明治時代最強の柔術家にして講道館柔道が最も恐れた最強の男 田辺又右衛門 『田辺 又右衛門 の先を生きる。』より

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http://blog.livedoor.jp/snt1091/archives/7841620.html

田辺 又右衛門 の先を生きる。 其の1-2。


日本柔道選士権大会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9F%94%E9%81%93%E9%81%B8%E5%A3%AB%E6%A8%A9%E5%A4%A7%E4%BC%9A
1929年の昭和天覧試合で初めて判定制度が導入されたが
その後も判定による決着は しばらくに採り入れられなかった。
元々に 時間内に勝敗が着かない場合は3~4回の延長の末、
決勝戦以外は抽選によって決し、決勝戦の場合は優勝預かりという扱いになった。

1930年大会の曽根幸蔵や1931年大会の大谷晃(いずれも専門壮年前期の部)は
優勝候補ながら、それぞれ柏原俊一5段と延長4回、島崎朝輝5段と延長3回の末に
抽選で涙を飲んだ。

これが 武道の姿 だよね。
勝負の預かり が 平和的な解決 としの技術の一つである事の話は 修羅の刻でも描かれていたよね。
修羅の刻は良いモノが多い、其の中でも俺が特に好きなのは 西郷四郎 の話だが
其処には此の話が入っている。
救いようのないほどにマヌケな俺も 大体に同程度の水準でしか今までに知らなかったが。

西郷四郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%9B%9B%E9%83%8E
明治時代の柔道家。講道館四天王の一人。富田常雄の小説『姿三四郎』のモデル。

1886年(明治19年)の警視庁武術大会で講道館柔道が柔術諸派に勝ったことにより、講道館柔道が警視庁の正課科目として採用され、現在の柔道の発展の起点となった。西郷はこの試合で戸塚派揚心流の好地圓太郎(同流の照島太郎とする文献もあり)に勝ち、勝利に貢献した。

講道館四天王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9B%E9%81%93%E9%A4%A8%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B
講道館四天王(こうどうかんしてんのう)とは、柔道の講道館創成期から黎明期にかけて、他流試合の代表選手として、また講道館の師範代として活躍した4人の柔道家。西郷四郎、横山作次郎、山下義韶、富田常次郎のことを指す。

この4人は他の柔術の道場から講道館へと移り嘉納治五郎の弟子となった者などであり、その実力は並みの門下生では歯が立たなかったとされている。また、当時、警視庁などで行われた他流試合において、他の柔術の実力者に勝利、もしくは劣らなかったとされているなど柔道を広めるにあたって活躍した。

横山作次郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E4%BD%9C%E6%AC%A1%E9%83%8E
1886年(明治19年)、23歳、4月に嘉納治五郎の講道館に入門。5月初段、9月二段。
10月向ヶ丘弥生社警視庁武術大会で、
1883年(明治16年)に初代警視庁柔術世話掛4人のうちの一人であった
良移心当流柔術の中村半助(弘化2年11月16日(1845年(弘化2年) - 1897年(明治30年)で当時41歳)
と55分に試合し、
三島通庸警視総監の裁定により引き分けとなる。

当時の柔道ではなく柔術という 今で言う総合格闘において 1時間に試合し続ける が如何に危険か?
説明するまでも無いだろう。 という感じの筋で

弥生慰霊祭記念柔道剣道試合
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A5%AD%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%9F%94%E9%81%93%E5%89%A3%E9%81%93%E8%A9%A6%E5%90%88
1885年(明治18年)10月7日、警視庁 (内務省)は殉職者を慰霊するため弥生神社を本郷区(現文京区)向ヶ丘に造営し、同年11月8日に第1回奉納武術大会を開催した。同年警視総監に就任した三島通庸は警察官の士気高揚と斯道奨励のため武術を振興し、例年大会が開かれるようになった。この大会は「弥生祭武術大会」、「警視庁武術大会」と呼ばれ全国から剣術家や柔術家が参加した。

剣術の部は警視庁の撃剣世話掛を務める上田馬之助、逸見宗助、真貝忠篤、得能関四郎、三橋鑑一郎、坂部大作らをはじめとして、部外から高山峰三郎、奥村左近太、根岸信五郎など有名な剣術家が参加した。現在も警視庁に伝わる警視流撃剣の形は1886年(明治19年)の大会の席上で定められたという。

柔術の部では当時柔術界の新興勢力であった講道館柔道の西郷四郎、山下義韶、横山作次郎、富田常次郎らが参加し、他の柔術に2、3の引き分けの他は勝ったことから、講道館柔道が警視庁に採用されることとなった。この試合は小説姿三四郎に描かれよく知られている。

「弥生慰霊祭記念柔道剣道試合 "横山作次郎"」の検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A5%AD%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%9F%94%E9%81%93%E5%89%A3%E9%81%93%E8%A9%A6%E5%90%88%20%22%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E4%BD%9C%E6%AC%A1%E9%83%8E%22
約83件
ネット って使えないよね。 此の不自然な少なさ。
分かった気になるだけの者達には最適の道具だろうけど。

そして 此処までが前振りで 此処からが今回の話の本筋となる。

いわゆる「柔道」が飛躍したとされる 此の試合 だが、以前から妙な感じが非常に有った。
西郷四郎と姿三四郎 そして 柔道 という情報工作と人民統制 をね。
安直に信じてしまうには相当に無理があるような気がしてならなかったんだよね。



唯一に ギリギリにアーカイブに残っていた

http://web.archive.org/web/20071018025211/http://www.bokuden.or.jp/~bunbkan/page239.html
嘉納治五郎と戸塚楊心流(楊心古流)

というか 此の内容の凄みが最初は分からなかった。
其の意味合いを調べる為に 別の話から始めなければならなくなった。


http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090115/p4
「田辺又右衛門」を検索してみました。
現在、140件だからあまりたくさん資料があるとはいえませんね。
2009年には 何故か そんな感じ だったんだね。

というか 相も変わらずに何故か非常に不思議なwikipediaに項目が無いんだね。

 ↓
「田辺又右衛門」の検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%94%B0%E8%BE%BA%E5%8F%88%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
約50,800件
流石に今の御時勢では情報も有るんだろうけど 妙に検索でも出てきにくいんだろうねぇw
そして
「田辺又右衛門」の検索結果 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?search=%E7%94%B0%E8%BE%BA%E5%8F%88%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&title=%E7%89%B9%E5%88%A5%3A%E6%A4%9C%E7%B4%A2&go=%E8%A1%A8%E7%A4%BA
やっぱり無いねぇ。



https://www.facebook.com/jiujitsuspirits/posts/685875298150221
田辺又右衛門氏の映像とされるもの

https://www.facebook.com/jiujitsuspirits/posts/685875298150221?comment_id=712933445444406&offset=0&total_comments=3
これは田邊又右衛門ではありません。そもそもアタマのところでODA TSUNITANEつまり小田常胤と書かれています。

https://twitter.com/bjjspirits/status/485689030034882560
不遷流柔術、田辺又右衛門氏の映像。月並みですが、いまのブラジリアン柔術の技術の多くをこの中に見ることが出来ます。しかもぱっと見にもかなりタイト。... http://

https://twitter.com/inuchochin/status/485818369363288064
これは小田常胤先生の映像ではないでしょうか?

https://twitter.com/h_rokuyou/status/485832855260364801
ポルトガル語の方を翻訳すると、映像の方は小田常胤9段のものと書かれていますね。

コレが検索の上位に出てくる 不思議不思議。

そして追っていくと 此の辺りの話が一般人向けの入口には分かりやすかった。

ブラジリアン柔術ニュースブログ ブラジルブログ 2011年03月24日 高谷コラム:柔術を考える・其の参 
http://btbrasil.livedoor.biz/archives/55447211.html
ブラジリアン柔術の特徴として秀逸なる「寝技」技術体系を持っていることは周知であろう。
同じように寝技の技術革新をなしえたスタイルに高専柔道があることもまた広く知られているところである。

これらは共に日本国内では講道館柔道経験者からしてより自由に戦えるという実感が愛好者増の要因となり、常に「柔道」競技のアンチテーゼとしてアイデンティティを確立してきた経緯があると言えよう。

ここで筆者は、明治期に「古流」柔術諸派が講道館柔道の後塵を拝していく中、「寝技」を武器に講道館に意地を見せた不遷流柔術の存在を想起する。
江戸後期に「拳骨和尚」と呼ばれた物外和尚(新撰組局長・近藤勇を子供扱いにあしらったことで知られる)によって創始された不遷流。

その四代目の継承者であった田辺又右衛門が、当時警視庁武術試合などでの躍進を経て日の出の勢いにあった講道館に一泡吹かせようと郷里岡山から上京したのは明治23(1890)年、その後10数年に渡って警視庁の柔術世話係を務めたのであった。
その間、戸張滝三郎を二度にわたって絞めで降したのをはじめ後の十段・磯貝一と二度にわたって引き分けるなど、講道館の強者たちを再三苦しめた。
一説にはあの「姿三四郎」のモデル・西郷四郎も対戦を避けたと言われる。

田辺は後に講道館に対する自身の優位について以下のような内容を語っていたという。

「これはなにも私が特別に才能を持っていたわけではないのでありまして、
 畢竟、私の柔術そのものが講道館柔道より優秀だったというに過ぎないのであります。

 嘉納(治五郎)氏あたりの説によりますと、
 柔術は立ち技をするのが本体で、締めや逆はそれに付随しているものののごとくに説くのでありますが、
 氏のいわゆる柔道とい うような体操半分のものはそれでもよいのかもしれませんが、
 小を以て大を制し、弱を以て剛に打ち勝とうとする真の柔術は
 決してそうしたものではないのであります。

 真の勝負を目的とする柔術は、
 どうしても逆や締めを主体としたものでなければならないのでありまして、
 投げというものはそれに付随すべきものに過ぎないのであります 。

 巨大なる相手に対し、投げの一本やりで勝負が得られようと思う人はないでありましょうが、
 逆や締めのみをもってするものは決して不都合を感じないのでありますから、
 単にこの一事に鑑みましても嘉納氏の説く柔道というものが、
 勝負法としては甚だ迂拙なるものであることがわかるであろうと思うのであります。」
うはwww

田辺又右衛門による「柔術」論、まるでエリオ・グレイシー一族の言葉であるかのようだ。
(ここで、嘉納治五郎が後に護身的観点から寝技の危険性について述べていることを付記しておく。)

ともあれ、不遷流を含めたいわゆる「柔術」が後にそれ以上広まりえなかったことを考えると、
現代におけるブラジリアン「柔術」の逆上陸と普及については奇跡的な運命を感じる。

以上、今回は間接的にブラジリアン「柔術」の存在価値を浮き彫りにしつつ、
講道館「柔道」に関して現代まで一貫している論点についてもふれてみた。

武術ないし武道といったものの現代社会における立ち位置が
「体操」つまりスポーツとしての形にあることが必須であることは間違いない。

ただ「勝負法」における有効性も一方で優先されるべき要素でもある。

筆者自身もスポーツ、つまりコンペティションとしての「ブラジリアン柔術」に重きを置いて接してはいるが、
技術的な部分も含めて、改めて考えてみたいと思う。

http://livedoor.blogimg.jp/btbrasil/imgs/8/5/85cd977206f498df1ba4-L.jpg
講道館柔道を再三苦しめた不遷流柔術・田辺又右衛門の腕十字。


ブラジリアン柔術ニュースブログ ブラジルブログ 2008年11月06日 高谷コラム「もう一人のコンデ・コマ」 Part.2
http://btbrasil.livedoor.biz/archives/2008-11-06.html
コンデ・コマ=前田光世と同じように
「宣揚柔道」の志を掲げ異国イギリスの地で戦い、活動したリトル・タニこと谷幸雄。
イギリスに渡ったのは1900年のことであった。

先に書いてしまうが この谷 幸雄の師は田辺又右衛門である。
ところが 此の谷幸雄に関してはwikipediaが有る。
其の不思議さ は文化と経済と政治の全てを含めて 其の先の
 息を吐くように嘘デマ扇動を吐く秘密戦と情報戦を生業とする者達
を読み解いていこうとしない限りに届かない話となる、

それは オタクと宮崎事件と特撮の没落 の話に似て。

谷幸雄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B9%B8%E9%9B%84
谷 幸雄(たに ゆきお、1880年(明治13年)- 1950年(昭和25年)1月24日)は、柔術家(不遷流、講道館柔道)。身長160cm未満、体重は60kg未満。主に英国で活躍、「スモール・タニ」の愛称でも知られ、ロンドンのミュージックホールなどで数多くの他流試合を行った。新聞「スポーティング・ライフ」にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのライト級チャンピオン ジミー・メラーに勝利したことを称えられる。

父や祖父も柔術家で、不遷流柔術は田邉又右衛門(不遷流第4代)に習ったという。

1900年9月に渡英。E・W・バートンライト(E.W.Barton-Wright)が設立した「バーティツ」(Bartitsu)道場にも招かれ指導に当たった。この「バーティツ」より着想を得た作家のコナン・ドイルが、自身の小説の主人公シャーロック・ホームズは東洋武術「バリツ」の習得者で、この技で「最後の事件」の際に危機を脱し、一命を取り留めた…との設定を思いついたとの説もある。

1903年「バーティツ」の事業は失敗し、ロンドンミュージックホール(music halls)においてウイリアム・バンキアー(アポロ)の下で、チャレンジというジャケットマッチで対戦者を一般から15分もてば20ギニー、勝てば追加百ポンドという条件で募り、、これを関節技や絞め技で次々に返り討ちにして評判を呼んだ。11月には、”ロシアのライオン”の異名を取ったジョージ・ハッケンシュミットに挑戦状を叩きつけたが、実現しなかった。

1904年、三宅多留次(後のタロー・ミヤケTaro Miyake)と戦い敗れる。また共同で日本柔術学校を開設。

1906年、英文の著書「The Game of Ju-Jitsu - for the Use of Schools and Colleges」を出版(共著)。

1918年1月26日、小泉軍治(Gunji Koizumi)により設立されたロンドンのロンドン・武道会(Budokwai)・ジュードー・クラブで指導者になる。

1920年(大正9年)1月、嘉納治五郎が武道会を訪れ、小泉軍治とともに講道館柔道二段を寄贈される。
そういう事だね。

1950年1月24日、英国で生涯を閉じた。

話を戻そう。

彼を招いたのはバートン・ライトなる人物。
ライトのプロモーションによれば、
日本の柔術(講道館柔道)は57キロの人間(谷)が二倍の体重の相手を打ち負かす、
というもので、初めは嘲笑の的であった。

が、その術に興味を持った一人のレスラーがいた。
その名はアポロ。
ストロングマンの異名をとったその巨漢は、
152センチ57キロの谷の前に2分足らずで絞められてしまった。

ここで谷が絞め技に長けていたことに注目したい。
彼が当初学んでいた不遷流は初期の柔術vs講道館柔道の対戦において、
寝技での一日の長を持って大いに講道館を苦しめていたことで知られている。

その張本人こそ谷の師匠といわれる田辺又右衛門なのである。
講道館においてまだまだは研究途上であった寝技を習得していたことは、
異国の地で戦う谷にとって大いなる武器であったろう。

ここには、後のグレイシー思想を想起させるものがある。

谷に敗れたことをきっかけに、
アポロは谷のマネージャーとなり、その技術の普及に一役買うこととなる。
まずはそれを何人かのレスラーを谷と対戦させるべく動き、
まずそれを受けたのはコリンズというレスラーであった。
結果は1分、谷の投げにコリンズは頭を打って失神したのであった。
この戦いを皮切りに、谷&アポロのコンビは全英を回る巡業に回る。

谷を負かせばもちろんのこと、15分もっただけでも相手には賞金が与えられるとの試合を重ねたが、
そのことごとくを15分以内に破ってきたのであった。
週に20人を相手にするペースであったという。

そんな谷でも破れることがあった。
その相手は同じ日本人、タロー・ミヤケ(三宅太郎)。
同じ不遷流の出身であり、172センチ78キロと谷をはるかに上回る体躯。
さすがの谷も6分10秒で敗戦を喫してしまった。
三宅は所定の賞金を獲得した。
ちなみにこの三宅太郎、明治36年大阪にて開催された「全国武術選手権」で優勝しているという。
ふ-ん そ-ですか-

このような大会については、今後何らかの資料の発掘に期待するものである。
なぜこのような対戦が組まれたのかは謎であるが、
この二人、後には共著を出すなど英国での普及活動に協力体制をとっていたようだ。

そして数年を経た1918年、谷は小泉軍治という人物とともにロンドン「武道会」を設立する。
ここには1920年と1928年に嘉納治五郎師範が渡英、訪れた記録がある。
筆者は、ここに
 谷幸雄の不遷流から始まりレスラーとの戦いを経験したうえで確立しえたであろう独自の技術が
 講道館柔道の枠を離れて「ブリティッシュ柔術」とはならなかった理由がある
と、想像するのである。
流石に本職の人は 嗅ぎ分ける感性が鋭いね。

 武道会そして谷のイギリスでの普及活動が
 直に嘉納師範のチェック下におかれた状態
こそが…
 他には同時期ドイツでも独自の「独逸柔術」が普及しつつある中、
 嘉納師範が訪れて10日間の講習会を実施、講道館柔道の姿に矯正した
との逸話もある。
充分に有りえる話だね。
其れは 情報戦と秘密戦を生業とする者達の性癖が丸出し と今の俺ならば言えるからね。


歴史に「if」は禁物であろうが、
 前田光世が存命中もしこの地に嘉納師範が降り立つことがあったなら、
 現在の「ブラジリアン柔術」は存在しえなかったのではないか
と、筆者には思えるのだ。
というか むしろ
 何故に嘉納治五郎は前田光世へ会いに行こうとしなかったんだろうね
と言う話じゃないかな?w

http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-0818.html
1905年ごろの絵葉書。マネージャーのアポロを相手に飛びつき腕十字のデモンストレーションをする谷幸雄。
http://www.bartitsu.org/index.php/2010/06/yukio-tanis-flying-armbar/

http://sanjuro.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2010/09/18/tanivsenglishwrestlerarmbar214x300.jpg
アポロは本名ウィリアム・バンキア、ミュージックホールに出演して怪力芸を見せていた。

アポロはウィリアム・バートン=ライトが開いた「バーティツ」の道場を見学に行った。そこでインストラクターを務めていたのが谷幸雄である。アポロは「あんなチビが強いはずはない」と思ったから手合わせを所望した。ところが三角締めでいとも簡単にやっつけられてしまった。ちっぽけなジャップは汗一つかかずににやりと笑って「どうだ、参ったか」というのだった。感心したアポロはマネージャーになって谷幸雄を売り出しにかかった。「スモール・タニ」はたちまち有名になった。

谷は英国各地のミュージックホールや劇場を巡業した。「柔術着着用」「関節技・絞め技あり」の条件で戦う限り、どんな大きな相手にも負けなかった。谷に勝てば賞金100ポンド、勝てなくても15分間ギブアップせずに戦えば賞金25ポンドを提供するとしたから挑戦者には事欠かなかった。谷は年間500人ほどを相手に戦う巡業を何年にもわたって続けた。谷は日本人の三宅太郎に一敗した以外は不敗であった。15分以上戦って賞金25ポンドを獲得した者は数人いるようだ。

1903年11月には、谷はプロレスのチャンピオンであったジョージ・ハッケンシュミットに挑戦状を叩きつけた。自分と柔術着着用で戦ってみろというのである。ハッケンシュミットは「裸でグレコローマンスタイルでならば戦ってもよい」と答えて戦いを避けた。

確かに強かったんだろう、けれどもジサクジエン臭も非常に強い。
つまり 情報工作と人民統制を生業とする者達の情報戦と秘密戦の先にこそ本質が有る という事だよね。


古流柔術、谷幸雄と三宅タローの技術書の対訳本が出版されました。
http://blog.livedoor.jp/masuda_toshinari/archives/51889482.html

http://ecx.images-amazon.com/images/I/51431p4rG3L.jpg
当時、彼らは高専柔道の選手が着用するような短いズボンを着用していました。
おそらく海外でのレスラーやボクサーらとの異種格闘技戦を意識してのものでしょう。

表紙のイラストには、興味深いことにマウントポジションもあります。
これは柔道家、ブラジリアン柔術家、武道研究者、格闘技研究者、格闘技ファン、必携の書になるでしょう。


さてさて 此処から話が面白いモノも出てくる。
http://syokoku77.blog.fc2.com/blog-entry-365.html
1900年頃に日本人柔道家(柔術家)である谷幸雄氏が
E・W・バートンライト氏の主催するバリツ(バーティッツ)クラブに
講師として招かれています。
ふーん 「講師」ですかw そうですか。

ちなみにバリツとは、かのシャーロック・ホームズが習得していたという
セルフ・ディフェンスを目的とした武術で
作者のアーサー・コナンドイルもまた学んでいたという話があります。

また上述の谷幸雄氏は
1904年に三宅太郎という柔術家とロンドンで試合を行なっており
2人は、共同で同じ年に日本柔術学校を開設しています。
あーあ もう アレだよねぇw

この同じ1904年には、
コンデ・コマの別名で知られる
前田光世氏(グレイシー柔術の祖 エリオ氏の師匠)もまた
渡米して異種格闘技戦を始めた時期であり
ちょうど世界で柔道が広まり始めた時期でもあります。
こっちの話も だんだんアレに思えてきたが それはまた今後に調べよう。

この当時は、「柔道」という言葉が完全に定着しておらず
講道館の柔道家ですらも しばしば「柔術」という言葉を用いています。

ロンドン大学の柔術部のホームページ(英文)↓
 http://www.geocities.ws/killerpedes/history10.html
 倫敦大学柔術部
によれば

谷氏と植西氏は、
共にE・W・バートンライト氏の主催するバリツ(バーティッツ)クラブに
講師として招かれていたようです。

其の頃の映像 とされるもの。
https://www.youtube.com/watch?v=eALLe1wghSA#t=52
それでは、動画と海外の反応を観ていきましょう

以下に動画のコメントの翻訳が載っているが
海外の人間では分かるまい、動画を見れば簡単に分かる。完全に「柔道」だ。
「柔術」の出身の者が見本として見せるモノでは絶対に無い。

少しでも格闘技を学べば一瞬で分かる。
「柔術」の直系である総合格闘のブラジリアン柔術の見本とは完全に異なるよね。

 何故に 柔術の出身の者が
 わざわざにイギリスで 妙に不思議な行動をし続けたのだろうか?

まぁ 此処を読むような人ならば
 “ハイパーキチガイカルトの「日本人と日本」”という存在
 当時のイギリスとの関係性
を考えれば 言うまでも無い な話だよね。

Ju-jutsu full contact - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ITmDdJgI6Nw
コレと較べれば一発で分かるよね。 2003年のポーランドにおける柔術の試合らしい。

谷幸雄と三宅太郎かぁ 本名なのかすらアレだけど 覚えたくないけど 覚えておこう。

1915.2.14 三宅太郎が柔術を語る Two Jiu Jitsu Methods Explained by Miyoke 二つの柔術の方式を三宅が説明
http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW140216/
何者なのか、こうして眺めれば一発で分かるよね。
息を吐くように嘘デマ扇動を吐く 事を生業とする者達のカルト集団は 其処で何をするか?


http://www.mable.ne.jp/~sin/page029.html
19世紀のヨーロッパやアメリカにおける柔術(jiujitsu)は東洋から来たミステリーだった。
フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ、ニンジャ、そしてジュウジツだったのである。

安政の開国より以来に、何人かがアメリカへ、そして世界へ渡った。

「トンパチ」というリングネームのの相撲崩れは
まわしとさがりでアメリカのプロレスのリングに上がり「ジャップ」を演じていたらしい。
http://www.weblio.jp/content/%E8%9C%BB%E8%9B%89%E3%81%AE%E9%89%A2%E5%B7%BB
蜻蛉の鉢巻 読み方:とんぼのはちまき
目先が見えぬこと(先見の明のないこと)、とんぼに鉢巻をすると全く眼が隠れてしまうことから出た語。
非常識、型破り、無鉄砲の意で相手を褒める様に言いながら 実は馬鹿にするという隠語の意味もある。
現在でも「トンパチ」は相撲界や格闘界で使われるようだ。

1880年代大相撲序二段を脱走した荒竹は
ニューヨークにおいて相撲・プロレス混合ルールで強豪エドゥイン・ビッピーを破り、
その勢いで世界グレコローマンチャンピオンのウイリアム・マルドゥーンとの対戦にこぎつけた。
「ソラキチ・マツダ」の誕生である。

荒竹とともに大相撲を脱走した浜田は、1887年にレスラーやボクサーを伴い帰国して、
日本初のプロレス、ボクシングの興行を行う。
日本ボクシング史では浜田を日本初のボクサーとしているようだ。

アメリカで活躍し、世界ライトヘビー級チャンピオンのアド・サンテルと闘ったのが
伊藤徳五郎、太田節三である。

伊藤、太田の名はアメリカで格闘家日本人の代名詞となった。
時代は下って1960年代、海外武者修業にでた日本プロレスのセメントコンビ上田裕司(馬之助)は
「ミスター・イトー」を、松岡政雄(巌鉄)は「ミスター・オータ」を名乗ったくらいに
伊藤、太田は通り名のとして有名だったのである。

イギリスからアメリカ、メキシコ、そしてブラジルへと嘉納柔道の布教の旅に出ていた前田光世、は
イギリスでジョージ・ハッケンシュミットに挑戦状を叩きつけたことで有名となった。
ハッケンシュミットも前田の試合を観戦しており、その実力は認めていたものの、
不幸にもこの対戦は実現しなかった。
そしてその後ブラジルでグレイシー一家に柔術を伝授したことで名を残す。

前田光世に関しては見方が随分と変わってくるなぁ。

20世紀の初頭の第一次大戦で没落するヨーロッパを尻目に黄金時代を迎えるアメリカは
興行的な見世物の勃興期でもあった。
アメリカのプロレスも興隆期の始まりが此処にある。
そのアメリカマットで「日本」の代名詞だった「柔術」だった。

1920年代、有名な日本人レスラーが二人いた。
一人は国境の町エル・パソに居を構えたマティ・マツダ、元世界ウェルター級チャンピオンである。
もっとも本人が日本の家族のもとに送った手紙によると「ジュニア・ウェルター」とのことであるが
記録ではウェルターである。残念ながらマティ・マツダの経歴については未調査な部分も多く、
柔術との関係は今のところ見えない。

もう一人が自ら修めた柔術で世界を渡りあるいた三宅多留次(タロー・三宅)だ。
かつて70年代WWWFで活躍した
フィリピン系ニセ日系人プロフェッサー・タロー・タナカのタロー(TORU、トールというべきかもしれない)も
この三宅から取ったものだ。

三宅太郎は1881年(明治14年)岡山県に生まれた。
17歳で不遷流柔術に入門する。
22歳の1903年(明治36年)の「全国武術選手権大会」では講道館代表をも倒し優勝を飾っている。
そして神戸警察署の柔道師範に就任する。
しかし酒に酔って港湾労働者と大立ち回りを演じ、職を辞する。

三宅は海外雄飛を決意、1904年(明治37年)2月ヨーロッパへ渡る。
そしてプロレスに興味を抱き、アメリカへ渡った。
此の辺りが そんな夢や希望の話ではなく
警察官憲にタマを握られた三宅 が 公安や秘密警察の犬やスパイと化して は
海外での情報戦や秘密戦の一員としての駒の一つと化しただけ という話だよね。
渡航費用などなどは何処から出たの?w とかね。

柔道半分、プロレス半分の試合をやりながら、1928年(昭和3年)10月、日本へ帰国した。
このときプロレス興行を行ったが失敗している。

その三年後、ハワイで弟子入り志願者に出会う。
その名は識名盛男、沖縄からのハワイ移民で後の沖識名である。
三宅は沖に不遷流柔術や柔道、さらにプロレスの技を伝授した。
戦後、この沖は力道山を育て、日本プロレスでレフェリーになった。
さらに馬場、猪木のコーチもした。
いってみればBI砲は三宅の孫弟子なのである。

「三宅多留次」の検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E4%B8%89%E5%AE%85%E5%A4%9A%E7%95%99%E6%AC%A1

リング上のジャップ達 三宅多留次
http://roseckie.net/cms/?p=1707
第1次世界大戦と第2次世界大戦前の間、「柔術」=jiujitsuは、「日本からアメリカに来るモノ」でした。
戦前のアメリカマットで「日本」の代名詞だった「柔術」だったのです。
日本人がプロレスのリングに上がる場合、
「プロレス対柔術」の異種格闘技戦の形態を取ることが少なくありませんでした。

三宅は、折からのプロレスブームに興味を抱き柔道半分、プロレス半分の試合をやり続け、1910年にはイギリスでグレート・ガマ(写真右)と対戦しました。
http://roseckie.net/cms/wp-content/uploads/2013/06/zybszkogama1928.jpg

その後アメリカに渡り、引退後の元世界ヘビー級王者、フランク・ゴッチ(写真)とエキシビジョンの懸賞マッチ に持ちこたえ、引き分けました。このときは、1時間フォールされなかったら500ドル、というルールでした。
http://roseckie.net/cms/wp-content/uploads/2013/06/img080.jpg

また、1916年頃世界ライトヘビー級王者アド・サンテル(写真)に敗れました。サンテルは1921年に講道館柔道に挑戦ということで日本に来た、最初のアメリカの一流レスラーです。
http://roseckie.net/cms/wp-content/uploads/2013/06/images.jpg

1920年6月、三宅がエド・ストラグラー・ルイス(写真)と闘った際には「柔術マッチ」という形態を取りました。
http://roseckie.net/cms/wp-content/uploads/2013/06/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89.jpg

リング上のジャップ達 2 三宅対ルイスの「柔術マッチ」
http://roseckie.net/cms/?p=1729
1920年6月3日、ロサンゼルスアスレチック・クラブで三宅対エド”ストラグラー”ルイスの「柔術マッチ」が行われました。三宅は最終ラウンドで逃げ続け、やっと引き分けに持ち込みました。以下、翌日のロサンゼルスタイムズより。拙いですが、私の訳です。

エド”ストラグラー”ルイスはこの年の暮、ジョー・ステッカーを破って世界ヘビー級王者になりました。戦後、弟子のルー・テーズの「不敗記録」期にはマネージャーを勤めました。

尚、この試合は「柔術マッチ」と銘打ってますが、記事を見る限り、ルイスのジャケットの着衣は見られません。ピンフォールが認められず、オンリー・ギブアップをもってして、「柔術マッチ」のかもしれません。

人間台風2世 2013年6月5日 00:45 より:
小泉様、アップありがとうございます。
なるほど、「柔術マッチ」と銘打ってはいても、
ル-ルは(ピンフォ-ルのない)キャッチ・アズ・キャッチ・キャンだった様ですね。
結果は引き分けでも、
内容はストラングラ-・ルイスが、タロ-・三宅をおもちゃ替わりに弄び続けただけの様ですね。  


田辺又右衛門 というか 不遷流 の話に戻ろう。
長くなったので続きは別に。

http://blog.livedoor.jp/snt1091/archives/7841592.html

田辺 又右衛門 の先を生きる。 其の2-1。 柔道歴史 と 不正選挙 と 公安官憲な「日本人と日本」


・田辺又右衛門は なぜ嘉納治五郎を殺さなかったのか



格闘技としての技術的意義
http://accordsuma.grupo.jp/free288279
ここに掲載の「秘伝」は「仕留める柔道」特集です。。
表紙は講道館柔道を倒した古流柔術・田辺又右衛門の得意技の1つでもあった
外掛けからの「足搦み」を実演する中井祐樹です。

講道館は次々と禁止技を増やして古流「柔術」の寝技を封じ、
立技偏重の「柔道」とした。

現在のブラジリアン柔術ルールでも、足絡み(外掛け)はカタチだけで反則負けとなっている。

七大柔道の足関節はタップをとるのは禁止だが、
逆に固定だけならどんな形でもフリー。
七大ルールが何でも有りもアリに慣れやすい
のに練習には「安全」だと言うのは こんな点がある。多々ある。

ちなみに寝技重視の高専柔道では、
足がらみ禁止以降も、膝十字固め(足の大逆)などが登場した
が、結局、技としては禁止されている

私の思う正直な(技術的な)話をすれば
七大ルールは若い時に基礎体力つけるにはいいけど、
実は柔術(ブラジリアン)の方が練習法も技術も効率的で合理的となってしまう。
個人的にルールが好きじゃない だけで技術は認めてます。

前のルールは柔道より自由で楽しいような気がしたのに、
どんどん邪魔くさくなってきた気がしますが?

七大がいいのは抑え込みメインで
安全に基礎体力が向上することじゃなかろうか。
キッチリ制しきる技術・体力が付けば、
細かい関節技・絞め技はどうにでも対応できる。

だから私が思うには、
七大ルールでの乱取りで地力をつけて、
あと相撲やレスリング、サンボや合気道の技術も取り入れれば
組技系では、だいたい理想的なんだけど・・・

グラップリングや総合もいいけど、
最初は着衣の方が確実な技術が身につくと思う。
あと、年とってもできる点もいい。

もう「柔道」ルールじゃ無理だから
誰か強い人、創設してくれんか?
なんでもアリなのに、安全に練習できて
強くなれるルールを・・・



岡山県の柔術家,不遷流の田邊又右衛門についての資料はあるか。岡山県立図書館 (2110029)
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000086890
資料①『岡山県柔道史』は,岡山県内の柔道の流派や柔道家を,当時の市町村ごとに紹介しており,
玉島市(現在の倉敷市玉島)のところに不遷流が大きく取り上げられている。

不遷流の元祖物外(もつがい)和尚から二代目以後の後継者や門人の名前が記載されており,
田邊又右衛門についても,
閑谷黌をはじめ児島や邑久郡等で不遷流を教えたことや,
東京警視庁,広島陸軍衛戊監獄教師等を経て神戸へ道場遷式館を設け,
武徳会兵庫県支部教師として同県の本部範士で審議員を勤めたことなど,詳しく紹介してある。

ちなみに,不遷流(ふせんりゅう)という名前は,
物外(もつがい)和尚が小僧時代に不遷と名付けられていたことによる。

資料②「吉備文化」第6号には,「不遷流柔術名人田辺又右衛門先生」という題で,
実際に田辺又右衛門に柔術の手ほどきを受けた中山英三郎氏の文が掲載されている。

不遷流についての資料は,他にも
資料③「倉子城」第13号に「不遷流と児島」という題で厳津政右衛門氏が,
不遷流の簡単な説明のほか児島出身の不遷流の門人について紹介している。



不遷流 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E9%81%B7%E6%B5%81
不遷流(ふせんりゅう)とは、
江戸時代末期に武田物外(「不遷」は物外の法諱)が創始した柔術流派。
柔術以外に杖術・鎖鎌術・十手術・剣術・薙刀術を伝える。
明治時代に、講道館柔道を寝技で苦しめた柔術家・田邉又右衛門は当流の第4代である。



尾道古武道保存会 - 不遷流関連資料の記事一覧
http://moon.ap.teacup.com/applet/fusenryu-ituwa/msgcate3/archive

「コミック 拳豪伝」 
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/252.html
コミック『拳豪伝』は、津本陽氏の時代小説を横山まさみち氏が漫画化したものです。

内容は、物外和尚の生涯を描いたもので、物外和尚の逸話がかなり忠実に描かれています。
20年ほど前は尾道市内の書店でも見かけましたが、現在は小説ともども絶版のようでまったく見かけなくなりました。

現在では、電子書籍として読めるようになりました。この作品は物外和尚が出てくるというだけでなく、絵がとてもよく内容も味わい深く作られた傑作漫画と思われます。

あらすじは、物外和尚の少年時代の逸話から始まり、酒井雅楽頭にもらった扶持で不遷流の道場を建てるというところで終わっています。

以下、電子書籍の内容案内です。

幕末の動乱の世に実在した広島・尾道の「げんこつ和尚」武田物外の愛と武勇の遍歴。

幼少期の喧嘩で、突き飛ばした相手が死んでしまったために剃髪した巨漢の物外は、仏教経典の教えを受ける傍ら、儒学と武道を極めた。持ち前の正義感で、弱きを助け地上の悪を懲らしめていく。

晩年は京都壬生の新撰組組長・近藤勇の挑戦をも退けた。一代の怪僧・武田物外の痛快ストーリー! 

