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スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年
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女もすなる Jiu-jitsu:
二十世紀初頭のイギリスにおける女性参政権運動と柔術
English Women Do Jiu-jitsu
The Women's Suffrage Movement and its Jiu-jitsu Practices
in the Early Twentieth Century England
岡田 桂
関東学院大学文学部比較文化学科
Kei OKADA
Kanto Gakuin University, Faculty of Letters, Department of Cultural Studies
キーワード: イギリス、女性参政権運動、柔術、身体文化、文化伝播
Key words: suffragette, jiu-jitsu, physical culture, cultural diffusion
抄 録
本稿では、二十世紀初頭のイギリスにおいて、女性参政権運動家たちによって実戦の手段として柔
術が学ばれ、その運動の後期にはリーダーを警察権力から守るため女性による柔術ボディガード団が結
成されたという事例を考察する。イギリスでは十九世紀末から柔術がブームといえるほどの急激な広がり
をみせたが、本論ではまず、女性による実践に先立つイギリス社会への柔術の浸透を先行研究に基づ
いて説明する。続いて、如何にして女性参政権運動と柔術が結びついていくことになったか、さらには当
時のイギリス社会で女性による柔術実践というものがどのように表象され、認識されていったのかを、新聞
や雑誌メディアの資料に基づいて検討する。そして、当時の世界において新興国であった日本の柔術と
いう文化が、近代という時代の中心に位置した当時のイギリスに伝わり、その意味を変容させながら定着
したという文化伝播の事例として位置づけ、文化が経済・社会的諸力から離れて一定の自律性を持つと
いう文化ヘゲモニー論の説明可能性の一つとして提示する。
スポーツ科学研究, 10, 183-197, 2013 年, 受付日:2013 年 2 月 28 日, 受理日:2013 年 9 月 25 日
連絡先: 岡田桂 関東学院大学文学部比較文化学科 〒236-8502 横浜市金沢区釜利谷南 3-22-1
E-mail: kokada@kanto-gakuin.ac.jp
I. はじめに
1. 問題設定
柔術は日本の伝統的な武術である。また、その
有力な一派である柔道はオリンピックの公式種目
にも採用され、現在では国際的に受容された日
本文化のひとつとなっている。しかし、その柔術や
柔道が欧米をはじめとして海外へ伝播し始めた
のは十九世紀末葉からであり、その拡散の歴史
は一般に考えられているよりもはるかに長い。本
稿ではそうした歴史の中でも、二十世紀初頭のイ
ギリス人女性参政権運動家たちが、女性の政治
参加を巡って激しい闘いを繰り広げる過程で組
織的に柔術を実践し、女性による柔術ボディガー
ド団を結成したという興味深い事例を考察する。
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考察にあたっては、まず、女性による柔術実践
に先だって起こったイギリスにおける柔術ブーム
について先行研究を参照しながら概略し、二十
世紀初頭のイギリス社会における柔術の意味と
位置を明らかにする。次いで、ブームによってイギ
リスに浸透し始めた柔術を女性が実践してゆくこ
とになる経緯を、さらには、それが高まりを見せる
女性参政権運動という政治的文脈の中で如何に
機能し、また如何なるイメージを喚起したかを論
述する。こうした考察を通じて、イギリスにおいて
柔術が担った価値観のジェンダー差、階級差が
明らかになると共に、柔術という日本文化が、そ
の意味や価値観をずらしながら他地域に受容さ
れたという文化転移の事例としての側面も浮かび
上がることになる。
2. 先行研究の検討
これまで、十九世紀末から二十世紀初頭のイ
ギリスにおける柔術の受容に関しては幾つかの研
究が存在する。当時のイギリスにおける身体文化
(physical culture

=身体鍛錬、フィットネスやボ
ディビルの元祖)との関係から柔術の流行を歴
史・社会的に読み解いたものとして、岡田(2005、
2010)が、また主に身体文化そのものを論じる上
で柔術に言及したものとしてマイケル・アントンバ
ッド(1997)が挙げられる。また、文学表象におけ
る柔術に着目し、同じく身体文化との関連から考
察した研究として、木下(2003)が存在する。しか
しながら、管見の限り当時のイギリス人女性による
柔術実践、および女性参政権運動との繋がりに
ついて包括的に考察した研究は存在していない

