小林多喜二虐殺事件

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小林多喜二虐殺事件

 

1903年(明治36年)10月13日、小林多喜二(たきじ)は秋田県の貧農の長男として生まれた。4歳の冬、一家はパン工場を経営していた伯父を頼って北海道へ渡った。小林は伯父の援助で小樽商業学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)へ進学した。

商業学校時代から、絵や詩などの創作をしていたが、高等商業学校へ入ると交友会誌に幾つかの小説を発表した。卒業後、北海道拓殖銀行に入り、その頃からマルキシズム、社会科学の勉強にのめり込み、労農運動に関心をもつようになり、作品もプロレタリア文学への指向を示し始める。

1921年(大正10年)に、プロレタリア文学は『種蒔く人』の創刊に始まり、1924年(大正13年)の『文芸戦線』の創刊、1925年(大正14年)の日本プロレタリア文芸連盟の結成へと次第に勢力を伸ばしていく。

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災(死者9万1802人、行方不明者4万2257人)、その他、大正末期から昭和初めにかけて、世界恐慌による経済不況、農村恐慌が相次ぎ、社会不安が増大した。そんな時代を背景に、弾圧によって壊滅した共産党が1926年(昭和元年)、同志たちの手で密かに再建された。

1928年(昭和3年)2月、第1回普通選挙が行われた。共産党は、前年のコミンテルン・テーゼで大衆的公然活動の方針を打ち出していたので、徳田球一らの党員を労農党の候補者として立候補させ、8人の当選者を出した。この選挙のとき、多喜二は労農党候補の応援演説隊に加わって活躍した。

3月15日未明、田中義一内閣はいつの間にか復活していた共産勢力に脅威を感じ、共産党、労農党などの関係者約3600人を全国で一斉に検挙し、これらの団体の結社を厳禁した。この3.15事件で、小樽でも500人以上が逮捕された。

同年暮れ、多喜二は3・15事件をテーマにした小説『一九二八年三月十五日』を雑誌『戦旗』に発表した。編集部では検閲を通すため、かなりの削除、伏字をしたが、発売禁止になった。だが、秘密組織の配付ルートを通して8000部以上が売れ、大きな反響を呼び、多喜二の名は知られるようになった。

『一九二八年三月十五日』(ほるぷ出版/1980)

翌1929年(昭和4年)、多喜二が『蟹工船』を発表。『蟹工船』は帝国海軍に保護されてカムチャツカに出漁する蟹工船労働者たちの悲惨な労働の様子と労働者が組織的闘争に立ち上がっていく姿を活き活きと描いている中編小説。

8月、『読売新聞』紙上で多数の作家、評論家が『蟹工船』を「本年度上半期の最高作」として推薦した。単行本になると、当時としては驚異的な3万5000部が売れた。

『蟹工船・党生活者』(新潮文庫/1954)・・・2008年(平成20年)1月9日付けの『毎日新聞』東京本社版朝刊文化面に掲載された作家の高橋源一郎と雨宮処凛(かりん)の対談で、2人は「現代日本で多くの若者たちの置かれている状況が『蟹工船』の世界に通じている」と指摘。ワーキングプア問題と絡んで、『蟹工船・党生活者』(新潮文庫/1954)が異例の売れ行きを示している。新潮社では3月に7000部、4月に2万部を増刷したが、これは例年の5倍の発行部数だという。

同年、多喜二が非合法活動のため、北海道拓殖銀行をクビになる。

翌1930年(昭和5年)、多喜二は共産党員としてプロレタリア文学や党の文化活動をするため上京した。その後、治安維持法違反で半年間、刑務所に入れられ、出所するも弾圧がますます激化し、1932年(昭和7年)4月、宮本顕治たちとともに地下に潜ったが、この年は波瀾の年だった。1月28日、上海事変勃発。2月9日、東京市本郷区(現・東京都文京区/本郷区と小石川区が統合して文京区となる)で、前蔵相・井上準之助が「血盟団」の小沼正(おぬましょう)によって暗殺される(血盟団事件)。3月1日、満州国建国宣言。3月5日、三井合名(ごうめい)理事長の団琢磨が血盟団員により射殺される。5月15日、犬養毅(いぬかいつよし)首相が陸海軍将校によって射殺される。

宮本顕治・・・1908年(明治41年)10月17日生まれ。政治家。文芸評論家。1931年(昭和6年)3月、東京帝国大学(現・東京大学)経済学部卒業。5月、日本共産党に入党し、日本プロレタリア作家同盟に加盟。1932年(昭和7年)4月、プロレタリア文学運動への弾圧をきっかけに地下に潜る。

多喜二は住所を転々としながら小説や論文を次々と発表した。『改造』『中央公論』の原稿料は直接、杉並の借家に住まわせていた母親宛てに送らせていた。

多喜二は潜行中に白石ふじ子と結婚した。ふじ子は党員ではなく銀座の会社の事務員だった。特別高等警察(特高)は2人の結婚を知り、ふじ子を尾行して家に踏み込んだが、多喜二は間一髪で逃れた。ふじ子は逮捕され、会社もクビになった。

特別高等警察・・・大逆事件(幸徳事件)を契機として、1911年(明治44年)、警視庁に特別高等警察課が設置されたのが始まりで、その後、大阪、京都などにも増設され、1928年(昭和3年)には全国に配置された。これは1925年(大正14年)5月に施行される治安維持法に備えての設置で、共産主義や反体制の言論、思想、社会運動を弾圧した秘密警察。1945年(昭和20年)10月、敗戦直後、民主化を求める世論の中で、特高は治安維持法とともに廃止になった。

