日本人の集団主義と日系ブラジル人の闇  臣道連盟 日本人が日本人を殺す 日本人の正体

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日本人の”集団主義”の正体



2015-07-02 22:25:21
テーマ:日蒙開拓団


”和の精神”とかで美化されて、その気になってる日本人が多いが、自分の観察するところ、そんなものはほとんど存在しない。


自分勝手主義と嫉妬心に基づく悪平等主義、同調強制主義が日本人の”集団主義”である。


そして、これは確かに”個人主義”の対極にある。



非個人主義、反個人主義が、日本人の”集団主義”といってよさそうだ。


”掟”や”キマリゴト”で、隣人に干渉し、お互いに監視しあい、拘束し合う”五人組制”精神のことである。



武士による恐怖政治による北朝鮮的統治が長く続いた結果か、日本人は品種改良が進んだかのように無様な習性を引きづるようになった。


とにかくまず、「おまえ、どこの組のもんでえ?」と所属を聞いてくる。アラブのような部族社会だ。


常に、「個人」としてではなく、「組の一員」であることが求められる…



で、自由になったらなったで、今度は傍若無人だ…



ホント、「ユダヤ」がその気だというのなら、こいつらを跡形もなく消し去ってほしいものだ。



日本人の”集団主義”は、”個人主義”の正反対。


ゆえに、自由、平等、博愛、民主主義、法の支配が”個人主義”を基礎に成立する以上、日本人には民主主義や自由というものは実現不可能という結論になる。


日本人が民主主義を実現するのは、サルが九九を覚えるよりむずかしいことなのである。


日本人が、この世に存在する限り、日本に”神の国”は、実現しないということだ…



だいたい、日本人が”神”と呼んでいるものは、偶像もしくは、魔物や魑魅魍魎の類である。


そんなものにも愛情を示す民族なのだと言えば、”聞こえ”はよいのだがな…



”日本人の集団主義”を、もう少し深めてみよう…



端的に言って、日本人には強い“我(が)”はあるが、”自分(もしくは自己)”がないのである。


目立ちたがりで、ええかっこしいで、虚栄心満々で、お世辞に弱い…物欲に弱い…


自己主張はするが、”自分の考え”というものはない。




メンツや恰好を気にはするが、自分の感覚には無頓着である。



日本人とはなぜ議論が成立しないか…




”自分の考え”や”自分の感覚”がないからである。



日本人は、所属の組のボスに服従する。自分の考えなどは出してはいけないわけである。


ボスの考えが「神様の御託宣”」であり、自分にとって「唯一の真実」なのである。



その正体が、石ころであろうと、イワシの頭であろうと、どうでもよいことなのである。



だから、日本人はテレビや新聞できいたこと、拾ってきた”御高説”を、自分の意見であるかのように吹聴して「どうだ!」とやる。


自分が”権威”と思っているものをヤドカリのようにしょって「どうだ!」とふんぞり返る。


大先生の御高説なんだから、皆が恐れ入ってひれ伏すものと決めてかかっている。



しかし、自分の意見ではないから、自分の頭でわかっていることではないから、議論に引き込まれたら、自分がカンニングしていることがバレテ恥をかいてしまう。


だから、こういう連中は、議論されるとすぐ怒る。「理屈を言うな」などと言う。筋の通らないことを言っている自分のチンパンレベルを反省することなど決してない。


そして、何やら説教くさいことを言って誤魔化してしまう。


バカであると同時に、卑怯、卑劣。性根がクズなのである。



個人主義においては”自分の考え”、”自分の感覚”をまず尊重する。”自分”というものをまずもつ。


そして、”自己主張”は控えめである。日本人みたいに威張らない、出しゃばらない、仕切らない。


公共の利益や他者の尊重が第一だからである。



だが、日本人は”仕来り”だの”礼儀”だのにはうるさいくせに、公共心がない。”身内のルール”以外のルールにはしたがわない。まるで”犬”なのである。


公共の問題に無関心で、「自分には関係ない。だれかがやってくれるもの」と信じ込んでいる。


ここの感覚がタダノリの”1タラント市民”ができる根底にある。



日本人にとっては、”所属する組”という動物村の群れ社会における”序列”がすべてである。


序列が高ければ、群れのすべてのメスが”自分のモノ”になるので必死に自己主張する。



自分がライバルより待遇が低いと、嫉妬し、”不公平だ”、”平等でない”とケチをつける…


群れでの序列がすべてということは、日本人はどうぶつであるということ、”畜生”ということである。



人の悪口をいいまくったり、わずかな待遇の差や”ルール違反”にうるさいのも、すべて群れの序列と秩序のためだ。



個人主義では、こうしたものすべてを”愚劣なもの”として斥ける。



個人主義で重要なのは、自分の考えと相手の考えである。



日本人同士の”つきあい”というのは、「同じ考え」「同じ感覚」を確認し合うところがあるが、それも”個性”というよりは、自分たちが”同じ群れの所属”であることの確認にすぎない。


だから、それらが間違っていようと狂っていようと関係ないわけである。



「みんなと同じ」なら安心し、放射能も安全なものになるのである。




こういうやつらを教育して、民主社会の市民に育てるというのは、可能だろうか?


近頃、考え込むのである。



だが、「みんなと同じ」なら、嘘八百でも疑うことがないというこの日本人の習性は、操るのに都合がいいだろう。「教育」などと言っておらず、罠に誘導して”一網打尽”にしてしまえば、話は早い。



私もそろそろ”ムダな努力”はやめようかと思い始めている。


”身の程”を知らぬ者は、どこかで思い知らねばならぬ…



ひとりひとりの”自分の人生”…私が世話焼くことでは、そもそもないのであるから。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A3%E9%81%93%E9%80%A3%E7%9B%9F

臣道連盟





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Família Japonesa em Bastos 1930.jpg



臣道連盟(しんどうれんめい)とは、ブラジル在住の日本人移民間で、太平洋戦争での日本敗戦を信じない者(「勝ち組」)の間に形成された国粋団体。正しくは臣道聯盟と書く。



目次 [非表示]
1 情報の遮断
2 組織の結成
3 「負け組」への攻撃
4 影響
5 参考
6 外部リンク


情報の遮断[編集]

1941年の太平洋戦争開戦に伴い、日本とブラジルは断交。駐在公館が次々に閉鎖し、大使を始め日本政府外交団が第三国のヨーロッパに退避する中で、日本人移民は取り残された。日本人が多く住むサンパウロ州では、戦時特別取締令により、国歌の演奏、天皇の肖像の掲載が禁止された。街頭における日本語の使用も禁止され、ポルトガル語の使用を強要された。このため、公の集会はほとんど開けなかった。唯一の情報源でもあった日本語で書かれた新聞、雑誌の配布も禁止されたことで、9割の日本人移民者は完全に情報から遮断された。当時、ポルトガル語の一般新聞を読める日系移民は少数であった。戦争終結までの4年間で、移民者が入手できた情報は短波放送だけだったが、このような高性能ラジオは輸入品で高価な上に性能も悪く、聞いてもほとんど推測の域を出ないことも多かった。

ヴァルガス大統領の推し進めた国粋主義色の強いブラジル政府の厳しい同化政策、戦時中敵性国人として受けた規制と圧迫に耐えてきた移民にとっては、敗戦は日本人としての生きる道の喪失を意味していた。このため、情報が遮断されている中で、次第に日本勝利を信じるようになっていく。

組織の結成[編集]

臣道連盟の創立日には諸説あるが、日本の敗色が濃く、ブラジルで戦勝デマが頻発しだした1945年7月頃とみられる。当時奥地では、日本人移民を狙った偽ニュース売り、偽土地売り、偽円売りなどの詐欺行為が横行した。臣道連盟本部はサンパウロ市のジャバクアラ区に置かれ、サンパウロ州内陸の小都市、農村部に50を越える支部を作った。会員は家長のみ3万、家族を入れると12万にもなったと称していた。彼らは、日系人移民に対して忠君愛国の思想を鼓舞すると同時に、各種のデマを飛ばした。当時国交のなかった日本への帰国運動、既に連合国に再奪取されたシンガポールへの再移住運動を指導し(どちらも実行不可能であった)、大政翼賛会を模範とした構造を持ち、諸団体を統合してテロ行動を指揮していた。

「負け組」への攻撃[編集]

戦時中、異常な高値を呼んだハッカと生糸はアメリカを助ける軍需品であるとのデマを飛ばした。ハッカは航空機のエンジンの冷却材であり、生糸はパラシュートの材料にされると吹聴した。大西洋におけるUボートの出現でこれらの物資の国際相場が暴騰し、日系移民の中には巨額の利益を得るものもいた。これを利敵産業とみなし、退役日本軍人、あるいは軍籍を詐称する人々を中心にこれを生産する日本人は国賊というデマを飛ばし、ハッカ畑の焼き討ちや養蚕小屋の破壊活動などの犯罪を犯した。1945年の終戦後には祖国の敗戦を信じない者が8割から9割もいて、各地に「勝ち組」団体が発生。敗戦を唱える『認識派』を攻撃し、23人を暗殺し、147人の負傷者を出すに至った。事態を重く見たブラジル政治治安警察(DOPS、ブラジルの特高)は約3万件の嫌疑をかけ、臣道連盟幹部を次々に検挙した。最終的に381人の人々に30年の刑を科し、アンシエッタ島の刑務所に収監した。しかし大部分は規則をよく守る模範囚であったため、数年をまたずして釈放されている。そのたびに再組織化がはかられたが、1946年末ごろまでには中央の組織は壊滅した。この当時には、多くの日本人は感情面はともかく、事実を知るようになっていた、

影響[編集]

この事件はブラジルの日本移民社会においては1970年代初期に至っても一部ではタブーであり、移民一世の間で封印されてきた。日系人社会がある程度の落ち着きを取り戻したのは十年を経た後であり、新たな戦後移民を迎えた1960年頃になってからのことである。この「臣道連盟」を中心とする勝ち組と負け組の争いは尾を引き、地方によっては長くしこりを残した。

また、勝ち組一世の子供の世代の認識が問題にされることもある。すなわち、幼年期に親たちが主張していた勝ち組思想や、それに基づいた人物評を聞かされて育った者の中には、認識派を排除するようなことはないものの、事実を誤認しているケースが見られる。彼らの一部は、現今言われている移民史に異を唱えることがある。その際の論拠は「親が言っていたことと違う」というものである。このような話は、当時都市部と隔絶されていた奥地で聞かれた。

また、「勝ち組」と「負け組」の戦いは、階級的な対立、抗争の意味があったという見方がある。認識派の「負け組」は、事実認識と新しい時代への対応に成功し、ブラジルで社会的に高い地位についている人が多く(例えば全国に多数の支店を持つ銀行のオーナー、暗殺された)、一方、「勝ち組」の人々はそれに失敗して、階層の低い地位にあった人々がいた。

他方、日系移民の一部には日本人のほとんどいない他の州に地域に居住した人々、また非日系人と結婚して日系社会から出た人々もおり、日本人でありながら日本語を話すことがない彼らは事件に無関係であった。臣道連盟事件は日系移民の集中していた地域では(日系コロニアと呼ばれる)、例えばサンパウロ州、パラナ州では重要事件であったが、ブラジル全土の日本人を巻き込んだというわけではない。

参考[編集]
「ラテン・アメリカを知る事典」(平凡社)
朝川甚三郎不運の半生
ブラジル通信 第11号
勝ち組、負け組
協同の発見誌2000年10月

外部リンク[編集]
百年の知恵=移民と「日本精神」=遠隔地ナショナリズム - ニッケイ新聞


http://togetter.com/li/479943


【ブラジル移民】臣道連盟事件(しんどうれんめいじけん)
ブラジルの日本人社会に暗い影を落とし現在でも'タブー'としてあまり表向きに語られることがない臣道連盟事件(ブラジル勝ち組負け組事件)についてのツイートがあったのでまとめました。

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島の人Part2 @simasyodes


【経歴】 1981年9月26日生まれの天秤座、Twitterは2011年1月6日より開始 2014年12月3日小脳梗塞発症2015年3月17日退院 現在リハビリ中 【つぶやき内容】知性が感じられないこと



島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:25:41
地元紙のヒトコマにブラジル移民の話が沖縄県民が結構いるからなあ






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:32:35
ブラジル移民の話でフッと思い出したのが臣道連盟事件(ブラジル勝ち組負け組事件)だな






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:33:56
【日本の高周波爆弾により沖縄の敵15万人が15分で撃滅】【ソ連、中国が無条件降伏。マッカーサーは捕虜となり英太平洋艦隊を武装解除】【アマゾンの奥地に日本そっくりの新日本という国がある】なにかSF小説や一時期流行った架空戦記に出てきそうなフレーズです。






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:34:49
もちろんこんな事実はないことはすぐに理解できると思います。しかしこれはある地域の日本人の間で「本当の話」して語られていたことです。






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:37:38
1945年8月15日 日本敗戦のニュースは遠く地球の裏側にあるブラジルにも当然伝えられました。戦前より南米等に渡っていた日本人移民にもこのニュースは衝撃を与えた。開戦によりブラジルは日本と国交を断絶、数多くの日本人移民は「敵国の人間」として白い眼で見られ辛い日々を送っていた。