。 従って、本稿ではこれまでの先行研究を踏ま
えた上で、女性による柔術の受容というジェンダ
ー的側面と、さらには参政権運動と武術実践の
結びつきという社会的側面に関して、新たな知見
を提供することになる。また、各先行研究の内容
に関しては、本論中で適宜参照してゆく。
II. イギリスにおける柔術の到来
1. “バーティツ(Bartitsu)”としての紹介
ショートとハシモトによる著書『Beginning Jiu
Jitsu Ryoi-Shinto Style』の記述によれば、イギリ
スにおいてはじめて柔術が紹介された記録は、
1892 年 4 月 29 日のジャパン・ソサエティ第一回
会合であったという。この際、当時の日本銀行ロ
ンドン支店主事であり、自らも楊心流柔術の使い
手であったタカシマ・シダチ(Takashima Shidachi)
という人物によって、柔術・柔道の歴史と発展に
関する図解を用いた講演が行われた(Shortt and
Hashimoto 1979:p.44)。しかし、これは限らた聴
衆を対象にした会合であり、この時点では、柔術
はいまだイギリス社会において認識される段階に
はなかった。“Jiu-Jitsu”が一般的なイギリス人に
認知されるきっかけとなるのは、1899 年、エドワー
ド・ウィリアム・バートンライト(E. W. Barton-Wright)
による日本人柔術家の招聘と、自らが考案したと
主張する護身術“バーティツ(Bartitsu)”の記事
が『ピアソンズ・マガジン(Pearson's Magazine)』
(1899 年 3 月号)に掲載されて以降のことである。
技師として日本に滞在した経験のあるバートン
ライトは、短期間ではあるが柔術の指南を受け、
帰国後、他の様々な格闘技の要素と折衷した総
合的な護身術であるバーティツを考案し、ロンドン
に道場を開いた。バートン(Barton)によるジュー
ジュツ(Jiu-Jitsu)を表す造語がバーティツという
訳である。バートンライト以降のイギリスにおける柔
術受容に関しては、既に先行研究(岡田 2005、
2010)において詳述されているが、同内容に沿っ
て概括すると以下のようになる。
バートンによる新奇な護身術は、当時の人気
雑誌『ピアソンズ・マガジン』に数回にわたって掲
載されたこともあって、それなりに一般の人々の耳
目を集めはしたが、彼自身、柔術に関しては人に
指南するほどの技量ではないことを自覚していた
ため、日本から専門の柔術家を招き寄せることに
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した。この時、イギリスにやってきたタニ・ユキオ
(谷幸雄)と、後に合流したウエニシ・サダカズ(上
西貞一・通称 Raku)が、その後のイギリスにおける
柔術の認知に多大な貢献を果たすこととなる。レ
ッスン料が高額であったことなど、種々の理由によ
ってバーティツ道場が短期間で閉鎖された後、タ
ニとウエニシはイギリス人マネージャーと共にイギ
リス各地を精力的に巡業し、未知の文化であった
柔術を自らのデモンストレーションによって徐々に
イギリス社会に浸透させていった。
2. 柔術のイギリス巡業と認知の高まり
タニとウエニシによる巡業が始まった当初、ほと
んど知名度のない柔術の公演に観客を集めるた
め、彼らは各地域において一種の芸人でもある
怪力男(strong man)やレスラー、ボクサーを対戦
相手として募り、高額の賞金を賭して無差別の試
合を行うという方法をとった。当時、タニは身長一
五〇センチ、体重六〇キロ足らずであり、体躯で
大幅に優るイギリス人の猛者たちにとって、この条
件は非常に有利に映ったようである。しかしながら、
相手の力を利用して自らを利する柔術の技によ
って、こうした対戦は日本人柔術家の完勝記録を
積み上げてゆくこととなった。ノーブルの記述によ
れば、タニはある六ヶ月にわたる興業ツアー中、
一週間に平均二〇人、全体の合計で五〇〇人
以上の挑戦者を倒したという。さらにウエニシに関
しては、当時の身体文化雑誌の記述を引用して
以下のように述べている。
雑誌『ヘルス・アンド・ストレングス・マガジン(Health and
Strength Magazine)』には、こうした様子が、「私は幸運
にも、これらの対戦の多くを目撃する機会に恵まれ、尚
かつ、彼(ウエニシ)が 15 分の時間内に 6 人の敵を全て
倒すのに失敗した事は一度たりともなかった。実際に私
は、彼が各々の闘いの間にある必須の待ち時間を含め
て、5 人を 10 分間で片づけるのを目撃した事がある」と
描写されている(Noble 1996:p.23)。
もちろん、柔術は当初から好意的に受け入れ
られた訳ではない。事実、巡業の初期には、筋骨
逞しいイギリス人の大男を小柄な東洋人がやす
やすと投げ飛ばす様を見て、観客たちは一種の
やらせか、あるいはどたばたコメディと見なしたと
いう。しかし、こうした誤解にも屈せず地道にイギリ
ス全土を巡ってゆく過程で、一般のイギリス人の
間に柔術というものが広く認知されてゆくことにな
り、その到来からわずか数年のうちに、一種のブ
ームを引き起こすまでに受け入れられてゆくことと
なった。
この頃になると、柔術は、コナン・ドイルによるシ
ャーロック・ホームズ・シリーズの一作『空き家の冒
険』(1903 年)やバーナード・ショウの戯曲『バー
バラ少佐』(1905 年)にも登場し、「東洋の未知な
る秘技」といった存在から、一般の人々にもイメー
ジすることが可能な格闘技としての理解が進んで
いく。また、こうした文学作品におけるイメージとし
ての利用のみではなく、時を同じくして隆盛しつ
つあった、ユージン・サンドウ主宰の『身体文化』
や、『ヘルス・アンド・ストレングス』といったフィット
ネス雑誌の元祖ともいえるメディアにおいても頻
繁に取り上げられ、柔術に関する書籍も次々と発
刊されるようになる。さらにはロンドンを中心として、
イギリス人が柔術を実践する場としての道場も複
数開設されていった。
III 柔術ブームと身体文化
こうしてイギリス社会に受容され、知名度を上げ
ていった柔術だが、実際にはこの時期のイギリス
社会には、柔術のブームを可能にする素地が既
に存在した。一つは身体文化(physical culture)
の流行、もう一つは日清・日露戦争による日本へ
の興味の高まりである。
身体文化とは、一九世紀後半からイギリスで大
きな潮流となった、ボディビルやフィットネスの元
祖とも言える健康志向・身体トレーニングの総称
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である。ミシェル・フーコーが述べるように、イギリス
を含め、近代以前のヨーロッパ社会においては身
体とは所与のものとみなされており、後から鍛錬
することでそれを作り替えることができるという考え
は一般的ではなかった

