格闘技マスコミにヤクザと呼ばれた男 麻生秀孝先生インタビュー タイガーマスクの時代にヒールホールド知らないってことは無いでしょ グレイシーと知り合う前から佐山聡先生実演してるんだし 他に誰が知ってる言うの? あとブラジル人でも足関節技に長けた人はいました グレイシーとかリオ主流派が邪道視していただけで ルタだのスブービオだの

http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar690764

【関節技の帝王】サブミッションアーツレスリング総帥・麻生秀孝インタビュー
2014-12-21 22:34

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関節技講座ビデオシリーズ、リングスやW☆INGに出場した選手たちの所属名……90年代プロ格者ならば一度はその名前を聞いたことがあるであろう「サブミッションアーツレスリング」。今回の「総合格闘技が生まれた時代」シリーズはそのサブミッションアーツレスリング総帥麻生秀孝氏だ。関節技の帝王は旧ソ連サンボから昭和・新日本まで、幅広いネットワークを持つ格闘技界のゴッドファーザーでもあったのだ。



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http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201412



――サブミッションアーツレスリングの道場に初めて来ましたが、1階は道場、この2階は麻生先生の会社事務所になるんですね。2階はご自宅だと勘違いしてました。

麻生 自宅は別にあるんだけど、ここも俺の持ちビルなんだよね。昔、ある関係者が「意外と小さい道場なんですね」なんて言ってたけど、何を言ってるんだって感じだよ(笑)。いまもそうかもしれないけど、ほとんどの格闘技道場は場所を借りてる場合が多いじゃない。

――麻生先生はご自分で建てられたんですね。

麻生 ここを作ったのは45〜46歳だから1990年頃か。坪単価137万くらいだったかな。

――麻生先生は昔からやり手だったんですねぇ。

麻生 そのうちマンション管理の事業もやるようになって、いまでは20世帯くらいあるのかな。

――格闘家、実業家でそしてプロレス方面にも顔が広いわけですよね。

麻生 プロレス関係で言ったらね、俺はプロレスラーに憧れがとくにはないし。それはプロレスを悪く言ってるんじゃなくてね。だけど、いろんな意味でプロレス界とは関わりがあって。スーパータイガージム時代の佐山(サトル)くんのパンツも俺が作ったこともあったし。ジャパン女子のユニホームも俺が作ったこともあるんだよ。どこかにプロレス関係の写真があるはずなんだけど……野末陳平さんとの写真とかさ。

――WWF常任理事だった野末さん!(笑)。

麻生 (机の中から写真を探し出してきて)これは藤原喜明さん。大蔵にあったUWF道場で撮った写真かな。

――うわっ!カッコいいですねぇ!!

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只者ではない雰囲気が伝わってくる麻生氏と藤原組長のツーショット。
関節技をかけられたわけでもないのに身体が痛くなってくる……


麻生 藤原さんは俺の1歳上で同期生みたいなもんだよね。藤原さんは関節が好きでよく研究してたよ。俺が編み出したヒザ靭帯固めなんかを教えたんだけど。

――麻生先生が格闘技を始めたのはどういうきっかけなんですか?

麻生 格闘技を始めたのは遅いのよ。高校1年生のときね、友達がみんな柔道部に入るから俺もやってみたんだけど。初めて柔道をやるにも関わらず、3年生の黒帯のキャプテンより強かったわけよ。「こんなもんじゃ話にならない」って柔道部には入らなかったんだけど。

――もともと強かったんですね。

麻生 俺は広島県の呉市出身でね。『海猿』っていう映画があったでしょ。あの映画の中で隊員がトレーニングをする200階段がウチの家に行くときにあるんだよ。毎日あそこを5往復くらいしてたの。だから体力には自信があってね。高校生が出るような地元の相撲大会で小学生なのに5人抜きしたり。

――高校生に勝つ小学生ですか(笑)。広島の呉というと映画『仁義なき戦い』でも有名ですよね。

麻生 もう凄かったですよ。東京では「やんちゃ」という言い方をするけど、正直言って我々の呉市の「やんちゃ」とはレベルが違いますからね(笑)。

――仁義なき街を生き抜いたわけですね(笑)。

麻生 俺は大学に進んで柔道をやることが決まってたんだけど、ケンカがあると呼ばれるんだよ。コッチは3人しかいないの相手が30人来るとか来ないとかさ(笑)。

――3vs30!!

麻生 まあ何人来たっていいんだけど、ケンカして事件になると大学の話がマズくなるじゃない。「面倒だなあ……」と思ってたもんだよ(笑)。

――結局高校で柔道はやられたんですね。

麻生 2年生の夏休みになったときに柔道部の友達が黒帯を取ったというから、俺も入部して1週間後に黒帯審査に出たんだよ。受け身もよくわからないのに5連勝して黒帯。

――さすがですね(笑)。

麻生 柔道部に入って1年もしないうちにチャンピオンになって、大東文化大学でも柔道をやることになったのね。柔道は5段のままなんだけど、それはある問題があってね。大学時代に他人の名前で試合に出たんだよ。

――え? どういうことですか?

麻生 東洋大学の同級生が埼玉県予選で優勝したんだけど。ケガをしちゃったから「代わりに全国大会に出てくれ」って頼まれたの。それで俺が代わりに出て全国で3位になっちゃったんだよ。

――替え玉出場ですか!(笑)。

麻生 そうしたら応援する人がさ、「あれ、本人じゃないぞ!?」と気付くじゃない(笑)。でも、その場は強引に通して賞状ももらえたんだけど、あとから大学から試合にはもう出せないという話になって。その大学時代に朝霞の自衛隊体育学校に柔道の練習で行くときがあって、そこの先生に「サンボという格闘技があるぞ。面白いからやってこい」と言われて新宿スポーツ会館でサンボをやるようになったの。

――“元祖スポセン”なわけですね。

麻生 そのときはね、ビクトル古賀さんが来てたよね。

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右が伝説のサンビスト、ビクトル古賀氏。



――伝説の日本人サンボマスター! 一度取材したことありますけど、当時の共産圏以外の選手で初めて認められたサンビストだったそうで。

麻生 古賀さんとは一緒に海外遠征に行ったもんだよ。話が飛んじゃうけど、前田(日明)選手がリングスをやめるときに夕刊みたいなプロレスの新聞に書いてたよね。俺がロシアの選手を呼んだって。

――夕刊みたいなプロレスの新聞というと『ファイト』ですかね。

麻生 リングスのオープニングのときかな。写真を撮るから前田選手と堀米(奉文、当時日本サンボ連盟会長)さんと握手してくださいと言われたんけど、俺は言ったよ。「ふざけてるんじゃないぞ。俺が何をしにきたかわかってるのか。蹴飛ばしに来たんだぞ!」ってね。

――え? いったい何があったんですか? ☆このインタビューの続きと山本宜久、ジャンボ鶴田物語、木村フリップみのるなど、7本のインタビューが読めるお得な詰め合わせセットはコチラ
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