大逆(たいぎゃく)事件・・・1910(明治43年)5月、信州の社会主義者宮下太吉ら4人が「爆発物取締罰則違反」で逮捕された(明科事件)が、その逮捕者が社会主義者の幸徳秋水とつながりを持っている者であったことを利用して、政府が天皇暗殺の一大陰謀事件を捏造し、幸徳をはじめとする全国の社会主義者を一網打尽に抹殺しようと計画を立て実行。これで26人が逮捕され、24人に死刑判決が下された。翌日には死刑判決を下された24人のうち、12人が無期懲役に減刑され、残りの12人が処刑された事件。

多喜二は警察のどんな拷問にも音をあげない強い男だったが、その反面、大声で話し、笑い、ふざけるのが好きな子どもみたいな性格だった。そういう人柄をふじ子やその他の多くの人々は敬愛した。そのため、多喜二は潜行生活は続けることはできたが、裏切り者のために逮捕された。

1933年(昭和8年)2月20日、多喜二は東京都港区赤坂でプロレタリア作家同盟(委員長・江口渙)の仲間である今村恒夫と会い、その後、共産青年同盟の責任者である三船留吉という男と会うはずだった。だが、待ち合わせの場所にいたのは三船ではなく築地警察署の特高刑事だった。三船は前年に逮捕されて以来、スパイになっていた。

その後、多喜二は築地警察署に連行され、丸裸にされて3時間以上に及ぶ執拗な拷問を受けた。このときの特高警察部長は安倍源基で、部下であった毛利基特高課長、中川成夫警部、山県為三警部の3人が直接に手を下している。

多喜二はぐったりした姿で留置場に投げ込まれたが、ただならぬ様子に同房の者が看守を呼んだ。特高の連中もやってくる。多喜二は意識が朦朧とした状態のまま、警察裏にある築地病院に担架で運ばれた。だが、午後7時45分、死亡した。31歳だった。警察では翌日の午後までこの死亡を伏せておき、死因は心臓麻痺と発表された。

『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社/矢島裕紀彦/1996)によると、多喜二は1903年(明治36年)10月13日生まれ、ということなので、死亡時は満年齢では29歳だが、数え年齢では31歳ということになる。サイト「無限回廊」では戦前の事件に関しては数え年齢で表記しているので31歳ということになる。

ちなみに「数え年齢」とは生まれた時点で「1歳」とし、次の年の元日を迎えた時点で1年加えて「2歳」となる、というように、以後元日を迎えるごとに年齢が加算される計算法で、「数え年齢」と「満年齢」は常に1歳か2歳違いとなる。この「数え年齢」から「満年齢」に変わるのは1950年(昭和25年)以降。

翌21日夜、多喜二は母親・セキの東京都杉並区馬橋の家に運ばれた。左右の太ももは多量の内出血ですっかり色が変わり、大きく膨れ上がり、背中一面に痛々しい傷痕。手首にはきつく縛り上げられてできた縄の痕。首にも深い細長の縄の痕。左のコメカミ下あたりにも打撲傷。向う脛に深く削った傷の痕。右の人差し指は骨折、、、。

セキは変わり果てた息子の体を抱きかかえて揺さぶり叫んだ。

「ああ、痛ましや。痛ましや。心臓麻痺で死んだなんて嘘だでや。子どものときからあんなに泳ぎが上手でいただべに、、、心臓の悪い者にどうしてあんだに泳ぎがでぎるだべが。心臓麻痺だなんて嘘だでや。絞め殺しただ。警察のやつが絞め殺しただ。絞められて息がつまって死んでいくのが、どんなに苦しかっただべが。息のつまるのが、息のつまるのが、、、ああ、痛ましや。痛ましや」

同志たちは死因を確定するため、遺体解剖を依頼したが、どの大学病院も警察を恐れて拒否した(「警察が付近の病院に遺体の解剖をさせないように圧力をかけた」と書いてある参考文献もある)。

多喜二の死を知った人たちが次々と杉並の家を訪れたが、待ち構えていた警官によって弔問客は次々と検挙された。宮本百合子も逮捕され、築地署に連行された。

宮本百合子・・・1899年(明治32年)2月13日生まれ。旧姓・中條(ちゅうじょう)。本名・ユリ。小説家。評論家。日本女子大学英文科中退。17歳のときの初作品『貧しき人々の群』で天才少女として注目を集める。プロレタリア文学、民主主義文学の作家として活躍。1931年(昭和6年)、日本共産党に入党。翌1932年(昭和7年)、文芸評論家で共産党員でもあった9歳年下の宮本顕治と結婚。

『貧しき人々の群ほか(宮本百合子名作ライブラリー)』(新日本出版社/1994)

葬儀は3・15事件記念日の3月15日、築地小劇場で労農葬として執り行われることに決まったが、当日、警察によって江口葬儀委員長のほか、関係者が逮捕され、葬儀は取り止めになった。

参考文献・・・
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)
『犯罪の昭和史 1』(作品社/1984)
『あの人はどこで死んだか』( 主婦の友社/矢島裕紀彦/1996)

「小林多喜二」の画像

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