拳の眼さんより 「朝日新聞」連載記事「柔道寝わざ」

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柔道寝技史、重要性を説いた全国紙の記事(1963年)



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今回は久々に古記事っすね、1963年に「朝日新聞」にて連載された柔道の寝技の記事です。
日本柔道が海外から脅かされるに至り、寝技がクローズアップされて来たそうで、その歴史から追った興味深い記事になっています。
それでは、どうぞ。
あー後1つ、今回は当ブログにあるまじきくらい画像がありませんw というか記事の画像以外無いっす。


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柔道寝わざ ―①― 見直された重要性
利点、きわめて多い
猪熊五段優勝の決め手に


柔道の立ちわざと寝わざは車の両輪。 どちらも欠かすことはできない。 専門家の間でもこれに反対する人はいない。 しかし、一般のファンは一見はなやかでわざのわかりやすい立ちわざの方に目を引かれ勝ちだ。 寝わざの方は素人ファンにはわかりにくいからだろう。
戦後、柔道は世界的に盛んになったが、その半面、立ちわざ傾倒となり、寝わざの重大性が忘れられた傾向がなかったと言切れない。 それが、先年の世界選手権でオランダの巨漢ヘーシンクに本家の日本代表が寝わざで負けるに至って“寝わざの必要性"を説く声が急激に高まった。 さらにさる二月来日したソ連のサンボ選手と日本柔道選手の対戦からもそれは一層強い声となり"寝わざ"が一躍、日の当る場所へ出た感じである。 以下"寝わざ"の必要性とその変遷のあとをたどってみた。

寝わざの重大さを自分自身まざまざと体験した本年度の全日本選手権者猪熊選手に例を引いて説明しよう。
今年の全日本選手権の決勝で猪熊が、きれいな一本背負いで長谷川をとばし、見事に優勝したのはまだファンの記憶に新しいが、五月のある日、熱戦のほとぼりもさめたころ、この猪熊選手はこんなことを話してくれた。
「今度の選手権で一番うれしかったことは私なりの自信がもてたことでした。 三十七年暮れから本格的に寝わざに取組んだばかりなのに、こんなに早く効果があがるとは」と意外な喜びようだった。
猪熊といえば背負投げが得意中の得意わざだ。 彼自身も「今まで出場した選手権大会中、私のやった背負投げの回数とそのうち一本に決った回数、いわば背負投げの効率ではことしの大会が一番だった」といいきっている。 ではその背負投げと寝わざとどんな関連があったのだろうか。
彼はさる三十六年夏、腰椎(ようつい)の骨髄炎(こつずいえん)におかされたため半年以上も病床生活をおくらなければならず、昨年の選手権は見送らざるを得なかった。 この厄介な病気を克服して出てきた彼にとって今度の選手権は文字通り再起の第一戦だった。 久しぶりの実戦とあって、勝負のカンの調整にも並々ならぬ気をつかわねばならない。 こんなハンディを背負っているにもかかわらず彼は有力な優勝候補にあげられていた。
精神的負担も決して軽くなかったはずだが、ふたをあけて見ると彼の手違いといえばスタートで調子のとんと出なかったことだけだ。 しかし彼はあわてずチャンスを狙って寝わざにはいり、くずれ上四方固めにおさえこんで勝った。
それから後は得意の一本背負いが鋭く、小気味よいほどにきまった。 彼自身「わざをかけながら寝わざにいく気構えでした。 相手がかけてきたら裏をとって寝わざにいく考えはいつも頭から離れなかった」といっている。
今度の猪熊の勝因は「彼が寝わざに一応の決め手をもったことだ」という専門家も少なくない。
「いつでも寝わざに移れる」という心の余裕、また相手にいつ寝わざに引込まれても対等にたたかえるという自信。 これがあってこそ立ちわざで思いきり得意わざで攻めることが出来る。 その結果、わざそのものもさえる。 利点はきわめて多い、ということだ。
ではこの寝わざがなぜ低調を続けたのであろうか。 敗戦のため日本では一時衰退した柔道は、かえって海外各地でブームをまきおこした。 だが復興した柔道は戦前のものとはいささか内容が変っていた。 一口でいえば"立ちわざ偏重、寝えわざ軽視"である。 新しく柔道を学ぼうとする若い人たちにとっては寝わざはあまりにもねばり強さと辛抱を必要とする。 ちょっと気を抜くとすぐ苦しい立場に追いこまれる。 いきなり苦行を要求される寝わざが敬遠されたのも"時代の波"とでもいうものか。 それに多くの外人が立ちわざの花やかさにあこがれて立ち勝負一点張りといった現象も見過ごせまい。
しかし、"寝わざ"はこんなにきらわれてばかりいたのではない。 過去には最盛期もあったのである。