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:38:43
しかしブラジルの日本人移民の苦難の日々がここから始まる。日本人移民の中には日本の敗戦を信じず「日本は勝っている」と主張する人々が現れたのだ。






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:40:34
これは後に「臣道連盟事件(しんどうれんめいじけん)」(もしくはブラジル勝ち組負け組事件)と呼ばれる事件である。最初の【スローガン】は臣道連盟と呼ばれる日本人による政治結社がビラ等で「真実」であるとして配った内容の一部である。






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:41:37
臣道連盟とは1945年7月にサンパウロで発足した右派系団体で「日本の勝利を信じる」人々で構成されていた。敗戦後も団体は衰えるどころか1945年末には10万人もの会員に膨れ上がる。






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:44:26
国交断絶により日本からの情報が途絶え、唯一の情報源であるポルトガル語の新聞を読める人も少ない。「真相」を知らない人が多いのも会員増加に拍車をかけた。






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:45:34
こうした混乱した状況でも「敗戦」の事実は変わらないわけで日本人の中にも冷静な対応をした人もいました。しかし日本人の間で勝利を信じる「勝ち組派」と現状を受け入れる「負け組派」が袂を分かち溝が広がっていった・・・






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:47:34
なぜこのようなことが起きたか?所謂「負け組派」に属する人はどちらかと言えば社会的に成功している人が多かった。中でもハッカを生産していた農家等ではハッカの需要の高まりで裕福になる者も現れた。






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:49:00
1944年には日本人が経営するハッカ工場が焼き討ちされるという事件が起きていた。日本人の一部には「ハッカはアメリカが買っている。敵国と商いをして私腹を肥やす奴は非国民だ!」と主張する者もおりそれを真に受けた人々が焼き討ちを行っていたのだ。






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:50:32
しかし政治的主張の根幹にあるのは成功者への「一種の嫉み」であった。そう経済的に貧しい人々には「勝ち組派」が多かった。苦しい生活を送る彼らの心の拠り所は祖国日本しかなく故に「日本の敗戦を信じたくなかった」のだ。






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:51:40
やがて臣道連盟ら「勝ち組派」は「日本の勝利」を'信じない'「負け組派」を許すことができなくなった。1946年3月7日遂に事件は起きた。






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:52:51
サンパウロから460km内陸にあるバストスという街の産業組合専務理事をしていた溝部幾太氏が殺害された。「勝ち組派」よる「負け組派」への'天誅'であった。






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:54:14
1947年1月までに日本人同士が殺し合い23人が犠牲なった。ブラジル当局の介入により事件は一応、鎮静化するが「勝ち組派」が「負け」を認めたのは1956年2月のことであった。敗戦から11年の月日が経っていた。






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 20:56:01
この事件はブラジルの日本人社会に暗い影を落とし現在でも'タブー'としてあまり表向きに語られることがない。






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 21:01:30
戦後28年後の1973年最後まで「負け」を認めなかった一家が帰国。羽田空港で日本を地を踏み報道陣の前で「天皇陛下万歳」を叫ぶとこう言った。「これが負けた国ですか。やっぱり勝っております」






島の人Part2(闘病中) @simasyodes 2013-03-30 21:02:49
参考文献 高木俊郎 「狂信」太田 恒夫 「日本は降伏していない」奥菜 英次 水野 俊平 「陰謀論はどこまで真実か」



http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/jikenbo/071kachigumi.htm

No.071 「日本は戦争に勝った」と信じ切ったブラジル「勝ち組」騒動

第二次世界大戦終了後、地球の裏側・ブラジルでは、そこに移民していた日本人のたちの間で「日本は勝った」「いや、負けた」と意見が真っ二つに分かれ、その対立は殺人事件にまでエスカレートしていった。
▼戦争終結。その時ブラジルでは・・。

1945年、第二次世界対戦が終結した。日本ではポツダム宣言を経て、無条件降伏文書に調印し、日本にとって戦争は「敗北」という形で終了した。

これ以降、日本はアメリカの支配下に置かれることになる。

そして終戦後、日本にとっては地球の裏側の国に当たるブラジル。

この当時でもブラジルには多くの日本人が移住して住んでいたが、ブラジルに住む彼らの間では

「戦争は終わった。日本はアメリカに勝った。」

と、「勝った勝った」と大騒ぎになり、各地で戦勝祝賀会が次々と開かれていた。

まるっきり現実と正反対の話がブラジル国内の日本人の間を駆け巡っていたのだ。当時ブラジルに移住していた日本人は約30万人と言われ、そのうちの90%が「日本は勝った」と信じていた。

もちろん戦争終結のニュースは世界中に報道され、ブラジルでも日本の敗戦、アメリカの勝利は伝えられたが、彼らは逆に「日本が負けたというデマ」が流されていると解釈した。

日本が勝ったと信じていた人たちを「勝ち組」、負けたという事実を素直に受け入れた人たちを「負け組」と呼ぶ。

現在「勝ち組」「負け組」と言えば、一般的には、勝ち組は社会的に成功し、高い収入を得ている人たち、負け組はその逆といった解釈が普通であるが、もともと「勝ち組・負け組」という言葉はここから派生したものである。

「神の国・日本が負けるはずがない」と固く信じていた人たちにとっては、「日本が負けた」と口にする「負け組」の人々は断じて許すことの出来ない存在であった。

「負け組の奴らは、祖国を侮辱する『国賊』である。」

勝ち組の人たちは、そう解釈していた。

勝ち組と負け組はいがみ合い、確執を深めていった。だが、勝ち組が圧倒的に多い現実の中、負け組は.勝ち組と戦うと言うよりも、むしろ勝ち組に虐待される運命をたどることとなった。



▼なぜ圧倒的多数が、勝ち組となったのか

1945年7月、この敗戦間近の時期、ブラジルのサンパウロに「臣道連盟(しんどうれんめい)」という、ブラジル在住の日本人による組織が結成された。

祖国である日本を応援し、勝利を信じる組織である。7月に発足して、12月には会員が3万世帯にもなったというから、急成長の組織である。それぞれの世帯の家族全員が会員とみなすと、会員数は全部で12万人にも昇った。

ブラジル国内の日本人からすれば、これはあまりにも巨大な組織である。

結局発足して一か月程度で日本は敗戦を迎えたのであるが、発足してからこの臣道連盟(しんどうれんめい)は、戦争における日本の情報を次々と印刷物として発表していき、ほとんどそれが、ブラジル国内における日本人の標準的な情報となっていった。

当時臣道連盟(しんどうれんめい)が当時配布した情報として、次のようなものがある。


「米国の8倍の破壊力を持つ日本の原子爆弾で、犬吠崎沖に集結した米英艦隊400隻が全滅」

「日本の高周波爆弾により、沖縄の敵15万人が15分で撃滅」

「日本軍の放った球状の火を出す兵器により、米国民3,650万人が死亡」

「ソ連、中国が無条件降伏。マッカーサーは、捕虜となり、英米太平洋艦隊は武装解除」

「日本軍艦の30隻、ハワイへ入港。米大統領は日本が指名」

日本は原子爆弾を持っていて、「高周波爆弾」という超未来型爆弾も持っていたという。「高周波爆弾」の意味はよく分からないが。
それに球状の火を出す兵器」とは何だろうか。

この情報を読む限りでは、日本は世界最強であり、無敵である。アメリカ、イギリス、ソ連も中国も敵ではない。

遠く離れた異国の地で日本の勝利を心から願い、そしてこの情報。

臣道連盟(しんどうれんめい)以外の情報源としては短波放送があったが、当時短波放送が受信できるラジオは非常に高価であり、持っている人間もほとんどいなかった。それに受信状態も極めて悪く、よく聞き取れない様な状況だった。

それに加えて、第二次世界大戦では日本とブラジルは敵国同士だったので、ブラジル国内では日本人は相当な制約を受け、肩身の狭い思いをしていた。

日本語の出版物や新聞は廃止され、日本人同士の集会も禁止されていた。日本語学校も閉鎖され、ポルトガル語で書かれた現地のブラジルの新聞も読める日本人はほとんどいなかった。

心のよりどころは、臣道連盟から発行された、「圧倒的日本有利」の情報だけだった。

このような状況の中で、ポルトガル語の新聞の読める日本人が、あるいは短波放送でポツダム宣言の受諾を聞いた日本人が「日本は負けた」と彼らに伝えたとしても、それは全く信じるに値しない情報でしかなかった。

「日本は勝った。負けたというのはニセ情報だ。」

誰からというわけでもなく、各地でこのような声が上がり始めた。そしてこの話は大半の人が固く信じていくこととなった。


▼狙われたハッカ工場

話の時間は少し戻るが、まだ臣道連盟が誕生する前、終戦の一年ほど前から、ブラジル国内では、日本人の経営するハッカ工場が、同じ日本人によって次々と放火されるという事件が相次いでいた。

ハッカとは、今ではあまり聞かれなくなった言葉であるが、昔はお菓子やのど飴に入れられていた香料で、食べると口やノドがスース―する。

現在一般的な「ミント」とか、たばこのメンソールと同じような効果がある。

ハッカ自体は植物であり、これを採取して食用の香料として加工したり、油を抽出したりしている工場がブラジルには多くあり、日本人の経営する工場はこの当時でも技術的に優れていて繁盛している会社が多かった。

これも戦時中ゆえの思考になるが、当時「薄荷(ハッカ)国賊論」という出版物がブラジル国内の日本人の中で出回っていた。

その文書によれば、

「ハッカを肌に塗れば肌がスースーする。それと同じ原理でアメリカの戦闘機はエンジンにハッカを塗ってエンジンを冷やしているから性能がいいのだ。」

「ドイツの科学者の研究によれば、ハッカをニトログリセリンに混ぜると爆発力が300倍になる。

火炎放射機に混ぜると火力は数倍に増える。

毒ガスに混ぜると防毒マスクも効かなくなると言う結果が出ている。」

といったことが書かれていた。現代からすれば、誰もが冗談として聞き流すようなことばかりだが、当時の日本人たちはこれを信じた。

ハッカを栽培してアメリカに輸出している日本人は、アメリカに武器を打っているようなものであり、祖国日本の敵だと判断したのだ。

また、ハッカ農家の多くはブラジルでは成功をおさめ、裕福なものが多かった。大半の日本からの移民は洗濯屋などをして細々と生活していたのであって、彼らに対するひがみもあったのではないかと言われている。

「敵に協力する者は許せん。」

と、ハッカ工場や農家は、過激な人々のターゲットされた。

こういった意識は、後(のち)の過激な勝ち組の行動へと変化していく。


▼「負け組」を殺害していく「勝ち組」

1946年3月7日、サンパウロから460km離れた町バストスで、産業組合の理事をしていた清部幾太が殺害された。彼は夜中にトイレに行ったところを、待ち構えていた勝ち組みの過激分子に射殺されたのだ。

清部幾太は日本敗北を主張する「負け組み」だった。これが勝ち組みが負け組みを殺害した初めての事件で、この事件を皮きりに、負け組みは合計23人が殺害されることとなった。

テロ行為を実行していた勝ち組みのメンバーは、自分たちを「特行隊(とっこうたい)」と名乗った。「とっこうたい」は、本来なら、特「攻」隊という字であるが、ブラジルでラジオの音声のみを聞いていた彼らは、そこまで分からずに「行」という字を当てたのだと言われている。

殺害までされずとも、各地で負け組みは襲撃を受け、小包爆弾を送られた者もいた。

負け組みを襲っていた勝ち組みの中には、「戦時中はお国にために役に立てなかったが、負け組みを殺害することで、ようやくお国の役に立てた」と信じている者も多かった。

だが現地のブラジル側からすれば、ピントのズレた理由で同じ日本人同士が殺し合っているわけであり、これら一連のテロ事件は、ブラジル国民から反感を買っており、現地での日本人の印象は悪くなる一方だった。

ブラジルのポルトガル語の新聞も、この日本人同士の抗争を大きく報道していた。
事件が起こるたびに当然、ブラジル警察も介入してくるわけだが、それでも負け組み襲撃事件は次々と各地で巻き起こった。



▼日本の勝利を利用した詐欺も横行

勝ち組が次々と騒ぎを起こしているこの時期、抗争事件だけではなく、詐欺事件も大量に発生していた。

「日本は勝った。日本へ帰国しようではないか。」

と持ちかけ、帰国手続きを取ってやると言って近づいてくる。

「帰国乗船券」を手に入れるためには○○円ほどかかると言い、高額な船券を売りつける。現金がない者は土地と交換させる。

だが、これはニセモノの「帰国乗船券」である。当然、これでは船に乗れるわけがない。この、偽造の乗船券を売りつける詐欺はかなり横行した。

また、ブラジル国内には日本のお札も流通していたが、日本の敗戦によってこれらは使えなくなってしまった。

それに加えて日本では当時、新札に切り替わっていたので、ブラジル国内で流通していた日本の旧札は使えない上に、他の外国通貨との両替も不可能になってしまった。

日本の旧札を大量に所有していた企業や銀行にとっては大変な損失が出る。そういった事情をふまえて、ブラジルの、ある新聞社は「日本、勝利」とのデマの記事を掲載した。

日本が勝ったという噂を流せば帰国したいと考える日本人が増える。帰国するには日本のお金が必要になってくる。

そうした人たちに、土地や家、家畜を買い取ると話を持ちかけ、代金は日本の旧札で払うのだ。

手持ちの財産をいったん、日本の旧札に変えてしまったら、それらはもうブラジル国内では使えない金になってしまう。

資産の買い取りだけでなく、両替屋も多く現れた。日本へ帰国したがっている人が持っているブラジルのお金を、日本のお金に両替してやると言って、同じく旧札で両替してやるのだ。

