日本刀の闇 百人斬り事件の真実

百 人斬りとはなにか

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「百人斬り」のテキスト解析

2006.07.06 上網

「百人斬り競争」の基本資料は多くない。論争を紛糾させるのは、当事者すなわち、二少尉と記者による戦後における発言がそれぞれ自分を弁護・擁護するため に事実を曲げている、あるいはその可能性があるとされ、肯定派、否定派の解釈がはじめから激突するという点にあるだろう。

そこで、あらかじめどちらかの立場によって論証を開始することを避けるため、この小論では戦後の当事者の発言を使用することなく、 基本中の基本である当該新聞記事のみでどのような判断を下すべきかを論じた。これまで、記事資料としては東京日々新聞の記事のみが用いられており、これが議論の前提として用いられていたがいたが、記者が書いたオリジナルは大阪毎日新聞の記事であることが判明した。

よって、東京日々新聞の百人斬り記事およびこ大阪毎日新聞記事を併せて提示し、浅海記者が当時どういう意図を持って書いたのか、簡単なテキスト解析を行う。

1.第1報のテキスト
(青字は東京日々新聞、大阪毎日新聞の相違点、赤字は 一方にあって他方にない文字、文章)
1937年11月30日付東京日々新聞朝刊(第1報)

(見出し)百人斬り競争! 両少尉、早くも八十人
(本文)【常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発】 常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に 立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある、無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊 向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は 鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名 乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた 。
その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。
向井少尉 この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ。
野田少尉 僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ。



 
昭和12年12月1日付大阪毎日新聞夕刊 <段落は便宜上、筆者が入れた。>

(見出し)南京めざし 快絶・百人斬り競争/
『関の孫六』五十六人を屠り/伝家の宝刀廿五名を仆す/片桐部隊の二少尉

(本文)【常州にて二十九日光本特派員発】 常熟、無錫間の四十キロを六日間で破った○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で破ってしまった。神速といはうか何といはうか、仮令(たとへ)ようもないこの快進撃の第一線に立つ片桐部隊に、「百人斬り競争」を企てた青年将校が二名ある、しかもこの競争が無錫出発の際初められたというのに、一人はすでに五十六人を斬り、もう一人は二十五人斬りを果たしたという。一人は富山部隊向井敏明少尉(山口県玖珂郡神代村出身)、もう一人は同部隊野田毅少尉(鹿児島県肝属郡田代村出身)である 、

この二人は無錫入城と同時に直ちに追撃戦に移った際、どちらからともなく、「南京に着くまで百人斬りの競争をしようじゃないか」という相談がまとまり、銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば、野田少尉も無銘ながら先祖伝来の宝刀を誇るとい つた風で互いに競争するところあり、無錫進発後向井少尉は鉄道路線北六、 七キロの線を大移動しながら前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり、いったん二人は分かれ分かれになったが、出発の翌朝、野田少尉は無錫を さる八キロの無名部落で敵トーチカに突進し、四名の敵を斬り伏せて先陣の名乗りをあげたが、このことを聞いた向井少尉は奮然起って、その夜、横林鎮の敵陣 に部下とともに躍り込み、五十二名を斬り捨ててしまった 、その後野田少尉は横林鎮で九名、威野関鎮で六名、最後に廿九日常州駅で六名と合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名を斬り記者等(光本、浅海、安田各本社特派員)が駅に行ったとき、この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかった 、両少尉は語る、

<向井少尉> この分だと南京どころか丹陽で、俺の方が百人くらい斬ることになるだろう、野田の負けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたった一つしかないぞ
<野田少尉> 僕等は二人とも、逃げるのは斬らないことにしています、僕は○官をやつているので成績があがらないが、丹陽までには大記録にしてみせる
 記者らが、「この記事が新聞に出ると、お嫁さんの口が一度にどっと来ますよ」と水を向けると、何と八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのりと赤めて照れること照れること


大阪毎日新聞(以下、大毎と略す)の記事は一読して今まで議論の前提として使われていた、東京日々新聞(以下、東日と略す)の記事とかなりの違いがある。

中でも大きな違いは

(1)日付が違う。東京日々新聞1937年11月30日付朝刊、大阪毎日新聞12月1日夕刊。
※当時の習慣では夕刊の日付は翌日の日付が表示される。すなわち、大阪毎日新聞の12月1日夕刊を発行したのは11月30日である。
(2)記事を書いた特派員の名前が光本単独になっている、記者の順列が違う。
(3)大阪毎日版には東京日々版にない文章がある。
(4)大阪毎日版のやや冗長な部分が東京日々版では刈り込まれ漢語調が徹底されている。
(5)向井少尉の斬殺数の明細が大阪毎日では合っている。

この5点である。
では、東京日々新聞記事との違いは何に起因するのか。 浅海記者のオリジナルはどち らなのか、あるいはどちらがオリジナルに近いのか。
 

1.おそらく、浅海記者が書いた電文は東京に送信され、大阪に転送された。そのために大阪では記事が半日遅れたと推定される。

2.(大毎)で光本特派員発となっているのは、社内の地位では光本氏が上であり、浅海、鈴木、安田の各氏を統括する位置にあったためであろう。浅海氏が東 京本社の社員、光本氏が大阪本社の社員であり、当時は東京、大阪の社内での競争意識が激烈だったため、浅海氏の名前は取材グループの長である光本氏の名前 に差し替えられた。
※記事冒頭で(光本特派員発)と銘打ったため、その穴埋めとして記事本文中に(光本、浅海、安田各本社特派員)を入れているが、実際は光本は浅海らと同行しておらず、安田は電信技師でこれもその場にはいなかったと考えられている。

3.(東日)と(大毎)の記事を比較すると、(東日)にあって、(大毎)の記事にないのは両少尉の年齢の部分だけである。しかし、他はすべて(大毎)の記 事が量が多い。(大毎)の記事から(東日)の記事を作ることは出来るが、逆は出来ない。すなわち(大毎)記事がオリジナルであり、年齢だけは(大毎)が原 文から削除したと考えられる。

4.(東日)の文章が簡潔で分量が少ないのは、東京では編集部が浅海記者の原稿を徹底して推敲したものを載せ、大阪では浅海記者の文章をほぼ原文通り載せ たからと考えられる。東京では身内の文章なので遠慮することなく、推敲して冗長な部分をカットしたが、大阪では東京の社員の記事に手を入れることまではさ すがに憚られたので、ほぼ原文通りの記事が載せたと思われる。

5.テキスト解析中で後述するが、向井少尉の斬殺数の明細の不一致は(東日)の単純ミスで(大毎)が正しいと思われる。


以上より(大毎)の記事が浅海記者の原文により近いものと考えられる。よって、(大毎)記事を中心にテキスト解析を行う。

第一段落
部隊の快進撃を語っている。常熟、無錫間より無錫、常州間の進軍が加速していることから敗勢の中国軍が雪崩を打って潰走し始めていることを示すものだろう。戦闘らしい戦闘はなくなり、完全な追撃戦になったことを示している。歯切れのいい文章である。

第二段落
(東日)では「鉄道路線廿六、七キロの線」となっているが、同じ部隊で26,7キロも離れるのはおかしい。これは活字を拾うときの単純ミスで、「北」と「廿」は字形が似ているため の間違いであり、(大毎)の「鉄道路線北六、七キロの線」が正しい。

(東日)では「第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある、無錫出発後・・」と概括的に書かれており、どこで競争が取り決められたか不明であったが、(大毎)では第一段落「この競争が無錫出発の際初められた」、第二段落「追撃戦に移った際にどちらからともなく「百人斬り競争」の相談がまとまった」とあり、無錫出発前後から競争が始まったことが明記されている。※どこから、競争がはじまったかは論争点のひとつになっている。

「トーチカに突進」も「敵陣に躍り込み」も非常に勇ましい。野田少尉が四名、九名、六名、六名と少人数ずつなのに、向井少尉が一時に五十二名というのは疑わしい。とにかく、驚倒すべき奮戦ぶりである。


第三段落
向井は上機嫌で勝ち誇り「南京どころか丹陽で百人くらい斬るだろう」「野田の敗けだ」とテンションが高い。それに対して、野田も「丹陽までには大記録(百人のことであろう)にしてみせるぞ」と一歩も引かない決意を明らかにしている。

ところで、(東日)では横林鎮で五十五人、常州駅付近で四名斬っているので、計五十九人のはずであるが「五十六人斬つて歯こぼれがたった一つしかないぞ」と数があっていない。(大毎)では横林鎮で五十二人、常州駅付近で四名で五十六人 と数があっている。 記者たるもの、一線の報道部員であろうが、後方の編集部員であろうが、各数字と総数の一致については敏感なはずである。万一送信原稿にミスがあったとしても編集段階で勝手に辻褄を合わすことも考えられない。 (大毎)記事の数が合っているということは、こちらが正文であり、やはり (東日)で活字を拾った際の単純ミスであろう。

ところで野田は「僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます」となぜ言ったのだろうか。もともと日本刀というのは 至近距離の敵しか斬れないと考えられる。また、仮にも敵兵であってみれば、逃げる敵を斬らない、などと 武士道精神を宣揚するのはおかしい。みずからの戦功を誇り、報告するためにはまったく不必要な言葉であるから、何らかの質問に触発して発したとしか考えられない。

1.実は逃げる敵だから斬れるという観点もあります。それについてはのちほど。2.なぜ言ったかは「『ホラ』と『冗談』」で解説します。

逆に浅海はなぜこの言葉をわざわざ記録したのだろうか。 もしこの言葉が野田少尉が自発的に言った言葉であったとても、浅海の立場からは特に採り上げる必要のない言葉である。 この言葉を記録した理由はただひとつである。二少尉の言葉を逐一記録するうちにあまりにも超人的な戦功なので、本当に斬ったのか、と問いただした、と考えられる。その答えがこれであり、印象に残った言葉であったので、 そのまま書き残した、というのが真相であろう。

「お嫁さんの口」についての発言は(東日)にはなかったが、二少尉の獄中での主張に再々出て きたので真実であろうと私は考えてきた。(大毎)の記事にも出ていることから事実であったことが確認された。この文章も浅海が戦功記事として練り上げたにしてはまったく余分なものである。このエピソードも戦功記事としてはゆるみが出ると判断されたため、(東日)では削除され たようである。

ところで、賞賛した主体は「記者ら」とあるのは誰なのか。一人は浅海記者であるが、他は誰であろうか。佐藤カメラマンか、安田無線技師しか考えられないが、浅海回想にも佐藤回想にも安田は登場しない。 あるいは『記者ら(光本、浅海、安田各本社特派員)』と 実際にはいなかった記者を編集段階で入れたための辻褄あわせだったのか。しかし、日本語では単数と複数をことさら区別しないのが普通であり、何人かの記者 が聞いても「記者」と書いておかしくはない。これに対して純粋な記者の職種には属さない、報道カメラマンを一緒にして記者と単数形で書くことは通常避け る。とすれば佐藤カメラマンも賞賛に加わったと解するのが最も適当であろう。

記事に出てくる固有名詞と時日の記録はそれなりに具体的である。二人の戦闘報告には勇敢さを強調する語彙が当てられてはいるが戦闘の大局的な記述は乏しく、結果として 極めて局地的な人斬りスコアがあるのみである。記者が正確を期すために、補充質問をしたり、裏をとったような客観的な記事には読めない。二少尉の高揚感に同調しつつ書き留めた気配が濃厚である。

二少尉の発言はリアルであるが、euphoria、昂揚感と戦功の誇示の気持ち、友情と競争意識が溢れている。記者の賞賛に舞い上がっている二少尉の姿も印象的である。 浅海記者の原文は戦意昂揚のための記事というよりは、戦場でのひとコマといった趣であるが、(東日)の編集意図は戦意昂揚の面を強化している。

テキスト解析自体として、二少尉の驚異的戦功は到底信じられないものの、記事全体としては記者の創作・捏造であるとは考えられず、二少尉が言ったままをズラズラと記録し、後で前後の体裁を整えるようにしたものである。


2.第2報
1937年(昭和12年)12月4日東京日日新聞朝刊
 
(見出し)急ピッチに躍進/百人斬り競争の経過

[丹陽にて三日浅海、光本特派員発]
(本文)既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入塲(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となつた。

常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。

中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつゝある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。

野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰ふよ。


 
1937年(昭和12年)12月4日大阪毎日新聞朝刊 

(見出し)百人斬り競争 後日物語/八十六名と六十五名 鎬をけづる大接戦!/ 片桐部隊の向井、野田両少尉/痛快・阿修羅の大奮戦

 丹陽にて【三日】浅海、光本本社特派員発
 (本文)既報南京をめざして雄々しくも痛快極まる「百人斬り競争」を開始した片桐部隊の二青年将校、向井敏明少尉、野田毅少尉両勇士は常州出発以来も奮戦につぐ奮戦を重ねて二日午後六時丹陽に入城したが、かたや向井少尉はすでに敵兵を斬つた数八十六名に達すれば野田少尉も急ピツチに成績をあげ六十五と追いすがり互いに鎬をけづる大接戦となつた、

即ち両勇士は常州、丹陽たつた十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つたわけで壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである、 何しろ両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上で奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北)の激戦で敵陣に飛び込んでは斬り躍り込んでは斬り、中でも向井少尉は丹陽城中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつつある、 記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する部隊を追ひかけると向井少尉は行進の隊列の中からにこにこしながら

野田の奴が大分追ひついて来たのでぼんやりしとれん、この分だと句容までに競争が終りさうだ、そしたら南京までに第二回の百人斬競争をやるつもりだ、野田の傷は軽いから心配ない、陵口鎮で斬つた敵の骨で俺の孫六に一ケ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人は斬れるぞ、大毎、東日の記者に審判官になつて貰ふワッハッハッハ

と語つて颯爽と進んで行つた

第2報も細かい部分でかなり異同があり主な部分のみ赤字で示すが、第1報でみたように(大毎)が原文であろう。
(大毎)の記事中の「急ピッチに成績を上げ」は(東日)の見出しに転用されている。注目されるのは「この分だと句容までに競争が終りさうだ、そしたら南京までに第二回の百人斬競争をやるつもりだ、 」の一文で早くも二回目の百人斬り競争を予告していることである。
(大毎)第2報では戦闘をした地名が出てくるし、城門一番のりとか負傷の話が出てくるが、戦闘の状況説明はなく、形容句があるのみで第1報より、曖昧である。


3.第3報
第3報は記事同文で、見出しのみ違うので(東日)は割愛して、(大毎)のみ掲示する。(東日)の見出しは89-78/〝百人斬り〟大接戦/勇壮!向井、野田両少尉 とある。(大毎)第3報の記事には常州で撮影された写真が掲載され、(東日)には掲載されていない。(東日)ではこの写真 が第4報で掲載される。
 
1937年(昭和12年)12月7日大阪毎日新聞朝刊 

(見出し)百人斬り競争の二少尉/相変らず接戦の猛勇ぶり

(本文)丹陽にて【三日】句容にて【五日】浅海、光本本社特派員発
南京を目ざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井敏明、野田毅両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦、入城直前までの成績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた

(両少尉の写真)
敗けず劣らずの野田少尉(右)と向井少尉(左) (常州にて-佐藤本社特派員撮影)



4.第4報
第4報は見出しを除いて記事は同文である。(大毎)は割愛する。

1937年(昭和12年)12月13日 東京日々新聞朝刊

(見出し) 百人斬り〝超記録〟向井 106-105 野田/両少尉さらに延長戦

(本文) [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発] 南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した
野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十 人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた、十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百 人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち
知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にし たからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を 「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ
と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。
(写真説明)〝百人斬り競争〟の両将校/(右)野田巌(ママ)少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影。
 


第3報と第4報では第1報のような戦闘場面の描写がまったくない。第4報のとき行われている戦闘は「敗残兵狩」とあるので、一方的な掃討であって五分の白兵戦ではないが、その様子さえも説明がない。あるのは斬殺数データだけである。 記事内容のほとんどが向井少尉の一方的な怪気炎であって、euphoriaに包まれた大言壮語である。

下線の部分は向井氏の特徴である、大言壮語、ほら吹きの性格が如実に出ている。後に向井少尉が残した文章、向井氏に接したことがある人が伝えた向井少尉の発言 と較べれば本人の口吻であることは明らかである。この記事が記者の創作であると二少尉は主張し、後に否定派も主張するのだが、向井氏の発言を実際に聞くことなしにこのような生き生きとした セリフを伝えることはちょっと無理である。(このようなことを言うと否定派が埒もない反論を縷々並べるのですが、たとえば 俳句の三十一文字でさえ、個人、個人の特徴が出てきます。私とK-Kさん、ゆうさんが、あるテーマで1行書いても、誰がそれを言ったか、名前を伏せても必ずわかります。否定派というのは文学的センスも皆無ですからそのようなことが理解できないのです。)

ところで向井少尉は(大毎)第2報で、孫六の刃こぼれは敵兵の骨で出来たといっていたが、今度は鉄兜を唐竹割したからだと言う。euphoriaのためほらがより大げさになったらしい。野田回想メモでは「上海方面デハ鉄兜ヲ、切ツタトカ云フガ」と二人の間で新聞記事が話題になっていたことを示唆するが、その当たり に刺激されてのホラらしい。

向井は相当な上機嫌でEuphoriaに包まれている。いかに誇大な表現に溢れているが実は、この頃の新聞の○○人斬りと共通したテーマが多い。
(1)さすがに刃こぼれ-「激戦」の証拠として刃こぼれや刀の損傷が言及される
(2)鉄兜を斬った-鉄兜を斬るという新聞記事がすでに出ており、二少尉はそれを記憶していた
(3)弾雨の中を・・・ひとつも当たらずさ-勇敢な軍人が日本刀を手に、弾雨の中でも動じないというテーマ
(4)二人が百人斬りをめざして戦うというのはこの記事の中核であるが、複数の軍人が○○人斬りを果たすというテーマは他にも数多い。
(5)両少尉は〝アハハハ、/知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、/だが改めて百五十人はどうぢや-武功を果たしたあとで、異常なEuphoriaがみられ、さらなる戦功を呼号する。
 

結語

さて、これまで光を当てられなかった大阪毎日新聞の記事によって百人斬りの記事の実像に迫ることができた。

(1)戦功に酔った二少尉の談話のある意味リアルな再現であり、記者が「そら」で創作するのは非常に困難であること。
(2)戦闘の客観的な経過の詳細が少なく、局地的な戦闘の、それも当事者個人による報告であること。
(3)その戦闘も、本格的戦闘ではなく敗残兵の掃討や、投降兵の即時処断である疑いが残る。
(4)記者の姿勢は戦場でのひとコマというものであったが、特に東京日々新聞では、編集部によって武功談として編集された。(否定派や肯定派の一部も含めて、記事は戦意昂揚のために書いたとする説 を立てるが、オリジナルは戦場のひとつのエピソードという側面が濃厚である)

私の判断は 以上のようなものであるが、この見方がただちに否定派や初学者の同意をただちに得るだろうとはもちろん考えてはいない。このことはさらに、

(1)当時の日中戦争の報道の様相
(2)日本軍将兵さらには一般国民に日本刀及びそれを使った戦闘に対する憧れと美化が生じた歴史的背景
(3)武功をなしたものによる「ほら」の心理的分析

を通じて立体的に明らかにしていく積もりである。
 

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報 道された○○人斬り
        「百人斬り」報道に至る軌跡
           2006.7.6 上網

 
百人斬り競争の報道はひとつの孤立した、突出した戦争報道のひとこまであった のではない。それ以前にも、そしてそれ以後にも多くの「○○人斬り」という報道があり、そしてそれは士官、将校ときに兵士たちの日本刀を揮っての武勲に対 する憧れから発言されたものであり、その報道であったのだ。○○人斬りの様相は日中戦争の戦況により、発展し、百人斬り報道を経て変質していく。小論では その発展を述べる。



日中戦争初期の新聞報道を通読して気づくことは、
 
1.日本刀が実戦で多く使われていること
2.また、その報道が多いこと
3.日本刀を振るって勇敢に戦う、死を恐れず戦うということが一つの規範となっていたこと
4.将兵が日本刀を使って戦うことに実際的な効果以上の意義を見いだしていること
5.捕虜の据えもの斬りの体験を経て実戦に赴く例のあること
6.白兵戦の機会が少なくなった時期にかえって戦闘の詳細なしの○○人斬りの報道が増加していること
7.戦闘の詳細なしの○○人斬りはほとんどが私信であること

○○人斬りという見出しが付けられた中にもいろいろなケースがある。下欄の番号はおおむね時代順に推移している。
 
1.将兵個人の突撃戦闘 敵陣や塹壕に真っ先に飛び込んで、敵兵数人を倒したと いうもの
2.集団的白兵戦 集団的な白兵戦において、士官、下士官クラスが多数の敵兵を日本刀で倒したとする もの
3.敗残兵・投降兵の即時斬殺 敗残兵の掃討、投降兵の即時斬殺、斬首例としか考えられないもの
4.兵士個人による○人斬り報告 戦闘の具体的詳細が明らかにされないまま三十人、四十人あるいはそ れ以上を斬ったと称するもの
5.捕虜・民間人を斬首したという私信 捕虜を斬首したことを明らかにしている例、あるいは民間人と 思われるものを斬ったという例

