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天理大学学報 203 コ 7併89, 2002
フランスにおける柔術と柔道の起源 (ー )
伸二
The R。。ts 。f Jujutsu and Jud。 in France (ー)
shinji H。s。kawa
Abstract
56 years have eーapsed since the f。undati。n 。f French Jud。 Federati。n' Dur-
ing this time, French Jud。 has bec。me a d。minant f。rce in terms 。f interna-
ti。naー C。mpetiti。n resuーts as Weーー aS enr。ーーment 。f students. Jud。 Was intr。duced
t。 the French pe。pーe in ー889 by the f。under 。f Jud0, Mr~ Jig。r。 剛0~ ーn ー905,
a c。ntest Was a廿anged between G。rges Dub。is, a French seーf-defense speciaーist,
皿d Re-Ni岳, a Jujutsu pr。fess。r, Re-Ni呑 defeated Dub。is, Spurdng the initiaー in-
terest in Jujutsu in France, Where it was fu枕her deveー。pedー
The pum。se 。f this study was t。 unc。ver the r00ts 。f Jujutsu and Jud。 in
France by transーating “LE …D。, S。n hist。ire, Ses sucC甕S” 附itten by Mr. Micheー
BR。USSE.
はじめに
本翻訳は, Micheー BR。USSE “LE JUD。,
S。n hist。ire, Ses sucC甕SS” Editi。n Liber,
ー996,” LE JUJUTSU 。U LES 邸CーNES
DU JUD。 EN F剛CE” の翻訳である。
200ー年, 全日本柔道連盟と講道館は 「柔道
ルネッサンス」 活動を展開 し, 柔道の創始者
嘉納治五郎師範を理想と した柔道の原点に立
ち返り, 柔道を通して人間教育の復活を目指
している。 その背景には, 柔道の教育的価値
を高める事によって総合的な普及発展を図る
というねらいがある。
近年, 柔道が国際化して きた中で, 特にフ
ランス柔道の盛況は自覚ま しく, 現在登録人
口58万人, ク ラブ加盟5600を数えるに至り,
サッカー ' テニスに次ぐ第3番目の人気スポ
ーツ となった。 フランス柔道連盟はー996年に
創設50周年を迎え, 200ー年にはフランス版講
道館 (柔道研究所) を設立するなど, さらな
る飛躍の兆しをみせている。
日本柔道が柔道ルネッサンス活動を展開し
ていく上で, フランスに学ぶべき点が多く,
かって 日本文化のーっと して海外に紹介され
た柔道が, フランスでいかに成功したかを知
ることは重要である。
本研究はフランス柔道の歴史を探り, 今日
まで発展しつづけてきた過程を明らかにする
うえで重要な意味をもっと同時に, わが国を
はじめ世界の柔道の普及・発展を考えるうえ
Depa沈ment 。f Heaーth and sp0沈 Sciences,
Ten廿 University
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80 フランスにおける柔術と柔道の起源 (ー)
での指針と絶なろう。
訳文
柔術対フランス護身術 (デュボワとレ-エの格)
ー905年 ラ ーヴ・オー グランテール誌
ー905年秋, フランスにおける柔術のデビュ
ーは衝葦的なものであった。 護身術の専門家
ジョージー デュボワりと柔術家エルネス ・ レ
ニェ2)の二人のフラ ンス人が格闘し' レニエ
が勝利をおさめたのである。 それにと もな
い, 柔術に関する記事が専門誌や大手日刊紙
上をにぎわした。 ー906年ー月ー4日, 挿絵入り
の 「世界スポーツ誌」離には, 次のよ う な記
事が紹介されている。 「『すべてが柔術だ。』
街角, 新聞, 劇場, さらにミュージックホー
ルでも, 勝利のファンファーレのようにこの
言葉が響き渡っている。 『柔術マジッ ク
だ。』」 この一文がま さ しく柔術の成功を物語
っている。
9月初頭, シャンゼリゼ近くのポンテュ通
り55番地に初めて柔術道場がオープン し, 柔
術を紹介する記事が新聞誌上に掲載される。
それに対し, ジョージ ー デュボウは 「柔術,
それは今まで尊重されてきたギリシャ ー ラテ
ンの伝統に対する黄色人種の挑戦である」 と
して, 次のような皮肉な記事を雑誌 「体育」
に送り非難した。
「柔術家と名乗る日本人がヨーロッパにや
って来て, 冷静沈着を装い我々の関節を振に
曲げようとしている。 ギリシャ ・ ラテン格闘
技によ り, 我々はフェアな技で堂々と投げら
れる事を学んだ。 柔術という ものが突然やっ
て来て, 20世紀に至るまで受継がれてきたギ
リシャ ー ラテン格闘技の全てを吹き飛ばそう
と している。 ヨーロ ッパの格闘技が日本の柔
術にとってかわられる。」
ジョ}ジ ・ デュボウは剣術とボクシングの
コーチであり, 同時にスポーツ ー狩猟連盟の
フェンシングの教授でもあった。 彼は後に,
パリ ー オペラコミ ック座りの剣術師範とな
る。 非常に伝統を重んじる男で, フランス護
身術の担い手であった。 彼はまた, ボクサー
として も有名であり, 一流のボディ ビルダー
でもあった。 デュポワはーm68cm'75kgで
40歳。 一方, エルネス ・ レニエは36歳, ーm
65cm~63kgで, 日本の柔術を完全にマスタ
ーしていた。 レニエはボクシングもやってい
たが, 有名なフランソウ ー ルー ボルドレ甲に
訓練をうけたレスリ ングも得意であった。 試
合のルールは簡単で, 「噛み付き ・ 目潰しー
下腹部への攻華以外, 全て許されていた。」
すなわち, 関節技, 絞差支, さ らに危険な当身
技も認められた。
試合は何度も延期された末, ー0月26日に決
定した。 その時は冷たい風が吹く 中であった
が, クールブヴォアのヴェ ドリ ヌ6)車体工場
のテラスで行われた。 ー2メー トル四方のリ ン
グと観客席が準備された。 レニエは背広を
着, デュボウはモーニングコー トと赤い手袋
を付けて現れた。 その戦いは世間には知らさ
れておらず, 数名の紳士が戦いを観戦しただ
けであった。 しかし, オート誌”は, 「500人
以上の招待者がいただろう。 パリのスポーツ
界の名士達がそこにいた。 ボクシングのチャ
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シピオン達がオー ト レースの王者達と隣り合
って座り, 有名なフェンシング選手がリ ング
の周りで押し合った。 そして, スポーツ新聞
各社が取材に訪れた。」 と報じている。
審判が重々 しく 「はじめ」 と告げた。 二人
はお互いにさ ぐり合う。 レニエのフェイ ン ト
に対しデュボウはローキックで攻望するもか
わされる。 次から次への技の応酬の後, デュ
ボウがレニエを地面に投げ飛ばし絞めよう と
した瞬間, レニエはデュボウの手首を掴みな
がら肘関節をきめた。 その時, 正確には6秒
後にデュボウは大きな悲鳴とともに 「まいっ
た」 と叫んだ。 その技はイギリスではアーム
ロックと名づけられ, 日本語では腕挫十字固
めと呼ばれた。 柔術家レニエは, フラ ンスの
格闘技よ り も日本の柔術が勝ることを示した
のである。
デュボワとレニェの格 ノーン(腕挫十字固めでレニエが勝利)
ー905年ラ ・ヴィ ・オ・ グランテール誌
この衝望的なニュースはパリ中に広がり,
勝利の翌日, レニエは彼とと もに柔称王の本を
出版したいという 旨の60通以上の手紙を受け
取った。 更に, ギー ド・モン トガイアール
(作家でロラゲの詩人岬は 「柔術の神秘」
という示唆に富むタイ トルで柔術を紹介した
のである。
社会の産業化や農民の都市流入化は, 人間
が本来もつ筋肉を衰えさせてしまった。 身体
をいかに使うかという研究が進むにつれ, 柔
術の力の使い方が有効である と世間で評判に
なった。 また, 柔術の しなやかな技が暴力 を
も制することが正明された。 精神面でも, 冷
静な判断や勇気等に関しても研究されるよう
になった。 社会の利便化にと もない身体機能
の機知低下が懸念された時代に, 日本の柔術
は体力を消耗せず, 動きを最大限に活用する
という力の効用を明確に示した。
「小ょ く大を制す」 の考え方は, 次に挙げ
る技で有名と なった。 “ーe t。urevire, ーa
r。ue, ーe renversement par dessus ーa t夢te'
ーe st。mach-thr。w” こ れ ら は 嘉納 師 範 の技
では巴投と呼ばれる。 …見, 危険な飛び技の
よう にみえるが, 実に効果的で, フランス語
では “pーanchette jap。naise” (巴投) と今も
呼ばれている。 この捨身技で敵を投げる方法
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82 フランスにおける柔術と柔道の起源 (ー)
は, レスリ ングには存在しない技であり, 護
身術の考え方を…新させた。 黒帯, すなわち
有段者とそうでない者とが格闘した場合, 小
さ く ても柔術の有段者は大男を投げ飛(ま~せる
のである。
果は剛に勝る。 柔術家は, 崩しを用い敵の
力を巧みに利用する。 押されても倒れながら
相手の押す力を巧く利用 し, よ り重い相手を
重力の法則に逆らい簡単に空中に投げ飛ば
す。 ある者は, この新技術の中に他にはない
優位性をみた。 それは, 弱肉強食の自然の原
理ではなく, 普通の人間が大きい者や力の強
い者でも倒せるという理論なのである。 「街
の防御誌」 でジャン - ジョゼフ~ルノー卿は
巴投を次のように紹介した。 「あなたよ り も
2倍大きくて2倍重い人が, あなたを乱暴に
押して突き飛ばそう としても, その人の力を
利用して逆さまに投げ飛ばせたら, これほど
痛快なことはない。」
特別招待の観衆が見守る中, 非公式の対決
において, レニエは完璧な巴投を披露し, 観
衆を鷲かせた。 柔術は, レスリ ングとは異な
り, 特別な体力要素が必要なわけでも な く,
同様に, 背が高くて力のある男達のものだけ
ではない。 これは, ダビデがゴリ アテを倒し
たこと…と同じである。 テクニック動作の鋭
敏さと華麗さは体育の専門家達を感心させ,
彼らの柔術に関する興味を駆り立てた。 ドク
ター' 'バジェス卿は次のよ う に表現した。
「要するに, 小さくて軽量であればある程,
その人は柔術を習うべきだ。」
柔術の到来
柔術はバリ市民の間で評判となった。 実の
ところ, それ以前にも柔術は紹介されてきた
が, レニェのような成功はなかった。 ー9世紀
の終わりに, 多くの日本人がヨーロッパを駆