これらの詐欺は、主に「日本が勝った・日本に帰ろう」ということを前提にした詐欺が多かったので、財産や土地をだまし取られたのは、勝ち組みの人が特に多かった。

変わった詐欺では、自分は日本から来た皇族だと名乗って、日本の勝利を祝い、現地の日本人から献金を巻き上げて、そのまま消えた男もいた。

金銭的な詐欺は相当数に昇り、中には全財産を失って自殺する者も出たほどだった。



▼勝ち組みに真実を伝えようとする「認識派」

勝ち組みは負け組みのことを「国賊」とみなし、襲撃し、何人も殺害している。だがその勝ち組みの中の人たちも、日本へ帰りたがっている気持ちを逆手に取られ、多くの人が財産をだまし取られていた。

終戦後、ブラジル国内の日本人の関係は泥沼化していた。これら全て、「日本が勝った」という噂が原因となって起こったことである。

この問題を解決に導くには勝ち組みの人たちに真実を伝えることしかない。

日が経つにつれて、ポルトガル語ではあるが新聞でもたびたび報道され、ラジオでも報道され、事実は簡単に分かりそうなものであるが、それらの情報に触れても勝ち組みの人たちは「日本は負けた」という事実を一切受けいれようとしない、全く信じない。

むしろ組織ぐるみで自分たちをだまそうとしているとしか思っていなかった。

このまま問題が起き続ければ、ブラジル国内で日本人の立場がますます悪くなることは確実である。

日本人や日系人の中でも比較的地位の高い人たちが集まり、「勝ち組みに真実を伝えよう」という動きが始まった。

これらの人々は「認識派」と呼ばれた。

1945年(昭和20)10月3日、認識派の一人であり、ブラジルでも社会的地位の高かった宮腰千葉太に、日本から、終戦を告げる文書と、東郷外相から、海外の日本人に宛てたメッセージが届けられた。

宮腰千葉太は、日本人の有力者を集めてこれらの文書を公開し、日本はアメリカに負けたということをその場の全員に伝えた。

だがこれで真実が伝わるかと思えば逆であった。

日本の敗戦を語る宮腰に対して勝ち組みの人たちは激怒した。この発表を行ったことで宮腰は「非国民」「国賊」と見なされ、勝ち組みの襲撃ターゲットの一人となってしまった。

宮腰は、最初の計画ではこの発表の後は各地をまわり、人々に真実を伝えて行くという予定だったが、身の危険を感じてこの計画は取りやめにし、代わりに文書を印刷して各都市に配布することとした。

その後、認識派の人たちは、日本から新聞や雑誌を取り寄せ、これも各都市に配布した。後には吉田首相のメッセージも配布された。
また、サンパウロの政治家が公邸に勝ち組み600人を集めて真実の伝達を行ったこともある。

しかしこの辺りまで、勝ち組みの人たちはこれらの事実をほとんど信じようとはしなかった。

日本から政治関係者がブラジルまでやって来て、各地で敗戦を伝える演説と今後のことについての伝達も行った。
だが、こういった各地の講演会が増えるに連れ、勝ち組みの間では、またも新しい噂が立ち始めた。

「アマゾンの奥地には『新日本』という、日本そっくりの国がある。今、敗戦を説いてまわっているのは、その『新日本』という国から来た奴らだ。

あいつらは日本人ではない。だまされてはいけない。」

よく、こういったことを思いつくと感心する。この噂も多くの人が信じることとなった。



いずれは勝ち組みの人たちも、全員が間違いだったと認識するのであるが、そこに至るまでの道のりはとてつもなく長かった。

日本の負けを信じるようになった人は、本当に少しずつしか増えて来ない。

相変わらず続く勝ち組のテロ行為に、やがて認識派だけではなく、アメリカ国務省、日本政府、戦後日本を管理していたGHQ、スウェーデン政府までが協力しあって、勝ち組みの説得に当たるようになった。

「ブラジルに友人や家族がいる人は手紙を出すように」と、日本国内でも呼びかけられた。日本の新聞や日本の今の映像などもブラジルに送られてきた。

ここまで資料を見せられ、政府関係者から説明を受けて、それでも日本の敗戦を信じないというのは、すでに意地になっているか、もう引くに引けない状況にまでなっていたと思われる。

勝ち組みの奇行はその後も続いたが、1956年2月、ようやく「矢折れ、矢尽きた。」と、事実上の活動終了宣言が出された。

敗戦から11年後のことだった。

そして戦後28年経った、1973年、ブラジルから「最後の勝ち組み」と言われる一家が日本に帰ってきた。空港で待ち構える報道陣の前で、その一家は最初に

「天皇陛下、万歳!」と叫び、周囲を見まわして

「これが負けた国ですか。やっぱり勝っております。」と報道陣に言ったという。

勝ち組みの最後の意地を見せた言葉である。

第二次世界対戦で、日本と同様に敗戦国となったドイツやイタリアでも、他国にいたドイツ人やイタリア人が勝ち組み・負け組み騒動を起こしているが、両方とも数ヶ月で収まっている。
日本の11年というのは、あまりにも特殊な長さとと言える。

http://www.saopauloshimbun.com/index.php/conteudo/show/id/7341/cat/105

元臣道連盟支部長が語る真実 ポンペイア支部の吾妻優樹さん 12/01/12 (9:08) Icone_imagem


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臣道連盟中央委員会の根来良太郎委員長から吾妻氏に贈られた感謝状


「闇の一日」に触発され重い口開く

「私が臣道連盟で一番若かった。臣道連盟については始めから最後まで知っている」―。そう言って話し始めたのは聖市ツクルビ在住の吾妻優樹さん(96)だ。

吾妻さんは昨年、ドキュメンタリー映画「闇の一日」(奥原マリオ潤監督、イマージェンス・ド・ジャポン代表)が上映されたことで臣道連盟や勝ち組負け組抗争についての報道が本紙上でも増えたため、「自分の知っていることが少しでも伝えられたら」と考え本紙に連絡を取った。

同氏は1915年、福島県いわき市生まれ。本人は「食欲もあり食事は何でも食べるが、最近は足腰が弱ってきた」と言うが、全く年齢を感じさせない。

渡伯したのは30年。15歳の時に家族と共にモジアナ線に入植した。その後、奥地に入りミナス・ジェライス州境でコーヒー栽培を行ったが、「マラリアなどが流行り、酷い環境だった」と当時を振り返る。

第2次世界大戦が勃発し、ジェトゥリオ・ドルネレス・バルガス大統領によって日本人の行動が制限されるようになると、日系社会では「日本的なものを守ろうとする、いわゆる『勝ち組』的な団体がたくさんできた。ただその中で許可申請をしたのが臣道連盟と在郷軍人会だけだったために、目の仇にされた。臣道連盟とその周囲は非常に込み入っており複雑だ」と顔をしかめた。

当時、臣道連盟は川畑三郎氏によって一度解散したが、根来良太郎氏によって再組織され、吾妻氏は臣道連盟ポンペイア支部長となっていた。「45年3月7日にバストス産業組合専務理事の溝部幾太氏の殺人事件が起きてびっくりした。たくさんの人は警察に捕まらないように臣道連盟を辞めた」と事件後に組織がバラバラになってしまった状況を説明、「当時、私は事件実行者の日高徳一氏のことなんて全然知らなかった。彼は臣道連盟じゃないはずだ」と続けた。

また、本紙2011年11月10日付の紙面で、ポンペイアの牢獄で約3年間、朝から晩まで逮捕された勝ち組み約40人分を一日に5回炊事して牢へと運んだという福岡悦子さんについて、「自分はポンペイアの臣道連盟支部長ですべてを把握していた。彼女のような存在は見たことも聞いたこともない」と話した。





その頃、臣道連盟では「幹部の逮捕が相次ぎ活動はできなくなった。各地の班長級の連中は怖くなって隠れている。連絡しようにもできなかった」という。さら に、「幹部のいない留守本部内では逮捕者を釈放するよう活動すべきだと主張する派と、静観すべきだと主張する派に分かれ、連盟内で亀裂が生じた」。

そのうち、川畑氏が静観派の代表的存在となり、吾妻氏は静観派に回る。アンシェッタ島に何度も渡り「もう少し辛抱してくれ」と現況など仲間に伝えたという。

吾妻氏は「でもみんな出てくる時に、何故かパッとした顔をしない。本当は無駄でも釈放運動をしてほしかったんだろう」と当時を振り返った。

吾妻氏は臣道連盟という組織について、「勝ち組にもいろいろあったが、我々は日本人としてどうあるべきかという哲学で行動指針が決まった。ま た、負け組みからの嫌がらせなどもなかった」と説明。東南アジアへの再移住を考える組織ということについては「そんな人も中にはいたかもしれないが、本気 で考えている人は自分の周りにはいなかった」と笑う。

吾妻氏はインタビューの間、「もう誰もこんな昔の話には興味ないだろうね」と言いながらも、ポツリポツリと話す。現在は、娘家族と一緒に住んでいる。

2012年1月12日付

http://www.ndl.go.jp/brasil/s6/s6_1.html

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第6章 日系社会の分裂対立(1)
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勝ち組と負け組
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戦勝派
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1941年(昭和16)6月に日本語新聞が廃刊されて以後は、日本人たちにとって、ポルトガル語を多少読むことはできても、ブラジルのポルトガル語紙の記事は連合国側のデマ宣伝で信用できないとして、人づてに聞く日本からの短波放送の情報のみが信用できる情報となっていった。日本の放送にも連合国側同様にプロパガンダが含まれているとは考えなかった。
1945年(昭和20)8月14日、日本のポツダム宣言受諾を伝える放送はブラジルでも聞くことができ、敗戦の知らせを聞いた日本人たちは呆然とするばかりであった。しかし、少し時間がたつと、敗戦という受け入れ難い事実を受け入れる代わりに、それまでに得た情報を願望によって都合よく再解釈し、敗戦はデマであり、実は日本が勝ったのだと言い出す者が出てきた。その言説は、すぐさま日本人の間に伝わり、敗戦を受け入れたくない多くの人たちに信じられることになった。これらの人たちは、勝ち組、戦勝派、信念派などと呼ばれた。
日系社会の中で指導者層には敗戦を受け入れる人が多かったが、一般の人の多数、特に奥地ではその大多数が日本の勝利を信じた。ただし、日本の勝利を信じた人は、ブラジルにだけではなく、空襲で焦土となった国土や物資の極度の不足による国民の困窮した生活を自身の目で確認することができなかったハワイ、ペルーなどの在留邦人や外国で抑留されていた日本軍将兵の捕虜などのなかにもいた。
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詐欺事件の頻発
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9月には慰問使節団が日本から軍艦でやって来るという噂が流れ、奥地から日本人が港のあるサントスに押し寄せた。太平洋戦争前からすでに日本に帰国するためには日本円が必要だとして、ヤミの日本円(日本銀行券)の売買が横行していたが、この時期、1946年(昭和21)1月の新円切替えで紙くずとなった円紙幣をだまして売りつける事件が頻発した。そのほかにも日本勝利にからめたさまざまな詐欺事件が起こり、戦勝派のなかには被害を被った人が少なくなかった。