「第一章 怪力」「第二章 生い立ち」「第三章 破戒」「第四章 道場破り」「第五章 拳骨和尚」「第六章 危難」「第七章 新撰組」「第八章 百対一」を収録。


「豪僧拳骨 後の物外和尚」 
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/292.html

「大正時代の物外和尚像」  
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/291.html

「物外和尚の肖像画」  
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/290.html


「『剣道詳説』での物外和尚(1)」
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/248.html

「『剣道詳説』での物外和尚(2)」
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/249.html

「『剣道詳説』での物外和尚(3)」 
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/250.html

「『剣道詳説』での物外和尚(4)」 
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/251.html


「剣術修行の旅日記(1)」
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/122.html

「剣術修行の旅日記(2)」 
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/123.html

「剣術修行の旅日記(3)」 
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/124.html

「剣術修行の旅日記(4)」
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/125.html
佐賀藩の牟田文之助の修行録を、永井義男氏が現代語に訳した『剣術修行の旅日記』を読むとさまざまなことがわかります。

特に重要なことは、「武者修行というのは物語の中の話ではなく事実」だということです。
幕末には武者修行の様式が完全に整えられ、
各道場には、藩から事前に修行者の情報が届き、宿場には修行人宿があり、
武者修行者の便宜が図られていました。

このことを、尾道・済法寺の物外和尚の地元での「伝承・逸話」に当てはめると、今までわからなかったことがわかってきます。

地元の伝承で、「済法寺には、ひっきりなしに武芸者が訪れていた」とありますが、江戸時代、そのように自由に動ける人がいたのかと疑問に思っていましたが、当時「武者修行者の道場コース」があり、尾道・済法寺がそのコースに含まれていたと考えると腑に落ちます。現に佐賀藩士の文之助が、済法寺を訪れていることからもわかります。

そのような中で、物外和尚と多くの武芸者たちとの逸話が生まれました。

最も有名なものが、物外和尚が法事に出かけようとすると、「逃げるのか」となじった武芸者に、寺の鐘をかぶせて閉じ込めてしまったという話です。他にも物外和尚は、修行者相手に手水鉢を片手で持ち上げたり、湯飲み茶碗を片手で粉々に砕いたり、怪力ぶりを発揮しています。

つまり幕府に近い人間だった事が分かる。
「日本人と日本」な明治政権という侵略者にして略奪者のカルト集団 にしてみれば
当時の幕府方の武装集団に等しき者達を如何に考えるか?
の視点が必ず有ったであろう。

柔術や武術を持つ集団が武装集団としての意味合いを強く背景にする可能性は
21世紀の者達が感じる以上に 間違いなく高いはずだからね。



「5代目・中山英三郎」 
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/103.html
5代目・中山英三郎は、父は田辺虎次郎、祖父は武田禎治という柔術一家の生まれで、兄に又右衛門と武四郎がいます。

明治38年、近衛兵として近衛第3連隊に入隊した際、偶然にも物外和尚と親しかった青蓮院宮のご子息・東久邇宮稔彦王殿下と、諸太夫(家老)・武田相模守の息子、武田健三氏と知己となり、東久邇宮御門内の武田邸を訪問しています。

明治42年、除隊後は、しばらく兵庫県に勤務した後、柔術の技を生かして柔道教師になることを志し、兄・田辺又衛門の紹介で、神戸水上警察に毎日通って柔道二段になり、龍野中学、龍野警察、武徳会揖保郡支所の柔道教師となりました。

大正7年6月、矢掛中学に赴任し、それ以降矢掛で柔道と不遷流柔術を指導しました。高名な空手家・小西康裕氏(昭和58年没)も入門し、遺族の方が「不遷流絵伝書」を伝承しているとのことです。

また、郷土史家としても活躍し、「拳骨印」をはじめ、物外和尚の足跡を訪ねて各地を旅行し、地元の「矢掛新聞」に物外和尚の記事を連載しました。

(注)「近衛兵」…連隊区でなく全国選抜で選ばれた天皇の護衛・儀仗を行う兵。選抜に当たっては、最優秀の兵士というだけでなく、家柄・容姿等の厳しい基準があったという。

「5代目と武田相模守未亡人」 
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/82.html

5代目へと至って 政治や社会に無知であったのか 裏切り者となったのか は分からないが
権威と権力の餌に釣られて 完全に骨抜きとされた様子 が分かる。


「四代目・武四郎の日露戦争における従軍記章証書」  不遷流関連資料
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/265.html

「4代目・田辺武四郎」 
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/95.html
盛武館4代目・田辺武四郎は、「寝技日本一」の田辺又衛門の弟になります。父、虎次郎に不遷流を教わり、22歳の若さで免許皆伝を得ました。

柔術では岡山随一と言われ、京都・武徳殿の試合では、後に講道館十段となった柔道の強豪・佐村嘉一郎を大外刈りで破り、優勝しています。
 
やがて日露戦争が勃発、出征した武四郎は1904年10月16日に「沙河会戦」で戦死をとげました。享年25歳。(清国・萬寿山)

若くして戦死したので武四郎発行の伝書は、わずかしか残されておらず、盛武館の伝書の系図にも名前が入ってないことがあります。
 
当時を知る人には、「武四郎が生きていれば、又右衛門を超えていた」と言われていたということです。

兄の又衛門は岡山・長尾を離れ、神戸で「遷武館」を開いたので、弟の英三郎が「盛武館」を継いで5代目になりました。

(注)「沙河(さか)会戦」・・・1904年10月9日 から 始まった旧満州・奉天南方の沙河での日露両軍の戦い。双方に多くの死傷者を出して戦線は膠着状態におちいった。
年が明けて始まった「奉天会戦」(60万近い日露両軍が激突した日露戦争最大の決戦)は、乃木第3軍の参戦により、日本側の大勝利に終わった。

戦争という暗殺の現場へ送り込めば 手を汚さずに抹殺できるよね。
しかも わざわざ最激戦区へ送り込まれる。
似たような手法は 秋葉原事件 とか枚挙に暇が無い。
そういえば 柔「道」家派で戦争へ送り込まれた という話は、あまり聞くことが無い。


「3代目・田辺虎次郎」 
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/102.html

「2代目・武田禎治」 
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/98.html


「又右衛門から英三郎への免状(1)」  不遷流関連資料
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/263.html

「又右衛門から英三郎への免状(2)」  不遷流関連資料
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/264.html

「又右衛門から英三郎への免状(3)」  不遷流関連資料
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/266.html


「田辺又右衛門 寝技の極意」  不遷流関連資料
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/94.html




不遷流柔術
ttp://japanbujut.exblog.jp/20219060/

以下の写真は不遷流柔術の雄、田辺又右衛門が大日本武徳会柔術形制定に当たって演じたもの
ttp://japanbujut.exblog.jp/22268888
田辺又右衛門 とされる写真は殆どに無いが 此処で見て取れる。
やはり今の総合格闘に近い。



拳骨和尚の異名もつ傑僧 武 田 物 外 1795~1867 不遷流柔術開祖
http://www.cpustudy.net/karate/kaiso.html
幕末に生きた禅僧の中で
仏道修行よりも寧ろ武術稽古に熱中し、各流武術を極めた後、
遂に一つの武術流儀を開いた豪傑和尚がいた。
拳骨和尚と呼ばれた武田物外である。

武術修行の果てに会得した彼の怪力ぶりは正に驚異の一語につき、様々な逸話が残っている。
寺の大鐘を一人で自在に運んだといわれ、
また碁盤や柱に拳を少し当てただけで彼の手形や拳形がくっきりと残ったと伝えられている。

新選組局長、近藤勇の真槍と立ち合い、
行乞のための木碗二つを以て軽くあしらった話は余りにも著名である。
近藤勇は天然理心流の宗家であり、
京都の勤皇の志士たちを震え上がらせた天下の剣豪である。
この逸話は物外和尚が単なる怪力の持ち主ではなく、
武術者として大変な技前を持っていた事を表している。

物外は寛政七年(一七九五)に伊予松山に生まれ、
十二歳のおり出家して広島中島町の曹洞宗伝福寺の観光和尚の弟子となった。
そして出家した身でありながら何故だか武術に執心し、
町道場に通って様々な流儀の武術修行に明け暮れた。

学んだ流儀は大坪流馬術・宝蔵院流十字槍・山田流鎖鎌・難波一甫流柔術・武田流長鎌術などである。
物外は元々天才的な素質の持ち主であり、
忽ち仏典を読破し、武術修行においても十代にして難波一甫流の免許皆伝を会得している。
儒教その他の諸学も極めた文武両道の傑物であり、まさに神童と称して良いだろう。

広島における若き時代のエピソードとして、以下の様な茶臼山にての陣立て指南の話が伝えられている。
物外が十五歳のおり、広島城下において武士の子供と町人の子供らが口論となり、
日時を定め、茶臼山で勝負という事となった。
物外は町人側に与し、町人の子供を指揮して刀、槍などの武器を集め、
本格的な戦闘準備を成したというのである。
しかしこれは準備が余りに本格的であったため、親に知れ、そして役人の取り締まるところとなり、
茶臼山は調査さる事となる。検分をした役人は、
物外らが武器を集め、火薬まで用いて二重三重の陣取りを準備している事に驚き、
またその巧妙さに舌を巻いたといわれる。
翌朝、物外自身を出頭させ尋問したが、
「どの様にしてあの様な陣立てを考えだしたのか」という問いに対して
「あれは太閤記実録を読んで考えだした」と即座に応じた。

この様な早熟の天才は、かくした事件故に寺からも体よく放逐されることになるが、それがある意味では物外にとって大きな転機となるのである。それから諸国行脚の旅に出てより深い、全国的な修行を成すこととなったのであるから。修行僧として全国を行乞行脚しながらも武術修行も怠らず、各地の柔術流儀、良移心当流・揚心流・天神真楊流・円心流・神道北窓流・戸塚揚心流などを学び、やがてそれらの極意を集大成した驚異の柔術、流を創始した。不遷とは物外の請である。

この流儀は物外和尚が大成した柔術流儀であり鉢術技法を不遷流として教授したが、神道北窓流の棒術、武田流の長鎌術などの武器術はそのままの流名で伝承している。不遷流は物外が大成した優れた鉢術体系であるが、体系の奥には八流の柔術流儀の極意技がそのまま保存されているところに大きな特徴がある。

禅坊主の大成した武術流儀であるが、流儀の文化的な部分においても何処にも仏教臭さがないのが面白い。諸国行脚の果て、仏道修行も武者修行も円熟し、三十五歳のおりに広島に戻り、尾道、済法寺の住職となり、そこで禅と武術の道場を開き、後進を以後四十年に渡って指導したのである。

その寺の道場において驚異的な怪力をもって来たりよる武芸者を手玉に取り、また雨乞いその他の不思議な神通力を発拝する物外は「拳骨和尚」の異名を天下に轟かせた。慶応三年(一八六七)、七十三歳にて帰山し数奇な生涯を閉じるまで、かの地において数千人の門人を育てたのである。

彼の創始した驚異の不遷流柔術は多くの門人によって継承され、
中国地方における最古の流儀、竹内流と並ぶ大流儀となっていく。

物外から三代目を継いだ田辺又右衛門は不遷流柔術で鍛えた腕前をもって上京し、
当時新興勢力として興隆する講道館に乗り込み、
講道館の強豪を手玉に取った話は明治柔道の裏面史である。

しかし物外和尚が編んだ不遷流の技法、特に強力な組討技法は武徳殿を通じて次第に柔道の寝業技法として吸収されてゆくことになるのであり、その意味で現代柔道には不遷流の技が今でも立派に生きている訳である。

また現在日本で行われる少林寺拳法の開祖の祖父は不遷流の免許取りであり、少林寺拳法にも不遷流の影響を窺う事が出来る。禅宗の開祖といわれる達磨大師は天竺拳法を伝え、少林寺拳法の開祖となったが、禅宗の末裔、物外和尚も多くの現代武道に多大の影響を与えた不遷流柔術の開祖となった訳である。

不遷流の古典形は現在、岡山県津山市に継承され、物外和尚が編んだ見事な極意形、妙術を今の世でも垣間見ることが出来る。


流派の紹介
http://www.mable.ne.jp/~sin/page005.html
大力天下無双とうたわれ、「拳骨和尚」の異名で知られた幕末の名僧『武田物外』 が流祖です。
物外和尚は、竹内流や難波一甫流、神影流剣術、一心流鎖鎌、宝蔵 院流槍術などの武芸を修得し、
雲州松江藩出身の「中村伴内」に『大東流』を教わり
大成して『不遷流柔術』を創流しました。
また、総合武術なので柔術の他に武器術として
杖術、剣術、居合術、十手、槍、鉄扇、なぎなた、八重鎌などがあります。

武勇伝としては、幕末の「新撰組組長 近藤勇」と
ひょんなことからいさかいとなり、
近藤勇が槍で突いてきたのを両手に持っていた木椀で挟んだため
引いても押しても槍が取れなくなってどうしようもなくなり、近藤勇が謝った
という話が伝えられています。

第四代宗家田辺又右衛門の時には、
講道館柔道(加納流)が全盛期で関西に進出してきたので、試合を行い、
寝技で随分と柔道選手を苦しめて、不遷流の名を轟かしたという新聞記事が残っています。
(古流柔術対講道館柔道)


不遷流伝系
http://www.mable.ne.jp/~sin/page008.html
不遷流は江戸末期(幕末)から明治、大正にかけて
西日本の瀬戸内、特に岡山、広島を中心に広まった古武道で、
最盛期には門人が二千人とも三千人であったとも言われております。
コレでは 侵略者にして略奪者のカルト集団である一神教で野蛮人な「日本人と日本」明治政権 が
 危険分子の集団 解体させて破壊させる標的
へと指定しては 政治的謀略の攻撃の情報戦と秘密戦 の餌食と化すのは
21世紀から見れば 分かりやすいほどに分かりやすい話だよね。

また、明治四十一年の警視庁での試合において、
不遷流の田辺又衛門ら古流柔術の猛者らが
講道館柔道の四天王である山下、西郷らを十分に苦しめた記事が「武道誌」に記載されています。

不遷流の伝系としては、
流祖 武田物外から
二代 武田禎治-
三代 田辺虎次郎-
四代 田辺武四郎-
五代 中山英三郎-
六代 中山和と続き、
七代 井上一利先生へと宗家筋が伝わっています。

不遷流伝系(詳細)
http://www.mable.ne.jp/~sin/page073.html





不遷流盛武館
ttp://husenryu.web.fc2.com/index.html

詳伝 拳骨和尚武田物外(全文)
http://www.mable.ne.jp/~sin/page038.html

物外不遷和尚  略年譜
http://www.mable.ne.jp/~sin/page055.html

そして次のリンクとコピペの前に 此の辺りを貼る。
そういう事だったんだね、と今までに何となく感じていた事が かなり明確に見えてきた。

「嘉納治五郎 官憲」の検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%98%89%E7%B4%8D%E6%B2%BB%E4%BA%94%E9%83%8E%E3%80%80%E5%AE%98%E6%86%B2

なるほど そういう事か。
そう考えると 次の項目は あまりにも不自然だね。
嘉納治五郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E7%B4%8D%E6%B2%BB%E4%BA%94%E9%83%8E

以下の話は ウツクシイwikipediaには無い。

小泉八雲と嘉納治五郎との関係
http://www.mable.ne.jp/~sin/page057.html
嘉納治五郎が、第1回の外遊から帰国したのは明治24年1月6日である、
4月には学習院教授、宮内省御用掛を免ぜられ、文部省参事官を命ぜられた。

8月7日には東京第一高等中学校長木下広次の媒酌で竹添須磨子と結婚、新居を浦賀の松崎山に構えた。
が、それもつかの間、結婚6日目には、文部省から熊本の第五高等中学校長兼文部省参事官の辞令が出て、
9月には新妻を姉の嫁ぎ先、麻布市兵衛町の柳邸に預けて単身赴任した。32歳の時のことである。

単身赴任というが、実際には、嘉納師範が自ら滋賀県で見出した大男の肝付宗次を連れて行った。
熊本へ着くと、さっそく五高の生徒控え室を改造して道場をつくり、”瑞邦館”と名づけ、
肝付を助手に生徒たちに柔道を教えた。
それから3ヶ月後には講道館から有馬純臣を呼び寄せているが、
助手が肝付一人では間に合わなかったからであろう。

嘉納は五高の校長となると、松江中学の教師だったラフカジオ・ハーン(小泉八雲)を引き抜いて
五高の英語、英文学の教師とした。
ここでハーンは初めて柔道をみた。
そして嘉納校長に対して質問を浴びせ、その談話などを基に、
彼らしい推理を加えて『柔道』と題する論文を書き、
日本精神、日本の政治外交、日本の生活などを全て
嘉納の説く”精力の最善活用”の”柔術”をもって理解しようとした。
これは”out of the East”という題で、1895年にボストンで出版され、
その書中に”柔術”という項目に書かれている。

ハーンはアイルランド人の軍医を父に、ギリシャ駐在中に土地の婦人との間に生まれ、
イギリスとフランスで教育をうけたが、イギリス在学中に片目を失明。
20歳で渡米、新聞記者をしながら文筆活動、翻訳、創作でしだいに文名をあげ、
1884年、西インド諸島等で生活したのち、日本へ来たのは明治23年(1890年)の39歳のときである。

ハーンは、松江中学の教師となり、土地の島根県士族、小泉節子と結婚した、
日本の風土、人情を愛し、古伝説や怪談などは特別の興味をもって研究した。

あるとき、熊本城にある第六師団の祝い事があり、
県内の地名の士が招かれた。武官は制服、文官はフロックコートというのに、ただ一人紋付袴の男がいた。
それがハーンであった。
彼はいつも和服で、キセルでタバコを吸い、食べ物も、日本人と少も変わらず、
つとめて日本人になりきろうとした。

嘉納校長が26年1月、校長を免ぜられて東京に帰ると、ハーンも五高をやめた。
そして神戸で英文記者となり、
そのかたわら日本の印象記を『知らぬ日本の面影』『心』『仏土の落穂』などにまとめ、
明治28年(1895年)には、ついに日本に帰化して”小泉八雲”となった。
翌年、東京大学文学部講師、明治36年、早稲田大学講師となり、英文学を講義した。
著書には『霊の日本』『東の国から』『日本のお伽噺』などがある。

柔道がまだ海外に普及されない時代に、
小泉八雲が真っ先に英文でこれを紹介したことは、
柔道界にとっても特筆すべきことであった。

小泉八雲が何者なのか?
こうして眺めると全く別の見方が出来るね。
カルトへ堕ちる とは 自覚の有無を問わないからね。

嘉納師範が五高の校長として熊本にいるうち、天下を騒がせた大事件が起きた。
それは松方内閣の選挙大干渉である。

山形内閣のあとを受けて成立した松方内閣は、
組閣の直後に「大津事件」(津田三蔵巡査がロシア皇太子襲撃)で内閣改造、
その3ヶ月後には濃尾地方(岐阜、愛知)の大震災(死者約一万人)が起こり、
24年11月21日に開かれた第2回議会では、その救済費について与党が介入した不正があると、
野党側が政府を攻撃、政府予算案をつぶしにかけ、
樺山海相の失言問題から混乱に陥り、ついに12月25日に解散した。

この選挙(第2回)では、品川内相が大干渉を行い、
高知、佐賀、福岡、岡山、千葉などが最も激しく、死者25、不祥390人という流血の惨事となった。

このとき品川弥二郎内相は、自ら改進党の本拠地・佐賀に乗り込んで演説会を行うことになったが、
これを機会に、民党の壮士たちは品川内相を暗殺しようとする不穏な計画があると伝えられた。

品川弥二郎と嘉納治五郎との関係は、
明治19年、品川弥二郎がドイツ駐在全権公使として赴任する際に、
麹町富士見町にあった苦談楼(品川邸)を嘉納が借りうけて嘉納塾とし、
邸内に40畳の道場を新築して講道館を移して以来のものである。

なお、22年に品川が帰朝して、苦談楼をあけ渡すときには、
品川と陸軍次官桂太郎の斡旋で本郷真砂町の陸軍省の建物を借り受けて講道館を移す(4月)
など、嘉納としては品川に数々の恩義があった。

その品川が内務大臣として、日本憲法史上最大の汚点を残す選挙大干渉を行った、
その是非の中身は此処で語る話では無いので割愛をする。

ともかく、佐賀において品川襲撃の噂が高まっていて、
佐賀とは目と鼻の位置にある熊本にいる嘉納にとっては、とうてい座視することは出来なかった。

ひそかに書生風に姿を変えて、全市に殺気がみなぎっている佐賀へ潜入し、
品川の宿舎にたどりついて、品川の身辺の警戒にあたった。
しかし運よく襲撃事件は起こらなかった。

この品川の”選挙大干渉”に加担した“日本柔道の父”の嘉納治五郎は、なお後日譚がある。


七流合体の肥後流体術
http://www.mable.ne.jp/~sin/page059.html
品川は内務大臣であったが、実際に大干渉を行った主人公は次官の白根専一だったという。
選挙の結果は、かえって政府が不利となり、議席は野党側が多く、品川は責任をとって退官した。
しかし白根次官は居座った。

これを怒った農商務大臣の陸奥宗光は、品川の辞職より三日遅れて野に下り、
第三議会において松方内閣は政府案を否決され、25年8月8日、ついに総辞職に追い込まれた。
次いで伊藤博文内閣が出現したが、これが世にいうところの元勲内閣である。

-横道にそれたが、もう一度熊本へ戻ろう。熊本はもともと柔術の盛んなところで”肥後のやわら三流”といわれ、細川藩は扱心流(きゅうしんりゅう・汲心流ともいう)の江口家、竹内三統流の矢野家、四天流の星野家と三つの師範家をそれぞれ二~三百石で抱えて、剣の二天流(宮本武蔵の伝系)と共に柔術に力を入れてきた。

扱心流の江口弥三(武徳会範士)の門下からは、牛島辰熊八段の兄義一、竹内三統流の矢野広次門下からは佐村正明、嘉一郎十段父子、村上邦夫、四天流の星野九門の門下からは福島清三郎、丸山三造、三石昇八という逸材が出ている。

扱心流は北面の士・速水長門守円心(円心流組討ち)から江州の犬上長勝に伝わり、その子、扱心斉永友で扱心流が完成したといわれ、犬上軍兵衛永保が宝暦三年(1753年)久留米の有馬藩に仕え、九州一円に広まった。明治時代の江口弥三範士は、西南の役で西郷方について戦い、右肩に銃創を負い、右肩が下がっていたという。
 四天流は肥前唐津(または諫早)生まれの成田清兵衛高重が、戸田流(剣、居合、組討)を学び、明暦二年(1656年)熊本の細川綱利候に仕え、二天一流の寺尾求馬信行に敗れて入門、信行から四天流と名づけられた。伝系は 成田高重-星野実貞-関群馬-星野竜介-星野実直-星野九門、星野竜太となっている。

「肥後の熊本やわらどころ」といわれ、この”やわら三流”のほかに四流派があって、明治35年4月には、次の肥後体術七流を合して「肥後流体術」とした。
 楊心流          山東清武
 竹内三統流       矢野広次
 扱心流          江口弥三
 天下無双流捕手術  高岡一太郎
 四天流組討       星野九門
 四天流小具足術    除村熊雄
 塩田流小具足術    野々口常人
ここに現れる”楊心流”は、警視庁武術大会に出場した楊心流(流祖三浦楊心)戸塚派のそれと異なり、
秋山四郎兵衛義時を流祖とする楊心流で、熊本藩、高松藩等に伝わったもので、
塩田流は播州の塩田松斉清勝を祖とし、宮本武蔵の養父・無仁斉の当理流の分派で、
清勝が丹後の細川候に仕え、細川候が小倉-熊本と移封するに従い、熊本藩に伝わった。


不遷流柔術の”怪傑”田辺又右衛門
http://www.mable.ne.jp/~sin/page060.html
明治19年、20年の警視庁武術大会を機に、講道館は”日の出の勢い”で、その勢力を伸ばしてきた。
そして在京の柔術各派は、新興柔道の軍門に下ったかの観があった、
しかし地方に蟠居(ばんきょ)する柔道家の全てが、
在京の柔術家に右へ習えして、すべて講道館の風下へ立ったわけでは決してなかった。

「よしっ、おれが出て行って、講道館柔道をとっちめてやろう」
という気概のあるサムライが少なからずいたのである。
その一人が”不遷流”の田辺又右衛門である。

又右衛門は不遷流四世の家元である。不遷流の始祖”物外”大和尚は、
托鉢(たくはつ)用のお椀二つをもって、
真剣の新撰組隊長近藤勇を押さえて「参った」をいわせた”拳骨和尚”で知られる。

拳骨和尚のことはあとで書くが31歳のとき、広島県尾道市栗原町203の曹洞宗済法寺の住職となったが、
慶応3年(1867年)11月25日、旅先の大阪市の『福島屋』という旅館で客死(73歳)。
中寺町の禅林寺に葬られ”物外不遷禅師の墓”という墓がある。門人は三千人といわれた。

田辺又右衛門とは - はてなキーワード
http://d.hatena.ne.jp/keywordtouch/%C5%C4%CA%D5%CB%F4%B1%A6%B1%D2%CC%E7?kid=254774
明治2年(1869)1月生まれ。
読みについての資料が足りず、「たなべまたうえもん」は仮の読み方である。
講道館とは別に段位などを出す独自組織、大日本武徳会の兵庫県支部で指導に当たった。


そして そろそろ此の話に戻る。
田辺又右衛門 や 嘉納治五郎の本質 に関する
 ネット上からも抹殺された詳細
へ唯一に近い資料だね。

嘉納治五郎と戸塚楊心流(楊心古流)
http://web.archive.org/web/20071018025211/http://www.bokuden.or.jp/~bunbkan/page239.html
講道館流の成立過程において「打倒戸塚楊心流」があったことは知られている。
当時の戸塚楊心流について、
嘉納師範は「飯久保恒年先生(起倒流柔道)から戸塚一門は強いと聞かされていた」
といった回顧している。

月間空手道に連載していた「幻の日本柔術(高橋賢:著)」によると、
飯久保に入門する前後に一度戸塚楊心流と試合をしている。
小説姿三四郎であれば道場破りか死闘という場面となるだろうが、
実際には練習稽古であった。

嘉納は戸塚門下生(名前不明)と乱取をおこなったが、
嘉納が盛んに技をかけようとしたが全く効かず、試合場を散々に引きずり回された。

一方で、戸塚楊心流の戸塚英美師範は
「相手をした者は門下の中でも強いほうなので、彼と引き分けたのだから
 “書生の柔術”としては素晴らしい」
と格下へ対する意味合いの褒める感想を述べた。

これは、
 嘉納治五郎が当時の帝国大学(東大の前身)の学生なのに
 時代遅れの柔術を学んでいる
ことに、将来を期待した言葉ともとれる。

一応に試合は 双方一本をとることができず引き分け と終ったが、
現在の判定制度があれば嘉納の判定負けといった感じだろう。

この実質上敗北ともいうべき試合は、嘉納にとって屈辱的であったと思われる。
なぜなら嘉納が柔術をはじめたきっかけは、
「正論をいっても時として暴力によって捻じ曲げられることがある」
といった意味合いを理由に挙げているからだ。
嘉納治五郎の性格が 非常に分かりやすく読み取れる話だよね。
礼に始まり礼に終わる という武道の精神 とは懸け離れた
 怨恨
が其の基礎に有る訳だ、礼をしても恨み骨髄 とね。

小説「姿三四郎」では聖人ぜんとした矢野(嘉納がモデル)が描かれているが、
人間・嘉納治五郎は
 普通の人々が武術を学ぶのと同じように「強さ」を求める
という非常にわかりやすい理由が動機となっている。

江戸時代の公的武術道場講武所において、
戸塚楊心流には投の連絡技(つなぎ・変化・連続)が発達していたようで、
これが都下における他流より優れていた部分であった。
この講武所は乱取を重視したので、柔術もある程度共通のルールを持っていたとおもわれる。

講武所における柔術について若干触れておこう。
公的武術学校「講武所」は当初築地に開校されたが、後に小川町に移している。
築地時代は剣・槍・砲に泳法を加えたものを正課としたが、
小川町に移り剣・槍・砲に新たに柔・弓を加えた。
ちなみに泳法は場所的なことから新設された軍艦操練所へと移った。
此の辺りの経緯は
「品川弥二郎 嘉納治五郎」の検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%93%81%E5%B7%9D%E5%BC%A5%E4%BA%8C%E9%83%8E%E3%80%80%E5%98%89%E7%B4%8D%E6%B2%BB%E4%BA%94%E9%83%8E
に有るように どう考えても 極めて話がオカシイ のが明確に分かる。
 官僚や関係者が 一等地を無断で私用に近い形式で占拠して私用する
という21世紀にも非常に多い姿そのものでしかないんだよね。

小川町時代には弓を重んじ弓剣槍を同列に扱っているが、柔術は一段下に置かれていたようだ。
記録そのものも戸塚彦助(戸塚楊心流)、片山弥次郎、鈴木清兵衛といった名がある程度で、
いたって扱いが悪い。

さて 此の辺りまでくる と 色々と話が見えてくる ねぇw

・中村半助対横山作次郎
弥生神社武術大会は確かにあった。ただし「向ヶ丘弥生社警視庁撃剣大会」として記録がある。
弥生神社は傍らにあったもので明治18年に立てられたが、
翌19年には芝公園内東照宮前に弥生社(弥生舎)と共に移築されている。

この弥生社警視庁撃剣大会は明治15年から同19年まで毎年秋に開催されていた。撃剣大会ということもあって剣と槍の試合の記録があるが、柔術に関する記録は無い。明治19年にあったとされる柔術大会の参加者であるが、講道館側の人数は12、3人といったように定かではなく、古流では戸塚楊心流が最も多くやはり十数人と言われているがこれも定かではない。

嘉納治五郎の回顧録には「2、3人は他流と組んだが、多くは戸塚楊心流の門弟と試合をした」とある。
他の試合には興味が無かったとしても、多少は印象に残る試合があったのではないかとおもうのだが・・・。
本当に この試合は大会として行われたのだろうか、という疑問が残る。

戸塚楊心流と講道館流が多く出場したために組み合わせが多かったのだろうが、
対抗戦に近いような感じがしてしまう。
他の流儀は門弟がいなかったのだろうか。

当時の武術界について『明治の剣術(山下素治:著)』には、
明治17年に山岡鉄舟、鷲尾隆聚、中山信安の三名の発起で「剣槍柔術永続社(単に永続社)」
という撃剣会社が設立された。

このときの柔術教授方には戸塚彦助、吉田直蔵、久富鉄太郎、市川大八の四名。
開場式が同年十一月十五日に永続社勇義館で行われた。
一週間前に弥生社警視庁全国撃剣大会が行われたこともあり、
同大会に参加した撃剣家も参加するなど大盛況であったという。

永続社開場式で
戸塚楊心流の戸塚彦助が、七十二歳の高齢ながら門人某を相手に柔術の奥義を示した、
とある。
この永続社であるが翌年そのピークを向かえたと同じに衰退の道を歩んでしまっている。

その理由の第一は、発起人の一人で経済的後ろ盾であった鷲尾隆聚が肺の病で倒れ、
鷲尾家の経済状態が傾いたことによる。
さらに追い討ちをかけるように、看板教授であった松崎浪四郎が脚気の病療養で、
郷里の久留米に帰郷してしまったことも大きな打撃となった。

結果的に明治20年に永続社はその姿を消すことになる。
ただ参加者は多かったのも事実で、武術熱が冷めたというわけではない。
それを考えれば、多くの柔術家が明治19年にあったという、
弥生社武術大会に参加しているほうが自然に思えるのだが・・・・。
では 何故に 他の柔術の者達が参加をしない 対抗戦 のような形式の話を
わざわざ警視庁が御膳立てをして行われたのか?
こうして眺めれば もう爆笑モノというか失笑モノというか だよね。

そんな 後年に語り草となって 柔道の飛躍の話の一つとなった 中村半助対横山作次郎の試合 に移ろう。
丸山氏が宗像逸郎氏から聞いた話をまとめている。
あくまで伝聞情報な訳だ。

明治19年に行われ、横山は講道館流の座礼をし対する中村は片手、片膝をつく古式の礼法で応じている。
ある書によると座礼は目上の人へ行うとあるが、全ての相手に敬意を表すということで
講道館では全てこの礼をするので意味は薄くなっている。
一方の中村は古式の共礼で同格の者との試合礼である。

今みると中村の方が異質に見えるが、これが本来武術として正式な礼法である。

以前、TVや映画の「姿三四郎」では柔術家が礼をせず横柄な態度に対し、
講道館側が座礼で謙虚さを示すという内容で柔術家は敵役のそれであった。
逆の話が、何故か 柔道がウツクシイ 柔術が悪 へと一瞬で変わる不思議な話なんだよね。

もう一つ気になるのは双方の稽古着の仕様であろう。

講道館側の横山が「肘・膝が出る 短い稽古着」であった。

柔術家側の中村の稽古着が明確に分かっていない。
何故ならば あくまで普段着の延長線上である可能性が高いからだ
柔術家の中村が「角袖に襷・袴を股立ち」だとしたら、
かなり中村が不利な状況での試合となる。

想像では講道館ほど短くは無かったが「筒袖・半袴」に近い仕様であっただろう。

柔道着の沿革からすれば 極初期は非常に短い柔道着であったが、
擦り傷・打ち身を防止するために徐々に裾と袖が長くなり現在の形になった。

空手着は柔道着を模写したものだが、現在は裾は長くなったが袖は短くなっている。

江戸期の武術は普段着の着物姿(武士は角袖・袴)であったが、
江戸末期の乱取が盛んになったときでも同じであったかもしれない。

極初期の柔道着

http://web.archive.org/web/20071018025211im_/http://www.bokuden.or.jp/~bunbkan/img144.jpg

昭和初期の柔道着

http://web.archive.org/web/20071018025211im_/http://www.bokuden.or.jp/~bunbkan/img145.jpg

柔術側の「袴」の者 と 柔道側の「短い運動着」の者 の総合格闘となれば
 どういうハンデ戦なのか
言うまでも無いよね。

試合に話を戻そう。
宗像氏の話では講道館流側の参加者は、
横山作次郎、西郷四郎、山下義韶、竿代文蔵、岩波静弥、小田勝太郎、そして宗像氏。
その他数名いたが覚えていないという。
審判は久富鉄太郎(渋川流)が勤めたというが、これもハッキリした記憶ではないという。
以下は宗像氏の記憶から。
無茶苦茶だなw その 曖昧な話ばっかり が 柔道のウツクシイ歴史 な訳だ。

双方に向かい合ったが直ぐに組もうとせず、そのまま試合場をほぼ一周する。先手をとったのは横山で、左手で中村の右襟、右手で左袖を引いて組んだ。中村がそれに応じる形で組み、現在の柔道の試合と同じとみてよいだろう。

組んだ瞬間に横山が足払いをかけると巨漢の中村がもんどりうって倒れた(横山・中村とも当時としては大柄であったが、現在では中重量級ぐらいに相当)。横山はここぞとばかり上四方固めに入ろうとした、ところがどの様にしたのかアッというまに中村が上になり逆に押さえ込みに入った。横山は焦って起き上がろうとするが思うようにならない。滅茶苦茶に暴れてかろうじて中村の押さえ込みから逃れることができた。

今度は中村が先手をとって袖と襟を取って押し込んだ。横山はこれを払腰で投げたが寝技に入らなかった。先ほどの返し技を警戒したためである。中村は横山の投げを警戒し自護体の姿勢で組む。横山がまたも払腰をかけるが、中村は肩膝をついてしのぎ寝技に入ろうとする。

横山は立技、中村は寝技と どちらも譲らない。
当時の試合はどちらか一方が「参った」というまで試合は行われた
と宗像氏はいっている。

五十五分を過ぎたところで
当時の総監三島通庸が たまりかねて審判に意を含め「引分」を宣言した。

一見すると互角の勝負に見えるか横山が有利に試合を進めたようにみえるが、
これを見ていた宗像氏が横山に「危なかったネ、疲れただろう」と声をかけたことを思い出している。

強気で知られる横山は「俺はここからが強いんだ」といったらしいが、
おそらく試合は中村の寝技に思い切った投技がだせず、
攻めながらも寝技から必死に逃れる横山の姿が浮かんでくる。

つまり 試合の詳細な内容は殆ど分かってない というのが事実な訳だ。

確かに 講道館流の細かい足技と腰技 に 古流柔術が苦戦を強いられた ことは事実のようである、
けれども これは技術構成の解釈(ルール)の問題であった といっても良いだろう。
投技を重視した試合方式で 投技を拡大・細分した講道館流 に勝つことは難しかったといえるからだ。