け巡り, ヨーロッパ社会について学んだ。 彼
らの訪問は, 時折, 非公開での柔術紹介の機
会と もなった。 ー90ー年, パリ市警察は東京の
検事総長グループの訪問をう けた。 ー 人の小
柄な日本人行政官が, フランスの警察官を相
手に, 日本警察で使われている護身術を即興
で披露した。 それはフランス警察にとって初
めて体験する技神示であ り, 柔術の最初の手ほ
どきとなった。 おそらく同じような事が他で
も行われていたであろう。 と りわけ軍隊関係
の繋がりでは多かったにちがいない。 柔術が
公開された最初のデモンス ト レーシ ョ ン
は, ー9〇〇年の万国博覧会時であったと思われ
る。 しかし, それはほとんど人々に知られる
ことはなかった。 3年後, 2人の柔術家が来
イムー~ゝ。 アルハンプラ…のミュージックホール
で柔術を披露したが, 一時的にパリ市民の関
心を引いただけで, その後は続かなかった。
ー905年秋, 柔術はまだとるに足りないもので
あり, パリ社交界でのスポーツイベン ト とは
大きな違いがあったが, 'エドモン ' デボネ陶
が柔術道場をシャンゼリ ゼ近く にオープン
し, 宣伝攻勢にう ってでた。 彼は柔術をフラ
ンスに根付けさせたいと強く願っていた。
エドモン・デボネと柔術
ー899年以来, エドモン・デボネは, パリ
で, 軽量バーベルを使った ト レーニング方法
を紹介していた。 彼の理論は, 筋肉の鍛練に
よって健康を獲得するという当時では画期的
なものであった。 彼は古代の彫刻像のような
体に憧れを持ち, パワー ト レーニングにのめ
り込み, それによって作られる筋肉の美を目
指した。 彼はリール出身で 「体育」 の考案者
でありボディ ビルの先駆者であった。
彼は自分の方法を用いて, 若い男には祖国
に仕えるべき丈夫な肉体の獲得を, また, 若
い女には女性と しての任務, と りわけ安全な
出産を成し遂げる ために必要な体力の獲得を
望んだ。 そして結果的に, 彼は, 人体の改
善, すなわちょ り よい健康管理を求めた20世
紀初めの医学に貢献したのである。 ー953年,
彼は死去直前にイ ンタビューされた時) 最初
に柔術と出会った時の事をよ く記憶してい
た。
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「それは, ー905年, 英国で体力鍛練の指導
にあたった時だった。 いつものクラブに出か
けた時, 『あなたは確かに強い。 しかし, あ
なたでも, ほんの50kg しかない, ある小さ
な男には勝てないかも しれない』 と言われ
た。 私は笑いをこらえることができなかっ
た。 狐につままれたような感じの中, バルテ
イツウークラブ陶に連れていかれ, 2人の小
さな日本人との試合をもちかけられた。 彼ら
は, むしろ貧弱な体格で, 私は内心大きな安
堵感を持った。 しかし, それを気づかれない
ようにしながら, 一人で咳いた。 『俺は筋肉
質で腕回りだって4ーcmぁる。 奴らなんか一
発だ』 私は完全に思い上がっていた。 しか
し, 結果は私の負けで, それは強烈な体験で
あった。 心底からこの新しい技術をパリで紹
介し, 何よ り も自分の学校で特に護身術とし
て教えたいと願った。」
ロンドンのバルテイツウークラブはヨーロ
ッパの最初の柔術学校であった。 ク ラブは
ー899年に英国人エンジニア, W〟E・バー ト ン
ーライ ト川によって創設された。 そこで彼
は, 柔術から着想を得たバルティ ッゥと呼ば
れる技術を教えた。 体育と健康体詩果の確立に
よ り, クラブにはロン ドンの貴族階級が集ま
った。 デボネはパリに戻る と直ぐにエルネス
・ レニェとコンタク トを取った。 当時レニエ
は小柄ながらも強いグレコローマンスタイル
のレスリ ング選手であったが, 収入は僅かだ
った。
そこでデボネはレニェに 「柔術のプロフェッ
サーになればいい暮らしができるぞ」 と もち
かけた。 私がロン ドンでの状況を話す と, 彼
は喜んで引き受け直ぐさまロンドンに出向い
た。 デボネはこの時期を利用 し柔術道場開設
のために, シャンゼリゼにすばらしい部屋を
借り, 豪華に装飾 し, 周到に広告活動の準備
をした。
レニェの勝利, その成功は期待をはるかに
上回った。 直ぐにパリ の上流階級者が登録に
やって来た。 カラマン ・ シメイ王子, プログ
83
り公爵, ムラ王子, グレフル伯爵, コクラン
の芸術家達, アルベール - ランペール, ムネ
ースリ イ, ドクター ー ダーチーグ, パジェ
ス, ルフィ エ, フェル大佐, そして文学や芸
術, または産業界での名士達門, 等々。
最初の柔術家達はパリ の貴族階級のエリー
トであった。 中にはライ ト兄弟の飛行機に夢
中になっている者や, フェンシング, ョッ ト
や馬術をしている者もいた。
デボネは次のよ う に述べている。 「最初の
ー週間で25,〇〇〇フラン稼いだが, レニエはも
はや出来高払いでは満足しなくなった。 彼の
息子や私の恩師のガスケ則までもが柔術家と
なった し, アマチュアスポーツ界の評論家と
して有名な, アルベール ・ スリエ, メ トロ,
ジェーム ・ルフィエ卿らも) このすばら しい
柔術を記事にするため練習にやってきた。 そ
して, フランス全土からデモンス ト レーショ
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84 フラ ンスにおける柔術と柔道の起源 (ー)
ンの開催が要請されたんだg」
シャンゼリゼにおける柔術の紹介
加世紀初頭のスポ-ツと体育
柔術の成功はスポーツ活動に一石を投じる
ものとなった。 ー9世紀の終わり, スポーツは
社交界の催物の}っと考えられ, 限られた社
会でのみ実践されてぃたg ー900年頃, 最初に
競馬やモータースポーツを熱心に観戦してい
たスポーツマンが, いろんなジャンルの愛好
家となった。 彼らはフェンシングや馬術な
ど, 当時のあらゆる訓練をこなし, 体を鍛え
るスポーツに夢中になった。 そして, スポー
ツとアングロサクソン民族の教育とを関連づ
け, スポーツによって養える次のような美徳
を謳った。
く勇気・大胆ー 自制 ~ 自発的精神>
20世紀初頭) 都市部での人口増加は都市
化, 生活様式, 余暇等に変化をもたらし,
人々はスポーツに親しむよ う になってきた。
それにともない, パリでは数多くのスポーツ
クラブが建設された。 ー900年にはー56のスポ
ーツクラブが, 5年後にー87, ー0年後に202に
登った。 これは当時のスポーツクラブの隆盛
を示す ものである。 常に会員の満足感を満た
すためにクラブの設備は益々充実し, また,
リラクゼーショ ンやマッサージ, 水浴治療
等, 様々なプログラムが取り入れられた。 時
間設定は各自で行い, グループでも個人でも
自由にトレーニングができた。 この傾向は体
育と柔術の繋がり をよ り強力なものと した。
日本の柔術は独創的で従来の ト レーニングと
は全く異なり, クラブ会員達の興味を引く も
のであった。 身体の訓練がさかんに叫ばれた
時代に, デボネの意図が巧く噛み合わさった
ことが, フランスにおける柔術の普及-発展
の決定的な要因であることはた しかである。
ここまで柔術の先駆者と, その普及が社会
に及ぼす効果について述べてきた。 そして,
その過程において, 社会がスポーツを文化と
して認めていく上で, 特に柔術が果たした役
割は大きかったといえる。
ジャボニスム
ー9世紀の終わり, フランスでの日本に関す
る知識は, 最初に日本を訪れた探検家達が著
した旅行記や見聞録に大き く影響を受け, そ
の書物の中で日本は一種独特の国と されてい
た。 彼らは好んで日本で暮ら し, 明治時代の
日本文化を学び, それを伝えよう としたが,
その多く はロマンチック, 中世的, 芸術的な
日本であり, 人々が自然に耳を傾け自然を崇
拝する 日本であ り, その姿が勝り, 現実とは
違う イ メージが定着した。 不思議の国日本を
最初にフランスに紹介したラフカディ オ ーハ
ーン船は, 「神話の残る国 -掴みどころのな
い国 ・ 西洋思想では理解されない国」 と著し
ている。 このような文化の違いは西洋文学・
建築・絵画に大きな影響を与えた。 実際, 印
象派の画家達は日本絵画の技術に魅了され
た。 ー872年以来, 日本文化の流行・発展-浮
世絵・装飾モチーフ ・ 日本画や工芸品などを
意味するジャポニスムという新語が世間で広
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まりはじめた。 ジャポニスムは当時, 美に対
する理想像や西洋芸術の視覚と感覚とを変化
させる芸術の超勢となった。 エドモン - ドー
ゴンクール卿はその変革の先頭に立った。 ま
た他にもエミールー ギメ, ポール・ クローデ
ル, アルフォンス ー ドーテ" ピエール・ロテ
ィ, テオフィルーゴーチェ, エミール・ガ
レ, ポールー ドオム, ジュル・ ヴィエイアー
ル, ヴァ ンサン ー ヴァ ン ・ ゴッホ髑をはじ
め, 数多く の芸術家達が東洋の一般大衆芸術
を取り入れたのである。 中でも 日本の風景
画, 芸者や侍の人物画は西洋文化発展の上で
重要な役割を担った。
ー905年, 日露戦争によってこれまでの日本
に対する理想的なイメージが変わった。 富国
強兵を目指した日本が暴露されて しまったの
である。 日本人はデリケー トで洗練され自然
の美を愛 し, 平和な国と思われていたが, 意
外にも, 大国家を目指し勇敢な軍隊を備えて
いることがわかった。 黄禍のテーマは, 当時
の文献の中で取り扱われ, 西欧における近代
日本の脅威と して表現された。 大日本帝国主
義への歩みは日本を一変させた。 ー904年, 日
露戦争が勃発。 ー905年の旅順攻略, 3 月の奉
天での勝利, そしてその年の4月, 東郷海軍
大将の対馬海峡でのソ連艦隊草枕の勝利で戦
争は終わった。
世界中の人々が, 小さな黄色人種が人喰い
鬼と言われたロシア人を屈服させたことに鶯
いた。 日露戦争の勝利後, フランスの研究者
は 日本人の軍人養成における武士道と柔術の
役割について分析を開始した。 フラ ンスでは
愛国心と市民の体力養成問題は重大な課題と
なっていた。 そしてー870年, スダン測の後ガ
ンベッタ卿は次のように叫び続けた。 「国民
よ, 軍人や市民が銃を使用でき, 長距離の行
進にも耐え, 祖国のためにあらゆる試練に勇
敢に立ち向かっていけるように訓練するため
の施設を建設し, 充実した指導陣を配置する
85
べきだ。」 軍隊・軍人養成学校, 軍隊式学校
の設立は ドイ ツに対抗したものであり, 学校
体育導入のきっかけとなった。 日露戦争の勝
利は日本に対する考え方を変えてしまった。
アカデミー会員, ジュル・ クラレシイ卿はル
- タン郷新聞で, 次のように自問している。
「柔術が奉天での勝利に どれほ ど貢献した
のであろうか, 今巷で流行している柔術は3
年前には名前すら知らなかった。 催眠学の雑
誌で日本の勝利の秘訣と して多く と りあげら
れている。 フラ ンスでは, 成功は成功を呼ぶ
と言われているが, それは何もフランスに限
ったことではない。 今回の日本の勝利は全世
