米軍を唖然とさせた日本軍の人命軽視 重傷病者には「自決」を要求

日本軍と日本兵 米軍報告書は語る (講談社現代新書)
講談社 (2014-02-28)
売り上げランキング: 532


日本軍と日本兵 米軍報告書は語る (講談社現代新書)
一ノ瀬 俊也
講談社
売り上げランキング: 839


http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44635


米軍から見た帝国陸軍末期の姿
〜本当に天皇や靖国のために戦っていたのか?

【特別公開】一ノ瀬俊也=著『日本軍と日本兵』1


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行進する日本兵 〔photo〕Getty Images

「規律は良好」「準備された防御体制下では死ぬまで戦う」「射撃下手」「予想外の事態が起きるとパニックに」……あの戦争の最中、米軍は日本兵について詳細な報告書を残していた。”敵”という他者の視点から、日本人には見えない問題をえぐった話題の書、一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』より「第二章 日本兵の精神」を特別公開します(全3回)。




日本兵の戦争観

対米戦争についてどう考えたか

この章では、米軍のみた日本陸軍兵士(捕虜となった者も含む)の精神や意識のかたちについて、士気や死生観、そして性の問題にも注目しつつ考えていきたい。兵士たちはこの対米戦争の行く末をどう考えていたのだろうか。

先にとりあげた元捕虜の米軍軍曹(*)は、IB(**)1945年1月号「日本のG.I.」で日本兵たちの言動を次のように回想している。

*この軍曹は日本軍の捕虜になり、戦争中に解放された。1年以上共に暮らした日本軍兵士の日常生活や風習を〈他者〉の視点で細かく観察、報告。 **米陸軍軍事情報部が1942-46年まで部内向けに毎月出していた戦訓広報誌Intelligence Bulletin(『情報公報』)。日本軍とその将兵、装備、士気に関する多数の解説記事が載っている。

日本兵は5年間服役すれば日本に帰ってよいと言われている。5年の服役を終えて帰国する日本兵の一団をみたことがある。彼らは幸運にも戦争から抜けられるのを非常に喜んでいた(今や80パーセントの日本兵が戦争は苦痛で止めたいと思っている、しかし降伏はないとも思っている)。1943年に私が出会った日本兵は完全に戦争に飽いていた。彼らは熱帯を呪い、家に帰りたいと願っていた。ある者は東条〔英機首相〕を含めた全世界の指導者に棍棒を持たせて大きな籠の中で戦わせ、世界中の兵士たちはそれを見物したらいいと言った。

日本兵は降伏しようとしてもアメリカ軍に殺されると教えられているが、私のみるところ、それは降伏をためらう主要な理由ではない。恥(shame)が大きな影響を与えている。都会の日本兵は映画のおかげで親米(pro-American)である。皆お気に入りの映画スターがいて、クラーク・ゲーブルやディアナ・ダービンの名前がよくあがった。私がアメリカで買える物を教えてやると彼らは驚いたものだ。むろん田舎者は信じようとしなかったが、都会の者は熱心に聞いていた。

日本軍の最初の一団はアメリカへ行くものと確信していたが、1942年11月、南西太平洋に出発する前にはこの戦争は百年戦争だと言われ、そう信じていた。

日本軍の最後の一団は戦争に勝てるかどうか疑っていた。日本の市民の何人かは、日本はもうだめだと言った。彼らは生命の危機を案じ、日本陸軍が撤退して置き去りにされたら占領地の住民に皆殺しにされるのではないかと怯えていた。

日本兵たちの多くは「百年戦争」と教えられた戦争を倦み呪っていたこと、同じ日本兵にも都会と田舎では相当の文化的格差があり、特に前者は本当のところ「親米」であったことがわかる。ディアナ・ダービンは1938年正月に主演映画『オーケストラの少女』が日本で公開された人気女優で、若き日の田中角栄は翌39年に徴兵で陸軍に入った際、彼女のブロマイドを隠し持っていたのを上官に見つかり殴られたそうである(戸川猪佐武『田中角栄猛語録』1972年)から、軍曹の話は不自然ではない。


一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』

軍曹の見た日本兵たちは確かに「望みは世界を征服して支配民族になること」であり、「我々を打ち負かした後はロシアを取り、続いてドイツと戦うのだと言っていた」(前掲「日本のG.I.」)。

しかしその一方で前出の映画に象徴されるアメリカ文化の強い影響下にあり、「親米」でもあった。これは、対米戦争当初の日本にはアメリカ人に対する蔑称らしいものがなく「鬼畜米英」が盛んに叫ばれるのは44年に入ってから、つまり実際には対米戦意が高いとはけっしていえなかったという、現代の歴史研究者の指摘を裏書きする(前掲吉田裕『シリーズ日本近現代史(6) アジア・太平洋戦争』2007年)。引用文中の「日本の市民」とは移民などで現地にいた在留邦人を指すか。

米軍軍曹は戦地の日本兵たちの娯楽について「映画(初期の勝利を宣伝官が観せている)も、古いアメリカの映画もある。日本兵はアメリカの唄と踊り付きミュージカルコメディをみると熱狂する」とも語っている。戦地ですら日本軍兵士が敵米国製映画に「熱狂」していたとの証言は、彼らの〝対米戦争観〟の内実を考えるうえできわめて興味深い。

名誉意識

IB「日本のG.I.」の米軍軍曹は日本兵たちの名誉意識、つまり軍人としての誇りや戦って死ぬための大義について、次のような観察をしていた。

日本兵たちは天皇のために死ぬことが最高の名誉だと教えられている。彼らはヤスクニ神社に祀られ、一階級進められる。しかし大きな戦闘だと兵は二階級進められる(戦死すれば)。田舎者はたいへん素晴らしいことだと思っているが、教育を受けた都会の者はだまされない。多くの者が〝Little Willie〟を切実に求めている〔44年3月、独ベルリン空襲で高射砲に撃破されつつもかろうじて生還した米軍B-17爆撃機〝Little Willie〟号になぞらえ「帰還」を意味するか〕と言う。

同じ日本人でも、靖国神社をめぐって「都会の者」と「田舎者」の間に温度差があるという指摘は興味深い。お上の教える殉国イデオロギーに対する批判精神の強弱は、それまでの人生で受けてきた教育の場と長さに比例するのだろう。天皇のために死んで靖国へ行くためでなければ、日本兵たちはいったいなぜ戦うのか。軍曹は続けて言う。

だが一方で皆降伏したり捕虜になったら祖国には戻れないと信じている。もしそうなれば殺されると言っており、もっとも教育のある者ですらも同じく信じている。この信念が、彼らを強敵たらしめている基本的要素の一つである。体罰への恐怖もまた、戦場での働きの重要な要素である。個人的には、日本兵は頭脳と自分で考える力を考慮に入れる限り、三流の兵隊だと思う。私は数人の、どの陸軍でも通用する兵隊に出会ったが、それはあくまで数人に過ぎない。

天皇や靖国のためではなく、味方の虐待や体罰が怖いから戦っているに過ぎないという軍曹の指摘を踏まえるならば、日本軍兵士は敵アメリカと戦うための明確な大義を「自分で考え」、敵を激しく憎むことができなかったことになる。このことが米軍側から「三流の兵隊」呼ばわりされるに至った根本理由だったのかもしれない。

ところで軍曹は「日本兵は互いに愛情を持たない。例えばあるトラック中隊は上級将校の命令がない限りよその中隊を手伝おうとしない。トラックの仕事がないとのらくらしている」とも述べて、日本兵たちの態度に奇異な印象を示していた。

これは前出の法社会学者・川島武宜が日本の「非近代的=非民主的社会関係」を支配する原理のひとつに挙げた「親分子分的結合の家族的雰囲気と、その外に対する敵対的意識との対立」すなわち「セクショナリズム」そのものである(前掲『日本社会の家族的構成』)。もっと卑近な言い方をすれば、自分の属するムラ(=中隊)の中では互いに酒を飲み助け合うが、ヨソ者には冷たいといったところか。日本陸軍はその末端において、天皇や「公」への忠誠よりも仲間内での「私」情により結合する組織であった。

日本陸軍が1943年の『軍隊内務令』(軍隊生活の規則書)制定にあたって軍内にはびこる「親分子分の私情」や「功利思想」を完全否定し「大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神」を改めて強調せざるを得なかった(拙著『皇軍兵士の日常生活』2009年)のも、こうした日本兵たちの日常的態度をみればよく理解できる。