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柔道寝わざ ―②― 旧高専大会が温床
急に研究熱高まる
この手で勝敗がきまり


柔道が嘉納治五郎師範によって創始されたのは明治十五年五月であった。 嘉納師範はこの発足以前、福田八之助氏について天神真揚流の柔術を学び、また飯久保恒年氏に起倒流の柔術を教わった。
天神真揚流は絞めわざや関節わざ、おさえこみが主であって起倒流は投げわざであったといわれている。 しかし嘉納師範は自らの講道館柔道としてスタートをきったあとも研究を続け、翌十六年"作りと掛け"の原理を見出した。
相手の身体をまずくずして、わざをかけることに専念した結果、引くか押すか巧みにすれば引く作用、押す作用によって相手の安定をうばい、投げやすい体勢にすることが出来る、というものである。
これ以来、わざを分解して考えることがさかんになり、その結果足わざの進歩はめざましいものがあったといわれている。 明治十八年講道館対戸塚派の試合が警視庁で行われたが、講道館側は足払い、大内刈り、小内刈り、返しわざなどで倒し大勝に終ったという。 山嵐、払腰などの大わざがさかんになったのはあとのことであった。
が、寝わざについては他流に対して絶対的な自信がなく、明治二十八年以来行われた武徳会の演武大会には他流のために圧せられていたので努力を払わなければならなかった。 後年講道館が他流から立ちわざ中心だといわれる根源はここらにあるといえよう。
学校柔道は明治四十年から定期戦の形式で行われ五高対七高、三高、四高、六高の三校による定期戦などが行われたが、これらを総合して全国高等学校専門学校優勝大会という名称で全国的な大会にふみきり、その第一回が行われたのは大正三年のことだった。 これが高専大会といわれ大正年間から昭和十八年まで柔道の黄金時代を築きあげた土台の役をつとめたのであった。
この高専大会は、第一回前の定期戦時代から不思議と大一番の勝負は寝わざできまり、相手チームは再三苦しめられ、悩まされるという事実がくり返された。 そして大正五年の第三回大会で優勝戦が四高と六高の顔合せとなった時である。 六高の大将川地二段が四高の三将を送りえり絞めに、副将を横四方固めに、大将駒井三段と対戦して激闘一時間、さらに延長したが勝負はつかず、ついに引分けで両校ともに優勝となった。
このことから、高専大会では寝わざの研究と猛練習をしなければとても優秀な成績があげられないとあって、寝わざの研究は急激に積極的になった。 第八回(大正十年)は寝わざの興隆期であった。
準決勝戦で四高と六高が顔を合わせ試合は午後三時に開始された。 この試合は途中で紛糾もあったが、ともかく終了が午前一時二十分という現代の常識では考えられないような記録的な大試合となった。 この時の試合時間は副将で二十分、大将は無制限というものであったが、この試合を機に大将は一時間に改められたという。
高専大会とは別であるがこのころ(大正十一年七月)大日本武徳会主催の全国青年演武大会というのが京都で開催された。 ここで決勝は六高の六華会と早大大化会の顔合わせとなった。 六高、早大とも現役学生五人をくり出した。 六高は二段三人、初段二人。 早大は四段二人、三段三人であった。 この顔合わせは寝わざ一点張りの六高と立わざ一点張りの早大で、いわば立わざ、寝わざの正面衝突であった。 結果は1対0で六高の勝ちとなった。
しかもこの試合は、ただ寝わざの勝ちというばかりでなく、審判規程をめぐって講道館側と高専大会側が意見を対立さす直接のきっかけとなったのである。