日本刀を揮っての突撃がもっとも英雄的であり、またそれができるという国民的ファンタジーがあった。白兵戦の機会が少なくなった時期に 将兵の憧れの武功目標として戦闘での斬殺の代りに据え物斬りが代用となった。

 


1.将兵個人の突撃戦闘  敵陣や塹壕に真っ先に飛び込んで、敵兵数人を倒したというもの

敵陣や塹壕に真っ先に飛び込んで戦うという例は最もヒロイックな例であって、おそらく兵士の功名心を最も刺激するイメージであろう。
 
1.東京朝日新聞 1937.8.30 敵五名を斬り/壮烈な戦死/奮戦した藤田部隊長

去る二十四日平漢戦良郷西方の大安山北方○○の山地攻略戦に敵陣に突撃して壮烈な戦死を高田部隊長以下の弔い合戦は二十七日の払暁を期して開始され岡本部 隊の精鋭は雪辱の意気に燃えて猛烈攻撃の火蓋を切り、我の砲銃声は暁を破って大峡谷にこだまし凄壮を極めた、藤田部隊長は自ら先頭に立って敵の塹壕に殴り 込み青龍刀を振翳して斬ってかかる支那兵を伝家の日本刀を以つて斬り捲り腕胸数カ所に傷を負うたが、これに屈せずなおも奮戦支那兵五名を袈裟掛けに斬り倒 した、この時敵の一弾は無念部隊長に命中し壮烈なる戦死を遂げた、隊長とともに敵陣に殴り込んだ我が兵は隊長の戦死を見るや敵兵の青龍刀をもぎ取ってこれ また獅子奮迅遂に部隊長の仇を取った

2.東京朝日新聞 1937.9.1  天嶮の敵陣地へ/躍り込んだ肉弾/湯浅部隊の猛攻撃

【部分】二十日夜の夜襲の際のごとき小畑○隊長が重傷を受けるや徒伏部隊長これに代わって○隊を指揮銃眼から雨霰と飛び来る弾丸を物ともせず突撃を敢行し 頑強に抵抗する敵兵 を刺し殺して遂に占領逆襲する敵を攻撃しつつ激戦は二十一日朝に及んだ、これがため湯浅部隊にも戦死傷者を出し目下○○病院に収容中であるが、

3.東京朝日新聞 1937.9.10  上海戦未曾有/今暁の大激戦
            壮烈・飯田部隊長戦死/勇奮・弔合戦に起つ/軍工路逆襲の敵を痛撃
4.東京朝日新聞 1937.1017 白鉢巻の抜刀隊長/トーチカを粉砕討死
(抜刀隊を組織しトーチカの敵百数十人を殲滅したが隊長他は戦死したというもの) 
5.東京朝日新聞 1937.10.23 誓合ふ三途の川/阿修羅の三勇士散る
(敵陣地に三人で突撃して二十数人を斬ったが、衆寡敵せず全身に傷を負って散ったというもの)


この5本の記事は敵陣も塹壕に隊長を先頭に斬り込んだというものである。 しかし、ここまで危険な白兵戦を敢行するというのはおそらく日本特有の事情であろう。ここには「死を鴻毛より軽く見る」という軍による教育が徹底されてい るのを伺うことができる。欧米の例であれば、 火力を集中してギリギリまで敵の消耗を待ってはじめて突入するであろう。

狭い陣地、あるいは塹壕に飛び込めば腹背に敵を負うことになり、いくら剣の達人でも危険である。(日 本刀の専門家は陣地内で戦うには一尺八寸の刀を推奨している。通常の日本刀の刃渡りは二尺四、五寸である)。案の定、無謀な突 撃を強行した結果 は多くが戦傷、戦死しているのである。 面白いことに敵陣地によじ登って最初は日本刀で戦っていたが、途中でピストルに持ち替えて、そのほうが多くの敵兵を倒しているという記事さえある。少しで も敵との間隔があくと銃砲のほうが有利なことは当然である。

ところで疑問に思うのは、隊長氏が斬った敵兵の数であるが、これをどうして勘定したのであろうか。隊長氏が生還していれば、とにもかくにも本人申告を採用 するであるが、部下に隊長氏の戦果を確認する余裕がどれだけあっただろうか。
4.などは何人の抜刀隊であったか不明だが、援護射撃も当然あったはずである。しかし、報道の焦点は抜刀隊だけに当てられている。

報道にある、無謀とも思える敵陣突入と田中軍吉中隊長の冷静な敵陣突入のエピソードを比較してみよう。
 
『1937南京攻略戦の真実』 東中野修道編  
我らの田中軍吉中隊長殿-歩兵第四十連隊(鹿児島)第十二中隊 K・T

五月二十一日はリョウ山の討伐であります。<中略>
リョウ山の敵陣地は鹿柴があり、掩蓋壕があり、さらにトーチカまで構築されて、なかなか堅固な陣地であると聞かされました。
いんいんと轟く砲声の下を、胸をとどろかせながら戦友に続きました、中隊は敵鹿柴と相対峙する小高い山を占領、ここで突撃準備をいたします。
彼我の重火器の応酬は物凄いばかりでした。友軍の砲弾は、次々に敵の掩蓋、鹿柴を吹き飛ばします。その光景は、全く映画でも見るような気が致しまして、緊 張した中にも何だか夢心地といった感じであります。
しかし損害は敵ばかりではありません。友軍にも忽ち四、五名の負傷者が出ました。
敵は死物狂いです。特にチェック機銃は、頭も上げられないほど猛烈に正確に、猛射を浴びせかけます。
こうした中に我らの中隊長殿は、鉄兜も未だ被ってはおられません。そして絶え間なく敵陣を観ては、軽機に、擲弾筒に、射撃の目標を命じておられるのでし た。
初陣の私は敵が見たくてたまりません。戦友三、四人と、山の中腹を攀じ登りますと、ちょうど中隊長のおられる足下に出ました。頭を上げて敵の方を見ようと した時です。
「馬鹿、危ないじゃないか、下がれ下がれ」
とものすごい大声で叱られました。中隊長こそ危ないじゃないかと、ぶつぶつ言いながら中腹まで退りました。
その頃から友軍の砲撃は一層猛烈になりました。
間もなく、中隊長の軍刀が、さっと天空をきってひらめきました。突撃です。
私も遅れてはならじぬと稜線に駈け上がりますと、もう中隊長殿は敵鹿柴に迫っておられます。
軍刀が前後左右に振り下ろされる。忽ち敵死体が三つ、中隊長の足下に横たわりました。
無我夢中のなかにも、この光景は強く頭に焼きつけられました。
喚声が敵陣地深く、何回となく上がりました。突撃成功です。敵の遺棄死体が十数個ころがっています。
向こうの山脚を、転ぶようにして逃げる数十名の敵に、狙撃の火蓋が切られました。
リョウ山山頂で天地も轟けと、万歳が三唱されました。

『1937南京攻略戦の真実』は日中戦争当時書かれた、日本軍が奮戦したエピソードを集めたものである。田中軍吉中隊長とは捕虜の斬首 で南京法廷によって裁かれたもう一人の人物である。筆者の田中軍吉に対する賛嘆の念は強いが、敵陣地への斬り込みの情景は 実見しているだけに新聞記事よりリアルである。 敵陣はまだ戦意旺盛であり、田中軍吉が敵陣に火砲による攻撃の指示を与え、十分な打撃を与えるまで慎重に戦機を待っているのが印象的である。また、田中軍 吉が斬った敵兵は三名、逃げた敵兵は数十名であ る。敵の遺棄死体が十数名は、兵士の銃剣刺突によるものと射撃によるものが混在するであろう。 決して相手と一対一に斬り結ぶようなものではなく、剣の達人が一瞬の隙をついて突進し怯んだ敵を追いすがりつつ斬っているのである。

日本刀、銃剣による陣地、塹壕突入はけっして多数の敵を倒 すことはない。多数の敵を「斬った、斬った」としているものは実はすでに敵が戦意喪失しているものと考えられる。敵の戦意横溢するにも関わらず、無謀な突 撃をして 死傷しているのは日本軍の作戦指揮の偏りを示している。

2.集団的白兵戦中の○人斬り  集団的な白兵戦において、士官、下士官クラスが多数の敵兵を日本刀で倒したとするもの

 
1.東京日々新聞 1937.9.2  四十人までは数えたが/後は覚えぬ千人斬り
                   殊勲・和知部隊の夜襲 
羅店鎮正面の戦闘に関し○○当局は一日午前左の如く語った。
○○付近に上陸した○○部隊は先ず羅店鎮の敵を撃滅して爾後の作戦を容易ならしめんと永津、和知部隊を並べて二十七日から攻撃を開始した、その日はまだ○ 兵の主力を使用する事出来ず敵前概ね二キロまで接近して夜に入ったこの晩に至って和知部隊は夜襲によつて韓宅付近を攻略すべく揚家宅付近から南進を開始し 遙家村東側地区を通過しようとする時、急に右側方面より有力な敵の攻撃を受けたので和知部隊長は全部隊に対し右側攻撃前進を命じ、自ら陣頭に立って斬り込 んだのでその側にいた将兵は期せずして部隊長を傷つけまいと左右に蝟集し一発の弾丸をも撃つことなく敵陣に斬り込み当たるを幸ひ薙倒し、突倒した、 恒岡部隊長の如きは伝家の宝刀を振翳して手当たり次第に斬りまくり、三十余名の敵を斬倒し、○○准尉は四十名まで数えては斬ったが後は覚えないという猛烈 さであった。翌二十八日朝、 薩家村付近に遺棄されてあった敵の死体は五、六百であったが悉く斬傷、突き傷であったのを見てもこの白兵戦の物凄さを想像することが出来る、 二十八日○○部隊羅店鎮を占領するや和知部隊長は羅店鎮東北側付近の家屋に陣取ったが、東南方周家宅、朱家宅付近の敵砲兵隊から盛んに射撃を受けその家屋 にも敵弾が命中し屋根の半分が吹き飛ばされる有様であったが、部隊長は泰然として悠悠刀を杖つきつつ、煙草をくゆらせて戦闘の指揮を続けた、上陸以来和知 部隊長の豪胆振りは部下一同の敬服する所で弾丸雨飛の中でも姿勢を低く構えるでなし■物を利用して身をかくすでもなく凛然刀を握って部下の士気を鼓舞し部 下は隊長の姿を見て勇気百倍するという有様であった。

2. 東京朝日新聞 1937.9.2 隊長白刃を揮い突撃/敵兵四十名を薙倒す/羅店鎮・闇の修羅王
(ほぼ同様の記事である)

3. 東京朝日新聞 1937.9.4  羅店鎮闇夜の死闘/藤田曹長魔神の働き
                日の丸鉢巻十七名/六百の敵を斬り捲る/やっつけた百余名
<六百名の部隊と二十メートルまで接近し、声をかけたところ、支那語の返事が返ってきたので、覚悟を決めて日本刀で斬り込んだ。戦闘が終わって部隊に復帰 した五名が戦闘の場所に案内したところ、敵兵百名が倒れており、日本側は藤田曹長以下八名死亡、四名負傷であった>


4.東京日々新聞 1937.9.3 日章旗に四つの弾痕/白兵戦を目の当り/"千人斬り部隊"を訪ふ
5.福島民友新聞 1937.9.3 肉弾突貫勇士/伝家の宝刀抜いて/四十人を大根斬り(内容は3.の転載)
6.東京朝日新聞 1937.9.10 三十四人撫斬り/刃が鋸になった恒岡部隊長
7.東京朝日新聞 1939.9.19 三十六人を斬る/鬼準尉が大殺陣
8.福島新聞   1937.9.20 三十六人斬り/羅店鎮、馬詰准尉奮闘(7.の転載)
9.東京朝日新聞 1937.9.23 斬ったり、敵六百/安田部隊長等血達磨
  (塹壕に集団で躍り込んだというもの)

10.新愛知 昭和十二年十月二日 祐定の銘刀揮ひ/敵を撫で斬り/凱旋、白衣の勇士大久保少尉/楊行鎮の激戦を語る
【部分】
多数の出迎へを受け直ちに○○陸軍病院へ収容されたが大久保少尉を訪れ血腥い武勇談を聴くと支那兵を撫で斬りにしたといふまだ血の付いたままの銘刀備前長 舟祐定を示しながら語る
八日の顎家の戦闘のときです部下を率いて弾丸の如く敵陣に突撃、狼狽する支那兵を部下が銃剣で片っ端から芋刺しに突き倒したが自分も軍刀で抵抗する三名の 支那兵をブチ斬ったり突き殺し軽傷を負ってまごついている奴等を片つ端から斬ったりして息の根を止めてやった、自分の経験からいふと軍 刀で斬るより突き殺す方が効果的だ、<中略>
出征当時から無傷の支那兵十人を斬り殺せば死んでもよいと決心していたが三人しか無傷の支那兵をやつつけていないので残念だ早く癒って再び戦場に駆けつけ 本望を遂げたいとおもっている

11.東京朝日新聞 1937.10.11 廿六人斬り/藤崎部隊長の血闘
  (敵を二十メートルまで引きつけて白兵戦に及び、藤崎部隊長が二十六人斬ったというもの)
12.東京朝日新聞 1937.10.18 左手に流血を拭ひ/敵七人を片手斬り/加納部隊 三上見習士官

1.2.東京朝日新聞の記事も総合すると夜襲をかけようと行軍しているとき、敵から様子見の銃撃があったらしい。敵の所在を知った和知部隊長が間近に敵が いることを察知し、発砲することなく、敵に接近し軍刀、銃剣による突撃を敢行した。遺棄死体五、六百の死因が刀傷か銃剣の突き傷という のは、戦国時代の合戦を思わせるものがある。相手の不意をついての突撃で白兵戦に完勝したケースであるが、もしも、敵が日本軍の接近に気づいて機銃掃射で もしていたら、大損害を被る危険もあった。

また、部隊長などが何十人も撫で斬りにしたとあるが、集団戦の中の斬殺であってみればそもそも、一撃で致命傷を与えたのか、それとも兵士の銃剣によってと どめを刺されたのか不明である。刀が敵兵の体に当たっただけで斬った、斬ったと錯覚している可能性もある。そもそも集団戦の中での殺害であり、個人だけの 力ではないので、何人斬ったと いって個人記録のように言うのは適当ではない。数では多数を占める銃剣を持った兵士の中にはもっと多くの敵兵を刺殺したものがいるかもしれない。集団戦で は斬るよりは突く方が遙かに実際的であるとは軍刀で戦ったものも指摘するところだ。それでも新聞記者は銃剣で何人突き殺したという 方を記事にすることはない。

3.の例は気がついたときは銃撃より銃剣突撃の方が有利であるほど接近していた。日本側が機先を制したため圧倒的多数の敵に対して勝利を収めた。 これには中国軍の部隊は日本軍包囲網から脱出していくところであり、戦意は高くはなかったという事情があった。それでも敵が多数であったため、斬り込んだ 側の被害も大きかった。

互角の白兵戦のような書き方ではあっても、実は敗残兵に対する一方的な殺戮である場合もある。
1.東京朝日新聞 1937.11.16 敵・六十名を斬る/勇猛無比の関准尉

【崑山にて近藤特派員十五日発】杭州湾から敵前上陸驚異的快速さを以って敵敗残部隊の剿滅戦を続けて居る○○部隊の目醒ま しい活躍は徹底的に日本刀の戦ひであつた。
 軍馬も歩行出来ないような泥濘の悪路搗てて網の目の如きクリークは至る所で皇軍の前進を阻んで居り糧秣、弾薬の輸送はほとんど不可能といってよい「弾 丸がなくては戦は出来ない」といふ常識的の 言葉は此所では全然抹殺され我が勇士達は約十時間に亘り完全と弾の不足勝な戦いを続けて 来たのだった。
北支における正義の戦いで「支那兵の弾なんか当るものか」といふ信念で凝り固まった○○部隊の健児達は何百倍とい ふ大敵の中にも銃剣と日本刀で躍り込み当るを幸ひにさながら阿修羅の如く 庸懲の剣をふるつて居る、この獅子奮迅振りを最もよく発揮して居るのは 去る九日夜から十日朝にかけて二萬の敵敗残部隊をせん滅せしめたシャザン鎮の天文台付近の痛快な戦闘であった、○○部隊長を護衛する長谷川部隊の一部の将 士を加えておよそ○○○名のわが勇士達は喊声をあげて夜襲してきた敵軍の隙に乗じて突撃、目のさめるような日本刀の斬れ味を見せたがわが報の損害僅かに数 名といふのに比し道路上に累々とし折重なつて倒れた敵兵の死体はおよそ三千をくだらない惨憺たるものであった、また同時刻青浦城に間近い陣坊■■陣地で刻 一刻長谷川部隊は凡そ三千の敗残兵を皆殺しにしてゐる、この敵兵は上海から松江に向かつてクリークを舟で敗走中のものでこれを知った長谷川部隊長はひそか にクリークの河岸に兵を忍ばせて待ちかまへた敵はそれとも知らず船六十隻を連ね闇の中をおどおど進んで来る『射てー』の命令一下懐中電灯で河面を照らして は機関銃でバラバラと射ち放した、六十隻の敵船を全部転覆してしまひ水中から這ひあがらんとする敵兵を斬って斬って斬りまくつた、この戦闘で敵兵を斬った 数は少ない者でも二十名、殊に関准射の如きは剣道四段の腕前を思ふ存分発揮し『自分の覚えてゐるだけでも六十名は斬つたと思ひますさすがに二十名を斬った {こころは無性に水が欲しくて堪りませんでした』と奮戦の後を物語る愛刀を見せて語つたがその刀身は折れ曲がり僅かに五寸位が歯こぼれのまま残ってゐると いう物すごさであつた

2.11.福島民友新聞 1937.11.17 弾は無くても戦は出来る/六十人撫で斬り(1.の転載)

敵弾が当たらない、と豪語するモチーフはよく見られる。弾丸がなくて、あるいは弾丸を惜しんで日本刀で戦闘するというのも武功談のひと つのモチーフである。 敵兵の殺害数は羅店鎮の場合に較べて1桁多くなっているが、これは相手が落ち延びて行く敗残兵であるからである。『1937南京攻略戦の真実』pp81に よればその舟の群には「民舟、筏、戸板等」が多数混じっており、女性も同乗 したというから、難民も混じっていたらしい。クリークの戦闘では水中からようやく這い上がった敵兵を思うさま斬り殺すという一方的なもので、到底互角の白 兵戦ではなかった。少ないものでも二十名は斬ったというから、ほとんど武器も 持たないような、弱体化した敗残兵だったのではないか。

部隊単位の白兵戦においては多くの将兵が一度の会戦で、数十人の敵兵を斬殺した記録が報道されている。これらは敵が油断ないし、戦意をもともと喪失して おり、さらに日本軍が機先を制したという状況でのみ可能である。もし、敵が 同程度の戦意、戦力があったならば、このような戦果をえることはないだろう。このような機会はまれであり、また常に白兵戦で勝利するとは限らないであろ う。白兵戦で勝利したとしても個人的戦果を日本刀にのみ焦点を当て るのは報道に歪みがある。
 

3.敗残兵・投降兵の即時斬殺 部下とともに敗残兵を追いつめて、逃げ遅れた敵兵をその場で斬ったり、捕獲した後ただちに斬殺、斬首した例

東京朝日新聞 1937.8.22 支那兵廿名西瓜斬り/上海陣の”宮本武蔵”

【上海にて高橋特派員二十一日発】
我が東部右翼最前線柴田部隊は十九日午後から二十日払暁にかけて我に十数倍する敵軍と猛烈な戦闘を続けてこれを撃退したが十九日夕刻の戦闘において敵の正 規兵、便衣隊の中に斬り込み血しぶきを浴びて敵の頸を四つ刎ね又十六名をなぎ倒した二勇士の奮戦ぶりが陣中の話題になってゐる。【写真は讃井(上)迎の両 勇士==大■■発】 <■■つぶれて判読できず>
柴田部隊の讃井、迎両兵曹長がそれぞれ二手に分かれ部下数名づつ引率して敵最前線に近づくと、突如空家と思われた民家の蔭から数十名の便衣隊が次々にピストルを持って発砲してきた。そ の中に数名の正規兵も混って発砲してゐる。「何を小癪な」とばかり両兵曹長は部下を指揮して猛襲する。勇敢無比の我が兵士は片っ端から敵兵を引捕まえてくる。 両兵曹長は勇敢にも敵中に躍り込んで日本刀を抜き放って斬っ て斬って斬りまくる。斯くて讃井兵曹長は敵の頭を四つ刎ね、迎兵曹長は斬りも斬ったり十六人をなぎ倒し た、二十一日朝柴田部隊を尋ねるとちょうど讃井、迎両兵曹長が最前線出動の前を仲良く並んで一休みしてゐる所だ。両兵曹長は鞘を払って見せてくれた。氷の ような日本刀にはまだ生々しい血がついてゐる。両兵曹長の持物も無銘であるが相当の業物だ。十六名を斬ったというのに一カ所の刃こぼれもない。
 支那兵なんてまるで大根か蕪のようなものさ、いくら斬っ たってちっとも手応えがない、この調子だと戦が済むまで百人以上は楽に斬って見せるぞ。
両兵曹長は豪快に笑い立ち上がって再び前線に向かった。