。 こうした状況に対して、
目指すべき理想の身体を実際のモデルによる写
真や図解で提示し、その実現を可能とするための
トレーニング方法や身体に関する知識を具体的
に提供したのが、雑誌や書籍を中心とした当時
の身体文化メディアであった。そして、その名も
『身体文化』という雑誌を主宰し、ブームの立役
者となったとも言える存在がユージン・サンドウ
(Eugen Sandow)であった。
マイケル・アントンバッドによれば、十九世紀中
庸以前のイギリスにおいて「身体文化」という語彙
はほとんど一般には流通していなかったという。そ
れが世紀転換期から二十世紀初頭には、特定の
意味を表す言葉として広く人口に膾炙し、この急
速な普及はもっぱらユージン・サンドウその人と、
彼による雑誌『身体文化』の影響力に負っている
と述べる(M. Anton Budd 1990)。サンドウは、ミュ
ージック・ホールを巡って行う、自らの逞しい身体
を使った怪力男(strong man)の見世物で評判と
なり、その知名度と身体を武器に、雑誌や書籍を
通じて自身が考案したトレーニング法や知識の宣
伝・普及に努め、身体文化のカリスマ的存在とな
っていった。こうしてイギリスで一気に流行となった
身体文化は、ヨーロッパはもとより、アメリカやオー
ストラリア、そして明治期の日本にまで広まりをみ
せてゆく


このような急激な身体文化の流行、即ち「身体
の強さ・健康さ」に対する意識の高まりの背景に
は、当時の西欧を思想的に席巻した社会ダーウ
ィニズムと、そこから導き出される身体の“退化”へ
の怖れがあったと指摘できよう。(富山 1995) つ
まり、産業革命以降、急激な工業化を果たしたイ
ギリスにおいては、劣悪な環境で働き、生活する、
都市の産業労働者たちの身体虚弱や不健康さ
が社会的な問題として浮かび上がり、それが将来
におけるイギリス国民の“退化”をもたらす要因と
して取り沙汰されたということである。身体文化の
流行は、こうした怖れに対する、主に下層中産階
級からのリアクションであったと考えられる。
ここで今一度、柔術のブームに立ち返ってみる
と、その初期において対戦の相手となり、柔術の
認知に一役買った怪力男たち(レスラーやボクサ
ーも含まれる)こそ、この身体文化という価値観の
代表的な体現者たちであったことに気づく。力自
慢のショーに説得力を持たせるために身体を鍛
え筋肉を身にまとった怪力男はもとより、当時のレ
スラーやボクサーもまた“強さ”のイメージを目に見
える形で提示する存在であり得た。そして、柔術
はその身体文化を代表する者たち即ち“強い”者、
を打ち負かすことによって、より大きな注目を浴び
ることになったと言える。
さらには、日清・日露戦争における小国日本の
電撃的な勝利は、イギリス社会に日本という国へ
の興味を呼び起こし、身体の小さなものが大きな
相手を打ち負かすという柔術の比喩的効果を促
進することとなった。こうした時機が相まって、イギ
リスに柔術ブームがもたらされ、当初は身体文化
に対するオルタナティヴとして認知されていくが、
後にイギリス人自身による実践を通じて柔術自体
の理解・分析が進むと、次第に身体文化の一ヴ
ァリエーション(レスリングなどの競技に近い身体
技法)として消化・受容されていくことになった。
IV. イギリス人女性の柔術実践
バーティツという形での柔術の到来以降、その
実践の中心となったのは上流~中産階級の人々
であったと考えられる。それは、当初バーティツや
柔術の記事が連載された雑誌(『ピアソンズ・マガ
ジン』、『サンドウズ・マガジン』、『ヘルス&ストレン
グス』など)の主な購読層が中産階級であったこと
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や、わざわざ費用を支払ってまで稽古に励む時
間的・経済的余裕がある層に限られていたことか
らも推測できる

。 そして、ジェンダー的にはやは
り男性による実践が多数を占めてはいたが、中に
はごく初期から柔術に携わる女性も存在した。確
認できる限り、女性による初めての柔術指南書を
著したエミリー・ダイアナ・ワッツ(Emily Dianna
Watts〔ロジャー(Roger)とも称した〕)

もその一
人である。
ワッツは、記録によれば 1903 年頃から柔術を
始め、ロンドンのゴールデンスクウェアに道場を開
いていたウエニシ・サダカズの元で修行したという。
そして三年のうちに自ら道場を開いて少年たちに
柔道を教え始め、 1906 年『The Fine Art of
Jujutsu 』を出 版した。( Shortt and Hashimoto
1979:p.46、Svinth 2001) これは、イギリスにおけ
る初めての柔術書籍の出版が 1905 年であること
を考えても非常に早い

