安になりました。

こんなにひどいのだから、少しでも新聞に載っていてもよいのではないかと思い、 随分新聞を読み漁るようになりましたが、 一目瞭然のひどい状態に関して新聞は何も言及していませんでした。 しかしそのうちに 「非常に小さい記事」に意外なことが載っていることに気づくようになりました。 その結果、私がそのとき住んでいた場所と同じようなことが 日本国中の地方都市で起きているらしいということを発見しました。

「公害対策」に費用がかかりすぎると、企業は「公害対策」をしなくてもすむような 外国に工場を作ることがあります。「公害輸出」です。 しかし、ここに行くまでにもう少し前の段階があります。 大都市では廃液を未処理で垂れ流せば問題となることがあっても、 地方都市の場合であれば、 企業があればそれだけでもありがたい場合がありますから、 公害なども見て見ぬふりをすることもあるわけです。 「公害輸出」は外国に公害をしわよせすることですが、 地方都市に公害をしわよせすることがまず先にあったのでした。 これはかっての日本のみならず、現代の中国でも起きています。 最近の英字紙に、中国のどこかで川が廃液の染料で原色に染まっていること が書かれていました。これはちょうど、私が子供のときに目撃した光景と 同じようなものだと思います。

当時の新聞の小さい記事とは

さて話を先に進める前に、私が読んだ「非常に小さい記事」とは何であったのかと いうことを述べる必要があります。当時の新聞は今日の新聞と違い、 とって付けたような小さな記事があちこちにありました。 新聞には大抵方針がありますが、この小さな記事は そのような方針とは独立に登場していました。 このような小さな記事ができる理由はずっとあとにならないとわかりませんでした。 いつ頃知ったのかはもう覚えていませんが、はっきりしていることは 現在の新聞は電子的に版組みをします。この方法をとれば、最初から 活字を組んだときの結果がはっきりわかり、色々レイアウトを変更して 記事を紙面に適当に収めることができます。昔のやり方では 活字は手で拾わないといけません。その結果、どうあっても、余分なスペースが 空いてしまいます。多少は、レイアウトを変更できたと思いますが、 輪ゴムのようなもの括り直すだけのはずですから、自由度はほとんどありません。 そのため、印刷の直前になって、余分なスペースを何とか処理しないと いけなくなります。可能な方法は、小さな記事をここに挿入することです。 内容を吟味している時間がありません。空きスペースにあわせて 小さな記事を挿入することになります。この記事は本来、ボツになった記事を 小さくまとめただけのものです。このため、新聞社の方針とは 違う記事が時々登場することになります。私が読んだのはこの様な記事でした。

では当時の新聞の方針は何であったのかという点ですが、 大都市圏の理由から地方都市が犠牲をこうむる必要があっても当然ではないかと いうものです。そしてまた、環境汚染のようなことに関しては 報道が目をつむることは、基本方針であったと考えてよいと思います。 鉱山の廃液による汚染に関しては報道されていましたが、 それ以外の工場廃液に関しては恐らくおびただしい数の記事が書かれたことが 確実です。しかしほぼ全部ボツになった。新聞の組版により生ずる空きスペースに 詰め物 (どうでもよい記事) として掲載される記事に工場廃液の記事があったことからこれは ほぼ確実です。無論水俣病の記事もあり、普通の読み方では知ることが できないことも知ることになりました。

水俣病の登場

水俣病の話をする前に当時の私が知っていた予備知識を話す必要があります。 私の親たちは戦時中およびその直後に飢えを経験した人たちでした。 社会的にもそのような人は非常に多く、栄養のことはとても重要なことでした。

そのため、例えばたんぱく質を摂取しないといけないこと、ミネラル分を摂取しなければいけないことなど、 ともかく非常にうるさく教わりました。その中で印象に残っているものが あります。「鉄分のようなミネラルは高等動物は直接摂取できない」ので、 「鉄分摂取」のために「鉄粉」を食べても無理である、ということでした。 ミネラルは、プランクトンのような原生動物や植物が直接的に摂取でき、 食物連鎖によって、魚やほうれん草を食べることで人間が摂取できるというものでした。 要するに「ミネラルの摂取には魚や野菜を食べましょう」ということが 書いてありました (小学校の家庭科の教科書だったのかな ? 漫画でも描いてあったような 気がする。)

水俣病の話を聞いたとき私は直前に食物連鎖のことを聞く、もしくは読んでいます。 そのため、「日本チッソ」の工場から垂れ流された水銀が食物連鎖で 人間の体内に取り込まれることはすぐにもわかる教科書的な事実でした。


注意
「食物連鎖」という言葉は日本の新聞には余り出てこないと思います。 英字紙では一般に科学に関する記事がずっとたくさんあり、その中で比較的 よく登場する言葉です。 英語では「食物連鎖」を「food chain」と言います。 汚染した食べ物を食べないようにするには、日本ではさしずめ「食卓際の防止」 というような言い方をするのではないかと思います。英語では 「food chain への侵入の防止」という言い方をします。 この言い方では、水俣病は「food chain へ水銀が侵入した」結果起きたことです。
さて、当時の水俣病の報道に触れる前にもう一つ重要な話を 書く必要があります。

新聞記事はどのようにして紙面に載るか ?