勇壮な白兵戦のような語り口であるが、「民家の蔭から数十名の便衣隊がピストルを持って発砲」す る中を猛襲などできるはずがない。銃やピストルを持ってい る敵兵を「片っ端から」捕 まえるなど、到底不可能である。 便衣というのは民間服のことであるから、ピストルを撃ってゐることが確認されない限りは単なる逃げ遅れた民間人であるという可能性もある。 結果的に「片端から捕まえた」ということは、銃、ピストルを持っていた敵兵は数名でそれも早々に弾が尽きていた、他は逃げ遅れた民間人、ぐらいの状況か。

「敵中に躍り込んで日本刀を抜き放って斬って斬って斬りまく る」-抵抗の意志をなくした敵でなければ無理である。

「頭を四つ刎ね」- 白兵戦ではもちろんのこと、逃げようとする敵兵であっても追いすがりざまに頭を刎ねる、は不可能である。頭を刎ねたということは据えもの斬り、つまり、無 抵抗になり観念した「敵兵」 「便衣兵」を斬ったということであろう。

「迎兵曹長は斬りも斬ったり十六人をなぎ倒した」- 立ち会いでなぎ倒したとすれば抵抗手段を失った敵が道のどん詰まりや、家屋に押し込まれたりしなければまず不可能である。

「支那兵なんてまるで大根か蕪のようなものさ、いくら斬っ たってちっとも手応えがない、」-「手応えがない」は自分の戦功に有頂天になったがための大言壮語であ り、典型的な「ホラ」の口調である。

「この調子だと戦が済むまで百人以上は楽 に斬って見せるぞ」-「百人斬り」という言葉が8月という上海-南京戦の初期からす でに出現しているのが注目される。 日本刀を持って戦場に向かった将校が自分自身に課したイメージを現実化しようとすれば、古来からの言い伝えである「百人斬り」のイメージに容易に結びつい てしまうのである。

この記事においても、戦闘の客観的状況というのは曖昧であり、局所な斬殺データにとどまっている。各方面からの取材によって記事を作ったのではなく、「宮 本武蔵」氏の主観的な発言の垂れ流しである。あり得ないような状況、驚異的な活躍に対して、つっこんだ質問をしたような気配はない。

この武功談はそれでも向井、野田少尉の第一報に較べると、まだしも戦闘らしい活劇の様子がわかる。向井、野田の第一報はさらに概念的で、形容詞が先立つ空 疎なものである。

このようなケースで報道されなかったものはもっと多かったであろう。それらがなぜ報道されなかったかと言えば、当人が○○人斬りと称するほど浮かれていな かったか、あるいは新聞記者にたまたま遭遇しなかったか、あるいは新聞記者にアピールするのが下手で、実態がばれてしまったからだろう。


4.兵士個人による○人斬り報告

戦闘の具体的詳細が明らかにされないまま三十人、四十人あるいはそれ以上を斬ったと称するもの
いわゆる百人斬り競争がこのような記事の典型である。他の記事はほとんどが私信の転載である。
1. 福島民友新聞 1937.12.14 百人斬りの超記録/向井106・・・105野田(転載)
2.福島民 報 1938.3.13  本県出身の”鬼軍曹”/四十二人斬りの記録/部隊一の勇士と折り紙
(私信の紹介)
・・○○隊軍曹宗像金蔵君は上海戦線に於いては部下十六名と胡家宅を死守し十二日間約三ケ大隊の兵をクヒ止めました、その間敵の逆襲も一回あったがクヒ止 め追撃戦闘に於いては度々敵の糧秣■■に■■・■を部下数名と襲ひ友軍の食糧難をすくひついに敵四十二名を斬るにいたり部隊長より部隊第一の勇士と賞賛さ れました<中略>また本宮町冬室■君は二十六人を斬り○○隊では二十人斬りは十指に余りあります

戦闘の具体的状況はまったく書かれていない。斬殺数は積算しか書かれていない。もし、白兵戦があれば具体的状況の説明にもっと力を入れ るはずである。それがないということは、 実際は戦闘らしい戦闘ではなかったと思われる。
 
9.東京日々新聞 1937.11.6 敵兵廿八名を斬り/愛刀、用をなさず    【私信の転載】
12.会津新聞   1937.11.28 自分乍ら驚く日本刀の切れ味/
               若松七日町出身 堀慎吾氏陣中便り       【私信の転載】
13.東京日々新聞 1937.12.12 相次いで部隊長を失ひ/涙ぐましきリレー指揮

15.福島民報   1938.3.13 本県出身の"鬼軍曹"/四十二人斬りの記録【私信の転載】
16.東京日々新聞 1938.8.25  "十六人斬りとは/倅、よくもやった"/
                       佐藤軍曹の両親大喜び     【家族の談話】
14.東京日々新聞福島版 1938.1.27 名刀"直胤"の冴え/廿六人を斬捲る【私信の転載】
15.東京日々新聞 1938.8.20 十二人斬りの荒武者/広田伍長母の喜び【家族の談話】
 

 
新愛知 昭和十三年六月十七日 
隊長から貰った/日本刀で-敵の首三十二/新城町の剣道選手峯野君の/痛快な武勲をきく
【私信の紹介】
峯野君が部隊長より連隊表彰を受け、感状とともに隊長所持の日本刀贈与の光栄に浴した。徐州攻撃のときは真っ先にこれを翳して突進、真っ向唐竹割と敵 兵の首十二個を吹っ飛ばした。すでに幾多の戦闘にても十八個の首を切り落としており、衛兵勤務立哨中にも敵の敗残 兵二人の首を切り落とした。現在刀の刃はボロボロに零れてゐるが。切れ味は大丈夫だ。
合計三十二首を葬ったが凱旋までには五十個を血祭りにあげる覚悟だから安心していて呉れ。

戦闘で敵兵の首を切り落とすということは間違いなく不可能である。単に斬ったというのを首を切り落とすと表現したのであろうか、それと も据えもの斬りだったのだろうか。これに対して敗残兵の首を切ったというのは、据え物斬りと見て間違いないだろう。 首を何個とる、という予告は武功談につきもののようであるが、戦闘の予定が立てられないのである。

これら○○人斬りの新聞記事のすべては武功をなした当人による主観的、主情的な戦況報告であり、大局的戦況は不明であ る。当人の武功は日本刀を振りかざして「○○人斬った」ということにほとんど集約されている感がある。 ○○人斬りが容易ではなく、部隊による大規模白兵戦の機会がまれであることはすでに指摘した。手紙を書いた当人は戦闘でも何人かは斬ったことがあるのかも 知れないが、大部分は敗残兵、投降兵、捕虜ときに民間人さえも混じっているかもしれない。それを、斬った状況 の一部をあえて伏せることによって戦闘での殺害を印象づけていると思われる。

○○人斬りの報道が私信の転載ばかりであるということは重要な意味がある。敗残兵の掃討、白兵戦もどきで数人斬り、その後投降兵の即時斬殺や捕虜の斬首を 数十人したところで本人のファンタジーはパンパンに脹らんでいる。ところが、他人は自分が感じているほど凄いことをしたとは見ていないことがわかるのであ る。 実際の戦場を知っているものに○○人斬りと言えば、白兵戦の斬殺か据えもの斬りかのチェックが入る。 「なんだ据えもの斬りか」と言われれば自分自身が持っていたヒロイックなファンタジーが傷つけられる。 現場の新聞記者に語るときはアピールのしかたが下手ならば、戦闘の実態を察知して記事にされない。これに対して戦場の実際を知らない家族に対しては 思い通り、誇りに満ちたファンタジーを家族と共有し、誉めてもらうことができるのである。 また、内地の新聞編集者も実際の戦場を知ることなく、初期に送られてきた派手な戦闘記事を読んでいるから、私信であえて状況の一部を伏せて成り立つ戦功の ホラを信じてしまうのである。
私信が多くなった理由であるが、新聞報道の立場からすれば初期のような激戦、白兵戦が少なくなってネタ切れになったことが挙げられる。 また、戦争が長期化して家族の不安が増していたということに関連し、家族の反応が必要になったことが考えられる。また、戦争や殺戮に疑問を呈することはで きなかったとは言え、家族が○○人斬りを喜び、賞しているという国民感情のあり方が注目される。

5.捕虜・民間人を斬首したという私信  捕虜を斬首したことを明らかにしている例、あるいは民間人と思われるものを斬ったという例
 

1.東京朝日新聞 1937.7.26 十六名薙倒す/痛快・山西の敗敵掃討戦から
(捕虜の斬首4人)

2.会津新聞   1937.11.28 自分乍ら驚く日本刀の切れ味/若松七日町出身 堀慎吾氏陣中便
(私信の紹介)      
去る○○月○日初めて我軍刀を使用致敵四五人斬り又生捕り兵五人を連れ来り打首に処し日本刀の切味たるや実に驚き入り最初打首する時一人目は思ふように首 が切取れず二回目よりは見事打切り自分ながら驚き入りたり六日の朝の戦闘は自分ながら思ひ切つて軍刀片手に敵陣地に第一人目に飛び込み支那兵を切り取り全 く日ごろの思ひが叶ひ非常にうれしく思ひたり。
竹田様に日本刀の切れ味満点なりと君より聞し下さる様、前田様にも御かげさまにてと宜敷御伝言下さる様東条さまにもたのむ
七八人切れども刀の刃先一片もコボレズ実に自分ながら驚きたり

3.新愛知 昭和13年2月6日 日本刀の切れ味/初めて知った/剣道三段氏痛快便り
(私信の紹介、部分)昆山から蘇州へ移動中初めて日本刀のきれ味を味わひました、それは夜戦友一人と小生と二人で辻斬りですね他の戦友は知らないで居る夜 のことですが一刀両断唐竹割の手ごたへは胸のスク程気持ちよくきれました、又来る奴を一太刀三人目も一太刀で切り伏せました

2.は公開を予期していない私信であるだけに事実を粉飾する意志はないと判断される。現代のわれわれにとって驚かれるのは堀氏が捕虜を 斬ることに対して心の痛みがまったくなく、むしろ見事に斬れたという喜びだけを語っていることである。 戦闘に対する貢献ではなく、個人的な戦闘がうまく行ったことへの満足が大きいことも特徴である。日本刀に対する執着から、彼の意識の中 では斬首と日本刀を振るっての戦闘 が連続していることが注目点である。

しかし、敵陣に一番乗りをしたというが、詳細が書いていないのでどのような状況かは不明である。敵陣に斬り込 んで七、八人を斬ったというのは敵は戦意喪失していたと考えて差し支えないと思われる。

 

3.の「辻斬り」の対象は「敵兵」とは書かれていない。通りすがりの民間人であろう。日本刀を揮っての人斬りにことさら執着した日本兵がいたことを伺わせ る。これも私信であればこそ、ざっくばらんに明らかにしているものであろうが、これを堂々と「痛快便り」と銘打つ新聞社の意識も驚くべきものである。

 


結語

日本刀を振りかざしての突撃が危険極まりないものであり、成功したとしても少数しか斬れないのは明らかである。それにも関わらず、日本 刀による突撃がしきりに敢行され、多く報道され、銃後の国民の喝采を受けたことは日 本刀に対するファンタジーが国民的に形成されていたことをしめすものである。

百人斬り競争の報道を「戦意昂揚のため」という見方があるが、これは違うと思う。戦意昂揚とは困難に打ち勝ち、犠牲を払って、大きな戦果を挙げたと いうことを報道することである。初期の報道に見られた、「陣地、塹壕に恐れることなく飛び込んで敵兵を斬ったが負傷した、戦死した」 というパターンが最も戦意昂揚のパターンである。百人斬り競争はスーパーマンの行動であるから、戦意昂揚のためにはならない。 戦場でのエピソードのひとつである。

日本刀で戦うことだけに留まらず、日本刀を使うこと、それ自体が将兵にとってひとつの魅力ある行動となっていた。そのため対象は戦闘に留まらず、捕虜、民 間人の不法な斬殺に広がっていた。これこそが百人斬り競争を支えた心理的背景である。

数十人を斬るという記録はあったが、それはほとんど大規模白兵戦のときに限られた。したがって、戦闘状況の詳細が書かれていなくて数十人斬ったというのは 信用できない記録である。しかし、戦闘で実際に日本刀を使ってもいないのに○○人斬りということを自ら発言することはないであろう。

白兵戦もどきや敗残兵の掃討を経験したのち、あるいは投降直後の敵兵を斬首する経験を経た後、純然たる捕虜の斬首をも「戦闘の続き」という解釈を強行する ようになった将兵の発言を報道した、それが「百人斬り競争」報道の真実である。
 

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「ほら」と 「冗談」         

             2006.07.06 上網 2008.06.30 改訂

百人斬り競争の根本資料はすべて二少尉の自身の発言、もしくは他者が記憶、記録した二少尉の発言である。にもかかわらず、二少尉の発言 が揺れているところに彼らの真意を測る難しさがある。百人斬りに ついての彼ら自身の発言、あるいは記事を彼らはさまざまな言葉で呼んでいる。(二少尉の主張の変遷  を参照)

1.戦後になって向井元少尉はあれは「ホ ラ」だと言っている。
2.南京裁判の中では最初のうち記者が「冗 談」を言ったと言う。
3.次には記者としたのは「笑 談」だと言った。
4.ところがしばらくすると記者が「創作」した、「虚 構」であると言い始めた。
5.判決後に浅海証明書が到着した後は「冗 談が記事になった」と言い直した。
  ※ 注目すべきは「冗談」は当初記者が言ったとしていたのが、自分たちが言ったと変わっていることである。

対して記者らは一貫して「見 たまま、聞いたままを書いた」としていた。すなわち、発言が揺れているのは二少尉の側であって、記者の側 ではない。であって見れば記者の発言の真偽を確定する必要は別にあるとしても、二少尉が使った、これらの用語のうち、どれが最も真実を反映し、適切である のか、それをはっきりさせることにこそ、「百人斬り競争」の謎を解く鍵があるというべきである。

さて、上記の2.から5.まではすべて南京法廷のさなかに使われた言葉である。ということは裁判に不利な発言を控えようとしたとする疑いは捨てきれない。 反対に1.は法廷に引き出される前、妻に対して言ったことであり、特別のガードを固めた発言ではない。また、否定派がいくら疑い深いとしても向井元少尉の 妻がわざわざ当人の不利になる発言を捏造することはあり得ないので、否定派も共通に使うことができる資料であるはずである。

では、戦後の向井元少尉のホラ発言を見てみよう。

鈴木明著『南京大虐殺のまぼろし』pp67
彼女は、虫の知らせもあって、「もしや、百人斬りのことが問題になるのでは・・・・?」と彼にきいた。彼は、「あんなことは、ホラさ」と、事もなげにいっ た。「何だ、それじゃ、ホラを吹いて、あたしをだましたのね」と彼女がいうと、「気にすることはないよ。大本営が真っ先にホラを吹いてたんだから、そんな ことをいい出したら、国中にホラ吹きでない人は一人もいなくなる-」と、真面目な顔をして、そういった。

奥さんに対しては「冗談」だとは言わなかった。「冗談」というのは相手にすぐわかるはずのウソということになる。それでは「だましたのね」という奥さんの 怒りに満ちた質問を肯定することになる。それでホラと言ったのだが、当人は「だました」ことは否定しても、ホラはだますことではない、と考えていることが わかる。すなわち、相手はだまされたと思ったとしてもだました当人はウソをついたのではないという意識がないウソ、それが「ホラ」なのである。 ただし、奥さんのほうでは「ホラを吹いてだました」と言っており、だまされたと捉えている。この認識のギャップというのはホラに特徴的なものであろう。

ほらとしての武功談

前述の新聞記事には、現実ばなれした記述が多く見られる。では、兵士は自分がまったくしたことはない戦闘を創作して記者に言ったのであろうか。「ウソをつ いた」という解釈では兵士の言動を理解しにくい。ウソをつくという行為は一定の心理的抵抗を乗り越えなければならない。それを超えるだけの強い動機と利益 がなければならない。兵士がまったくしてもいない戦闘をしたと功名心から言うことがありえるだろうか、そうではない。表現は誇大ではあるが、実際の戦況に おいて自らがなしたことを元にして語ったのである。そのキーワードは「ほら」になるはずだ。

ここでホラの心理を解説する。

ホラは戦闘での武功や、スポーツ試合のあとなどに見られる。立派な功績を上げたときこれを他人に話して感心してもらいたい、誉めてもらいたい、これは人間 の当然の気持ちである。自分にとっても意外なほどの活躍をしたときは、自分の挙げた客観的な功績のイメージ以上のイメージを持ってしまう。これもまたよく 理解できることである。このとき、自分の経験をありのままに話をしただけでは相手は自分が期待するほどには驚いたり、感心してはくれない、そういう感触は 相手の顔を見て話していればわかるものである。そのようなときに自分自身に抱いているイメージを相手にも与えるために相手に錯覚を起こさせるような話し方 をする。これがホラを言う心理で ある。

ここではっきりさせておかないといけないことは、客観的には言葉のあやで相手に誇大なイメージを与え、だましたとしても、当人としては「ウソ」とは区別し ていることである。あくまで自分自身に抱いているイメージにを与えようと努力した結果であって、「ウソ」とかだましたとは考えていないことである。もし、 ほらを言った結果、自分で抱いている以上のイメージを与えてしまえば、相手が誉めるのは自分の抱いている自身のイメージではないので、少しも嬉しくないわ けである。

一例を挙げよう。

草野球のバッターが9回の裏に逆転ホームランを打った。ピッチャーの球が速く、それまでみな凡打しか出来なかったのを見事に打ち抜いた、自分がまるでプロ 野球試合のヒーローのように思えた(自分に対するファンタジーの成立)。他人に自分が感じている昂揚感と同程度に 誉めてもらいたい。しかし、ありのまま話したのでは当人の持つファンタジーはそのまま伝わらないと予測がつく。そこでホラをまじえてしまう。

「相手のピッチャーはプロのマウンドを踏んだことのあるやつだ。○○スタジアム、△△球場のマウンドを踏んだこともある選手だ」(ホラ を信じさせるためのトリック発言)
-ほおー。
「そのピッチャーの球には9回までみんなかすりもしなかったが、ストレートに狙いを定めて踏み込んで打ったら、見事スタンドインだ」
-それはすごい。

というような話にすると表面上は元プロ野球選手のように聞こえます。相手は草野球のバッター氏の実力からすると、プロ経験者とはいっても、かなり昔にプロ 入りしたがあるが、一軍には上がることもなく、やめてから10年ほどたったくらいのやつかな、と思いつつ感心してくれるわけである。
しかし、実際はプロの経験者でなくてプロ野球球団のテスト生の試験のときに○○スタジアム、△△球場のマウンドを踏んだことがあるだけだった、もちろんテ ストには不合格、プロ志望だけが強いど素人だったというわけである。このバッターは聞き手がだまされるように話しを持っていっているのは自覚している。し かし、字面だけ取ると本当のことには違いない。これによってバッターである話者は心理的抵抗感なしに自分を誉めてもらえて満足するのである。
 

では、野田少尉の場合はどうか。新聞の第一報を読むと、

-無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげ-

とある。

おそらく、トーチカの敵はほとんど弾薬を使い果たし戦意を失っていたのである。そうでなければ、いくら勇敢な兵士でも踏み込むことは出来ない。なぶり殺さ れそうになった中国兵が最後の抵抗を試みたのを叩ききったというような状況で あろうか。表面上は白兵戦での斬殺のように聞こえる。驚倒すべき戦功にさすがに浅海記者は疑いをもって問いかけた。その返事が

-ぼくらは逃げる敵は斬らない-

であった。


これもホラを信じさせるた めのトリック発言である。表の意味は逃げる敵は追わず、向かってくるやつだけを斬る、という武士道精神の 宣揚だが、裏の意味は逃げない敵である、座らされて頸を垂れている敵を斬ったということで ある。裏の意味では真実を語っていることになり、心理的抵抗感なしに、表の意味を相手に通じさせて白兵戦での百人斬りと錯覚させているわけである。

さて、ホラの目的は自分自身の持つイメージを相手に伝えて感心させることであるが、自分自身の持つファンタジー以上のイメージを与えてしまっては本人に とって、ウソをついてだましたことと 同じになり、嬉しくない。このようなとき、ホラは相手の理解の程度で言い方を変えることがある。先ほどの草野球のバッター氏が小学生に話をするときはどう 言ったらいい だろうか。

「相手のピッチャーはプロのマウンドを踏んだことのあるやつだ」と言ってしまうと、小学生は「プロの選手だ!」と完全に短絡してしまう恐れがある。プロ選 手の球を打ち込んだとまで思ってもらっても嬉しくはないので、「もう少しでドラフト外でプロになるところだったやつ」と言い直 す。これで、プロ級という言外の意味は小学生には十分伝わるが、字面上はプロ経験という経歴をはっきり否定する。

志々目証言におけるホラの修正
では、野田少尉は小学生相手に百人斬りをどう説明しただろうか。志々目証言の話が出ると、否定派右翼は「中国兵は馬鹿ではない、勇敢だった」、「ゾロゾロ 出てくるわけはない」などとお馬鹿な話を連発するので、二の句が継げなくなるのだが、ホラ説では明快に説明され る。