。 ワッツは豊かな家庭の
出身であり、この時期に柔術を実践するための指
南書という限られた読者を対象にした書籍を執
筆・発行し得たこと、また、本書が鮮明な写真印
刷をふんだんに用い、厚手の光沢紙で誂えられ
た高価なものであることからも、当時の柔術実践
に関心を寄せた階層をうかがい知ることができる。
ワッツはその後、ギリシア文化に関する著書も出
版し、講演で世界各国を回るなど国際的に活動
するが、柔術そのものに関してはそれ以降目立っ
た活躍を見せることはなかった。
一方、同時期に柔術を始め、本稿のテーマで
ある女性参政権運動に大きな役割を果たした人
物 が 、 エ デ ィ ス ・ ガ ー ラ ッ ド ( Edith
Garrud:1872-1971)である。ガーラッドはもともと
身体文化の指導者(physical culturist)であり、ま
た教師でもあった。同じく身体文化の指導者であ
った夫のウィリアムと共にロンドンに移り住んだ際、
バーティツのデモンストレーションを見る機会に恵
まれ、夫と共に柔術へ傾倒してゆく。その後、ウエ
ニシが主催したゴールデンスクウェアの柔術道場
に入門し、ウエニシおよびタニの元で柔術を学ぶ。
この時期、本道場には何人かの女性入門者が存
在したが、その中でもエディス・ガーラッドは、以
降の人生を通じて深く柔術と関わってゆくことに
なった。
1907 年には、映画会社ゴーモンの「柔術で追
いはぎを撃退(Jujutsu Downs the Footpads)」と
いう短編フィルムに柔術のデモンストレーターとし
て出演し、男性を相手に柔術の技を披露した。
翌 1908 年、夫のウィリアムが、イギリスを去ること
になったウエニシのゴールデンスクウェアの道場を
引き継ぐと、エディスはそこで女性と子供のクラス
を担当するようになる。また同年より、女性の権利
運動を展 開する WSPU (女性社会政治 同盟
Women’s Social and Political Union)と WFL(女
性自由連盟 Woman’s Freedom League において
柔術・護身術の特別クラスを指導するようにもなっ
た。この頃から、ガーラッドは女性運動との関わり
を深めていくことになる。
V. ジ ュ ー ジ ュ ツ ァ フ レ ジ ェ ッ ツ
(Jujutsuffragettes): イギリス女性参政権運動と
柔術
1. 女性参政権運動の活発化
イギリスでは十九世紀半ば以降、徐々に選挙
権の拡大が図られ、1885 年の第三次選挙法改
正によって選挙権者は 440 万人(当時の人口の
13%)に達し、成人男子に関してはほぼ普通選
挙制を実現していた。しかしながら、女性の参政
権は未だ認められておらず、選挙権獲得・社会
的権利の向上を目指した運動が展開されるように
なる。そうした活動組 織の代表的存在として、
1903 年 10 月 10 日、マンチェスターにおいてエメ
リン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst)を指導
者とした WSPU(女性社会政治同盟)が結成され、
女性参政権を求めて活動を開始した。この団体
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は女性のみで構成され、そのモットーは“言葉で
はなく行動を”というものであった(Housego and
Storey 2012:p.13)。
当初は機関誌の発刊やデモなどを通じた活動
を行っていたが、1905 年のデモでパンクハースト
の娘が逮捕され、新聞などを通じて報道されたこ
とで、WSPU は女性参政権運動家(suffragettes)
の代表的な団体として知られていくようになる。ロ
ンドンへの進出後、それまで比較的穏健な活動
を行っていた WSPU であったが、一向に歩み寄り
を見せない政府に対して、参政権の実現にはより
強硬な手段が必要であると方針を転換し、1905
~8 年にかけて運動は武装闘争(ミリタンティズム)
を辞さない方向へと急進化してゆく。具体的には
デモやアジテーションを過激化し、政府の建物の
窓を割る、議会の建物を取り囲む柵に自らを手
錠で繋ぐなどの示威行為に及ぶこととなり、そうし
た行為を取り締まり、集会を排除しようとする警官
隊との間の衝突もまた激しさを増していった(河村
2001)。
その様な社会情勢の中で、こうした状況を風刺
する興味深い記事が、1907 年 3 月 13 日『Punch』
誌上に掲載された(図 1)。
図 1
女性参政権運動家を持ち上げる警官たちの
挿 絵の下には“One Man One Suffragette: A
Suggestions to the House of Commons’ Police”
(女性参政権運動家一人につき男性一人:議会
警察に提案)と説明が付けられ、「警官たちは空
き時間にダミーの女性参政権運動家の人形を使
って、柔術の訓練をするべきだ」という意の文章が
添えられている。実際に柔術ブームの後、イギリス
では軍隊や警察の一部で柔術が訓練に取り入れ
られるようになるなど、武器を用いない格闘・護身
術として浸透しつつあったこともあり、この記事の
風刺はあながち荒唐無稽な笑い話という訳では
なかった。しかし、ここで注目すべきは、この時点
で柔術を学ぶべきとされるのは女性参政権運動
家ではなく、それを取り締まる警官たちの方であ
る、と見なされている点であろう。デモや集会を過
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激化する女性たちを排除する上で、柔術は有効
な手段だという訳である。だが、こうしたイメージは
参政権運動と柔術が度々雑誌メディアに取り上
げられるようになってゆく二、三年の間に、急激に
変化していくことになる。
2. 女性による柔術実践
先述したように、1908 年になると WSPU と WFL
においてエディス・ガーラッドによる柔術・護身術
の特別クラスが提供されるようになる。これは、日
増しに激しくなる警官隊との衝突から身を守るた
め、WSPU ではパンクハースト自身の発案で開始
された。女性たちによる柔術の訓練開始から一年
後の 1909 年、『Health and Strength Magazine』
誌上に“Jujutsuffragettes: A New Terror for the
London Police”と銘打たれた、柔術をたしなむ女
性参政権運動家がロンドン警察の脅威になって
いるという記事が掲載され、その文中で師範のガ
ーラッドは「WFL の全てのメンバー中で、おそらく
最も重要な人物」と評されるようになる。この際、
柔術の使い手である女性参政権運動家たちを指
す た め に 、 「 Ju-Jutsu ( ジ ュ ー ジ ュ ツ ) 」 と
「suffragettes(サフレジェッツ)」を組み合わせた
「Jujutsuffragettes(ジュージュツァフレジェッツ)」
なる造語がはじめて用いられ、以降たびたびこの
呼称が登場することとなった。
そして、更に翌年 1910 年 7 月 6 日には、
『Punch』誌上に“The Suffragettes that knew
Jiu-Jitsu”(柔術を嗜む女性参政権運動家)とい
う風刺画が掲載される(図 2)。
図 2
この絵の中では、柔術使いの女性の前で警官
隊が震え上がっている様子が戯画的に描かれて
いるが、1907 年の記事と比較して興味深い点とし
ては、ここに至っては柔術の使い手が警官ではな
く女性参政権運動家の側として描かれており、三
年前とはイメージが完全に逆転しているところであ
ろう。雑誌メディアにおけるこうしたイメージの変遷
は、イギリスにおける参政権運動と女性の柔術実
践という結びつきが、短い期間で一般の人々の
間にも浸透し、認知されていったことの表れともい
える。さらには、権利獲得のためには実力行使も
辞さないという女性たちの運動の高まりもまた、商
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業メディアを通じて人々の大きな関心事となって
いったことを示している。そして同年の秋、こうした
活動の一つのピークともいえる出来事が訪れるこ
ととなる。
1910 年 11 月 18 日、当時の首相ハーバート・
ヘンリー・アスキスと与党である自由党が、一定以
上の資産を有する女性に選挙権を拡大する法案
「Conciliation Bill」を議会の時間切れを理由に
廃案としたことに端を発した大規模な女性参政権
デモが WSPU によって行われた。この際、国会周
辺に集まった 300 人以上のデモ隊に対し、警察
が暴力を行使して弾圧を行ったことで騒然となり、
結果として多数の負傷者(1 名は後に死亡)と 119
名の逮捕者を出す惨事となった。この際の報告
によれば、「女性たちは顔や胸、肩を殴られてもな
お、無意識的に自分たちを律し、後から後へと
(デモの現場へ)戻っていった。何人かの女性は、
三回も四回も放り投げられているのを目撃された」
(Housego and Storey 2012:p.33)という。
この事件は、後にブラック・フライデーと呼ばれ、
女性参政権運動史に刻まれることになる。これま