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認識運動
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一方では、このように多くの日本人が敗戦の事実を認めずに軽はずみな行動をとることによって、日本人全体がブラジル社会から排斥されることを恐れた日系社会の指導者層の人たちが中心となり、敗戦の事実と日本の置かれている現状を戦勝派の人たちに納得させ、ブラジルの社会のなかでとるべき生活態度を皆で考えいくための時局認識運動(略して、認識運動)を起した。この運動に従事する人は、認識派、負け組、(勝ち組から悪意をこめて)敗希派などと呼ばれた。
1945年(昭和20)10月3日、万国赤十字社ブラジル支部を通じて、認識派の宮腰千葉太(元アルゼンチン代理公使、元海外興業ブラジル支店長)に終戦詔書と東郷外相の海外同胞に対するメッセージが届けられると、宮腰は在留邦人の有力者を集め、その場でこの文書を在留邦人の間に伝達することを決議した。だが、この行動は戦勝派の人たちをかえって憤激させることになり、宮腰らは「国賊」「非国民」として攻撃の対象となった。そのため、宮腰らは当初、地方の主要な集団地を訪問し、直接話をして回る計画をしていたが、身の危険があると見て計画を中止し、代わりに詔書と外務大臣メッセージの印刷物を地方に配布することに切り替えた。
10月19日、認識派の人たちは、日本の実情を知らせるため在サンパウロの米総領事に日本の新聞書籍、雑誌の取り寄せを依頼し、翌昭和21年(1946)3月16日、日本から新聞が到着し、直ちに各方面に配布している。
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戦勝派の過激分子によるテロ
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しかし、情勢はさらに悪化し、1946年(昭和21)年3月以降、勝ち組の過激分子(特行隊と名乗った。「トッコウタイ」と日本からの短波放送で音でのみ聞いていたため、特攻隊でなく、特行隊としたといわれる。)による日系社会の指導層や認識派の人たちを狙ったテロが頻発した。3月7日バストス産業組合専務理事 溝部幾太、4月1日元日本人文教普及会事務長 野村忠三郎(元駐アルゼンチン公使 古谷重綱も同日襲われたが未遂に終った)、6月2日バストス産業組合理事長で退役陸軍大佐 脇山甚作がそれぞれ殺害された。また、地方で認識運動に挺身している人たちも襲撃されたり、小包爆弾が送りつけられたりする事件も発生した。
事態の鎮静化のために、6月3日スウェーデン公使館日本人権益部は、吉田首相のメッセージを配布し、7月19日にはサンパウロ州執政官が各地から集まった戦勝派の代表約600人と公邸で会い、説得を試みたが、戦勝派の人たちは全く受け入れなかった。
7月30日から8月2日にかけては、パウリスタ線オズワルド・ド・クルース市で日本人とブラジル市民との間で大乱闘・殺傷事件が発生した。
ブラジル政府は、テロ行為の実行犯のみならず、事件に関与していない人たちも戦勝派の組織である臣道連盟の会員ということだけで検挙し、そのうちの一部の人たちをサンパウロ州北東海岸沖のアンシエッタ島の監獄へ送り、8月以降3度に分けて国外追放処分(日本への強制送還)を行った(実際には実行されなかった)。

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日本移民禁止条項
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テロ事件はポルトガル語紙でも大きく取り上げられ、ブラジル国民の対日本人感情は著しく悪化した。ちょうど新憲法の起草に当っていた連邦憲法制定会議では、8月27日、日本移民を禁止する条項を憲法に挿入する提案が審議された。採決の結果は、可否同数で議長の反対票によりかろうじて否決されたが、その反対理由は、日本移民の禁止には賛成であるが、このような規定を憲法に盛り込むことに反対するというものにすぎなかった。
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日本の親族・友人からのはがきの送付
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テロが横行する事態のなかで、認識派の人たちは、在サンパウロ米国総領事館に臣道連盟の逮捕者を含む52人の住所と日本の親類・友人の氏名と連絡先を掲載した名簿を提供して、日本の親類・友人からこの52人へ日本の状況を書いた私信を送ることを特別に許可するよう求めた。米国務省はこれを許可し、5月21日、在サンパウロ米国総領事館から国務省にリストが発送された。このリストに基づき、9月以降、日本からはがきが発送され、12月までに到着した。
このほかに、スウェーデン政府、米国務省、GHQおよび日本政府では、事態収拾のため協力して日本の新聞や日本の状況を撮影した映画フィルムをブラジルに送った。GHQは日本と外国との間のはがき郵便の再開を急ぎ、9月10日から実施にこぎつけた。日本政府はスウェーデン代表団からの助言に従い、9月15日と10月4日にラジオを通じてブラジルに親類や友人のいる場合には連絡をとりあうよう促し、9月中だけでも572通のはがきがブラジルに向けて発送された。

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認識派の『週報』『情報』
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サンパウロの邦字紙は、終戦後も発行停止措置が継続していたため、認識派の人たちは、タイプ印刷の通信の『週報』(コチア産業組合発行、論説を中心としたもの)や『情報』(宮腰千葉太らが発行。ニュースを中心としたもの)などを刊行・配布し、認識運動を展開した。これらの通信は、1946年新憲法の下で邦字紙の発行が自由にできるようになり、1947年(昭和22)1月に認識派の立場に立つ『パウリスタ新聞』が創刊されることになったため、1946年(昭和21)中に廃刊された。
こういった各方面の努力により、日系社会の混乱は、1947年(昭和22)1月10日の暗殺事件を最後に沈静化に向った。しかし、日系社会の負った傷は深く、対立は1950年代半ばまで解消しなかった。
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戦災同胞救援運動
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これとは別に認識派の人たちは、1947年(昭和22)3月、日本戦災同胞救援会を結成し、ブラジル赤十字社の認可を得て、義捐金を集めてサンフランシスコにある日本難民救済金または友愛奉仕団に送って救援物資を購入して、LARA(国連救済復興委員会)を介して日本へ送る運動を開始した。この運動には、戦勝派のなかからも賛同者が得られ、対立の緩和に役立った。
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新聞・雑誌の記事から

帰国詐欺(邦字紙記事) (画像ウィンドウまたは新しいウィンドウで開きます)

「帰国詐欺に掛るな 円紙幣を買ふな」 『パウリスタ新聞』 1947年6月2日 (画像ウィンドウまたは新しいウィンドウで開きます)
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原資料から

戦勝派の主張 (画像ウィンドウまたは新しいウィンドウで開きます)

「天皇の勅使への陳情書(案)」  <今井正次郎関係資料 94-2-2> (画像ウィンドウまたは新しいウィンドウで開きます)
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新聞・雑誌の記事から

日本宛封書解禁(邦字紙記事) (画像ウィンドウまたは新しいウィンドウで開きます)

「こんどは封書も日本へ行きます」『パウリスタ新聞』1947年2月15日 (画像ウィンドウまたは新しいウィンドウで開きます)
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画像『『情報』』
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画像『認識派の主張(1)』

http://book.ureagnak.com/shakai_13.html

社会・政治 その13「勝ち組? 負け組? 臣道連盟って知ってます?」




■毎度のことながら、やりきれない思いに苛まれる事件が多いですね。まあ、全ての人がハッピーで何の問題も無いようなパラダイスは無いと思っていますけど(もしかしたら、どこかにあるかも、作れるかも…、とも少し思っていますが…)、例の人気漫画「黒子のバスケ」の連続脅迫事件の犯人が、その初公判で15分の意見陳述をしたそうですが、その記事の見出しはその陳述の中の言葉。「自分は負け組、こんなクソみたいな人生やっていられない。とっとと死なせろ」」とか。「負け組」ですか…。その反意語は「勝ち組」なんでしょう。私、初めて「勝ち組・負け組」なる言葉を聞いた時、戦後のブラジルでの事かと思いました。「臣道連盟(しんどうれんめい)」という言葉をご存知ですか? その連盟が起こした事件は「臣道連盟事件」、または、「ブラジル勝ち組負け組事件」とも呼ばれたそうです。私は正直、そのパロディかと思いました。

■事件の概略をできるだけ簡単に述べれば、1945年8月15日正午に「ポツダム宣言に対する無条件降伏」の玉音放送を流し、日本の敗戦(終戦)を昭和天皇が全国民に知らせましたが、それを、ブラジルへ移民していた日系人たちはサンパウロ州の奥地で短波放送を通じて傍受し、その中に、「日本は戦争に負けてはいない。あれはデマだ」と言って、その内容を信じようとはせず猛烈に反発した人々がいました。いかんせん、殆どの日系人はポルトガル語が読めず、真偽の確かめようも無かったと思います。で、その人たちが「臣道連盟」という組織を作り、それに追従した人たちも含めて「勝ち組」、つまり、日本の勝ちを信じている人たち(日本の敗戦を信じられない、信じない)です。その人たちとは逆の人たちが、いわゆる「負け組」(日本の敗戦を受け入れている)。この両者の間で、争いが起き、暴力沙汰にまで発展し、少なからずの死者まで出たそうです。当時のブラジル日系移民は、20万人程度のようですが、敗戦後、その8割もの人たちが「勝ち組(戦勝派、信念派とも呼ぶそうです)」に組みし、敗戦を認める「負け組(認識派とも呼ばれるそうです)」の人々は2割にも満たなかったようです。心情的には分かります。戦争の良し悪しは別にして、誰も遠く離れた祖国の敗戦など認めたくはありませんから。国内でも徹底抗戦を訴えて、敗戦の事実を認めない青年将校たちがいたようです。

■そしてそのブラジル「勝ち組」の中心に「臣道連盟」という組織ができ、日系人移民に対して忠君愛国の思想を訴えたようですが、情報不足の中では暴力と混乱が不可避となるのでしょう。テロにまで発展したようです。さすがにブラジル政府もこれを見過ごせず、警察による取り締まりを強化します。片や、「負け組」と呼ばれる人たちは、日本人がそうした過激な行動を取る事により、ブラジル社会から排斥されることを懸念して、敗戦の事実を受け入れ、ブラジル社会の中でこれから日系人が取るべき道を皆で考えようとする「時局認識運動(認識運動)」を起こしますが、これは全く「勝ち組」の人たちには受け入れられなかったようです。認識運動の中心を担った人たちは赤十字などを通じて、日本政府のメッセージを「勝ち組」の人たちに伝えようとしますが、これも逆効果で、「勝ち組」の人たちはさらに頑なとなります。結局はブラジル政府警察の取り締まりにより、敗戦の翌年、1946年ごろには「臣道連盟」が組織として壊滅し、一応の収束を見たようですが、驚くべきことに、この問題は1970年くらいまでブラジル日系人社会の中で燻っていて、日本が「勝ったのか・負けたのか」という事を話題にすることがタブーである雰囲気が残っていたようです。

■ちなみに、ブラジルは連合国側で戦時中は日本との国交を断絶しており、日系移民は「敵性国人」として不当な扱い(日本語使用の禁止、天皇肖像掲載の禁止、国歌演奏の禁止、ポルトガル語の強要など)を受け、日本に関する情報源は短波放送だけという状況の中で生きざるを得なかったようです。戦争だから、といえばそれまでですけど、遥か異国の地で不当な環境と情報過疎の中で「人」は「生きていくため」に何かに頼らざるを得ず、この場合はそれが「強い祖国」であったという事でしょう。それをそうそう、簡単には手放せる筈がありません。「勝ち組・負け組」という言葉を聞くと、私はこちらの「やるせない歴史上の事件」を思い浮かべてしまいます。

■で、話を現代の「勝ち組・負け組」に戻します。これって、誰が「新たに」造った言葉なんでしょうか? 「勝ち負けの基準って何? お金?」。そんなに、人の人生を簡単に分けて言わないでください。新聞やTVなどのマスコミも平気で使っています。シャレにもなりません。私、それが格差社会の中で使われている言葉だと認識した時、「これは明らかに差別用語」と思いました。昔、「おちこぼれ」なんて言葉もありましたが、これも「差別用語」です。この世は「差別」に満ち溢れています。その「差別」に押しつぶされている人もいるし、それと戦っている人たちがいるのも事実です。「負けるな! 戦え!」とは軽々に言えませんが、不当なものに対しては抵抗すべきです。ですが、「負け組」などという言葉が現実に起こしているのは、何ともやるせない事件です。あの秋葉原の無差別殺人もそうですし、冒頭で上げた「黒子のバスケ連続脅迫事件」もそうだと思います。動機は、黒子のバスケの作者を妬み、「自分が手に入れられなかったものをすべて持っている(黒子のバスケの)作者」を「自殺の道連れにしてやろうと」頑張ったとか…。この人にとっては「漫画の作者」が最高に輝く存在だったのでしょうね。もっと凄い人、たくさんいますけど。

■犯行を「人生格差犯罪」と表現したのを読んで、1968年の古い事件、連続ピストル射殺事件の永山則夫を思い出しました。犯行は「貧困が生んだ事件」だとか…。私、子供ながら、この言葉に猛烈に憤った記憶があります。貧困や生活苦など、どこにでも転がっています。それが「人殺しを正当化」させる理由になるなら、何人殺しても「正当化できる」人間が大量にいるという事です。未だに続く、我が身の不遇を嘆いて犯罪を起こしたという事件を見る度、やるせなくなってきます。クソみたいな人生なんてありませんよ。不運の連続なんて、珍しい事じゃないです。「俺は勝ち組だ、お前は負け組だ」といっている連中を唾棄すべきアホとして憐れんでやればいいじゃないですか。もしかしたら、その方たちだって本当は不幸な人生かもしれません。不運なんてどこにでもポッカリ口を開けていますから、絶対に落ちないとは限りません。

■「勝ち組・負け組」なんて「差別用語」を平気で使っている人は明らかにどこかがおかしい。それで、自分が「不運だ、不公平だ、クソみたいな人生」なんて思っている人は、これまたおかしい。これって連鎖して行くのでしょうか? やるせなくなるだけなんですけど、知識人といわれている方々や、本来、人を救うはずの宗教家の方々、どうにかできませんでしょうかね。まあ、人には「優越を感じたい」メカニズムがあり、それが人を貶める「差別」を生むのでしょう。これはどうしようもない事なのでしょうか…。…しばし、沈黙。

http://ameblo.jp/mirai-xxxx/entry-11449978778.html


「臣道連盟」に学ぶ。



2013-01-15 23:43:55
テーマ:ブログ

日本の棄民政策を調べている途中、ブラジルの「臣道連盟」事件の事を知りました。


ブラジル通信 第11号 いまなお残る「臣道連盟」の後遺症
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ykchurch/sgc/brasil/brasil_11_011228.htm