界で柔術の普及・発展を加速させるだろ
う。」
オース トリアのプロシア洲での勝利の後,
「サドヴア卿の戦いは, 我々の先生の活躍で
勝ったんだ」 という勝利を吹聴する物語が沢
山あった。 今日, 柔術が優れている と認めて
いる人たちは, はっき り と 「それは柔術のお
陰だ」 と言うだろう。 確かにある種の皮肉は
まじっているが' クラレシイ は論理的な見解
も述べている。 「日露戦争の勝利は柔術によ
るものではないが, 柔術の実践によって得ら
れる体力, 規律, 愛国心等が関係してい
る。」 柔術の訓練によって勇敢で正攻法の軍
隊が組織され, それは無敵のイメージをもた
れた。
デボネの試みは世界スポーツ界でも注目を
集めた。 フランスで紹介された柔術は日本を
象徴するイ メージとなり, 流行っていた異国
趣味と結びついた。 一方で, 文化的なジャポ
ニスムと好戦的な国という 日本の2つの側面
を明らかにしたのである。 それは同時に, 体
育と柔術の関係にもたとえられた。 このよ う
な例はイギリスやアメ リカでも存在してい
た。 都市部での特権階級が柔術を実践してお
り, 数多く のスポーツ活動の中で柔術はかな
りレベルの高いものとされていた。 また, 柔
術は, アングロサクソンスポーツの自由な雰
囲気の中で容易に受け入れられた。 ロン ドン
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86 フランスにおける柔術と柔道の起源 (ー)
のク ラブでは柔術が他のスポーツにない要素
を持ち合わせている事を周知させるために,
柔術用語や技の使い方, そしてその効果を強
調した。
デボネの道場は, 特権階級からの会費でか
なりの収入を得たが, 後に柔術が普及・発展
していく上では, これが仇となった。 それ
は, 大衆から柔術は有力貴族階級のためのス
ポーツと認識されてしまったからである。 一
方, デボネと レニエの提携による柔術の成功
は, 新たに次へのチャレンジを成功させなけ
ればならないというプレッシャーと して二人
にのしかかった。 柔術がフランスに定着する
には, まだ不安定な要素が多かった。
フォリ ーベルジェール洲の柔術
ー898年からカジノ ー ド ・ パリ剛の出し物と
して, レスリ ングの世界選手権大会カゞネラわれ
るようになり, それはフランスの本格的な格
闘と娯楽的要素を組み合わせたものであっ
た。 パリ市民は, この大会を開催しているス
ポーツ新聞に記される試合結果に熱中 し, そ
れは直ぐさま商売と して成り立つよう にな
り, また, スポーツショーと して客を集める
ために同様の出 し物が行なわれるよう になっ
た。 ショー会場では, 柔術の妙技や異国性,
そして卓越した防御技術等を披露してはとい
う声が次第に高ま り, ついにレニェはフォリ
~ ベルジェールの舞台で観衆からの挑戦に応
じるデモンス トレーショ ンの提案に応じた。
ー晩ー〇〇フランのギャラであった。
フォリ ーベルジェールの企画競争は増々激
しくなった。 ポ」ルーポンとイヴァン ・パド
ウブ二劉はそれぞれがチームを率い) お互い
に試合をしながらギャラを分け合い, ショー
の価値を高めていった。 有名な選手のギャラ
は徐々に高くなっていった。 しかし, その過
激な流行のしかたに柔術家達は不安になっ
た。 観衆は, 柔術の偉大な技術の緻密さに熱
狂し, さらに, 日本人が絞め技で気絶した相
手を蘇生させる神業のよ う な 「活法」 に感嘆
した。 プロ レスラー達はレニエの出現によっ
て柔術を知り, 柔術に勝つ事は容易でないと
悟った。 そして, 彼らはす ぐに攻華的対抗策
をとった。 ポールーポン, ラウル・ループシ
ェ, ウィ スラー蹴らによってアンチ柔術の陰
謀が企てられたのである。
柔術の敗退
ー905年ーー月30日, レニェはいつものデモン
ス トレーションの後に, 観衆に彼と戦う者は
いないかと尋ねた。 大道ブロ レスラーのウィ
スラーが舞台に上がった。 突然, 頭突きをみ
まい卑怯な攻華にでた。 血が吹き出し, レニ
エは崩れるよう に倒れた。 全てが巧妙に計画
された企みであった。 この出来事は, 柔術に
対して際限のない憧れをもつ人々の熱狂に水
を差した。 その上, ロン ドンの二人の柔術
家, タニとヒガシ測による特別試合は更に柔
術のイメージに打撃を与えた。 ラ ・ ヴィ ~ オ
ーグラ ンテール誌陶の記者は, 「野蛮な柔
術。 ヒガシは急所を攻められ倒れた。 試合を
棄権し, ヘンリ ー ド・ ロスチャイルド陶病院
に担ぎ込まれた。 相手を倒すためにはどんな
技でも使う ような柔術は必要ではない。」 と
述べている。 この不幸な事件は様々に評価さ
れ, 試合場は混乱が起った。 その結果, パリ
警ネ見庁は柔術の興行を次のよ う に規制した。
「日本式のレスリ ングは, 日本人と素人の試
合は許可。 日本人同士は禁止。」 その後, 規
制はとかれたが, 一方でショー開催が中止さ
れたg このニュースは人々の柔術に対する偏
見をかも し出し, 柔術が衰退する要因となっ
てしまった。 「八百長柔術」 に人々は動揺
し, また反面おも しろがった。 柔術はあらゆ
る面で完璧でなくてはならなかった。
スポーツマン達は, 自分達は柔術の神話に
酔いしれていたと言った。 デポネは人々に裏
切られたような感じを持った。 彼はこの責任
はレニェにあると判断した。
「近く に敵がいた事に気付くのが遅すぎ
た。 負ければおしまいだ。 誰も責任は取って
Page 9
くれない。 自業自得だ。 今となっては柔術の
興行をやめ, 多額の富みを得よう としない事
だ。 私は柔術学校を閉鎖し, スタ ッフも解雇
する。 柔術はも う死んだのだ」
数ヵ月 を費やして柔術をフランスに根付け
させよう と したデボネの試みは失敗に終わっ
た。 後にレニエが興行を再開したがそれも失
敗に終わった。 ー908年ー2月, レニエは突然,
勇敢にも数回世界チャンピオンとなったレス
ラー, イヴァン ~パドウブニイに挑戦状をた
たきつけた。 2人の体格差はかなりあった。
バ ド ウ プニ イ は ー m83cm, ーー2kg, 首周 り50
cm, 肩幅ーm44cm' 更にパドウプニイ は上
衣を着ずに試合をするよ う要求した。 また,
彼は密かに柔術を習っ て いた。 レニエは勇敢
に戦いに挑んだものの, 何もできないまま敗
北した。 運命のいたずらか, 彼は 「腕挫脚固
め」 で 「まいった」 を発した。 その数日後,
マッグ制と名乗る日本人が今度はボク シング
の偉大なチャンピオン, サン 〝マツク ・ ヴェ
アに挑んだ。 しかし, 試合は数秒で終わって
しまった。 試合の翌日, スポーツ専門紙は,
マッ グが地面に倒れている写真を掲載し, 柔
術はイ カサマだという批難記事を寄せた。 決
定的な柔御元の最後だった。
柔術の敗退
レニエがウィスラーに頭突きをみまわれる
フォリ ・べ丿レジェ一ルのー シーン 雑誌 「体育」
87
栄誉を失った柔術は近代スポーツからも姿
を消してしまった。 それは突然の出来事であ
ったし, シャンゼリゼのクラブ閉鎖は柔術の
死を意味した。 ほんとう に柔術は滅びたの
か?新聞や雑誌での評価は厳しく, 時には真
実ではないこ とまで報じた。 その結果, 貴族
階級では柔術は忘れ去られよう と していた
が, しかし, 庶民はそうではなかった。 数ヵ
月後, レニェとデボネは再びコンタク トを取
り, スポーツ活動を通した生き方, すなわち
柔術を通した精神面の強化というすばら しい
アイ デアを打出 し, 途絶えかけた柔術が被っ
た悪いイ メージを変えよう と努力した。 私的
なクラブでは柔術が内々で行われていた。 い
ずれにしても, レニエと彼の弟子達, 特に息
子のルイス, あるいはエミール ・ メ トロやポ
ール・ ガスケ側らが指導する ドクター ' ルフ
ィ エ卿のクラブで柔術は実践されていた。 他
のクラブでも, 例えば, ルク レールやシャル
丿レモン州らは柔術に彼らの新しい技術を加え
て指導していた。 彼らの理論は, 健康を目指
した体操クラブで受け入れられ, 護身術スポ
ーツサークルの中でも実践されていた。 ま
た, レニェのデモンス ト レーションはいろい
ろなイベン ト会場で再び評価され始めた。 柔
術はショーや祭りなどと結びついたスポーツ
から, 誇張さに魅了される観衆の要求に応
じ, 次第に大衆化されていくのである。
柔術クラブの紹介ポスター
Page 10
88 フランスにおける柔術と柔道の起源 (ー)
庶民的なイメージ
広場での柔術の興行が再び活気をと り もど
した。 柔術の復活を祝う旗がスタ ン ドを飾っ
た。 シャンソン喫茶では有名な芸人, マヨ
ル, プリュアン, ドラネム判らが演じる柔術
のバロディ ーを組みこんだショ ーが庶民の笑
いを誘っ た。 また, 大衆映画等でも柔術の起
源やその独創性が取り上げられた。 柔術が最
初にスクリーンに登場したのはー907年で, 多
くのスポーツ映画を制作していたパテ社によ
る, マックス ・ ランデール (本名, ガブリエ
丿レ-ルゥヴィェュ)…の作品だった。 ー908年
にはゴーモン社が “ト ト喇は柔術ができ
参考文献
ー) 佛0rge Dub。is
4 ) 。p菖ra一C0mique de Pads
5 ) Franc。is Le B。rdeーais
7 ) J。umaーiste de L' Aut。
8) Guy de M。ntgaiーhard, 苺CriVain et p。-
柔術コミックショーを紹介する絵葉書
る” という タイ トルの映画を制作した。 ー9ーー
年には, 映画 “ベベ” シリーズでルイ ・ フィ
ヤー ド州監督の “ベベ柔術をする” が登場す
る。
当時の大道アトラクション, 映画, ユーモ
ア漫画, 絵葉書, 政治の風刺画, シャンソン
等は柔術のイ メージを貴族階級から社会全体
層に広める大きな要因となった。 特に柔術は
特権階級のみのスポーツでないことを人々に
示すことで次第に愛好者を増 し, 庶民文化と
して定着していった。 ジャポニスムによる影
響は異国趣味だけが残り, 侍の格闘術は芝居
がかり, 一見有効で危険な護身術と して記憶
された。
甕te du Lauragais
9) David et G。ーiath 旧約聖書のペリ シテ
人の巨人ゴリ アテが少年ダビデと戦って
殺された話
ー0) Jean J。Seph-Renaud
ーー) 注9参照
) D。cteur Pag甕S
) Deux Jujutsuka, Raku et Eida
) 虹hambra
) Edm。nd Desb。nnet
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天理大学学報 206二 33-42, 2004
フランスにおける柔術と柔道の起源 (2)
The R00tS 。f JujutSu and Jud。 in France (2)
Shinji H080kawaー
Abstract
ーn this Tenri University J。urnaー, ー C。ntinue the transーati。n and ann。tati。n 。f
“LE JUD。, S。n hist。ire, ses succ毎S” wntten by Mr- Micheーー BR。USSE.