でにない警察の暴力的な取り締まりに対して、そ
れまで女性参政権運動に対して比較的冷淡であ
った世論も批判の姿勢を見せ始め、新聞などのメ
ディアも弾圧の模様を写真で掲載するなど、次第
に運動の側に立った報道がなされるようになって
ゆく。当時、女性参政権運動の中心となっていた
活動家たちの多くは中産階級の女性であったが、
その淑女たちを路上に引き倒し、死者まで出した
ことは、階級とジェンダー双方の意味で警察や政
権に対する批判を呼び起こし、彼女たちの運動
に同情する機運を生み出すことにつながったとい
える(Housego and Storey 2012:pp.32-34)。
VI. 女性 Jiu-Jitsu ボディガード団:実戦のための
柔術
1. ハンガー・ストライキと“Cat and Mouse”法
ラック・フライデー以降、WSPU や WFL の活動
はますます盛んになり、政府との間の軋轢も激し
さを増していった。こうした状況にあって、護身の
ための柔術の有用性もまた、女性活動家たちの
間に浸透してゆく。この間、柔術の指導者であっ
たエディス・ガーラッドは、1911 年 4 月 8 日の
『Health and Strength Magazine』に掲載された”
Ju-jutsu as a Husband Tamer (夫を手懐けるた
めの柔術)”という記事において柔術指南を担当
し、続く 7 月 23 日 の同誌においては自ら”
Damsel v Desperado(乙女対ならず者)”という記
事を執筆し、男性の暴漢に対する女性の柔術実
践の有用性を説いている。だが、この後ほどなくし
て、女性参政権運動の団体は構成員個人の柔
術習得に留まらず、女性柔術家を組織化してボ
ディガード団を結成するという転機を迎えることに
なる。
1913 年、自由党による Prisoner's Temporary
Discharge of Ill Health Act(通称 Cat and Mouse
法)が議会を通過し、法律として制定された。これ
は、健康を害した囚人を一時的に釈放することを
可能にする法案であり、当時、収監された女性参
政権運動家が頻繁に用いていた抵抗手段である
ハンガー・ストライキを狙い撃ちにしたものであっ
た。絶食することで抗議の意志を示すハンガー・
ストライキは、当然ながらその実践者に衰弱をもた
らすことになるが、もしも収監中に容疑者が衰弱
死するようなことがあれば、それを放置した当局に
非難が向くことは避けられない。そこで、当時の政
権がとった対応策が forcible feeding(食餌強制)
と呼ばれる、強制的に食べ物や飲み物を流し込
むという手法であった。自らが食物の摂取を望ん
でいない相手に強制的に食餌をさせるということ
は想像以上に困難であり、多くの場合、数人がか
りで手足を拘束した上で、口や鼻から無理矢理
流動食を流し込むという非人道的な手段が執ら
れた。この方法は、収監者にとって大変な苦痛を
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伴うものでもある。女性参政権運動家はこうした
状況を自らの機関誌で訴え、また他の一般メディ
アも大きな関心を持って報道したため、イギリス社
会に大きな反響と怒りを呼び起こした。(Housego
and Storey 2012:p.39)(図 3:Daily Sketch, May
1, 1913)。
図 3
世論の多くは、仮にも賤しからぬ階級に属する
レディに対してこのような非人道的な扱いをする
当局側に対して批判的なものであったため、自由
党政権も強制食餌に代わる何らかの対応をとらざ
るを得なくなってゆく。そこで生み出されたのが、
先述の通称「Cat and Mouse 法」であった。
本法案によって、ハンガー・ストライキで衰弱し
た収監者を一時的に釈放することが可能になっ
たため、政権側は女性参政権運動家が衰弱して
ゆく危険も強制食餌に対する国民の批判もかわ
すことができるようになった。一方で、健康を取り
戻せば再収監することができるため、運動家たち
はハンガー・ストライキを続ける限り釈放と収監を
繰り返されるという過酷な状況におかれることにな
った。逮捕と衰弱、そして釈放と再逮捕の循環に
よって活動家の気力と体力を奪ってゆくという、そ
の名の通り、まさに「猫がねずみをいたぶる」ような
法律であったといえる(図 4:WSPU による反「Cat
and Mouse 法」ポスター〔Housego and Storey
2012:p.26 より転載〕)。
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図 4
2. 私設柔術ボディガード団の結成
こうした政権側の「Cat and Mouse 法」に対して、
WSPU はリーダーのエメリン・パンクハーストを含め
一旦釈放された活動家を二度と逮捕させないと
いう作戦方針で対抗することになる。この時期、
WSPU は一向に進展しない政治状況に対して武
装闘争を加速させており、1912 年にはその頂点
を迎えた。WSPU は過去の選挙法改正が民衆の
暴動によって達成されたと考えたため、それにな
らって「財産の破壊」という闘争方針を採り、政府
関係施設にとどまらずリージェント街の商店の窓
ガラスを割り、郵便ポストに火を投げ込み、美術
館の絵画を刃物で切り裂くなどし、とりわけすさま
じかった 1913~14 年の放火闘争は 17 ヶ月間で
約百件、推定被害額は 45 万ポンドに上ったとい
う(河村 2001:p.117)。
こうした闘争やデモ、集会の会場にあって、指
導者や活動家たちを警察から守り、拘束させない
ために、WSPU は 1913 年、エディス・ガーラッドを
師範として柔術ボディガード団を結成する。ボデ
ィガード団はカナダ出身のガートルード・ハーディ
ング(Gertrude Harding)をリーダーとし、25~30
名程度の女性メンバーから成っており、警察に所
在を掴まれないため、各地を転々としながら柔術
のトレーニングを行った。彼女たちは柔術の技に
加えて衣服の下に忍ばせた棍棒で武装し、特に
指導者のエメリン・パンクハーストを守るため警察
と渡り合うことになった。ボディガード団の役割は、
介入してきた警察官たちから活動家たちを守り、
その間に中心人物を逃がすための時間稼ぎをす
るところにあった。そのため、単純に柔術を使って
応戦するだけではなく、時には変装して警察を混
乱させたり、パンクハーストの影武者を仕立てて
本物の逃走を手助けするという戦術も採られた。
この際、柔術ボディガード団の最重要人物であ
ったガーラッドが最前線で闘うことはほとんどなか
ったが、これは万一逮捕された時に指導者を失う
ことになるリスクを避けるためであった。また、ガー
ラッドは自らの道場に活動家たちを匿うこともあっ
たという。この時期になると、激しい武装闘争とそ
れに対する抵抗によって、WSPU の女性参政権
運動は社会の注目を集めるようになっており、先
述したように「柔術の使い手としてのサフレジェッ
ツ=ジュージュツァフレジェッツ」というイメージが、
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社会に浸透していたといって良い。さらに同年 12
月 19 日には、『Health and Strength Magazine』
誌上でガーラッドが再び柔術のデモンストレーショ
ンを行い、警察官の扮装をした相手に柔術の技
をかける姿が掲載され、こうしたイメージに拍車を
かけることになった(図 5)。
図 5
この柔術によるボディガードは実際に功を奏し、
後に第一次世界大戦開戦に際して WSPU が武
装闘争を解除するまでエメリン・パンクハーストが
拘束されることはなかった。だが、警察との闘争に
おいて女性たちの柔術が有効であったことには、
当時の女性参政権運動において特定の状況が
成り立っていたことに留意する必要がある。まず、
WSPU の活動主体はほとんどが中産階級の女性
であったことから、警察側はこの鎮圧にあまり暴力
的な手段を用いることができなかった。先に述べ
たブラック・フライデーや食餌強制の事例からも明
らかなように、世論は比較的、女性参政権運動に
同情的になっており、女性であり出身階級も高い
淑女たちに直接的な暴力を行使することは、政
権側への批判を強める恐れもあった。結果として、
警官隊は活動家たちを集団から素手で引き離し
て拘束したり、持ち上げて連行したりといった比較
的穏当な手段を用いざるを得なかった。こうした
制約から、生身の人間が素手で対峙する状況が
作り出されたことは、柔術という武術が実戦として
効果を発揮する上で非常に有利に働いたといえ
る。また、当然ながら、体重や身体の大きさに依
存しないという柔道の最大の利点が、女性たちに
とって有効であったことは言うまでもない。仮に、こ
れ以前の選挙法改正運動などで見られたような
騎馬警官の投入や、警棒などを用いた暴力的な
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介入があったとすれば、おそらく柔術のみで十分
な護身を行うことは困難であっただろう