ここで書くことは、ずっと後になって知ったことです。 しかし、これを書かないと、当時の報道のことを記述することはおよそ無益と 思えるためです。1970 年代の後半か 1980 年代の前半ではなかったかな、と思います。

朝日新聞に載った日本語の記事ですが、住民運動に関連したものではなかったかなと 思います。身近なことでありながら、ともかくも何らかの意味で政治的な 内容に関連したものであったと思います。内容自身は覚えていません。 簡単に読み飛ばした可能性があるのですが、何か気になって、 一字一句読もうとしました。ともかく当事者に体制側のグループと 住民運動をしているグループがあり、 読み方によっては体制側の言い分が正しく、別の読み方によっては住民運動を している側の方が正しいと思えるものであったと思います。 だから、不思議に思って記憶に残りました。

しばらくしてから、同じ記事の翻訳が Asahi Evening News に載りました。 前半部はほぼ同じでしたが、後半部が違っていました。 体制側のグループの方があからさまに無体なことをしていることが記載されていました。 前半部の記述から、これは確実に翻訳です。 しかし後半部の方はまるで違っています。

随分考えることになりましたが、一つだけ知っていたことがあります。 The Japan Times に外国人の翻訳家が定期的に寄稿する 記事がありました。これは 1 ヶ月に一度ほどの割合で掲載されいました。 その中に日本語から英語に翻訳するときに、日本語があいまいに書かれている場合に そのままで翻訳しようとすると誤訳になるから注意する必要があり、 そのためあらかじめ事実関係を知っていないといけないと言うものでした。

これを前提にすれば、Asahi Evening News の記者が、日本語の朝日新聞の 記者に内容を確認したかも知れない可能性があります。 しかし、これは絶対ありえないと断言できたと思います。 そのため新聞記者の生の記事が新聞に掲載されるわけではないと気づくことに なりました。つまり Asahi Evening News の記事は、記事の元になった 原稿を翻訳したのだと言うことです。 この元の記事はそのままで出るわけがなかったのです。 「住民運動側」の立場に立った記事が「朝日新聞」にそのまま載るはずが ないとわかったのでした。

気が付けば面白いようにたくさんこのような記事があることが判明しました。 つまり編集者は住民運動に水をさす方向で記事を作り変えているのだと 断言できることになりました。そしてそれが朝日新聞の新聞社としての 方針であることも明白となりました。また同時に朝日新聞の編集長が すさまじい権力を持っていることも明白となりました。

水俣病の報道

「水俣病」の最初の記事は、今では霞のようになってしまっています。 非常に混乱した記事が連続し、今となっては、それが整理されたときの 記憶しかありません。整理をすれば


1. 水俣に病気らしいものが発生し、しかもこれは生命の危険があった。
2. 診断をした無名の開業医が治療にあたっていた。
3. 無名の開業医は治療に困り、九州大学の大学病院に患者を診断して欲しい ともちかけたが、門前払いを食らった。
4. 次に、京都大学の大学病院にかけあったが、ここでも門前払いを食らった。
5. おそらくと思うのですが、何らかの中毒の疑念があったのでしょう。 これが大学病院に診断を依頼する理由であったと思います。 大学側は本当の理由に気が付き、その理由から診断を拒否したのでしょう。 (大企業が関係していた。)
6. 困り果てた無名の開業医は自分で調べざるを得なくなったようです。 当時、鉱物による中毒に関しての本は日本語訳がなく、結局原書で 読まなくてはいけなかったようです。その結果、水銀中毒であることが 決定的となり、記者会見で発表することになりました。
7. これを聞いた被害者の一部が怒り狂って日本チッソになぐりこみをかけます。

朝日新聞はもっぱらこの「なぐりこみ」の件のことを大々的に報道していたと思います。 いずれにせよ、その結果、この問題に関しての「検討委員会」めいたものが 日本政府に作られました。座長は京都大学の教官でした。

京都大学の教官は「無名の開業医」の行為を「売名」と決め付け、 「水俣病は仮病である」と断言しつづけます。「水俣病」の被害者の間には 当然温度差があり、「なぐりこみ」をかける人もあればそうでない人も いたと思います。しかし京都大学の教官は一括して全部を「百姓一揆」と 呼んでいたと思います。(損害賠償の問題が関連していた。) ここで警察力が投入されました。 当然のことながら「百姓一揆退治」です。片っ端からうむを言わせず逮捕しています。 随分むごいやり方であったと思います。 証拠があるもないも、全然でたらめでしす。単なる「百姓一揆退治」でした。