捕虜との会話

これとは別に、米軍が日本兵捕虜に行った尋問からも、彼らの戦争観や戦いの行く末についての考えを知ることができる。

IB1943年5月号「日本兵捕虜から得た情報」は「数人の捕虜が、アメリカ合衆国、イギリスとの戦争に行くのは嫌だったと述べている。一人の捕虜は、日本の兵士や水兵たちが戦争に負けるのではないかとの見通しを語っていたと述べた。彼はロシアが日本に向かってきてウラジオストクを爆撃基地として使うのではないかとひどく恐れていたと述べた」と報じている。

米英との戦争だけでも負けそうなのに、ソ連までが攻めてくるのではないかという恐怖心が兵士たちの間に存在し、その士気を押し下げていたのだろう。

同記事によると、少なくとも二人の日本兵捕虜が、上官からの扱いを恨んで脱走したという。「うち一人はマラリアでニューギニアの休養所(rest camp)に入れられ、上官から〝怠け者〟と責められて〝蹴られ、小突かれ、殴られた〟。彼はこの扱いに絶望的となり、オーストラリア軍の戦線にたどり着くまで3日間ジャングルをさまよった」という。

もう一人は「ガダルカナルで割り当てよりも多くの米を要求したら将校に叱られたのでジャングルに入りこみ、米軍の戦線にたどり着いた」という。数は少数かもしれないが、日本陸軍にも上官の振る舞いや待遇に不満を持ち脱走、敵軍を頼った者がいたのだ。

軍上層部はこれを「奔敵(ほんてき)」と呼び、すでに日中戦争の時から問題視していた。その件数は確認されただけで1937~43年度までに152件にのぼっている(陸軍省『陸密第二五五号別冊第八号 軍紀風紀上等要注意事例集』1943年1月28日)。

これらの日本兵捕虜たちは自分の行く末に関する米軍の尋問に対し、先に示した友軍兵士たちの「万一捕虜になったら国には絶対帰れない」という認識(本書62頁参照)とはいささか異なる趣旨の答えをしていた。

捕虜の多くは、捕まったのは終生の恥(life-time disgrace)であると語った。最近尋問されたある捕虜は、祖国に帰ったら全員殺される、父母さえも自分を受け入れないだろうと言った。しかし、何らかの手心が加えられるかもしれないとも述べた。別の捕虜は、生まれ故郷でなければ、帰国して普通の生活ができると思っていた。(前掲「日本兵捕虜から得た情報」)

捕虜たちにとっては皮肉にも「生まれ故郷」の人びとこそが最大の足かせとなっていた。逆に言うと、「生まれ故郷」以外なら元捕虜の汚名を背負っても何とか生きていけるだろうという打算をはたらかせる者もいたのである。皆が皆、『戦陣訓』的な「恥」イデオロギーを内面化させ、その影響下で日々の生活を送っていたのではない。

なお、ある捕虜は「惨敗した連隊長は「面子(メンツ)を保つ(saving face)」ため部隊の編成地に戻されて厳重に処罰され自殺すると述べた」という。確かに1939年のノモンハン事件で複数の日本軍連隊長が敗北の責任をとらされて自決に追い込まれた事実があり、こうした噂の伝播が将校をして部下もろとも絶望的な抵抗に駆り立てさせたとも考えられる。

日本軍の兵士に対する待遇に関しては、ほかにもいろいろなことが捕虜たちの談話から読みとれる。たとえば、「日本の下士官兵は給料を家族に仕送りするのを禁じられていた。彼〔捕虜〕はこれに関して、下士官兵は給料の全額で必要な品物を買うべきだというのが陸軍の考えだと説明した」(IB「日本兵捕虜から得た情報」)という。日用品を買う程度の給料しか与えられない徴兵兵士たちは、故郷に残してきた家族の生活を案じていたのだ。

日本兵の日記を読んでみた

米軍は戦場に遺棄された日本兵の日記を捕獲して解読、彼らの士気を探ってはIBで自軍将兵に報じていた。対米戦下の日本兵の士気、意識とはいかなるものだったのだろうか。

IB1943年2月号「日記からの引用」には、おそらくガダルカナル島で捕獲した日本兵の日記が引用されている。

この兵士は「九月二九日──この日を待っていたかのように、敵機が円を描いて機銃掃射の的を探し始めた。とても恐ろしく、将兵は何もできなかった。機銃掃射は一日に六、七回やって来て我々は明らかに怯えていた。我々は二九日の夕暮れを待っていた。この日が最後の総攻撃である。最初こそ、奇襲により敵の駐機所まで接近できたが、反撃は猛烈であった」と優勢な敵機に叩かれて士気の下がった現状を悔しく思うとともに、「擲弾筒(てきだんとう)は敵を震駭させるのにもっとも有効である。しかし、射程がわずか二五〇メートル〔約二七五ヤード〕に過ぎず、使う機会がほとんどないという欠点がある」と書いていた。この兵士は銃剣でも小銃でもなく擲弾筒こそをもっとも有効な〝対米戦用兵器〟と見なしていたのである。

また、「敵〔米軍〕の偽装は実に有効である。敵を発見するのは困難で予想だにしない犠牲が出た。五〇〇メートル〔約五五〇ヤード〕以上では偽装は判別できないので細心の注意が必要だ。偽装に対する訓練も必要だ」とあり、日本軍もまた米軍陣地の偽装を見抜けず苦戦していたこと、つまり偽装は日本軍の専売特許ではなかったことが読みとれる。

先に米軍が日本兵を〝l〟と〝r〟の発音で識別しようとした話を紹介したが、彼らは近づく日本兵に日本語で話しかけることでも敵味方を区別していた。日記には「斥候は敵〔米軍〕の射撃に引き返してはならない。斥候の中には敵の話し声が聞こえるまで陣地に潜入し、結局誰何(すいか)され撃たれても自分を保ち任務を遂行した者もある。敵には日本語を解する者もいる。「ダレカ?(そこを行くのは誰だ?)」の声に騙されてはならない」とある。

空襲により落ちる士気

米軍は捕獲した日本兵たちの日記から「日本兵は我々の兵器、特に爆撃機をかなり恐れており、これで彼らの士気を動揺させうること」を読みとった(IB1943年1月号「個々の兵士」)。確かに手も足も出ないまま一方的に爆撃されるのは怖かっただろう。

この記事に引用された日本兵の日記には「我が対空砲火に効果がないため、敵(米国飛行機)が旋回しては重要地点に爆弾を投下する。我々は小銃しか持っていないので、唯一できるのはその場から逃げることだけだ。飛行機をみて逃げるとは、軍人らしくもない」、「数発の爆弾が落とされた。爆撃はほとんど被害はないにもかかわらず、非常に恐ろしい。人としての不安な心を思い返しただけでも恐ろしくなる。労務者たちは警報が鳴り響くと同時に蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまう。兵士も敵の飛行機を見たら内心では逃げたいのは間違いない。高級将校も、誰よりも先に逃げるだろう」といった嘆きの声が並んでおり、航空戦力の劣勢こそがもっとも日本兵の士気を低下させたことがわかる。

とはいえ、IB1944年6月号「日本兵の士気と特性」に出てくるある日本軍中尉のように、

我々は空軍について、米独より要するに1世紀遅れていた。ニューギニアの戦いで我々は空軍の価値を第一に認識した。平和な故郷で暮らしている人々は中国における我が空軍の優越について語っていた。実に子供じみた会話であった。ロッキードやノースアメリカン、もしくは50~60機の爆撃機編隊による連続爆撃を受けずして、空軍の重要性を真に理解することは不可能だろう。この戦争は補給戦であることもわかった。船舶輸送が勝敗の鍵を握っている。通常の補給線を維持するだけでも空軍が重要となる。ああ、空軍さえあれば! 兵卒ですら同じ意見をいっている。

と航空戦力の劣勢が自軍の劣勢に直結していることを認めつつも、続けて「米軍と豪軍はどうか? 彼らが自慢してよいのは物質力だけだ。みているがいい! 我々は絶滅戦争(a war of annihilation)に突入するだろう。全陸軍の将校と兵がこの思いで米豪軍を皆殺しにする欲求をかき立てている」と語り、改めて闘志を燃やす者もいた。