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柔道寝わざ ―③― 審判規定めくる対立
立ちわざに重点を 講道館
高専大会 どちらも平等を主張


当時の審判規定によれば「試合は投げわざおよび固めわざをもってきめる」というのが試合の第一条であった。
講道館は「寝わざは高専大会で長足の進歩をした。 しかし寝わざにも攻撃的な研究もある半面、一部では引分けに持込むための寝わざ、防御一方の寝わざに転落する傾向も見えてきた」として①お互いに立った姿勢同士が攻撃進退に最も自由であること②まず立ちわざが行われ次に寝わざとなるものであること③身体の発育発達のためにも基礎時代に立ちわざに重点をおくべきであること、ということを主張した。
これに対し高専大会側は①勝負は立ちわざと固めわざをもって決める②投げわざは立ちわざと捨身わざと関節わざをふくむ、と規定されているとおり、立ちわざ、寝わざは平等であるから、これをどんなに用いようとそれは試合者の自由であるとの立場を主張して譲らなかった。
だが、この大正十三年から審判規定に次の一項目が加わることになった。 「し合いは立勝負に重きをおくものであって寝勝負は次の場合に限り行う。 ①わざがなかば以上かかったがまだ一本とならず、引続き寝わざに転じて攻撃する場合②一方がわざをかけようとして倒れるか倒れかかった場合」。
これははっきりとした寝わざの制限であった。
簡単にいえば寝わざにいこうという意思のある側が、自分から倒れて寝わざにひっぱりこむこと、いわゆる引きこみを認められていたものが、この規定で出来なくなった。 投げわざからうまく移行していくのでないと寝わざが認められなくなったのだから寝わざが看板の大会関係者にとっては屋台骨をゆすぶられたといってよく、これは大へんなことだった。
しかし高専大会側はこれまでの立ちわざ、寝わざともに平等の主張を変えず、この新規定には目もくれず、相変わらず従来どおりの規定で大会を行い、独自の立場で以後も寝わざの主流となった大会が続いたのである。
この時分は中学の大会は高校が主催し、高校の大会は大学が主催するといった時であった。 また講道館、武徳会の主催の大会もあったし、主催者によって、大会規定が違うということにもなり、選手たちはどの試合にもいい成績をとろうとするならば、立ちわざ、寝わざの二本建で進まなければならなかった。
高専大会が寝わざを主流としたのは選手の養成にも関連があった。 当時高専各校は旧制の中学から有名選手が続々はいってきたわけでない。 新しく選手を育てなければならなかった。
寝わざはねばり強いものなら立ちわざよりものびが早い。 ひざの負傷あるいは骨折などけがが少ない。 勝負に際して安定性がある。 立ちわざは一瞬のうちに勝負がきまり番狂わせの勝負も多いが、寝わざは基盤がひろく、自分の力を出しきる場合が多い、などの事項をあげることが出来る。
大会が猛烈な闘志をかきたたせ、勝負の激しさもきびしいものがあったが、そのために部生活もこの団体試合を目標にあけくれた。 だから団体訓練に力をおき、団体生活に力が結集された。 高専大会の寝わざは、きびしい団体生活のなかから生れたものともいえるのである。


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柔道寝わざ ―④― 昭和の日本一 木村
上半身きたえ抜く
立ちわざと合わせて成長