追加
「百姓一揆」には当時「道徳に反する行為」というような、ニュアンスがありました。 そのときは理由がわからなかったのですが、後で色々気がつくことになりました。 まず「正義」とは何かですが、これは「正しい義理」とでも考えればよく、 侍たちにとっては「殿様に忠実であること」なのです。 従って「百姓一揆」とは「道義」に反することであり、人の道に背くことであり、 これを退治することが「正義」なのです。 封建時代における「正義」はこの意味でしかなく、また水俣病事件の渦中では この意味が、まだ歴然として残っていたときであるといってよいと思います。 新聞記者がこの考え方を持っていたかどうか知りませんが、 最終的な記事から判断をすれば、朝日新聞の編集長はこの考えを踏襲していたと思います。 時代劇に出てくる「正義」は少しおかしいのです。 盗賊たちの処分などは大して重要ではなく、本来の意味であれば 政治を批判する者を、八つ裂きにしたり、磔にすることが「正義」なのです。 これが本来の侍たちの役目であり、第二次大戦後もそのように考える人が随分いたのです。
さて、これを取り巻く社会状況はどうであったのでしょうか。 おどろくべきことに、「旧帝大系」の教官は判で押したように「水俣病は仮病」 である意見に賛同したのです。また日本の大病院の医者たちもすべてこれに同調していました。

そのとき根拠として言っていた事は、「無機水銀は有機水銀に変化しない」からでした。 しかし、もっとも馬鹿げていることは、研究者は誰も調査をしなかった点です。 また、大手の病院の医師はすべて「水俣病の患者の診察」を拒否しました。 その上で「水俣病は仮病」であると主張しつづけたのです。 しかしこのような発言に対して拍手喝さいで受け入れた人たちがいました。 公害で苦しむ人たちよりも、当時の日本のあちこちに存在していた汚染企業でもうける人たちがいたせいです。

日本チッソが垂れ流した無機水銀は食物連鎖 (food chain) をつたって、 人間の体内に取り込まれたことは誰もすぐにわかるはずであった思います。 さて歴然とわかる点を整理しましょう。


1. 旧帝大系の研究者たちは水俣病が水銀中毒であることちゃんと知っていた。 (そうでなければ調査をしている。)
2. 大病院の医者たちも水俣病が水銀中毒であることをちゃんと知っていた。 (そうでなければ診察をしている。)

しかし、政治的理由から全員が嘘をついた。そして、誰もが嘘を付いていることを 知っていた。

水俣病と京都大学

朝日新聞ではともかくも京都大学の色々な教官の 発言を載せていましたが、そのいずれも 「水俣病は仮病」であるというものでした。 しかし、いざ本当に病気であるらしいことが 別の事実からわかることになると


「水俣病は水銀中毒とまったく同じ症状を呈する貧乏人だけがなる風土病である」

と開き直ることもありました。貧乏人だけが魚を食べていたことからこう言ったようですが、 更に「所得と相関関係があるじゃないか」と平然と言い切っており、 被害者に対する侮蔑、もしくは侮辱がはっきり読み取れる発言であったと思います。

当時、およそ京都大学の教官はすべてこのような発言をしており、 当時小学生でも知っていた「かの世界的に有名な Y 先生」もその中に入っていたと思います。 このため、「水俣病は仮病である」主張は 京都大学の大学としての立場といってよかったと思います。 朝日新聞は更にとどめの一撃として、京都大学の教官による 論説を掲載しました (「論壇」です)。それによると


1. 日本チッソの技術は水銀を垂れ流しすることによって 得られた極めて効率的な方法で「後進国アメリカ」 ごときが 真似できるようなものではない。
2. よしんばこれにより数千人 (数万人であったかもしれません) の 犠牲者が出ようと問題とする所がどこにあるか !!

でした。この論評 (これって論評ですかね) は随分記憶に残っており、 繰り返し考えることがありました。


追加
この論説 (?) を読んだあとで、当時、誰もが「日本は先進国である」と言っているが、 「日本は本当は後進国ではないのかな」と思いました。
問題とするところは執筆者が日本チッソの製造過程を熟知していたらしい という点です。京都大学は大企業に卒業生を採用させていましたが、 ほぼ確実と判断できる点は日本チッソにも卒業生が採用されている。 恐らく他の旧帝大でも同じだと思います。これが製造過程を熟知しているのでは ないかと判断した理由です。 あるいは更に突っ込んで「日本チッソ」の「水銀たれ流し方」の開発時点から 京都大学が一枚かんでいたのではないかと疑えます。


注意
1. 京都大学の教官によるこの論説は日本チッソ側からのものと考えるべきです。 何ゆえ、大学の教官が企業の立場から議論すべきか、あるいは企業の技術を 熟知しているのかは大いに疑問とすべきであると思います。 むしろ、この論評から判断すると「日本チッソ」の技術開発に 京都大学が非公式に関与したと考えるほうが最も自然だと思います。
2. 当時の日本の少々危ない公害企業はすべて地方都市で活躍しています。 「日本チッソ」の「たれ流し技術」も当然このカテゴリーに属しており、 最初から危険を承知の上で地方都市で展開した。そうすると犠牲が出ることを 承知の上で稼動したことを意味し、これは論評といささかも矛盾しないと思います。

「水俣病」は過去のこととして済ませる以前に未解明の部分が随分ありそうです。 米国では極秘文書が解禁となって、事件が起きた当時には不明であったことが 明らかとなることが随分あります。日本でもこのようなことがあって欲しいと思います。