彼にとってこの戦争はまさしく「絶滅戦争」であった。日本軍のなかには確かにこうした烈々たる戦争観、敵愾心を抱きながら対米戦を戦っていた者もいたのだが、それがすべてだったと断じるのは米軍側の分析をみる限り難しい。




規律の乱れ

多くの日本兵は負け戦が込んでくると、米軍側に奔らないまでも士気をひどく低下させ、各種の犯罪も多発した。

IB1943年6月号「日本軍についての解説──その文書から」は「ニューギニアのある地域における日本軍の軍紀は、完璧にはほど遠い状態だった」と断じ、その理由として、ある日本軍の小冊子に「作戦中、軍紀にふれる犯罪が多数発生した。精神力の弛緩と気力不足のためである。軍紀にふれる犯罪は以下のもの。略奪・強姦(もっとも多い)、住居侵入(次に多い)、命令違反(多くは酒に酔って)、軍装備品の破壊、脱走、立入禁止区域への侵入、無許可の歩哨位置離脱、秘密文書の紛失、特に暗号書」と書いてあったことを挙げている。

またIB1943年4月号「日本軍についての解説─その文書から」が「1942年9月11日、ニューギニアのある日本軍司令官が発した指示の要約」として「嫌な事は忘れ、よい事だけを覚えておくように努めよ。ヒステリー女と同じようにくよくよしても無駄だ。我々は皆食糧不足でやせ細っているが、乗船時にやつれた表情を見せてはならない。「武士は食わねど高楊枝」というではないか。[解説・彼はあまりに自尊心が強いので、食物不足に苦しんでいることを認められない]。これは、現在でも見習うべきことだ」との一文を載せたのも、日本軍が負け戦という現実を精神論で克服ないし糊塗しようとしたことの現れだろう。

同じ記事に、42年12月1日ニューギニアのある日本軍司令官が出した「会報」が引用されている。そこでは、

我が部隊の一部は昨日(30日)、敵が固定無線通信所の地域に侵入したので退却したとの報告を受けた。分遣隊の全憲兵が徹底的に調査中である。

命令もないのに守備地を離れる者は陸軍刑法に照らして厳重に処罰、もしくはその場で処刑されることを忘れるな。容赦はしない。軍紀を振作し勝利の基礎を固めるため、逃亡者は厳しく処罰する。

銃や刀のない者は、銃剣を棒に結びつけよ。銃剣もない者は木槍を常時携帯せよ。銃剣のみで、何の武器も持たず歩いている者がある。各自すぐに槍を用意して、まさに突撃せんとしつつある部隊のごとく準備を万全にせよ。患者にも準備させよ。

と、士気の低下や多発する逃亡に重罰で対処しようとした日本軍の姿が浮き彫りにされている。今日、我々の抱く日本陸軍イメージが「ファナティック」とされているのはこうした精神論の跋扈をうけてのことであり、それはけっして間違ってはいない。

ただ、日本軍将校たちは空虚な精神論のみで兵の士気を鼓舞しようとしたのでもない。

IB1944年6月号「日本兵の士気と特性」は「ブーゲンビル島タロキナにおける対米総反撃の直前、日本軍将校たちは部下の士気を高めるべく、部下に米軍の戦線内にはもし手に入れば3年間は持つほどの糧食と煙草があると言った」し、「将校たちはその他の機会にも同じ目的でこの種の発言をしている」と報じている。将校たちは食べ物=実利で釣ることによっても、部下たちの戦意を何とか奮い立たせようとしていたのだ。


一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』

しかしこのブーゲンビル島の日本軍守備隊は精神論を行き着くところまで行かせてしまい、なんとも奇矯な行動をとるに至った。IB1944年9月号「(短報)ヤルゾ!(Yaruzo!)」によると、同島トロキナにいた日本軍司令官は戦意の低下を防ぐため、次のような奇妙な命令を出した。おそらく捕虜の証言だろう。

米軍撃滅のため、朝夕の点呼時に次の訓練を行うことにする。
一 眼を閉じ、片方または両方の拳を握りしめて振り上げ、〝チクショー!(Damned animal !)〟と叫ぶ。そうすればヤンキーどもも怯えるだろう。
二 続いて上級将校が〝ヤルゾー!(Let's do it !)〟と叫び、部下が〝ヤリマス!(We will do it !)〟と唱和する。
三 最後に、将校が刀を右手に握り、決然たる袈裟斬りの構えを取る。刀を振り下ろし〝センニンキリ!(Kill a thousand men !)〟と叫ぶ。

「チクショー!」と絶叫する将校たちは真剣だったのか、上から言われて渋々やっていたのか。部下はそれをどうみていたのか。何とも戯画的な帝国陸軍末期の姿であった。

第2回「米軍はいかにして日本兵を投降させたか」はこちら→

一ノ瀬俊也(いちのせ・としや)
1971年福岡県生まれ。九州大学文学部史学科卒業、同大学大学院比較社会文化研究科博士課程中退。博士(比較社会文化)。現在、埼玉大学教養学部准教授。専攻は日本近現代史。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44637



米軍はいかにして日本兵を投降させたか
〜その周到すぎる心理作戦

【特別公開】一ノ瀬俊也=著『日本軍と日本兵』2


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1945年8月15日、グアムの収容所で頭を垂れる日本兵捕虜たち〔photo〕Getty Images

太平洋戦争中、米軍は最新の軍事情報を得るために日本兵を捕虜にしたかった。しかし、降伏を禁じられ、捕虜になるのは「恥辱」とされていた日本兵はなかなか投降しない。そこで米軍が展開した周到な情報戦とは? 一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』より「第二章 日本兵の精神」を特別公開します(全3回。第1回「日本兵の戦争観」はこちら)。




日本兵と投降

日本兵捕虜を獲得せよ

米軍のみた日本軍兵士たちはけっして超人などではなく、勝っていれば勇敢だが負けとなると怯えた。それにもかかわらず彼らの多くが死ぬまで戦ったのは、先に引用した米軍軍曹の回想にもあった通り、降伏を禁じられ、捕虜は恥辱とされていたからである。(→第1回参照)

しかし米軍側は最新の軍事情報を集めるためにも日本兵を捕虜にしたがっていた。そのため彼らは、まず自軍将兵に捕虜獲得の重要性を繰り返し説くことからはじめた。

IB(*)1943年7月号「日本兵捕虜」が「日本兵は投降するのか?」と問題提起する記事を載せたのは、「米軍はすでに数百人の日本兵を捕虜にしている……彼らは長く絶望的な抵抗の果てに補給を断たれ増援の見込みもなくなり、帝国陸軍が本当に無敵であるのかについて疑いを持ち始めた」、したがって「答えは明らかに『イエス』だ」と結論づけることで、読み手の自軍将兵に日本兵をもっと大勢捕虜にするよう奨励する意図があったからと思われる。

*米陸軍軍事情報部が1942-46年まで部内向けに毎月出していた戦訓広報誌Intelligence Bulletin(『情報公報』)。日本軍とその将兵、装備、士気に関する多数の解説記事が載っている。

この「日本兵捕虜」は、「ガダルカナルでかなりの数の日本兵が日本語の放送と宣伝ビラにより投降した。放送は両軍の戦線が近接し、かつそれなりに安定しているときを見計らって行われた」と前線での投降勧告の様子を報じているのだが、意外なことに当の米軍兵士がこれを妨害したと述べている。

これに応え、日本側はまず一人を手を挙げて送り出した。もし彼が傷つけられなければ他の者も出てくる。しかし「すぐ撃ちたがる(Trigger-happy)」米兵が発砲すれば出てこなくなる。「撃ちたがる」米兵は前記のような状況のみならず、斥候に出ているときやその他「沈黙は金」とされているときにも盛大なへまをやらかすことがある(ガダルカナルで長期間を過ごしたある報道特派員が、下級将校や下士官兵に対するジャングル戦のアドバイスを求められ、開拓地のインディアンのように静寂を保つこと、ねずみを待ち受ける猫のように辛抱強くあることだ、と言った)。

このように米軍側にも日本兵をみたらとにかく「撃ちたがる」者がいて、それが日本兵の投降を妨げ、結果的に自軍の損害を増やす一因となっていたことがわかる。

ガダルカナルの米軍は、捕まえた日本軍「労務者」のうち志願した者を一人、二人と解放してジャングルに向かわせ、他の者を米軍の戦線まで連れて来させるという計画を実行した。彼らは役目を完全に果たして他の者を一週間以内に米軍戦線まで連れてきた。かくして捕らえられた「捕虜たちの反応」は次のようなものだった。