The sec。nd pa枕 。f this b00k desC廿beS the deveー。pment 。f Jujutsu in the
French army and p。ーice, the transiti。n 任0m Jujutsu t。 Jud。 and intr。duces the
pi。neers 。f French Jud。.
The purp。se 。f this transーati。n iS t。 unc。ver the r00ts and deveー。pment 。fjud。
in France- This c。uーd indicate 帥ideーineS f。r the deveー。pment 。fjud。 thr。ugh。ut 。f
the W。rーd'
は じ め に
本翻訳は, Micheー BR。USSE “LE JUD。,
S。D hist。ire, Ses SUCC毎S “Editi。n Liber,
ー996," LE JUJUTSU 。U LES 邸CーNES
DU 測D0 EN F剛CE” の翻訳であ る 。
天理大学学報第澱巻第3号に引 き続き,
“LE …D。' S。n hist。ire, Ses sucC邑S ” の翻訳
及び注釈を連載する。 第2部は, フランスの
軍隊と警察組織での発展, 柔術から柔道への
推移, およびフランスにおける柔道の先駆者
達を紹介することにする。
フランス柔道の歴史を探り, 今日まで発展
しつづけた過程を明らかにすることは, わが
国をはじめ世界の柔道の普及 ー 発展を考える
うえでの指針ともなろう。
軍隊での柔術
デボネ”の提唱した柔術が普及しはじめた
頃, 新しい訓練の導入を願っていた軍人達は
柔術に興味を示した。 「アメ リ カ軍における
柔術と呼ばれる日本式レスリ ングの導入」 と
題された報告書による と, ー905年ー月28日,
フルニエ大尉離は, 参謀本部第二部に対して
次のよ うな意見を述べている。 「進歩的な性
格で, 自身も熱心なスポーツ愛好家であるル
ーズベルト大統領離は, 日本式レスリ ングの
神秘にふれてみたい」 と望んだ。 (=ー) 海軍
や陸軍での柔術の実践的な適用が, 将校や兵
士達の体力増強に繋がると考えた。 さらに大
統領は, ある委員会にウェス トポイン ト4)に
ある陸軍士官学校や, 海軍兵学校のカリキュ
ラムに柔術を公式に導入するこ とによ り生じ
ー) 天理大学体育学部 ー.
Depa沈ment 。f Heaー【h and sp0枕 Sciences,
Ten廿 University
Page 2
34 フランスにおける柔術と柔道の起源 (2)
る問題点の調査を指示した。 この報告書では,
柔術の習得には相当な時間を要し, 日本でも
優秀な愛好家や専門家達しか継続することが
できないと結論づけられた。 (---) ゆえに,
大統領の個人的な影響力が強かったにもかか
わらず, アメ リ カでは日本の柔術の導入が軍
隊組織で急速な広がり をみせることはなかっ
たと思われる。
しかし, 次第に各国の数多くの秩序維持に
あたる公的組織で柔術が必修となった。
アメ リカ ー903 ず山下5) 海軍兵学校
管 イギリス ー905 谷~ゝ 海軍本部 (ポーツマス)”
「 フランス ー905 レニェ… パリ警察
』ドイツ ー906 オノ印 ベルリ ン士官学校
ジョアンヴィル軍隊体育学校での柔術
柔術の訓練目的は多種多様であった。 フラ
ンスの軍隊ではフルニエ大尉が柔術導入に疑
問を呈していたものの, フランス軍人の体力
=護身術強化は急務であり, 走る, 飛ぶ, 泳
く丶丶, 格闘するなど, 複数の技術の習得を重視
した。 そのため柔術は一つの護身術と して位
置づけられ, さらに軍人の専門的なスポーツ
と呼ばれるようになった。 ー9ー3年3月, パリ
で開催された世界体育学会の際に, ジイ アン
ズイ リ シ大尉州は軍隊での優先課題である取
り組みを明確に述べている。 それには, 「原
則として, トレーニングは継続し, 徐々に段
階を踏まなければならない。 いかなるスポー
ツも同じだ。 技術の専門化は軍人を育てない。
真の運動選手とは多種に通じているのだ。」
さらに続けて, 「兵士に柔術の奥義を極めさ
せるつも り はない。 この格闘技は非常に複雑
であり, 習得にかなりの年月を要する。 しか
Page 3
し, 簡単な攻華技術や容易に普及させられる
ような防葉技術は数多くある。」 軍隊におけ
る柔術は, 軍人の体力 ~ 護身術の養成訓練と
して他のスポーツと平行して行われることが
一般的であり, その活動はあま り 目立たなか
ったが, 細々と続けられていた。
ジョアンヴィル軍隊体育学校…での柔術
ジョ アンヴィ ルにある軍隊体育学校でも,
当初, 柔術が受け入れられ皆の関心を集めた
かという とそうではなかった。 しかしながら,
その痕跡を否定することもできない。 当時の
柔術の写真が絵葉書と して現在も残ってお
り, 20世紀初頭に行われたデモンス ト レーシ
ョ ンを想像することができる。 ー907年7月 7
日に行われたジョアンヴィル軍隊体育学校で
の催しのプログラムに, 柔術の訓練に関する
ことが記載されている。 ジョアンヴィル軍隊
体育学校の教官であったアルマン大尉叫
は, ー909年に柔術に関する簡単な書物を発刊
パリ 警察での柔術に対する捉え方は異なっ
ていた。 ー905年ーー月, パリ警視総監, ルイ ー
レビーヌ陶は, 私服警官のために柔術養成訓
練を取入れることを決めた。 「パリでの暴力
犯罪は増える離方であり, 警察官達は犯人検
viens d。nc !