その後、1

最初にも述べましたが、私が公害のことに関心を持ったのは地方都市に移住して、 目撃をした染色工場の廃液でした。これはともかく、とても へどが出るような光景で、見れば見るほど気持ち悪かったです。

しかし、少し気が変わることがありました。 その年の冬、記録的な豪雪に見まわれ、2 メートルを越す積雪を経験することになりました。 「雪かき」など、どだいどうするか皆目見当も付かなかったのですが、 雪が降り止んだ後で、近所の人は懸命にこれをマンホールに突っ込んでいました。 またトラックに雪を満載して、例の汚れ切った川に捨てに行きました。 染色工場の廃液は下水に流れ込み、それが川に直結していました。

そのとき、ようやく染色工場の廃液が温排水であることに気がつきました。 実際のところ、この温排水がないと雪を処分する方法がないこともわかることに なりました。

こうなると違った側面を見ることになり、以後あまり染料で汚れた川のことも 気になることがなくなりました。

その後、2

この地方都市に移住してから、5, 6 年後の中学校 3 年の 10 月に 大都会に再び引越しをしました。以前にすんでいた地方都市のほうが よかった部分にも気がつきましたが、やはり染料で汚染された川のことは 随分に精神的に影響があったようで、その後すっかり廃液による汚染のことは 興味を失ってしまいました。高校 1 年のとき「水俣病」に関して 始めて現地調査が行われました。熊本大学によるもので、 確かにプランクトンに有機水銀が検出されたというものです。 朝日新聞の記事は随分地味で、当然のことを報道しているといった体裁でした。

朝日新聞も当初から、水俣病の原因が食物連鎖であることは知っていたと思います。 新聞は随分むごいことをしているな、と思いました。

蛇足ですが、大学入試のときはすっかり「水俣病」のことを忘れており、 結局京都大学に進学しました。しかし入学した後で、いつの頃か覚えていませんが 理学部数学の N 教官が「水俣病は仮病だよ」と言っているのには辟易しました。 この前後、京都大学は大学紛争に突入しました。

何年か前に、子供時代に過ごした地方都市を訪れてみました。 川は随分きれいになっていました。また積雪対策の地下水を流すための 「装置」が道路に設置されていることにも気がつきました。どこにでもあるようなものです。

事件を振り返って

「水俣病」に関しては「都会と地方」の対決がある一方で 「個人と企業」という対決もありました。 「都会」が「地方」に犠牲を押し付けることが当然であると考えることが問題の 一面ですが、それ以外に「個人と企業」の関係も忘れることはできません。

しかし、当初は「個人と企業」の問題は「地方と都会」のすりかえられていたような 気がします。日本チッソの本社は東京にあり、被害者は水俣にいたためです。 報道は「被害者の実情」と「水俣病は仮病である」の両論併記でした。 これは公平でないと思いましたが、理由らしい理由も思いつきませんでした。

この問題がはっきりしたのは、かなり後のことで、欠陥商品がらみの ことからでした。新聞は当初「個人の意見」と「企業の意見」の両論併記でした。 これは間違いなのです。企業は自社の製品に欠陥がないことを立証する 義務を負うことになります。つまり「消費者保護法」の成立の頃から、 ようやく日本の報道にもそのような姿勢が見えることになりました。

個人と企業の対立がある場合には、企業の方に責務があると考えて報道すべきなのです。 これが「水俣病」にはありませんでした。報道はきわめて不公平な方法で事件を伝えることに終始しており、本来の報道のあり方を理解していなかった といってよいと思います。



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7. 最近のこと

グルジア問題のことに関して

邦字紙ではあまり正確に書いていない、あるいは世論誘導的な書き方をしているようですが、 2008 年 8 月に起きた、グルジアの武力衝突は、直接的にはグルジアによる南オセチア人の虐殺から始まっています。

邦字紙の取り扱いにも問題がありますが、外務省のホームページも同様です。

南オセチアにおける武力衝突について (外務省)

邦字紙や外務省が英字紙や外電を注意していないはずがありません。 あくまでもロシアのみが悪い奴という印象を持たせる必要があるのでしょうか。 あるいは、これが日本政府の方針で日本のメディアもそれに追随しているのかもしれません。

英字紙に載っている記事では色々なものがあります。ロシアだけが悪い奴というような記事の方が 多いかもしれませんが、それ以外にも色々な記事が掲載されており、十分に事実が判断できる と思った記事から以下の内容を構成しております。

先に手を出したのはグルジア

これ以前に、グルジアと南オセチアの間で小競り合いがあったようですが、全面的な戦争に持ち込んだのは グルジアです。英字紙でわずか数日の間に目まぐるしく報道が変化しました。 しかも、ワシントンに駐在する記者と、モスクワに駐在して、戦地を取材する記者の 双方の内容が最初は矛盾しており、何がなんだかわかりませんでした。 これ以前にはグルジアのことはほとんど何も知っていなかったのでなおさらのことです。 知っていたことは英語の綴りが Georgia で英語式に読めばジョージアになることだけです。 しかし英字紙にはかなりかいつまんでわかりやすく問題点を紹介していたので 何も予備知識のない私にもかなりはっきりすることになりました。