多くの古流にとって乱取は稽古法の一つであって全てではない、
これは多くの人の認識するところでもある。

けれども嘉納にとって
 「この大会」(?) は圧勝しなくてはならかった。
 最悪に他は敗れてたとして、
 少なくとも西郷・横山の二人は圧勝しなければならなかった
とみている。

私(文武館主人)のように臍の曲がった人間は、
 この試合で結果を残すことが
 警察において講道館流の地位を明確に出来る
という考えがあったのではないかと思うのだ。

そして それを警視庁のみならずに警察庁も望んだのではないか と思う。

当時の三島総監は何事にも「古きを廃止し、新しきに改める」という方針で、
警察機構の改革を進めた人物だった。

例えばスリの大元締「仕立屋銀次(銀二?)」逮捕の式をとっているが、
これは当時の一般庶民には驚きであった。
何故なら江戸時代の岡引とスリ集団は裏で通じていたという認識があり、
その後もその関係を引きずっていたからである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E3%81%A3%E5%BC%95
岡っ引(おかっぴき)とは、
江戸時代の町奉行所や火付盗賊改方などの警察機能の末端を担った非公認の協力者。

正式には江戸では御用聞き(ごようきき)、関八州では目明かし(めあかし)[1]、関西では手先(てさき)あるいは口問い(くちとい)と呼び、各地方で呼び方は異なっていた。岡とは脇の立場の人間であることを表し、公儀の役人(同心)ではない脇の人間が拘引することから岡っ引と呼ばれた。また、岡っ引は配下に下っ引と呼ばれる手下を持つことも多かった。

起源は軽犯罪者の罪を許し手先として使った「放免」である。武士は市中の落伍者・渡世人の生活環境・犯罪実態について不分明なため、捜査の必要上、犯罪者の一部を体制側に取り込み情報収集のため使役する必要があった。江戸時代の刑罰は共同体からの追放刑が基本であったため、町や村といった公認された共同体の外部に、そこからの追放を受けた落伍者・犯罪者の共同体が形成され、その内部社会に通じた者を使わなければ捜査自体が困難だったのである。必然的に博徒、的屋などのやくざ者や、親分と呼ばれる地域の顔役が岡っ引になることが多く、両立しえない仕事を兼ねる「二足のわらじ」の語源となった。奉行所の威光を笠に着て威張る者や、恐喝まがいの行為で金を強請る者も多く、たびたび岡っ引の使用を禁止する御触れが出た。

例えば 南町・北町奉行所には与力が各25騎、同心が各100人配置されていたが、警察業務を執行する廻り方同心は南北合わせて30人にも満たず、人口100万人にも達した江戸の治安を維持することは困難であったため、同心は私的に岡っ引を雇っていた。岡っ引が約500人、下っ引を含めて3000人ぐらいいたという。

奉行所の正規の構成員ではなく、俸給も任命もなかったが、同心から手札(小遣い)を得ていた。同心の屋敷には岡っ引のための食事や間食の用意が常に整えてあり、いつでもそこで食事ができたようである。ただし、岡っ引を専業として生計を立てた事例は無く、女房に小間物屋や汁粉屋をやらせるなど家業を持った。

官憲公安の手下やスパイや工作員の類 の話と全く同じで、
古今東西を問わずに人間社会にあっては こういう者達が必ずに存在する。
そういう存在の意味合いを無視して 21世紀には存在しない ような言い回しを詭弁の先で続けながら
なのに 情報に強い者達 ほど 実態は不自然w だよね。
だからこそ俺は 自分が如何に危険なのか を執拗に書いてきたし 今も怯えながら暮らす となる。

三島総監の考え方は賛否両論を生んで、
事実、旧下級武士から命を狙われたこともある。

この様な極端な考え方をする人物は矛盾が起きないようにするため、
全ての物事を「古きを廃し、新しきに改め」に当てはめたと思われる。

ここまで書けば大方の人は
この大会(?)の趣旨の一つ(全てとは言わない)が見えてくるのではないだろうか。

そういう事だ。
此の話が 不思議なwikipediaを含めて何故にネットの日本語圏では極めて情報が希薄なのか? も見えてくる。

日本人と日本 という一神教で野蛮人なハイパーキチガイカルトの異民族 が
極東の一諸島で圧倒的大多数を構成する多神教で文明人の社会共同体の一般民衆 へ対して
如何なる大量虐殺と民族浄化と掠奪と陵辱を繰り返し続けてきたか?
それは明治の最初期から150年以上が過ぎた今の現在に至るまで 本質は全くに変わっていない。

武道 という多神教で文明人の美意識や感性や生き方を 詐欺と詐術の道具へ嬉々として利用する、
それが如何なる事だったのか?の貴重な情報でも有るので コピペを続けたい。

・見えてこなかった古流の技術
この中村対横山の試合を読んで不自然さを覚えた人も多いだろう。

以前に書いたが柔術には多くの取り方(組み方)があるにもかかわらず、
柔術側の中村半助は終始に柔道の組み方を通しており、いかにも窮屈そうに闘っていることがわかる。

それは俺も修羅の刻を読んだ当時に思った、
古流の柔術は総合格闘に近い事は分かっている
なのに柔道との試合 ってルールが合わないんじゃないか とね。
当時の柔術流儀全てが乱取を採用はしていないし、
また同じ流儀であっても伝わった地方や伝系によっても違ってくる。

永岡秀一十段は幼少時に郷里の岡山で起倒流を学び、
十代で講道館に入門して大成した柔道家として知られている。

講道館柔道百五十年の歴史の中で、「天才児」と呼ばれたのは西郷四郎と永岡秀一の二人だけである。

永岡は起倒流の捨身投げを講道館流という濾紙を通す(アレンジした)ことにより
「裏投」という大技を完成させた人物で、講道館流の多くの形の編成にも関与している。

この永岡十段が講道館に入門当時に、
講道館流の袖・襟を取る組み方に非常に違和感を覚えていた事を語っている。

永岡が郷里で学んだ起倒流の乱取法は、
現在の相撲における四つ組と同じもので「当初、力がまったく入らず困惑した」と話している。
天神真揚流や戸塚楊心流などでは この組み方を採用してはいるものの、
上記の「鎌」で見られるように組み方に変化があった。

江戸時代の乱取(試合)について若干であるが記録がある。
『甲子夜話』に、起倒流柔術家加藤右計が柔術家某から試合を申し込まれたことが書かれている。
この某は当身に優れた柔術家で当初加藤右計は試合を拒んだが、
某の執拗な申し出に断りきれず止む無く試合に応じた。

双方が立会うや否や某は電光のごとき蹴り当てを出したが、
交錯した瞬間、某は分厚い羽目板に頭から突っ込み その場で絶命した。
この時、某の当ても加藤右計の肋骨を蹴り折っていたが、その瞬間に投げ殺されたのである。
総合格闘の局地だなw まさに陸奥圓明流の話となる。

加藤右計は
「力が拮抗したものが試合をすれば、
 加減することができず双方が傷つくか片方が最悪死んでしまう」
と語っている。
文字道理に死合となってしまったが、
これが柔術の試合に近いもので中村対横山の一戦には見えてこなかった。
柔道と柔術の戦い 異種格闘技戦 のはずなのにね。

それでも中村半助は横山の投げから押さえ込みに対して、瞬時に体制を入れ替えて反撃している。
一方の横山は中村の押さえ込みに死に物狂いで振りほどきに掛かっている。
実力云々とは言わないが 服装の違い からすれば練磨の差を感じずにはいれない。

中村半助を巨体・怪力とする人もいるようだが、
こういった戦い方をみると
形による裏表の稽古し、乱取で鍛錬して、形によって正す
という稽古をした一流の柔術家であると評価したほうがよいだろう。

もう一つ気になることはこの大会(?)の試合規定である。
中村対横山は「参った」以外は勝負に関係が無かったのは確かのようだが、
不明な部分が多いことを先に書いた。

柔道側の回顧録をみると、講道館流の足技(足払・大小内刈等)といった技が勝敗を左右したとある。
また嘉納治五郎の回顧録には「河合は片山と組んだ」とある。
この試合は立十字絞で河合が勝ったと記憶している。

数少ない結果から考えると、
立技それも投技を重視し関節技は禁止され、
組み方も一通りだけに限定されていた
と考えられる。

このような場合は
ルールに熟知した方は拡大解釈し、
押し付けられた側は縮小解釈する
のが常だ。

この大会後(もしくは大会中)に柔術家側から試合規定に対しクレームがあったが、
磯貝一は「最初に承諾しながら、後から苦情を言うのは武士にあるまじきこと」と非難したという。
もう無茶苦茶を飛び越えて 完全に「詐欺詐術へ嵌めた」と言って良いだろうね。
しかも権力と権威とカネを目的にした政治的な謀略の秘密戦と情報戦の為に な訳だ。
最低で最悪で 悪魔死神の所業だよね。
コレが 礼に始まり礼に終わる のウツクシイを叫ぶ連中の本質なのかい?w

思うに試合規定の苦情・改定はこの19年の大会中に行ったと見ている。
その試合が中村・横山戦だったといえないだろうか。

では何故に不利な試合規定を柔術家側が了解したのだろう。

多くの研究では柔術家が柔道を甘く見たというのが通説だ。
確かに「学士の教える柔術」程度の認識しかなかったであろうし、
この大会そのものを重大なものとは考えていなかったと思う。

更に、この試合規定には、先に記した三島総監の力が全く無かったとは言い切れまい。

この中村・横山戦は後に再試合となり、横山が勝つのであるが、
明治19年の試合時に横山二十二歳、中村三十半ばとあるので、
この時でも乱取という試合形式ではピークは過ぎていたというべきだろう。

此の辺りの話は 俺も何となくに聞いてはいたのだが
中身の詳細を調べると 予想以上に此処までキチガイ沙汰だったのか という点で、
逆の情報を基礎にしていた己が馬鹿さ加減を思い知らされた。

同時に
あまりに予想通りの 一神教で野蛮人な「日本人と日本」の詐欺詐術そのもの ではあったが。


明治二十七年に講道館新築道場で、講道館の山下義韶(起倒流形演武)・戸張瀧三郎(天神真揚流形演武)、佐村正明(竹内三統流)、久富鉄太郎(渋川流)、井上敬太郎(天神真揚流)等とともに良移心當流の形を中村半助は演武している。
 

・不遷流 田邊又衛門 柔道に立ち向かう若き強豪柔術家の推参

『大日本柔道史(丸山三造著)・田邊又衛門範士不遷流を語る』によれば、

明治二年一月、岡山県長尾町に生まれる。
齢九歳にして祖父貞治に就き柔術を修行し、
明治十七年一月目録、
同十八年免許、
同十九年免許皆伝を受ける。

後、父寅次郎に従い各地に柔術教授をする。
同二十三年十一月より警視庁武術師範となる傍ら各学校柔術教師として奉職する。
同三十九年柔道教士拝受、大正十一年教職を辞す。
昭和二年五月武徳会柔道範士を拝受する。
名前の又衛門は「日本一の柔術家になってもらいたい」と剣豪荒木又衛門に肖って附けられた。

田邊又衛門の最初の試合は、
明治十五年十四歳の時に岡山県邑久郡上寺の柔術大会が最初という。
少年は又衛門だけで、この時には一番大きく強そうな相手を指名している。
父寅次郎は「怪我をしてもつまらないから違う人と試合をするように」と諭したが頑として従わず、
試合をして引き分けている。

又衛門は幼少の時より勝負への執着が人一倍強く、
十五歳の時の試合では相手に腕の逆を取られるも降参せず肘を脱臼している。
また相手の締め技に絶対に降参せず、相手の手が痺れるのを待つほどであった
(不遷流には締め技に対し、首を鍛える方法がある)。

ネット上にある 極めて数少ない田辺又右衛門の詳しい話である。

・戸張瀧三郎と田邊又衛門の三番勝負
明治19年の大会後、講道館流は
警視庁柔術師範として横山作次郎、山下義韶といった柔道家を送り出すことが出来た。
とはいえ、この当時は金谷仙十郎、今井行太郎、大島彦三郎といった柔術家も就任していたので、
一応は寄り合い所帯ではあったが見かたによっては呉越同舟の形となっていた。

戸張瀧三郎についても触れておこう。埼玉県北足立郡藤兵新田の生まれで、当初は下谷にあった天神真揚流井上敬太郎道場に籍をおいていた。後に講道館流に入門するが、戸張は先に書いた横山作次郎と同門であったので、あるいは横山の誘いが合ったのかもしれない。戸張と横山の二人は井上道場で竜虎と呼ばれていたので、若いときからその才覚を表していたことがわかる。もし、この二人が古流に留まっていたら、講道館にとっては大きな障害になったかもしれない。

古今警察庁の師範クラス同士の試合は数が少ない。
自尊心の潰し合いは 当然に互いが避けるからね。
よって 明治19年の中村半助の出場自体が 本来は不自然なことである と思う。
少なくとも当時の中村は格としては横山より遥かに上の武術家だからである。

こういった状況の中、明治二十四年四月一日、久松署柔術教師戸張瀧三郎(講道館流、後八段)と小川町警察署柔術教師田邊又衛門(不遷流)の試合が久松署道場で行われた。戸張は田邊より一回り身体が大きく、力も強かった。
此の時の田邊又衛門は24歳の前後だ。

試合がはじまると戸張が田邊を引きずり回すが、
その勢いに田邊は乗り戸張の技を巧みにいなし ことごとく凌いだ。

田邊は幼少時代から大型の柔術家や力士を相手にすることを好んだが、
力に優る相手との試合に十分に活用することができた。

時折、神社の勧進相撲などでは飛び入り参加する人も多く、
田邊も十七歳のとき一週間に力士と十番試合をしたことがあるが、
このときの力士は百十キロ前後の大型(当時)ではあったが、敗れたのは一回だけだった。

この一回の敗北から
 胴着を着ていない力士は汗ですべり技が掛けずらいため、
 「鰻の押さへ方」という工夫
を編み出している。

鯰を掴もうとして力を入れると滑って掴めない。
これは汗をかいた人間も同じで、いきなり掴もう押さえようと力をこめるとかえって逃れられてしまう。
そっと掴み、ここぞというときに力を入れる。
制剛流では捕るという気配を出さず柔らかに相手を掴むことを「硫黄の移し」という。
これは硫黄の匂いはが身体につくのが何時がわからない所から名づけられたのである。

試合に話を戻そう。
投技を巧みに防がれた戸張は苦し紛れに横捨身を掛けたが、
これを田邊は横に這うようにかわし上四方固めに入った。
戸張は無我夢中で返そうとするが叶わず、
渾身の力を入れて返そうとした時に田邊の締め技が決まった。
十字締めである。
戸張は逃れようとするが、見る見る顔が紫色に変わり落ちたところで
審判が「一本」を告げて田邊の勝利となった。

敗れた戸張は寝技の必要性を痛感し、
「打倒田邊」を心に誓い寝技の稽古に励み、翌年再度田邊に挑戦する。

・再び戸張と
戸張瀧三郎との二回戦について記す前に、田邊又衛門についてもう少し書いておきたい。
類書では田邊について一様に「寝技の達人」という記述で書かれているが、
「三十歳台の頃でも四段位は平気で立技の稽古をつけた」
とあって立技と寝技を共に使えた武術家であったのが田邊又衛門だった。

時は明治二十五年春、所は警視庁道場、審判は再び金谷仙十郎。
一礼して立ち合うや戸張が猛然と腰技を掛けた。
だが、最初の試合で戸張の短所も長所も知り尽くした田邊はそれを外し、巴投げを掛けた。
戸張は踏ん張るように凌いだが、それを田邊は巧みに寝技へと持ち込んだ。
すると戸張は寝技から逃れると思いきや寝技勝負にでた。
一年間の猛修行の自信からとった戦法であったが、
田邊はその猛攻を くるくると巧みに防ぎ 付け入る隙を与えない。
戸張は攻めながらも疲労がたまってゆくが、
田邊は疲れないように心がけて攻め疲れを待つ戦法である。

案の定、攻め疲れが出て息切れが見えた戸張に田邊が猛然と攻撃に出ると凌ぐことができず
うつ伏せとなった瞬間に田邊の利き手が戸張の襟を掴んだ。
一瞬の締め業に逃れようとするが外せず、遂に「一本」を審判が宣して
二度目の試合も田邊の勝利となった。


若き強豪柔術家の出現は古流・講道館流を問わず注目を集めることとなった。

その後、講道館流の
山下義韶、磯貝一、飯塚国三郎、肝付宗次、永岡秀一、岩崎法賢、廣岡勇司、馬場七五郎
といった並み居る強豪を ことごとく破り不敗を誇った
(西郷四郎へも挑戦を申し込んだが、何故か拒まれている)。


・三度挑戦を受ける
この試合は明治二十五年十二月、神田泉警察の稽古納めに行われた。
この日、田邊は身支度を整え戸張より一足早く道場に来てみると、
先輩の警察庁柔術師範金谷仙十郎(起倒流)が座っている。
田邊は一礼して戸張から試合を挑まれたことを話すと、
金谷は驚き「それは意外だ。自分も戸張から試合を挑まれた」と手紙を出した。

若き日の戸張瀧三郎は一徹で気性が烈しい人物であったらしく、
同じ日に強豪二人に挑戦状を叩きつける無鉄砲なところもあった。
遅れたきた戸張は「ご両人早いな。今日は命の続く限りやってみようじゃないか」と挨拶するなど、
当初から ただならぬ雰囲気ではあった。

三人で雑談をしていたときに、
どうした言葉の違いがあったか戸張と金谷が口論となった。
憤然とした戸張は立ち上がるや金谷の片袖を掴んだ。

金谷も黙ってはいない、「後輩の分際で!」と、怒鳴りつけ立ち上がり争いとなった。
この時は周りの同僚が止めに入ったが、双方の袴も羽織も破れるなど烈しいやり取りがあったようだ。

過去二度田邊に敗れていることや今回のいざこざがあったため、
戸張は試合前から殺気立っていた。

現在の格闘技でも殺気立ったり気色ばんだりするほうが勝つことが多い。
祖父・父二代にわたる厳しい稽古を受け、
若き日より他流試合という修羅場を数多く経験し、工夫を重ねた田邊は
その程度では動じないし臆しもしない。

「強く出れば柔らかく応じ、弱く応ずれば剛く出る」、
剛柔の理を知り尽くした田邊にとって三度目の勝負は望むところであった。

勢いでくる戸張を柔らかくいなし、戸張が急げば急ぐほど冷静に試合を進めてゆく。

そして戸張がさらに前掛かりになったときに電光石火の巴投げに入った。
「一本」と決まったかと思われたがハスになって戸張も良く凌いだ。
しかし、田邊はすかさず付け入り足にピタリと食らいついた。

先に田邊は立技も上手かったと書いたが、
得意とした技は巴投げ・横捨身であった。
それも、ただ崩すだけは無く、一本になるほど鮮やかであったことが分かっている。

こうなると勝負は見えきた。
もがこうが立とうとしようが、ますます術中にはまってゆく。
上になった田邊を渾身の力で戸張が返し、
上下が逆になったがすでに遅く田邊の十字締めが決まっていた。
戸張の顔は変色しグッタリとなって勝負がついた。
三度に田邊が勝ったのである。

挑戦を受けた田邊は、三度とも十字締めで勝利した。
彼はこの得意の締め技を「エビ責め」あるいは「エビ締め」といっている。
これは正面から十字締めをかけるとき
引き手側の肩に相手の片足を担ぐと、相手の形が海老のようになるためである。
この技の特徴は、相手が外そうと足に力を入れると
引き手の力が増すので力をあまり使用せず締めることが出来る。

戸張は金谷仙十郎と稽古納めの最後に試合をしている。
この日のいきさつもあり烈しい試合となったが、
立技・寝技ともにほぼ互角の戦いとなり
三十分を過ぎたところで審判が「引分」を宣言した。

ところが今度は金谷が収まらない。
「『戸張は田邊と自分に死ぬまでやる』と宣言している。それを引分とは怪しからん。
 改めて勝負を決したい」
と、審判に詰め寄った。

一方の戸張もおさまらず、
講義している金谷の側面から「勝負はこれかだ!」と言い終わらぬうちに足払いを食らわせた。
不意を食らった金谷はひっくり返ってしまった。
よほど上手く決まったため、観衆がヒヤカシ半分に拍手を送ったので、
金谷も照れて抗議を止めて裁定道理の「引分」となった。

しかし、この最後の部分の話は引っかかる。

少なくとも戸張の攻撃は行き過ぎだし、
これで金谷が黙って引き下がったとは思えない。

事実、それから間もなく警視庁を戸張は辞めている。
やはり現場では何かあったのだろう、其の「何か」は伝わっていない。

警視庁を辞した戸張瀧三郎は講道館に戻った。
その講道館で修行を続け、やがて五段となり、
熊本五高の柔道教師、外遊帰国後に大阪住友に柔道教師として招かれることになる。
戸張瀧三郎の住友柔道教師就任には、
その人格(粗暴)について疑問をもった住友側と嘉納治五郎の間で一悶着あったらしい。
ふーん、熊本で 住友で 仲介に嘉納治五郎が有った様で
「品川弥二郎 嘉納治五郎」の検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%93%81%E5%B7%9D%E5%BC%A5%E4%BA%8C%E9%83%8E%E3%80%80%E5%98%89%E7%B4%8D%E6%B2%BB%E4%BA%94%E9%83%8E
を考えれば もう
 単なる官憲の天下り
そのものだよね。 しかも公安の下僕奴隷の如くな ね。

嘉納の長文の抗議の手紙によって住友側が折れた形になった。
凄いねぇ、どんだけ権力と権威の不思議な後ろ盾が有ったんだろうね。
戸張瀧三郎は行動が粗暴にみえるが、
真っ正直で一本気な性格から意思の疎通が難しい人だったのかもしれない。
その分、正直を絵に描いたような人物だった
ので嘉納治五郎等には評価が高かったようだ。
送り込む下僕奴隷の尖兵 としては まさに 笑いが止まらない な訳だ。
21世紀へ至っても全くに変わらない これが「日本人と日本」のウツクシイの本質だよね。

さて戸張瀧三郎師範であるが、大阪においての武術指導は講道館流だけではなかった。
習い覚えた天神真揚流を大阪の地で伝え、瀧三郎師範死去後には夫人の戸張和師範が教えていた。
戸張和師範には門弟がおられたようだが、現在この系統の天神真揚流を聞かない。
わはww

・金谷仙十郎
田邊・戸張戦のとばっちりをうけて、
心ならずも戸張と遺恨試合のようになった金谷仙十郎にも触れておこう。
前述の金谷仙十郎を丸山氏は起倒流としたが、本来は竹内流が正しい。
しかし、金谷仙十郎が起倒流に関わりが全く無いというのではない。
備中池田藩の本家は起倒流、分家の天城屋敷は竹内流を採用し、
藩の武揚館副幹事を野田久磨(起倒流)と片岡祐之介(竹内流)が勤めていた。

この分家天城屋敷の師範が片岡藤二といって、
長男の片岡仙十郎が後に金谷家に養子に行き金谷姓を名乗ることになる。
金谷が警視庁柔術師範となった正確な時期は不明であるが、
明治二十年前後の警視庁では戸塚楊心流と並んで実力日本一といわれている。
色々と調べている内に柔術の系統の話を見て行く事になって 此の辺りも何となく分かるようになってきた。
柔術とは武器である。だから秘伝となる。
よって系統化され 信用できる者へとしか伝えようとしない。
同時に 江戸時代という多神教で文明人の時代 であるが故に
互いは上手に棲み分けをしながら切磋琢磨の道を模索し続ける な 交流の道 は残っていた。

実力日本一という評判もあったが、
面倒見のよい人であったらしく田邊又衛門、今井行太郎、大島彦三郎といった人達が
金谷仙十郎を慕って警視庁に集まり、当時は講道館を凌ぐ勢いがあった。

この金谷は一見すると小柄で優男であったので柔術をやるようには見えなかったらしいが、
一度でも道場に立つと人が違ったようにハツラツとなり、
その動きは猿のように俊敏であったという。
得意技は巴投げからの腕挫十字逆固への連絡技で、
この技に多くの柔術・柔道家が相当悩まされている。

横山作次郎との試合をした事も有った。

正確な年代は不明であるが、金谷の巴投げに対し、横山は膝を付いて防ぎ
金谷の両足の下に両手を差し入れ担ぎ上げようとしたが
どうしたことか金谷の腰は少しも上がらない。
逆に横山が担ぎ上げようとすると両足で締めに入る
(おそらく首を両足で締める三角締めに近い技であろう)、
といったように膠着状態が続いた。
横山は持ち上がらないと分かると
道場の大黒柱に金谷の頭をぶつけようと勢いをつけて押し進んだりもした。
内容的には技を掛けている金谷に分があったが、
二十分以上を過ぎたところで「引分」となった。

一般的には内容云々よりも結果が伝達されたので、
引分となったのは講道館側には朗報であった。
実力日本一と目された金谷仙十郎と引き分けたことは、
講道館の評判をあげたことになったからだ。

何となく損な役回りとなった金谷仙十郎であるが、
その実力は折紙つきであったことはいうまでも無い。

後に台湾警察師範に就任している。
しかし、惜しまれることに台湾で風土病にかかり、明治二十八年に永眠しいる。
享年三十一歳、
あまりにも若い死去であり、古流柔術界にとって非常に惜しまれる。

ただし、この金谷が何時警視庁から台湾警察へ赴任になったか不明である。
彼が警視庁を離れた時期 と 警視庁における講道館流と古流の勢力が逆転した時期
は ほぼ一致する。
古流にとって実力・人望を兼ね備えた人物が警視庁に留まっていたら、
講道館流の勢力拡大は もっと遅かったとみている。

何が起きたのか?
311以降という時代に生きている者達ならば 一瞬で分かると思うんだけどね。


・田邊又衛門窮地に立つ
まさに講道館流の天敵となった田邊又衛門であるが、
講道館側の警戒ぶりは天敵以上であったようだ。

講道館流は対中村半助戦以来、事あるごとに「寝技は卑怯だ」と訴えつづけてきた。
なにそれwwww
しかし、その理由については的を射たものは全く無く、
自分達の弱点を公言しているのと変わらなかった為に、
古流の柔術家は 更に寝技で講道館流を苦しめていった。

講道館流の悩みの種であった寝技を封じる機会が ついにやってきた。
このきっかけを作ったのが寝技の達人であり、
打倒 講道館流 の急先鋒であった田邊又衛門であった。

これは皮肉か それとも罠だったのか。

明治三十一年春、皇太子(後、大正天皇)が京都ご訪問の時である。
三十三間堂の裏に試合場を設けて柔術六組の試合が行われた。

この時に、
磯貝一(当時、講道館流三段)から
田邊又衛門は廣岡勇司(当時、講道館流三段、霞新流)との試合を要請された。
虫の知らせか、大舞台の相手には不足があってか一度は断っている。

しかし磯貝の「段位は自分と同じ三段だし、霞新流の達人だから君の相手としては不足はない」
と、諭されて渋々承諾した。

この廣岡という柔道家は長野に住していたが、
郷里は群馬県西群馬郡下小島というところで、柔術は郷里の霞新流を学んでいた。
古流の復興を夢見ていたが果たせず、講道館に明治二十二年に入門している。

田邊が知り合いや友人から講道館への入門を勧められたが、
これを断り古流で押し通した生き方とは正反対であったようだ
(廣岡のような考え方は間違いではない。関東の柔術家の多くは講道館流に入門している)。

試合は
実力に差があった上に対戦は始めてだったらしく、
田邊の攻撃に廣岡は面くらい一方的な展開となった。

最初の諸手刈からの寝技は何とか脱したが、
二度目の諸手刈りからの「足挫」を極められたときに小さいが嫌な音をたてた。
慌てて手を叩き廣岡は「参った」の合図を送り田邊の勝利となった。
廣岡は直ぐに立ち上げれず、やっと立ち上がっても足を引きずって退場するほど損傷があった。

皇太子殿下観覧ということもあってか、
後日に講道館側からの一方的な嘉納治五郎を委員長に技術の取り捨てがおこなわれることになる。

わざわざに皇太子を呼ぶ 其処で
 実力が不相応な 一方的な試合を無理やりに要求する鉄砲玉 との試合が強引に組まれ
 一方的に叩きのめされる
つまり“初めから仕組まれた罠”である事は 秘密戦を眺め続けてきた者達 ならば分かるよね。

そして 講道館側からの一方的な申し立てが始まる となれば、
 詐欺師が詐術を嵌める
の常套手段だよね。

だから 此処から先の話が 非常に非常に 面白かった。

・試合規定の変更と疑惑の磯貝戦
明治三十二年五月、武徳会第五回演武大会の前に、嘉納治五郎を委員長として審判協議が行われた。
これも丸山三造氏の回顧録から拾ってみる。
 
開口一番、嘉納委員長より「このたびの試合から固技中『足挫』は足の神経を害する恐れがあり、体育的にも甚だ面白くないから廃止したい」という申出があった。当然のことながら田邊から反論が出た。田邊は「足挫は人命に及んだことは無く、多少の危険は新流(講道館流)にも古流にもある。足挫を禁止することは古流にとって非常な打撃だ」と反論意見をしている。

これに対して嘉納は「田邊論に賛成のお方は」と、参加者に聞くと広島の松田魁輔(訂正、真貫流)だけが賛同するのみであった。そして、熊本の四天流家元の星野九門が古流を代表して廃止論に賛同を示したので、田邊も意見を引かなくてはならなかった。

ここで非常に興味深いことに、
この廃止論の賛同者が講道館流だけなく古流側の多くが賛同していることだ。
【嘉納の体育論】と【田邊の武術論】が真っ向からぶつかったのだが、
時代の流れとしては大衆への普及(入門者の底辺拡大)という流れに押し切られてしまった事と、
すでに講道館流の影響力が大きくなっていた事を示してもいる。

現実問題として古流側の殆ども嘉納治五郎体育論に組したほうが、流儀を守れる可能性が高かったと考えたのだろう。古流側も田邊外しがあったと見ている。それは、第五回大会の田邊・磯貝戦でも見ることが出来る。

実績を残しているからこそ田邊は嘉納にも正面から意見をいうことが出来た。その得意技の一つを削ることは「田邊つぶし、ひいては古流つぶし」と、田邊が考えても不思議ではない。しかし、決まったことにとやかく言う田邊ではない。「腕の逆、締、抑」で試合の決着を付ける、と心に決めて試合場に立った。

・第五回大会の田邊・磯貝戦
この日も偶然の一致か宮様の観覧となっている。双方が観覧席に最敬礼して、互いが座礼をして試合が始まった。開始早々と田邊は巴投げに入るが、これを磯貝が田邊の左肩付近に右足を出し踏ん張りこらえた。いつもなら足挫に入るがそれは出来ない。しかし、さすがに寝技に長けた田邊は得意技を禁止されてもやはり強かった。磯貝の右足を左肩に担ぐ形にとり、右手で柔道着の裾を掴み、自由になっている両足を巧みに使い磯貝に尻餅をつかせる形で崩しに出た。

一度寝技に持ち込んだら最後、相手の動く箇所を封じ込めるようにジワジワとしかし確実に攻撃を繰り返してゆく。受ける磯貝は体力を消耗し、動きが鈍くなってゆく。単純に力で抑えるのではない、相手が力を最大に出しながら最小の効果しか出ないように抑えてゆく、田邊が永年つちかった技術とカン所だ。

どうしても立つことが出来ない磯貝は完全に消耗し、田邊は留めを刺すだけである。だが、ここで二人の身体が場外に出た。審判の佐村正明が両名を分け、試合場中央に戻るように注意する。双方、正座し柔道着を正し再度試合に移るかと思ったその時、磯貝は道着を直すや宮様に最敬礼をしてサッサと退場してしまった。

この行動を田邊は呆気に取られて見ていると、審判の佐村正明が「双方疲れているので、この勝負「引分」」と宣言してしまった。これには、さすがに田邊も怒り、「自分は疲れていない。勝負がつくまでやらしてください」と、詰め寄るが佐村は取り合わない。

佐村が何故、この勝負を引分の判定を下したのか不明である。

9回表ノーアウト満塁で降雨コールド と話が非常に似ているよね。

確かに田邊はルールにより自分の得意技を封じられたために、いつもより殺気があったと思われるが、現在なら誰が見ても磯貝の試合放棄で田邊の勝ちである。佐村は古流側の出身(竹内三統流)であるが、何故か不可解な判定をしている。


この佐村正明は翌三十三年五月の武徳会本部大会でも、田邊・永岡秀一戦の審判をしている。
この時も「引分」の判定を下している。

前回と違うところは十中八、九腕を極めに掛かっていた田邊を場外ということで中央に戻したため、
今度は田邊が納得いかず退場してしまったのである。

田邊はこの試合放棄ともいえる試合について
「試合中に審判に抗議をしたのは善くないとしていたが、
 二度まで寝技を認めぬヘンパな判定だから、勢いに任せて抗議をした。
 今思えば行き過ぎであった」
と、いっている。

しかし、ここで猶予すべきは
磯貝戦から永岡戦までの一年間で足挫きだけでなく、
胴締め、首の逆といった技が危険ということで廃止され、
立技を主とした判定基準になって寝技の有効性が殆ど無かった
事を記述しなくてはならない。
それでも「講道館流の業師、永岡秀一」を、相当に苦しめていた。

田邊の実力が如何に際立っていたかを物語る。

これ以降、古流は古流の形と講道館流を中心とした武徳会柔術(乱取)を併用する稽古となった。
講道館流だけを稽古する講道館に比べれば必然的に稽古量が減り、
徐々に力に差ができ講道館流が柔術界の主流となっていった。


後年、田邊に講道館側が段位を授けようとしたが、これを断っている。
曰く「自分より弱い者から段位をもらうわけにはいかい」と、いったという。

最後まで古流の柔術家であり続けた武人であった。
(以上、田邊又衛門編、終了)

なるほどねぇ。
西郷四郎すなわち姿三四郎が 何故に過剰なまでの情報流通の遡上へと乗り続けてきたか?
と同時に
なのに 弥生慰霊祭記念柔道剣道試合 が妙に情報流通されないのか?
の先には 田邊又右衛門 が居る訳だ。


補記
ここで少し田邊が使った足挫について検証してみよう。
先に書いた廣岡戦での怪我の箇所を丸山氏は「膝関節」と書いている。
足挫はご存知のように現在のアキレス腱固なので、当然、痛む箇所はアキレス腱であるが、
田邊は巴投げからかける順手の足挫
(一般的には相手の右足を右脇に、左足は左脇に抱えて両足で挟む)であったようだ。
それも外になる足を相手の両足の内側から通し大きく外側にまわすようにする入り方で、
「足緘」に近い入り方であったといえるだろう。

補記2(2007/05/30)
これほど強い田邊又右衛門であったが試合規定以外にも敵がいた。
それは慢心という自分の中の敵であった。これも丸山氏の回顧録から拾ってみよう。

明治三十一年、先輩で大阪堂島で大東流(関口流系)の道場を開いていた半田弥太郎を訪ねた時である。
半田は田邊の来訪を喜び、厚くもてなし、夕刻になり半田自ら道場を案内している。
この時、三十名ほどの門弟が稽古をしていたが、
その中に年齢が三十になるかならないか、ひときわガッシリとした男が目に付いた。

半田は田邊に、
「あれは元、私の道場にいたが今は講道館で修行をしている肝付宗次という男だ。一つ稽古としては」
と進められた。余聞いたことのない名前だと思ったが、試合に背を向ける田邊ではなかった。
だがこの日、田邊は神戸から大阪に慣れぬ船での移動でひどい船酔いにかかっていた。
だったら試合をするなよw

しかし、講道館の柔道家に不敗だった田邊に慢心があった。無名の柔道家とあなどり不用意に組んだところ、どうした拍子か肝付の足技に受身をとりそこね頭から落ち、すぐに立つことができない有様となった。肝付は大兵肥満の強力であったが、この日の敗北は田邊の油断と体調不良が原因だ。それが証拠に、一番驚いたのが、技をかけた肝付本人で、おろおろしながら「誠に失礼しました」といって稽古を止めようとした。