日本兵たちはおおむねよき捕虜である。彼らは厚遇に感謝し、実に協力的である。

ある日本の高級将校は米軍将校に日本語で話しかけられてもはじめは名前以外一切の情報を与えなかった。やがてアメリカの厚遇により信頼が生まれ、ためらいなく話すようになった。「拷問でも何でもやってみろ、何も話さないから」と彼は言ったものだ。「でも厚遇してくれるなら知りたいことは何でも話す」。

また、投降した日本軍の中尉は、退却する部隊の殿(しんがり)になれと命じられたことを明かした。「なんで俺が殿に?」と彼は問い返した。「他の奴らは逃げていったじゃないか、俺は貧乏くじを引くような間抜けにはならないぞ」。

ほぼすべての捕虜が、捕まれば殺されると思っていたと述べた。

数名の捕虜に「将校たちから米軍に虐殺されるぞと言われたか?」と聞いてみた。

全員が否定した。「いや、そんなことは全くない」と一人が応えた。「戦いの一過程としてそうなるだろうと思っていただけだ」。

兵のみならず将校のなかにも、自分への評価や待遇に不満があれば寝返る者がいた。よく日本軍将兵が投降をためらった理由に「米軍の虐待」が挙げられるが、捕虜たちはこれを明確に否定している。

先にも述べたように日本で「鬼畜米英」などの言葉が登場したのはガダルカナル敗退後に政府が国民の敵愾心昂揚のため、米軍兵士の残虐性を強調するキャンペーンを繰り広げてからの話である(前掲吉田裕『シリーズ日本近現代史(6) アジア・太平洋戦争』)。日本兵にとって「米軍の虐待」が降伏拒否の理由となったのはこれが効き出して以降のことかもしれない。

これに似た日本兵捕虜の発言は、1942年ソロモン諸島で日本軍と戦った海兵隊員の話にも出てくる。

IB1942年11月号「ソロモン諸島作戦」によると、ある米海兵隊将校は「〔日本兵〕捕虜はみなアメリカに捕まったら殺されると思っていたと述べた。しかし上官にそう警告されたわけではなかった」と語ったという。

日本兵捕虜たちが「全員が降伏という不名誉のため、絶対に日本に帰ることはできないと主張した」ことからみて、すくなくとも1942~43年ごろの日本軍将兵が降伏を拒否したのは、プロパガンダによる虐待への恐怖心よりもむしろ、自分や家族が被るであろう社会的迫害へのそれが主たる理由だったのではないだろうか。

日本軍の士気─亀裂拡がる

1945年秋に日本本土上陸を控えた米軍は、IB1945年9月号に「日本軍の士気──亀裂拡がる」と題し、日本軍将兵の士気状態とその変化に関する詳細な分析記事を掲載した。これは米軍が戦争を通じて蓄積してきた対日心理戦研究のエッセンスであり、その水準を知るうえでも非常に重要と思われる。

この記事はまず、「戦争初期のころ、生きて捕まる日本兵はまれで、戦死者100人に1人の割合であった」が「沖縄、フィリピン作戦の後半では死者10人に1人の割合で捕虜になっている」こと、「自発的に投降して無傷で捕まる兵、将校(隊長の者もいる)の割合も増加している」ことを強調している。これは何も人道精神の発露などではなく、「日本兵を最後の1人まで根絶やしにする必要がなければ、それだけ米兵の命も助かるのでよい傾向といえる」からに過ぎない。

確かに日本兵たちは「捕虜になる不名誉と、それが本人や家族に及ぼす結果を怖れている。さらに、敵手に落ちれば虐殺されると宣伝されている」が、心理作戦を適切に行えば彼らの士気を低下させ、投降させることも可能である。

では、実際の心理作戦ではどこにつけいるのか。

日本兵は「他国の兵と同じように、自軍の上官に対して疑いを持つ。多くの体罰を受けているし、上官が兵よりたくさんの食べ物、酒、女性を得たり、兵が戦っているのに上官は後退を命じられる(しばしば起こる)のを見れば差別されていると感じている」し、上官の方も「〔部下への〕指導力を失うと断固たる行動も、変化する状況に自分を合わせることも難しくなると感じている」。だから、そこを衝いて両者を分断すればよい。

また、日本兵は「ホームシックにかかり、家族を心配している。彼は精神の高揚を保つ手紙をほとんど受けとっていないし、この数か月間、自らは体験していなくとも、周囲の者から日本本土への猛爆撃の悲惨さについて聞かされている」から、そこへつけ込むことでも士気を低下させられる。

では、いかなる具体的手法で日本兵の思考を変えさせてゆけばよいとされたのか。

まず第一に、それまでの人生における思考習慣を変えさせること。日本兵の士気に亀裂を入れるため、米軍(記事では連合軍)はこれまで次の「くさび」を入れてきたという。

くさび1 直属の隊長および上位の指揮官の能力に対する疑いを持たせる。

くさび2 個人に死を要求する、最高軍事指導者の究極的目標の価値に疑いを持たせる。

くさび3 日本の戦勝能力について疑いを持たせる。日本は同盟国がみな敗北し、アジアの人々には離反され孤立している。さらに、連合軍の戦略、物量、精神上の優勢に直面している。

くさび4 戦死の意味に疑いを持たせる。日本兵にとって、無駄死によりも生きて新日本を再建し、大和民族を維持することのほうが尊い〔はずだ〕。

さらに、日本兵の恐怖を取り除くため二つの攻略法がとられてきた。

まず「米軍に捕まったら虐待される」という恐怖を取り除くために、「捕虜はよい待遇──適切な食事、衣服、煙草など──を米兵の手より受けられる」と教えること。

次に、将来の不名誉への恐怖を取り除くために、「お前はこの戦争を幸福にも免れた数千人の一人に過ぎない」と教えること。多くの捕虜は自分だけが捕虜になったと思い込んでいるのでこれを否定し、「アメリカの勝利は明白なので戦争が終わったら家に帰って家族と普通の社会生活を営める」と保証してやるのである。

心理戦の手法

IB1945年9月号「日本軍の士気──亀裂拡がる」は、日本兵に「降伏」の言葉は厳禁、日本人の心理に照らせば「我々のほうへ来い」「名誉ある停戦」などとしたほうが効果的であるとも指摘している。

「日本人の心に深くしみこんだ『面子(メンツ)を守る』という性質から、受け入れがたい現実を覆い隠すに足る言葉が見つかる。思いも寄らなかった行動も、適切な慣用句が見つかれば、一つの言葉で受け入れられるようになるのだ」。つまり、これは降伏ではなく停戦なのだと自分に言い訳するための理屈を教えてやればよいというのである。

心理戦第一の宣伝手法は宣伝ビラを飛行機から撒くことである。「日本兵によく読まれ、効果があったのは、フィリピンで使われた落下傘(パラシュート)ニュースのような新聞〔形式のビラ〕を撒くことであった。最近の米軍ビラは捕らえた捕虜に試してみることで用法に多大の改善が加えられている」。

第二の手法は拡声器で、「多くの場合、日本兵捕虜がもとの所属部隊に呼びかけることで、アメリカ軍は日本兵を殺さないという絶対的な保証が得られた」。

第三の手法は、「捕虜を捕まえた地域に戻して戦友に投降を勧誘する」ことである。「この手法を拡声器と組み合わせたことで一定数の捕虜が得られた。この任務に出た日本兵で戻らない者はなかった」とされる。

捕虜は米兵の命を救う

IB「日本軍の士気──亀裂拡がる」によると、米軍対日心理戦担当者たちの最大の仕事の一つは、実は味方の「第一線将兵たちに捕虜獲得の必要性を納得させること」であった。担当者たちは味方に次のように呼びかけねばならなかった。

捕虜から得た情報は戦術上も戦略上も大変役立つし、「我々のビラを書くのを手伝い、拡声器で話し、野外へ出て他の捕虜を連れてくる。加えて、戦友に生きて捕まったところをみられた捕虜は、米軍が捕虜を虐待しないことの生きた証である」と。こう言わねばならなかったのは、逆の事態が多発していたからに他ならない。