小学生たちは、すでに学校の先生からは百人斬りの勇士の講演を聞く、と言われているから、白兵戦でバッサバッサと斬り殺したと思われている。そう思われて 感心されるとかえってだましたようで居心地が悪い。そこで中国兵は馬鹿だから、ニーライライと呼びかけたら陣地からゾロゾロ出てきた、そこを、バッタバッ タと斬り殺した、というように言い換えたので ある。敵陣や塹壕に飛び込んで斬りまくったというイメージだけは少なくとも修正を加えて、それでもほとんど据え物斬りという実態は 「中国兵はバカだから」という説明を加えて隠したつもりであった。

しかしながら、小学生といえども洞察力のレベルはさまざまである。野田少尉にとって、すべての小学生の洞察力に合わせて、勇猛な戦功のイメージを保存しつ つ、けっして超人的な活躍ではなかったという修正を完璧に行うのは難しかったようで ある。小学生である志々目氏は勇猛であるべき少尉と不審な行動をする中国兵、だまして討ち取る卑怯な少尉のギャップが印象に残って後年、真実を悟るに及ん だのであった。

まとめ

二少尉が記者に話したことを、二少尉自身は「冗談」、「笑談(笑い話)」と言った。しかし、冗談、笑い話とは明らかに相手にもウソとわかる話であるから、 笑いを取れるのであるが、そのような話をあえて、真実の話として記事にするほどの悪意に満たされた動機というものは、どの否定論者の説明を聞いてみても納 得できる話は出てこなかった。二少尉が記者に話した内容がまるきりの虚構であったとすれば、これもまた説明困難な事情であった。

ところが、ホラ説で解釈する限り、なんら怖じることなく大きなウソをつくことに対する良心の呵責というものがなかったという事情を完璧 に説明できるのである。

ところでホラは当人の主観ではウソではない。しかし、ホラを真に受けたものにとってはウソである。これは、向井元少尉の奥さんが「だましたのね」と言った ことでも明らかである。それだけではない。ホラは客観的にもウソを構成する。なぜなら、当人にとっての動機はなんであれ、こう言えばこのように間違って受 け取るだろう、という予測のもとにホ ラを信じさせるためのトリック発言をしかけて、結果として、ホラを聞いているものに虚偽事実を信じさせて いるからである。つまり、ホラを見抜けなかったものはだまされたのである。浅海記者ははっきりいって「二少尉にだまされて 『百人斬り競争』の記事を書くように誘導された」のである。

二少尉が事実として何人を斬っていようが、民間人を斬っていようが、いるまいが、彼らが有罪判決を受けたことは身から出た錆以外の何ものでもない。
 

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野 田回想メモを検証する 

      2003.11.03 初回上網

「百人斬り競争」の根本資料となるものの数は比較的少数にすぎない。「百人斬り競争」をめぐる主要な論争は本多勝一、洞富雄らと鈴木 明、山本七平らによって行われ、論争の量は資料の量を遙かに上回るものがあった。百人斬り競争の実態は「据え物斬り競争」であり、記者たちは両少尉の言葉 を記事にしたにすぎなかったことが資料から明らかになっている。

今回、訴訟が提起されたが、この結論を覆すような新しい資料があるわけではなく、南京大虐殺否定を公然化しようという流れの中の試みである。その中で唯一 否定派が新資料と持ち上げるのが2001.6.18付けサンケイ新聞紙上に発表された野田元少尉の「回想メモ」である。

このメモは自らの無罪を主張するために事件の約10年後になって死刑判決後に獄中でかかれた回想である。したがって、普通に考えると回想内容を支持する別 の資料がないと直接の反証材料とはならない。しかし、否定派によればこれが従来の記者の証言を覆す重要証拠であるという。はたしてそうか。

さて、私はいつも、証言は外在批判によって真偽を決定するのではなく、証言の中身を吟味して信憑性を判断すべきであると主張してきた。この主張にしたが い、証言の文章解析によって、この回想メモの信憑性を検証してみる。
野田毅少尉の手記
新聞記事ノ真相
 被告等ハ死刑判決ニヨリ既ニ死ヲ覚悟シアリ。「人ノ死ナントスルヤ其ノ言ヤ善シ」トノ古語ニアル如ク被告等ノ個人的面子ハ一切放擲シテ新聞記事ノ真相ヲ 発表ス。依ツテ中国民及日本国民ガ嘲笑スルトモ之ヲ甘受シ虚報ノ武勇伝ナリシコトヲ世界ニ謝ス。十年以前ノコトナレバ記憶確実ナラザルモ無錫ニ於ケル朝食 後ノ冗談笑話ノ一説次ノ如キモノモアリタリ。

記者「貴殿等ノ剣ノ名ハ何デスカ」

向井 「関ノ孫六デス」
野田 「無名デス」

記者 「斬レマスカネ」

「斬れますかね」は取りようによっていろ んな意味があり、答え方がある。
1.「その刀が切れるか」という問い。
2.「その刀であなたはたくさん人を斬れますか」という意味がある。
3.「刀一般が斬れるかどうか」すなわち「誰かにとってたくさん人が斬れるかどうか」という意味。

向井 「サア未ダ斬ツタ経験ハアリマセンガ日本ニハ昔カラ百人斬トカ千人斬トカ云フ武勇伝ガアリマス。真実ニ昔ハ百人モ斬ツタモノカナア。上海方面デハ鉄兜ヲ、 切ツタトカ云フガ」

ここで向井は1,2を軽く流して、3.の答えを丁寧に返していく。

記者 「一体無錫カラ南京マデノ間ニ白兵戦デ何人位斬レルモノデセウカネ」

この問いは3.の形を取っているが、現在 地である無錫を例に挙げることで2.の問いを向井に差し向けているのに近い。

向井 「常ニ第一線ニ立チ戦死サヘシナケレバネー」

まだ斬った経験のないはずの向井に予測が 立てられるのであろうか。もともとも向井は歩兵砲の小隊長であるので第一線には立つことなどないはずであるが、いったい誰が第一線に立ったときのこととし て答えているのであろうか。「シナケレバネー」とは自らの意欲を示しているようにも見える。

記者 「ドウデス無錫カラ南京マデ何人斬レルモノカ競争シテミタラ 記事ノ特種ヲ探シテヰルンデスガ」

記者は「白兵戦における人斬り競争」を提 案、ないし要請したことになる。

向井 「ソウデスネ無錫附近ノ戦斗デ向井二O人野田一O人トスルカ。無錫カラ常州マデノ間ノ戦斗デハ向井四O人野田三O人、無錫カラ丹陽マデ六O対五O、無錫カ ラ句容マデ九O対八O、無錫カラ南京マデノ間ノ戦斗デハ向井野田共ニ百人以上ト云フコトニシタラ、オイ野田ドウ考ヘルカ、小説ダガ」

これは一体どういうなのか。記者の提案は あくまでも白兵戦の人斬り競争であり、競争が始まったら記事にするといった。それなのに、向井は提案、要請を受けるとも断るとも答えないまま、唐突に人斬 り競争が行われたときの記事の内容を提案するのである。しかも、中間地点における二人の斬殺スコアの明細までペラペラしゃべるのである。この部分の流れは この文章中でもっとも飛躍の甚だしい部分である。
ところで、野田は「百人斬り競争」の「百人」の部分を最初に口にしたのは向井であるということを証言していることになる。もうひとつのポイントは向井は歩 兵砲小隊長としての職分から 、また野田は大隊副 官であるから、第一線に立つことはほとんどありえないことはわかっているのに、なんのためらいもなく白兵戦における人斬り競争を創作したということであ る。

その上で、野田に「オイ野田ドウ考ヘルカ、小説ダガ」と虚構記事の提案への是非を問うている。

野田 「ソンナコトハ実行不可能ダ、武人トシテ虚名ヲ売ルコトハ乗気ニナレナイネ」

向井ばかりでなく、野田もなぜか、人斬り 競争への参加への回答を棚上げしている。向井に対する答えも飛躍が激しい。向井は自分が考えた「小説」であるところの虚構をこの内容で記事にしてもいい か、と聞いているのに対し、「実行不可能だ」と実現可能性を論じているのも変な話である。それとも、創作記事であっても実行不可能とすぐばれるようなこと を書くなとの趣旨なのだろうか。しかし、それにしては「武人トシテ虚名ヲ売ルコトハ乗気ニナレナイネ」と創作記事自体を否定しているのだが。

ところで野田が「武人トシテ」という自己規定をしているのにが注目される。「軍人」ではなく、「武人」という自己規定には日本刀をふるって武功を上げるの をよしとするという気風がにじみ出ているからである。

記者 「百人斬競争ノ武勇伝ガ記事ニ出タラ花嫁サンガ殺到シマスゾ ハハハ、写真ヲトリマセウ」

記者は人斬り競争を実行してもらって、記 事にしようとしたはずなのに、この返事はないだろう。「ちょっと待って下さい。競争はしていただけないのでしょうか」となぜ聞き返さないのだろう。しか し、記者は委細構わず、向井の中間スコア込みで記事を連続して書くことを決めたという不審な展開である。

向井 「チョット恥ヅカシイガ記事ノ種ガ無ケレバ気ノ毒デス。二人ノ名前ヲ貸シテアゲマセウカ」

向井は終始、記者に協力的である。しか し、「記事ノ種ガ無ケレバ気ノ毒デス。二人ノ名前ヲ貸シテアゲマセウカ」という言葉はどう見ても、記者が「記事ノ特種ヲ探シテヰルンデスガ」と持ちかけた あとに言うべき言葉であり、はまりが悪い。「写真ヲ撮リマセウ」に対して「名前ヲ貸シテアゲマセウ」という返事もいい加減である。

また、野田は虚構記事にも乗り気でなく、実行不可能な記事にも反対であったはずなのに写真撮影に応じたことになる。野田はいったいどの時点で納得したとい うのだろうか。ここのところは自分自身の心の動きであるから、書ききれないということはないはずである。

記者 「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」

「記者に任せて下さい」とこの時点で言っ たとしても、中間地点での斬殺スコアまで指示しているのであるから、任すもへったくれもないだろう。これは記者が勝手に書いたという印象操作のための作文 でしかない。

◇        ◇        ◇        ◇

以上に見るように三人の対談シーンは非常 に流れが悪い。会話というのは普通掛け合いで進んでいくのだが、三人が三人とも、相手の質問にろくに答えず勝手なことをしゃべっている。それでいて、誰が 提案したものでもない虚構記事に対する合意が成立し、そのために写真撮影が行われ、両少尉が写真におさまるというのである。

この会話は無錫で行われたということになっている。東京日々の記事は常州発から始まり、片桐部隊の二人による「百人斬り」は無錫から始まったと紹介されて いる。しかし、無錫であったのがこのような会話、あるいはこれに似た内容の会話であったということは完全に否定される。なぜなら、会話のシーン、内容が真 実の証言として備えるべき要件をまったく備えていないからである。

長く保持される記憶の構造というものはまず、その人にとって関心が深い、印象に残るような核となるイメージや会話の断片的記憶がある。そして、その核に対 して内容的につながりのある、いくつかのサブのイメージや会話の記憶がリンクしており、その核を記憶の闇から引き出すと直ちにリンクがつながって出てくる し、それらから一体性のあるストーリーが再生することが可能である。そのような構造でなくては長期間の記憶として存続することはない。
この会話のシーンはこれだけの量の会話というものがありながら、三人がどこに座って(あるいは立って)、どのような表情をしながら話が進んだか、というこ とについてまったく情報がない。おそらく、要素的に見ると個々のセリフの多くが百人斬り競争当時の発言や裁判の過程のどこかで発せられた言葉と見てよかろ う。しかし、それらのセリフは時間的経過や、論理的順序を無視されて、作為的に並べられているためにまとまったストーリーの形をなしていない。

◇        ◇        ◇        ◇

 其ノ後被告等ハ職務上絶対ニカカル百人斬り競争ノ如キハ為サザリキ。又其ノ後新聞記者トハ麒麟門東方マデノ間会合スル機会無カリキ。  シタガツテ常州、丹陽、句容ノ記事ハ記者ガ無錫ノ対談ヲ基礎トシテ虚構創作シテ発表セルモノナリ。尚数字ハ端数ヲツケテ(例へバ句容ニ於テ向井八九野田 七八)、事実ラシク見セカケタルモノナリ。

「其ノ後被告等ハ職務上絶対ニカカル百人 斬り競争ノ如キハ為サザリキ」- 「絶対に・・・していない」という強い否定の文章である。しかし、一読して素直に同意出来ないひっかかりを感じる。まず、「職務上」という限定が付いてい る。「百人斬り競争」が職務の範囲外であるのは当然である。また、「カカル百人斬り競争」の「かかる」という意味 が不明瞭である。ではいったい「どのような百人斬り競争」ならやったのか、と問いただしてもみたくなるというものである。

「麒麟門東方までは新聞記者と会っていない」というのであるが、二人の並んだ写真は常州で撮られたものであることは新聞に記載されており間違いない。明ら かに野田の記憶違いである。

「無錫の対談を基礎として虚構を創作した」と主張するのであるが、もともと本人は10年も前のことなので記憶は確かでないと述べており、事実、野田は常州 で遭っていることも忘れている。それなのに、野田は向井が言った常州、丹陽、句容それに南京における人斬りスコアを(概数としても)克明に覚えているなど とありえない話ではないか。むろん、これらのスコアは法廷で聞き覚えた数字と地名から「記憶」を作文したに過ぎない。

いかに記者が特ダネに不足していようとも、たった一回の「冗談話」から、その後、4回にわたって記事を創作するということが考えられようか。仮にも戦場の 話であり、いつ両少尉が死亡するかもしれない。死亡した軍人の百人斬りが記事になりでもしたら、いかに「戦意高揚」のためとはいえ、新聞社から厳重な譴責 が加えられ、処分が下されるはずである。そのリスクを背負ってまで虚構記事を書いたとは思われない。

しかも、一人の不心得者がひそかに記事を捏造したというのならまだしも、実際の記事の作成には光本、浅海、鈴木の三人が関わっており、写真撮影のさいには 佐藤振寿も両少尉の話を聞いているのである。四人がともに捏造に加わったということは到底ありえない。

例え野田が故意の虚偽を語っていなかったということを了承するとしても、常州で遭ったことを失念している事実がある以上、他の場所で会っていなかったとい う記憶が正しいということは保証されない。

 野田ハ麒麟門東方ニ於テ、記者ノ戦車ニ添乗シテ来ルニ再会セリ。

記者「ヤアヨク会ヒマシタネ」

野田「記者サンモ御健在デオ目出度ウ」

記者「今マデ幾回モ打電シマシタガ百人斬リ競争ハ日本デ大評判ラシイデスヨ。二人トモ百人以上突破シタコトニ(一 行不明)

野田「ソウデスカ」

記者「マア其ノ中新聞記事ヲ楽ミニシテ下サイ、サヨナラ」

 瞬時ニシテ記者ハ戦車ニ搭乗セルママ去レリ。

常州における対談シーンと違ってこの再会 シーンは、野田の実際の記憶を語ったものと判断される。なぜなら、二人のセリフはよくかみ合っている。再会の状況が具体的であり、イメージが喚起される。 また、記憶の核となる感情の動きがよく描かれている。記憶の核となる感情の動きとは、第一に意外な再会に驚き、喜んだこと。第二に記者が記事の好評に喜び それ伝えたこと。第三にあっけない別れである。

ただし、この邂逅の場所がどこであったか、あるいは「百人以上突破シタコトニ(一行不明)」の内容自体はこのシーンのイメージとは別にどうとでも創作しえ ることなので、その部分に対する信憑性までもが保証されるということではない。

 当時記者ハ向井ガ丹陽ニ於テ入院中ニシテ不在ナルヲ知ラザリシ為、無錫ノ対話ヲ基礎トシテ紫金山ニ於イテ向井野田両人ガ談笑セル記事 及向井一人ガ壮語シタル記事ヲ創作シテ発表セルモノナリ。

野田が向井と紫金山と談笑したことがない (記憶がない)とするなら、会わなかったというだけでよい。「向井の負傷」と「向井の壮語」の件については野田自身の体験した事実ではないので野田の意見 を承ってもしょうがない。

 上述ノ如ク被告等ノ冗談笑話ニヨリ事実無根ノ虚報ノ出デタルハ全ク被告等ノ責任ナルモ又記者ガ目撃セザルニモカカハラズ筆ノ走ルガマ マニ興味的ニ記事ヲ創作セルハ一体ノ責任アリ。貴国法廷ヲ煩ハシ世人ヲ騒ガシタル罪ヲ此処ニ衷心ヨリオ詫ビス。

前半で見たように、三者の対話には実際に あった「冗談笑話」と受けとれるようなストーリー性は何一つなかった。野田が自身の記憶を語っているのではないことは明確であり、単なる獄中における作文 に過ぎない。一方、記者は百人斬りの目撃をしなければ書いてはならないということはないのであって、百人斬りの話を聞いてこれを記事にするということなら ば何の問題もない。

世人を騒がしたことを詫びるというのは日本人のよくある謝り方であるが、「冗談笑話」の成立に一片の信憑性もない以上、記者の虚報という主張もまた崩壊し ているというべきであろう。

さて、野田は、「人ノ死ナントスルヤ其ノ言ヤ善シ」と言ってから、手記を書き起こすのであるが、これは本来、死なんとする人の言葉を他 人が評して言うことであり、自分から言うべき筋合いではなかろう。

少なくとも、法廷で仕込んだ斬殺スコアを元から持っていた記憶のように書いたことは見え透いている。「おそらく、・・・・のような話があった」、その例証 として挙げた、というつもりであろうが、それならば、真実、みずからの記憶にある範囲でのみ語るべきである。そのほうがまだしも説得力があった。法廷で仕 入れた数字を操作して記憶のように書けばそれこそ、「小説」になってしまうではないか。そのような野田の回想にはとても信をおけなかった。

真実の証言は明瞭に像を結ぶイメージというのを持っている。例え数行の会話であっても、会話がされたその場所について少しの描写があるだけで人物は生き生 きと会話し始めるものである。無錫における会話シーンは結構多量の会話があるにも関わらず、単に朝食後というだけで何のイメージも喚起しない。戦車に添乗 した記者との会話のシーンと較べるとそれはよくわかるはずである。また、真実の証言は事件の開始と終了が概ね、きれいに書けている。

逆にニセの証言、偽りの証言ではイメージや無理のない流れがなく、「説明」「解釈」「言い訳」「概念」の言葉が執拗に繰り返される。「冗談笑話」が2回、 「小説ダガ」がそれにあたる。「冗談笑話」、「小説ダガ」を抜きにしてこの記者が虚構記事を書いたという説明が通るかどうかをみたらよい。ちなみに「幕府 山事件」では射殺直前の捕虜の行動に対し具体的な描写がないまま、「突発」「戦闘状態」という「説明」「解釈」を優先させているのと同様の事情である。 「冗談笑話」であるかどうか、「小説」であったか、どうかは証言の内容でもって読者を納得させることが出来なければならない。

否定派の主張パターンは野田、向井の証言などと記者たちの証言を内容を吟味することなく、同等、同格のものとして並立させた上で、どちらを選ぶかは個人の 考え方ひとつと言うものがひとつであり、もうひとつは明確な根拠を示すことなく、ただちに前者を正当とみなすパターンである。

野田、向井らの証言と記者らの証言は決して同等・同格のものとして並立しない。記者らの証言と引き合わせる以前に野田・向井らは自立した証言としての資格 を欠くのである。記者らの証言の検証は次の論考に回すが、これまでの検討では記者らの証言には明らかな虚偽のとみなされる言説は見いだせなかった。対立す る証言と引き比べて見れば野田の回想の証拠能力がないことは決定的となる。

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向井・野田証言vs記者証言
       2003.11.06 上網



1.向井・野田両少尉と浅海記者の対談はどちらが真実か。

前ページの野田回想メモの不自然きわまる対話シーンと較べてみよう。

     ■『ペンの陰謀』より浅海一男の証言
(前略)連日の強行軍からくる疲労感と、いつどこでどんな“大戦果”が起こるか判らない錯綜した取材対象に気をくばらなければならない緊張感に包まれていたときに、あれはたしか無錫の駅前の広場の一角で、M少尉、N少尉と名乗る二人の若い日本将校に出会ったのです。<中略>筆者たちの取材チームはその広場の片隅で小休止と、その夜そこで天幕夜営をする準備をしていた、と記憶するのですが、M、N両将校は、われわれが掲げていた新聞社の社旗を見て、向うから立ち寄って来たのでした。<中略>両将校は、かれらの部隊が末端の小部隊であるために、その勇壮な戦いぶりが内地の新聞に伝えられることのないささやかな不満足を表明したり、かれらのいる最前線の将兵がどんなに志気高く戦っているかといった話をしたり、いまは記憶に残ってないさまざまな談話をこころみたなかで、かれら両将校が計画している「百人斬り競争」といういかにも青年将校らしい武功のコンテストの計画を話してくれたのです。筆者らは、この多くの戦争ばなしのなかから、このコンテストの計画を選択して、その日の多くの戦況記事の、たしか終りの方に、追加して打電したのが、あの「百人斬り競争」シリーズの第一報であったのです。

まず、話の導入部、話の出だしがスムースに描かれており、イメージが喚起されるような証言になっている。少なくとも浅海元記者の方が記憶は多く残されているようである。対話の内容が問題であっても、正確な背景を与えると、必ずシーンは生き生きとし、会話は動き出すものである。