人一倍強情な田邊は、
「イヤ、これしきのこと何でもない。今、一本いこう」
といって、再度組み合った。

田邊が激しく攻め込むも肝付も受け付けない。
攻め倦んだところを肝付の右跳ね越しで又も投げ飛ばされた。
「イヤー『参った』船酔いが取れず、体も疲労しているから、改めてお願いするとしよう」
と、さしもの田邊も稽古を終了した。

その後、三人はテイ座して雑談にふけって分かれた。
無名の柔道家に破れことで、さすがに田邊は自らの慢心を悟り、
その夜は充分に睡眠を取り、翌日時間を見計らって半田道場に赴いた。

道場では半田が端然と座し、肝付が門弟に稽古をつけている。
田邊が稽古着に着替えると肝付がイソイソと前に来て丁寧に礼をして、
「一本、お願いします」
と言ってきた。

田邊も元よりそのつもりだ。互いに礼を交わして立ち上がった。
さすがに昨日の田邊ではなかった。
肝付の右袖口と右襟をとるが早いか、強烈な内股で肝付の巨体を横倒しにして寝技に入った。
肝付はもがいて突き放そうとしたところ、上になって十字締で締落とした。
続く二本目も田邊が寝技で圧倒して今一息のところまで肝付を追い込む。

見ていた半田が小走りに走り寄り、
「モウその程度で止めてはどうか。昨夜は立技で肝付が一本半、今夜は寝技で田邊が一本半、五分五分だ」
と批評をした。

田邊は、体調が普通であれば負けぬことを確認できたのでスッカリ気分が晴れた。
こいつも しょーがねーなーw

肝付が田邊に寝技の教えを乞うと、
田邊も肝付の人柄を認め、肝付のために十日余も半田道場に滞在して寝技のコツを教え込んだ。

この肝付という人物、無名であったが中々の実力者であったらしい。
肝付は、鹿児島県恰良郡三十町村の出身で、講道館へは明治二十一年十二月、二十三歳で入門している。
体が大きく大力であったが、「韋駄天」と異名があるほど走るのが速かった。

明治二十四年には嘉納師範が校長を務める熊本五高へ招かれ同校柔道教師となり、
後に江田島兵学校に転じた。
学歴はみるべきものはなかったが、温厚で熱心な指導から上下の信任も厚かったという。

インターネット環境が整備されていない方や手元に残しておきたい人のために、
上記及び柔術の攻撃部位は「御伽衆」として冊子にまとめることにしました。
発行が決まりましたらお知らせいたします。

文武館主人

いやいやいやいや 非常に面白い話を聞かせて頂きました、本当にありがとうございます。
アーカイブのみに残ってたけど 本当にギリギリだったな。

http://blog.livedoor.jp/snt1091/archives/7841614.html

田辺 又右衛門 の先を生きる。 其の2-2。 柔道歴史 と 不正選挙 と 公安官憲な「日本人と日本」の明治維新の政権 の相関関係。


その後の顛末は まだ分かりきれない。

みやざきの101人 磯貝 一
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/033/033.html
第1回演武大会で岡山の近藤守太郎、群馬の大倉喜一を破り、翌年の武徳祭では戸張滝三郎に勝ち、全国に“磯貝一あり”との勇名をはせた。

1899(同32)年、武徳会柔道教授に任命され、講道館柔道の命運を懸けて不遷流(ふせんりゅう)の達人田辺又右衛門と対戦するなど、その主座を確立していった。
講道館って息を吐くように嘘デマ扇動を吐く詐欺師しか居ないよね。

http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=DhciSz6ZHE8J&p=%E4%B8%8D%E9%81%B7%E6%B5%81%E6%9F%94%E8%A1%93+%E5%8F%88%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&u=amtt.blog.fc2.com%2F
もぐりは嘉納行光ほか『柔道大事典』アテネ 書房P97にも載っている柔道の基本技です。
歴史的には古流まで遡れます。

歴史上の初出は1989年(明治30)武徳会第 五回演武大会。
不遷流田辺又右衛門が磯貝一 を引き込み、
もぐりから尻餅倒しにして足を抱えながら上になっています。





「大日本武徳会柔術形」 
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/99.html
明治39年(1906)、
「大日本武徳会」は当時の名だたる柔術家を京都・大日本武徳会本部に集めました。

目的は、柔術各流派の技を統合した「制定形」を作成することでした。
各流派、それぞれ自流の技を採用してもらおうと、議論は大変白熱し、
武徳殿にロウソクがともされ、1週間にわたって連日夜遅くまで議論が交わされました。

ある柔術家などは、流儀の形を全て演じきったのが元で体調を崩し、
まもなく亡くなったと伝えられます。

不遷流からは、当時「寝技日本一」と言われた田辺又右衛門が出席し、
絞技・固め技は、殆ど全ての技を実演して写真に残しています。

こうして、「大日本武徳会制定柔術形」が制定されました。
この形が、そのまま現在の講道館柔道の形、
(手技・腰技・足技・捨身技・絞技・固め技の形)になっています。

現在、柔道・剣道といった現代武道の形と思われて実施されている形は、
実はそのまま古流の武術家たちが決めた武徳会制定の形だ
ということは興味深い事実です。

なお、「柔道」というのは、流派を超えた「柔術」を意味する言葉でもあり、
戦前、「柔道」の免状には、「武徳会」のものと「講道館」のものがあった
のは、あまり知られていません。

不遷流を継承した田辺又右衛門も、その意味では「柔道」の指導者でもありました。

http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/timg/middle_1247572067.jpg
http://moon.ap.teacup.com/fusenryu-ituwa/timg/middle_1247572093.jpg



武術から武道へ 大日本武徳会の展開
http://mode21.s144.xrea.com/20_/post_1.html
1895年に、平安建都1100年記念の一環として、
華族・政治家(伊藤博文ら)たちによって組織化された大日本武徳会は、
柔道だけでなく、剣道・合気道・弓道等、様々な武道を扱い、
1901年に前警視総監の大浦兼武が副会長になって以来、
「各府県の警察組織を利用して会員を増やし、一九〇一年には会員数百五十万を超え」(同書、104ページ)、1909年には講道館とともに財団法人化した
(この時点での講道館入門者数=総館員数は約1万)。

大日本武徳会は、1905年に武術教員養成所を開設させ、11年には武徳学校と改名、翌12年には武術専門学校に昇格した。ここに、武術全般が武道という呼称で定着した。その意味では、講道館が導入した柔道という呼称は、当時の武徳会副会長を務めていた西久保弘道に好意的に受け止められた。

しかし、それまで、講道館との申し合わせで、武徳会は独自に免許できる柔道段位を3段までに限定されていたため、武徳会幹部として西久保は4段以上の高段位の出すべきだという主張は譲れず、1926年に西久保が東京市長となり武徳会を去るまで、双方の軋轢は多かった。
詐欺詐術ばっかりで 読んでいてイヤになってくる。


不遷流柔術の田辺又右衛門は講道館の大阪支部開場に際し、道場破りを行なっていた。
嘉納以外の全ての柔道家を薙ぎ倒したとされる。

いくら何でも 何十人かに居た全員を倒す って どんだけの事が有ったんだろうね。
田辺又右衛門の物語のクライマックスは此処にあるね。

しかし、嘉納は武術や柔術をそのように利用することは間違っていると指摘し、
田辺との乱取りを拒否した。

嘉納は相当にビビってただろうね、間違いなく怯えていた姿が眼に浮かぶ。
田辺又右衛門は黒幕の正体が分かっていただろうからね。
其の姿を見て田辺又右衛門が何を思ったか?
分からない者は永遠に何も分からないまま幸せに生きていけるだろう。

そして あえて書こうと思う。
【田辺又右衛門は なぜ嘉納治五郎を殺さなかったのか】
とね。

ここに、両者の置かれた立場の相違、
すなわち、制度化される柔道と制度化されない柔術との違いが明らかに見て取れる。
美意識や価値観や生き方の違う異民族異宗教な同士は 棲み分けをするしかない。
そのように 見たくも無い現実が分かる者 は 古今東西を問わずに人間社会の少数ではあるのだが。

その後、田辺は、神戸の諏訪山御殿に設置されていた大日本武徳会兵庫県支部で教鞭を取ることとなった。


柔術界を乗っ取った講道館が 武道界の全体を支配する目的の為だけに設立した「大日本武徳会」は
政府・警察の後援が極めて大きかった、
それ故に終戦直後の1946年に解散して逃げ出している。

結果的に講道館は生き残る事になって
詐欺詐術をウツクシイとする一神教で野蛮人な「日本人と日本」というカルト集団の遺伝子は
今の21世紀も悪魔鬼畜死神となって人々を大量虐殺と民族浄化と掠奪と陵辱の標的としている。


田辺又右衛門は その後どうなったのだろう?

http://www.ejudo.info/history/
1895 明治28年 大日本武徳会創設される。五教の技が制定される。
1899 明治32年 武徳会柔術試合審判規定が制定される。
1900 明治33年 講道館柔道乱捕試合審判規定が定められる。

1902 明治35年 山下義韶渡米(~1907)する。渡米中、ルーズベルト大統領に柔道を教授する。

おそらく講道館の大阪支部における道場破りは 此の辺りの時期だろう。
その事に関する講道館側の資料は全くに見当たらない ウツクシイねぇ。

1907 明治40年 下富坂町に207畳の大道場が完成。旧道場は大塚坂下町に移築され開運坂道場となる。この年、剣道・柔道が中等学校の正科となる。大日本武徳会が投の形・固の形を制定する。

1909 明治42年 講道館が財団法人になる。本部は大塚坂下町の嘉納邸、下富坂道場が講道館第一道場、開運坂道場が講道館第二道場となる。嘉納治五郎がアジアで初めて国際オリンピック委員となる。

1911 明治44年 嘉納治五郎、日本体育協会を設立し初代会長に就任する。


http://blog.livedoor.jp/shimizupg/archives/51992552.html
田辺又右衛門というのは、後に武専(武道専門学校)の師範になっているのですが。

実は、ウチの地区の柔道のパイオニアで、
僕の母校の柔道部の創設者の故・鈴木輝雄先生は部専の出身です。

これもまた時系列を考えると(田辺又右衛門は昭和22年没)、
鈴木先生も田辺又右衛門の指導を直接に受けたこともあるのではないかと思うのですよ。
僕の母校の関高校というのは、
かつては鈴木先生の指導下で「寝技の関高」と言われ、全国的に有名だったわけですが。

僕の得意技の
「ループ・チョーク」ttps://www.youtube.com/watch?v=5LMupsy32zE
というのも、
実は母校に古~くから伝わる技で、おそらく武専由来だと思うのですよ(自分で改良してますが)。

すごく、歴史やら因縁やらを感じるのです。

此処にしか見つからない。
よほど 歴史から抹殺したい不思議なカルト集団の嫉妬や憎悪や欲望が渦巻いている んだろうね。
そういうのが ウツクシイ の正体なんだが。



武道の「裏歴史」を読み解け!講道館は官の力で柔術を乗っ取ったのか?(柳澤健)
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090114
kamipro増刊で何やら異様に面白かったのが
「1976年のアントニオ猪木」の著者として知られる柳澤健が、
柔道・石井慧の格闘技転向に関して話したインタビューだった。

柳澤氏が同じく柔道金メダリストのウィリアム・ルスカを同書で取材し、魅力的な一章を書いている
というのが取材の理由だそうだが、
それとは別に、柳澤氏は独自に明治から昭和にいたる柔道史を調べていたのだった。

あまりに取材に費用と時間をかけるタイプなので、
「1976~」以降は単行本を出していない同氏だが、
編集者がこの記事を読めば次の書き下ろしは決まったというか。
聞き手は堀江ガンツ氏。やはり彼の、面白いインタビュー記事をつくる才能は突出しているわ。

柳澤氏は言う。
 (武士が滅びて職が無くなった時)柔術家はやっぱり見世物を始めるの。
 だけど、嘉納治五郎が始めた講道館っていうところは
 「あんな見世物にしちゃいけない」
 って最初からプロ否定で始まっている。
 プロを否定して、じゃあどうやって食べてくかっていうと、柔道教師として食っていくわけですね

(略)。

 戦前の柔道って言うのは二つあったの。
 教育界の大御所にのし上がっていく嘉納治五郎が、
 柔術という打ち捨てられたものに手を出して教育的な講道館柔道を作ることになるんだけど、
 当時の嘉納治五郎の周りには落ちぶれた柔術家がいっぱいいたわけよ。
 そうするとどうなるか。長いものには巻かれろと
 「講道館の人に、なんとかウチの道場を継いでもらえないか」
 っていう柔術家が出てくる。

 でも一方では「ふざけんじゃねえ、俺は講道館に挑戦する」ってヤツもいるわけよ。
 その代表が不遷流柔術の田辺又右衛門って人で。

(略)

 それで闘うことになるんだけど、やっぱり講道館柔道の連中は寝技でかなわない。
 要は柔術家と柔道家がサブミッション・レスリングをやるみたいなもんだから
 いくらやっても柔術家が勝つわけ。

 だけど講道館の歴史には そんなことは書いていない。

そして柳澤氏は続ける、
「講道館のオフィシャル・ストーリーは要は『姿三四郎』で、空手バカ一代と同じようなもの」
「田辺又右衛門は大正天皇(当時皇太子)の前で、講道館の選手から足関節でグキッと折って勝利した」
「田辺又右衛門に負け続けたは、
 敗因となってしまって講道館に都合が悪い 足がらみ 膝十字 三角絞め などを次々に禁止した」
「もともと寝技は西日本のもの。木村政彦も山下泰裕も九州から出た」
「熊本の柔道は『参った』が無い。落とされるだけだ(慧舟會の故守山竜介さんの言葉だという)」
など、幻想あふれる言葉をばんばん語っている。
もちろん柳澤氏も分かった上での言葉であるのだろうが。

柔道が教育効果や安全性を考えて、投げ重視にしたこ事は確かに必然性があった、
「柔道は異なる流派が闘える、K-1ならぬJ-1だった」(松原隆一郎)
「型ではなく乱取りという画期的なシステムをつくった」(堀辺正史)
という部分もある。

ただ、嘉納氏が
 教育の場に発言力を持つことで
 「柔道を教えて食う」という”仕官”の道を一手に握り、
 制覇していった
…というところに着目するとですね、
この前に夢枕獏氏が書き上げた「東天の獅子」とは全く別の裏ストーリーができるのではないかと。

つまり、
 卑劣にも官の世界での地位を利用し、
 武の実力ではなく絡め手から、柔の世界を支配しようとする悪の講道館。
 それに徒手空拳、武の力だけで単身立ち向かう正義の柔術家!!
というようなストーリー。
いや、実際がどうこうではなくそういう見方で物語を作れるんじゃないかとね。

よく柳生家がそういう扱いされるでしょう。
柳生の本流は、将軍家に取り入って大きくなったセコい存在で、
それに対比して宮本武蔵や、本家から離れた柳生十兵衛こそ真の武道家
・・・というストーリー。
あれを明治の柔道世界に移してもいいんじゃないかと。

katsuya 2009/01/14 22:29
田辺又右衛門といえばスモールタニこと谷幸雄の師匠だったとの話もありますね。
ただ柔術/柔道と官権力の関係というと学校もさることながら警察が重要ではないでしょうか。
講道館が一般人の通う学校教育に、
剣術と比べてマイナーな武道である柔道を課目として取り入れさせる以前に、
明治中頃までの時期というのは 警察・軍関係の武術師範というのが仕官の道 だったように思います。

武徳会と、それが母体の武専の風景(村上もとか「龍」1巻より)

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田辺又右衛門の話
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090115
昨日の話の中で出てきた「田辺又右衛門」を検索してみました。→"田辺又右衛門"
現在、140件だからあまりたくさん資料があるとはいえませんね。
昨日一回出ただけなのに、うちのブログも上位に入っている。
その中で、楽しかったもの。

 http://www.mable.ne.jp/~sin/page060.html
 ・・・又右衛門は不遷流四世の家元である。不遷流の始祖”物外”大和尚は、
 托鉢(たくはつ)用のお椀二つをもって、
 真剣の新撰組隊長近藤勇を押さえて「参った」をいわせた”拳骨和尚”で知られる。
なんだなんだ(笑)。

 http://mode21.s144.xrea.com/20_/post_1.html
 ・・・不遷流柔術の田辺又右衛門についても特筆すべき事柄がある。
 田辺は講道館の大阪支部開場に際し、道場破りを行なっており、
 嘉納以外の柔道家をなぎ倒したとされる。
 しかし、嘉納は武術や柔術をそのように利用することは間違っていると指摘し、
 田辺との乱取りを拒否した。
 ここに、両者の置かれた立場の相違、すなわち、制度化される柔道と制度化されない柔術との違い
 が明らかに見て取れる。
 その後、田辺は、神戸の諏訪山御殿に設置されていた大日本武徳会兵庫県支部で
 教鞭を取ることとなった。
おお、柳生=嘉納治五郎説がさらに説得力が出てきた。
地元の一般の人からの聞き書きなんて、貴重なものもある。

 http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/konishibunko/budou/kendou/kikigaki_08.html
 昔のひとは、柔道もやれば剣道もやる、剣道もやれば水泳もやる……といったふうで、
 武芸十八般とはいかないまでも、いろいろとたしなみがあったのでしょうね。
 先だってはお話しするのを忘れておりましたが、業茂の時代、田辺又右衛門という柔道の先生か
 修武館の師範をなさっておられました。有名なかたです。
 たまたま「明治三拾四年一月四日修武館初會式」という案内状が出てまいりましたので
 それを眺めておりましたら、
 柔術の田辺又右衛門先生が撃剣試合に、撃剣の富山可誠先生が柔術乱取りに、
 それぞれ両方に出場なさっています。
 柔道家だから柔道だけ、剣道家だから剣道だけというのではないのですね、古い先生がたは。


オリンピック観戦を整理する  2012年10月15日
http://yell-systems.com/wp/?p=92
もう半世紀も前。わたしは田舎の県立高校の柔道部員だった。パンパンで痛いキャンバス畳の道場で、汗臭すぎる胴長短足のみなさん、股間を一日中かきつづけるみなさんと、何ヶ月も洗わない柔道着からの悪臭を撒き散らしながら、それでも熱心に稽古をしていた。締め落とされる前の苦しさと、締め落とされた後の天国のような脳内風景は、今でも身体に覚えている。なにか、立ち技より寝技が盛んだったような気がする。すぐに寝技にもちこみ、首を絞めるのである。投げは、寝技に持ち込むアプローチの一つ、その前段階扱いだったような気がする。

わたしは、屁理屈家だった。また読書好きの研究好き。とうぜんに、柔道の図書をあつめ、部内随一というより唯一の柔道史の保持者だった。今考えると、わが教師は、講道館系ではなく、高専系だったのだろうか。つまり柔術系である。汗臭い彼らの何人かは県警にはいった。

半世紀前の柔道部員のわたしには、まだ中学一年の次男がいる。入学すると柔道部に入った。グレーシー柔術の本を買い、コマンドサンボの本を買い、総合格闘技その他、買い集めている。実際の練習よりも、本での技の研究、脳内無敵の世界に熱心である。どこかであった風景だと苦笑するしかない。
一応、先輩として「投げ技三年、寝技三ヶ月」だ、寝技を徹底的にやれ、などとアドバイスする。だが、彼の中学・高校は、おそらく講道館スタイルではないだろうか。それでは強くなれないのだが。講道館柔道は、あれは芸者の手踊りのようなものだ。武術ではないのである。
もともと柔術には、投げ一本も、押さえ込みも存在しない。関節技と絞め技を使い、相手を戦闘不能に追い込むことで勝負を決するのだ。

ロンドン・オリンピックである。柔道だけは、寝ずに、かかさず観た。女子の積極果敢なプレーと比較して、男子の惨状は、どうしようもない。ポイント稼ぎの、相手の減点待ちの逃げの柔道をしている。新聞で、東京都知事が、相手が卑怯だから、綺麗な日本の柔道が勝てないなどと言っている。何事につけ、つくづく物を知らない人だ。華麗な一本でメダルをねらうはずの穴井は、じつに簡単に負けた。

柔道の起源は、武者の組討から発生したと今は言われるが、それは違うだろう。それは相撲になった。織田信長も相撲大会を催し、参加者を雇用している、というより兵員の雇用のために、相撲大会を催している。

柔道というより柔術の起源は、江戸時代の認識では、それは「明」からの亡命者、陳元贇から発したと認識されていた筈だ。家光の時代に、満州勢の「清」により漢族の「明」は滅亡し、おおくの国外亡命者を出す。高校の頃に読んだ本でも、一般には日本の柔術は江戸時代初期、明から陳元贇なる人物が渡来し、三人の浪人に教えたのが始まりとされていたと思う。陳元贇が江戸麻布国正寺に仮遇していたおり、磯貝次郎左衛門、福野七郎右衛門、三浦与次右衛門の三名の浪人に人を捕うる術を教え、これに三浪人たちが工夫を加えて作りだしたのが柔術であるとされた。福野の良移心当流、三浦の揚心流などである。その流れで起倒流が生まれ、この起倒流を学んだ嘉納治五郎が講道館を創設するという流れだ。

毛沢東の「体育の研究」という書名だったかにも、陳元贇が我が中国の雑技をあつめて、日本で柔術を創設したとかの記述があった。空手と中国拳法を比較して、空手は我が中国拳法の円熟には及ばないが、その剛強さは見るべきものがあると書いていたような記憶があるが。

ともかく、それまでの陳元贇説に対して、最初に反論を試みたのは、嘉納治五郎である。嘉納はT.リンゼイと共著で英文で「柔術・伝統あるサムライの武器なき格闘術」という論文を著し、明治二十一年に発表。陳元贇が柔術を日本にもたらしたことを否定し、柔術の起源を中国にもとめるのは「わが国の恥辱である」と言っている。

こうして陳元贇説はタブーになり、以後の柔術起源論は、この方向のエビデンスを集めることが中心となる。なにやら、尖閣列島問題のようだ。

柔道はハイパーキチガイカルト集団の道具でしかない事の証左の一つだね。

たとえば、この陳元贇の時代より古くに、竹内流という柔術が既にあったと言う。ゆえに柔術は日本古来であると。うむむと、思う。二十歳の頃に、東京田町に空手の神道自然流小西道場があり、すこしだけ通った。小西老先生は竹内流から空手に入ったが、それを竹内流小具足捕りまわりの術と呼んでいたと記憶する。鎧を着装し短刀をもっての組打ちの技の筈である。平家物語や源平盛衰記に見られるように、鎧組打ちの技は、戦場で必須であり、竹内流は、それであると思う。それは、いわゆる柔術ではないと思う。まあ、どうでもいいことだが。

柔術 と 武術 に明確な差異は無い、んだから それで良いんじゃないかとw

そういえば、小西老先生は、ふつう空手用語では、左前足で左拳で突くのを順突きと言い、右拳で突くのを逆突きと言う。それは違うと。人間は歩くときに、左前足なら、出る腕は右腕だ。ゆえに、左前足で左拳で突くのを逆突きと言い、右拳で突くのを順突きと言うべきだと、無知蒙昧な空手界を悲憤しておられたが、一体、何が言いたかったのだろう。アメリカのブラックベルト誌の記者に対しても、「カラテ・イズ・ゼン」と言い切って、困らせたのか、感動させたのか、よくわからないが。

そういえば、当時の知人に柳生心眼流を学んだといういかれ奴が居たなあ。あれも鎧組打ちの術だ。組み伏せて、鎧通しを刺し込むのである。愛国党員系で、パックス・エイシアが言えずに、パン・アメリカン、パン・アメリカンと言っていたが。国粋主義者がパックス・アメリカーナじゃ、あかんだろうが。これも、どうでもいいことだが。

シンベイホシュな宗主国サマ と 日本人と日本 という一神教で野蛮人なカルトの派閥の差異 なんかは
多神教で文明人の俺達からすれば 本質的にドーデモイイでしかないよね。

ともかく、最古の流派とされる竹内流では、小具足を着装し脇差を使うのである。柔術の起源はともかく、江戸中期になると柔術という呼び名が一般化し、数百の流派ができる。

明治になると、武士階級が消滅し、教育産業として成り立たなくなる。彼らは失業する。ところが学習院教授である嘉納治五郎が、あらわれる。嘉納は、やがて一高校長となり、文部省参事官になり、教育界の大ボスに出世しはじめる。起倒流を学んで「講道館柔道」を創り出しただ嘉納にとって、良家の子弟のための体育である「柔道」では、首を絞めたり、関節を折ったりする寝技は、教育的とは言えない。イギリスのパブリックスクールがボクシングとフェンシングを教えるように、エリート教育の一環である。教育ビジネス上のリスクは排除せねばならない。足技、立ち技を中心とすることで、見た目も美しく、勝敗もわかり安くした。柔術を学校体育に作り変えたのである。押さえつけて絞め殺す殺人術を、マットの上のフェンシングに変えたのである。
という口実で 実態は見てきたように
 単なる反対勢力への攻撃 反対勢力の武装集団への弾圧
なので本質は カルトの魔女狩り と全く変わらないよね。

日清戦争以後、武術に対する社会的要請が高まり、高校・大学で柔剣道の対抗戦がさかんに行われるようになる。教育界のボスである嘉納は、弟子たちを学校体育教師として各学校に送り込む。古流を学んでも町道場主か接骨業。なかなか食べれない。講道館に属せば、学校柔道教師として食べていける。柔術家は柔術を捨てて、安定した収入と社会的地位の得られる大企業、講道館に属そうとする。長いものには、巻かれなくてはならない。
違う それは多神教で文明人の美意識で価値観で生き方であり
アレなカルト連中な異民族が詐欺詐術を行なっている というだけの話でしかない。

だが、古流柔術家の流れ込んだ柔道は、三つの系統に分かれる。東の講道館に対して、西の武徳会、高専柔道である。同じ柔道と称しても、西は柔術色が濃く、ずいぶんと違う。明治の当時の最強は、岡山出身の警視庁教師、不遷流の田辺又衛門だとされる。講道館は一勝もできず、田辺との試合を逃げ回る。明治の皇太子の前での試合で、田辺は講道館の選手を瞬間に足がらみで決める。講道館選手は、悲鳴をあげて降参し、立つこともできない。つぎの武術家の会合で、嘉納は足がらみは危険な技であるとして、以後禁止にする。柔術家たちは嘉納に逆らえない。関節技は、腕に対してだけとなる。

だが、高校・大学の対抗戦でも、西の柔術系柔道が、東の講道館柔道を圧倒する。岡山の六高柔道部は、三角絞めを開発する。下から両足をつかい、相手の片腕と首を同時に締める。六高柔道部は快進撃する。嘉納は、これを惧れ、審判規定を改定し、寝技への引き込みを禁止する。これに対して京大柔道部は反発し、拒否する。しかし、嘉納は審判規定を三度改定し、三角絞めを禁止する。これにより、講道館の寝技軽視はさらにひどくなるが、武徳会や高専柔道での寝技の研究は、さらに深まる。

力道山とガチンコを行った木村政彦は、この高専柔道の流れだ。ブラジルにわたりグレイシーの父親と戦ったときは、寝技に引き込み、その腕をへし折っている。

しかし、戦後になるとGHQにより武徳会は廃止。関係者は公職追放される。
学制改革により、高等学校、専門学校が中心となっていた高専柔道は、解体される。
残ったのは、講道館だけだった。

武徳会、高専柔道がなくなり、講道館は棚ぼた式に
またしても柔道界を独占することになる。

そして段位認定と昇段料を独占するビジネスモデルを確立する。これで、日本には、寝技の王国でもあった高専柔道も、立ち技と寝技の高度な両立をめざした武徳会の柔道も存在しなくなった。残るのは、立ち技に特化した講道館柔道だけになった。

しかし東京オリンピック以後、外国人選手が、講道館が独占していた世界に参入する。ただちに立ち技対策が研究される。旧ソ連の柔道家は、レスリングやサンボの技術を導入。欧米選手も、レスリングフリースタイルの片足、両足タックル、グレコローマンの胴タックルを導入。ブラジルは、柔術スタイルの寝技で日本の講道館柔道に対抗した。ブラジリアン柔術は、あれは戦前の高専柔道そのものと言われる。

高校の時に買った柔道の本では、立ち技が三分の一、寝技が三分の一、当身技が三分の一だった。当身は、ただ二つの技が中心。眼突きと金的蹴りである。目玉と金的を潰すのである。まあ、これが基本中の基本だ。実際的にも、その二つで十分。あとは覚える必要はない。そして短刀への対処法も記載されていたと思う。つまり、著者は講道館ではなく、戦前からの柔術系の人だったのだろう。

戦争を行う前には、「戦史」を学ばなくてはならない。あたり前である。戦前、講道館柔道は、武徳会柔道、高専柔道に、まったく歯が立たななかった。そして今、日本の柔道は講道館柔道のままである。だが諸外国の柔道は、じつは講道館柔道がまったく歯が立たなかった高専柔道、武徳会柔道をしている。とすれば、負けて当然である。そう「戦史」は教えている。すると、日本柔道は、どの道を進むべきか。答えは、おのずから明らかである。まず、高専柔道か、武徳会柔道にもどる。それから新しいナレッジを開発するのである。

ロンドン・オリンピックにもどれば、なによりも指導陣がよくない。監督の篠原はひどすぎる。身体は大きいが、脳内容量はかなり少ないと思う。あの井上がコーチになっていたのか。高校生の井上の試合をテレビでみて、この子は絶対のびると思っていたが、メダリストになって、コーチになったのか。大学教師か。しかし、彼もコーチにはむかない。みな頭突き合戦では強そうだ。まるで相撲界と同じだ。関取が親方になるのだ。篠原は、この結果を選手の不甲斐無さのせいにして人格攻撃をしていたが、じつに人の師たりえない男である。このメンバーで敗戦処理し、反省会もなく、同じメンバーで次のオリンピックであるから、4年後の予想は、もう必要はないだろう。

かっての柔道メダリストの女性が週刊誌で言っていたが、いっそ、コーチ全員を外国人にしたらどうかと。ロシアはイタリア人コーチにまかせて、その指導を受けたことで強豪として復活し、今回オリンピックで素晴らしい成績をあげた。日本も、そうすべきだと。正論であるが、国内的には大胆な発言であろう。でも、正論であり、そのとおりである。また、今の指導陣の脳内、つまり立ち技・一本主義は、もう通用しない。戦後の講道館柔道、学校柔道、芸者の手踊りから、戦前の格闘柔道に、頭をギアチェンジすべきなのだ。柔術にである。

第一に、既存の立ち技一本至上の柔道イメージは、本来、風変わりなものであったことを確認すべきだ。それは講道館の営業、対象とする顧客第一主義から発した奇形なルール改定からものであることを理解し、格闘柔道、つまり戦前の武徳会、高専柔道を復活させること。
第二に、コーチはお雇い外国人にすること。組織と風土と頭の切り替え刷新には、人事が一番。人を変えるのが一番なのである。つまりパラダイム・チェンジというほどのことはないが、第一と第二により、講道館柔道の頭から、マットでの格闘技の本来の形、より柔術に近い形にもどすこと。こんな感じであろう。レスリングと違い、柔道には、グレコローマンとフリーの二つの切り分けはない。立ち技と寝技の総合なのだ。これが次のオリンピックでの日本柔道復活の道であろう。日本柔道のイノベーションだな。まあ、こんなものだろう。誰でも、中学一年生でもできる柔道から、プロしかできない柔術への転換である。じつにオリンピック選手は実質プロなのであるから。中学一年生と同じ技を、技数を、大人のプロの選手が使い、それで善しとは、甘すぎる了見である。

もちろん、今の監督、コーチ陣がそのまま次のオリンピックを担うのであり、ある話ではないことは承知しているが。今回以上の大敗であろう。

だが整理してすっとした。司馬遷の発奮著書の説ではないが、どんな文章でも、書くことの効用がここに在る。自分一人が読者で良い。ロンドン・オリンピック観戦の積み残し感から解放された気分だ。



拳骨和尚拾遺
http://www.mable.ne.jp/~sin/page067.html
中山英三郎(旭水) 岡山県矢掛町、著者・中山英三郎氏(故人、昭和46年死去)の実父田辺虎次郎は物外和尚の創始した柔術不遷流の第三世を継ぎ、物外和尚の臨終に立ち会い、その十年を随侍した直弟子であった。英三郎氏は幼少から和尚の人となりを父から聞かされて育ち、稀代の傑僧である和尚の真骨頂が忘れ去られては惜しいと、不遷流の継承と伝記資料の研究に多年を過ごした人で、地元の「矢掛新聞」に”拳骨和尚の逸話”と題して昭和41年から44年までの約百回近く連載、物外和尚の日常のありさまを詳細に紹介した。本稿は、その中山氏の原稿の一部を抜粋した。


不遷流の話(武田物外和尚のお話)
http://ameblo.jp/888yuji/entry-11855373449.html
私の家系というのは「武田信玄公」からの流れで「武田物外」という柔術不遷流の家元として家督を継いでいます。武田物外は信玄公から九世を継、この物外から私の父が六世、兄が八世を継いでいます。この私は九世ということになります。武田の家督の後継者ということになります。大した力はありません。技術も洗練されているかというと、それもあまり勝れているとは思いません。ただ家系を辿っていくと、清和天皇にまで家系図が書かれていることは確かなことです。この家系図は私たちの家宝です。この物外和尚が残した秘伝書(巻物)には沢山の技とかその技法、また、もっと根源的なものを書き記しています。

信玄公も戦(いくさ)で沢山のひとを殺め、その者の菩提を弔うために得度されました。武田不動明様は有名です。上杉謙信は毘沙門天様を信仰されていました。ともに神仏を崇め、崇拝していました。だから本当は仲が良かったと考えています。そして、勝負がつかなかったわけです。

この秘伝書は普通の思考とか、学問的な知識では解読は出来ないでしょう。密教が絡んでいます。そして、口伝(くでん)で、この秘伝は守られ、今に至っています。私は天台寺門宗の得度を受け、遮那号を伝法されました。ありがたいことだと思っています。一生の家宝ですね。こういう中で、解読解明されないと、物外禅師の言う秘伝柔術は難しいと思っています。ここまで、高い境地に達した物外は達人だと感じています。高い柔術師となると、「気」の流れ、などを自由自在に操作できる。いわゆるコントロールできる力を修得しています。無駄な争いはしない。ということになります。技で投げる行為はテクニックでもあり、それに伴う思考とかその裏で動く理論、哲学が存在しています。このエネルギー力学論の収得が必要視されます。

技には技術と、その裏に思考、意志が働かないと技は力として発揮できません。この裏表の関係を把握するために、武士たちはあらゆる武者修行を試みました。かなり「行」重ねています。人を斬ることで、その怨念は毎夜ように押しかけ、鎮魂に一生かかる武士もいたでしょう。物外禅師は争い事をしたくないけれど、逃げる事はしないという、そして正面から立ち向かう強さがありました。これは正しいですね。まずは少しずつ現代に合うようなお話が出来ればいと思っています。誰も見向きもしなくても、それでいいのです。淡々と私の義務を果たしたいと願っています。噛み砕いて、やっとお話できるかもしれません。書き込んでいきます。

http://secret.ameba.jp/888yuji/amemberentry-11757928006.html


またしても記事が長くなったので 続きは別に。

http://blog.livedoor.jp/snt1091/archives/7841557.html

田辺 又右衛門 の先を生きる。 其の3-1。 中井祐樹や木村政彦や旭山動物園は。


VTJ前夜の中井祐樹 『ゴング格闘技』2009年6月号掲載
http://hujudo.sakura.ne.jp/vtj.html

平成元年4月、18歳の中井祐樹が北大柔道場に見学にやってきた。
6年後、その青年はある決意とともに日本の総合格闘技界の歴史を変えることになる。
「いつか中井の特集が組まれるときに、これを使ってください」
編集部に託されていた秘蔵原稿がついに日の目を見る時がきた。
そこには、われわれが知らない中井祐樹の姿がある。
バーリ・トゥード・ジャパン・オープン95。
一夜の栄光と悲劇が交錯したあの試合の陰にあった、もうひとつのドラマとは………。

平成7年(1995)4月21日昼。
私は東京都内の曹洞宗の禅寺で吉田寛裕の一周忌に出ていた。
そう、あの伝説のバーリ・トゥード・ジャパン・オープン95を日本武道館で観戦した翌日のことである。