そうして投降者を一人でも殺してしまえばどうなるだろうか。「日本兵の間に生きている、捕まれば殺されるとの確信を深めてしまう。日本陸軍における噂の伝達が我が方のそれと同じくらい速いのは間違いない。捕虜一人は何千枚ものビラを上回る価値がある。そして、潜在的捕虜を一人殺せばそれ以上の破壊的効果が生じるだろう」。

米軍がここまで捕虜獲得にこだわったのは、いったん捕らえた日本兵捕虜は実に御しやすく、有用だったからである。

「日本軍の司令官が出した膨大な命令は、彼ら自身が、陸軍の大部分を占める単純な田舎者(Simple-Countrymen)は連合軍の尋問官がうまく乗せれば喜んで何でも喋ってしまう、と十分認識していることの証である」。

何でも、というのは捕虜たちが「日本軍の築城計画を図に描き、我が方の地図を修正し、日本軍の戦術的弱点を論じ、味方の陣地占領のため用いる戦術までも示唆」したことを指す。

日本兵捕虜たちがかくも協力的だった理由を、米軍は次のように理解していた。

捕まった日本兵は通常虐待された後で殺されると思っているが、「命が救われたと知ると、彼は好意を受けたと感じる。日本人は誰かの好意や贈り物を受けたら最低でも同等のお返しをしなければ顔(face)──自尊心、自信の同義語──がつぶれてしまう。捕虜たちにとって命という贈り物にお返しをする唯一の方法は、我々が彼に求めている物、特に情報を与えることであるようだ」。

日本人は貸し借りに生真面目な性向だから、まずは「助命」という恩を着せよ、というのである。

よって、捕虜への乱暴な扱いはその面子をつぶして情報価値を失わせる最短の道であり、「彼の上官がしばしば耳に吹き込んでいるところの、白人は野蛮人であり、捕虜を虐待した後でためらいなく殺すという宣伝を裏書きする」。しかし「親切、公正な扱いは白人の威信を高め、捕虜にその捕獲者への新たな敬意とともに、自らの顔を取り戻したいという欲求をもたらす」。

つまり米軍という他者に自分は役に立つ、有用な存在だと認められたい日本人の心理をうまく利用せよ、とのアドバイスである。

今日、日本兵捕虜が米軍の尋問に対し戦艦大和や零式戦闘機の性能などの最高機密をいとも簡単に喋ってしまった事実が知られている(中田整一『トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所』2010年)。その背景には、米軍側が日本人の心理をかくも詳細に分析し、しかもIBなどの閲覧容易媒体を通じて末端まで周知させていたことがあろう。もちろん、こうした啓発記事の存在は、捕虜をとりたがらない米兵が最後までいたことの証拠でもある。

戦後に書かれたもと日本軍捕虜の体験記を読むと、米兵が非常に親切であったとの記述を目にすることがあるが、その背後に実はこうした冷徹なる〝計算〟が隠れていたと言わざるを得ない。実際、IB「日本軍の士気──亀裂拡がる」は自軍将兵に対し、次のような損得勘定そのものと言うべき呼びかけをしていたのだ。

前線将兵は捕虜にしうる日本兵に対し、私情を交えぬ態度をつちかうべきである。捕虜に対する侮蔑と嫌悪という自然な感情を許せば、それは必要のない嫌がらせにつながり、我々の得られる情報は減ってしまう。一方、正しい扱いは、連合軍将兵の命を救い作戦の完了を早めるであろう、時宜にかなった価値ある情報をもたらす。

日本軍の尋問は腕力

対する日本軍部内の情報漏洩防止策はどうなっていたのだろうか。以下に掲げるのは米軍が掴んだ日本側の対策である(IB1945年9月号「日本軍、防諜を強化」)。

日本軍も敵に情報をとられていることは気づいており、防諜に敏感になっていたが「防諜の機運は最初にレイテで起こり、沖縄で高まった」というから対応は後手後手である。

具体的な防諜策は各部隊の将校、下士官兵が相互に、あるいは民間人と接する際の規則を定めること、部隊が作成した機密書類は高い格付けを与えて地名・部隊名は記号で表示し、役割を終え次第処分すること、暗号化された文を電話で平文に置き換えたり、部隊の移動・装備・組織などに関する事項を電話で話すのを禁止することなどである。

兵たちの郵便についても「我が方のそれと同じくらい厳重な検閲が行われ」「葉書は抜き取り検査だが、封書やその他封筒入りのものはすべて、中隊長か高位の将校により開封、検閲される」という。注目すべきは「沖縄戦の終わりに至るまで、日本兵の死体から個人を特定できる物が何一つ見つからなかったとの報告が多数なされている」ことだ。

前出のIB1945年9月号「日本軍の士気──亀裂拡がる」も「最近の日本軍の命令は、もし兵が不運にも連合軍の手に落ちたとき、その親切な扱いに騙されてはならぬと強調している」と述べている。これらの報告をみるに、日本側も戦争の最終段階では自軍将兵が捕虜となる可能性を否定できず、一定の対策は講じていたようだ。

ところで、逆に日本軍が捕らえた連合軍捕虜から情報を引き出す際の手法はどうだったのか。「日本軍、防諜を強化」の一年ほど前に出た、IB1944年6月号「日本軍の諜報と防諜の手段」は「敵〔日本軍〕のある海軍少尉が捕虜を扱う際の観点」として、次の心得を挙げている。この少尉はおそらく捕虜で、記事はその尋問結果であろう。

a.捕虜は可能な限り個別に分けるべきだ。

b.捕虜間の会話、意思の疎通は制限すべきだ。

c.捕獲した文書、メッセージなどの情報価値を持つ物は、捕虜からの聴取と組み合わせて用いるべきだ。それらは調査に便利な手法で分析、整理されねばならない。肝心なのは捕虜を得て文書を可能な限り完全に分析することだ。

d.尋問にあたっては腕力が指針とならねばならない。敵の言葉は我々とは違うからだ。口をすべらせて詳細な分析を引き出したり、遠回しな尋問法〔特に尋問者が語彙に乏しい場合〕を用いて成果を挙げるのは困難である。だから〔特に尋問側にとっては〕正式な聴取のほうが容易である。尋問中は勝者は優れていて敗者は劣るという空気をみなぎらせるべきだ。必要があれば質疑に筆談を用いてもよい。

e.尋問の目標が定まるまでは、捕虜に将来の不安を覚えさせ、精神的に疲弊させるのがよい。その宿舎、食べ物、飲み物、監視についてしかるべく考慮せよ。

私は、日本軍の捕虜尋問は言語の壁もあってか力に頼った強引さ、拙速さが目立ち、先にみた米軍の柔軟で手の込んだ尋問手法にはとうてい及ばないとみる(ただしこの日本軍少尉は「米兵〔捕虜〕の話し好きな性向に気付いて」いるとIB同記事は付記、注意喚起している)。

金銭的待遇

日本兵の士気・心理状態を考えるうえで、実は給料や留守家族への生活援助といった物質的待遇も見逃せない。

本書でたびたび引用しているIB1945年1月号「日本のG.I.」に出てくる米軍軍曹は、戦地の日本兵の金銭事情について「民間人に売れると思った物は何でも盗む。彼らの賃金は世界中の陸軍でおそらく一番低い。最下級の兵は日本では月に3円もらう。戦地に出ると月に約3ドル相当の金をもらう。しかし占領地では物価が2000パーセント値上がりしているため、ほとんど何も買えはしない」と書いている。葉書一枚が3銭だから小遣い程度の額に過ぎず、これではあまり士気も振るわなかったろうと私は思う。

かくも給料が安いのに、兵士たちの留守家族はどうやって生活していたのか。米陸軍省軍事情報局が1943年3月に出したパンフレット『諸外国陸軍の士気向上活動(Special Series No.11 Morale-building Activities in Foreign Armies)』は、日本軍兵士の留守宅に行われた生活援助について、次のようにかなり的確な解説をしている。

日本兵の「出征」にあたってはそれぞれ厳粛な行事を行って敬意を払い、国のみならず村の大切さ、ありがたみを深く感じさせる。留守宅に関する兵士の安心感は、隣人たちが家族の農作業を手伝うことにより高められる。婦人、在郷軍人など多様な団体もまた留守宅の面倒をみる。