※以下、抜粋転載※

「臣道連盟」事件と云っても、日本の読者には馴染みがないと思われるので、その事件のあらましを書くと次のようになる。
昭和天皇は、一九四五年八月十五日正午に「ポツダム宣言に対する無条件降伏」の玉音放送を流した。
そのとき、サンパウロ州の奥地で短波放送を通じて傍受していた日系人移民の一部は、「日本は戦争に負けてはいない。あれはデマだ」と云って、反旗ののろしを上げた。
そして「臣道連盟」という秘密結社を作り、その特攻隊員が四六年一月から四七年二月にかけて、日本の敗戦を認める人々を次々と殺戮していった。
結果としてその事件の中で二十三人が殺され、一五0人位のひとが重軽傷を負った。

(中略)

当時、ブラジル日系移民は、約二0万人と考えられるが、敗戦後、日系人移民社会は二つに分裂し、八割の人たちが心情的に「勝ち組(信念派)」に組みし、敗戦を認める「負け組(認識派)」の人々はせいぜい二割にも満たなかった。
そしてその勝ち組みの中心団体が「臣道連盟」であったが、彼らはサンパウロ州内陸の小都市、農村部に五十を越える支部を作り、日系人移民に対して忠君愛国の思想を鼓舞すると同時に、各種のデマを飛ばし、一部搾取を含む犯罪を犯した。

※以上、転載終了※

当時の様子についての細かい部分は省略しました。
ぜひ、全文を読んで欲しいです。

『敗戦』を認めるグループと認めないグループに二分して、多数を占める敗戦を認めないグループの人たちが、認めるグループの人たちを粛清・・・・。

何となく、311直後の日本とイメージが重なりました。
311直後は「メルトダウンはデマだ」と言い、今は「心配するレベルではない、日本は安全だ」と強弁する今の安全厨と、「勝ち組」は似てるなと思いました。
今は少数派の危険厨と「負け組」も、似てるような気がします。
“勝ち組”が「放射脳!!」と罵り散らす様は、冷静さを欠いてるようにしか見えません。

本来なら結束して、どう対処すべきかを考えないといけないのに・・・・と、残念に思います。

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:dw8QMpZINT4J:www.js3la.jp/journal/pdf/ronshu11-12/ronshu011-012_03Mita.pdf+&cd=14&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


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ブラジルに於ける戦前日本人社会の

社会制度と文化目標の矛盾

勝負抗争の社会的背景

(サンパウロ大学大学院)三田千代子

Lはじめに

世界第2次大線直後,サンパウロ州の日本人社会に「理解困難な現象」がお

こった。祖国日本が負けたことを信じられぬクループと負けたことを認めた人

々のクループとの対立である。この現象は,数日間で終ったのではたく,1950

年代にたっても継続していた。

この日本人社会の抗争についての過去の業績をみると,年代記的に扱ったも

のとして,高木の『狂信』と藤崎の『陛下は生きておられた/』があ鍔)代

表的な秘密結社(臣道連盟)については,MarioBotelhodeMirandaと

A…ndroF…ndeoの業績があるザ2)両者とも日本人社会の組織(「日本

人会」「瀞年会」等)を分析し,特に,「宵年会」が臣道連盟と結びついてい

たことを推論している。前者は,臣道連盟の組織や活動を述べ,これらをいわ

ゆる狂信者によるものとして扱っているが,一方,後者はMirandaの片寄っ

た視点を脱しようとしたもので,ブラジルにおける日本人の経済的地位や同化

の程度を他のヨーロッパ移民と比較することにより,日本人移住者の役割を社

会学的視点で論じている。さらに〆視点を広げると,移民の同化過程の問題と

して,社会学的又は,文化人類学的に扱っている競文をあげることができる。

SaitoWillemsは,ヴァルガスの国家主饗政策に対するカルチャー・〃国ソ

,としてこの現象を説明している3画),zumiとM…maの論文は,日本人移

住者の社会心理的側面からアブ。-チしている:塵`)日本人社会の社会文化的視点か

ら年代記的に鯰じているものとして,Kum…kaSaito論文がある鰐)これは,

最初のWillemBSaito論文で扱えなかった勝負抗争のポジィティプな結果と

-38-



Page 2

してブラジル社会への日本人の急速な同化をあげていることは,評価されるべ

き指摘である。

本稿の試みは,勝負抗争という日本人の社会的逸脱行為を生じさせた日本人

社会の社会櫛造を考察することである。従って,社会構造を経済,・人口分布,

価値システムの側面から分析し,当時の日本人移住者の文化目標との矛盾を指

摘することによって,この勝負抗争について新しい視点から解釈を行う。

2.事件の概略

当時のブラジルの日本人の社会榊造を分析する前に,をず,この勝負抗争の

概略について記する。

日本人社会の混乱は,主として3つの現象から成っている。日本語に返る印

刷物の発行が禁じられていたため,情報がきわめて歪めて伝達されやすい状態

にあった。従って,デマが横行する結果を迎い士。Izumiの調査によれば,ほ

とんどの日本人が戦争の終了を人伝によって知り,わずか3%の日本人が,ブ

ラジルの新聞や雑誌に匹って知ったという結果が報告されているザ`)このため

日本の降伏と敗戦という事実が伝えられた時,日本軍によって連合国の艦隊が

日本の近海に沈没させられたとか,連合軍が無条件降伏を受諾したというデマ

が飛んだのである。さらに,他の多くのデマが,サンパウロ州奥地の日本人植

民地に広がったのである。この様な流言飛語によって,日本人の多くは,祖国

日本の敗戦という事実を信じることができず,祖国の敗戦を信じた人々を「裏

切者」として葬ろうとした一連の暗殺テロ事件となり,日本人社会は勝組と負

組に分かれ,相互に憎しみを育てていったのである。

もう2つの現象は,「勝国日本」ヘの帰国(又は,日本の「南方占領地域へ

の再移住」 ̄いずれも幻でしかなかったが_)を希望する日本人を相手にした帰

国詐欺と価値のなくなった旧日本円の闇売買である。これらの事件を推進した

のは,日本の戦勝を信じた人均である。Izumiの調査によれば,終戦後1週間

して,日本の戦勝を信していた者は当時のサンパウロ州及びパラナー州の日本

人移住者の85.5%を占めていた。逆に,日本の敗戦を信じていたものは,

145%となっているザ?)後者2つの現象は,当時の日本人移住者の将来に対

する不安(この不安については後述する),それ故に,帰国を希。望するという

-39-



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勝組の人Arの心理を利用した詐欺事件であり,第1の現象の2次的現象といえ

よう。従って,ここでは,第1のテロ事件の経緯についてさらに述べることが

必要であろう。

戦後の日本人社会の抗争の発芽は,1943年にすでにみられた。それは,

薄荷栽培と養蚕の日本人農家が焼打ちに会うという事件であった。これらの産

業は,敵国であるアメリカの軍事物資に利用されるものであるからという理由

で,これらの日本人農家は「大日本帝国の裏切者」と,-部の日本人に考えら

れ焼打ちの対象とたったのである。このテログループは「天訣組」と呼ばれて

いた:筐のこうした行動を支援したものの中に,後の臣道連盟の幹部と獲ったも

のが含まれており,日本人の秘密結社が組織されていったのである。秘密結社

は,約20社生在れたが,この中で,-番規模が大きく,かつ最も組織化され

ていたのが臣道連盟である。

日本の敗戦のニュースによって,ブラジルの日本人社会は流言飛語の混乱を

迎え,多くの日本人は,帰国熱にうかされた。しかし,一方では,日本の事実

を知るわずかの日本人が,この日本人社会の混乱を鎮めるため,認識連動を展

開したのであった。終戦後,半年以上して始まった一連の暗殺テロ事件を推進

したのは,上に述べた秘密結社であった。はじめての暗殺事件は,1946年

3月7日,パストスでおこった。被害者は,パストス産業組合専務理事であっ

た。1947年1月7日の事件(サンパウロのスウニーデン領事館日本人権益

部森田芳一の義兄が義弟と間違われて殺害される)を最後にテロ事件は終贋?

しかし,日本人の対立が終ったのではなく,潜在化し,その後,日本総領事暗

殺未遂事件等が,1950年頃までに発生している:筐'.)この日本人社会のテ。

事件は,約30件数えることができる。暗殺された者16名,重傷者11名,

軽傷者数名で,ブラジル人も被害者となって事件に巻き込まれている。暗殺犯

人のほとんどは,逮捕され,臣道連盟の幹部とともに,合計177名が大統領

令により国外追放処分を受けたが,その後,人身保護法によって漸次釈放され

ていった:筐皿)

テロ事件の半数は,日本人植民地が多く建設されていたパウリスタ鉄道延長

線のMarilia・Pompeia,Bastos,Tupaの各ムニシーピオで発生した。同様

に日本人が多く居住していたノロエステ線沿線のムニシーピオでも事件の約4

分の1が発生している。被害者のほとんどは,市街地に居住する者か,あるい

-40-



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は,各植民地の指導的立場にあった者である。これら被害者は,戦争末期の日

本の戦況については,大本営発表の偽りのニュースと同時に,ブラジルで発表

されるニュースからも知る機会を有しており,雀士,これらを判断する能力を

有していた者であり,日本の敗戦が,信じられぬ事ではなく,ありうるべき事

として受け入れることができたのである。一方,犯人達は,いずれもサンパウ

ロ州奥地の日本人植民地の農村出身の,6~30才の青年であったFn2)

では,これらテロ事件を推進した臣道連盟の会員数はどの位あったのであろ

うか。

パウリスタ新聞は「加盟ないし,シンパ的立場にあったのは,(当時の)の

日系人の9割」と推定している8国3)臣道連盟の発表では,登録された会員は,

約,3万人であるFM)しかし,この会員数は,ある,人の会員が登録するとそ

の家族全員を会員とする数え方によって発表された数字である。当時の平均家

族数は,5.9人であるからIm5)臣道連盟の会員は,約2万人ということになる。

この数値は,当時の日本人の人口の,割にあたる:…)

これら会員の地理的分布をみると次の様になる。パウリスタ鉄道延長線の地

域では,会員の334%,ノロエステ線では,34.2%が分布し,各ムニシピ

オ別では,パウリスタ鉄道延長線のMariliaが-番多くの会員数を占めておりb

次いで,Pomp6ia,Tup且(いずれもパウリスタ鉄道延長線のムニシピオ)で

ある。この3ムニシピオで,全会員の4分の1を占めている(表1参照)。ノ

ロエステとパウリスタ延長線の当時の日系人の人口は.:各々45,637人,

22695人であるFI7)従って,両線の人口分布比は,約1:2である。各々

の会員数は,パウリスタ延長線で7,391人,ノロエステでは,6,583人と推

定され,人口に占める会員の割合は,パウリスタ延長線で326%,ノロエス

テ線では,144%となる。パウリスタ延長線は,ノロエスタ線に比して,2

倍以上の臣道連盟会員を有する地域であったといえる3m8)

次に,臣道連盟の綱領及び『在伯同胞指導方針要綱』をみてみると,「日本

精神の実現」の普及というのがこの秘密結社の公式の態度といえよう(巻末付

録参照)。「日本鞘神」とは何を意味するのであろうか。それは,日本軍部が

唱えた典型的な当時の日本の価値システムを意味している。ブラジル忙於いて

日本の価値システムを展開することは,ブラジル社会への同化を否定すること

を意味している。戦前の日本人移住者のいずれ日本に帰るつもりでいた態度と

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この臣道連盟の主張とは密接を結びつきがあったことは容易に理解される。直

接にしる間接的にしる臣道連盟が行なったテロ,暗殺という社会的逸脱行為は

当時の日本人移住者の1割のものの異常を行為ではなく,ほとんどの日本人が

直面していた心理的混乱を表現しているものである。なぜなら,先にあげたよ

うに9割の日系人が何らかの形で臣道連盟を支持し,8割以上のものが日本の

敗戦を信じていなかったのである。

そこで,「常規を逸した行動は,社会学的にみれば,文化的に規定された志

望とこの志望を実現するための,社会的に榊造づけられた通路とか結びついて

いない徴候だといえよう」というマートンの仮設に従って,当時の日本人社会

を次に考察してみる』…)

3.アノミーをひきおこす社会構造

マートンは,文化目標と制度的規範の関係によって,染団を3つに類型する。

すなわち,第1類型一手続の選択範囲が制度的規範よりも,むしろ技術的規範

だけに左右されている集団。極端な場合は,至上の目標に達する見込みのある

手続ならばどんなものでもすべて許容する。第2類型一元来手段的なものと考

えられていた活動が変じて,それ以上の目的をもたない自足的な慣行と化して

いるような儀礼的染団。文化の許容する行動の選択範囲が著しく制限されてい

るので,新しい諸条件に適応する基礎がほとんどない。第3類型一中間型。文

化的目標の強調と制度的慣行の強調とが大体においてバランスを保っている社

会。統合的で比較的安定した社会:筐20)