中井祐樹も当然来ているだろうと思ったが姿がなかった。
いま思えば、朝起きて右目が見えないことに気づき、病院へ行って失明を告げられ、愕然としているときだったのだ。

一周忌には岩井眞監督やコーチ陣のほか、札幌、大阪、福岡など、全国から北大柔道部の若いOBが何十人も集まっており、試合を観戦した私たちは質問攻めにあった。
「ゴルドー戦はどんな感じだった?」
「中井はどうやって戦ったんだ?」
「ヒクソンはそんなに強いのか?」
読経のなかで話す私たちを、坊さんは苦々しく背中で聞いていたにちがいない。だが、私は吉田寛裕もきっと試合の詳細を聞きたがっているだろうと思って丁寧に話した。

ほかのOBも同じ思いだったに違いない。
はじめのうちこそ遠慮して小声で話していたが、そのうち盛り上がって読経の声より賑やかになってしまった。

この試合を最も観たかったのは吉田だろうし、中井がこの試合を最も見せたかったのも吉田だと思う。
だからそんな吉田に私は聞かせてやりたかった。中井の勇気ある戦いを。中井はほんとうに頑張ったんだよ……。
あの日、中井祐樹は2人の魂を背負ってリングに上がっていた。

http://hujudo.sakura.ne.jp/VTJ/1.jpg
七帝戦決勝後、涙で健闘を讃え合う九大主将の甲斐泰輔(左)と中井祐樹(中央)。その2人の背中を叩いて声をかける北大主将の吉田寛裕(右)。甲斐も吉田も中井のVTJ95の勇姿を見る前に20代前半の若さで夭折した。

中井は、四年目の最後の七帝戦を終えると、すぐに北大を中退してプロシューティング(後のプロ修斗)に進んだ。平成4年の夏のことだ。その3年後にこのバーリ・トゥード・ジャパン・オープン95に出場したわけだが、この3年間に2人の大切な男を亡くしている。

ライバルの甲斐泰輔(九大主将)と親友の吉田寛裕(北大主将)である。 副主将だった中井は、彼らとともに七帝柔道最盛期の一時代を担った。

九大の甲斐泰輔はとてつもなく強い男だった。寝技にかけては、おそらく当時の日本の重量級で最も巧い選手だっただろう。

110キロの体で軽量級の寝技をやったのだからだれも止められなかった。15人目の大将にチームで最も弱い置き大将を置く。そして甲斐は副将に坐り、相手校が5人残っていようが6人残っていようがすべて抜き去ってしまう、まさに怪物であった。彼を確実に1人で止めることができるのは七大学でただ1人、中井祐樹だけだった。

戦前の高専柔道も、早川勝、野上智賀雄、木村政彦、木村光郎ら名選手をたくさん輩出しているが、戦後の七帝柔道で最も強かった選手は間違いなく甲斐である。長い間、京大柔道部を指導し、『国立七大学柔道戦史』の大著もある丹羽権平氏(京大学士柔道会会長)も「史上最強は甲斐君だ」と断言する。

一方の吉田寛裕は、小柄だが闘志の塊のような男で、寝技の緻密さでは中井の後塵を拝したが、投げ技も合わせた総合力という点では上だった。しかし、柔道衣を脱げば、豪放な笑顔を見せる魅力的な男だった。

入学当初は寝技中心の部の方針に反発していたが、先輩たちが七帝戦のたびに見せる涙に感化され、主将に就くころには北大柔道部精神の権化のような男に育っていた。

吉田が亡くなったとき、私は数日遅れて自宅を訪ね線香をあげさせてもらったが、そのとき吉田の母親に「寛裕を北大柔道部に取られたような気がします……」と言われて胸が痛んだのを覚えている。それほど彼は北大柔道部にのめりこんでいた。


私は、この中井や吉田、甲斐たちの3期上にあたる。つまり彼らが一年目の時の四年目だ。当時は京都大学が連勝街道を驀進中だった。一方の北大は、実に5年連続最下位という最悪の状況に陥っていた。

必死の長期強化がやっと実り、私たちの代が3位、次の代も3位、そして中井たちが三年目のときに準決勝で10連覇中の京大をついに破った。しかし、決勝戦には怪物甲斐を擁する九大が待っていた。

大将決戦でも勝負は決まらず、代表戦になった。

九大はもちろん甲斐を出してくる。北大は本戦2人目で甲斐を止めた128キロの巨漢、四年目副主将の後藤康友を出した。後藤は立っては不利なので引き込んで下から脚を効かせるが、すぐに甲斐に脚を一本越えられた。甲斐は二重絡みで守る後藤をそのままの姿勢から袖車に変化して絞め落とした。

平成4年、最上級生になった中井や吉田たちは打倒甲斐を合い言葉に1年間対策を練り、大阪での七帝戦1回戦で九大と激突、作戦どおり中井が甲斐を止めて1人残しで辛勝。敗者復活を勝ち上がってきた九大と決勝で再び相まみえ、これを破って12年ぶりに優勝旗を奪還した。

甲斐は北大への雪辱のために5年生の七帝戦にかけて猛練習を続けていたが、急性膵臓炎で22歳の短い命を閉じた。吉田もその後を追うように24歳で逝く。

若き情熱が七帝戦の舞台でぶつかり、そしてはじけ散った……。


私は創部100周年を記念して出された『北海道大学柔道部史』の編集委員をつとめたので、中井の寄稿も原稿の段階で自宅で読ませてもらった。
それを読みながら、私はあふれる涙を抑えることができなかった。
そこには吉田寛裕との想い出が中井らしい優しく淡々とした筆致で書かれていたからだ。

《今1991年春頃の事を思い出しています。或いは初夏のことだったでしょうか。
 その日僕は同期の吉田寛裕と珍しく練習後ふたりきりで(最初で最後か)銭湯に来ていました
 (僕は何故か実は誰かとふたりで行動する事が極端に少ないのです)。
 当時三年目の僕はいらいらしていました。
 西岡さんを始め四年目の先輩方も辛そうに見えました。
 かつて全国一に輝いた伝統ある部(増田注=昭和九年の高専大会優勝のこと)を引き継いでいるんだ
 という誇り。しかしそれを望んでも叶えられない現実と力不足。全てが遠く感じられていました。
 湯船に浸かりながら僕らはどうしていくべきかを延々と語りました。
 吉田は少しばかり驚いているようでした。
 僕はあまり現状を悲観しない人間だと思われていたのかも知れません。
 いや、悲観じゃなくただ泣きつきたかったのでしょう。
 四年目の七大戦迄はこの部に賭けようと考えていた僕を
 吉田は実にポジティヴに受け止めてくれました。
 そしてスッキリした僕はそれっきりネガティヴな想いを消しました。
 結果この年は限りなく優勝に近い準優勝。西岡さんの背負い投げは今も瞼に焼き付いたままです。
 秋には吉田の援護射撃のつもりで出た個人戦でまさかの正力杯への切符を掴む事となります。
 翌年我々は優勝カップを奪回する事に成功しました。そして僕は北大を離れました。

 あれから15年以上の時が流れましたが僕は未だ問い続けています。
 立技、寝技。
 武道か、スポーツか。
 生きる事、死ぬ事。

 闘う事の面白さそして闘う意味を世に問う事は僕のライフワークとなりました。
 今も北大時代は僕の中ではずっと変わらぬいい思い出です》
(『部創立百周年記念北海道大学柔道部史』)

文中に《四年目の七大戦迄はこの部に賭けようと考えていた僕は……》とあるように、
おそらく中井は三年目のこのとき、すでにシューティングに行くことを決心していたのだろう。

      *    *    *

私が中井と初めて会ったのは、平成元年(1989)の4月はじめのことである。
四年目で副主将だった私は、いかにして5年連続最下位から脱出するかと、同期の連中と一緒にもがき苦しんでいた。

当時の北大には、かつて重量級のインターハイ選手をずらりと揃えてつねに七帝戦の優勝候補の一角に挙げられ、講道館ルールの優勝大会(学生日本一を決める七人制の大会)でも全国トップクラスの大学と互角勝負をしていた面影はどこにもなかった。

北大が強い頃、東大のOBがこんなことを書いたという話が伝説として残っていた。
《北大は高校時代から柔道ばかりやっていた柔道バカでも入学できる入学難易度の低い大学だから
 優勝して当然である》
この文章を私は現役時代に部室で暇つぶしに何度か探したことがあるが結局みつけることができなかったので、実際にあったものかどうかはわからない。しかし、こういう伝説があること自体、いかにかつての北大が強かったのかということである。

最下位の泥沼から抜け出すために、各代の幹部たちは毎年いろいろな工夫を続け、さらに練習量を極限まで増やしていたが、どうしても勝てず、ずるずると最下位を続けていた。
悪循環だった。

最も大切なのは、とにかく部員を増やすことであったが、入れても入れても、練習の苦しさに新入生が辞めていくのだ。
15人戦の七帝戦は総力戦である。
数こそ力なのだ。
とにかくだましてでも新入部員を入れ、鍛え上げねばならなかった。

私たちの代は常勝京大を破っていきなり優勝するなどということは考えることすらできない状態だった。

私たちがやるべきことは、まずは連続最下位からの脱出だ。そして未来へつなぐ優勝の夢実現のために、部員を増やし、その夢を託すことのできる核となる男をさがしていた。
それは高校時代の実績でも体格の良さでもなく、勝つための強い意志をもった男だった。

寝技中心の七帝柔道においては、一年目のときの実力がそのまま四年目まで順位が変わらないなどということはありえない。
誰が伸びるかやってみないとわからないのである。
それが七帝柔道の最も魅力的なところかもしれない。
インターハイで上位入賞し鳴り物入りで入ってきた重量級の選手と、高校までまったく運動経験のないひょろりとした白帯の少年が、4年後にどちらが強くなっているかわからない……こんな胸躍る世界はほかにないと思う。

その日、私たちはいつものように悲愴感を持って長時間の寝技乱取りを繰り返していた。
全員怪我だらけだが見学なんかしていられない。
七帝戦は3カ月後に迫っていた。とにかく穴になりそうな選手を鍛え上げなければならない。

私が下級生を抑え込んでハッパをかけていると、横でやはり誰かを崩上で抑えながら「七帝本番だと思って逃げろ!」と怒鳴っている竜澤宏昌主将と目が合った。
と、竜澤が「あっちを見ろ」というように顎で指した。
道場の入り口の方角だ。

私が首をひねってそちらを見ると、ベンチプレス台に座っている見学の一年目が1人いた。
しかし竜澤が言いたかったのはそのことではない。
その横でまだ入部したばかりの一年目である長高弘が両腕を組んで偉そうに講釈をたれている。長は札幌北高の柔道部の主将だった男で、高校時代からよく北大に出稽古に来ていた。だから同じ一年目でありながら、見学者に先輩風を吹かせて部の説明でもしているようだった。

私は竜澤の目を見てうなずいた。
竜澤が私に何を求めているのかわかったからである。4年間苦楽をともにした同期とはそういうものだ。
私は、「乱取り交代」の合図があると抑え込みを解き、相手に最後の礼をしてすぐに長のところへ行った。
「長君、彼は一年目かい?」
汗を拭きながら、わかっていて聞いた。
はい。こいつは俺の北高の同期で、レスリング部のキャプテンだったんです」

見学の一年目がきびきびとした動作で立ち上がって「中井祐樹といいます」と頭を下げた。
私が「四年目の増田です」と右手を差し出すと、中井がしっかり握り返してきた。目をそらさない。気が強い男だ、こいつは絶対欲しいと思った。
「うちは見てのとおり普通の柔道じゃないんだ。寝技ばっかりだろ。レスリング出身者は伸びるぞ。俺が一年目のときの五年目の先輩にもレスリング出身で白帯から始めた人がいたんだけど、最後は一番強くなった。もう入ることは決めたのかい?」
「いえ、それは……」
中井はそう言って頭をかいた。

後から知ったことだが、中井は北大近くにある極真空手北海道支部道場へ入るつもりだったのだ。
柔道部が寝技ばかりの特殊なものだと聞いてちらりと覗きにきただけだったという。高校で組み技をやったので大学では打撃を身に着けたいと思っていたそうだ。彼の頭のなかにはすでに「総合格闘技」の構想が芽吹いていたのである。
「そうか。まあ練習を見ていってくれよ」

私はそう言って、竜澤が「私に求めていること」を始めることにした。
「よし。長君、一本やろうか」
「えっ? 俺ですか?」
長は嬉しそうに「じゃあよろしくお願いします」と言って頭を下げた。高校の同級生の前で四年目に名指しで乱取りを所望されたのが誇らしいようだった。

本来ならば道場の真ん中まで移動してから乱取りを始めるべきだが、私は中井の目の前で長と組み合った。そしていきなり飛びつき腕十字で、かなり強めに極めた。長が悲鳴を上げて手を叩いた。私はすぐ放した。

長は立ち上がると首を傾げながら組んできた。高校生として出稽古に来ていた当時の長には力を抜いて相手をしていたから、私に抑え込まれたことはあっても関節を極められた経験がないのである。私は片手を持った瞬間、今度は反則すれすれの脇固めを極めた。長がまた「痛い!」と声を上げながら畳を叩いた。

中井が身を乗り出して見ている。18歳のその目は好奇心に輝いていた。
そこから私は長を立たせず、関節技を10秒に1回のペースで極め続けた。腕十字、腕絡み、三角からの腕固め、そして当時は地球の裏側でそんな名前が付けられているとは知らないオモプラッタなど、とにかく中井の興味を引くために、できるだけ見栄えのいい派手な技を使った。

6分が終わり、乱取り交代の合図があった。
長はふらふらになりながら最後の礼をした。そしてそのまま中井の横に座り込んで休もうとした。しかし、そこにやってきたのが竜澤である。

「おう、長君。彼は一年目かい?」
私と同じことを聞いた。私はにやつきながら横目で見ていた。
「あ、はい。北高時代の同期で中井っていいます。レスリング部出身です」
長は息を荒らげながら言った。
「ほう、レスリングか。伸びそうだな」
 竜澤が嬉しそうに笑った。
「主将の竜澤だ。よろしく」
竜澤がやはり右手を差し出すと、中井が今度は明らかに憧れの色をたたえた目で竜澤の手を両手で握りかえした。

竜澤が「うちに入れよ」と言うと、「そうですね、はい」と、かなり態度が前向きになっていた。
竜澤と目が合った。
私が「もう少しだな」と目で言うと、「任せとけ」とやはり目で竜澤が言った。
「じゃあ長君、俺とも一本お願いできるかな」
竜澤が言うと、長が「えっ」と引いた。私と竜澤の意図に気づいたのだ。だが、今さらどこに逃げるわけにもいかない。

竜澤が引き込んですぐに返し、そこから私以上の技のデモンストレーションをやった。
横三角で一気に絞め上げ、長が「参った」するたびに技を緩め、逃げる方向逃げる方向へ関節技や絞め技を極める。
入ったばかりの新入生なのでさすがに落としはしなかったが、長は痛みと苦しみに絶叫し続けた。前三角、後ろ三角、そして腕絡みのあらゆるパターン。

中井はベンチから尻が半分落ちるほど前のめりになり、興奮しながらその技の数々に見入っていた。
はたして、練習後のミーティングで中井は「入部します!」と宣言した。


引退試合でもある七帝戦は七月の半ばだったから、私は中井と3カ月だけ現役時代が重なっている。
おそらく30本や40本は乱取りをやっているはずだが、私には1回しか記憶がない。

当時は七帝戦15人のメンバーに入る13番目、14番目、15番目の選手となる穴の三年目や二年目を鍛えるのに必死で一年目との乱取りは四年目にとって流すていどのものだったから当然だ。しかも中井はまだ白帯だったのだ。

しかし、中井との乱取りを一本だけ覚えているのにはわけがある。
投げられたのだ。
その瞬間の光景と感覚だけは、20年たった今でもはっきりと覚えている。

裏投げだった。

いや、裏投げではなかった。プロレスでいうバックドロップ、アマレスでいうバック投げだ。
裏投げだったら、いくら私がなめていたとしても投げられなかっただろう。
バックドロップだったので、防ぐタイミングがずれたのである。
そしてブリッジをきかせたそのバックドロップで、私は後頭部から畳に叩きつけられた。

私は照れ隠しに笑いながら立ち上がった。
問題はそこからだ。
私が立ち上がると、中井は「よし!」と気合いを入れながらすでに私と組み合うのを待っていた。
中腰で、脇を締め、両手を鷲のように開いて相手を捕まえんとするポーズで。
レスリングの構えであった。
その表情には、また投げてやろうという意志があった。

普通、白帯の一年目が四年目に対してこんな態度をとることはありえない。
もちろん北大柔道部では意味のないいじめのようなことはなかったが、それでも格闘技の部である。取れば何倍にもなって取り返されることはわかっている。

力が四年目と拮抗しているかなり強い三年目であっても、取った後は怖がって精神的に引いてしまうことが往々にしてある。それは私とて同じである。下級生の頃はもちろんそうだったし、最上級生になってからも出稽古先で格上の選手を取ってしまったあとは、やはり怖くて気持ちが引いてしまいがちだった。

中井は白帯のその時代から、そういうことをまったく怖れていない男だった。鍛えて身に着けたものではない、生まれつきの剛胆さを持っていた。


私は、四年目の七帝戦が終わると中退してそのまま新聞社に入ったので、忙しくて道場に顔を出さなくなった。
しかし、その年の秋頃には中井の寝技がどんどん強くなっているという噂をあちこちで聞くようになっていた。やはりな、と嬉しくなった。

二年目の七帝戦の頃は既に先輩たちを押しのけてレギュラー入りし、分け役としてきっちり役割を果たしている。
当時、部員は45人ほどいた。白帯から始めた中井がわずか1年3カ月の練習で15人のメンバーに入るのは驚異的な実力の伸び方だった。

三年目時には下からも脚が効く本格的な寝技師として立派な抜き役に成長し、インターハイ3位の実力者を下から返し、横三から腕を縛って簡単に抑えて周囲を驚かせた。

国際ルールの体重別個人戦でも北海道予選を寝技で勝ち抜き、正力杯(インカレ)で寝技を駆使してベスト16に入っている。これは国際ルールだったからベスト16だが、引き込みありで寝技膠着の「待て」がない七帝ルールならば当然もっと上にいっていただろう。

中井は、とても大学で白帯から始めたとは思えない、化け物のような寝技師に育っていたのだ。
もちろん超一流のブラジリアン柔術家となった現在の中井と比べれば力が落ちるのは当然だが、少なくとも、まだブラジリアン柔術が入ってきていない当時の日本では最高レベルの寝技を身に着けていたのは間違いない。

長く北大柔道部を指導してきた佐々木洋一コーチが、中井が短期間で強くなった秘密を私に教えてくれたことがある。
「夜の練習が終わると、練習熱心なやつらは居残って技の研究とか腕立て伏せ1000回だとかウエイトトレーニングとかやってるだろ。ああいうことやってる連中は強くなってるよな、みんな。努力すれば当然強くなる。だけどな、中井はそんなことしてなかったよ。だからその強くなった連中以上に飛び抜けて強くなったんだ」
「何してたんですか?」
「道場の真ん中で大の字になって1時間くらい動けないで天井仰いでるんだ」
「………?」
「それくらい乱取りで全力を尽くしてるんだよ。一本一本の乱取りでいっさい手を抜いてないんだ。だから研究とかウェイトとかやる余力が残っていなかったんだ。俺は200人近く選手を見てきたけど、そんな選手は中井しかいなかった」
「技術的にはどんな感じなんですか」
「教えたこと教えたことすべて吸収しちまいやがる。さらにそれをアレンジして自分流にしてしまうんだ。そして『もっと教えてください』って何度も何度もやってくる。しつこかったよ。そのうち教えることがなくなっちゃったよ。あとは自分の力でするすると高みにのぼりつめていったんだ」


中井は四年目の夏、悲願の七帝戦優勝を遂げると北大を中退し、シューティングに入門するために横浜へ移り住む。
この中退してのシューティング入りについては年配のOBたちが大反対した。
OBのなかで積極的に賛成したのは私と当時の岩井監督の2人だけではなかったかと記憶している。

北大柔道部旧交会(OB会)が毎年発行する『北大柔道』という部誌がある。これには学生のほか、OB、指導陣らが寄稿するのだが、中井たちが引退した年、監督が中井に言及した部分を拾ってみよう。

《副主将の中井は、大学から柔道を始めたが北大を代表する寝技師に成長した。三年の時には体重別71kg以下級で準優勝、更に全日本では関西代表選手を寝技で破り、北大の寝技が全国・国際ルールでも充分通用することを示してくれた。彼の特徴は何といってもそのガッツであり、稽古の時から気力に溢れ、道場の窓が開いている時は武道館に近づくにつれ、窓が閉まっている時には武道館のドアを開けると彼の掛け声が聞こえ、私自身気が引き締まる思いがした。7月の出陣式の際「今年は僕、甲斐でいいですよ」と中井から切り出してきたが、その言葉に彼のフォア・ザ・チーム・七大戦にかける意気込みを感じたし、また、おぼろげながらにイメージしていた対九大の作戦が固まっていった。彼は8月に大学を中退し、「シューティング」という格闘技の道に進んだ。「何故」と首をかしげる人もいるだろうが、それも一つの生き方であり、私自身としては彼の今後の活躍を楽しみにしたい》(『北大柔道』平成4年度版)

中井自身は、横浜から〈ドント・ルック・バック〉という題名でこんな原稿を送ってきている。

《皆さん、お元気ですか。僕は今、バイトに稽古にと多忙な日々を送っております。結構シンドイと感じることもありますが、どうにかこうにかやっています。現役部員として部誌を書くのは最後ということで少し緊張して机に向かっているところです。
 僕が北大にいた3年4カ月を現在、冷静になってみて素晴らしいと言えるのはやはり柔道があったからだと思う。食事や睡眠など生活のほとんど全てをそそぎ込み、熱中した柔道、技術を創り上げることとは何か、そしてその喜びを知った柔道、自分の考え方を生み出す原動力(あるいは基準、アンチテーゼ)となった柔道(部)、講道館柔道に七帝柔道など、自分の中で柔道は様々な表情をしていたとつくづく感じる。そんな中で七大戦を優勝で飾ることが出来たということは、取りも直さずやるべきことはやったということを意味していた。だからこそ、僕は今ここにいるのだ。
(中略)
 七帝前の壮行会で酔った椛島(増田注=次期主将)に「中井さんには(進路は知っているけど)もう1年やって欲しいんです」と言われた。でも僕は「俺が柔道部に残ることは楽なことなんだよ」と答えた。真意が伝わったかどうか分からないが、僕には心の安らぐ場所であった柔道部、そして北大を去ることの方が長い目でみてベターであると思っていた。ただそれだけのことだった。(中略)
 諸先輩の方々、14人の同輩達、後輩諸君、本当にどうもありがとうございました。シンドイ時は皆さんの励ましの言葉を思い出して、元気を出したいと思っています。
 それでは、ジムに行ってきます。
 もう昔は、振り返りません。
 サンキュー、じゃあね。
              10月3日》

中井は、前へ前へと走り始めていた。
だが中井がこの原稿を書いたわずか5カ月後、平成5年(1993)の3月に九大の甲斐泰輔が急逝するという悲報が届いた。
急性膵臓炎、まだ22歳の若さ、あまりに突然のことだった。

打倒北大のために五年生の七帝戦に賭けて練習に励んでいた好漢の急死を他大学のOBたちも嘆き悲しんだ。


平成4年(1992)の4月、中井から手紙が来た。
《前略 辺りもすっかり暖かくなりました。皆様如何お過ごしでしょうか。さて、私が横浜にてシューティングを始めてから8カ月の時が流れました。そしてこの度、4月26日(月)の後楽園ホール大会に於て当日の第一試合として私のデビュー戦が決定致しました。(当日は6時開場、6時半試合開始となって居ります)なんとかここまで漕ぎ着けることが出来ましたのも皆様のご支援のおかげです。感謝の念に堪えません。私にとりましてこれが出発点であり、これからも理想に向け精進してゆく所存です。今後も変わらぬご指導宜しくお願い致します。            草々》

本来ならば大学を卒業して入社する時期である。そういう意味で、彼にとってのデビュー戦は卒業式と入社式を兼ねた元服式のようなものだった。

私はこの試合には仕事で行けなかったが、則次宏紀に53秒で快勝している。2カ月後の6月24日には倉持昌和に2R1分36秒ヒールを極めて連勝した。

この3週間後、私は京都での七帝戦で中井に会った。
もちろん中井もOBとして学生の応援に来たのである。

いまの静かな雰囲気からは想像もつかないだろうが、中井は宿舎でOBたちに久々に会い、かなりはしゃいでいた。いきがっているようにも見えた。

いや、正確に言うと中井のシューティング入りを応援していた私にはいきがっているようには見えなかったが、その他の大多数のOB、とくに重鎮たちにはそう見えていたようだ。
饒舌だった。
有名プロレスラーの名前を何人か挙げ、「真剣勝負なら簡単に勝てますよ」と言った。

多くのOBが鼻白んでいた。
当時、プロレスラーの実態について世間は何も知らないに等しかったのだ。
私は場を和ませようと「ヒールホールドってどれくらい痛いのか俺にかけてみてくれ」などと言った。中井はかなり力を入れてかけてきて私は絶叫した。
「どうですか。痛いでしょう?」
中井は人なつっこい表情で笑っていた。

しかし、目の奥の光は真剣だった。中井は、その痛みで自分たちがやっていることを知ってもらいたかったのだ。
私には彼が饒舌になっているのは自分を鼓舞させようとしているのだとわかっていた。

シューティング自体が、まだ迷走の最中だったのだ。
「シューティング? あんな小さいやつらがごちゃごちゃやってなんになる? レスラーに捻り潰されるだけだよ」
プロレスファンはそう言って笑っていた。

プロレスが真剣勝負だと思っている人がまだたくさんいた。
それほど「プロレスの壁」が高かった時代なのだ。
当時、世間の無知とただ一つ戦っていたプロの団体、それがシューティングだったのだ。

中井の饒舌は、その無知に対する怒りの表現のように思えた。
かつて柔道の競技者だったはずの北大OBでさえよくわかっていないのだ。格闘技を経験したことがない一般のファンに真実を伝えるにはとてつもなく高いハードルを越える必要があった。

横浜に1人で出てシューティングに入門したものの、中井は闇のなかを駆けているような感覚に陥っていたにちがいない。
自分が強くなっていることは実感していたのだろう。
だが、未来が見えないのだ。

それはもちろん収入が安定しないとか、そんなちんけな未来のことではない。
中井はそんなことを気にする男ではない。
そうではなくて、無知な一般の人たちに真実を伝えるのに何の手だても持たない焦りがあったのだ。

当時はそのための公平なリングがシューティングにしかなかったのである。
しかし、そのリングに有名プロレスラーが上がってくれるわけでもない。

八百長と真剣勝負の境目は、ファイトマネーの積み合いのバランスで決まっていた。
しかし、興行収入の多寡でファイトマネーが決まる以上、当時のプロレスとシューティングでは勝負しようがなかった。

後にプロレスラーが総合格闘技のリングに上がって負けざるをえない状況ができたのは、ファイトマネーが、あるときを境目に大きく逆転したからにほかならない。

シューティングが、真剣勝負が、総合格闘技が、世間の認知を得て成立するには、自力では不可能だったのである。神風がどこかから吹く以外、道はなかった……。
中井たち当時のシューターたちは、他力本願に頼らざるをえないそんな状況にいらついていたのだ。


京都での七帝戦応援の後、時間が合ったので、私と中井は同じ新幹線に乗って一緒に帰った。
中井はたくさんの人がいる場所から2人だけの空間になると落ち着き、いたって冷静に話をした。
「デビュー戦は(吉田)寛裕も来てたらしいな」
「ええ。両親に連れられて。この試合だけはどうしても観たいって言って無理いってついてきてもらったらしいですよ。ほんとうにありがたかったです。あいつの目の前で勝ててよかったです」
この時、中井は少しだけ複雑な表情をした。
私も複雑な表情をしていたと思う。

そこには、あの闘志の塊だった吉田が、朗らかさの象徴だった吉田が、なぜか心のバランスを崩して大学を休学せざるを得なくなり、都内の実家に住む彼にとっては遠くもない後楽園ホールにさえ両親の同伴がなければ行けない状況にあることに対する悔しさと悲しさがあった。

そしてそんな体調にもかかわらず「中井のデビュー戦だけは何としても行かなくては」という親友としての、いや元主将としての悲愴感のようなものが痛々しかったのだ。
私には中井の気持ちがよくわかった。
私の代の主将竜澤が吉田のような状況に陥り、自分が中井の立場だったらどう感じるだろうと重ねて見ていた。
主将というのは同期の象徴であり、同期の誇りだった。その思い入れがとくに副主将経験者には強いのかもしれない。

中井は言った。
「実はあのデビュー戦の時ですけど、僕、リングの上で甲斐の顔が浮かんで仕方がなかったんです」
「甲斐って、このあいだ死んだあの九大の甲斐か?」
「ええ。リングに上がってから、ずっと甲斐のこと考えてました」
「…………」


この年の11月25日、中井は先輩寝技師である朝日昇と5Rフルに戦い判定で敗れている。これを中井は善戦ととったのか悔しい試合ととらえたのかはわからない。
ただ、この試合のほんの少し前、世間の無知を変え得るかもしれない、待ちに待った神風のようなものが吹き始めたのを中井を含めたシューティング勢は感じ始めていたはずだ。

11月12日にデンバーで第1回UFCが開かれたのだ。

格闘技マスコミはこぞってその試合の詳細を報じ、その試合の真偽(八百長説さえ流れていた)や舞台裏を書いていた。
いま思えば、まさに世界の総合格闘技の夜明けが始まろうとしていたのだ。

年が明けた平成6年(1994)3月11日の第2回UFCには大道塾の市原海樹が参戦してホイスの片羽絞めで完敗した。
いよいよ日本の格闘技マスコミが蜂の巣を突ついたような騒ぎになってきた。

吉田寛裕が逝ったのはその翌月、4月のことだ。24歳だった。
「甲斐に続いて吉田までなぜ……」
関係者に衝撃が走った。

吉田が心のバランスを崩したのは、七帝戦で燃え尽きてしまって目標を見失ったからかもしれない。
あるいはライバルだった九大の甲斐が急逝したことも引き金の一つになったのかもしれない。
しかし、ならばどうして先輩である私たちはそれをフォローしてやれなかったのか……。
私の心中にも、そういった慚愧が拭っても拭ってもわき上がってきた。

しかし、最もショックを受けたのは親友だった中井だったはずである。
バーリ・トゥード・ジャパン・オープン94が開かれたのは、そんなときである。
7月29日であった。

大会ではヒクソン・グレイシーの強さが際だっていた。


しかし、それ以上に衝撃的だったのが、シューティングのエース2人、川口健次と草柳和宏が打撃系の選手に血まみれにされて負けたことであった。

中井はこの試合前から「私を出してください!」と佐山聡に直訴し続けていたという噂を聞いている。それについて本人に確かめたことはないので何ともいえないが、あの当時の彼の心理状態ならば充分ありえたであろう。

佐山は、この川口と草柳の惨敗で中井の寝技に頼らなければならないと気づき始めていたのではないか。
だからバーリ・トゥード・アクセスと冠して初めてバーリ・トゥード・ジャパン・オープンルールを採用して行われた9月の大会で柔術黒帯のアートゥー・カチャーと中井祐樹の試合を組んでいる。

中井は3R8分を戦い抜きドローまで持っていった。
これで「いける」という空気が膨らんだ。
そして11月7日の草柳和宏とのタイトルマッチで判定勝ちをおさめ、ウェルター級チャンピオンに上りつめた。

これにより、中井を次の年のバーリ・トゥード・ジャパン・オープン95に出場させるというレールが敷かれた。
中井はシューティングの切り札だった。
しかし、中井の出場とトーナメント組み合わせが発表されると、マスコミ各社はその危険性を訴えた。

1回戦の相手は第1回UFC準優勝のジェラルド・ゴルドーだった。
198センチ100キロ。170センチ71キロの中井とは、身長で28センチ、体重で29キロの差があった。
私も相手がゴルドーと聞いて「これはちょっと……」とさすがに思った。

試合の数週間前、私のもとに一本の電話があった。ダム技術者になって秩父の現場にいた竜澤からだった。
「中井はリングで死ぬ気らしいぞ」
そう言った。
今度の試合で死ぬかもしれない――そう言っているというのだ。

おそらく中井がだれかに漏らしたのを岩井監督経由で聞いたのにちがいない。もちろん最初から私は日本武道館に観に行くつもりだったが、この電話で「絶対に彼の死をみとどけてやらねば……」という気になった。
相手はUFCでもあれだけのことをやった凶暴なゴルドーである。体格差だけではなく、危険なのだ。勝つとか負けるとか、そういうレベルの試合になるとはまったく思っていなかった。

当日、私は竜澤と松井隆の2人の同期と待ち合わせて応援に行った。
二階席の最前列に陣取った。

はじめはリングサイドの一番いい席を取ろうと思っていたが、寝技勝負になるだろうから上からの方が観やすいだろうと思い直したのだ。一階席は満員で、リングサイドには正道会館の石井館長や極真の岩崎達也ら有名人がずらりと並んでいたが、二階席は6割の入り、がらがらとはいわないが、とても満員といえる状態ではなかった。

「中井の控室に行きたいな」
竜澤が前髪をかき上げながら言った。緊張が高まってきたときの彼の癖だ。

「それは無理だろう。関係者じゃないんだから」
私も、すでに心臓の鼓動が速まっていた。

「でも、行って、俺たちが観ているんだ、ついているんだってことを教えてやりたいだろ」
「それなら激励賞を出すか」
「激励賞?」
私は、ボクシングなどの格闘技興行ではつきもので、相撲の懸賞金のようなものだと説明した。選手控室に直接届けてくれるはずだ。

さっそく売店で封筒とボールペン、糊を買ってきた。そして表に〈激励賞、中井祐樹選手〉、裏に〈北大柔道部OB、竜澤宏昌・増田俊也・松井隆〉としたため、1万円札を突っ込んだ。封をしようとしてふと思いついた。
「何か紙切れないかな。一言書き添えよう」
「何でもいいのか」
松井がポケットからコンビニか何かのレシートを出した。私はそのレシートを受け取ると、裏に〈北大柔道部精神を忘れるな〉と書いて封筒に入れ、糊付けした。急がないと試合が始まってしまう。廊下に出て、バイトの係員に「絶対に本人に手渡してください。試合前にですよ。絶対ですよ」と念押しした。試合前に本人に渡らなければ意味がないのだ。

私は何度も何度もトイレに立った。他の2人もそわそわと落ち着きがなかった。
開会式で選手全員がリング上に整列したが、中井だけがひどく小さく、貧弱に見えた。

あの激励賞は中井に届いているのだろうか。私たちは何度かそう話し合った。中井は怖くはないのか。気が気ではなかった。
「デビュー戦の時、リングの上で甲斐の顔が浮かんで仕方がなかったんですよ」と言っていたのを思い出し、いま中井は吉田寛裕と甲斐泰輔のことを考えているのだろうかとも思った。

中井vsゴルドーは第2試合だった。
1試合目なんか目に入ってなかった。中井の試合のことばかり考えていた。

両者がリングに上がった。
〈青コーナー、プロフェッショナルシューティングウェルター級王者、中井祐樹!〉
アナウンスがあった。

中井はマウスピースを何度か噛み直しながら右手を挙げて応えた。私たちを入れても声援は会場全体で数えられるくらいしか上がらない。

一方のゴルドーが紹介されると、会場は一斉に沸いた。明らかにゴルドーがUFCで見せた残虐性を観客は期待していた。リングスの山本宣久が出場していたので、観客の8割以上をプロレスファンが占めているようだった。

ゴングが鳴った。
 中井が上半身を振りながらタックルにいく。つかまえた。
「よし!」
竜澤が言った。

しかし、ゴルドーはそのまま後ろに下がり、トップロープを左腕で抱えて倒されないようにしてから右腕で中井の頭を抱えた。中井は左足をゴルドーの右膝裏にかけて倒そうとするが、ゴルドーがロープを抱えている以上、倒せない。
「中井、そのまま放すなよ!」
私は大声を出した。

すぐにレフェリーとリング下の係員が何か話しだした。そしてレフェリーの「ストップ! サミング!」という小さな声が聞こえた。レフェリーは親指を立て「コーション!」と言った。
〈ジェラルド・ゴルドー選手に注意1です〉
場内アナウンスが入ると場内が沸いた。

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このときすでに、中井の右目はゴルドーの親指の爪によって眼球の裏までえぐられていた。
しかし中井は黙ってゴルドーに抱きついたままだった。
二階席から応援する私たちもサミングがあったことはわかったが、まさか失明するほどのダメージを受けているとはまったく気づかない。