一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』

これをみるに、日本兵が留守家族の生活困窮について抱いていた心配の解消は政府ではなく「村」すなわち近隣社会の手に委ねられていたといえる。万一兵士たちが敵の捕虜となり、卑怯にも自分だけ生き残ったとすれば「村」は家族への農作業援助を打ち切るだろう。私は、これこそが彼らが投降を忌避した最大の理由のひとつとみるし、米軍もそれを知っていた。

そのような日本兵家族に対する物質的待遇の低さは、『諸外国陸軍の士気向上活動』がドイツ軍について「徴兵兵士の妻に夫が民間人だったときの収入の30~40パーセントを保証し、将校、下士官兵の子育てのため21歳未満の子どもには一人月額10ライヒスマルク(約4ドル)、二人20マルク、三、四人25マルク、四人以上30マルクの手当を支払っている」と解説しているのとは対照的である。

→第3回「米軍を唖然とさせた日本軍の人命軽視」はこちら

一ノ瀬俊也(いちのせ・としや)
1971年福岡県生まれ。九州大学文学部史学科卒業、同大学大学院比較社会文化研究科博士課程中退。博士(比較社会文化)。現在、埼玉大学教養学部准教授。専攻は日本近現代史。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44638



米軍を唖然とさせた日本軍の人命軽視
〜重傷病者には「自決」を要求

【特別公開】一ノ瀬俊也=著『日本軍と日本兵』3


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米軍がスケッチした戦死者を弔う日本兵の様子。彼らの目には、宗教精神の薄さが奇異に映った。

日本兵は味方兵士の「遺体」回収にものすごく熱心だった。しかし、その一方で、苦しんでいる傷病者の扱いは劣悪で、撤退時には敵の捕虜にならないよう「自決」を強要した。このような態度を米軍はどう見ていたか? 一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』より「第二章 日本兵の精神」を特別公開します。


個人とその生命を安易に見捨てた過去の姿勢を、現代の日本社会は脱却できたと言えるのだろうか……。




日本兵の生命観

葬送と宗教

日本兵の宗教観と死生観について、米軍はどのように観察していたのだろうか。

本書にたびたび登場する元捕虜の米軍軍曹は、日本軍将兵の死者に対する弔い方、宗教精神のあり方を次のように詳しく描写している(IB*1945年1月号「日本のG.I.」)。

*米陸軍軍事情報部が1942-46年まで部内向けに毎月出していた戦訓広報誌Intelligence Bulletin(『情報公報』)。日本軍とその将兵、装備、士気に関する多数の解説記事が載っている。

ある兵が戦死すると、中隊で儀式としての火葬を行う(上図)。戦死がいかに素晴らしいことかを思い起こさせるためなのは言うまでもない。3×8フィート〔0.9×2.4メートル〕の大きな穴を掘り、木を詰める。その上に遺体を置いてさらに木を加え、ガソリンをかける。中隊全員が礼装で整列し、隊長が演説する。彼は遺体にあたかも生きているかのように語りかける。彼がいかに偉大だったか、兵が自ら死地に飛び込むことがいかに素晴らしいかを語り、死者を昇進させる。

隊長が頭を下げ、中隊は着剣して「控え銃(つつ)」の姿勢を取る。隊長がたいまつを薪に投じ、兵は火の側へ歩んで頭を下げ、穴の正面に置かれた小さなテーブル上の碗から碗へ灰を移す〔焼香のことか〕。火が燃え尽きると、燃え残った骨から灰を取り除く。小さな木箱が置かれていて大変丁重に扱われる。箱は真っ白な布で包まれ、兵がそれを最寄りの司令部まで持って行く。将軍からその部下に至るまで全員が敬礼しなくてはならない。箱は息子の遺灰をヤスクニ神社に置けるというので狂喜することになっている両親の元へ送られる。


話を残った灰に戻そう。灰は集められて埋められる。墓として美しい小山が築かれ、その上に兵の氏名、階級、認識番号、死に様を短く書き込んだ、墓石にも似た角材が据えられる。墓は美しく整えられ、小さなテーブルが正面に置かれる。食事時には食べ物が載せられる。ケーキ〔餅か〕、ビール、果物、そして煙草も加えられる。しかし夜になると米と水のみが残される。戦友たちは食べ物を腐らせてしまうほど愚かではなく、そういつまでも置いておきはしない。

兵たちは毎日の朝夕に整列して宮城の方角を向き頭を下げ、祈りの言葉を唱えて再び頭を下げる。多くの日本人は宗教的ではないが、皆宗教性を帯びた小さな袋をベルトに結わえている。これは陸軍の配給品で全員が持ち運ぶことになっている。葬式を除き、陸軍が宗教的行事を催したことは一度もみたことも聞いたこともない。

戦場での丁重な葬儀の様子がわかる。異文化からの観察ゆえところどころ奇妙な解釈があり、実際の靖国神社に遺灰は置かれないし、「宗教性を帯びた小さな袋」すなわちお守り袋は軍の配給品ではない。

ただ、米軍軍曹の解釈はともかく、各種行事の描写自体はおそらく事実だと思う。日本陸軍が宗教精神とはほぼ無縁の軍隊だったことが、米国人たる彼の眼には奇異に映ったのだろう。日本人はあまり意識しないことだが、日本軍ほど宗教性の薄い軍隊は世界史的にみると実は異質な存在なのかもしれない。

日本軍の遺体回収

日本人の心に太平洋戦争が悲惨な戦いとして刻印されている理由の一つは、補給途絶により見捨てられ飢死、病死する者が膨大だったからである。だが、IB1943年10月号「米軍観戦者による日本軍戦法の解説」が報じる戦場の日本軍は、決して兵士を見捨てる冷酷な軍隊ではなかった。この点は日本兵たちの有する死生観とも関係があろう。

死体の回収 日本軍は遺体の回収に多大の困難を感じている。彼らは傷者はおろか遺体回収のためにさえ、米軍陣地の数ヤードそばまで這い寄ってくる。死体は埋葬、または火葬されるため、殺害者数を見積もるのは難しい。

このように、前線日本軍は義務を果した味方兵士の遺体にはきわめて丁重で、万難を排して回収しようとしていた。這い寄ってきた兵の行動は上官の命令に従った結果とも、戦友愛の発露による美挙とも解釈できるだろう。

しかし、次の米軍兵士の回想を読むと、日本兵の間に戦友愛なるものは本当に存在したのかとさえ思う。

日本兵はおそらくジャングル内の細菌による手の皮膚病にかかっている。我々もそうだ。彼らは我々ほど野戦の衛生に気を使わない。不潔である。野戦病院を占領すると驚くほど汚れている。どうすれば我慢できるのかわからない。日本兵は死者には丁重だが、急いでいるときは傷病者を置き去りにしてしまう。もし彼らにまだ銃の引き金を引く力が残っていれば、そうすることを強く求められる。(IB1944年9月号「米軍下士官兵、日本軍兵士を語る」、強調引用者)

「死ぬまで戦え」という軍の教えを自ら実行した死者には実に「丁重」だが、生きて苦しんでいる傷病者への待遇は劣悪で、撤退時には敵の捕虜にならないよう自決を強要している。もはや「戦果」よりも「戦死」それ自体が目的化しているかのようである。

日本兵にとって戦友の命は軽いものだと米軍は判断した。戦後日本人の間には「日本軍の本当の強さの源泉は……友を逝かせて己一人、退却し、降伏できないというヨコの友情関係にあった」との見解がある(河原宏『日本人の「戦争」』1995年)が、米軍からみた日本軍像とは著しく異なる。

次に、日本軍の病者への態度、すなわち医療体制に対する米軍の評価をみていこう。

終戦後に出されたIB1946年3月号「日本の軍陣医学」は、日本軍の医療体制に対する総括的な評価を行っている。

米軍は「軍事作戦の圧力にともなう日本軍医療の崩壊は、南西太平洋における連合軍の飛び石作戦に対する、日本軍敗退の一因となった」と述べて医療の崩壊を日本軍敗退の一大要因と指摘、「衛生への配慮が勝敗を決めるうえでとくに重大であった作戦を、重要度の順に並べる」と「ココダ道、ガダルカナル、ブーゲンビル、西ニューブリテン、アドミラルティ、ラエ─サラモア、ブナ─ゴナ、そしてニュージョージア─レンドバ」であったという。