最終的には、ワシントンに在住する記者も、先に軍事行動を取ったのがグルジアであるように書いています。 従って、これに関してははっきりすることになりました。

地理的背景 - 問題点

南オセチアが独立されるとグルジアは非常に困ることになります。 南オセチアは面積の点からはあまり大きくありませんが、地理的にはグルジアの中心部に食い込む位置にあります。 そのため仮に南オセチアが独立でもすると、首都のトリビシは国境からわずか数十キロメートルのところに なってしまいます。そのためこれは断じて避けたいようです。また、グルジアは横に長いので、 真ん中あたりでちぎれかけるような状態になり、これまたものすごく都合が悪いことになります。

一方で、南オセチアに住んでいる人と、ロシア領内の北オセチアに住んでいる人は同じ人たちです。 中間には山脈があるようですが、トンネルでつながっており、自由な交流があるようです。

グルジアは NATO にも加盟したかったようで、またアメリカとも密接な関連を維持したかったようです。 グルジアはイラクに派兵している兵士の数では、米英に続いて NO 3 です。 いざロシアとの間で問題が起きたときに NATO やアメリカに助けてもらいたいからのようです。

モスクワ在住で戦地の報道をしていたのは、どうもフリーランスの 記者のようです。名前が書かれていましたが、所属がかかれていなかった。 戦地の報道をするのは危険なことですからフリーランスの記者に限るようです。 2, 3 度記事が掲載されましたが、最初はよく事情が飲み込めませんでした。 上に述べた南オセチアの地理的条件とか、グルジアがイラクに派兵を積極的にしていることは そこから知ったことです。

もっとも悪い奴はアメリカ、ヨーロッパ

ワシントン在住の記者の書く記事では、最初はグルジアの方が先に手を出したようには見えない書き方でしたが、 そのうち、トーンが変化し、「もっとも悪い奴は米国政府だ」と書くようになりました。 その理由は、米国政府はグルジア政府には「絶対に南オセチアに軍事行動を取るな」と強く要請していたようですが、 一方で一般のグルジアの人たちに対しては同盟関係を誇示して「いつでも馳せ参ずる」というよなパーフォーマンスを していたようです。その典型例が 2008 年 5 月か 6 月頃にグルジアを訪問したライス国務長官であったようです。 つまりこれは 2 枚舌です。米国政府としては、グルジア政府がイラク派兵にあくまでも協力してもらいために このような妙なことをしたようです。しかし、このような 2 枚舌的なアプローチはヨーロッパ各国とも 似たようなものであったようです。 そのため、グルジア軍の一兵卒は、どのようなときであれロシア軍とのトラブルが発生すれば、 米国ないしは NATO がすぐにも派兵してくれるものと信じていたようです。

ロシア軍に追い立てられてグルジア兵は「肝心な時に米軍がいてくれないじゃないか」と こぼしており、それが記事になっていました。しかし、この記事を読んだときは、上の事実を 知りませんでした。時間が前後したために、全容がわかるのに数日かかっています。

まだ問題がある部分があります。米国はグルジア兵を訓練しています。 これでグルジアの軍隊は近代的なものとなり、イラクに派兵もしてくれましたが、 実際のところ、この軍事訓練はグルジア兵からすれば、対ロシアを前提にした訓練であるようにも 捕らえたと思われます。ところが米国としてみれば、グルジアがロシア軍と対決することはとても 無理であることは十二分に知っていたから、「南オセチアには断じて軍事行動をとってはならない」 と要請していたわけです。

しかし、一般のグルジア市民や兵士からすれば、いつ何時でも、どのような理由であれ、米国や NATO が 助けてくれると思ったのでしょう。米国やヨーロッパがいたずらな夢でグルジア市民や兵士を釣っていたことになります。

グルジア政府のギャンブル

ではグルジア政府はどのように考えたかです。 グルジア軍の一兵卒とは違い、グルジア政府もロシア軍との対決ではかなうわけがないことを 知っていたはずです。ところが世界の目は北京オリンピックに釘づけになることが わかっており、ロシア政府では、いまだに影響力を行使しているプーチンが北京に 行くことになっていました。 だからグルジア政府はここでギャンブルをしたのです。うまくいけばロシア軍の派兵に時間がかかる と踏んだようです。 その間に南オセチアの人を殺せるだけ殺してしまい、いざロシアが軍隊を派兵しても、 時すでに遅し、という状態としまおうと考えたのではないかと思います。 こうなれば、もしもロシア軍がグルジアを攻めても、米国や NATO もロシア軍に自由にさせるわけにも 行かないから仕方がなく、軍隊を派遣するであろうと考えたのではないかと思います。


注意
グルジア政府がこのようなギャンブルをすることを可能にしたのは、 先にも述べたように米国、ヨーロッパの 2 枚舌外交です。 戦争をするには必ず 国民の積極的な支持が必要です。米国、ヨーロッパの 2 枚舌外交なくしては グルジア政府がギャンブルをすることはありえなかったと思われます。
北京オリンピックのときにグルジア軍が南オセチアを攻めたのは偶然ではないのです。 これは用意周到に計画されたものです。