中井の精神力は人間離れしていた。

当時の観客のマナーはひどかった。この膠着状態に「何やってんだよ!」とか「いつまでも抱きあってんなよ、オカマか!」という声が飛び、それに対して笑いが起きたりしていた。
第1Rはそのままの姿勢で終わった。セコンドはラウンド間の休憩に中井の右目のあたりを氷嚢で冷やしていた。

第2Rが始まってコーナーから飛び出す。
中井の右目から血が流れていた。

中井が軽く前蹴りにいったところにゴルドーが右ロー、それに合わせて中井が滑り込むようにそのゴルドーの右脚を捕まえ、下から両脚をからませる。
ヒール狙いだ。

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しかし、ゴルドーはまた片手でロープをつかみ、上から激しいパウンドを浴びせた。
場内が大歓声に包まれた。
「ゴルドー! 殺せ!」
ゴルドーの拳が打ち下ろされるたびに中井の後頭部がマットにぶつかる大きな音が響き、右目から鮮血が飛び散る。

私たちは「中井、逃げろ!」と叫び続けた。
しかし、場内全体が殺気立ち、観客たちは劣情をもよおしていた。
私たちのまわりの観客もひどい野次を繰り返していた。
「そのまま中井を殺しちまえ!」
 後ろの観客が叫んだ。
「こら、おまえらうるさいぞ」
熱血漢の竜澤が後ろを振り向いてすごんだ。

五人くらいで見ていたそのグループは怖がって黙ったが、しばらくするとまた野次りだした。私たちが中井の先輩だなどとは夢にも思っていないだろう。だから竜澤がどうして怒ったのかわかっていないのだ。
「殺せ!」
また後ろの観客が大声を出した。
「ちょっと遠く行って観てくれんか」
今度は私が振り向いて言った。
彼らはまた黙った。
私が前に向き直ると、こそこそと後ろで何か話している。そして「おまえらこそうるせえんだよ」と聞こえよがしに言った。

その瞬間、私の横に座っていた松井が「いいかげんにしろ!」と後ろを向いて立ち上がった。顔が真っ赤だった。私や竜澤はもともと喧嘩っ早かったが、松井が怒ったのを見たのは初めてだったので、私たちが驚いた。
そのグループは松井の剣幕に驚き、さらに竜澤と私が後ろに向き直ってにらみ付けたので舌打ちして他の席へ移動してしまった。

試合は凄絶なものになっていた。
またゴルドーの激しいパウンドが始まる。
ロープ際からエプロンサイドに中井は逃げる。それでもゴルドーは叩き続ける。見ていられなくて私は目をそらした。
「もう試合放棄してもいいんだぞ……」
松井が苦しげにつぶやいた。

私も同じ気持ちだった。わかったから中井……おまえの心意気は充分俺たちに伝わった……試合放棄しろ……。

場内全体の野次やブーイングはひどくなるばかりだった。
「ドント・ムーブ」
レフェリーが両者の動きを止め、リング中央に2人を移動させた。
場内が沸いた。
残酷シーンがまた見れると思っているのだ。だが、そこからゴルドーは立ったまま腰に両手を当てて攻めてこず、中井は仰向けに寝たまま両手で「カモン!」とやっている。いわゆる猪木vsアリ状態だ。

野次がまたひどくなる。
しかし中井はそんなものは気にしてないように「カモン」とゴルドーを寝技に誘い続ける。中井の心は折れていない。
長い長い第2Rが終わった。

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コーナーに戻った中井の顔の右半分は大きく腫れ上がり、右目の出血もかなりひどくなっていた。
それを氷嚢で冷やされながら、しかし中井の左目は、ずっと赤コーナーのゴルドーを見据えていた。

中井が戦っているのは目の前のゴルドーではあったが、中井が本当にやろうとしていたのは無知な世間を引っ繰り返すことだった。

京都で会ったときの中井の饒舌、魂の叫びをリング上で見た気がした。いま、中井は言葉ではなく、体でその叫びを表現する場を得ている。ならば中井は、この戦いを楽しんでるのではないのか――ラウンドの合間に私たちはそんな話をした。そう考えると少し気が楽になった。

試合は嫌になるほど延々と続いた。


観客は同じ展開に飽き始めていた。
しかし、私たちだけは奥歯を噛みしめてリング上の中井と痛みを共有しようとしていた。

私は、もうどんな残酷なシーンでも目はそらすまいと思った。中井があきらめないで戦い続けているのに先輩の私たちがそれから目をそらしたらあまりにも情けないではないか。
リング上の中井は8分無制限ラウンドを延々と戦い続けていた。

タックルでつかまえる中井。ゴルドーはまたロープを抱える。
「中井!」
ロープを抱えたままのゴルドーに抱きつく中井に私たちは叫び続けた。

しかし、リングは遠く、とてもその声は届かない。やはりリングサイドの席を取ればよかった。そう思いながら、ただただ「中井!」と名前を叫び続けた。ほかに何もしてやれないのがもどかしかった。

4R。中井が両脚タックルからゴルドーをコーナーに押し込んだ。
ゴルドーがフロントチョークを狙う。
極まっているように見えた。

だが、中井がゆっくりと体を下げながらそれを外し、ゴルドーの左脚に自らの両脚をからみつけた。
観客がまた残酷なパウンドを期待して騒いだ。

しかしゴルドーがパウンドを打とうとしたその瞬間、中井が渾身のヒールホールドを仕掛けた。ゴルドーの上半身がぐらりと揺れて、ゆっくりと倒れていくシーンを、私は昨日のことのように覚えている。

ゴルドーがマットを叩いた。
武道館内の野次が大歓声にかわる。
中井が自らの力で世間を引っ繰り返した瞬間だった。

私は頭のなかが真っ白になって竜澤と松井と握手を繰り返した。


準決勝のクレイグ・ピットマンとの戦いは、ピットマンにアマレスの下地があるのでゴルドー戦よりも面倒なように思えたが、中井は下から腕十字をきっちり極めてみせた。決勝の相手ヒクソン・グレイシーは顔面を大きく腫らしながら決勝に上がってきた小兵の中井に敬意を表したような戦い方をした。私たちは流れるような2人の寝技戦に魅入った。

この大会が、本当の意味で日本のMMAの嚆矢となった。
神風を起こしたのは、たしかにグレイシー一族でありUFCであった。

しかし、神風が吹くだけでは大きな波がおこるだけで、その波を乗りこなせるサーファーがいなければ、波はただ岸にぶつかり砕けて消えるだけだ。
神風が起こした大波を、右目失明によるプロライセンス剥奪という死刑宣告と引き替えに乗りこなした中井祐樹がいたからこそ、日本に総合格闘技が根付きえた。それだけは格闘技ファンは絶対に忘れてはいけない。

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文芸編集者や評論家に、こう言われる。
「どうしてそんなマイナーなものを書いてるんですか? せっかく作家になったんだから、もっとエンターテインメント性のある小説をたくさん書いてメジャーを目指した方がいいですよ」
マイナーな話とは『月刊秘伝』に連載中の「七帝柔道記」のことだ。

私はなんと答えたら納得してもらえるかわからないので黙っているが、本心はこうだ。はっきり言うがマイナーな話なんかじゃあない。

偉大なる物語だ。

青春の全エネルギーを七帝柔道というチームスポーツに燃焼しつくし、22歳で逝った甲斐泰輔への、24歳で逝った吉田寛裕への鎮魂歌だ。

そして、2人の大切な友を失いながら強さだけを追い求め、リング上で世間の無知を覆し、世間の偏見を引っ繰り返すために、たった一日だけ鮮烈な光を放って消えた「総合格闘家中井祐樹」への鎮魂歌だ。最後のクライマックスはもちろんバーリ・トゥード・ジャパン・オープン95である。

連載を終え、書籍になってそれを吉田と甲斐の両親に手渡すまでは、私の七帝戦は終わらない。いや、日本の格闘技史の総括は終わらないと思うのだ。

中井が平成元年の4月、北大道場を訪れず極真に入門していたら、いまの中井はなかったであろう。極真からシューティングに進んでいたとしてもゴルドーに勝つことはできなかったはずだ。

あの日、中井祐樹という稀代の勝負師がたまたま北大道場を訪れ、たまたま入部し、そこで親友の吉田とライバルの甲斐という好漢2人に出会い、寝技にのめりこんだ。それが現在のMMAシーンの巨大な潮流を作ったのは間違いない。

奇跡以外のなにものでもないではないか。

この奇跡を、私が書かないで、いったい誰が書いてくれるというのか。

(『ゴング格闘技』2009年6月号)


世界に誇るブラジリアン柔術家・中井祐樹 (『週刊宝石』2000年掲載)
http://hujudo.sakura.ne.jp/nakaisan.html



佐々木洋一 ~高専柔道の技術を引き継ぎし七帝柔道の技術
http://hujudo.sakura.ne.jp/hiden/hiden.html
「昭和27年(1952)に七帝戦が始まった当初から戦前の高専柔道ルールをそのまま引き継いでいたわけですが、はじめのうちは寝技ばかりの攻防が戦われていたわけではないんです。もちろん講道館ルールでやってる普通の大学よりは圧倒的に寝技が多かったのは確かですが、立技で勝負する選手もいた」
こう語るのは、北海道大学柔道部OBの佐々木洋一氏。

もちろん、氏の入部された昭和45年(1970)には、すでに寝技中心の乱取りが主流となっていた。
「高専柔道も黎明期はそうだったようですが、最初は立技をやる者もいた。それが15人抜き勝負での引き込みありのルールでの分け役の重要性が認識されて寝技ばかりの練習に移行していった。とくに本格的な転機となったのが、昭和39年の東京オリンピック無差別級でのヘーシンクの優勝です」

現代に続く様々なスポーツ競技の世界で、大きな転換点となる東京オリンピック。
柔道においては一際大きな衝撃を与えたのが、オランダのアントン・ヘーシンクに敗れたことだった。
ヘーシンクは、五輪無差別級決勝で神永昭夫選手を袈裟固で抑え、本家の威信を失墜させた。
「これを見た高専柔道の先輩方が『なんだ!』と。それで先輩たちも本気で、自分たちが練り込んだ緻密な寝技技術を後輩である七帝の学生に教えてくれるようになった。これで七帝は完全に寝技だけになっていった」

当時もっとも寝技の練習量が多かったのは岡野好太郎師範(金光弥一兵衛の前の旧制六高師範で旧制名古屋高商師範もつとめた)が指導していた名古屋大学。
北大は、七帝の中では立技にも練習時間を割いている方だった。
「講道館ルールの全道優勝などはしていたけど、七帝ではあまり勝てなかった。これを改革したのが、私の一期上の主将だった小菅さん。小菅さんが一気に寝技の練習量を倍にしたんです」
日本最北の動物園を日本一の入場者数にした、あの旭山動物園前園長の小菅正夫氏(昭和44年入学)である。

小菅氏は動物園を再興させた様々なアイデアの源泉は、すべて北大柔道部の改革時に学んだことだと雑誌インタビューに答えている。

高校時代から柔道を始めてはいるものの、三浪で入学したことですっかり体力の衰えていた佐々木氏は、寝技ばかりの練習に面食らいながらも、錆び付いてしまった自身の立技に換わるものとして寝技の吸収に努めるようになる。

「私が高校の頃に井上靖の『北の海』が新聞に連載されていて私も読んでいたんですけど、それと北大柔道部(七帝大)との関連は当時まったく知りませんでした。だから、なんでこんなに寝技ばかりやるのかなぁと思って訊くんですが、当時はただ『伝統だ』としか言われなかった。

 北大にも戦前の北大予科からの寝技技術というものは一部残っていました。また、予科時代のOBが来て教えてくれるのですが、当時私たちもまだ若かったから『じいさんが何言ってるか』というのがありましたから、あんまりちゃんと訊かなかったんですね(笑)。その後、北大のコーチになって、〝先輩たちの言うことが今では理解できる〟となった時には、もう皆次々と亡くなられていて周りに(教えてくれる人が)いなくなっていたんですね」

昭和50年(1975)に卒業した佐々木氏は一時サラリーマン生活に追われるが、1年半後、柔道部コーチとなり約4年間を務める。
そして北大を七帝戦連覇に導くと一旦コーチを引退した。

「暇な時には顔は出していたんですが、だんだん足が遠のいて約9年。そんな時に偶然、コンビニで増田(増田俊也氏、昭和61年入学)に会って。『いま最下位が続いていてチームがどん底です。佐々木さんに助けてほしい』と懇願されてコーチに復帰、約20年間務めました。増田が1年の時にはまだときどき顔を出していたんですが、彼が2年の頃から道場に行かなくなっていた。後で訊くと、『あの店でときどき佐々木さんを見かける』という噂を聞いた増田が待ち伏せしてたんです(笑)」
こうして再び北大柔道部を強豪校の一つへと復活させた佐々木氏。
現在は若い後進コーチの育成のために正式な役職は退いているが、毎回稽古には顔を出して指導を続けている。
「今は相当、戦前の技術が復活されています」


そもそも佐々木氏が最初にコーチを引き受けたのも、「技の伝承」の問題があったのだという。
「学生は各学年の人数もまちまち。特に上級生が少ないときにはせっかくの技の伝承がストップしてしまう。私が卒業してから札幌で大会があったので見に行ったのですが、私の二期下には寝技師が何人かいたはずなのに、その技が一つも伝わっていなかったのでビックリして……。訊けば4年生が二人しかいなかったんですね。やはりトータルで見ていく者がいないと、技の伝承は難しいんです」
 一方、柔道界全体でも寝技の技術はどんどん失われていく方向にあった。

佐々木氏の現役時代はいわゆる講道館ルールにおいても多少の寝技の攻防は見てもらえたが、国際ルールが導入されてそれが主流へと変わる中で、「すぐに『まて』がかかってしまうので、立技から移行したら、あっという間に極めてしまえるものでないと通用しなくなってしまったんです。

講道館ルールから国際ルールに変わる時期に多くの寝技が駆逐されて失われています」と語る佐々木氏。

「駆逐されてしまった技の一つが『横三角』なんですが、私が現役の頃、横三角は大学で初めて習うもので高校生までは知らない技だったんです。当時大学では全国的に使われていたのですが、これが国際ルールの導入で七帝以外ではほとんど消えてしまった。ところが、これがヨーロッパで盛んになったため、向こうの審判は横三角を見てくれる。これが日本に逆輸入されて今、中・高校生で横三角が盛んなのだそうです(中学では絞めではなく抑え込みに展開する)。今では七帝以外の大学ではほとんど使われませんが、私は柔道少年団の指導者から『横三角を指導してくれ』と言われて、初めてその状況を知りました」

「本来はカメ(相手が俯せになってこちらの攻撃を防ぐ防御の方法)取りの技法」と言われる横三角は、七帝では比較的ポピュラーな攻撃技だ。
カメ取りは、俯せで待っていれば数秒で「まて」がかかってくれる国際ルールの中ではほとんど意味をなさないが、高専柔道では高度に発達した技法の一つであった。

このように寝技の技術は海外からの逆輸入や、他の格闘技に取り入れられたものに影響を受けて、現在ではかなり見直されてきている。
そして冒頭に記したように、今では高専柔道で独自に発達した多くの独特な技法も復活を遂げているという。

佐々木氏は高専柔道の遺産である寝技の攻防の要点を、①上からの攻め、②下からの返し、③カメ取りの三つに分類し、②に関してはさらに三つの間合に分けて技を体系立てている。
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「昔は高専の技をどうやって復活させるか?ばかりを考えていました」
と語る佐々木氏だが、中には難しくてできない技もあったという。

「浅野返し」はその代表例だ。
浅野返しは高専柔道の強豪校、六高OBの浅野善造氏が得意とした、下から相手を返す技法である。

北大では東京五輪の前に浅野氏自身が当時の柔道雑誌で分解写真入りで解説したものを、武内光一氏(昭和36年入学)が研究し取り入れたのが最初であるという。
「でも当時はそれが浅野返しとは知らず、名前は知っていても浅野返しは幻の技の一つでした。北大では武内先生が復活させ、のちに修猷館高校で奥田義郎先生(天理大出身。大学時代に高専柔道の名門同志社高商の元師範胡井剛一のもとに通って寝技を習得し、佐藤宣践や岡野功を寝技で屠った伝説の寝技師)に学んだ渡辺康憲(昭和47年入学)がこれを教わっていて、飛躍的に発展させました。ただ、現在使われている技は、言わば『浅野返し改』というもので、本当のオリジナルは誰もできる人がいないのです。現在の浅野返しには一と二があります」
北大の、この浅野返しの一・二では、二の方が縦返しの逆転技など、いろいろに応用が利くのだという。

「オリジナルは相手の腹にあてた片手で支え、攻めに合わせてひょいっと返してしまう。ちょっと浮かせるのがコツなんですが、どうしてそんなことができるのか分からない。そこを、反動をメインに利用することで、誰でもできる技にしたのが改です。これは他の大学に知られるから本当はあまり言いたくないんだけど(笑)。渡辺がやるのは一だけでしたが、無駄な力を使わない素晴らしいものでした。これで北大予科からの伝統の『かみつき』をどんどん破ってしまった。ただ、浅野返しにも欠点はあって、要はこちらから攻めなければいいんです」

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寝技という大地の前人未踏な領域に多くの学生が新たな新技を編み出して足跡を残したが、新たな技も知られてしまえばその攻略法が研究され、数年後にはそのままでは通用しなくなってしまう。

「どんな技でも弱点のない技はありません。そこを突かれれば通用しなくなる。しかしそこを、さらに研究して乗り越えていく。この繰り返しによって、技はさらに深められていきます」

また、佐々木氏には高専の技で「これはもう自分しか伝承している人間はいないだろう」と思っていた技があったという。

「高専柔道の名著『闘魂』を書かれた湯本修治先生(旧制松本高出身)に習った技ですが、名前は知りません。戦後の一時期、湯本先生は各地の大学を回って高専の技を教えていたんです」

すでに湯本氏の母校、東大でもその技は失われていたという。ところが、ある時、北大の一年生がその技をやっていて驚かされた。

「千葉出身の子でしたが、『どこで習ったんだ?』と訊くと、高校時代に千葉大OBだった顧問の先生に習ったという。東大は一時七帝戦から脱退していた時期があり、技術も断絶しているはずですが、ちょうど、その人の年代というのが東大がまだ発信力をもっていた時代で、近郊の大学がいろいろ研究していた時期なのですね」

高専柔道から七帝柔道へつながる歴史の中で、様々な個性的な技が生まれ、その一つひとつにドラマがある。

一つの技でも大学によって様々な呼び名があるのも、常に新陳代謝を繰り返す寝技文化の面白いところだろう。

「東大や東北大などがSRTと呼ぶ技は、ウチでは遠藤返しとも呼びます(もともとは京大の遠藤選手が開発した技)。これも今ではポピュラーな技の一つですが、ウチでは七帝用のやり方と講道館ルールでも通用するやり方の二種類があります。別の雑誌で東北大とウチの違いとして紹介されていましたがあれは間違いです(笑)。ウチは両方やります」

1995年頃、のちの総合格闘技の先駆けとなるフリールールの格闘技が行われるようになり、その中でブラジルのグレイシー柔術が衝撃をもって寝技の有効性を知らしめることとなる。
こうしたブラジリアン柔術(B柔術)の影響は七帝戦にはなかったのだろうか。
「もちろん、あります。多くの技がでてきました。それは考える人の人口の差もあるでしょう。彼らは10年単位で考えられますが、七大学合わせて300人ほどの競技人口があったとしても彼らは3年半で卒業してしまう。ただ、私が言いたいのは、皆、B柔術との共通項に頼ろうとするんですが、違う点が意識されていないということです。団体戦が基本にある高専や七帝には『分けの思想』がある。たとえ自らが弱くても相手に絶対にヤられない。どんなにカッコ悪くても生き残る、『分ける』ということを高い位置に置く七帝の考え方を身に付けてほしいのです」

だから七帝柔道では「カメ」の技術が高度に発達し、それを破る技術とともに、中心的な役割を担うこととなる。
「よく首を守ることに拘る人がいますが、大切なのは脇の固さです。脇を取られると簡単に返されてしまう。確かに襟を取らせないことは基本ですが、ここを突破されると案外簡単に取られてしまいます。それより、脇を固めて相手の手の進入を阻止することです」

とはいえ、七帝で鍛えられた鉄壁のカメで襟を守られると、これを攻略することは容易ではない。
「寝技で『まて』で数秒間で助けてくれるような国際ルールの甘っちょろいものではありませんから(笑)。八分間、完全にカメで守る技術、七帝の鉄壁のカメを取るのは国際ルールやってる連中には無理です。私の知る限り、七帝の鉄壁のカメに対して首がとれるのは『舟漕ぎ』だけです。でも国際ルールの連中がやってる『舟漕ぎ』では甘い。それは相手のカメも甘いから。七帝の堅いカメを取るには八分間かけてでも絞め落とす強烈な『舟漕ぎ』を身に着けなければならない」


今回この舟漕ぎも御紹介いただいたが、これを練習させてみて、上手い人間には絞め技を仕込むのだという。
「関節技には結構興味を持つ人が多いのですが、絞め技はなかなかやろうとしない。襟を取るのが難しいからですが、そこで私は襟を持つことがどれだけ有利か体感するために背負投に対して掴んだ襟を放さず相手を潰していく『背負潰し』という練習を取り入れました。これによって絞め技をやる人も多くなったので今ではこれを『絞め入門』と呼んでいます(笑)」

佐々木氏の工夫はまだまだあるが、誌面の都合から最後に効果をあげた改革は何かをお聞きした。
「『反復練習』を取り入れたことです。そもそも〝立ち技の打ち込みに相当する寝技の練習はないのか?〟という疑問がありましたが、高専柔道の資料を見るとやたら『反復練習』の大切さが語られている。でも、やり方が書いていないので自分で考えて、試合に使わないような技でも全ての技を1,2年生には強制的に反復させる練習を実施しました」

3年生にはその中から自分に合った技を選択させた。
このため逆に、最も基本となるスタンダードな技が整理され、それを代々伝承し、そこから自分自身の〝技〟を作り出す方法論が確立された。
それはまるで日本武道が醸成した、「形稽古」の本旨を、地でいく方法論とも思える。
「どうしても技というのは、その時の指導者のマネをしてしまう。しかし、体格も性癖も違う人間が真に技を使いこなすには、自分の中で技を作る必要がある」
創意工夫によって常に進化する〝寝技〟という武道文化の真骨頂。そこに、武道の原点ともいえる上達論が垣間見えた。

(「月刊秘伝」2012年8月号)


明治維新という詐欺と詐術の掠奪事件によって 其の道具に利用されるために造り出されたのが
「日本人と日本」
という詭弁の言葉である。
それは単なる 一神教で野蛮人なハイパーキチガイカルトの集団を指す言葉 でしかない。

極東の一諸島の圧倒的大多数を構成する多神教で文明人の社会共同体の一般民衆
とは 全く別の民族 が 「日本人と日本」というカルトな異民族 の正体である。

此の詐欺詐術を追い続けていたら 今度は こういう話へまで来てしまった。
俺は様々な話を追い続けてきたけれども 行き着く先は全く同じで
大量虐殺と民族浄化と掠奪と陵辱の地獄絵図しかない。

それでも尚に 多神教で文明人の者達は日々の生活に勤しんでいる。
それでも尚に 一神教で野蛮人な「日本人と日本」は大量虐殺と民族浄化と略奪と陵辱をウツクシイと言い続ける。

ただただ俺は 此処で更新をし続けるだけだ。




August 08, 2014 三角の話(の序文)/続・闘魂「高専柔道」三角の決まり手
http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/archives/1607285.html
今、一部のマニアの方の間で 高専柔道から続く「三角」の話ほかが盛り上がってます。

三角についての現状の情報だけ整理しておきます。
お断りしておきますが、この内容は、ほぼ、東北大柔道部OB某君調べで、
まわりは突っ込んだりしてただけです。

あとはやはり東北大の先輩で某校教授で柔道部部長の先生から貴重な資料がメール送信されてきてます・・・
(※六高部史の写真とか)
私は部誌はむろん、元の資料(本)すら持ってないのもあります。
(マニア度で負けてます)

(※六高部史の野上智賀雄や荒谷千次、中川励三などの おそらく昭和2~3年ころの集合写真も貴重。
 私はどの方も初めて写真みました。

野上智賀雄氏は、木村政彦より以前、高専柔道史上最強と謳われた強豪。
高専柔道の枠を超えて、柔道史上の強豪にも列せられており、立ってよし寝てよし、
個人でも後に京都帝大在学時に全国制覇(全日本柔道選士権大会)。

牛島辰熊への寝技の指導や対戦でも知られてます。
(寝業では野上が上、立っても同等だったらしい)。

また下に説明しているように、荒谷千次氏は、「千次逆」の、中川励三氏は「裏三角絞」の開発者です。
ちなみに、荒谷氏は戦後、中国で消息不明になったとのこと。
満州では地方行政の第一線にたち(満州国吉林県福県長)、
人望あつく、中国語にも堪能、現地の老百姓からも信頼と尊敬を集めていたと。

しかし、敗戦後、居留民の引き上げ作業に従事されておられた際、
自らは脱出を断り、最後まで踏みとどまった責任感がアダとなり、中共側に逮捕連行されたとのこと。
その後は、炭坑で労働していたという風の便りがあるのみと・・・そのご無念いかばかりか・・・

この後は 本物の人の技術論なので あまりにも膨大となっている から割愛をする。
ただ こうして眺めると 「日本人と日本」と「嘉納治五郎と柔道」 という
一神教で野蛮人なハイパーキチガイカルトの大量虐殺と民族浄化と掠奪と陵辱の話の先を感じてしまう、
まだハッキリとは分からないが。

少なくとも 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか の話は そういう事のような気がする。

ただ其の前に
三角締めの歴史を こういう本職の人が追い続けて 結局に明治大正の頃の話へまで進んでいた
ので こちらも見てみたい。

一つ一つの文献を追っていき こういう話を始めている。

シリ-ズ「三角の話」(三角絞めの発祥)
http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/archives/1608552.html
※大正10年に神戸一中の道場で「三角の原型」を研究していたのは
この話の流れから中学生当時の早川勝らであろう。
六高生とは一宮勝三郎※か?
(※「一宮」との情報は、「木村政彦は~」の記載による(p103)。
増田さんは、他にも資料持ってるのかもしれない。)

(・・・と思ったら、以下資料を提供いただいた(東北大OB某教授より)・・・)

●「第六高等学校柔道部部史」(※平成元年4月1日発行、非売品より)
<一宮に関する断想>文:大正14年卒早川勝(※入学は11年)
・・・彼(※一宮)が、(※神戸一中を)卒業後、
六高に進み、その年の秋、前年の宿怨を晴らすべく、
県下優勝大会(※中学の大会)を目指して練習中、
忽然として来神(※神戸に来た)せる彼により、
秘術(今にして思えば三角逆)を伝授せられた。
午前五時頃であったが、電燈のない道場の暗闇で蝋燭の灯りを頼りに
説明を受け研究をした光景は今もまざまざ想起される・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※一宮は早川勝の一年上級で
神戸一中から六校に進学。
早川が在学中だった神戸一中に帰って三角を研究。
一宮(旧制六高一年生)から早川(旧制中学5年生)へと
三角が伝わった時の話(大正10年の秋)。
ちなみに、一宮は六高卒業後は九大に進学したらしい。

●『第六高等学校柔道部部史』(※おそらく文章は金光弥一兵衛)
・・・六高の柔道が強くなり新しい技を産み出して従来のものと
柔道の内容が変わってきた。
寝技が立技以上に世を風靡せんとしてくると
従来の専門家連中は安閑としておれなくなった。
そしてこれを研究し自分のものにするということよりも
これを恐れてきらった人が多かった。・・・
・・・講道館の大勢は寝技をきらってこれまでの審判規定を改正して
なんとか固技試合をやらせないようにしようとした。
・・・嘉納先生は「京大主催の高専大会に六高は優勝しているが、
優勝している六高が寝技をやめようといえば止めることはできると思うが
六高から言い出さないか」と。
私は、「それは話が違うように思います。京大主催ですから
大学が言うべきで、六高は気に入れば参加し、
気に入ねば参加せぬまでだと思います。
嘉納先生は「磯貝はどう思うか」。
「生徒がいうことをききませぬ」。
嘉納先生は「それでは文部省へいってやめさしてしまおう」・・・・・。
とにかく講道館柔道にとっては重大な危機が到来した。
ここで何とか対策をこうぜねばならぬという不安感が
先生方の顔に溢れておった。

嘉納先生はさらに「金光は両足で片手と首を絞める技をやっているが、
あれは危ないからやめてはどうか」。
私は「いえ危なくありません。持ち上げたら離せとなっており、
持ち上げは禁じております」。
磯貝先生「私は危ないと思います」・・・・・
結局この時の話合いでは、持ち上げる姿勢になった時には離す。
それまではやってよいということになった。・・・・・

この松葉搦み(三角絞)あるいは腕挫松葉固め(三角逆)は私の
考案した代表的な技の1つだが、これは
最初、六高の高橋徳兵衛君(※大正8入学)が
両方の脚をのばしてはさんでいたのを、片脚の方へ三角にはさますように
直していって松葉で搦らむようなあの型になったものだ。
一宮(大正10年入学)や早川勝(大正11入学)の頃には
もう技としてものになっておった。
その頃は持ち上げてもはなさなかった。
・・・<以下内容の要約>・・・
・工藤一三(強豪柔道家)が東京から六高に練習に来たが、
一宮が三角で何本もとったので工藤は稽古をやめた。
高等学校の生徒だとバカにできんと驚いていた。
・大正11年の講道館の紅白試合に六高の
山沢、一宮、佐々木、
早川昇(※文章中は早川勝だがその兄で昇の間違いと思われる)の四人が出た。
「松葉搦み」で抜くというウワサが伝わったため、
六高生出場の前に試合を中断して、三船久蔵が逃げ方を指導した。
こんなことは、講道館創始以来はじめてで、前代未聞。
しかも教え方が反対方向だった(技が効いてしまう方向)。
四人は三角は使わぬことにしようと相談し、
主として立技勝負で20数人を抜いた。
・六高の柔道、高専柔道は日本の柔道界に大きな影響を与え、
講道館は審判規定を変え、寝技を制限し、柔道界は2つにわかれてしまった。
戦後はさらにこの寝技制限に拍車がかかり、昔の高専柔道も滅びんとした。
ヘーシンクに二度も抑え込まれて多少は目が覚めてきたか。
恥ずかしいことじゃ(※昭和42年記(※となっている??))。

・・・・・・・・・・

※:講道館での六高生による「三角使わずボロ勝ちの件」
金光さんの言う「立技勝負で」っていうところが
ホントかな?と思ったら、
以下のように、出場した当人らによる
別の情報も教えてくれた(東北大OB某教授より)・・・)

●「第六高等学校柔道部部史」(※平成元年4月1日発行、非売品より)
<・・以下、要約・・>
(※大正11年7月?)京都の青年演武大会に六華会の名前で出場。
桜田、佐々木、一宮、佐藤、早川(勝)の五名。
勝ち抜きではなく、点取り勝負。
早稲田の大化会が二連覇中。
六華会は決勝で大化会と対戦
25歳までだったので石黒敬七は不出場だったが早大は強豪ぞろいだった。
早川は引き込んで田中を三角逆に仕留めた
(※下記の試合記録にもあるが、おそらく公式戦初の三角の決まり手)
大将どうしの試合は、引き込んだ一宮(六高)を
結城が引きづって柱にぶつけようとしたり、
当身まで使う乱暴さだったが引き分けた。
引き込んでも返せなかった六高と、
寝技を避けた大化会の引き分けの連続だった。
一宮は立っている間は
腰を引いて右手で相手の襟の下方を握って突っ張っていた。
そのため、身体が自護体になり
腹部の筋肉に力が入っていたため当身も効かなかった。
六高の宿舎までの帰路を大化会の応援団が襲うというウワサがあり、
京都武専の柔道部が対抗に集まり出したりした。
結局、何事もなく無事だった。

(※大正11年の秋に)講道館の月例試合に出て見ろということで、
(※六高から)早川(昇)、山沢、一宮、佐々木が選ばれ上京。
四人とも三段になったばかりであったが、
三段の上位位置に並べられた。
六高先陣の佐々木が試合場に出たとき、突然異様なことが起こった。
試合を中断して、三船師範が出てきて注意を与えるという、
「最近、関西では、変な逆が行われている」といって、
われわれの三角絞の型を、一門下生を相手にして実演して見せ、
「この逆は邪道の技であり、かけてくる相手を持ち上げれば効かない。
従って、持ち上げれば、かけた方に非常に危険であるから、
持ち上げて投げ下ろすことは禁止し、持ち上げた方を勝ちとする」
と長々と実演解説した。
こんなことはこれまでにない異例中の異例。

「こん畜生、講道館何するものぞ、今日の試合をみろ」
とわれわれは相当腹を立てたが、
当時の三角絞めは未完成であったことと、
我々が引き込んでも絶対ついて来ず、逃げる一方の相手には、
三角に持ち込む機会をつかめず、
これで一本もとれなかったのは残念であった。

われわれ四人の相手方は、大部分慶応、
早稲田大学の柔道部の現役選手。
試合の進行につれ、佐々木が一人、二人抜くと、
慶応の連中は全部棄権して出てこず。
早稲田の連中は一人もやめなかった。
佐々木は四人を抜いて五人目と引き分け。
戦法は寝技特に、固め技に徹し、引き込むやいなや、
相手の足を刈って倒したり、カニ挟みで倒して抑え込んだ。
相手は絶対についてこないので、
引っ込み返しを用いなかったのが勝因と思う・・・
二番手山沢は、ケンケン内股で崩して抑え込み、
3人目と引き分け・・・
(※抜き勝負で大量に棄権、勝ち抜きとなったので
試合結果記入の紙が足りなかったらしい)
また(※講道)館生がほとんどであったが、われわれに対し
、露骨に敵意を示した声援も、ものす・・・・

・・・・・・・・・

※要約でも臨場感伝わるんでは、
当時の荒っぽさと真剣さ、注力度がすごい。
※早稲田の結城が使った当身技は、「人中当身」で、
得意の必殺技で有名だったらしい。
さすがに飯塚審判から注意を受けたらしい(「闘魂」p332、333)
※引き込みアリ、というかそれが反則という規定がなかったらしい。
それで講道館柔道が相手ならそりゃ勝てるか。
※引き込みされると講道館柔道が成り立たぬということで
 嘉納治五郎が『試合は立ち技を以て始むべし』と規定を変更したらしい
(大正13年、翌14年には武徳会も(「闘魂」p335))
※大正11年だが、まだ三角は未完成だったと
少なくとも一部の人間は言っている。
※本人らは、立技でなく固技の戦法だった、
三角を使いたかったが
相手が逃げてできなかったと言っている。
金光さんが言うように、立技したというよりは、
相手が寝技を逃げ回ったという感じ。
金光さんは、たぶん現場は見てないと思う。
だいぶニュアンスが違う。
※早川昇は早川勝の兄(おそらく2学年上級で大正9年入学)

●「第六高等学校柔道部部史」(※平成元年4月1日発行、非売品より)
山沢準三郎(大正12年卒(※9年入学?))
<要約>
・・・(※大正11年)10月には、佐々木、私(山沢)、早川昇、一宮が
講道館の紅白大試合に四人で出ることになった。
佐々木が五人抜き、四名合わせて相手方不出場棄権を入れて、
二十四名の差をつけて勝負の赤線が斜めとなって書き様がないと言う
講道館始まって以来の未曾有の出来事をしでかして
寝業問題の種をまき、斯道に於いて
六華会の先輩達に溜飲を大いに下げさせた。・・・

・・・・・・・・・・・・・・

※早川昇は、早川勝の2学年上級で兄。
※試合結果も微妙に違うけど、まぁ誤差範囲か。
増田さんの本(木村政彦は~)に「4人で24人を抜いた」とあるのは
もしや、このあたりの記載からか?