医療が戦の勝敗を決めるとはどういうことか。例えば、「ガダルカナル作戦での勝敗の差は、日本兵がマラリア、脚気、腸炎で弱って敗北が明らかになるまではわずかであった。ガダルカナルには4万2000人の日本軍がいたとされるが、その半分以上が病気や飢餓で死亡し、負傷者の80パーセント以上が不適切な治療、医療材料の不足、後送する意思と能力の欠如により死亡したとみられる」と説明されている。

IBが「もっとも医療的要素の影響を受けた」と指摘するココダ道作戦とは、日本軍が東部ニューギニアのゴナからココダ道を南下して要地ポートモレスビーを占領しようとした作戦で、1942年8月に開始され、各自が武器、弾薬、運べるだけの米を担ぎ、糧食の不足は現地調達で補うことになっていた。

作戦の開始当初3000人だった日本軍兵力は「多くの者が山登りの間に飢餓と脚気で死んだため、この困難な行軍を完遂した者は片手に満たなかった」。IBは「部隊全体で生き残った者は50人に満たなかったであろう。ほとんどの者は脚気や飢餓で、若干はマラリアで死に、戦闘で倒れた者は比較的わずかであった」と栄養・医療を無視した無謀極まる作戦の帰結を簡潔にまとめている。

ガダルカナルの医療

IB1946年3月号「日本の軍陣医学」によると、1942年8月から翌年2月まで続いたガダルカナル作戦は「間違いなく医療の要素がもっとも顕著に働いた、例外的な大作戦」であった。同記事には、

いくつかの戦闘の得点差はわずかだったし、〔日本軍による〕飛行場の再奪回もかろうじて防げたし、敵の若干の地上総攻撃は成功しかけたし、失敗はわずかな違いで成功に転じ得たし、連合軍の絶対的な海上優勢にもかかわらず米軍は飛行場を失っていたかもしれない──敵軍が健康状態を良好に保てていれば。

と彼の有名な陸軍参謀・辻政信(ガダルカナル島作戦を終始強気で指導、戦後の1950年に回想記『ガダルカナル』を執筆)が読んだら喜びそうなことも書いてある。

しかし敗退しジャングルへ追われた日本軍に「防虫剤はなく蚊帳はわずかで、アクブリン、キニーネによる有効な薬剤治療体制もなかった」し、兵が「治療を受けるため戻るのは奨励されなかった」のに対し、米軍は開豁地やヤシの森、稜線上の草原に陣取ったうえ「病人はジャングルからよく整備された野戦病院に送られ、休息と適切な治療を受け、状況が許せばすみやかに後送された」のだから、勝敗の行方はおのずと明らかであった。

日本軍のマラリア被害については、「明らかに日本軍の全員が島への上陸後4~6週間以内にマラリアで苦しみ……非常に悪性だった結果、死亡率は例外的にすさまじいものとなり、作戦終了までに部隊全体の四分の一を超えたかもしれない」と見積もられた。

米軍のみたガダルカナル島(以下、ガ島と略)日本軍の野戦病院は地獄そのものであった(日本兵捕虜の証言か)。

日本軍はガダルカナルに円滑に機能する野戦病院を作ることができず、病人の扱いは敷物か地面上に寝かせ、ときにわずかなヤシの葉ぶきの小屋を与えるというものだった。野外診療室の衛生はひどいものだった。病人は特に夜間、壕内の便所へ行くのをいやがったため排泄物が敷物のすぐ近くに積み重ねられ、雨が降ると差し掛け屋根の壕のすぐ近くまで流れてきた。キニーネその他の薬の供給は激減し、病兵は食塩水不足のため代わりにココナツミルクを注射されたこともあった。食料は極度に不足していてヤシ、草、野生の芋、シダ、タケノコ、そしてワニやトカゲまでもが非常糧食として食べられた。

ここで米軍は何とも異様な日本兵観を披瀝している。「この状況で興味深いのは、戦線の向こうで苦しんでいた多くの日本兵が、米軍にマラリアを植え付け続ける人間宿主(human reservoir)となっていたことである」。彼らにとっての日本兵とは、死病の病原体を溜め込み、まき散らしてくる「宿主」に他ならなかった。

マラリア以外にも食糧不足による脚気、腸炎が多発して日本軍に大損害をもたらした。「前線部隊に送る食料の盗みや荷抜きが多発したため、第一線の将兵は後方の兵よりもひどく苦しめられた」という。

負傷した将兵も「適切な治療施設がなく、常に包帯に雨が染みこみ、マラリア、脚気、腸炎のような悪疫が流行していたため、傷兵の死亡率は80パーセントを超えていたはずである。ガダルカナルから後送された傷兵の数は少なく、傷兵の大多数は死んだとみるのが妥当である」とされている。

IB「日本の軍陣医学」は、ガ島における日本軍の総戦死者数と死因を次のように見積もっている。

おそらく、ガダルカナルで死んだ日本兵のうち、三分の二は病気で死んだ。戦闘で死んだとみられる日本兵の数は1万を超えず、実数はもっと少ないはずである。ガダルカナルで我が軍と対峙した4万2000の日本軍のうち四分の一以下が戦死・戦傷死し、四分の一以下が撤退し、残りの半分以上──2万以上──は病気と飢餓で死んだ。対照的に米軍の死者・行方不明者は1500以下であった。

実際の犠牲者数は、ガ島の日本軍総兵力3万1400名中2万800名が「戦闘損耗」、その内訳は「純戦死」5000~6000名、「戦病に斃れた」者1万5000名前後、とされている。一方米軍の戦死は約1000名であった(防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦〈2〉ガダルカナル・ブナ作戦』1969年)。米軍側は日本軍の総兵力こそ過大視したものの、死因の割合についてはそれなりに正確に算定していた。

このように、ガ島の戦いは、「決定的であったか否かは別としても、医療の要素が米軍のはるかに犠牲の少ない勝利に貢献した」のであった。

日本軍の医療観

IB「日本の軍陣医学」は日本軍の医療体制がかくも低レベルであった理由として、「その根深い欠陥、すなわち劣った個人教育、貧弱な設備、ばらばらの組織、西洋の基準に照らせば『ヒポクラテスの誓い』をとうてい満たせない患者への態度」を挙げている。

興味深いのは、それらが米軍が日本兵捕虜から医療体制の証言を引き出して分析した結果であること、この証言から我々がよく知らない当時の日本軍医療の実態や将兵の軍に対する感情がわずかなりともうかがえることである。

例えば、「すべての命令は兵科将校が発して伝達され、捕虜の言によれば医務上の要請に対する考慮はほとんど何も払われない。軍医将校に影響力はほとんどなく、その意見が採り上げられるのは困難である。日本の軍事指導者は、進歩的な手法や新技術を、支出が増えるため認めない」と日本軍軍医らしき捕虜が自国軍隊の視野狭窄ぶりに対する憤懣を並べた記述がある。

日本軍の短期決戦思想に基づく補給の軽視はよく指摘されるが、医療もまた当事者の言によれば「金がないから」という実に官僚的な理由で軽視されていたのであった。

次の記述も軍医、もしくは十分な治療を受けられないまま捕虜となった傷病兵の証言だろうか。上から一方的に〝滅私〟と称して苦痛への我慢を要求する日本軍のやり方が、結果的に兵士たちの精神力・体力─軍の戦力ダウンとなって跳ね返っていたことがわかる。

厳格なる軍人精神のおかげで、ささいな訴えは軍医の注意を引かない。さらに、もしいたとすればだが、不平を言う兵は怠け者呼ばわりされて仲間はずれにされる。ささいな病気は兵士が自分で治療することを求められ、これが性病の報告上は低い発生数、結核の高い発症率の理由となっている。前者は軍の病気とは認められず、後者は発見されたときには病状がはるかに悪化している。

ここでIBの論評は狭い軍事の枠組みを越え、東西比較文化論的な色彩を帯びてくる。

「患者に対する日本軍の典型的な態度は西洋人には理解しがたいものがある。敵は明らかに個人をまったく尊重していない。患者は軍事作戦の妨げとしかみなされないし、治療を施せばやがて再起し戦えるという事実にもかかわらず、何の考慮も払われない」。

患者を役立たずと切り捨てる精神的態度が「日本人」なり「東洋人」特有のものとは思えないが、個人とその生命を安易に見捨てた過去の姿勢を現代の日本社会がどこまで脱却できているかは、常に自省されるべきだろう。