さて、グルジアがいざ軍事行動を起こしたところ、ロシア軍は電光石火のように、軍隊を投入しました。 最初は人数はあまり多くはなかったと思いますが、これで私は勝負あったと思いました。 グルジア軍の方で撤退をする旨の報道があったのですが、モスクワ在住の記者の書いた記事では グルジアの戦車はカモフラージュしただけで撤退をしていません。 理由が理解できなかったのですが、結局、そのうち NATO や米国が軍隊を派遣してくれることを 期待したのではないかと思うようになりました。しかし、グルジア軍の方が先に南オセチア人を虐殺していましたから (数千名)、事情がはっきりしていれば、NATO や米国が単純にグルジアに協力するとも思えません。 しかし一般のグルジア人や一般の兵士は助けが来ると信じていたのです。

こうなるとロシアはどうすればよいでしょうか ? グルジアの軍事施設を空爆することです。 これしかありません。グルジア兵が NATO や米国が軍隊を派遣することを期待して撤退していないのですから、 軍事施設の空爆をする以外にありません。だからこれはやむをえないことです。

またあとあと、ワシントン在住の記者の記事でロシアはグルジアの行動を予測していたのではないだろうと 国防省が結論していることも報道していました。直前にはロシア軍はグルジア国境に集結していなかったからです。 偶発的にこうなったのであろうと判断されたようです。

ロシアの反応がすさまじく早かったため、グルジアが北京オリンピックに乗じて軍事行動を 取ったことは裏目になったようです。英字紙の方ではグルジアのことが少なくとも一面の記事になっていましたが、 邦字紙の方では、オリンピックのことばかしで当初は忘れ去られていました。 ロシアが空爆する頃になってようやく邦字紙に登場していますから、グルジアの軍事は忘れ去られていた感があります。 この点に関しては、グルジア政府が考えた通りになっています。 効果は裏目になりましたが ....

グルジアは米国、ヨーロッパにとって何ゆえ重要か ?

グルジアの重要性に関しても英字紙で報道がありました。グルジアは石油や天然ガスの産地ではないのですが、 カスピ海と地中海をつなぐパイプラインが通っています。OPEC の支配下にない石油や天然ガスを供給するための パイプラインで、ヨーロッパ、ひいては米国にとっても、エネルギーの安定供給に欠かせないものです。

本来このパイプラインは、(カスピ海から黒海に至る) ロシアを通るパイプラインの代替として建設されたものだと思います。 ヨーロッパ、米国とロシアが対決するような場合にはロシアを経由するパイプラインでは供給に 不安が残るためです。しかしながら、今回、グルジアの戦闘により、グルジアを通るパイプラインが 閉鎖され、その代わりにロシアを経由するパイプラインと陸送がそれにとって変わることになりました。 ヨーロッパ、米国からすれば、これでエネルギーでロシアに依存することになりますから 非常に妙なことになったことになります。

戦争がエスカレートする理由

当初ロシアの目指したことは、グルジアの政権交代でした。 グルジア政府が南オセチア人の皆殺しを計画したことから考えれば、これは当然なことに思われます。 しかし、例えば日本のメディアの報道するところでは、常にロシアが悪者です。 このような報道しかなければ、グルジア政府は勢いづくことになり、政権交代など ありえるはずもなくなります。こうなればロシアは更にエスカレートする意外に道がなくなります。 つまり、グルジアにおける戦闘のエスカレーションの直接の引き金は 日本などにおけるメディアの理由でもあることになります。

更に問題を紛糾させている点は、ヨーロッパ各国は南オセチアがグルジアから独立することを 望んでいないことにあります。 スペインのバスク地方の独立運動は日本でもよく知られていることですが、 ヨーロッパ各国とも類似の問題をかかえています。 南オセチアがグルジアから独立しようものなら、途端にヨーロッパ各国とも 自国の問題に降りかかってきます。 英字紙にはベルギーのことが紹介されており、内部的に 6:4 の比率で 分裂する可能性が指摘されていました。 このような、独立運動は以前とは全然違う面があります。 今日、ヨーロッパでは EU の比重がずっと高くなっており、よしんば 独立をしても、EU のメンバーであることに変化がありません。 そのため、独立運動はずっと現実味があることになりますが、 ヨーロッパ各国政府としてもこれは断じて容認したくないのです。

報道が変になった

グルジアが条約に締結する意向を示してから、ロシアが撤退することを表明する頃までに 新聞報道が少し妙になっています。そこでもう一度整理をしなおすことにしました。

「ロシアが電光石火のように軍隊を投入した」と書きましたが、これは一応軍隊の投入には 時間がかかることを前提にしています。大規模な地震があったときに、 自衛隊は救難援助をするのが普通ですが、このような場合に 24 時間以内に、移動の準備を 終えることができれば、とても速いと言ってよいと思います。だから実際の救難援助はそれよりもあとになります。 実際に戦争をするには、水、食料の準備以外に武器弾丸の準備が必要となり、更には 野営のための装備も必要となります。24 時間以内に移動の準備が整えばこれは驚異的なことです。