●「新式柔道(金光弥一兵衛:大正15年)」
<・・・名称について・・・>
二六、「松葉搦みの絞め」(p148)
・・・この業は著者が発見したる業の内にても、
人々の注意を惹きたるものの一つにして、
この名称は絵に書く
折松葉の如くに搦みて絞むるをもって
名付けたのである・・・

・・・・・・・・・・・

<ワタシのまとめ>
★まとめると、六高系では、
・高橋徳兵衛(大正8年入学)が三角の原型の「はさみ技」をやり、
・そこから金光師範(大正9年着任)が着想を得て、
・一宮勝三郎(大正10年入学)ほか、あたりで、
「三角形に足を組む」改良・完成がなされ、
・早川勝(大正11年入学)の技が、
実際に試合で威力を発揮したため印象に残った・・・
みたいな感じです。

完成は、ひいき目にみて大正9年~10年。
金光は、自分が中心で
開発が早かったと、
自分の手柄を強調したいようだが、
六高への着任自体が大正9年だし(前任は広島高師らしい)、
実際は大正11年でも未完成と言っている人もいる。

ちなみに、最初に三角の決まり手を残したのは、
おそらく下記の試合結果のように、
大正11年入学の早川勝。

(※ローカル大会とかだと、
もっと早期にあっても不思議はないが、
メジャーな試合で記録が探せたものでは
大正11年の早川勝だと思う。
そうだよね?O君。)


・・・・・・・・・・
<私の感想>
これ、時系列で見ると四高系の三角の方が早い(大正6~7年)。
さらに小田常胤の記載のように、六高にはまだ三角がない
大正7年(1918)に既に高専大会でみられていることになっている
(小田常胤はこれを踏まえて大正7年に講習で
公開したことになっている)
この三角は四高由来と考えるのが自然。


六高や金光は早くて大正9年頃に改良を始めたことになるが、
そっちの情報知らなかったのかね?
当時の金光の立場、背景でそんな情報を知らないとすると失態だと思うが・・。
六高では、そっちから着想を得たとか
講習で知ったとかいう記述はない。
「講習」の件自体、触れてない。
六高の自力開発だとなっている。

しかし、小田常胤(つねたね)が言うように
『・・それ(※大正7年の講習)以来、
急速の進歩を見、全国的に研究されるに至った・・』
・・・のなら、六高での開発もその由来がどうであれ、
時系列的には、そういう全国での研究の一環ともとれる。

開発の経緯(技の由来)については、似たようなもの。

四高も六高も両脚ではさんで十字逆に入るような技から始まって
足を三角に組むように改良したと言っている。

案外、寝技をやりこんでいたら
自然に思いつくものかもしれない。
高専柔道も最盛期で、
四高も六高も当時はピークの頃だし。

特に、その中でもともと「柔道」が強く
研究熱心で、大柄で、足も効いたらしい
六高の早川勝さんが抜きんでていたんだろう。

技が凄いと印象が強くなる。
相撲で「呼び戻し」といえば
初代若乃花みたいな話。

それと、着想としては、「絞め」ありきじゃなかったんだね。
十字からの発展らしい。
首だけを足で絞めると柔道では反則だから
腕も挟んで絞めるように工夫したところから
「三角」ができたという説もあるが、
言われてみれば
下から十字に攻める入り方から発展した、
という方が自然な気がする。

ただ六高が三角を確立・習得した時点(大正11年)でも
四高コーチだった三船さんについては三角を邪道扱いしたり、
三角が習得できていない(理屈がわかっていない)ことになるな~?
四高の学生(後藤さんとか、加藤さん)の精度については不明だけど。
その後の大学生としての試合でも「三角」ではなく
「かに挟み」と呼んでいる例もある(上記)。
そもそも「指導者」が「邪道」とか批判してるんだから、
金光さんに手柄がいくのはしょうがないかもね。

ちなみに、四高の全盛期は大正3~大正9までの七連覇で終わるが、
それに代わって、六高は、大正11年、
まさに早川勝による三角絞め投入の年から高専柔道大会を8連覇している。

六高全盛期は、三角絞め開発とともに始まり
三角の発展とともにあったということができる。

<その他>

●「柔道一代 徳三宝」:
徳三宝(・・・の明治43年逸話。経歴不詳の「30歳代の壮漢」)
立派な体格をした三十歳をこえたと見える壮漢が(※講道館に)現れた。
・・・ところがこの壮漢なかなか強い。酒井君(※二段)は
両足で首をはさまれて、だんだん旗色が悪くなってきた。
みていた徳先生は、居たたまれず、
「よしッ、俺が相手になってやる」と酒井君を相手から引き離すと・・・
(「柔道一代 徳三宝」)

※Wikipediaの「三角絞め」に紹介されている
「古流柔術起源説」の逸話はコレらしいが、
「両足で首を挟んだ」っていうだけで、
身体の位置関係も方向も相手の腕がどうなっていたかも不明。

・・・・・・・・・・・・・
<ワタシのコメント>
古流柔術まで調べてないけど、
そんなに昔に三角(特に前三角)あるんだろうかどうだろうか?

あんまり古い武術の時で
甲冑着用とかだと無理な掛け方だし、
「レスリング」の寝技は投げ勝負の延長なので
下からの攻めはない(肩がつけばもう負け)。
(※裸でやる競技は、
武技というより奉納相撲みたいに神事に近いと思う。
とどめを刺す技というよりコケたら終わり)、
屋外の戦いで、なんでもアリなら、自分から下になりたくないし、
動物的にも自ら下になって相手に腹をさらしたくはない。

レスリングより古い
古代パンクラチオンでは噛み付き、目潰し※以外は、
打撃も、指折りも含めて全部アリで、
ギブアップ(戦えなくなる)までやっていたらしいから、
三角(前三角)も使う余地はあるが、
全裸※で戦うのに、自分の股間に相手の顔を挟むものかどうか?

(※パンクラチオンでは
 眼、口、肛門などの粘膜部位をえぐることは禁止)
(※パンクラチオンでは全裸で全身に油を塗って戦ったらしい)

畳の上での(着衣の)武術として、
普及、発展、洗練されないと生まれない気もする。

特にワタシが気になるのは、三角(特に前三角)だと、
攻められた方が、
口(歯)で相手の足に噛み付けるじゃないかという点。
(相手に失礼というより自分が危険)

技を掛ける方は、自分の急所や内またやふくらはぎを
相手の攻撃装置(口)にさらすわけですから。

だって動物なら口(キバ)が最強の攻撃装置なわけです。
ルール無用のサルを相手に戦うことを想像したら
怖くて前三角なんてかけられない。
こっちが股開いた瞬間に、
急所とか内モモに噛み付かれる。

(まぁ打撃の話以外にも、
目つぶし、噛み付き、頭突き、指折りとかあったら
寝業もクソも技術体系が全部変わるワケですが)

本能的な話なんですが、
いちおう気になります。
動物的には前三角は絶対ありえない技。
(合意によるルール整備、審判がいる)

だから、十字や前三角より、
腕がらみの方が
本能的には自然かな。
相手の口(歯)による攻撃に身をさらさないという意味。
さらに、格闘技的にも
抑え込んだまま掛けられるという意味もある。
そういう意味だと、
バックからのチョークがいちばん本能に近いか。

具体的には書きにくいが、某高師範は
三角がお嫌いで、絞めがお好きだ。
そういう背景もあるのかもしれないと
書きながら思った。
(もしかしたら、相手の顔(首)を足で絞めるのが
失礼っていう意識もあるのかな?
わかんないけど)

どっちにしても、本能から遠い技は、
いきなり現れることはないはず。

相撲にあるような立関節技なら本能でも
やりそうな気はする(古流柔術にもたいていある)が、

三角は、文化レベルがあがらないと、
あんまり古代の原始的な武技(闘争)には
ないんじゃなかろうか?

逆に言うと人間的な技で、
洗練された高度な技と言えるかも。

どっちにしても、古流柔術にまで
三角を探すのはさらにマニアになるので
ワタシには、さらに無理です。


そして その後も様々な文献を膨大に列挙しているので やはり割愛をするしかないが、
 柔術という多神教で文明人な徳川政権下の人々の戦力を
 柔道という一神教で野蛮人なハイパーキチガイカルトの異民族の明治政権の詭弁詐術が
 如何に大量虐殺と民族浄化と掠奪と陵辱し続けていくか
の歴史の顛末に見えてくる。
 田辺又右衛門の不遷流 の先を潰して だからこそ生じた 三角締め をも潰す
 という人と技術の歩みの先を抹殺して掠奪と陵辱をウツクシイとする連中の蛮行
そんな明治維新以降に一貫して行なわれ続けた 無数の地獄絵図の一端 を眺める気にしかならない。



September 04, 2014 七帝柔道フランス遠征の記事(朝日新聞)
http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/archives/1611287.html
七帝柔道を扱う記事では、たいてい、「寝技ばっかり」、「寝技中心」とかいうが、
「ほかの柔道」が寝技を軽視し過ぎなんである。

七帝ではどっちでも好きなだけやっていい本来の武技でもある。
立ちたければ立ってやればいいし、寝たければ引きずり込めばいいんである。
自分の信じる方法で仕留めればいいんである。

肝腎なところで審判が止めたりしないだけである。
最後まで決着つけさせてくれるんである。だから納得するしかないんである。

そういう観点はあんまり言わないね。

普段の練習でも「立」から「寝」まで連続して乱取りするところがいいんである。
何ルールの柔道の試合でもそれは当たり前だし、
実際は一番大事なんだけど、やってないところが多いんである。

わかるね。

ついでに、余計な話だが、私の場合、別に寝技好きなんじゃなく、
すっきり決着するのが好きなだけである。
だから相撲も好きなんである。誰が見ても納得するしかないんである。

もっと余計な話だが、
私の場合、筋がとおらないことがイヤで
筋をとおしたいだけである。

現状の全てのマスコミ新聞テレビ大手メディアは
国共合作な55年体制の復活と強化 という大政翼賛会の下僕でしかないので
一神教で野蛮人な「日本人と日本」がウツクシイという話をしか書かない。
 多神教で文明人の極東の一諸島の圧倒的大多数を構成する一般民衆の社会共同体は
 大量虐殺と民族浄化と掠奪と陵辱をする事がウツクシイとする
為の情報工作と人民統制の情報流通を当然にする。

其処まで読み込まなければ 一瞬の内にカルトへと叩き堕とされるのみと化す。
分かっている気がする だけでは勝負にすらならない、百戦して百敗するのが関の山だ。


September 05, 2014 サンデー毎日(七帝記事<上>)
http://blog.livedoor.jp/akoudou2008/archives/1611489.html

http://livedoor.blogimg.jp/akoudou2008/imgs/3/2/32a9b020-s.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/akoudou2008/imgs/1/e/1ee5f7f5-s.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/akoudou2008/imgs/2/e/2e04edd5-s.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/akoudou2008/imgs/6/1/61d7e704-s.jpg

昨今の七帝柔道の紹介記事にしては まだ中身が的を射ていると思う、
書いた粟野仁雄さんが阪大柔道部出身のジャーナリストであるからであろう。

ただし GHQが武徳会を解散した のと 高専柔道が消滅したこと の関連性が紛らわしい気がするけど?
まぁ、講道館だけ残ったという意味では同じことですが。

流石に分かってる人は 此処まで書くね。
ただし 色々な事を含めて 情報流通に妙なカネが流れているのが見えてくる。
あの 白竜とクロコーチの異様さ と同時期なだけにね。

そういう点を含めて 此の人の先は今後に として 次の話を。


漫画版「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」「KIMURA」単行本第3巻が刊行されました。
http://blog.livedoor.jp/masuda_toshinari/archives/51920384.html
週刊大衆で連載中の漫画版
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか~KIMURA』の第3巻
が発売されました。
作画は『プロレススーパースター列伝』の原田久仁信先生。
第0巻(プロローグ編)から始まっていますので実質的には4巻になります。

木村政彦少年が地元熊本の鎮西中学を卒業して牛島辰熊先生のスカウトを受け、
いよいよ上京して拓大予科に入学、牛島塾に入ります。
木村のライバル阿部謙四郎も出て、後の戦いをあおっています。

コレも結局に 柔道(笑)との不思議な話の先を 今後に書くようだ・
さてさて 何処まで書けるかなぁ。

http://blog.livedoor.jp/snt1091/archives/7841568.html



田辺 又右衛門 の先を生きる。 其の3-2。 中井祐樹や木村政彦や旭山動物園は。



面白いのが こんな感じ
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%94%BF%E5%BD%A6%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1%E3%82%92%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B
こういう書籍の場合は ほぼ間違いなく 密林やら7やら何処かのネット販売 が最上部へ来る。
なのに俺が見た時はwikipediaが最上部へ出てきた、不自然に極まりないw

史上最強の柔道家と呼ばれる木村政彦の生涯を書いた評伝。その過程で、明治、大正、昭和、平成にかけての柔道史と、世界の総合格闘技(MMA)史や、空手、合気道、ブラジリアン柔術、プロレス史などに触れられている。

昭和12年から全日本柔道選手権を13年連続で保持、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」「鬼の木村」と讃えられた木村の生涯を、新聞記者出身の作者が、これまでに築いた取材力と人脈を活かしながら、18年の取材執筆を元に書かれている。

同 郷熊本出身で「鬼の牛島」と呼ばれた牛島辰熊によって才能を見出された木村政彦は故郷熊本を離れ、東京の牛島塾で訓練を受け、全日本選手権を連覇、 1940年の天覧試合を制する。しかし、戦争で柔道から離れざるえず、戦後もGHQによって軍国主義的との烙印を押された柔道は禁止され続け、不遇の時代 を過ごす柔道家のために師匠牛島はプロ柔道を旗揚げし、木村政彦も参戦する。

しかし、興行の失敗で師弟は袂を分かち、木村は海外へ渡る。 ブラジルのマラカナンスタジアムでエリオ・グレイシーの挑戦を受け、これを退けた木村はアメリカ本土に渡りプロレスラーとなった。やがて帰国した木村は、 別ルートでプロレスラーとなり、日本にプロレスブームを引き起こした元大相撲関脇の力道山とタッグを組むようになる。しかし、プロレスに適応できず、負け 役ばかりの現状に耐えかねた木村は、「真剣勝負で決着をつけよう」とマスコミを通じ力道山に宣戦布告する。ここに「昭和の巌流島」と呼ばれる試合が行われ ることとなった。

ここまでで とりあえずは充分だね。 なるほどね。 そういう事だね。
ただし 其の先を知る のは もっともっと先になるのだが。


【読書感想】木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか - 琥珀色の戯言
http://d.hatena.ne.jp /fujipon/20130204
昭和29年12月22日----。プロ柔道からプロレスに転じた木村政彦が、当 時、人気絶頂の力道山と「実力日本一を争う」という名目で開催された「昭和の巌流島決戦」。試合は「引き分けにする」ことが事前に決められていたものの、 木村が一方的に叩き潰され、KOされてしまう。まだ2局しかなかったとはいえ、共に生放送していたテレビの視聴率は100%。まさに、全国民注視の中で、 無残な姿を晒してしまった木村、時に37歳。75歳まで生きた彼の、人生の折り返し点で起きた屈辱の出来事だった。柔道の現役時代、木村は柔道を殺し合い のための武道ととらえ、試合の前夜には必ず短刀の切っ先を腹部にあて、切腹の練習をして試合に臨んだ。負ければ腹を切る、その覚悟こそが木村を常勝たらし めたのである。約束を破った力道山を許すことができなかった木村は、かつて切腹の練習の際に使っていた短刀を手に、力道山を殺そうと付けねらう。しかし、 現実にはそうはならなかった......その深層は? 戦後スポーツ史上、最大の謎とされる「巌流島決戦」を軸に、希代の最強柔道家・木村政彦の人生を詳細に描く、大河巨 編!!
「ああ、プロレス黎明期に力道山に負けた、柔道家のことか」
この本を読むまで、僕の「木村政彦」という名前についての知識は、それだけでした。
いや、格闘技好き、プロレス好きだから、「名前くらいは知っている」と言うべきなのかもしれません。


この本を読んでいて驚いたのは、著者が関係者への取材も含め、丹念に事実関係を調べていることでした。

18年も取材してきたということには頭が下がりますし、著者の熱意に感応して、柔道や総合格闘技のトップ選手たちが、彼らの視点で、木村政彦という人の「柔道家とて、格闘家としての技術」を率直に語っていることにも驚きました。

こんな人までも!と思うような選手たちが、著者と「木村政彦談義」を繰り広げているのです。

そ んな高額な謝礼が出ているわけではないと思うので、これを読んでいると、著者も含めて、柔道をはじめとする武道家、そして格闘家というのは、とにかく「強 さ」というものに、圧倒的なこだわりを持ち続け、それを語り、実践することが好きで好きでたまらない人なんだな、とあらためて思い知らされました。

そして、この本のすごいところは、「木村政彦の伝記」だけではなく、「木村政彦と彼に関わった人たちを通じて、戦前、戦後の柔道界、そして格闘技界の裏側に光をあてている」ところです。

いま、講道館にほぼ一本化された「柔道」以外にも、戦前には寝技を重視した「高専柔道」などが大きな流れとして存在していたこと。

い ま「綺麗な『一本』にこだわる日本の柔道」というのがメディアでは美化されていますが、スポーツ化を推進するあまり、「本当に実戦で役立つ格闘技」である ことから乖離してしまっていることへの疑念や、スポンサーからお金をもらったり、企業に協力してもらっているのに表面上は「アマチュア至上主義」を標榜 し、プロレスのリングに上がった多くの選手たちを批判し、排除していることへの問題提起も率直になされているんですよね。


戦後に戦う場と働く場を失った木村政彦さんは海外へ渡らざるを得なくなり、其の先で、あの「グレイシー柔術」のエリオ・グレイシー(ヒクソン・グレイシーの父親)と闘った試合の場面では、文字通り「手に汗を握って」しまいました。

日本では廃れてしまった寝技、関節技を駆使するエリオと、あらゆる格闘技に興味を示し、立ち技だけではなく、寝技も「史上最高の使い手」であった木村政彦が、地球で日本の反対側にある国で、「最強」をかけて激突する……

そして、この試合で見せた、すでに全盛期は過ぎてしまっていたはずの木村政彦の強さ!

著者は、この試合の前の、こんなエピソードを紹介しています。

木村はたしかに試合前にマスコミに対し「私が負ける可能性は皆無だ」と断言していた。しかし、エリオを馬鹿にしていたわけではない。

エリオによると、試合の数日前、木村に頼まれたといって通訳が一人でエリオの道場にやってきたという。
「木村さんの絞技や関節技が完璧に決まったら、エリオさんはタップしますか?」

エリオはそれを聞いて激怒した。木村ははじめから自分が勝つと思っているのか。傲慢すぎる……。
「失礼なことを言うな!」

エリオは通訳を追い返してしまった。
次の日、木村がその通訳を連れて直接エリオを訪ねてきた。
「ミ スターエリオ、昨日は申し訳なかった。私はあなたを見下したりからかったりしているわけじゃないんだ。心から謝る。本当に申し訳ない。試合はどちらが強い かだけをはっきりさせればいいと思うんだがどうだろう。必要以上に傷つけあうことはないだろう? 夜、ベッドの中に入るとき、私は人の腕が折れる音を思い 出したくないんだ。結果はやってみなくてはわからない。でも私の技が完全にかかったら、そのときはタップしてくれ」

エリオは感動した。
自 分は敵の木村を倒すことしか考えていなかったのに、相手の木村はそんなエリオの体のことを本気になって心配してくれていた。話の内容からすれば傲慢だと取 られてもしかたがないが、木村の態度からは微塵もそれが感じとれなかった。笑みを浮かべるわけでもなく、威圧もせず、嫌みもなかった。その堂々と男らしい 態度に、木村政彦こそ本物の王者だと思った。


そんな木村さんと、プロレスの英雄・力道山との邂逅が、(少なくとも木村さんにとっては)不幸な結末を生むことになりました。

木村政彦は怪物であった。
しかし、力道山もまた怪物だった。
こう書くと、十五年不敗の不世出の柔道王と関脇止まりの力士を一緒にするな
と柔道関係者は思うであろう。

たしかに怪物性の色は違う。
しかし、力道山もまぎれもない怪物である。
それは木村政彦の側に立って評伝を書く私が言うのだから間違いない。

何をもって怪物というのか。
説明する際に、まずはプロレスファンの作家、故・山田智彦の書いた文章を読んでほしい。

力道山は、たしかに純粋で人のよい一面を持っていたし、笑ったときの表情など忘れたがたいものがあるが、それはほんの表面だった。猜疑心の強さ、傲慢さ、 酒ぐせの悪さ、金銭への執着など、調べれば調べるほど、一ファンとしてはとまどうことが多い。(『ザ・プロレス ラー』)

プロレスを愛するからこそ言える潔いものだ。

力道山の身近にいた者たちは、みなその人間性を否定する。
たとえばアントニオ猪木が靴を履かせようとした際に動物を扱うように靴べらで顔を叩かれて
「いつか見返してやる」と暗い怒りを腹に溜めていたのは有名な話だが、
一方で力道山に可愛がられていたといわれるジャイアント馬場でさえ
「人間として何一ついいところのない人でした」と言っている。
単なる「カルトの住人」の一言で良いんじゃね?w

師匠であり、日本のプロレス界の大功労者に向かって、そこまで言うか……という感じなのですが、
「そこまで言うほど、酷かった」ということでもあるのでしょうね。

・そこまでして なんとしてでものし上がっていこうという野心家・力道山
・格闘家としての強さへのこだわりはあったけれど、
 それ以外のもので自分を武装することなど考えもしなかった木村政彦
の「最強」決定戦。

「全盛期を過ぎていたとはいえ、
 史上最強の柔道家であった木村政彦が、相撲で関脇止まりだった力道山に、負けるはずがない」
その思いから、この評伝は書き始められました。
しかし、著者は「あの試合」について検証していくうちに「迷い」を感じることになるのです。

「木村政彦は、力道山にだまし討ちにされたのか? 実力勝負なら、勝っていたのか?」
「あの試合」について、著者が出した「結論」は、実際にこの本を読んで確認していただければ幸いです。

「骨太なノンフィクション」であり、格闘技に興味があれば、「読まないと損」とすら思われます。
終わりのほうに出てくる、柔道金メダリストの石井慧さんの話を読んで、
僕は、
いままで自分がメディアによって植え付けられてきたイメージと、
実際に著者が取材した実像との違いに、驚いてしまいました。
ああ、僕はいろんな偏った情報だけをみて「知っている」つもりになって、
いろんなものを見下したり、無視したりしているのだな、って。


“負け犬”の伝説『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20111003/E1317570668105.html
これはすでに現存しない3つのものについて書かれた本である。
1つは近世から日本に存在していた武道の系譜、古式柔術と呼ばれるものだ。もう1つは、その古式柔術の流れが絶えたことによって失われた技術である。そして最後の1つは、木村政彦という不世出の武道家の肉体、そして彼が体現していた精神だ。

な ぜそれがこの世から消え去ったか。答えは簡単である。歴史とは勝者によって綴られるものであり、その意に染まないものは消し去られる運命にあるからだ。正 史とはそうした記述の粛清によって成立したものであり、だからこそ非正規の歴史である野史が民衆によって語られていく。

だが積み重ねられ た歳月は重く、昭和から平成に時代が移ったころには古式柔術の系譜とその技術、木村政彦の名が人々の話題に上ることも稀になった。しかしあるとき、歴史の 悪戯のような事件がきっかけで失われたものたちが界面へと浮上し、再び光輝を放ち始めるようになったのだ。
増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』はそういう書である。スポーツ・ノンフィクションであると同時に歴史のありようについても語った本だ。

木 村政彦は戦前の柔道界において「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と賞されたほどの不世出の才を持つ柔道家である。1936年6月に阿部謙四郎に 敗れた後は公式戦の個人戦では無敗。1937年10月拓殖大学予科3年在籍時に現在の全日本選手権にあたる全日本選士権で優勝し、初出場にして初優勝を果 たす。しかも学生が普通出場する一般の部ではなく、プロの出場が認められている専門の部での快挙であった。以降は敵なしの三連覇を飾って大学を卒業した。
初優勝のとき木村は牛島辰熊から誉めてもらうどころか叱責を受けた。
「一度くらい勝って喜ぶな。十連覇してからだ」
牛島は木村が祝賀気分で増長するのを怖れたのだろう。木村はこう言って返した。
「十連覇ではなく二十連覇を狙います」
1941 年に戦争のため徴兵されることがなければ、木村は本当にそれくらいの偉業を成し遂げていたかもしれない。戦後の1949年に開かれた第二回全日本選手権で も堂々の優勝を果たしているからだ(ただし不可解な判定により決勝の相手である石川隆彦との同時優勝という奇妙な結果になった)。まさに13年間無敗。
しかも木村の場合、そうした公式戦以外にも数々の伝説を残している。その1つが1951年10月23日にブラジル・マラカニアンスタジアムにおいてエリオ・グレイシーを破った柔道対柔術の他流試合だろう。…

当 時のブラジルでは日系人社会が敗戦のために混乱の極みに達していた。現地ではすでに日本人柔道家・前田光世の流れを汲むブラジリアン柔術が勃興していた が、それを日本の伝統競技である柔道で圧倒し、民族の誇りを取り戻そうと考えた者があったのだ。講道館が支配する戦後柔道界と訣別し、結核に倒れた妻の医 療費を稼ぐために海外へと雄飛していた木村に呼び声がかかった。木村はプロレス・プロ柔道交じりの興行を打ちながら現地を訪れ、やがてエリオ・グレイシー の挑戦を受けてこれを一蹴する。決まり手は戦前から得意にしていた関節技の腕がらみだった。グレイシー一族が来日し格闘技界を席巻した際、平成のマスコミ はこれを黒船の来襲に喩えた。しかしそれ以前に敵地へと堂々と乗り込み、日本武道家の実力を見せ付けた男があったのだ。

すでに木村政彦を めぐる言説が多数流布されている。本書で増田俊也はそうした「伝説」の1つ1つに、一次資料の検証という地道な作業によって光を当て、虚実の別を明らかに したのである。木村を巡っては正史編纂が可能な立場にある2つの団体がその存在を抹消、あるいは誹謗によって卑小化しようとしてきた。その1つが日本柔道 連盟と一体の関係にある講道館、もう1つが力道山の興した日本プロレス協会の流れを汲む団体とその息がかかったプロレス・マスコミである。1993年11 月にグレイシー一族の一人であるホイス・グレイシーが第1回UFC大会に優勝し、「マサヒコ・キムラは我々にとって特別な存在である」と発言しなければ、 まだまだこの封殺状態は続いたはずだ。

本書で増田は木村伝説の検証と同時に歴史の暗部から2つの事実を発掘している。1つは戦後・講道館 によって日本柔道界が統一される以前には、2つの対抗勢力があったという事実である。もう1つは、それらの流派には近代以前の遺物(古式)どころではな く、スポーツとしての柔道を標榜する講道館の柔道からは失われた技術が継承されていたということだ。特に高専柔道についての詳細な記述は素晴らしい。

講 道館に対抗する2つの勢力とは、1つが1895(明治28)年に発足した武徳会である。1882(明治15)年に設立された講道館に対抗するために古流柔 術の各派が結束したもので、講道館が独占しようとしていた段位の発行(五段まで)の権利を持ち、特に関西以西では講道館を凌ぐ勢力を誇っていた。前述の唯 一木村政彦を破った男である阿部謙四郎はこの武徳会に属していた。

これが戦後になって消滅した理由は、戦中に東條英樹によって組織が私物化された歴史があり、GHQに守旧勢力として睨まれたためだ。
も う1つは1914年に第1回大会が開かれた高専柔道である。これは戦前の旧制高校(戦後になって東京大学教養学部などの各国立大学に吸収)旧制専門学校 (徳島大学や同志社大学などの前身)の学生が選手として競い合っていたもので、講道館柔道とは一線を画すルールが適用されていた。投げからではなく組み 合ってすぐに寝技に入る「引き込み」が許されていること、寝技の膠着状態による「待て」がないことなどの特徴がある。また、十五対十五の団体勝ち抜き戦が 適用されていたため、弱い選手であっても技術を学べば強い選手を引き分けで止めることが可能だった。このため選手たちは知恵を絞り、大会のたびに新しい技 術を考案されるという技術革新が成し遂げられたのだった。木村の師である牛島辰熊は早くからこの高専柔道に着目し、技術を学んだ。それを木村政彦にも教え たのである。後にエリオを破った腕がらみの技は、高専柔道仕込みの技術から生まれたものだ。高専柔道家たちの闘志はすさまじく、敗れるときとはすなわち意 識を失い、骨が折れるときだったという。

『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の魅力は、この高専柔道を中心とした技術論があるこ とである。牛島・木村の師弟は格闘技術を貪欲に学び続けた。木村は投げ技で大外刈り、極め技で腕がらみという二大武器を身につけたが、それに飽き足らず当 時は柔道の下に見られていた空手にも関心を持ち、近代空手の祖である船越義珍の松涛館に通って打撃をマスターしていた。真剣勝負においては組み合っての投 げで決することはなく、間合いをつめるための打撃、組み敷いて戦闘能力を奪うための寝技が必ず必要になる。つまり今でいう総合格闘技に近いものを「柔道」 として認識していたと増田は指摘するのだ。

対する講道館柔道はGHQの手前もあってスポーツ化を意識しすぎたために当て身(打撃)を排除し、一度投げてからではないと寝技には入れないというルールを作って柔道における投げ技の特権を確保しようとした。
其の入口を作ったのが始祖・嘉納治五郎である事は散々に見てきたね。「日本人と日本」の「明治維新 と明治政権」と全く同じで「柔道」もまた、其の最初の段階からして詐欺詐術詭弁でしか存在し得ない 一神教で野蛮人なハイパーキチガイカルト の道具で しかないのだ。その結果歪みが生じ、東京オリンピック以降に外国人選手の台頭を許してしまうのである。講道館柔道が世界柔道の 中で孤立している状況を、柔道を愛する者として増田は憂う。こうした形で一者支配による歴史の粛清、技術が絶えたための弱体化という現状が描かれているの だ。

さて、ここまであえて触れなかったことがある。表題にも謳われている「対力道山」の側面だ。戦後の木村は、師・牛島辰熊が創設に携 わったプロ柔道に参加したことを皮切りにプロ格闘家としての道を歩み、力道山よりもはるかに早くプロレスラーとしてデビューを果たす(その戦跡は「Gスピ リッツ VOL.21」に詳しい)。常に格闘界の最前線を走り続けた男がなぜ力道山に負けたのか。それを探究するのが本書のもう1つの役目である。

す でに巷間に知れ渡っていることであるが、プロレスは真剣勝負ではない。あらかじめ勝敗の決まったショーであり、観客に娯楽を供するための芸能である(そし て当時は興行を仕切る黒社会の力関係までが勝敗に影響していた)。そのことを当事者の力道山と木村は承知の上で1954年12月22日の試合に臨んだ。し かし待っていたのは娯楽とは程遠い凄惨な流血試合であり、木村は力道山によって一生消えない心の傷を刻まれた。始まったばかりのTV放送により、自分が マットに屈するさまを全国に放映されてしまったのだ。木村の74年の人生においてちょうど中間点にあたる37歳での出来事だ。木村は残りの37年を、悔恨 に包まれながら送ったという。華々しい前半生と比べてなんと痛ましく、なんと暗い時間なのだろうか。

柔道経験者である増田は心情の上で明 らかに木村贔屓だ。なんとか文章によって木村を救おう、名誉を回復しようという気持ちが行間から滲んで見える。しかしノンフィクションの著者として公平で もあろうとする。その揺れ方に著者・増田俊也の人間が見えている。本書が凡百の格闘技本と一線を画すのは、その揺れがあったからこそだ。著者は心の底から 木村政彦に惚れ抜いており、それゆえに真実をもって故人を悼もうともしている。ところどころで魂の叫びというべき記述があり、胸を熱くしながらそれを読ん だ。これは読者が増田の視線を借りながら木村政彦に惚れていく本でもある。

もっとも心を奪われたのは、木村とエリオ・グレイシーが闘いを 通じて心を通わせていくくだりである。強く厳しい木村には素朴で優しい素顔があった。そのことがエリオとの対話の中でわかるのだ(思想家として名を馳せた 師の牛島と対照的に、木村はいつまでたっても熊本出身の悪童のままだった)。だからこそエリオは自分を子供のようにあしらった木村の実力に敬服し、自分の 腕を砕いた技・腕がらみをキムラ・ロックと呼んで自身の技体系に組み込んだ。

最晩年のエリオ・グレイシーの述懐は、木村政彦に対する最大の敬意を表したものである。
「私 はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘られぬ屈辱であり、同時に誇りでも ある。彼ほど余裕を持ち、友好的に人に接することができる男には、あれ以降会ったことがない。五十年前に戦い私に勝った木村、彼のことは特別に尊敬してい ます」
講道館が黙殺し七段のまま留め置いている男。力道山が日本マット統一のために利用し、負け犬として葬り去った男。その真価は日本ではなく、地球の裏側で伝えられ続けてきた。


『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の漫画『KIMURA』の熱い魂に触れよ
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20140114/E1389628464529.html
木村の命日は1993年4月18日である。
その時点ではまったく正史からは消し去られた存在だった。

し かし半年後、思いがけないことからKIMURAの名は脚光を浴びることになる。2003年11月21日に開催された第1回UFC大会でホイス・グレイシー が優勝したからである。ホイスはグレイシー柔術が唯一敗北した日本人である木村政彦の名を挙げ、KIMURAの名が一族にとって特別なものであることを明 かした。

地球の反対側でひそかにその英名は語り継がれてきたのだ。
ここから作者はグレイシー柔術に対抗した一人の日本人に脚光を浴びせ始める。
中井祐樹である。

中 井祐樹は北海道大学柔道部の出身で、増田の後輩にあたる。彼は1995年4月20日に日本で行われた「VALE TUDO JAPAN OPEN 1995」のトーナメント戦において決勝に残り、ヒクソン・グレイシーと対戦したことで一挙に有名になった。しかしその闘いには大きな代償を払っていたの である。1回戦で対戦したオランダの格闘家ジェラルド・ゴルドーから目潰しの反則を受け、右目を失明していたからである。右の視力は戻らず、彼は大会後、 総合格闘技からの引退を余儀無くされる。

増田・原田のコンビは、この中井の闘いと木村・力道山の闘いとを並び立てて描いていく。2つの闘いが持つ意味とは何なのか。肉体が傷つけられるだけではなく、すべてを失う危険があると承知していながらも闘わずにはおれないのはなぜか。
読者は増田の視点を通じてその答えを知ることになる。

第0巻のラストを「週刊大衆」で読んだときに背筋を駆け抜けた震えを私は忘れられない。そこには梶原一騎が描こうとして果たせなかった『男の星座』が映し出されていたのだ。
おお、そうか。これは『男の星座』の正統な続篇となることを意図して描かれた物語なのか。


「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の著者が明かす、400戦無敗 ヒクソン・グレイシーの裏話
http://matome.naver.jp/odai/2133826681273508801

https://twitter.com/MasudaToshinari/status/205698840374943744
ヒクソン・グレイシーに「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の取材をした時、
まわりの人間は気づいていなかったが、僕とヒクソンはにらみ合い一触即発となった。
「これはノンフィクションなのか」と怒りの眼で聞いてくるヒクソン。
「イエス」と答えると、彼の眼が「覚悟はあるのか」と光った。

https://twitter.com/MasudaToshinari/status/205701109254332416
ヒクソンはだから、インタビューの間ずっと不機嫌だった。
この取材の自分にとっての意味を考え続けながら答えていた。
帰り際「シャトゥーン ヒグマの森」を渡すと「これもノンフィクションか」と聞いた。
「いや、フィクションです」と言うと肯いて笑った。
僕がヒクソンを見る視線はあれから変わった。

https://twitter.com/MasudaToshinari/status/205705062369075201
ヒクソンはもちろん格闘家だけれど、間違いなく思想家でもある。
思索しながら手探りで生きている。
ファイターたちは他のスポーツ競技の選手より「言葉」を持っている人種だと思う。
ヒクソンはそのなかでもさらに繊細な生き方をしている人だった。

https://twitter.com/MasudaToshinari/status/207139589767438336
腕力をたよりに生きてきた者は自分より腕力のすぐれた者が現れたときそれを蔑み、
自身の矜持を保とうとする。
知性をたよりに生きてきた者は自分より知性のすぐれた者が現れたときそれを蔑み、
自身の矜持を保とうとする。
そんなことでは、いつまでたっても子供だ。
それに気づいた者だけが前に進める。

俺は 己が負けを突きつけられた時に 悔しい と表現する事が有った。
それを自覚して そして記す事が 己が内側と向き合う事の第一歩となる そう思ってきたからだ。

https://twitter.com/MasudaToshinari/status/207148725578121217
そもそも人より優れることはいいことなのか。
人に勝るのはいいことなのか。
それが僕が「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で言いたかったことだ。
優れていることなんて誇ることでもなんでもない。
ヒクソン・グレイシーも小菅正夫旭山動物園前園長も同じことを言っている。

https://twitter.com/MasudaToshinari/status/207150079755304960
ヒクソン・グレイシーも小菅正夫さんも、
勝ってみせるしかその考えを世に示すことができなかった。
発言力を得ることができないことを知っていた。
だからこそ勝ちにいったのだ。
結果を出すことにこだわったのだ。

https://twitter.com/MasudaToshinari/status/207150784507420672
ヒクソン・グレイシーが試合前に緊張している息子に
「もし勝ったらご褒美を1つあげるよ。でも負けたらご褒美を2つあげよう」
と言ったエピソードが僕は好きだ。
ヒクソン自身も子供の頃、父のエリオから同じ言葉を言われていた。


木村政彦はガチで強かったのか? - NAVER まとめ 2014年07月06日
http://matome.naver.jp/odai/2139963695611700601



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%94%BF%E5%BD%A6
暴力団同士の仲介で、手打ちが決まり和解することとなった。
そもそもに
 すべて妻の結核が理由であり、
 アメリカ製の高価な薬ストレプトマイシンの費用を捻出するためである
と木村は語っている。

http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20130204
暴漢に刺され、若くして命を落とした力道山。
「最強」を自負しながら、「力道山に負けた男」として、75歳までの「余生」を生きた木村政彦。
どちらが「幸せ」だったのか?