35
している し, 他にも柔術の技術を紹介したも
のが存在したであろう。 柔術を学び, また指
導も行っていたジョアンヴィルの出身者の知
識が次第にま とめられていった。 その中の一
人は次のよう に述べている。 「私は学校で柔
術に関する記録を見た事はない。 私の記憶で
は, 柔術はせいぜい不意に襲い掛かる敵に対
しての護身術の一つと して我々に紹介された
だけだった。 あらゆる種類の関節技が, パン
チやキックなど, さまざま な攻華や絞技にた
いしての護身術と して教えられた。 軍人に対
してほんの基本的な技術の手順だけを示した
ものであった。」 同じよう な印象はメルシェ
大尉…やゴダン陸軍中尉…によってー932年に
出版された 「個人スポーツ講義州の中でも
感じとれる。 ー6項に構成され, その内容は,
「受身の習得・ のどへの攻撃-反華ー 関節技
一下腹部攻華やパンチ, キック, 背部からの
絞技に対しての防禁法等」 である。
挙が困難となっていた。 それゆえ, 警視総監
は柔術という名で有名な日本格闘技を学ばせ
ることにしたようだ。 (-=) ジョアンヴィル
軍人体育学校を終了 し, 指導者 と なった者の
中から選ばれた警察庁の6人の刑事が, 5 ヶ
月 間, 柔術のプロのも とで訓練を受けた。」
このことは, 警察組織の公式な政策と して
Page 4
36 フランスにおける柔術と柔道の起源 (2)
文書にも明記されている上, 当時の社会的な
要請でもあった。 柔術は自転車や潜水のよう
に秩序の維持に貢献したのである。 メディ ア
は, 「自転車警官, 潜水警官はもちろん, 今
後は柔術警官が出現するだろう。」 と誇ら し
気に報じた縄 しばらくの間, 僅かながら習得
した柔術を活用する刑事達の逮捕話が話題と
なっ た。 彼等は, 日本の柔術の優位性がフラ
ンスで根付く上で大いに貝献した。 メディ ア
はこれらの物語を数多く取上げたが, 内容的
にはセンセーショナルな技術の紹介のみにと
どまったようである。
日本の柔術は評価を受け, そして重んじら
れ, ー対ーの格闘を余儀なく される警察官の
訓練と して定着していった。 しかし, 警察で
の関心は柔術の技術の効果のみであった。 い
わゆるその技術とは, 犯罪者の検挙や制圧の
ためだけのものであった。 アームロック (ーes
cー昼sdebras) など, 英語に影響を受けた呼び
名 は, 「Viens d。nc ]」 「VaS-y」… な ど形式 を
換気させる名に置き換えられた。
日本同様) 技術の習得は社会, 地域によ り
左右される。 レニェが訓練を受けたロン ドン
の道場では教官の長である谷幸雄は天神真楊
流の柔術家であった。 谷の指導はまだ嘉納治
五郎師範の講道館柔道ではなく, 大部分は当
身と関節技であった。
“柔術はスポーツか”
柔術が登場した背景にはフランスの人々の
想像力をかきたてる何かがあった。 いくつも
の要素を兼ね備えた柔術, それは神秘と無敵
さが合わさったイ メ】ジであった。 実際のス
ポーツ実践での柔術は存在していたが, 二次
的なものだった。 「柔術はスポーツか」 この
問題はー906年3月, 「オリ ンピック誌」剛の中
でピエールー ド ' クーベルタ ン刷によって取
上げられた。 答えは明確であった。 柔術は優
れた護身術ではあるが真のスポーツではない
真剣勝負の現実とはかけ離れ (実際の格闘は

Page 5
紹介されていない), 柔術は儀礼的, 不完全
な訓練にすぎない。 (=ー) フェンシングやレ
スリングにデモンストレーション (形) はな
い。 緻密に制限されたルールに従い, 決めら
れた時間内に力を出し切り, 手を緩めること
はない (真っ向勝負をする)。 反対に柔術は,
技術の大部分を示すにと どめる必要があり'
また, 執拗な対戦相手に大きなダメージを与
えてしまう不安が残る。
これらの批判は多く存在したようである。
しかし, 柔術の究極目的はスポーツと して楽
しむことではない。 従って真剣勝負の実際の
格闘には教育的価値を見出すこ とはできない。
柔道の起源
マスコミの柔術に対するイメージに左右さ
れることなく, 医師や教育者は意見を客観的
に述べた。 彼らは, 基本技術と危険な応用技
術の使用を区別しながら臆することなく態度
を表明している。 そして, それらの考えはた
いへん重要な役割を果た した。 その中の一人,
フランシス - エッケル卿はー9ー3年に次のよう
に述べている。 「柔術が現在受けているマス
コミによる悪評が払拭され, 柔術の効果的で
興味深い鍛練が人々に波及することを希望す
る。」
鍛練の効果に注目する人々にとって, 柔術
の軌跡は, ジャーナリス トによ り伝えられた
批判とは相対するものである。 身体訓練と し
てのビジネスは成り立たず, またスポーツと
しても認められず, 柔術はマイナスイメージ
の広がり とともにその競技人口は減少した。
そのため私的なクラブでの実践はほとんどさ
れなくなったが, 警察や軍隊組織では以前と
変わらずその存在価値を示した。
一方, 20世紀前半には柔術に対して一般的
なイメージが作られた。 これは柔術にとって
非常に重要で影響力のある ものであった。 つ
ま り, 柔術とは卓越したものであり, 神秘的
で, なおかつ科学的であり, 気高さと異国情
緒に満ちているという ものであった。
37
そのような背景の中で嘉納治五郎師範の講
道館柔道が生まれた。 日本と異なりフランス
では, 柔術から柔道への移行は, 護身術を放
意に分離するこ とで行われた。 その変化は
徐々に, そして段階的に柔道の論理に結びっ
いていった。 これらは柔道がフランスで根付
いた謎を解明する糸口である。
フランスにおける柔道
長年にわたる柔術離れの後, ー930年代の後
半, 柔術は大手新聞社の新しい記事と して取
上げられた。 そのアプローチは以前とは異な
り, 有名な実践者の名を強調するものであっ
たg フランス柔術クラブはパリのモンターニ
ュ ーサント ージュヌヴィエーヴ州地区の中心
に設立され, 主に学生と教員で構成された。
ー937年, “ル〝 ソワール" 誌御の読者が目に
したのは, ノーベル化学賞受賞者であり, コ
レージュ ~ ド ・ フランス加の教授でもあるフ
レデリ ック ー ジョリオ髑が白くて目の粗い衣
装を着て, 友人である ビクワール職教授を投
げ飛ばす姿であった。 記者は次のよう に述べ
ている。 「ジョ リオ氏は私に是非と も柔術の
すばらしさを示したいという。 教授は愛想良
く, 上着をとるように, また分厚くて白いマ
ッ トがよごれないように靴を脱ぐように勧め
た。 (=ー) 緩慢ではあるが, “く ずし” により
バランスを失い, 私はマッ トに投げ出された。
それは, 全く痛みを感じず, 天と地がひっく
り返った世界に, いつも窓から眺めているノ
ー トルダム加寺院の鐘楼があった。」
20世紀初頭の主だった議論, センセーシ ョ
ナルで無敵なイ メ~ジは, 考察, 科学, そし
てバランスの法則によ り消え去った。 柔術は
ただ単に護身術と してではなく, 体育や精神
スポーツとして紹介されるようになった。
ー905年, 日本軍人が柔術の有効性を示し, そ
の30年後にフランスを代表する科学者達が全
く違った優位性を明確にした。
その変わり ように人々は篤き, 質問が相次
いだ。 ー930年代後半, 柔術ブームは新たな局
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38 フランスにおける柔術と柔道の起源 (2)
面を迎える。 最初の進展は, 柔術を実践し
有効な聞いのための技術の再構成の提案であ
った。 そして, 柔術は次第に柔道へと移行し
ていった。 最初に紹介された単なる護身術と
しての柔術は知的な部分をさらに豊かなもの
と した。 各新聞は, 柔道とは科学的であり,
冷静さを養い, 心・体の向上を図る ものだ と
報道した。 第二の特徴は, 規律に即した 「文
化」 の創造である。 全ての実践者が共有する
規範と価値は東洋の神秘に包まれた活動をよ
り神聖なものと した。
柔道がフラ ンスで完全に根付いた要因は,
次の二つの重要な側面に基づいている。 スポ
ーツ法規による国家機構の確立, 柔道教官と
して社会的価値のある新しい職業の誕生であ
る。 柔道の決定的な発展要素, その特徴は熱
心な個人の貢献によるものであったが, その
責任感はやる気に相応し薄ら ぐことはなかっ
た。 フランスにおいて, 柔術が次第に柔道へ
と移行していった背景には, 社会, 文化, 経
済的な影響力を受け, そこに発展の要因があ
った。 しかし一方では, これら柔道発展の決
定的要素は, 以前に導入が試みられた時には
失敗した原因でもあったのである。
狂乱の歳月別と呼ばれたー920年代のパリ に
魅了された数名の日本人柔道家が, 体育文化
公共施設視察にやってきた。 ー924年, 3年間
のロン ドン武道会脚での指導を終えた, 会田
彦…四段が欧州旅行の後, フランスにやって
来た。 彼は嘉納治五郎師範の弟子で, しばら
くの間, スポーティ ングクラブで柔道を教え
ていた。 その年のー2月, 彼は後に日本で有名
な記者と作家となった石黒敬七五段と出会っ
た。 石黒は, 体験に基づいた旅行記の本の中
で, 柔道のために努力した旨を詳しく語って
いる。 彼はューモアを交え, 宿泊したホテル
の体育館での柔道の稽古シーンを再現してい
る。 フランス人はその奇妙さとエキゾチック
さに引き付けられたが, しかし, 痛そうな受
身とハー ドな稽古に嫌気がさ した。 結局残っ
た生徒は日本人だけであった。 その中に有名
な画家のフジタ卿がいた。 石黒は, 柔道の教
官はあま り儲かる仕事ではないと考え新聞を
発刊した。 日本のニュースや広告, またパリ
の情報などを掲載した “バリ の}週間” 誌棚
を編集, 発行, 販売した。
プチイ ・ リ ーブラ ン岬舞踏会を主催する
“ラントランズィ ジャン” 狐の経営陣は, 石
黒にデモンス ト レーショ ン開催を求めた。 そ
の慈善特別公演はパリのオペラ座で行われた。
これは社交界の重要なイベン トでフランス大
統領や政府高官をはじめ, パリ の各界の名士
が出席した。 柔道のエキジビショ ンのプログ
ラムは独創的に演出された。
フジタはまだ茶色帯だったが, 彼の名声に
あった役を演じたいと執拗に主張した。 護身
術のテクニッ クの紹介部分で問題が生じた。
フジタは投げる 「取」 を演じたかった。 しか
し同時に 「受」 が攻撃用に持っている刀も使
いたかった。 事前の打合せの末, 次のように
演出した。 フジタは刀を鞘から抜き皆の前で
それを振りかざし, そして石黒に取戻させる