今回は、ロシアの戦車隊も投入されていますが、恐らく、このための移動の準備は歩兵を 移動させるよりも、もっと大変になります。48 時間以内に移動の準備が整えば驚異的な 速さだと思います。実際、ロシアの戦車隊の報道があったのは、グルジアの戦車隊が南オセチアに 進入を開始してから 2, 3 日たっています。そして、この間に南オセチアの人が多くのバスに分乗して トンネルを通って北オセチアに逃げ込んでいます。そして、その間に数千人の人が殺されているのです。 これは多いですよ。確か 2000 名という報道もありましたが、南オセチアの住民の数が 2 万人程度 ですから、2 日程度の間に 1 割の人が殺されたことを意味しています。 だから、これは無差別殺戮に近いことが起きたはずです。 英字紙の記事の中には、南オセチアから撤退するグルジア兵が「(南オセチアで) 殺しまくった」 と言っているものもありました。

どうしてこれを書くことにしたかの理由ですが、この数日間の邦字紙の報道、あるいは 英字紙の報道でも、ロシア軍が最初から南オセチアにいたかのように報道しているためです。 グルジアの戦車が南オセチアに侵略したときは新聞報道はオリンピック一色でした。 英字紙でもその傾向があったのですが、私はオリンピックのことはあまり読みたくなくて それ以外の記事を読もうとして、グルジアの侵略のことに気が付いたのです。 そのため、邦字紙のみを読んでいれば、グルジアの侵略が報道されるころには すでにロシア軍が南オセチアに進軍していますから、これで誤解が生まれたのかもしれません。 しかし、一方では「何でもかんでもロシア悪いのだ」と言っているようにも見える記事もあり、 また政治的にロシアを悪者にする記事もあるようにも見えます。だから、どうなっているのか 少し状況が不明です。

私はどういうわけだか、古典的な戦車戦がどのようなものかをある程度知っています。 多分、ベトナム戦のときの英字紙の報道からであろうと思います。古典的な戦車戦は F1 レースに 似ています。F1 レースではドライバーだけがレースで活躍するわけではありません。 ピットにいる整備工が大活躍をします。戦車戦も同じで、整備工がいないと話になりません。 だから戦車隊は全体ではとても人数が多くなります。そのため戦車隊を投入するには準備が随分 必要であると思っています。 F1 レースではタイヤ交換などが 必要となりますが、戦車戦でも同じようなことになります。砲撃を少々食らったぐらいでは 戦車は大破することはありませんが、キャタピラが不調になることは随分あるそうです。 こうなるとすぐにも修理をしなければなりません。そのまま放置すると動きが機敏でなくなりますから 的撃ちの対象となるためです。またなるべく速く戦闘に復帰しなければなりません。 その理由は戦車戦では戦車の台数が多いほうが圧倒的に有利になるためです。 だから 1 台でも多くの戦闘可能な戦車がいてくれないとだめなためです。 そのため F1 レースととてもよく似たことになります。 スペアのパーツも一杯用意していないといけないのです。 第二次大戦の日本軍では戦車は対人兵器でしかなく、戦車戦をしていませんから、このような 事実を知っている人は少ないかもしれません。

以上は、古典的な戦車戦の話で、現在では事情が違っています。 但し、どこの国でも可能であるかどうかは知りません。決定的に変えてしまったのは米国です。 サダム・フセインとの戦争で、バグダットに進撃するときに米国の戦車は 装甲を貫通する (armour piercing) 銃弾を使用しました。劣化ウラン (depleted uranium) 弾です。 古典的な戦車戦では敵味方共に消耗戦となり、どちらの戦車も最終的にはずいぶん破壊されます。 劣化ウラン弾は弱い放射性を持っていて、環境には極めてよくないようですが、 戦車戦では圧倒的な強みを見せ、破壊されたのはサダム・フセインの軍隊の戦車だけで、 その結果驚くべきことに、サダム・フセインの戦車隊が消滅してしまいました。 しかし、今回のグルジアでの戦闘にはこのようなものは使用されなかったことは確実です。 もしもロシアが使用していれば、戦車はあっという間に破壊されグルジアの戦車隊の痕跡が消滅したはずだからです。 これはなかったです。従って古典的な戦車戦が展開されたはずです。

今回、南オセチアに当初から戦車が駐留していたか どうか知りませんが、グルジアが大量に戦車を投入すればそれで勝負が決まります。 この状況でロシアができることは、より大量の戦車を投入することです。 古典的な戦車戦では、より多くの戦車を投入しないと勝つことができないからです。 市街地域で障害物があるところでは、一概に言えないかもしれませんが、 2 倍以上の台数の戦車を投入する必要があります。 古典的な戦車戦ではこうする以外に手がないのです。従って グルジアが戦車を投入した時点で、このような方向に事態が流れるしかなかったと思います。

ここ数日間の新聞記事の中にはロシア軍は最初から南オセチアにいたと、書いているものが 英字紙、邦字紙共に増えています。これはありえません。 今回の戦争は基本的には戦車戦で、グルジアが南オセチアに侵入できたのは、その時点で グルジア軍の方が圧倒的に戦車の台数で多かったせいです。