事件の発端にも注目したい。「社旗を見て向うから近寄って来た」は十分納得させる内容を持っている。もともと、所属の違う少尉二人に記者がなぜ話かけるようになったのか、野田回想メモでは不明であった。浅海証言によれば、もともと二人が計画しており、むこうから働きかけた、ということになる。この方がなぜ一緒にいたのかわからない二人に唐突に百人斬り競争が持ち込まれたという野田回想メモよりはずっと理解しやすい。記者が「報道されれば花嫁さんが殺到しますよ」と強引に勧誘したというよりは、二人が新聞に伝えられなくて不満に思っているという動機があったとする方がずっと自然である。

具体的な会話のセリフは野田回想メモの方が遙かに多い。しかし、10年以上前のことを野田のように克明に覚えている方が異常である。浅海元記者は覚えてもいない会話の内容は語らなかったということである。

2.向井、野田の無錫以後は遭ったことがないという主張は通るか。

     ■佐藤振寿証言 『週刊新潮』昭和47年7月29日号
とにかく、十六師団が常州(注 南京へ約百五十キロ)へ入城した時、私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが、社旗を立てた。そこに私がいた時、浅海さんが、” 撮ってほしい写真がある”と飛び込んで来たんですね。私が”なんだ、どんな写真だ ”と聞くと、外にいた二人の将校を指して、”この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む”という。”へえー ” と思ったけど、おもしろい話なので、いわれるまま撮った写真が”常州にて”というこの写真ですよ。写真は城門のそばで撮りました。二人の将校がタバコを切らしている、と浅海さんがいうので、私は自分のリュックの中から『ルビークイーン』という十本入りのタバコ一箱ずつをプレゼントした記憶もあるな。


この証言は新聞に掲載された写真という証拠がある。記者とカメラマンが”常州にて”とその当時キャプションをつけたのだから間違いがない。向井、野田の側にしてみれば、日記をつけてその日の行動を記していたわけではない。また、戦闘が主で記者への報告はあくまでもその余のことであるから、記憶は不確かである。彼らが忘れていたのは確実である。

ここで佐藤証言を検証すると、会話が生き生きとしており、地の文章なしでも会話だけで自然な繋がりがあるのがわかる。太文字で示した太文字部分だけを読んでみてほしい。話の流れもスムースである。
【導入(証言、話の発端)】常州、宿舎、社旗、
【転回点として】浅海さんが・・・飛び込んで来た、”へえー”、
【主題】写真を撮った、
【派生したエピソード】タバコをプレゼントした

記憶の核、キーが明瞭にあるのがわかるだろう。例え、写真が新聞には載ったという盤石の証拠がなかったとしても、この証言だけで出遭った証明としては申し分ないものである。

ところで、野田メモも浅海記者の回想でも、邂逅した場所を無錫としているが、二人の記憶違いで実際は佐藤振寿の証言のように常州である。


3.「記者が向井たちを見つけたはずはない」は成り立つか

向井は申弁書において無錫以来、記者たちに遭っていないことの論拠として次のことを挙げる。

     ■向井の申弁書より抜粋
(三)向井がきいたところでは、記者たちは無錫より南京まで自動車で行ったはずで、第一線で取材したはずはないと信じている。
(四)7.記者達は無錫より自動車で行動しているのだから、向井たちを見つけたはずがない。

まず、記者と一回しか会っていないはずの向井が、なぜ記者が自動車で行動しているということを知っているのか、そこまで記者の行動に関心を持っていたということ自体が不思議である。もし、自動車で行動しているということを聞き知ったとしても、すべての行程において自動車を利用するという保証がないのに遭っていないことの証明としてそのようなことを持ち出すのか不審に思う。

では、記者が向井とあったときのことはどう書かれているか。

     ■東京日々新聞 、大阪毎日新聞 (テキスト解析 を参照)
2回目の記事  1937年12月4日付朝刊
記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。

記者だって忙しい。戦闘の記事は百人斬りばかりではなく、多数送った記事の一本が百人斬り競争であったに過ぎない。浅海、光本らは富山部隊を求めて歩き回ってばかりいるはずはない。兵士たちもそれなりの速度で歩いているから、記者が「富山部隊を追ひかけ」て歩いても追いつくことは難しい。「富山部隊を追ひかけ」たときはおそらく自動車に同乗してのことであろう。そして道すがら、社旗をなびかせて走る車に向井のほうから声をかけてくる、という方が自然な成り行きである。このときの記事は結構、量がある。これだけの聞き取りをするには車をいったん降りて隊列の中の向井に歩きながらいろいろ取材したはずである。この日の記事は割に長い。この日は「丹陽入場」、「一番乗り」というテーマがあったから、その件でも向井たちからもインタビューをしようとわざわざ車を降りて追ったのであろう。

一方、野田は麒麟門東方の再会について証言している。
     ■野田回想メモ
野田ハ麒麟門東方ニ於テ、記者ノ戦車ニ添乗シテ来ルニ再会セリ。
記者「ヤアヨク会ヒマシタネ」
野田「記者サンモ御健在デオ目出度ウ」
記者「今マデ幾回モ打電シマシタガ百人斬リ競争ハ日本デ大評判ラシイデスヨ。二人トモ百人以上突破シタコトニ(一行不明)
野田「ソウデスカ」
記者「マア其ノ中新聞記事ヲ楽ミニシテ下サイ、サヨナラ」
 瞬時ニシテ記者ハ戦車ニ搭乗セルママ去レリ。

この邂逅において記者の方は戦車に載ったままである。きっかけのところは書いていないが、このときにおいても、野田が社旗を掲げて走る戦車を見つける方が容易である。このときは長いインタビューにするようなテーマがなかったので車を降りなかったのだろう。

この会話では、記者が野田に対して愛想を振りまき、野田は通常の挨拶だけを交わしたことになっている。しかし、ただの挨拶とお愛想を交換しただけの会話をこれだけ鮮明に覚えているものだろうか。野田の側で自分の「戦果」を報告に及んだのではなかろうか。野田が戦車に乗った記者を認めて近寄って声をかけ、それに応じて記者が戦車の運転手に「ちょっとだけ話しをさせて下さい」という流れを考えると、野田はもちろん、ここでは伏せるしかないが、戦果を言ったと考える方が自然である。

そして、決定的な反論が浅海元記者の無錫における邂逅の最後の部分の証言である。

     ■『ペンの陰謀』より浅海一男の証言
>両将校がわれわれのところから去るとき、筆者らは、このコンテストのこれからの成績結果をどうしたら知ることができるかについて質問しました。かれらは、どうせ君たちはその社旗をかかげて戦線の公道上のどこかにいるだろうから、かれらの方からそれを目印にして話にやって来るさ、といった意味の応答をして、元気に立ち去っていったのでした。

実際、二人の少尉の百人斬り競争の経過をどのようにして知ることが出来るかというと、これ以外に考えられない。私は並立し、互いに排除するふたつの証言のうちのどちらかの証言を任意に選ぶということをしているわけではない。なぜ、この証言を真実と見るか、というと、「どうやって、経過を知ることが出来るのだろう」という疑問の明快な謎解きになっているからである。これと対照的に向井の反論は単に説明、言い訳のレベルであって、そこには「発見」「謎解き」というものがない。この「発見」「謎解き」の要素というものは見方を変えれば「真実の告白」に通じるのである。

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二少尉の主張の変遷   
           2006.6.17 上網

この論文では否定派が拠って立つ、南京軍事法廷中の両元少尉の弁明史料の解析を通じて、両元少尉のウソを明らかにしたい。一般に裁判資料は被告、原告双方の資料が読み比べてみないと真実はわからないものである。 しかし、検事側の調書・証言は使わないし、使えない(いまだ公表されていない)。物証もない。否定派の反発を封殺するために、新聞記者の証言も南京法廷に提出された浅海証明書しか使わない。それでも、この事例においては被告側の弁明を解析するだけでも被告側の弁明に無理があり、 ウソがあったことが明らかになるのである。

この解析の方法は彼らの証言の論理的矛盾と文章に表れる心理解析の手法に限られる。そのため小論の結論が裁判や 歴史学の事実認定のような決定的意義を持つものとなるとは考えていない。しかしながら、心理的解析を通して彼らの弁明 の不自然さと矛盾は十分に摘示できる。これを、他の証言・資料と併せて考えるときは百人斬りの真実は決定的なものになるであろう。

※心理的解析の要点は緑色の文字で指摘した。

両元少尉の弁明の変遷は次のようになる。

A.記事は記者が創作した。両少尉は記事の内容を知らなかった。記事化するとも思っていなかった。
a.野田弁明書、(b.向井弁明書 )、c.向井申弁書 d.向井少尉の最終弁論
 
 転換点    #浅海証明書の到着

B.記事の内容は二少尉の「冗談」である
 1. 上訴申弁書 記者が「冗談」 と知っているかどうかについては触れず。 記事化への意見表明は言及なし。
 2. 野田回想メモ 記者は「冗談」であることを知りつつ記事にした。二少尉は記事化に同意した。
 3. 向井遺書 [ 記者は「冗談」であることを知らずに記事にした ]。 [二少尉は記事化に同意した。]
※ただし[ ]の部分は直接書いてあるのではなく、心理的解析の結論による。

記事の内容を知らなかったといいつつ、なぜか冗談話をしたことを執拗に繰り返す。次には記事の内容は冗談話だったと言い始める。記事化するとも思っていなかった、記事にすると言ったのは冗談だと思っていた、 はずが記事化に同意したことを認めはじめる。しかし、冗談話の内容については最後まで語らなかった、あるいは冗談話と言っておかしくない内容を語ることが出来なかった。 そして最後の段階で冗談がまったくの虚偽であれば口にするはずのない反論をする。この経過の中に百人斬り競争の真実がある。
 


A.浅海証明書以前 両少尉は内容を知らなかった。記事化するとは思っていなかった。(記者創作説)
 ことの真偽は別として、記事化の主導者が一方の側であるという点ではその後の主張とくらべてわかりやすい構図である。

a.野田弁明書-1 (昭和22年11月15日)
 昭和12年11月,無錫付近で向井少尉と共に東京日々新聞の浅海特派員に会い、煙草を貰って冗談話をしたがこれが最初の会見である。 浅海記者は特別な記事が無くて困っており、架空的な記事を創作して自分の責任を果たそうとしていた。「貴殿らを英雄として報道すれば日本女性は憧憬し、多数の花嫁候補が殺到するだろう。郷土に部隊の消息を知らせることにもなり、父母兄弟親戚知人も安心する、記事の内容は自分に一任願いたい」と言った。
私はこのような記事が新聞に出ることを信用せず、単なる冗談話として忘れていた。

記者に会って話をしたがそれは単なる冗談話であった、記者による取材(の記憶、記載)はな い。英雄報道という架空の記事を創作してあげます。花嫁も殺到するし、いい話でしょう、と言われた。これだと、普通は警戒して断るはずである。ところが断ったとも断らなかったとも書いてない。冗談話だと思って忘れていた、と言う。 それにしては、特別な記事が無くて困っていたとか、架空的な記事を創作しようとしていたということはよく覚えているのである。架空的記事に対する警戒感を持っていたとすれば、当然記事化の了承はしていなかった、という記憶は必ず残っていなければならない。その記憶についての記載がないのである。とても納得できる状況説明ではない。

ここでは、記者と話した冗談話の内容について一切ふれていないこと、記事化の返事について記憶(または記載)がないこと。この二点が注目点である。実はこの二点にふれると記者の単独の創作であるという説明を維持するのが困難になるのである。 (後述) (当然言ってしかるべきところで触れないのは都合が悪いので触れられないのである。・・・しなかったと書いていないのは実は・・・したことを示している。)

野田弁明書-2
12月頃、麒麟門東方で戦車に搭乗していた浅海記者に会ったが、これが二度目である。互いに健在を祝し、記者は早口で「百人斬りの創作記事は日本で評判になっている.最後の記事も送った。何れ貴殿も記事を見ることがあろう、呵々」と言い、別れた。向井少尉はその場に居なかった。

「私はこのような記事が新聞に出ることを信用せず 単なる冗談話として忘れていた」はずであった。 とすれば、記者が早口で語った 内容は理解できなかったはずであり、記憶にも残らなかったはずである。ところが実際には「百人斬りの創作記事は日本で評判になっている.最後の記事も送った」と言う記者の言葉を明瞭に記憶している。

実は、聞くと同時に、百人斬りの創作記事が彼らが言っていた架空的な記事のことであることを理解したのである。一回目の対面シーンでは冗談話の内容はひとことも語らず、百人斬りのヒの字も言っていないのに、ここでは「百人斬り」といえば架空記事のことである、と理解できたわけである。
  
「最後の記事も送った」  最後の記事ということは、(1)何回の予定になるかが決まっている連載記事の最後、あるいは(2)なんらかの条件が満たされれば 終了する連載記事の最後ということを示す。 どちらにしても、知らない間に記事を書かれたり、送稿予定を勝手に作られていたはずの側が、最後の記事と 聞いてすぐにそのこととわかるであろうか。記憶が残っているということは、すぐに連載記事であるとわかったことを示しているのである。

要するに野田氏とすれば、「記事の内容も知らなかった、送稿予定も知らなかったけれど、後になってみたら思い出して見ると、なにかそんなふうなことを浅海記者は言っていましたよー」ということを裁判で印象付けたかったのである。しかし、そんなふうなことを詳しく書 くことができる(覚えている)ということは、なんだ、記事の内容や連続記事についてよく知っているではないか、という疑惑を際だたせるのである。

野田弁明書-3
翌年2月,北支警備の時にこの記事を見たが、余りにも誇大妄想狂的なので驚く と共に恥ずかしく思った。


余りにも誇大妄想狂的なので驚く 百人斬りに関してはすでに麒麟門東方で予備知識が入っていた。次の文のごとく、百人斬り自体が「誇大妄想狂的」なのだから、驚くいわれはない。これは否定のためのジェスチュアに過ぎない。

野田弁明書-4
百人斬り競争は誇大妄想で日本国民の士気を鼓舞するための偽作文なことは浅海氏を尋問すれば明らかになることである。

ここで「浅海氏を尋問すれば明らかになることである」と発言したことは覚えていてほしい。

b.向井敏明少尉の弁明書 (昭和22年11月15日)
昭和12年11月、無錫郊外で初めて面談した。 「向井は未婚で軍隊に召集され、まさに婚期を失いつつある。記者は交際も広いと思うので花嫁を世話して下さい。不在結婚もしますよ」と笑談した。記者も笑って言うには「誠にお気の毒で同情します。何か良い記事でも作って天晴れ勇士にして花嫁志願をさせますかね、家庭通信は出来ますか」「出来ない」と答えた。更に「記事の材料が無くて、歩くばかりで、特派員としては面子なしですよ」その他漫談して別離し、その後は再会していない。

こちらの弁明書にも記者による取材の話はない。野田弁明書では記者のほうから「花嫁うんぬん」の話を持ちかけたことになっているが、当の向井が「花嫁を世話して下さい」という依頼をしたとい っているのだから、これが真相であろう。野田のような「記事の内容は自分に一任願いたい」という ようなわざとらしいウソはない。何か良い記事でも作って天晴れ勇士にして花嫁志願をさせますかね」という、普通なら聞き流すような セリフを10年を経て覚えているのも妙な話である。野田のような作為的なウソはない代わりに重大な話はすべて伏せて、 記者が「よい記事」を作ろうとしていた、という印象を与えようとしている。

c.向井申弁書(日付不詳)(鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』p.60)
(二)特派員浅海ガ捜索記事ヲナシタル端緒(原因)ヲ開明スル処、次ノ如く解セラル
記者は「行軍ばかりで、さっぱり面白い記事がない。特派員の面目がない」とこぼしていた。たまたま向井が「花嫁を世話してくれないか」と冗談をいったところ、記者は「貴方が天晴れ勇士として報道されれば、花嫁候補はいくらでも集まる」といい、如何にも記者たちが第一線の弾雨下で活躍しているように新聞本社に対して面子を保つために、あの記事は作られたのである。向井は、自分がどんな記事を書かれて勇士に祭り上げられたのかは、全然知らなかったので、半年後にあの記事を見て、大変驚き、且つ恥ずかしかった。浅海記者がこの記事を創作したのは、当時の日本国内の軍国熱を高揚しようとしたためで、また、記事の内容が第一線の白兵戦闘中の行動であるから、誰からも文句が来ないと思い、書いたもの思われる。

これは「向井少尉の弁護人(筆者は不明)が南京軍事法廷に提出したと推定されるものである」と鈴木明が記している資料である。鈴木明の著書では日付の提示がない。内容的には両少尉の弁明書の 合成であり、いわば口裏合わせを行っていると思われる。

d.向井少尉の最終弁論(この記事は地裁判決による)
向井少尉は,最終辮論において,自らの中支における行動として,丹陽戦闘で受傷し,入院した状況について再度指摘するとともに,浅海記者が創作記事を書いた原因として,向井少尉が冗談で,「花嫁の世話を乞う」と言ったところ,浅海記者が「貴方等を天晴れ勇士に祭り上げて,花嫁候補を殺到させますかね。」と語ったのであり,そこから察すると,浅海記者の脳裏には,このとき,既にその記事の計画が立てられたものであろうと思われ,浅海記者は,直ちに無錫から第1回の創作記事を寄稿し,報道しており,無錫の記事を見れば,「花嫁募集」の意味を有する文章があって,冗談から発して創作されたものと認められること,浅海記者は,創作記事に両少尉の名前を使用した謝礼として「花嫁侯補云々」の文章を付記したと思われること,浅海記者は無錫から南京まで自動車での行程と思われるので,第一線に来ていないことは明白であることなどを主張し,無罪を訴えた。

最初の弁明書では「勇士に祭り上げる話」も、「記事の計画の話」も書いていなかった。ところが、向井申弁書 では半年後に新聞記事を読 んだことを告白したため、「勇士に祭りあげる話」、「記事の計画 の話」を言及しないわけには行かなくなった。記者単独の創作であることを 強く匂わすために、記事の内容も、記事になるということも知らなかったふりをしていたのだが、野田弁明書との整合性のために記事の内容は知らなかったことにしていたのを次第に修正しなくてはならなくなったのである。

記事に「花嫁候補云々」があった、と記憶しているところを見ると、戦地で読んだ新聞は大阪毎日新聞である。しかし、記事は、記者らが、「この記事が新聞に出ると、お嫁さんの口が一度にどっと来ますよ」と水を向けると、何と八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのりと赤めて照れること照れること、という内容であり、花嫁を募集するという文面ではない。
 
A.浅海証明書以前のまとめ-記者創作説の難点は何か。
1.記者と向井、野田両少尉が会って
2.話をした、
3.写真撮影に応じた、
4.百人斬りの記事が出た。

誰も否定しない前提がここにある。1.4.は関係者の誰もが認める事実である。問題は2.話をした、3.写真撮影に応じた、の二つである。
戦場で記者が二人の少尉と会っていったい何の話をしたのか。両元少尉は冗談話であるという。取材に 応じて話したことであれば記事になるという期待があるから記憶している可能性は高いが、ただの冗談話であれば、その内容を10年も記憶することはない。ところが、花嫁を紹介してくれ、(向井氏は自身の発言と証言)、花嫁が殺到する(野田氏が記者の発言であると証言)とかを記憶していた。

これらからすると、花嫁の話は記事の内容と深くリンクしていた。しかし、記者と話した内容はなぜか二人とも伏せたため、花嫁の話だけが残された。 (ひとは、自分にとって都合の悪い事実を隠すために、別の事実を不自然に強調する ことがある)二人がその内容を隠す冗談話こそが実は記事の中身であることは容易に想像がつく。

当初は記者単独の創作説を主張するために記事の内容は知らなかったと述べた。しかし、記事の内容のヒントだけは言った。どこまでヒントを言うかで、二人の足並みが揃わないといけない。それを調整するうちに次第に記事の内容を薄々は知っていた話に修正せざるを得なかった。

写真撮影の話はしなかった。戦場で新聞社の貴重なフィルムを使って撮るのにただのスナップ写真、記念写真であるわけはない。なにごとか、記事にするために撮ったのであり、 撮影に応じたということは、記事化を了承し た ことを意味する。ところが記事の内容を知らないということにした以上、写真に言及するわけにはいかなかった。

この弁明の後で検事には写真撮影は何のためか、記事化に応じたに違いないと責め立てられたであろう。 この追求にはどう答えても矛盾が露呈するので相当程度追いつめられたであろう。私自身は一部真実を語るまでに至ったと推定している。ただし、検事調書の内容は公開されていないので、両元少尉がどのように答弁したか は不明である。

両元少尉の弁明書を検討すると記事の内容とは冗談話そのものであることは始めから予想できた。記者の完全な創作であれば、冗談話をわさわざ何回も述べ立てる必要はない。冗談を記者が記事にしてしまった、ということをあえて積極的には主張しないが、裁判官にくみ取ってもらいたい、そういう心情を読みとることができる。

 