近代のイギリスにおけるフェミニズム運動を詳
細に検討した河村によれば、WSPU は膠着状態
に陥った女性参政権運動を打開するために意識
的に「戦闘的」手段(ミリタンシー)を採用し、その
思惑通り、「上品なみなりのレイディが、会場整理
の無骨な男性によって集会場から荒々しく投げ
出される写真は、ヴィクトリア朝のリスペクタブルな
女性観に慣れた一般大衆には十分に衝撃的な
ものであった」し、「女性によるミリタンシーはまさし
くニュースになったのである」と指摘している(河村
2001:p.112)。これらを考え合わせると、WSPU は
そのメディア戦略を含めた活動方針によって自ら
の存在を上手くアピールし、結果として、対抗手
段として用いた柔術さえもそのイメージに取り込む
ことに成功したともいえるであろう。
その後、WSPU はイギリスの第一次世界大戦参
戦に伴い、1914 年 8 月、武装闘争と参政権要求
を中断することを宣言し、その後は政権からの資
金援助を得て戦時協力を行うようになる。この変
節には批判もあったが、エメリン・パンクハーストお
よび娘のクリスタベルの強力なリーダーシップと戦
時下という状況もあって、方針変更は維持された。
そして 1917 年、名称を「女性党」と変更するに至
り、最終的に WSPU は解体された。さらに 1918 年
3 月、第4回選挙法改正により 21 歳以上の男性
に加えて 30 歳以上の女性にも参政権が認められ、
一部限定はあるものの女性参政権運動の目的で
あった女性の普通選挙制がほぼ実現したことから、
種々の参政権運動は収束することになり、実戦手
段としての女性柔術も終焉を迎えることとなった。
VII 柔術と Jiu-jitsu:イギリスにおける女性の柔
術受容
1. 日英における女性柔術の相違:修養か実戦