前にスポッ トライ トで刀を煌めかせた。 乱取
りの最中にも う一つ予定外の展開があった。
二人の柔道家が幅2メー トル足らずの橋の上
で慎重にテクニッ クを披露していた。 しかし
雰囲気にのまれ, フジタは石黒によ り華々 し
い投技 “巴投 “を掛けるよう頼んだ。 マッ ト
はあまりに狭く, フジタは橋の外に放り投げ
られてしまったが, 幸いにも橋の出っ張りに
しがみつきぶら下がった。 観客の 「よいし
ょ」 の掛け声とともにフジタは助け上げられ
た。 この逸話は石黒にとって忘れがたい思い
出となった。
ー932年, フラ ンスでの滞在に終止符を打ち,
彼はルーマニアに向けて旅立った。 フランス
に柔道が根付く ためには, まずは文化の違い
という障害を乗り越える必要があった。 東洋
と西洋, 互いの文化に通じ, 経験のある人々
の努力 ・ 貢献により, やがてフランスに柔道
Page 7
が広く普及していったのである。
石黒敬七
モシェ ・ フェルデンクライス鋼
フランスにおける柔道の先駆者) モシェ ー
フェルデンクライスはロシア出身のユダヤ人
でー904年に生まれた。 ー9ー7年のロシア革命直
後にー4歳でパレスチナに渡った。 この時期に
イギリ ス政府は, 「パレスチナにユダヤ人国
家の建設に同意」 したバルフォア髑宣言を出
した。 数年間, フェルデンクライスはユダヤ
39
人のために住宅やビルを建設する。 数多く い
る 「イスラエルの建設者」 の…人であった。
体力的にも優れ, また非常に聡明であった。
普通であれば5年の教育課程を彼は2年で終
えた。 彼の高校の校長は物理学を勉強しにパ
リに行ってはどうかと助言した。 たいしたコ
ネもなく, 友人の一人である教授が掲載され
た小さな新聞記事を推薦状代わ り に し
て, ー920年終わりに, フェルデンクライスは
パリへと旅立った。 到着から間もなく) 彼は,
パリ の土木専門学校 (EST麟髑) が設置した研
究所で, ノーベル賞受賞者のフレデリ ック ー
ジョ リオのアシスタントとなった。 後に, フ
ェルデンクライスは磁気学と超音波の検出に
ついて, ランジュヴァン畑教授の仕事に協力
した。 彼の人柄も手イ云ったが, 特に上司であ
るレオン ” エィ ロル制やその息子マルク卿の
仲立ちによ り, ESTP から物心両面の援助を
う け, ー929年, 学内に柔術道場を開設した。
その道場はESTPやソルボンヌ卿大学の学生
で賑わった。
フランスの柔術クラブはー936年9月, 嘉納
治五郎師範の最後の欧州旅行の際に正式に発
足した。 嘉納治五郎師範, フレデリ ック ' ジ
ョリオ教授と レオン ・エイロルによって名誉
委員会が構成された。 会長にシャルル ・ ファ
ルウ =ラ ・ ヴィ ・ オ~ トモービル” 誌州社長,
二名の副会長にはETP〝の技師であるモシ
ェ ・ フェルデンクライス, 理学博士のポール
フェルデンクライスと生徒
募納師範とフェルデンクライス
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40 フランスにおける柔術と柔道の起源 (2)
・ ボネーモーリ物, 事務局長には ETP の技師
のマルク ' エイロルが就任した。
柔道創始者パリ訪問
モシェ ~ フェルデンクライスは次のように
語っている。 「『ー933年』 私はパリのラジウム
研究所におり, オー ト誌側とも関係があった。
そのオー ト誌にはシャルル ー ファルウ という
秀才がいた。 理工科学校を首席で卒業 し, ビ
リヤー ドの世界チャンピオンでもあった。 彼
は私に期待をしていたようであり, 私がヘブ
ライ語で柔術に関する本を書いた事を知って
いた。 そして, 嘉納治五郎師範という人が日
本大使と文部大臣の面前でデモンス ト レーシ
ョ ンを実施することを知らせてくれた。く…)
日本大使は非常に大き くて強そうな人だった
が, 嘉納治五郎師範はほんとうに小さ くてき
ゃしゃだった。 嘉納氏が立ち上がると大使も
立ち上がり, 嘉納氏よ り先には座らなかった。
私はどちらがよりすぐれているのかわからな
かった。 (=ー) デモンストレーションはほん
と う に見事だった。 デモンス ト レーショ ンが
終わると, 私が自分の著書をプレゼン ト した
ある日本人が私を探しにやってきて, 嘉納氏
が会いたがっていると言った。 私は感動した。
日本大使は私をロールスロイスに乗せ, 床に
畳が敷いてあるホテルの大広間まで連れて行
った。 嘉納氏はフランス語, 英語と ドイツ語
を話し大変な教養人だった。 (・・・) 彼は私の
本に, 彼がみたこともない技が紹介されてい
ることに非常に鶯いた。 いわば私のオリ ジナ
ルだと伝えた。 嘉納氏は私のテクニックを講
道館のプログラムに組み入れて自筆でその証
明書を送付してくれた。」
この二人の出会いはフランス柔道史におい
て重要な出来事となった。 嘉納氏によって与
えられた名声と柔道に関するすばら しい概念
によ り, フェルデンクライスは柔道を広める
ことに生涯をかけることになる。 フェルデン
クライスは, 彼もまた非凡な人格者であった。
後に彼が残した身体のリハビリテーショ ンに
関する著作には嘉納氏と同様に普遍性, ヒュ
~〟マニズムの考えが認められる。 お互いを尊
敬しあう関係は, 二人の繋がりをより深いも
のと し, 嘉納氏はこのことを自伝の中でもふ
れている。
フェルデンクライスはフランスですでに教
えられている柔術に新たな道筋を示した。 短
い期間であったが, 彼の活動は, 分析と考察
をもとに, 有効な護身術と しか位置付けられ
ていなかった状況から柔術を解放したのであ
る。 また同時に, フェルデンクライスは擁護
者と しての役割を担い, 柔術の意味を説明し
動作の原理を明らかにしたのだ。 彼は物理と
身体に関する知識を基に攻撃と反華動作を形
式化した。 防葉テクニックを科学的根拠で説
明した。 そのアプローチの独創性は, 動作の
原理を考え' より簡単に, より素早い動きを
効果的に結びイ寸けることに細心の努力をした
ことにある。 ー930年代前半, 彼の分かりやす
く説得力のある理論は, 彼を取り巻くパリの
知識人達を柔道の世界に導いた。 フェルデン
クライスは改革者であった。 その指導法はた
だ単に警察や軍隊の実用的な柔術という今ま
でのアプローチ方法とは完全に一線を画した。
スポーツと大学
フェルデンクライスの主導によ り設立され
た道場の成功と, 道場に対する好意的な反響
は, 地理的な条件や人々のスポーツに対して
の考え方の変化等が影響している。 道場は,
コレージュ ・ ド ー フランス, ラジウム研究所,
ソルボンヌ大学, そ して高等専門大学近く の
テナール州通りに位置していた。 一方, 知識
人や科学者達は, 当時, 身体運動の大切さを
認めていた。 教育には文武両道が求められて
いる。 フレデリック ・ ジョリオは研究活動に
情熱を傾けながら, またテニス, スキー, そ
して柔術を愛好し 知識人と して模範的存在
であった。 高等教育機関でのスポーツクラブ
の創立, そ してー934年の大学スポーツ局の設
立は, スポーツに対する一般的な広がりを意
Page 9
味する。 マーク ~エイロルは, それに積極的
に参加した。
フランスにおける柔道定着の成功は, 数多
くの好都合な条件が重なったことにある。 格
5)
6)
?)
8)
9)
ボール・ホネーモーリ
注 釈
Edm。nd Desb。nnet フ ラ ン ス に お け る
柔術と柔道の起源 (ー) 天理大学学報第
閲巻第3号参照
Le capitaine F。umier
Mr( R。。seveーt
West P。int 米 国 New Y。rk 州 南 東 部
にある軍用地。 陸軍士官学校がある。
太郎と思われる。
Le capitaine Giansiーj
Le capitaine Harmand
Le capitaine Mercier
闘方法の様式化 ・ スポーツに魅了された大学
関係者 ・ 運営費カ寶イ呆証された受入体制など,
これらが日本柔道の活動を可能に し, 定着さ
せた要因なのである。
28)
Le ーieutenant Gaudin
C。urs de sp0枕s ーndividueーs
Revue 。ーympique
Pie廿e de C。ube枕in
Francis Heckeー
M。nta帥e sainte-Genevi苺Ve
Le S。ir
C。ーー昼ge de France 公開講座の高等教
育機関
Biquart
N。tre-Dame
Des 仙n苺eS f。ues ー920年代 狂乱の
歳月 第一次大戦後, フランスはヴェル
サイユ体制, ロカルノ条約 (ー925年) に
よ り経済再建, 安全保障を実現。 アメ リ
カ文化も大量流入し, 世界恐慌までの間,
つかの間の繁栄を迎える。
Bud。kwai de L。ndres
Page 10

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天理大学学報 209二 35-43, 2004
フランスにおける柔術と柔道の起源 (3)
The R。。ts 。f Jujutsu and Jud。 in France (3)
shinji H。s。kawaー
Abstract
ーn this Tenn University J。umaー, ー C。ntinue the transーati。n and 珈n0tati0n 。f
"LE JUD。, S。n hist。ire, Ses sucC尋S” W蘊亡ten by Mr. Micheーー BR。USSEー
The third part 。f this b00k deSC廿beS a Japanese pi。neer 。f French Jud。,
紬W虹SHー Mー斑N。SU皿. 釉W虹SHー amved in 唖ance in ー935 and
estabーished the ”醐W肛SHー Meth。d” 。f Jud。.
The ーegacy 。f his rati。naー and
unique teaching meth。d and aーs。 his Jud。 Spidt is stiーー apparent t。day, and is
rec0柳iZed as the sta枕ing p。int 。f French Jud0~
The purp。se 。f this transーati。n iS t。 unc。ver the r00ts and deveー。pment 。fjud。
in France( This c。uーd indicate 願ideーineS f。r the deveー。pment 。fjud。 thr。ugh。ut 。f
the W。rーd.