昭和にはいって柔道日本一といわれたのは木村政彦(当時拓大)である。 いまや伝説的な部類にはいるが、木村が十二年から数年、日本選手権を連取したころは、"柔道は木村"とうたわれたものである。
九州熊本の鎮西中学時代ほとんど立ちわざ専門であった木村が日本一と大成したのも寝わざを身につけたからであった。
十二年の全日本選士権大会で専門壮年前期の部に出場した木村は一回戦、札幌の柳沢五段を腕がらみの逆で、準決勝は岡山の上野五段を大外刈り、決勝では中島五段(満州)くずれ上四方固めに降し予想を見事にくつがえして優勝してからは一躍トップレベルにおどり出た。 この決勝は木村が背負投げでわざありをとり、一方中島も内またでわざあり、互角の熱戦のまま延長二回のあと木村が大内刈りから押え込んでいる。 当時の新聞には「盤石(ばんじゃく)のような押え込み」と形容している。
次の十三、十四年も木村の優勝で全日本選士権三連勝、十五年六月の天覧試合にも優勝したが、その年に軍隊にはいってしまったので最盛期の記録は案外短く終ってしまったのは惜しまれる。
ただここで記録をふりかえって見ると十三年の時は一回戦はくずれ上四方固め一戸五段(山形)を退け、準決勝は優勢勝ちで田代五段(愛知)を破ったあと、決勝ではくずれ上四方固めで小川五段(京都)を倒している。 注目されることは無敵の街道進みはじめたこの前半期は寝わざで決めたものが圧倒的に多かったことである。
といっても同氏は別に立ちわざよりも寝わざがすぐれていたのではない。 郷里熊本の鎮西中から拓大予科に進んだころはやはり立ちわざの方がよかったという。 しかし入学以後は師範の牛島氏の宅へ下宿し牛島氏の指導で猛烈なけい古を積んだ。 ことに寝わざに目をつけ、立ってよし寝てよしの木村に成長して行ったということが出来る。
毎日学校、警察、講道館、最後に町道場と回り、練習量は相手の柔道着をにぎっている正味の時間が一日六時間でそれより多いことはあっても少ないことは絶対なかったという。 寝わざのけい古が半分以上をしめていたことはいうまでもない。 彼は上半身を鍛えるため今でいうボディービルを毎日くりかえした。 上四方におさえこませておいても九十三キロぐらいまでの相手ならば両手をのばしきって持上げる自信があった。 寝わざから話がそれるがこのほか日常歩く時は必ずつま先で歩き足腰の鍛錬を忘れなかった。 とくに興味を引くのは外側に開く自分の足をいつも内またにすることに気を配ったということだ。
柔道をやる人に多いいわゆるガニまたではわざの効果がうすくなる……というのが同氏の持論。 例えば大外刈りでも相手と身体の軸線まっすぐでなければ一瞬のタイミングが狂うというのだ。 従ってつま先が外に向くのをきょう正するには随分気を配ったという。
関節わざの一つに腕がらみというのがあるが、立った瞬間、相手の手を引張りこんできめるのが彼の得意であり、自分でもこの手を一番多く使ったろう、と自慢の一つである。
けい古の最中に絞められた時"参った"といわないのが彼の原則だから絞められて落ちる(気絶すること)ことも多かったそうだが、この点については「落ちるのがくせになると首すじが弱くなるせいか、まだ大丈夫、と思っていても落ちてしまうからあまりがんばるのはやめた方がよいと思う」と今になって述懐している。 現在の選手でけい古の時これほどに気絶するのが習慣になっている者などはどこをさがしてもないであろう。
木村氏は全盛時代にケガをしたのは鎖骨(さこつ)の骨折が二回、肋骨(ろっこつ)骨折が一回だけだった。 これも相手を攻めていって巻込んだ時と、相手とぶつかった時の負傷で不可抗力ともいうものだった。 ひざとか足首とか、一度負傷すると二度も三度も繰返しやすいような個所は一度も痛めたことがない。
彼の家業は熊本県川尻町近くの緑川の砂利とりだった。 小さい舟にのり金網で重い砂利をすくっては船つき場まで運ぶ生活を小、中学校時代から手伝った話はあまり知られていないが、これは後年彼の柔道に大いに役立った、と彼が述懐しているが、これはちょうど相撲界の双葉山(現時津風理事長)が少年時代から家業の手助けに舟をこいでいたのがあの二枚腰をつくるのに役立ったという話や、若乃花(現二子山親方)が子ども時分、毎日鉄くずを入れたカゴの天びんをかついで荷役の手伝いをしている間に自然にあの強い足腰のバネが養成されていたという話に通じよう。


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柔道寝わざ ―⑤― 外人戦にはこれだ
有力な武器"絞め"
ねばり強い研究が大事