これまで見てきたように、二十世紀初頭の一時
期、イギリスにおいては女性による柔術が非常に
特徴的なかたちで実践、受容されたことがわかる。
そもそも柔術を実践するイギリス人女性の数が限
られていた中で、それが実戦の手段として用いら
れたことは、イギリス人男性の柔術受容と比較し
ても大きな相違である。また、これは柔術の“本国”
と言える日本の同時代と比較しても、際だって特
異な現象であったといえるだろう。諸説あるが、日
本における組織的な女性の柔術実践は、講道館
柔道の成立後の 1920 年代以降であることを考え
ると、イギリスにおける女性の柔術実践はこれに
先んじている。また、「実戦」という側面を考えた時、
両国における柔術の違いは際立っており、日本
においては女性の柔術・柔道を実戦に用いること
はおろか、かなり時代が下るまで、乱取りや試合
を念頭に置いた実践は推奨されず、修養としての
側面に重きが置かれていた。こうした相違は、当
然ながら武術としての柔術や柔道の文化的意味
が日本の文脈から切り離され、イギリス社会にお
いて脱色されて独自の文化的文脈に位置づけら
れたためである。
また、この時期のイギリスにおける女性の柔術
は、男性のそれが身体文化的な価値観に包摂さ
れていったのに対し、「身体の小さい女性が体重
や筋力で勝る男性を倒す」という、むしろ身体文
化とは逆のベクトルの価値観を含んでいた。さら
に、イギリス人男性の柔術実践が、レスリングなど
他のスポーツと同じく競技として自己目的化して
ゆくこととも一線を画していたといえる。ここには、
日本とイギリスという国をまたいだ文化と、イギリス
国内における女性と男性というジェンダーの、双
方における相違を見ることができる。
2. 文化伝播としてのイギリス柔術
以上を踏まえて述べるならば、イギリスにおける
この時期の柔術は、当然ながら日本文化が海外
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伝播した一形態と捉えることができる。しかしなが
ら、グローバル化以前の二十世紀初頭に、日本
をはじめとしたアジア地域の文化が、近代の世界
秩序の中心国ともいえるイギリスおよびヨーロッパ
諸国に根付いた例はきわめて稀であり、そうした
意味で柔術は文化伝播の方向を考える上で非
常に興味深い事例ともいえる。
スポーツを含めた遊技的な文化の伝播に関し
ては、アレン・グットマンが『スポーツと帝国』(1997
年)において詳細に検討しており、文化帝国主義
の議論およびその批判の両側面から考察してい
る。グットマンは、スポーツを含む文化の伝播が近
代の帝国主義の力学に沿った、欧米諸国からそ
の他の地域へという方向性、つまりは“近代の中
心から周縁へ”、というあまりに単純化された図式
へ還元されがちであることに批判的であり、イデオ
ロギーとしての文化帝国主義よりも、文化的な双
方向性を担保した文化ヘゲモニー論に条件付き
ながら与する。そして、中心から周縁へという方向
に逆行する例としてポロやハイ・アライ(バスク人の
ペロタのキューバ版)などを挙げた上で、「逆伝播
のもっと顕著な例は柔道である」と述べている