薬剤不足と連合軍捕虜の解放

さらに日本兵捕虜は、日本軍病院への医薬品補給の内幕に関する証言も残している。

日本軍は治療材料を倹約する必要があった。捕虜の言によると、サルファ剤〔抗菌剤〕は生の裂傷には使われず、淋病の合併症や肺炎、その他の治療が効かない傷に限って用いられた。1943年3月以降、日本陸軍ではそれらの薬不足のため、使用は厳しく統制されることになった。捕虜は〝優良〟とみなされているバイエルの薬の量が減ったと述べている。アスピリン、モルヒネ、コカインはほとんど使えず、キニーネは不足している。しかし最大の関心事は脱脂綿、繃帯の不足である。

これらの証言が正確かどうかを日本側の史料で判定するのは困難だが、薬剤についても舶来のドイツ製品を有難く使っていたこと、海上輸送が途絶するなかで傷者の治療にもっとも必要なはずの繃帯すら品不足だったことなどは事実のように思える。これでは、ガ島以外の日本軍野戦病院でも同じかそれ以下の、地獄のような光景が広がっていたはずだ。

ところで、日本軍は戦争末期に至るまで、退却の際に味方重傷病者を捕虜とされぬよう殺害していた。

IB「日本の軍陣医学」は1945年の「沖縄作戦で日本軍が自軍の負傷者を殺したさらなる証拠」として「大田提督〔大田実少将・沖縄海軍部隊指揮官〕の指揮所の通路には数百の死体が整然と並べられていた。遺体の多くには手当て済みの傷があった。皆同じ時間に死んだようにみえた。さらに注射で殺された形跡があった」事実を挙げ、「この種の行いは〔日本兵〕捕虜によって繰り返し報じられている」と述べている。

同記事の執筆者が気にしていたのは、こうした日本軍の自軍傷病者に対する冷酷な扱いよりもむしろ、本土決戦で味方の連合軍兵士が日本軍に捕らえられたときどう扱われるか、その撤退時に口封じのため殺されはしないかということであったろう。IB「日本の軍陣医学」は、そのことを匂わせる次の記述で締めくくられている。

〔1945年5月、ボルネオ島に進攻した〕タラカンの連合軍からは〔沖縄での〕この慣習に背く、有望な報告がきている。蘭印兵捕虜は日本軍司令部がフクカク〔複郭?〕地区から撤退するのに先立ち、傷者は糧食を与えられて連合軍の戦線へ行けと言われ、歩けない者は司令部地区の後方に残されたと述べている。

ボルネオの日本軍が実際に白人捕虜を解放したかはわからないが、もしかしたら敗色の濃い戦争末期の日本軍司令官の中には敗戦後の連合軍による責任追及を予測し、捕虜を殺さず釈放した者がいたのかもしれない。

米軍側はこれを「有望」とみて味方全軍に周知し、士気低下を防ごうとしたのではなかったか。IBはそうした日米両軍の思惑についての示唆も断片的ながら与えてくれる。

医療と性病予防

日本軍医療の実態については、例の元捕虜の米軍軍曹も性の問題とあわせて証言しているので、以下に引用してみたい(IB1945年1月号「日本のG.I.」)。

各中隊に衛生兵がいてマラリアの発作やその他の病気の手当てをする。本当に具合が悪いと幸運にも病院へ送られることがある。

マラリアが兵士たちに悪影響を及ぼす、なぜなら彼らは40~60人で一つの蚊帳の中で寝ているからだ。蚊帳にはいろいろな大きさがあるが、個人用が与えられるのは将校だけだ。キニーネは大量にあるが兵たちは服用法の指示を守らない。多くの者は捨ててしまう。

かくも大人数が一つの蚊帳の中で寝るというやり方について、多くの者が私に不満を述べた。彼らはこのようなマラリアの高感染率が何を引き起こすかを理解できる程度には賢かったのだ。

日本人のきれい好きについてはいろいろ耳にしてきたが、兵営生活で風呂をどうしているのかについて自分の目でみてきた。まず、二つのガソリンのドラム缶を持ってきて上部を切り取る。そして両方のドラム缶に水を入れ、片方の下で火を焚いて暖める。ドラム缶の横に木の床板を置いて足に泥が付かないようにする。湯が適当な温度になると上位の将校が呼ばれて入浴する。数分間湯に浸かり、冷水で洗い流す。兵たちが入浴するたび、湯は控えめに言ってもわずかに濁っていく。30~40人が同じ湯で入浴する。階級が低ければ低いほど長い間待たねばならない。

当時のアメリカ人も「日本人はきれい好き」というイメージを持っていたようだが、実際は先に述べた隊の食堂と同じく、とても清潔とは言えない生活ぶりである。マラリア予防もその重要性は皆わかっていたはずなのに、実態はきわめていい加減で不満を招いた。兵がマラリア予防薬のキニーネを捨ててしまうのは、味がひどく苦いからだろう。

先にIBが日本軍は性病を「軍の病気」とは認めず、ろくに治療もしないと指摘していたことを紹介したが、確かに軍曹の目撃した日本軍部隊でもそうだった。

兵営のある街では週に一回外出が許される。食事をしたり音楽を聴く陸軍クラブがある。クラブには現地の女性がいて会話をする。しかし多くの日本兵の目的は買春であり酒である。性病に感染するとしこたま殴られ、わずかばかりの名誉も剥奪される。そのため民間の医者や薬屋へ行ったり、自分で治療しようとする。多くの者が感染している。性病検査はほとんど行われない。自分が捕虜になっている間、わずかに一度きりであった。

日本軍将兵の性病感染率についての正確な数字はもはやわからないだろうが、「感染するとしこたま殴られ」るせいで実際はよけい高くなっていたことが容易に想像できる。

IBとは別の米軍史料である米陸軍省軍事情報局パンフレット『諸外国陸軍の士気向上活動』(1943年5月、前出)は、日本軍将兵の「性的要素」すなわち買春の実情について「将校の間では、芸者と一夜を共にできるかもしれない芸者パーティーがまれに行われる。徴集兵はわずかの金しか持たぬため、その土地の安い売春宿で我慢せねばならない。肉体的な欲求は満たせるが、ロマンチックな気分は損なわれてしまう」と解説している。

これは、同書がドイツ軍の性管理について、若くて魅力的、志願した女性のいる衛兵付きの慰安所を軍の直轄下に設置し、兵の買春前に医学的検査をしている、行為時の飲酒は厳禁、相手の女性には兵の勤務記録にイニシャルで署名させている(ポーランドでの事例)と報じているのとはだいぶ様子が異なる。もちろん全ドイツ軍が常にそうだったということではないだろうが。

米陸軍が同書で各国陸軍兵士の買春事情に関心を払ったのは「性病感染率は士気(morale)の明確な指標である」、つまり感染率が低ければ軍の士気は高く、その逆もまた然りとみなしていたからである。

士気は軍隊組織を成立させる重要な要素であるから、これを良好に維持することもまた軍隊に求められる能力のひとつである。一国の軍隊の医療と士気の間には密接な関係があり、その良否が戦の勝敗を左右することもある。だが米軍側の各種記述をみるに、彼らが日本軍に下した評価は、どうしようもなく低いと言わざるをえない。

小括

日本兵たちの生と死をめぐる心性を「天皇や大義のため死を誓っていた」などと容易かつ単純に理解することはできない。米軍の観察によれば中には親米の者、待遇に不満を抱え戦争に倦んでいる者もいたからである。


米軍による日本兵の分析はまだまだあります。つづきはこちらで。

その多くは降伏を許されず最後まで戦ったが、捕虜となった者は米軍に「貸し借り」にこだわる心性を見抜かれて、あるいは自分がいかに役に立つかを示そうとして、己の知る軍事情報を洗いざらい喋ってしまった。

日本兵は病気になってもろくな待遇を受けられず、内心不満や病への不安を抱えていた。戦死した者のみを大切に扱うという日本軍の精神的風土が背景にあり、捕虜たちの証言はそれへの怨恨に満ちていた。これで戦に勝つのは難しいことだろう。

にもかかわらず兵士たちが宗教や麻薬(!)に救いを求めることはないか、あっても少なかった。それがなぜなのかは、今後の課題とせざるをえない。



一ノ瀬俊也(いちのせ・としや)
1971年福岡県生まれ。九州大学文学部史学科卒業、同大学大学院比較社会文化研究科博士課程中退。博士(比較社会文化)。現在、埼玉大学教養学部准教授。専攻は日本近現代史。
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