寝わざは外人の目にはどう写るのだろうか。 戦後は確かにはなやかな立ちわざがもてはやされた時代があったが、現在はどういう見方だろうか。 キャンベル(アメリカ)、ロジャース(カナダ)両君は現在日本でけいこしている外人の中で技術的にも、年期のはいっていることでも筆頭の口だ。
キャンベル君は二十九歳。 アメリカの重量級選手権を三年連続とりオリンピックの代表をめざしている選手だが、寝わざははっきりきらいだという。 しかし立ちわざだけでは選手権者として片手落ちであることも百も承知している。 いま毎日約四時間のトレーニングのうち一時間も寝わざにつかっている。 だが「好きではない」といっている。
同君の意見は寝わざには、技の寝わざと力の寝わざとあり、日本人のは技の寝わざ、外人のは力の寝わざで、外人の寝わざは今後ますます力に頼る方向に傾いていくだろうという。 そして一般の外人はレスリングなどの影響をうけて押えこみを寝わざの主力と考えるであろうし、ソ連のようにサンボの国の選手は関節わざも併用するだろう。
だが日本人式のスキをついて機敏にはいりこんでくる寝んわざは外人にとってどうしても簡単にこなせるものでない。 それどころか異質のものと考えている外人が多いという。
ロジャース君は二十二歳。 彼の意見はこれから外人の柔道の選手は、レスリングなどほかのスポーツで基礎をこしらえたものが続々転向してくることになるだろう。 そうなるといよいよ力の柔道になるだろうと同じ意見だ。 自分も現在寝わざをやっているが寝わざは相手次第で有効だと思う。 押えこみと関節わざ専門だ。 絞めはさっぱりだめだ。 その原因を自分の手の大き過ぎることにしている。
最古参組の日本にいる外人選手が寝わざに対しての考え方はこの段階だ。 いわゆる"寝わざの虫"はいないようだ。
寝わざはどうして早く相手のスキをみつけるかが勝負のカギになる。 機敏さが最も必要だ。 身体の小さい、手先の器用な日本人にはぴったりの技だ。
立ちわざだったら身体の大きい、力の強いものが絶対有利だが、寝わざは機敏さとうまみでカバー出来るものだ、と説くのは木村政彦の師匠の牛島辰熊氏だ。 同氏は寝わざと立ちわざを両立させた一人といわれる。 これを併用しないと技にきれが出てこないとはっきりしている。
柔道のオリンピック強化委員会にはコーチの中に特に寝わざ専門の佐伯宣也氏(防衛庁勤務)を入れている。 同氏は高専大会の寝わざを受けついだ最後の人だが、候補選手のコーチや母校東大の指導はもちろん寝わざ専門だ。 佐伯コーチはソ連選手のサンボの動きを見ていても絞めが有効であり、オリンピックには是非活用させたいという。
柔道の試合場とサンボの試合場のひろさがほとんど同じ位なのにまずびっくり、関節わざを見たら十字固めのとり方と同じなのでまたびっくり、なにからなにまで似ている中で絞めだけは全然ない。 これを使わないことはないというのだ。
寝わざの話が関係者、選手の間で出ることが多いが、急激に関心がもたれてきたことをあらわしているといってよい。
東京オリンピックの柔道の運営、事務の早川勝氏は「寝わざにもり上りが出てきたことは確かだが、寝わざは一朝一夕で実が結ばれるものではない。 ぬきんでている選手だからといって十人、十五人寝わざで一ぺんに抜いたという話は聞いたことがない。 コツコツねばり強く自分で苦しみをきりひらいていく、それが技術的にもさとり開くことになるのだ」と慎重な考えだ。
期待の多いわざだが、そう容易にマスターできるわざでもない、それが寝わざというものである。
(おわり)


という事で、1963年の「朝日新聞」連載記事「柔道寝わざ」でした。
書いた方の名前が無いのですが、時事通信社の記者で、後に全日本柔道連盟常任理事となった老松信一先生じゃないかなーと思ってますw
今回何が大変だったかと言うと、「技」がひらがな表記だった事。 お陰でタイプが面倒でしたw
しかし寝技史を簡潔にまとめており、勉強になりますね。
今回はここまで。 それでは、また。


参考文献:
朝日新聞 6/13、6/14、6/15、6/16、6/18 1963年
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