さらには、「「異国の」スポーツを受容するという行
為は、通例その社会の比較的富裕で教育のある
層に限られてきた」と続けており(グットマン:1997
p.199)、これらの記述は本稿が考察してきたイギ
リスの柔術、特に上流・中産階級女性の柔術実
践の説明とも良く符合する。
ここでは、スポーツという文化を巡る文化帝国
主義/文化ヘゲモニー論の議論に深く立ち入る
ことはしない。しかしながら、少なくとも二十世紀
初頭のイギリスにおける女性と柔術の受容に関し
ていえば、一つの身体的な文化が近代という時
代の世界的な勢力図とは必ずしも一致しない方
向へと伝播し、さらにはその先で女性/男性とい
うジェンダー上の異なる受容をみせたことは、文
化が政治や経済の諸力とは異なる自律性を持ち
得るという可能性 即ち、文化ヘゲモニー論に
よる伝播の説明可能性の一事例として提示する
ことができるのではないだろうか
10

もちろん、こうした解釈に関しては留保すべき
要素も残されている。例えば、この時代にイギリス
やヨーロッパで沸き起こった東洋趣味という名の
オリエンタリズムを考えれば、柔術もまたそのような
エキゾティックな身体技法として帝国主義的まな
ざしによって消費されたといえなくはない。また、
そもそも列強による植民地化を回避するためとは
いえ、アジアにおいて自ら帝国化した日本を、
「文化帝国主義」の影響を被る側におくことが適
切であるのかという疑問も残る。これらに関しては、
今後、欧米の他地域、およびアジア諸国における
柔術受容を検証することによって明らかにしてゆ
くべき課題としたい。
【引用・参考文献】
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セオドア・ルーズベルト:英米における柔術/
柔道ブームの位相と身体文化」、『海を渡った
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初版は 1907 年)
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The Fine Art of Jujutsu, Heinemann, 1906.
________________________________________________________________________________________________________________________________

physical culture は、その語義に沿えば「身体鍛
錬」と訳す方が適切ではあるが、これまでの先行
研究事例において身体文化という訳語が用いら
れてきたため、本稿でもそれを踏襲した。

二十世紀初頭のアメリカにおける柔術を考察し
た以下の研究には、一部女性の実践に関する言
及がある。薮耕太郎「前世紀期転換期のアメリカ
における柔術をめぐる緊張関係 H.I.ハンコック
による柔術教本と“The New York Times”の分析
を中心に」(未刊行:立命館大学での研究会発
表資料)二〇〇七年

ミシェル・フーコー『監獄の誕生:監視と処罰』
(1977 年)参照。また、三浦雅士『身体の零度』
(1994 年)にも同様の視点が見られる。

造士會編纂による『サンダウ體力養成法』(1900
年)が発行されている。本書は雑誌『國士』に連
載された内容を増補の上、出版したものであり、
サンドウが提唱し、自らの書籍や雑誌に掲載した
鉄アレイなどを用いた身体鍛錬法がまとめられて
いる。また、本書には造士会長としての嘉納治五
郎による序文が付記されており、嘉納がヨーロッ
パを外遊した際にサンドウとその身体鍛錬法の評
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判を聞き及び、日本人の体力向上に資すると考
えて訳出した旨述べられている。

アントンバッドは、当時の身体文化メディアの主
な購読層が、中産階級の中でも特に下層中産階
級を中心としていたこと指摘している。ただし、後
に身体文化に包含されてゆくとはいえ、ブームの
当初、柔術を実践した人々の多くは上層~中層
中産階級であったことから、身体文化を支えた中
産階級の幅はかなり広いといえる。

本名は Emily Diana Watts であるが、後述する
柔術書籍の著者名は「Mrs. Roger Watts」として
いる。また、彼女にはもう一冊の著作(『The
Renaissance of the Greek Ideal』Frederick A.
Stokes Co., 1914.)があるが、本書では Diana
Watts (Mrs. Roger Watts) と併記しており、名称
を使い分ける理由は不明である。なお、“Roger”
は男性に多く見られる名ではあるが、女性名とし
ても通用している。

確認できる限り、イギリスで最も早く発行された
柔術に関する書籍は以下の二冊であり、前者は
柔術ブームの立役者の一人である上西貞一、後
者は谷と上西のマネージャーを務めたウィリアム・
バン キ ア に よ る も の で あ る 。 Sadakazu "Raku"
Uyenishi, Text Book of Ju-Jutsu as Practised in
Japan, London : Athletic Publications, 1905.
Bankier, William. Ju-Jitsu: What It Really Is,
London: Apollo's Magazine, 1905. 尚、翌年
1906 年には、谷と三宅太郎(一時期、谷と共にゴ
ールデンスクウェアの道場で柔術を指南していた)
による書籍も発行されている。Taro MIYAKE and
TANI (Yukio), The Game of Ju-Jitsu, for the use
of schools and colleges: 91 illustrations.
Drawings by George Morrow. Edited by L. F.
Giblin and M. A. Grainger., London : Hazell,
Watson & Viney, 1906. これらを考え合わせると、
ワッツによって初の女性による柔術教本が同年に
発行されていたことは、驚くべき事といえるかもし
れない。

こうした、柔術が実践として有効に機能する空間
的な条件や間合いに関しては、池本淳一氏(早
稲田大学スポーツ科学学術院)から重要な示唆
を受けた。

ただし、ここでは「この競技がヨーロッパと合衆国
に定着したのは、第二次世界大戦に敗れて占領
下におかれた日本が、瓦礫の中からかろうじて復
興しはじめた頃のことだったからである」としており、
柔術(柔道)の欧米伝播に関して時代的な誤りが
ある。この記述はグットマンが参照した先行研究
に基づくものであるが、現在、柔術や柔道の伝播
がこれよりはるかに早かったことは、複数の研究に
よって明らかにされている。(代表的なものとして
は『海を渡った柔術と柔道』(引用・参考文献)参
照。)
10
こうした伝播の方向性が逆転する他の事例とし
ては、ジェムとフィスターによる、カナダにおけるラ
クロスの近代スポーツ化と文化の相互転 移
(cross-cultural transfer)が挙げられる。(Gems,
Gerald,
R.
and
Pfister,
Gertrud,
Understanding American Sports, Routledge,
2009: pp.40)
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