は じ め に
本翻訳は, Micheー BR。USSE “LE JUD。,
S。n hist。ire, Ses succ毎S” Editi。n Liber, ー996,
“LE JUJUTSU 。U LES 船CーNES DU
JUD。ENF剛CE”の翻訳である。
天理大学学報第離巻第3号および第55巻第
3号に引 き続き, “LE JUD。, s。n hist。ire,
ses succ麿s” の翻訳および注釈を連載する。
第3部は, フランス柔道の先駆者, 川石造酒
之助と彼が考案した 「川石流指導法」, そし
て, その柔道精神を紹介することにする。 川
石はー935年にフランスに渡り, 独特の指導法
を確立する。 合理的かつユニークな彼の指導
法と柔道精神は現在も受け継がれ, フラ ンス
柔道の原点となっている。
フラ ンス柔道の歴史を探り, 今日まで発展
しっづけた過程を明らかにすることは, わが
国をは じめ世界の柔道の普及 ー 発展を考える
うえでの指針ともなろう。
川石造酒之助ご 日本人エキスパート
川石造酒之助がパリ にやってきたのはー935
年ー0月 ー 日のことであった。 大学で経済と政
治学を学んだ学生 - 川石はー0年間の海外諸国
の旅の後, プロの柔道家になっていた。 この
間, 彼はアメリカ, ブラジル, そしてロン ド
ンと) 指導者の受け 入れ体制が整っ て いる大
都市を巡っていた。 クロー ト〝ーチイポ`ーーゝは
著書 「百万人の柔道家門 の中で, 川石のパ
リ到着についてこう述べる。 「ミルキン氏3)
を中心とする数名のユダヤ人の柔術実践者が,
Depa枕ment 。f Heaーth and sp0枕 Studies, Ten廿 Uni-
Versity
Page 2
36 フランスにおける柔術と柔道の起源 (3)
四段の日本人をイ ギリ スから呼び寄せた。 彼
らはボブール通り離皮番地に設立したばかり
の道場で, この日本人柔道家が東洋の格闘技
について高度な指導をしてくれることを期待
したのであった。」 現在, 当時川石がどのよ
う な指導を行ったかを記す文献は見当たらな
いが, 口述で伝えられる証言によ り十分推測
が可能である。 彼らは効果的な格闘技と して
柔道を求めたのであったが, その背景には ド
イ ツにおけるナチスのユダヤ人迫害の激化や,
写真ー
イギリス植民地支配に対するユダヤ人コミュ
ニティ ーの抵抗運動などがあった。
西洋の川石こ カリフォルニアから
ロンドン, そしてパリヘ
ー899年, 川石は京都か ら 約ー00齔 離れた
海沿いの街, 姫路で7人兄弟の6番目と して
生まれた。 中等教育終了後, 名門早稲田大学
に入学, ー925年に同校を卒業後, カリフォル
ニアへと旅立った。 日本を発つ時, 彼は既に
(フランス柔術クラブ ー936年)
写真2 フランスチャンピオンを肩車で投げる川石 (寒がりの
チャンピオンは靴下をはいている)
Page 3
ひとかどの柔道家となっていた。 ー924年ー2月
23日には, 当時高段位であった四段を講道館
から授与されていたのである。
川石は, 西洋文化の解放という大きな変革
期を経験した世代の日本人である。 絶対的父
権を特徴とする伝統文化のなかで, 西洋的自
由思想の啓蒙で知られる大学で学ぶという,
対峙する二つの教育を受けたのであった。 川
石のアメ リ カ行きにはこう したー920年代の日
本の時代背景が影響したものと考えられる。
当時日本は経済的にも社会的にも困窮して
いた上, ー3万人以上の死者を出 したー923年の
関東大震災が〝連の危機に追い討ちをかけた。
こう した状況の中, 西洋は多くの日本人にと
って希望と映った。 その結果, 移民制限措置
がとられるほどアメ リカへの移住者が急増し
た。 と りわけ川石家が住んでいた西日本は特
に移民が盛んであった。 こう した地域的特徴
に加え, 彼の家庭環境の影響もあげられる。
父親の死後, 長兄が家業の酒造会社を引き継
ぎ, 少年川石はこの長兄によって育てられた
のだった。 こう した出生順位という要素も彼
が海外での経験を試みよう と考えた補足的理
由の一つとみなせよう。
アメ リカ西海岸では, 「イ ッセイ」 と呼ば
れる第ー世代である日系移民は日本の文化を
写真3 小泉軍治 (イギリ ス柔道の元祖)
37
写真4 川石造酒之助
守るべく努力を払ってぃたg このため日本人
コミュニティーでは生活様式を教えるための
人材の需要があり, 学問のために渡米した学
生 ・ 川石にも武術を教えるという機会が与え
られた。 川石はサンディエゴ大学離に籍を置
く傍ら, 柔道と剣道を教えたのであった。 や
がて兄からの経済援助が尽きたのだが, すぐ
には日本に帰国しょう とは考えなかった。 柔
道のエキスパ~トとして外国でより大きな手
ごたえを感じていたためである。 ニューヨー
クで数年過ごした後, ブラジル ・ サンパウロ
に渡った川石は, この間に様々 な経験を積み,
西洋的視点からみた武道に対しての職業的能
力を身につけたのだ。 また, 柔道の授業以外
にも, 「マツダ」 という偽名を使い, 他の同
じ状況にあった日本人柔道家同様, ためらう
ことなくボクサーやプロ レスラーとの試合を
行うためにリ ングにのぼった。 しかし, 「柔
Page 4
38 フランスにおける柔術と柔道の起源 (3)
道プレス…」 誌のヘンリー ・ プリーハによる
イ ンタ ビューをみると, 川石はこう した活動
について多くを語ろうとはしていない。
プリー ニ 「プロレスラーとの試合は大変話
題になり ま したが。」
川石二 「ぁぁ, あまりに昔のことでもう何
も憶えていない。」
プリー ニ 「世界チャンピオンのジャック ・
デンプシ イ8)と の試合も話題でした
ね。」
川石二 「あれは試合ではない。 ニューヨー
ク ー アスレチッククラブで行われた単な
る親睦のデモンス ト レーシ ョ ンだっ
た。」
ー93ー年ー0月, 川石はロン ドンの武道会…へ
向かった。 ここはー9ー8年に創設され, イギリ
スの社会的エリー ト達が通っていた。 その運
営は極東の古美術品や漆器の専門家となった
小泉軍治が担っていた。 川石は指導助手と し
て2年間この組織に身を置き, 提携団体での
指導にあたった。
ー933年ー0月, 意見の食い違いがも とで川石
は武道会を去ったが, その後もイギリスに残
り, 日英クラブ刑をはじめ様々なク ラブで個
人的に指導を続けていた。
そして次のフランス滞在が, 放浪する柔道
写真5 昇級試合で審判をする川石
家に新たな活路を開く きっかけとなった。 パ
リのボブ】ル通りの道場はすぐに日仏クラ
ブ川となったものの, やがて川石も前任者達
と同じ苦難を味わうことになる。 やがて, 生
徒数が減り, クラブは閉鎖を余儀なく された
のだ。 川石はモシェ ~ フェルデンクライス離ゝ
写真6 川石とフェルデンクライスによる
護身術 (ー939年頃)
Page 5
39
写真8 フランス柔術クラブ
の力添えで, ESTP遭' (パリ土木専門学校)
の推薦を受け役員に就任, フランス柔術クラ
ブの技術部長となった。
この頃には, 柔道を支える組織は比較的安
定していた。 バリの生徒達の気質や知的好奇
心に合わせて指導法の見直しを行ったことで,
新たな段階を乗り越えることができた。 川石
はその状況に応じて指導法の調整を行う こと
の必要性を痛感した。 彼は後に 「柔道は麦や
米と同じだ。 その土地に適応させなければな
らない。」 と語っている。
(ー940年) 女性も柔道をしている
「川石流指導法」
川石流指導法とは, 柔道の技術体系を帯の
色が表す階級に結びつけた指導プログラムで
ある。 敬意を払い川石の名を冠してはいるも
のの, この指導法は技術者川石と科学者フエ
ルデンクライ スという互いに補完しあう二人
の知性が結実したものであった。
フェルデンクライスは, パレステナで数年
間を過ごし, テルアヴィヴの 「ベニー レオナ
ール」 ボクシング・ クラブ州でエミール ・ ア
ヴィ ネリ…から柔術の手ほどきを受けていた
が, 危険に満ちた日常生活に対するために護
Page 6
4。 フランスにおける柔術と柔道の起源 (3)
写真9
身術を学んでいた。 好奇心旺盛な科学者であ
った彼は嘉納治五郎師範と出会って以来, 柔
道に関する疑問をいくつも抱えていたのだが,
フランス柔術クラブに川石がやってく ること
で, こう した疑問に答えがみつかるものと期
待した。 しかし, パリ到着当初の川石の指導
は他の日本人に比べても大差はなかった。 川
石がー939年に黒帯を授与した最初のフランス
人生徒, モーリス ・ コッ トロー州ま日仏クラ
ブでの稽古についてこう語る。 「稽古は反復
練習, 動作の研究, しなやかな乱取りが基本
だった。 川石先生は毎回の稽古で新しい技術
を一つずつ教え, 指導マニュアル本と して使
用 していた分厚い本の中から選んだ動作に目
印を付けていた。」
フェルデンクライスは, 川石との数多くの
交流について記述している。 共同の著作計画
や, 2年間の研究や協力から新たな方法に至
った経緯についても触れている。 川石流指導
法では, 技の呼称を定めるにあたり, 日本の
よう に説明や視覚イ メージを重視するのでは
なく, 番号を振った。 また, 嘉納治五郎師範
の講道館柔道の 「五教」 と比較する と, 技の
数が多い (総数ー47) ほか, その分類方法に
ついて も若干違いがみられた。 技の体系につ
いては, その構成における論理性は秀逸であ
った。 生徒が技に関する知識を どの程度持っ
バリの最初の道場
ているかの判断も容易になった。 技を記憶す
るのも簡単であった。 これらは, 物理学者フ
ェルデンクライスが実践者川石に影響を与え
た結果である。
しかし, フランス流の昇級体系については
西洋的発想なしには語れないであろう。 帯の
色の違いによ り柔道家の習得レベルを具体的
に表現したのである。
イギリ スのビリヤー ドと帯の色
柔道では, 習得レベルは級 (黒帯よ り下の
レベル) と段 (黒帯。 異なるレベルを含む)
という 2つの大きな階級に分けられている。
日本では,級のレベルを区別するのに白帯(4
・ 5 ・ 6級) と茶帯 (ー ー 2 ' 3級) の2色
の色帯しか使われていなかった。
ー920年以来, ロ ン ドン武道会の指導者は講
道館に加盟していた。 彼らは柔術や剣術には
目も くれず, 嘉納治五郎師範の講道館柔道の
指導に専念した。 小泉とその周辺の者達は講
道館の規則を守りつつも, 生徒のレベルをよ
りよく分類する方法を早くから模索していた。
こう した中, 彼らは帯の色に関心を向けたの
であった。 最初の級を白帯と し, 2番目を黄
色, 3番目をオレンジ色, 4番目を緑色, 5
番目を青色, そして6番目を茶色例という風
に定めたのであったg スヌーカー剛という ビ
Page 7
リヤー ド競技から発想を得たのではないかと
もいわれる。 実際, イギリスのビリヤ~ドの
玉の価値は色によって定められている。 しか
し, このような仮説を裏付ける確たる証拠は
一切ない。 発想の出所はともかく, ー927年6