川原正敏は何処まで描くつもりだろうね、期待してないけど。


柔術 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%94%E8%A1%93
柔道は起倒流・天神真楊流などを元に嘉納治五郎が創始した。
投 げ、固めの技法から、当身技や武器術も含む技法を網羅した武道を目指したものが柔道であった(前期柔道として現代柔道と区別する者もいる)が、乱取が競技 化したことにより(組み付いた状態での)投げ技と寝技の乱取稽古に特化し、当身や対武器の技術は形稽古のみで行われ後に禁じ手・反則技とされてしまい形稽 古自体さえも全く行われなくなった。

さらに、柔道から寝技の勝負へより特化したのが高専柔道や七帝柔道である。七帝柔道は高専柔道ルールを踏襲して現在も大会が続いている。

こ の流れについては増田俊也の『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』に詳しく書かれている。増田はこの中で「嘉納治五郎は当身を乱取りの中に取り入れ たがっていた。試合では禁止でも、日常の護身術として講道館は当身を教えるべきではないのか」と主張している。松原隆一郎も『武道を生きる』の中で護身 性・実戦性を失った柔道に問題提起している。

明治後期以降、大正、昭和の時代に入っても、実は特に関西以西においては講道館柔道より古流柔術が優勢にあったことは、この増田、松原以外にも井上俊ら研究者がたびたび指摘している。

例えば大正時代後期から昭和前期にかけて5回も講道館柔道日本一に就いている大柔道家・牛島辰熊は熊本時代にはもともと扱心流を修行しており初めて日本一に就いた時には講道館の段位を持っていなかった。

ま たこの牛島の弟子で講道館史上最強と言われる木村政彦は昭和12年(1937年)から昭和24年(1949年)まで全日本柔道選手権を保持しこの時代を全 盛とするが、やはり熊本時代に修業したのは竹内三統流であり、講道館ではない。段位も3段までは武徳会から允許されている。

また牛島辰熊も木村政彦も高専柔道をやっていたため、実際には彼らの寝技は講道館の寝技ではなく高専柔道のものであった。

このように、講道館中心史観によって、柔術と柔道の歴史は大きく歪められて伝えられていると指摘されている。。
松原隆一郎『武道を生きる』(NTT出版)

武徳会柔術形
明 治39年(1906年)7月、京都の大日本武徳会本部にて、講道館の嘉納治五郎委員長と戸塚派揚心流の戸塚英美委員、四天流組討の星野九門委員、他17名 の委員補(双水執流組討腰之廻第十四代青柳喜平、不遷流柔術四代田邊又右衞門など)柔術10流・師範20名で構成される「日本武徳会柔術形制定委員会」に より嘉納委員長の提示した当時の講道館形を原案に検討し1週間で制定された。その内容は1908年に便利堂書店から『大日本武德會制定柔術形』として出版 される。講道館柔道を含む全柔術流派を統合する形であった。講道館柔道形の投の形、固の形、極の形として残されている。









http://ameblo.jp/yawara0321/entry-10618301690.html

http://wyakumam.doorblog.jp/archives/5129952.html
武道を知ることで、男女ともに日本人としての誇りや礼儀などを学ぶ という狙いも授業にはある。
この日は畳の上に正座をして礼をするところから始まり、最後は礼をして終わった。
立って礼をするときは手のひらを相手に見せて、武器を持っていないことを示す。
こうした意味を授業で初めて知ったという生徒は多い。
受け身など、ケガをしないための技術を身につけるのも武道の目的の一つだ。

相手を支配する道具 として武道を利用する、
のは一神教で野蛮人なカルト集団の常套手段である。
しかし武道の本質は あくまで多神教で文明人の美意識や価値観や生き方にこそ本質がある。

野球という武道が 礼に始まり礼に終わる 互いの健闘を誓う などもまた全くに同じだ。
つまり 戦う当事者に決着が付けられない場合に
其の場を平和的に修める高度に洗練と成熟の有る差配が
 「勝負の預かり」→「抽選」
の場合は
 恨むのならば勝負の相手を恨まずに
 「勝負の預かり」を行なった責任を持つ上部構造を恨め
という 上部構造を担う者達 が 責務を果たす姿 でも有る訳だ。


上部に座して場を差配する者達 が 責任を預からずに状況に流されたままに
現場で戦う者達が激しく消耗をするのみとなる、
それで 何処のインパールだかガダルカナルと全く同じ構図そのものだよね。

けれども旧式左翼カルトは必ずに 明後日の方向へと誘導を計る。
そして宗教右翼カルトは精神論だけを叫び続ける。
これが「日本人と日本」の情報工作と人民統制の本質である。


こうして 言葉にして 文章にして 論理構築と理論武装をする に
140文字の連続だけで可能となるような天才的かつ超人的な説得力の持ち主ならば良いのですが
俺は無能なので こうして書かないと出来ない。
そして 情報流通の先へと流されるだけの馬鹿で豚に過ぎない一般民衆を救えない己が無力を恥じる。


そして更に考える。
 2014/08/29の阪神とヤクルトの甲子園の試合で
 阪神が5点差で勝っている の 9回表のヤクルトの攻撃の無死満塁
 での降雨コールド打ち切りを7分で選択した
が如何に「最低」と感じるのか。

 上部に座して場を差配する者達 が 責任を勝手に預かり 状況を無視して 勝負の決着を勝手に図る

確かに 降雨後の試合は危険を伴い 試合時間が長引けば選手の疲労も厳しくなる けれども
武道としての野球をする者達からすれば
 武道の精神性よりも八百長を優先する上部構造側の差配
は「最低」に映るだろう。

しかも
 「飛ぶボール」「飛ばないボール」による
 外部からの試合への介入が著しい2014年の状況
を考える者達からすれば 其の美意識や価値観や生き方からして「最低」と表現したくなるだろう。

そして 俺は 此の試合の直後に高い確率で予想した
 翌日の試合は必ずヤクルトが勝つ
とね。
そして予想通りだったが

http://baseball.yahoo.co.jp/npb/game/2014083003/top
ヤクルト 0 0 0 2 0 1 0 1 0 4 14 0
阪神 0 1 0 0 0 0 0 0 0 1 8 1


殆どの選手は気付いているだろうね。

野球という武道を大事にする選手は表情が硬くなる一方だろうね。
もっとも そういう選手は精神的には大人の者達が多いから 上手に自己制御をするだろうけどね。
その先の心の深さを如何に読み解くのか? は 餓鬼やカルトの下僕奴隷には分かるはずも無いが。

ベースボールという道具をカネモウケにしか見ない者達は 楽園に居る心地だろうね。
そういう選手は人を殺す事も止めなくなるだろうけど それすら自己制御の能力とか詭弁を口にするだろうね。
人の心の深さを読み解く技術もまた大量虐殺と民族浄化と掠奪と陵辱の道具にするだけだろうね。

野球を眺める 其の深さを眺める とは ウツクシイ だけのはずが無い。
人の生き様を知る事でもある。
そして 自分が何者かを知る事でも有る。
だから俺は 俺の生き方を掲げる のみとなる。


更に もう一つ。
 試合を外部から差配する実行犯の一人が審判である可能性が高い
とは思っていたが 今回の一件で更に強く思うようになった。

「外部からの介入」に「飛ぶボール」と「飛ばないボール」を使い分けるには
主審から投手へ渡すボール が重要だからね。

そして最近は 「飛ぶボール」と「飛ばないボール」を使い分け だけでは無いようだ。
先日に巨人の山口とマシソンが急に打たれだした時に気付いたんだが
山口が投球の直前に グローブの中でボールをこねる様な動作を幾度と無く繰り返していた、
そういう動作は あまり見なかったように思えたが。
その後のマシソンも妙にボールが高めに浮きやすかった、元から制球は良くないが いつも以上に だった。

「似て非なる」ものだった統一球とWBC球
http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/03/20/kiji/K20130320005431560.html
縫い目の幅を1ミリ広く、高さも0・2ミリ低くして大リーグ球に近づけた。革もそれまでの最高級部分の背中だけでなく、大リーグ球と同じ脇や腹の部分も使った。それでも指先の感覚が繊細な投手にとって、統一球とWBC球は「似て非なる」ものだった。

統 一球を手にしたことのある松坂(インディアンス)は、握ったときの感触も含めたその類似度について「大リーグ球を10としたら、統一球は3くらい」と表現 する。違和感を感じていたのは投手だけではない。内川は「打ったときにすかすかした感じ」と力が伝わらない様子を訴えた。

さらに送球がすっぽ抜けて失策にならないように、低い球筋を徹底する指示も出ていた。

与田投手コーチは
「全ての選手と言っていいくらい、苦しんでいた。
 滑ると思うあまり無意識のうちに力が入る。
 統一球ではあり得ない腕や肘の張りが出る」
と指摘する。

僅かなボールの変化 でも投手は過敏なまでの反応をせざるを得なくなる、
それが近代野球の先の先に有る21世紀の野球である。
僅かにでも「滑る」ような細工が施されたボールを握らざるを得なくなった投手が
如何なる苦境へと陥れられるか。

そういう僅かな場所にこそ 秘密戦を生業とする者達の工作が有る事 は
情報流通の最前線で工作員の動向を過敏に見つめていこうとする 311以降に目覚めた ような人達ならば
簡単に分かる話だと思うんだけどね。

http://academicballpark.web.fc2.com/index.html

2014/04 飛ぶボールの影響は?? シーズン序盤 不調の投手達 ~被本塁打率・与四死球率悪化に苦しむ!?三嶋一輝・三浦大輔・石川雅規・マシソン・唐川侑己・成瀬善久・武田勝・吉川光夫・美馬学・松井裕樹etc…~
http://shinbo89.blog115.fc2.com/blog-entry-1139.html

貧打の原因は?2014年巨人打線の検証 ~阿部慎之助・村田修一・ロペス・長野久義・片岡治大・井端弘和etc…不調に苦しむ打者たちの成績~ 8月9日までのセ・リーグのチーム打撃成績を確認
http://shinbo89.blog115.fc2.com/blog-entry-1191.html


2014年のセリーグは特に
・ボールへの細工 等をする試合は両球団および他球団との談合によって 勝敗を上手に差配する
 → 順位の変動をさせない  勝敗を上手に分け合う という談合
が強く強く行なわれている気がしてならない。

談合の全てが悪い と俺は言わない、けれども程度というものが有る。
多神教で文明人の美意識や価値観や生き方の範疇を超える
つまり 武道の精神の範疇を遥かに超える 外部からの勝負への介入 は
流石に如何なものかと思う。
しかも 其の先に有るのは明らかに
 一神教で野蛮人なカルトの美意識や価値観や生き方による「外部からの介入」
なのもまた あまりに見透けている。


2013年09月27日 「勝率が8割な程度の実力の投手」が22連勝する確率は0.74%
http://mkt5126.seesaa.net/article/375883477.html

2013年11月06日 田中の移籍のバックマージンを狙うマスコミ新聞テレビ大手メディアの狂騒は快楽殺人を繰り返す精神異常者と全く同じ。
http://mkt5126.seesaa.net/article/379634284.html


2013年10月29日 不条理を前にしても 尚も真っ当に生きる、それが多神教で文明人の生き方で価値観で美意識であり、それが「野球」だ。
http://mkt5126.seesaa.net/article/378655463.html

2013年11月01日 国家機密で美味しい思いをする者達 へ如何に抗うか? の民間技術が極東の一諸島の社会共同体へ全く浸透していない。 川上哲治と情報統制。
http://mkt5126.seesaa.net/article/378982063.html


2013年06月17日 統一球(笑)の偽装を隠蔽し続けた理由は何か?
http://mkt5126.seesaa.net/article/366598296.html

2013年09月06日 「五輪招致という公共工事」を請け負う者達の感性。
http://mkt5126.seesaa.net/article/374132870.html

調べていくと 官憲の裏金 の話と瓜二つな事が分かる。
工作の差配を裏で主導している連中の性癖は完璧なまでに同じだろうけどね。


猛烈なハンデ戦を強いられた戦いを強要される原巨人だが
其の中で更に不思議に勝ちが拾わされたりする。

現場で 必死に真っ当に真摯に戦う者達 を尻目にして
「外部からの介入」で勝敗が決していく。
そういう時の選手達の苦悩の心の深さを読み解く事を
大馬鹿野郎は知る由も無いし
キチガイは斜め上にしか理解しようとしないし
詐欺師は更なる詐欺にしか利用しない。

さて いずれ更なる続きを書きたい、どうせ誰も書いてくれないから。


http://kylerod.blog58.fc2.com/blog-entry-716.html
外に出てきた会長に対し、頭を下げたのは被害者のほう。
鴨川会長は八百長試合に激昂してしまったわけです。

帰路につく福井を追いかける一歩。
心配し続ける一歩に対して、八百長試合の心境を語る福井。

http://yamasann0940.blog62.fc2.com/?m&no=419
フィリピン人ボクサーのマルコム・ゲドーと、日本人ボクサー福井(日本ランカー)の間で行なわれた八百長試合。
日本人ボクサー自体は八百長に関与はしていなかったものの、裏で仕込まれていた八百長に試合中に気付き、失意のまま引退を決意。
最後の思い出にと、日本チャンピオンである一歩にスパーリングを申し込むものの1ラウンドKOで返り討ちに。
歩いて帰る福井を追いかけた一歩との二人の会話。

一歩「本当にボクが言うのはなんですけど、ボクは力を肌で感じました。
   福井さんはもっと上に行けますよ。もったいないですよ。
   このまま引退なんて気持ちいいワケ無いですよ」

福井「キミは本当にまっすぐな男だね。
   勝っても負けても全力を尽くして、気持ちのいい試合をくり返してきた。
   だからきっと知らないだろう」

一歩「?」

福井「勝ち名乗りを受けた時、ヘドが出るほど気持ち悪い試合がある事を!」

一歩「・・・・」

福井「何発打ってもクリーンヒットは奪えない。
   3Rで相手の方が数倍強いコトを自覚した。
   それでもオレは必死に追いかけた。
   地元でのメインイベントで声援も凄かった。全力で応えようと思った。
   ・・・たとえ派手に倒されて負けたとしても、全力で戦う姿を見せたかった。
   だけど・・・何も起こらなかった。
   何度も何度もヤバイ瞬間はあったんだ。だけど何も起こらない。
  そのまま淡々と試合は進み、傍目にはオレが前に出続けて攻勢点を重ねたように映る。
   全て・・・ヤツの演出さ」

一歩「マルコム・・・ゲドー」

福井「そうだ。そしてその演出通り試合は終わり、俺の手が上がった。
   明らかに手抜きで俺は勝たせてもらったんだ」

一歩「で でも勝ちだし。気持ち切り替えて次の試合でもっと頑張れば・・・」

福井「そうしようと思ったさ!
   だけどあの声援には耐えられない!!
   大声援で凄い相手でみんなが俺を称えてくれた!おめでとうおめでとうって!
   控え室に戻る花道でもずっと地元のみんなが駆け寄って喜んでくれた。 
   俺の嘘の勝利を!!全部インチキなのに!!
   惨めだった。
   勝者なのに家まで逃げ帰ったよ。あんな想いはもう嫌だ。もう二度と・・・」

一歩『鴨川会長が観たビデオには試合とその後の一部始終が収録されていたんだ
   傷害事件を起こすほど激昂した理由はコレだ。

   選手が救われないと・・・』




http://plaza.rakuten.co.jp/chako8000v/diary/201102280000/
一歩はゲドーにKO勝利する。
そして
 かつては 純粋に強くなりたい だけのボクサーだったゲドーは十分に強い、
 なので「なぜ詐欺師を?」との問いへ
 現東洋太平洋(OPBF)暫定王者にして宮田の次の対戦相手である ランディ・ボーイ・ジュニア
 に出会って限界を知ったから
 今は あくまでカネの為だけに試合をする詐欺師
と描き綴る作者のペンは、優しい。

鴨川ジムの面々に
「間違いなく懲りてねえな」
「ある意味プロの姿・・・ですね」
と会話させている。


何処かで書いた気がするけど
 原は 其処まで分かった上で尚に 其れでも勝つ 事を選手やコーチへ要求をしている
とかような事を書いた。
つまり 如何に相手が卑怯をしようとも それを見破り 尚に己を律しつつ そして精進を重ね
 其の上を越えていく
を原は希求しているのだろう。

過酷な道にも程がある けれども それが俺達の美意識や価値観や生き方に合致してしまっている。

其の入口に田辺又右衛門も居た事を知り  中井祐樹を知り 木村政彦を知り 色々と更新してみた。
俺も俺なりに歩いていくだけだ。



2014年07月28日 家畜からの解放を描く哲学 は 説明が必要 とされる。 だって誰も知らないから。なのでゼロからの構築が必要となる。
http://mkt51260.seesaa.net/article/402710170.html
プロ野球における「飛ぶボール と 飛ばないボール」の問題は禁忌となって久しい。
その余波が高校野球へまで及んでいて 落合が警告を含めて なのかなとか思った。
あそこまで分かりやすい 菅野が打ち込まれて 巨人が全く打てなくて な試合となれば
試合外部の意図を想定せざるを得ない。

現在の巨人は 原監督となって以降は 真っ当さを軸としているチームを作ってきた。
ただし 読売やナベツネに近い不思議な外国人な弁護士の集団のい代理人が介在する話 とかとか等を除けば。
原の戦う相手は 他のチームだけでは無く 読売に纏わりつく外道な連中も なのである。

そういう事を落合が知らぬはずもない。落合は何を伝えようとしたのだろうか?


2012年10月22日 原の巨人ジャイアンツは、なぜ3連敗から3連勝が出来たのか?
http://mkt5126.seesaa.net/article/298478875.html

此の頃が懐かしいな。





旭山動物園革命
http://hujudo.sakura.ne.jp/kosugesanasahiyama.html
(小菅正夫著『旭山動物園革命』から抜粋、角川書店)
「不要な人材は1人としていない。それに気付けば組織は伸びる」


動物園に珍獣はいらないのと同じ様に、組織にも「飛び抜けた人材」はいらない、というのが私の持論だ。
この考えに至ったのは、私が学生時代に青春のすべてをかけて取り組んだ、高専柔道に教えられたからだ。
人生を生きていくうえで必要なあらゆることを高専柔道から教えられた。
振り返ると、
主将になった頃の北海道大学柔道部の状況と、
入園者数の減少に喘いでいた頃の旭山動物園が置かれた状況が、とても似ているのである。

それもあって、高専柔道から学んだことが、いまの動物園運営に生かされているのである。
大学3年の夏、主将に任命された。
部の中で強いほうではなかったのだが、なぜか先輩から指名されたのだ。
 
当時の北大柔道部は、北海道の中では強くても、全国レベルで見れば強くはなかったのである。
練習をする際、いつも念頭に置いていたのは七帝戦(七帝柔道)という団体戦であった。
当時、北大柔道部には特別強い選手がいるわけではなく、
この大会では私が1年のときに1回勝っただけで、その後、5連敗を喫し最下位が定着しつつあった。
 
そんな最悪の時に主将を任された。
あらためてメンバーを見渡したところ、飛び抜けて強いスター選手は1人心いなかった。
しかし個性のある部員は多かった。
稽古には来るが学部の研究の事で頭が一杯の男、ぜんぜん稽古に来ない男、言いたい事を言う部員・・・。
しかしみんな憎めない部員ばかりだった。

私は最初からスター選手を必要としなかった。
決してやせ我慢ではない。
むしろスター選手がいる事で、他の選手がそのスター選手に頼ってしまうため、
チームとしては強くなれないのである。
 
それより、素質があってもなくても、能力に差はあっても、
たゆまぬ努力を重ねながら強くなっていく選手達が、
一つの目的に向かって一丸となっているチームのほうが強い。

団休戦柔道には「1人の怪物は1の穴によって相殺される」という教訓がある。
つまり、団休戦の場合、いくら1人のスター選手がいても、
実力のない、たった一人の選手によって、スター選手の力が帳消しになってしまうという意味である。
とはいえ、学年も実力も性格もばらばらなチームをどうやってまとめていくかには腐心したのである。

まず、個性派揃いの同期をどうまとめるかである。
北大柔道部は、伝統的に学生主体であり確固とした自分の意見を持っている部員が多かった。
放っておくと、自己主張だけは人一倍強いから、
それにいちいち取り合っていてはチームがまとまりをなくしてしまう。
かといって、下手に「オレについてこい」と、独裁的にやろうとすると、
個性を殺してしまうし、へそを曲げてしまうのは目に見えていた。

そこで目標を決めたのである。
はっきりさせたのは、「七帝戦で優勝する」という目標。
 
そして、そのための手段も明確にした。
一人一人が負けなければ良い。
 
その為にに寝技を徹底的に稽古するという事だった。
七帝戦は七帝ルールという戦前の高専柔道のルールを踏襲した寝技への引き込みが許され、
寝技での膠着の「待て」がない、そして15人戦の抜き勝負という特殊な柔道。
だから、七帝戦優勝のために寝技の強化を最優先課題としたのである。

個性派に細かな事は言っても始まらないので、
目標と対策だけ言って、あとは自分がいいと思った事をやってくれと言った。
何をどうやるかは、自分の責任においてやってくれと言ったのだ。
 
これは丸投げではない。
結局は、彼ら部員のやり方を信頼し、尊重したのである。
そういう個性がある人間ほど、
人に言われてやるよりも、自分の意志でやったほうがやりがいを感じる、
と思ったからだ。

もう一つ彼らへ注文を出しだのは、「最上級生は必ず同期と稽古する」という事である。
後輩は先輩と稽古すればたしかに強くなる。
しかしそれでは、先輩は上達しない。
  
みんな、同期と徹底的に稽古(乱取り)をやる様になった。
その目論見は見事にあたった。
同期2人が乱取りを始めたのだが、片方が一瞬本気を出して、腕を思いっきり極めた。
骨折こそしなかったがボキッと大きな音が鴫った。
それがきっかけになって闘争心に火が付いたのだろう。
「貴様!」と言って、信じられないぐらい激しい稽古が数本続いた。
一度、闘争心に火が付くと、その後は手抜きしなくなったのである。


もう一つ、試合に出られるか出られないかのボーダーラインにいる選手が2人いた。
一人は私の同期だが彼らを何とかレギュラーにする事を目標の一つにしたのである。
結果は、同期がレギュラーになれなかったのだが、2つの成果があった。
 
一つはレギュラーになれた選手によって、
徹底して稽古をすれば試合に出られるチャンスがあるという事を、
特に後輩の目に見せる事ができた点である。
彼を見る事で、頑張れば自分も選手になれるという可能性を感じ取れた筈である。
もう一つは、レギュラーにはなれなかったけれども、
必死で稽古に取り組んだ男がいた事を部員全員の目に焼き付けられた事である。

実は、このレギュラーになれなかった男は、必死に稽古をしていたのである。
彼が一番のキーマンだったと思っている。
彼は細い身体で必ずしも柔道に向いている体格とは言えなかった。
それでも稽古中、私に顎を外されながらも歯を食いしばって道場に来ていた。
私が目指した北大柔道部改革のなかで、彼が一番のキーマンだったと思っている。
団休戦を戦うチームにとって、そういう部員の存在が大切だと考えている。
 
レギュラーになれなかった控えの部員達が、
イキイキとしているか否かがそのチームを判断する重要なバロメーターであると考えている。
彼らが、レギュラー選手を支える為に、自分にしかできない努力をどれだけやったか。
それが一番大事だと思うのである。

他の選手には、稽古台になってくれた部員の思いが肩にかかっている筈である。
その思いが強いほど土壇場で信じられない力が出る。
あいつらの為に頑張らなければという思いが力になるのである。

チームが勝ったら、実は控えの部員が偉い。
控えの選手がクサってやめてしまう様なチームは絶対に強くなれないのである。

個性派は、無理やり引っ張らずに目標を示して任せる、
コツコツやるタイプには、希望になる選手を見せて「次はオレも・・・・」と燃えさせる。
そして例えレギュラーになれなくても、レギュラーになる選手の為に自分ができる事を精一杯やる。
不要な選手は1人としていない。
必ず個性が活かされる場所がある筈なのである。
 
そうした雰囲気が部内に定着し始めた時き、チームは「優勝」という目標に向かって動き始めたのである。
一年間、懸命に稽古した結果「国立7大学柔道優勝大会」では決勝戦に進出。
惜しくも京都大学に大将決戦で敗れたが、準優勝という結果を残せた。
目標を決めて、それに部員が一点集中していく。
 
「例え部員の能力はドングリの背比べでも、強豪を倒していけるんだ」
という事が、都員達にも肌身にしみてわかった筈である。

それぞれの個性が活かせて、それぞれの役割を果たす事。
そういう環境にいれば人はイキイキできる。
そういう確信が、旭山動物園の「行動展示」という展示につながっているのである。

この経験は、旭や動物園に入ってから、特に組織の在り様を考える上でも役立っている。
組織という面でいえばトビキリのスター飼育係はいらない。
全員の飼育係が、それぞれの持ち味を発揮できる様な組織が理想的である。
下手に管理をするよりは、動物園の目標や存在意義を分ってさえいれば、
後は思う存分、自分のやりたい事をやればいい。

飼育係が、自由にやりたい事をやれる環境を整えるのが園長の役割だ。
そうする事で動物園の動物達の様に、イキイキと輝く事ができると思う。
 
例えば、手書きボッブの内容に関しても一切チェックしない。
チェックをし始めると、どうしてもボッブに書く内容を自己規制してしまうおそれがあるからである。
「どうせ、園長からこう言われそうだから、本当はこうしたいけど、こうしておこう」というよりも、
少々失敗作があってもいいから、思いっきり自分がやりたい様にやってほしい。
その方が成功しても失敗しても勉強になる。

勝負には徹底的に執着するが、結果にはあまりこだわらない。
つまり、作戦どおりやって負けたら、それは相手が一枚上だったという事である。
 
動物の飼育でも全力で取り組んで上手くいかなければ、まだ実力が伴っていないという事である。
次の機会に頑張ればいい。

又、飼育係の一人一人に能力の差があるのは当然である。
放っておいてもガンガン新しい事をやっていくタイプもいれば、
なかなか新しい事を考えつかないタイプもいる。
近道を探すのは上手ではないけれども少しずつ前進していくタイプもいる。
 
組織というのは、
 近道を探すのは上手ではないけれども少しずつ前進していくタイプ
様な人が伸びていく環境でなくてはならないと思っている。
間違っても、そういう人がクサって仕事のやる気をなくす様な事態は絶対に避けなければならない。

なぜなら、職員は 少しずつ能力を上げていく人 を見ている。
その人によって励まされる人もいれば、
「若い奴も捨てたものじゃないな」、
「若い奴に負けてはおれない」
と刺激を受けるベテラソ職員もいるだろう。

又しても北大柔道部の話だが、数年前大学に入って初めて柔道を始めた部員がいた。
身長167センチ、体重75キロと肉体的に恵まれず、柔道センスもけっして良いとはいえない。
そんな彼が3年生で選手になり、七帝戦で北大を優勝に導くために重要な働きをした。
 
私は観戦をしていて感動を覚えた。
3年の間に どれだけの汗を畳に染み込ませたかが分ったからである。
「限界を超えて、自分自身と戦える人材の育成」
これが北大柔道部の目指すものだったが、正に彼はそれを体現したのだ。
こうした存在がいると、とても良いチームができる。

部員全員が彼の存在を見て意識が変わるからである。
これは企業でも同じだと思う。

もう一つ大事にしているのは「失敗を怖れずチャレンジする気持ち」である。
アイデアを考えたのに実行に移さない人に怒る事がある。
失敗なしで成功する人間なんていない。
生物の進化は数え切れないぐらいの遺伝子の失敗があり、
たまたま上手く一つの突然変異が、遺伝して増えていくのである。
だからやってみなければわからない。
失敗をしながら進んでいくしかない。
 
「失敗した事しか覚えていない」というベテラン飼育係でさえ定年を間近に控えているのに、
「園長、新しい展示をやりますから」と提案してくれた。
そういう人でも失敗を繰り返し新しい事にチャレンジしながら、
真のプロフェッショナルになっていったのである。
 
彼は「仕事というのは、こうやって最後迄やるんだぞ」という事を、
自分の背中で若い人に教えてくれたのである。


■『旭山動物園革命』角川書店、小菅正夫(昭和44年入学、獣医学部卒)

http://blog.livedoor.jp/snt1091/archives/7841618.html

勝敗の預かり 久しぶりに聞く言葉だ。
チャレンジ権 と 相撲の物言い などなどの差配の話は 此処で書いた、其の先の話だ。
2013年11月01日 国家機密で美味しい思いをする者達 へ如何に抗うか? の民間技術が極東の一諸島の社会共同体へ全く浸透していない。 川上哲治と情報統制。
http://mkt5126.seesaa.net/article/378982063.html

 ↓

預り (相撲)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%90%E3%82%8A_%28%E7%9B%B8%E6%92%B2%29
文字通り、勝負結果を行司もしくは審判委員が「預かり置く」ことで、
物言いのついたきわどい相撲などで、あえて勝敗を決めない場合などに適用された。
星取表にはカタカナで「ア」と表記された。

ひとつには、江戸時代の幕内力士は多く有力大名のお抱えであり、
その面子を傷つけないための配慮措置でもあった。
記録上は引き分けとしながらも、実際の取組で優勢であった側に、
番付編成面で優遇を与える「陰星」
(完全に1勝扱いにする場合を「丸星」、0.5勝扱いのときは「半星」と呼んだ)もあった。
特に丸星の場合、星取表の右上の、勝ち数を表記するところに「●」を加えた場合もある。

大正頃まで、大部屋同士の意地の張り合いや、大坂相撲と東京相撲との対抗心から来るいざこざも多く、
これらをなだめる方便としても預り制度は存続した。
また、東西制の導入で優勝争いが勝ち星の合計で争われるようになると、
自分の側に優位になるようにと控え力士が物言いをつけるケースも多くなり、
その対処としての「預り」も増えた。

昭和の東西合併にともなう制度改正で、取り直しの制度が設けられ、制度としては廃止された。
しかし、幕下以下の取組では、あえて勝敗を決する必要がないような場合、
便宜的に適用されることもある。この場合は正式には痛み分けの扱いになることが多い。

祭りでの素人相撲大会などでは、決勝戦や結びの一番は、
どちらが勝っても必ず「預り」でしめる慣例になっているものも多い。
神事としての相撲に豊作凶作を占う意味もあるため、幸不幸が地域内で偏らないようにするためである。

つまり 情と理の鬩ぎ合い などの問題が起きた時に
責任を取る者達が「勝負を預かる」という裁定をして場を平和的に修める
という非常に高度で洗練されて成熟した 多神教で文明人の差配 である。


無勝負 (相撲)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%8B%9D%E8%B2%A0_%28%E7%9B%B8%E6%92%B2%29
無勝負(むしょうぶ)は、相撲で廃止された制度の一つで、文字通り「勝負無し」とする裁定。記録上は引き分けの一種の様に扱われる。

現在は、どんなにもつれた勝負でも、行司は必ずどちらかに軍配をあげなければならないことになっているが、江戸時代には、勝負の判定がつけられそうもない微妙な取組の場合、行司が「ただいまの勝負、無勝負」と宣言して軍配を真上にあげて、そのあと袴の中にいれてしまうことで、勝敗の裁定をなしにすることができた。この場合は、星取表に「ム」とカタカナで記入することとなっていた。その点で、物言いがついたあとに勝敗を決めない『預り』(星取表にはカタカナで「ア」)や、水が入って動かない『引分』(星取表には「×」)、一方が負傷して勝負続行が不可能な場合の『痛み分け』(星取表には「△」)とは異なる。

この制度は江戸相撲では江戸末期に廃止されたらしく、元治2年(1865年)2月場所での記録を最後に登場しない。明治期にはすでに行司は必ずどちらかに軍配をあげなければならないように定められた。一方で大坂相撲では明治時代にはまだ存続しており、当時の成績表にも記録が残る。大坂で廃止されたのは大正初期であった。


引分 (相撲)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E5%88%86_%28%E7%9B%B8%E6%92%B2%29
相撲用語としての引分(ひきわけ)は、両力士が疲労のためにこれ以上勝負をつけられないときに与える裁定のひとつである。

かつての相撲は、全体的にがっぷり四つに組み合ってから勝負をつけるものが多かった。その場合、両力士が組み合ったまま勝敗をつけられない場合が出てくる。水入りの制度で、一応の疲労回復は可能でも、そのあとも動けなくなることもある。そのときに、「引分」の裁定がくだされ、星取表には「×」の記号で記されることになる。

江戸から明治にかけては、そうした物理的なものの他にも、お抱え大名の都合や、上位力士の面子をたもつために、無理をして勝負をつけないで、四つに組み合ったまま引分をねらうようなことも見受けられた。横綱大砲は、ひと場所9日間皆勤して、9日間とも引分を記録したという椿事も生まれた。常陸山と梅ヶ谷の両雄の対戦も、横綱昇進後は、引分となることが多かった。

1909年の両国国技館開館によって、東西の団体優勝制度や、個人への優勝額の授与がはじまると、勝負をつけることを心がける力士も多くなり、栃木山のような、スピードのある相撲をとる力士も出てくるようになると、引分は減少の傾向をたどった。昭和になってから、さまざまな勝負についての制度改革が行われた際に、二番後取り直しの制度が決められてから、引分は大幅に減少した。

1943年5月場所で、青葉山徳雄と龍王山との対戦が引分となったが、山本五十六戦死が報じられた直後でもあり、軍部の影響下にあった協会幹部から嫌がられて、両力士とも〈敢闘精神不足〉という名目で出場停止の処分をうけた。

現在では、二番後取り直しのあと、水が入り、なおかつその後も動きがなくなったときに「引分」とすることとなっている。現在幕内の取組での引分は、1974年9月場所11日目の三重ノ海と二子岳との一番が最後となり、それ以降幕内での引分は一度も出ていない。

但し、引分を優勝争いの場合にどう扱うか、明確でない部分がある。価値の大小でいえば「白星>引分>黒星」であることは明らかであるが、現行の規定では例えば「14勝1敗と13勝2引分ではどちらが上位か?」という議論が起こりうる。現実にはまず有り得ないケースだけに見過ごされているが、引分の存在を認める以上は明確にする必要がある。また、現在の制度において7勝7敗1引分の際には勝ち越し・負け越しのどちらにするのかも明確にする必要がある(過去には若乃花幹士などに例がある)。

決着を付ける のが 必ずに素晴らしい という訳でもない。
戦っている同士は決着を付けたがる のもまた非常に良く分かるが
それを差配する存在が 平和を重視する のは更に高度な洗練と成熟を必要とする。

江戸時代における武道や相撲は 其の極限に近い状況に有った事は コレまでも確認してきた。
そういう実態を捨て去ってきたのが 「明治」と「日本人と日本」という異民族支配の本質 である。
一神教で野蛮人の「日本人と日本」という異民族の国家の侵略と支配 によって
多神教で文明人の社会共同体が如何なるモノを失ってきたか?



ついでに こんな事を思い出した。
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