注意
南オセチアには戦車がいなかった可能性の方が大きいです。 戦車隊は規模が大きくなるので 2 万人程度の南オセチアに戦車隊が常駐していことは 考えにくいことです。防衛のためであればミサイルのほうが有効です。
その後、ロシア軍が巻き返しますが、これはグルジア軍よりも圧倒的に多くの戦車を 投入したためです。 ロシア軍の方は最後には空爆をしないといけなくなりましたが、 これは障害物が多い市街地では大量の戦車があっても、そのまま効果があらわれず、 こう着状態になりかかったためではないかと思います。

私はロシアのことは必ずしも好きではないのですが、今回の件に関しては、 ロシアの言い分の方が正しく、南オセチアの住民の命を守るためにしたことであると 判断をしています。劣化ウラン弾のようなものがあれば、グルジア軍の戦車隊を消滅させることも できたでしょうが、ロシア軍には劣化ウラン弾のようなものがなかった、 あるいはそれを使用できる状況になかったと考えれば、今回のようなことに 発展せざるを得なかったと思います。

今回のことで不明なのは何故グルジア政府が戦車隊を投入したのかという点です。 結果が目に見えています。ひょっとするとロシアが戦車隊を投入するまで 1,2 週間は かかるとふんだのかもしれません。この場合には南オセチアの住民の半数以上が 殺されていたのかもしれません。

事件の流れを再度追う

私は邦字紙を購読していません。購読しているのは英字紙 (Japan Times, IHT) のみです。 グルジアに関しての邦字紙がどのように論じているのか知りませんが、 産経新聞に関しては、日頃利用する食堂においてあるのでよく読んでいます。 産経新聞に関しては、事件を公平に論じていないです。 ロシアのみ悪者にしています。非常に腹が立つので事件の経緯を時間の流れを追って説明します。 事実関係を再確認できることを目的とします。
1. グルジア軍が南オセチアに進撃したとの報道があり、ロシア政府がグルジア軍が 南オセチアで虐殺 (genocide) をしていると糾弾。

私はこれだけの情報では事実かどうか判断できないと考えました。

2. ロシア軍が南オセチアに進軍したらしいとの報道。
ロシア政府はグルジア軍の戦車隊の南オセチアからの即時撤退を要求する声明
この後、激しい戦闘があったと思われますが、非常に短期間であった。
3. 再度、ロシア政府が、グルジア政府に対して、戦車隊の即時撤退を要求する声明
グルジア政府は、すでに撤退を始めたと声明
ロシア政府は、グルジアの戦車がカモフラージュしただけで、撤退をしていないと非難。
4. 前項の翌日ないしは翌々日に、ロシア軍による空爆
5. 空爆に関してのロシア軍による記者会見。
西側の記者と軍の代表によるやりとり。 ◦ (記者)     パイプラインの近辺に爆撃があったが、パイプラインを爆撃をしたのではないか ?
◦ (ロシア軍)  そのようなことはない。
◦ (記者)     誤爆はありえないのか ?
◦ (ロシア軍)  ありえないとはいえない。
このやりとりは非常にとげとげしいやり取りでした。

西側の記者は住民たちの生命の安全よりは パイプラインのことを問題としていることが非常にはっきりしました。

6. このあとで、南オセチアからのグルジア軍が撤退をする報道がある。 記者が撤退中のグルジア兵士に話を聞いている。グルジア兵士の返答は ◦ 「かんじんなときに米軍がいないじゃないか」
◦ 「(南オセチアでは) 殺しまくった」
と言っており、ものすごく憔悴しているようであった。

完全武装している兵士を簡単に殺しまくることはできませんから、これはグルジア軍が 一般市民を無差別に殺しまくったことを意味しています。だから、この時点で ◦ 南オセチアでグルジア軍による虐殺 (genocide) があったことが確実となった。
◦ 空爆の前に、グルジア政府が「グルジア軍が南オセチアから撤退を開始した」と声明を発表しているが、 これは嘘であったことが判明。空爆によって始めて撤退を開始。
であったことが確実となりました。

7. グルジア領内のパイプラインに関する報道。 ◦ パイプラインを管理している責任者から、グルジア領を通るパイプラインが無傷であることの回答
◦ (多分誤爆による被害を最小限に抑えるため) パイプラインが一時的に閉鎖がされたとの回答。
◦ 但し、パイプラインの中に残っている原油は 1 週間ぐらいは、圧力によって目的地で流出し続けるとのこと。


この時点で、ロシア軍の空爆はパイプラインをターゲットにしなかったことが確実であることが判明。 ロシア軍は空爆に関しても嘘はついておらず、信用してもよいらしいことがこの時点で判明。 ロシア軍の空爆のターゲットは、軍事施設、および南オセチアにおけるグルジア軍の補給の遮断を目的と したものです。今日の産経新聞では、ロシア軍によってグルジアの鉄道が破壊されたと報道していて、 ロシア軍だけが悪いかのように書いていました。間違いなく、この鉄道は南オセチアに おけるグルジア軍の補給のために使用されたものです。ほったらかしていたら、 南オセチアの人は殺しまくられるのですよ。
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