社会学的にみると,諸個人の主たる環境には,一方に文化構造があり,他方

には,社会構造があると考えることができる。文化櫛造は,特定の社会又は,

災団の成員に共通な行動を支配する規範的価値の組織体である。そして,社会

的構造は,社会又は,集団の成員が,多様な仕方でかかわりあう社会関係の組

織体であるとマートンは捉らえている。この場合,アノミーは,文化織造の崩

壊と考えられるのであって,特に,文化的な規範や目標と集団成員がこれらに

応じて行動する社会構造上の能力との間に食い違いがある場合に生じてくるの

である。従って,第1類型に属する集団では,文化櫓造と社会綱造とが不完

全に統合されているので,文化目標を達成する場合,アノミーを容易にひきお

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こすことになるのである。この様な集団では,犯罪,非行,自殺等のアノミー

的傾向に反応する逸脱行動が多く生ずるのである。

我々が問題としている臣道連盟を中心とする一連のテロ事件は,理由はどう

あれ,犯罪である。マートンによれば,これらの犯罪と生じさせる社会構造上

の問題が,当時の日本人社会の中に存在していたことになる。つ室り,第1類

型の集団は,目的が異常に強調され,その割には制度的手続が強調されたいよ

うな社会であり,従って,人点は技術的手段だけを配慮して行動するようにな

る。技術的にもつとも有効左手続は,文化的に正当なものであろうとなかろう

と,一般に,制度的に規定された行為よりも望ましいものとたってしまうので

ある。

従って,当時のブラジルの日本人社会には,一連のテロ行為を生じさせる社

会制度と文化目標の矛盾が存在していたことが推測されるのである。次に,こ

の制度と目的との矛盾について具体的に検討する。

4.経済的背景

第1項で述べた様に,勝組のテロ事件の主な中心地となったのは,パウリス

タ鉄道延長線及びノロエステ線のムニシピオの都市及び農村地域である。ここ

では,大戦前のパウリスタ延長線を中心とした日本人移住者の経済的背景を考

察する。

ブラジルのコーヒー経済は,1929年の世界経済恐慌以来危機に直面し,

コーヒー生産の過剰時代に入った。そこで日本系人農家では,1932年に綿

作が始まり,1937~42年の綿作全盛時代を迎える。1947年頃より綿

作は,後退し,それに代って近郊作物農家が出現してくる。以後日系農家の多

くは,急速に近郊作物農家に移っていくのである(表2参照)。

綿作に於ける日系人の農業上の地位は,表3に示してある様に,自一作農

(Pequenositiante)は約3割で,大多数が土地を持たない農民であった。

コーヒー栽培の様に,植付けて5~6年もしなければ収益につながらない作物

とは違い,1年で収入に結びつく綿作は,土地を持た左い農民にとって魅力あ

る作物であったし,又,地力の消耗の激しい作物であるため借地した方が都合

がよかったともいえる。さらに,コーヒーと同様に,国際市場の変動が直ちに

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末端の生産者に波及し,市価の浮動の振幅の大きい綿作りは,高値と豊作に恵

室れれば,一挙に資金を蓄積できる可能性があった。しかし,逆に凶作,安値

となれば,債務に苦しむこととたった。綿作借地農の投機性があったとはいえ,

1933年をピークとして移住してきたいわゆる「新移民」は早く財産をつく

るために,当時景気のよかった綿作に従事した理由がここにあった。

現存する資料で大戦勃発(1939年)直前のものは,輪湖の調査報告があ

る:…)主に/・エステ線,パウリスタ延長沿いに在住する日系罎族,

11.500家族,総人口68,332人を対象に1938年,経済及び文化的側面を

調査報告したものである。当時の日系人総数約20万人のうち約34%がこの

地域に在住していた。

この報告書によると,渡伯時は,約95%がコロノ(コーヒー農園の契約労

働者)としてサンパウロ州各地に入植したが,この時点で,独立農となってい

る家族は,47.4%,借地又はコロノ443%,残り83%が農業以外の職業

についているJ…生な作物は,コーヒー,米,綿で,これらの収入100とす

れば,うち75%は,土地の購入代金及び,賃金,借地料にあてられてい野`)

地主となっているものでも,土地の購入代金の返済に追われていたものがほと

んどであった。

コーヒーと綿の収入が全収入に占める割合は次表4に示してある。この地域

の日系人農家の収入の半分以上が綿作によっていたことがわかる。

(注25)

表4:コーヒー及び綿花の収入

出典:輪湖俊午郎,『パウルー管内の邦人』

テイエテ移住地(サンパウロ加個人出版,1939年,21及び次

ページ。

次に,臣道連盟の会員の経済状況をさらに詳しく考察するために,表1の会

員分布をもう一度とりあげる。表1のムニシピオを会員保有順位に従って,A

(7~10%)B(4~5%)C(2~3%),(1%以下)という様にクル

-ケ

-44-

コーヒー

綿

総収入

単位コントス

30,437

63,274

113.616



26.8

55.7

100



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一プからサンプルとして以下の4ムニシピオを選び出した:…

ムニシピオー会員保有割合・所在地域

Aグループ・Marilia104%パゥリスタ延長線

4.9

BグループMiranddpoliBノロエステ線

3.0

CクループLmsノロェステ線

DクループBaurdO4ノロェステ線

来Aグループに分類されるムニシピオはこの他にPomp6iaとTupZがあるの

み。いずれもパウリスタ延長線沿に存在(巻末サンパウロ州略地図参照)。

各ムニシピオと各鉄道線沿線の経済状況を表5及び表6に注とめた。これら

の表から,次の様に各地を特徴づけることができる。

雀ず,パウリスタ延長線地域とノロエステ線地域を比較する。都市生活者の

人ロに占める割合は両地域とも同じであるが,「地主」の割合と「借地及びゴ

ロノ」の割合が,まったく入れ換っている(パウリスタ延長線では「地主」.

37.2%.「借地及びコロノ」51.9%,ノロエステ線では「地主」53.2%

「借地及びコロノ」36.0%)。主要農産物については,両線とも綿作がコー

ヒー生産を上回ってはいるが,各実数をみると.パウリスタ延長線では.約

80%が綿作で.コーヒーが約10%を占め.残る10%が,「米及びその他

の収入」となっている。一方,ノロエステ線では,綿作が約40%,コーヒー

も40%弱,残り約20%が「米及びその他の収入」ということになる。パウ

リスタ延長線では,極端に綿作による経済生活を展開し,都市生活者の収入が

人口の割には延びていないことが考えられる。一方,ノロエステ線では(「そ

の他の収入」2o%のうち米作による収入がどの程度の割合で占めていたかが

不明ではあるが),パウリスタ延長線との比較では,都市生活者の収入が好雀

しい状況にあったと想像することができる。従って,ノロエステ線では,奥地

型農業から近郊型農業へ,又は都市化への傾向が,比較的順調に移行していた

ことが予想される。又,「地主」の割合が多いことからも,経済的に比較的安

定していたと考えられる。

次に,A・B・C.Dの4ムニシピオを比較すると,「地主」,「借地及び

コロノ」の割合もコーヒー及び綿作による収入の宵I合も予想されるような変化

を示していたいことに気づく。Aでは,「借地及びコロノ」が「地主」を上回

り,B,Cでは,反対に,「地主」の割合が増大し,「借地及びコロノ」を上



-45-



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回っている。又,綿作による収入は,A→B→Cへと減じている。しかし,D

では,各数値の関係は,むしろA型に近い傾向を示している。そこで,両線の

家族数と総収入を100として,各ムニシピオの家族数と収入が,それぞれに

占める割合をみると,Aでは,パウリスタ延長線に占める家族数の割合,

(52.6%)が,同線に占める総収入の割合(50.6%)を上回っている。ノ

ロエステ線地域で,最も多い会員数をもつBでも,同様に家娘数の割合(86

%)が,収入の割合(45%)を上回っている。ところが,C・Dのムニシピ

オでは,この関係が反対にたり,収入の割合(Cは331%,Dは16.4%)

が,家族数の割合(Cは17.8%,Dは7.8%)を倍の数値で上回っている。

特に,Dでは,綿作に上りながらも,比較的恵まれた収益を得ていたといえる。

従って,(当然のことではあるが)綿作と臣道連盟が相関関係にあったので

はたく,経済的に恩をれていたか否かということが問題となる。経済的にあ左

り忠司tれずに,比較的都市化が進行していた地域で全員になるものが多かった

といえる。

1937~42年を頂点とした綿作りは,その後急激な下降線を辿る。この

5年間に,養鶏が主要生産物の第1位に達し,1947~52年には,第2位

であった綿作を蔬菜作が上回るのである(図1参照)。日系農家が,急速に近

郊型農業に移行していくのが1937~52年の5年間である。つさり,上に

とりあげた4ムニシピオの経済状況は綿作を中心とした奥地型農業から近郊型

農業に移行する時期であり,同時に,この近郊型農業の出現を可能とする背景

としての都市化が進行していた時期であったといえる。

4ムニシピオのうち,A・B.Cでは,都市化,又は,近郊型農業への移行

が順調に進行していたのではたく,農村では借地農やコロノの非自作農が多く,

経済的に患されていないために,そこに出現しつつあった都市化現象との間に

ギャップが生じていたことが考えられる。

以上述べた様な経済状況を背景として次に日本人社会及び日本人移住者の文

化目標の変化について考察する。

5.移住者の目標と植民地の崩壊

戦前の日本人移住者の大部分は,日本で農業に従事していた。元来,土地を

-46-



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離れて生活が成り立たない農民か,なぜ母国の土地を離れて新大陸へ渡ったの

であろうか。日本から出移民が多くなされた時期をみると,その背景には,常に日本

の経済の病幣という状況があったF27)彼等自身が自らを「棄民」と呼んだごとく,

日本政府からみれば,移住政策は「口減らし政策」であった。ましてや,ほとんど

の日本人移住者は,新大陸で新国家建設に自らが参加するということをまったく

考えてもいなかったことである(しかし,皮肉なことに,日本移民70年の歴史を経

て,日本人はブラジル国家建設に参加していたのである)。移住者の大部分は,短

期間である程度の蓄財をして帰国するつもりでいた。1938年の調査では,日本人

移住者の90%が帰国する意図をもっていプ&摩ロ)戦前の日本人移住者は,永住を

目的として渡伯したのではなく,出稼地としてのブラジルに渡ったのである。コロノ

移民としてなるべく早くお金をためて-6カ月後には-日本に送金をする心づもり

であったが,ハワイ移民の主うに蓄財が短期間では不可能であることがわかり,多

くの人たちは,たとえ小さな土地でもいいから,「地主」となって自作農とた

り,蓄財を果すことを希望した。そこで,日本人だけの開拓地をつくり,借地

農から自作農への道を歩むのである。従って,日本人植民地では,主さに日本

の村を移した生活を展開し鰈,)ブラジルの社会との接触はほとんど限られて

いた。また進んで,ブラジル社会に入る必要もなかったのである。いずれは日

本に帰るのであるから。

ところが,移住者の最も安心していられる日本人のみの植民地(つをり日本

の村落形態をとった植民地)の崩壊の兆しが,1932年頃麺から始まり,1935

年以降にたるとかたり目立ってくるのである。それは,サンパウロ州に於ける

コーヒーの植付が,1932年から3ケ年間禁止されたために,北ペラナーや

サンパウロ市あるいはこの近郊,ソロカパナ鉄道線沿いの地域へ移動するもの

が増え,日本人の売りに出したロッテをブラジル人が購入したりして,植民地

に日本人以外の住民が入ってき,日本人だけの閉鎖的集団を持絞しえなくたっ

てきたのである。特に,綿作が後退をはじめる1940年頃からパウリスタ延

長線地域では,上記3地域への移動者が増加し,1948~58年には,H1者

2地域への移動が顕著となっているザ3`)つ戎り1938年頃から,パウリスタ

延長線の日本人の移動は,農村から農村に向う動きと,農村から市街地へ向う

動きがあったことになる。1938~42年の4年間のサンパウロ州日本人の

移動傾向は,農村から農村への移動率が首位を占めているが,同時に,農村か

-47-



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ら都市への移動率が急増し,次の1943~47年の4年間には,農村から農

村への移動率を上回っている(図Ⅱ参照)。

パウリスタ延長線地域における日本人植民地の崩壊に伴うブラジル社会との

接触の増大は,日本人移住者のブラジル社会に対する態度(ブラジル社会との

接触は必要最少限とする)に変化を与えることになった。同時に,子弟のブラ

ジル人としての成長は,移住者の日本からたずさえてきた文化目標(蓄財をた

して帰国する)の達成に不安を投げかけるものとなるのである。

6.二世の成長と「新移民」

移民集団の成員は,二世の誕生と新来の移住者によって変化していくもので

ある。

まず,日本人植民地の構成員としての二世について考察する。

1938年の調査によると,世代別人口分布は,35%以上が,ブラジル生

注れで,さらに「準二世」を加えると55%とたっていた惇、)