転換点-浅海「証明書」

  浅海一男元記者から証明書が届いたのは昭和22年12月21日、死刑判決の3日後のことであった。
これは野田氏の手紙による。(洞富雄「「まぼろし」化工作批判 南京大虐殺」より)
野田氏は「浅海記者を尋問すれば明らかになる」と主張したのであるから、本来なら両少尉が尋問ないし証明書を求めたはずであった。ところが『「南京大虐殺」のまぼろし』に明らかにされているように、両記者に証言を求めたのは向井氏の弟の独自の行動であった。 二少尉は浅海記者の証明書にある種の恐れを抱いていたのかも知れない。

   浅海「証明書」(昭和22年12月10日)
(1)同記事<注 東京日々新聞のこと>に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞きとって記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません。(2)両氏の行為は決して住民、捕虜に対する残虐行為ではありません。(3)(4)略

 
記者の創作説の破綻

両元少尉は判決までは「記者の創作である」と主張していた。判決後に浅海記者らの証明書が届き、「聞いたままを記事にしたものであり、目撃したものでない、戦闘で斬ったのであり、残虐行為ではない」という書面を読んだ。向井、野田は弁護士を通じて記者が創作した新聞記事を唯一の証拠として死刑判決が下されたと批判したはずだった。ところが、奇妙なことに二少尉はこの書面に対し、一切異議を唱えていないし、怒りも表明していない。

浅海記者らに対して怒ったのはむしろ、周囲の人物であった。収容所で一緒になったある戦犯容疑者は記者たちが本当のことを言わず、自らの保身のために二少尉を見殺しにしたと非難する手紙を残した。鈴木明、山本七平らも 彼にならって、口を極めて浅海らを非難した。いまに至るまでの否定派はすべて浅海記者らを非難している。

彼らによる非難の激烈さを見れば、向井、野田両元少尉の沈黙はきわめて不可解である。彼らを死刑に追い込んだはずの証明書に創作の二字が入っていないことに対して二少尉は浅海記者らを糾弾 し、痛罵しなければならないはずだった。なのに二少尉はなぜ、記者たちの証明書に対して死刑に至るまでの間、一切の異議を唱えなかったのか。

既に死刑判決が出てしまい、二少尉が再審をあきらめたからなのか? 否。二少尉は歴史に南京大虐殺の主犯として記録されることを拒否し、最後まで無罪を公言している。

それとも、生死を達観し、すべての人をを許す気持ちになったのでのか? 否。向井元少尉は「一人も手をかけていない自分を死刑にするのなら、殺すのは彼らではないか」と裁判関係者を口を極めて非難している。また、 たとえすべてを許す気になったとしても、自らの名誉だけは守らなければならない。記者らが創作記事であるという証言をしなかったことだけは指摘しておくはずだろう。

二少尉は記者に対する非難も指摘も行わなかったことでもって裁判段階で主張した「記者の創作」を自らは信じていなかったことを示した(それまでの主張からして当然反論してしかるべきときに何も言わないのは、認めていることを示すのである) 。そして、記者らの「聞いたままを記事にしたものであり、目撃したものでない、戦闘で斬ったのであり、残虐行為ではない」という証明書の内容に沿って自らの主張を変えていったのである。

死刑判決後は向井は遺書において 野田は回想メモにおいてそれぞれ裁判段階とは異なる主張に転換した。かれらはそれぞれに「記者創作説」を捨て、浅海証明書を全面的に、あるいは多少なりとも受け入れた主張に切り替えざるをえなかった。
 

B.浅海証明書以後-冗談を記事にしたという主張
1.上訴申弁書

上訴申弁書 (鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』p.82)(昭和22年12月24日と思われる。弁護士が草稿を作り向井・野田両少尉が連署した最終稿)
況ヤ、新聞記者浅海一男ノ中華民国二十六年(一九三七年)十二月十日記述シタル証明書第一項ニハ「該記事ハ記者ガ実地目撃シタルモノニ非ス」ト明言シアリ。

 即チ該記事ハ被告等ガ無錫ニ於テ記者ト会合セシ際ノ食後ノ冗談ニシテ、全然事実二非ズ。


記事の内容が冗談話であったという 主張がここではじめて出てきた。 浅海証明書の真実に接し、さすがに浅海氏をウソつきとまで言いいはるのは気がひけたのであろう。しかし、浅海証明書を受け入れた結果、これまでの証言を修正するためには多少の動揺があった。上訴申弁書は三種類が書かれた。

鈴木明の紹介する資料では日付が12月20日付けとなってい。これには洞富雄が「「まぼろし」化工作批判 南京大虐殺」の中で疑問を呈している。(つまり、浅海証明書が届く前のように日付が改竄された疑いがある)。上訴申弁書には死刑判決がおりた昭和22年12月18日の夜から朝がたにかけて書き上げた初稿と、同22日に弁護人薛氏から野田少尉に渡された「参考」と、野田少尉が弁護人の案文を参考にして同24日までかかって書き上げた最終稿の三通がある もようである。

もし、この三通を比較検証すれば、浅海証明書の前と後でどのように主張を変えたかが、手に取るようにわかるはずであるが、それらは公開されていない。この上訴申弁書は否定派サイト「虚構冤罪」においても読むことが出来るが(復審請願)、こちらのの日付も12月20日付けになっている。

実はこれらの裁判資料は家族が法務省に請求して発給されたものであるが、家族が私的に所有し、歴史家に公開されたものではないので、内容の改竄があっても確かめることができない状態にある。今回の裁判においても、申弁書の異なるバージョンは部分的にしか紹介されていない。

記事の内容をみずからの「冗談話」と認めたために新たに生じた説明困難な事情を抱えた。それは写真撮影に応じた理由を説明することであった。記事の内容も知らなかった、記事になるとも思わなかったと 主張している段階では、写真は記念写真で記事とは無関係で押し通せば済んだ。しかし、冗談話を記事にしようとしたことを知っていたとすると、冗談話の内容を記事にすることを二少尉が了承したことになり、 説明に窮するのである。それは冗談ではなくて真実の話であるはずだ、白兵戦での斬殺が不可能なのは当然だから、それは捕虜・民間人の虐殺であろう、と責め立てられることになる。

そして、「上訴申弁書」の段階では写真撮影=記事化了承についてはまだ、説明を思いつかなかったためであろう、何も触れていなかった。同時期に書かれた上訴申弁書の「修正案」では記念写真であると したが、到底受け入れられる説明にはならないと見て、最終案には採用しなかったのであろう。

記事の内容は二少尉の冗談であることを認めたため、記者が冗談と知って記事にしたのか、知らずにしたのか、また記事化を了承したのか、しなかったのか、よくよく考えて説明しなくてはならなくなった。


2.野田回想メモ-冗談説 記者は「冗談」であることを知りつつ記事にした。二少尉も記事化に同意した

野田は自己の主張を野田回想メモにまとめた。これに対する解析は詳しくは野田回想メモを検証するを読まれたい。メモの中で彼は向井が仮想斬殺データを述べ、記事化を勧めたことを主張した。しかし、彼自身は記事化に対して口頭では賛意を示さなかった、記者が一部は創作した、として記者に対する批判を取り下げてはいない。 しかし、彼の主張は所々で矛盾し、完結しなかった。ために冒頭と結語では彼自身が謝罪を繰り返さざるをえなかった。

彼は記者単独の創作説を捨てたが、浅海記者の証明書をすべて認めたわけではなかった。「聞いたままを記事にしたものであり、目撃したものでない、戦闘で斬ったのであり、残虐行為ではない」のうち、1.記事は向井の話を材料としたことを認めた。 しかし、後半については2.戦闘で斬ったのではなくて「戦闘で斬ったという話」であると主張した。

彼の主張は「記者の創作説」と「二少尉の創作説」の折衷案であるから、両方の短所を併せ持つ。「記者の創作」は無錫から常州における戦闘場面の「創作」と常州後の会見の「創作」に限られる。 しかしながら、野田少尉は無錫から常州における戦闘場面の「創作」を非難してはいないようである。野田が「無錫」以外の会見に基づく記事を記者の創作であると非難している点について見てみよう。

    野田回想メモ
 当時記者ハ向井ガ丹陽ニ於テ入院中ニシテ不在ナルヲ知ラザリシ為、無錫ノ対話ヲ基礎トシテ紫金山ニ於イテ向井野田両人ガ談笑セル記事及向井一人ガ壮語シタル記事ヲ創作シテ発表セルモノナリ。上述ノ如ク被告等ノ冗談笑話ニヨリ事実無根ノ虚報ノ出デタルハ全ク被告等ノ責任ナルモ又記者ガ目撃セザルニモカカハラズ筆ノ走ルガママニ興味的ニ記事ヲ創作セルハ一体ノ責任アリ。貴国法廷ヲ煩ハシ世人ヲ騒ガシタル罪ヲ此処ニ衷心ヨリオ詫ビス。

野田は向井発言の記事化に対して写真撮影に応じることでもって、賛意を表した。向井発言の内容は百人斬り競争における無錫、常州、丹陽、句容、南京の各ポイントまでにおける殺害数明細であるので、これを記事化するには各ポイントで両少尉の報告を受けた形にしなければならない。百人に達する殺害という虚構を記事化することに賛成しておきながら、各ポイントでの虚構報告は困る、というのは成り立たない。

「二少尉の創作説」の難点としては「なぜ、そのような作り話を語ったのか、なぜ作り話の記事化を承諾したのか」という説明に窮するところである。これは記者側から百人斬りに絡めた質問があり、嫁さんが殺到するから、と勧められたと主張されている。しかし、野田メモをどう読んでも向井が予定斬殺数を語った理由は納得できない し、写真撮影に応じる経緯も納得しがたい。
 
-二少尉側は冗談として語り、それを聞いた記者が冗談と知りつつ、記事にまでしてしまった-
野田回想メモはそれを説明することをめざした。しかし結局のところ、「冗談」を創作することはできなかった。向井が百人斬り予想データというナンセンスを発言した、というところまでしか創作できなかった。また、記者 がナンセンスを承知で記事化する、つまり、「冗談」 と認識したのなら記事化することに対する了承を与えるはずはないのだが、写真撮影をもって向井、野田が了承するという 「冗談」として完結しない、筋書きしか作れなかった。


3.向井遺書-冗談説 [記者は「冗談」であることを知らずに記事にした。 ][二少尉は記事化に同意した]

    向井氏の遺書
 野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集つて語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御託びして置きました。
 公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞賛されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海、富山両氏より証明が来ましたが公判に間に会いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。
[巣鴨遺書編纂会『世紀の遺書』昭和59年、講談社、pp.40-41]


1.「野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり」-記事内容をリードしたのは野田氏の責任という主張。

2.「何れが悪いのでもありません」とは野田氏と向井のどちらが悪いわけでもないということを示している。「冗談も出る」とは私の方も冗談を言った、ということを含意している。「私も野田様の方にお詫び」-野田氏は向井の家族に詫びたが、向井の方にも野田の家族に迷惑をかけた部分があるのでそれを詫びた、ということ。

1.と併せると記事の内容をリードしたのは野田氏だが、自分も記事の材料に協力した、そしてそれは互いの家族に詫びなければならなかった。 (お互い、もう一方の家族に迷惑をかけたというが、「互いの家族」という媒介項を取りさってしまえば、自分が悪い、自業自得だ、ということになる。もちろん、そのような表現はとっていないが内容的に見ればそうである。 )

3.「公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません」
もし、「虚報」であれば記事を見て戦闘行為であるか、犯罪行為であるかを詮索することは意味がないので記事は事実を書いていることを前提とした発言で なければならない。しかし、事実とは(すなわち、白兵戦での斬殺であるとは)主張しないのがミソである。

4.「記事が正しければ報道せられまして賞賛されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です」
この文章の構造もほぼ3.と同じである。記事が正しいというのは「白兵戦での百人斬り」であれば賞賛されるという意味となる。しかも、「記事が正しい」という主張を向井自身はあえてしない、留保しているのがミソである。記事が正しいかどうかは第三者が判断するとしてという条件下においてのみ議論されている。 しかも記事が正しいかどうかの判断を留保することによって、記者がこの記事が冗談とは受け取らなかったことを暗に示したのである。

記事が正しいかどうかはふれないが、裁判官は記事を読んだら「白兵戦での百人斬り」として読むべきだ、という投げやりな主張である。しかし、浅海記者においては「百人斬り」を目撃していないので、「百人斬り」の実態についてはコメントできない。向井氏は実行者であるから、実行の有無または、その内容はなにかを説明しなければならない。ところが、その説明はない。 これでは無罪主張として成立しない。

冗談の内容の詳細を創作して、据えもの斬りの事実を隠蔽するという緻密な作業は 彼には向いていなかった。彼は遺書において、ある部分では驚くほど率直に事実を語った反面、無罪主張に必須なことでも、説明に窮する部分は平然と省いて自己弁護を行っている。 浅海証明書を追認しつつ、「聞いたまま」は冗談であると言う説明は一種のアクロバットにならざるをえなかった。

向井氏の主張の中にある矛盾が意味を通りにくいものにしている。まず、「冗談が記事になった」と冒頭で主張している。だとすれば、記事を読んで戦闘行為か犯罪かを論ずる意味はない。にもかかわらず、記事が見かけ上白兵戦での斬殺のように読めると主張する 理由はそういう屁理屈でしか、無罪主張をすることしか出来ないためである。

冗談を記事にしたのであれば、記事化に同意してはならないはずである。そしてこの遺書では記事化には反対したということはひとつも書いていないし、触れていない。浅海記者に対しては浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です、と責任を問うていないのを見れば、記事化には決して反対していなかった、了承していたというのが本心であることがわかる。
 
向井氏は冗談が記事になったことをはっきりと認めた。野田氏のように記者の創作部分があるという 留保はつけなかった。 浅海記者への感謝を口にすることにより、記事はうそではなかった、記事化することに反対しなかったことを事実上認めた。「冗談」の内容については直接は一言も触れなかった。しかし、記事を読んで悪いことかどうか判断せよ、と主張するということは記事の内容にある程度の事実が含まれているからこそなしうる主張である。

 

 
結論:「冗談」とは「ホラ」のことであった

野田回想メモは「二少尉側は冗談として語り、それを聞いた記者が冗談と知りつつ、記事にまでしてしまった 」ということを説明することをめざした。しかし結局のところ、そのような「冗談」を創作することはできなかった。 一方、向井遺書では二人の冗談が記事になり、記事化については承認を与えたことまでを事実上認めた。その冗談の内容については一言も説明できなかった。二人の無罪主張はここで永久に頓挫したのである。

記者創作説の段階では「記事はまったくの虚偽事実である」と主張された。野田回想メモでは冗談が記事になったとするが、「まったくの虚偽事実である」という 主張は引っ込めなかった。虚偽事実であるという前提がある以上、かれらには「記事は戦闘での話ではないか」という反論ができなかった。ところが向井遺書においてはじめて「記事は戦闘での話ではないか」という反論をした。最後の段階で、記事は(つまり、冗談は)まったくの虚偽事実ではなく、 少なくともその一部は事実の反映であることを認めたことになる。

彼らは死を目前に控え、冗談話が記事になったのだと必死で訴えた。

冗談とは何か。冗談(fun)とは事実とは違うことを楽しさ(fun)のために語ることであり、冗談内容の非現実性と事実の落差そのものが滑稽であり、あるいはあり得ない話がマジで受け取られてしまう滑稽さまで含めて一種のfunと見なされる。 しかし彼らはこの意味の冗談を説明することに完璧に失敗している。

「冗談」という言葉はもうひとつ次のような使い方がある。相手に対してなにか(虚偽ではなく真実の話)を言ったあと、相手がこちらの言うことを信じて行動して困った事態が生じたときに、「あれは冗談だった」と言って前言を否定するときである。

両元少尉が言う冗談とはどちらであったか。もちろん、前言否定の「冗談」であり、実は真実の話であった。ただし、両元少尉の冗談は「白兵戦での百人斬り」を装っていたから、まったくの真実だというわけでもなかった。

相手が発言を誤解するような話方をしたが、全面的に信じてもらった結果、かえって困った事態に陥った。前言を否定するために「あれは冗談だった」と言って、相手の受け取り方のミスのように言った。もちろん、すべてが真実ではあるということはありえない、そんな途方もない話である。しかし、本心を言えば、まったくの出鱈目ではなくて、事実はちゃんと反映されている。このような状況をすべて説明する「冗談」とはホラをおいてなかった。(ホラ説参照のこと)

かれらが必死で訴えていた「冗談」の内容とは捕虜・民間人の斬殺まで戦闘での斬殺のように記者に思わせた「ホラ」に他ならなかった。そのことを包み隠さずに言えば、罪の自白そのものであるがゆえに、「冗談」の内容は最後の最後まで明らかにすることが出来なかったのである。


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グースの百人斬り否定論を反駁する
               2008.07.01 first upload
                          2008.08.01 reviced 


百人斬り裁判が最高裁で否定派の敗北に終わったとしても、 ネット上でいまなお数多い否定論に引導を渡すためには、ネット上の論説に対して逐条反論を行うことも必要でしょう。ネット上で信奉者の多い、百人斬り否定論者の代表であるグース氏の論 を俎上に載せて全面的に反駁して見ました。

グース氏の原文は
百人斬りがありえない理由(1) 据えもの斬りという虚構(2) 新聞記者の創作説(3)
によっています。冗長な部分をカットし、ほぼ全文を載せます。
 
"百人斬りがありえない理由(1)"
 

(1)戦果(スコア)を競う意味

 百人斬り報道は(略)、向井少尉、野田少尉が敵陣に乗り込んで日本刀で敵兵を斬りまくり、どっちが先に100人を斬るかを競ったというものです。
 
 銃器が発達した近代の陸上戦闘では、白兵戦における個人の戦果を競う、というのはかなり珍しいことと言えます。もっとも空中戦においては、かなり初期から個人の撃墜数(スコア)を記録するということが行われていました。例えば複葉機の時代、第一次大戦でも多数のエースパイロットが誕生しています。
 エースの条件は国や時代によって違いますが、現在では5機撃墜以上が条件として定着しています。

 空中戦は航空機同士が接触すれば始まります。第二次大戦の頃、戦闘機の武装は機関砲ですから、一度に攻撃可能な目標数は「一機」だけです。
 陸上戦の場合は白兵戦が起きるかどうかは未知数です。戦闘に参加したからといって、すべての部隊が白兵戦に加わるとは限りません。とくに砲兵隊などは、遠距離で砲撃するのが仕事ですから、よほどの事がない限り白兵戦に加わることはありません。また陸上戦闘では「複数目標を殺傷」可能な武器が一般的に使用されています。機関銃、機関砲、大砲、手りゅう弾などもそうです。

 こういう事情もあって、陸上戦闘では「個人の戦果」というものを確認するのは難しく、空中戦と違って個人戦果が記録されることもあまりないということができます。


 
 (1)百人斬り報道は、向井少尉、野田少尉が敵陣に乗り込んで日本刀で敵兵を斬りまくり、どっちが先に100人を斬るかを競ったというものです。

東京日々新聞の報道に「敵陣に乗り込んで」、「敵兵を斬る」ことを「百人斬り」としている部分は存在しません。そのように読めるように誘導する文章ではありますが、その誘導を行ったのは両少尉であって、記者ではありませんでした。
 
もっとも空中戦においては、かなり初期から個人の撃墜数(スコア)を記録するということが行われていました。

個人の戦果が確認できる、視認できるという戦闘というのはほぼ個人対個人の接近した戦闘に限られます。近代戦ではこのような戦闘場面は非常に限られます。戦闘機による空中戦で撃墜数を競う こと があったのは、比較的最近まで空中戦が基本的には航空機の一対一の戦闘であった時代があったからです。しかし、これも編隊同士の戦いともなれば、個人対個人の戦闘では ありえず、個人 が申告する戦果は乗員の主観に過ぎませんでした。例えばノモンハン事件での空中戦ではパイロット が未熟なせいもあり、個人の戦果を集計をしたところ敵機の三倍もの数になってしまいました。空中戦で必ず自分が撃墜した敵機を確認できたわけでは ありません。
 
こういう事情もあって、陸上戦闘では「個人の戦果」というものを確認するのは難しく、空中戦と違って個人戦果が記録されることもあまりないということができます。

日本刀を振りかざしての闘いにおいては自分の刀が相手に「当たった」という感覚は明瞭に持つことが可能です。その結果が○○人斬りという戦果の公言になり、新聞記事にな りました。しかし、集団的な白兵戦では 日本刀で敵兵を斬った(敵兵の体に当たった)としても、斬り殺したのか、傷つけただけなのかはわかりません。集団的な白兵戦の場合、軍刀が当たったあと銃剣刺突によって死んだものもあるはずです。集団的白兵戦の中の「○○人斬り」は主観 です。

○○人斬り競争を行うとして、双方の戦果を確認することが出来ないのに、どうして成り立つか、という指摘があります。それは友人同士が「武士道精神」に乗っ取り公明正大な申告をして競技を楽しむという 暗黙の了解において成り立ちます。空中戦での撃墜数においても事情は同じでレフェリーというのはいません。つまり騎士道精神、紳士協定です。もしも、ウソの戦果を言って勝ったとしても、勝った喜びというのはないから、お互いウソはないはずだと思うから ゲーム、スポーツとして成り立つのです。野田少尉も後に新聞記者に「敵も逃げずだから、百人斬りというスポーツ的なこともできた」と公言しています。ただし、レフェリーが存在しない以上、勝負が白熱し、勝ちを焦れば本来のルールを逸脱しない保証はありません。
(2)なぜ日本刀でなければならなかったのか?