月22日付けの武道会の公式報告書では, 帯の
色と階級を対応させる分類法に関して, その
原則が記されている。 川石はイギリス滞在中,
生徒達のやる気を高めるにはこう した方法が
有効であることを確認していた。 そのため,
パリでも直ぐにこの方法を取り入れたのであ
った。 他にイギリスの影響力を受けた証と し
て, 当初は茶帯離を褐色帯鋼と呼んでいた。
こう した視覚的な要因は一見些細なことの
ようであるが, これも川石流指導法によるフ 丶
ランス柔道成功の一つの大きな要因であろう。
このよう に体系的手法に基づき教科内容を
定めるという方針が, 帯の色によ り階級を示
すというアイデアにも反映されたのである。
また, こう した体系的手法は教育プログラム
の作成にも応用された。 川石流指導法は 「指
導の目標」 という実用的な教育の枠組みを作
り上げた。 その合理性は…般大衆の希望と合
致した。 黒帯到達を習得目標と し, 各階級の
昇級ペースを定めた。 つまり, 白帯の最短実
践時間を2 ヶ月, 黄帯3ヶ月, オレンジ帯4
ヶ月' 縁帯6ヶ月) 青帯9ヶ月 としたのであ
る。 また最短24ヶ月で茶帯を, 36ヶ月で黒帯
の取得を課した。
日本の制度の完璧さを追求した末に, 川石
流指導法では, 柔道家の上達に向けてこう し
た合理的かつ数量的な方法を用いたのであっ
た。 また生徒の練習プログラムは一つにまと
められた。 こう して日本人が自分のレベルを
内に秘めるのに対し, フランス人はこれを誇
らしげに示すようになったのである。 帯の色
が能力のレベルや柔道の階級制度における地
位を公式に表すものとなった。
ー95ー年にようやく公式と呼べる川石先生に
よる 「私の柔道指導法判」 が出版され, ここ
に指導法の最終内容を定め, フェルデンクラ
イ スと川石が始めた活動が完成をみたのであ
った。 ただ し, この書物の最終的形式は, 文
章およびイラストを担当したジャン ー ガイ
ア剛の功績によるところが大きい。 フランス
柔道 ・ 柔術連盟の事務局長測であったジャン
・ガイアは川石のアシスタントを勤めていた
が, 高等商業専門学校 (HE-C') 船と政治
学院測出身の法学博士でもあった。 彼もまた,
ポール ・ ボネーモーリ剛同様, その情熱や論
理的センス, 企画センスを連盟の活動に注い
だのであった。 同書の編集によ り, ジャン ・
ガイ アは川石流指導法の内容についてその形
式を定め, それまで曖昧であった部分も含め)
全てを具体的に表現したのであった。 その後
「私の柔道指導法」 は指導および昇級判定に
あたって不可欠な参考基準となった。この「川
石流指導法」 は日本の柔道指導に西洋的な形
式を導入したものであった。 このことから,
海外で, 特にフランスで広く活用されること
となった。
柔術から柔道への移行は相互に関係を持ち
つつ行われた。 連盟機構の名称でさえ, 二つ
の武道を統合するという指導陣の意思を示さ
なかったのだろうか。
多く の専門家にとって柔道とは 「護身のス
ポーツ」 と考えられていた。 クラブの呼称に
いたっては, さ らに些細な事柄である。 川石
が 「フラシスのクラブを今後柔術クラブでは
なく, 柔道クラブと変更する」 と決めたのは,
彼がフラ ンスに戻ったー948年の終わりになっ
てのことであった。 ただし名称が変わっても,
それによ り実践内容が変わることはなかった。
移行が遅れた第一の原因は技の体系にあっ
た。 その歴史的経緯から, 「川石流指導法」
では嘉納治五郎師範の講道館柔道に残されな
かった防葉から着想を得た動作をいくっか残
していた (手首, 脚, 首などの関節技, ーー番
目の抑え技 (裏固め) など)。 こう した技が,
後に国際的なスポーツ ー ルールの制定をきっ
Page 8
42 フランスにおける柔術と柔道の起源 (3)
かけにすたれるまで実践され続けたのである。
第二の理由は, 川石が自分の指導法を, フ
ラ ンス人カゞ既に習得していた日本流指導法の
実践の流れの中に組み入れていたことにある。
彼は稽古中, 防葉テクニッ クの習得にー0分間
を割いていた。 取材を受けた当時の参加者は,
川石が冗談っぽく 「さぁ, 今度は警官に対す
る防葉をしょ う。」 と口にしていたと言う。
一般的に, 柔術という言葉には強さを感じさ
せる響きがあった。 新聞に次のような広告が
掲載されていた。
「柔道を習いませんか。 柔術を大衆化した
非常に科学的なこのスポー~ツである柔道は,
武器携帯が禁止された今, 大人気です。」
40年代以降も しばらく, 大衆向けのデモン
ス トレーションでは, 一人の柔道家が刀など
を構えた敵から身を守るといった護身術の場
面に多くの時間を費やしていた。 また, この
類のショーの中では,よくある町の喧嘩に「か
弱い乙女」 を登場させ, 彼女が多く の敵を一
人一人戦闘不能にしてしまう場面が組み込ま
れた。
日本においては, 「柔道」 の出現は柔術と
の断絶を指すが, フランスでは継続しつつ
徐々に変化していったのである。 「柔よく剛
を制す」 という柔道のイ メージが, 強いチャ
ンピオンのイメージと重なるには, スポーツ
と しての柔道の到来を待たねばならなかった。
その時, 柔術と柔道はその目的や技の形がは
っき り異なる二つの武道なのだと認識するの
である。
無敵の精神と東洋の神秘への受容性を持つ,
この地フランスに, 特別で独特な側面を更に
強化した規律と実践者を特徴とする柔道精神
が生まれるのである。
柔道精神
初心者がフランス柔術クラブの道場に入る
とその雰囲気に圧倒される。 受け身の音が途
切れるときの静寂, 年長者に対する控えめで
敬意に満ちた態度, 先生に対する生徒全員の
意に加え, 身体が空中を舞う不思議な光景
なども強烈な印象を与える。 柔道の動きは重
力への挑戦である。 体格や社会における格差
を消滅させる柔道衣, 細かく注意が払われる
儀式も, ただ秘伝を授かった者のみが, 身体
と空間を支配し, 行動や感情をコン トロール
できるようになるのだとの思いをさらに強い
ものにする。 比が先生の動きを捉えるべく注
視し, その先生のカリスマ性が道場を包み込
む。 すべてが, 階級化され, 儀式化され, 神
聖化されるのである。
ジャ ン・ルシアン ・ ジャザラ ン例は長年に
渡り柔道の教えを普及すべく努力を重ねた。
実業家であり, 哲学者そして活動家でもあっ
た彼は 「人生の学校」 と して彼の前に出現し
た柔道の伝道者となった。 彼は, 初期のフラ
ンスの柔道家の精神状態を鋭く詳細にこラ描
いた。 「我々は柔道に溢れんばかりの賞賛と
敬意を送った。 過剰と もいえるほど熱心に稽
古と理論の学習に打ち込んだ。 先生達に対し
て感じた, ある畏怖の念, そして多大な賞賛
は, やがて敬意へと変わった。 先生達の人格
に自分達の夢や絶対的な希望を投影した。 こ
う した心を高揚させる熱情が比類のなき独特
の雰囲気を醸しだし, かかる雰囲気の中, 厳
格な柔道の礼儀作法や独特の道徳的な行動や
姿勢の習得が苦もなくできたのであった。」
東洋の神秘や無敵になれる という想いに惹
かれた初心者は, すぐさま) 成績自体に対し
て はある一定の重要性しか与えないという柔
道の本質に直面する。 ジャザランは次のよう
に続ける。 「道場とは, 真に自分自身を探し
求める場であり, 単に巧妙さ, 技の習得, 身
体的能力の向上を図るばかりでなく, 意識,
自制心, 意思などを向上させる場であった。
勝ち負けだけが重要ではない。」
ここで述べる 「柔道精神」 とは実践者が共
有する一つの文化である。 それは特別な武道
である柔道への帰属感を共有する柔道家達を
結ぶ目に見えぬ繋がりなのである。 嘉納治五
郎師範によ り考案された柔道は, 精神と肉体
Page 9
を鍛錬する。 柔道にみられるエリー ト主義は,
厳密には社会におけるエリー ト主義とは異な
る。 つま り, 文化的かつ知的な意味でのエリ
ー ト主義であり, その強さは思考と行動, 知
性と効果, 品性と逞しさといった組み合わせ
の中に存在するのだ。 数多くのスポーツとは
異なり, 柔道では人間性や社会的価値に重き
を置く。 競技スポーツのインス トラクターや
コーチは, こう した価値観の指導とま素補元の指
導を連携させる柔道の師範には及ばないので
ある。
柔道は結果に対する精神的意義を重視する。
そのため, 勝負にも形が要求される。 ク ラブ
では腰を曲げたり, 力ずくでの防葉は禁止あ
るいは軽蔑された。 こう したルールは暗黙の
了解であった。 取材に応じた柔道家は, 柔道
は単なる格闘技ではないと力説する。 立派な
姿勢を伴っているときにのみ結果が評価され,
さらに攻める姿勢が立派だとされた。 多くの
指導者には返 し技は評価が低かった。 寝技を
得意とする者は恐れられ, また敬意を受けは
する ものの, 足技や巴投げを得意とする者に
与えられた感嘆を得るには至らなかった。 こ
う した見解を当時の柔道家全体に当てはめる
ことはできないかもしれないが, いずれにせ
よ多かれ少なかれ, 興や意識を超えた完璧
で絶対的な動き こそが理想的と され, 衆目の
一致で賞賛されていた。
注 釈
ー ) Cーaude Thibauーt
2 ) Un miーーi。n de jud。kas
3 ) M-Mir魎n
4 ) rue de Beaub。urg
5 ) runiversit苺 de san Dieg。
6 ) Jud。-Presse
7 ) Henry Pー邑e
8 ) Jack Dempsey
g ) Bud。kWai de L。ndres
ー。) ー'仰gー0一JapaneSe cーub
ーー) ー9 cーub FranC。-Jap。nais
43
ー2) M。she Feーden蚊ais 「フランスにおける
柔術と柔道の起源 (2)」 天理大学学報
第55巻第3号参照
ー3) L'Ec。ーe Sp岳Ciaーe des Travaux Pubーics de
Paris
ー4) Cーub de b。xe Beni Le。nard
ー6) Maudce C。ttereau
ー7) ーaman。n 注釈ー9-20参照
ー8) sn。。ker 白色の手玉ー個, 赤色の玉ー5
個と色違いの6個の玉 (黄-緑一青ー茶
・ ピンク ー黒) を使用す る
ー9) 直訳では栗色。 フラ ンスでの茶色の一般
的な呼び方
20) br。wn イ ギリス風の茶色の呼び方
2ー) Ma M苺th0de de Jud。 par Maitre
陶WaーShi
22) Jean Gaiーhat
24) Ec。ーe des Hautes Etudes c。mmerciaーes
25) EC。ーe des sciences p。ーitiques (現在 は,
ーnstitut d'Etudes p。htiques)
26) Pauー B。net-Maury 「フランス柔道発展
史とポール ー ボネーモーリ氏の存在」 天
理大学学報第46巻第3号参照
27) Jean-Lucien Jazadn
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