二世の年令分布は,1958年の調査資料によると,1942年で,20~

33才(1908~22年生)が9042人,O~19才(1923~42年

生)が11,370人に達していた。二世の人口は,合計1226749人となり,当

@麹勿

時の日系人の総人口は約20万人であるから,過半数がブラジル生まれとなる。

1942年で,二世の最高年令は33才である。33~13才の年令層が,日

本生されとブラジル生されの混合している年令層で,割合は,77.8%対22.2

%となっている。13才以下の年令層では,ブラジル生雀れが絶対多数を占め

るということに左課3)しかし,この調査には,戦後の移住者の数も入ってい

るので,このことを考慮に入れれば,1942年当時は,13~33才の年令

層のブラジル生在れの割合は,もっと大きくなると考えられる。さらに,生ま

れによらず,就学地別で考えれば,「準二世」に属する人が,ブラジル生室れ

に加わり,この年令層を構成する「二世」は,3割を下ることはなかったと考

えられよう。

日本人移住者集団に於けるこれら二世の成長は,いかなる意味をもつであろ

うか。

二世のアイデンティティーについては,文化人類学や社会学で多様に議論さ



-48-



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れる問題である。マージナルな人として,どちらの文化にも属することのでき

たい人という悲観的見方がある。

ブラジルの日本人二世は,最初に家庭内で日本語を覚え,次に成長して,生

活の場が拡大するとポルトガル語を覚える。そしてポルトガル語が,自分の言

葉となる。日本語はむしろ忘れて行く:…)言葉の学習は同時に,各々の文化を

学習させるものである。とすると,日本人の両親が家庭で教えることよりも,

学校や社会で学習することによって二世のパーソナリティーを形成していると

いえよう。従って彼等は,ある時期から,日本人としてエリもブラジル人とし

ての価値体系を獲得していくのである。

1936年に,二世がブラジル人としてアイデンティティーを確立したこと

を象徴する事件がおきている。それは「菊花事件」といわれる。サンパウロ市

で,ある日系二世大学生の「われわれ二世は菊花の国を尊敬することはできる

が,愛することはできない」という愈見が日本語に翻訳されて雑誌に発表され

鱈`)「菊の花の国」とは父母の国日本のことである。彼等二世は,父母の国と

して日本を尊敬はするが,彼等の祖国は日本ではなくブラジルであることをブ

ラジル人日系二世の立場から宣言したのである。彼等は,すでにブラジル人と

して成長していたのである。これを当時の日本人社会は「不敬事件」と考えた。

日本の皇室に対する不敬であると……。

-世の移住者は,ブラジルで生士れ育っていく子弟が移民の子としてブラジ

ル社会に同化していくことに,2側面に於いて心理的不安を。感じた。ひとつは

観念的レベルで,日本から擁帯した文化的価値観がもぎとられることであり,

もうひとつは,現実的レベルに於けるもので,帰国不可能となることであった。

つをり,二世のブラジル人としての成長は,帰国して日本で生活する場合に,

日本人として生活するのではなく,ブラジル人として生活することを意味した

のである。

次に,移住者災団のもう1つの櫛成員である新来の移住者について考察して

みよう。

日本人のブラジル移住史の中て,戦前移住の大きなピークとなったのは,世

界恐慌により,日本経済が病弊し,特に,農村の貧困が激しかった1933年

及び34年の頃である。この時期を頂点として,1929~35年室で約10

万人に及ぶ日本人がブラジルに移住している。戦前移民の70%以上がこの時

-49-



Page 13

期にたされてい器37)1934年の移民制限法によって,日本からの移住者は

減少するのではあるが,この時期にブラジルに入国した「新移民」の数は,そ

れまでの既存の日本人社会に大きな影響を与える力をもっていた。この時期の.

日本は,1931年に日本軍部により一方的に満州国建国宣言がされた様に,

日本の国家主義が最も強化された時でもあった。そして,その戎士日本の軍部

は,太平洋戦争に突入していったのである。

移民は母国の技術と文化を移住した国に携帯する役割をもつとすれば,これ

ら「新移民」は,既存の日本人社会に日本の国家主譲イデオロギーの宣伝マン

でもあった。この日本の国家主義イデオロギーは,すでに出現しつつあった日

本人植民地のブラジル社会への同化傾向を否定するものであった。玄尤,ブラ

ジルのヴァルガスによるEBtadoNovo政策とも当然ながら対立するものであ

った。

ここで,ノロエステ線及びパウリスタ延長線地域の日本人家族を渡伯年別に

調べてみると,過半数の家族が,1929年以降にブラジルに渡航している

(表6参照)。特に,パウリスタ延長線地域では,10家族のうち85家族が

「新移民」の家族で占められていたのである。この地域に,「新移民」の大半

は,借地農又はコロノとして入ってきたのである。1938年の調査によれば

1929年以降に渡伯したもののうち,60.9%が借地農又はコロノであり,

これに対し,自作農は,287%,都市生活者となっていたものは,10.4%

という割合となっていた8厘38)

従って,綿作という生産が不安定であったうえに,さらに農業上の地位も,

借地又はコロノという経済的に利益の少ない地位にあった。このことは,、彼等

表7:ノロエスチ線及びパウリスタ延長線に於ける日本人家族数

出典8輪湖,前掲番,20ページから作表。

-50-

地域

家族総数

1929~38年に

渡伯した家族数



ノロエステ線

7,237

3,784

520

パウリスタ延長線

3,697

26804

85.4



10.970

6,089

55.5



Page 14

を他地域へ移動させることを上り容易とさせ,日本人だけの閉鎖的築団の崩壊

をより速めることとなった。

,940年頃の日本人移住者は,子弟のブラジル人としての成長(あるいは

ブラジルの日本人として,日本人の文化背景とは異なる文化システムを持って

の成長),日本人植民地の崩壊という2つの現実に直面し,彼等の甥えてきた

目標(蓄財して帰国する。従って,ブラジル社会との接触は最少必要限度とす

る)の再検討が必要とされていたのである。さらにヴァルガス政権以後,顕著

とたったブラジル同化政策(移民制限法,外国語教育の禁止,外国語による印

刷物発行禁止等)によって,移住者は母国日本及び子弟との文化的コミュニケ

ーション手段が断たれた状態となった。潜在化していた日本人社会の文化目標

とそれを達成するための制度との矛盾が,移住者に愈識されることになったの

である。

7.壷とめ

文化目標と制度の矛盾をもった日本人社会を背景として,戦後の日本人社会

の抗争は発生したのである。この矛盾を如何に解決するかが,日本人社会の直

面していた問題だったのである。

緊張処理のプロセスとして人間の社会諸行動をみると,この矛盾に対して我

々は如何なる適応行動をとり得るであろうか。マートンによると,ある社会の

もう文化目標が実現できたい社会制度がある場合,適応の行動様式は,どちら

かを承認,又は拒否するかによって,次の4つの行動様式が考えられる。

個人の適応様式0日院類型(圧39)

適応様式文化目標制度的手段

1.革新十

2.儀礼主義+

3.逃避主義

4反抗士士

各記号の意味は:

(+)-承認,(一)-拒否,(土)-その集団で文配的な価値の拒否と新し

い価値の代替。

-51-



Page 15

一連のテロ事件を推進した臣道連盟が目的としたのは,「日本糖神の実現」

と「日本への永住帰国」である。WillemsSaito論文が指摘しているように

前者は,すでに兆しをみせていた日本人社会のブラジル社会への同化を否定す

ることを意味している言葉である!…)「日本籾神の実現」は,子弟の日本語教

育,「日本文化」の伝達(神道,武道,隣組糖神)を具体的には意味していた。

つ左り子弟がブラジル人として成長することを否定したこの秘密結社の連動は

反同化連動である。ところが,この文化目標を実現することは制度的に不可能

であったことはすでに指摘した。そこで,文化目標を実現するために,制度的

手段を拒否するか,あるいは,文化目標を放棄して,すでに出現しようとして

いる制度を認めるかという選択に迫さられることにたった。そして,文化目標

を放棄したい結果として,手段を選ばない類型1の逸脱行動が発生したのであ

る。

移住者のもう一つの文化目標であった「日本への帰国」は,日本に帰ること

によって,彼等の第1の文化目標は,制度的矛盾なく実現されることを意味し

ている。つまり,これは,当時の移住者が心理的葛藤からのがれる手段であっ

た。ブラジルで生活する限り,正当な手段では,常に目標に近づくことができ

ず,又,内心の禁止によって不当な手段を用い得ることができたいために生ず

るものである。この葛藤からのがれるため,目標の達成が可能であると思われ

るところに逃避,すなわち日本に「帰国」するのである。ブラジルの社会にあ

って(たとえ,ブラジルの日本人社会においても),日本への帰国を考えるこ

とは,現実の矛盾から逃避するという類型3の行動様式である。

戦時中から兆しをみせたテロ事件,そしてこの事件に巻き込宣れた日本人社

会の混乱は,日本人社会の文化目標と制度の矛盾から生じた社会的逸脱行動で

あった。この制度を無視した逸脱行動によって,日本人社会はアノミー状態と

なり,戦後の多くの犯罪を生じさせたのである。終戦後,約10年の月日をか

けて,日本人社会は,文化目標に変更を加えることにより,安定した社会をつ

くり出したのである。すなわち,1952年に行われた調査によれば,永住の

決心で渡航した者11.1%,渡航当時は金を儲けて帰るつもりだったが,今は

永住を決心した者57.8%,今も左だ帰国するつもりの者124%,残り186

%は幼少時の渡航者又は,「二世」で不明となっている鰐uすでに示した様に

1938年の調査では,「帰国」するつもりの者は90%に達していたが,と

-52-



Page 16

の戦後の調査では,「永住」組が約87%に達している。従って,この日本人

社会の抗争は,日本人移住者の価値体系の変化をもたらすための葛藤であった。

制度にあった文化目標を狸得することによって日本人社会は安定したのである。

以上,いわゆる「勝負抗争」の社会的背景として,戦前の日本人社会の矛盾

について述べた。社会綱造に視点を戯いたために,本稿では,「抗争」の経過

や,臣道連盟の活動については最少限言及しただけとたった。又,用いた資料

には各々時間の差があるため,本稿で指摘したことは今後,再検討されるべき

である。サンパウロ人文科学研究所にて発表した折,出席者の万から,同じ経

済状況にありながら臣道連盟会員を多く有しなかった地域との比較が必要であ

るとの有益な示唆をいただいた。この指摘をふをえて,今後さらに検討するつ

もりである。

1978年8月31日

サンパウロ大学にて三田千代子



(1)高木俊明,『狂信』,朝日新聞社,1970年。藤崎康夫,『陛下は生

きておられたノー「ブラジル勝組」の記録一』,新人物性来社,1974

年。いずれもフィクション小説である。この現象を前者は,勝負両者から

記録をとり,後者藤崎は,勝組の立場から取り扱っている。藤崎は,勝組

の挺生を,日本の戦前の移住政策と軍国主義教育を原因として説明してい

る。

(2)Miranda,MarioBotelhode,ShindoRenmei-TeirorimBoe

Exters面0,s目oPaulo:SaraiwL,l948

Fernandes,A1exandre,AVerdades6breaShindoRcnmei,

S百oPauIo:、.p・,1949.

(3)Willems,EmilioeHiroshiSaito,、ShindoRenmei:Um

ProhlemadeAculturas園0,.Sociologia,Ve1.1X,hb2(1947)

pp、132-152

(4)Izumi,Seiichi,。AEstruturaPsicoldgicadeCol6nia

JapOnesanoBrasil”HSaitoeT・Maeyama(eds),Assim-

-53-



Page 17

ilac面oelnteg「ag5esdosJaponesesnoBrasil,Petrdpolis:

Vozes,1973,pp、361-385MaeyamaDTakashi,碗OAntepaBsado,

olmperadoreolmigpante:ReligiZoeldentificagoesde

GrupodosJaponesesnoBrasilRural(1908-1950),”

H・SaitoeT・Maegama(eds),Ibid.,pp、414-447.

(5)Kumasaka,Y,eH・Saito,、Kachigumi:UmaDelus目oColetivn

entreosJaponesesesensDescendenteshoBrasil,pH.

H・SaitoeT・Maeyama(eds)op・Cit.,pp、448-464.

(6)Izumiの調査では次の様に報告されている。戦争の終了を隣人及び友

人によって知ったと答えた者,31.6%・農業協同及び,その他の組繊に

よって知った者,24.1%・日本からの直接あるいは間接のラジオ放送に

よって知った者,23.9%。たまたま近くの町に用事のために出て知った

者,82%。当時,幼少であったのでわからないと答えた者,86%・ブ

ラジルの新聞及び雑誌によって知った者,33%。(Izmni,S、,op・Cit.

p、382)

(7)Izumi,S、,op・Cit.,p、363L

(8)パウリスタ新聞(編),『ゴロニア戦後10年史』,パウリスタ新聞社

1956年,8~9ページ参照。

(9)パウリスタ新聞(綿),同書,12~17ページ参照。

(10)日本人の対立の和解は,1954年,サンパウロ市建設400年祭の記

念行事として日本館建設が,そのシンボルとたった。この抗争の終結につ

いては,Kumasaka,Saito,前掲議文を参照されたい。

(11)パウリスタ新聞(縞),前掲書,12~17ページ参照。

(12)Miranda,op・Cit.,p、75/86.

(13)パウリスタ新聞(縄),前掲書,9ページ引用。

(14)Miranda,op・Cit.,pp、63f・

(15)輪湖俊午郎,『パウルー管内の邦人』,ティエテ移住地(サンパウロ)

個人出版,1939年,14ページ。但し,Mirandaは,平均家族数5人

としているが,この数字の出典が示されていないので,ここでは,輪湖の

数値を用いた(Miranda,op,Cit.,p、64.)。

(16)Mirandaの計算によれば,会員数は,2万5千人である(Miranda,op.