  「戦果」つまり「敵兵の殺傷数」を競うのであれば日本刀でなくても構わないわけです。銃でも銃剣でも何の問題もありません。日本刀で殺傷しても、銃で殺傷しても戦果(スコア)は「一」です。ちなみに「据えもの斬り」だとしても同様です。日本刀でなければならない必然性は存在しないのです。

 しかしながら、読者受けする物語(虚構)だとすれば、「日本刀」でなければならない必然性があるといえます。

 機関銃で100人くらい撃ってもあまりおもしろくありません。虚構としてはいまいちです。逆に日本刀で100人斬りまくるというのは物語として面白みがある。日本は武士道の国ですから、日本刀で敵をなぎ倒すほうが話としては痛快でしょう。戦争ですから、銃で敵兵を百人殺しても当たり前ですから、特ダネにはならないわけですね。

「なぜ日本刀でなければならなかったのか? 」- グース氏自身はこの問いの重要性に気づいていないで しょうが、これは真に重大な問いです。
 
 「戦果」つまり「敵兵の殺傷数」を競うのであれば日本刀でなくても構わないわけです。銃でも銃剣でも何の問題もありません。

銃では自分が狙撃して殺したという実感も、確信も持たれないことは先ほど確認しました。 軍隊において日本刀に対する憧れ、ファンタジーが生じており、それは銃後の国民にも蔓延していました。これは 報道された○○人斬り を参照して下さい。この背景を理解しなければ百人斬り競争を理解することはできません。同じく殺傷しても銃や機関銃、大砲では 報道されず、日本刀で殺傷すると拍手喝采で受け入れら 、好んで報道されていた、という時代背景があるからこそ、百人斬り競争がありえたのです。 当時の新聞記事全体を見回しても、機関銃掃射で戦況を挽回したとか、砲撃で窮地を脱したという記事はなく、見出しは必ず日本刀を揮っての敵陣突入になっているという事実があ ります。また、日本刀の携帯を必要とされない、兵士が好んで日本刀を持って行ったこと、銃剣を持っている兵士が捕虜を殺害するときにあえて、上官に願って日本刀を借りて殺害した事例があったことで、日本刀ではなくては得られない満足感を持っていたことがわかります。
 
 しかしながら、読者受けする物語(虚構)だとすれば、「日本刀」でなければならない必然性があるといえます。日本は武士道の国ですから、日本刀で敵をなぎ倒すほうが話としては痛快でしょう。

逆説的ながら、グース氏は日本刀による人斬りが受け入れられる背景を理解しています。読者受けするということは兵士にとっても賞賛を受ける、名誉な行為であると受け取られていたことを示してい ます。 グースの「日本は武士道の国だ」という理解もまたその通り、語られて痛快なことはやってみたくなるのが当然でしょう。

下士官たちは白兵戦での日本刀を振りかざしての突撃に憧れますが、上海陥落後の追撃戦においてはそういう戦場は少なくなりました。その間隙を埋めたのが、 逃走する敵部隊から脱落した敗残兵の掃討です。弾薬を撃ちはたし、有効な抵抗はできなくなっていたとしても、日本刀で殺害されるとなったら、なにがしかの抵抗はします。 敗残兵の掃討は真正の白兵戦と据えもの斬りの間をつなぐ、「白兵戦もどき」となり、下士官の意識の中では一続きのもの、同質のものと認識されるようになります。南京戦当時 は捕虜の殺害でさえ、「戦闘の続きだ」と言われることもありましたから、最も勇ましく、晴れやかなイメージで捉えられていた日本刀による「戦闘行為」 を好んで記者に語ったのは容易に理解できます。

斬首は 選ばれて兵を率いる士官だからこそできるという一つの栄誉でもありました。また、捕虜の斬殺はしばしばはじめて戦場に出て戦う下士官の戦闘訓練のひとつとして行われていました。
士官は日本刀を振るって捕虜を斬首することで一人前になったような感覚を抱き、その行動を通じて日本刀を振るって敵陣へ斬り込むための勇気をつけ、憧れを増幅させて行ったのです。戦闘においても、捕虜、敗残兵の処刑においても 日本刀を揮っての行為が合理性を超えてひとつのシンボライズされた様式になりました。戦況が追撃戦になるに及び日本刀を揮っての白兵戦 の機会はいよいよ少なくなりましたが、それが出来ない代わりに据えもの斬りが流行ることになりました。

日本刀をふるっての「戦闘行為」に対する自己陶酔は新聞記者を巻き込んで、国内の読者を熱狂させました。新聞記事は国民と兵士の間で百人斬りを鼓舞し増幅 し、多くの追随者を出します。百人斬りは決して空虚な実体からなる虚構ではありません。捕虜・民間人の斬首や、敗残兵・投降兵の処刑、白兵戦もどきを含めた虐殺行為を、日本刀をふるって戦場で活躍する勇壮なイメージで覆い隠 したのが「百人斬り報道」「○○人斬り報道」でした。

 
(3)戦果競争はあったのか?

  両少尉が最前線で戦う歩兵の隊長であれば、互いに戦果を競うということはありえるかもしれませんが、現実には向井少尉は砲兵隊の小隊長であり、野田少尉は大隊の副官でした。両者とも所属が違いますし、最前線で積極的に 白兵戦に参加する兵科でもありません。
  戦争ですから敵に包囲された場合などは、砲兵でも工兵でも白兵戦に参加することになりますが、基本的に砲兵隊は遠距離砲撃が仕事です。砲兵隊所属の向井少尉が予め白兵戦の予定を立てるということはまずないでしょう。

  つまり、兵科の違う二人が、相談して「何らかの戦果を競争する」ということは理論的に考えるとまずあり得ないということができます。つまり百人斬りやそれに類する競争行為はそもそも行われていなかったと考えられます。

  百人斬りに関する一次資料が不自然なほど出てこないのも、「虚構の競争」であると考えればむしろ当然ということになるでしょう。

(※ 大隊司令部が戦場に位置する場合もあるので、状況によっては大隊長クラスでも副官クラスでも戦場に出ることはあります。当然ですが戦死する場合もあります。これは作戦の内容またはは戦況によってそうなるだけで、大隊司令部、大隊副官が常に白兵戦を行っているわけではありません)。

新聞記事において「戦果競争」という呼び方、位置づけはされていません。百人斬り競争を認めていた二少尉の発言においても同様です。戦果とはもともと作戦命令を出す側が作戦目的と照らし合わせて言う言葉 ですから、当人たちが私的なゲームと位置づける百人斬り競争を、あえて「戦果競争」と言い換える意図が疑われます。 二少尉の発言から見る限り、 競争は友人の間の武功、武勲の自慢、手柄話という位置づけであったことを示しています。
 
両者とも所属が違いますし、最前線で積極的に白兵戦に参加する兵科でもありません。

野田少尉が報道されるくらいの戦果に憧れていたことを示す資料があります。 しかも、戦闘の最後を決するのは日本刀だと考えていたことも明かされています。友人の六車少尉(第一大隊副官)などが、日本刀を振るって敵を斬っていると言う話を聞いてうらやまし がっている様子を手紙に書いています。
野田少尉が百人斬りを開始する以前の10月段階で書かれた手紙
「同隊の中でも六車や山口は新聞などにも書かれるほどの手柄を樹てました。・・・・なお大阪毎日と鹿児島の新聞を一部ずつ送って下さい。ほとんど一月おくれの新聞を読んでいるし、戦線では新聞がなにより楽しみです」「ご期待に副うだけの働きはこれから十分するから安心してくれ」

既報百人斬りを誓って江南の地に勇名をとどろかせている冨山部隊の野田毅少尉は、鹿児島県肝属郡田村村出身、鹿児島県立一中から士官学校にすすも、本年八月少尉に任官した青年将校・・・・出陣にあたって「近代戦争は科学兵器の戦闘であるが、最後を決するものは依然として大和魂だ。日本刀だけとわざわざ郷里にいる愛刀家の叔父田代宮熊氏の愛刀二百本のうちから鹿児島の名工波平作の二口を撰んで譲りうけ「これさえあればやるぞ」と勇躍出征したものである。


第二大隊の副官であった六車政治郎少尉は「敵を斬った数は俺の方が多い筈だ」と思ったことが書いてあり、副官も日本刀を揮っての武功に関与したことは明らかです。
「鎮魂 第3集」(陸軍士官学校四十九期生会発行)「野田大凱の思い出」(1967年)より
北支に上陸してからは、別々の戦場で戦うことが多くほとんど顔を合わせることはなかったが、中支に転じて南京攻略を目前にした一日、南京東部の句容鎮付近で珍しく一日だけ進撃の止まった日があった。聯隊本部へ命令受領に行くと野田君も来ていて、出征以来三ヶ月振りに会った。この時まで私はいつも聯隊本部から離れた第一線にいたので、新聞など見たこともなく、野田少尉と向井少尉との百人斬り競争の噂は知らなかった。戦斗の数は俺の方が多く、敵を斬った数も俺の方が多い筈だがとひそかに思ったものであった。

同じ部隊に所属し、友人である二人の少尉が会う機会はあっておかしくありません。二人がそれぞれに日本刀を振るっての戦闘もどきの体験をし、それを自慢しあうところからこの競争が始まったのです。 真正の白兵戦ではなく、敗残兵相手の「白兵戦もどき」として始まったとすれば、百人斬り競争を説明できます。
 
百人斬りに関する一次資料が不自然なほど出てこないのも、「虚構の競争」であると考えればむしろ当然ということになるでしょう。

私的なゲーム、スポーツでしている競争に対して公的な記録がないのは当然です。しかし、野田氏は浅海記者の取材以外にも鹿児島毎日新聞、郷里への手紙、小学校での講演などで証言したことが、資料として残っています。百人斬り競争の実態 を示す程度の量の一次資料は本人たちが残しています。
 
(4)据えもの斬り競争はありえるか?

 虐殺肯定派(あった派)は、百人斬りは戦闘行為ではなく、捕虜(捕虜扱いされた民間人を含む)の処刑だったと主張しています。いわゆる「据えもの斬り」で、しばられ無抵抗になった捕虜を日本刀で殺害したのだとしています(例えば、本多勝一氏、『南京大虐殺否定論13のウソ』など)。

 しかしちょっと考えれば、「据えもの斬り」で、どっちが先に100人殺害するのか競争するのはナンセンスということがわかるでしょう。
 無抵抗の捕虜を殺害するのですから、剣術の腕などもあまり関係なく、捕虜の処刑に立ち会う回数で勝負がついてしまいます。また、処刑数を競うのであれば日本刀でなければならない理由もありません。

 そもそも捕虜は安定して確保されるわけではなく、もしかすると南京陥落まで捕虜と出会わない可能性もありますし、逆にいきなり数百、数千の捕虜を確保する場合もあります。このように他人まかせ運任せな据えもの斬りの場合、競争そのものが成立しないと考えられます。

 日本軍は南京に向かって強行軍で進んでいましたから、のんきに時間をかけて捕虜を集めたり、時間をかけて日本刀で殺害している時間はなかったものと考えられます。また、砲兵隊は通常部隊の後方に位置する為、進軍中に捕虜を確保する機会はあまりありません。
 理論的に考えると、両少尉が”競争として”据えもの斬りを行っていた可能性は限りなく0に近いと言えます。
 

 
据えもの斬り競争はありえるか?

ここでなされている議論は「ありえるか、ありえないか」の話であり、「あったか、なかったか」の話ではありません。「あったか、なかったか」は資料を元にした議論ですが、「ありえるか、ありえないか」の話はともすれば主観でなんとでも言える話に堕してしまいます。南京事件の論争の各分野では否定派がこのような「ありえるか、ありえないか」の議論に矮小化することが行われています。

まず、二少尉が自ら東京日々以外のメディア、あるいは講演会、あるいは家族のものに「百人斬り競争」と称するものを行っていたことを公言しており、その実態は戦闘での百人斬りではありえないのですから、「白兵戦もどき」あるいは「据えもの斬り競争」であることは間違いがないと言っていいでしょう。
無抵抗の捕虜を殺害するのですから、剣術の腕などもあまり関係なく、捕虜の処刑に立ち会う回数で勝負がついてしまいます。また、処刑数を競うのであれば日本刀でなければならない理由もありません。

当時は敗残兵、投降兵は他の将兵もただちに殺害していました。したがって、据えもの斬りといえども捕虜をとるにはそれなりに、前線に出ていって投降する中国兵を確保しなければなりません。副官や砲兵隊長といえども、戦況によっては戦闘に参加することは出来たこと、また、草場支隊の戦いは 敵部隊との正面戦闘を避けて迂回してでも早めに南京到着を目指していたことが判明しています。トーチカに籠もる敵兵との塹壕戦などは避けており、戦闘らしきものは敗残兵の掃討 以外にはなかったという事実があります。

斬首には斬首の技術があります。また、敵兵の処断(斬首)自体がその将兵の武功として認められていたという当時の軍隊内の状況があります。日本刀でなければならない訳はすでに述べました。
そもそも捕虜は安定して確保されるわけではなく、もしかすると南京陥落まで捕虜と出会わない可能性もありますし、逆にいきなり数百、数千の捕虜を確保する場合もあります。このように他人まかせ運任せな据えもの斬りの場合、競争そのものが成立しないと考えられます。

無錫から常州に至る間での「戦闘」で二人とも多くの敵兵を斬ったわけですが、それまでのような捕虜の獲得ペースが続くことを予想したからこそ、競争を始めたのでしょう。私的な競争であり、「スポーツ的なこと」でしたから、百人に満たないで不成立になったり、中断を余儀なくされてもそれはそれで問題はありません。百人も斬れば面白かろう、賞賛を浴びるだろうという、始めるに当たってのモチベーションがあれば百人斬り競争をする理由としては十分です。

二少尉のうち向井少尉は昭和14年になっても野田少尉に約束した三百人斬りをしようと努力している、と述懐しています。すなわち、百人斬りとか○○人斬りは二少尉にとってもともと自らを高めるための努力目標であったのです。

"据えもの斬りという虚構(2)"

 「据えもの百人斬」りの場合は(狭義の)戦場ではない場所での処刑ですから、軍による組織的行為ということになります。
 これが事実であるならば、捕虜を捕まえた記録(戦果)、連行した記録、などの当事者の記述や目撃情報が数多く残ることになります。また、処刑の光景を目撃した者や準備を行った者も多数存在することになります。こういった情報や伝聞はかならずなんらかの一次資料(同時代に存在した史料・陣中日記など)に残るものと思われます。

 こういった一次資料(同時代史料)が不自然なほど出てこない以上は、百人斬りは限りなく虚構に近いと考えて、歴史学上は問題ないのです。

 
 「据えもの百人斬」りの場合は(狭義の)戦場ではない場所での処刑ですから、軍による組織的行為ということになります。
 これが事実であるならば、捕虜を捕まえた記録(戦果)、連行した記録、などの当事者の記述や目撃情報が数多く残ることになります。
 

「据えもの百人斬り」が軍による組織敵行為に当たるかどうかということをなぜ問題にするのかよくわかりません。敗残兵・投降兵・捕虜の「掃討」まで含めて当時の軍は戦闘行為とすることが多いようですが、軍が「据えもの斬り」とか「百人斬り」というジャンルそのものを組織的行為と認識することはないでしょう。戦闘詳報を見ても捕虜数の報告はありますが、「捕まえた記録、連行した記録」などが記載されたものを見たことはありません。
 
これが事実であるならば、捕虜を捕まえた記録(戦果)、連行した記録、などの当事者の記述や目撃情報が数多く残ることになります。また、処刑の光景を目撃した者や準備を行った者も多数存在することになります。こういった情報や伝聞はかならずなんらかの一次資料(同時代に存在した史料・陣中日記など)に残るものと思われます。


捕虜として拘束後、収容されたり、後送したりした場合は記録に残るでしょうが、敗残兵・投降兵の段階では収容する前に殺害するのが十六師団の方針でしたから、記録として残らないのは当然で した。 この場合は掃討・殲滅の中に記録されます。また、民間人、農民の場合、記録する対象ではありません。捕虜獲得や、敗残兵殲滅自体に特に戦況を転換し、戦局を動かす 働きはありません。捕虜獲得に至るような戦闘であって戦況を転換するようなはたらきには勲功を与えられるでしょうが、敗残兵の掃討や捕虜の処分の当事者を特に記録するという習慣は ありません。また、一人で通算して百人を斬ったとしても、一回では数人、十数人の殺害であり、当時はよくあったことですから、目撃記録を残すほどのことでもなかったでしょう。

また、百人斬り競争があれば、一次資料が残るはずだというのは多数の一次資料が残っているという前提があってはじめて言えることです。もっとも重要な十一中隊の戦闘詳報 まるごとが失われた状態では(あるいは、特に秘匿されている状態では)文献にないから、事実がないということは言えません。「一次資料が不自然なほどない」と すればそれは敗戦時に出された資料を焼却する命令のせいではないでしょうか。
A.志々目回想記をめぐる議論

100人斬りを支えるあやふやな資料(1)

志乃目(ママ、 グース氏のミス、志々目が正しい)回想記
 「百人斬り競争」が「据えもの斬り競争」であるという根拠としてよく引用されるのが志乃目回想記です。この回想記は、志乃目氏が小学生の頃に聞いた講演の内容を、1971年になって月刊誌『中国』12月号で発表したものです。
 
 郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……
 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……
 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……
『南京大虐殺否定論13のウソ』P102 柏書房 本多勝一論文より

 この回想記を『重要な史料』と位置づける学者はまずいないと思います。
  なぜならば、小学生の時に聞いた講演内容を、何十年も後に書いたのですから、記憶が変質していたり、実際の講演の内容と記述内容に齟齬があって当たり前だからです。
 これを史料として使う為には、関係者が多数生存しているのですから、講演を行った学校の先生や、同級生その他の生徒に講演の内容を確認する必要があります。検証がされていない以上、記述された内容をそのまま正確な史料として扱うのは無理と言えます。
 当然ながらこういったあやふやな根拠で、両少尉を犯罪者扱いすることはかなり問題があります(裏を取らないで個人の証言だけで、○○さんは殺人鬼だと発表したら名誉毀損に該当します。芸能人のゴシップ記事とはわけが違うのです)。
 

 
この回想記を『重要な史料』と位置づける学者はまずいないと思います。
小学生の時に聞いた講演内容を、何十年も後に書いたのですから、記憶が変質していたり、実際の講演の内容と記述内容に齟齬があって当たり前だからです。

小学生であったから記憶がすべて変質しているという決めつけはよろしくありません。各自、振り返って見て小学生時分の記憶のすべてがまったく信頼性がないと考える人はほとんどいないでしょう。記憶というのはその人の興味の焦点を少しはずれた部分ではかなりの記憶の変質、改変が起こりますが、一番の関心事や興味の焦点に対して、あるいは強く感情を刺激する点においては強く、保存されます。 また強い記銘というものは反復想起されて記憶の強化が起こっているものです。

志々目回想記 では「(野田少尉が)ずるいな」という思い、「支那人というのはそんなに馬鹿だろうか」と強い疑問が後々まで残り、その記憶が成長の過程毎に反復して追想され、次第に野田少尉のレトリックを見抜けるようにな った経過が語られています。記憶を裏付ける関心の焦点が明らかであり信憑性はかなり高いものです。
 
これを史料として使う為には、関係者が多数生存しているのですから、講演を行った学校の先生や、同級生その他の生徒に講演の内容を確認する必要があります。


野田氏が講演をしたことは他の証言・新聞資料にもありました。

昭和13年3月21日鹿児島新聞
「袈裟がけ・唐竹割-突つ伏せ-唸れる銘刀の凄味 三百七十四人を斬った戰場の花形・鬼少尉薩摩男の子の誇り 今度は陸の荒鷲群へ その途次に郷里へ凱旋」(見出し)
<前略>例の向井少尉との競争談に水を向けるとニッコと笑いながら
三百七十四人の敵を斬りました。袈裟がけ、唐竹割、突伏せなど真に痛快でした。愛刀は無銘でもこの通り刃こぼれは余りありません。
<中略>
と武運に恵まれた若い少尉は、微笑しながら語るのであった。競争相手の向井章は何人斬ったかをそれとなく尋ねると破顔一笑やはり百六七十人でしょう、と己れの功のみを誇らぬところに同僚への床しい厚誼が偲ばれる。同少尉は二十日午前中、父君の津貫校児童に一場の競争談なし、午後は校区主催の講演会および歓迎会に臨み、二十四、五、六日ごろ郷里肝属郡田代に帰省、墓参をする予定である。

同様の記事は昭和13年3月22日付け鹿児島朝日新聞「斬りも斬ったり敵兵三百七十四人剛勇野田少尉突如加世田に凱旋」 でも見られます。

また、捕虜の据えもの斬りを公言したことも次の証言があります。
秦郁彦著『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実』、日本大学法学会『政経研究』42巻1号・4号

次の論点は投降した捕虜処刑の有無だが、筆者は志々目証言の裏付けをとるため、志々目が所持する鹿児島師範付属小学校の同級生名簿(有島善男担任)を頼りに一九九一年夏、数人に問い合わせてみた。明瞭に記憶していたのは辛島勝一(終戦時は海軍兵学校75期生徒)で、野田中尉が腰から刀を抜いて据えもの斬りをする恰好を見せてくれたのが印象的だったと語ってくれた。
 また北之園陽徳(終戦時は海軍機関学校生徒)は、「(野田は)実際には捕虜を斬ったのだと言い、彼らは綿服を着ているのでなかなか斬れるものではなかった」と付け加えたと記憶する。他の三人は野田が来たのは覚えているが、話の中味はよく覚えていないとのことであった。
 裏付けとしてはやや頼りない感もあるが、最近になって野田の母校である県立鹿児島第一中学校の名物教師だった安田尚義の著書に付された年表の一九三九年七月二十四日の項に、「朝礼後野田毅中尉の実戦談を聴く」と記載していることがわかった。

     (中略)

 野田が鹿児島を訪問したのは三九年五月に戦地から岐阜へ帰り、八月に北朝鮮の会寧へ転勤した合い間の七月で、鹿児島一中、付属小、それに父が校長をしていた田代小学校と少なくとも三ヵ所に顔を出したようだ。その時、鹿児島一中の三年だった日高誠(のち陸士五十八期を卒業)は、野田が全校生徒を前に剣道場で捕虜の据え物斬りの恰好をして見せたのを記憶している。彼は違和感を持ったが、あとで剣道教師からも「とんでもない所行だ」と戒められたという。

 

 
当然ながらこういったあやふやな根拠で、両少尉を犯罪者扱いすることはかなり問題があります

百人斬りを裏付ける資料その他の資料とともに、信憑性の高い証言に基づいて歴史的事実を指摘することは問題ありません。また、個人を犯罪者として扱うために摘示したものではないことも明らかです。
もともと百人斬りの報道は戦場での武勇伝ですから、両少尉がこれを否定する理由は何もありません。かなりの有名人でしょうから講演に呼ばれることも多々あったと思います。報道された以上は「100人斬りの英雄」を演じなければなりませんから、野田少尉が百人斬りで講演を行ったということは不審ではありません。が、志乃目回想記の講演内容はちょっと異様な感じがします。
 百人斬りの英雄として呼ばれたはずなのに、いきなり、戦闘では四、五人しか斬っていないと語るのはいかにも不思議な感じがします。もっとも、日本語はちょっと変えるだけで印象がかなり変わってきますから、小学性だった志乃目氏の記憶違いもあるのかも知れません。

 もっとも戦場での百人斬りはあまりに常識ハズレなので、適当につじつまを合わせた可能性もあります。いずれにしても「百人斬りの英雄」としての講演ですから、野田少尉が「戦果を競う行為」をまったくやっていなかったとしても、やったという前提で語るでしょう。でなければ講演など引き受けないでしょう。

 百人斬りは武勇伝です。空中戦で何十機も撃墜したエースパイロットを思ってもらうと判りやすいのですが、戦果を否定しなければならない理由はありません。百機撃墜と報道されたら、次の目標は二百機と語ることになるでしょう。原因(報道)と結果(英雄を演じる)を考えれば、おのずから結論は出るものと思われます。

 
もともと百人斬りの報道は戦場での武勇伝ですから、両少尉がこれを否定する理由は何もありません。かなりの有名人でしょうから講演に呼ばれることも多々あったと思います。報道された以上は「100人斬りの英雄」を演じなければなりませんから、<略>

武勇伝の話を期待されているとわかっている講演依頼に身に覚えのないものががすすんで応じるとは普通では考えられません。講演に出る、出ないは当時でもまったく個人の自由でしょう。

もしも、記者の虚偽の戦功報道にすすんで協力したとすれば、講演では漠然とした武勇伝を語るくらいはしたかも知れません。しかし、志々目回想における講演内容は リアルな投降兵処断の話でした。この内容では「虚偽報道」に協力した話にならないことは明らかです。

グース氏の原文では「記憶違いの例」というのが掲示してあるのですが、意味不明なのでここでは省略しました。

B.望月手記をめぐる議論

100人斬りを支えるあやふやな資料(2)

望月手記
 100人斬り裁判(名誉毀損で両少尉の遺族が毎日新聞社、朝日新聞社、本多勝一氏を訴えている裁判、現在係争中)の過程で出てきた新史料がこれです。私家版(自費出版?)ですからこれまで埋もれていたものと思われ検証もされていないと思います。当然ながら私も現物を見てはおりませんが、WEBサイトで提示されているものを抜粋して引用させていただきました。
 
(「私の支那事変」望月五三郎著私家版1985年P43-45)
http://andesfolklore.hp.infoseek.co.jp/intisol/hyakunin2.htm

 このあたりから野田、向井両少尉の百人斬りが始るのである。野田少尉は見習士官として第11中隊に赴任し我々の教官であった。少尉に任官し大隊副官として、行軍中は馬にまたがり、配下中隊の命令伝達に奔走していた。
 この人が百人斬りの勇士とさわがれ、内地の新聞、ラジオニュースで賞賛され一躍有名になった人である。
 「おい望月あこ(※2)にいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に座る。少尉の振り上げた軍刀を背にしてふり返り、憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。
 一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も、少尉の手前じっとこらえる。
 戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが、抵抗なき農民を何んの理由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。
 その行為は、支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた。両少尉は涙を流して助けを求める農民を無残にも切り捨てた。支那兵を戦闘中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を連隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。
 この残虐行為を何故、英雄と評価し宣伝したのであらうか。マスコミは最前線にいながら、支那兵と支那農民をぼかして報道したものであり、報道部の検閲を通過して国内に報道されたものであるところに意義がある。


 これが日記であれば史料価値は高いのですが、戦後の1985年に発行された回想記です。100人斬り論争真っ只中に出版された回想記ですから、論争の内容を踏まえて出版することが可能だったことになります。つまり、記述内容が戦争当時のものであるという根拠がどこにもないので、史料価値はかなり低くなります。

 また『私家版』ということですが、出版社を通して自費出版したものなのか、自分でガリ版で刷ったりコピーして製本した程度のものなのかによって史料価値が変わってきます。というのは自分でまとめた場合、発行日はあってないようなものですから、裁判で本多氏を援護する目的で作成した可能性も出てくるからです(いずれ現物が手元にないので何とも言えませんが、史料とよべるものなのかどうかも現状では不明という以外にありません)。
 これらの検証は裁判の過程で行われることと思いますので、とりあえず、望月五三郎氏の所属と階級。発行日が正しいものとして検証します。


望月回想記の問題点
 
(1)状況が全く不明
 まず回想記では処刑の日時が不明ですし周囲の状況もわかりません。
 文中で処刑されたのは支那人と記述されていますが、これが捕虜なのか民間人なのかはっきりしません。その辺の農夫を拉致して来たようにも読めます。支那人は何人くらいいたのでしょうか。縛られていたのでしょうか。これもはっきりしません。
 また、処刑を行っていたのが野田少尉だけなのか、他にもいたのかも分かりません。他に日本軍の軍人はいたのでしょうか。突発的な処刑なのか、多数を処刑していたのかもわかりません。事件の当事者が書いたわりにはまったくリアリティーがないのです。この程度の記述であれば後に創作することも容易です。
(2)競争に不可欠な数を数えている人間がでてこない
(3)私が調べた範囲では、野田少尉は大隊の副官であり、基本的に部下はいなかったということです。つまり、指揮系統から考えると野田少尉は望月氏に命令する権利はなかったと考えられます。
(4)向井少尉と野田少尉が支那人を取り合いするという状況が不明です。砲兵隊の向井少尉と大隊副官の野田少尉は基本的に別行動です。また、取り合いの現場を望月氏が目撃できるという状況はかなり限られてきます。
 そもそも、民間人ならいくらでもいるので取り合う必要もないでしょう。

 こういった、戦後に捏造可能なものしか百人斬りを支える史料はないというのが現実です。東日記の裁判でも、日記原本は存在せずと認定され、回想記であり記述内容は虚構であると最高裁判決が確定しています。また『南京事件』偽史料列伝(6)で例をあげているように、虐殺があったという戦後の回想記や証言に虚構が多いことはすでに事実として証明されています。
 こういったことから、一次資料(当時の史料)が出てこない以上は、裁判でもおそらく「百人斬りの虚構」は認められることと思います。

 
これが日記であれば史料価値は高いのですが、戦後の1985年に発行された回想記です。100人斬り論争真っ只中に出版された回想記ですから、論争の内容を踏まえて出版することが可能だったことになります。つまり、記述内容が戦争当時のものであるという根拠がどこにもないので、史料価値はかなり低くなります。

私家版ということは個人の戦争記憶を記録にとどめようという目的のもとに書かれたものと解するのが相当です。したがって百人斬り論争に特段の肩入れをする目的はなかったと推察されます。また、この記録が全体としては日本軍を悪く言う目的ではなかったことは 戦後はもっぱら南京大虐殺否定論、百人斬り否定論の旗振り役の1人として活動してきた犬飼総一郎氏がこの著作を靖国神社に寄贈したことでも明らかで す。
参照http://andesfolklore.hp.infoseek.co.jp/intisol/hyakunin4.htm
 
望月回想記の問題点

「処刑の日時」「周囲の状況」「人数」などの詳細がないから信頼できないということはありません。記憶は記録者のそのときの立ち位置、関心事に照らして合理的な言及範囲を持っていることが自然なあり方です。望月氏のこのときの関心 の中心は百姓を捕らえて斬首するという残虐行為に対する怒りであって、「処刑の日時」「周囲の状況」「人数」に対する関心まではないのが当然でしょう。グース氏自身「取り合いの現場を望月氏が目撃できるという状況はかなり限られている」と考えていますから、望月氏 の証言にそれらを求めることはできないはずです。
指揮系統から考えると野田少尉は望月氏に命令する権利はなかったと考えられます。

作戦行動においは直属の上官の指令だけを受けます。民間人を拘束して連れて来るのは、作戦行動に当たらないのは歴然としています。厳然たる階級社会である軍隊において はたとえ私的な用向きだとしても士官の命令を兵士が拒否するということは考えられません。私的な制裁さえ横行する軍隊において上官の命令の拒否を権利・義務関係で判断するのはかなり非常識な議論だと思われます。
こういった、戦後に捏造可能なものしか百人斬りを支える史料はないというのが現実です。


戦前の資料では百人斬りをした、という資料しかなく、しかも それは当人の証言です。また、百人斬りや捕虜の斬殺をしなかったという証言も裁判に直面していた当人の証言です。また、志々目証言は戦前における野田少尉の講演内容を伝えたものです。つまり、これまで百人斬りに関しては当人自身の証言しかなかったわけです 。望月証言は第三者による唯一の目撃証言ですから、ひじょうに重要な史料としなければなりません。

「戦後に捏造可能だから、信憑性がない」という議論は成り立ちません。もしそれが成り立つのならば、百人斬りや捕虜の斬殺をしなかったという二少尉の証言もまた 戦後になされたものですから、信憑性がないということにな ります。望月回想記が「百人斬りが問題とされた後にされた証言だから、信憑性がない」というであれば、二少尉の否定発言は裁判を意識した証言であるから、信憑性がないことにな ります。二少尉の百人斬り否定証言がなくなれば、百人斬りをしたという資料しかなくなりますから、論争はそれにて終結します。

そもそも、戦前において野田少尉は鹿児島朝日新聞、郷里への手紙、小学校での講演における証言でも百人斬りを公言しているのですから、百人斬りを支える史料が「戦後に捏造可能なものしかない」というのはまったくの誤りです。
 

 まったく滅茶苦茶ですね。
 単行本にまとめられた時に[注4]が追加され、日本の新聞記事と志乃目回想記などが引用されたようですが、1971年に朝日新聞に連載された時には注記はなかったものと思われます。
 当時の報道を知らない人が本多氏のルポを読んだら、百人斬りは戦争当時から殺人競争として報道されたと思うことでしょう。

 志乃目回想記は1971年に発行された『中国』(徳間書店)12月号記載ということです。雑誌の締め切りを確認していないので断言はできませんが、志乃目回想記が書かれたのは、本多氏が朝日新聞に記事を掲載したあとだと思います。志乃目回想記の内容がちょっと異様な感じがするのも、本多ルポに影響され記憶が変質してしまったからかもしれません。

史料解釈のポイント
 「据えもの斬り」を示唆するような資料は本多ルポ(1971年)以降のものしかありません。それも歴史史料とよべるかどうか微妙なものばかりです。
 事実関係として一次資料としてはおろか、1971年より前には「据えもの斬り」を示唆する史料は存在していないのです。

 「据えもの斬り百人説」が理論的に無理があることと合わせて考えると、据えもの斬り説は、本多ルポ以降に誕生した「虚構」というのが客観的な評価ということになるでしょう。 

 
当時の報道を知らない人が本多氏のルポを読んだら、百人斬りは戦争当時から殺人競争として報道されたと思うことでしょう。

本多氏は中国人の間に伝えられている「百人斬り競争」像をレポートしただけです。日本で殺人競争として報道されたと思う人がいるとはありえない話です。

中国の民衆の中に語り継がれた「百人斬り競争」像は外国人ジャーナリストが東京日々新聞の記事を翻訳、転載し、それがさらに中国の新聞に載ったものです。転載においては、日本人が持つ日本刀を揮っての戦闘に対する憧れという文化的背景は 到底伝えることが不可能であり、 理解不可能な残虐な殺人競争として紹介されました。しかし、どのような文化的背景で行われようと、百人斬りの実行内容は殺人競争以外のなにものでもありません。
 
「据えもの斬り」を示唆するような資料は本多ルポ(1971年)以降のものしかありません。それも歴史史料とよべるかどうか微妙なものばかりです。

戦前において百人斬りを二少尉が自ら認めていたことは新聞記事その他で明らかです。 百人斬りと呼ばれておかしくない競争そのものはあったのです。そして百人斬りの内実がなんであったかといえば、それは「据えもの斬り」でしかありません。
据えもの斬り説は、本多ルポ以降に誕生した「虚構」というのが客観的な評価ということになるでしょう。

据えもの斬り説は戦前からありました。 当時の一般国民はほとんどが白兵戦における百人斬りという虚構を信じていましたが、その中にあって、日本刀専門家と前線の軍人だけが、百人斬りとは「据えもの斬り 」のことを言っているのだ、と知って いました。外国人ジャーナリストもまた、新聞を通じて日本の軍国主義的風潮を読みとり、捕虜・民間人の殺害であることを理解し、外字紙に翻訳・転載しました。 白兵戦による百人斬りが不可能という常識的な判断を下すことができた、この三者がそろって捕虜・民間人の殺害、すなわち「据えもの斬り」であるとみなしていたのは偶然ではありません。
白兵戦における百人斬りはないという常識が戻った戦後にあって本多勝一も据えもの斬り競争という見解をとりました。 当時の日本刀に対する信仰を客観視できるものにとっては明瞭なことでした。

"新聞記者の創作説(3)"

グース原文では「据えもの斬りがありえない」論を前提としていくつかの段落がありますが、それにはすでに反論済みであり、間違った前提の議論に対して反論してもすれ違いばかりになるので省略します。
 

三つの可能性

(1)百人斬り真実説
 肯定派、否定派含めて百人斬り武勇伝が真実であると論じている研究者はおりませんし、話を聞いた新聞記者が白兵戦100人斬りを事実と考えることはありえませんから、この説は排除して構わないと思います。

(2)向井少尉もしくは野田少尉創作説
 この説が成立する為には、予め二人が相談して物語の概略が完成している必要があります。仮に片方だけが創作した場合、もう一人は話を合わせられないわけですから、新聞記者も作り話であることがわかることになります。
 この点は、「据えもの斬り」を「武勇伝に創作」した場合も同様です。
 しかしながら、インタビューされるかどうかも分からず、報道されるかどうかも分からない「虚構」を、所属も行動も違う二人が、予め綿密(完璧)に打ち合わせていたという可能性はまずないでしょう。

(3)新聞記者創作説 
 新聞記者が、両少尉のいずれか一方に「100人斬りの記事を書きたい」と創作を持ちかけたとします。
 この場合、一人では競争になりませんからもう一人協力者を探すことになります。そして三人で考えながら100人斬りの細部を作り上げたとすればどこにも矛盾点はありません。兵科の違う二人が『戦果の競争を行った』というおかしな点にも説明がつきます。

なんと、あらかじめ「据えもの斬りの百人斬り競争」を排除しているという三択リストです。
 
(1)百人斬り真実説
 肯定派、否定派含めて百人斬り武勇伝が真実であると論じている研究者はおりませんし、話を聞いた新聞記者が白兵戦100人斬りを事実と考えることはありえませんから、この説は排除して構わないと思います。

白兵戦での百人斬りがあったと考える論者はどこにもいません。ただし、話を聞いた記者が白兵戦の百人斬りだと考えたことは事実です。このことは浅海記者、鈴木記者、佐藤カメラマンの証言でも明らかです。
 
(2)向井少尉もしくは野田少尉創作説

グース氏は虚偽事実の創作を前提としていますから、二人同時の創作はありえない、としているのですが、百人斬り競争は虚偽事実ではなく、実際の行為ですから二人同時の発言はありえます。「ホラ」と「冗談」 にも書きましたが、虚偽事実を、しかも新聞に書かれることを想定して捏造するということはかなり良心 に痛みを感じます。ホラ説の場合、そうした良心の痛みなく、しかも二人が揃ってすることが可能です。
 
(3)新聞記者創作説 
新聞記者が、両少尉のいずれか一方に「100人斬りの記事を書きたい」と創作を持ちかけたとします。
 この場合、一人では競争になりませんからもう一人協力者を探すことになります。そして三人で考えながら100人斬りの細部を作り上げたとすればどこにも矛盾点はありません。兵科の違う二人が『戦果の競争を行った』というおかしな点にも説明がつきます。

「創作を持ちかけたとしたら」「・・・矛盾点はありません。・・・・にも説明がつきます」-まことに明快な論理というべきでしょうか(笑)。
実際には していない百人斬り競争の創作記事に協力してくれる軍人を二人も調達するために、いったい記者は忙しい戦場取材の間に何人に声をかけたのでしょうか。それから、この説明では「三人で考えながら・・・作り上げたとすれば」となっているので新聞記者創作ではなく、共同創作説になって しまいます。
 
新聞記者は知っていたはず

 浅海記者が自分で創作を持ちかけたなら当然ながら虚構であることを知っているはずですし、仮に両少尉が完璧に打ち合わせて演技したとしても、所詮「チャンバラ小説レベルの武勇伝」ですから、作り話であることは容易にわかるでしょう。
 戦場に同行する従軍記者が「白兵戦百人斬り」を真実であると考えたとは思えませんし、当然ながら新聞社も「虚報だと知っていて、戦意高揚の為に」あえて誌面に掲載したことと思います。
 
 つまり百人斬りが報道が「虚報」であることは論争するまでもないのです。

 野田少尉、向井少尉は新聞記事だけを証拠に『死刑』となりました。
 当時記事を書いた浅海記者が『記事は創作でした』と真実を伝える勇気があれば、両少尉が『無罪』になった可能性が高いと思います。

 
浅海記者が自分で創作を持ちかけたなら当然ながら虚構であることを知っているはず

創作なら虚構は当たり前の話。しかし、創作という証拠は何一つ提示されていません。
「浅海記者が創作を持ちかけた」というのは二少尉が裁判中に主張し始めたことであって、しかも最後にはその主張は引っ込めてしまった経緯があります(二少尉の主張の変遷  を参照のこと)。浅海記者、鈴木記者、佐藤振寿カメラマンはそれぞれ二少尉が話したままを記事にしたという証言をしています。 史料の上から「浅海記者が創作を持ちかけた」という推測は成り立ちません。

また、前節でグース氏は三人で作り上げた話であれば矛盾はない、としましたが、もしそうであるならば、国民政府に捕らえられた二少尉は記者が創作したなどといわず、最初から三人談合してでっち上げたものだ、と主張して記者の証言を求めたはずです。無実の人間ならば 最初のうち、記者の創作だと記者に責任をなすりつけ、後になって自分たちも関与したなどというように証言を変えるはずはないでしょう。
 
戦場に同行する従軍記者が「白兵戦百人斬り」を真実であると考えたとは思えませんし、当然ながら新聞社も「虚報だと知っていて、戦意高揚の為に」あえて誌面に掲載したことと思います。

つまり百人斬りが報道が「虚報」であることは論争するまでもないのです。

グース氏が「思えない」というのは何の証拠になるのでしょうか?
どうやら、百人斬り報道が虚報であるという証拠はグース氏の思いこみ以外何もないわけです。
野田少尉、向井少尉は新聞記事だけを証拠に『死刑』となりました。

これは南京軍事法廷の裁判批判ではあっても、百人斬り競争はなかったことの証明にはなりません。 鈴木明著「『南京大虐殺』のまぼろし」のルポにあるように、裁判長は二人はブランデーを賭けていたという証言していますから、実態がなにかを別として二少尉が日本刀を使っての競争をしていたこと になります。おそらく、二少尉はある程度、検察 に対して真実の証言をしたのだと考えられます。

南京軍事法廷では客観的な証拠が積み上げられて有罪が確定したかというと私にもそうは思われません。しかし、今回、否定派が求めて訴訟に訴えた結果、かえって両少尉の百人斬りの証拠が次々と発掘され、歴史的事実として確定するに至ったのが事実です。

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