-54-



Page 18

Cit.,p、64.)

(17)輪湖,前掲轡,14ページ参照。

(18)但し,この総人口の調査は1938年になされ,臣道連盟会員数の調査

は,1945年のものであるから,この間の,人口移動が考えられるので

これらの数値には当然幅が考えられよう。

(19)Merton,RobertK.,SocialTheoryandSocialStructure,New

York:FreePress,1965.'134(森東吾他訳『社会理論と社会

榊造』,みすず轡房,1972年,124ページ。)

(20)Merton,Ibid.,ppl33f.

(21)Merton,op・Cit.,p,162.

(22)輪湖,前掲轡。

(23)輪湖,前掲轡,19ページ。但し,前掲表2,3とは分類が異っている。

前表の「借地腱」「分益農」「コロノ」を輪湖は「借地農又はコロノ」と

して区別せずに扱っている。

(24)輪湖,前掲書,46ページ。

(25)輪湖は,各作物の収極量のみ報告しているので,コーヒーは18ミルレ

イス/コッコ,綿は14ミルレイス/アローバとして計算した。表5も同

様にした。

(26)これら4ムニシピオは,轄湖の資料に引用されているムニシピオと重な

る様に選び出した。

(27)三田千代子,『ブラジル日系人の対日イメージーコミュニケーションと

イメージの変化』,上智大学イベロアメリカ研究所,1977年,8-9

ページ。

(28)輪湖,前掲番,1ページ。

(29)Maeyama,T、op・Cit.,pp420-425.

(30)ブラジル日系人実態調査委員会(編),『ブラジルの日本゜移民』,記述

篇,東京大学出版会,266-267ページ参照。

(31)輪湖,前掲書,15ページ参照。但し,輪湖は「準二世」の定義を明確

していない。「いわゆる準二世」といっているだけである。ここでは,渡

伯時に10才未満の日本生をれのものと考えておく。

(32)プアジル日系人実態調査委員会(縞),前掲書,記述篇,30ページ第

-55-



Page 19

3表参照。

(33)ブラジル日系人実態調査委員会(縞),前掲轡,記述篇,32ページ第

2図参・照。

(34)あるいは,幼児期経験のひとつとして記憶の中に戯き去されていくとい

える。ある二世女性で,ブラジルの社会のある分野の専門家として活翻し

ている人でもある人が,自分の子供をあやす幼児語は日本語を使い,日本

・の童謡を口ずさんでいるのを目撃したことがある。二カ国語併用する子供

に育てるつもりで意識的にとられた育児法なのであったかどうかはわから

ぬが,場と言語が結びついていることのひとつの例であろう。

(35)との考え方には多くの反対意見が考えられる。例えば,年代と居住地に

よる差があって,以上のような二世の一般化は不可能ともいえるし,又,

ポルトガル語を話せない二世も存在するという反証をあげることもできよ

う。しかし,これらの反証は,二世をひとつの分析対象として論ずる時に

問題とされねばならないことである。本稿では,移住者一世とは異る文化

を持つ人ということで「ブラジル人」として考えている。

(36)香山六郎(鰯),『移住40年史』,サンパウロ,個人出版,1949

年,316ページ参照。

(37)三田,前掲轡,9及び’9ページ参照。

(38)輪湖,前掲轡,20ページ参照。

(39)Merton,op・Cit.,p,140.

マードンは,適応行動として,5つの類型を示している。5番目は「同

調」である。文化目標も制度的手段も承認する行動様式である。従って逸

脱行動ではないので除いた。

(40)Willems,eSaito,op・Cit.,pp、l51f.

(41)Izumi,op、Cit.,p、365.

-56-



Page 20

表1臣道連盟会員分布

出典

Miranda,M、B・de,ShmdoRemmei-

TerrorismoeExtors節,8面oPaulo:

Edi6HioSaraiva,1948,pp、64f・より作表

-57-

地域及びムニシピオ名



会員数(人)

パウリスタ鉄道延長線地域

LuG61ia

Calif6rnia

Basto8

Tu頑

Pomp6ia



Marilia

VeraCruz

GA1ia

Garga

4870174043

鋼403Ⅲ80LLL1

44,350

5b500

850

3.500

8Ⅱ200

10.000

12000







100

700

500

ノロエステ鉄道線地域

34.2

39,500



Bauru

Pirajui

Guaran頑

Cafelandia

Lins

Guara gal

Promiss百o

PenApolis

Birigui

Aragatuba

Guararapes

ValparAiso

Lavinia

Mirand6polis

Guai gara

Andradina

A1fredoCastilho

0000

0000

5555

000

卯帥釦

33











伽、叩加叩皿叩5050570

4325151













44400703963339944

000330a2a224L4000

PaIPand州

8.7

10『000

Outras

18.7

21.580

Total

100

115,430



Page 21

表2年代別主要農産物の分布

(%)

§鞘:誰

備考:(1)コーヒー

(2)綿作

(3)米

(4)奥地型作物(コーヒー,綿,米をのぞく-はっか,ラミー,

こしょう,とうもろこし等)

(5)近郊型作物(青野菜,トマト,じゃがいも,果物,バナナ,

養鶏,乳牛)

(6)混合型複作((4),(5)の混合)

(7)多角経営(コーヒー,茶,こしょう,果物と肉牛,乳牛また

は養鶏の組合せ)

(8)その他

出典:ブラジル日系人実態調査委員会(縞),『ブラジルの日本移民』

記述篇,東京大学出版会,1964年,292ページ。

表3農業上の地位別年代別変遷(綿作)

出典:ブラジル日系人実態調査委員会(縞),『フ・ラジルの日本移民』

記述篇,東京大学出版会,1964年,297ページ。

-58-



(1)



2.1

(3)

(4)

(5)

(6)

(7)

(8)

1932

59.0

14.0

8.3

3.7

130

0.7

0.4

0.9

1937

321

39.0

6.0

63

14.5

1.0

0.4

0.7

、1942

24.3

39.3

4.5

89

109

1.5

0.7

0.9

1947

23.6

31.2

3.8

9.8

27.5

L9

1.0

1.2



自作農(地主)

借地農

分益農

colonos

1932

324(%)

55.4(%)

5.5(%)

6.4(%)

1937

29.1

52.0

13.1

5.8

1942

35.8

51.0

9.8

3.4

1947

40.4

49.4

7.5

2.7



Page 22

表5パウリスタ延長線及びノロエステ線地域の経済状況(1)

A:MariliaB8Mirandop61isC:LinsD:BaMi

'

⑫②

(1)(2)の収入額を算出したためてある(注25参照のこと)。

。(1)+(2)カミ(3)を上回っているのは,基礎資料(輪湖俊午郎,『パウルー管内の邦へ』,テイエナ秒辻氾凡ツー、ソーノ

個人出膜1939年,21~22ページ)に総収入の算出方法が明らかにされてい左いので,簸者が推定にエリ,

地名

パウリスタ

延長線



ノロエステ線







家族数

実数



3、

912

100

2059

100

7、

336

100

638

100

I ●

292

100

575

100

職業及び農業上の地位

自作農

借地度

又は

ゴロ〃〆

その他

実数



実数



実数



1,457

37.2

2,029

51.9

426

10.9

749

36.4

968

47.0

型2

16.6

3.901

53.2

2.646

36.0

789

10.8

411

64.4

153

24.0

74

11.6

694

53.7

524

40.6

74

5.7

95

16.5

370

64.4

110

19.1

収入(単位Ⅱコント)

コヒ

11

綿

総収入

実数



実数



実数,



4.248

9.7

34.490

79.0

43 648

100

1,915

8.7

19.273

87.3

22072

100

25.834

37.7

28.784

42.0

68 568

100

1,441

46.3

779

25-0

3ロ

109

100

9,421

56.5

2.887

17.3

16 665

100

707(1).

98

6,538

90.9

7,191(3)

100



Page 23

表6パウリスタ延長線及びノロエステ線地域の経済状況(2)

③・

地名

パウリスタ

延長線



ノロエステ線







家族数

職業及び農業上の地位

自作農

借地展

又は

コロノ

その他

100%

100

100

100

526%

51.6

47.7

80.3

100%

100

100

100

8.6%

10.5

5.8

9.3

17.6%

17.8

19.8

9.4

7.8%

24

14.0

13.9

収入

ゴー

ヒー

綿

総収入

100

100

100

45.0

55.9

50.6

100

100

100

5.6

27

4.5

36.5

10.0

381

27

227

16.4



Page 24

(1932=100)

主要農産物の増加指数

図I

2172

,/;震鶏

/、”





/688



ヅーjMP

ノノ、、360

ノム霞、、野‘/蔬菜

//、潅〆

j/,妥一名鯏9.

0.156,’'1560

滋一避壽亀迎…,

2 jOO

000



600

500

400

300

200

150



113

100













71A綿

90

80



館{幻

、釦卯如釦印加0

58

コーーヒ  ̄

竺米

膝夕

ゲタ

>'6〆





参一ググ



D12191719221927193219371942194719521958

出典:ブラジル日系人実態調査委員会(鰻),「ブラジルの日本移民」記述篇,東京

大学出版会,1964年,293ページ。

-61-



Page 25

図u市街地・農村間の移動指数の推移

L市街地→腱村

2農村→農村

aTotal

130

120

110

100

90

80

70

60

50

40

30

20

10



54

4.市街地→市街地

5農村→市街地

’--.-口゛。。 ̄













グP

●、

〃′

●D

F

D●

'

ngJIfaIi32



19181923

~22~27

1913

~17

1928

~32

1933

~37

19381943

~42~47

19481953

-52~58.

ブラジル日系人実態調査委員会(縞),

『ブラジルの日本移民』記述篇,東京大

学出版会,1964年,274ページ。

出典

-62-



Page 26

サンパウロ州略図

MinasGerais

、`鰺争,単:!:

n.PTeto

lalOGroSSo

Rib・PreIo

Mirand6plis

AA公1-Aracaluba

(6)





(7)

ns

望甥鰯

(8)

iode

Janci

(3)

l

ampU

(4)

mpiDia

lih鼻、‘

七毛ll

MarlI

③四

r⑥

Botucatu

S記Paulo

OurinhoS

KJ

Londrina

Santos



(1)

可+H1+鉄道

(1)JuqUia

(2)Oanlral

(3)MoHiana

ParanA

111

567-1-

AraraquarE

Nomeste

AllaPau

11

'

。勘]

isla

(4)Paulista

(8)Sorocabana



Page 27

付録2

臣道連盟綱領

恩自重墜以テ義勇奉公ノ実ヲ拳グル

実現ノ道〈祖先ヨリ継承セル左ノ美徳ヲ発揮スルヲ要〆。則チ徳義ヲ重ン.シ、勤勉努力、隠



則チ敬神崇祖ノ念ヲ高揚シ、身体プ錬磨シ、我等子弟ラシテ皇国民トシープ錬成センガタメ

我等在伯同胞トシテ帝国ノ大東亜建設フ翼賛スルノ道勺先ソコレ

、我等〈大東亜建設ノ翼賛ヲ期そ

日本語教育一一努力シ、特一一成人ノ稲神教育一一カムベシ。

皿こり

我等在伯同胞〈帝国臣民トシテノ務ワン堅持シ、日本糖神

セザルベカラズ。

、我等〈大日本帝国臣民ナリ。

アリ。

かんよう

ノ酒養

昭和二十年七月二十

つ。と

カムベシ。而シープコレガ

即応スル教育フ実行

日v

高木俊明,『狂信』,朝日新聞社

1970年,222~223ページ。

出典

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Page 28

付録3

在伯同胞指導方針要綱

Osprincipiosparaaorienta颪odosjaponesesnoBrasil

LDifu麺oeaperfeicoamentodoEspiritoJap0,6s.

a)CultoaosDeuseseAntepassados(Shintoismo).Paraisso

devemcelebrarcerim6nias,praticarocultonavidacotidianaeem

casodefestascoletivasfazerumarever6nciaprofundaparaooriente.

(Istoe,emdiregH。aoPalaciolmperial).

b)Ensinodelinguajaponesa.

c)PrAticadebudo,i、e・_jiu-jitz坐esgrima,ユュュムニとニユニユ些些



exerciciocomoarco,sulnQ1etc.

。)Cursospopulares:Espiritode些些』ユニ旦些.ouseja,sistema

deorienta卓。celulardosvizinho3,adotadosnoja虚。、

zAdoc百odaNovaOrdenmdoJa虚0(Organiza“o).

a)Secretaria,Contabilidade,Investiga両es,Documenta颪0,

Informag5es(principalmentes6breprejuizossofridosduranteaguerra).

b)A饅o:portar-se,comprud6ncia,segundosasordensdasede.

c)Comunica顔o:emportugu6soujapon6s.

。)Propaganda:jornais,folhetos,conferersnciasedebates.



e)Dire餌o:cinema,musicaetc.

fonte:Willems,EmilioeHiroshiSaito,“Shindo皇Renmei:Um

ProblemadeAculturaSZio,同Sociologia,VoLIX,no、2

(1947),p、144.

(注すべて原文のまま)

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